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竹青
――新曲聊斎志異――
太宰治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)湖南《こなん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)馬|嘶《いななき》て白日暮れ、

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 むかし湖南《こなん》の何とやら郡邑《ぐんゆう》に、魚容という名の貧書生がいた。どういうわけか、昔から書生は貧という事にきまっているようである。この魚容君など、氏《うじ》育ち共に賤《いや》しくなく、眉目《びもく》清秀、容姿また閑雅《かんが》の趣《おもむ》きがあって、書を好むこと色を好むが如《ごと》しとは言えないまでも、とにかく幼少の頃より神妙に学に志して、これぞという道にはずれた振舞いも無かった人であるが、どういうわけか、福運には恵まれなかった。早く父母に死別し、親戚《しんせき》の家を転々して育って、自分の財産というものも、その間に綺麗《きれい》さっぱり無くなっていて、いまは親戚一同から厄介者《やっかいもの》の扱いを受け、ひとりの酒くらいの伯父《おじ》が、酔余《すいよ》の興にその家の色黒く痩《や》せこけた無学の下婢《かひ》をこの魚容に押しつけ、結婚せよ、よい縁だ、と傍若無人に勝手にきめて、魚容は大いに迷惑ではあったが、この伯父もまた育ての親のひとりであって、謂《い》わば海山の大恩人に違いないのであるから、その酔漢の無礼な思いつきに対して怒る事も出来ず、涙を怺《こら》え、うつろな気持で自分より二つ年上のその痩せてひからびた醜い女をめとったのである。女は酒くらいの伯父の妾《めかけ》であったという噂《うわさ》もあり、顔も醜いが、心もあまり結構でなかった。魚容の学問を頭から軽蔑して、魚容が「大学の道は至善に止《とどま》るに在《あ》り」などと口ずさむのを聞いて、ふんと鼻で笑い、「そんな至善なんてものに止るよりは、お金に止って、おいしい御馳走《ごちそう》に止る工夫でもする事だ」とにくにくしげに言って、「あなた、すみませんが、これをみな洗濯して下さいな。少しは家事の手助けもするものです」と魚容の顔をめがけて女のよごれ物を投げつける。魚容はそのよごれ物をかかえて裏の河原におもむき、「馬|嘶《いななき》て白日暮れ、剣鳴て秋気来る」と小声で吟じ、さて、何の面白い事もなく、わが故土にいながらも天涯の孤客《こかく》の如く、心は渺《びょう》として空《むな》しく河上を徘徊《はいかい》するという間の抜けた有様であった。
「いつまでもこのような惨《みじ》めな暮しを続けていては、わが立派な祖先に対しても申しわけが無い。乃公《おれ》もそろそろ三十、而立《じりつ》の秋だ。よし、ここは、一奮発して、大いなる声名を得なければならぬ」と決意して、まず女房を一つ殴《なぐ》って家を飛び出し、満々たる自信を以《もっ》て郷試《きょうし》に応じたが、如何《いか》にせん永い貧乏暮しのために腹中に力無く、しどろもどろの答案しか書けなかったので、見事に落第。とぼとぼと、また故郷のあばら屋に帰る途中の、悲しさは比類が無い。おまけに腹がへって、どうにも足がすすまなくなって、洞庭湖畔《どうていこはん》の呉王廟《ごおうびょう》の廊下に這《は》い上って、ごろりと仰向《あおむけ》に寝ころび、「あああ、この世とは、ただ人を無意味に苦しめるだけのところだ。乃公の如きは幼少の頃より、もっぱら其《そ》の独《ひと》りを慎んで古聖賢の道を究《きわ》め、学んで而《しこう》して時に之《これ》を習っても、遠方から福音の訪れ来る気配はさらに無く、毎日毎日、忍び難い侮辱ばかり受けて、大勇猛心を起して郷試に応じても無慙《むざん》の失敗をするし、この世には鉄面皮の悪人ばかり栄えて、乃公の如き気の弱い貧書生は永遠の敗者として嘲笑せられるだけのものか。