青空文庫アーカイブ

秋は淋しい
素木しづ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一|時《じ》心配した時子の病氣も

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|時《じ》心配した時子の病氣も

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)白いかび[#「かび」に傍点]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\快《い》い方に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 一|時《じ》心配した時子の病氣も、だん/\快《い》い方に向って来ると、朝子は毎日ぼんやりした顔をして子供のベッドの裾の方に腰をおろしてゐた。そして朝子の寝てゐる間は、白いカーテンの巻き上げてある窓の方を見てゐる。
 窓からは、毎日のやうに釣台で運ばれて来る病人が見えた。病人の顔は黄色くなった木の葉のやうにみんな力ない。けれども空はいつも晴れてゐた。
 窓のそばには、大きな桜の木が一本、庭一ぱいに枝をひろげてゐた。しかしその大きな桜の葉は、もはや黄ばみかけてゐた。そして、いつとなく一つ/\土の上に落ちてゐるのであらう。土の上には隅々に落葉がかさなってゐて、朝子が瞳を閉ぢて静かに耳をすますと、どこからともなく、カサ/\とかすかな落葉の音がした。
『この桜は八重で、花の咲く時にはそりゃ、きれいなんで御座いますよ。』と、時子の附添に頼んだ、看護婦の杉本さんが朝子に云った。朝子は、肉附のいゝ肥えた杉本さんのつやのいゝ顔を見ながら、その大きな桜の木を見上げた。けれども朝子は、その大きな桜の木を見上げて、あかるい色の大きな八重の花の咲くことを、少しも考へなかった。彼女は窓の外を見る度に、桜の葉の黄色くなって行くことばかりが考へられてならなかった。そして、ひろがってゐる大きな枝を見まはして、黄色くなった葉をしみ/″\と見ながら、心からもう秋になったのだと思ふと、朝子はなにか大変なことにぶっつからなければならないやうに悲しく、おど/\した恐怖を感じてならなかった。そして自分の弱ってゐる身体が、再び起き上ることが出来ないやうになって、そのまま闇のなかに入ってしまふやうに淋しかった。
 朝子は、多い髪を束ねたまゝ、白い両手を重ねて、何も云はずにぢっとしてゐた。
 繁吉は、時子の病気が少しよくなると、弱い病身の妻の朝子の身体をすぐに気づかひ初めた。それで時子を杉本さんに任せて、一|先《まづ》明けといた家《うち》に帰ることにした。
 繁吉は、丁度寝てゐる時子の頬に脣を押しつけて、短い髪の毛の小さい頭を、大きな掌《てのひら》でそっとなでゝ、それから布団のなかに静かに手を入れて、そっと時子の足の先にさはると、
『大丈夫だ。暖かくなってゐる。』と云って、朝子をかへりみると病室を出た。朝子は、子供の顔を黙ってみてゐたが、そのまゝ良人《をっと》のあとからついて出た。
 朝子の家は病院から程近かったけれども、彼女は俥にのった。そして良人は彼女の俥と一緒に歩いた。朝子はなんとなく自分の家に行くことが恐ろしいやうな心持がした。彼女は、子供を失ってしまった後のやうな、妙な心持になって、どうしてもその心持からはなれることが出来なかった。自分と良人とが朝子をつれずに家に行かうとしてゐる。けれども家に行っても時子はゐないのだ、と思ふと彼女はぼっとして気のぬけたやうな心持になった。時子は病院にゐるのだといふ事は彼女が知ってゐても、その時考へても、なんにもならなかった。只時子のゐる家に帰って行くことが恐ろしいやうな心がするのであった。
 曇った日のせゐか、家のなかはうす暗かった。そしてなんとも知れず厭な寂しい心地がした、丁度家が地下にでも埋められてあるやうにじめ/\して、玄関などには白いかび[#「かび」に傍点]がはえてゐた。そしてなんの物音も聞えない、堪へがたく静かである。
