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オリンポスの果実
田中英光

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     一

 秋ちゃん。
 と呼ぶのも、もう可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃風の便りにききました。
 時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
 恋というには、あまりに素朴な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念の財布のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏の実を、とりだし、ここ京城の陋屋の陽もささぬ裏庭に棄てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
 これはむろん恋情からではありません。ただ昔の愛情の思い出と、あなたに、お聞きしたかったことが、聞けなかった心残りからです。
 思わせぶりではありますがその言葉は、この手記の最後まで、とっておかして下さい。

     二

 あなたにとってはどうでしょうか、ぼくにとって、あのオリムピアヘの旅は、一種青春の酩酊のごときものがありました。あの前後を通じて、ぼくはひどい神経衰弱にかかっていたような気がします。
 ぼくだけではなかったかも知れません。たとえば、すでに三十近かった、ぼく達のキャプテン整調の森さんでさえ、出発の二三日前、あるいかがわしい場処へ、デレゲェション・バッジを落してきたのです。
 モオラン(Morning-run)と称する、朝の駆足をやって帰ってくると、森さんが、合宿傍の六地蔵の通りで背広を着て、俯いたまま、何かを探していました。
 駆けているぼく達――といっても、舵の清さんに、七番の坂本さん、二番の虎さん、それに、ぼくといった真面目な四五人だけでしたが――をみると、森さんは、真っ先に、ぼくをよんで、「オイ、大坂、いっしょに探してくれ」と頼むのです。ぼくの姓は坂本ですが、七番の坂本さんと間違え易いので、いつも身体の大きいぼくは、侮蔑的な意味も含めて、大坂と呼ばれていました。
 そのとき、バッジを悪所に落した事情をきくと、日頃いじめられているだけに、皆が笑うと一緒に、噴き出したくなるのを、我慢できなかったほど、好い気味だ、とおもいましたが、それから、暫くして、ぼくは、森さんより、もっとひどい失敗をやってしまったのです。
 出発の前々夜、合宿引上げの酒宴が、おわると、皆は三々五々、芸者買いに出かけてしまい、残ったのは、また、舵の清さん、七番の坂本さん、それと、ぼくだけになってしまいました。ぼくも、遊びに行こうとは思っておりましたが、ともあれ東京に実家があるので、一度は荷物を置きに、帰らねばなりません。
 その夜は、いくら飲んでも、酔いが廻らず、空しい興奮と、練習疲れからでしょう、頭はうつろ、瞳はかすみ、瞼はおもく時々痙攣していました。なにしろ、それからの享楽を妄想して、夢中で、合宿を引き上げる荷物も、いい加減に縛りおわると、清さんが、「坂本さん、今夜は、家だろうね」とからかうのに、「勿論ですよ」こう照れた返事をしたまま、自動車をよびに、戸外に出ました。
 そのとき学生服を着ていて、協会から、作って貰った、揃いの背広は始めて纏う嬉しさもあり、その夜、遊びに出るまで、着ないつもりで手をとおさないまま、蒲団の間に、つつんでおいた、それが悪かったんです。はじめから、着ていればよかった。
 運転手と助手から、荷物を運び入れてもらったり、ぼくは、自動車の座席にふんぞりかえり、その夜の後の享楽ばかり思っていました。なにしろ、二十のぼくが、餞別だけで二百円ばかり、ポケットに入れていたんですから――。
 その頃、ぼくは、銀座のシャ・ノアルというカフェのN子という女給から、誘惑されていました。そして、それが、ぼくが好きだというより、ぼくの童貞だという点に、迷信じみた興味をもち、かつ、その色白で、瞳の清しい彼女が、先輩Kさんの愛人である、とも、きかされていました。その晩、それを思い出すと、腹がたってたまらず、よし、俺でも、大人並の遊びをするぞと、覚悟をきめていた訳です。が、さすがにこうやって働いている運転手さん達には、すまなく感じ、うちに着いてから、七十銭ぎめのところを一円やりました。
 宅に入ると、助手が運んでくれた荷物は、ぐちゃぐちゃに壊れている。が、最初のぼくの荷造りが、いい加減だったのですから、気にもとめず、玄関へ入り、その荷物を置いたうしろから顔をだした、皺と雀斑だらけの母に、「ほら、背広まで貰ったんだよ」と手を突ッこんで、出してみせようとしたが手触りもありません。「おやッ」といぶかしく、運んでくれた助手に訊ねてみようと、表に出てみると、もう自動車は、白い烟りが、かすかなほど遥かの角を曲るところでした。「可笑しいなア」とぼやきつつ、ふたたび玄関に入って、気づかう母に、「なんでもない。あるよ、あるよ」といいながら、包みの底の底までひっくり返してみましたが、ブレザァコオトはあっても、背広の影も形もありません。なにしろ明後日、出発のこととて、外出用のユニホォムである背広がなくなったらコオチャアや監督に合せる顔もない、金を出して作り直すにも日時がないとおもうと根が小心者のぼくのことである。もう、顔色まで変ったのでしょう。はや、キンキン声で、「お前はだらしがないからねエ」と叱りつける母には、「あア、合宿に忘れてきたんだ。もう一度帰ってくる。大丈夫だよ」といいおき、また通りに出ると車をとめ、合宿まで帰りました。
 艇庫には、もう、寝てしまった艇番夫婦をのぞいては、誰一人いなくなっています。二階にあがり、念の為、押入れを捜してみましたが、もとより、あろう筈がありません。
 もう、先程までの、享楽を想っての興奮はどこへやら、ただ血眼になってしまった、ぼくは、それでも、ひょッとしたら落ちてはいないかなアと、浅ましい恰好で、自動車の路すじを、どこからどこまで、這うようにして探してみました。そのうち、ひょッとしたら、合宿の戸棚のグリス鑵の後ろになかったかなアと、溝のなかをみつめている最中、ふとおもいつくと、直ぐまた合宿の二階に駆けあがって、戸棚をあけ、鉄亜鈴や、エキスパンダアをどけてやはり鑵の背後にないのをみると、否々、ひょッとしたら、あの道端の草叢のかげかもしれないぞと、また周章て、駆けおりてゆくのでした。
 捜せば、捜すだけ、なくなったということだけが、はっきりしてきます、頭のなかは、火が燃えているように熱く、空っぽでした。もう、駄目だと諦めかけているうち、ひょッとしたら、さっき家で、蒲団を全部、拡げてみなかったんじゃなかったか、という錯覚が、ふいに起りました。そうなると、また一も二もありません。一縷の望みだけをつないで、また車をつかまえると「渋谷、七十銭」と前二回とも乗った値段をつけました。
 と、その眼のぎょろっとした運転手は「八十銭やって下さいよ」とうそぶきます。場所が場所だけに、学生の遊里帰りとでも、間違えたのでしょう、ひどく反感をもった態度でしたが、こちらは何しろ気が顛倒しています。言い値どおりに乗りました。
 ぼくは、車に揺られているうち、どうも、はじめの運転手に盗られたんだ、という気がしてきました。(彼奴に一円もやった。泥棒に追銭とはこのことだ)と思えば口惜しくてならない。たまりかねて、「ねエ、運転手君。……」と背広がなくなったいきさつを全部、この一癖ありげな、運転手に話してきかせました。
 すると、彼は自信ありげな口調で、「そりやア、やられたにきまっているよ。こんな商売をしているのには、そんなのが多いからね」とうなずきます。ぼくは、「そうかねエ」と愚にもつかぬ嘆声を発したが、心はどうしよう、と口惜しく、張り裂けるばかりでした。が、その運転手は同情どころかい、といった小面憎さで、黙りかえっています。
 それでいて、家につくと、彼は突然、ここは渋谷とはちがう、恵比寿だから、十銭ましてくれ、ときりだしました。てッきり、嘗められたと思いましたから、こちらも口汚く罵りかえす。と、向うは金梃をもち、扉をあけ、飛びだしてきました。「喧嘩か。ハ、面白いや」と叫び、ええ、やるか、と、ぼくも自棄だったのですが、もし血をみるに到ればクルウの恥、母校の恥、おまけにオリムピック行は、どうなるんだと、思いかえし、「オイ、それじゃア、交番に行こう」と強く言いました。「行くとも! さア行こう」たけりたった相手は、ぼくの肩を掴みます。振りきったぼくは、ええ面倒とばかり十銭払ってやりました。「ざまア見ろ」とか棄台詞を残して車は行きました。ぼくは、前より余計しょんぼりとなって玄関の閾をまたいだのです。
 気の強い母は、ぼくの顔をみるなり、噛みつくように、「あったかえ」と訊ねました。ぼくは無言で、荷物のところへ行くと、蒲団はすでに畳んで、風呂敷が、上に載っています。どうしていいか分らなくなったぼくは、空の風呂敷をつまんで、振って、捨てると、ただ、母の怒罵をさける為と、万一を心頼みにして、「やっぱり合宿かなア。もう一度、捜してくらア」と留める母をふりきり、家を出ました。勝気な母も、やっぱり女です、兄が夜業でまだ帰りませんし、「困ったねエ」を連発していました。
 ぼくはまた、自動車で、渋谷から向島まで行きました。熱が出たようにあつい額を押え、憤りと悔いにギリギリしながら、艇庫につき、念を入れてもう一回、押入れなぞ改めてはみましたが夜も更け、人気のない二階はたださえ、がらんとして、いよいよ、もう駄目だ、という想いを強めるだけです。
 ぼくは二階の廊下を歩き、屋上の露台のほうへ登って行きました。眼の下には、鋭い舳をした滑席艇がぎっしり横木につまっています。そのラッカア塗りの船腹が、仄暗い電燈に、丸味をおび、つやつやしく光っているのも、妙に心ぼそい感じで、ベランダに出ました。遥か、浅草の装飾燈が赤く輝いています。時折、言問橋を自動車のヘッドライトが明滅して、行き過ぎます。すでに一艘の船もいない隅田川がくろく、膨らんで流れてゆく。チャップチャップ、船台を洗う波の音がきこえる、ぼくは小説めいた気持でしょう、死にたくなりました。死んだ方が楽だと、感じたからです。
 大体が、文学少年であったぼくが、ただ、身体の大きいために選ばれて、ボオト生活、約一箇年、「昨日も、今日も、ただ水の上に、陽が暮れて行った」と日記に書く、気の弱いぼくが、それも一人だけの、新人として、逞しい先輩達に伍し、鍛えられていたのですから、ぼくにとっては肉体的の苦痛も、ですが、それよりも、精神的なへばりのほうが我慢できなかった。
 ぼくは、ボオトのことばかりでなく、日常生活でも、することが一々無態だというので、先輩達にずいぶん叱られた。叱られた上に馬鹿にされていました。ぼくみたいに、弱気な人間には、ひとから侮辱されて抵抗の手段がないと諦め切る時ほど、悲しい事はありません。なにをいっても、大坂は怒らない、と先輩達は感心していましたが、怒ったら、ボオトを止めるよりほかに手段がない。また、そうしてボオトを止めるのは、ぼくのひそかに傲慢な痩意地にとって、自殺にもひとしかった。
 それで、背広を失くした苦痛に、加えて、こうした先輩達の罵声が、どんなに辛辣であろうかと、思っただけでもたまりません。蔭口や皮肉をとばす、整調森さんの意地悪さ、面とむかって「ぶちまわすぞ」と威かす五番松山さんの凄まじさ、そうした予感が、堪えがたいまでに、ちらつきます。またそうした先輩達の笞から、いつも庇ってくれるコオチャアやO・B達に対しても、ぼくの過失はなお済まない気がします。
 悶え悶え、ぼくは手摺によりかかりました。其処は三階、下はコンクリイトの土間です。飛び降りれば、それでお終い。思い切って、ぼくは、頭をまえに突き出しました。ちょうど手摺が腰の辺に、あたります。離れかかった足指には、力が一杯、入っています。「神様!」ぼくは泣いていたかもしれません。しかし、その瞬間、ぼくが唾をすると、それは落ちてから水溜りでもあったのでしょう。ボチャンという、微かな音がしました。すると、ぼくには、不意と、なにか死ぬのが莫迦々々しくなり、殊に、死ぬまでの痛さが身に沁みておもわれ、いそいで、足をバタつかせ、圧迫されていた腸の辺りを、まえに戻しました。いま考えると、可笑しいのですが、そのときは満天の星、銀と輝く、美しい夜空のもとで、ほんとに困って死にたかった。
 そんな簡単に、自殺をしようと考えるのには、多分、耽読した小説の悪影響もあったのでしょう。ぼくは冷たい風が髪をなぶるのに、やッと気がつきかけたが、もうなんとしても、背広は出てこないという点に、考えがぶつかると、やはり死の容易さに、惹かれてゆきます。ぼくは、なにか、ほかの方法で死にたいと、思いました。身投げは泳げるし、鉄道自殺は汚い、ああ、もう、と目茶苦茶な気持に駆りたてられ、合宿横にある交番に、さしかかると、「オイ」と巡査に呼び咎められました。それ迄は、これから、向島の待合に行って、芸者と遊んだ末、無理心中でもしようかという虫の良い了見も起しかけていたのですが、ハッと冷水をかけられた気が致しました。
 こんな夜遅く、学生がへんな恰好でうろついていたからでしょう。巡査は、ぼくの傍にきて、じっとみつめてから、なんだという顔になり、「ああ君はWの人じゃないか」といい、大学の艇庫ばかり並んでいる処ですから、ボオト選手の日頃の行状を知っていて、「いいねエ、君等は、飲みすぎですか」と笑いかけます。ぼくの蒼ざめた顔を、酒の故とでも思ったのでしょう。照れ臭くなったぼくは、折から来かかった円タクを呼びとめ、また、渋谷へと命じました。
 家に着いたぼくは、なにもいわず、ただ「ねかしてくれ」と頼んだそうですが、あまり顔色と眼付が変なのに、心配した母は、すぐ、叱りもせずに、床をしいてくれました。翌朝、眼の覚めたときは、もう十時過ぎでしたろう。枕もとの障子一面に、赫々と陽がさしています。「ああ、気持よい」と手足をのばした途端、襖ごしに、舵手の清さんと、母の声がします。ぼくの胸は、直ぐ、一杯に塞がりました。
 もう寝たふりをして置こうと、夜着をかぶり、聴きたくもない話なので、耳を塞いでいると、そのうち、また眠ってしまったようです。あの頃は、よく眠りました。練習休みの日なぞ、家に帰って、食べるだけ食べると、あとは、丸一日、眠ったものです。それ程、心身共に、疲れ果てていたのでしょう。ところが、やがて、「やア、坊主、ねてるな」という兄の親しい笑い声と、同時に、夜着をひッぱがれました。二十歳にもなっているぼくを、坊主なぞ呼ぶのは、可笑しいのですが、早くから、父を失い、いちばん末ッ子であったぼくは、家族中で、いつでも猫ッ可愛がりに愛されていて、身体こそ、六尺、十九貫もありましたが、ベビイ・フェイスの、未だ、ほんとに子供でした。
 ぼくの蒲団をまくった兄は、母から事情をきいたとみえ、叱言一ついわず、「馬鹿、それ位のことでくよくよする奴があるかい。さア、一緒に、洋服を作りに行ってやるから、起きろ、起きろ」とせかしたてるのです。ぼくは途端に、「ほんと」と飛び起きました。兄は会社関係から、日本毛織の販売所に、親しいひとがいて、特に、二日で間に合うように頼んでやる、というので、ぼくは大慌てに、支度を始めました。
 あとになって、判ったのですが、この朝、老いた母は、六時頃に起きて、合宿まで行ってくれ、また合宿では、清さんがひとり、明方に帰って来ていて、母から話をきくと、一緒に、家まで様子を見にきてくれたとのことでした。清さんは、ぼくを落着くまで、静かにほって置いたほうが好いだろう。背広のことは、コオチャアや監督に、よく話をしておきます。災難だから、仕方がない。明朝、出発のときは、ブレザァコオトをきて颯爽と出て来るように言って下さい。なアに、学生服で、あちらに行ったって、差支えないでしょう、と言い置いてくれた由。兄は、その頃、すでに、共産党のシンパサイザァだったらしいのですから、ぼくや母の杞憂は、てんで茶化していたようでしたが、さすがに、一人の弟の晴衣とて心配してくれたとみえます。母といい、兄といい肉親の愛情のまえでは、ひとことの文句も言えません。
 服は仮縫いなしに、ユニホォムと同色同型のものを、出帆の時刻までに、間に合してくれることになりましたが、やはり出来てきたのは少し違うので、ぼくはこの為、旅行中、背広に関しては、いつも顔を赤らめねばなりませんでした。

     三

 出発の朝、ぼくは向島の古本屋で、啄木歌集『悲しき玩具』を買い、その扉紙に、『はろばろと海を渡りて、亜米利加へ、ゆく朝。墨田の辺りにて求む』と書きました。
 それから、合宿で、恒例のテキにカツを食い、一杯の冷酒に征途をことほいだ後、晴れのブレザァコオトも嬉しく、ほてるような気持で、旅立ったのです。
 あとは、御承知のようなコオスで、大洋丸まで辿りつきました。文字通りの熱狂的な歓送のなか、名も知られぬぼくなどに迄、サインを頼みにくるお嬢さん、チョコレェトや花束などをくれる女学生達。旗と、人と、体臭と、汗に、揉れ揉れているうち、ふと、ぼくは狂的な笑いの発作を、我慢している自分に気づきました。
 勿論、こんなに盛大に見送って頂くことに感謝はしていたのです。ことに、京浜間に多い工場という工場の、窓から、柵から、或いは屋根にまで登って、日の丸の旗を振ってくれていた職工さんや女工さんの、目白押しの純真な姿を、汽車の窓からみたときには、思わず涙がでそうになりました。
 しかし、例の狂的な笑いの発作が、船に乗って、多勢の見送り人達に、身動きもならないほど囲まれると、また、我慢できぬほど猛烈に、起ってきて、ぼくは教わったばかりの船室にもぐりこみ、思う存分、笑ってから、再びデッキに出たのです。
 昔、教えて頂いた中学、学院の諸先生、友人、後輩連も来ていてくれました。銅鑼が鳴ってから一件の背広を届けに、兄が、母の表現を借りると、スルスルと猿のように、人波をかきわけ登ってきてくれました。これは帰朝してから、聞いたことですが、故郷鎌倉での幼馴染の少年少女も来ていてくれたそうです。なかでも、波止場の人混みのなかで、押し潰されそうになりながら、手巾をふっている老母の姿をみたときは目頭が熱くなりました。周囲に、家の下宿人の親切な人が、二人来ていてくれたので安心しながら、ぼくは、兄が買ってくれたテエプを抛りましたが、なかなか母にとどきません。
 女学生の一群にとび込んだり、学校の友人達の手にはいったりしても、母にはとどかないのです。その内、漸く、一つが、母の近くの、サラリイマン風の人に取られたのを、下宿人のHさんが話して、母に渡してくれました。少しヒステリイ気味のある母は、テエプを握り、しゃくり上げるように泣いていました。あまり泣くのをみている内、なにか、ホッとする気持になり、左右を見廻すと、大抵の選手達が、誰でも一人は、若い女のひとに来て貰っている、花やかさに見えました。
 ぼく達のクルウでも、豪傑風な五番の松山さん迄が、見知り越しのシャ・ノアルの女給とテエプを交しています。殊に美男な、六番の東海さんなんかは、テエプというテエプが綺麗な女に握られていました。肉親と男友達の情愛に、見送られているぼくは幸福には違いありません。が、母には勿体ないが、娘さんがひとり交っていて、欲しかった。
 その淋しい気持は出帆してからも続きました。見送りの人達の影も波止場も霞み、港も燈台も隔たって、歓送船も帰ったあと、花束や、テエプの散らかった甲板にひとり、島と、鴎と、波のうねりを、見詰めていると、もはや旅愁といった感じがこみあげて来るのでした。
 出発時の華やかな空気はそのまま、船を包んで――ぼく達のクルウにも残っていました。朝のデンマアク体操も、B甲板を廻るモオニング・ランも、午前と午後のバック台も棒引も、隅田川にいるときとは比べものにならないほど楽だったし、皆も、向うに着くまではという気が、いくらかはあったのでしょう。東海さんや、補欠の有沢さんを中心とする惚け話や、森さんや松山さんを囲んでの色話も、盛んなものでした。
 合宿の頃から、ずうッと一人ぼっちだったぼくは、多勢の他テイムのなかに雑ると、余計さびしく、出帆してから二三日、練習以外の時間は、ただ甲板を散歩したり、船室で、啄木を読んだり、船室が、相部屋の松山さん、沢村さんに占領されているときは、喫煙室で、母へ手紙を書いたりしていました。
 故国を離れてから三日目、ぼくは恥かしい白状をしなければなりません。無暗に淋しくなったぼくはスモオキング・ルウムの片隅で、とても非常識な手紙を書こうとしていたのです。無論、書きかけただけで、実行はしませんでしたが、その前年の夏、鎌倉の海で、一寸遊んだ、文化学院のお嬢さんに、ラブレタアを書いてやろうと思ったのです。返事は多分、向うに着いて貰えるだろうと思いましたが、その、円らな瞳をした、お嬢さんには、すでに恋人があったかも知れないとおもうと、気恥かしくなって来て、止めにしました。

     四

 やはり、あなたと初めてお逢いした晩のことは、はっきり憶えています。
 例の、食事中にはネクタイをきちんと結べ、フォオクをがちゃつかすな、スウプを飲むのに音を立てるな、頭髪に手を触れるな、といった食卓作法も、まだ出発して一週間にならない、あの頃はよく守られていました。
 そうした夕食後の一刻を、やはり新人の為、仲間はずれになっている、KOのフォアァの補欠で、銀座ボオイの綽名のある、村川と、一等船客専用のA甲板を――Aデッキを練習以外には使うな、などという規則が守られていたのは、初めの二三日でした。――ぶらついていると、「オーイ、活動が一等の食堂にあるぞオ」と誰かが叫んで、四五人、駆けて行きました。「行って見ようや」とぼくは村川を誘い、KOの二番の柴山、補欠の河堀とも一緒になって、デッキを降り、食堂に入って行きますと、映画は始まっていて、代表選手の練習を集めた実写物らしく女子選手のダイビングが、空中に美しい弓なりの弧を描いているところでした。
 ぼく達、ボオトの場景が最後を飾り、観ていれば、撮影された覚えもある荒川放水路、蘆の茂みも、川面の漣も、すべて強烈な斜陽の逆光線に、輝いているなかを、エイト・オアス・シェルの影画が、キラキラする水を鋭く切り、凄まじい速さで、進んでゆくのでした。影画のようなオォルでも、上げれば、水泡と、飛沫が、同時に光ります。「いいなア」と誰かが溜息をついていました。漕いでいれば、あんなに辛いものでも、見ていれば綺麗に違いありません。
 映画が済んでから、またAデッキに出てみますと、太平洋は、けぶるような朧月夜でした。霧がすこしたれこめ、うねりもゆるやかな海面を、眺めながら、Bデッキヘの降り口にまで来たときです。甲板の反対側から、廻ってきた、あなた達と、ぱったり一緒になってしまいました。雀のように喋りあっているあなた達に、村川は、「どうぞお先に」とふざけて、言いました。女子ハアドルの内田さんが、先に進みでて、「おおきに」と澄ましたお辞儀をしたので、あなた達は笑い崩れる。
 そのとき、全く偶然で、すぐ前にいたあなたに、ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚いたように顔をあげて、ぼくをみた、真面目になった、あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌と、成熟した女の貌との混淆による奇妙な魅力でした。
 みじんも化粧もせず、白粉のかわりに、健康がぷんぷん匂う清潔さで、あなたはぼくを惹きつけた。あなたの言葉は田舎の女学生丸出しだし、髪はまるで、老嬢のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ましい魅力でした。
 あなたは、薄紫の浴衣に、黄色い三尺をふッさりと結んでいた。そして、「ボオトはきれいねエ」と言いながら、袖をひるがえして漕ぐ真似をした。ぼくは別れるとき、「お名前は」とか、「なにをやって居られるんですか」とか、訊きました。そしたら、あなたは、「うち、いややわ」と急に、袂で、顔をかくし、笑い声をたてて、バタバタ駆けて行ってしまった。お友達のなかでいちばん背の高いあなたが、子供のように跳ねてゆくところを、ぼくは、拍子抜けしたように、ぽかんと眺めていたのです。その癖、心のなかには、潮のように、温かいなにかが、ふツふツと沸き、荒れ狂ってくるのでした。
 船室に帰ってから、ぼくは大急ぎで、選手名簿を引き出し、女子選手の処を、探してみました。すると、あなたの顔ではありますが、全然、さっきの魅力を失った、ただの田舎女学生の、薄汚く取り澄ました、肖像が発見されました。そこに (熊本秋子、二十歳、K県出身、N体専に在学中種目ハイ・ジャムプ記録一米五七)と出ているのを、何度も読みかえしました。なかでも、高知県出身とある偶然さが、嬉しかった。ぼくも高知県――といっても、本籍があるだけで、行ったことはなかったのですが、それでも、この次、お逢いしたときの、話のきっかけが出来たと、ぼくには嬉しかった。

