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姥捨
太宰治


 そのとき、
「いいの。あたしは、きちんと仕末いたします。はじめから覚悟していたことなのです。ほんとうに、もう。」変った声で呟いたので、
「それはいけない。おまえの覚悟というのは私にわかっている。ひとりで死んでゆくつもりか、でなければ、身ひとつでやけくそに落ちてゆくか、そんなところだろうと思う。おまえには、ちゃんとした親もあれば、弟もある。私は、おまえがそんな気でいるのを、知っていながら、はいそうですかとすまして見ているわけにゆかない。」などと、ふんべつありげなことを言っていながら、嘉七も、ふっと死にたくなった。
「死のうか。一緒に死のう。神さまだってゆるして呉れる。」
 ふたり、厳粛に身支度をはじめた。
 あやまった人を愛撫した妻と、妻をそのような行為にまで追いやるほど、それほど日常の生活を荒廃させてしまった夫と、お互い身の結末を死ぬことに依ってつけようと思った。早春の一日である。そのつきの生活費が十四、五円あった。それを、そっくり携帯した。そのほか、ふたりの着換えの着物ありったけ、嘉七のどてらと、かず枝の袷いちまい、帯二本、それだけしか残ってなかった。それを風呂敷に包み、かず枝がかかえて、夫婦が珍らしく肩をならべての外出であった。夫にはマントがなかった。久留米絣の着物にハンチング、濃紺の絹の襟巻を首にむすんで、下駄だけは、白く新しかった。妻にもコオトがなかった。羽織も着物も同じ矢絣模様の銘仙で、うすあかい外国製の布切のショオルが、不似合いに大きくその上半身を覆っていた。質屋の少し手前で夫婦はわかれた。
 真昼の荻窪の駅には、ひそひそ人が出はいりしていた。嘉七は、駅のまえにだまって立って煙草をふかしていた。きょときょと嘉七を捜し求めて、ふいと嘉七の姿を認めるや、ほとんどころげるように駈け寄って来て、
「成功よ。大成功。」とはしゃいでいた。「十五円も貸しやがった。ばかねえ。」
 この女は死なぬ。死なせては、いけないひとだ。おれみたいに生活に圧し潰されていない。まだまだ生活する力を残している。死ぬひとではない。死ぬことを企てたというだけで、このひとの世間への申しわけが立つ筈だ。それだけで、いい。この人は、ゆるされるだろう。それでいい。おれだけ、ひとり死のう。
「それは、お手柄だ。」と微笑してほめてやって、そっと肩を叩いてやりたく思った。「あわせて三十円じゃないか。ちょっとした旅行ができるね。」
 新宿までの切符を買った。新宿で降りて、それから薬屋に走った。そこで催眠剤の大箱を一個買い、それからほかの薬屋に行って別種の催眠剤を一箱買った。かず枝を店の外に待たせて置いて、嘉七は笑いながらその薬品を買い求めたので、別段、薬屋にあやしまれることはなかった。さいごに三越にはいり、薬品部に行き、店の雑沓ゆえに少し大胆になり、大箱を二つ求めた。黒眼がち、まじめそうな細面の女店員が、ちらと狐疑の皺を眉間に浮べた。いやな顔をしたのだ。嘉七も、はっ、となった。急には微笑も、つくれなかった。薬品は、冷く手渡された。おれたちのうしろ姿を、背伸びして見ている。それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり、人から見ると、どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋を一足買い、嘉七は上等の外国煙草を買って、外へ出た。自動車に乗り、浅草へ行った。活動館へはいって、そこでは荒城の月という映画をやっていた。さいしょ田舎の小学校の屋根や柵が映されて、小供の唱歌が聞えて来た。嘉七は、それに泣かされた。
「恋人どうしはね、」嘉七は暗闇のなかで笑いながら妻に話しかけた。「こうして活動を見ていながら、こうやって手を握り合っているものだそうだ。」ふびんさに、右手でもってかず枝の左手をたぐり寄せ、そのうえに嘉七のハンチングをかぶせてかくし、かず枝の小さい手をぐっと握ってみたが、流石にかかる苦しい立場に置かれて在る夫婦の間では、それは、不潔に感じられ、おそろしくなって、嘉七は、そっと手を離した。かず枝は、ひくく笑った。嘉七の不器用な冗談に笑ったのではなく、映画のつまらぬギャグに笑い興じていたのだ。