女房をぶん殴って颯爽《さっそう》と家を出たところまではよかったが、試験に落第して帰ったのでは、どんなに強く女房に罵倒《ばとう》せられるかわからない。ああ、いっそ死にたい」と極度の疲労のため精神|朦朧《もうろう》となり、君子の道を学んだ者にも似合わず、しきりに世を呪《のろ》い、わが身の不幸を嘆いて、薄目をあいて空飛ぶ烏《からす》の大群を見上げ、「からすには、貧富が無くて、仕合せだなあ。」と小声で言って、眼を閉じた。
 この湖畔の呉王廟は、三国時代の呉の将軍|甘寧《かんねい》を呉王と尊称し、之を水路の守護神としてあがめ祀《まつ》っているもので、霊顕すこぶるあらたかの由、湖上往来の舟がこの廟前を過ぐる時には、舟子《かこ》ども必ず礼拝し、廟の傍の林には数百の烏が棲息《せいそく》していて、舟を見つけると一斉に飛び立ち、唖々《ああ》とやかましく噪《さわ》いで舟の帆柱に戯れ舞い、舟子どもは之を王の使いの烏として敬愛し、羊の肉片など投げてやるとさっと飛んで来て口に咥《くわ》え、千に一つも受け損ずる事は無い。落第書生の魚容は、この使い烏の群が、嬉々《きき》として大空を飛び廻っている様をうらやましがり、烏は仕合せだなあ、と哀れな細い声で呟《つぶや》いて眠るともなく、うとうとしたが、その時、「もし、もし。」と黒衣の男にゆり起されたのである。
 魚容は未だ夢心地で、
「ああ、すみません。叱《しか》らないで下さい。あやしい者ではありません。もう少しここに寝かせて置いて下さい。どうか、叱らないで下さい。」と小さい時からただ人に叱られて育って来たので、人を見ると自分を叱るのではないかと怯《おび》える卑屈な癖が身についていて、この時も、譫言《うわごと》のように「すみません」を連発しながら寝返りを打って、また眼をつぶる。
「叱るのではない。」とその黒衣の男は、不思議な嗄《しわが》れたる声で言って、「呉王さまのお言いつけだ。そんなに人の世がいやになって、からすの生涯がうらやましかったら、ちょうどよい。いま黒衣隊が一卒欠けているから、それの補充にお前を採用してあげるというお言葉だ。早くこの黒衣を着なさい。」ふわりと薄い黒衣を、寝ている魚容にかぶせた。
 たちまち、魚容は雄《おす》の烏。眼をぱちぱちさせて起き上り、ちょんと廊下の欄干《らんかん》にとまって、嘴《くちばし》で羽をかいつくろい、翼をひろげて危げに飛び立ち、いましも斜陽を一ぱい帆に浴びて湖畔を通る舟の上に、むらがり噪いで肉片の饗応《きょうおう》にあずかっている数百の神烏《しんう》にまじって、右往左往し、舟子の投げ上げる肉片を上手《じょうず》に嘴に受けて、すぐにもう、生れてはじめてと思われるほどの満腹感を覚え、岸の林に引上げて来て、梢《こずえ》にとまり、林に嘴をこすって、水満々の洞庭の湖面の夕日に映えて黄金色に輝いている様を見渡し、「秋風|飜《ひるがえ》す黄金浪花千片か」などと所謂《いわゆる》君子|蕩々然《とうとうぜん》とうそぶいていると、
「あなた、」と艶《えん》なる女性の声がして、「お気に召しまして?」
 見ると、自分と同じ枝に雌《めす》の烏が一羽とまっている。
「おそれいります。」魚容は一揖《いちゆう》して、「何せどうも、身は軽くして泥滓《でいし》を離れたのですからなあ。叱らないで下さいよ。」とつい口癖になっているので、余計な一言を附加えた。
「存じて居ります。」と雌の烏は落ちついて、「ずいぶんいままで、御苦労をなさいましたそうですからね。お察し申しますわ。でも、もう、これからは大丈夫。あたしがついていますわ。」
「失礼ですが、あなたは、どなたです。」