     五

 翌朝から、ぼくは、あなたを、先輩達に言わせれば、まるで犬の様につけまわし出しました。船の頂辺のボオト・デッキから、船底のCデッキまで、ぼくは閑さえあると、くるくる廻り歩き、あなたの姿を追って、一目遠くからでも見れば、満足だったのです。
 その晩、B甲板の船室の蔭で、あなたが手摺に凭れかかって、海を見ているところを、みつけました。腕をくんで背中をまるめている、あなたの緑色のスエタアのうえに、お下げにした黒髪が、颯々と、風になびき、折柄の月光に、ひかっていました。勿論ぼくには、馴々しく、傍によって、声をかける大胆さなどありません。只、あなたの横にいた、柴山の肩を叩き、「なにを見てる」と尋ねました。それは、あなたに言った積りでした。柴山は、「海だよ」と答えてくれました。ぼくも船板から、見下ろした。真したにはすこし風の強いため、舷側に砕ける浪が、まるで石鹸のように泡だち、沸騰して、飛んでいました。
 次の晩、ぼくが、二等船室から喫煙室のほうに、階段を昇って行くと、上り口の右側の部屋から、溌剌としたピアノの音が、流れてきます。“春が来た、春が来た、野にも来た”と弾いているようなので、そっとその部屋を覗くと、あなたが、ピアノの前にちんまりと腰をかけ、その傍に、内田さんが立っていました。
 二人は、覗いているぼくに気づくと、顔を見合せ、花やかに、笑いだしました。その花やいだ笑いに、つりこまれるように、ぼくは、その部屋が男子禁制のレディスルウムであるのも忘れ、ふらふらと入り込んでしまいました。あなた達は、怪訝な顔をして、ぼくを見ています。ぼくも入ったきり、なんとも出来ぬ、羞恥にかられ、立ちすくんでしまった。
 すると、あなた達はそそくさ、部屋を出て行きました。ぼくも、その後から、急いで逃げだしたのです。
 翌晩、船で、簡単な晩餐会があって、その席上、選手全員の自己紹介が行われました。なにしろ元気一杯な連中ばかりですから、溌剌とした挨拶が、食堂中に響き渡ります。槍の丹智さんが女にしては、堂々たる声で、「槍の丹智で御座います」とお辞儀をすると、TAをCHIと聴き違え易いものですから、男達は、どっと笑い出しました。ぼくには、大きな体の丹智さんが、呆気にとられ、坐りもならず、立っているのが、その時には、ほんとうにお気の毒でした。いつもなら、無邪気に笑えたでしょう。が、あなたの上に、すぐ考えて、それが如何にも、女性を穢す、許されない悪巫山戯に、思えたのです。
 ぼくの番になったら、美辞麗句を連ね、あなたに認められようと思っていたのに、恥かしがり屋のぼくは、口のなかで、もぐもぐ、姓と名前を言ったら、もうお終いでした。
 あなたの番になると、あなたは、怖じず臆せず明快に、「高飛びの熊本秋子です」と名乗って着席しました。ぼくには、その人怖じしない態度が好きだった。
 それから何日、経ったでしょう、ぼくはその間、どうしたらあなたと友達になれるかと、そればかりを考えていました。前にも言ったとおり、恥かしがりで孤独なぼくには、なにかにつけ、目立った行為はできなかった。
 ある夜、船員達の素人芝居があるというので、皆一等食堂に行き、すっかりがらんとしたあとぼくがツウリスト・ケビンの間を歩いていますと、仄明るい廊下の端れに、月光に輝いた、実に真ッ蒼な海がみえました。と、その間から、ひょいと、あなたの顔が、覗いてひっこんだのです。ぼくは我を忘れ駆けて行ってみました。すると、手摺に頬杖ついた、あなたが、一人で月を眺めていました。月は、横浜を発ってから大きくなるばかりで、その夜はちょうど十六夜あたりでしたろうか。太平洋上の月の壮大さは、玉兎、銀波に映じ、といった古風な形容がぴったりする程です。満々たる月、満々たる水といいましょうか。澄みきった天心に、皎々たる銀盤が一つ、ぽかッと浮び、水波渺茫と霞んでいる辺りから、すぐ眼の前までの一帯の海が、限りない縮緬皺をよせ、洋上一面に、金光が、ちろッちろッと走っているさまは、誠に、もの凄まじいばかりの景色でした。
 ぼくは一瞬、度胆を抜かれましたが、こんな景色とて、これが、あの背広を失った晩に見たらどんなにつまらなく見えたでしょうか。いわばあなたとの最初の邂逅が、こんなにも、海を、月を、夜を、香わしくさせたとしか思われません。ぼくは胸を膨らませ、あなたを見つめました。
 その夜のあなたは、また、薄紫の浴衣に、黄色い三尺帯を締め、髪を左右に編んでお下げにしていました。化粧をしていない、小麦色の肌が、ぼくにしっとりとした、落着きを与えてくれます。顔つき合せては、恥かしく、というより、何も彼にもが、しろがね色に光り輝く、この雰囲気のなかでは、喋るよりも黙って、あなたと、海をみているほうが、愉しかった。
 随分、長い間、沈黙が続いた後で、ぽつんとぼくが、「熊本さんも、高知ですか」と訊ねました。あなたは頷いてから、「坂本さんは、高知の、どこでしたの」と言います。「いや、高知は両親の生れた所ですけれど、まだ知りません。ずっと東京です」「そう。高知は良い国よ。水が綺麗だし、人が親切で」「ええ、聴いています。母がよく、話してくれます。ほら、よさこい節ってあるんでしょう」「ええ、こんなんですわ」とあなたは、悪戯ッ児のように、くるくる動く黒眼勝の、睫の長い瞳を、輝かせ、靨をよせて頬笑むと、袂を翻えし、かるく手拍子を打って『土佐は良いとこ、南を受けて、薩摩颪がそよそよと』と小声で歌いながら、ゆっくり、踊りだしました。
 ぼくが可笑しがって、吹出すと、あなたも声を立てて、笑いながら、『土佐の高知の、播磨屋橋で、坊さん、簪、買うをみた』と裾をひるがえし、活溌に、踊りだしました。文句の面白さもあって、踊るひと、観るひと共に、大笑い、天地も、為に笑った、と言いたいのですが、これは白光浄土とも呼びたいくらい、荘厳な月夜でした。
 しかし、その月光の園の一刻は、長かったようで、直ぐ終ってしまいました。それは、あなたの友達の内田さんが、船室の蔭から、ひょッこり姿を、現わしたからです。内田さんも、あなたの様子にニコニコ笑って来るし、ぼく達も、笑って迎えましたが、ぼくにとっては月の光りも、一時に、色褪せた気持でした。

     六

 それから、三人揃って、芝居を見に行きました。なにをやっていたか、もう忘れています。多分、碌々、見ていなかったのでしょう。ぼくは別れて、後ろの席から、あなたの、お下げ髪と、内田さんの赤いベレエ帽が、時々、動くのを見ていたことだけ憶えています。
 それからの日々が、いかに幸福であったことか。未だ、誰にも気づかれず、ぼくはあなたへの愛情を育てていけた。ぼくはその頃あなたと顔を合せるだけで、もう満ち足りた気持になってしまうのでした。朝の楽しい駆足、Aデッキを廻りながら、あなた達が一層下のBデッキで、デンマアク体操をしているのが、みえる処までくると、ぼくはすぐあなたを見付けます。
 なかでも、長身なあなたが、若い鹿のように、嫋やかな、ひき緊った肉体を、リズミカルにゆさぶっているのが、次の一廻り中、眼にちらついています。今度、Bデッキの上を駆ける頃になると、あなたは、海風に髪を靡かせながら、いっぱいに腕を開き、張りきった胸をそらしている。その真剣な顔付が、また、次の一廻り中、眼の前にある。その次、Bデッキの上まで来るとあなたは腕をあげ脚を思い切り蹴上げている、というように、以前は、嫌いだった駆足も、駆けている間中、あなたが見えるといった愉しさに変りました。
 それからすっかり腹を空かした朝の食事、オオトミイルに牛乳をなみなみと注いで、あなたを見ると、林檎を丸噛りに頬張っているところ、なにかふっと笑っては、自分に照れ、俯いてしまいます。(よく、食うなア)と、あなたに言った積りですが、案外、自分のことでしょう。
 朝飯を食うと午前中の練習で、八時半から十一時頃まで、ボオト・デッキと体育室の前に置いてあるバック台を、まず、三百本以上は、定まって引きました。大体、三番の梶さんと、四番のぼくは並んで引くのが原則ですが、下手糞な為、時々、五番の松山さんや整調の森さんとも引きます。ぼくは、胴が長くて、上体が重く、いつも起上りが、おくれて、叱られるのですが、あの数日は、すばらしい好調でした。
 いつもは隣のバック台に、合わそうとすればする程合わないのが、その頃は合わそうとしないでも、いつの間にかチャッチャッとリズムが出てくるのです。身も心も浮々していて、普段は音痴のぼくでも、ひどく音楽的になれたのでしょう。そのリズムに乗ってしまえばしめたもので、カタンと足で蹴り身体を倒した瞬間、もう上半身は起き上がり、スウッと身体は前に出てゆきます。手首をブラッと突きだし、全身が倒れた反動で、ひとりでに進むのをゆるくセエブしながら、みはるかす眼下ひろびろと、日に輝く太平洋が青畳のように凪いでいるのを見るのは、まことに気持の好いものです。
 そんな時、監督に廻って来た総監督の西博士が、コオチャアの黒井さんに、「みんな、坂本君位、身体があれば大したものだなア」と褒めて下さるのを聞くと、いつもクルウの先輩連からは、「大きな身体を、持てあましていやがって――」など言われているだけに、思わず、ハッとあがってしまい、又、普段の地金が出るのではないかと固くなるのでした。
 ある日、バック台を引いたあとで、腕組みをしながら、あとの人達のやるのを見ていて、ひょいと眼をあげると、あなたの汗ばんだ顔が、体育室の円窓越しに、此方を眺めていました。ぼくは直ぐ、恥かしくなって、視線をそらせようとすると、あなたも、寂しいくらい白い歯をみせ、笑うと、窓硝子をトントン拳で叩く真似をしてから、身をひるがえし逃げてゆきました。
 それからと云うものは、ぼくは、バック台をひきながらも、背後の体育室のなかで、かすかに、モーターの廻り出す音でも、聞えると、あなたが来ているかなと、胸が昂まるのでした。
 いつでしたか、いちばん後まで残り、バック台を蔵ってからも、皆、降りて行ってしまうまで海を眺めるふりをし、誰もいなくなってから、体育室に入ってみました。
 すると、あなたと、内田さんが、木馬に乗って、ギッコンギッコンと凄まじい速さで、上がったり下がったりしています。おまけに、あなた達はパンツ一枚なのですから、太股の紅潮した筋肉が張りきって、プリプリ律動するのがみえ、ぼくはすっかり駄目になり、ほうほうの態で、退却したことがあります。
 午後は、ぼく達の棒引が終ってから、あなたがたの練習をみるのが、また楽しみでした。
 殊に、あなたのアマゾンヌの様な、トレエニング・パンツの姿が、A甲板の端から此方まで、風をきって疾走してくる。それも、ひどく真剣な顔が汗みどろになっているのが、一種異様な美しさでした。
(視よ、わが愛する者の姿みゆ。視よ、山をとび、丘を躍りこえ来る。わが愛する者は※[#「※」は「けものへん」の右に「章」、31-11]のごとく、また小鹿のごとし)
 紫紺のセエタアの胸高いあたりに、紅く、Nippon と縫いとりし、踝まで同じ色のパンツをはいて、足音をきこえぬくらいの速さで、ゴオルに躍りこむ。と、すこし離れている、ぼくにさえ聞えるほどの激しい動悸、粒々の汗が、小麦色に陽焼けした、豊かな頬を滴り、黒いリボンで結んだ、髪の乱れが、頸すじに、汗に濡れ、纏りついているのを、無造作にかきあげる。
 七番の坂本さんが、ぼくの肩を叩いて、「すごいなア」という。あなたの真剣さに、感動したのでしょう。「ええ」と領きながら、ぼくはふいと目頭が熱くなったのに、自分で驚き、汗を拭うふりをすると、慌てて船室に駆け降りました。
 舷では、槍の丹智さんが、大洋にむかって、紐をつけた、槍を投げています。ブンと風をきり、五十米も海にむかって、突き刺さって行く槍の穂先きが、波に墜ちるとき、キラキラッと陽に眩めくのが、素晴しい。と、上の甲板からは、ダイビングの女子選手が、胴のまわりを、吊鐶で押えたまま、空中に、さッと飛びこむ。アクロバットなどより真面目な美しさです。
 と、また、男達のほうでも、ボクサアは、喰いつきそうな形相で、サンドバッグを叩いていますし、レスラアは、筋肉の塊りにみえる、すさまじさで、ブリッジの練習。体操の選手は選手で、贅肉のない浮彫のような体を、平行棒に、海老上がりさせては、くるくる廻っています。おおかた上のプールでは、水泳選手の河童連が、水沫をたてて、浮いたり沈んだり、ウォタアポロの、球を奪いあっているのでしょう。
 それでありながら、古代ギリシャ、ロオマの巨匠達が発見した、人間の文字通り具体的な、観念に憑かれぬという意味での美しさが、百花撩乱と咲き乱れておりました。
 しかしながら、その中に育った、ぼく達の愛情は、肉体の露わにみえる処に、あればあるほど肉体的でない、まるで童話の恋物語めいた、静かさでありました。あなたと語り合うことは、恐ろしく、眼を見交すことが、楽しく、黙して身近くあるよりも、ただ訳もなく一緒に遊んでいるほうが、嬉しかったのです。
 夜の食事のときなど、メニュウが、手紙になったり、先の方に絵葉書がついていたりします。ぼくはその上に書く、あなたへの、愛の手紙など空想して、コオルドビイフでも噛んでいるのです。メニュウには、殆ど錦絵が描かれています。歌麿なぞいやですが、広重の富士と海の色はすばらしい。その藍のなかに、とけこむ、ぼくの文章も青いまでに美しい。ところで、あなたはパセリなど銜えながら、時々こちらに、ちらっと笑いかけてくれるのでした。
 夜は、概して平安一路な航海、月や星の美しい甲板で、浴衣がけや、スポオツドレスのあなたが、近くに仄白く浮いてみえるのを、意識しながら、照り輝く大海原を、眺めているのは、また幸福なものでした。
 なかでも、わけて愉しかったのは、昼食から三時までの練習休みの時間、大抵のひとが暑さにかまけて、昼寝でもしているか、涼しい船室を選んで麻雀でも闘わしているのに、ぼくは炎熱で溶けるような甲板の上ででも、あなたや内田さんと、デッキ・ゴルフや、シャブルボオドをして遊んでいれば、暑さなど、想ってもみない、楽しさで充実した時間でした。
 飯を食うと、ぼくは直ぐAデッキに出て、コオチャア黒井さんが昼寝している横の、デッキ・チェアに腰を降し、瀝青のように、たぎった海を見ています。暫く経ってから、黄色いブラウスに白いスカアトをはいた、あなたと、赤いベレエ帽に、紺の上衣を着た内田さんとが、笑いながらやって来ます。内田さんは、ぼくに、「ぼんち、デッキ・ゴルフやろう」と言ってから、今度は黒井さんの手をひっぱって、無理に起します。黒井さんは、「ああァ」と大欠伸をしてから、周囲をみまわし、「大坂とか、よし、また、ひねってやろう」とゆっくり立ち上がるのでした。
 そこで、あなたと内田さんの組と、ぼくと黒井さんの組が対抗してゲエムを始めます。ぼくにとって、勝負なぞ、初めは、どうでも好いのですが、やはり良い当りをみせて、あなたの持ち輪を圏外の溝のなかに、叩き落したときなぞ、思わず快心の笑みがうかぶ、得意さでした。
 ことに、ぼくをいつも庇護してくれる黒井さんが、そういうとき、「うまい」と一言、褒めてくれるのが、ふだんクルウの先輩達が、ぼくをまるで、運動神経の零なように、コオチャアに言いつけているのを知っているだけ、とても嬉しかったのです。
 勿論、あなた達のほうでも、ぼく達を負かしたときには、手を叩いて、嬉しがっていた。勝負の面白さが、純粋に勝負だけの面白さで、その時には、恋も、コオチャアも、女も、利害も、過去も未来もなかったのです。
 後年、ぼくは、或る女達と、もっと恋愛らしい肉体的な交際を結びました。しかし、それが、所謂恋愛らしい、形を採ればとるほど、ぼくは恋愛を装って、実は、損得を計算している自分に気づくのでした。
 おもうに、あのとき、燃える空と海に包まれ、そして、焼きつくような日光をあびた甲板に、勝っているときは嬉しく、負けたときは口惜しく、遊びの楽しさの他には、なにもなかった。ぼくは、本当に、黄金の日々を過していたのでした。
 もう、あの日当りでのデッキ・ゴルフの愉しさは、書くのを止めましょう。もっと、純粋な愉しさがあって、書けば書くほど、嘘になる気がします。
 しかし、この黄金の書に、ものを書く時間は短かく、これと殆ど同時に、ぼくには、大きな不幸が忍びよって来ていました。それは、まず第一に、ほかの人間達が、ぼく等の友情のなかに、影を落して来だしたことです。次には、ぼく達が、他の人達に注目されるほど、仲良くなって行ったことです。

     七

 ある日、写真機を持出した村川が、ぼくを呼んで、あなたと内田さんの写真をとるから誘うてきてくれ、と言います。ぼくが「いやだ」と断ると、「なんでい、熊本は、お前のいう事なら、きくよ」と笑います。
 結局、あなた達の写真を貰える嬉しさもあり、白地に、紫の菖蒲を散らした浴衣をきたあなたと、紅いレザアコオトをきた内田さんを、ボオト・デッキの蔭に、ひっぱり出し、村川が、写真を撮り、また、ぼくと村川の写真を、内田さんが撮りました。
 二三日経って、出来上がった写真を、交換し、サインもし合っていました。あなたの顔は、眼が円く、鼻がちんまりして、色が黒く、いかにも、漁師の娘さんといった風だし、内田さんの顔は、また、色っぽい美人の猫、といった感じに撮れていたので、皆で、それを指摘し合っては、騒々しく笑っていると、東海さんが通りかかり、ものも言わず、写真をとり上げ、一寸見るなり、「フン」と鼻で笑って、抛り出し、行ってしまった。
 その晩でしたか、七番の坂本さんが、女子選手のブロマイドを買い、皆に見せながら、一々名前をきいていましたが、なかに分らないのがあって、誰か、名簿を取りに立とうとすると、東海さんが、突然、大声で、「大坂に聞けよ。大坂は、女の選手のことなら、とても詳しいんだ」といいます。昼間の写真のことだなと、ぼくは胸に応えました。すると、松山さんが、「ほう、大坂はそんなに、女子選手の通なんか」といったので、皆、笑いだしたけれど、ぼくには、そのときの、誰彼の皮肉な目付が、ぞっとするほど、厭だった。
 又ある日、ぼくが、練習が済み、水を貰おうと、食堂へ降りて行くと、入口でぱったり、あなたと同じジャンパアの中村さんに、逢いました。と、十六歳のこの女学生は、突然、ぼくの顔を覗きこむように、「うちの写真、貰ってくれやはる」といいます。
 驚いて、まじまじしているのに、「ここで待っててね」といいざま、子栗鼠のような素早さで、とんで行き、ぼくが椅子に腰かける間もなく、ちいさい中村さんは、息をきり、ちんまりした鼻の頭に汗を掻き、駆け戻って来ると、ぼくの掌に、写真を渡し、また駆けて行ってしまいました。
 あとでみた、写真には、ハアト形のなかに、お澄しな田舎女学校の三年生がいて、おまけに稚拙なサインがしてあるのが、いかにも可愛く、ほほ笑んでしまった。
 当時、すこし自惚れて、考え違いしていましたが、これは多分、同室のあなた達が、ぼくや村川の写真を、中村さんにみせたので、少女らしい競争心を出し、まず、ぼくに写真をくれたのでしょう。
 その後、暫くしてから、「坂本さん、ボオトの写真、うち、欲しいわ」と女学生服をきた彼女から、兄貴にでもねだるようにして、せがまれました。「いやだ」というと、「熊本さんにはあげた癖に――」と、口をとがらせ、イィをされたので、驚いたぼくは、バック台を引いている写真をやってしまいました。
 こうした風に、段々、へんな噂がたつのに加えて、人の好い村川が、無意識にふりまいた、デマゴオグも、また相当の反響があったと思われます。
 未だ、ませた中学生に過ぎなかった彼としては、自分が、いかに女の子と親しくしているかを、大いに、みせびらかしたかったのでしょう。それだけ、ぼくより、無邪気だったとも、言えますが、ぼくにしてみれば、彼が、あなた達、女子選手をいかにも、中性の化物らしく批評し、「熊本や、内田の奴等がなア」 と二言目には、あなた達が、村川に交際を求めるような口吻を弄し、やたらに、写真を撮らしたり、ぼく達四人の交友を、針小棒大に言い触らすのをきいては、癪に触るやら、心配やら、はらはらして居りました。
 しかし、これは、人間の本能的な弱さからだと、ぼくには許せる気になるのでしたが、同時に、誰でもが持っている岡焼き根性とは、いっても、クルウの先輩連が、ぼくに浴びせる罵詈讒謗には、嫉妬以上の悪意があって、当時、ぼくはこれを、気が変になるまで、憎んだのです。
 その頃、整調でもあり主将もしている、クルウでいちばん年長者の森さんは、ぼくをみると、すぐこんな皮肉をいうのでした。「大坂は、熊本と、もう何回接吻をした」 とか 「お尻にさわったか」とか、或いは、もっと悪どいことを嬉しそうにいって、嘲笑するのでした。
 七番のおとなしい坂本さんまでが、「大坂は秋ちゃんと仲が良いのう」とひやかし半分に、ぼくの肩を叩きます。六番の美男の東海さんは「螽※[#「※」は「虫へん」に「斯」、39-6]みたいな、あんな女のどこが好いのだ。おい」と、ぼくの面をしげしげとのぞいて尋ねます。五番の柔道三段の松山さんは、「腐れ女の尻を、犬みたいに追いまわしやがって――」とすごい剣幕で睨みつけます。三番の、もとはぼくを正選手に引張ってくれた、沢村さんまでが、「あんな女のどこが好いかのう。女が珍しいのじゃろう。不思議だのう」と、みんなに訊ねるようにするのが癖でした。二番の虎さんは、広い胸幅を揺りあげ、その話をするときは、ぼくを見ないようにして、「でれでれしやがって」と、忌々しそうに、痰を吐きとばします。この態度が、むしろ、好きでした。
 舳手の梶さんは、ぼくの次に、新しい選手ですし、それに、七番の商科の坂本さん、二番の専門部の虎さんと共に、クルウの政経科で固めた中心勢力とは、派が合わぬだけ、別に何んともいわず、皆と一緒にいるときは、軽蔑した風をしていますが、ひとりで逢うと、時々、「おおいに、若いときの想い出をつくれよ」とか、文科の学生らしく、煽動してくれました。こうして、好意とまでゆかないでも、気にしないでいてくれる、梶さん、清さんのような人達もありましたが、前述したような、クルウ大方の空気は、ひがんでいるぼくにとって、もはや、クルウのなかばかりでなく、船中の誰も彼もが、白眼視しているような気になり、切なくてたまらなかったのです。
 例えば、船に、横浜解纜の際、中学の先生から紹介して貰った、Kさんという、中学で四年先輩のひとが、見習船員をしておりました。Kさんは、未だ高等商船を出たばかりで、学生気の抜けない明るい青年で、後輩のぼくの面倒をよくみてくれて、船の隅々迄、案内もしてくれるし、一緒に記念撮影などもしていました。
 ところが、その頃、船の前端にある彼の部屋に、夜遊びに行ってみると、何かのきっかけで、Kさんが、「女子選手ッて、みんな、凄いのばかりだね」といいだしました。ビクッとしたのになおも、「あれで、男の選手へ、モオションをかけるのが、いるっていうじゃないか。アッハッハ……」と大口あいて笑うのです。
 その時は、てッきり、ぼくにあてこすっているのか、忠告していると取り、早々に逃げ出したのですが、それからは、なるべく、Kさんにまで逢わないようにしていました。しかし、いま考えれば、これも、ぼくのひがみだったのです。

