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新生
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)然《しか》し

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一日|眺《なが》めくらしても

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]

 [#…]:返り点
 (例)寂寞懐[#レ]君

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)さら/\/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)裏にかくれた 〔e'rotique〕 であつた
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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[#改丁、ページの左右中央]

    序の章

[#改ページ]

        一

「岸本君――僕は僕の近来の生活と思想の断片を君に書いて送ろうと思う。然《しか》し実を言えば何も書く材料は無いのである。黙していて済むことである。君と僕との交誼《まじわり》が深ければ深いほど、黙していた方が順当なのであろう。旧《ふる》い家を去って新しい家に移った僕は懶惰《らんだ》に費す日の多くなったのをよろこぶぐらいなものである。僕には働くということが出来ない。他人の意志の下に働くということは無論どうあっても出来ない。そんなら自分の意志の鞭《むち》を背にうけて、厳粛な人生の途《みち》に上るかというに、それも出来ない。今までに一つとして纏《まとま》った仕事をして来なかったのが何よりの証拠である。空と雲と大地とは一日|眺《なが》めくらしても飽くことを知らないが、半日の読書は僕を倦《う》ましめることが多い。新しい家に移ってからは、空地に好める樹木を栽《う》えたり、ほんの慰み半分に畑をいじったりするぐらいの仕事しかしないのである。そして僅《わず》かに発芽する蔬菜《そさい》のたぐいを順次に生に忠実な虫に供養するまでである。勿論《もちろん》厨房《ちゅうぼう》の助に成ろう筈《はず》はない。こんな有様であるから田園生活なんどは毛頭《もうとう》思いも寄らぬことである。僕の生活は相変らず空《くう》な生活で始終している。そして当然僕の生涯の絃《げん》の上には倦怠《けんたい》と懶惰が灰色の手を置いているのである。考えて見れば、これが生の充実という現代の金口《きんく》に何等《なんら》の信仰をも持たぬ人間の必定《ひつじょう》堕《お》ちて行く羽目《はめ》であろう。それならそれを悔むかというに、僕にはそれすら出来ない。何故かというに僕の肉体には本能的な生の衝動が極《きわ》めて微弱になって了《しま》ったからである。永遠に堕ちて行くのは無為の陥穽《かんせい》である。然しながら無為の陥穽にはまった人間にもなお一つ残されたる信仰がある。二千年も三千年も言い古した、哲理の発端で総合である無常――僕は僕の生気の失せた肉体を通して、この無常の鐘の音を今更ながらしみじみと聴き惚《ほ》るることがある。これが僕のこのごろの生活の根調である……」
 郊外の中野の方に住む友人の手紙が岸本の前に披《ひろ》げてあった。
 これは数月前に岸本の貰《もら》った手紙だ。それを彼は取出して来て、読返して見た。若かった頃は彼も友人に宛《あ》てて随分長い手紙を書き、また友人の方からも貰いもしたものであったが、次第に書きかわす文通もほんの用事だけの短いものと成って行った。それも葉書で済ませる場合にはなるべく簡単に。それだけ書くべき手紙の数が一方には増《ふ》えて来た。一日かかって何通となく書くことはめずらしくない。その意味から言えば、彼の前に披げてあったものは、めったに友人から貰うことの出来る手紙でもなかった。手紙の形式をかりて書いて寄《よこ》してくれた手紙でない手紙だ。読んで行くうちに、彼は何よりも先《ま》ず人生の半ばに行き着いた人一人としての友人の生活のすがたに、その告白に、ひどく胸を打たれた。ある夕方が来て見ると、あだかも彼方《あっち》の木に集り是方《こっち》の木に集りして飛び騒いでいた小鳥の群が、一羽黙り、二羽黙り、がやがやとした楽しい鳴声が何時《いつ》の間にか沈まって行ったように、丁度そうした夕方が岸本の周囲へも来た。中にも、この手紙をくれた友人が中野の方へ新しい家を造って引移ってからというものは、ずっと声を潜めてしまった。ほんとに黙ってしまった。
 読みかけた手紙を前に置いて、岸本は十四五年このかた変ることのない敬愛の情を寄せたこの友人に自分の生涯を比べて見た。

        二

 岸本は更に読みつづけた。
「……郊外に居を移してから僕の宗教的情調は稍《やや》深くなって来た。僕の仏教は勿論僕の身体を薫染《くんせん》した仏教的気分に過ぎないのである。僕は涅槃《ねはん》に到達するよりも涅槃に迷いたい方である。幻の清浄を体得するよりも、寧《むし》ろ如幻《にょげん》の境に暫《しばら》く倦怠と懶惰の「我《が》」を寄せたいのである。睡《ねむ》っている中に不可思議な夢を感ずるように、倦怠と懶惰の生を神秘と歓喜の生に変えたいのである。無常の宗教から蠱惑《こわく》の芸術に行きたいのである……斯様《かよう》に懶惰な僕も郊外の冬が多少珍らしかったので、日記をつけて見た。去年の十一月四日初めて霜が降った。それから十一日には二度目の霜が降った。四度目の霜である十二月|朔日《ついたち》は雪のようであった。そしてその七日八日九日は三朝続いたひどい霜で、八《や》ツ手《で》や、つわぶきの葉が萎《な》えた。その八日の朝初氷が張った。二十二日以後は完全な冬季の状態に移って、丹沢山塊から秩父《ちちぶ》連山にかけて雪の色を見る日が多くなった。風がまたひどく吹いた。然し概して言えば初冬の野の景色はしみじみと面白いものである。霜の色の蒼白《あおじろ》さは雪よりも滋《しげ》くて切ない趣がある。それとは反対に霜どけの土の色の深さは初夏の雨上りよりも快濶《かいかつ》である。またほろほろになった苔《こけ》が霜どけに潤って朝の日に照らさるる時、大地の色彩の美は殆《ほとん》ど頂点に達するのである。この時の苔の緑は如何《いか》なる種類の緑よりも鮮《あざや》かで生気がある。あだかも緑玉を砕いて棄《す》てたようである。またあだかも印象派の画布《カンバス》を見るようでもある。僕はわびしい冬の幻相の中で、こんな美しい緑に出会おうとも思いがけなかったのである。僕の魂も肉もかかる幻相の美に囚《とら》われている刹那《せつな》、如幻の生も楽しく、夢の浮世も宝玉のように愛惜せられるのである。然しながら自然の幻相は何等の努力の発現でないのと等しく、その幻相の完全な領略はまた何等の努力をも待たないものである。夢をして夢と過ぎしめよ……」
 芸術的生活と宗教的生活との融合を試みようとしているような中野の友人には、相応な資産と倹約な習慣とを遺《のこ》して置いて行った父親があって、この手紙にもよくあらわれている静寂な沈黙を味《あじわ》い得るほどの余裕というものが与えられていた。岸本にはそれが無かった。中野の友人には朝に晩にかしずく好い細君があった。岸本にはそれも無かった。彼の妻は七人目の女の児を産むと同時に産後の激しい出血で亡《な》くなった。
 山を下りて都会に暮すように成ってから岸本には七年の月日が経《た》った。その間、不思議なくらい親しいものの死が続いた。彼の長女の死。次女の死。三女の死。妻の死。つづいて愛する甥《おい》の死。彼のたましいは揺《ゆすぶ》られ通しに揺られた。ずっと以前に岸本もまだ若く友人も皆な若かった頃に、彼には青木という友人があったが、青木は中野の友人なぞを知らないで早く亡くなった。あの青木の亡くなった年から数えると、岸本は十七年も余計に生き延びた。そして彼の近い周囲にあったもので、滅びるものは滅びて行ってしまい、次第に独《ひと》りぼっちの身と成って行った。

        三

 まだ新しい記憶として岸本の胸に上って来る一つの光景があった。続きに続いた親しいものの死から散々に脅《おびやか》された彼は復《ま》たしてもその光景によって否応《いやおう》なしに見せつけられたと思うものがあった。それは会葬者の一人として麹町《こうじまち》の見附内《みつけうち》にある教会堂に行われた弔いの儀式に列《つらな》った時のことだ。黒い布をかけ、二つの花輪を飾った寝棺が説教台の下に置いてあった。その中には岸本の旧い学友で、耶蘇《やそ》信徒で、二十一年ばかりも前に一緒に同じ学校を卒業した男の遺骸《いがい》が納めてあった。肺病で亡くなった学友を弔うための儀式は生前その人が来てよく腰掛けた教会堂の内で至極質素に行われた。やがて寝棺は中央の腰掛椅子の間を通り、壁に添うて教会堂の出入口の方へ運ばれて来た。亡くなった人のためには極く若い学生時代に教を説いて聞かせるからその日の弔いの説教までして面倒を見た牧師をはじめ、親戚《しんせき》友人などがその寝棺の前後左右を持ち支《ささ》えながら。
 岸本は灰色な壁のところに立って、その光景を眺《なが》めていた。その日は岸本の外に、足立《あだち》、菅《すげ》の二人も弔いにやって来ていた。三人とも亡くなった人の同窓の友だ。
「吾儕《われわれ》の仲間はこれだけかい」
 と菅は言って、同じ卒業生仲間を探《さが》すような眼付をした。
「誰かまだ見えそうなものだ」
 と足立も言った。
 会葬のために集まった人達は思い思いに散じつつあった。しばらく岸本は二人の学友と一緒に教会堂の内に残って、帰り行く信徒の群なぞを眺めて立っていた。そこへ来て親戚の代りとして挨拶《あいさつ》した年老いた人があった。三人とも世話になった以前の学校の幹事さんだ。
「可哀そうなことをしました」
 とその幹事さんが亡くなった学友のことを言った。
「子供は幾人《いくたり》あったんですか」
 と岸本が尋ねた。
「四人」
 と幹事さんは言って見せて、「後がすこし困るテ」という言葉を残しながら別れて行った。
 二人の学友と連立って岸本が帰りかけた頃は、会葬者は大抵出て行ってしまった。人気《ひとけ》の少い会堂の建物のみが残った。正面にある尖《とが》ったアーチ風の飾、高い壁、今が今まで花輪を飾った寝棺がその前に置かれてあった質素な説教台のみが残った。会葬者一同が立去った後の沢山並べてある長い腰掛椅子のみが残った。弔いの儀式のために特に用意したらしい説教台の横手にある大きな花瓶《かびん》と花と葉とのみが残った。そろそろ熱くなりかける時分のことで、教会堂風な窓々から明く射《さ》しこんで来る五月の日の光のみが残った。
 岸本は立去りがたい思をして、高い天井の下に映る日の光を眺めながら、つくづく生き残るものの悲哀《かなしみ》を覚えた。その悲哀を多くの親しい身内のものに死別れた後の底疲れに疲れて来た自分の身体で覚えた。
 足立や菅を見ると、若かった日の交遊が岸本の胸に浮んで来る。つづいてあの亡くなった青木のことなぞが聯想《れんそう》せられる。岸本と一緒にその教会堂の石階《いしだん》を降りた二人の学友は最早《もう》青木なぞの生きていた日のことを昔話にするような人達に成っていた。

        四

 それから岸本は二人の学友と一緒に見附を指《さ》して歩いた。久し振《ぶり》で足立の家の方へ誘われて行った。岸本を教会堂まで送って行った車夫は空車を引きながら、話し話し歩いて行く岸本の後へ随《つ》いて来た。
「何年振で会堂へ来て見たか」そんな話をして行くうちに、旧い見附跡に近い空地《あきち》のところへ出た。風の多い塵埃《ほこり》の立つ日で、黄ばんだ砂煙が渦を巻いてやって来た。その度《たび》に足立も、菅も、岸本も、背中をそむけて塵埃の通過ぎるのを待っては復《ま》た歩いた。
 蒸々と熱い日あたりは三人の行く先にあった。牧師が説教台の上で読んだ亡い学友の略伝――四十五年の人の一生――互にそのことを語り合いながら、城下らしい地勢の残ったところについて緩慢《なだらか》な坂の道を静かに上って行った。
「先刻《さっき》、僕が吾家《うち》から出掛けて来ると、丁度|御濠端《おほりばた》のところで皆に遭遇《でっくわ》した。僕は棺に随いて会堂までやって行った」
 と言出したのは三人の中でも一番|年長《としうえ》な足立であった。
「吾儕《われわれ》の組では、最早《もう》幾人《いくたり》亡くなってるだろう」
 それを岸本が言うと、足立は例の精《くわ》しいことの好きな調子で、
「二十人の卒業生の中が、四人欠けていたんだろう。これで五人目だ」
「まだ誰か死んでやしないか。もっと居ないような気がするぜ」それを言ったのは菅だ。
「この次は誰の番だろう」
 あの足立の串談《じょうだん》には、菅も岸本も黙ってしまった。しばらく三人は黙って歩いて行った。
「この三人の中じゃ、一番先へ僕が逝《い》きそうだ」と復《ま》た足立が笑いながら言出した。
「僕の方が怪しい」岸本はそれを言わずにいられなかった。
「ナニ、君は大丈夫だよ。僕こそ一番先かも知れない」と菅は串談のようにそれを言って笑った。
「ところがネ、僕はマイるものなら、この一二年にマイってしまいそうな気がする……」
 この岸本の言葉は二人の学友には串談とも聞えたか知れないが、彼自身は自分で自分の言ったことを笑えなかった。煙のような風塵《かざぼこり》が復た恐ろしくやって、彼は口の中がジャリジャリするほど砂を浴びた。
 その日は葬式の帰りがけにも関《かかわ》らず菅と二人で足立の家へ押掛けた。
「こうして揃《そろ》って来て貰うことは、めったに無い」それを足立が言っていろいろと持成《もてな》してくれた。思わず岸本は話し込んで、車夫を門前に待たせて置きながら、日暮頃までも話した。
「皆一緒に学校を出た時分――あの頃は、何か面白そうなことが先の方に吾儕を待っているような気がした。こうしているのが、これが君、人生かねえ」
 言出すつもりもなく岸本はそれを二人の学友の前に言出した。
「そうサ、これが人生だ」と菅は冷静な調子で言った。「僕はそう思うと変な気のすることがある」
「もうすこしどうかいうことは無いものかね」
 と岸本が言うと、足立はそれを引取って、
「そんなに面白いことが有ると思うのが、間違いだよ」
 足立の部屋に菅と集まって見て、岸本はそこにも不思議な沈黙が旧い馴染《なじみ》の三人を支配していることを感じたのであった。それほど隔ての無い仲間同志にあっても、それほど喋舌《しゃべ》ったり笑ったりしても、互いに心《しん》が黙っていた。
「どうしてもこのままじゃ、僕には死に切れない」
 岸本はまた、それを言わずにいられなかった。
 これらの談話の記憶、これらの光景の記憶、これらの出来事の記憶、これらの心の経験の記憶――すべては岸本に取って生々しいほど新しかった。何かにつけて彼は自分の一生の危機が近づいたと思わせるような、ある忌《いまわ》しい予感に脅されるように成った。

        五

 学友の死を思いつづけながら、神田川に添うて足立の家の方から帰って来た車の上も、岸本には忘れがたい記憶の一つとして残っていた。古代の人が言った地水火風というようなことまで、しきりと彼の想像に上って来たのも、あの車の上であった。火か、水か、土か、何かこう迷信に近いほどの熱意をもって生々しく元始的な自然の刺激に触れて見たら、あるいは自分を救うことが出来ようかと考えたのも、あの車の上であった。
 生存の測りがたさ。曾《かつ》て岸本が妻子を引連れて山を下りようとした頃にこうした重い澱《よど》んだものが一生の旅の途中で自分を待受けようとは、どうして思いがけよう。中野の友人にやって来たというような倦怠は、彼にもやって来た。曾て彼の精神を高めたような幾多の美しい生活を送った人達のことも、皆|空虚《うつろ》のように成ってしまった。彼はほとほと生活の興味をすら失いかけた。日がな一日|侘《わび》しい単調な物音が自分の部屋の障子に響いて来たり、果しもないような寂寞《せきばく》に閉《とざ》される思いをしたりして、しばらくもう人も訪《たず》ねず、冷い壁を見つめたまま坐ったきりの人のように成ってしまった。これはそもそも過度な労作の結果か、半生を通してめぐりにめぐった原因の無い憂鬱《ゆううつ》の結果か、それとも母親のない幼い子供等を控えて三年近くの苦艱《くかん》と戦った結果か、いずれとも彼には言うことが出来なかった。
 中野の友人から貰った手紙の終《しまい》の方には、こんな事も書いてある。
「岸本君、僕はもう黙して可《い》い頃であろう。倦怠と懶惰《らんだ》は僕が僕自身に還《かえ》るのを待っている。眼も疲れ心も疲れた。ふと花壇のほとりを見やると、白い蝴蝶《こちょう》がすがれた花壇に咲いた最初の花を探しあてたところである。そしてその蝴蝶も今年になって初めて見た蝴蝶である。僕の好きな山椿《やまつばき》の花も追々盛りになるであろう。十日ばかり前から山茱黄《やまぐみ》と樒《しきみ》の花が咲いている。いずれも寂しい花である。ことに樒の花は臘梅《ろうばい》もどきで、韵致《いんち》の高い花である。その花を見る僕の心は寂しく顫《ふる》えている」こう結んである。
 中野の友人には子が無かった。曾て岸本の二番目の男の児を引取って養おうと言ってくれたこともあった。しかし、頑是《がんぜ》なく聞分けのない子供は一週間と友人の家に居つかなかった。結局岸本は二人の子供を手許《てもと》に置き、一人を郷里の姉の家に托《たく》した。常陸《ひたち》の海岸の方にある乳母《うば》の家へ預けた末の女の児のためにも月々の仕送りを忘れる訳にはいかなかった。彼はもう黙って、黙って、絶間なしに労作を続けた。
 岸本の四十二という歳《とし》も間近に迫って来ていた。前途の不安は、世に男の大厄《たいやく》というような言葉にさえ耳を傾けさせた。彼は中野の友人に自分を比べて、こんな風に言って見たこともある。友人のは生々とした寛《くつろ》いだ沈黙で、自分のは死んだ沈黙であると。その死んだ沈黙で、彼は自分の身に襲い迫って来るような強い嵐《あらし》を待受けた。
[#改丁、ページの左右中央]

    第一巻

[#改ページ]

        一

 神田川の川口から二三町と離れていない家の二階を降りて、岸本は日頃歩くことを楽みにする河岸《かし》へ出た。そして非常に静かにその河岸を歩いた。あだかも自分の部屋のつい外にある長い廊下でも歩いて見るように。
 その河岸へ来る度《たび》に、釣船屋《つりぶねや》米穀の問屋もしくは閑雅な市人の住宅が柳並木を隔てて水に臨んでいるのを見る度に、きまりで岸本は胸に浮べる一人の未知な青年があった。ふとしたことから岸本はその青年からの手紙を貰《もら》って、彼が歩くことを楽みにする柳並木のかげは矢張《やはり》その青年が幾年となく好んで往来する場所であったことを知った。二人は互いに顔を合せたことも無いが、同じ好きな場所を見つけたということだけでは不思議に一致していた。それから青年は岸本に逢《あ》いたいと言って来た。その時、岸本は日頃逢い過ぎるほど人に逢っていることを書いて、吾儕《われわれ》二人は互いに未知の友として同じ柳並木のかげを楽もうではないか、という意味の返事をその青年に出した。この岸本の心持は届いたと見え、先方《さき》からも逢いたいという望みは強《し》いて捨てたと言って来て、手紙の遣《や》り取りがその時から続いた。例の柳並木、それで二人の心は通じていた。その青年に取っては河岸は岸本であった。岸本に取っては河岸はその青年であった。
 同じ水を眺《なが》め同じ土を踏むというだけのこんな知らないもの同志の手紙の上の交りが可成《かなり》長い間続いた。時にはその青年は旅から岸本の許《もと》へ葉書をくれ、どんなに海が青く光っていても別にこれぞという考えも湧《わ》かない、例の柳並木の方が寧《むし》ろ静かだと書いてよこしたり、時には東京の自宅の方から若い日に有りがちな、寂しい、頼りの無さそうな心持を細々《こまごま》と書いてよこしたりした。次第に岸本はそうした手紙を貰うことも少くなった。ぱったり消息も絶えてしまった。
「あの人もどうしたろう」
 と岸本は河岸を歩きながら自分で自分に言って見た。
 曾《かつ》てその青年から貰った葉書の中に、「あの柳並木のかげには石がございましょう」と書いてあった文句が妙に岸本の頭に残っていた。岸本はそれらしい石の側に立って、浅草橋の下の方から寒そうに流れて来る掘割の水を眺めながら、十八九ばかりに成ろうかとも思われる年頃の未知の青年を胸に描いて見た。曾て頬《ほお》へ触れるまでに低く垂《た》れ下った枝葉の青い香を嗅《か》いだ時は何故とも知らぬ懐《なつ》かしさに胸を踴《おど》らせたというその青年を胸に描いて見た。曾てその石に腰を掛け、膝《ひざ》の上に頬杖《ほおづえ》という形で、岸本がそこを歩く時のことをさまざまに想像したというその青年を胸に描いて見た。
 これほど若々しい心を寄せられた自分は、堪《た》え難いような哀愁を訴えられた自分は、互いに手紙を書きかわすというだけでも何等《なんら》かの力に思われた自分は――そこまで考えて行った時は、岸本はその石の側にも立っていられなかった。
 例の柳並木――そこにはもう青年は来なくなったらしい。以前と同じように歩きに来る岸本だけが残った。

        二

 青年が去った後の河岸には、二人の心を結び着けた柳並木も枯々としていた。岸本の心は静かではなかった。三年近い岸本の独身は決して彼の心を静かにさせては置かなかった。「お前はどうするつもりだ。何時《いつ》までお前はそうして独《ひと》りで暮しているつもりだ。お前の沈黙、お前の労苦には一体何の意味があるのだ。お前の独身は人の噂《うわさ》にまで上《のぼ》っているではないか」こう他《ひと》から言われることがあっても、彼は何と言って答えて可《い》いかを知らなかった。ある時は彼は北海道の曠野《こうや》に立つという寂しいトラピストの修道院に自分の部屋を譬《たと》えて見たこともある。先《ま》ず自己の墓を築いて置いて粗衣粗食で激しく労働しつつ無言の行をやるというあの修道院の内の僧侶《ぼうさん》達に自分の身を譬えて見たこともある。「自分はもう考えまいと思うけれども、どうしても考えずにはいられない」と言った人もあったとやら。岸本が矢張それだ。唯《ただ》彼は考えつづけて来た。
 河岸の船宿の前には石垣の近くに寄せて繋《つな》いである三四|艘《そう》の小舟も見えた。岸本はつくづく澱《よど》み果てた自分の生活の恐ろしさから遁《のが》れようとして、二夏ばかり熱心に小舟を漕《こ》いで見たこともあった。その夏と、その前の年の夏と。もうどうにもこうにも遣切《やりき》れなくなって、そんなことを思いついた。彼が自分の部屋にジッと孤坐《すわ》ったぎり終《しまい》には身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った二階から無理に降りて来て、毎朝早く小舟を出したのもその河岸だ。どうかすると湖水のように静かな隅田川《すみだがわ》の水の上へ出て、都会の真中とも思われないほど清い夏の朝の空気を胸一ぱいに吸って、復《ま》た多くの荷船の通う中を漕ぎ帰って来たのもその石垣の側だ。
「岸本さん」
 と呼びかけて彼の方へ歩いて来る一人の少年があった。河岸の船宿の総領|子息《むすこ》だ。
「こう寒くちゃ、舟もお仕舞《しまい》だね」
 と岸本も忸々《なれなれ》しく言った。彼は十五六ばかりになるその少年を小舟に乗る時の相手として、よく船宿から借りて連れて行った。少年ながらに櫓《ろ》を押すことは巧みであった。
 船宿の子息は岸本の顔を見ながら、
「貴方《あなた》のとこの泉《せん》ちゃんには、よく逢《あ》いますよ」
「君は泉ちゃんを知ってるんですか」と岸本が言った。彼はその少年の口から自分の子供の名を聞くのをめずらしく思った。
「よくこの辺へ遊びに来ますよ」
「へえ、こんな方まで遊びに来ますかねえ」
 と岸本は漸《ようや》くその年から小学校へ通うように成った自分の子供のことを言って見た。
 無心な少年に別れて、復た岸本は細い疎《まば》らな柳の枯枝の下った石垣に添いながら歩いて行った。柳橋を渡って直《すぐ》に左の方へ折れ曲ると、河岸の角に砂揚場《すなあげば》がある。二三の人がその砂揚場の近くに、何か意味ありげに立って眺めている。わざわざ足を留めて、砂揚場の空地《あきち》を眺めて、手持|無沙汰《ぶさた》らしく帰って行く人もある。
「何があったんだろう」
 と岸本は独《ひと》りでつぶやいた。両国の鉄橋の下の方へ渦巻き流れて行く隅田川の水は引き入れられるように彼の眼に映った。

        三

 六年ばかり岸本も隅田川に近く暮して見て、水辺《みずべ》に住むものの誰しもが耳にするような噂をよく耳にしたことはあるが、ついぞまだ女の死体が流れ着いたという実際の場合に自分で遭遇《でっくわ》したことはなかった。偶然にも、彼はそうした出来事のあった場所に行き合わせた。
「今朝《けさ》……」
 砂揚場の側《わき》に立って眺めていた男の一人がそれを岸本に話した。
 両国の附近に漂着したという若い女の死体は既に運び去られた後で、検視の跡は綺麗《きれい》に取片付けられ、筵《むしろ》一枚そこに見られなかった。唯《ただ》、入水《にゅうすい》した女の噂のみがそこに残っていた。
 思いがけない悲劇を見たという心持で、岸本は家をさして引返して行った。彼の胸には最近に断った縁談のことが往《い》ったり来たりした。彼は自分の倦怠《けんたい》や疲労が、澱《よど》み果てた生活が、漸く人としてのさかりな年頃に達したばかりでどうかすると早や老人のように震えて来る身体が、それらが皆独身の結果であろうかと考えて見る時ほど忌々《いまいま》しく口惜《くや》しく思うことはなかった。「結婚するならば今だ」――そう言って心配してくれる友人の忠告に耳を傾けないではないが、実際の縁談となると何時でも彼は考えてしまった。
 岸本の恩人にあたる田辺《たなべ》の小父《おじ》さんという人の家でも、小父さんが亡《な》くなり、姉さんが亡くなって、岸本の書生時代からよく彼のことを「兄さん、兄さん」と呼び慣れた一人子息の弘の時代に成って来ていた。お婆さんはまだ達者だった。そのお婆さんがわざわざ年老いた体躯《からだ》を車で運んで来て勧めてくれた縁談もあったが、それも岸本は断った。郷里の方にある岸本の実の姉も心配して姉から言えば亡くなった自分の子息の嫁、岸本から言えば甥《おい》の太一の細君にあたる人を手紙でしきりに勧めて寄《よこ》したが、その縁談も岸本は断った。
「出来ることなら、そのままでいてくれ。何時までもそうした暮しを続けて行ってくれ」
 こういう意味の手紙を一方では岸本も貰わないではなかった。尤《もっと》も、そう言って寄してくれる人に限ってずっと年は若かった。
 独りに成って見て、はじめて岸本は世にもさまざまな境遇にある女の多いことを知るように成った。その中には、尼にも成ろうとする途中にあるのであるが、もしそちらで貰ってくれるなら嫁に行っても可《い》いというような、一度|嫁《かたづ》いて出て来たというまだ若いさかりの年頃の女の人を数えることが出来た。女としての嗜《たしな》みも深く、学問もあって、家庭の人として何一つ欠くることは無いが、あまりに格の高い寺院《おてら》に生れた為、四十近くまで処女《おとめ》で暮して来たというような人を数えることも出来た。こうした人達は、よし居たにしても、今まで岸本には気がつかなかった。独りで居る女の数は、あるいは独りで居る男の数よりも多かろうか、とさえ岸本には思われた。

        四

 姪《めい》の節子は家の方で岸本を待っていた。河岸から岸本の住む町までの間には、横町一つ隔てて幾つかの狭い路地があった。岸本はどうにでも近道を通って家の方へ帰って行くことが出来た。
「子供は?」
 一寸《ちょっと》そこいらを歩き廻って戻って来た時でも、それを家のものに尋ねるのが岸本の癖のように成っていた。
 彼は節子の口から、兄の方の子供が友達に誘われて町へ遊びに行ったとか、弟の方が向いの家で遊んでいるとか、それを聞くまでは安心しなかった。
 節子が岸本の家へ手伝いに来たのは学校を卒業してしばらく経《た》った時からで、丁度その頃は彼女の姉の輝子も岸本の許《ところ》に来ていた。姉妹《きょうだい》二人は一年ばかりも一緒に岸本の子供の世話をして暮した。その夏|他《よそ》へ嫁《かたづ》いて行く輝子を送ってからは、岸本は節子一人を頼りにして、使っている婆やと共にまだ幼い子供等の面倒を見て貰うことにしてあった。
 岸本の家へ来たばかりの頃の節子はまだ若かった。同じ姉妹でも、姉は学校で刺繍《ぬいとり》裁縫造花なぞを修め、彼女はむずかしい書籍《ほん》を読むことを習って来た。その節子が学窓を離れて岸本の家へ来て見た時は、筋向うには一中節《いっちゅうぶし》の師匠の家があり、その一軒置いて隣には名高い浮世画師の子孫にあたるという人の住む家があり、裏にはまた常磐津《ときわず》の家元の住居《すまい》なぞがあって、学芸に志す彼女の叔父の書斎をこうしたごちゃごちゃとした町中に見つけるということさえ、彼女はそれをめずらしそうに言っていた。「私が叔父さんの家へ来ていると言いましたら、学校の友達は羨《うらや》ましがりましたよ」それを言って見せる彼女の眼には、まだ学校に通っている娘のような輝きがあった。あの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年の心――寂しい、頼りのなさそうな若い日の懊悩《おうのう》をよく手紙で岸本のところへ訴えてよこした未知の青年の心――丁度あの青年に似たような心をもって、叔父《おじ》の許《もと》に身を寄せ、叔父を頼りにしている彼女の容子《ようす》が岸本にも感じられた。彼女の母や祖母《おばあ》さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随《つ》いて遠い外国に、東京には根岸に伯母《おば》の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助|伯父《おじ》――岸本から言えば一番|年長《としうえ》の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁《しげる》さん、お遊びなさいな」
 と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
 と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦《ばか》に家《うち》の内《なか》が静かだね」
 こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸《しがい》が河岸へ上りましたそうですよ」
 と婆やは訛《なま》りのある調子で、町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
 節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭《いや》な顔をした。

        五

「お節ちゃん」
 子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋《すが》った。
 岸本は家の内を歩きながらこの光景《ありさま》を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏《まと》いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺《なが》めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣《ひとえ》なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前《めのまえ》に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出《いで》」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉《うれ》しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯《からだ》を持上げて見た。
「オオ重くなった」
 と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復《ま》た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
 急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図《ぐず》り始めた。
「お節ちゃん」
 言葉尻《ことばじり》に力を入れて強請《ねだ》るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹《こた》えた。
「繁ちゃんはお睡《ねむ》になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進《あ》げますからね」
 その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅《かたすみ》へ蒲団《ふとん》を敷いた。そこは長火鉢《ながひばち》なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度|直《す》ぐ階下《した》に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑《みかん》を二つ取出して来て、一つを繁の手に握らせ、もう一つの黄色いやつを針医の娘の前へ持って行った。
「へえ、あなたにも一つ」
 そういう場合の節子には、言葉にも動作にも、彼女に特有な率直があった。
「さあ、繁ちゃん、お蜜柑もって、おねんねなさい」と節子は子供に添寝する母親のようにして、愚図々々言う繁の頭《つむり》を撫でてやりながら宥《なだ》めた。
「叔父さん、御免なさいね」
 こう言って子供の側に横に成っている節子や、部屋の内を取片付けている婆やを相手に、岸本は長火鉢の側で一服やりながら話す気に成った。
「これでも繁ちゃんは、一頃《ひところ》から見るといくらか温順《おとな》しく成ったろうか」と岸本が言出した。
「一日々々に違って来ましたよ」と節子は答えた。
「そりゃもう、旦那《だんな》さん、こちらへ私が上った頃から見ると、繁ちゃんは大変な違いです。お節ちゃんの姉さんがいらしった頃と、今とは――」と婆やも言葉を添える。
 この二人の答は岸本の聞きたいと思うものであった。彼はまだ何か言出そうとしたが、自分で自分を励ますように一つ二つ荒い息を吐《つ》いた。