「あら、あたしは、ただ、あなたのお傍に。どんな用でも言いつけて下さいまし。あたしは、何でも致します。そう思っていらして下さい。おいや?」
「いやじゃないが、」魚容は狼狽《ろうばい》して、「乃公《おれ》にはちゃんと女房があります。浮気は君子の慎しむところです。あなたは、乃公を邪道に誘惑しようとしている。」と無理に分別顔を装うて言った。
「ひどいわ。あたしが軽はずみの好色の念からあなたに言い寄ったとでもお思いなの? ひどいわ。これはみな呉王さまの情深いお取りはからいですわ。あなたをお慰め申すように、あたしは呉王さまから言いつかったのよ。あなたはもう、人間でないのですから、人間界の奥さんの事なんか忘れてしまってもいいのよ。あなたの奥さんはずいぶんお優しいお方かも知れないけれど、あたしだってそれに負けずに、一生懸命あなたのお世話をしますわ。烏の操《みさお》は、人間の操よりも、もっと正しいという事をお見せしてあげますから、おいやでしょうけれど、これから、あたしをお傍に置いて下さいな。あたしの名前は、竹青というの。」
 魚容は情に感じて、
「ありがとう。乃公も実は人間界でさんざんの目に遭《あ》って来ているので、どうも疑い深くなって、あなたの御親切も素直に受取る事が出来なかったのです。ごめんなさい。」
「あら、そんなに改まった言い方をしては、おかしいわ。きょうから、あたしはあなたの召使いじゃないの。それでは旦那《だんな》様、ちょっと食後の御散歩は、いかがでしょう。」
「うむ、」と魚容もいまは鷹揚《おうよう》にうなずき、「案内たのむ。」
「それでは、ついていらっしゃい。」とぱっと飛び立つ。
 秋風|嫋々《じょうじょう》と翼を撫《な》で、洞庭の烟波《えんぱ》眼下にあり、はるかに望めば岳陽の甍《いらか》、灼爛《しゃくらん》と落日に燃え、さらに眼を転ずれば、君山、玉鏡に可憐《かれん》一点の翠黛《すいたい》を描いて湘君《しょうくん》の俤《おもかげ》をしのばしめ、黒衣の新夫婦は唖々《ああ》と鳴きかわして先になり後になり憂《うれ》えず惑わず懼《おそ》れず心のままに飛翔《ひしょう》して、疲れると帰帆の檣上《しょうじょう》にならんで止って翼を休め、顔を見合わせて微笑《ほほえ》み、やがて日が暮れると洞庭秋月|皎々《こうこう》たるを賞しながら飄然《ひょうぜん》と塒《ねぐら》に帰り、互に羽をすり寄せて眠り、朝になると二羽そろって洞庭の湖水でぱちゃぱちゃとからだを洗い口を嗽《すす》ぎ、岸に近づく舟をめがけて飛び立てば、舟子どもから朝食の奉納があり、新婦の竹青は初《う》い初《う》いしく恥じらいながら影の形に添う如くいつも傍にあって何かと優しく世話を焼き、落第書生の魚容も、その半生の不幸をここで一ぺんに吹き飛ばしたような思いであった。
 その日の午後、いまは全く呉王廟の神烏の一羽になりすまして、往来の舟の帆檣にたわむれ、折から兵士を満載した大舟が通り、仲間の烏どもは、あれは危いと逃げて、竹青もけたたましく鳴いて警告したのだけれども、魚容の神烏は何せ自由に飛翔できるのがうれしくてたまらず、得意げにその兵士の舟の上を旋回《せんかい》していたら、ひとりのいたずらっ児《こ》の兵士が、ひょうと矢を射てあやまたず魚容の胸をつらぬき、石のように落下する間一髪、竹青、稲妻《いなずま》の如く迅速に飛んで来て魚容の翼を咥《くわ》え、颯《さっ》と引上げて、呉王廟の廊下に、瀕死《ひんし》の魚容を寝かせ、涙を流しながら甲斐甲斐《かいがい》しく介抱《かいほう》した。けれども、かなりの重傷で、とても助からぬと見て竹青は、一声悲しく高く鳴いて数百羽の仲間の烏を集め、羽ばたきの音も物凄《ものすご》く一斉に飛び立ってかの舟を襲い、羽で湖面を煽《あお》って大浪を起し忽《たちま》ち舟を顛覆《てんぷく》させて見事に報讐《ほうしゅう》し、大烏群は全湖面を震撼《しんかん》させるほどの騒然たる凱歌《がいか》を挙げた。竹青はいそいで魚容の許《もと》に引返し、その嘴を魚容の頬にすり寄せて、