     八

 横浜を出てから一週間も経った頃、朝の練習が済むと、B甲板に、全員集合を命ぜられました。役員のひとりで、豪放磊落なG博士が肩幅の広い身体をゆすりあげ、設けの席につくと、みんなをずっと見廻したのち、
「諸君。ぼくはこんなことを、日本選手でもあり、立派な紳士、淑女でもある皆さんに、お話するのは、じつに残念であるが、止むを得ん。とにかく、本日只今から、男子と女子の交際は、絶対にこれを禁止する。
 遊ぶのは勿論ならんし、話をしても不可ん。今後、この規則を破るものがあったら、発見次第それぞれの所属チイムの責任者によって、処分して貰う。尚、その程度によっては、ホノルルなり、サンフランシスコなりに、船が着いたら、下船させてしまうぞ。スポオツマンとしての資格の欠けるものに、日本は選手として、出場して貰いたくないのだ」
 日頃、太ッ腹な氏としては、珍しく、話すのも汚らわしいといった激越ぶりでした。ぼくにしてみれば、話の最中ふりかえって此方をみる、クルウの先輩達もいるし、それでなくとも、氏の一言一句が、ただ、ぼくに向っての叱声に聞え、かあッと、あがってしまうのでした。氏は語をついで、
「だいたい、この前のアムステルダム行の時は、このことを怖れ、男子船と女子船とを別々に立たせたものだ、今回も前に比べれば、人数も増えているし、万一のことがあってはと心配して『男女七歳にして席を同じうせず』式の議論から、別々に立たせるのを主張する人もあったが、ぼくは、『厳粛なる自由』を称え、笑って、その議論を一蹴した。諸君、もう一度、君達の胸のバッジをみたまえ。光輝ある日の丸の下に、書かれた Japanese Delegation の文字は、伊達では、ねエんだろ。俺は今朝、ある忌わしい場面を、この船の事務員が見たとか、いう話をきいたときは、初めは話のほうが信用できなかった。否、今でも、そんな話は信用しとらん。
 しかし、こういっただけで、若し、その事実ありとしても、その当人達は、充分、自戒してくれると思う。頼むから諸君、二度と俺にこんなことを、言わさないでくれ。終りッ」
 そういい棄てると博士をはじめ、幹部連はさっさと引揚げてしまいましたが、そうなると、今度はかえって、あとの騒ぎが大変。どこにでもいる噂好きな人達が、大声で、見てきたような嘘をいいあったり、猥褻な想像をしあっては喜んでいる。そのなかで、ぼく一人、また一人ぼッち、茫然と身動きもできませんでした。
 ボオトの連中はてっきり、ぼくとあなたをこの醜聞にあて嵌めてしまったのでしょう。森さんなんかは血相かえ、「俺達のなかで、困るのは、まあ大坂一人位のものだな」と皮肉をいいます。松山さんは、「大坂だけ困るんじゃねえぞ。ボオト部全体の恥だからな」とぼくを睨みつけます。と、東海さんが、「Gさんも、ああ言うんだし、皆でよく今後を打合せたらどうだい」と横目でぼくを見ながらいう。日頃、寡黙なKOの主将、八郎さんまで、「よかろう」と積極的に嘴をだします。結局、それからぼくの査問会らしきものが、皆で開かれることになりました。
 尤も、あとで考えると、G博士のいった醜聞は、子供ッぽいぼく等の友情などは、問題としておらず、先夜、ある男女が、ボオト・デッキの蔭で、抱擁し合っていたのを、船員にみられたという噂からだったのを、すでに連中は知っていたかとも思われますが――。
 皆はぞろぞろ二等のサロンに入りました。ぼくは、勢い、衆目の帰する処です。出帆前からの神経異常が、あなたとの愉しい交わりに、紛らわされてはいたが、こうした場合一度に出て来て、頭の芯は重だるく、気力もなくなり、なにをいわれても聞いてはいずに肯くばかりでした。
 ぼくは前から、左側の瞼だけが二重で、右は一重瞼なのです。それを両方共、二重にする為には、眼を大きく上に瞠ってから、パチリとやれば、右も二重瞼になる。それを、あなたと逢う前には、よくやって、顔を綺麗にしようと思ったものです。その癖がちょうど、皆から査問を受けている最中、ひょっくり出て、瞳をパチリと動かす。
 と、森さんが、「おい大坂、止さんか」と真ッ赤になって怒りだした。しまった。ぼくは取返しのつかない思いにうつむく。と、「どうしたんだ」松山さんが、面白がり、声を荒げて聞いた。森さんが「否、厭らしいッたら、ありゃしない。此奴ったら」と、ぼくのほうを顎でしゃくって、「ウインクの真似をしてやがるんだ。こんなにしてな」と、さも厭らしく三白眼をむいてみせます。「ハハア、それがウインクてんだな。新式の――」と補欠の佐藤が、憎らしく、お節介な口を出すと、皆がどッとふきだしました。
 その笑いのなかで、ぼくはもう死にたい、という気がする程、弱虫でした。まだ、松山氏は、沢村さんに向って、「こんなにするんだとよ。気味が悪い」とやって見せています。こんなふうに、皆から扱われるのには慣れていますが、あなたのことが、有るだけに、たまらなかったのです。
 結局さんざん嘲弄されてから、解放されましたが、それからまた、バック台練習は、以前のように口喧しく、先輩達から怒鳴られるようになるし、怒鳴られるほど、またギゴチなくなって行きました。
 こう書くと、いかにもぼくが、弱々しいだけに見えますが、先輩達だとて、ぼくが本当に弱く降参しきっていれば、あれ迄いじめなかったでしょう。加えて、ぼくには、文学少年にありがちな孤独癖がありました。それも生意気だとか、図々しいとか見られていたのでしょう。実際、図々しい処もありました。あなたから、この手記の初めに書いた、杏の実を貰ったのは、その問題があった日の昼のことでしたから――。
 とにかく、その日の昼は、もうあなたと遊べなくなった淋しさと、口惜しさから、殆ど飯も食べずに、トレイニング・パンツに着更え、誰もいないB甲板をうろついていると、ひょッくりあなたと小さい中村嬢に逢いました。
 中村さんは、小さい唇をとがらせ、「うち、つまらんわア、もう男のひとと、遊んではいけない言うて、監督さんから説教されたわ。おんなじ船に乗ってて、口利いてもいかん、なんて、阿呆らしいわ」ぼくも、合槌うって「すこし、変ですね」と言えば、あなたも「ほんとうにつまらんわア」中村嬢は、益々雄弁に「ほんとに嫌らし。山田さんや高橋さんみたいに、仰山、白粉や紅をべたべた塗るひといるからやわ」と、なおも小さな唇をつきだします。ぼくは只、中村さんに喋らしておいて、心のなかでは、つまらない、つまらない、と言い続けていました。
 やがて、あなたは、剽軽に、「こんなにしていて、見つけられたら大変やわ、これ上げましょ」と、ぼくの掌に、よく熟れた杏の実をひとつ載せると、二人で船室のほうへ駆けてゆきました。ぼくも、杏の実を握りしめ、くるくると鉄梯子をあがって、頂辺のボオト・デッキに出ました。
 太平洋は、日本晴の上天気。雲も波もなく、ただ一面にボオッと、青いまま霞んでいます。ぼくは、手摺に凭れかかって、杏を食べはじめました。甘酸っぱい実を、よく眺めては、食べているうち、ふっと瞼の裏が、熱くなりました。食いおわった杏の種子を、陽にかがやく海に、抛ろうとしてから、ふと思い直し、ポケットのなかに、しまいこみました。
 しばらく海をみてから、もう練習かなと、Bデッキを瞰下すと、皆はまだ麻雀でもしているのでしょう。甲板にいるのはデッキ・チェアに寄りかかったあなたと、船客で羅府行の第二世のお嬢さんだけ。二人で、なにか仲良さそうに話している。こちらは、莫迦みたいに、頬笑んで、瞰下していると、あなたは、直ぐ気づき、上をむいて、にっこりした。隣のお嬢さんも、おなじく見上げる。ぼくは、視線のやりばに困るから、船尾のほうを眺めるふりをしている。とまもなく、第二世のお嬢さんは、眼をつむり、寝てしまっている様子です。
 思いきって、ぼくが合図に、右手を高くあげると、あなたも右手をあげて振る。ほんとうに、片眼をおもいッきり、つぶってウインクをしてみる。あなたの顔は、笑いだす。ぼくも、だらしなくにこにこします。
 一瞬、船は停り、時も停止し、ただ、この上もなく、じいんと碧い空と、碧い海、暖かい碧一色の空間にぼくは溶け込んだ気がしたが、それも束の間、ぼくは誰かにみられるのと、こうした幸福の持続が、あんまり恐しく、身体を翻えし、バック台の方へ逃げて行き、こっとん、こっとん、微笑のうちに、二三回ひいてから、また、手摺まで走って行ってはあなたに手をあげ、あなたも手をあげ応えると、また、にこにこと笑い交して、バック台まで逃げてゆく。そうしているときは愉しく、その想い出も愉しかった。
 翌晩でしたか、ひどい時化の最中、すき[#「すき」に傍点]焼会がありました。大抵のひとが出て来ないほど、船が、凄まじくロオリングするなか、ぼくは盛んに、牛飲馬食、二番の虎さんや、水泳の安さんなんかと一緒に、殆ど、最後まで残って、たしか飯を五杯以上は食いました。その飯には、杏の味の甘美さが、まだ残っている気がしたのでした。

 そして、いよいよ Blue Hawaii です。

     九

 ハワイの想い出は、レイの花からでした。
 第一装のブレザァコオトに着更え、甲板に立っていると、上甲板のほうで、「鱶が釣れた」と騒ぎたて、みんな駆けてゆきました。しかし、ぼくは漸く、雲影模糊とみえそめた島々の蒼さを驚異と憧憬の眼でみつめたまま、動く気もしなかったのです。
 未知の国を初めてまのあたり眺める感動と、あなたへの思慕とがありました。その頃、漸くにして、自分の技倆の未熟さはさておき、とにかく日の丸の下に戦わねばならぬ、自分の重責を、あなたへの思い深まるに連れて、深く自覚自責するものがありました。ぼくは、あなたへの愛情をどうしても、帰国後まで、大切に、蔵っておかねばならぬと、おもった。然し、具体的なことはまだ一言も言わなかったし、言えもしなかった。ぼくの焦躁はひどいものでした。
 ようやく波止場も見えてきて、全員集合を命ぜられたとき、いつもの様に、ぼくの眼は、あなたの姿を探していました。或る人達が、わめきちらす、女子選手達のお尻についての無遠慮な評言を、ぼくは堪えられないような弱い気になって、聞くともなく聞いていると、いちばん後れてあなたが、うち萎れた姿をみせた。
 あなたは、先頃の明るさにひきかえ、一夜の中に、醜く、年老って、なにか人目を恥じ、泣いたあとのような赤い眼と手に皺くちゃの手巾を持っていました。ぼくは、あなたが、てっきりぼく達のことについて、なにか言われたのではないかと、勝手な想像をして、黯然となったのです。おまけに、そのとき、あなたはぼくが逢ってから、初めて厚目に、白粉をつけ、紅を塗っていた。その田舎娘みたいなお化粧が、涙で崩れたあなたほど、惨めに可哀想にみえたものはありません。
 あたかも、直ぐそのあとで、ぼくの胸には、歓迎邦人からの、白い首飾りの花が掛けられました。有名な選手などは、二つも三つも掛けて貰っていましたが、ぼくが洋装をした田舎の小母さん然たる奥さんに、にこにこ笑いながら掛けて貰ったレイの花は、ひとつでも堪えられないくらい芳烈な香りを放っていました。ぼくは、その匂いのなかに、恋情の苦しさを甘くする術を発見したのでした。
 それから、間もなく催して頂いた、ハワイの官民歓迎会の、ハワイアン・ギタアと、フラ・ダンス、いずれも土人の亡国歌、余韻嫋々たる悲しさがありましたが、ぼくは、その悲しさに甘く陶酔している自分を、すぐ発見して、なにか可憐しく思ったのです。ハワイでは、あなたと一度も、話し出来ませんでしたが、ぼくは、美しい異国の風景のなかに、あなたの姿を、まぼろしに描くだけで、満足でした。
 ぼく達が日本語よりも、英語がうまいのを自慢にしている運転手君――というのは、ぼく達が波止場から邦人の提供してくれた、自動車に乗りこむと、早速、英語で話しかけて来て、皆が、第二世君と思っていたのに、土人かしらと、些か唖然としていると「あなた達、英語出来ないんですねエ」と軽蔑したように、初めて日本語を使った――その小生意気な運転手君に連れられて一同と共に、奇勝ノアノパリに向う途中、もの凄い大雷雨に、襲われました。が、忽ち、からりと晴れると、なんとその透き徹るような碧い空の見事さ。雨に濡れ、緑のいっそう鮮やかに光り輝く、草木のあいだに、撩乱と咲き誇っている、紅紫黄白、色とりどりの花々の美しさ、あなたは何処にでもいる気がふッと致しました。
 ぼくはものを感じるのは、まあ人並だろうと、思っていますが、憶えるのは、面倒臭いと考える故もあって、自信がありません。
 それでも、ノアノパリの絶壁上に立ち、世界で三番目に強いと言われる風速何十米かの突風、顔をたえず叩かれ上衣をしょっちゅう捲くられているような烈風を受けつつ、眺めた景色は髣髴と、今でも浮んできます。眼前に展がる蒼茫たる平原、かすれたようなコバルト色の空、懸垂直下、何百米かの切りたった崖の真下は、牧場とみえて、何百頭もの牛馬が草を食んでいる。その牛馬一匹々々の玩具のような小ささ、でもさすがに、獣の生々しい毛皮の色が、今も眼にあります。
 しかし、後方右側に聳えたつ、なんとか峰はたえず陽に輝き、左側のなんとか峰はたえず雨に降られている。これは、その昔ハワイの王様なんとか一世が、なんとかいう蛮人の酋長を、火牛の戦法で、この崖から追い落した。で、陽の照っているほうは、なんとか一世の善霊、鎮まり、雨に降られているほうは、蛮人なんとかの悪霊、鎮まるという、こんな伝説の固有名詞は全部忘れてしまいました。が、折からの驟雨が晴れて、水々しい山頂をくっきりと披璃のような青い空に、聳えさせていた峰々のうるわしさは、忘れません。
 あなたはあのとき、びッしょり濡れて、善霊峰の下の洞穴に、風雨を避けていた。スカアトの襞も崩れ、手巾を冠って強風にあおられている。あなたは、朝の印象もあって、ばかに惨めにみえました。が、その苦しさも、ハワイの素晴しい自然が、すぐ慰めてくれ、甘いものとする。そう考えるほど、ぼくは自分のなかだけで、恋情を育てていたのです。

 午後から、ハワイのロオイング倶楽部に、招待されて練習に行きました。
 コオスはほんとうに、草花につつまれているのどかさで、小波ひとつなく、目にみえる流れさえない掘割でした。隅田川の濁流、ポンポン蒸汽、伝馬船、モオタアボオト等に囲まれ、せせこましい練習をしていた、ぼく達にとって、文字どおり、ドリイミング・コオスといった感じです。艇は、固定席が滑席艇に移るまえにあった。ドギュウと日本では称しているような昔懐しいもの。それにオォルの握りも太く、ブレエドの幅も広く、艇は遅いけれど、バランスがよく、舟足も軽い。まっさおい水の上に、艇をポオンと置いてから、約一月ぶりに、シャッシャッと漕ぎだすと、一本々々のオォルに水が青い油のように、ネットリ搦みついて、スプラッシュなどしようと思っても、出来ないあんばい。三十本も漕ぐと、艇はたちまちコオスの端まで行ってしまう。河幅わずか十米あまり。漕いでいるオォルの先に、ぷうんと熱帯の花々が匂うばかりです。さすがに先輩たちも感にたえたか、ぼくはいつもの叱言一つさえ、聴きませんでした。五番の松山さんが、突然「あーア」とおおきい溜息をつき、「おーイ、みんな、漕ぐのは止めろッ、寝ろッ寝ろッ」と叫びさま、オォルをぽおんと投げだし、ぼくの太股のうえに、もじゃもじゃの頭を載せました。彼の鬼をも欺くばかりの貌が、ニコニコ笑うのをみると、ぼくは股の上の彼の感触から、へんに肉感的なくすぐッたさを覚え、みんなに倣って、やはり三番の沢村さんの膝に、頭をのせ仰向けになりました。と、そんな吝な肉感なんか、忽ちすッとんでしまうほど空はとろけそうに碧く、ギラギラ燃えていた。その空の奥に、あなたの顔の輪廓が、ぼおっと浮んだような気がしました。

 あなたに逢いたい、逢いたいと思っていた。そうしたら、ワイキキ・ビイチに行く途中、凱旋門のところで、あなたと内田さん達の一行に、ぱったり逢いました。ぼく達の自動車は、助手席の処にぼく、うしろに三番の沢村さん、二番の虎さんなんかが乗っていた。あなたはその日、朝からずうっと萎れどおしのようでした。ただ、内田さんは、たいへん元気で、あなた達がつけたぼくの綽名を呼び「ぼんぼん、アイスクリイムあげよう」と片手に、容器を捧げてとんで来ました。ちょうど、車が動きだしたところだったので、はにかみながら腕を伸ばした。ぼくには届かず、うしろの沢村さんが、ひッたくッてしまった。そして、なにか猥褻なことを内田さんに言い、自分もすこし照れた様子で、わざと「うまい。うまい」と内田さんのほうに、みせびらかしながら、虎さんと食ってしまいました。虎さんも助平な事を言い、豪傑笑いしてから食っていた。
 ぼくは甚だ、憤慨したが、弱いのだから止むを得ません。ただ、半べそを掻きつつ、「ひどいわ。意地悪」と叫んでいる内田さんに、たいへん愛情を感じました。
 しかし、それはその時に、沸き上がった感情です。あなたに対しては、心の中で、すでに、愛さなければならないという規範を、打ち樹てていたと思います。
 ホノルル・ブロオドウェイの十仙店で、ぼくは、紅のセエム革表紙のノオトを買いました。初めて、米国の金でした買物、金五十仙也。ぼくは、それをあなたとの、日記帳にしようと思って厭らしく、紅い色のものを買ったのです。しかし、それも後から憶えば買わなかったほうが、いや買ったにしても、なんにも書かぬ白紙のなかに、記憶だけを止めておいたほうが、良かった結果になりました。

 翌月の午後は、個人外出を許され、船の出帆時刻は、確か、七時でしたが、ひとりぼっちで歩いていても、面白くなく、帰ったならば、案外また、あなたに逢えるかとも思うと、四時頃からもう帰船しました。
 午前中の甲板には、銭拾いの土人達が多勢、集まって来ていて、それが頂辺のデッキから、真ッ逆様に、蒼い海へ、水煙りをあげて、次から次へ、飛びこむと、こちらで抛った幾つもの銀貨が海の中を水平に、ゆらゆら光りながら、落ちて行く。それを逸早く、銜えあげたものから、ぽっかりぽっかりと海面に首を出し、ぷうっと口々に水を吐きながら、片手で水を叩き、片手に金をかざしてみせる。とまた、忽ち猿の如く甲板に攀じのぼってきては、同じ芸当を繰返すのでした。その中に、ぼくは片足の琉球人城間某という、赤銅色の逞しい三十男を発見し、彼の生活力の豊富さに愕いたものです。
 然し、外出から帰ってみると、甲板には、もう土人達は一人もいず、その代りに第二世のお嬢さんたちが、花やかに着飾って、まだ、あまり帰っていない選手達を取り巻いていました。
 真面目でもあるし、殊にフェミニストの坂本さんが、やはり、五六人のお嬢さん達に取り囲まれていましたが、ぼくの姿をみるなり「ああ坂本君」と呼んで「この人もボオトの選手です。大きいでしょう」とか、紹介しておいて、自分は歓迎に来ている県人会の人達のほうへ行ってしまいました。ぼくは周囲の女性達をみるなり、坂本さんが、ぼくに委して、立ち去ったのが、すぐ諒解できました。美醜はとわず、とにかく、その頃の言葉で、心臓の強いお嬢さん達でした。
 いずれも二十歳前後の娘さんとみえますが、なかに一人、豊かに肥えた肩をむきだした洋装の、だぼ沙魚みたいなお嬢さんが、リイダア格で、「サインして下さいよう」とサイン帳をつきだすと、あとは我も我もと、キャアキャア手帳をつきつけます。「ぼくなんかサインしてもつまりませんよ」と、それでも押しつけられるままに、ぼくが女持の万年筆を借りて、Xth Olympic, Japanese Rowing Team, No.4. S. Sakamoto と書きながら、驚いたのは、そのだぼはぜ嬢、「好いのよ、好いのよ」と嬌声を発し、「あなた、とても好いわ」とぼくの肩に手を置いた事です。馬鹿です。ぼくは相好崩して喜んだらしい。「チャアミングよ」というお嬢さんもいれば、「日本人で、こんなに大きい。スプレンディッド」という女もいる。いよいよ、好い気持になって、ワアワアヘしあってくる娘さん達の、香油と、汗と白粉のムッとする体臭にむせていると、いきなり、また吃驚させられました。というのは、そのだぼはぜ嬢が、愈々、瞳に媚をたたえて、「けっして、助平とは思わないでね」とウインクをするのです。失礼! が、ぼくはふき出したい衝動のあとで、泣き出したいような気になりました。だって、このお嬢さん達は、きっと祖国を知らないんだ。だから日本の礼儀、日本の言葉もよく知らないのだろう。笑ってはいけない、と思いました。で、「ええ、思いませんとも」真面目に言いきりましたが、そういう口の端から、へんに肉感的な微苦笑が、唇を歪めるのを、押えられませんでした。
 すると、そのだぼはぜ嬢はいきなり、ハンドバッグのなかから、自分の写真を取り出し、サインをしてくれます。と傍から、「わたしも上げる」とか言いながら、パアスを探すお嬢さんがいます。二三枚、貰った写真は、何れもブロマイド式に凝ったものですが、正直綺麗なひとは、一人もいませんでした。
 その上、「あなた、メモ貸して、ミイのアドレス書く」と、だぼはぜ嬢が切り出し、また、続けて、二三人が、達者な英語で、御自分のアドレスを書いてくれました。
「あなた、向うのアドレス、着いたら、教えて」とだぼはぜお嬢さんが言うのを、うんうん肯いている中、ぼくは、そのグルッペの隅に、ひとりの可憐な娘を見つけました。
 美しい顔ではありませんが、色の黒い、瘠せた顔に、子供らしい瞳が、くるくるしていて可愛らしい。先刻から、だぼはぜさんの蔭にかすんで、悄然しているのが、今朝からのあなたの姿に連想され、「テエプ、この裡の一人に抛ってね」とだぼはぜ嬢が自信ありげに念を押したとき、よしあの娘に抛ろうと、とっさに決めたのでした。
 出帆の銅鑼が鳴りだしたとき、ぼくは白いテエプを、その娘に投げてやりました。淋しい顔立が、人混みに揉まれ、船が離れて行けば、いっそう頼りなげに見える、そのぼんやりした瞳に、ぼくが、テエプを抛ろうとすると、その瞳は、急に濡れてみえるほど、生々と光りだした気がしました。この娘は、まだ十七で、帰りに寄航したときも逢いましたし、内地に子供らしい手紙を度々くれました。
 あとで、船室に集まった皆が、ハワイでの収穫を話しあったとき、坂本さんが、ニヤニヤ笑いながら、ぼくとだぼ沙魚嬢のロオマンスを素ッ破抜きました。こんな巫山戯た話になると、みんなとても機嫌よく、森さんが、先ず、「ほう、大坂は、最近、大当りだな」とひやかせば、松山さん、「色男は違うな」と、大口開いて笑うし、虎さんは、「ドレドレ」とだぼはぜ嬢の写真をとって見ようとする。「俺にも貸せ」と梶さんが手を伸ばす。「待て、待て」と横から覗いていた沢村さんが怒る。あとは、ワアッと大笑いでした。
 あなたとの友情も、こんなに巫山戯半分で、皆と共々に笑える余裕があったなら、あんなに皆から憎まれず、また、ぼくも苦しい想いをしなくても、済んだ、と思います。