 朝子はしばらく疲れきったやうに、ぢっと坐ってゐる。が、良人が雨戸をあけたり、裏口をあけたりしてゐるので、ふと気がついたやうに壁を見てはっ[#「はっ」に傍点]とした。壁には時子の楽書がたくさんに書かれてあった。朝子はまた時子が失はれてしまった後のやうな心になってしまってたのであった。あの驚き、あの苦痛、あの悲哀、時子が発病して殆ど危険に陥った時のことを思ふと、繁吉も朝子も、時子が失はれたものでなければならないやうな心がした。子供を失ったと同じ苦痛、同じ悲哀、同じ驚きを、彼も彼女も味はったのであった。彼等は、思ひ出したやうに、時子が死なゝかったといふよろこびを気がついたやうに話し合っては、夢からさめたやうに、はっ[#「はっ」に傍点]として静かに笑ふやうな場合が多かった。
[#一字下げ忘れか?200-14]朝子は總《あら》ゆる子供の足跡や玩具《おもちゃ》などを見ては、何となく胸が迫って、寂しい心持になって行った。
 朝子は、二三日の間静かな二階の部屋に床をしいて横になってゐた。けれども、何と云ってとりとめて考へるでもなくて、只おど/\した恐怖と悲しみとの為めに、安らかに眠ることが出来なかった。
 彼女は、眼を開いたり閉ぢたりした。あけはなした縁には、いつもすみ切った静かな風が流れてゐた。朝子は、子供の病気の為めに夏がいつ過ぎてしまったのかわからなかった。あの不意なおどろきも悲しみもなげきも只夢のやうな気がした。あの幼い何も知らない子供を悪魔が奪って行く。その時は、いかなる父親や母親の力も、もはや何者も及ばないのだと、考へるより仕方がなかった。
 朝子は時々二階の欄干によって、遠くの森の方を見ながら、時子が今朝もかはりなく病院の白い大きなベッドの上に起き上ったであらうかと考へた。前の道や間近かで、子供の泣き声が聞えると、彼女の心ははっ[#「はっ」に傍点]として、なか/\胸の動悸が鎮まらなかった。あの細い黒い小さな頸を出して、疲れたやうな、けれども何かを欲するやうな黒い大きな瞳を動かして、ひょっくり起き上ることを思ふと、あの広いガランとした病室のなかに誰れも、杉本さんもゐないのではないかと、自分が少しの間でもはなれてゐるといふことが、涙ぐまれるやうな気がした。そして、毎日のやうに今日こそは、子供のよごれた身体をふいて、新しい着物にきかへさせ胸に抱いて、俥で家に帰って来ることが出来やしないか、再びこの家のなかに時子の姿を見ることが出来やしないかと思ふと、落ちついてることが出来なかった。階下《した》では、夫《をっと》の繁吉が絵を描き初めたのであらう、しきりに椅子や画架を動かす音がする。

 雨上りのやうなしめった静かな朝を、朝子は気がついたやうにお湯に出かけた。彼女はしばらく外に出なかったので、お湯に出かけるのも一仕事のやうに思はれた。朝子はやうやく外に出ると、お湯までのわづか半町《はんちよう》にたらない小路でも物珍らしく、一寸したことでもすぐに眼がついてならなかった。そしてその一寸したことすべては、夏から秋になったといふ事を思はせるものばかりであった。
 朝子は、誰もゐない朝湯のなかで、気のぬけたやうな心持でたった一人つく/″\自分の衰弱した、だるさうな身体を見つめた。どういふものか裸体《はだか》になると、鏡にうつる彼女の顔はまっ青だ。そしてやせて骨だらけな身体が死んだやうに白い。それに髪の毛ばかりが真黒でおもたさうに見えるのであった。
 朝子は、ポタ、ポタ、ポタと、どこかに水の落ちる音を耳にしながら、鏡にうつってゐる自分の身体をぢっと見つめて、ぼっとしたやうな心持になると、鏡のなかの自分の眼の色が白く妙にかはって行くのに驚かされて、はっ[#「はっ」に傍点]とした。彼女は鏡を横にして、あわてたやうに洗ひ出した。
 肺の悪い朝子は、この五月に発熱してながく床についてから、初めて自分の弱って行く身体を気にするやうになった。気にしないではゐられないほど弱って来たからであった。そして妙に涙よわく、力なくなったのも、身体が弱くなって来たせゐだらうと、彼女は考へた。