「聞えますか。あの、仲間の凱歌が聞えますか。」と哀慟《あいどう》して言う。
 魚容は傷の苦しさに、もはや息も絶える思いで、見えぬ眼をわずかに開いて、
「竹青。」と小声で呼んだ、と思ったら、ふと眼が醒《さ》めて、気がつくと自分は人間の、しかも昔のままの貧書生の姿で呉王廟の廊下に寝ている。斜陽あかあかと目前の楓《かえで》の林を照らして、そこには数百の烏が無心に唖々と鳴いて遊んでいる。
「気がつきましたか。」と農夫の身なりをした爺《じじい》が傍に立っていて笑いながら尋ねる。
「あなたは、どなたです。」
「わしはこの辺の百姓だが、きのうの夕方ここを通ったら、お前さんが死んだように深く眠っていて、眠りながら時々微笑んだりして、わしは、ずいぶん大声を挙げてお前さんを呼んでも一向に眼を醒まさない。肩をつかんでゆすぶっても、ぐたりとしている。家へ帰ってからも気になるので、たびたびお前さんの様子を見に来て、眼の醒めるのを待っていたのだ。見れば、顔色もよくないが、どこか病気か。」
「いいえ、病気ではございません。」不思議におなかも今はちっとも空《す》いていない。「すみませんでした。」とれいのあやまり癖が出て、坐り直して農夫に叮嚀《ていねい》にお辞儀をして、「お恥かしい話ですが、」と前置きをしてこの廟の廊下に行倒れるにいたった事情を正直に打明け、重ねて、「すみませんでした。」とお詫びを言った。
 農夫は憐《あわ》れに思った様子で、懐《ふところ》から財布《さいふ》を取出しいくらかの金を与え、
「人間万事|塞翁《さいおう》の馬。元気を出して、再挙を図《はか》るさ。人生七十年、いろいろさまざまの事がある。人情は飜覆《ほんぷく》して洞庭湖の波瀾《はらん》に似たり。」と洒落《しゃれ》た事を言って立ち去る。
 魚容はまだ夢の続きを見ているような気持で、呆然《ぼうぜん》と立って農夫を見送り、それから振りかえって楓の梢にむらがる烏を見上げ、
「竹青!」と叫んだ。一群の烏が驚いて飛び立ち、ひとしきりやかましく騒いで魚容の頭の上を飛びまわり、それからまっすぐに湖の方へいそいで行って、それっきり、何の変った事も無い。
 やっぱり、夢だったかなあ、と魚容は悲しげな顔をして首を振り、一つ大きい溜息《ためいき》をついて、力無く故土に向けて発足する。
 故郷の人たちは、魚容が帰って来ても、格別うれしそうな顔もせず、冷酷の女房は、さっそく伯父の家の庭石の運搬を魚容に命じ、魚容は汗だくになって河原から大いなる岩石をいくつも伯父の庭先まで押したり曳《ひ》いたり担《かつ》いだりして運び、「貧して怨《えん》無きは難し」とつくづく嘆じ、「朝《あした》に竹青の声を聞かば夕《ゆうべ》に死するも可なり矣」と何につけても洞庭一日の幸福な生活が燃えるほど劇《はげ》しく懐慕せられるのである。
 伯夷叔斉《はくいしゅくせい》は旧悪を念《おも》わず、怨《うらみ》是《これ》を用いて希《まれ》なり。わが魚容君もまた、君子の道に志している高邁《こうまい》の書生であるから、不人情の親戚をも努めて憎まず、無学の老妻にも逆わず、ひたすら古書に親しみ、閑雅の清趣を養っていたが、それでも、さすがに身辺の者から受ける蔑視《べっし》には堪えかねる事があって、それから三年目の春、またもや女房をぶん殴って、いまに見ろ、と青雲の志を抱《いだ》いて家出して試験に応じ、やっぱり見事に落第した。よっぽど出来ない人だったと見える。帰途、また思い出の洞庭湖畔、呉王廟に立ち寄って、見るものみな懐しく、悲しみもまた千倍して、おいおい声を放って廟前で泣き、それから懐中のわずかな金を全部はたいて羊肉を買い、それを廟前にばら撒《ま》いて神烏に供して樹上から降りて肉を啄《ついば》む群烏を眺めて、この中に竹青もいるのだろうなあ、と思っても、皆一様に真黒で、それこそ雌雄をさえ見わける事が出来ず、