     十

 それまでは皆、ぼくを精々、嫉妬するくらいで、別に詰問するだけの根拠はなかったのですが、図らずも、ハワイで買った紅いセエム革の手帳が、それに役立つことになりました。
 ハワイを出て、海は荒れだしました。甲板に出ても、これまで群青に、輝いていた穏やかな海が、いまは暗緑色に膨れあがり、いちめんの白波が奔馬の霞のように、飛沫をあげ、荒れ狂うのをみるのは、なにか、胸塞る思いでした。船の針路を眺めると、二三間もあるような、大きなうねりが、屏風をおし立てたように、あとからあとから続いて来ます。
 さすが、巨きな汽船だけに、まア、リフトの昇降時にかんじる、不愉快さといった程のものでしたが、やはり甲板に出てくる人の数は少なく、喫煙室で、麻雀でもするか、コリントゲエムでもやっている連中が多かったのです。
 そういう時、ぼくは独り、甲板の手摺に凭れ、泡だった浪を、みつめているのが、何よりの快感でした。あなたとは、もう遊べませんでした。で、ぼくは、あなたとレエスのことばかり、空想していました。ボオトは、勝負はとにかく、全力を出し切らねばならない。全力を出し、クルウが遺憾なく、闘えたとします。そうしたら日本に帰って、あなたと堂々と結婚できると思う。
 そんな風に楽しい空想を描いているときでも、絶えず、先輩達の眼、周囲の口が、想われて、それがなにより厭でした。こうした悪意に対して、ぼくは、それを、じっと受け応えるだけで、精一杯でした。
 当時、ぼくは二十歳、たいへん理想に燃えていたものです。なによりも、貧しき人々を救いたいという非望を、愛していました。だから、その頃、なにか苦しい目にぶつかると、あの哀れな人達を思えと、自分に言いきかせて、頑張ったものです。
 それでいながら、例えば、舷側に沸きあがり、渦巻き、泡だっては消えてゆく、太平洋の水の透き徹る淡青さに、生命も要らぬ、と思う、はかない気持もあった。
 船室では、同室の沢村さん松山さんが、いないときが多かったので、いつでも、自分の上段の寝室にあがり、寝そべって、日記をつけていました。日記の書き出しには、こんなことが書いてありました。
※[#二重かっこ開く]ぼくはあのひとが好きでたまらない。この頃のぼくはひとりでいるときでも、なんでも、あのひとと一緒にいる気がしてならない。ぼくの呼吸も、ぼくの皮膚も、息づくのが、すでに、あのひとなしに考えられない。たえず、ぼくの血管のなかには、あのひとの血が流れているほど、いつも、あのひとはぼくの身近にいる。それでいて、ぼくはあのひとの指先にさえ触ったことはないのだ。むろん触りたくはない。触るとおもっただけで、体中の血が、凍るほど、厭らしい。なぜだか、はっきり言えないが。
 どこが好きかときかれたら、ぼくは困るだろう。それほど、ぼくはあのひとが好きだ。綺麗かときかれても、判らない、と答えるだろう。利巧かいといわれても、どうだか、としか返事できないだろう。気性が好きか、といわれても、さアとしか言えない、それ程、ぼくはあのひとについて、なんにも知らないし、知ろうとも、知りたいとも思わない。
 ただ、二人でよく故里鎌倉の浜辺をあるいている夢をみる。ふたりとも一言も喋りはしない。それでいて、黙々と寄り添って、歩いているだけで、お互いには、なにもかもが、すっかり解りきっているのだ。あたたかい白砂だ。なごやかな春の海だ。ぼくは、その海一杯に日射しをあびているように、そのときは暖かい。
 が目ざめてのち、ぼくはあのひとの幻だけとともに、まわりはつめたい鉄の壁にとりかこまれ漸く生きている気がする。
 ぼくみたいな男でも、かりにも日本の Delegation として戦うのだ。自分の全力の砕けるまで闘わなければ済まない。恋なぞ、という個人的な感情は、揚棄せよ。それが、義務だという声もきこえる。それより、ぼくも棄てたいと望んでいる。が、そう考えているときのぼくに、はや、あのひとの面影がつきそっている。あのひとが、そう一緒に望んでくれる、と思うのだ。
 これからのぼくは、一心に、あのひとを、どっかに蔵い込もう。日本に帰る日まで、一個人に立ち返れるまで、とこの言葉を呪文として、ぼくは、もう、あのひとの片影なりとも、心に描くまい※[#二重かっこ閉じ]
 そう書いた、次の日の日記に、
※[#二重かっこ開く]かにかくに杏の味のほろ苦く、舌にのこれる初恋のこと※[#二重かっこ閉じ]
 もっと、ここに書くのも気恥かしいほど、甘ったるい文句も書いてありました。で、ぼくは大切に、一々トランクの奥底にしまい込んでいたのです。
 ところが、ある日の午後、例によって、ベッドから、脚をぶらんぶらんさせ、トランクを台にして日記を書いていると、いま外に出たばかりの松山さんと沢村さんが、カッタアシャツ一枚で、ぬッと入って来ました。
 ぼくは、あなたのことを、感傷的な形容詞で一杯、書き散らしていたところですから、なにか照れ臭く、まごまごすると、慌てて手帳をベッドの上の網棚に、抛りあげ、そそくさ、部屋を出て行きました。
 二十分程してから、もういないだろうと、恐る恐る、扉をあけると、松山さんは、ぼくのトランクに腰をかけたままでしたが、沢村さんは、ぼくの顔を見るや、立ち上がって、なにかを、ぼくの寝台に抛りあげ、そのまま、下段の自分のベッドに転がり、松山さんと、意味ありげに顔を見合せ、ぼくのほうを振りかえります。
 ぼくは、ばつが悪く、再び扉をしめ、出ようとすると、沢村さんが、「おい、大坂」と呼びとめました。「え」といぶかるぼくに、「ああ、ぼくはあの女が好きでたまらない、か」と、ぼくの日記の一節を手痛く、叩きつけた。続いて、松山さんが、にこりともせず、怒ったような口調で、「あア、好きで好きでたまらない、か」と言いざま、二人とも、声のない嘲笑を、ぼくの胸にねじこむような眼付で、ぼくの顔をみながら、ドアをばたんと、乱暴に閉め、足音高く、出て行きました。
 ぼくはカアッとなり、屈辱の思いにひかれ、ベッドの上から、紅いセエム革の手帳を、鷲掴みにし、一気に、階段をとんであがり、誰もいない、Cデッキの蔭に行ってから、思いッきり手帳をとおくに投げつけました。
 手帳は、空中で風を受け、瞬間止まったようでしたが、ふっと吹き飛ばされると、もう、遥かの船腹におちていました。沸騰する飛沫に、翻弄され、そのまま碧い水底に沈んで行くかと思われましたが、不意と、ぽッかり赤い表紙が浮び、浮いたり、沈んだり、はては紅い一点となり、消えうせ、太平洋の藻屑となった。

     十一

 愚かにもその晩、ぼくはよく眠れませんでした。
 翌朝、いつもの様に、朝の駆足をやっているときです。あのときのオリムピック応援歌(揚げよ日の丸、緑の風に、響け君が代、黒潮越えて)その繰返しで、(光りだ、栄だ)と歌うべき処を、皆は、禿さんと蔭で呼んでいる黒井コオチャアヘのあてこすりから、(光りだ、禿だ)と歌うのです。ぼくは黒井さんが好きでしたし、その若禿の為に、許婚を失ったという、噂話もきかされているので、唱う気にはなれません。
 と号令が速足進めに変り、「一、二、一、二」と、黒井さんが調子を張り上げます。「四番、もっと手を振って」と注意され、ぼくは勢いよく腕を振り上げようとすると、可笑しなことに、手と足と一緒に動き、交互にならないのです。例えば、右脚をあげると、自然に右腕が上がって、左腕が上がらないのです。無理に、互い違いに動かそうとすると、手が上がらなくなるばかりではありません。歩けなくなるのです。
 その不恰好なざまは、忽ち、皆に発見され、どッと笑いものにされて了いました。
「頼むぜ、おい、女の尻追いかけるのもいいが、歩くのだけは一人前に歩いてくれよ」と森さん。「ボオトがろくに漕げもせんと思ったら、よう歩けもせんのか。それでもよう女だけ、出来るもんじゃ」と沢村さん。「貴様は、あまり女が好きだから、手も動かなくなるんじゃ。しっかり歩け。ぶち廻すぞ」と松山さん。「やれやれ、なんと無器用かなア」と東海さん。等々。
 ぼくは、自分の神経が病気なのを、はっきり感じました。なんの為に。紅いセエム革がちらつく気持でした。眩暈が起ればよかったのです。がぼくは、そのまま歩き続けました。その中、黒井さんも手の上がらないのを注意しなくなり、皆のぶツぶツ言うのも聞えなくなりました。
 その日は、バック台も棒引も、目茶苦茶でした。棒引はいつも、腕力のそう違わない沢村さんが相手なのに、その日は、力も段違いな松山さんが、前のバック台に坐り、「ほれっ、引いてみろ」と頑張り、木株のような腕を曲げ、鼻の穴を大きくして、睨みつけます。その瞳には、むしろ敵意さえ感じられました。ちょッと縄を緩めてからパッと引くと訳ないのですが、それをやると、ひどく皆から怒られ、何遍でも遣りなおしです。黒井さんが、「もう好い」と言うまで、ぼくは油汗をだらだら流しづめでした。
 晩になって、B甲板の捲揚台のまわりに、皆が集まっているので、行ってみると、腕角力の最中でした。初め、KOの八郎さんと、十九歳の美少年上原――彼はぼく同様新人ですが、商工部のときから漕いでいるし、ボオトも上手で、皆から愛されていました。――の二人がやって、八郎さんが負けると、「うん、上原はなかなか強い。俺とやろう」と松山さんが節くれだった毛深い腕を出します。「いやア」と上原も顔負けしながら、やっていると、やはり、問題ではなく、松山さんが強い。
 松山さんは機嫌よく、上原を賞めていましたが、ぼくと視線が合うと、忽ち、不機嫌な顔付になって、「おい、大坂、上原とやってみい。お前の方が一ツ歳上じゃないか」ときめつけます。ぼくは今朝以来、自信が、少しもないので、「いや、上原君のほうが強いですよ」とべそかき笑いをしますと、「ばか、貴様は、女の尻に喰いつくだけが、得意なんだな」と罵り、豪傑笑いしてから、上原なんかと行ってしまいました。
 周囲には、女の選手達、殊にちびの中村さんも居ましたので、ぼくは完全に度を失い、立ち去ろうとすると、中村さんが、少女らしく、傍にいる七番の坂本さんに、「ぼんちは身体が大きいけれど、弱いの」と訊ねます。坂本さんは、ぼくをからかうように、「大坂は温和しいもんな」と笑います。すると隣にいた沢村さんが、大きな声で、「青大将なのよ」とぼくのいちばん嫌う綽名を呼んでから、気持よさそうに笑い出しました。「まあ、青大将」誰か、女のひとが、そう言って、くすッと笑うのに、羞恥で消え入りそうになりながら、ぼくは漸く、そこから逃げ出したのです。
 ひとりで、暗い海を暫くみてから、寝に帰ろうと、喫煙室のなかを通り抜けていると、一隅で沢村、森、松山、東海さん達が、麻雀をやっていましたが、「おい、おい」と河村さんが、ぼくを呼びとめます。
 どうせまた、嘲弄されるとおもいましたが、知らん振りもできないので、近よると、「おい、さっき中村がお前のことを、ボンチと呼んでいたが、あれはお前の綽名か」とききます。「さアどうですか」と白ばっくれるのに、「どういう意味か、知ってるか」とニヤニヤ皆と目くばせしてから、尋ねます。関西弁で、坊ちゃんという事じゃないですか、と正直に答えようと思いましたが、また反感を買ってもと思い、「知りません」と些かくすぐつたい返事をすると、横から、東海さんが、大声で、「あれは関西で、白痴のことを言うんだよ」と言えば、沢村さんも、「そうとも、ボンチはつまりポンチと同じことじゃ。阿呆のことをいうんだぞ」と大笑い。と、森さんが、したり顔で、「ああ、それで解った。女の選手達が、大坂のことをボンチとか、ボンボンとか呼んでいるのは、そういう意味か」と、言えば、松山さんも荒々しく、「大坂よ、お前は惚れている女から、いつも馬鹿と呼ばれているんだぞ」と罵り、そこで皆から、ひとしきり嘲笑の雨。
 ぼくは、しばしポカンとしていましたが、堪え切れなくなると、「そうですか」と一言。泣きッ面をみられないようにまた暗い甲板に。
 靄の深い晩なので、Aデッキから、ボオト・デッキに上がり、誰にも見られず、索具の蔭で悲しもうと、近づいて行くと、向うから、靴音がきこえて来た。
 やがて、靄の底から、ぼんやり現われたのは、立派な白髯を生した、紅毛のお爺さんでした。ぼくのしょんぼりした姿をみると、にこにこ笑いながら「How do you do?」と太い声できく。外人と話し合うのは初めてでしたが、先方の好意が感ぜられて嬉しく、「Thank you, Sir. I'm very well,」と、サアをつけました。「That's good.」と、お爺さんは、重々しくうなずいて、「Are you a delegation of Japanese Olympic Team?」と尋ねます。「Yes, I am.」と言ってから、ニッコリ笑ってしまいました。すると、「What's team?」と訊いたような気がするので、「Boat Crew.」と答えますと、「What's?」と小首を傾けます。おや、間違ったかなと想い、出来るだけ叮嚀に、「Please say once more.」と頼むと、からから笑い、サッカアと蹴る真似をしたり、ボクシング、と撲る真似をします。やはりそうかと、朗らかになり、「I am a oarsman Rowing.」と漕ぐ恰好をすると、大袈裟な身振りで、「Oh! I see. It's really splendid!」とぼくの肩を叩いてから、顔を覗き込み、「What's the matter with you?」と気づかってくれる様です。こうなれば、なんでも叮嚀に言うに限ると思いましたから、「Thank you, Sir. Never mind, please. I am very glad to see you. How a lovely night!」とか、こんな靄の深い、厭な晩なのも忘れ、お世辞をいいました。と、お爺さんは、またアッハーと笑い、「I think so, too.」と答えると、「O.K.boy, good night.」と笑い続け去って行きます。
 暫く、靴音が遠くなってから、とても若々しいハミングが、フウフウフフン、ウフフフフンとか聴えて来ました。いつか佐藤が、食堂で、亜米利加人のハミングの真似をして、事務員に叱られた事を思い出し、ぼくの出鱈目英語も可笑しく、ぼくはプウと噴き出すと、すっかり気分がよくなって、寝に帰ったのです。
 しかし、翌日も、またその次の日も同じような皆の悪意が露骨で、病的になったぼくの神経をずたずたに切り苛なみます。あなたに、逢えないまま、海の荒れる日が、桑港に着くまで、続きました。

     十二

 ぼくは、もう日本に帰る迄、あなたとは口を利くまいと、かたく心に誓ったのです。日本を離れるに随って、日本が好きになるとは、誰しもが言う処です。幼いマルキストであったぼくですが、――ハワイを過ぎ、桑港も近くなると、今更のように、自分は日本選手だ、という気持を感じて来ました。
 その頃、ぼくは、人知れず、閑さえあれば、バック台を引いて、練習をしていました。ようやく静まってきた波のうねりをみながら、一望千里、涯しない大洋の碧さに、甘い少年の感傷を注いで、スライドの滑る音をきいていたのも、忘れられぬ思い出であります。
 船が桑港に入る前夜、ぼくは日本を発つとき、学校の先生から頼まれた、羅府にいる先生の親戚への贈物、女の着物の始末に困って、副監督のM氏に相談しました。M氏は、それを誰か女の選手に、彼女の持物として、預かって貰えと言います。浅ましい話ですが、ぼくはそれをきくと、眼の色が変るほど、興奮しました。あなたに預かって貰えたら、と思ったのです。口を利かずともどんな形にでも、あなたと繋がっているものが欲しかった。ぼくは、その着物に潜ませる、恋文のことなど考えて、その夜も、また眠れませんでした。
 もう二時間程で、桑港に入るという午後、ぼくは、M氏から、誰という名前はきかず、その着物を預かって貰えるからとの話で、着物をお願いしました。
 がっかりすると言うより、ぼんやりして、海を見ていると、舵手の清さんがやって来て、肩を叩きます。「どうしたんだい、坂本さん」微笑んでいる清さんは、本当に、ぼくを気遣ってくれるのでしょう。「いや、別に」とぼくは、だらしなく悄気た声を出しました。「ばかに、元気がないじゃないか」「ええ」とうなずいて、清さんの顔をみていると、このひとに、なにもかにも打明けたら、さっぱりするだろうという、気がふッと致しました。
 と、清さんは、急に真顔になって、「坂本さん。ちょッと話があるんだ。来てくれませんか」と先に立ち、上甲板に登って行きます。ああ、そのことかと、胸にギクリ来ましたが、結局、言われたほうが、楽になると思い、ついて行くと、ボオト・デッキから更に階段をあがり、船の頂上、プウルのある甲板にでました。方二間位のプウルには、青々と水が湛えられ、船の動揺にしたがって、揺れています。周囲にベンチが二つ、置かれてあるだけの狭い甲板です。「まア、掛けましょう」といわれ、並んで腰を降ろしたまま、しばらく沈黙が続きました。もう港が近いとみえ、鴎が遥か下の海上を飛んでいるのが見えます。
「少し、話し悪いことなんですが――」と前置きをして、清さんは切り出しました。「実は、あんたのことで、変な噂があるのを前からきいていましたが、坂本さんに限って、そんな莫迦はしないと、ぼくはいつも打消していました。
 ところが、この頃、あんまり、森さんや、松山さん達が、心配するんでね、ぼくも、もう米国に着いたことだし、ここで、坂本さんにしっかりして貰えなきゃ困るんで、今日、改まって、訊く訳ですが、一体、あの噂は、何処ら辺までが本当なんです」
 ぼくも、こんな風に言われると、やはり、自分の精神的な、苦悩は大切に蔵っておきたく、それとはあべこべに、あなたとの楽しかった遊びが、次から次へと、走馬燈のように想い出され、清さんのそれからの御意見も、いつしか空吹く風と、きき流したくなりました。と、不意に、(意見せられて、さし俯向いて――)という、おけさの一節が、頭に浮びました。(泣いていながら主のこと)なにか訴えるものが欲しかった。自然よ! と眼をあげた刹那、映じた風景は、むろん異国的ではありながら、その癖、未生前とでもいいますか、どこかで一回は眺めたことがあるという感懐が、肉体を痺れさせるほど、強くおそいました。
 みよ、この時、髣髴と迫ってくるものは、水天青一色、からりと晴れ、さわやかに碧い、みじんも湿りッ気を含まぬ、おおらかな空気のなかに、真ッ白い国が浮びあがってくる。夢のような美しさだ。夢がこれほど実感を伴って、みえたことはないというのは、オリムピックを通じての感想ではありましたが、それをこの時ほど、如実に感じたことはありません。
 白い国! 蜃気楼もかくや、――など陳腐な形容ですが、事実、ぼくは蜃気楼をみた想いでした。背後には、青空をくっきりと劃した、峰々の紫紺の山肌、手前には、油のようにとろりと静かな港の水、その間に、整然とたち並んだ、白いビルディング、ビルディング、ビルディング。それがいかにも、摩天楼という名にふさわしく、空も山も、為にちいさくみえる豪華さです。その頭上に、七月の太陽が、カアッと一面に反射して、すべては絢爛と光り輝き、明るさと眩しさに息づいているのです。ぼく達の大洋丸は、悠々と、海を圧して、碇泊中の汽船、軍艦の間を縫い、白い鴎に守られつつ、進んで行きます。
 しかし、実のところ、ぼくは鴎も船も港も山も、なに一つ覚えてはおりません。只、青い海に浮んだ白い大都市が、燦然と、迫ってきた、あの感じが、いつもぼくに、ある永劫のものへの旅を誘います。金門湾、桑港! と、ぼくは、昔なつかしい名を口にして、そのときも、今、聞かされている意見より、もっと、悠久なものについて考えていました。清さんも、同じ種類の感動に襲われたのか、ぼくに、「ほら、もう桑港じゃないか。元気をだしなよ」と肩を叩いて話を打ちきり、二人はしばし、唇を噤み、じっと、この新しい大陸をみつめていました。