 このひとは、映画を見ていて幸福になれるつつましい、いい女だ。このひとを、ころしてはいけない。こんなひとが死ぬなんて、間違いだ。
「死ぬの、よさないか?」
「ええ、どうぞ。」うっとり映画を見つづけながら、ちゃんと答えた。「あたし、ひとりで死ぬつもりなんですから。」
 嘉七は、女体の不思議を感じた。活動館を出たときには、日が暮れていた。かず枝は、すしを食いたい、と言いだした。嘉七は、すしは生臭くて好きでなかった。それに今夜は、も少し高価なものを食いたかった。
「すしは、困るな。」
「でも、あたしは、たべたい。」かず枝に、わがままの美徳を教えたのは、とうの嘉七であった、忍従のすまし顔の不純を例証して威張って教えた。
 みんなおれにはねかえって来る。
 すし屋で少しお酒を呑んだ。嘉七は牡蠣のフライをたのんだ。これが東京での最後のたべものになるのだ、と自分に言い聞かせてみて、流石に苦笑であった。妻は、てっかをたべていた。
「おいしいか。」
「まずい。」しんから憎々しそうにそう言って、また一つ頬張り、「ああまずい。」
 ふたりとも、あまり口をきかなかった。
 すし屋を出て、それから漫才館にはいった。満員で坐れなかった。入口からあふれるほど一ぱいのお客が押し合いへし合いしながら立って見ていて、それでも、時々あはははと声をそろえて笑っていた。客たちにもまれもまれて、かず枝は、嘉七のところから、五間以上も遠くへ引き離された。かず枝は、背がひくいから、お客の垣の間から舞台を覗き見するのに大苦心の態であった。田舎くさい小女に見えた。嘉七も、客にもまれながら、ちょいちょい背伸びしては、かず枝のその姿を心細げに追い求めているのだ。舞台よりも、かず枝の姿のほうを多く見ていた。黒い風呂敷包を胸にしっかり抱きかかえて、そのお荷物の中には薬品も包まれて在るのだが、頭をあちこち動かして舞台の芸人の有様を見ようとあせっているかず枝も、ときたまふっと振りかえって嘉七の姿を捜し求めた。ちらと互いの視線が合っても、べつだん、ふたり微笑もしなかった。なんでもない顔をしていて、けれども、やはり、安心だった。
 あの女に、おれはずいぶん、お世話になった。それは、忘れてはならぬ。責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばわなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知っている。信じている。
 こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑ってすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気で居られぬ。たまらないのだ。
 ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらえることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんができぬのだ。
 笑いの波がわっと館内にひろがった。嘉七は、かず枝に目くばせして外に出た。
「水上に行こう、ね。」その前のとしのひと夏を、水上駅から徒歩で一時間ほど登って行き着ける谷川温泉という、山の中の温泉場で過した。真実くるし過ぎた一夏ではあったが、くるしすぎて、いまでは濃い色彩の着いた絵葉書のように甘美な思い出にさえなっていた。白い夕立の降りかかる山、川、かなしく死ねるように思われた。水上、と聞いて、かず枝のからだは急に生き生きして来た。