「竹青はどれですか。」と尋ねても振りかえる烏は一羽も無く、みんなただ無心に肉を拾ってたべている。魚容はそれでも諦められず、
「この中に、竹青がいたら一番あとまで残っておいで。」と、千万の思慕の情をこめて言ってみた。そろそろ肉が無くなって、群烏は二羽立ち、五羽立ち、むらむらぱっと大部分飛び立ち、あとには三羽、まだ肉を捜して居残り、魚容はそれを見て胸をとどろかせ手に汗を握ったが、肉がもう全く無いと見てぱっと未練《みれん》げも無く、その三羽も飛び立つ。魚容は気抜けの余りくらくら眩暈《めまい》して、それでも尚《なお》、この場所から立ち去る事が出来ず、廟の廊下に腰をおろして、春霞《はるがすみ》に煙る湖面を眺めてただやたらに溜息をつき、「ええ、二度も続けて落第して、何の面目があっておめおめ故郷に帰られよう。生きて甲斐《かい》ない身の上だ、むかし春秋戦国の世にかの屈原《くつげん》も衆人皆酔い、我|独《ひと》り醒《さ》めたり、と叫んでこの湖に身を投げて死んだとかいう話を聞いている、乃公《おれ》もこの思い出なつかしい洞庭に身を投げて死ねば、或《ある》いは竹青がどこかで見ていて涙を流してくれるかも知れない、乃公を本当に愛してくれたのは、あの竹青だけだ、あとは皆、おそろしい我慾の鬼ばかりだった、人間万事塞翁の馬だと三年前にあのお爺《じい》さんが言ってはげましてくれたけれども、あれは嘘だ、不仕合せに生れついた者は、いつまで経《た》っても不仕合せのどん底であがいているばかりだ、これすなわち天命を知るという事か、あはは、死のう、竹青が泣いてくれたら、それでよい、他には何も望みは無い」と、古聖賢の道を究《きわ》めた筈の魚容も失意の憂愁に堪えかね、今夜はこの湖で死ぬる覚悟。やがて夜になると、輪郭《りんかく》の滲《にじ》んだ満月が中空に浮び、洞庭湖はただ白く茫《ぼう》として空と水の境が無く、岸の平沙《へいさ》は昼のように明るく柳の枝は湖水の靄《もや》を含んで重く垂れ、遠くに見える桃畑の万朶《ばんだ》の花は霰《あられ》に似て、微風が時折、天地の溜息の如く通過し、いかにも静かな春の良夜、これがこの世の見おさめと思えば涙も袖《そで》にあまり、どこからともなく夜猿《やえん》の悲しそうな鳴声が聞えて来て、愁思まさに絶頂に達した時、背後にはたはたと翼の音がして、
「別来、恙《つつが》無きや。」
 振り向いて見ると、月光を浴びて明眸皓歯《めいぼうこうし》、二十《はたち》ばかりの麗人がにっこり笑っている。
「どなたです、すみません。」とにかく、あやまった。
「いやよ、」と軽く魚容の肩を打ち、「竹青をお忘れになったの?」
「竹青!」
 魚容は仰天して立ち上り、それから少し躊躇《ちゅうちょ》したが、ええ、ままよ、といきなり美女の細い肩を掻き抱いた。
「離して。いきが、とまるわよ。」と竹青は笑いながら言って巧みに魚容の腕からのがれ、「あたしは、どこへも行かないわよ。もう、一生あなたのお傍に。」
「たのむ! そうしておくれ。お前がいないので、乃公は今夜この湖に身を投げて死んでしまうつもりだった。お前は、いったい、どこにいたのだ。」
「あたしは遠い漢陽に。あなたと別れてからここを立ち退き、いまは漢水の神烏になっているのです。さっき、この呉王廟にいる昔のお友達があなたのお見えになっている事を知らせにいらして下さったので、あたしは、漢陽からいそいで飛んで来たのです。あなたの好きな竹青が、ちゃんとこうして来たのですから、もう、死ぬなんておそろしい事をお考えになっては、いやよ。ちょっと、あなたも痩せたわねえ。」
「痩せる筈さ。二度も続けて落第しちゃったんだ。故郷に帰れば、またどんな目に遭うかわからない。つくづくこの世が、いやになった。」