        六

「厭《いや》、繁ちゃんは。懐《ふところ》へ手を入れたりなんかして」と節子は母親の懐でも探すようにする子供の顔を見て言った。「そんなことすると、もう一緒にねんねして進《あ》げません」
「温順《おとな》しくして、おねんねするんですよ」と婆やも子供の枕頭《まくらもと》に坐って言った。
「ほんとに繁ちゃんは子供のようじゃないのね」と節子は自分の懐を掻合《かきあわ》せるようにした。「だからあなたは大人と子供の合の子だなんて言われるんですよ――コドナだなんて」
「コドナには困ったねえ」と婆やは田舎訛《いなかなまり》を出して笑った。「あれ、復た愚図る。誰もあなたのことを笑ったんじゃ有りませんよ。今、今、皆なであなたのことを褒《ほ》めてるじゃ有りませんか。ほんとにまあ、私が上った頃から見ると繁ちゃんは大変に温順しくお成りなすったッて――ネ」
「さあ、おねんねなさいね」と節子は寝かかっている子供の短い髪を撫《な》でてやった。
「ああ、もう寝てしまったのか」と岸本は長火鉢の側に居て、子供の寝顔の方を覗《のぞ》くようにした。「ほんとに子供は早いものだね。罪の無いものだね……この児はなかなか手数が要《かか》る。どうして、繁ちゃんの暴《あば》れ方と来た日にゃ、戸は蹴《け》る、障子は破る、一度愚図り出したら容易に納まらないんだから……全く、一頃はえらかった。輝でも、節ちゃんでも困ったろうと思うよ」
「繁ちゃんでは随分泣かせられました」と言いながら、節子は極く静かに身を起して、そっと子供の側を離れた。「なにしろ、捉《つかま》えたら放さないんですもの――袖《そで》でも何でも切れちゃうんですもの」
「そうだったろうね。あの時分から見ると、繁ちゃんもいくらか物が分るように成って来たかナ」こう言う岸本の胸には、節子の姉がまだ新婚の旅に上らないで妹と一緒に子供等の世話をしていてくれたその年の夏のことが浮んで来た。二階に居て聞くと、階下《した》で繁の泣声が聞える――輝子も、節子も、一人の小さなものを持余《もてあま》しているように聞える――その度《たび》に岸本は口唇《くちびる》を噛《か》んで、二階から楼梯《はしごだん》を駆下りて来て見ると、「どうして、あんたはそう聞分けがないの」と言って、輝子は子供と一緒に泣いてしまっている――節子は節子で、泣叫ぶ子供から隠れて、障子の影で自分も泣いている――何卒《どうか》して子供を自然に育てたい、拳固《げんこ》の一つも食《くら》わせずに済むものならなるべくそんな手荒いことをせずに子供を育てたい、とそう岸本も思っても残酷な本能の力は怒なしに暴れ廻る子供を見ていられなくなる――「父さん、御免なさい、繁ちゃんはもう泣きませんから見てやって下さい」と子供の代りに詫《わ》びるように言う輝子の言葉を聞くまでは、岸本は心を休めることも出来ないのが常であった。子供が行って結婚前の島田に結った輝子に取縋《とりすが》る度に、「厭よ、厭よ、髪がこわれちまうじゃありませんか」と言ったあの輝子の言葉を岸本は胸に浮べた。「お嫁に行くんだ――やい、やい」と輝子の方に指さして言った悪戯盛《いたずらざか》りの繁の言葉を胸に浮べた。輝子が夫と一緒に遠い外国へ旅立つ前、別れを告げにその下座敷へ来た時、「それでも皆大きく成ったわねえ」と言って二人の子供をかわるがわる抱いたことを胸に浮べた。その時、節子が側に居て、「大きく成ったと言われるのがそんなに嬉しいの」と子供に言ったことを胸に浮べた。すべてこれらの過去った日の光景《ありさま》が前にあったことも後にあったことも一緒に混合《いれまざ》って、稲妻《いなずま》のように岸本の胸を通過ぎた。
「一切は園子一人の死から起ったことだ」
 岸本は腹《おなか》の中でそれを言って見て、何となくがらんとした天井の下を眺め廻した。

        七

 母親なしにもどうにかこうにか成長して行く幼いものに就《つ》いての話は年少《としした》の子供のことから年長《としうえ》の子供のことに移って、岸本は節子や婆やを相手に兄の方の泉太の噂《うわさ》をしているところへ、丁度その泉太が屋外《そと》から入って来た。
「繁ちゃんは?」
 いきなり泉太は庭口の障子の外からそれを訊《き》いた。二人一緒に遊んでいれば終《しまい》にはよく泣いたり泣かせられたりしながら、泉太が屋外からでも入って来ると、誰よりも先に弟を探した。
「泉ちゃん、皆で今あなたの噂をしていたところですよ」と婆やが言った。「そんなに屋外を飛んで歩いて寒かありませんか」
「あんな紅《あか》い頬《ほっ》ぺたをして」と節子も屋外の空気に刺激されて耳朶《みみたぶ》まで紅くして帰って来たような子供の方を見て言った。
 泉太の癖として、この子供は誰にでも行って取付いた。婆やの方へ行って若い時は百姓の仕事をしたこともあるという巌畳《がんじょう》な身体へも取付けば、そこに居るか居ないか分らないほど静かな針医の娘を側に坐らせた節子の方へも行って取付いた。
「泉ちゃんのようにそう人に取付くものじゃないよ」
 そういう岸本の背後《うしろ》へも来て、泉太は父親の首筋に齧《かじ》りついた。
「でも、泉ちゃんも大きく成ったねえ」と岸本が言った。「毎日見てる子供の大きくなるのは、それほど目立たないようなものだが」
「着物がもうあんなに短くなりました――」と節子も言葉を添える。
「泉ちゃんの顔を見てると、俺《おれ》はそう思うよ。よくそれでもこれまでに大きくなったものだと思うよ」と復《ま》た岸本が言った。「幼少《ちいさ》い時は弱い児だったからねえ。あの巾着頭《きんちゃくあたま》が何よりの証拠サ。この児の姉さん達の方がずっと壮健《じょうぶ》そうだった。ところが姉さん達は死んでしまって、育つかしらんと思った泉ちゃんの方がこんなに成人《しとな》って来た――分らないものだね」
「黙っといで。黙っといで」と泉太は父の言葉を遮《さえぎ》るようにした。「節ちゃん、好いことがある。お巡査《まわり》さんと兵隊さんと何方《どっち》が強い?」
 こういう子供の問は節子を弱らせるばかりでなく、夏まで一緒に居た輝子をもよく弱らせたものだ。
「何方《どっち》も」と節子は姉が答えたと同じように子供に答えた。
「学校の先生と兵隊さんと何方が強い?」
「何方も」
 と復《ま》た節子は答えて、そろそろ智識の明けかかって来たような子供の瞳《ひとみ》に見入っていた。
 岸本は思出したように、
「こうして経《た》って見れば造作《ぞうさ》もないようなものだがね、三年の子守《こもり》はなかなかえらかった。これまでにするのが容易じゃなかった。叔母《おば》さんの亡《な》くなった時は、なにしろ一番|年長《うえ》の泉ちゃんが六歳《むっつ》にしか成らないんだからね。熱い夏の頃ではあり、汗疹《あせも》のようなものが一人に出来ると、そいつが他の子供にまで伝染《うつ》っちゃって――節ちゃんはあの時分のことをよく知らないだろうが、六歳を頭《かしら》に四人の子供に泣出された時は、一寸《ちょっと》手の着けようが無かったね。どうかすると、子供に熱が出る。夜中にお医者さまの家を叩《たた》き起しに行ったこともある。あの時分は、叔父さんもろくろく寝なかった……」
「そうでしたろうね」と節子はそれを眼で言わせた。
「あの時分から見ると、余程《よっぽど》これでも楽に成った方だよ。もう少しの辛抱だろうと思うね」
「繁ちゃんが学校へ行くようにでも成ればねえ」と節子は婆やの方を見て言った。
「どうかまあ、宜《よろ》しくお願い申します」
 こう岸本は言って、節子と婆やの前に手をついてお辞儀した。

        八

 下座敷には箪笥《たんす》も、茶戸棚《ちゃとだな》も、長火鉢も、子供等の母親が生きていた日と殆《ほと》んど同じように置いてあった。岸本が初めて園子と世帯《しょたい》を持った頃からある記念の八角形の古い柱時計も同じ位置に掛って、真鍮《しんちゅう》の振子が同じように動いていた。園子の時代と変っているのは壁の色ぐらいのものであった。一面に子供のいたずら書きした煤《すす》けた壁が、淡黄色の明るい壁と塗りかえられたぐらいのものであった。その夏岸本は節子に、節子の姉に、泉太に、繁まで例の河岸《かし》へ誘って行って、そこから家中のものを小舟に乗せ、船宿の子息《むすこ》をも連れて一緒に水の上へ出たことがあった。それからというものは、「父さん、お舟――父さん、お舟――」と強請《ねだ》るようにする子供の声をこの下座敷でよく聞いたばかりでなく、どうかすると机は覆《ひっくりか》えされて舟の代りになり、団扇掛《うちわかけ》に長い尺度《ものさし》の結び着けたのが櫓《ろ》の代りになり、蒲団《ふとん》が舟の中の蓆莚《ござ》になり、畳の上は小さな船頭の舟|漕《こ》ぐ場所となって、塗り更《か》えたばかりの床の間の壁の上まで子供の悪戯《いたずら》した波の図なぞですっかり汚《よご》されてしまったが。
 暗い仏壇には二つの位牌《いはい》が金色に光っていた。その一つは子供等の母親ので、もう一つは三人の姉達のだ。しかしその位牌の周囲《まわり》には早や塵埃《ほこり》が溜《たま》るようになった。岸本が築いた四つの墓――殊《こと》に妻の園子の墓――三年近くも彼が見つめて来たのは、その妻の墓ではあったが、しかし彼の足は実際の墓参りからは次第に遠くなった。
「叔母さんのことも大分忘れて来た――」
 岸本はよくそれを節子に言って嘆息した。
 丁度この下座敷の直《す》ぐ階上《うえ》に、硝子戸《ガラスど》を開ければ町につづいた家々の屋根の見える岸本の部屋があった。階下《した》に居て二階の話声はそれほどよく聞えないまでも、二階に居て階下の話声は――殊に婆やの高い声なぞは手に取るように聞える。そこへ昇って行って自分の机の前に静坐して見ると、岸本の心は絶えず階下へ行き、子供の方へ行った。彼はまだ年の若い節子を助けて、二階に居ながらでも子供の監督を忘れることが出来なかった。家のものは皆|屋外《そと》へ遊びに出し、門の戸は閉め、錠は掛けて置いて、たった独《ひと》りで二階に横に成って見るような、そうした心持には最早《もう》成れなかった。
 岸本は好きな煙草《たばこ》を取出した。それを燻《ふか》し燻し園子との同棲《どうせい》の月日のことを考えて見た。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
 そう言って、園子が彼の腕に顔を埋めて泣いた時の声は、まだ彼の耳の底にありありと残っていた。
 岸本はその妻の一言を聞くまでに十二年も掛った。園子は豊かな家に生れた娘のようでもなく、艱難《かんなん》にもよく耐えられ、働くことも好きで、夫を幸福にするかずかずの好い性質を有《も》っていたが、しかし激しい嫉妬《しっと》を夫に味《あじわ》わせるような極く不用意なものを一緒にもって岸本の許《もと》へ嫁《かたづ》いて来た。自分はあまりに妻を見つめ過ぎた、とそう岸本が心づいた時は既に遅かった。彼は十二年もかかって、漸《ようや》く自分の妻とほんとうに心の顔を合せることが出来たように思った。そしてその一言を聞いたと思った頃は、園子はもう亡くなってしまった。
「私は自分のことを考えると、何ですか三つ離れ離れにあるような気がしてなりません――子供の時分と、学校に居た頃と、お嫁に来てからと。ほんとに子供の時分には、私は泣いてばかりいるような児でしたからねえ」
 心から出たようなこの妻の残して行った言葉も、まだ岸本の耳についていた。
 岸本はもう準備なしに、二度目の縁談なぞを聞くことの出来ない人に成ってしまった。独身は彼に取って女人に対する一種の復讎《ふくしゅう》を意味していた。彼は愛することをすら恐れるように成った。愛の経験はそれほど深く彼を傷《きずつ》けた。

        九

 書斎の壁に対《むか》いながら、岸本は思いつづけた。
「ああああ、重荷を卸した。重荷を卸した」
 こんな偽りのない溜息《ためいき》が、女のさかりを思わせるような年頃で亡《な》くなった園子を惜しみ哀《かな》しむ心と一緒になって、岸本には起きて来たのであった。妻を失った当時、岸本はもう二度と同じような結婚生活を繰返すまいと考えた。両性の相剋《あいこく》するような家庭は彼を懲りさせた。彼は妻が残して置いて行った家庭をそのまま別の意味のものに変えようとした。出来ることなら、全く新規な生涯を始めたいと思った。十二年、人に連添って、七人の子を育てれば、よしその中で欠けたものが出来たにしても、人間としての奉公は相当に勤めて来たとさえ思った。彼は重荷を卸したような心持でもって、青い翡翠《ひすい》の珠《たま》のかんざしなどに残る妻の髪の香をなつかしみたかった。妻の肌身《はだみ》につけた形見の着物を寝衣《ねまき》になりとして着て見るような心持でもって、沈黙の形でよくあらわれた夫婦の間の苦しい争いを思出したかった。
 岸本の眼前《めのまえ》には、石灰と粘土とで明るく深味のある淡黄色に塗り変えた、堅牢《けんろう》で簡素な感じのする壁があった。彼は早《はや》三年近くもその自分の部屋の壁を見つめてしまったことに気がついた。そしてその三年の終の方に出来た自分の労作の多くが、いずれも「退屈」の産物であることを想って見た。
「父さん」
 と楼梯《はしごだん》のところで呼ぶ声がして、泉太が階下《した》から上って来た。
「繁ちゃんは?」と岸本が訊《き》いた。
 泉太は気のない返事をして、何か強請《ねだ》りたそうな容子《ようす》をしている。
「父さん、蜜豆《みつまめ》――」
「蜜豆なんか止《よ》せ」
「どうして――」
「何か、何かッて、お前達は食べてばかりいるんだね。温順《おとな》しくして遊んでいると、父さんがまた節ちゃんに頼んで、御褒美《ごほうび》を出して貰《もら》ってやるぜ」
 泉太は弟のように無理にも自分の言出したことを通そうとする方ではなかった。それだけ気の弱い性質が、岸本にはいじらしく思われた。妻が形見として残して置いて行ったこの泉太はどういう時代に生れた子供であったか、それを辿《たど》って見るほど岸本に取って夫婦の間だけの小さな歴史を痛切に想い起させるものはなかった。
 町中に続いた家々の見える硝子戸の方へ行って遊んでいた泉太はやがて復た階下《した》へ降りて行った。岸本は六年の間の仕事場であった自分の書斎を眺《なが》め廻した。曾《かつ》ては彼の胸の血潮を湧《わ》き立たせるようにした幾多の愛読書が、さながら欠《あく》びをする静物のように、一ぱいに塵埃《ほこり》の溜った書棚《しょだな》の中に並んでいた。その時岸本はある舞台の上で見た近代劇の年老いた主人公をふと胸に浮べた。その主人公の許《ところ》へ洋琴《ピアノ》を弾《ひ》いて聞かせるだけの役目で雇われて通って来る若い娘を胸に浮べた。生気のあふれた娘の指先から流れて来るメロディを聞こうが為めには、劇の主人公は毎月金を払ったのだ。そして老年の悲哀と寂寞《せきばく》とを慰めようとしたのだ。岸本は劇の主人公に自分を比べて見た。時には静かな三味線《しゃみせん》の音でも聞くだけのことを心やりとして酒のある水辺《みずべ》の座敷へ呼んで見る若草のような人達や、それから若い時代の娘の心で自分の家に来ているというだけでも慰めになる節子をあの劇中の娘に比べて見た。三年の独身は、漸《ようや》く四十の声を聞いたばかりで早老人の心を味わせた。それを考えた時は、岸本は忌々《いまいま》しく思った。

        十

 屋外《そと》の方で聞える子供の泣き声は岸本の沈思を破った。妻を失った後の岸本は、雛鳥《ひなどり》のために餌《えさ》を探す雄鶏《おんどり》であるばかりでなく、同時にまたあらゆる危害から幼いものを護ろうとして一寸《ちょっと》した物音にも羽翅《はがい》をひろげようとする母鶏の役目までも一身に引受けねばならなかった。子供の泣き声がすると、彼は殆《ほとん》ど本能的に自分の座を起《た》った。部屋の外にある縁側に出て硝子戸を開けて見た。それから階下へも一寸見廻りに降りて行った。
「子供が喧嘩《けんか》しやしないか」
 と彼は節子や婆やに注意するように言った。
「あれは他《よそ》の家の子供です」
 節子は勝手口に近い小部屋の鼠不入《ねずみいらず》の前に立っていて、それを答えた。何となく彼女は蒼《あお》ざめた顔付をしていた。
「どうかしたかね」と岸本は叔父らしい調子で尋ねた。
「なんですか気味の悪いことが有りました」
 岸本は節子が学問した娘のようでも無いことを言出したので、噴飯《ふきだ》そうとした。節子に言わせると、彼女が仏壇を片付けに行って、勝手の方へ物を持運ぶ途中で気がついて見ると、彼女の掌《て》にはべっとり血が着いていた。それを流許《ながしもと》で洗い落したところだ。こう叔父に話し聞かせた。
「そんな馬鹿な――」
「でも、婆やまでちゃんと見たんですもの」
「そんな事が有りようが無いじゃないか――仏壇を片付けていたら、手へ血が附着《くっつ》いたなんて」
「私も変に思いましたからね、鼠かなんかの故《せい》じゃないかと思って、婆やと二人で仏さまの下まですっかり調べて見たんですけれど……何物《なんに》も出て来やしません……」
「そんなことを気にするものじゃないよ。原因《もと》が分って見ると、きっとツマラないことなんだよ」
「仏さまへは今、お燈明をあげました」
 節子はこの家の内に起って来る何事《なに》かの前兆ででもあるかのように、それを言った。
「お前にも似合わないじゃないか」岸本は叱《しか》って見せた。「輝が居た時分にも、ホラ、一度妙な事があったぜ。姉さんの枕許《まくらもと》へ国の方に居る祖母《おばあ》さんが出て来たなんて……あの時はお前まで蒼《あお》くなっちまった。ほんとに、お前達はときどき叔父さんをびっくりさせる」
 日の短い時で、階下の部屋はそろそろ薄暗くなりかけていた。岸本は節子の側を離れて家の内をあちこちと歩いて見たが、しまいには気の弱いものに有りがちな一種の幻覚として年若な姪《めい》の言ったことを一概に笑ってしまえなかった。人が亡《な》くなった後の屋根の下を気味悪く思って、よく引越をするもののあるのも笑ってしまえなかった。
 岸本は仏壇の前へ行って立って見た。燈明のひかりにかがやき映った金色の位牌《いはい》には、次のような文字が読まれた。
  「宝珠院妙心|大姉《だいし》」

        十一

「汝《なんじ》、わが悲哀《かなしみ》よ、猶《なお》賢く静かにあれ」
 この文句を口吟《くちずさ》んで見て、岸本は青い紙の蓋《かさ》のかかった洋燈《ランプ》で自分の書斎を明るくした。「君の家はまだランプかい。随分旧弊だねえ」と泉太の小学校の友達にまで笑われる程、岸本の家では洋燈を使っていた。彼はその好きな色の燈火《あかり》のかげで自分で自分の心を励まそうとした。あの赤熱《しゃくねつ》の色に燃えてしかも凍り果てる北極の太陽に自己《おのれ》の心胸《こころ》を譬《たと》え歌った仏蘭西《フランス》の詩人ですら、決して唯《ただ》梟《ふくろう》のように眼ばかり光らせて孤独と悲痛の底に震えてはいなかったことを想像し、その人の残した意味深い歌の文句を繰返して見て、自分を励まそうとした。
 黄ばんだ洋燈の光は住慣れた部屋の壁の上に、独《ひと》りで静坐することを楽みに思う岸本の影法師を大きく写して見せていた。岸本はその影法師を自分の友達とも呼んで見たいような心持でもって、長く生きた昔の独身生活を送った人達のことを思い、世を避けながらも猶かつ養生することを忘れずに芋《いも》を食って一切の病気を治《なお》したというあの「つれづれ草」の中にある坊さんのことを思い、出来ることならこのまま子供を連れて自分の行けるところまで行って見たいと願った。
「旦那《だんな》さん、お粂《くめ》ちゃんの父さんが参りましたよ」
 と婆やが楼梯《はしごだん》の下のところへ来て呼んだ。お粂ちゃんとは、よく岸本の家へ遊びに来る近所の針医の娘の名だ。
 頼んで置いた針医が小さな手箱を提《さ》げて楼梯を上って来た。過ぐる年の寒さから岸本は腰の疼痛《いたみ》を引出されて、それが持病にでも成ることを恐れていた。自分の心を救おうとするには、彼は先《ま》ず自分の身《からだ》から救ってかかる必要を感じていた。
「あんまり坐り過ぎている故《せい》かも知れませんが、私の腰は腐ってしまいそうです」
 こんなことをその針医に言って、岸本は家のものの手も借りずに書斎の次の間から寝道具なぞを取出して来た。それを部屋の片隅《かたすみ》によせて壁に近く敷いた。
「やっぱり疝《せん》の気味でごわしょう。こうした陽気では冷込みますからナ」と言いながら針医は手にした針術《しんじゅつ》の道具を持って岸本の側へ寄った。
 ぷんとしたアルコオルの香が岸本の鼻へ来た。背を向けて横に成った岸本は針医のすることを見ることは出来なかったが、アルコオルで拭《ぬぐ》われた後の快さを自分の背の皮膚で感じた。やがて針医の揉込《もみこ》む針は頸《くび》の真中あたりへ入り、肩へ入り、背骨の両側へも入った。
「痛《いた》」
 思わず岸本は声をあげて叫ぶこともあった。しかし一番長そうに思われる細い金針《きんばり》が腰骨の両側あたりへ深く入って、ズキズキと病める部分に触れて行った時は、睡気《ねむけ》を催すほどの快感がその針の微《かす》かな震動から伝わって来た。彼は針医に頼んで、思うさま腰の疼痛《いたみ》を打たせた。
「自分はもう駄目かしら」
 針医の行った後で、岸本は独りで言って見た。手術後の楽しく激しい疲労から、長いこと彼は死んだように壁の側に横になっていた。部屋の雨戸の外へは寒い雨の来る音がした。

        十二

 年も暮れて行った。節子は姉と二人でなしに、彼女一人の手に叔父の家の世話を任せられたことを迷惑とはしていなかった。彼女は自分一人に任せられなければ、何事も愉快に行うことの出来ないような気むずかしいところを有《も》っていた。その意味から言えば、彼女は意のままに、快適に振舞った。
 しかしそれは婆やなぞと一緒に働く時の節子で、岸本の眼には何となく楽まない別の節子が見えて来た。姉がまだ一緒にいた夏の頃、節子は黄色く咲いた薔薇《ばら》の花を流許《ながしもと》の棚の上に罎《びん》に挿《さ》して置いて、勝手を手伝いながらでも独《ひと》りで眺《なが》め楽むという風の娘であった。「泉ちゃん、好いものを嗅《か》がして進《あ》げましょうか」と言いながらその花を子供の鼻の先へ持って行って見せ、「ああ好い香気《におい》だ」と泉太が眼を細くすると、「生意気ねえ」と快活な調子で言う姉の側に立っていて、「泉ちゃんだって、好いものは好いわねえ」と娘らしい歯を出して笑うのが節子であった。節子姉妹は岸本の知らない西洋草花の名なぞをよく知っていたが、殊《こと》に妹の方は精《くわ》しくもあり、又た天性花を愛するような、物静かな、うち沈んだところを有《も》っていた。「お前達はよくそれでもそんな名前を知ってる」と岸本が感心したように言った時、「花の名ぐらい知らなくって――ねえ、節ちゃん」と姉の方が言えば、「叔父さん、これ御覧なさい、甘い椿《つばき》のような香気がするでしょう」と言ってチュウリップの咲いた鉢《はち》を持って来て見せたのも節子であった。これほど節子はまだ初々《ういうい》しかった。学窓を離れて来たばかりのような処女《おとめ》らしさがあった。その節子が年の暮あたりには何となく楽まないで、じっと考え込むような娘になった。
 岸本の妻が残して置いて行った着物は、あらかたは生家《さと》の方へ返し、形見として郷里の姉へも分け、根岸の嫂《あによめ》にも姪《めい》にも分け、山の方にある知人へも分け、生前園子が懇意にしたような人達のところへは大抵分けて配ってしまって、岸本の手許には僅《わず》かしか残らないように成った。「子供がいろいろお世話に成りました」それを岸本が言って、下座敷に置いてある箪笥の抽筐《ひきだし》の底から園子の残したものを節子姉妹に分けてくれたこともあった。「節ちゃん、いらっしゃいッて」とその時、輝子が妹を呼んだ声はまだ岸本の耳についていた。子供の世話に成る人達に亡くなった母親の形見を分けることは、岸本に取って決して惜しく思われなかった。
 復《ま》た岸本は箪笥の前に立って見た。平素《ふだん》は節子任せにしてある抽筐から彼女の自由にも成らないものを取出して見た。
「叔母さんのお形見も、皆に遣《や》るうちに段々少くなっちゃった」
 と岸本は半分|独語《ひとりごと》のように言って、思い沈んだ節子を慰めるために、取出したものを彼女の前に置いた。
「こんな長襦袢《ながじゅばん》が出て来た」
 と復た岸本は言って見て、娘の悦《よろこ》びそうな女らしい模様のついたやつを節子に分けた。それを見てさえ彼女は楽まなかった。

        十三

 ある夕方、節子は岸本に近く来た。突然彼女は思い屈したような調子で言出した。
「私の様子は、叔父さんには最早《もう》よくお解《わか》りでしょう」
 新しい正月がめぐって来ていて、節子は二十一という歳《とし》を迎えたばかりの時であった。丁度二人の子供は揃《そろ》って向いの家へ遊びに行き、婆やもその迎えがてら話し込みに行っていた。階下《した》には外に誰も居なかった。節子は極く小さな声で、彼女が母になったことを岸本に告げた。
 避けよう避けようとしたある瞬間が到頭やって来たように、思わず岸本はそれを聞いて震えた。思い余って途方に暮れてしまって言わずにいられなくなって出て来たようなその声は極く小さかったけれども、実に恐ろしい力で岸本の耳の底に徹《こた》えた。それを聞くと、岸本は悄《しお》れた姪《めい》の側にも居られなかった。彼は節子を言い宥《なだ》めて置いて、彼女の側を離れたが、胸の震えは如何《いかん》ともすることが出来なかった。すごすごと暗い楼梯《はしごだん》を上って、自分の部屋へ行ってから両手で頭を押えて見た。
 世のならわしにも従わず、親戚《しんせき》の勧めも容《い》れず、友人の忠告にも耳を傾けず、自然に逆らってまでも自分勝手の道を歩いて行こうとした頑固《かたくな》な岸本は、こうした陥穽《おとしあな》のようなところへ堕《お》ちて行った。自分は犯すつもりもなくこんな罪を犯したと言って見たところで、それが彼には何の弁解《いいわけ》にも成らなかった。自分は婦徳を重んじ正義を愛するの念に於《おい》て過ぐる年月の間あえて人には劣らなかったつもりだと言って見たところで、それがまた何の弁解にも成らなかった。自分は多少酒の趣味を解し、上方唄《かみがたうた》の合《あい》の手のような三味線を聞くことを好み、芸で身を立てるような人達を相手に退屈な時を送ったこともあるが、如何《いか》なる場合にも自分は傍観者であって、曾《かつ》てそれらの刺戟《しげき》に心を動かされたこともなかったと言って見たところで、それが何の弁解の足《た》しにも成らないのみか、あべこべに洒脱《しゃだつ》をよそおい謹厳をとりつくろう虚偽と偽善との行いのように自分ながら疑われて来た。のみならず、小唄の一つも聞いて見るほどの洒落気《しゃれけ》があるならば、何故もっと賢く適当に、独身者として大目に見て貰《もら》うような身の処し方をしなかったか、とこう反問するような声を彼は自分の頭脳《あたま》の内部《なか》ですら聞いた。
 しばらく岸本は何事《なんに》も考えられなかった。
 部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とぼ》っていた。がっしりとした四角な火鉢《ひばち》にかけてある鉄瓶《てつびん》の湯も沸いていた。岸本は茶道具を引寄せて、日頃《ひごろ》好きな熱い茶を入れて飲んだ。好きな巻煙草《まきたばこ》をもそこへ取出して、火鉢の灰の中にある紅々《あかあか》とおこった炭の焔《ほのお》を無心に眺《なが》めながら、二三本つづけざまに燻《ふか》して見た。
 壊《こわ》れ行く自己《おのれ》に対するような冷たく痛ましい心持が、そのうちに岸本の意識に上って来た。

        十四

 簾《すだれ》がある。団扇《うちわ》がある。馳走《ちそう》ぶりの冷麦《ひやむぎ》なぞが取寄せて出してある。親戚のものは花火を見ながら集って来ている。甥《おい》の細君が居る。女学生時代の輝子が居る。郷里の方から東京へ出て来たばかりの節子も姉に連れられて来ている。白い扇子をパチパチ言わせながら、「世が世なら伝馬《てんま》の一艘《いっそう》も借りて押出すのになあ」と嘆息する甥《おい》の太一が居る。まだ幼少《ちいさ》な泉太は着物を着更《きか》えさせられて、それらの人達の間を嬉しそうに歩き廻っている。皆を款待《もてな》そうとする母親に抱かれて、乳房を吸っている繁もそこに居る。両国の方ではそろそろ晩の花火のあがる音がする――
 これは園子がまだ達者でいた頃の下座敷の光景《ありさま》だ。岸本はその頃のさかりの園子を、女らしく好く発達した彼女を、堅肥《かたぶと》りに肥《ふと》っても柔軟《しなやか》な姿を失わない彼女の体格を、記憶でまだありありと見ることが出来た。岸本はまたその頃の記憶を階下から自分の書斎へ持って来ることも出来た。独《ひと》りで二階に閉籠《とじこも》って机に向っている彼自身がある。どうかするとその彼の背後《うしろ》へ来て、彼を羽翅《はがい》で抱締めるようにして、親しげに顔を寄せるものがある。それが彼の妻だ。
 園子はその頃から夫の書斎を恐れなかった。画家のアトリエというよりは寧《むし》ろ科学者の実験室のように冷く厳粛《おごそか》なものとして置いた書斎の中に、そうして忸々《なれなれ》しくいられることを彼女は夢のようにすら楽しく思うらしかった。岸本が彼女に忸々しく仕向けたことは、必《きっ》とその同じ仕向けでもって、彼女はそれを夫に酬《むく》いた。時には彼女は夫の身体《からだ》を自分の背中に乗せて、そこにある書架の前あたりをヨロヨロしながら歩き廻ったのも岸本の現に眼前《めのまえ》に見るその同じ部屋の内だ。長いこと妻を導こう導こうとのみ焦心した彼は、その頃に成って、初めて何が園子の心を悦《よろこ》ばせるかを知った。彼は自分の妻もまた、下手《へた》に礼義深く尊敬されるよりは、荒く抱愛されることを願う女の一人であることを知った。
 それから岸本の身体は眼を覚《さ》ますように成って行った。髪も眼が覚めた。耳も眼が覚めた。皮膚も眼が覚めた。眼も眼が覚めた。その他身体のあらゆる部分が眼を覚ました。彼は今まで知らなかった自分の妻の傍に居ることを知るように成った。彼が妻の懐《ふところ》に啜泣《すすりなき》しても足りないほどの遣瀬《やるせ》ないこころを持ち、ある時は蕩子《たわれお》戯女《たわれめ》の痴情にも近い多くのあわれさを考えたのもそれは皆、何事《なんに》も知らずによく眠っているような自分の妻の傍に見つけた悲しい孤独から起って来たことであった。岸本の心の毒は実にその孤独に胚胎《はいたい》した。
 岸本はずっと昔の子供の時分から好い事でも悪い事でも何事もそれを自分の身に行って見た上でなければ、ほんとうにその意味を悟ることが出来なかった。彼は悄れた節子を見て、取返しのつかないような結果に成ったことを聞いて、初めて羞《は》じることを知ったその自分の心根を羞じた。彼は節子の両親の忿怒《いかり》の前に、自分を持って行って考えて見た。彼も早や四十二歳であった。頭を掻《か》いてきまりの悪い思をすれば、何事も若いに免じて詫《わび》の叶《かな》うような年頃とは違っていた。とても彼は名古屋の方に行っている兄の義雄に、また郷里の方にある嫂《あによめ》に、合せ得られるような顔は無かった。

        十五

 嵐《あらし》は到頭やって来た。彼自身の部屋をトラピストの修道院に譬《たと》え、彼自身を修道院の内の僧侶《ぼうさん》に譬えた岸本のところへ。しかも半年ばかり前まで節子の姉が妹と一緒に居て割合に賑《にぎや》かに暮した頃には夢にだも岸本の思わなかったような形で。
 多くの場合に岸本は女性に冷淡であった。彼が一箇の傍観者として種々《さまざま》な誘惑に対《むか》って来たというのも、それは無理に自分を制《おさ》えようとしたからでもなく、むしろ女性を軽蔑《けいべつ》するような彼の性分から来ていた。一生を通して女性の崇拝家であったような亡《な》くなった甥の太一に比べると、彼は余程《よほど》違った性分に生れついていた。その岸本が別に多くの女の中から択《えら》んだでも何でもない自分の姪と一緒に苦しまねば成らないような位置に立たせられて行った。節子は重い石の下から僅《わずか》に頭を持上げた若草のような娘であった。曾《かつ》て愛したこともなく愛されたこともないような娘であった。特に岸本の心を誘惑すべき何物をも彼女は有《も》たなかった。唯《ただ》叔父を頼りにし、叔父を力にする娘らしさのみがあった。何という「生」の皮肉だろう。四人の幼い子供を残した自分の妻の死をそう軽々しくも考えたくないばかりに三年一つの墓を見つめて来た岸本は、あべこべにその死の力から踏みにじられるような心持を起して来た。しかも、極《きわ》めて残酷に。
「父さん。これ、朝?」
 と繁が岸本のところへ来て、大きな子供らしい眼で父の顔を見上げて言った。繁はよく「これ、朝?」とか、「これ、晩?」とか聞いた。
「ああ朝だよ。これが朝だよ。一つねんねして起きるだろう、そうするとこれが朝だ」
 岸本は言いきかせて、まだ朝晩の区別もはっきり分らないような幼いものを一寸《ちょっと》抱いて見た。
 節子の様子をよく見るために岸本は勝手に近い小部屋の方へ行った。用事ありげにそこいらを歩いて見た。節子は婆やを相手に勝手で働いていた。時には彼女は小部屋にある鼠不入《ねずみいらず》の前に立って、その中から鰹節《かつおぶし》の箱を取出し、それを勝手の方へ持って行って削った。すこしもまだ彼女の様子には人の目につくような変ったところは無かった。起居《たちい》にも。動作にも。それを見て、岸本は一時的ながらもやや安心した。
 節子を見た眼で岸本は婆やを見た。婆やは流許《ながしもと》に腰を曲《こご》めて威勢よく働いていた。正直で、働き好きで、丈夫一式を自慢に奉公しているこの婆やは、肺病で亡くなった旧《ふる》い学友の世話で、あの学友が悪い顔付はしながらもまだ床に就《つ》くほどではなく岸本のところへよく人生の不如意を嘆きに来た頃に、そこの細君に連れられて目見えに来たものであった。水道の栓《せん》から迸《ほとばし》るように流れ落ちて来る勢いの好い水の音を聞きながら鍋《なべ》の一つも洗う時を、この婆やは最も得意にしていた。
 何となく節子は一番彼女に近い婆やを恐れるように成った。それにも関《かかわ》らず、彼女は冷静を保っていた。