「あ、そんなら、あたし、甘栗を買って行かなくちゃ。おばさんがね、たべたいたべたい言ってたの。」その宿の老妻に、かず枝は甘えて、また、愛されてもいたようであった。ほとんど素人下宿のような宿で、部屋も三つしかなかったし、内湯も無くて、すぐ隣りの大きい旅館にお湯をもらいに行くか、雨降ってるときには傘をさし、夜なら提燈かはだか蝋燭もって、したの谷川まで降りていって川原の小さい野天風呂にひたらなければならなかった。老夫婦ふたりきりで子供もなかったようだし、それでも三つの部屋がたまにふさがることもあって、そんなときには老夫婦てんてこまいで、かず枝も台所で手伝いやら邪魔やらしていたようであった。お膳にも、筋子だの納豆だのついていて、宿屋の料理ではなかった。嘉七には居心地よかった。老妻が歯痛をわずらい、見かねて嘉七が、アスピリンを与えたところ、ききすぎて、てもなくとろとろ眠りこんでしまって、ふだんから老妻を可愛がっている主人は、心配そうにうろうろして、かず枝は大笑いであった。いちど、嘉七がひとり、頭をたれて宿ちかくの草むらをふらふら歩きまわって、ふと宿の玄関のほうを見たら、うす暗い玄関の階段の下の板の間に、老妻が小さくぺたんと坐ったまま、ぼんやり嘉七の姿を眺めていて、それは嘉七の貴い秘密のひとつになった。老妻といっても、四十四、五の福々しい顔の上品におっとりしたひとであった。主人は、養子らしかった。その老妻である。かず枝は、甘栗を買い求めた。嘉七はすすめて、もすこし多く買わせた。
 上野駅には、ふるさとのにおいがする。誰か、郷里のひとがいないかと、嘉七には、いつもおそろしかった。わけてもその夜は、お店の手代と女中が藪入りでうろつきまわっているような身なりだったし、ずいぶん人目がはばかられた。売店で、かず枝はモダン日本の探偵小説特輯号を買い、嘉七は、ウイスキイの小瓶を買った。新潟行、十時半の汽車に乗りこんだ。
 向い合って席に落ちついてから、ふたりはかすかに笑った。
「ね、あたし、こんな恰好をして、おばさん変に思わないかしら。」
「かまわないさ。ふたりで浅草へ活動見にいってその帰りに主人がよっぱらって、水上のおばさんとこに行こうってきかないから、そのまま来ましたって言えば、それでいい。」
「それも、そうね。」けろっとしていた。
 すぐ、また言い出す。
「おばさん、おどろくでしょうね。」汽車が発車するまでは、やはり落ちつかぬ様子であった。
「よろこぶだろう。きっと。」発車した。かず枝は、ふっとこわばった顔になりきょろとプラットフォームを横目で見て、これでおしまいだ。度胸が出たのか、膝の風呂敷包をほどいて雑誌を取り出し、ペエジを繰った。
 嘉七は、脚がだるく、胸だけ不快にわくわくして、薬を飲むような気持でウイスキイを口のみした。
 金があれば、なにも、この女を死なせなくてもいいのだ。相手の、あの男が、もすこしはっきりした男だったら、これはまた別な形も執れるのだ。見ちゃ居られぬ。この女の自殺は、意味がない。
「おい、私は、いい子かね。」だしぬけに嘉七は、言い出した。「自分ばかり、いい子になろうと、しているのかね。」
 声が大きかったので、かず枝はあわて、それから、眉をけわしくしかめて怒った。嘉七は、気弱く、にやにや笑った。
「だけどもね、」おどけて、わざと必要以上に声を落して、「おまえは、まだ、そんなに不仕合せじゃないのだよ。だって、おまえは、ふつうの女だもの。わるくもなければよくもない、本質から、ふつうの女だ。けれども、私はちがう。たいへんな奴だ。どうやら、これは、ふつう以下だ。」
 汽車は赤羽をすぎ、大宮をすぎ、暗闇の中をどんどん走っていた。ウイスキイの酔もあり、また、汽車の速度にうながされて、嘉七は能弁になっていた。
「女房にあいそをつかされて、それだからとて、どうにもならず、こうしてうろうろ女房について廻っているのは、どんなに見っともないものか、私は知っている。おろかだ。けれども、私は、いい子じゃない。いい子は、いやだ。なにも、私が人がよくて女にだまされ、そうしてその女をあきらめ切れず、女にひきずられて死んで、芸術の仲間たちから、純粋だ、世間の人たちから、気の弱いよい人だった、などそんないい加減な同情を得ようとしているのではないのだよ。おれは、おれ自身の苦しみに負けて死ぬのだ。なにも、おまえのために死ぬわけじゃない。私にも、いけないところが、たくさんあったのだ。ひとに頼りすぎた。ひとのちからを過信した。そのことも、また、そのほかの恥ずかしい数々の私の失敗も、私自身、知っている。私は、なんとかして、あたりまえのひとの生活をしたくて、どんなに、いままで努めて来たか、おまえにも、それは、少しわかっていないか。わら一本、それにすがって生きていたのだ。ほんの少しの重さにもその藁が切れそうで、私は一生懸命だったのに。わかっているだろうね。私が弱いのではなくて、くるしみが、重すぎるのだ。これは、愚痴だ。うらみだ。けれども、それを、口に出して、はっきり言わなければ、ひとは、いや、おまえだって、私の鉄面皮の強さを過信して、あの男は、くるしいくるしい言ったって、ポオズだ、身振りだ、と、軽く見ている。」