     十三

 税関の検査も、愛想の好い税関吏達の笑いの中に済んで、上陸したぼく達の前には、ただ WELCOME の旗の波と、群集の歓呼の声が充ち満ちていました。市長さんから、大きな金の鍵を頂くまでの市中行進も、夢のような眩惑さに溢れたものでしたが、そのうち、忘れられぬ一つの現実的な風景がありました。
 桑港の日当りの好い丘の下に、ぼく達を迎えて熱狂する邦人の一群があり、その中に、一人ぽつねんと、佇んでいる男がいた。潰れた鼻に、歪つな耳、一目でボクサアと判る、その男は、あまりにも、みすぼらしい風体と、うつろな瞳をしていました。
 一行中の朴拳闘選手が、この男をみるなり、「金徳一だ!」と叫び、駆けよって手を握っていましたが、その男の表情は、依然、白痴に近いものでした。金徳一は、知る人ぞ知る、先のバンタム級の世界ベストテンに数えられた名選手でした。リングでの負傷が祟って落ち目が続き、帰国の旅費もないとやら。ぼくは、絢爛たる、あの行進の最中、彼の幻が、暗示するものを、打消すことが出来なかったのです。
 桑港の夜、船から降りたった波止場の端れに、ガアドがあって、その上に、冷たく懸っていた、小さく、まん円い月も忘れられません。斜め下には、教会堂の尖塔も鋭く、空に、つき刺さって、この通俗的な抒情画を、更に、完璧なものにしていました。
 月の色が、どこで、どんなときにみても、変らないというのは、人間にとって、甚だもの悲しいことです。
 黄色タクシイの運転手に、インチキ英語を使って、とんでもない支那街に、連れこまれたことも、市場通りで、一本五十仙也の赤ネクタイを買ったことも、今は懐しい思い出のひとつです。
 しかし、その夜、フォックス劇場できいた『君が代』の荘厳さは、なお耳底にのこる、深刻なものがありました。シュウマンハインクとかいう、とても肥ったお婆さんで、世界的な歌手が、我々が入場して行くと、日の丸の旗と、星条旗を両手に持ち、歌ってくれたのです。満場の視線が、明るいライトを浴びた我々に集まり、むずかゆい様な面映ゆさでした。が、その明るい光線を横ぎって、身体をすぼめ、腰を降ろした、あなたの黒い影が、焼きつくように、ぼくの網膜に残っていました。あなたは、随分、窶れていた。
 翌日、南加大学で、艇を借りられるとのことで、練習に行きました。金門湾を廻って、オオクランドに出て、一路坦々、沿道の風光は明媚そのものでした。鵞鳥が遊ぶ碧い湖、羊の群れる緑の草原、赤い屋根、白い家々。大学もそんなユウトピアの中にあります。
 艇を借りるとき、世話を焼いてくれた、親切な南加大学の補欠漕手の上背も、六尺八寸はあり、驚かされたことでした。
 練習コオスは流れる淀み、オォルがねばる、気持よさです。久し振りに、はりきった、清さんの号令で、艇は船台を離れ、下流に向いました。
 と、突然、漕ぎすぎようとする橋の上に、群れていた観衆が、なつかしい母国語で、「万歳」を叫んでくれます。みれば、顔の黄色い、日本人ばかり。おおかた、聞き伝えて、近在から寄り集まった移民のお百姓達でありましょう。質素な服装、日に焼けた顔、その熱狂ぶりも烈しくて、彼等の朴訥な歓迎には、心打たれるものがありました。
 ぼくは、愈々、あなたを忘れねば、と繰返し、オォルに力を入れて、スライドを蹴っていたときです。前のシイトの松山さんが、「止めい、止めろ」と叫びざま、オォルを投げだすや、振返って、ぼくを睨めつけ、「貴様、一人で、バランスを毀していやがる。そんなに女が気になるか」ぼくには一言もない怒罵でした。森さんがまた、「大坂、貴様これからあの女と口を利くな。顔もみるな。少しは考えろ」と喙を入れるのに松山さんが続けて、「貴様の為にクルウの調子が狂って、もし、負けたら、手足の折れるまで、撲りたおすから、そう思え」それから、なんと叱られたか忘れました。ただ、河口に並んだ蒸汽船の林立する煙突から、吐く煙が、濛々と、夕焼け空を暗くしていたのを、なんとなく憶えています。

 翌日、スタンフォド大学に、全米陸上競技大会を、見学に行きました。
 熊や鹿が棲むという、幽邃な金門公園を抜けて、乗っていたロオルスロオイスが、時速九十粁で一時間とばしても変化のないような、青草と、羊群のつづく、幾つもの大牧場を通って――途中でだいぶ自動車を停めた露骨なランデェブウにもお目にかかりました。――厭だった。――そしてスタンフォドに着いたら、大学の森中、数千台の自動車で埋っている人出でした。
 スタンドで、あなたの水色のベレエ帽が、眼の前にあった。それだけを憶えています。競技はろくに憶えていません。ただ、赤いユニホォムを着た、でぶの爺さんが、米国一流のハムマア投げ、と、きかされ、もの珍しく、眺めていたのだけ記憶にあります。
 そのうち、隣席にいた、副監督のM氏が、ぼくに、御愛用の時価千円ほどのコダックを渡して便所に行ったそうです。そうです、というのは、それほど、その時のぼくの頭には、あなたの水色のベレエが、いっぱいに詰っていたのです。あなたの盗み見た横顔は、苦悩と疲労のあとが、ありありとしていて、いかにも醜く、ぼくは眼を塞ぎたい想いでした。

 船に帰って、ピンポンをしていると、M氏が来て「坂本君、コダックは」と訊きます。愕然、ぼくは脳天を金槌でなぐられた気がしました。預かった憶えは、ないと言えばよかったのですが、言われた途端、ハッとしたものがあって、――卑劣なぼくは、「村川君に、じゃなかったのですか」と苦し紛れに嘘を吐きました。M氏は、「そうだったかな」と気軽く言い、小首を捻りながら、村川を捜しに行きましたが、ぼくは、居たたまれず、船室に駆けこみ、頭を押えて、七転八倒の苦しみでした。
 お金持のM氏は、誰に預けたかを、そのまま追求もせず、諦めておられたようですが、ぼくは良心の苛責に、堪えられず、あなたへの愛情へ、ある影を、ずっと落すようになりだしました。
 それから、ぼくの眼は、あなたを追わなくなりました。しかし、心は。

     十四

 ロスアンゼルスヘの外港、サンピイドロの海は、巨艦サラトガ、ミシシッピイ等の船腹を銀色に光らせ、いぶし銀のように燻んでいました。曇天の故もあって、海も街も、重苦しい感じでした。
 ぼく達は、ロングビイチの近くにある、フォオド工場の提供してくれた、V8の新車八台に分乗して、工場の見学後、ロングビイチの合宿に着きました。
 日本人のコックさんが、広島弁丸出しの奥さんと一緒に、すぐ、久し振りの味噌汁で、昼飯をくわしてくれました。娘の花子さんは十五歳でしたか、豊頬黒瞳、まめまめしく、ぼく達の汚れ物の洗濯などしてくれる、可愛らしさでした。
 翌日、マリンスタジアムに練習始め。ぼく達よりも、近所の邦人の方々が、張り切って、自家用車で、練習場まで、送って下さるやら、スタンドに陣取って声援して下さるやら、それよりも騒いでくれたのが、隣近所のメリケン・ボオイズ、ガアルズ達で、映画のアワア・ギャングもかくや、と思われる顔触れが、脱衣場にまで、入りこんで、パンツの世話まで、手伝ってくれるのには顔負けでした。
 コオスは掘割になっていて、流れは殆どありません。大体、二千米の長さしかなく、なんども、往復して練習をしました。すでに、ブラジル、英国、独逸、カナダ等、各国の選手達は集まっていて、彼等の大きな身体には、平均五尺八寸、十六貫六百のぼく達も、子供のように見えるほどでした。
 それに、彼等が奥さんや、恋人御同伴なのも、すぐ眼につきました。
 しかし、ぼく達も、隅田川での恋人、「さくら」が、一足先きに艇庫に納まり、各国の競艇のなかに、一際、優美な肢体を艶やかに光らせているのをみたときは、なんともいえぬ、嬉しさで、彼女のお腹を、ペたペたと愛撫したものです。

 ある国の選手達は、ロングビイチの海水浴場に入りびたり、ビイチ・パラソルの蔭に、いかがわしい娘たちと、おおっぴらな抱擁をしていたのを、見たこともあります。練習場の入口におしよせる観衆のなかから、唇と頬の真ッ紅な、職業女を呼びだして、近くの芝生でいちゃついていた、外国の選手達もみました。
 微笑ましかったのは、米国のスカアル選手のダグラスさん、六尺八寸はあろうと思われる長身巨躯が軽々と、左手にスカアル、右手に、美しい奥さんを抱いて、艇庫から、船台まで運び、そこで別れの接吻などしてから、お互いに、片手をあげては、スカアルの小さくなるまで、合図を交していました。
 独逸クルウの誰かの愛人とみえる、一人のゲルマン娘は、いつも毅然としていて、練習時間には、慎ましく、ひとり日蔭椅子に坐り、編物か、読書に耽っていて、その端麗な姿にも、心打たれるものがありました。
 然し、ぼく達は、向うの新聞に、オォバアワアクであると、批評されたほど、傍目もふらずに練習を重ねるのでした。外国のクルウが、一、二回コオスを引いて、一日の練習を終るのに、ぼく達は午前中に四回、午後に四回とコオスを引き、それでも、隅田川にいた頃に較べれば、軽すぎるほどでした。タイムは、それにも拘らず、遊んでいるような外国クルウに比し、全然、劣っておりましたが、ぼく達は、努力しすぎて負けることを、少しも恥とせぬ潔い気持でした。ぼくも今は、ただ、ボオトを漕ぐことだけに夢中になれたのでした。

 練習帰りのある日。いつもの様に、独りとぼとぼ、歩いていると、背後から、飛ばしてきた古色蒼然たるロオドスタアがキキキキ……と止って、なかから、噛み煙草を吐きだし、禿頭をつきだし、容貌魁偉な爺さんが、「ヘロオ、ボオイ」と嗄れた声で、呼びかけ、どぎまぎしているぼくを、自動車に乗れ、と薦めるのです。遠慮なく、乗せて貰うと、目貫きの通りにドライブしながら、ぼくの胸にさした日の丸のバッジを見詰め、「俺は日本が好きだ。若いとき、船乗りだったから、横浜や、神戸に、度々行ったよ。ゲイシャガアルは素晴しいね」とか言い、皺くちゃの顔いっぱいに、歯の疎らな口を開け、笑ってみせます。とうとう、煙草の脂臭い鼻息に閉口しながらも、親切な爺さんの怪し気な日本回想記をきかされ、途中でアイスクリイムまで奢って貰い、合宿まで送り届けられたのでした。
 こうして、ぼくはあなたのことを忘れ、只管、練習に精根を打ちこんでいた頃、日本から、初めての書簡に、接しました。
 合宿前の日当りの好い芝生に、皆は、円く坐って、黒井さんが読みあげる、封筒の宛名に「ホラ、彼女からだ」とか一々、騒ぎたてていました。東海さんの処へは、横浜で、テエプを交した女学生七人から、連名のファン・レタアも来たりしました。松山さんにも、シャ・ノアルの女給さんから、便りがあり、皆に冷かされて、嬉しそうでした。
 その中、ぼくの名前でも一通、「おや、これは日本からとは違うぞ」とぼくを見た、黒井さんの眼が、心なしか、光った気がしました。と、坂本さんが、ぼくの肩を叩き、「秋子ちゃんからじゃないか」と笑いながら、言います。皆の顔が、一瞬、憎悪に歪んだような気がしました。我慢できないような厭らしい沈黙のなかで、ぼくは手紙を受取ると、そのまま、宿舎に入り、便所に飛びこんで、鍵を降しました。
 風呂場と兼用になっている、その部屋で、ぼくは冷っこい便器に、腰を掛けると、封筒を裏返してみました。ただ、K生より、となっています。ぼくはてっきり、あなたからだと信じこみ、胸躍らせ、封を切る手も、震わせ、読み下して行くと、なんだ、がっかりしました。と言っては悪いでしょう。船で知り合った、中学の先輩、Kさんからの親切な激励状だったのです。再び、表の芝生にでた、ぼくの顔は蒼褪めていたかも知れません。坂本さんから、また、「大坂、顔色変ったね」とひやかされました。
 二三日経って、午後の練習を終え、ヘンリイ山本君の運転する、ロオドスタアの踏段に足を載せ、合宿まで、帰ってくると、庭前の芝生に、花やかな色彩を溢れさせた、女子選手の人達が、五六人、来ていて、先に帰ったクルウの連中に、囲まれ、喋り合っているのが、ハッと眼につきました。ぼくは、もう、途端に、自動車から、飛び降りたい位、気持が顛倒しました。
 しかし、直ぐ、あなたの来ていないのに気づくと、笑いかける内田さん、中村嬢の顔にも答えず、真ッ赧な顔をして、そのまま宿舎にとび込みました、と、後ろから、花やいだ笑い声が、追い駆けてきて、「ぼんち、秋っペがいないんで、腐ってるのね」確か、中村嬢の声でした。続いて東海さんの低音が、小声でなにか言っています。また、なにかぼくの蔭口ではないかと、焦々している耳に、内田さんの声が、「熊本さん、この頃、とても、しょげているのよ。可哀そうよ」「ぼんちのことで」と誰か女のひとが、訊き返している様でした。ぼくは耳を塞ぎ、声を大にして、「煩さいッ」とでも、怒鳴りつけてやりたかった。続いて、聞えてきたのは、太い調子のひそひそ声で、なにか陰険な悪口か、猥褻な批判らしく、無遠慮に響いてくる高らかな皆の笑い声と共に、ぼくは又、すっかり悄気てしまったのです。
 女の人達が帰ってから、ぼくの狸寝をしている部屋に、松山さんと、沢村さんが入って来ました。松山さんは、殊の他、御機嫌で、「村の祭が、取り持つ緑で――」という、卑俗な歌を、口ずさんでいましたが、ぼくの寝姿をみるなり、「オリムピックが取り持つ縁で、嬉しい秋ちゃんとの仲になり」と歌いかえてから、沢村さんと顔見合せ、ゲラゲラ笑いだしました。ぼくは、不愉快そのもののような気持で、ベッドに引繰り返ったまま、眼を閉じていると、松山さんは、なおも、手近にあった通俗雑誌を手にとり、ぼくの横にわざと、ごろりと寝て、いかにも精力的らしい体臭をぷんぷんさせながら、雑誌をめくり、適当な恋愛小説をみつけると、その一節を、こんな風に読みかえて、ぼくを嘲弄しようとしました。
「そう言うと、熊本秋子は、坂本の胸に深く顔をうずめた。その白いうなじに、坂本は接吻したい誘惑を烈しく感じたが、二人の純潔のために、それをも差し控えて、右の手を伸ばし、豊穣な彼女の肉体を初めて抱きしめたのである」
 ぼくは泣きだしたい気持でした。松山さんはなおも、厭らしく女の声色も使って、「『いやですわ。いやですわ』と秋子は叫びながら、坂本の胸を両手でおしつけた。秋子の薫るような呼吸が感ぜられ、坂本は悩ましいほど幸福な気がした。
『今ではいけないのでしょうか』
『いいえ、日本にお帰りになってから』」
 あえて、ぼくは神聖な愛情とは呼びません。しかし、子供めいたお互いの友情を、そんなふうに歪曲して弄ばれることは、我慢できない腹立たしさでした。

     十五

 翌日、練習休みで、近くのゴルフリンクヘ一同でピクニックに行きました。
 前夜、眠られぬ頭は重く、涯しないみどりの芝生に、初夏の陽の燦然たる風景も、眼に痛いおもいでした。
 東海さんが、顔馴染のフォオド会社の肥った紳士に、ゴルフを教えてもらい、なんども空振りをして、地面を叩く恰好を面白がって、みんな笑い崩れていましたが、ぼくにはつまらなかった。
 みんな、写真機を買いたてで、ぼくも金十八弗也のイイストマンを大切に抱えていましたが、なにを写す元気もなく、ぼんやりしている処を、あべこべに何度も写されたりしました。
 結局、朝から夕方まで、ぼんやり坐ったり歩いたりしただけで、帰ってきました。帰ってからポケットにふと、手を入れると、全財産百五十弗ばかりを入れた蟇口がありません。
 ぼくは忽ち逆上して、身体中や其処らを探しまわった揚句の果は、恐らく、ゴルフ場で落したに相違ないときめてしまいました。百五十弗は、当時の為替率で、四百五十円位にあたります。素人下宿をして働いている、母の粒々辛苦の金とおもえば居ても立ってもおられず、明朝、未だ皆の起きないうちに抜けだし、ゴルフ場まで探しに行こうと思いました。
 翌朝、未明に合宿を出ると、すぐ表で、ぱったり出逢ったのは、近所の、小さい友達で、リンキイ君、ぼく達がリンカアンと綽名をつけた少年でした。ぼくをみると、鳶色の瞳を輝かせ、「どうしたの」と可愛い声で叫びます。十歳位の少年ですが、ぼくとは気が合って、彼の家にも引張って行かれ、二間位のせせこましい家に、いっぱいに置かれたオルガンで、下手糞なスワニイ河をきかされたり、やさしいお母さんにも紹介して貰いお茶を頂いたり、または彼氏自慢の映画スタアのサイン入りのブロマイドを何枚となく、貰ったことがあります。
 その朝、ぼくの様子が気になるのか、彼氏はまた仕草で、ぼくの肩を叩き、「なんでも打明けてくれ」というのです。「金をおとした」と答えると「いくら」と訊き、金額を話すと「オウ」と眉を顰めたり、肩をすぼめたり、おおげさに愕いてみせ、一緒に捜しに行く、といいはってきかないのです。
 とうとう、二粁もあるゴルフ場まで、ついて来て、朝露に濡れた芝生の上を、口笛吹き吹き、探してくれました。ぼくは勿論、一生懸命で、隅から隅まで、草の根を押しわけて探してみましたが、処々に遺っているコカコラの空瓶、チュウインガムの食滓などのほかには、水滴をつづった青草が、どこまでも意地悪く、羅列しているばかりです。
 大体、前の日、歩いた記憶を辿り、さがしてみたのですが、一通り歩いても、どうしてもありません。リンキイ君が、五仙玉をひとつ拾っただけで、「チェッ」と舌打ち諸共、銀貨を空に抛りあげ、意気なスタイルをみせてくれただけの事でした。
 歩きつかれ、探しつかれて、帰ってくると、みんな朝飯を食いに食堂に行った後のがらんとした寝室を、コックの小母さんが、掃除していましたが、ぼくをみるなり「坂本さん。これあんたんじゃろう。随分、あんたを探していたのよ」と差出してくれたのは、失くしたとばかり、思っていた蟇口です。ぼくのベッドの下に落ちていたそうで、この様子をぼくについて来て、ぼんやりみていた Mr. Lincoln いきなりぼくの手を握りしめ「ありがと。ありがと」と打振ります。ぼくには、少年の親切が、身に染みて嬉しかった。
 これは後の話ですが、ぼく達が帰国する日も迫った頃、ぼくは日本への土産に、自動車のナムバア・プレェトが欲しく、それをこのリンキイに頼みますと、その日、子供に借りた自転車で、附近を乗り廻していたぼくの瞳に、道路の真中で、五六人の少年少女が集まり、リンキイが先に立って、なに事か、一心不乱に、働いているのがみえました。
 近よってみると、まだ新しいナムバア・プレェトが、アスファルト路の欠けた処を塞ぐために釘づけにしてあるのを、子供達が、各自家から持出した、金槌、やっとこの類で、取りはずすのに、大童でした。勿論、警官にみつかれば、叱られるのでしょうが、このアワア・ギャング達は、おめず臆せず、堂々と取ってのけ、その場で、ぼくにくれるのでした。
 また、帰国が近づいた頃、うす汚い、真鍮のロケットをぼくにくれた、カアペンタアという八つ位のお嬢さんも、ぼくと仲が善く、再々、彼女の宅にも引張って行かれました。その娘のお母さんは、すこし眼に険のある美人でしたが、恐しく早口で捲舌に喋るので、なにを言うやら、さっぱり判らず、いつもぼくは面喰いました。帰国のとき、ぼくは、この少女に、持って行った浴衣を、一枚上げたところ、早速、その別嬪のお母さんが着て、見送りに出ていたのには、苦笑させられたものです。

     十六

 練習が終り、みんな、素ッ裸で、シャワルウムに飛びこみ、頭から、ザアザアお湯を浴びているうち、一人が、当時の流行歌(マドロスの恋)を※[#二重かっこ開く]赤い夕陽の海に、歌うは、恋のうウた※[#二重かっこ閉じ]と歌いだし、皆で、賑やかに合唱していると、直ぐ隣の部屋から、太いバスの仏蘭西語が※[#二重かっこ開く]セネ、カル、シャントプウ、アキタルポウ※[#二重かっこ閉じ]と同じ歌を、突然、謡いだしたのには、驚きもしましたが、嬉しくもなって、皆一緒に、両国語の合唱が始まったのでした。
 それは、仏蘭西の選手達でしたが、他に、独逸の選手達も、ずいぶん気持の好い連中で、ぼく達と顔を合せるたびに、直ぐ「オハヨオ」と愛嬌たっぷりに、日本語で挨拶してくれます。それが、朝、昼、夕方おかまいなしなのも嬉しく、ぼく達も「グウテンモルゲン」で一日中、間に合せます。
 伊太利の選手達は、みんな、船乗り上がりかなにからしく、腕や肩に刺青をみせていましたが、人柄は、たいへん、あっさりしていて気持よく、いつぞやぼくと東海さんと連れだって、彼等が女の子達と遊んでいる芝生を通りかかると、「ヘエイ、ボオイズ」とか、変なアクセントの英語で呼びとめ、ぼく達と肩を組み、写真を撮ってくれました。連中のうちで、コオルマン髭を生した色男が真中になり、アメリカ娘が、両脇で、カメラに入りましたが、あとで出来上がったのをみたら、ぼくの鼻がずいぶん低く、厭だった。
 しかし、この人達も、短い練習の時間だけは、非常に真摯に、熱心で、漕法は、英国の剣橋大学を除いては、皆、レカバリイが少ないのが、目につきました。日本流の漕法では、※[#二重かっこ開く]ボオトは気で漕げ腹で漕げ※[#二重かっこ閉じ]というのですが、彼等は腕と脚とだけで猛烈に漕ぎ、ピッチも五十前後まで楽に上がる様でした。
 殊に、米国代表南加大学(金色熊)クルウが、ロングビイチに姿を現わしたのは、開会式の二三日前でしたが、彼等の漕法は、殆ど、体を使わないで、ぼく等よりもオォルのスペイスがあり、一糸乱れず、脚のリズムで、スタアトからゴオル迄、一貫したスパアトで持って入り、しかも、毫も、調子が変っていないのには、感心させられました。
 どんな練習にも、全力をあげ、精も根も使い果し、ゴオルに入って「イジョオル(Easyoar)」がかかると、バタバタ倒れてしまう日本選手の猛練習振りは、彼等には、全然、非科学的にみえるようでした。(A crew of Coxswains.)とぼく達は彼地の新聞に、一言で、かたづけられていたものです。
 総ゆる人種からなる、十三万人の観衆に包まれた開会式は、南カルホルニアの晴れ渡った群青の空に、数百羽の白鳩をはなち、その白い影が点々と、碧玻璃のような空に消えて行く頃、炎々と燃えあがった塔上の聖火に、おなじく塔上の聖火に立った七人の喇叭手が、厳かに吹奏する嚠喨たる喇叭の音、その余韻も未だ消えない中、荘重に聖歌を合唱し始めた、スタンドに立ち並ぶ三千人の白衣の合唱団、その歌声に始まって行ったのでした。
 ぼくは、その風景を、男子の本懐だと、感動して、眺めていた。殊に、あの日、塔上に仰いだ万国旗のなかの、日の丸の、きわだった美しさは、幼いマルキストではあったぼくですが、にじむような美しさで、瞳にのこりました。身体がふるえる程、それは強烈な印象でした。
 大きな声ではいえぬことです。その日、フウバア大統領の前を、颯爽と、分列行進をしていった女子選手達のうちに、あなたのりりしい晴れ姿をちらっと垣間見ました。はるかな美しさで、ぼくは、そッと、瞼のうちに、蔵っておいた。

     十七

 オリムピックのなかでも、青リボンと呼ばれる、壮麗なレガッタのなかで、ぼくには、負けて仰いだ、南カルホルニアの無為にして青い空ほど、象徴的に思われたものはありません。