        十六

「旦那《だんな》さんは今朝《けさ》はどうかなすったんですか。御飯も召上らず」
 二階へ雑巾《ぞうきん》がけに来た婆やがそれを岸本に訊《き》いた。
「今朝は旦那さんのお好きな味噌汁《おみおつけ》がほんとにオイしく出来ましたよ」とまた婆やが言った。
「なに、一度ぐらい食べないようなことは、俺《おれ》はよくある」と岸本は一刻も働かずにじっとしてはいられないような婆やの方を見て言った。「まあ俺の方はどうでも可《い》い。お前達は子供をよく見てくれ」
「なにしろ旦那さんの身体《からだ》は大事な身体だ。旦那さんが弱った日にゃ、吾家《うち》じゃほんとに仕様がない。よくそれでも一人で何もかもやっていらっしゃるッて、この近所の人達が皆そう言っていますよ。ほんとに吾家の旦那さんは、堅い方ですッて……」
 雑巾を掛けながら婆やの話すことを岸本は黙って聞いていた。やがて婆やは階下《した》へ降りて行った。岸本は独りで手を揉《も》んで見た。
 岸本は人知れず自分の顔を紅《あか》めずにはいられなかった。もしあの河岸《かし》の柳並木のかげを往来した未知の青年のような柔《やわらか》い心をもった人が、自分の行いを知ったなら。あの恩人の家の弘のように「兄さん、兄さん」と言って親身の兄弟のように思っていてくれる人や、それから自分のために日頃心配していてくれる友人や、山の方にある園子の女の友達なぞが、聞いたなら。岸本は身体全体を紅くしてもまだ羞《は》じ足りなかった。彼は二十七歳で早くこの世を去った友人の青木のことなぞにも想い到《いた》って、「君はもっと早く死んでいた方が好かった」とあの亡《な》くなった友達にまで笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
 もしこれが進んで行ったら終《しまい》にはどうなるというようなことは岸本には考えられなかった。しかし、すくなくも彼は自分に向って投げられる石のあるということを予期しない訳に行かなかった。彼はある新聞社の主筆が法廷で陳述した言葉を思い出すことが出来る。その主筆に言わせると、世には法律に触れないまでも見遁《みのが》しがたい幾多の人間の罪悪がある。社会はこれに向って制裁と打撃とを加えねば成らぬ。新聞記者は好んで人の私行を摘発するものではないが、社会に代ってそれらの人物を筆誅《ひっちゅう》するに外ならないのであると。こうした眼に見えない石が自分の方へ飛んで来る時の痛さ以上に、岸本は見物の喝采《かっさい》を想像して見て悲しく思った。
 昼と夜とは長い瞬間のように思われるように成って行った。そして岸本の神経は姪に負わせ又自分でも負った深傷《ふかで》に向って注ぎ集るように成って行った。
 岸本は硝子戸《ガラスど》に近く行った。往来の方へ向いた二階の欄《てすり》のところから狭い町を眺めた。白い障子のはまった幾つかの窓が向い側の町家の階上《うえ》にも階下《した》にもあった。その窓々には、岸本の家で部屋の壁を塗りかえてさえ、「お嫁さんでもお迎えに成るんですか」と噂《うわさ》するような近所の人達が住んでいた。いかなる町内の秘密をも聞き泄《もら》すまいとしているようなある商家のかみさんは大きな風呂敷包を背負って、買出しの帰りらしく町を通った。

        十七

「岸本様――只今《ただいま》ここに参り居り候。久しぶりにて御話承りたく候。御都合よろしく候わば、この俥《くるま》にて御出《おいで》を御待ち申上げ候」
 岸本は迎えの俥と一緒に、この友人の手紙を受取った。
「節ちゃん、叔父さんの着物を出しとくれ。一寸友達の顔を見に行って来る」
 こう岸本は節子に言って、そこそこに外出する支度《したく》した。箪笥《たんす》から着物を取出して貰うというだけでも、岸本は心に責めらるるような親しみと、罪の深い哀《あわれ》さとを節子に感ずるように成った。何となく彼女に起りつつある変化、それを押えよう押えようとしているらしい彼女の様子は、重い力で岸本の心を圧した。節子は黙し勝ちに、叔父のために白足袋《しろたび》までも用意した。
 まだ松の内であった。その正月にかぎって親戚への年始廻りにも出掛けずに引籠《ひきこも》っていた岸本は久しぶりで自分の家を離れる思をした。彼は怪しく胸騒ぎのするような心持をもって、門並《かどなみ》に立ててある青い竹の葉の枯れ萎《しお》れたのが風に鳴るのを俥の上で聞いて行った。橋を渡り、電車路を横ぎった。新しい年を迎え顔な人達は祭礼《まつり》の季節にも勝《まさ》って楽しげに町々を往《い》ったり来たりしていた。川蒸汽の音の聞えるところへ出ると、新大橋の方角へ流れて行く隅田川《すみだがわ》の水が見える。その辺は岸本に取って少年時代からの記憶のあるところであった。
 元園町の友人は古い江戸風の残った気持よく清潔な二階座敷で岸本を待受けていた。この友人が多忙《いそが》しい身《からだ》に僅《わずか》の閑《ひま》を見つけて隅田川の近くへ休みに来る時には、よく岸本のところへ使を寄《よこ》した。
「御無沙汰《ごぶさた》しました」
 と言って坐り直す元園町をも、岸本をも、「先生、先生」と呼ぶほど、その家には客扱いに慣れた女達が揃《そろ》っていた。
「元園町の先生は先刻《さっき》から御待兼《おまちかね》でございます」
 と髪の薄い女中が言うと、年嵩《としかさ》な方の女中がそれを引取って、至極|慇懃《いんぎん》な調子で、
「岸本先生もしばらく御見えに成りませんから、どうなすったろうッて皆で御噂を申しておりましたよ。御宅でも皆さん御変りもございませんか。坊ちゃん方も御丈夫で」
 岸本が古い小曲の一ふしも聞いて見るために友人と集ったり、折々は独りでもやって来て心を慰めようとしたのは、その二階座敷であった。年と共に募る憂鬱《ゆううつ》な彼の心は何等《なんら》かの形で音楽を求めずにいられなかった。曾て彼が一度、旧友の足立をその二階に案内した時、「岸本君がこういうところへ来るように成ったかと思うと面白いよ」と言って足立は笑ったこともあった。どうかすると彼は逢《あ》い過ぎるほど逢わねば成らないような客をその二階に避け、諸方《ほうぼう》から貰った手紙を一まとめにして持って来て、半日独りで読み暮すこともあった。彼は自分と全く生立《おいた》ちを異にしたような人達と話すことを好む方で、そこに奉公する女達のさまざまな身上話に耳を傾け、そこに集る年老た客や年若な客の噂に耳を傾け、時には芸で身を立てようとする娘達ばかりを自分の周囲《まわり》に集め、彼等の若い恋を語らせて、それを聞くのを楽みとしたこともあった。一生舞台の上で花を咲かせる時もなく老朽ちてしまったような俳優がその座敷の床の間の花を活《い》けるために、もう何年となく通って来ているということまで岸本は知っていた。
「岸本さんに御酌しないか」と元園町は傍《そば》にいる女を顧みて言った。
「今お熱いのを持って参ります」
 と言いながら女中はそこにある徳利を持添えて岸本に酒を勧めた。
「ああああ、久しぶりでこういうところへやって来た」
 岸本は独語のようにそれを言って、酒の香を嗅《か》いで見た。

        十八

 元園町は岸本の前に居た。しかも岸本がそんな深傷《ふかで》を負っていようとは知らずに酒を飲んでいた。何事も打明けて相談して見たら随分力に成ってくれそうな、思慮と激情とが同時に一人の人にあるこの友人の顔を見ながら、岸本は自分の身に起ったことを仄《ほのめ》かそうともしなかった。それを仄かすことすら羞《は》じた。
「先生、お熱いのが参りました」
 女中の一人が勧めてくれるのを盃《さかずき》に受けて、岸本は皆の楽しい話声を聞きながら、すこしばかりの酒をやっていた。何時《いつ》の間にか彼の心はずっと以前に就《つ》いて学んだことのある旧師の方へ行った。その先生が三度目に結婚した奥さんの方へ行った。その奥さんの若い妹の方へ行った。花なぞを植えて静かに老年の時を送ろうとした先生がしばらく奥さんと別れ住んでいたというその幽棲《すまい》の方へ行った。先生と奥さんの妹との関係は、岸本と姪との関係に似ているかどうかそこまでは彼もよく知らなかったが、すくなくも結果に於《お》いては似ていた。深夜に人知れずある医師の門を叩《たた》いたという先生の心の懊悩《おうのう》を岸本は自分の胸に描いて見た。道理ある医師の言葉に服して再びその門を出たという先生の悔恨をも胸に描いて見た。しばらく彼の心は眼前《めのまえ》にあることを離れてしまった。
「岸本先生は何をそんなに考えていらっしゃるんですか」
 と年嵩な方の女中が岸本の顔を見て言った。
「私ですか……」と岸本は自分の前にある盃を眺めながら、「考えたところで仕方のないことを考えていますよ」
「今日は何物《なんに》も召上って下さらないじゃありませんか。折角のお露《つゆ》が冷《さ》めてしまいます」
「私は先刻《さっき》からそう思って拝見しているところなんですけれど、今日は先生のお顔色も好くない」ともう一人の女中が言い添えた。
「ほんとに岸本先生はお目にかかる度《たんび》に違ってお見えなさる……紅い顔をしていらっしゃるかと思うと、どうかなすったんじゃないかと思うほど蒼《あお》い顔をしていらっしゃることがある……」
 こうそこへ来て酒の興を添えている年の若い痩《や》せぎすな女も言った。岸本はこの女がまだ赤い襟《えり》を掛けているようなほんの小娘の時分から贔屓《ひいき》にして、宴会なぞのある時にはよく呼んで働いて貰うことにしていた。この人も最早《もう》若草のように延びた。
「そこへ行くと、元園町の先生の方は何時見てもお変りなさらない。何時見てもニコニコしていらしって……」と年嵩な女中は言いかけたが、急に気を変えて、「まあ、殿方のことばかり申上げて相済みません」
 そう言いながら女中は自分の膝《ひざ》の上に手を置いて御辞儀した。
「歌の一つも聞かせて下さい」
 と岸本は言出した。すこしの酒が直《す》ぐに顔へ発しる方の彼も、その日は毎時《いつも》のように酔わなかった。

        十九

 生きたいと思う心を岸本に起させるものは、不思議にも俗謡を聞く時であった。酒の興を添えにその二階座敷へ来ていた女の一人は、日頃岸本が上方唄《かみがたうた》なぞの好きなことを知っていて、古い、沈んだ、陰気なほど静かな三味線《しゃみせん》の調子に合せて歌った。

  「心づくしのナ
  この年月《としつき》を、
  いつか思ひの
  はるゝやと、
  心ひとつに
  あきらめん――
  よしや世の中」

 いかなる人に聞かせるために、いかなる人の原作したものとも知れないような古い唄《うた》の文句が、熟した李《すもも》のように色の褪《さ》め変った女の口唇《くちびる》から流れて来た。

  「みじか夜の
  ゆめはあやなし、
  そのうつり香の
  悪《に》くて手折《たを》ろか
  ぬしなきはなを、
  何のさら/\/\、
  更に恋は曲者《くせもの》」

 元園町の友人の側に居て、この唄を聞いていると、情慾のために苦み悩んだような男や女のことがそれからそれと岸本の胸に引出されて行った。
「元園町の先生は好い顔色におなんなすった」と年嵩《としかさ》の方の女中が言った。
「君の酒は好い酒だ」と岸本も友人の方を見た。
「岸本先生は真実《ほんと》に御酔いなすったということが御有んなさらないでしょう」と髪の薄い女中は二人の客の顔を見比べて、「先生のは御酒もそう召上らず、御遊びもなさらず、まさか先生だって女嫌《おんなぎら》いだという訳でもございますまいが――」
「先生は若い姉さん達を並べて置いて、唯《ただ》眺《なが》めてばかりいらっしゃる」と年嵩な方が引取って笑った。
「しかし、私は何時《いつ》までも先生にそうしていて頂《いただ》きたいと思います」と復《ま》た髪の薄い方の女中が言った。「先生だけはどうかして堕落させたくないと思います」
「私だって弱い人間ですよ」と岸本が言った。
「いえ、手前共のようなところへもこうして御贔屓《ごひいき》にしていらしって下さるのが、何よりでございます。そりゃもう御察しいたしております。歌の一つも聞いて見ようという御心持は手前共にもよく分っております……」
「よくそれでも御辛抱が続くと思いますよ。そんなにしていらしって、先生はお寂しか有りませんか……奥さんもお迎えなさらず……」
 元園町は盃を手にしてさも心地《ここち》よさそうに皆の話を聞いていたが、急に岸本の方を強く見て言った。
「岸本君の独《ひと》りで居るのは、今だに僕には疑問です」
 岸本は人知れず溜息《ためいき》を吐《つ》いた。

        二十

「僕は友人としての岸本君を尊敬してはいますが」とその時、元園町は酒の上で岸本を叱《しか》るように言った。「一体、この男は馬鹿です」
「ヨウヨウ」と髪の薄い女中は手を打って笑った。「元園町の先生の十八番《おはこ》が出ましたね」
「あの『馬鹿』が出るようでなくッちゃ、元園町の先生は好い御心持に御酔いなさらない」と年嵩な方の女中も一緒に成って笑った。
 岸本は自分の家の方に仕残した用事があって、長くもこの場所に居なかった。心持好さそうに酔い寛《くつろ》いでいる友人を二階座敷に残して置いて、やがてその家を出た。色彩も、音曲《おんぎょく》も、楽しい女の笑い声も、すべて人を享楽させるためにあるような空気の中から離れて行った時は、余計に岸本の心は沈んでしまった。
 岸本は家をさして歩いた。大川端《おおかわばた》まで出ると酒も醒《さ》めた。身に浸《し》みるような冷い河風の刺激を感じながら、少年の時分に恩人の田辺の家の方からよく歩き廻りに来た河岸《かし》を通って両国の橋の畔《ほとり》にかかった。名高い往昔《むかし》の船宿の名残《なご》りを看板だけに留《とど》めている家の側を過ぎて砂揚場《すなあげば》のあるところへ出た。神田川の方からゆるく流れて来る黒ずんだ水が岸本の眼に映った。その水が隅田川に落合うあたりの岸近くには都鳥も群れ集って浮いていた。ふと岸本はその砂揚場の近くで遭遇《でっくわ》した出来事を思い出した。妊娠した若い女の死体がその辺へ流れ着いたことを思出した。曾《かつ》て検屍《けんし》の後の湿った砂なぞを眺めた彼自身にも勝《まさ》って、一層よく岸本はその水辺の悲劇の意味を読むことが出来た。その心持から、彼は言いあらわし難い恐怖を誘われた。
 急いで岸本は橋を渡った。すたすた家の方へ帰って行った。門松のある中に遊ぼうとするような娘子供は狭い町中で追羽子《おいばね》の音をさせて、楽しい一週の終らしい午後の四時頃の時を送っていた。丁度家には根岸の嫂《あによめ》が訪ねて来て岸本の帰りを待っていた。
「オオ、捨さんか」
 と嫂は岸本の名を呼んで言った。この嫂は岸本が一番|年長《うえ》の兄の連合《つれあい》にあたって、節子から言えば学校時代に世話に成った伯母さんであった。「女の御年始という日でもありませんけれど、宅でも台湾の方ですし、代理がてら今日は一寸《ちょっと》伺いました」とも言った。
 節子は正月らしい着物に着更《きか》えて根岸の伯母を款待《もてな》していた。何となく荒れて見える節子の顔の肌《はだ》も、岸本だけにはそれが早《は》や感じられた。彼はこの女らしく細《こまか》いものに気のつく嫂から、三人も子供をもったことのある人の観察から、なるべく節子を避けさせたかった。
「節ちゃん、そんなとこに坐っていなくても可《い》いから、お茶でも入れ替えて進《あ》げて下さい」
 岸本は節子を庇護《かば》うように言った。長火鉢《ながひばち》を間に置いて岸本と対《むか》い合った嫂の視線はまた、娘のさかりらしく成人した節子の方へよく向いた。この嫂は亡《な》くなった岸本の母親やまだ青年時代の岸本と一緒に、夫の留守居をして暮した骨の折れた月日のことを忘れかねるという風で、何かにつけて若いものを教え誨《さと》すような口調で節子に話しかけた。遠い外国の方で楽しい家庭をつくっているという輝子の噂《うわさ》も出た。
「ここの叔父さんなればこそ、あれまでに御世話が出来たんですよ。この御恩を忘れるようなことじゃ仕方がありません、いくら輝さんが今楽だからと言って――」と嫂は好い婿を取らせて子供まである自分の娘の愛子に、輝子の出世を思い比べるような調子で言って、やがて節子の方を見て、「節ちゃんも、好い叔父さんをお持ちなすって、ほんとにお仕合せですよ」
 それを聞いている岸本は冷い汗の流れる思をした。

        二十一

 嫂は長い年月の間の留守居も辛抱|甲斐《がい》があって漸《ようや》く自分の得意な時代に廻って来たことや、台湾にある民助兄の噂や、自分の娘の愛子の自慢話や、それから常陸《ひたち》の方に行っている岸本が一番末の女の児の君子の話なぞを残して根岸の方へ帰って行った。岸本から云えば姪《めい》の愛子の夫にあたる人の郷里は常陸の海岸の方にあった。その縁故から岸本はある漁村の乳母《うば》の家に君子を托《たく》して養って貰《もら》うことにしてあった。
「捨さんも、そうして何時《いつ》までも独りでいる訳にも行きますまい。どうして岸本さんではお嫁さんをお迎えに成らないんでしょうッて、それを聞かれる度《たび》に私まで返事に困ってしまう」
 根岸の嫂はこんな言葉をも残して置いて行った。
 こうした親類の女の客があった後では、岸本は節子と顔を見合せることを余計に苦しく思った。それは唯の男と女とが見合せる顔では無くて、叔父と姪との見合せる顔であった。岸本は節子の顔にあらわれる暗い影をありありと読むことが出来た。その暗い影は、「貴様は実に怪《け》しからん男だ」という兄の義雄の怒った声を心の底の方で聞くにも勝《まさ》って、もっともっと強い力で岸本の心に迫った。快活な姉の輝子とも違い、平素《ふだん》から節子は口数も少い方の娘であるが、その節子の黙し勝ちに憂い沈んだ様子は彼女の無言の恐怖《おそれ》と悲哀《かなしみ》とを、どうかすると彼女の叔父に対する強い憎《にくし》みをさえ語った。
「叔父さん、私はどうして下さいます――」
 この声を岸本は姪の顔にあらわれる暗い影から読んだ。彼は何よりも先《ま》ず節子の鞭《むち》を受けた。一番多く彼女の苦んでいる様子から責められた。
 急に二人の子供の喧嘩《けんか》する声を聞きつけた時は、岸本は二階の方の自分の部屋にいた。彼は急いで楼梯《はしごだん》を馳《か》け降りた。
 見ると二人の子供は、引留めようとする節子の言うことも聞入れないで争っていた。兄は弟を打《ぶ》った。弟も兄を打った。
「何をするんだ。何を喧嘩するんだ――馬鹿」
 と岸本が言った。泉太も、繁も、一緒に声を揚げて泣出した。
「繁ちゃんが兄さんの凧《たこ》を破いたッて、それから喧嘩に成ったんですよ」と節子は繁を制《おさ》えながら言った。
「泉ちゃんが打《ぶ》った――」と繁は父に言付けるようにして泣いた。
 兄の子供は物を言おうとしても言えないという風で、口惜しそうに口唇《くちびる》を噛《か》んで、もう一度弟をめがけて拳《こぶし》を振上げようとした。
「さあ、止《よ》した。止した」と岸本が叱るように言った。
「もうお止しなさいね。兄さんも、もうお止しなさいね」と節子も言葉を添えた。
「まあ、坊ちゃん方は何を喧嘩なすったんです」
 と言って、婆やがそこへ飛んで来た頃は、まだ二人の子供は泣きじゃくりを吐《つ》いていた。
 岸本は胸を踊らせながら自分の部屋へ引返して行った。硝子戸《ガラスど》に近く行って日暮時の町を眺《なが》めた。河岸の砂揚場のところを通って誘われて来た心持が岸本の胸を往来し始めた。彼はあの水辺《みずべ》の悲劇を節子に結びつけて考えることすら恐ろしく思った。冷い、かすかな戦慄《みぶるい》は人知れず彼の身を伝うように流れた。

        二十二

 七日ばかりも岸本はろくろく眠らなかった。独《ひと》りで心配した。昼の食事の時だけは彼は家のものと一緒でなしに、独りで膳《ぜん》に対《むか》うことが多かったが、そういう時には極《きま》りで節子が膳の側へ来て坐った。彼女はめったに叔父の給仕の役を婆やに任せなかった。それを自分でした。そして俯向《うつむ》き勝ちに帯の間へ手を差入れ、叔父と眼を見合せることを避けよう避けようとしているような場合でも、何時でも彼女の膝《ひざ》は叔父の方へ向いていた。晩《おそ》かれ早かれ破裂を見ないでは止《や》まないような前途の不安が二人を支配した。岸本は膳を前にして、黙って節子と対い合うことが多かった。
「叔父さん、めずらしいお客さまがいらっしゃいましたよ」
 と楼梯《はしごだん》の下から呼ぶ節子の声を聞きつけた時は、岸本は自分の書斎に居た。客のある度《たび》に彼は胸を騒がせた。その度に、節子を隠そうとする心が何よりも先に起《おこ》って来た。
 丁度町でも家の内でもそろそろ燈火《あかり》の点《つ》く頃であった。岸本は階下《した》へ降りて行って見た。十年も彼のところへは消息の絶えていた鈴木の兄が、彼から言えば郷里の方にある実の姉の夫にあたる人が、人目を憚《はばか》るような落魄《らくはく》した姿をして、薄暗い庭先の八ツ手の側に立っていた。
 岸本はこの珍客が火点《ひとも》し頃《ごろ》を選んでこっそりと訪《たず》ねて来た意味を直《す》ぐに読んだ。傷《いた》ましい旅窶《たびやつ》れのしたその様子で。手にした風呂敷包と古びた帽子とで。十年も前に見た鈴木の兄に比べると、旅で年とったその容貌《おもばせ》で。この人が亡くなった甥《おい》の太一の父親であった。
 妻子を捨てて家出をした鈴木の兄は岸本の思惑《おもわく》を憚るという風で、遠慮勝ちに下座敷へ通った。
「台湾の兄貴の方から御噂はよく聞いておりました」
 こう言って迎える岸本をも鈴木の兄は気味悪そうにして、何を義理ある弟から言出されるかという様子をしていた。
「泉ちゃん、お出《いで》。鈴木の伯父《おじ》さんに御辞儀するんだよ」と岸本がそこに居る子供を呼んだ。
「これが泉ちゃんですか」と言って子供の方を見る客の顔には漸《ようや》く以前の旧《ふる》い鈴木の家の主人公らしい微笑《えみ》が浮んだ。
「伯父さん、いらっしゃいまし」と節子もそこへ来て挨拶《あいさつ》した。
「節ちゃんか。どうも見違えるほど大きくなりましたね。幼顔《おさながお》が僅《わず》かに残っているぐらいのもので――」と鈴木の兄に言われて、節子はすこし顔を紅《あか》めた。
「私の家でもお園が亡くなりましてね」と岸本が言った。「あなたの御馴染《おなじみ》の子供は三人とも亡くなってしまいました。一頃《ひところ》は輝も居て手伝ってくれましたが、あの人もお嫁に行きましてね、今では節ちゃんが子供の世話をしていてくれます」
「お園さんのお亡くなりに成ったことは、台湾の方で聞きました……民助君には彼方《あちら》で大分御世話に成りました……捨さんのことも、民助君からよく聞きました……何しろ私も年は取りますし、身体も弱って来ましたし、捨さんに御相談して頂くつもりで実は台湾の方から帰って参りました……」

        二十三

「節ちゃん、鈴木の兄さんは袷《あわせ》を着ていらっしゃるようだぜ。叔父さんの綿入を出してお上げ。序《ついで》に、羽織も出して上げたら可《よ》かろう」
 こう岸本は節子を呼んで言って、十年振りで旅から帰って来た人のために夕飯の仕度《したく》をさせた。よくよく困った揚句《あげく》に義理ある弟の家をめがけて遠く辿《たど》り着いたような鈴木の兄の相談を聞くのは後廻しとして、ともかくも岸本は疲れた旅の人を休ませようとした。しばらく家に泊めて置いて、その人の様子を見ようとした。十年の月日は岸本の生活を変えたばかりでなく、太一の父親が家出をした後の旧《ふる》い大きな鈴木の家をも変えた。そこには最早《もう》岸本の甥でもあり友人でもあり話相手ででもあった太一は居なかった。太一の細君も居なかった。そこには倒れかけた鈴木の家を興《おこ》した養子が居た。養子の細君が居た。十年も消息の絶えた夫を待っている岸本の姉が居た。太一の妹が居た。岸本が三番目の男の児はその姉の家に托してあった。
 節子のことを案じ煩《わずら》いながら、岸本はポツポツ鈴木の兄の話すことを聞いた。台湾地方の熱い日に焼けて来た流浪者を前に置いて、岸本はまだこの人が大蔵省の官吏であった頃の立派な威厳のあった風采《ふうさい》を思出すことが出来る。岸本が少年の頃に流行した猟虎《らっこ》の帽子なぞを冠《かぶ》ったこの人の紳士らしい風采を思出すことが出来る。彼が九つの歳《とし》に東京へ出て来た時、初めて身を寄せたのはこの人の家であって、よくこの人から漢籍の素読なぞを受けた幼い日のことを思出すことが出来る。岸本がこの人と姉との側に少年の時代を送ったのは一年ばかりに過ぎなかったが、しかしその間に受けた愛情は幼い彼の心に深く刻みつけられていた。それからずっと後になって、この人の身の上には種々《さまざま》な変化が起り、その行いには烈《はげ》しい非難を受けるような事も多かった。そういう中でも、猶《なお》岸本が周囲の人のようにはこの人を考えていなかったというのは、全く彼が少年の時に受けた温い深切《しんせつ》の為で――丁度、それが一点のかすかな燈火《ともしび》のように彼の心の奥に燃えていたからであった。
 岸本は七日ばかりもこの旅の人を自分の許に逗留《とうりゅう》させて置いた。その七日の後には、この落魄《らくはく》した太一の父親を救おうと決心した。
「節ちゃん、叔父さんは鈴木の兄さんを連れて、国の方へ御辞儀に行って来るよ」
 岸本はその話をした後で、別に彼の留守中に医師の診察を受けるようにと節子に勧めた。節子はその時の叔父の言葉に同意した。彼女自身も一度|診《み》て貰いたいと言った。幸に彼女の思違いであったなら。岸本はそんな覚束《おぼつか》ないことにも万一の望みをかけ、そこそこに旅の仕度《したく》して、節子に二三日の留守を頼んで置いて行った。

        二十四

 実に急激に、岸本の心は暗くなって行った。郷里の方にある姉の家から帰って来る途中にも、彼は節子に言置いたことを頼みにして、どれ程《ほど》医師の言葉に万一の希望を繋《つな》いだか知れなかった。引返して来て見ると、余計に彼は落胆した。
「節ちゃん、そんなに心配しないでも可《い》いよ。何とか好いように叔父さんが考えて進《あ》げるからね」
 こう岸本は言って、もしもの場合には自分の庶子《しょし》として届けても可いというようなことを節子に話した。
「庶子ですか」
 と節子はすこし顔を紅《あか》めた。
 不幸な姪《めい》を慰めるために、岸本はそんな将来の戸籍のことなぞまで言出したもののその戸籍面の母親の名は――そこまで押詰めて考えて行くと到底そんなことは行われそうも無かった。これから幾月の間、いかに彼女を保護し、いかに彼女を安全な位置に置き得るであろうか。つくづく彼は節子の思い悩んでいることが、彼女に取っての致命傷にも等しいことを感じた。
 岸本は町へ出て行った。節子のために女の血を温め調《ととの》えるという煎《せん》じ薬を買求めて来た。
「もっとお前も自分の身体《からだ》を大切にしなくちゃいけないよ」
 と言って、その薬の袋を節子に渡してやった。
 夜が来た。岸本は自分の書斎へ上って行って、独《ひと》りで机に対《むか》って見た。あの河岸《かし》に流れ着いた若い女の死体のことなぞが妙に意地悪く彼の胸に浮んで来た。
「節ちゃんはああいう人だから、ひょっとすると死ぬかも知れない」
 この考えほど岸本の心を暗くするものは無かった。妻の園子を失った後二度と同じような結婚生活を繰返すまいと思っていた彼は、出来ることなら全く新規な生涯を始めたいと願っていた彼は、独身そのものを異性に対する一種の復讎《ふくしゅう》とまで考えていた彼は、日頃|煩《わずら》わしく思う女のために――しかも一人の小さな姪のために、こうした暗いところへ落ちて行く自分の運命を実に心外にも腹立しくも思った。
 思いもよらない悲しい思想《かんがえ》があだかも閃光《せんこう》のように岸本の頭脳《あたま》の内部《なか》を通過ぎた。彼は我と我身を殺すことによって、犯した罪を謝し、後事を節子の両親にでも托《たく》そうかと考えるように成った。近い血族の結婚が法律の禁ずるところであるばかりで無く、もしもこうした自分の行いが猶《なお》かつそれに触れるようなものであるならば、彼は進んで処罰を受けたいとさえ考えた。何故というに、彼は世の多くの罪人が、無慈悲な社会の嘲笑《ちょうしょう》の石に打たるるよりも、むしろ冷やかに厳粛《おごそか》な法律の鞭《むち》を甘受しようとする、その傷《いた》ましい心持に同感することが出来たからである。部屋には青い蓋《かさ》の洋燈《ランプ》がしょんぼり点《とも》っていた。その油の尽きかけて来た燈火《ともしび》は夜の深いことを告げた。岸本は自分の寝床を壁に近く敷いて、その上に独りで坐って見た。一晩寝て起きて見たら、またどうかいう日が来るか、と不図《ふと》思い直した。考え疲れて床の上に腕組みしていた岸本は倒れるように深い眠の底へ落ちて行った。