 かず枝は、なにか言いだしかけた。
「いや、いいんだ。おまえを非難しているんじゃないのです。おまえは、いいひとだ。いつでも、おまえは、素直だった。言葉のままに信じたひとだ。おまえを非難しようとは思わない。おまえよりもっともっと学問があり、ずいぶん古い友だちでも、私の苦しさを知らなかった。私の愛情を信じなかった。むりもないのだ。私は、つまり、下手だったのさ。」そう言ってやって微笑したら、かず枝は一瞬、得意になり、
「わかりました。もう、いいのよ。ほかのひとに聞えたら、たいへんじゃないの。」
「なんにも、わかっていないんだなあ。おまえには、私がよっぽどばかに見えているんだね。私は、ね、いま、自分でいい子になろうとしているところが、心のどこかの片隅に、やっぱりひそんでいるのではないかしら、とそれで苦しんでいるのだよ。おまえと一緒になって六、七年にもなるけれど、おまえは、いちども、いや、そんなことでおまえを非難しようとは思わない。むりもないことなのだ。おまえの責任ではない。」
 かず枝は聞いていなかった。だまって雑誌を読みはじめていた。嘉七は、いかめしい顔つきになり、真暗い窓にむかって独りごとのように語りつづけた。
「冗談じゃないよ。なんで私がいい子なものか。人は、私を、なんと言っているか、嘘つきの、なまけものの、自惚れやの、ぜいたくやの、女たらしの、そのほか、まだまだ、おそろしくたくさんの悪い名前をもらっている。けれども、私は、だまっていた。一ことの弁解もしなかった。私には、私としての信念があったのだ。けれども、それは、口に出して言っちゃいけないことだ。それでは、なんにもならなくなるのだ。私は、やっぱり歴史的使命ということを考える。自分ひとりの幸福だけでは、生きて行けない。私は、歴史的に、悪役を買おうと思った。ユダの悪が強ければ強いほど、キリストのやさしさの光が増す。私は自身を滅亡する人種だと思っていた。私の世界観がそう教えたのだ。強烈なアンチテエゼを試みた。滅亡するものの悪をエムファサイズしてみせればみせるほど、次に生れる健康の光のばねも、それだけ強くはねかえって来る、それを信じていたのだ。私は、それを祈っていたのだ。私ひとりの身の上は、どうなってもかまわない。反立法としての私の役割が、次に生れる明朗に少しでも役立てば、それで私は、死んでもいいと思っていた。誰も、笑って、ほんとうにしないかも知れないが、実際それは、そう思っていたものだ。私は、そんなばかなのだ。私は、間違っていたかも知れないね。やはり、どこかで私は、思いあがっていたのかも知れないね。それこそ、甘い夢かも知れない。人生は芝居じゃないのだからね。おれは敗けてどうせ近く死ぬのだから、せめて君だけでも、しっかりやって呉れ、という言葉は、これは間違いかも知れないね。一命すてて創った屍臭ふんぷんのごちそうは、犬も食うまい。与えられた人こそ、いいめいわくかもわからない。われひと共に栄えるのでなければ、意味をなさないのかも知れない。」窓は答える筈はなかった。
 嘉七は立って、よろよろトイレットのほうへ歩いていった。トイレットへはいって、扉をきちんとしめてから、ちょっと躊躇して、ひたと両手合せた。祈る姿であった。みじんも、ポオズでなかった。
 水上駅に到着したのは、朝の四時である。まだ、暗かった。心配していた雪もたいてい消えていて、駅のもの蔭に薄鼠いろして静かにのこっているだけで、このぶんならば山上の谷川温泉まで歩いて行けるかも知れないと思ったが、それでも大事をとって嘉七は駅前の自動車屋を叩き起した。
 自動車がくねくね電光型に曲折しながら山をのぼるにつれて、野山が闇の空を明るくするほど真白に雪に覆われているのがわかって来た。
「寒いのね。こんなに寒いと思わなかったわ。東京では、もうセル着て歩いているひとだってあるのよ。」運転手にまで、身なりの申しわけを言っていた。「あ、そこを右。」
 宿が近づいて、かず枝は活気を呈して来た。「きっと、まだ寝ていることよ。」こんどは運転手に、「ええ、もすこしさき。」