「あなたは、ご自分の故郷にだけ人生があると思い込んでいらっしゃるから、そんなに苦しくおなりになるのよ。人間|到《いた》るところに青山《せいざん》があるとか書生さんたちがよく歌っているじゃありませんか。いちど、あたしと一緒に漢陽の家へいらっしゃい。生きているのも、いい事だと、きっとお思いになりますから。」
「漢陽は、遠いなあ。」いずれが誘うともなく二人ならんで廟《びょう》の廊下から出て月下の湖畔を逍遥《しょうよう》しながら、「父母|在《いま》せば遠く遊ばず、遊ぶに必ず方有り、というからねえ。」魚容は、もっともらしい顔をして、れいの如くその学徳の片鱗《へんりん》を示した。
「何をおっしゃるの。あなたには、お父さんもお母さんも無いくせに。」
「なんだ、知っているのか。しかし、故郷には父母同様の親戚の者たちが多勢いる。乃公は何とかして、あの人たちに、乃公の立派に出世した姿をいちど見せてやりたい。あの人たちは昔から乃公をまるで阿呆か何かみたいに思っているのだ。そうだ、漢陽へ行くよりは、これからお前と一緒に故郷に帰り、お前のその綺麗《きれい》な顔をみんなに見せて、おどろかしてやりたい。ね、そうしようよ。乃公は、故郷の親戚の者たちの前で、いちど、思いきり、大いに威張ってみたいのだ。故郷の者たちに尊敬されるという事は、人間の最高の幸福で、また終極の勝利だ。」
「どうしてそんなに故郷の人たちの思惑ばかり気にするのでしょう。むやみに故郷の人たちの尊敬を得たくて努めている人を、郷原《きょうげん》というんじゃなかったかしら。郷原は徳の賊なりと論語に書いてあったわね。」
 魚容は、ぎゃふんとまいって、やぶれかぶれになり、
「よし、行こう。漢陽に行こう。連れて行ってくれ。逝者《ゆくもの》は斯《かく》の如き夫《かな》、昼夜を舎《す》てず。」てれ隠しに、甚《はなは》だ唐突な詩句を誦《しょう》して、あははは、と自らを嘲《あざけ》った。
「まいりますか。」竹青はいそいそして、「ああ、うれしい。漢陽の家では、あなたをお迎えしようとして、ちゃんと仕度がしてあります。ちょっと、眼をつぶって。」
 魚容は言われるままに眼を軽くつぶると、はたはたと翼の音がして、それから何か自分の肩に薄い衣のようなものがかかったと思うと、すっとからだが軽くなり、眼をひらいたら、すでに二人は雌雄の烏、月光を受けて漆黒《しっこく》の翼は美しく輝き、ちょんちょん平沙を歩いて、唖々と二羽、声をそろえて叫んで、ぱっと飛び立つ。
 月下白光三千里の長江《ちょうこう》、洋々と東北方に流れて、魚容は酔えるが如く、流れにしたがっておよそ二ときばかり飛翔して、ようよう夜も明けはなれて遥《はる》か前方に水の都、漢陽の家々の甍《いらか》が朝靄《あさもや》の底に静かに沈んで眠っているのが見えて来た。近づくにつれて、晴川《せいせん》歴々たり漢陽の樹、芳草|萋々《せいせい》たり鸚鵡《おうむ》の洲、対岸には黄鶴楼の聳《そび》えるあり、長江をへだてて晴川閣と何事か昔を語り合い、帆影点々といそがしげに江上を往来し、更にすすめば大別山《だいべつざん》の高峰眼下にあり、麓《ふもと》には水漫々の月湖ひろがり、更に北方には漢水|蜿蜒《えんえん》と天際に流れ、東洋のヴェニス一|眸《ぼう》の中に収り、「わが郷関《きょうかん》何《いず》れの処ぞ是《これ》なる、煙波江上、人をして愁えしむ」と魚容は、うっとり呟いた時、竹青は振りかえって、
「さあ、もう家へまいりました。」と漢水の小さな孤洲の上で悠然と輪を描きながら言った。魚容も真似して大きく輪を描いて飛びながら、脚下の孤洲を見ると、緑楊《りょくよう》水にひたり若草|烟《けむ》るが如き一隅にお人形の住家みたいな可憐な美しい楼舎があって、いましもその家の中から召使いらしき者五、六人、走り出て空を仰ぎ、手を振って魚容たちを歓迎している様が豆人形のように小さく見えた。竹青は眼で魚容に合図して、翼をすぼめ、一直線にその家めがけて降りて行き、魚容もおくれじと後を追い、二羽、その洲の青草原に降り立ったとたんに、二人は貴公子と麗人、にっこり笑い合って寄り添い、迎えの者に囲まれながらその美しい楼舎にはいった。