        二十五

「父さん」
 繁は岸本の枕頭《まくらもと》へ来て、子供らしい声で父を呼起そうとした。岸本は何時間眠ったかをもよく知らなかった。子供が婆やと一緒に二階へ上って来た頃は、眼は覚《さ》めていたが、いくら寝ても寝ても寝足りないように疲れていた。彼は子供の呼声を聞いて、寝床を離れる気になった。
「繁ちゃん、父さんは独りじゃ起きられない。お前も一つ手伝っておくれ。父さんの頭を持上げて見ておくれ」
 と岸本に言われて、繁は喜びながら両手を父の頭の下に差入れた。
「坊ちゃん、父さんを起してお進《あ》げなさい――ほんとに坊ちゃんは力があるから」
 と婆やにまで言われて、繁は倒れた木の幹でも起すように父の体躯《からだ》を背後《うしろ》の方から支《ささ》えた。
「どっこいしょ」
 と繁が力を入れて言った。岸本はこの幼少《ちいさ》な子供の力を借りて漸《ようや》くのことで身を起した。
「旦那《だんな》さん、もう十一時でございますよ」と婆やはすこし呆《あき》れたように岸本の方を見て言った。
「や、どうも難有《ありがと》う。繁ちゃんの御蔭《おかげ》で漸《ようや》く起きられた」
 こう言いながら、岸本は悪い夢にでも襲われたように自分の周囲を見廻した。
 太陽は昨日と同じように照っていた。町の響は昨日と同じように部屋の障子に伝わって来ていた。眼が覚めて見ると昨日と同じ心持が岸本には続いていた。昨日より吉《い》いという日は別に来なかった。熱い茶を啜《すす》った後のいくらかハッキリとした心持で彼は自分の机に対って見た。
 最近に筆を執り始めた草稿が岸本の机の上に置いてあった。それは自伝の一部とも言うべきものであった。彼の少年時代から青年時代に入ろうとする頃のことが書きかけてあった。恐らく自分に取ってはこれが筆の執り納めであるかも知れない、そんな心持が乱れた彼の胸の中を支配するように成った。彼は机の前に静坐して、残すつもりもなくこの世に残して置いて行こうとする自分の書きかけの文章を読んで見た。それを読んで、耐えられるだけジッと耐えようとした。又終りの方の足りない部分を書き加えようともした。草稿の中に出て来るのは十八九歳の頃の彼自身である。
「暑中休暇が来て見ると、彼方《あっち》へ飛び是方《こっち》へ飛びしていた小鳥が木の枝へ戻って来た様に、学窓で暮した月日のことが捨吉の胸に集って来た。その一夏をいかに送ろうかと思う心持に混って。彼はこれから帰って行こうとする家の方で、自分のために心配し、自分を引受けていてくれる恩人の家族――田辺の主人、細君、それからお婆さんのことなぞを考えた。田辺の家の近くに下宿|住居《ずまい》する兄の民助のことをも考えた。それらの目上の人達からまだ子供のように思われている間に、彼の内部《なか》に萌《きざ》した若い生命《いのち》の芽は早や筍《たけのこ》のように頭を持上げて来た。自分を責めて、責めて、責め抜いた残酷《むご》たらしさ――沈黙を守ろうと思い立つように成った心の悶《もだ》え――狂《きちがい》じみた真似《まね》――同窓の学友にすら話しもせずにあるその日までの心の戦を自分の目上の人達がどうして知ろう、繁子や玉子というような基督《キリスト》教主義の学校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなどとはどうして知ろう、況《ま》してそういう婦人に附随する一切の空気が悉《ことごと》く幻のように消え果てたとはどうして知ろう、と彼は想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡《すべ》てが心に驚かれることばかりであった。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えると、何時《いつ》の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心持から言いあらわし難い恐怖を感じた……」
 岸本は読みつづけた。
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡《およ》そ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に沿うて古い寺や墓地の沢山にある三光町《さんこうちょう》寄の谷間《たにあい》を迂回《うかい》することもあり、あるいは高輪《たかなわ》の通りを真直《まっすぐ》に聖坂《ひじりざか》へと取って、それから遠く下町の方にある田辺の家を指《さ》して降りて行く。その日は伊皿子坂《いさらござか》の下で乗合馬車を待つ積りで、昼飯を済ますと直《す》ぐ寄宿舎を出掛けた。夕立|揚句《あげく》の道は午後の日に乾《かわ》いて一層熱かった。けれども最早《もう》暑中休暇だと思うと、何となく楽しい道を帰って行くような心持になった。何かこう遠い先の方で、自分等を待受けていてくれるものがある。こういう翹望《ぎょうぼう》は、あだかもそれが現在の歓喜であるかの如《ごと》くにも感ぜられた。彼は自分自身の遽《にわ》かな成長を、急に高くなった背を、急に発達した手足を、自分の身に強く感ずるばかりでなく、恩人の家の方で、もしくはその周囲で、自分と同じように揃《そろ》って大きくなって行く若い人達のあることを感じた。就中《わけても》、まだ小娘のように思われていた人達が遽かに姉さんらしく成って来たには驚かされる。そういう人達の中には、大伝馬町《おおてんまちょう》の大勝《だいかつ》の娘、それからへ竃河岸《へっついがし》の樽屋《たるや》の娘なぞを数えることが出来る。大勝とは捨吉が恩人の田辺や兄の民助に取っての主人筋に当り、樽屋の人達はよく田辺の家と往来している。あの樽屋のおかみさんが自慢の娘のまだ初々《ういうい》しい鬘下地《かつらしたじ》なぞに結って踊の師匠の許《もと》へ通っていた頃の髪が何時の間にか島田に結い変えられたその姉さんらしい額つきを捨吉は想像で見ることが出来た。彼はまた、あの大伝馬町辺の奥深い商家で生長した大勝の主人の秘蔵娘の白いきゃしゃな娘らしい手を想像で見ることが出来た……」
 読んで行くうちに、年若な自分がそこへあらわれた。何かしら胸を騒がせることがあると、直《す》ぐ頬《ほお》が熱くなって来るような、まだ無垢《むく》で初心《うぶ》な自分がそこへあらわれた。何か遠い先の方に自分等を待受けていてくれるものがあるような心持でもって歩き出したばかりの頃の自分がそこへあらわれた。岸本は自分の少年の姿を自分で見る思いをした。

        二十六

「どうも仕方が無い。最早これまでだ」
 岸本は独りでそれを言って見た。人から責められるまでもなく、彼は自分から責めようとした。世の中から葬られるまでもなく、自分から葬ろうとした。二十年前、岸本は一度|国府津《こうず》附近の海岸へ行って立ったことがある。暗い相模灘《さがみなだ》の波は彼の足に触れるほど近く押寄せて来たことがある。彼もまだ極《ごく》若いさかりの年頃であった。止《や》み難い精神《こころ》の動揺から、一年ばかりも流浪を続けた揚句、彼の旅する道はその海岸の波打際《なみうちぎわ》へ行って尽きてしまった。その時の彼は一日食わず飲まずであった。一銭の路用も有《も》たなかった。身には法衣《ころも》に似て法衣でないようなものを着ていた。それに、尻端折《しりはしおり》、脚絆《きゃはん》、草鞋穿《わらじばき》という異様な姿をしていた。頭は坊主に剃《そ》っていた。その時の心の経験の記憶が復《ま》た実際に岸本の身に還《かえ》って来た。曾《かつ》て彼の眼に映った暗い波のかわりに、今は四つ並んだ墓が彼の眼にある。曾て彼の眼に映ったものは実際に彼の方へ押寄せて来た日暮方の海の波であって、今彼の眼にあるものは幻の墓ではあるけれども、その冷たさに於《お》いては幻はむしろ真実に勝《まさ》っていた。三年も彼が見つめて来た四つの墓は、さながら暗夜の実在のようにして彼の眼にあった。岸本園子の墓。同じく富子の墓。同じく菊子の墓。同じく幹子の墓。彼はその四つの墓銘をありありと読み得るばかりでなく、どうかすると妻の園子の啜泣《すすりな》くような声をさえ聞いた。それは彼が自分の乱れた頭脳《あたま》の内部《なか》で聞く声なのか、節子の居る下座敷の方から聞えて来る声なのか、それとも何か他の声なのか、いずれとも彼には言うことが出来なかった。その幻の墓が見えるところまで堕《お》ちて行く前には、彼は恥ずべき自己《おのれ》を一切の知人や親戚《しんせき》の眼から隠すために種々な遁路《にげみち》を考えて見ないでもなかった。知らない人ばかりの遠い島もその一つであった。訪れる人もすくない寂しい寺院《おてら》もその一つであった。しかし、そうした遁路を見つけるには彼は余りに重荷を背負っていた。余りに疲れていた。余りに自己を羞《は》じていた。彼は四つ並んだ幻の墓の方へ否《いや》でも応でも一歩ずつ近づいて行くの外はなかった。
 一日は空《むな》しく暮れて行った。夕日は二階の部屋に満ちて来た。壁も、障子も、硝子戸《ガラスど》も、何もかも深い色に輝いて来た。岸本の心は実に暗かった。日頃《ひごろ》彼の気質として、心を決することは行うことに等しかった。泉太、繁の兄弟の子供の声も最早彼の耳には入らなかった。唯《ただ》、心を決することのみが彼を待っていた。

        二十七

 節子が何事《なんに》も知らずに二階へ上って来た頃は、日は既に暮れていた。彼女は使の持って来た手紙を叔父に渡した。それを受取って見て、岸本は元園町の友人が復た手紙と一緒にわざわざ迎えの俥《くるま》までも寄《よこ》してくれたことを知った。
 友人を見たいと思う心が岸本には動かないではなかった。しかしその心からと言うよりも、むしろ彼は半分器械のように動いた。元園町の手紙を読むと直ぐ楼梯《はしごだん》を降りて、そこそこに外出する支度《したく》した。
 暗い門の外には母衣《ほろ》の掛った一台の俥が岸本を待っていた。節子に留守を頼んで置いて、ぶらりと岸本は家を出た。別れを友人に告げに行くつもりでは無いまでも、実際どう成ってしまうか解らないような暗い不安な心持で、彼はその俥に乗った。そして地を踏んで行く車夫の足音や、時々車夫の鳴らす鈴の音や、橋の上へさしかかる度《たび》に特に響ける車輪の音を母衣の内で聞いて行った。大きな都会の夜らしい町々の灯が母衣の硝子《ガラス》に映ったり消えたりした。幾つとなく橋を渡る音もした。彼はめったに行かない町の方へ揺られて行くことを感じた。
 元園町の友人は一人の客と一緒に、岸本の知らない家で彼を待受けていた。そこには電燈のかがやきがあった。酒の香気《におい》も座敷に満ちていた。岸本のために膳部《ぜんぶ》までが既に用意して置いてあった。元園町は客を相手に、さかんに談《はな》したり飲んだりしているところであった。
「岸本君、今夜は大いに飲もうじゃ有りませんか」
 と元園町が眉《まゆ》をあげて言った。岸本は元園町から差された盃《さかずき》を受ける間もなく、日頃懇意にする客の方からも盃を受けた。
「今夜は岸本さんを一つ酔わせなければいけない」
 とその客も言って、復た岸本の方へ別の盃を差した。
「ねえ、君」と元園町は客の方を見ながら、「僕なぞが、どれほど岸本君を思っているか、それを岸本君は知らないでいる」
「まあ、一つ頂きましょう」と客は岸本からの返盃《へんぱい》を催促するように言った。
 耳に聞く友人等の笑声、眼に見る華《はな》やかな電燈の灯影《ほかげ》は、それらのものは岸本が心中の悲痛と混合《まざりあ》った。彼は楽しい酒の香気を嗅《か》ぎながら、車の上でそこまで震えてやって来た彼自身のすがたを思って見た。節子と彼と、二人の中の何方《どっち》か一人が死ぬより外に仕方が無いとまで考えて来たその時までの身の行詰りを思って見た。
 元園町は心地《ここち》よさそうに酔っていたが、やがて何か思い出したように客の方を見ながら、
「ねえ、君、岸本君なぞも一度|欧羅巴《ヨーロッパ》を廻って来ると可《い》いね……是非僕はそれをお勧《すす》めする……」
 客はこうした酒の上の話も肴《さかな》の一つという様子で、盃を重ねていた。
「岸本君」と元園町は酔に乗じて岸本を励ますように言った。「君も一度欧羅巴を見ていらっしゃい……是非見ていらっしゃい……もし君が奮発して出掛けられるようなら、僕はどんなにでも骨を折ります……一度は欧羅巴というものを見て置く必要がありますよ……」
 岸本は黙し勝ちに、友人の話を聞いていた。どうかして生きたいと思う彼の心は、情愛の籠《こも》った友人の言葉から引出されて行った。

        二十八

 夜は更《ふ》けた。四辺《あたり》はひっそりとして来た。酒の相手をするものは皆帰ってしまった。まだそれでも元園町は客を相手に飲んでいた。それほど二人は酒の興が尽きないという風であった。その晩は岸本もめずらしく酔った。夜が更ければ更けるほど、妙に彼の頭脳《あたま》は冴《さ》えて来た。
「友人は好いことを言ってくれた。これ以上の死滅には自分は耐えられない――」
 彼は自分で自分に言って見た。
 呼んで貰《もら》った俥が来た。岸本は自分の家を指《さ》して深夜の都会の空気の中を帰って行った。東京の目貫《めぬき》とも言うべき町々も眠ってしまって、遅くまで通う電車の響も絶えていた。広い大通りには往来《ゆきき》の人の足音も聞えなかった。海の外へ。岸本がその声をハッキリと聞きつけたのも帰りの車の上であった。あだかも深い「夜」が来てその一条の活路を彼の耳にささやいてくれたかのように。すくなくも元園町の友人が酒の上で言った言葉から、その端緒《いとぐち》を見つけて来たというだけでも、彼に取って、難有《ありがた》い賜物のように思われた。どうかして自分を救わねば成らない。同時に節子をも。又た泉太や繁をも。この考えが彼の胸に湧《わ》いて来て、しかも出来ない事でも無いらしく思われた時は、彼は心からある大きな驚きに打たれた。
 可成《かなり》な時を車で揺られて岸本は住み慣れた町へ帰って来た。割合に遅くまで人通の多いその界隈《かいわい》でも、最早《もう》真夜中で、塒《ねぐら》で鳴く鶏の声が近所から僅かに聞えて来ていた。家でも皆寝てしまったらしい。そう思いながら、岸本は門の戸を叩《たた》いた。
「叔父さんですか」
 という節子の声がして、やがて戸の掛金を内からはずしてくれる音のする頃は、まだ岸本は酒の酔が醒《さ》めなかった。
「まあ、叔父さんにはめずらしい」
 と節子は驚いたように叔父を見て言った。
 岸本は自分の部屋へ行ってからも、胸の中に湧《わ》き上って来る感動を制《おさ》えることが出来なかった。丁度節子は酔っている叔父のために冷水《おひや》を用意して来た。岸本は何事《なんに》も知らずにいる姪にまで自分の心持を分けずにいられなかった。
「可哀そうな娘だなあ」
 思わずそれを言って、彼ゆえに傷ついた小鳥のような節子を堅く抱きしめた。
「好い事がある。まあ明日話して聞かせる」
 その岸本の言葉を聞くと、節子は何がなしに胸が込上《こみあ》げて来たという風で、しばらく壁の側に顔を押えながら立っていた。とめども無く流れて来るような彼女の暗い涙は酔っている岸本の耳にも聞えた。

        二十九

 朝が来て見ると、平素《ふだん》はそれほど気もつかずにいた書斎の内の汚《よご》れが酷《ひど》く岸本の眼についた。彼は長く労作の場所とした二階の部屋を歩いて見た。何一つとしてそこには澱《よど》み果てていないものは無かった。多年彼が志した学芸そのものすら荒れ廃《すた》れた。書棚《しょだな》の戸を開けて見た。そこには半年の余も溜《たま》った塵埃《ほこり》が書籍という書籍を埋めていた。壁の側に立って見た。そこには血が滲《にじ》んでいるかと思われるほど見まもり疲れた冷たさ、恐ろしさのみが残っていた。
 遠い外国の旅――どうやらこの沈滞の底から自分を救い出せそうな一筋の細道が一層ハッキリと岸本に見えて来た。何よりも先《ま》ず彼は力を掴《つか》もうとした。あの情人の夫を殺すつもりで過《あやま》って情人を殺してまでも猶《なお》かつ生きることの出来たという文覚上人《もんがくしょうにん》のような昔の坊さんの生涯の不思議を考えた。そこからもっと自己を強くすることを学ぼうとした。一歩《ひとあし》も自分の国から外へ踏出したことの無い岸本のようなものに取っては、遠い旅の思立ちはなかなか容易でなかった。七年ばかり暮しつづけているうちにまるで根が生《は》えてしまったような現在の生活を底から覆《くつがえ》すということも容易ではなかった。節子や子供等をもっと安全な位置に移し、留守中のことまでも考えて置いて、独《ひと》りで家庭を離れて行くということも容易ではなかった。それを思うと、岸本の額からは冷い脂《あぶら》のような汗が涌《わ》いて来た。
 しかし、不思議にも岸本の腰が起《た》った。腐ってしまいそうだとよく岸本の嘆いていた身体《からだ》が、ひょっとすると持病に成るかとまで疼痛《いたみ》を恐ろしく感じていた身体が、小舟を漕《こ》いで見たり針医に打たせたりしてまだそれでも言うことを利《き》かなかった身体が、半日ぐらい壁の側に倒れていることはよく有って激しい疲労と倦怠《けんたい》とをどうすることも出来なかったような身体が、その時に成って初めて言うことを利《き》いた。彼は精神《こころ》から汗を出した。そしてズキズキと病める腰のことなぞは忘れてしまった。一切を捨てて海の外へ出て行こう。全く知らない国へ、全く知らない人の中へ行こう。そこへ行って恥かしい自分を隠そう。こうした心持は、自ら進んで苦難を受くることによって節子をも救いたいという心持と一緒に成って起って来た。
 その心持から岸本は元園町の友人へ宛《あ》てた手紙を書いた。彼は自分の身についた一切のものを捨ててかかろうとしたばかりでなく、多年の労作から得た一切の権利をも挙《あ》げて旅の費用に宛てようと思って来た。この遽《にわ》かな旅の思い立ちは誰よりも先ず節子を驚かした。

        三十

「酒の上で言ったようなことを、そう岸本君のように真面目《まじめ》に取られても困る」
 これは元園町の友人の意見として、過ぐる晩一緒に酒を酌《く》みかわした客から岸本の又聞きにした言葉であった。岸本はこの友人に対してすら、何故そう「真面目」に取らずにはいられなかったというその自分の位置をどうしても打明けることが出来なかった。
 とは言え、元園町からは助力を惜まないという意味の手紙を寄《よこ》してくれた。この手紙が岸本を励した上に、幸いにも旅の思立ちを賛成してくれた人達のあったことは一層彼の心を奮い起《た》たせた。それからの岸本は殆《ほとん》ど旅の支度《したく》に日を送った。そろそろ梅の咲き出すという頃には大体の旅の方針を定めることが出来るまでに成った。長いこと人も訪《たず》ねずに引籠《ひっこ》みきりでいた彼は、神田へも行き、牛込《うしごめ》へも行った。京橋へも行った。本郷へも行った。どうかして節子の身体がそれほど人の目につかないうちに支度を急ぎたいと願っていた。
「一度は欧羅巴《ヨーロッパ》を見ていらっしゃるというのも可《よ》かろうと思いますね。何もそんなにお急ぎに成る必要は無いでしょう――ゆっくりお出掛になっても可《い》いでしょう」
 番町の方の友人が岸本の家へ訪ねて来てくれた時に、その話が出た。この友人は岸本から見ると年少ではあったが、外国の旅の経験を有《も》っていた。
「思い立った時に出掛けて行きませんとね、愚図々々してるうちには私も年を取ってしまいますから」
 こう岸本は言い紛らわしたものの、親切にいろいろなことを教えてくれる友人にまで、隠さなければ成らない暗いところのある自分の身を羞《は》ずかしく思った。
 まだ岸本は兄の義雄に何事《なんに》も言出してなかった。留守中の子供の世話ばかりでなく、節子の身の始末に就《つ》いては親としての兄の情にすがるの外は無いと彼も考えた。しかしながら、日頃兄の性質を熟知する岸本に何を言出すことが出来よう。義雄は岸本の家から出て、母方の家を継いだ人であった。民助と義雄とは同じ先祖を持ち同じ岸本の姓を名のる古い大きな二つの家族の家長たる人達であった。地方の一平民を以《もっ》て任ずる義雄は、家名を重んじ体面を重んずる心を人一倍多く有っていた。婦女の節操は義雄が娘達のところへ書いてよこす何よりも大切な教訓であった。こうした気質の兄から不日上京するつもりだという手紙を受取ったばかりでも、岸本は胸を騒がせた。
「お前のお父さんが出ていらっしゃるそうだ」
 それを岸本が節子に言って聞かせると、彼女は唯《ただ》首を垂《た》れて、悄《しお》れた様子を見せていた。でも彼女が割合に冷静であることは岸本の心をやや安んじさせた。
 旅の支度に心忙しく日を送りながら今日見えるか明日見えるかと岸本が心配しつつ待っていた兄は名古屋の方から着いた。

        三十一

「や。どうも久しぶりで出て来た。今|停車場《ステーション》から来たばかりで、まだ宿屋へも寄らないところだ。今度は大分用事もあるし、そうゆっくりしてもいられないが――まあ、すこし話して行こう。子供も皆丈夫でいるかね」
 義雄は外套《がいとう》を脱ぎながらもこんな話をして、久しぶりで弟を見るばかりでなく、娘をも見るという風に、そこへ来て帽子や外套を受取ろうとする節子へも言葉を掛けた。
「節ちゃんも相変らず働いてるね」
 それを聞くと、岸本は何事《なんに》も知らずにいる兄の顔を見ることさえも出来なかった。久しぶりで上京した人を迎え顔に、下座敷の内をあちこちと歩き廻った。
「どれ、お茶の一ぱいも御馳走《ごちそう》に成って行こう」
 と言いながら、勝手を知った兄は自分から先に立って二階の座敷へ上った。この兄と対《むか》い合って見ると、岸本は思うことも言出しかねて、外国の旅の思立ちだけしか話すことが出来なかった。留守中の子供のことだけを兄に頼んだ。「そいつは面白いぞ」と義雄は相変らずの元気で、「俺《おれ》の家でもこれから大いに発展しようというところだ。近いうちに国の方のものを東京へ呼ぶつもりでいたところだ。貴様が家を見つけて置いてくれさえすれば、子供の世話は俺の方で引受けた」
 義雄の話は何時《いつ》でも簡単で、そしてテキパキとしていた。
 十年振りで帰国した鈴木の兄の噂《うわさ》、台湾の方の長兄の噂などにしばらく時を送った後、義雄は用事ありげに弟の許《もと》を辞し去る支度した。仮令《たとえ》この兄の得意の時代はまだ廻って来ないまでも勃々《ぼつぼつ》とした雄心は制《おさ》えきれないという風で、快く留守中のことを引受けたばかりでなく、外国の旅にはひどく賛成の意を表してくれた。
 兄は出て行った。岸本は節子を呼んで、兄の話を彼女に伝え、不安な彼女の心にいくらかの安心を与えようとした。
「でも、お前のことを頼むとは、いかに厚顔《あつかま》しくも言出せなかった――どうしても俺には言出せなかった」
 と岸本は嘆息して言った。
「もしお前のお母《っか》さんが国から出ていらしったら、さぞびっくりなさるだろう」
 と復《ま》た彼は附添《つけた》した。
 弟の外遊を悦《よろこ》んでくれた義雄の顔は岸本の眼についていた。自己の不徳を白状することを後廻しにして、留守中の子供の世話を引受けて貰《もら》ったでは、欺くつもりもなく兄を欺いたにも等しかった。岸本はこの旅の思立ちが、いかに兄を欺き、友を欺き、世をも欺く悲しき虚偽の行いであるかを思わずにいられなかった。そして一書生の旅に過ぎない自分の洋行というようなことが大袈裟《おおげさ》に成れば成るだけ、余計にその虚偽を増すようにも思い苦しんだ。出来ることなら人にも知らせずに行こう。日頃親しい人達にのみ別れを告げて行こう。すくなくも苦を負い、難を負うことによって、一切の自己《おのれ》の不徳を償おう、とこう考えた。それにしても、いずれ一度は節子のことを兄の義雄だけには頼んで置いて行かねば成らなかった。それを考えると、岸本は地べたへ顔を埋めてもまだ足りないような思いをした。

        三十二

 春の近づいたことを知らせるような溶け易《やす》い雪が来て早や町を埋めた。実に無造作に岸本は旅を思い立ったのであるが、実際にその支度に取掛って見ると、遠い国に向おうとする途中で必要なものを調《ととの》えるだけにも可成《かなり》な日数を要した。
 眼に見えない小さな生命《いのち》の芽は、その間にそろそろ頭を持上げ始めた。節子の苦しみと悩みとは、それを包もう包もうとしているらしい彼女の羞《はじ》を帯びた容子《ようす》は、一つとして彼女の内部《なか》から押出して来る恐ろしい力を語っていないものはなかった。あだかも堅い地を割って日のめを見ないでは止《や》まない春先の筍《たけのこ》のような勢で。それを見せつけられる度《たび》に、岸本は注文して置いた旅の衣服や旅の鞄《かばん》の出来て来るのを待遠しく思った。
 ある日、岸本は警察署に呼出されて身元調を受けて帰って来た。これは外国行の旅行免状を下げて貰うに必要な手続きの一つであった。節子は勝手口に近い小座敷に立っていて、何となく彼女に起りつつある変化が食物の嗜好《しこう》にまであらわれて来たことを心配顔に叔父に話した。
「婆やにそう言われましたよ。『まあ妙な物をお節ちゃんは食べて見たいんですねえ』ッて――梅干のようなものが頂きたくて仕方が無いんですもの」
 こう節子は顔を紅《あか》めながら言った。彼女はまた、婆やに近くいて見られることを一番恐ろしく思うとも言った。
 岸本はまだ二人の子供に何事《なんに》も話し聞かせて無かった。幾度《いくたび》となく彼は自分の言出そうとすることが幼いものの胸を騒がせるであろうと考えた。その度に躊躇《ちゅうちょ》した。
「泉ちゃん、お出《いで》」
 と岸本は夕飯の膳《ぜん》の側へ泉太を呼んだ。
「繁ちゃん、父さんがお出ッて」
 と泉太はまた弟を呼んだ。
 二人の子供は父の側に集った。旅を思い立つように成ってからは客も多く、岸本は家のものと一緒に夕飯の膳に就《つ》くことも出来ない時の方が多かった。
「父さんはお前達にお願いがあるがどうだね。近いうちに父さんは外国の方へ出掛けて行くが、お前達はおとなしくお留守居してくれるかね」
 節子は膳の側に、婆やは勝手口に聞いているところで、岸本はそれを子供に言出した。
「お留守居する」
 と弟は兄よりも先に膝《ひざ》を乗出した。
「繁ちゃん」
 と兄は弟を叱《しか》るように言った。その泉太の意味は、自分は弟よりも先に父の言葉に応じるつもりであったとでも言うらしい。
「二人ともおとなしくして聞いていなくちゃ不可《いけない》。お前達は父さんの行くところをよく覚えて置いておくれ。父さんは仏蘭西《フランス》という国の方へ行って来る――」
「父さん、仏蘭西は遠い?」と弟の方が訊《き》いた。
「そりゃ、遠いサ」と兄の方は小学校の生徒らしく弟に言って聞かせようとした。
 岸本は二人の幼いものの顔を見比べた。「そりゃ、遠いサ」と言った兄の子供ですら、何程の遠さにあるということは知らなかった。

        三十三

 思いの外、泉太や繁は平気でいた。それほど何事《なんに》も知らずにいた。父が遠いところへ行くことを、鈴木の伯父の居る田舎《いなか》の方か、妹の君子が預けられている常陸《ひたち》の海岸の方へでも行くぐらいにしか思っていないらしかった。その無心な様子を見ると、岸本はさ程子供等の心を傷《いた》めさせることもなしに手放して行くことが出来るかと考えた。
 岸本は膳の側へ婆やをも呼んで、
「いろいろお前にはお世話に成った。俺も今度思立って外国の方へ行って来るよ。近いうちに節ちゃんのお母さん達が郷里《くに》から出て来て下さるだろうから、それまでお前も勤めていておくれ」
「あれ、旦那《だんな》さんは外国の方へ」と婆やが言った。「それはまあ結構でございますが――」
 岸本はこの婆やに聞かせるばかりでなく、子供等にも聞かせる積りで、
「俺は九つの歳《とし》に東京へ修業に出て来た。それからはもうずっと親の側にもいなかった。他人の中でばかり勉強した。それでもまあ、どうにかこうにか今日までやって来た。それを考えるとね、泉ちゃんや繁ちゃんだって父さんのお留守居が出来ないことは有るまいと思うよ……どうだね、泉ちゃん、お留守居が出来るかね」
「出来るサ」と泉太は事もなげに言った。
「父さんが居なくたって、お節ちゃんはお前達と一緒に居るし、今に伯母さんや祖母《おばあ》さんも来て下さる」
「お節ちゃんは居るの」と繁が節子の方を見て訊《き》いた。
「ええ、居ますよ」
 節子は言葉に力を入れて子供の手を握りしめた。
 何時《いつ》伝わるともなく岸本の外遊は人の噂に上るように成った。彼は中野の友人からも手紙を貰った。その中には、かねてそういう話のあったようにも覚えているが、こんなに急に決行しようとは思わなかったという意味のことを書いて寄《よこ》してくれた。若い人達からも手紙を貰った。その中には、「母親のない幼少《おさな》い子供を控えながら遠い国へ行くというお前の旅の噂は信じられなかった。お前は気でも狂ったのかと思った。それではいよいよ真実《ほんとう》か」という意味のことを書いて寄してくれた人もあった。こうした人の噂は節子の小さな胸を刺激せずには置かなかった。諸方《ほうぼう》から叔父の許へ来る手紙、遽《にわ》かに増《ふ》えた客の数だけでも、急激に変って行こうとする彼女の運命を感知させるには充分であった。彼女は叔父に近く来て、心細そうな調子で言出した。
「叔父さんはさぞ嬉しいでしょうねえ――」
 叔父の外遊をよろこんでくれるらしいこの節子の短い言葉が、あべこべに名状しがたい力で岸本の心を責めた。何か彼一人が好い事でもするかのように。頼りのない不幸なものを置去りにして、彼一人外国の方へ逃げて行きでもするかのように。
「叔父さんが嬉しいか、どうか――まあ見ていてくれ」
 と岸本は答えようとしたが、それを口にすることすら出来なかった。彼は黙って姪《めい》の側を離れた。

        三十四

 叔父を恐れないように成ってからの節子の瞳《ひとみ》は、叔父に対する彼女の強い憎《にくし》みを語っているばかりでも無かった。どうかするとその瞳は微笑《ほほえ》んでいることもあった。そして彼女の顔にあらわれる暗い影と一緒に成って動いていた。
「妙なものですねえ」
 節子はこうした短い言葉で、彼女の内部《なか》に起って来る激しい動揺を叔父に言って見せようとすることもあった。しかし岸本は不幸な姪の憎みからも、微笑《ほほえみ》からも、責められた。その憎みも微笑も彼を責めることに於《お》いては殆んど変りがなかったのである。
 温暖《あたたか》い雨が通過ぎた。その雨が来て一切のものを濡《ぬ》らす音は、七年住慣れた屋根の下を離れ行く日の次第に近づくことを岸本に思わせた。早くこの家を畳まねば成らぬ。新しい家の方に節子を隠さねば成らぬ。それらの用事が実に数限りも無く集って来ている中で、一方には岸本は日頃《ひごろ》親しい人達にそれとなく別離《わかれ》を告げて行きたいと思った。出来るだけ手紙も書きたいと思った。岸本はある劇場へと車を急がせた。彼はいそがしい自分の身《からだ》の中から僅《わずか》の時を見つけて、せめてその時を芝居小屋の桟敷《さじき》の中に送って行こうとした。ある近代劇の試演から岸本の知るように成った二三の俳優がその舞台に上る時であった。前後に関係の無い旧《ふる》い芝居の一幕が開けた。人形のように白く塗った男の子役の顔が岸本の眼に映った。女の子にもして見たいようなその長い袖《そで》や、あまえるように傾《かし》げたその首や、哀れげに子役らしいその科白廻《せりふまわ》しは、悪戯《いたずら》ざかりの泉太や繁とは似てもつかないようなものばかりであった。でも、岸本は妙に心を誘われた。彼の胸の中は国に残して置いて行こうとする自分の子供等のことで満たされるように成った。熱い涙がその時絶間なしに岸本の頬《ほお》を伝って流れて来た。彼は舞台の方を見ていることも出来なかった。座にも耐えられなかった。人を避けて長い廊下へ出て見ると、そこには幾つかの並んだ薄暗い窓があった。彼はその窓の一つの方へ行って、激しく泣いた。

        三十五

 岸本は出来るだけ旅の支度を急ごうとした。漸《ようや》く家の周囲《まわり》の狭い廂間《ひあわい》なぞに草の芽を見る頃に成って、引越の準備をするまでに漕《こ》ぎ付けることが出来た。節子は暇さえあれば炬燵《こたつ》に齧《かじ》りついて、丁度巣に隠れる鳥のように、勝手に近い小座敷に籠《こも》ってばかりいるような人に成った。一月は一月より眼に見えないものの成長から苦しめられて行く彼女の様子が岸本にもよく感じられた。彼の心が焦《あせ》れば焦るほど、延びることを待っていられないような眼に見えないものは意地の悪いほど無遠慮《ぶえんりょ》な勢いを示して来た。一日も、一刻も、与えられた時を猶予することは出来ないかのように。仮令《たとえ》母の生命《いのち》を奪ってまでも生きようとするようなその小さなものを実際人の力でどうすることも出来なかった。
 死を思わせるほど悩ましい節子の様子から散々に脅《おびや》かされた岸本は、今|復《ま》た彼女から生れて来るものの力に踏みにじられるような心持でもって、時々節子をいたわりに行った。節子は娘らしく豊かな胸の上あたりを羽織で包んで見せ、張り満ちて来る力の制《おさ》えがたさを叔父に告げた。彼女の恐怖、彼女の苦痛を分つものは叔父一人の外に無かった。
「御免下さいまし」
 という親戚《しんせき》の女の声を表口の方に聞きつけたばかりでも、岸本は心配が先に立った。
 根岸の姪《めい》――民助兄の総領娘にあたる愛子が引越|間際《まぎわ》の取込んだところへ訪ねて来た。輝子や節子が「根岸の姉さん」と呼んでいるのは、この愛子のことであった。愛子は岸本の許へ何よりの餞別《せんべつ》の話を持って来てくれた。それは台湾の父とも相談の上、叔父の末の児(君子)を自分の妹として養って見たいというのであった。
「いろいろ父も御世話さまに成りましたし……それに叔父さんも外国の方へいらっしゃるようになれば、君ちゃんの仕送りをなさるのも大変でしょうと思いましてね……」
 この愛子のこころざしを岸本は有難《ありがた》く受けた。
「そう言えば叔父さんの髪の毛は――」と愛子は驚いたように岸本の方を見て言った。「まあ、白くおなんなすったこと。この一二年の間に、急に白くおなんなすったようですね」
「そうかねえ、そんなに白くなったかねえ」
 岸本は笑い紛わした。
 この「根岸の姉さん」の前で見る時ほど、節子の改まって見えることは無かった。それは節子にのみ限らなかった。姉の輝子とても矢張《やはり》その通りであった。同じ岸本を名のる近い親類でも、愛子と節子姉妹の間には女同志でなければ見られないような神経質があった。のみならず、節子は見る人に見られることを恐れるかして、障子のかげの炬燵の方にとかく愛子を避け勝ちであった。
「君ちゃんの許《とこ》へ一つ送ってやって貰いましょうか」
 と言いながら、岸本は亡《な》くなった長女の形見として箪笥《たんす》の底に遺《のこ》ったものを愛子の前に取出した。罪の深い叔父は、自分の女の児を引取って養おうと言ってくれる一人の姪の手前をさえ憚《はばか》った。