 一寸した日の照り工合やなにかの為めにも体温の変化がはげしかったりするので、朝子はなによりもその日の天気を気にした。それから食事や、一寸した痛みにも注意深く考へるやうになった。そして時子の乳もすっかりはなしてしまったのだけれども、朝子はなんだか、だん/\やせて弱って行くやうな気がしてならなかった。
 五月までは、胸にふくらんで大きかった両方の乳房が、すっかり肋骨《あばらぼね》にくっついてしまって、乳首が黒く小さくかたく、丁度花のしぼんだあとのやうになってるのを見ると、もうなんの誇る所もない、美しさもない、つかひつくした、老いはてた身体のやうに思ったりした。
 けれども朝子は、お湯から上って着物をきると、疲れの為めではあるけれども、さほどこけてゐない頬に赤味がさすので、若い彼女には心地よさゝうに見えた。そして彼女自身の眼にも、さほど弱ってないやうに見えるのが嬉しかった。
 朝子は、心地よさゝうな顔色をして家に帰ると、繁吉は、少しのひまでもといふやうにカンヴァスに向って描いてゐた。わづか少数の人にのみ知られてゐる画家の彼は、今年も晴れ/″\しい美術の秋の呼び声を、病院からつかれて帰って来るとすぐに、うす暗い彼の画室のなかで聞いたのであった。
 狭い室内には、大きな二つの椅子と三つの画架、机、絵の具箱、カンヴァス、灰皿、大きな口のかけた壺のなかには、黒いダリヤが花弁《くわべん》をおとしてゐて、足のふみばもなかった。そして、そのごた/\したなかに、日廻りの花のあざやかな黄が、どことなく寂しく眼についた。
 朝子が、お湯から帰ると同時に、病院から時子が今日退院してもいゝといふ知らせが来た。
『まあ、今日こそはつれて来られるのよ。時子が帰って来るのよ。』
 朝子は、いま家に入ったばかりの顔を上気さして、疲れも忘れたやうに嬉しさうに叫んだ。
『ぢゃ、いよ/\今日帰って来るんだな。さ、これからどうしよう。』繁吉は、椅子から立上ってやはり堪へがたく嬉しさうに手を上げた。朝子はまた時子を迎へに行く為めに良人をわづらはさなければならないかと思ふと、だん/\絵をかく時間の少なくなる良人が、気の毒でならなかった。朝子は、ふと考へるやうにして、
『私一人で車にのって、迎へに行って来ますわ。その間でもあなたが絵をお描けになればいゝと思ひますもの。』
『お前一人で大丈夫だらうか。』繁吉は、弱りきってる妻の身体と、子供のこととを半ばづゝに心配しながら、またカンヴァスの上に眼を走らせて云った。
『えゝ、大丈夫つれて来られると思ひますわ。』朝子は良人の顔を見ながら、一生懸命に云った。
『ぢゃ、さうしてくれ。俺はその間少しでも描いてゐたいから。』
『えゝ、少しでもお描きになった方がいゝわ。』
 朝子は元気よく、時子の着物を持って湯上りの体を車にのせて、人通りの少ない原や、屋敷の間を通りぬけた。彼女は、本当に少しでも多く、良人に絵を描かせたかった、本当に少しの間でも。けれども常に自分の肉体の弱さや、不意の出来ごと、やはり子供の病気などの為めに、殆ど彼に絵をかゝせることが出来なかったのを、悲しく思った。そしてまた秋が来たのであった。秋が来ると、若いトルコ帽の男や、髪の毛の長い男などが、大道を闊歩するのが目立つ。そして病める画家、老いたる画家までが、忙しさうに秋晴のなかに動き出すのであった。
 そして地位のある壮年の画家は、元気づいてにはかに腰をすゑたやうに見え、どこかに落ち込んでしまったかのやうに、誰れにも気づかれずに見えなかった女絵師が、急に厚化粧した女のやうに、けば/\しく目立って来るのであった。
 秋になれば、本当に寝てゐたやうな画家たちも、急に蘇生した人間のやうに、にはかにうろ/\と大道を歩き出し、展覧会場をねり歩き、互に夢見たことを語り合ふかのやうに、新しい画論や色彩について構図について力について、感激し憤怒し興奮して、喧《やかま》しく語り合ふのであった。