 スタアトラインに並んで「ムッシュ。エティオプレ」「パルテ」という出発の号音を聞いたときは、ただ漕いだ。並んだ、剣橋クルウのオォルの泡が、スタアト・ダッシュ、力漕三十本の終らないうちに、段々、小さくなり、はては消えてゆく。敵の身体がみえていたのは、本当に、スタアト、五六本の間で、忽ち、グイグイッとなにかに引張られているような、強烈な引きで彼等の身体は、ぼくの眼の前から、消えてゆき、あとには、山のように盛りあがった白い水泡がくるくる廻りながら、残っている。それも束の間、薄青い渦紋にかわり、消えてしまった。しかし、ぼく達は、相手のない、不敵さで、ただ、漕いだ。
 あとで、みていた人達は、もう千米あったなら、日本クルウは、英国を抜いていたかも知れない、と言ったそうです。それほど、ゴオルでは、へたばっていながらも、気魄では、敵を追っていたらしい。四艇身半の開きも、僅かにみえるほど、日本人の気魄は、彼等を追い詰めていたのでしょうか。ゴオル直前で、ブラジル・クルウを三艇身、打っ棄って、伊太利に肉迫した、必死の力漕には、凄まじいものあり、すでに、英伊二艘とも、ゴオルに着いているだけ、外国人は、無駄な努力に必死な、ぼく達を呆れてみていたらしい。最後のスパアト五百米では、日本のクルウは、身体の動きこそ、ちぢまれ、オォルは少しも、他のクルウに比べて、遜色なかったという。しかし、ゴオルに入った途端、ぼく達の耳朶に響いたピストルは、過去二年間にわたる血と涙と汗の苦労が、この五分間で終った合図でもありました。
 そのときのぼく等の様子を、当時の羅府新報が、こんなに報告しています。
※[#二重かっこ開く]夕刻のロングビイチは鉛色のヘイズに覆われ、競艇コオスは夏に似ぬ冷気に襲われ、一種凄壮の気漲る時、海国日本の快男児九名は真紅のオォル持つ手に血のにじめるが如き汗を滴らしつつ必死の奮闘を続けて遂に敗れた。この日、我が稲門健児は不幸にも、北側の第一レインを割り当てられ、逆風と逆浪の最も激しい難路を辿らねばならず、且つ、長身に伍して、短躯のクルウを連ね、天候さえ冷え勝ちで、天の利、地の利、人の利、すべて我々に幸いせず。頼むは、日本男児の気概のみ、強豪伊太利と英国を向うに廻し、スタアトからピッチを三十七に上げ、力漕、また力漕、しかも力及ばず、千メエトルでは英国に遅れること五艇身、伊太利に遅れること三艇身、千五百メエトルに至るや、懸隔益々甚だしく、英国と伊太利が二艇身半の差、日本は三艇身遅れて続き、更にブラジルが後を追う。
 が、最後の五百メエトルに日本選手は渾身の勇を揮って、ピッチを四十に上げ、見る見る中に伊太利へ追い着くと見え伊太利の舵手ガゼッチも大喝一声、漕手を励まし、五万の群集は熱狂的な声援を送ったが、時既に遅く、一艇身半を隔てて伊太利は決勝線に逃げ込んだ。
 決勝線突入後、他の三国選手が、余裕を示して、ボオトをランデングに附け、掛声勇ましく、頭上高く差し上げたに引き替え、日本選手は決勝線に入ると同時に、精力全く尽き、クルウ全員ぐッたりとオォルの上に突っ俯し、森整調以下、殆ど失神の状態となり、矢野清舵手は、両手に海水をすくって戦友の背中に浴せ、比較的元気な松山五番もこれに手伝い、坂本四番の介抱に努めるなど、その光景は惨憺たるものがあった。選手は幸いにして、数分後には、気を取り直しボオトを引き上げ、更衣所に帰るや、一同その場に打ち倒れ、語るに言葉なく、此所にも綴るレギヤツタ血涙史の一ペエジを閉じた※[#二重かっこ閉じ]
 ボオトを漕ぐ苦しさについて、ぼくは、敢て書こうとは思いません。漕いだものには書かなくても判り、漕がないものには書いても判らぬだろうと思われるからです。ただ、それほど、言語を絶した苦しさがあるものと思って下さい。

 あのとき、観覧席の一隅に、日本女子選手の娘達が、純白のスカアトに、紫紺のブレザァコオトを着て、日の丸をうち振り、声援していてくれた、と後でききました。しかし、ぼくは、そのとき、あなたの姿なぞ求めようともしない、口惜しさで負けたレエスに興奮していた。
 負けたという実感より、気持の上では、漕ぎたりない無念さで、更衣所にひき揚げてきたとき、いちばん若いKOの上原が、ユニホォムを脱ぎかけ、ふいと、堰を切ったように泣きだしました。
 すると主将の八郎さんが、かつてみない激しさで「泣くな。勝ってから、泣け」と噛みつくように叱った。
 その激しい言葉に、自己感傷に溺れかけていたぼくは、身体が慄えるほど、鞭うたれたのです。

 第二回戦は、独逸、加奈陀、新西蘭とぶつかり、これも日本は、第三着で、到頭、準決勝戦に出る資格を失ったのでした。

     十八

 レエスも済み、為すべきことを失ったようなぼくは、あなたのことを、やっと具体的に考える機会に恵まれた訳ですが、ぼくの心の卑しさからか、遠すぎるあなたの代りは、身近くのあてもない享楽を求めて、彷徨あるき、なにかの幸福を手掴みにしたい焦慮に、身悶えしながら、遂々帰国の日まで過してしまいました。
 帰国するまでに、約二週間はありましたから、その間、羅府のブロオドウェイを、或いは、ロングビイチの下町を、又はマウントロオの養狐場を、ただ訳もなく遊び歩いたのも、ひたすら手近な享楽で、眼の前に蓋をしている気持でした。
 夜、ロスアンゼルスからの帰りに、自動車を停めさせ、皆が一斉に降りたって、小便をしたとき、故国日本を想いだすような、蛙の鳴声をきいたことも、仄かに憶えています。或いは、海水浴場の近くで、六十歳前後の老人夫婦から、十五歳位の少年少女のカップルに至るまで、ダンスを愉しんでいるホオルを覗いたことも、ダウンタアオンで五仙を払い、メリイゴオランドの木馬に跨がったことも、ボオルを黒ん坊にぶつけて、亜米利加美人を落したことも――。
 その黒ん坊が、意外にも日本人だったのです。虎さんが、ボオルを握って、モオションをつけると、いきなり黒ん坊が鮮やかな日本語で、「旦那はん、やんわり、頼みまっせ」と言い、ぼく達が、驚き呆れていると、「顔は黒う塗ってますが、心は同じ日本人でさア」その言葉の終らないうちに、虎さんの直球が、黒ん坊の額にはずみ、彼が引繰り返ると、そのはずみに仕掛が破れ、右上の鳥籠に腰かけていた亜米利加美人がばちゃんと、下のプウルに落ちこみました。
 さては、射的場で、兎を撃ったことも、十仙出して本物のインディアンと腕角力をしたことも、マジック・タアオンの鏡の部屋で――。
 そうだ、マジック・タアオンで、起ったあなたについての幻想を書いてみましょう。
 金十五仙なりを払って、魔術の街の入口の真暗い部屋に入り、その部屋をぬけると、長い廊下がありました。やはり、手探りしながら、歩く暗さで、暫くゆくと、突然、足下の床が左右に揺れだし、しっかり踏みしめて歩かぬと、転げそうでした。廊下の行詰りになった壁をおすと、薄暗い寝室で、ランプがついていて、マントルピイスの上が白く光るので、近よってみると、人骨がばらばらにおいてあるのでした。子供だましみたいなので、微笑みながら、次の部屋へのドアを開けると、戸口に一人のギャングが立ちはだかり、ピストルをつきつけています。こちらは可笑しくなってきて、ニヤニヤすると、向うも、毛色の変った、ジャップの少年なので、気抜けしたのか、ニヤッと笑いかえして引込みました。
 次から、次へ、仕組んであるマジックも、ことさら故意とらしくみえ、「つまんないの」と呟きながら、興味なく歩いている、ぼくの瞳に、ふと映ったのは、薄暗い片隅でなにもかも忘れ、ぴったり抱擁しあっている、うら若い男女でした。こればかりは実物で、見ていてもこちらがへんになるくらい熱烈なながい接吻をしています。これには、いちばん駭いて、部屋の端にあった階段を、むちゃくちゃに駆けあがりました。二三十段も駆けあがり、次の一足を踏みだそうとすると、足に触れるものがありません。階段だけで、二階の床がないのです。慌てていたこととて、思わず眼下の暗黒のなかに、くらくらっと陥ちかけたとき、足もとの階段が、独りでに、すうっと降りだしました。いっそ、地の底までもと思ったのに、着いたところは、又さっきの部屋で、男女二人は、まだ抱きあっていて、余計、堪らなく、飛びだそうとした刹那、ふいに、その若い二人が、夢の中のあなたとぼくのように、錯覚され、もう一度、振りかえり、見定めるため近づいてみようかとさえ思ったことでした。
 日本の選手一同、車を連ねて聖林見物に行ったのもその頃でした。
 車は全部、在留邦人の方々の御好意で、提供して頂き、スマアトな中級車から、豪奢な高級車ばかり。ぼくの乗せて頂いたのも、華奢な白塗りのリンカン・ジェフアで、車内に、ラジオも、シガレット・ライタアも装備してある豪勢さでした。
 途中、サンキスト・オレンジのたわわに実る陽光眩ゆい南カルホルニアの平野を疾駆、処々に働いている日本人農夫の襤褸ながらも、平和に、尊い姿を拝見しました。
 有名なパサデナの邸宅街を通り、御殿のような建物に、貧富の懸隔につき、考えさせられることも多かった。
 聖林に入ると、フォオド・シボレエを自動車ではなく機械だと称する国だけあって、ぼく達の車も見劣りするような瀟洒な自動車が一杯で、建物も白堊や銀色に塗られたのが多く、光り耀くような街でした。ぼく達はフォックス撮影所の前で降り、所内の見物からはじめました。セットに、山あり海あり、冬景色あり夏景色あり、汽船あり、汽車あり、支那街あり水の都ナポリありで、ぼくは歩いている中、なにか、サンボリストの詩みたいなものを感じ、ひどく興奮しました。
 昼食を、所長さんの御招待で頂き、サアビスに踊ってくれたのが、当時のスタア、ロジタ・モレノ嬢でした。まるで、人形のような端正さと、牡鹿のような溌刺さで、現実世界にこんな造り物のような、艶やかに綺麗な女のひとも住むものかと、ぼくは呆然、口をあけて見ていました。最後に、ステップ、ウインク、投げキッスと、三拍子、続けてやられたとき、その濡れたような漆黒の瞳が、瞬間、妖しくうるんで光るばかりに眩ゆく、ぼくは前後不覚の酔い心地でした。
 そのとき、やはり、心持ち唇をあけてみていた、あなたの小さい黄色い顔が、ちらっとぼくの網膜を掠めました。

 帰りには、チャイニイズ・グロオマン劇場で、オニイルの奇妙な幕間狂言という映画の封切に招待されました。その時はもう、接吻の長さだけ気になる、ぼくは、痴けさでした。

     十九

 また暫くして、日本選手一同が揃って、ベニスという下町へ遊びに行った日がありました。附近で、いちばん大きなダウンタアオンで、途中の風光の美しさも類のないものでした。
 碧い海に沿った、遠くに緑の半島が霞み、近くには赤い屋根のバンガロオが、処々に、点在する白楊の並木路を、曲りまわって行きました。まるで、泰西名画のみごとな版画をみているように、湿り気のない空気が、全てのものを明るく、浮立たせてみせてくれるのでした。
 突然、ぼくの脇に坐っていた、坂本さんが、ぼくの横腹をこづきます。ひょいとみると、女子選手ばかりを乗せた、前のバスが、おくれて、こちらの車台とくっつきそうになって走っています。その背後の座席に、あなたが坐っていて、人形をかざし、こちらに見せびらかすようにして顔を硝子に押しつけていました。
 硝子窓に潰され、凹んだ鼻をしているその顔がまるで、泣きだしそうな羞恥に歪んでおり、それを堪えて、友達と笑い合っては、道化人形を踊らせ、あなたは、こちらの注意を惹こうとしていました。恐らくぼくを笑わそうとして、無理におどけてみせてくれるのだと、ぼくは考えあなたの故意とらしさが悲しく、あなたに似合わない大胆さが苦々しくて、ぼくにはそのとき、あなたが大変、醜くみえた。
 とうとう、前の車が故障でとまり、みんながぞろぞろ降りだしたのをみたとき、ぼくは顔をまともに合せたら、あなたが、どんな表情になるか、眼に見える心地がして、そればかりが気懸りになりました。
 果して、あなたはピエロ人形を片手に、踊らせながら、やはり、泣き笑いみたいな顔で、ぼくのほうをちらっと見たが、ぼくが笑いもせず、反って視線のやり場に困った鬱陶しい顔をしているのをみると、あなたは、面を伏せ、くるりとうしろを向き、ひとりで、バスに乗ってしまった。車が出て、背後の硝子窓に凭れかかった人形は、あなたの手と一緒に再び踊りだした。しかし、顔をみせない、あなたが、友達と笑いあっているのか、ひょっとしたら、泣いて慰められているのか、想像のつかないまま、あなたの肩は震えていました。
 ぼくは一体、人目を憚かったのか、それともそうしたあなたが嫌いだったのか、それも判らぬ複雑奇怪な気持で、どうでもなれとバスに揺られていました。気の弱い、我儘なぼくも厭だったし、あなたも厭だった。
 そうして、人形は踊りを止め、バスの後窓に凭れたまま、小さくなり、見えなくなって行くのでした。
 ベニスに着いてから、竜の口が出入り道になっているサイクロレエンに乗りました。
 トロッコ様の箱車の座席が三段にわけてあり、まえに豪傑の虎さんと色男の有沢さんが乗り、真中にぼくと清さん、うしろに柴山と村川が乗りました。前に横たえてある棒をしっかり握っているうち、車は滑りだし、深い穴のなかに陥ちてゆきます。再び、登りだしたときは、背も反るような急角度の勾配でした。あれよ、あれよという間に、いちばん頂辺にまで出ると、遥かサンピイドロの海が眼下にかすみ、沖にはキャバレエになっているという豪華船――当時は禁酒法でしたから――が豆のように、ちいさい。が次の瞬間に、車は急転直下、直角にちかい絶壁を、素晴しい速力ですべり落ちてきます。背中を丸くして、横棒にかじりついていても、腰が浮くすさまじさです。と、すぐ前から、「ヒェーッ」という金属的な悲鳴が、風に流れきこえてきました。色男の有沢さんの声です。実際、声でもたてねばやり切れぬ、気持でした。車はあるいは急角度に横にまがり斜めにおち、ガッタンガッタンと、登ったかとおもえば、また陥ちる、頭の髪が、風にふかれて舞い上がるのも、恐怖に追われ逆立つおもいでした。
 もう後では、目をつむってこらえている内、するすると竜の口から再び吐きだされて、おしまいでした。降りたった六人は、今更のように聳えたつサイクロレエンを眺めて、感にたえた顔をしていましたが、有沢さんの悲鳴を誰かが言いだすと、途端に、みんなゲラゲラと大笑いがとまりませんでした。
 それまでに、サイクロレエンに乗っていた酔っぱらいの水兵が、滑走の途中、立ち上がり、横木にはさまれて頸を折ったとか、赤ん坊を抱いた若妻が滑りおちる恐怖にたえかね、子供を手放したので、赤ん坊がおっこち頭を割って死んだとか、そんな話もきかされていたのですが、自分が実際乗ってみると、そんな嘘のような話も真実におもわれる物凄さでした。
 ぼくはサイクロレエンから降りたった後、なにもかもが飛び去ったあとのような心地よさで独り、岸にたち、潮風に、髪の毛をなぶらせながら、青黒くひかる海を、虚心に、眺めていました。

 その後、羅府動物園へ、選手一同赴いた折にも、巨きな象の二三頭が、放し飼いになって自由に散歩しているあいだを、内田さんと手を繋ぎ歩いているあなたの姿をお見掛けしたことがあります。
 その朝、ぼくはデレゲェションバッジをなくなし、皆にまた口汚なくいわれる疑懼と、ひとつは日頃嘲弄される復讐の気持もあって、実に男らしくないことですが、手近にあった東海さんの上着からバッジを盗み、東海さんの困却をまのあたりみせられ、些か後悔の念に駆られ、良心の苛責もひどかったときなので、ともすれば見失いそうな自分の姿を掴まえる為、すっかり茫然としていて、近くにあった、あなたの姿にも、痛いものをみる想いで眼をそらした。
 その癖、そのときでも、あなたが見えなくなると、バッジの件を考える苦しさよりもあなたを想う甘さに惹かれるのでした。
 そうしたときでも、いつもあなたには逢いたいような、逢いたくないような気持が、例えば、『逢わぬは逢うにいやまさる』といった都々逸の文句のように錯綜して、あなたを慕っていたのです。
 マウントロオで、ケエブルカアから降りて村川と二人、養狐場のほうへ行きかけると、すれちがった若い亜米利加娘が二人、とつぜんぼく達を呼びとめ、ぼくの持っていたカメラで撮してくれというのです。たいへん朗らかな、可愛い娘さん達なので、喜んで、一緒に写真をとったり名刺を貰ったり、手振り身振りで会話をしたりしました。そうしたとき、奇妙に強く、想われるのはやはりあなたの面影でした。

 ホワイトポイントヘ魚釣りにも行きましたが、ぼくは釣なぞしたことがないので、無闇やたらにそこいら辺を歩きまわっただけでした。ひとりで、ホテルの裏にでると、ダンス場があって、ちょうどヒリッピン人の会合があり、彼等が、勝手放題に、淫らな踊り方をしたり、または木蔭で抱擁し合っているのをみると、急に淋しく、あなたが欲しくてたまらなくなるのでした。

 試合が済んだあとでは、みんな、各自、県人会のひとに案内して貰ったり、または自分達同士でロスアンゼルスに遊びに行ったりしては、やれ今日は飛行機に乗ったとか、秘密のキャバレエで酒を飲まされたとか、レビュウガアルのアパアトで三十弗もとられたとか、そんな話の種を持って帰っては、面白そうに話しあうのでしたが、ぼくはまた、独りぽっちの仕様ことなしに、近所の子供と遊んだり、子供達から自転車を借りて乗りまわしたり、ただあてもなく散歩したり、そんな無為な日々をすごすことが多かった。

 いまでも憶いだす、なつかしい路は、合宿裏の花壇にかこまれた鋪道のことです。
 ジギタリス、アネモネ、グラジオラス、サフラン、そんな花々につつまれて、一日中、陽があたっている明るさ暖かさでした。ぼくがその路を、胸に紅く日の丸のマアクの入ったスエタアを着て、トレエニングパンツのゴムをぱちんぱちんとお腹にはじきながら、ぶらぶら何遍も往復し一体どんな歌をうたっていたと思います。おけさ節に、インタアナショナル、北大校歌に、オリムピック応援歌、さては浪花節に近代詩といった取り交ぜで、興がわくままに大声はりあげ、しかも音痴はこの上なしというのですから、他人には見せも聞かせもしたくない、のんびりした阿呆らしい風景でした。
 そんなとき、いちばん誰憚からず、あなたのことを想って、愉しいときを過しました。白昼、花々匂う小路をさまよい、勝手な空想にふけっていれば、あなたはいつもぼくの身近く、浄らかな童女のような相貌で、ぼくにつき纏っていたのです。

     二十

 宿舎の近くに、アイスクリイムスタンドがあって、そこに、十八歳になる、ナンシイという可愛い看板娘がおりました。
 ぼくなぞは、夜間照明のベエスボオルなどを近所の子供達と見物した帰りに、スマックなぞ噛りに立寄るくらいでしたが、KOの柴山や上原などは、よくかよっていて行けばいつも顔を合せるほどでした。ことに美少年の上原などは、ナンシイ嬢と仲が良く、いつもスタンドに肘つきあっては話を交していました。
 ある日の事、一緒に近所の床屋まできた柴山と肩をくんで、その店に入って行くと、上原がもう来ていて、娘さんとなにか笑い話をしています。ぼく達は隅っこでチョコレエトクリイムを貰い、二人でぼそぼそ嘗めているとき、入口のドアを荒々しく押して一人のアメリカの大学生が入ってきて、なにも註文せず、スタンドの前に立ち、腕を組んだまま、じっと上原とナンシイ嬢の様子をみつめていました。
 やがて上原の傍につかつかと立ち寄り、彼の肩を押えて、早口になにか言いだします。素破とおどろき柴山と立ち上がろうとしましたが、意外にも大学生は、和やかな表情で、上原にドライブをしないかと誘っています。上原はぼく達に一緒に来るかい、と聞き、ぼく達が承諾すると、それではと、大学生に、行く旨を返事していました。
 そこで四人が、表においてあった大学生のセダンに乗りこむと、彼は、ロングビイチの海岸まで車を走らせて行きました。賑やかで面白そうな海水浴場のほうは素通りにして、荒涼とした砂っ原に降りると、大学生は上原の腕をとって、浪打際のほうへゆきます。さっきから大学生の上原をみる眼が少し変ってるなと思っていたら、大学生はやにわに、上半身、真裸になって、上原に角力をいどみかけるのです。上原は、はにかんだような微笑みを浮べながらも、シャツを脱ぎ裸になりました。
 ナルシサスもかくやと思われる美しい顔立ちに十九歳の若々しい肉体は、アポロのように見事に発育して引き締っています。大学生も毛深くて逞しいヘラクレスみたいな身体をしていましたが、上原のすべすべした小麦色の皮膚を愛情のこもった眼付で、撫でまわしていました。
 二人の相撲は力を入れ、むきになっている癖に、時々いかにもこそばゆいという風に身悶えしてキャッキャッと笑い興じていました。汗ばんで転がるたびに砂塗れになってゆく、上原の肉体も、額に髪が絡みついた顔も、だんだん紅潮してゆくに従って、筋肉の線に、膨らみもでて来て美しく、ぼく達でさえ些か色情的に悩ましさを覚えたほどです。しかし何時迄もみているのは莫迦々々しくなって、ぼくと柴山はその場をはずし、なんとなくそこらを散歩してから歩いて帰りました。
 遅く夕方になってから戻ってきた上原が、その大学生の着ていたレザァコオトを貰ったりしているので、ぼくは人間の愛欲の複雑さがちらっと判った気がしました。