 竹青に手をひかれて奥の部屋へ行くと、その部屋は暗く、卓上の銀燭《ぎんしょく》は青烟《せいえん》を吐《は》き、垂幕《すいばく》の金糸銀糸は鈍く光って、寝台には赤い小さな机が置かれ、その上に美酒|佳肴《かこう》がならべられて、数刻前から客を待ち顔である。
「まだ、夜が明けぬのか。」魚容は間《ま》の抜けた質問を発した。
「あら、いやだわ。」と竹青は少し顔をあからめて、「暗いほうが、恥かしくなくていいと思って。」と小声で言った。
「君子の道は闇然《あんぜん》たり、か。」魚容は苦笑して、つまらぬ洒落《しゃれ》を言い、「しかし、隠《いん》に素《むか》いて怪を行う、という言葉も古書にある。よろしく窓を開くべしだ。漢陽の春の景色を満喫しよう。」
 魚容は、垂幕を排して部屋の窓を押しひらいた。朝の黄金の光が颯《さ》っと射し込み、庭園の桃花は、繚乱《りょうらん》たり、鶯《うぐいす》の百囀《ひゃくてん》が耳朶《じだ》をくすぐり、かなたには漢水の小波《さざなみ》が朝日を受けて躍っている。
「ああ、いい景色だ。くにの女房にも、いちど見せたいなあ。」魚容は思わずそう言ってしまって、愕然《がくぜん》とした。乃公は未だあの醜い女房を愛しているのか、とわが胸に尋ねた。そうして、急になぜだか、泣きたくなった。
「やっぱり、奥さんの事は、お忘れでないと見える。」竹青は傍で、しみじみ言い、幽《かす》かな溜息をもらした。
「いや、そんな事は無い。あれは乃公の学問を一向に敬重せず、よごれ物を洗濯させたり、庭石を運ばせたりしやがって、その上あれは、伯父の妾であったという評判だ。一つとして、いいところが無いのだ。」
「その、一つとしていいところの無いのが、あなたにとって尊くなつかしく思われているのじゃないの? あなたの御心底は、きっと、そうなのよ。惻隠《そくいん》の心は、どんな人にもあるというじゃありませんか。奥さんを憎まず怨《うら》まず呪わず、一生涯、労苦をわかち合って共に暮して行くのが、やっぱり、あなたの本心の理想ではなかったのかしら。あなたは、すぐにお帰りなさい。」竹青は、一変して厳粛な顔つきになり、きっぱりと言い放つ。
 魚容は大いに狼狽《ろうばい》して、
「それは、ひどい。あんなに乃公を誘惑して、いまさら帰れとはひどい。郷原だの何だのと言って乃公を攻撃して故郷を捨てさせたのは、お前じゃないか。まるでお前は乃公を、なぶりものにしているようなものだ。」と抗弁した。
「あたしは神女です。」と竹青は、きらきら光る漢水の流れをまっすぐに見つめたまま、更にきびしい口調で言った。「あなたは、郷試には落第いたしましたが、神の試験には及第しました。あなたが本当に烏の身の上を羨望《せんぼう》しているのかどうか、よく調べてみるように、あたしは呉王廟の神様から内々に言いつけられていたのです。禽獣《きんじゅう》に化して真の幸福を感ずるような人間は、神に最も倦厭《けんえん》せられます。いちどは、こらしめのため、あなたを弓矢で傷つけて、人間界にかえしてあげましたが、あなたは再び烏の世界に帰る事を乞いました。神は、こんどはあなたに遠い旅をさせて、さまざまの楽しみを与え、あなたがその快楽に酔い痴《し》れて全く人間の世界を忘却するかどうか、試みたのです。忘却したら、あなたに与えられる刑罰は、恐しすぎて口に出して言う事さえ出来ないほどのものです。お帰りなさい。あなたは、神の試験には見事に及第なさいました。人間は一生、人間の愛憎の中で苦しまなければならぬものです。