「よし、ストップ。」嘉七が言った。「あとは歩く。」そのさきは、路が細かった。
 自動車を棄てて、嘉七もかず枝も足袋を脱ぎ、宿まで半丁ほどを歩いた。路面の雪は溶けかけたままあやうく薄く積っていて、ふたりの下駄をびしょ濡れにした。宿の戸を叩こうとすると、すこしおくれて歩いて来たかず枝はすっと駈け寄り、
「あたしに叩かせて。あたしが、おばさんを起すのよ。」手柄を争う子供に似ていた。
 宿の老夫婦は、おどろいた。謂わば、静かにあわてていた。
 嘉七は、ひとりさっさと二階にあがって、まえのとしの夏に暮した部屋にはいり、電燈のスイッチをひねった。かず枝の声が聞えて来る。
「それがねえ、おばさんのとこに行こうって、きかないのよ。芸術家って、子供ね。」自身の嘘に気がついていないみたいに、はしゃいでいた。東京はセル、をまた言った。
 そっと老妻が二階へあがって来て、ゆっくり部屋の雨戸を繰りあけながら、
「よく来たねえ。」
 と一こと言った。
 そとは、いくらか明るくなっていて、まっ白な山腹が、すぐ眼のまえに現われた。谷間を覗いてみると、もやもや朝霧の底に一条の谷川が黒く流れているのも見えた。
「おそろしく寒いね。」嘘である。そんなに寒いとは思わなかったのだが、「お酒、のみたいな。」
「だいじょうぶかい?」
「ああ、もうからだは、すっかりいいんだ。ふとったろう。」
 そこへかず枝が、大きい火燵を自分で運んで持って来た。
「ああ、重い。おばさん、これ、おじさんのを借りたわよ。おじさんが持っていってもいいと言ったの。寒くって、かなやしない。」嘉七のほうに眼もくれず、ひとりで異様にはしゃいでいた。
 ふたりきりになると急に真面目になり、
「あたし、疲れてしまいました。お風呂へはいって、それから、ひとねむり仕様と思うの。」
「したの野天風呂に行けるかしら。」
「ええ、行けるそうです。おじさんたちも、毎日はいりに行ってるんですって。」
 主人が大きい藁ぐつをはいて、きのう降りつもったばかりの雪を踏みかため踏みかため路をつくってくれて、そのあとから嘉七、かず枝がついて行き、薄明の谷川へ降りていった。主人が持参した蓙のうえに着物を脱ぎ捨て、ふたり湯の中にからだを滑り込ませる。かず枝のからだは、丸くふとっていた。今夜死ぬる物とは、どうしても、思えなかった。
 主人がいなくなってから、嘉七は、
「あの辺かな?」と、濃い朝霧がゆっくり流れている白い山腹を顎でしゃくってみせた。
「でも、雪が深くて、のぼれないでしょう?」
「もっと下流がいいかな。水上の駅のほうには、雪がそんなになかったからね。」
 死ぬる場所を語り合っていた。
 宿にかえると蒲団が敷かれていた。かず枝は、すぐそれにもぐりこんで雑誌を読みはじめた。かず枝の蒲団の足のほうに、大きい火燵がいれられていて、温かそうであった。嘉七は、自分のほうの蒲団は、まくりあげて、テエブルのまえにあぐらをかき、火鉢にしがみつきながら、お酒を呑んだ。さかなは、鑵詰の蟹と、干椎茸であった。林檎もあった。
「おい、もう一晩のばさないか?」
「ええ、」妻は雑誌を見ながら答えた。「どうでも、いいけど。でも、お金たりなくなるかも知れないわよ。」
「いくらのこってんだい?」そんなことを聞きながら、嘉七は、つくづく、恥かしかった。
 みれん。これは、いやらしいことだ。世の中で、いちばんだらしないことだ。こいつはいけない。おれが、こんなにぐずぐずしているのは、なんのことはない、この女のからだを欲しがっているせいではなかろうか。
 嘉七は、閉口であった。
 生きて、ふたたび、この女と暮して行く気はないのか。借銭、それも、義理のわるい借銭、これをどうする。汚名、半気ちがいとしての汚名、これをどうする。病苦、人がそれを信じて呉れない皮肉な病苦、これをどうする。そうして、肉親。
「ねえ、おまえは、やっぱり私の肉親に敗れたのだね。どうも、そうらしい。」
 かず枝は、雑誌から眼を離さず、口早に答えた。
「そうよ、あたしは、どうせ気にいられないお嫁よ。」
「いや、そうばかりは言えないぞ。たしかにおまえにも、努力の足りないところがあった。」
「もういいわよ。たくさんよ。」雑誌をほうりだして、「理くつばかり言ってるのね。だから、きらわれるのよ。」
