青空文庫アーカイブ

カメラをさげて
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)些末《さまつ》な例をあげると

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全|武蔵野《むさしの》の秋

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から3字上げ](昭和六年十一月、大阪朝日新聞)
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 このごろ時々写真機をさげて新東京風景断片の採集に出かける。技術の未熟なために失敗ばかり多くて獲物ははなはだ少ない。しかし写真をとろうという気で町を歩いていると、今までは少しも気のつかずにいたいろいろの現象や事実が急に目に立って見えて来る。つまり写真機を持って歩くのは、生来持ち合わせている二つの目のほかに、もう一つ別な新しい目を持って歩くということになるのである。
 顕微鏡も、やはりわれわれの目のほかのもう一つの目である。この目で手近な平凡なものをのぞいて見ると自分のいる周囲の世界が急に全然別物のように見えて来る。これは物の尺度の相違から来る観照の相違である。写真機の目の特異性はこれとはまただいぶちがった方面にある。この目はまず極端な色盲であって現実の世界からあらゆる色彩を奪ってしまう。そうして空間を平面に押しひしいでしまう。そうして、その上にその平面の中のある特別な長方形の部分だけを切り抜いて、残る全部の大千世界を惜しげもなくむざむざと捨ててしまうのである。実に乱暴にぜいたくな目である。それだけに、なろう事ならその限られた長方形の中に、切り捨てた世界をもいっしょに押し縮めたようなものを収めたくなるのである。それだから、カメラをさげて秋晴れの郊外を歩いている人たちはおそらく幾平方センチメートルの紙片の中に全|武蔵野《むさしの》の秋を圧縮して持って来るつもりで歩いているのであろう。少なくも自分の場合には何枚かの六×九センチメートルのコダック・フィルムの中に一九三一年における日本文化の縮図を収めるつもりで歩くのであるが、なかなかそううまくは行かない。しかしそういうつもりで、この特別な目をぶらさげて歩いているだけでもかなり多くの発見をすることがある。
 手近な些末《さまつ》な例をあげると、銀座《ぎんざ》の裏河岸《うらがし》のある町の片側に昔ふうの荷車が十台ほどもずらりと並べておいてある、その反対側にはオートバイがこれも五、六台ほど並んで置かれてあった。その平凡な光景がカメラの目からは非常におもしろく見えるのであった。昭和通《しょうわどお》りに二つ並んで建ちかかっている大ビルディングの鉄骨構造をねらったピントの中へ板橋《いたばし》あたりから来たかと思う駄馬《だば》が顔を出したり、小さな教会堂の門前へ隣のカフェの開業祝いの花輪飾りが押し立ててあったり、また日本一モダーンなショーウィンドウの前にめざしの頭が二つ三つころがっていたりするのもやはりカメラの目を通して得られた小さな発見であった。
 こういう目をもって見て歩いた新東京の市街ほど不思議な市街はおそらく世界じゅうどこを捜してもないであろう。極端な古いものから極端な新しいものまでが、平気できわめてあたりまえな顔をして隣り合い並び立って、仲よくにぎやかに一九三一年らしい東京ジャズを奏しているのである。こういうものに長い間慣らされて来たわれわれはもはやそれらから不調和とか矛盾とかを感ずる代わりに、かえってその間に新しい一種の興趣らしいものを感じさせられるのであろう。現代人は相生、調和の美しさはもはや眠けを誘うだけであって、相剋《そうこく》争闘の爆音のほうが古典的|和弦《かげん》などよりもはるかに快く聞かれるのであろう。そういう爆音を街頭に放散しているものの随一はカフェやバーの正面の装飾美術であろう。ちょうどいろいろな商品のレッテルを郭大して家の正面へはり付けたという感じである。考えようではなかなか美しいと思われるのもあるがしかしいずれにしても実に瞬間的《エフェメラル》な存在を表象するようなものばかりである。