 帰朝する前日でしたか、ロオタリイ倶楽部での、鐘ばかり鳴らしてはその度に立ったり坐ったりする学者ばかりのしかつめらしい招待会から帰ってくると、在留邦人の歓送会が、夕方から都ホテルであるとのことで、出迎えの自動車も来ていて、直ぐとんで行ったのでした。
 男はタキシイド、女は紋服かイブニング・ドレスといった豪奢な宴会で、カルホルニア一流の邦人名士の御接待でした。ぼくの坐った卓子は、沢村、松山、虎さんとぼくの四人で、接待して下さる邦人のほうは、立派な御主人夫妻と上品なお祖母様、それに二十一になる美しいお嬢さんの御一家でした。
 話をしているうちに偶然、そのお嬢さんがぼくの育った鎌倉の稲村ケ崎につい昨年迄、おられたことが解り、二人の間に、七里ケ浜や極楽寺辺りの景色や土地の人の噂などがはずみ、ぼくは浮々と愉しかったのです。その内に始まった饗応の演芸が、いかにも亜米利加三界まで流れてきたという感じの浪花節で、虎髭を生した語り手が苦しそうに見えるまで面を歪めて水戸黄門様の声を絞りだすのに、御祖母様は顔を顰め、「妾はどうしても、浪花節は煩さいばかりで嫌いですよ」といわれる。お嬢さんとの会話で気が浮立っていたぼくは、また尾鰭について出しゃばり、浪花節を下品だとけなしてから、子供の頃より好きだった歌舞伎を熱心に賞めると、しとやかに坐っていた奥さんが、さも感に堪えたと言わぬばかりに、「そのお若さでお芝居がお好きとはお珍しい。御感心ですこと」とお世辞を言ってくれるので、ぼくは一層、有頂天になるのでした。お嬢さんはN女子大の国文科を出たとかで、芝居の話も詳しく、知ったか振りをしたぼくが南北、五瓶、正三、治助などという昔の作者達の比較論をするのに、上手な合槌を打ってくれ、ぼくは今夜は正に自分の独擅場だなと得意な気がして、たまらなく嬉しかったのです。
 沢村さん始め皆は、いつになくお喋りなぼくを呆れてみつめ(大坂が、エヘ)とさも軽蔑したような表情をするのでしたが、その夜は、明らかに教養でみんなを圧倒した態なのも嬉しく、なおも図にのって、お嬢さんに媚びるように、「吉右衛門や菊五郎はどうも歌舞伎のオオソドックスに忠実だとはおもえません。まア羽左衛門あたりの生世話の風格ぐらいが――」など愚にもつかぬ気障っぽいことを言っていると、突然、大広間の奥からけたたましいジャズが鳴り響き、続いて、「どうぞ皆さんダンスにお立ち下さい」というマイクロフォンの高声がきこえて来ました。すると奥さんはたいへん丁寧にお嬢さんに向い、「佐保子や、お前坂本さんにダンスをお願いしなさい」と言われたので、ぼくは一遍に冷汗三斗の思いがしました。改めてお嬢さんの金糸銀糸でぬいとりした衣裳や、指に輝く金剛石、金と教養にあかし磨きこんだミルク色の疵ひとつない上品な顔をみると、ぼくはダンスは下手だし、その手をとるのも恐くなり、「駄目です。ぼくは踊れないんですから」と消え入りそうな声で、吃り吃りいいました。お嬢さんはかすかに片頬でほほえむと折からプロポオズして来た陸上のF氏の肩にかるく手をかけ、踊って行ってしまいました。
 急に悄気てしまったぼくが片隅でひとりダンスを拝見していると、いつの間にかぼくの横に、油もつけていないバサバサの長髪を無造作に掻きあげた、血色の悪い小男の青年がやって来て立っていました。袴もつけず薄汚れた紺絣の着流しで、貧乏臭い懐ろ手をし、ぼんやりダンスをみているけれど、選手ではないし、招待側の邦人のひとりかとおもい、「今晩は、どうも――」と挨拶をすると「いやいや」と周章て、ぼくの顔をみて哀しい薄笑いをして、「ぼくは単なる見物人ですよ」と言いました。
 畳みかけて、「米国はもうながいんですか」ときけば、「いやまだ上陸して一週間位ですよ」「なにか勉強に」と続けると、「いえいえ遊んでいるんです。日本は煩さくって」「こちらに御親類でも」と尚煩さくいうと、「いやなにもありません。行き当り飛蝗とともに草枕」と最前の浪花節の句をいってから笑いました。ではさっきから何処にもぐっていたのかと不審になり、それとなく尋ねようとした刹那、ぼくは彼の懐中にねじこまれている本が前田河広一郎の※[#二重かっこ開く]三等船客※[#二重かっこ閉じ]なのを見て、ハッとして、「文戦はやはり盛んにやっていますか」ときいてみると、「えッ」と吃驚したように問い返してから、「いや、ぼくは左翼は嫌いだから――」と歪んだ笑いかたをしました。
 ぼくはなんだか、その青年にニヒリズムを感じて、寂しく、そして、それが米国最後のいちばん強い印象となりました。

     二十一

 行きは、よいよい帰りは恐い、と子供の頃うたう童謡があります。あの歌のように人生、行きと帰りとではずいぶん気持が違うものです。再び、サンピイドロの港、春洋丸の甲板で、見送りに来てくれた在留邦人の方々がうち振る日の丸の、小旗の波と五色のテエプの雨を眺めながら、ぼくはなんともいえぬ佗しさでした。
 勝って還る人達はとにかく元気でした。陸上の東田良平が、大きな亀の子を二匹、記念に貰い頸に紐をつけ、朗らかに引張って歩いているのが目立っていました。アメリカ人に、「Mayachita, Mayachita」と呼ばれて人気のある水泳の宮下も、船橋の上で手を打ちふりながら、いつ迄も熱狂的な歓送に応えていました。負けて還るほうは、拳闘の某氏のように責任を感じて丸坊主になったひともいましたが、やはり気恥かしさや僻みもあり張り詰めた気も一遍に折れた、がっかりさで、ぼくは雑沓するスモオキング・ルウムの片隅にしょんぼり腰を降ろしていたのです。
 あなたとのことも、往きの船では、帰りの船でこそ話もしよう遊びもできようと、あれやこれや空想を描いていたのですが、さて眼前、現実にその時が来てみると、最前、船のタラップを、服も萎れ面も萎れて登ってきたあなたの可憐な姿が目のあたりにちらつきながら、手も足も出ず心も痺れ、なるままになれと思うのが、やっと精一杯のかたちでした。
 出帆前の華やかな混雑も煩さいままに、独りで、ガアデン・ルウムに入って行ってみると、すでに先客がひとり、ひっそりとした青い空気のなかで、硝子越し一杯の陽光を浴びながら、熱帯樹の葉っぱを弄んでいました。
 その男は百米の満野でした。かつて吉岡が擡頭するまでの名スプリンタアではありましたが今度のオリムピックには成績も悪く、いまは凋落の一途にあったようです。彼はぼくをみると磊落に笑い、退屈なまま色々な打明話をしてくれました。彼はKOの予科三年で続いて二度落第していると語り、「こんども駄目だから、まア退学は固いね」と他人言のように笑っていました。小学校のときから駆けてばかりきて歳を老り、いま学校を追われる様になってもスポオツで食う見込はたたず、「まア国に帰って、兄貴の店でも手伝うか」と言っていましたが、スポオツでなにも掴み得なかった悔恨が、彼の心身を蝕ばんでいるさまがありありと感ぜられ、外では歓呼の声や旗の波のどよめきが潮のように響いてくるままに、なにかスポオツマンの悲哀、身に染みるものがあって、ぼくも心がむなしかったのです。
 浪に明け浪に暮れる日々。それから毎日、海をみて暮していました。誰やらの抒情詩ではありませんが、ただ青く遠きあたりは、たとうれば、古き思い出。舷側に、しろく泡だっては消えて行く水沫は、またきょうの日のわれの心か、と少年の日の甘ったるい感傷に溺れこんでもみるのでした。阿呆なぼくは時折、あなたのことを思い出しては、痛く胸を噛む苦さと快さを愉しんでいました。
 アメリカを発ってから五日目。暖かい陽光をいっぱいに浴びた甲板のデッキ・チェアに腰を降ろして、蒼々と凪いだ太平洋をみるともなく眺めていますと、どやどやと下のケビンから十人ばかりの女子選手達があがって来ました。
 内田さんや中村嬢のなかに交ってあなたの姿もみえたとき、ぼくは心が定らないまま逃げだしたい衝動にかられました。しかし女のひとが好きで且つおっちょこちょいのぼくは、あなた達から好意を持たれているのを意識しているだけ、なにか気の利いた文句を一言聞かせたく、その為だけでも浮々と皆を迎えるのでした。みんなはお喋りな小鳥のようにペちゃくちゃ囀りながら、附近のデッキ・チェアに群がりましたが、ぼくの顔をみるや、急に内田さんから始まって、ひそひそ話になり、一度にぱっと飛びたって、一瞬の間に全部いなくなってしまいました。あとにあなたともう一人、円盤の石見嬢が残っていましたが、石見さんもみんなの俄かに席から立ち去って了ったのに驚くと、きょろきょろ辺りを見廻して、初めてあなたとぼくに気づくと、こちらが照れてしまうほど真ッ赧になり、大きな身体をもじもじさせ、スカアトの襞を直したりして体裁を繕ってから、大急ぎで駆け去ってしまいました。
 さて、ぼくは、あなたの傍のデッキ・チェアに坐り直してはみましたが、やはり、烈しい羞恥にいじかんだような、堅いあなたの容子をみていると、ぼくも同様あがってしまい、その癖、意地悪いうちの連中がやってきて、なにか言うなら言え、とそのときの糞度胸はきめていたのですが、愈々話をする段になるとなにから話そうかと切りだす術をさがして、ぼくは外見落着きを装ってはいるものの、頭のなかは火のように燃えていました。
 と、自分の靴先きをみるともなく見詰めていたぼくの瞳に、あなたの脚が写ってきました。海風が、あなたのスカアトをそよと吹く、静かな一瞬です。短かい靴下を穿いていたあなたの脚に生毛がいっぱいに生えているのがみえました。そのときほど、毛の生えた脚をしているあなたが厭らしく見えたことはありません。
 男は女が自分に愛されようと身も心も投げだしてくると、隙だらけになった女のあらが丸見えになり堪らなく女が鼻につくそうです。女が反対に自分から逃げようとすればするほど、女が慕わしくなるとかきいています。そこに手練手管とかいうものが出来るのでしょう。
 ぼくは羞恥に火照った顔をして、ちょこんと結んだひっつめの髪をみせ、項垂れているあなたが、恍惚と、なにかしらぼくの囁きを待ち受けている風情にみえると、再び毛の生えたあなたの脚がクロオズアップされ、悪寒に似た戦慄が身体中を走りました。
 ぼくはそれ迄あなたへの愛情に、肉慾を感じたことがなかった。然しこの時、あなたの一杯に毛の生えた脚の、女らしい体臭に噎せると、ぼくはぞっとしていたたまれず、「熊本さんは肥りましたね」とかなんとか、あなたの萎れを気づかっていたつい最前の自分も忘れ、お座なり文句もそこそこに、立ちあがると逃げだしてしまいました。海を眺めに行ったのです。あとに残ったあなたの淋しい表情が、形容のつかぬ残酷さで黙殺できると同時に、あなたの、やるせなさそうな表情は心に残った。ぼくは自分を勝手だとおもいました。膨れあがった海をみながら――。

     二十二

 とかく帰りの旅は気もゆるみ易く、且つ練習がないので、みんなは酒を飲んだり、麻雀をしたりした無為の日々を送っていましたが、どうも一種、頽廃の気風がなにか船中に漂いだした感じがしてなりませんでした。
 ハワイに入る前夜、園遊会が盛大に開かれ、会長のK博士夫妻もインデアンの羽根飾り帽を冠って出場する和やかさでした。
 ぼくは借り物競争に出て、算盤と女の帽子と草の葉を一枚、集めてくるのにあたり、はじめに近くに見物していた内田さんの頭から、ものもいわずに、紅いベレエ帽をひったくり、ポケットにねじこむと、ドタドタと階段をおっこちて、事務所に殺到、事務員のひとが、呆気にとられているか、笑っているのか見極めもできぬ素早さで算盤をひったくり、次いで、階段を、大股に、三段位ずつ飛びあがって、頂辺のガアデン・ルウムに入ろうとすると、ぴったり足がとまりました。緑滴たる芭蕉の葉かげに、若い男女が二人、相擁しあって、愛を囁いているのです。それだけをみて、ぼくはくるりと引っ返し、競争を廃棄しました。算盤をかえして、次にベレエ帽をかえすとき、内田さんは、「ぼんち、どうして止めたの」と訊かれ、「草の葉がなかったんだ」と答えると、「莫迦ね。ここにあるじゃないの」と彼女の胸にさしていた、忘れな草の造花を差出してくれました。

     二十三

 再び青きハワイ――。

 ワイキキ。プウルを村川と二人、平泳の競泳をしながら、日本へ帰ったらうんと遊ぼうや、とつまらない約束をし、プウルから上がり、脱衣場に戻って行ったら、まんまと五弗入りの財布を盗まれていました。

 ホノルルの日本領事館で、官民合同の歓迎会が催されたのち、邦人の方の御好意で、選手一同ハワイの名勝ダイヤモンド・ヘッドからハナウマイヘかけて、見物させて貰いました。殊にハナウマイの涯しない白砂のなだらかさ、緑葉伸び張ったパルムの梢の鮮やかさ、赤や青の海草が繚乱と潮に揺れてみえる岩礁の、幾十尋と透いてみえる海の碧さは、原始的な風景というより風景の純粋さといった感銘がふかく、ながく心に残っています。
 また、それ迄みも知らぬ赤の他人の邦人の方が、日本選手という名前だけで、自動車と昼食とアイスクリイムを提供してくれ、その上、細々と御世話を焼いて下さった御好意は、真実、日本人同士ならばこそという気持を味って嬉しかった。あれ程、損得から離れた親切さには、その後めったに逢いません。

 出帆前の船に、またハワイ生れのお嬢さん達が集まって、華やかな、幾分エロチックな空気をふりまいていました。
 往きのときに会った、だぼはぜ嬢さんや、テエプを投げてやった可憐な娘も、みんな集まっていて、会えばお互いに忘れず、なによりも微笑が先に立つ懐しさでした。
 だぼはぜ嬢は、相不変の心臓もので、ぼく達よりも一船前にホノルルを去った野球部のDさんやHさんに、生のパインアップルをやけに沢山託づけました。船室に置いておいたら、いつの間にか誰か食ってしまい、ぼくには、そんな空しい贈り物をする、だぼはぜ嬢さんが哀れだった。Dさんにファン・レタアも頼まれたのですが、それも結局、次から次へと託づけて行くうちに幾人もの男達に読まれて笑われ、どうにか当人に渡ったにしても、所詮、真面目には読んで貰えないものにと思われて気の毒だったのです。
 また例の可憐な娘に、テエプを抛る約束をしたら、その娘は下船するとき、彼女の写真と手紙を渡してくれました。船が出てから、便所に持ちこんで読んだらこんな風に書いてありました。
※[#二重かっこ開く]二三日前、新聞でオリムピック選手達が、明日ホノルルに寄航するという記事を読み、坂本さんにも会えると思ったら、その晩夢をみました。
 ずっと前、日本に帰って死んだお祖母さんが夢に出てきて、妾の手を曳いてくれ、「これから坂本さんのお宅に行くんだよ」と言います。「嬉しいなア」と妾は喜んで、冷たくてカサカサするお祖母さんの手に縋り、どんどん暗い狭い路を歩いて行きますと、まだ見たこともない日本の町は、燈火が少なくて、たいへん淋しくありました。
 少し前方に、大きな灯のついた家がひとつあってお祖母さんは指をさし、「あれが坂本さんのホオムだよ」と申されました。
 ところが、お家の前に広い深い河がありまして、お祖母さんは妾の腕を抜けそうに引張り、ジャブジャブ渡って行きましたが、妾の着物はびしょぬれで、皺くちゃになりました。すると、お祖母さんは、たいへん怖い顔になって、「坂本さんのお宅は、お行儀が煩さいから、ちゃんとしたなりで、お前が行かないと、花嫁さんにはなれないよ」と怒ったので、妾はいつ迄もいつ迄も泣いていました※[#二重かっこ閉じ]
 それからなんと書いてあったか忘れましたが、要するに、お兄さんみたいな気がするとか、いつ迄も忘れずにお便りを下さいな、とかそんな手紙の文句でした。でも、その夢の話だけは非常にシムボリックな気がして、感銘ふかく覚えています。異境に培われた一輪の花の、やはり、実を結びがたい悩みと儚なさが露わにあらわれていて、ぼくには如何にも哀れに、悲しい夢だとおもわれたのです。

     二十四

 ハワイをでると、あとはもう横浜まで海ばかりだという気持が、なにかぼくを気抜けさせるものがあって、船室に引籠って啄木歌集を読んだり、日向に出ては海を眺めたり、そんな時を過していました。例えば、往きの船が、しょっちゅう太陽を感じさせる雰囲気に包まれていたとすれば、帰りの船はまた絶えず月光が恋しいような、感傷の旅でした。ぼくは自己批判も糞もなく、甘くて下手な歌や詩を作り、酩酊している時が多かった。
 そうした或る日のこと、中村さんにプロムナアド・デッキで、ぱったり逢うといきなりサインブックをつきつけられ、「なにか記念になるものを書いて」と頼まれました。船室に持って帰って、前の頁を繰ってみますと、――乙女の君の夢よ、安かれ。――とか、高く強く速く頑張れ中村嬢――とか、様々な文句が書いてあるなかに、Y女子監督が――鯨吠ゆ太平洋に金波照り行方知れぬ月の旅かな――とかいう様な歌を書いているので、ぼくも臆面なく――かにかくにオリムピックの想い出となりにし人と土地のことかな、――と書きなぐり、中村嬢に渡しておきました。
 すると、二三日経って、甲板で逢った内田さんがぼくに、「坂本さん、お願いがあるんやけれど」と珍しく改まった調子です。「ハア」とぼくが堅くなると、今度は笑いだして、うしろに居た百米のM嬢をふりかえり、「ねエ坂本さんの歌うまかったわねエ」「否、駄目ですよ」と照れるぼくを黙殺して、「ねエMさんがあなたに歌をかいて下さいって。幾つでも出来るだけ」Mさんというひとはピチピチとした弾力のある子供っぽい愛くるしい顔をしている癖に、コケットの様な濃厚なお化粧をいつもしていました。
 そこでぼくは彼女達に婉然と頼まれると、唯々諾々としてひき受け、その夜は首をひねって、彼女の桃色のノオトに書きも書いたり、――かにかくに太平洋に星多き夜はともすれば人の恋しき――から始まり――海の上のノオトは浪が消しゆきぬこのかなしみは誰が消すらむ――に終る、面皰だらけの歌を十首ばかり作りあげ、翌日M嬢に手渡そうとおもいました。
 面皰といえば思いだす、面白い話があります。同船していたブラジル人で十五歳位の女の子がいて、それが大分早熟で、体操のKさんの跡ばかり追っていました。
 或るときブリッジの蔭で、Kさんの名前を呼び喚いている女の子が、あまり一生懸命に呼び探しているので、「ヘェイ、ぼくと遊ぼう」と覚束ない英語でからかうと、女の子は急に貴婦人のように取り澄まし、しげしげ、ぼくの顔をみていましたが、いきなり唇をとがらせ「面皰!」と吐きつけると、バタバタ駆け去って行ってしまった。あとでぼくは、練習を止めてから、めっきり増えた面皰づらを撫で、苦く佗しい想いでした。

 翌日、歌をかいたノオトを返したくM嬢をさがしていると、また甲板で中村さんに出会い、M嬢は船室に内田さんと二人でいるとのことなので、早く渡してあげたく、かつて一度も行ったことのない、女の船室のほうへ行き、名札のかかったドアを軽く叩くと、中から内田さんの声がものうげに「どうぞ」という。開けたとたんに、ぼくは吃驚しました。内田さんがたった一人で、それもシュミイズ一枚で、横坐りになり、髪を梳いていたのです。白粉と香水の匂いにむっとみちた部屋でした。
 内田さんは入って来たのがぼくなのをみると、一寸坐り直し「坂本さんだったの」とみあげます。ぼくは内田さんの女に圧倒されて居たたまれない気持で、早々にノオトを渡し、扉を開けて出るのと殆ど同時でした。会長のK博士が温顔をきびしく結ばれて、此方に洋杖の音もコツコツとやって来られたのです。ぼくは、びっくり敗亡、飛ぶようにして自分の船室に逃げ帰りましたが、内田さんの小首を傾げた横坐りの姿は、可愛い猫のような魅力と媚態に溢れていて、ながく心に残りました。
 しかし、それから間もなく、KOのボオトの連中が坊主になるような事件を惹き起したとき、ぼくは、なにか危なかったと胸をなでる気持がありました。
 事件といっても、大したことではなく、村川から聞いた処によると、皆が酔っぱらってブリッジにいると、中村さんを始め女のひと達が二三人あがって来た。それをこちらが不良学生みたいに取囲んで、酔った勢いで、ワアワア言っていると、中村さんが、真っ先に泣きだし、それを折悪しく来かかったTコオチャアに見つけられ、みんなはその場で叱責されたばかりでなく、Tさんは主将の八郎さんに告げたので、八郎さんがまたみんなを呼びつけて烈火のように怒り、自分から先に髪を刈って坊主になったので、皆もいさぎよく揃って丸坊主になり、謹慎の意を表したとのことでした。