 朝子は、其画家たちの喧騒を見たり聞いたりした。そして、其中に良人を見ることが、寂しくもありまた誇りでもあった。そしてまた秋になれば、彼女はいつも画家である良人の為めに心が動くのであった。
 彼も画家の一人であるならば、秋毎のサロンに一枚の小さな絵でも陳列されるやうに願ったけれども、彼の絵は二度とも落選した。
 朝子は、それを最初良人の絵の価値にかゝはるやうに思ったけれども、今ではそんな事を少しも思はなかった。只、良人が少しでも多く絵を描くことが出来るのをうれしく思った。

 朝子が、そんな事を思ひながら俥からおりて、廊下はづれにある時子の病室の方を気にしながら、長い廊下を通って、時子の病室をそっと覗くと、起き上ってた時子は、すぐに草履の音を耳にして、黒い大きな瞳《め》を彼女の方に向けた。そしてまだ元気のない笑ひを浮べながら、何かを願ふやうに、
『母ちゃん。』とあまり高くない声で呼んだ。
[#一字下げ忘れか?207-4]あさ黒い顔をしてゐる時子が、赤い袷を着せられて、相変らず細い首を出してゐる。
 朝子は、ベッドの上に半分のるやうにして、時子のほっそりした小さな頬に顔をすりつけた、そして、
『あゝ母ぁさんに抱っこして、お家に帰るんですよ。時ちゃんのお家《うち》に帰るんですよ。』と云った。
 看護婦の杉本さんは、なにか洗物でもしてゐたと見えて、裾をからげて入って来ると、
『さゝお家に帰るんですわね、お母さんに抱っこして。』と、朝子とおなじやうなことを、笑ひながら云った。けれど時子には、そんな事はどうでもよかった。そしてまたわからなかった。恐ろしい疫痢の為めにしばらくの間牛乳とおも[#「おも」に傍点]湯の少量より食べることが出来なかったので、少し身体の快復して来たいまは、只、人の顔さへ見れば記憶にのこってゐる、パンとバナナとを欲してゐるのであった。
 杉本さんが、時子の熱臭いやうな一種の妙な臭のする、小さな垢じみた身体を、金盥に持って来た熱いお湯でふき初めると、朝子はつく/″\と我子のやせてあさ黒い、あかの浮いてる身体を見つめた。時子は身体をふかれながら、うま[#「うま」に傍点]/\が欲しいと云って、泣き出した。大きい声で力一ぱい泣き出した。
 朝子は、黙ってそのはげしい泣き声を耳にしながら、何にも云はうとしなかった。彼女はなんとも云ふ必要のないほど、子供の泣き声を快よく聞いたのであった。そして、黒い小さな顔一ぱいが、涙によごれてゐるのを、限りなくなつかしく、何も云はずにぢっと眺めた。
 時子が泣いてゐる。といふ事が、なんとも知れない自然の喜びとなって、彼女の心に湧き上って来るのであった。時子が泣いて、そしてまた元のやうに、家に帰って来るのだと思ふと、朝子は急に、時子の涙によごれた頬に顔をすりつけて、何も云はずに杉本さんの顔を見て笑った。
『お泣きになるんぢゃ、御座いませんたら。』
 杉本さんは、さっきから子供が泣くので、どうしようかと云ふやうに、同じことを繰りかへしながら苦笑してゐる。朝子は、なんとなく杉本さんの顔を見ると、気の毒でならなかった。
 彼女は、泣いてる時子の身体をふき終ると黙って、彼女が子供の退院までに、縫って調へた新らしい襦袢と着物とを着せ初めた。そして、夏に刈ったばかりのまだ延びない頭のくしゃくしゃ[#「くしゃくしゃ」に傍点]した短い髪の毛を、横の方にときつけた。時子はいつの間にか泣きやんで、小さくすゝり上げてゐる。
 新らしい友禅の着物は、色の黒いやせて不機嫌さうな顔をした子供に、少しも似合はなかった。併し朝子は、着物をきせ終ると、時子が杉本さんに抱かれるのを、嬉しさうに見た。そして持って帰らなければならないものを、まとめて風呂敷につゝむと、彼女は夢中になって、先に出た杉本さんのあとを追って病室をふりかへりもせずに、廊下に出た。そして顔見知りの看護婦や人々に頭を下げた。俥にのると朝子はあわてたやうに両手をのばして、杉本さんの手から時子を胸に取って抱いた。そして俥が走り出すと同時に、強く抱きしめた。時子は赤くなって苦しさうに、身体を動かした。朝子はそれが何となく嬉しかった。彼女はやがて子供を安らかに抱いて、時子に電車や通る人を見せるやうにした。