このような珍しい現象の記録をそれが消えない今のうちに収集しておくのは、切手やマッチのレッテルの収集よりは有意義であろうと思っていたが、近刊の板垣鷹穂《いたがきたかお》氏著「芸術的現代の諸相」の中に、このような収集の一部が発表されているのを見てなるほどと思うのであった。これらの特殊なインスチチューションの名前がまた実に興味あるものであって、これも記録しておく価値がある。近ごろ見かけた珍しいものの一つとしてはサンスクリットで孔雀《くじゃく》という意味の言葉を入り口の頭上の色ガラス窓にデワナガリー文字で現わしたのさえあった。ダミアンティやシャクンタラのような妖姫《ようき》がサーヴするかと思わせるのもおもしろい。
 こういうものの並んでいる間に散点してまた実に昔のままの日本を代表する塩煎餅屋《しおせんべいや》や袋物屋や芸者屋の立派に生存しているのもやはり印画記録の価値が充分にある。
 六国史《りっこくし》などを読んで、奈良朝《ならちょう》の昔にシナ文化の洪水《こうずい》が当時の都人士の生活を浸したころの状態をいろいろに想像してみると、おそらく今の東京とかなり共通な現象を呈していたのではないかと思われることがしばしばある。惜しいことにそのころの写真が残っていない。しかしそのつもりで後代の風俗絵巻物でも細かに研究してみたらやはり各時代に同様な現象を発見するのではないかとも想像される。
 鳥羽僧正《とばそうじょう》の鳥獣戯画なども当時のスポーツやいろいろの享楽生活のカリカチュアと思って見ればこの僧正はやはり一種のカメラをさげて歩いた一人であったかもしれない。この僧正にアメリカ野球選手との試合を記録させなかったのは残念である。
 新東京の街路や河岸《かし》に立って、ありとあらゆる異種の要素の細かい切片の入り乱れた光景を見るときに、私は自然に日本帝国の地質図を思い出す。いろいろの時代のいろいろの火成岩や水成岩が実に細かいきれぎれになってつづれの錦《にしき》を織り出している。この事実は一方では地震や火山の多いこととも関係するが、一方ではまた日本の風景の多種多様なことや、ひいてはまた国々の郷土的色彩の変化の多いこととも連関していると思われる。われわれの祖先から住み古したこの国土の地質自身からがすでにあらゆる世界じゅうのものの縮図的にできているのではないか。その上に、人種の上から考えても、灰色の昔から、日のいずる方《かた》を求めて世界のあらゆる方面から自然にこの極東の島環国に集中した種族の数は決して二通りや三通りでなかったであろうということは、われわれの周囲の人々の顔の中にギリシア型、ローマ型、ユダヤ型をはじめインディアン型、マレイ型、エスキモー型からニグロ型までことごとく標本的に具備しているという簡単な事実からでも想像される。あらゆる民族の中の勇敢な進取的な連中が自然に寄り集まってできた国だとすれば、日本は世界じゅうでいちばんえらい国でなければならないはずである。
 それは疑問としてもその上にまだ山川風土でありとあらゆる多様のタイプを具備している。実際|千島《ちしま》カラフトの果てから台湾《たいわん》の果てまで数えれば、気候でもまず文化民の生活に適する限り一通りはそろっている。こういう珍しい千代紙式に多様な模様を染め付けられた国の首都としての東京市街であってみれば、おもちゃ箱やごみ箱を引っくり返したような乱雑さ、ないしはつづれの錦の美しさが至るところに見いだされてもそれは別に不思議なことでもなければ、慨嘆するにも当たらないことであるかもしれない。そしておそらく古い昔から実質的には今と同じ状態がなんべんとなく少しずつちがった形式で繰り返されながら、あらゆる異種の要素がおのずから消化され同化され、無秩序の混乱から統整の固有文化が発育して来ると、たとえだれがどんなに骨を折ってみても、日本全体を赤色にしろ白色にしろただの一色に塗りつぶそうという努力は結局無効に終わるであろうと思われる。それにはまず日本の地質から気候から改造してかからなければおそらくできない相談であろう。日ごろからいだいていたこんな考えが昨今カメラをさげて復興帝都の裏河岸《うらがし》を歩いている間にさらにいくらかでも保証されるような気がするのである。