のがれ出る事は出来ません。忍んで、努力を積むだけです。学問も結構ですが、やたらに脱俗を衒《てら》うのは卑怯です。もっと、むきになって、この俗世間を愛惜し、愁殺し、一生そこに没頭してみて下さい。神は、そのような人間の姿を一ばん愛しています。ただいま召使いの者たちに、舟の仕度をさせて居ります。あれに乗って、故郷へまっすぐにお帰りなさい。さようなら。」と言い終ると、竹青の姿はもとより、楼舎も庭園も忽然《こつぜん》と消えて、魚容は川の中の孤洲に呆然と独り立っている。
 帆も楫《かじ》も無い丸木舟が一|艘《そう》するすると岸に近寄り、魚容は吸われるようにそれに乗ると、その舟は、飄然《ひょうぜん》と自行《じこう》して漢水を下り、長江を溯《さかのぼ》り、洞庭を横切り、魚容の故郷ちかくの漁村の岸畔に突き当り、魚容が上陸すると無人の小舟は、またするすると自《おのずか》ら引返して行って洞庭の烟波《えんぱ》の間に没し去った。
 頗《すこぶ》るしょげて、おっかなびっくり、わが家の裏口から薄暗い内部を覗くと、
「あら、おかえり。」と艶然《えんぜん》と笑って出迎えたのは、ああ、驚くべし、竹青ではないか。
「やあ! 竹青!」
「何をおっしゃるの。あなたは、まあ、どこへいらしていたの? あたしはあなたの留守に大病して、ひどい熱を出して、誰もあたしを看病してくれる人がなくて、しみじみあなたが恋いしくなって、あたしが今まであなたを馬鹿にしていたのは本当に間違った事だったと後悔して、あなたのお帰りを、どんなにお待ちしていたかわかりません。熱がなかなかさがらなくて、そのうちに全身が紫色に腫《は》れて来て、これもあなたのようないいお方を粗末《そまつ》にした罰で、当然の報いだとあきらめて、もう死ぬのを静かに待っていたら、腫れた皮膚が破れて青い水がどっさり出て、すっとからだが軽くなり、けさ鏡を覗いてみたら、あたしの顔は、すっかり変って、こんな綺麗な顔になっているので嬉しくて、病気も何も忘れてしまい、寝床から飛び出て、さっそく家の中のお掃除などはじめていたら、あなたのお帰りでしょう? あたしは、うれしいわ。ゆるしてね。あたしは顔ばかりでなく、からだ全体変ったのよ。それから、心も変ったのよ。あたしは悪かったわ。でも、過去のあたしの悪事は、あの青い水と一緒にみんな流れ出てしまったのですから、あなたも昔の事は忘れて、あたしをゆるして、あなたのお傍に一生置いて下さいな。」
 一年後に、玉のような美しい男子が生れた。魚容はその子に「漢産」という名をつけた。その名の由来は最愛の女房にも明さなかった。神烏の思い出と共に、それは魚容の胸中の尊い秘密として一生、誰にも語らず、また、れいの御自慢の「君子の道」も以後はいっさい口にせず、ただ黙々と相変らずの貧しいその日暮しを続け、親戚の者たちにはやはり一向に敬せられなかったが、格別それを気にするふうも無く、極めて平凡な一田夫として俗塵《ぞくじん》に埋もれた。
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自註。これは、創作である。支那のひとたちに読んでもらいたくて書いた。漢訳せられる筈である。



底本:「太宰治全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1989(昭和64)年2月28日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版太宰治全集」筑摩書房
   1975(昭和50)年6月から1976(昭和51)年6月
入力:柴田卓治
校正:山本奈津恵
2000年9月19日公開
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