        三十六

 住慣れた町を去る時が来た。泉太や繁の母親が生きている頃と殆《ほとん》ど同じようにして置いてあった家の内の諸道具も、柱の上から古い時計を一つ下し、壁の隅《すみ》から茶戸棚《ちゃとだな》一つ動かしする度《たび》に、下座敷の内の見慣れた光景《さま》が壊《こわ》れて行った。
 岸本は遠い旅の鞄《かばん》に入れて持って行かれるだけの書籍を除いて、日頃愛蔵した書架の中の殆ど全部の書籍を売払った。それから、外国の客舎の方で部屋着として着て見ようと思う寒暑の衣類だけを別にして、園子と結婚した時からある古い羽織|袴《はかま》の類から日頃身に着けていたものまで、自分の着物という着物はあらかた売払った。
「節ちゃん、これはお前に置いて行く」
 岸本は節子を呼んで、箪笥《たんす》の抽筐《ひきだし》を引出して見せた。園子の形見としてその日まで大切に蔵《しま》って置いた一重《ひとかさ》ねの晴着と厚い帯とが、そこに残っていた。その帯は園子が結婚の日の記念であるばかりでなく、愛子の結婚の時にも役に立ち、輝子の時にも役に立った。岸本はそれらの妻の最後の形見を惜気もなく節子に分けた。
「泉ちゃんや繁ちゃんのことは、お前に頼んだよ」
 という言葉を添えた。
 裏口の垣根の側には二株ばかりの萩《はぎ》の根があった。毎年花をもつ頃になると岸本の家ではそれを大きな鉢《はち》に移して二階の硝子戸《ガラスど》の側に置いた。丸葉と、いくらか尖《とが》った葉とあって、二株の花の形状《かたち》も色合もやや異っていたが、それが咲き盛る頃には驚くばかり美しかった。狭い町の中で岸本の書斎を飾ったのもその萩であった。植物の好きな節子は岸本の知らない間に自分で萩の根の始末をして、一年半の余を叔父と一緒に暮した家の記念として、新規な住居の方へ運んで行くばかりにして置いてあった。やがて待侘《まちわ》びた朝が来た。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、いらっしゃい。おべべを着更《きか》えましょうね」と節子は二人の子供を呼んだ。
「彼方《あっち》のお家へ行くんですよ」
 と婆やも子供の側へ寄った。
 針医の娘は兄弟の子供の着物を着更えるところを見に来た。泉太も、繁も、知らない町の方へ動くことを悦《よろこ》んで、買いたての新しい下駄で畳の上をさも嬉《うれ》しそうに歩き廻った。
 岸本は二階へ上って行って見た。もっと長く住むつもりで塗り更《か》えさせた黄色い部屋の壁がそこにあった。がらんとした書斎がそこにあった。硝子戸のところへ行って立って見た。幾度《いくたび》か既に温暖《あたたか》い雨が通過ぎた後の町々の続いた屋根が彼の眼に映った。噂好《うわさず》きな人達の口に上ることもなしに、ともかくも別れて行くことの出来るその朝が来たのを不思議にさえ思った。
 最近に訪《たず》ねて来てくれた恩人の家の弘の言葉が不図《ふと》岸本の胸へ来た。
「菅《すげ》さんの言草が好いじゃ有りませんか。『岸本君は時々人をびっくりさせる。――昔からあの男の癖です』とさ」
 これは弘が岸本の外出中に、この家で旧友の菅と落合った時の言葉であった。町に別れを告げるようにして岸本はその二階の戸を閉めた。遠く高輪《たかなわ》の方に見つけた家の方へ、彼は先《ま》ず女子供を送出した。

        三十七

 新しい隠れ家は岸本を待っていた。節子と婆やに連れられて父よりも先に着いていた二人の子供は、急に郊外らしく樹木の多い新開の土地に移って来たことをめずらしそうにして、竹垣と板塀《いたべい》とで囲われた平屋造りの家の周囲《まわり》を走り廻っていた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、気をつけるんだよ。お庭の植木の葉なぞを採るんじゃないよ」
 岸本は先ずそれを子供に言って聞かせたが、兄弟の幼いものが互いに呼びかわす声を新しい住居の方で聞いたばかりでも、彼には別の心地《こころもち》を起させた。
 節子は婆やを相手に引越の日らしく働いているところであった。まだ荷車は着かなかった。
「漸《ようや》く。漸く」
 と岸本はさも重荷でも卸したように言って、ざっと掃除の出来た家の内をあちこちと見て廻った。以前の住居に比べると、そこには可成《かなり》間数もあった。岸本は節子に伴われながら、静かな日のあたって来ている北向の部屋を歩いて見た。
「祖母《おばあ》さんでも出ていらしったら、この部屋に居て頂《いただ》くんだね。針仕事でもするには静かで好さそうな部屋だね」
 と岸本は節子に言った。丁度その部屋の前には僅《わず》かばかりの空地があって、裏木戸から勝手口の方へ通われるように成っていた。
「叔父さん、持って来た萩《はぎ》を植るには好さそうなところが有りますよ」と言って、節子はその空地の隅《すみ》のあたりを叔父に指《さ》して見せた。
 岸本は南向の部屋の方へ行って見た。そこへも節子が随《つ》いて来た。彼女はめずらしく晴々とした顔付で、まだ姿にも動作にも包みきれないほどの重苦しさがあるでもなく、僅《わずか》に軽い息づかいを泄《もら》しながら庭先の椿《つばき》の芽などを叔父に指して見せた。その庭には勢いよく新しい枝の延びた満天星《どうだん》や、また枯々とはしていたが銀杏《いちょう》の樹なぞのあることが、彼女を悦《よろこ》ばせた。
「親類中で、こんな家に住んでるものは一人もありやしません」
 と節子は半分|独語《ひとりごと》のように言って、若々しい眼付をしながらそこいらを眺《なが》め廻した。
 やがて節子は婆やの方へ行った。彼女の言ったことは不思議な寂しさを岸本の心に与えた。こんな家に住むことが、それが何の誇りだろう。親類なぞに対して外見《がいけん》をよそおうような場合だろうか。こう彼は節子の居ないところで独《ひと》り自分に言って見た。
 荷が着いてからの混雑はそれから夕方まで続いた。夕飯の済む頃になると、岸本は以前のせせこましい町中から離れて来たことより外に何も考えなかった。七年|馴染《なじみ》を重ねた噂好きな人達は最早《もう》一人も彼の家の前を通らなかった。夜遅くまで聞えた人の足音や、通過ぎる俥《くるま》のひびきすらしなかった。
「父さん、汽車の音がする」
 と下町育ちの子供等は聞耳を立てた。品川の空の方から響けて伝わって来るその汽車の音は一層|四辺《あたり》をひっそりとさせた。岸本は越したての屋根の下で身を横にして、家中のものを笑わせるほど続けざまに溜息《ためいき》を吐《つ》いた。

        三十八

 岸本は既に半ば旅人であった。彼はなるべく人目につくことを避けようとした。送別会の催しなども断れるだけ断った。旅支度《たびじたく》が調《ととの》うまでは諸方への通知も出さずに置いた。彼が横浜から出る船には乗らないで、わざわざ神戸まで行くことにしたのも、独りでこっそりと母国に別れを告げて行くつもりであったからで。
 突然な岸本の思立ちは反《かえ》って見ず知らずの人々の好奇心を引いた。彼の方でなるべく静かに動こうとすればするほど、余計に彼の外遊は人の噂に上るように成った。そうした外観の華《はなや》かさは一層彼を不安にした。断らなくても好いような人にまで、何故彼は両国の附近から場末も場末も荏原郡《えばらぐん》に近い芝区の果のようなそんな遠く離れた町へわざわざ家を移したかということを断らずにはいられなかった。先方《さき》から別に尋ねられもしないのに、高輪は彼が青年時代の記憶のある場所であること、足立や菅などの学友と一緒に四年の月日を送ったのもそこの岡の上にある旧《ふる》い学窓であったことを話した。その学窓の附近に極く平民的な大地主の家族が住むことを話した。その家族の主人公にはまだあの界隈《かいわい》に武蔵野《むさしの》の面影が残っている頃からの庄屋の徳を偲《しの》ばせるに足《た》るものがあることを話した。そのめずらしく大きな家族によって、私立の女学校と、幼稚園と、特色のある小学校が経営されていることを話した。彼はその小学校がいかにも家族的で、自分の子供を托《たく》して行くには最も好ましく考えたかを話した。そして、その学園の附近を択《えら》んで自分の留守宅を移したことを話した。
 毎日のように岸本は旧馴染《むかしなじみ》の高台を下りて、用達《ようたし》に出歩いた。下町の方にある知人の家々へもそれとなく別れを告げに寄った。時には両国の方まで行って、もう一度隅田川の水の流れて行くのが見える河岸《かし》に添いながら、ある雑誌記者と一緒に歩いたこともあった。
「あなたが奮発してお出掛になるということは、大分皆を動したようです」
 この記者の言葉を聞くと、岸本には返事のしようが無かった。地べたを見つめたままで、しばらく黙って歩いた。
「あなたのお子さん達はどうするんです」とまた記者が訊《き》いた。
「子供ですか。留守は兄貴の家の人達に頼んで行くつもりです。姉が郷里《くに》から出て来てくれることに成っていますからね」
「姉さんは最早出ていらしったんですか」
「いえ、まだ……来月でなきゃ」
「あなたは今月のうちに神戸へお立ちに成るというじゃ有りませんか。姉さんもまだ出ていらっしゃらないのに――」
 記者が心配して言ってくれたことは岸本の身に徹《こた》えた。とても彼は嫂《あによめ》に、節子の母親に合せて行く顔が無かった。

        三十九

 長旅に耐えられるような鞄をひろげて書籍や衣服なぞを取纏《とりまと》め、いささかの薬の用意をも忘れまいとする頃は、遠い国に向おうとする心持が実際に岸本に起って来た。
「泉ちゃんや繁ちゃんも、これからは味方になるものが無くて可哀そうですね」
 根岸の姪も高輪へ訪《たず》ねて来て、そんなことを岸本に言った。
「お前達はそんな風に思うかね。叔父さんはまだ小学校へ通う時分から、鈴木の兄さんの家に一年、それから田辺さんの家にずっと長いこと書生をしていたが、別にそんな風に考えないでも済んだ。お世話に成る人は皆な親だと思えば可《い》いよ」
「二人ともまだ幼少《ちいそ》うございますから、お出掛になるなら今の中の方が可いかも知れません」
 こう言う愛子はあまりに岸本が義雄兄の家族を頼み過ぎていることを匂《にお》わせた。何故、彼が根岸へ相談もなしに二人の子供を義雄兄に托して行くのか。それは愛子にも言えないことであった。
「君ちゃんのことは何分よろしく願います」
 と岸本は末の女の児のことを根岸の姪に頼んだ。
 高輪には岸本は十日ばかり暮した。節子や子供等と一緒に居ることも早や一日ぎりに成った。出発前の混雑した心持の中で、夕飯前の時を見つけて、岸本は独り屋外《そと》へ歩きに出た。彼の足は近くにある岡の方へ向いた。ずっと以前に卒業した学校の建築物《たてもの》のある方へ向いた。二十二年の月日はそこを出た一人の卒業生を変えたばかりでなく、以前の学校をも変えた。緩慢《なだらか》な地勢に沿うて岡の上の方から学校の表門の方へ弧線を描いている一筋の径《みち》だけは往時《むかし》に変らなかったが、門の側《わき》に住む小使の家の窓は無かった。岸本はその門を入って一筋の径《みち》を上って行って見た。チャペルの方で鳴る鐘を聞きながらよく足立や菅と一緒に通った親しみのある古い講堂はもう無かった。そのかわりに新しい別の建築物があった。その建築物の裏側へ行って見た。そこに旧い記憶のある百日紅《さるすべり》の樹を見つけた。岸本が外国の書籍に親しみ初めたのも、外国の文学や宗教を知り初めたのも、海の外というものを若い心に想像し初めたのも皆その岡の上であった。しばらく彼は新しい講堂の周囲《まわり》を歩き廻った。彼はこの旧い馴染の土を踏んで、別れを告げて行こうとしたばかりではなかった。彼には遠い異郷の客舎の方で書きかけの自伝の一部の稿を継ごうと思う心があった。その辺をよく見て置いて、青年時代の記憶を喚起《よびおこ》して行こうとしたからでもあった。日暮時の谷間《たにあい》の方から起って来る寺の鐘も、往時を思出すものの一つであった。その鐘の音は岸本の足を家の方へ急がせた。節子は夕飯の用意して叔父を待っていた。

        四十

 夕飯には家のもの一同|別離《わかれ》の膳《ぜん》に就《つ》いた。食事する部屋の片隅《かたすみ》には以前の住居の方から仏も移して持って来てあって、節子はそこへも叔父の出発の前夜らしく燈明を進《あ》げた。そのかがやきを見ても、二人の子供は何事《なんに》も知らずにいた。食後に岸本は明るい仏壇の前へ子供を連れて行った。
「母さん、左様なら」
 と岸本は子供等に言って見せた。あだかも亡《な》くなった人にまで別れを告げるかのように。
「これが母さん?」
 泉太の方が戯れるように言って、側に居る繁と顔を見合せた。
「そうサ。これがお前達の母さんだよ」
 と岸本が言うと、二人の子供はわざと知らない振《ふり》をして噴飯《ふきだ》してしまった。
 岸本は南向の部屋へ行っていそがしく出発前の準備に取掛った。書くべき手紙の数だけでも多かった。部屋には旅の鞄に詰めるものが一ぱいにひろげてあった。諸方《ほうぼう》から餞別《せんべつ》として贈られた物も、異郷への土産《みやげ》として、出来るだけ岸本は鞄や行李《こうり》の中に納《い》れて行こうとした。
「明日は天気かナ」
 と言いながら、岸本は庭に向いた硝子戸の方へ行って見た。雨戸を開けると、暗い樹木の間を通して、夜の空が彼の眼に映った。遠く光る星もあった。寒さと温暖《あたたか》さとの混合《まじりあ》ったような空気は部屋の内までも流れ込んで来た。
「節ちゃん、春が来るね」
 と岸本は旅支度の手伝いに余念もない節子の方を顧みて言った。節子は電燈のかげで白い襯衣《シャツ》の類なぞを揃《そろ》えていたが、叔父と入替りに雨戸の方へ立って行った。
「今日は鶯《うぐいす》が来て、しきりにこの庭で啼《な》いていましたッけ」
 と彼女は言って見せた。
 遅くまで人通りの多い下町の方から移って来て見ると、浅草代地あたりでまだ宵の口かと思われた頃がその高台の上では深夜のように静かであった。屋外《そと》では音一つしなかった。以前の住居から持って来た古い柱時計の時を刻む音が際立《きわだ》って岸本の耳に聞えた。
「ほんとにこの辺は静かだね。山の中にでも居るようだね」
 こう岸本は節子に話しかけながら、郊外らしい夜の静かさの中で、遠い旅立の支度を急いだ。岸本に取っては、めったに着たことの無い洋服をこれから先、身につけるというだけでも煩《わずら》わしかった。彼は熱帯地方の航海のことなぞを想像して見て、その準備に思い煩った。
 次第に夜は更《ふ》けて行った。二人の子供の中でも、兄は早く眠った。弟の方は遅くまで眼を覚《さ》まして婆やを相手に子供らしい話をしていたが、やがてこれも寝沈《ねしずま》った。
 十二時打ち、一時打っても、まだ部屋の内はすっかり片付かなかった。「お前達はもう休んでおくれ」と岸本は節子や婆やに言った。「婆や、お前は明日の朝早い人だ。俺《おれ》の方は構わなくても可《い》い。遠慮しないでお休み」
「左様でございますか」と婆やは受けて、「ほんとに遠方へいらっしゃるというものは、御支度ばかりでも容易じゃござりません――旦那《だんな》さん、それでは御先に御免|蒙《こうむ》ります」
「節ちゃん、お前もお休み」
 と岸本が言うと、節子の眼は涙でかがやいて来た。羅馬《ローマ》文字で岸本の名を記《しる》しつけた鞄を見るにつけても、悲しい叔父の決心を思いやるような女らしい表情が彼女の涙ぐんだ眼に読まれた。「叔父さん、お休み」それを言いながら、彼女は激しい啜泣《すすりなき》と共に叔父の別離《わかれ》のくちびるを受けた。

        四十一

 翌日岸本は旅の荷物と一緒に旧《もと》の新橋|停車場《ステーション》に近いある宿屋に移った。そこで日頃親しい人達を待った。入替り立替り訪《たず》ねて来る客が終日絶えなかった。中野の友人も来て、岸本の方から頼んで置いた茶と椿《つばき》の実を持って来てくれた。岸本はその東洋植物の種子《たね》を異郷への土産として旅の鞄に納《い》れて行こうとした。「こいつが生《は》えて、大きくなるまでには容易じゃ有りませんね」と中野の友人が言って持前の高い響けるような声で笑ったが、この人の笑声も復《ま》た何時《いつ》聞けるかと岸本には思われた。その日は彼は皆に酒を出した。
 慨然として岸本は旅に上る仕度した。眠りがたい僅かの時間をすこしとろとろしたかと思ううちに、早や東京を出発する日が来ていた。その朝、彼が身につけたものは、旅らしい軽い帽子でも、新調の洋服でも、一つとして彼の胸の底に湛《たた》えた悲哀《かなしみ》に似合っているものは無かった。曾《かつ》て彼は身内のものが過《あやま》って鍛冶橋《かじばし》の未決監に繋《つな》がれたことを思い出すことが出来る。その身内のものが手錠、腰繩《こしなわ》の姿で、裁判所の庭を通り過ぎようとした時、冠《かぶ》っていた編笠《あみがさ》のかげから黙って彼に挨拶《あいさつ》した時のことを思出すことが出来る。丁度あの囚人《しゅうじん》の姿こそ自分で自分の鞭《むち》を受けようとする岸本の心には適《ふさ》わしいものであった。眼に見えない編笠。眼に見えない手錠。そして眼に見えない腰繩。実際彼は生きて還《かえ》れるか還れないか分らない遠い島にでも流されて行くような心持で、新橋の停車場の方へ向って行った。
 寒い細《こまか》い雨はしとしと降っていた。旧《ふる》い停車場の石階《いしだん》を上ると、見送りに来てくれた人達が早やそこにもここにも集っていた。
「お目出度《めでと》うございます」
 とある書店の主人が彼の側へ来て挨拶した。
「今日《こんち》はお目出度うございます」
 と大川端《おおかわばた》の方でよく上方唄《かみがたうた》なぞを聞かせてくれた老妓《ろうぎ》が彼の側へ来た。この人は自分より年若な夫の落語家と連立って来て、一緒に挨拶した。
「こりゃ、困ったなあ」
 この考えが見送りに来てくれた人達に逢《あ》うと同時に、岸本の胸へ来た。思いがけない人達までが彼の出発を聞き伝えて、順に彼の方へ近づいて来た。
 岸本は高輪の方から婆やに連れられて来た子供等に逢った。婆やは改まった顔付で、よそいきの羽織なぞを着て、泉太と繁とを引連れていた。
「お節ちゃんは今日はお留守居でございますッて」と婆やは岸本を見て言った。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、よく来たね」
 岸本はかわるがわる二人の子供を抱きかかえた。泉太は眼を円《まる》くして父の周囲《まわり》に集る人々を見廻していたが、やがて首を垂《た》れて涙ぐんだ。その時になってこの兄の方の子供だけは、父が遠いところへ行くことを朦朧《おぼろ》げながらに知ったらしかった。

        四十二

 田辺の弘は中洲《なかす》の方から、愛子夫婦は根岸の方から、いずれも停車場《ステーション》まで岸本を見送りに来た。弘のよく肥《ふと》った立派な体格は、別れを告げて行く岸本に取って、亡《な》くなった恩人を眼《ま》のあたりに見るの思いをさせた。「叔父さん、今日はお目出度うございます」と愛子の夫も帽子を手にして挨拶《あいさつ》した。この人といい、弘といい、岸本から見るとずっと年の違った人達が皆もう働き盛りの年頃に成っていた。次第に停車場へ集って来る人の中で岸本は白い立派な髯《ひげ》を生《はや》した老人を見つけた。その人が妻の父親であった。老人は岸本の外遊を聞いて、見送りかたがた函館《はこだて》の方から出て来てくれた。園子の姉とか妹とかいう人達までこの老人に托《たく》してそれぞれ餞別《せんべつ》なぞを贈って寄《よこ》してくれたことを考えても、思わず岸本の頭は下った。代々木、加賀町、元園町、その他の友人や日頃仕事の上で懇意にする人達も多くやって来てくれた。岸本はそれから人達の集っている方へも別れを告げに行った。
「この次は君の洋行する番だね」
 と代々木の友人の前に立って話しかける人があった。
「そう皆出掛けなくても可《い》いサ」
 と代々木は笑って、快活な興奮した眼付で周囲に集って来る人達を眺《なが》めていた。
 発車の時が近づいた。つと函館の老人は岸本の側へ寄った。
「私はここで失礼します。そんならまあ御機嫌《ごきげん》よう」
 改札口の柵《さく》の横手で、老人は岸本の方をよく見て言った。他の人と同じように入場券を手にしないところにこの老人の気質を示していた。
 五六人の友人は岸本と一緒に列車の中へ入った。岸本が車窓から顔を出した時は、日頃親しい人達ばかりでなく、彼の著述の一冊も読んで見てくれるような知らない年若な人達までがそこに集まって来ていた。多くの人の中を分けて窓際《まどぎわ》へ岸本を捜しに来た美術学校のある教授もあった。
「仏蘭西《フランス》の方へ御出掛だそうですね――私は御立《おたち》の日もよく知りませんでした。今朝新聞を見て急いでやって来ました」
「ええ、君の御馴染《おなじみ》の国へ行ってまいりますよ」
 岸本はその窓際で、少年時代から知合っている画家とあわただしい別れの言葉を交《かわ》した。
「岸本さん、もうすこし顔をお出しなすって下さい。今写真を撮《と》りますから」
 という声が新聞記者の一団の方から起った。岸本は出したくない顔を余儀なく窓の外へ出した。
「どうぞ、もうすこしお出しなすって下さい。それでは写真がよく写りません」
 パッと光る写真器の光の中に、岸本は恥の多い顔を曝《さら》した。
「泉ちゃん、繁ちゃん――左様なら」
 と岸本が婆やに連れられている二人の子供の顔を見ているうちに、汽車は動き出した。岸本は黙って歩廊に立つ人々の前に頭をさげた。
「大変な見送りだね。こんなに人の来てくれるようなことはわれわれの一生にそうたんと無い。まあ西洋へでも行く時か、お葬式《とむらい》の時ぐらいのものだね」
 一緒に乗込んだ加賀町は高級な官吏らしい調子で言って、窓際に立ちながら岸本の方を見た。全く、岸本に取っては生きた屍《しかばね》の葬式《とむらい》が来たにも等しかった。

        四十三

 到頭《とうとう》岸本は幼い子供等を残して置いて東京を離れた。元園町、加賀町、森川町、その他の友人は品川まで彼を見送った。代々木の友人は別れを惜んで、ともかくも鎌倉まで一緒に汽車で行こうと言出した。鎌倉には岸本を待つという一人の友人もあったからで。
 汽車は鶴見を過ぎた。しとしと降る雨は硝子窓《ガラスまど》の外を伝って流れていた。その駅にも、岸本は窓から別れを告げて行こうとした知合の人があったが、果さなかった。硝子に映ったり消えたりする駅夫も、乗降する客も、しょんぼりと小さな停車場の歩廊に立つ人も、一人として細い雨に濡《ぬ》れて見えないものは無かった。
 鎌倉で岸本を待っていたのは、信濃《しなの》の山の上に彼が七年も暮した頃からの志賀の友人で、この人の細君や、細君の叔母さんに当る人は園子の友達でもあった。この特別な親しみのある人は神戸行の途中で岸本を引留めて、小半日代々木とも一緒に話し暮したばかりでなく、別離《わかれ》の意《こころ》を尽すために鎌倉から更に箱根の塔の沢までも先立って案内して行った。旅の途中の小さな旅の楽しさ、塔の沢へ行って見る山の裾《すそ》の雪、青木や菅《すげ》や足立《あだち》などと曾《かつ》て遊んだことのある若かった日までも想い起させるような早川《はやかわ》の音、それらの忘れ難い印象が誰にも言うことの出来ない岸本の心の内部《なか》の無言な光景《ありさま》と混合《まざりあ》った。
 代々木、志賀の親しい友達を前に置いて、ある温泉宿の二階座敷で互に別れの酒を酌《く》みかわした時にも、岸本は何事《なんに》も訴えることが出来なかった。箱根の山の裾へ来て聞く深い雨とも、谷間を流れ下る早川の水勢とも、いずれとも差別のつかないような音に耳を傾けながら、岸本は僅《わずか》に言出した。
「僕もね……まあ深い溜息《ためいき》の一つも吐《つ》くつもりで出掛けて行って来ますよ……」
「そうだねえ、一切のものから離れて、溜息でも吐きたいと思う心持は僕にも有るよ」
 そういう代々木の眼は輝いていた。志賀はまた思いやりの深い調子で、岸本の方を見ながら、
「奥さんのお亡《な》くなりに成ったということから、仏蘭西あたりへお出掛けに成るようなお考えも生れて来たんでしょう」
「とにかく、一年でも二年でも、旅でゆっくり本の読めるだけでも羨《うらや》ましい。加賀町なぞも君の仏蘭西行には大分刺激されたようだ」
 と復《ま》た代々木が言って、「しばらくお別れだ」という風に岸本のために酒を注《つ》いだ。
 その日、岸本はさかんな見送りを受けて東京を発《た》って来た朝から、冷い汗の流れる思をしつづけた。余儀ない旅の思立から、身をもって僅に逃れて行こうとするような彼は、丁度捨て得るかぎりのものを捨て去って「火焔《ほのお》の家」を出るという憐《あわ》れむべき発心者《ほっしんしゃ》にも彼自身を譬《たと》えたいのであった。こうした出奔が同年配の友人等を多少なりとも刺激するということは、彼に取って実に心苦しかった。彼は何とも自身の位置を説明《ときあか》しようが無くて、以前に仙台や小諸《こもろ》へ行ったと同じ心持で巴里《パリ》の方へ出掛けて行くというに留《とど》めて置いた。
 酒に趣味を有《も》ち、旅に趣味を有つ代々木は、岸本の所望で、古い小唄を低声《ていせい》に試みた。復た何時《いつ》逢われるかと思われるような友人の口から、岸本は好きな唄の文句を聞いて、遠い旅に行く心を深くした。

        四十四

 二人の友人と連立って岸本が塔の沢を発ったのは翌日の午後であった。国府津《こうず》まで来て、そこで岸本は代々木と志賀とに別れを告げた。やがてこの友人等の顔も汽車の窓から消えた。その日の東京の新聞に出ていた新橋を出発する時の自分に関する賑《にぎや》かな記事を自分の胸に浮べながら、岸本は独《ひと》り悄然《しょうぜん》と西の方へ下って行った。
 マルセエユ行の船を神戸で待受ける日取から言うと、岸本はそれほど急いで東京を離れて来る必要も無いのであった。唯《ただ》、彼は節子の母親にどうしても合せる顔が無くて、嫂《あによめ》の上京よりも先に神戸へ急ごうとした。仮令《たとえ》彼は神戸へ行ってからの用事にかこつけて、郷里の方の嫂|宛《あて》に詫手紙《わびてがみ》を送って置いたにしても。また仮令嫂が上京の費用等は彼の方で用意することを怠らなかったとしても。
 神戸へ着いてから四五日|経《た》つと、岸本は節子からの手紙を受取った。それは岸本から出した手紙の返事として寄《よこ》したものであったが、子供等の無事なことや留守宅の用事のようなことばかりでなく、もっと彼女の心に立入ったことがその中に書いてあった。
 神戸の港町から諏訪山《すわやま》の方へ通う坂の途中に見つけた心持の好い旅館の二階座敷で、彼はその手紙を読んで見た。すくなくも節子に起って来た不思議な心の変化がその中に書きあらわしてあった。過ぐる四五箇月の間、ある時は恐怖《おそれ》をもって、ある時は強い憎《にくし》みをもって、ある時はまた親しみをもって叔父に対して来たような動揺した心の節子に比べると、その中には何となく別の節子が居た。岸本は自分の遠い旅に上って来たことから、何か急激な変化が不幸な姪《めい》の心に展《ひら》けて来たことを感じない訳にいかなかった。
 猶《なお》よくその手紙を繰返して見た。節子は岸本の方から詫《わ》びてやった一切の心持を――彼女に対して気の毒がる一切の心持を打消してよこした。今日までを考えると、どうして自分はこんなことに成って来たか、それを思うと自分ながら驚かれると書いてよこした。矢張《やっぱり》自分は誘惑に勝てなかったのだと思うと書いてよこした。しかしこの世の中には、人情の外の人情というようなものがある、それを自分は思い知るように成って来たと書いてよこした。何故《なぜ》叔父さんの手紙には、「お前さん」というような、よそよそしい言葉で自分のことを呼んでくれるか、「お前」で沢山ではないかと書いてよこした。叔父さんの新橋を発《た》つ朝、自分は高輪の家の庭先から品川の方に起る汽車の音を聞いて、あの音が遠く聞えなくなるまで何時までも同じところにボンヤリ佇立《たたず》んでいたと書いてよこした。叔父さんの残して行った本箱、叔父さんの残して行った机、何一つとして叔父さんのことを想い起させないものは無い、自分は今机や本箱の置いてある部屋を歩いて見ていると書いてよこした。叔父さんが外遊の決心を聞いてから、自分はかずかずの話したいと思うことを有《も》っていたが、どうしてもそれが自分には出来なかったとも書いてよこした。

        四十五

 節子の手紙を手にして見ると、彼女と共に恐怖を分ち、彼女と共に苦悩を分った時の心持はまだ岸本から離れなかった。
「ああ、酷《ひど》かった。酷かった」
 岸本はそれを言って見て周囲《あたり》を見廻した。親戚《しんせき》も、友人も、二人の子供も最早彼の側には居なかった。唯一人の自分を神戸の宿屋に見つけた。彼は漸《ようや》くのことでその港まで落ちのびることの出来た嵐《あらし》の烈《はげ》しさを想って見て、思わずホッと息を吐《つ》いた。
 いかに節子の方から打消してよこそうとも、彼女の一生を過《あやま》らせ、同時に拭《ぬぐ》いがたい汚点を自身の生涯に留めてしまったような、深い悔恨の念は岸本の胸を去るべくもなかった。その日まで彼が節子のために心配し、出来るだけ彼女をいたわり、留守中のことまで彼女のために考えて置いて来たというのは、どうかして彼女を破滅から救いたいと思うからであった。頑《かたくな》な心の彼は節子から言ってよこしたことに就《つ》いては、何事《なんに》も答えまいと考えた。
 四月に入って節子は母の上京を知らせてよこした。岸本は胸を震わせながらその手紙を読んで見て、彼女の母と祖母とまだ幼い弟とが無事に高輪《たかなわ》へ着いたことを知った。節子の一人ある弟は丁度岸本の二番目の子供と同年ぐらいであった。郷里《くに》から家を畳んで出て来たそれらの家族を節子は品川の停車場まで迎えに行ったことを書いてよこした。母も年をとった、と彼女は書いてよこした。年老いた祖母や母を眼《ま》のあたりに見るにつけても自分は余程《よほど》しっかりしなければ成らないと思うと書いてよこした。過ぐる月日の間、自分に附纏《つきまと》う暗い影は一日も自分から離れることが無かったが、今はその暗い影も離れたと書いてよこした。そして自分は年寄や子供のために、もっと働かねば成らないと思って来たと書いてよこした。
 この節子の手紙には岸本の身に浸《し》みるような、かずかずの細《こまか》いことが書いてあった。その中には、女らしい彼女の性質までもよく表れていた。岸本は、普通の身《からだ》でない彼女が上京した母親と一緒に成った時のことを胸に描いて見た。その時の彼女の小さな胸の震えを、何時でも割合に冷静を失うことのない彼女の態度を――何もかも、岸本はありありと想像で見ることが出来た。あの嫂が高輪の留守宅を見た時は、あの嫂が節子と子供を残して置いて海の外へ行こうとする自分の意味を読んだ時は、それを考えると岸本は自分の顔から火の出るような思いをした。
 神戸へ来て、是非とも岸本の為《し》なければ成らないことは、名古屋に滞在する義雄兄へ宛《あ》てた書きにくい手紙を書くことであった。彼はその一通を残して置いて独りで船に乗ろうとした。幾度《いくたび》か彼は節子のことを兄に依頼して行くつもりで、紙をひろげて見た。その度に筆を捨てて嘆息してしまった。
 東京の方にあるクック会社の支店からは、岸本が約束して置いて来た仏蘭西船の切符に添えて、船床の番号までも通知して来た。宿屋の二階座敷から廊下のところへ出て見ると、神戸の港の一部が坂になった町の高い位置から望まれた。これから出て行こうとする青い光った海も彼の眼にあった。