 西洋を旅行している間に出会う黄色い顔をした人間が日本人であるかシナ人であるかを判断する一つの簡単な目標は写真機をさげているかいないかであるといった人がある。当否は別としておもしろい話である。いったい日本人ぐらいいわゆる風景に対して関心をもつ国民が他にあるかどうか自分には疑わしい。文人画の元祖である中華民国でも、美術の本場であるフランスでも、一般人士の間にはたして日本の老幼男女に共通な意味でのよい景色を賞観する心持ちがあるかどうかわからない。少なくもアメリカの百万長者がアルプスの空気と光線に健康とエネルギーを求めて歩く間に、多くの日本人の観光客はそのほかにおまけとして山水の美の中から日本人らしい詩を拾って歩くであろう。そうして、もう一つのおみやげには思い思いのカメラの目にアルプスの魂を圧縮して持ち帰ろうとするであろう。
 年じゅう同じ天気の国では天気という言葉が無意味であると同じように、どこまで行っても同じような景色ばかりの国におい立った民族には風景という言葉は存在理由がないはずである。シベリアの農民やモンタナのインド人にこの言葉があるかどうか聞いてみたい。英語やドイツ語やフランス語の風景という言葉にしても、それがわれわれのいう風景とはたしてどこまで内容的に一致するかも研究に値する。それはいずれにしても、日本のように多種多様な地質気候がわずかな距離の範囲内で錯雑した国であってこそ、はじめて風景という言葉がほんとうに生きて働いて来るような気がするのである。こういう風景国日本に生まれた旅客にカメラが欠くべからざる侶伴《りょはん》であるのも不思議はないであろう。
 親譲りの目は物覚えが悪いので有名である。朝晩に見ている懐中時計の六時がどんな字で書いてあるかと人に聞かれるとまごつくくらいであるが、写真の目くらい記憶力のすぐれた目もまた珍しい。一秒の五十分の一くらいな短時間にでもあらゆるものをすっかり認めて一度に覚え込んでしまうのである。
 その上にわれわれの二つの目の網膜には映じていながら心の目には少しも見えなかったものをちゃんとこくめいに見て取って細かに覚えているのである。たとえばショーウィンドウの内の花を写すつもりでとった写真を見ると、とるつもりの夢にもなかったあらゆる街頭の人影の反映が写っているのである。盛り場である人がなんの気なしにとった写真に掏摸《すり》が椋鳥《むくどり》のふところへ手を入れたのがちゃんと写っていたという話を聞いたこともある。
 記憶のいい写真の目にもしくじりはある。
 飛行船が北氷洋上で氷原をとった写真を現像したら思いもかけぬ飛行機の氷の上に横たわる姿が現われたので、これはきっと先年行くえ不明になった有名な老探検家の最後を物語るものだろうという事になったが、よくよく調べてみると、これは写真技師がうっかり一枚のフィルムに二度写しをやったために、平凡な無事な飛行機の幽霊が極北の氷上に出現したことになったのだそうである。われわれの記憶にはこんな失策は有りがちであるが、このようなカメラの思いちがいは珍しい。活動映画のオーヴァーラップの技巧はつまり故意にこのカメラの記憶のアベレーションを利用して観客の心のアベレーションを誘発しようとするのであろう。このごろのアサヒグラフの表紙裏に出ている二重写しのお慰みの当てものなどはいちばん罪が浅いほうであろう。
 カメラをさげて歩いている途中で知人に会ってちょっと立ち話をするとする。そのとき、相手の人によると自分のカメラをさげていることなどにはあまり無関心なように見えるが、また人によると、何よりも第一にすぐ写真機に目をつける人もある。同病相哀れむゆえんであろうか。
 いちょうの黄葉は東京の名物である。しかしいくらとっても写真にはあの美しさは出しようがない。そのいちょうも次第に落葉して、箒《ほうき》をたてたようなこずえにNWの木枯らしがイオリアンハープをかなでるのも遠くないであろう。そうなれば自身の寒がりのカメラもしばらく冬眠期に入って来年の春の若芽のもえ立つころを待つことになるであろう。
[#地から3字上げ](昭和六年十一月、大阪朝日新聞)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月18日作成
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