「ああ、そうか。おまえは、おれを、きらいだったのだね。しつれいしたよ。」嘉七は、酔漢みたいな口調で言った。
 なぜ、おれは嫉妬しないのだろう。やはり、おれは、自惚れやなのであろうか。おれをきらう筈がない。それを信じているのだろうか。怒りさえない。れいのそのひとが、あまり弱すぎるせいであろうか。おれのこんな、ものの感じかたをこそ、倨傲というのではなかろうか。そんなら、おれの考えかたは、みなだめだ。おれの、これまでの生きかたは、みなだめだ。むりもないことだ、なぞと理解せず、なぜ単純に憎むことができないのか。そんな嫉妬こそ、つつましく、美しいじゃないか。重ねて四つ、という憤怒こそ、高く素直なものではないか。細君にそむかれて、その打撃のためにのみ死んでゆく姿こそ、清純の悲しみではないか。けれども、おれは、なんだ。みれんだの、いい子だの、ほとけづらだの、道徳だの、借銭だの、責任だの、お世話になっただの、アンチテエゼだの、歴史的義務だの、肉親だの、ああいけない。
 嘉七は、棍棒ふりまわして、自分の頭をぐしゃと叩きつぶしたく思うのだ。
「ひと寝いりしてから、出発だ。決行、決行。」
 嘉七は、自分の蒲団をどたばたひいて、それにもぐった。
 よほど酔っていたので、どうにか眠れた。ぼんやり眼がさめたのは、ひる少し過ぎで、嘉七は、わびしさに堪えられなかった。はね起きて、すぐまた、寒い寒いを言いながら、下のひとに、お酒をたのんだ。
「さあ、もう起きるのだよ。出発だ。」
 かず枝は、口を小さくあけて眠っていた。きょとんと眼をひらいて、
「あ、もう、そんな時間になったの?」
「いや、おひるすこしすぎただけだが、私はもう、かなわん。」
 なにも考えたくなかった。はやく死にたかった。
 それから、はやかった。このへんの温泉をついでにまわってみたいからと、かず枝に言わせて、宿を立った。空もからりと晴れていたし、私たちはぶらぶら歩いて途中のけしきを見ながら山を下りるから、と自動車をことわり、一丁ほど歩いて、ふと振りむくと、宿の老妻が、ずっとうしろを走って追いかけて来ていた。
「おい、おばさんが来たよ。」嘉七は不安であった。
「これ、なあ、」老妻は、顔をあからめて、嘉七に紙包を差し出し、「真綿だよ。うちで紡いで、こしらえた。何もないのでな。」
「ありがとう。」と嘉七。
「おばさん、ま、そんな心配して。」とかず枝。何か、ふたり、ほっとしていた。
 嘉七は、さっさと歩きだした。
「おだいじに、行きなよ。」
「おばさんもお達者で。」うしろでは、まだ挨拶していた。嘉七はくるり廻れ右して、
「おばさん、握手。」
 手をつよく握られて老妻の顔には、気まり悪さと、それから恐怖の色まであらわれていた。
「酔ってるのよ。」かず枝は傍から註釈した。
 酔っていた。笑い笑い老妻とわかれ、だらだら山を下るにしたがって、雪も薄くなり、嘉七は小声で、あそこか、ここか、とかず枝に相談をはじめた。かず枝は、もっと水上の駅にちかいほうが、淋しくなくてよい、と言った。やがて、水上のまちが、眼下にくろく展開した。
「もはや、ゆうよはならん、ね。」嘉七は、陽気を装うて言った。
「ええ。」かず枝は、まじめにうなずいた。
 路の左側の杉林に、嘉七は、わざとゆっくりはいっていった。かず枝もつづいた。雪は、ほとんどなかった。落葉が厚く積っていて、じめじめぬかった。かまわず、ずんずん進んだ。急な勾配は這ってのぼった。死ぬことにも努力が要る。ふたり坐れるほどの草原を、やっと捜し当てた。そこには、すこし日が当って、泉もあった。
「ここにしよう。」疲れていた。
 かず枝はハンケチを敷いて坐って嘉七に笑われた。かず枝は、ほとんど無言であった。風呂敷包から薬品をつぎつぎ取り出し、封を切った。嘉七は、それを取りあげて、
「薬のことは、私でなくちゃわからない。どれどれ、おまえは、これだけのめばいい。」
「すくないのねえ。これだけで死ねるの?」
「はじめのひとは、それだけで死ねます。私は、しじゅうのんでいるから、おまえの十倍はのまなければいけないのです。生きのこったら、めもあてられんからなあ。」生きのこったら、牢屋だ。
 けれどもおれは、かず枝に生き残らせて、そうして卑屈な復讐をとげようとしているのではないか。まさか、そんな、あまったるい通俗小説じみた、――腹立たしくさえなって、嘉七は、てのひらから溢れるほどの錠剤を泉の水で、ぐっ、ぐっとのんだ。かず枝も、下手な手つきで一緒にのんだ。