        四十六

「名古屋から岸本さんという方が御見えでございます」
 宿屋の女中が岸本のところへ告げに来た。丁度彼はインフルエンザの気味で、神戸を去る前に多少なりとも書いて置いて行きたいと思う自伝の一節も稿を続《つ》げないでいるところであった。義雄兄の来訪と聞いて、急いで彼は寝衣《ねまき》の上に羽織を重ねた。敷いてある床も部屋の隅《すみ》へ押しやった。もしもインフルエンザの気味ででもなかったら、隠しようの無いほど彼の顔色は急に蒼《あお》ざめた。義雄兄は岸本の出発前に名古屋から彼を見に来たのであった。
「弟が外国へ行くというのに、手紙で御別れも酷《ひど》いと思ってね。それに神戸には用事の都合もあったし、一寸《ちょっと》やって来た」
 こうした兄の言葉を聞くまでは岸本は安心しなかった。
「や――時に、引越も無事に済んだ。一軒の家を動かすとなるとなかなか荷物もあるもんだよ。貴様の方からの注意もあったし、まあ大抵の物は郷里の方へ預けることにして、要《い》る物だけを荷造りして送った。俺《おれ》も名古屋から出掛けて行ってね。すっかり郷里の方の家を片付けて来た。『捨様《すてさま》も外国の方へ行かっせるッて――子供を置いて、よくそれでも思切って出掛る気に成らッせいたものだ』なんて、田舎《いなか》の者が言うから、人間はそれくらいの勇気がなけりゃ駄目だッて俺がそう言ってやった」
 義雄は相変らずの元気な調子で話した。次第に岸本の頭は下って行った。彼は兄の言うことを聞きながら自分の掌《てのひら》を眺めていた。
「俺の家でも皆東京へ出ると言うんで、村のものが送別会なぞをしてくれたよ。嘉代《かよ》(節子の母)もね、なんだか気の弱いことを言ってるから、そんなことじゃダチカン。兄弟が互いに助け合うというのはわれわれ岸本の家の祖先からの美風ではないか。それに捨吉の方ばかりじゃない、俺の家でもこれから発展しようというところだ。そう言って俺が嘉代を励ましてやった。まあ見ていてくれ、貴様が仏蘭西の方へ行って帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ――」
 気象の烈《はげ》しい義雄がこんな風に話すところを聞いていると、とても岸本は弟の身として節子のことなぞを言出す機会は無いのであった。義雄は神戸まで来て弟の顔を見て行けば、それで気が済んだという風で、用事の都合からそうゆっくりもしていなかった。この時機を失っては成らない。こう命ずるような声を岸本は自分の頭脳《あたま》の内で聞いた。彼は立ちかける兄の袖《そで》を心では捉《とら》えながらも、何事《なんに》も言出すことが出来なかった。
 到頭岸本は言わずじまいに、兄に別れた。彼は嫂《あによめ》に一言の詫《わび》も言えず、今また兄にも詫ることの出来ないような自分の罪過《つみ》の深さを考えて、嘆息した。

        四十七

 神戸の宿屋で岸本は二週間も船を待った。その二週間が彼に取っては可成《かなり》待遠しかった。隠して置いて来た節子と彼との隔りは既に東京と神戸との隔りで、それだけでも彼女から離れ遠ざかることが出来たようなものの、眼に見えない恐ろしさは絶えず彼を追って来た。今日は東京の方から何か言って来はしまいか、明日は何か言って来はしまいか、毎日々々その心配が彼の胸を往来した。しかし彼は二週間の余裕を有《も》った御蔭《おかげ》で、東京の方では書けなかった手紙も書き、急いだ旅の支度《したく》を纏《まと》めることも出来た。その間に、大阪へ用事があって序《ついで》に訪《たず》ねて来たという元園町の友人を、もう一度神戸で見ることも出来た。彼は東京の留守宅から来た自分の子供の手紙をも読んだ。
「父さん。こないだは玉子のおもちゃをありがとうございました。わたしも毎日学校へかよって、べんきょうしています。フランスからおてがみを下さい。さよなら――泉太」
 これは岸本が志賀の友人に托《たく》して、箱根細工の翫具《おもちゃ》を留守宅へ送り届けたその礼であった。手伝いする人があって漸く出来たような子供らしいこの手紙は、泉太が父に宛てて書いた初めての手紙で、学校の作文でも書くように半紙一ぱいに書いてあった。子供に勧めてこういうものを書かして寄《よこ》したらしい節子の心持も思われて岸本は唯々《ただただ》気の毒でならなかった。
 海は早や岸本を呼んでいた。出発前に節子から来た便《たよ》りには、遠く叔父の船に乗るのを見送るという短い別れの言葉が認《したた》めてあった。岸本の胸はこれから彼が出て行こうとする知らない異国の想像で満たされるように成った。彼は神戸へ来た翌日、海岸の方へ歩き廻りに行って、図らず南米行の移民の群を見送ったことを思出した。幾百人かのそれらの移住者の中には「どてら」に脚絆《きゃはん》麻裏穿《あさうらば》きという風俗のものがあり、手鍋《てなべ》を提《さ》げたものがあり、若い労働者の細君らしい人達まで幾人《いくたり》となくその中に混っていたことを思出した。彼はまた、今まで全く気がつかずにいた自分の皮膚の色や髪の毛色のことなどを妙に強く意識するように成った。
 出発の日が迫った。いつの間にか新聞記者の一団が岸本の宿屋を見つけて押掛けて来た。
「どうもこういうところに隠れているとは思わなかった」
 と記者の一人が岸本を前に置いて、他の記者と顔を見合せて笑った。
 この避けがたい混雑の中で、岸本は思いもよらない台湾の兄の来訪を受けた。
「や、どうも丁度好いところへやって来た。船の会社の人がお前の宿屋を教えてくれた」
 と民助が言った。
 この長兄は台湾の方から上京する途中にあるとのことであった。それを岸本の方でも知らなかった。兄弟は偶然にも幾年振りかで顔を合せることが出来た。
 鈴木の兄に比べると、民助はもっと熱い地方の日に焼けて来た。健康そのものとも言いたいこの長兄は身体までもよく動いて、六十歳に近い人とは受取れないほどの若々しさと好い根気とをも有《も》っていた。多年の骨折から漸く得意の時代に入ろうとしている民助の前に、岸本は弟らしく対《むか》い合った。つくづく彼は自分の精神《こころ》の零落を感じた。

        四十八

 岸本の船に乗るのを見送ろうとして、番町は東京から、赤城《あかぎ》は堺《さかい》の滞在先から、いずれも宿屋へ訪《たず》ねて来た。いよいよ神戸出発の日が来て見ると、二十年振りで御影《みかげ》の方から岸本を見に来た二人の婦人もあった。その一人は夫という人に伴われて来た。岸本がまだ若かった頃《ころ》に、曾《かつ》て東京の麹町《こうじまち》の方の学校で勝子という生徒を教えたことがある。彼が書きかけている自伝の一節は長い寂しい道を辿《たど》って行ってその勝子に逢《あ》うまでの青年時代の心の戦いの形見である。訪ねて来た二人の婦人は丁度勝子と同時代に岸本が教えた昔の生徒であった。勝子は若かった日の岸本と殆《ほと》んど同じ年配で、学校を出て許嫁《いいなずけ》の人と結婚してから一年ばかりで亡《な》くなったのであった。
「先生はもっと変っていらっしゃるかと思った」
 そういう昔の生徒は早や四十を越した婦人であった。
 思いがけない人達を見たという心持で、岸本は兄と一緒にそれらの客を款待《もてな》したり出発の用意をしたりした。時には彼は独《ひと》りで座敷の外へ出て二階の縁側から見える港の空を望んだ。別れを告げて行こうとする神戸の町々には、もう彼岸桜《ひがんざくら》の春が来ていた。
 約束して置いた仏国の汽船は午後に港に入った。外国の旅に慣れた番町は町へ出て、岸本のために旅費の一部を仏蘭西《フランス》の紙幣や銀貨に両替して来るほどの面倒を見てくれた。仏蘭西の知人に紹介の手紙をくれたり、巴里《パリ》へ行ってからの下宿なぞを教えてくれたりしたのもこの友人であった。番町はそこそこに支度する岸本の方を眺《なが》めて、旅慣れない彼を励ますような語気で、
「岸本さんと来たら、随分手廻しの好い方だからねえ」
「これでも手廻しの好い方でしょうか――」と岸本は番町にそう言われたことを嬉しく思った。
「好い方ですとも。僕なぞが外国へ行く時は、鞄《かばん》でも何でも皆人に詰めて貰《もら》ったものですよ」
「なにしろ私は一人ですし、どうにかこうにか要《い》るものだけの物を揃《そろ》えました」
 こう言う岸本の側へは民助兄が立って来て、遠く行く弟のために不慣《ふなれ》な洋服を着ける手伝いなぞをしてくれた。
「兄さん、私はあなたに置いて行くものが有ります」と言いながら岸本は一つの包を兄の前に差出した。「この中に、お母《っか》さんの織った袷《あわせ》が入っています。外国へ行って部屋着にでもする積りで、東京からわざわざ持って来たんです。いかに言っても鞄が狭いものですから、これはあなたに置いて行きましょう」
「そいつは好いものをくれるナ」と民助も悦《よろこ》んだ。「お母さんのものは何物《なんに》も最早|俺《おれ》のところには残っていない」
「私のところにも、その袷がたった一枚残っていました。でも随分長いこと有りました。十何年も大切にして置いて、毎年袷時には出して着ましたが、まだそっくりしています。木綿《もめん》に糸がすこし入っていて私の一番好きな着物です。惜しいけれども仕方が無い。まあ、これは兄さんの方へ進《あ》げる」
「じゃ、俺がまた貰っといて着てやるわい」
 兄弟はこんな言葉をかわした。岸本はその母の手織にしたものを形見として兄に残して置いて、すっかり旅人の姿になった。

        四十九

 隠れた罪を犯したものの苦難を負うべき時が来た。ひょっとするとこれを神戸の見納《みおさ》めとしなければ成らないような遠い旅に上るべき時が来た。そろそろ夕飯時に近い頃であった。船まで見送ろうという友人や民助兄と連立って岸本は宿屋を出た。御影から来た二人の婦人も岸本に随《つ》いて歩いて来た。
 長い坂になった町が皆の眼にあった。一同はその坂を下りたところで物食う場処を探した。ある料理屋の前まで行くと、二人の婦人はそこで岸本に別れを告げた。友人等の案内で、岸本はその料理屋の一間に互いに別れの酒を酌《く》みかわした。弟の外遊を何か誉あることのようにして盃《さかずき》をくれる民助兄に対しても、わざわざ堺から逢いに来てくれた赤城に対しても、初めて顔を合せた御影に対しても、それから番町のような友人に対しても、岸本はそれぞれ別の意味で羞恥《はじ》の籠《こも》った感謝の盃を酬《むく》いた。
 やがてその料理屋を出た頃は日もすっかり暮れていた。全く言葉の通じない仏蘭西船に上るということは、それだけでも酷《ひど》く岸本の心を不安にした。町々を包む夜の闇《やみ》はひしひしと彼の身に迫って来た。
「言葉が通じないというのも、旅の面白味の一つじゃ有りませんか」
 この番町の言葉に励まされて、岸本は皆と一緒に波止場《はとば》の方へ歩いて行った。神戸を去る前に、彼は是非とも名古屋の義雄兄に宛《あ》てた手紙を残して行くつもりで、幾度かあの宿屋の二階でそれを試みたか知れなかった。どうしても、その手紙は彼には書けなかった。彼はどういう言葉でもって自分の心を言いあらわして可《い》いかを知らなかった。そこには言葉も無かった。仕方なしに船に乗ってから書くことにして、到頭彼はその手紙を残さずにランチに乗移った。
 暗い海上に浮ぶ本船へは、友人や兄などの外に岸本を見送ろうとする二三の年若な人達もあった。岸本が二週間あまり世話になった宿屋のかみさんも女中を連れて、外国船の模様を見ながら彼を送りに来た。このかみさんは旅の着物のほころびでも縫えと言って、紅白の糸をわざわざ亭主と二人して糸巻に巻いて、それに縫針《ぬいばり》を添えて岸本に餞別《せんべつ》としたほど細《こまか》く届いた上方風の婦人であった。かねて岸本は独りでこの仏蘭西船に身を隠し、こっそりと故国に別れを告げて行くつもりであった。その心持から言えば、こうした人達に見送らるることは聊《いささ》か彼の予期にそむいた。まばゆく電燈の点《つ》いた二等室の食堂に集って、皆から離別《わかれ》を惜まれて見ると、遠い前途の思いが旅慣れない岸本の胸に塞《ふさが》った。
 ランチの方へ引揚げて行く人達を見送るために、岸本は複雑な船の構造の間を通りぬけて甲板《かんぱん》の上へ出た。友人等は船の梯子《はしご》に添うて順に元来たランチの方へ降りて行った。やがて暗い波間から岸本を呼ぶ一同の声が起った。ランチは既に船から離れて居た。岸本はその声を聞こうとして、高い甲板の上のギラギラと光った電燈の影を狂気のように走り廻った。
 岸本を乗せた船は夜の十一時頃に港を離れた。もう一度彼が甲板の上に出て見た時は空も海も深い闇《やみ》に包まれていた。甲板の欄《てすり》に近く佇立《たたず》みながら黙って頭を下げた彼は次第に港の燈火《ともしび》からも遠ざかって行った。

        五十

 三日目に岸本は上海《シャンハイ》に着いた。船に乗ってから書こうと思った義雄兄への手紙は上海への航海中にも書けなかった。
 嘆息して、岸本は後尾の方にある甲板の上へ出た。更に船梯子《ふなばしご》を昇《のぼ》って二重になった高い甲板の上へ出て見た。船客もまだ極く少い時で、その高い甲板の上には独《ひと》りで寂しそうに海を眺《なが》めている長い髯《ひげ》を生《はや》した一人の仏蘭西人の客を見つけるぐらいに過ぎなかった。岸本は艫《とも》の方の欄に近く行った。そこから故国の方の空を望んだ。仏国メサジュリイ・マリチイム会社に属するその汽船は四月十三日の晩に神戸を出て十五日の夜のうちには早や上海の港に入った程《ほど》の快よい速力で、上海から更に香港《ホンコン》へ向け波の上を駛《はし》りつつある時であった。遠く砕ける白波は岸本の眼にあった。その眺めは、国の方で別れて来た人達と彼自身との隔たりを思わせた。一日は一日よりそれらの人達から遠ざかり行くことをも思わせた。あの東京浅草の七年住慣れた住居の二階から、あの身動きすることさえも厭《いと》わしく思うように成った壁の側から、ともかくもその波の上まで動くことが出来た不思議をも胸に浮べさせた。彼は深林の奥を指《さ》して急ぐ傷《きずつ》いた獣に自分の身を譬《たと》えて見た。
 海風の烈《はげ》しさに、岸本は高い甲板を離れた。船梯子に沿うて長い廊下を見るような下の甲板に降りた。そこにも一人二人の仏蘭西人の客しか見えなかった。明るい黄緑な色の海は後方《うしろ》にして出て来た故国の春の方へ岸本の心を誘った。彼は上海の方で見て来た李鴻章《りこうしょう》の故廟《こびょう》に咲いた桃の花がそこにも春の深さを語っていたことを胸に浮べた。その支那風《しなふう》な濃い花の姿は日頃花好きな姪《めい》にでも見せたいものであったことを胸に浮べた。彼はまた、上海へ来るまでの途中で、どれ程彼女の父親に宛てようとした一通の手紙のために苦しんだかを胸に浮べた。神戸の宿屋で義雄兄から彼が受取った手紙の中には、兄その人も彼の外遊から動かされたと書いてあったことを胸に浮べた。その手紙の中には、恐らく露領の方にある輝子の夫もこれを聞いたなら刺激を受くるであろうと思うと書いてあったことを胸に浮べた。そうした手紙をくれるほどの兄の心を考えると、節子の苦しんでいることに就《つ》いて岸本の方から書き得る言葉も無かったのである。
 香港を指《さ》して進んで行く船の煙突からは、さかんな石炭の煙が海風に送られて来て、どうかすると波の上の方へ低く靡《なび》いた。岸本は香港から国の方へ向う便船の日数を考えた。嫂《あによめ》が節子と一緒になってから既に十八九日の日数が経《た》つことをも考えた。否《いや》でも応でも彼は香港への航海中に書きにくい手紙を書く必要に迫られた。その機会を失えば、次の港は仏領のセエゴンまでも行かなければ成らなかった。

        五十一

 船室に行って岸本は旅の鞄《かばん》の中から手紙書く紙を取出した。セエゴンから東の港は乗客も少いという仏蘭西《フランス》船の中で、六つ船床のある部屋を岸本一人に宛行《あてが》われたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は国の方に残して行く義雄兄宛の手紙を書こうとした。円い船窓に映る波の反射は余計にその部屋を静かにして見せた。彼は波に揺られていることも忘れて書いた。この手紙は上海を去って香港への航海中にある仏蘭西船で認《したた》めると書いた。神戸を去る時に書こうとしても書けず、余儀なく上海から送るつもりでそれも出来なかった手紙であると書いた。自分が新橋を出発する時も、神戸を去る時も、思いがけない見送りなどを受けたのであるが、それにも関《かかわ》らず自分は悄然《しょうぜん》として別れを告げて来たものであると書いた。何故に自分が母親のない子供等を残してこうした旅に上って来たか、その自分の心事は誰にも言わずにあるが、大兄だけにはそれを告げて行かねば成らないと書いた。多くの友人も既にこの世を去り、甥《おい》も妻も去った中で、自分のようなものが生き残って今また大兄にまで嘆きをかける自分の愚かしい性質を悲しむと書いた。自分は弟の身として、大兄の前にこんなことの言えた訳ではないが、忍び難いのを忍ぶ必要に迫られたと書いた。自分が責任をもって大兄から預かった節子は今はただならぬ身《からだ》であると書いた。それが自分の不徳の致すところであると書いた。自分の旧《ふる》い住居《すまい》の周囲は大兄の知らるるごとくであって、種々な交遊の関係から自然と自分も酒席に出入したことはあるが、そのために身を過《あやま》つようなことは無かったと書いた。その自分がこうした恥の多い手紙を書かなければ成らないと書いた。今から思えば、自分が大兄の娘を預かって、すこしでも世話をしたいと思ったのが過りであると書いた。実に自分は親戚《しんせき》にも友人にも相談の出来ないような罪の深いことを仕出来《しでか》し、無垢《むく》な処女《おとめ》の一生を過り、そのために自分も曾《かつ》て経験したことの無いような深刻な思を経験したと書いた。節子は罪の無いものであると書いた。彼女を許して欲しいと書いた。彼女を救って欲しいと書いた。家を移し、姉上の上京を乞《こ》い、比較的に安全な位置に彼女を置いて来たというのも、それは皆彼女のために計ったことであると書いた。この手紙を受取られた時の大兄の驚きと悲しみとは想像するにも余りあることであると書いた。とても自分は大兄に合せ得る顔を有《も》つものでは無いと書いた。書くべき言葉を有つものでも無いと書いた。唯《ただ》、節子のためにこの無礼な手紙を残して行くと書いた。自分は遠い異郷に去って、激しい自分の運命を哭《こく》したいと思うと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。

        五十二

 三十七日の船旅の後で、岸本は仏蘭西マルセエユの港に着いた。
「あのプラタアヌの並木の美しいマルセエユの港で、この葉書を受取って下さるかと思うと愉快です」
 こうした意味の葉書を岸本はその港に着いて読むことが出来た。船の事務長が岸本の名を呼んでその葉書を渡してくれた。多くの仏蘭西人の船客の中でも、便《たよ》りの待遠しいその港で葉書なり手紙なりを受取るものは稀《まれ》であった。岸本が神戸を去る時船まで見送って来た番町の友人がその葉書を西伯利亜《シベリア》経由にして、東京の方から出して置いてくれたからで。
 初めて欧羅巴《ヨーロッパ》の土を踏んだ岸本は、上陸した翌日、マルセエユの港にあるノオトル・ダムの寺院《おてら》を指して崖《がけ》の間の路《みち》を上って行った。その時は一人の旅の道連《みちづれ》があった。コロンボの港(印度《インド》、錫蘭《セーロン》)からポオト・セエドまで同船した日本の絹商で、一度船の中で手を分った人に岸本は復《ま》たその港で一緒に成ったのであった。絹商は倫敦《ロンドン》まで行く人で外国の旅に慣れていた。御蔭《おかげ》と岸本は好い案内者を得た。高い崖に添うて日のあたった路《みち》を上りきると、古い石造の寺院の前へ出た。欧羅巴風な港町の眺望《ちょうぼう》は崖の下の方に展《ひら》けた。
 海は遠く青く光った。その海が地中海だ。ポオト・セエドからマルセエユの港まで乗って来る間で、一日岸本が高い波に遭遇《であ》った地中海だ。眼の下にある黄ばみを帯びた白い崖の土と、新しい草とは、一層その海の色を青く見せた。岸本は自分の乗って来た二本|煙筒《えんとつ》の汽船が波止場近くに碇泊《ていはく》しているのをその高い位置から下瞰《みおろ》して、実にはるばると旅して来たことを思った。
 寺院《おてら》の入口に立つまだ年若な一人の尼僧《あまさん》が岸本に近づいた。遠く東洋の空の方から来た旅人としての彼を見て何か寄附でも求めるらしく鉄鉢《てっぱつ》のかたちに似た器を差出して見せた。その尼僧は仏蘭西人だ。一人の乞食《こじき》が石段のところに腰を掛けていた。その乞食も仏蘭西人だ。岸本は絹商と連立って寺院の入口にある石段を昇って見た。入口の片隅《かたすみ》には、故国《くに》の方の娘達にしても悦《よろこ》びそうな白と薄紫との木製の珠数《ずず》を売る老婆《ばあさん》があった。その老婆も仏蘭西人だ。岸本は本堂の天井の下に立って見た。薄暗い石の壁の上には、航海者の祈願を籠《こ》めて寄附したものでもあるらしい船の図の額が掛っていた。寺院の番人に案内されて、更に奥深く行って見た。彩硝子《いろガラス》の窓から射《さ》し入る静かな日の光は羅馬《ローマ》旧教風な聖母マリアの金色の像と、その辺に置いてある古めかしく物錆《ものさ》びた風琴《オルガン》などを照して見せた。その番人も仏蘭西人だ。そこはもう岸本に取って全く知らない人達の中であった。
 あわただしい旅の心持の中でも、香港《ホンコン》から故国の方へ残して置いて来た手紙のことは一日も岸本の心に掛らない日は無かった。その晩の夜行汽車で、彼は絹商と一緒に巴里へ向けて発《た》った。

        五十三

 遠く目ざして行った巴里《パリ》に岸本が入ったのは、船から上って四日目の朝であった。彼は巴里までの途中で同行の絹商と一緒に一日をリヨンに送って行った。ガール・ド・リヨンとは初て彼が巴里に着いた時の高い時計台のある停車場《ステーション》であった。そこで彼は倫敦行の絹商に別れ、辻馬車《つじばしゃ》を雇って旅の荷物と一緒に乗った。晴雨兼帯とも言いたい馬丁《べっとう》の冠《かぶ》った高帽子まで彼にはめずらしい物であった。彼は右を見、左を見して、初めてセエヌ河を渡った。まだ町々の響も喧《かしま》しくない五月下旬の朝のうちのことで、マルセエユやリヨンで見て行ったと同じプラタアヌの並木が両側にやわらかい若葉を着けた街路の中を乗って行った時は、馬丁の鳴らす鞭《むち》の音や石道を踏んで行く馬の蹄《ひづめ》の音まで彼の耳に快よく聞えた。
 巴里の天文台に近い並木街の一角にある下宿が岸本を待っていた。その辺の往来には朝通いらしい人達、労働者、牛乳の壜《びん》を提《さ》げた娘、野菜の買出しに出掛ける女連《おんなれん》なぞが岸本の眼についた。下宿の女中と家番《やばん》のかみさんとが来て彼の荷物を運んでくれたが、言葉は一切通じなかった。彼は七層ばかりある建築物《たてもの》の内の第一階の戸口のところで、年とった壮健《じょうぶ》そうな婦《おんな》の赤黒い朝の寝衣《ねまき》のままで出て迎えるのに逢った。その人が下宿の主婦《かみさん》であった。この主婦の言うことも岸本には通じなかった。
 客扱いに慣れたらしい主婦は一人の日本人を岸本のところへ連れて来た。その下宿に泊っている留学生で、かねて岸本は番町の友人から名前を聞いて来た人だ。長く外国生活をして来た人らしいことは一目見たばかりで岸本にも直《すぐ》にそれと分った。岸本は巴里へ来て最初に逢ったこの留学生から下宿の主婦の言おうとすることを聞取った。部屋へも案内された。
 留学生は食事の時間なぞを岸本に説明して聞かせた後で言った。
「この主婦が君にそう言って下さいッて――『寝衣のままで大変失礼しました、いずれ着物を着更《きか》えてから改めて御挨拶《ごあいさつ》します』ッて。君の着くのが今朝早かったからね」
 それを聞いていた主婦は留学生と岸本の顔を見比べて、
「お解《わか》りでございましたか」
 という風に、両手を岸本の方へひろげて見せた。
 独りで部屋に残って見ると、まだ岸本には船にでも揺られているような長道中の気持が失せなかった。旅慣れない彼に取っては、外国人ばかりの中に混って航海を続けて来たというだけでも一仕事であった。熱帯の光と熱とは彼の想像以上であった。その色彩も夢のようであった。時には彼は自分独りぎめに「海の砂漠《さばく》」という名をつけて形容して見たほど、遠い陸は言うに及ばず、船|一艘《いっそう》、鳥一羽、何一つ彼の眼には映じない広い際涯《はてし》の無い海の上で、その照光と、その寂寞《せきばく》と、その不滅とを味《あじわ》って来たこともあった。印度洋にさしかかる頃から船客はいずれも甲板《かんぱん》の上に出て眠ったが、彼も欄《てすり》近く籐椅子《とういす》を持出して暗い波を流れる青ざめた燐《りん》の光を眺めながら幾晩か眠り難い夜を過したこともあった。船は紅海《こうかい》の入口にあたる仏領ジュプティの港へも寄って石炭を積んで来た。スエズで望んで来た小|亜細亜《アジア》と亜弗利加《アフリカ》の荒原、ポオト・セエドを離れてから初めて眺めた地中海の波、伊太利《イタリー》の南端――こう数えて見ると、遠く旅して来た地方の印象が実に数限りもなく彼の胸に浮んで来た。

        五十四

 新しい言葉を学ぶことによって、岸本は心の悲哀《かなしみ》を忘れようと志した。同宿の留学生が天文台の近くに住む語学の教師を彼に紹介した。その人は巴里に集る外国人を相手に仏蘭西語を教えて、それを糊口《くちすぎ》としているような年とった婦人であったが、英語で講釈をしてくれるので岸本には好都合であった。取りあえず、彼は語学の教師の許《もと》に通うことを日課の一つとした。
 こうして故国の消息を待つうちに、西伯利亜《シベリア》経由とした義雄兄からの返事が届いた。思わず岸本の胸は震えた。兄は東京の留守宅の方から書いてよこした。お前が香港から出した手紙を読んで茫然《ぼうぜん》自失するの他はなかったと書いてよこした。十日あまりも考え苦しんだ末、適当な処置をするために名古屋から一寸《ちょっと》上京したと書いてよこした。お前に言って置くが、出来たことは仕方がない、お前はもうこの事を忘れてしまえと書いてよこした。
 兄はまた、これは誰にも言うべき事でないから、母上はもとより自分の妻にすらも話すまいと決心したと書いてよこした。嘉代《かよ》(嫂)には、吉田某というものがあったことにして置くと書いてよこした。その某は例の人を捨てて行方《ゆくえ》不明であるということにして置くと書いてよこした。実は嘉代も今妊娠中であると書いてよこした。のみならず輝子も近いうちに帰国して、国の方でお産をしたいと言って来たと書いてよこした。この輝子の帰国がかちあえば事は少し面倒であると書いてよこした。しかし世の中のことは、曲りなりにもどうにか納りの着くものであると書いてよこした。当方一同無事、泉太も繁も元気で居ると書いてよこした。お前は国の方のことに懸念《けねん》しないで、専心にそちらで自分の思うことを励めと書いてよこした。
 岸本は人の知らない溜息《ためいき》を吐《つ》いた。仏蘭西語の読本を小脇《こわき》に擁《かか》えて下宿を出、果実《くだもの》なぞの並べてある店頭《みせさき》を通過ぎて並木街の電車路を横ぎり、産科病院の古い石の塀《へい》について天文台の前を語学の教師の家の方へと折れ曲って行った。そして語学の稽古《けいこ》を受けた後で、天文台の前の並木のかげあたりに遊んでいる少年を見るにつけても国の方の自分の子供のことを思いやりながら、復《ま》た同じ道を下宿の方へ帰って行った。その年齢《とし》になって、四十の手習を始めたことを感じながら。
 幾度《いくたび》か岸本は兄から来た手紙を取出して、繰返し読んで見た。「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言った兄の心持に対しては、彼は心から感謝しなければ成らなかった。東京から神戸までも、上海までも、香港までも――どうかすると遠く巴里までも追って来た名状しがたい恐怖はその時になっていくらか彼の胸から離れた。そのかわり、兄に手伝って貰って人知れず自分の罪を埋《うず》めるという空恐しさは、自分一人ぎりで心配した時にも勝《まさ》って、何とも言って見ようの無い暗い心持を起させた。兄の手紙には「例の人」とあるだけで、節子の名を書きあらわすことすら避けてある。彼は母や姉と同時に普通《ただ》ならぬ身であるという彼女を想像した。

        五十五

 間もなく岸本は節子からの便《たよ》りを受取った。彼女は郡部にある片田舎《かたいなか》の方へ行ったことを知らせてよこした。
「到頭節ちゃんも出掛けて行ったか――」
 それを言って見て、岸本は以前の食堂の隣から移って来た新規な部屋の内を見廻した。窓が二つあって、プラタアヌの並木の青葉が一方の窓に近く茂っていた。その並木の青葉も岸本が巴里《パリ》に着いたばかりの頃から見ると早や緑も濃く、花とも実ともつかない小さな栗《くり》のイガのようなものが青い毬《まり》を見るように葉蔭から垂下《たれさが》った。一方の窓は丁度|建築物《たてもの》の角にあたって、交叉《こうさ》した町が眼の下に見えた。あの東京浅草の住慣れた二階の外に板囲《いたがこい》の家だの白い障子の窓だのを眺《なが》め暮した岸本の眼には、古い寺院にしても見たいような産科病院の門前にひるがえる仏蘭西《フランス》の三色旗、その病院に対《むか》い合った六層ばかりの建築物、街路の角の珈琲店《コーヒーてん》の暖簾《のれん》なぞが、両側に並木の続いた町の向うに望まれた。あの大きな風呂敷包を背負って毎朝門前を通った噂好《うわさず》きな商家のかみさんのかわりに、そこには薪《まき》ざっぽうのような食麺麭《しょくパン》を擁《かか》えた仏蘭西の婦女《おんな》が窓の下を通った。あの書斎へよく聞えて来た常磐津《ときわず》や長唄の三味線のかわりに、そこにはピアノを復習《さら》う音が高い建築物の上の方から聞えて来た。それが彼の頭の上でした。
 その窓へ行って、岸本は節子から来た手紙を読返した。彼女はお母《っか》さんの上京後、婆やにも暇を出したと書いてよこした。お父さんが名古屋から上京して初めてあの話があったと書いてよこした。その時はお母さんも大分やかましかったが、結局自分はしばらく家を出ることに成ったと書いてよこした。お父さんがある病院で知った看護婦長の世話で、自分はこの田舎へ来るように成ったと書いてよこした。その看護婦長は今は女医であると書いてよこした。至極親切な人で、この田舎に住んでいて、毎日のように自分を見に来て慰めてくれると書いてよこした。自分はある産婆の家の二階で、人知れずこの手紙を認《したた》めていると書いてよこした。叔父さんのことは親切な女医にすら知らせずにあると書いてよこした。高輪《たかなわ》の家にある叔父さんの著書をここへも持って来てこの侘《わび》しい時のなぐさめとしたいのであるが、人に見られることを気遣《きづか》って見合せたと書いてよこした。この家に住む人達は親子とも産婆であると書いてよこした。ここは東京から汽車で極《ごく》僅《わずか》の時間に来られる場処であると書いてよこした。片田舎らしい蛙《かわず》の声が自分の耳に聞えて来ていると書いてよこした。自分が産褥《さんじょく》に就《つ》くまでには、まだしばらく間があるから、せめてもう一度ぐらいは便りをしたいと思うが、それも覚束《おぼつか》ないと書いてよこした。姉(輝子)も夫の任地から近く産のために帰国するであろうと附添《つけたし》てよこした。

        五十六

 森のように茂って行くマロニエとプラタアヌの並木は岸本の行く先にあった。彼はその楽しい葉蔭《はかげ》を近くにある天文台の時計の前にも見つけることが出来、十八世紀あたりの王妃の石像の並んだルュキサンブウルの公園の内に見つけることも出来た。彼よりも先に故国を出て北欧諸国を歴遊して来た東京のある友人が九日ばかりも彼の下宿に逗留《とうりゅう》した時は、一緒に巴里の劇場の廊下も歩いて見、パンテオンの内にある聖ジュネヴィエーヴの壁画の前にも立って見た。普仏戦争時代の国防記念のためにあるという巨大な獅子《しし》の石像の立つダンフェル・ロシュリュウの広場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅人らしい散歩の場所に事を欠かなかった。
 しかし仏蘭西の旅は岸本に取って、ある生活の試みを企てたにも等しかった。彼は全く新規な、全く異ったものの中へ飛込んで来た。それには長い年月の間、身に浸《し》みついている国の方の習慣からして矯《ため》て掛らねば成らなかった。彼のように静坐する癖のついたものには、朝から晩まで椅子に腰掛けて暮すということすら一難儀であった。日がな一日彼は真実《ほんとう》の休息を知らなかった。立ちつづけに立っているような気がした。日本の畳の上で思うさまこの身体を横にして見たら。この考えは、どうかすると子供のように泣きたく成るような心をさえ彼に起させた。彼は長い船旅で、日に焼け、熱に蒸され、汐風《しおかぜ》に吹かれて来たばかりでなく、漸《ようや》くのことであの東京浅草の小楼から起して来た身《からだ》をこうした外国の生活の試みの下に置いた。実際、眼に見えない不可抗な力にでも押出されるようにして故国から離れて来たことを考えると、彼はこれから先どうなってしまうかという風に自分で自分の旅の身を怪んだ。
 節子から来た手紙は旅にある岸本の心を責めずには置かなかった。偶然にも岸本の下宿の前に産科病院があって、四十いくつかあるその建築物《たてもの》の窓の一つ一つには子供が生れたり生れかけたりしているということは、何かのしるしのように彼の眼に映った。その石の門は彼の部屋の窓からも見え、その石の塀《へい》は毎日彼が語学の稽古《けいこ》に通う道の側にあたっていた。その多くの窓は町中で一番遅くまで夜も燈火《あかり》が射《さ》していて、毎晩のように物を言った。
「知らない人の中へ行こう」
 と岸本はつぶやいた。その中へ行って恥かしい自分を隠すことは、この旅を思い立つ時からの彼の心であった。