     二十五

 横浜まで、あと一週間という日になった。
 プロムナアド・デッキの手摺に凭りかかって海に唾を吐いていると、うしろから肩を叩かれ、振返ると丸坊主になりたての柴山でした。
 彼はひどく真面目ぶった顔付で「坂本君、熊本さんのことでなにか聞いたか」と訊ねます。「いや別に」と答えると声をひそめ、「大変なことがあるんだ。これが公けになったら熊本さんの一生は台なしだよ。君はあんなにして特に親しいから、君からいっペん忠告してやれよ」と親切にお節介を焼いてくれます。ぼくは息づまるほどのショックを受け柴山をみつめていました。
「昨夜なア、うちの河堀と金沢が、ボオト・デッキで涼んでいたら、暗い蔭になったほうでガサゴソ物音がするんだそうだ。なんだとおもってみてたら、熊本秋子とネルチンスキイの奴が二人ッきりで腕を組んで出てきた。それで、此方で見ているとも知らずネルチンスキイが、熊本にながいこと接吻してけつかったそうだ。汚ない」
 ネルチンスキイというのは一船遅れて日本に遠征に来る筈の芬蘭の陸上選手監督で、一足先きに事務上の連絡旁々この船に乗った、中年の好紳士です。背が高く口髭を蓄え、膏ぎった赭顔をしていました。
 ぼくは頭のなかが熱くなり、嘘だ嘘だとおもいながらも柴山の言葉を否定するなんの根拠もないままに、無性に腹が立ってきました。柴山は続けます。
「それで、金沢が帰ってきて陸上の連中に話したから、みんな怒っていたよ。二三人で呼びだして、熊本を撲ろうかとまで言っているんだぜ」
 ぼくはこれは大変だ、と思いました。とにかく河堀と金沢に会ってから真相を確かめ、その上であなたに逢ってお話をするのだ、と心に決め、柴山の親切に、厚く礼をいってからその場を立ち去りました。
 先ず、河堀を捜しに行くとスモオキング・ルウムで、これも丸坊主になりたての頭で、煙草を吹かしていました。「ちょっと」と呼びだし、照れ臭いのを我慢して、あなたの一件を尋ねますと、KOボオイの標準型で立派な青年紳士の趣のある彼はかるく笑い、
「そりゃア柴山の話が大きいんだ。そこ迄ぼく達はみなかった。ただ暗い処を二人でごそごそしていたし、出てきたとき熊本が泣いていて、それをネルチンスキイが慰めていた様子が変だったから、金沢がみんなに話したんでしょう。しかし、ぼくには、なにも他人のことだし、誰にも言いふらしたりしませんよ。安心なさい」
 とニヤニヤ笑いながら、ぼくの肩を叩きます。マドロス・パイプを乙に銜え、落着いて煙をくゆらす彼の態度にはなにか信用できるものがあって、ぼくはくれぐれもその噂を打消すように頼むと、こんどは、階段を飛ぶように降りて、金沢の船室を叩いてみました。
 折よく在室とみえ「お入り」と重々しい声です。ドアを開けると、元来禁欲僧じみた風貌の彼にはよく似合う刈りたての頭をして、寝台にどっかと胡坐をかき、これも丸坊主の村川と、しきりに大声で笑いあって、なにか嬉しそうに話をしていました。
 入って行ったぼくをみると、彼は顔をあげて意外らしく、「オウ」と挨拶します。ぼくが改まって、「金沢君、お願いがあるんだけれど」と切り出すと、「え、なんだい」彼はおおげさに眉を顰めました。ぼくは下劣に流布されているぼく達の交友が、ここでもストイックの彼に、誤解されてはと「実は変にとられたら困るけれど」と前置きすれば、「いや別に変に思わないよ」ともう冷たい声で突っぱなされました。
 ぼくは懸命になればなる程、拙劣なのを知りながら「実はあなたが昨夜、熊本さんについて見たことを、あなたの胸だけに蔵っておいて貰いたいのです」と言いかければ、彼は不愉快そうにかん高く、ぼくを遮り「なにも俺はそんなことを喋り歩いたりはしないよ。言ってみたって何の得にもならないし、第一、俺は熊本みたいな女に少しも興味がないもの」と、そこで一寸と口を切ってから、また落着いた嗄れ声にかえり「然し、実際女の選手ってだらしがねエな」と村川を顧みれば、村川も即座に、「じッせえ、女流選手っていうのは、なっちゃいないね」と合槌を打ちます。ぼくは無責任な批評をするな、と腹がたちましたが、金沢は続いて無造作に、「しかし誰かに言い触らすようなことはしないよ。それは約束します」という。その言い方に、ぼくはふッと、彼の大人を感じると、なにか信用して好い気になり、安心すると同時に、一遍に気恥かしくなってきて急いで、彼の部屋を辞しました。
 無茶苦茶に駆けあるきたいような衝動にかられて、階段をかけ上って行くと、森さん、松山さん、沢村さん達がいずれ麻雀でも果てたあとか、たくましく笑い合って降りて来かかり、血走ったぼくの様子をみると、顔見合せて、更にどっと笑いたてました。
 てッきり、あなたの一件で笑われたと、ぼくは尚更、口惜しがって、あなたを捜しまわりましたが、その晩は遂に見つからず、また不眠の夜を送りました。
 翌日、海は晴れていた。ぼくは、あなたを探して船の上から下まで馳せめぐった。逢ってなにか一言いわなければ、納まらない気持だったのです。その日も、むなしく海が暮れました。ぼくはスモオキング・ルウムの一隅に坐り、ひとり薄汚れた感傷を噛んでいました。
 その頃の流行歌の一節に、※[#二重かっこ開く]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[#二重かっこ閉じ]というのがありました。ぼくは其処のところが、奇妙に好きで、誰もいないのを幸い、何遍も何遍もかけ直しては、面をたれて、歌をきいていました。
 逢魔ケ時という海の夕暮でした。ぼくは電燈もつけず、仄暗い部屋のなかで、ばかばかしくもほろほろと泣いてみたい、そんな気持で、なんども、その甘い歌声をきいていました。その時ひょいと顔をあげると愕然としました。あなたの仄白い顔が、窓から覗いているのです。あんなに捜してもみつからなかったのに、一体どこにかくれていたんです、とも言いたく、お元気でなによりですと、喜んでもあげたかった。
 が、驚きのほうが強く、まじまじ目を見開いているぼくの顔にあなたは「ぼんち、今晩は」と笑いかけ、寂しさに甘えようとしているぼくの表情が判ると、ふッと身体を乗りだし「そんなとこで、なにしてんの。ホホ……」と少しヒステリカルに笑い、顔見合せると急に笑い止んで、やるせない沈黙の瞬時が流れましたが、ふっと表情をかえたあなたは「ぼんち映画みに行かないの」といい棄てたまま、くるりと身を翻えし、甲板の端の映画場のほうへ行ってしまいました。
 機械的に、そのあとから、ぼくも跳ねおき、活動を見に急いだのです。
 映画は、むかし懐しい大河内伝次郎主演、辻吉朗監督『沓掛時次郎』でありました。ところは太平洋の真唯中、海のどよめきを伴奏にして、映画幕は潮風にあおられ、ふくれたり、ちぢんだりしています。見物人は船客一同に加えて、満天の星と、或いは、海の鱗族共ものぞいているかも知れません。
 ぼくは、舷側の手摺に凭れて、みんなの頭越しに、この傷だらけのフィルムを、ぼんやり眺めていました。
 義理人情に絡まれた男、沓掛時次郎の物語はへんてこに悲しいものでした。それに、説明を買ってでたレスラアB氏の説明が出鱈目で、たとえば※[#二重かっこ開く]助ッ人※[#二重かっこ閉じ]と読むべきところを※[#二重かっこ開く]助人※[#二重かっこ閉じ]と読みあげるような誤りが、ぼくには奇妙な哀愁となって、引きこまれるのでした。飾りのない束ね髪に、白い上衣を着たあなたが項垂れたまま、映画をまるで見ていないようなのも悲しかった。
 映画が済んで、みんな立ってしまったあと、ぼくは独り、舷縁に腰を掛け、柱に手をまいて暗い海をみていた。青白いスクリインは、バタバタと風に煽られ、そのまえに乱雑に転がったデッキ・チェア、みんな、虚しい風景でした。
 もう、なんにも、あなたに言いたくなくなって、ぼんやり、一等船室の大広間に足を踏み入れると、悚然、頭から水を掛けられたようなショックを受け、絨毯のうえに身が釘付けになりました。あなたが、衆人環視のなかで泣いていたのです。
 あとで聞くと、あなたは、その夜映画説明をしたB選手に醜聞の件で、面罵されたのだといいます。ぼくが傍に居合せたら恐らく、身体の震える憤りに気が狂いそうだったことでしょう。
 このとき、一足なかに踏み込み、その光景をみるなり、ぼくは居竦んでしまいました。紺のベレエ帽に紺のブレザァコオトを着た内田さんが、看護婦のように、あなたに寄り添って慰めていました。室内にいた二十人ばかりの男女の視線が一斉に、立竦んでいるぼくに注がれた気がして居たたまれず、すぐ表に出てしまいました。
 あなたが災難にあっているのに、何にもしてやれない自分がはがゆく、ぐるぐるデッキを廻り歩きました。黒い海だった。走る波でした。
 二三回、プロムナアド・デッキを歩いて、先程の広間の前まで来ると、そこの手摺に凭れてあなたが陸上の川北氏と話をしていました。
 思いきったぼくは臆面もなく、あなた達の間に割りこみました。あなたは泣いたあとの汚い顔はしていたけれど、なにか頼りなげな可憐な風がありました。
 ぼくは不作法にも突然あなたに向い、口を切りました。「どうしたんですか。一体、熊本さん」あなたは顔をあげ、ひどく泣きじゃくりながら、話しだしました。このひとは未だ少女ではないか、それを汚れた眼鏡でみるなんて、と、ぼくは憤慨しながら、あなたの話を聞いていました。
「昨夜六時頃、Bデッキを散歩していますとネルチンスキイさんが、笑いながら傍によってきて、よくは判らないんですけれど、光るものと言うから多分夜光虫でしょう、をみせてあげるからボオト・デッキに行こうッて言うのでしょう。わたし一人で、嫌だったから断ると、無理に、そりゃしつこく誘うのでしょ。内田さんがいてくれたら、気が強いんですけれど、心細いのにね。相手が外国のひとで、よく言葉が解らないから、若し失礼になったら――と思って、ついて行ったんです。そしたら、ボオト・デッキに上って、暗いほうへ、ずんずん行って、隅に立っていたの。気味がわるかったけれど我慢して一緒に並んでいると、訳のわからない早口を言って、わたしの顔をみたり、なんにも見えない暗い海をみたりしていましたが、いきなり、私の手をこうして握ったのでしょ。ぞうっとして、急いで、振りきって、帰ってきたんです。それだけなの」
 それだけの事実が、こんなにも歪曲され拡大されて伝わって行くとはと、ぼくが訳もなく口惜しがっているあいだに、川北氏は考えを纏め、しずかに意見を述べだしました。
「だから、熊本君、さっきも言ったように、ネルチンスキイ氏に、なにもそれ程の邪意はなかったのじゃないかな。外国人は、女の手を握ったり、接吻したりするのは平気だから、若しかすると単なる親愛の意味からやったに過ぎないのじゃないかとも思う。しかしそういう処へ、男と二人ッきりでいたという、あなたも賢明じゃなかった。これからは、気をつけるんですね。
 けれど、ネルチンスキイ氏にも、一度会って話はしておきましょう。なんでも彼方の習慣通りにやられては堪らない。ぼくが会って、あなたのことも、明瞭に、あやまらせて置きます」
 ぼくはこんなにテキパキあなたに話ができる川北氏が羨しかった。ぼくには、悔恨と憧憬しかない。しかし、この人には理性と実行力があるのだと、尊敬する気持で、ぼくは、ネルチンスキイを捜す、川北氏のあとについて行きました。
 折よくプウルの傍の手摺によりかかり、海に唾を吐きちらしているネルチンスキイをみつけると、川北氏は傍に近づき巧みな英語で話しかけます。ぼくは初めから川北氏に無視された形でしたが、ここでも語学の点で、尚更ひっこんでいなくてはならず、それでもなにかの役に立てばと独りで興奮して、二人の会話を傍観していました。
 ぼくにはよく解らないながら、川北氏の一言一句はネルチンスキイの肺腑に染み渡るとみえ、彼はいかにも恐縮した様子で、「I'm sorry.」を繰返しては頷いていました。タイなしのカッタアシャツに灰色の上衣をひっかけた五尺そこそこ無髯の川北氏が、六尺有余、でっぷりした赭顔の鼻下にちょび髭を蓄えた堂々たる紳士のネルチンスキイを説得している有様は、まるで書生が大臣をへこましているような快感がありました。
 その話も結着して、川北氏に別れ独りになって甲板を歩いていると、なんとも言えぬ淋しさがこみあげてきて、なに一つできぬ自分がほんとに厭になった。自分の意気地なさ、だらしなさ、情けなさが身にしみ、自分の影法師まで、いやになって、なんにも取縋るものがないのです。星影あわき太平洋、意地のわるい黒い海だった。
※[#二重かっこ開く]花は咲くのになぜ私だけ、二度と春みぬ定めやら※[#二重かっこ閉じ]と音痴の歌をくり返しては口ずさみ、薄暗い廊下を歩いてゆくと、向うの端から、仄白くあなたの姿が浮んできました。亡霊のような儚なさで、あなたはまた誰にか罵られたのか、両掌で顔をおおい、泣きじゃくりながら近づいて来るのです。
 ぼくと向きあっても、あなたは覆っていた掌を放さず肩をふるわせて泣いているのでした。次の瞬間、ぼくは夢中であなたの肩を叩き、出来る限りのやさしさを籠め、「秋ッペさん泣くのはおよしよ。もう横浜が近いんだ」
 すると、あなたは顔から手を放し、子供みたいに、こっくりして領いた。その時の、あなたの瞳の柔軟な美しさは、今も目にあります。「笑って」といったら、ほんとに、あなたはにっこり笑った。
 ぼくには、それだけが精一杯だったのです。
 あの夜、それだけで別れて横浜まで、お逢いしなかった。けれど、あのときの別れが、今日迄も続いている気がします。

     二十六

 その翌日――横浜に着く四日前――ぼくは酒を飲みました。
 前の夜、あなたに言い足りなかった口惜しさで、珍しく朝から晩まで飲んでいました。そのうち酔っ払ってしまって、船の酒場に入ってくる誰彼なしを取っ掴まえては、管をまき盃を強いていました。
 日が暮れると、いつの間にかホッケエ部の船室に入りこみ、ウイスキイの瓶を片手に、時々喇叭呑みをやりながら、「レエスに負けたって仕方がねエよ。だけど負けたのは恥かしいねエ」とかなんとか同じ文句を繰返しているうち、監督のHさんから肩を叩かれ、「どうも君みたいな酒豪にはホッケエ部で、太刀打できるものがいないから、頼むから帰って寝てくれよ」とにこやかに訓され、「はい、はい」と素直に立ち上がると、自分の部屋の前まで来ましたが、ちょうど同室の沢村さん、松山さんとそこで一緒になりました。
「大坂、いい機嫌だな」とか、ひやかされてぼくは嬉しそうに、「えエ、えエ」と首を振っていましたが、松山さんが部屋に入ったあと、沢村さんがぼくの首を抱き、覗きこむようにして、「ぼんち、熊本さんは」と囁くのが、てっきり、あなたの醜聞の一件を指しているのだと思うと、ぼくには、これ迄のこの人達の悪意が一ペんに想い出され、気のついたときには、もう沢村さんの身体を壁に押しつけ、ぎりぎり憎悪に歪んだ眼で、彼の瞳を睨みつけていました。
 瞬間、ア、しまった、と思った時にはすでに遅く、その隙に立ち直った沢村さんが、「貴様やる気だな」と叫びざま、ぼくを突きとばすと、直ぐのしかかって来て、ぼくの頸を絞めつけました。
 そのとき松山さんが部屋から出て来て、この有様をみるなり、「おい、沢村よせよ、大坂はだいぶ酔っているぜ」と止めてくれましたが、沢村さんは一度手をはなしたかとおもうと、今度はなんともいえぬ意地悪い眼付で、まじまじぼくを見詰めているうち、不意に、平手で、力一杯、ぼくの横ッ面を張った。ぼくはことさら撲られるのも感じないほど酔っている風に装い、唇を開けてフラフラして見せているのに、沢村さんは、続けて、ぼくの右頬から左頬ヘと、びんたを喰わせ、松山さんを顧みてはニヤニヤ笑い、「こら、大坂、これでもか。これでもか」 といくつも撲った。

     二十七

 そうして、横浜に着きました。
 朝靄を、微風が吹いて、さざら波のたった海面、くすんだ緑色の島々、玩具のような白帆、伝馬船、久し振りにみる故国日本の姿は綺麗だった。鴎とびかう燈台のあたりを抜けて、船が岸壁に向おうとすると、すでに、満艦飾をほどこした歓迎船が、数隻出迎えに来てくれていました。
 埠頭を埋めた黒山の群衆のなかから、日の丸の旗がちらちら見えるのに、負けてきた、という感慨が、今更のように口惜しく、済まないなアと込みあげて来ました。
 もはやどやどやと上がりこんで来た連中で、甲板は一杯になり身動きもできません。新聞記者さんが一人、二人、ぼくのような者にまでインタアビュウに来てくれるのでした。
 しかし色んな事で上気してしまっているぼくには、話といっても別に出来ませんでした。が、その翌日の地方版をみると勇ましく片手を挙げたぼくの写真の下に、※[#二重かっこ開く]坂本君は語る※[#二重かっこ閉じ]として次の様な記事が出ていました。
※[#二重かっこ開く]オォルの折れる迄、腕の折れる迄もと思い全力を挙げて戦って参りましたが武運拙なく敗れて故郷の皆様に御合せする顔もありません。只、心配なのは今度の戦績で、今後日本人がボオトに於て、果してどれだけの活躍が出来るかと危ぶまれることです。この上は、四年後のベルリンに備えて、明日からでも不断の精進を続け、必ず今日の無念さを晴らしたいと存じます※[#二重かっこ閉じ]
 ぼくは、ぼくの気持通りに書いてくれた、記者さんの御好意に感謝はしましたものの、今更のようにジャアナリズムの魔術に呆れたものです。ぼくの寸言も真実、喋ったものではありませんでした。

 さて、横浜に着く迄に、あなたに訊いておきたかった一言は、やはり、「あなたはぼくが好きですか」でありました。その返事を聞けなかった事がぼくの心残りだと、この手記の始めに思わせ振りに書いて置きました。然し、聞いたからとて今思えばなんになろう。今になって残っているのは言葉でも肉体でもなく、ただ愛情の周囲を歩いた想い出だけです。今のあなたにはお逢いしたくない。
 あのとき、帰りの船であなたがぼくの啄木歌集の余白に書いて下さった言葉を覚えています。
 ※[#二重かっこ開く]往きの船ではずいぶん面白く御一緒に遊んで頂きましたわ。真珠の夢のように一生忘れられない思い出になりましょう。日本に帰りましたら是非お遊びにいらして下さい。寄宿舎の豚小屋に※[#二重かっこ閉じ]
 そして、その頁のすぐ裏には、レスラア某氏の書いてくれたこんな文句がありました。
※[#二重かっこ開く]世界は酒と女と金※[#二重かっこ閉じ]
 横浜沖で歓迎船が見えだしてから、ぼくは慌てて、あなたの写真を内田さんと一緒に撮らせて貰いました。あなたの衣裳も顔も皺くちゃにレンズのなかにぼけて写っていました。あなたの顔は往きの船の健康さにひきかえ、憂いの影で深く曇っていました。ぼくはそれをぼくへの愛情の為かと手前勝手に解釈していたのです。
 帰朝して三日目、高知県主催の歓迎会が丸の内の中央会館でありました。あなたも同じ高知県なので、勿論お逢いできると思い、慌てて道を歩き交通巡査に叱られるほどの興奮の仕方で出席しました。しかし、面窶れしているあなたにお逢いしても、やはりなんにも話せませんでした。
 只、エレベエタアを一緒の箱で、身体が触れ合って降りたときと、挨拶に壇上に登る際、降りて来たあなたと擦れちがったときとが、限りなく苦しかった。
 帰って床に入り目をつむっていると、あなたが船のなかでボクサアのIさんとピンポンをしているときの姿態が浮んできた。あなたはとてもピンポンが上手で、それだけ汗塗れになってやっていた。薄い肌着がぴったりくっつき、あなたの肉体の線が露わにみえていました。
 そのうちどうした機勢か、Iさんの強打した直球が、あなたのスカアトから股の間に飛びこんだら、皆もドッと笑ったけれど、あなただけいつまでも体をつぼめて、ヒステルカルに癇高く笑い続けていました。
 笑いが止まるとあなたは直ぐ、真紅な顔になって、部屋に帰ってしまいましたが、そのときぼくがあなたを撲りつけたい腹立たしさで、一隅から笑いもせずに睨みつけていたのを御存知ですか。
 ぼくはあなたへの愛情に、肉体を考えたことがないと前にも書きました。帰朝してから随分色んな歓迎会も催して頂き、酔ったあとで友達同士、女遊びをする機会も多かったのですが、ぼくはどんな場合でも、芸者なり商売女に、「ぼくにはだいじな女がいるから、悪いけれど気にしないで」とまともな顔で断って、指一本、彼女達に触れたことはありませんでした。
 帰って暫くして、銀座のシャ・ノアルにクルウが揃って行ったことがあります。初めに書いた、嘗てぼくの童貞とやらに興味を持ったN子という女給もいれば、松山さんも沢村さんの女達もいるカフエでした。ぼく達が入って行くと、マスタアが挨拶に来るは、女給が総出で取り巻くは、大変なものでした。
 ぼくはその頃むやみに酒を飲むようになっていましたから、一人でがぶがぶと煽り、手近に坐っていた京人形みたいな女給をちょっと好きになって、「君の名前は」とか訊いているうち、いきなり背後から生温かい腕がペたっと頸のまわりに巻きつきました。振返ると熱柿みたいな臭いをぷんぷんさせたN子です。「聞いたわよ、坂本さん、船のなかで女のひとと凄かったんですッてねエ」「ああ」とぼくは素直です。「こんなお婆ちゃんじゃ、嫌い」とN子はぼくの頸にぶら下がったまま、ぼくの膝に坐り、白粉と紅の顔をぼくの胸におしつけます。
 実をいうとぼくは肉体の快感もあって、こういう酩酊の為方も好いなあ、と思いかけていましたが、便所に立った虎さんが帰って来て、「オイ表に出てみろよ、大変な貼出しが出ているぜ、ハッハッハ」と豪傑笑いをするので、清さんと一緒に出てみますと、入口に立てかけた大看板に(只今オリムピックボオト選手一同御来店中)と墨痕鮮やかに書いてあります。
 しばらく唖然と突っ立っていたぼくは、折から身体を押して行く銀座の人混みに揉れ、段々、酔いが覚めて白々しい気持になるのでした。もうそのまま、帰りたくもなりましたが、皆で来ているのでそれもならず、再び店内に入ると、もはや、ほろ苦くなった酒を呻るのも止めてしまった。間もなく、マスタアが出て来て、「お写真をとらせて下さい」という。酔払った連中は、二つ返事で銘々美女を相擁し、威勢よくシャムパングラスを左手に捧げ立った処を、ポッカアンとマグネシュウムが弾けて一同、写真に撮られてしまいました。
 所詮、だらしのないぼくが、そんなにも女色が嫌いだったというのは偏えに、あなたからの手紙の御返事を待っていたからです。
 県人会でお逢いした翌日、ぼくは横浜へ着いた日に撮ったあなたの写真を、すぐあなたの寄宿舎のほうへ送っておきました。勿論、あなたの御迷惑を考え、あっさりした御手紙を添えておいたのですが、きっと返事が来るだろうと信じていました。返事が来れば、それからお付合をして、或いは結婚が出来るかとも思っていました。
 ぼくはその夏、鎌倉の家へ行っていました。
 毎日、夕暮になるとあなたからの手紙が廻送されているような気がして、姉の子をおぶい、散歩に出た浜辺から、祈るような気持で、姉の家に帰って行ったものです。
 相模の海の夕焼け空も、太平洋の夕照とかわりありません。到頭あなたの手紙は来なかった。

 それから間もなく、ぼくは兄の指導下に、学内のR・Sを手始めとして、段々本格的な左翼運動へと走って行きました。続いて学内サアクルの検挙、一人の母を棄てて地下へ、工場へ。ストライキから掴まって転向、というヤンガアジェネレェション一通りの経過をへたぼくが、狂熱的な文学青年になったのは、オリムピックの翌々年の春でした。
 なにより先に、あなたとの思い出が書きたく、すでに書き溜めの原稿紙も五六十枚になった頃、偶然、新宿の一食堂で、中村さんに逢いました。
 暫く見ないうちにすっかり大人になった、来年はまた伯林に行けると張切っていた中村さんから、先ず、あなたが中国辺の女学校で、体操の先生をしているとの話を聞きました。同時に、内田さんが有名なスポオツマンの某氏と、恋愛結婚をしたとの話を聞きました。
 そのときの衝動は強く、帰ってから直ぐ書きかけの原稿紙を全部、破ってしまいました。こんな興奮するようでは、未だとても書けないと諦めたからです。
 次の年、徴兵検査で、本籍のある高知県に帰ったとき、特殊飲食店を開いている伯父さんから商売柄の廃娼反対演説を聞いたあと、こっちも一杯機嫌で、あなたの話をほのめかすと、伯父さんは、「熊本秋子さんなら直ぐ、隣町の床屋の娘さんじゃきに、伯父さんもよう知っとるし、本当におまはんがその気なら、じき話を決めるがのうし」と大乗気になられ、却って此方が辟易しました。
 それよりも去年の暮、出征していた頃、北京郊外豊台駅前のカフェに入った処が、高知県出身の女給さんばかりが多くいて、あなたの噂が、偶然オリムピックの話から出たのには驚きました。あなたと同じ女学校で三年下だったという其処のある女給さんは、なかなか色白細面の美人でしたが、あなたのことを「とてもすらりとした可愛いお方でしたわ」とお世辞を言っていました。

 そうして、ぼく達のグルウプの人々は――。
 帰朝して間もなくインタアカレッジで漕がされたエキジビジョンの風景を想い出します。
 真紅のオォルに真紅のシャツ。みんな出立ちは甲斐々々しく、ラウドスピイカアも、「これより、オリムピック・クルウの独漕があります」と華々しく放送してくれたのでしたが、橄欖の翠りしたたるオリムピアがすでに昔に過ぎ去ってしまった証拠には、みんなの面に、身体に、帰ってからの遊蕩、不節制のあとが歴々と刻まれ、曇り空、どんより濁った隅田川を、艇は揺れるしオォルは揃わぬし、外から見た目には綺麗でも、ぼくには早や、落莫蕭条の秋となったものが感ぜられました。
 そうして二三年経ってから。
『若き君の多幸を祈る』と啄木歌集の余白に書いてくれた美少年上原が、女に身を持ち崩し、下関の旅館で自殺をしたときいた。銀座ボオイの綽名があった村川が、お妾上がりのダンサアと心中して一人だけ生残ったとの噂もきいた。
 沢村さんは満洲へ、松山さんはジャワヘ、森さんは北支、七番の坂本さんはアラスカヘと皆どこかへ行ってしまった。
 東海さんは昨年、戦地で逢いました。補欠の佐藤は戦死したと聞きました。
 戦地で、覚悟を決めた月光も明るい晩のこと、ふっと、あなたへ手紙を書きましたが、やはり返事は来ませんでした。

 あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。



底本:「オリンポスの果実」新潮文庫、新潮社
   1951(昭和26)年9月30日発行
   1991(平成3)年11月30日52刷改版
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:大野晋
校正:伊藤時也
2000年2月7日公開
2001年1月4日修正
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