 接吻して、ふたりならんで寝ころんで、
「じゃあ、おわかれだ。生き残ったやつは、つよく生きるんだぞ。」
 嘉七は、催眠剤だけでは、なかなか死ねないことを知っていた。そっと自分のからだを崖のふちまで移動させて、兵古帯をほどき、首に巻きつけ、その端を桑に似た幹にしばり、眠ると同時に崖から滑り落ちて、そうしてくびれて死ぬる、そんな仕掛けにして置いた。まえから、そのために崖のうえのこの草原を、とくに選定したのである。眠った。ずるずる滑っているのをかすかに意識した。
 寒い。眼をあいた。まっくらだった。月かげがこぼれ落ちて、ここは?――はっと気附いた。
 おれは生き残った。
 のどへ手をやる。兵古帯は、ちゃんとからみついている。腰が、つめたかった。水たまりに落ちていた。それでわかった。崖に沿って垂直に下に落ちず、からだが横転して、崖のうえの窪地に落ち込んだ。窪地には、泉からちょろちょろ流れ出す水がたまって、嘉七の背中から腰にかけて骨まで凍るほど冷たかった。
 おれは、生きた。死ねなかったのだ。これは、厳粛の事実だ。このうえは、かず枝を死なせてはならない。ああ、生きているように、生きているように。
 四肢萎えて、起きあがることさえ容易でなかった。渾身のちからで、起き直り、木の幹に結びつけた兵古帯をほどいて首からはずし、水たまりの中にあぐらをかいて、あたりをそっと見廻した。かず枝の姿は、無かった。
 這いまわって、かず枝を捜した。崖の下に、黒い物体を認めた。小さい犬ころのようにも見えた。そろそろ崖を這い降りて、近づいて見ると、かず枝であった。その脚をつかんでみると、冷たかった。死んだか? 自分の手のひらを、かず枝の口に軽くあてて、呼吸をしらべた。無かった。ばか! 死にやがった。わがままなやつだ。異様な憤怒で、かっとなった。あらあらしく手首をつかんで脈をしらべた。かすかに脈搏が感じられた。生きている。生きている。胸に手をいれてみた。温かった。なあんだ。ばかなやつ。生きていやがる。偉いぞ、偉いぞ。ずいぶん、いとしく思われた。あれくらいの分量で、まさか死ぬわけはない。ああ、あ。多少の幸福感を以て、かず枝の傍に、仰向に寝ころがった。それ切り嘉七は、また、わからなくなった。
 二度目にめがさめたときには、傍のかず枝は、ぐうぐう大きな鼾をかいていた。嘉七は、それを聞いていながら、恥ずかしいほどであった。丈夫なやつだ。
「おい、かず枝。しっかりしろ。生きちゃった。ふたりとも、生きちゃった。」苦笑しながら、かず枝の肩をゆすぶった。
 かず枝は、安楽そうに眠りこけていた。深夜の山の杉の木は、にょきにょき黙ってつっ立って、尖った針の梢には、冷い半月がかかっていた。なぜか、涙が出た。しくしく嗚咽をはじめた。おれは、まだまだ子供だ。子供が、なんでこんな苦労をしなければならぬのか。
 突然、傍のかず枝が、叫び出した。
「おばさん。いたいよう。胸が、いたいよう。」笛の音に似ていた。
 嘉七は驚駭した。こんな大きな声を出して、もし、誰か麓の路を通るひとにでも聞かれたら、たまったものでないと思った。
「かず枝、ここは、宿ではないんだよ。おばさんなんていないのだよ。」
 わかる筈がなかった。いたいよう、いたいようと叫びながら、からだを苦しげにくねくねさせて、そのうちにころころ下にころがっていった。ゆるい勾配が、麓の街道までもかず枝のからだをころがして行くように思われ、嘉七も無理に自分のからだをころがしてそのあとを追った。一本の杉の木にさえぎ止められ、かず枝は、その幹にまつわりついて、
「おばさん、寒いよう。火燵もって来てよう。」と高く叫んでいた。
 近寄って、月光に照されたかず枝を見ると、もはや、人の姿ではなかった。髪は、ほどけて、しかもその髪には、杉の朽葉が一ぱいついて、獅子の精の髪のように、山姥の髪のように、荒く大きく乱れていた。
 しっかりしなければ、おれだけでも、しっかりしなければ。嘉七は、よろよろ立ちあがって、かず枝を抱きかかえ、また杉林の奥のほうへ引きかえそうと努めた。つんのめり、這いあがり、ずり落ち、木の根にすがり、土を掻き掻き、少しずつ少しずつかず枝のからだを林の奥へ引きずりあげた。何時間、そのような、虫の努力をつづけていたろう。