        五十七

 セエヌの河蒸汽に乗るために岸本はシャトレエの石橋の畔《たもと》に出た。何処《どこ》へ行くにも彼はベデカの案内記を手放すことの出来ない程ではあったが、しかし全く自分|独《ひと》りで、巴里へ来て初めて知合になった仏蘭西人の家を訪《たず》ねようとした。
 岸本は最早旅人であるばかりでなく同時に異人であった。あの島国の方に引込んで海の魚が鹹水《しおみず》の中でも泳いでいれば可《い》いような無意識な気楽さをもって東京の町を歩いていた時に比べると、稀《まれ》に外国の方から来た毛色の違った旅人を見て「異人が通る」と思った彼自身の位置は丁度|顛倒《てんとう》してしまった。否《いや》でも応でも彼は自分の髪の毛色の違い、皮膚の色の違い、顔の輪廓《りんかく》の違い、眸《ひとみ》の色の違いを意識しない訳に行かなかった。逢《あ》う人|毎《ごと》にジロジロ彼の顔を見た。こうした不断の被観察者の位置に立たせらるることは、外出する時の彼の心を一刻も休ませなかった。そしてまたこんな骨折が実際何の役に立つのだろうとさえ思わせた。下宿からシャトレエの橋の畔へ出るまでに彼の頭脳《あたま》は好い加減にボンヤリしてしまった。
 石で築きあげた高い堤について、河蒸汽を待つところへ降りた。中洲《なかす》になったシテイの島に添うて別れて来る河の水は彼の眼にあった。岸本が訪ねて行こうとする仏蘭西人は巴里の国立図書館の書記で、彼はその人のお母さんから英語で書いた招きの手紙を貰《もら》った。その中にはルウブルで河蒸汽に乗ってビヨンクウルまで来るように、自分等の家は河蒸汽の着くところから直《すぐ》である、五分とは掛らない、河蒸汽にも種々《いろいろ》あるからビヨンクウル行を気を着けよなぞと、細《こまか》いことまで年とった女らしく親切に書いてあった。岸本はシャトレエから河蒸汽に乗って、復《ま》たルウブルで乗換えるほどの無駄をした。それほどまだ土地不案内であった。その時の彼は仏蘭西人の家庭を見ようとする最初の時であった。どうにでも入って行かれるような知らない人達の生活が彼の前にあった。彼は右することも、左することも出来た。そしてこれから先逢う人達によって右とも左とも旅の細道が別れて行ってしまうような不思議な心持が彼の胸の中を往来した。

        五十八

「異人さん、ここがビヨンクウルですよ」
 とでも言うらしく、河蒸汽に乗っていた仏蘭西人が岸本に船着場を指《さ》して教えた。船着場から岸本の尋ねる家までは僅しかなかった。高いポプリエの並木の立った河岸《かし》の道路を隔ててセエヌ河に面した住宅風の建築物《たてもの》があった。そこが図書館の書記の住居《すまい》であった。岸本は門の扉《とびら》を押して草花の咲いた植込の間を廻って行った。何時《いつ》の間にか一|匹《ぴき》の飼犬が飛んで来て、鋭い眼付で彼の側へ寄って、吠《ほ》えかかりそうな気勢《けはい》を示した。
「あなたが岸本さんですか」
 とその時入口の石階《いしだん》のところへ出て来て英語で訊《き》いた年とった婦人があった。岸本はその人を一目見たばかりで手紙をくれたお母さんだと知った。
「帽子と杖《つえ》はそこにお置き下さい。それから私と一緒に部屋の方へお出《いで》下さい」
 こんな風に言って老婦人は岸本を案内した。
「忰《せがれ》はまだ図書館の方ですが追《おっ》つけ帰って参りましょう。忰の家内も今お目に掛ります」
 仏蘭西人の家庭に来て、こうした英語で話してくれる老婦人を見つけることは、まだ土地の馴染《なじみ》も薄い岸本の旅の身に嬉しかった。
 この家の方へ岸本を導いたのは老婦人の姪《めい》にあたる人であった。そのマドマゼエルは純粋な仏蘭西の婦人ながらに遠く日本を慕って行って、現に東京の方に住んでいた。岸本は番町の友人の紹介で東京を発《た》つ前にその人に逢《あ》って来た。その時のマドマゼエルは可成《かなり》もう日本の言葉が話せて、紫式部の日記ぐらいは読めるような人であった。日本|狂《きちがい》とも言いたいほど日本|贔負《びいき》の婦人であった。その人が岸本を紹介してくれたのであった。老婦人は居間の方へ岸本を連れて行った。その室内を飾る種々な道具から絵画彫刻の類《たぐい》まで、老婦人の嗜《たしな》みに好く調和したような物ばかりであった。窓に近く机の置いてあるところで、老婦人は東京の方にある姪からの手紙を岸本に取出して見せ、
「姪も無事で暮しておりましょうか。すこしは日本の婦人らしく見えるように成りましたでしょうか」と言って、東洋の果を志して行ったマドマゼエルの身を非常に心配顔に岸本に尋ねた。老婦人はマドマゼエルが自分の兄弟の一人娘であることや、彼女が幼い時分から学問好きであったことや、巴里に居る頃から日本留学生に就《つ》いて古典の一通りを学んだことなぞをも話した。
 岸本は風呂敷包の中から旅のしるしに持って来た国の方の土産《みやげ》を取出した。老婦人はその風呂敷の模様を見るさえめずらしそうに、
「へえ、お国の方ではそういうものを用いますか。面白い模様ですね。でもまあ日本の方にお目に掛って、姪《めい》の噂《うわさ》をするだけでも嬉しい。ああして姪が日本へ行ってしまったのは私が悪いのだ、私の落度《おちど》だ、とそう皆が私のことを申すのです……可哀そうな娘……」
 と言って、仏蘭西を捨てて出て行った姪を思いやるような眼付をした。やがて老婦人はその居間の壁に掛けてある日本の古画なぞを眺めながら岸本に言って見せた。
「日本というものは、私に取っては空想の郷《くに》でしたからね」

        五十九

 しばらく老婦人と話しているうちに岸本はその部屋の長い窓掛まで日本から渡来した古い金糸の繍《ぬい》のある布で造ってあるのに気がついた。瘠《や》せぎすな身体に古雅な黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着けた老婦人は岸本に見せるものを探すために時々部屋の内を歩いたり、時には奥の方へ立って行ったりしたが、その部屋にあるものは何一つとして遠い異国に対する憧憬《あこがれ》の心を語っていないものは無かった。こういう老婦人の姪に、異国趣味そのものとも言いたいマドマゼエルのような人が生れたのも決して不思議は無いと岸本は想って見た。
「これが忰の家内です」
 と老婦人はそこへ着物を着更《きか》えて挨拶《あいさつ》に来た細君を岸本に引合せた。
 主人の帰りを待つ間、三人の話は東京の方にあるマドマゼエルの噂で持切った。細君はマドマゼエルが絵画にも趣味を有《も》つことを話して、まだ仏蘭西に居る頃に彼女が描いたという油絵の額の前へも岸本を連れて行って見せ、彼女が残して置いて行ったという写真なぞをも取出して来た。
「マドマゼエルは仏蘭西に居る頃《ころ》から人に頼みまして、日本の髪に結ったこともありましたよ。それほど日本好でしたよ」
 仏蘭西語まじりに細君が言おうとすることを老婦人は英語で補った。老婦人は岸本に向って、自分は曾《かつ》て倫敦《ロンドン》に住んだことが有るという話や、そのために自分は家中で一番よく英語が話せる、娵《よめ》はあまり話せないが忰の方はすこしは話せて好都合であるということなぞや、自分等の家族は以前は巴里の市中に住んだがこのビヨンクウルに住居を卜《ぼく》して引移って来たということや、この家屋《いえ》もなかなか安くは求められなかったというようなことまで、いかにも心安い調子で話した。
「もう忰も見えそうなものです」と言う老婦人や細君に誘われながら、岸本は一緒に入口の廊下から石の階段を下りて庭を歩いた。門の外へも出て見た。清いセエヌ河の水は並木の続いた低い岸の下を流れていた。郊外らしい空気につつまれた対岸の傾斜には、ところどころに別荘風な赤瓦《あかがわら》の屋根も望まれた。
 細君の案内で、岸本は裏庭の方へも廻って、果樹、野菜なぞを見て歩いた。「今年はこんなに葱《ねぎ》を造りました」なぞと岸本に言って聞かせる細君はいろいろ話そうとしてはそれが英語で浮んで来ないという風であった。日の映《あた》った梨《なし》の樹《き》の下で、岸本は二人の子供を遊ばせている乳母《うば》にも逢った。
「日本の方だよ」
 と細君に言われて、二人の子供は気味悪そうに岸本の方へ近づいた。そしてかわるがわる小さな手を差出した。岸本はそれらの幼い人達の手を握りしめたが、子供に話しかけたいにも仏蘭西の言葉ではまだ物が言えなかった。
「私も国の方へ子供を残して来ました」
 この岸本の英語はまた細君にはよく通じなかった。
 人の好さそうな細君はその家を囲繞《とりま》く庭や畠《はたけ》ばかりでなく、家の入口から奥の方へ続いた廊下の両側に掛けてある種々な肖像の額の前へ、二階にある主人の書斎へ、子供の部屋へ、終《しまい》には寝室へまで岸本を連れて行って見せた。丁度そこへ主人が帰って来た。

        六十

 その家の主人とは岸本は既に図書館の方で親《ちか》づきに成っていた。主人が帰った頃は夕飯の仕度《したく》が出来ていて、岸本は樹木の多い庭に臨んだ食堂の方へ案内された。
「夏の間、私共はよくこの窓の外で食事することもあります」
 という老婦人の話なぞを聞きながら岸本は主人と細君と四人して食卓を囲んだ。
「何にもお構い申しません。私共でも何時《いつ》でもこの通りです」
 と細君は款待顔《もてなしがお》に言った。
「岸本さんのようにわざわざ日本から仏蘭西へお出掛下さる方もあり――」と言って老婦人は自分の子息《むすこ》と岸本の顔を見比べて、「そうかと思うと姪のように、仏蘭西から日本の方へ行ってしまうのもあります」
 その時岸本は国の方から茶や椿《つばき》の種を持って来たことを言出した。誰か専門家に頼んで旅の記念に植えて見て貰いたいと話した。
「岸本さんは何をお持ちに成ったと言うのかい」と老婦人は主人に言って、やがて岸本の方を見て、「私は耳が遠くなって時々お話の聞取れないことが有ります」
「種」と主人は大きな声で言って見せて笑った。
 食後に岸本は持って来た風呂敷包を取出した。その中からは銀杏《いちょう》、椿、山茶花《さざんか》、藤、肉桂《にくけい》、沈丁花《じんちょうげ》なぞの実も出て来た。
 老婦人は岸本に向って、東京にある姪から仏蘭西大学の教授の許《もと》へも彼を紹介してよこしたことを話して、これから忰夫婦が案内する、丁度教授の家には茶の会がある、一緒に行ってあの好い家族とも親《ちか》づきに成れと言った。
「念のために御話して置きますが、教授は当地でも有名な学者です」
 と老婦人は廊下のところに立って岸本に注意するように言った。
 晩に出る最終の河蒸汽に乗後《のりおく》れまいとして、岸本は夫婦と一緒に河岸を急いだ。細君は教授の夫人への手土産《てみやげ》にと庭の薔薇《ばら》の花を提《さ》げ、自分がまだ娘であった頃から教授の家へはよく出入《ではいり》したという話を岸本にして聞かせた。漸くのことで三人は船に間に合った。知らない仏蘭西人ばかりの乗客の間に陣取って種々《いろいろ》親しげに言葉を掛ける夫婦と一緒に腰掛けた時は、岸本に取って肩身が広かった。
「セエヌの水は何時《いつ》でもこんなに静かでしょうか」
「大抵こんなです。毎朝私はこの船で図書館通いをしています。夏の朝はなかなか好うござんすが、晩も悪くはありませんね」
 岸本と書記とが暗い静かな河景色を眺めながら話している傍《そば》で、細君は女持の手提鞄《てさげかばん》を膝《ひざ》に乗せて二人の話に耳を傾けた。
 このビヨンクウルの書記には著述もあった。その家に半ばを分けて来た植物の種子《たね》は岸本が国を出る時にあの中野の友人等から贈られたのだ。岸本は残りの半ばを植物園の近くに住むという教授の許へも分けるつもりで、これから書記夫婦と共に見に行こうとする教授の人となりを想像した。その晩の茶の会に集まろうとする未知の人々をも想像した。

        六十一

 ギイ・ド・ラ・ブロッスという町にある教授の家の茶の会から岸本が下宿の方へ歩いて帰って行った頃は大分遅かった。彼の胸は初めて仏蘭西人の家庭を見、未知の人々に逢ったその日のことで満たされていた。恐ろしく巌畳《がんじょう》なアーチ形に出来た家々の門の前には遅く帰った人達が立って、呼鈴《よびりん》の引金を鳴らしていた。家番《やばん》もぐっすり寝込んだ時分であった。
 暗い階段を上って下宿の戸を開けると、皆もう寝沈まっていた。廊下の突当りにある自分の部屋へ行ってからも、岸本は直《す》ぐには寝台に上らなかった。部屋を明るくした古めかしい洋燈《ランプ》に対《むか》って見ると、「巴里へは何時御着きに成ったのです、何故もっと早く訪ねて来てくれないのです」と快く爽《さわや》かな調子で言ったブロッスの教授の声はまだ彼の耳についていた。印度《インド》研究に関した蔵書の類が沢山置並べてある書斎の中で、まだ大学へでも通っているらしい青年の方へ彼を連れて行って、「忰《せがれ》にも一つ逢《あ》ってやって下さい」と言ったあの教授の声も。それから彼が旅のしるしとして贈った銀杏の実なぞを教授は別の部屋の方へ持って行くと、茶に招かれて来ていた若い教授の細君らしい人達が集って、皆なで一緒にその粒の揃《そろ》った東洋植物の種を眺めながら、「まあ、植えてしまうのは惜しい、こうして見ていたい」と言ったあの女らしい人達の声も。彼はこの異郷に来て智識階級に属するそれらの人達とこれ程熱い握手を交《かわ》し得るとは思いもかけなかった。あのビヨンクウルの夫婦が河蒸汽や電車の切符まで彼には払わせなかった程の心づくしも、全く彼の予期しないことであった。敏感で優雅なビヨンクウルのお母さんも彼が初めて逢って見た旧《ふる》い仏蘭西の婦女《おんな》をいかにも好く表したような人であった。髪は最早《もう》白いほどの年頃ながら眼には青年のような輝きを見せた教授、素朴《そぼく》でそして男らしく好ましい感じのする書記、彼は眠りに就《つ》こうとして壁の側の寝台に上ってからも、それらの人達から受けた最初の好い印象を考えて、この温かい親切は長く忘れられまいと思った。
 しかし朝になって見ると、初めて逢った人達の感じが好かっただけ、それだけ旅人としての物足《ものた》らなさが岸本の胸に忍び込んで来た。彼は皆の言った事を考えて見て、ボンヤリしてしまった。外国人は何処《どこ》までも外国人で、物の皮相にしか触れることの出来ないような物足らなさがその最初の好い印象と一緒になって起って来た。
 仏蘭西に居る頃から人に頼んで日本の髪に結ったというマドマゼエルのことが、しきりと岸本の胸に浮んだ。それほど強烈な異国に対する憧憬の心を以《もっ》てしても、仏蘭西を捨てて去ったマドマゼエルがどれ程まで日本人の心の奥を汲《く》み知ることが出来るであろうか、とそう彼は想像して見た。彼はあの日本の着物を着て畳の上に坐っているマドマゼエルに、洋服を着て椅子に腰掛けている自分の旅の身を思い比べた。
「結局、自分等は芸術に行くの外《ほか》はないかも知れない。芸術によって、この国の人の心に触れるの外はないかも知れない」
 この考えは岸本の心を駆《か》って一層言葉の稽古《けいこ》の方へ向わせた。

        六十二

 旅に来て五月目《いつつきめ》に、岸本は新たに父になったことを国の方からの便《たよ》りによって知った。亡《な》くなった三人の女の児を入れて数えると、最早彼は七人だけの子の親ではなかった。園子との間に設けたおもてむきの子供の外に、知らない子供が一人|何処《どこ》かに生きていた。彼は極印でも打たれたような額を客舎の硝子窓《ガラスまど》のところへ持って行って、人知れずそのことを自分に言って見た。
 義雄兄からの便りには、「例の人」は産後の乳腫《ちちばれ》で手術を受けさせるから、その費用を送れとしてあった。それから一月半ばかりも待つうちに節子は精《くわ》しいことを知らせてよこした。産は重くて骨が折れたが男の子が生れたと彼女の手紙の中に書いてあった。彼女はこまごまと書いてよこした。こんなにお産が重かったのは身体《からだ》を粗末にしていた為であろう、自分はその事を人から言われたと書いてよこした。自分は僅《わず》かに一目しか生れたものの顔を見ることを許されなかったと書いてよこした。その田舎《いなか》に住む子供の無い家の人から懇望されて、嬰児《あかご》は直《す》ぐに引取られて行ったと書いてよこした。例の親切な女医が来ての話に、「あなたのややさんは、それはよくあなたのお父さんに似ていますよ」と言って笑って話してくれたと書いてよこした。その田舎に住む坊さんが名づけ親になって親夫《ちかお》という名を命《つ》けてくれた――実はその名は坊さんが自分の子に命けるつもりで考えて置いたとかいうのを譲ってくれたのだと書いてよこした。生れたものの貰《もら》われて行った先で、どうかしてこの子のお母さんの苗字《みょうじ》だけでも明して欲しい、それを明すことが出来なければ東京のどの辺か――せめて方角だけでも明して欲しいとのことであったが、それだけはお断りすると言って、女医の方で明さなかったと書いてよこした。定めしお父さんの方からの知らせが行ったことと思うが、自分の乳が腫《は》れ痛んで、捨てて置く訳にはいかないと言われて、切開の手術を受ける為にしばらく女医の方へ行っていたと書いてよこした。どうもまだ自分の身体の具合は本当でないから、今しばらくこの産婆の家の二階にとどまるつもりであるが、出来るだけ早くここを去りたいと思うと書いてよこした。つくづく自分はこの二階に居るのが恐ろしくなった、何事につけてもここはお金お金で、地獄にあるような思いをすると書いてよこした。このお産のために自分の髪は心細いほど抜けた、この次叔父さんにお目にかかるのも恥かしいほど赤く短く切れてしまったと書いてよこした。
 この節子の手紙を読んで、岸本は心から深い溜息《ためいき》を吐《つ》いた。彼はいくらか重荷をおろしたような気がした。しかしそのために、一度つけてしまった生涯の汚点は打消すべくもなかった。埋めようとすればするほど、余計に罪過は彼の心の底に生きて来た。彼は多くもない旅費の中を割《さ》いて節子が身二つに成るまでの一切の入費に宛《あ》てて来たし、外国から留守宅への仕送りも欠かすことは出来なかったし、義雄兄から請求して来た節子の手術に要する費用も負担せねば成らなかった。旅も容易でなかった。それにも関《かかわ》らず、彼は行けるところまで行こうとした。

        六十三

 東京|高輪《たかなわ》の留守宅の方に節子を隠して置て嫂《あによめ》の上京も待たずに旅に上って来た心持から言っても、義雄兄に宛てた一通の手紙を残して置いて香港《ホンコン》を離れて来た心持から言っても、岸本は再び兄夫婦を見るつもりで国を出たものではなかった。節子は旅にある叔父に便りすることを忘れないで、彼女が郡部にある片田舎から高輪の方へ戻った時にも精しい手紙を送ってよこしたが、その便りが岸本の手許《てもと》へ着いた頃は、最早ノエル(降誕祭)の季節の近づく年の暮であった。異郷で初めて逢《あ》う正月、羅馬《ローマ》旧教国らしいカアナバルの祭、その肉食の火曜も、ミ・カレエムの日も、彼の旅の心を深くした。彼の下宿には独逸《ドイツ》のミュウニッヒの方から来た慶応の留学生を迎えたり、瑞西《スイス》の方へ行く人を送ったりしたが、それらの人達と連立ってルュキサンブウルの美術館を訪《たず》ねた時でも、ガボオの音楽堂に上った時でも、何時《いつ》でも彼は心の飄泊者《ひょうはくしゃ》としてであった。
「人はいかなる境涯にも慣れるもので、それがまた吾儕《われら》に与えられたる自然の恵みである」と言った人もあったとやら。ある人はまた、「慣れるということほど恐ろしいものは無い」とも言ったとやら。岸本はその二つの言葉の意味に籠《こも》る両様の気質と真実とを味《あじわ》い知った。所詮《しょせん》彼とても慣れずにはいられなかった。そして高い建築物《たてもの》もさ程気に成らず、往来も平気で歩かれ、全く日本風の畳というものも無い部屋に一日腰掛けて暮せる頃は、自分の髪の毛色の違い、自分の皮膚の色の違いを忘れる時すらあるように成った。不思議にも、外界の事物に対してこれ程彼が無頓着《むとんじゃく》に成ったと同時に、外界の事物もまた彼に対して無頓着に成った。彼は自分の部屋の窓の下を往来する人達と全く無関係に生きて行く異邦の旅人としての自分の身をその客舎に見つけた。あだかも獄裡《ごくり》に繋《つな》がるる囚人《しゅうじん》が全く娑婆《しゃば》というものと縁故の無いと同じように。
 恐ろしい町の響が岸本の耳につくように成った。一切の刺激から起る激しい感覚が沈まって行くにつれ、そうした響がハッキリと彼の耳に聞えて来た。剣のように尖《とが》った厳《いか》めしく頑固《がんこ》な馬具を着け、真鍮《しんちゅう》の金具《かなぐ》を光らせた幾頭かの馬が大きな荷馬車を引いて行く音、モン・トオロン行の乗合自動車の通う音、並木街を往復する電車の音、その他石造の街路から起る町の響が、高い建築物の間に響けて、岸本の部屋の硝子窓に揺れるように伝わって来た。それを聞くと遽《にわ》かに故国も遠くなった。彼はそろそろ外国生活の無聊《ぶりょう》がやって来たことを感じた。
 苦難はもとより彼の心に期するところであった。どんなにでもして彼は耐えがたい無聊と戦わねば成らなかった。そして心の飄泊を続けねば成らなかった。

        六十四

 復活祭も近づいて来ていた。東京の留守宅へ戻って行ってからの節子は折ある毎《ごと》に泉太や繁のことを書いて、それに彼女の境遇を訴えてよこした。岸本はあの片田舎の家の方から品川の停車場《ステーション》まで帰って来て、そこで迎えの嫂と一緒に成ったという時の彼女を想いやることも出来た。彼女の母にも姉の輝子にも男の子の生れている高輪の家へもう一度帰って行った時の彼女を想いやることも出来た。多くの知人や親戚《しんせき》から祝わるる姉の子供に比べて、誰一人顧るものもない彼女に生れた子供こそその実この世に幸福なものであると言ってよこした彼女の女らしい負惜みを思いやることも出来た。あの事があってからの父は別の人かと思われるほど彼女に優しく、叔父さんから父|宛《あて》に来た手紙もこっそり彼女の机の上に置いてくれるほどの人になったと言うような、とかく母に対して気まずい思いをしているらしい彼女を遠く想いやることも出来た。「実に可哀そうなことをした」この憐《あわれ》みの心は自ら責むる心と一緒になって何時でも岸本に起って来た。
 異郷の旅の心を慰めるために、岸本は自分の部屋にある箪笥《たんす》の前に行った。箪笥とは言っても、鏡を張った開き戸のある置戸棚《おきとだな》に近い。その抽筐《ひきだし》の中から国の方の親戚や友人の写真を取出した。義雄兄の家族一同で撮《と》った写真も出て来た。それは最近に東京から送って来たのであった。高輪の家の庭の一部がそっくりその写真の中にある。南向の縁側の上には蒲団《ふとん》を敷いて坐った祖母《おばあ》さんが居る。庭には嬰児《あかご》を抱いて立つ輝子が一番前の方に居る。二人の少年が庭石の上に立っている。その一人は義雄兄の子供で、一人は繁だ。兄さんらしく撮れた泉太の姿をその弟の傍に見ることも出来る。義雄兄が居る。嫂が居る。嫂はその家で生れた男の児を抱いている。岸本は兄夫婦の写真顔をすら平気では眺《なが》められなかった。一番|後方《うしろ》に立つのが変り果てた節子の面影であった。娘らしく豊かな以前の胸のあたりは最早彼女に見られなかった。特色のある長い生《は》えさがりは一層彼女の頬《ほお》を痩《や》せ細ったように見せていた。
「自分は、人一人をこんなにしてしまったのか」
 それを思うと岸本は恐ろしくなってその写真を抽筐の底に隠した。

        六十五

 山羊《やぎ》の乳売の笛で岸本は自分の部屋に眼を覚《さ》ました。巴里《パリ》のような大きな都会の空気の中にもそうした牧歌的なメロディの流れているかと思われるような笛の音《ね》がまだ朝の中の硝子窓に伝わって来た。旅らしい心持で、その細い清《す》んだ音に耳を澄ましながら、岸本は窓に向いた机のところで小さな朝飯の盆に対《むか》った。それを済ました時分に、女中が来てコンコンと軽く部屋の戸を叩《たた》く音をさせた。何時でも西伯利亜《シベリア》経由とした郵便物の来るのは朝の配達と極《きま》っていた。その時彼は新聞や雑誌や手紙の集まったのをドカリと一時に受取った。待たれた故国からの便りの中には、節子の手紙も混っていた。
「ホウ、泉ちゃんが御清書を送ってよこした」
 と岸本は言って見て、外国に居て見ればめずらしいほど大きく書いた子供の文字を展《ひろ》げて見た。それから節子の手紙を読んだ。何と言ってよこしても直接には答えないで黙っている叔父に宛《あ》てて、彼女は根気好くも書いてよこした。叔父さんの旅の便りが新聞に出る度《たび》に、自分はそれを読むのをこの上もない心の慰めとしていると書いてよこした。叔父さんに別れた頃の季節が復た回《めぐ》って来たと書いてよこした。遠く行く叔父さんを見送った時の心持が復た自分に帰って来たと書いてよこした。この高輪の家の庭先に佇立《たたず》んで品川の方に起る汽車の音を聞いた時のことまでしきりに思出されると書いてよこした。
 岸本は自分の旅の心を昔の人の旅の歌に寄せて、故国の新聞への便りのはじに書きつけて送ったこともあった。節子はその古歌を引いて、同じ昔の人の詠《よ》んだ歌の文句をさながら彼女の遣瀬《やるせ》ない述懐のように手紙の中に書いてよこした。

  「つきやあらぬ、
   はるや昔の
   はるならぬ、
   わがみひとつは
   もとのみにして」

 先頃《さきごろ》送った家中で撮《と》った写真を叔父さんはどう見たろうとも彼女は書いてよこした。あの中に居る自分はまるで幽霊のように撮れて、ああした写真で叔父さんにお目に掛るのも恥かしいと書いてよこした。その事を母に話して叱《しか》られたと書いてよこした。彼女は浅草の家の方で使っていた婆やのことも書いてよこした。婆やは今でも時々訪ねて来てくれるが、自分は家にある雑誌なぞを貸与えて婆やの機嫌《きげん》を取って置いたと書いてよこした。「婆やは可恐《こお》うございますからね」と書いてよこした。
 旅に上ってから以来《このかた》、引続き岸本はこうした調子の手紙を節子から受取った。彼は東京を去って神戸まで動いた時に、既に彼女の心に起って来た思いがけない変化を感じたのであった。彼は一切から離れようとして国を出たものだ。けれども彼の方で節子から遠ざかろうとすればするほど、不幸な姪の心は余計に彼を追って来た。飽くまでも彼はこうした節子の手紙に対して沈黙を守ろうとした。彼は節子の手紙を読む度《たび》に、自分の傷口が破れてはそこから血の流れる思いをした。嘆息して、岸本は机に対《むか》った。書架の上から淡黄色な紙表紙の書籍を取出して来て、自分の心をその方へ向けた。そして側目《わきめ》もふらずに新しい言葉の世界へ行こうとした。英訳を通して日頃親しんでいた書籍の原本を手にすることすら彼には楽しかった。彼は既に読みたいと思うかずかずの書籍を有《も》っていたが、覚束《おぼつか》ない彼の語学の知識では多くはまだ書架の飾り物であるに過ぎなかった。この国の言葉に籠《こも》る陰影の多い感情までも読み得るの日は何時のことかと、もどかしく思われた。

        六十六

 旅の空で岸本は既に種々《いろいろ》な年齢を異にし志すところを異にした同胞に邂逅《めぐりあ》った。わざわざ仏蘭西船を択《えら》んで海を渡って来て、神戸を離れるから直《ただち》に外国人の中に入って見ようとした程の彼は、巴里に来た最初の間なるべく同胞の在留者から離れていようとした。外国へ来て日本人同志そう一つところへ集ってしまっても仕方が無い、こうした岸本の考え方はある言葉の行違いから一部の在留者の間に反感をさえ引起させた。「岸本は日本人には附合わないつもりだそうだ」と言って彼の誠意を疑うような在留者の声が彼自身の耳にすら聞えて来た。しかしこの疑いは次第に解けて行った。モン・パルナッスの附近に住む美術家で彼の下宿に顔を見せる連中も多くなり、通りすがりの同胞で彼の下宿に足を留めて行く人達も少くはなかった。
 岸本は部屋の窓へ行った。京都の大学の教授がしばらく泊っていた旅館の窓が岸本の部屋から見えた。その教授に、東北大学の助教授に、いずれも旅で逢った好ましい人達が食事の度《たび》に彼の下宿の食堂へ通って来たばかりでなく、彼の方からも自分の部屋から見える旅館へ行って夜遅くまで思うさま国の方の言葉を出して話し込んだ時のことが、まだ昨日《きのう》のことのように彼の胸にあった。もし互の事情が許すなら、もう一度|白耳義《ベルジック》のブラッセルか、倫敦《ロンドン》あたりで落合いたいものだと約束して行った教授、一年ぶりで伯林《ベルリン》の地を踏んだと言って帰国の途上から葉書をくれた助教授、それらの人達が去った後の並木街を岸本は独りで窓のところから眺めた。とても国の方では話し合わないような話が異郷の客舎に集まった教授等と自分の間に引出されて行ったことを想って見た。旅の不自由と、国の言葉の恋しさと、信じ難いほどの無聊《ぶりょう》とは、異郷で邂逅《めぐりあ》う同胞の心を十年の友のように結び着けるのだとも想って見た。彼は一緒にルュキサンブウルの公園を歩いたりリラの珈琲店《コーヒーてん》に腰掛けたりした教授連に比べて見て、どれ程自分のたましいが暗いところにあるかということをも思わずにはいられなかった。
 毎日のように並木街をうろうろしている不思議な婦人が窓の硝子を通して彼の眼に映った。恐らく白痴であろうと下宿の食堂に集る人達は噂《うわさ》し合って、誰が命《つ》けるともなく「カロリイン夫人」という名を命けていた。「カロリイン夫人」は紅《あか》い薔薇《ばら》の花のついた帽子を冠《かぶ》り、白の手套《てぶくろ》をはめ、朝から晩までその界隈《かいわい》を往《い》ったり来たりしていた。何を待つかと他目《よそめ》には思われるようなその婦人の姿を窓の下に見つけたことは、一層岸本の心を異郷の旅らしくさせた。
「姪《めい》ゆえにこんな苦悩と悲哀とを得た」
 ある仏蘭西の詩人が歌った詩の一節になぞらえて、彼は自分で自分の旅の身を言って見た。丁度そこへ岡という画家が訪ねて来た。

        六十七

 岡は今更のように岸本の部屋を眺め廻した。壁紙で貼《は》りつめた壁の上には古めかしく大きな銅版画の額が掛っていた。「ソクラテスの死」と題してあって、あの哲学者の最後をあらわした図であったが、セエヌの河岸通《かしどお》りの古道具屋あたりに見つけるものと大して相違の無いような、仏蘭西風の銅版画としては極く有りふれたものであった。岸本が一年近い旅寝の寝台《ねだい》はその額の掛った壁によせて置いてあった。
「この部屋に掛っている額と、岸本さんとは、何の関係があるんです――」
 岡は画家らしいことを言って、ロココという建築の様式が流行《はや》った時代のことでも聯想《れんそう》させるような古い版画を眺めた。
「ここの下宿のおかみさんが、あれでも自慢に掛けてくれたんでさ」と岸本が言った。
「ああいうものが掛っていても、岸本さんは気に成りませんかね」
「この節は君、別に気にも成らなくなりましたよ。有っても無くても僕に取っては同じことでさ。旅では君、仕方が無いからね」
 国に居た頃から見ると岸本はずっと簡単な生活に慣れて来た。巴里に着いたばかりの頃は外国風の旅館や下宿の殺風景に呆《あき》れて、誰も自分の机の上を片付けてくれる人もないのか、とよくそんな嘆息をしたものであったが、次第に万事人手を借りずに済ませるように成った。着物も自分で畳めば、鬚《ひげ》も自分で剃《そ》った。一週に一度の按摩《あんま》は欠かすことの出来ないものであったが、それも無しに済んだ。彼はずっと昔の書生にもう一度帰って行った。自分と同年配の人を見ると同じ心持で、国から到来した茶でも入れて年下な岡を款待《もてな》そうとしていた。
「僕なぞは君、極楽へ島流しになったようなものです」
 と言いながら岸本は椅子を離れた。岸本が極楽と言ったは、学芸を重んずる国という意味を通わせたので。
「極楽へ島流しですか」
 と岡も笑出した。
 岸本は洗面台の横手にある窓の下へアルコオル・ランプと湯沸《ゆわかし》を取りに行った。それは何処《どこ》かの画室の隅《すみ》に転《ころ》がっていたのを岡が探出して以前に持って来てくれたものであった。留学していた美術家の残して置いて行った形見であった。
「岡君、国から雑誌や新聞が来ましたよ。僕の子供のところからはお清書なぞを送ってよこしました」
「岸本さんは子供は幾人《いくたり》あるんですか」
「四人」 
 と岸本は言淀《いいよど》んだ。岡はそんなことに頓着《とんじゃく》なく、
「皆東京の方なんですか」
「いえ、二人だけ東京にいます。三番目のやつは郷里《くに》の姉の方に行ってますし、一番末の女の児は常陸《ひたち》の海岸の方へ預けてあります。今生きてるのが、それだけで、僕の子供はもう三人も死んでますよ」
「好い阿父《おとっ》さんの訳だなあ」
 ランプに燃えるアルコオルの火を眺めながら、岸本は岡と一緒に国の方の言葉で話をするだけでも、それを楽みに思った。彼の下宿にはヴェルサイユ生れの軍人の子息《むすこ》でソルボンヌの大学へ通っている哲学科の学生と、独逸《ドイツ》人の青年とが泊っていた。同胞を相手に話す時のような気楽さは到底下宿の食堂では味われなかった。岡はまた岸本が勧めた雑誌や新聞を展《ひろ》げて饑《う》え渇《かわ》くようにそれを読もうとした。