 俥が朝子の家の近くに来た時、良人にはやく時子が来たことを、知らせてやりたいと彼女は考へた。そして首をのばして家の二階の欄干《てすり》の所を見たが、誰れも見えなかった。朝子は、なんとなく寂しい心持がした。誰か知った人にでも、誰れでも顔見知りの人に逢って、笑ひたいやうな気がした。すると繁吉はいつの間にか、家の前の門の所に立って、両手を上げながら、此方を見て笑ひながら、何か云ってゐる。朝子は、急に笑ひながら、時子の顔をのぞき込んで云った。
『父さんが、ほら時ちゃんの父さんが、あすこに見えるでせう。さあもう時ちゃんのお家に帰って来たんですよ。』
 繁吉は、家に入るや否や、時子を抱きしめて、家の中を廻り歩いたが、彼はふと気がついたやうに、大きな手を子供の額にあてゝ見て、また自分の脣を子供の額に押しつけると、
『大丈夫だ。』と、独り言をいって、二階に上って行った。
 彼は忙しかった。急に時子の蒲団を敷いたり、おしめ[#「おしめ」に傍点]を調へたり、部屋の温度を見たりしなければならなかった。繁吉は、絵筆をしまって、画架をかたよせた。
 朝子は、家に入るや否や、時子を良人にとられてしまふと、そのまゝそこに坐ってしまった。すると彼女の瞳は、ぼうと物倦くかすんで来た。そして動かすことが出来なかった。それは急に天気が曇って来たせゐか、冷え/″\した空気が流れこんで来て、彼女は悪寒《さむけ》がして顔色が悪くなった。
 朝子は、繁吉に呼ばれたけれども、立ち上って二階に行くことが出来なかった。
 繁吉は、時子を横にすると、其側に朝子の床を敷いて朝子を寝させた。朝子は横になって、時子がしきりに不機嫌にむづかって泣いてる顔を、うと[#「うと」に傍点]/\と細目に見ながら、何か云はう、何か云はなければならないと思ひながら、彼女は苦しさうに身動きもせず、そのまゝ深い眠りに落ちてしまった。
 繁吉は、時子を寝させようとして、片手で布団を叩き、子守唄をうたひ出した。そしてまた片手で朝子のだるいといふ背中をなでゝさすってやった。時子は、やがてよごれた顔をして、うと[#「うと」に傍点]/\と眠った。
[#一字下げ忘れか?211-6]彼は、急に仕事が忙しくなった。時子の牛乳の時間も見なければならなかったし、おもゆ[#「おもゆ」に傍点]の加減も見なければならなかった。彼は漸く階下《した》に降りて、自分の部屋に入ったけれども、落ちついてぢっと椅子に腰をおろしてゐるわけにも、描きかけの絵を見てゐることも出来なかった。彼は、今二階に寝させて来た許《ばかり》の病身の妻と、病気上りの痩せて浅黒い小さな我子の上に、少しの間でも気をゆるすことが出来なかった。子供が起きやしないか、朝子が呼びはしないかと、彼は腰をおろしても、二階の方にばかり気がとられてゐた。
 しかし彼は気をとられながら、絵筆を持った。彼の心はやはり秋だと思ふと動いた。そして彼の絵を賞賛する友や知人が、彼を訪ねておなじやうに、彼に秋のサロンへの出品を勧めた。朝子は二階の床《とこ》のなかで、やがて眼さめた時は、黄昏近い空にかわききったやうな木の葉をつけた、すゞかけの木がたゞ一つ彼女の眼に入った。彼女は耳をすました、けれども階下《した》からは、何の音も聞えて来なかった。彼女は時子の涙によごれた小さな黒い寝顔を見つめた。そして考へたことは、彼女にとって堪へがたく寂しいことであった。朝子は良人を呼んだ。繁吉はすぐ静かに上って来て、
『呼んだかい。』と聞いた。彼女はうなづいたけれども、何にも云ふことが出来なかった。
(『新潮』大正7・3)


底本:「素木しづ作品集(山田昭夫編)」札幌・北書房
   1970(昭和45)年6月15日発行
初出:「新潮」大正7年3月号
入力:小林徹
校正:湯地光弘
1999年9月5日公開
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