 ああ、もういやだ。この女は、おれには重すぎる。いいひとだが、おれの手にあまる。おれは、無力の人間だ。おれは一生、このひとのために、こんな苦労をしなければ、ならぬのか。いやだ、もういやだ。わかれよう。おれは、おれのちからで、尽せるところまで尽した。
 そのとき、はっきり決心がついた。
 この女は、だめだ。おれにだけ、無際限にたよっている。ひとから、なんと言われたっていい。おれは、この女とわかれる。
 夜明けが近くなって来た。空が白くなりはじめたのである。かず枝も、だんだんおとなしくなって来た。朝霧が、もやもや木立に充満している。
 単純になろう。単純になろう。男らしさ、というこの言葉の単純性を笑うまい。人間は、素朴に生きるより、他に、生きかたがないものだ。
 かたわらに寝ているかず枝の髪の、杉の朽葉を、一つ一つたんねんに取ってやりながら、
 おれは、この女を愛している。どうしていいか、わからないほど愛している。そいつが、おれの苦悩のはじまりなんだ。けれども、もう、いい。おれは、愛しながら遠ざかり得る、何かしら強さを得た。生きて行くためには、愛をさえ犠牲にしなければならぬ。なんだ、あたりまえのことじゃないか。世間の人は、みんなそうして生きている。あたりまえに生きるのだ。生きてゆくには、それよりほかに仕方がない。おれは、天才でない。気ちがいじゃない。
 ひるすこし過ぎまで、かず枝は、たっぷり眠った。そのあいだに、嘉七は、よろめきながらも自分の濡れた着物を脱いで、かわかし、また、かず枝の下駄を捜しまわったり、薬品の空箱を土に埋めたり、かず枝の着物の泥をハンケチで拭きとったり、その他たくさんの仕事をした。
 かず枝は、めをさまして、嘉七から昨夜のことをいろいろ聞かされ、
「とうさん、すみません。」と言って、ぴょこんと頭をさげた。嘉七は、笑った。
 嘉七のほうは、もう歩けるようになっていたが、かず枝は、だめであった。しばらく、ふたりは坐ったまま、きょうこれからのことを相談し合った。お金は、まだ拾円ちかくのこっていた。嘉七は、ふたり一緒に東京へかえることを主張したが、かず枝は、着物もひどく汚れているし、とてもこのままでは汽車に乗れない、と言い、結局、かず枝は、また自動車で谷川温泉へかえり、おばさんに、よその温泉場で散歩して転んで、着物を汚したとか、なんとか下手な嘘を言って、嘉七が東京にさきにかえって着換えの着物とお金を持ってまた迎えに来るまで、宿で静養している、ということに手筈がきまった。嘉七の着物がかわいたので、嘉七はひとり杉林から脱けて、水上のまちに出て、せんべいとキャラメルと、サイダーを買い、また山に引きかえして来て、かず枝と一緒にたべた。かず枝は、サイダーを一口のんで吐いた。
 暗くなるまで、ふたりでいた。かず枝が、やっとどうにか歩けるようになって、ふたりこっそり杉林を出た。かず枝を自動車に乗せて谷川にやってから、嘉七は、ひとりで汽車で東京に帰った。
 あとは、かず枝の叔父に事情を打ち明けて一切をたのんだ。無口な叔父は、
「残念だなあ。」
 といかにも、残念そうにしていた。
 叔父がかず枝を連れてかえって、叔父の家に引きとり、
「かず枝のやつ、宿の娘みたいに、夜寝るときは、亭主とおかみの間に蒲団ひかせて、のんびり寝ていた。おかしなやつだね。」と言って、首をちぢめて笑った。他には、何も言わなかった。
 この叔父は、いいひとだった。嘉七がはっきりかず枝とわかれてからも、嘉七と、なんのこだわりもなく酒をのんで遊びまわった。それでも、時おり、
「かず枝も、かあいそうだね。」
 と思い出したようにふっと言い、嘉七は、その都度、心弱く、困った。



底本:「太宰治全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年9月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月刊行
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
1999年9月6日公開
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