        六十八

 岡は岸本よりも半年ばかり先に巴里へ来た人であった。岸本が旅でこの画家を知るように成ったのは数々の機会からで。ペルランの蔵画を見ようとして一緒に巴里の郊外へ辻馬車《つじばしゃ》を駆《か》った時。マデラインの寺院《おてら》の附近に新画を陳列する美術商店を訪ねた時。テアトルという町での忘年会に二人して過《あやま》って火傷《やけど》をした時。しかし岸本が遽《にわか》に親しみを感じ始めたのは、岡の好きな日本飯屋へ誘われて行って一緒に旅らしく酒を酌《く》みかわした時からであった。その晩から岸本は岡の胸の底に住む秘密を知るように成った。この男の熱意も、誠実も、意中の人の母や兄の心を動かすには足りなかったことを知るように成った。堅く相許した心のまことを置いて、この世の何物が人を幸福ならしめるであろう、そうした遣瀬《やるせ》ない心の述懐には岡は殆《ほとん》ど時の経《た》つのを忘れて話した。意中の人の母に宛《あ》てた激しい手紙を残し、その人の兄とも多年の親しい交りを絶って、そして国を出て来たというこの男の憤りと恨みとはいかなる寛恕《かんじょ》の言葉をも聞入れまいとするようなところがあった。湯沸の湯が煮立った。岸本は町から求めて来た仏蘭西出来の茶碗《ちゃわん》なぞを盆の上に載せ、香ばしいにおいのする国の方の緑茶を注《つ》いで岡に勧めた。
 この画家の顔を見ていると、きまりで岸本の胸に浮んで来る年若な留学生があった。ギャラントという言葉をそのまま宛嵌《あては》め得るような、巴里に滞在中も黄色い皮の手套《てぶくろ》を集めていたことがまだ岸本には忘れられずにある青年の紳士らしい風采《ふうさい》をしたその留学生は、ある身上話を残して置いて瑞西《スイス》の方へ出掛けて行った。留学生は国の方で深くねんごろにした一人の若い婦人があったと言った。深窓に人となったようなその婦人は現に人の妻であるとも言った。私費で洋行を思立った留学生が日本を出る動機の中には、すくなくもその若い夫人との関係が潜んでいるらしい口振《くちぶり》であった。その夫人の妊娠ということにも留学生は酷《ひど》く頭をなやましていた。留学生がしばらく巴里に居る間にはよくその話が出て、岡もそれを聞かせられたものの一人であった。
「女のことで西洋へ来ていないようなものは有りゃしません――」
 そこまで話を持って行かなければ承知しないようなのが岡だ。それほど岡には山国の農夫のような率直があった。
 岡は飲み干した茶碗を暖炉の上のところに置いて、
「昨夜は乞食《こじき》モデルが二三人僕の画室へ押掛けて来ました。勝手にそこいらにある物を探して、酒を奢《おご》らないかなんて言出しやがって……きたないモデルめ……でも酒を飲ましてやりましたら、皆で唄なぞを歌って聞かせましたっけ。それを聞いていたら終《しまい》には可哀そうになっちまいました……」
 こんな話をして聞かせる岡の旅は在留する美術家仲間でも骨が折れそうであった。おまけに仏蘭西へ来てから以来《このかた》、ろくろく画を描く気にすらならないというほど心の戦いを続けて来た岡の顔を見ていると、岸本は余計に外国生活の無聊《ぶりょう》な心持を引出された。

        六十九

「国の方で炬燵《こたつ》にでもあたっている人は羨《うらや》ましいなんて、よくそんな話を君にしましたっけが、もうそれでもパアク(復活祭)が来るように成りましたね」
 こう岸本は岡に言って、やがて連立って下宿を出た。旅で逢《あ》う羅馬《ローマ》旧教の祭が来ていた。帽子から衣裳《いしょう》まで一切黒ずくめの風俗の女達が寺詣の日らしく町を歩いていた。天文台前の広場に近い町の角あたりまで行くと、並木はそこで変って、黄緑な新芽の萌《も》え出したプラタアヌの代りに、早や青々とした若葉を着けたマロニエが見られる。
「もうマロニエの花が咲いていますよ」
 と岡は七葉の若葉の生《お》い茂って来た黒ずんだ枝の上の方を岸本に指《さ》して見せた。白い蝋燭《ろうそく》を挿《さ》したような花がその若葉の間から顔を出していた。
「これがマロニエの花ですか」と岸本が言った。
「どうです、好い花でしょう」
「京都大学の先生がストラスブウルから葉書をくれてね、『マロニエが咲いたらなんて話がよく出たからどんな花かと思ったら、つまらない花ですねえ』なんて書いてよこした。これをけなすのは少し酷《ひど》い」
 一つ一つ取出して言う程の風情《ふぜい》があるではないが、旅人としての岸本はどこか寂しいその花のすがたに心を引かれた。
「去年の今頃は、丁度僕は船でしたっけ」
 と岸本はそれを岡に言って見せた。二人の足はビリエーの舞踏場の前から、ある小さな珈琲店《コーヒーてん》の方へ向いた。小ルュキサンブウルの並木を前にして二人ともよく行って腰掛ける気の置けない店があった。そこが岡の言う「シモンヌの家《うち》」だ。
 店先には葡萄酒《ぶどうしゅ》の立飲をしている労働者風の仏蘭西《フランス》人も見えた。帳場のところに居た主婦《かみさん》は親しげな挨拶《あいさつ》と握手とで岡を迎えた。
 奥にはテエブルを並べた一室があった。岡と岸本とがそこへ行って腰掛けようとすると、二階の方から壁づたいに階段を降りて来る十六七ばかりの娘があった。パアクの祭の日らしく着更《きか》えた仏蘭西風の黒い衣裳は、瘠《やせ》ぎすで、きゃしゃなその娘の姿によく似合って見えた。娘は岡の側へ来て、微笑《えみ》を見せながら白い処女《おとめ》らしい手を差出した。それから岸本のところへも握手を求めに来た。この娘がシモンヌであった。
 岸本が知っているかぎりの美術家仲間はよくこの娘の家へ集まった。その中でも岡はしばしば画室の方から足を運んで来て、この家の亭主を見、主婦を見、両親の愛を一身にあつめているようなシモンヌを見ることを楽しみにして、部屋のテエブルの上に注文したコニャックの盃《さかずき》などを置きながら、そこで故郷への絵葉書を書いたり手紙を書いたりした。悲哀《かなしみ》の持って行きどころのないようなこの画家は、あいびきする男女の客や人を待合せる客のためにある奥の一室を旅の隠れ家《が》ともして、別れた意中の人の面影を僅《わずか》に異郷の少女に忍ぼうとしているかのように見えた。
 
        七十

 その小さな珈琲店はヴァル・ド・グラアスの陸軍病院の方からサン・ミッシェルの並木街へ出ようとする角のところに当っていて、狭い横町の歩道を往来する人の足音が岸本等の腰掛けた部屋から直《す》ぐ窓の外に聞えていた。
 よく働く仏蘭西の婦女《おんな》の気質を見せたような主婦《かみさん》は決して娘を遊ばせては置かなかった。何時《いつ》来て見ても娘は店を手伝っていた。しかし主婦は四方八方に気を配っているという風で、客の注文するものもめったに娘には運ばせなかった。店がいそがしくて給仕の手の明いていないような時には、主婦の妹が奥の部屋へ用を聞きに来た。さもなければ主婦自身に珈琲なぞを運んで来た。どうかすると奥の部屋の片隅《かたすみ》では親子|揃《そろ》っての食事が始まる。シモンヌも来て腰掛ける。客商売には似合わないほど堅気な温かい家庭の図が見られることがある。こうした部屋に旅人らしく腰掛けて、岸本は岡から娘の噂《うわさ》を聞いた。
「あれで主婦《かみさん》はどれ程娘を大切にしてるか知れないんですね。僕がシモンヌを芝居に誘ったことが有りました。それをシモンヌがお母さんのところへ行って訊《き》いたというもんでしょう。その時主婦は、『そんなことが出来るものかね』と言ったような顔付をしましたっけ」
「今が可愛いさかりだね」と岸本も言った。
「あれで大きくなったら、反《かえ》っていけなくなるかも知れません。ほんとに、まだ子供だ。あそこがまた可愛いところだ」
 血気さかんな岡の言うことに岸本は賛成してしまった。
 二人の間にはモデルと同棲《どうせい》する美術家達の噂が引出されて行った。旅に来ては仏蘭西の女と一緒に住む同胞も少くはなかった。モデルを職業とする婦人でなしに、あるモジストを相手として楽しく画室|住居《ずまい》するという美術家の噂も出た。
「好い陽気に成ったね」
 と声を掛けて、屋外《そと》の方から入って来た画家があった。
「シモンヌの家へ来たら必《きっ》と岡が居るだろうと思って、寄って見た――果して居た」とその画家が言って笑った。
「僕等はまた、今々君の噂をしていたところだ」と言って岡も元気づいた。
 続いて二三の画家も入って来た。いずれも岸本には見知越《みしりご》しの連中で、襟飾《えりかざり》の結び方からして美術家らしく若々しかった。こうして集って見ると、岸本よりはずっと年少《としした》な岡が在留する美術家仲間では寧《むし》ろ年嵩《としかさ》なくらいであった。
「岡――どうだい」
 最初に入って来た画家が岡を励まし慰めるように言った。にわかに部屋の内は賑《にぎや》かな笑声で満たされるように成った。その画家は岸本の方をも見て、
「岸本君は巴里《パリ》へ来ていながら、ほんとにまだ異人の肌《はだ》も知らないんですか――話せないねえ」
 何を言っても憎めないようなその快活な調子は一同を笑わせた。
「年は取りたくないものだ」
 こう岡が言出したので、復《ま》た皆そりかえって笑った。

        七十一

「岸本君は何をそんなに溜息《ためいき》を吐《つ》いてるんです」
 と画家の中に言出したものが有った。その調子がいかにも可笑《おか》しかったので、復《ま》た皆くすくすやり出した。
「僕は岸本君のためにシャンパンを抜こうと思って待ち構えているんだけれど、何時《いつ》に成ったら飲めることやら見当がつかない」
 と岸本の前に腰掛けていた画家が親しげな調子で言って笑った。この画家なぞは割合に老《ふ》けて見えたが、年を聞くと驚くほど若かった。青年の美術家同志がこうして珈琲店に集っていても、美術に関する話はめったに出なかった。気質を異にし流派を異にする人達は互いに専門的な話頭に触れることを避けようとしていた。話好きな岡が岸本と二人で絵画や彫刻に就《つ》いて語り合うほどのことも、皆の前では持出されなかった。やがて画家の一人が給仕を呼んだ。給仕は白い布巾《ふきん》を小脇《こわき》にはさみながら、皆のところへ手摺《てず》れた骨牌《かるた》と骨牌の敷布の汚れたのを持って来た。その骨牌を扇面の形に置いて見せた。各自の得点を記《しる》すための石盤と白墨とをも持って来た。薄暗い部屋の内へ射《さ》し入る日の光は日本人だけ一緒に集った小さな世界を照らして見せた。気の置けない笑声と、静かにけぶる仏蘭西の紙巻|煙草《たばこ》の煙と、無心に打ちおろす骨牌の音のみが、そこに有った。石造の歩道を踏む音をさせて窓の外を往来《ゆきき》する人達も、その珈琲店の店先へ来て珈琲の立飲をして行く近所の家婢《おんな》も、帳場のところへ来て話し込む労働者もしくはお店者風《たなものふう》の仏蘭西人も、奥の部屋に形造った小さな世界とは全く無関係であった。日本人同志が何を話そうと、誰も咎《とが》めるものも無ければ、解《わか》るものも無かった。岸本も骨牌の仲間入をして、一しきり女王や兵隊の絵のついた札なぞを眺《なが》めていたが、そのうちに旅の無聊《ぶりょう》は彼ばかりの激しく感じている苦みでも無いことを思って来た。長い外国の滞在で、骨牌にも飽きた顔付の人が多かった。
 やがて岸本はこの珈琲店を出た。彼は巴里へ来てから送っている自分の旅人としての生活を胸に浮べながら下宿の方へ帰って行った。「巴里には何でも有る」とある巴里人が彼に話して笑ったこの大きな都会の享楽の世界へ、連のある度《たび》に彼も出入りして見た。時には異郷のつれづれを慰めようとして、近くにあるビリエーの舞踏場なぞへ足を運ぶこともあり、遠くモン・マルトルの方面へ通りすがりの同胞の客を案内して行くこともあった。東京隅田川の水辺に近い座敷で静な三味線《しゃみせん》を聞くのを楽しみにしたと同じ心持で、巴里の劇場の閉《は》ねる頃から芝居帰りの人達が集まる楼上に西班牙《スペイン》風の踊なぞを見るのを楽みにすることもあった。しかし何が彼をして一切を捨てさせ、友達からも親戚《しんせき》からも自分の子供からも離れさせたか、その事は一日も彼の念頭を去らなかった。

        七十二

 巴里の最も楽しい時が来た。同じ街路樹でも、真先にこの古めかしい都へ青々とした新しい生気を注ぎ入れるものはマロニエであったが、後《おく》れて萌《も》え出したプラタアヌも芽から葉へと急いで、一日は一日よりその葉が開き形も大きく色も濃く成って行くうちに、早や町々は若葉の世界であった。人の家の石垣越しなどに紫や白に密集《かたま》って咲く丁香花《はしどい》もさかりの時に成って来た。この好い季節は岸本の心を活《い》きかえるようにした。
 こうした蘇生《そせい》の思いを抱《いだ》きながら、しかも岸本には妙に落着きの無い心持の日が続いた。旅に来て彼は何一つ贅沢《ぜいたく》を願おうではなかった。唯《ただ》、たましいを落着けることのみを願った。彼にはその何よりも肝要なものが得られなかった。何故東京浅草の方にあった書斎を移して持って来たような心で、二年でも三年でも巴里の客舎に暮せないのか、それは彼には言うことが出来なかった。歯癢《はがゆ》い心持で、自分の下宿を出て見た。産科病院前の並木街にはプラタアヌの幹や枝の影が歩道の上に落ちていた。その輝いた日あたりの中を教師に連れられて通る小学校の生徒の群があった。遠足にでも出掛けるらしい仏蘭西の少年等はいずれもめずらしそうに岸本の顔を見て通った。その無邪気な子供等を見送っていると、岸本の心は遠く国の方にいる泉太や繁の方へ行った。その年から繁も兄と連立って学校へ通うようになったかと思いやった。
 天文台の前へ歩いて行って見た。そこにも男や女の児が静かな樹の下で遊んでいた。高いマロニエの枝の上に白く咲く花も盛りの時で、あだかも隠れた「春」の舞踏に向って燭台《しょくだい》をさし延べたかのように見えていた。
 前の年にマルセエユの港に着いて初めて欧羅巴《ヨーロッパ》の土を踏んだ頃の記憶が復た新しく岸本の胸に帰って来た。その一年ばかりというものは、まるで歩きづめに歩いていた旅人のような自分の身をも胸に描いて見た。巴里のアパルトマンの屋根の下に籠《こも》っていることも、靴を穿《は》いて石造りの歩道を歩いていることも、ほんとうに休息というものを知らない彼に取っては殆ど同じことであった。どうかすると居ても起《た》ってもいられないような日が来て、目的もなしに公園の方へ出掛けたり、あそこの町の店先に立って見たり、ここの飾窓を覗《のぞ》いて見たりして、寄りたくもない珈琲店に腰掛けるより外に、時の送りようの無いこともあった。それが幾日となく続きに続くこともあった。一年の異郷の月日は彼に取って実際に長い彷徨《さまよい》の連続であった。彼は彷徨うことを仕事にして来た自分に呆《あき》れた。
 町々の若葉の間を歩き廻って、もう一度岸本が下宿の方へ帰って行った時は、無駄な骨折に疲れた。彼は自分の部屋へ行って独りで悄然《しょんぼり》と窓側《まどぎわ》に立って見た。曾《かつ》て信濃《しなの》の山の上で望んだと同じ白い綿のような雲を遠い空に見つけた。その春先の雲が微風に吹かれて絶えず形を変えるのを望んだ。親しい友達の一人も今は彼の側に居なかった。国から持って来た仕事もとかく手に着かなかった。その中でも彼は東京の留守宅への仕送りをして遠く子供を養うことを忘れることは出来なかった。そろそろ自分も懐郷病《ホームシック》に罹《かか》ったのか、それを考えた時は実に忌々《いまいま》しかった。どうかすると彼は部屋の板敷の床の上へ自分の額を押宛《おしあ》てて泣いても足りないほどの旅の苦痛を感じた。

        七十三

 モン・パルナッスの墓地の側を通過ぎて、岸本は岡の画室の前へ行って立った。
 青黒い色に塗った扉《と》を内から開ける鍵《かぎ》の音をさせて、岡が顔を見せた。鶯《うぐいす》の鳴声でも聞くことの出来そうな巴里の場末の方へ寄った町の中に岡の画室を見つけることは、来て見る度《たび》に旅の不自由と暢気《のんき》さとを岸本に思わせた。「老大《ろうだい》」と言って、若い連中から調戯《からか》われるのを意にも留めずにいた岡等より年長《としうえ》の美術家もあったが、その人の一頃《ひところ》住んだ画室も同じ家つづきにある。
「岸本さん、火でも焚《た》きましょう」と岡は款待顔《もてなしがお》に言って、画室の片隅に置いてある製作用の縁《ふち》を探しに行った。
「もう君、火も要《い》らないじゃないか」と岸本が言った。
「でも、何だか火が無いと寂しい――」
 岡は画布《カンバス》を張るための白木の縁を岸本の見ている前で惜気もなくへし折って、それを焚付《たきつけ》がわりに鉄製の暖炉の中へ投入れた。画架やら机やら寝台やらが置いてある天井の高い部屋の内には火の燃える音がして来た。岸本はその側へ椅子を寄せて、
「今日は君を見たくなって一寸《ちょっと》やって来ました」
「好く来て下さいました。僕はまたあなたを訪ねようかと思っていたところでした」と岡が言った。
 激情に富んだ岡は思わしい製作も出来ずに心の戦いのみを続けている苦い懶惰《らんだ》を切なく思うという風で、新しく張った大きな画布《カンバス》のそのままにして部屋の隅に置いてあるのを暖炉の側から眺めながら、
「岸本さん、僕はこの節お念仏を唱えていますよ――そういう心持に成って来ていますよ」
 どうにでも釈《と》れば釈れるようなことを岡は言出した。岡は更に言葉を続《つ》いで、
「巴里へ来てから、僕の有《も》ってる旧《ふる》いものはすっかり壊《こわ》れてしまいました。見事にそれは壊れてしまいました。そんならどういう新しい道を取って進んだら可いかというに、それがまだ僕には見つかりません。僕はそれを待つより外に仕方がありません。それが僕の心に象《かたち》を取るまで、あせらずに待つより外に仕方がないと思います。旅は僕を他力宗の信者にしました。僕はお念仏を唱えて、日々進んで行って見ようと思います。僕は国の方に居るお父《とっ》さんのところへ手紙を書いてやりました――僕のお父さんというのは、それは僕のことを心配していてくれますからね――『お父さん、この節はお念仏を唱えるような心になりましたから、そんなに心配しないで待っていて下さい』ッて、ね」

        七十四

 運命に忍従しようとする岡の話は芸術の生涯に関したことではあったけれども、何となく岸本の耳にはこの画家の熱い、烈《はげ》しい、しかも失われた恋に対する心の消息を語るようにも聞き做《な》された。意中の人との別れ際《ぎわ》に「安心していても好いでしょうね」と念を押して「ええ」という堅い返事を聞いたという岡、それぎり彼女を見ることも叶《かな》わなかったという岡、これほど相許した心のまことを踏みにじろうとする彼女の母親は悪魔であるとまで憤慨した手紙を送ったという岡、巴里へ来てからも時々彼女の兄を殺そうとするような夢を見て眼が覚《さ》めては冷たい汗を流すという岡、その岡の口唇《くちびる》から「旅は僕を他力宗の信者にしました」という声を岸本は聞きつけた。
 その時、画室の外からコンコンと扉を軽く叩《たた》く音をさせて、半身ばかりを顕《あらわ》した貧しい感じのする仏蘭西人の娘があった。帽子も冠らずにいるその娘は画室の内《なか》の様子を見て直にも立去ろうとしたが、それを岡が呼留めた。岡は部屋の片隅から空罎《あきびん》を探して来て、ビイルを買うことをその娘に頼んだ。
「モデルかね」と岸本が訊いた。
「ええ、時々使ってくれないかって、ああしてやって来ます」
 画室の壁には岡がブルタアニュの海岸の方で描いたという一枚の風景画が額縁なしに掛けてあった。何時来て見てもその油絵だけは取除《とりはず》さずにあった。岸本はその前に立って岡と話し話し眺め入《い》っているうちに、やがて町から罎を提《さ》げた娘が戻って来た。
「この娘《こ》は姉妹《きょうだい》ともモデルに雇われて来ます。この娘は妹の方です。頼めばこうして酒の使ぐらいはしてくれますが、平素《しょっちゅう》遊びにやって来て騒いで仕方がありません」と岡は岸本に言って見せた。
 娘は通じない日本の言葉で自分の噂をされるのを聞いて、笑って出て行った。岡は暖炉の側へテエブルを持出し、そこにビイルを置いて、国の方にある親達の噂をした。
「親というものにかけては、僕はどのくらい幸福を感じているか知れません。両親ともよく気が揃《そろ》っています。それは僕を力にしていてくれます。こないだもお母《っか》さんのところから手紙を貰《もら》いました。『お父さんも大分年を取ったし、お前一人を力にしているんだから、お前もそのつもりでなるべく早く帰って来るように心掛けていておくれ』ッてお母さんの方から書いてよこしました。親さえなかったら、僕は国へ帰りたくは有りません。国の方の消息を聞くことは苦痛です。寧《むし》ろ僕は長く巴里に留りたいと思います。例の一件の時も、親達がどのくらい僕のために心配していてくれたか知れません。僕は愛人の最終の手紙を親達の家の方で受取りました。しかもその手紙はあの人のお母さんか姉さんが吩咐《いいつ》けて書かしてよこしたらしい手紙です。別れの手紙です。『こういうものが来てる』ッて、お父さんが心配顔に渡してくれましたから、僕は二階へ持って行ってそれを読みました……何時まで経っても僕が二階から降りて行かないでしょう、お父さんもお母さんも心配してしまって、お燗《かん》を一本つけて置いて僕を階下《した》へ呼んでくれました。酒の香気《におい》を嗅《か》いで見ると、僕も堪《たま》らなくなって、独《ひと》りでしくしくやり出しました。お父さんは散々僕を泣かして置いて黙って視《み》ていましたが、終《しまい》に何を言出すかと思うと、その言草が好いじゃ有りませんか。『貴様も、女運《おんなうん》の無い奴だなあ』ッて……」
 岡は父親の言ったという言葉を繰返して見て、自ら嘲《あざけ》るように笑った。

        七十五

 親さえなくば国の方へは帰りたくないという岡を自分の身に思い比べながら、やがて岸本はその画室を出て天文台前の方へ戻って行った。
「皆《みんな》旅に来て苦労するのかなあ」
 思わずそれを言って見て、パスツウルの通りからモン・パルナッスの停車場《ステーション》へと取り、高架線の鉄橋の下をエドガア・キネの並木街へと出、肉類や野菜の市《いち》の立つ町を墓地の方へ行かずにモン・パルナッスの通りへと突切《つっき》った。並木のかげに立つネエ将軍の銅像のあるあたりは朝に晩に岸本の歩き廻るところだ。六方から町の集まって来ている広場の一方にはルュキサンブウルの公園の入口を望み、一方には円《まる》い行燈《あんどん》のような天文台の石塔を望んだ。そこまで行くと、下宿も近かった。
「東京の友達もどうしているだろう――」
 こう思いやって、乾《かわ》き萎《しお》れたようなプラタアヌの若葉の下を歩いて行った。
 岸本に取っては旅の心を引く一つの事蹟《じせき》があった。他でもない、それはアベラアルとエロイズの事蹟だ。英学出の彼はあの名高い学問のある坊さんに就《つ》いて精《くわ》しいことは知らなかった。でも彼がアベラアルの名に親しみ始めたのはずっと以前のことである。アベラアルとエロイズの愛。どれ程青年時代の岸本はその奔放な情熱を若い心に想像して見たか知れない。あの学問のある尼さんのためには男も捨て僧職も擲《なげう》ったというアベラアルの名はどれ程若かった日の彼の話頭に上ったか知れない。
 岸本は同宿するソルボンヌの大学生の口から、その仏蘭西の青年の通っている古い大学こそ往昔《むかし》アベラアルが教鞭《きょうべん》を執った歴史のある場所であると聞いた時は、全く旧知に邂逅《めぐりあ》うような思いをしたのであった。その事を胸に浮べて、彼は自分の部屋に帰った。旅の鞄《かばん》に入れて国から持って来た書籍《ほん》の中には昔を思い出させる英吉利《イギリス》の詩人の詩集もあった。その中にあるアベラアルとエロイズの事蹟を歌った訳詩の一節をもう一度開けて見た。

[#ここから3字下げ]
〔"Where's He'loise, the learned nun,〕
 For whose sake Abeillard, I ween,
Lost manhood and put priesthood on ?
 (From Love he won such dule and teen ! )
 And where, I pray you, is the Queen
Who willed that Buridan should steer
 Sewed in a sack's mouth down the Seine ?
But where are the snows of yester-year ?"
 (The Ballad[#「Ballad」は底本では「Ballard」] of Dead Ladies.――〔Translation from Franc,ois Villon by Rossetti.〕)
[#ここで字下げ終わり]

 東京|下谷《したや》の池《いけ》の端《はた》の下宿で、岸本が友達と一緒にこの詩を愛誦《あいしょう》したのは二十年の昔だ。市川、菅、福富、足立、友達は皆若かった。あの敏感な市川が我と我身の青春に堪《た》えないかのように、「されど去歳《こぞ》の雪やいづこに」と吟誦《ぎんしょう》して聞かせた時の声はまだ岸本の耳の底にあった。
 夜に入って、柔い雨が客舎の窓の外にあるプラタアヌの若葉へ来た。その雨の音のする静かさの中で、岸本はもう一度この事蹟を想像して見て、独り居る無聊《ぶりょう》を慰めようとした。

        七十六

 そんなに叔父さんは国の方の言葉を聞きたくているのか、叔父さんの旅の便《たよ》りを新聞で読んでこの手紙を送る気に成ったと節子は岸本のところへ書いてよこした。煩《うるさ》く便りをするようであるが、国の方の言葉を聞くと思って読んでくれと書いてよこした。節子の手紙には泉太や繁の成人して行く様子を精《くわ》しく知らせてよこしたが、何時《いつ》でも単純な報告では満足しないようなところがあった。叔父さんに心配を掛けた自分の身《からだ》も、今では漸《ようや》く回復して、何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してくれと書いてよこした。勿論《もちろん》見る人が見れば直《す》ぐ分ることであるとも書いてよこした。彼女はまた、水虫のようなものを両手に煩《わずら》ってとかく台所の手伝いも出来かねていると書いてよこした。相変らず髪の毛が抜けて心細いというようなことまで書いてよこした。こうした節子の手紙を読む度《たび》に岸本は嘆息してしまって、所詮《しょせん》国へは帰れないという心を深くした。
 旅の空にあって岸本が送ったり迎えたりする同胞も少くはなかった。好い季節につれて、旅から旅へ動こうとする人達の消息を聞くことも多くなった。以太利《イタリー》の旅行を終えて岸本の宿へ土産話《みやげばなし》を置いて行った人には京都大学の考古学専攻の学士がある。これから以太利へ向おうとして心仕度《こころじたく》をしているという便りを独逸《ドイツ》からくれた人には美術史専攻の慶応の留学生がある。セエヌの河岸《かし》にある部屋を去って近く帰朝の途に上ろうとする美術学校の助教授もあり、西伯利亜《シベリア》廻りで新たに巴里《パリ》に着いた二人の画家もあった。
「岸本君が巴里に来られたことを僕はモスコウの方で知りました」
 こう言って旧《ふる》い馴染《なじみ》の顔を岸本の下宿へ見せた一人の客もあった。この客は一二カ月を巴里に送ろうとして来た人であった。
 岡が画室の方から来て部屋に落合ってからは、気の置けないもの同志の旅の話が始まった。何時|逢《あ》って見ても若々しいこの客のような人を異郷の客舎で迎えるということすら、岸本にはめずらしかった。よく身についた紺色の背広の軽々とした旅らしい服装も一層この人を若くして見せた。
「岸本君は巴里へ来て遊びもしないという評判じゃ有りませんか。そんなにしていて君は寂しか有りませんか」
 と客が言って笑った。
「これで岸本さんも万更遊ぶことが嫌《きら》いな方じゃないんだね」と岡は客の話を引取って、「人の行くところへは何処《どこ》へでも行くし、皆で集って話そうじゃないかなんて場合に、徹夜の発起人は何時でも岸本さんだ。『色地蔵』だなんて岸本さんには綽名《あだな》までついてるから可笑《おか》しい。恋の取持なぞは、これで悦《よろこ》んでする方なんだね。そのくせ自分では眺《なが》めてさえいれば可《い》い人だ」
「だけれど、君、旅に来たからと言って、何もそんなに特別な心持に成らなくても可いじゃないか。国に居る時と同じ心持では暮せないものかねえ」と岸本が言出した。

        七十七

 一切のものの競い合う青春が過ぎ去るように、さすがに若々しく見える客も時の力を拒みかねるという風で、さまざまな旅の話に耽《ふけ》ったが、岡と一緒にその人が出て行った後まで種々な心持を岸本の胸に残した。
「今だから白状しますが、岸本君の詩集では随分僕も罪をつくりましたねえ。考えて見ると僕も不真面目《ふまじめ》でしたよ。君の詩をダシに使って、どれ程若い女を迷わしたか知れませんよ」
 客の残して置いて行ったこの声はその人が居ない後になっても、まだ部屋の内《なか》に残っていた。岸本が若い時分に作った詩を幾つとなく暗誦《あんしょう》したという客の顔はまだ岸本の眼前《めのまえ》にあった。その人はそよそよとした心地《こころもち》の好い風が顔を撫《な》でて通るような草原に寝そべって岸本の旧詩を吟じている若者を想像して見よとも言った。花でも摘もうとするような年若な女学生がよくその草原へ歩きに来ると想像して見よとも言った。風の持って行く吟声は容易に処女《おとめ》の心を捉《とら》えたとも言った。そしてその処女が何事《なんに》も世間を知らないような良い身分の生れの人であればあるだけ、岸本の詩集が役に立ったとも言った。客が清《すず》しい、ほれぼれとするような声を有《も》っていることは岸本もよく知っていた。この無邪気とも言えない、しかし子供のように噴飯《ふきだ》したくなるような告白は岸本を驚かした。彼は全く自分と気質を異にした人の前に立って見たような気がしたのであった。
「しかし昔のような空想はだんだん無くなって行きますね。それだけ自分でも年をとったかと思いますね。僕は時々そう思いますよ、恋が出来ないと成ったら人間もこれで心細いものです。自分にはまだ出来る、そう思って僕は自分で慰めることが有りますよ」
 これも客の残して行った声だ。
「僕にも出来る」
 と客の前に立って、力を入れてそれを言ったのは岡だ。岸本はその時の二人の眼のかがやきをまだ眼前に見ることが出来た。
 客が女性に近づくための方便としたという岸本の詩集は、作者たる彼に取ってはあべこべに女性の煩《わずら》いから離れた時に出来た若い心の形見であった。漸《ようや》く彼も二十五歳の頃で、仙台の客舎へ行ってそれを書いた。あの仙台の一年は彼が忘れることの出来ない楽しい時代である。ずっと後になってもよく思い出す時代である。そしてその楽しかった理由は、全く女性から離れて心の静かさを保つことが出来たからで。実際岸本は女性というものから煩わされまいとして青年時代からその日まで歩き続けて来たような男であった。

        七十八

 発《た》つ発つという噂《うわさ》があって発てなかった美術学校の助教授がいよいよ北の停車場《ステーション》から帰国の途に上るという日は、ほんとうに人を送るような思いをして岸本も停車場まで出掛けて行った。その日は巴里に在留する美術家仲間は大抵集まった。送られる助教授は帰って行く人で、送る連中は残っているものだ。旅の心持は送るものの方にも深かった。丁度遠い島にでも集まっているもののところへ迎えの船が来て、ある一人だけがその船に乗ることを許されたように。助教授は若い連中からも気受の好い人であった。日本飯屋のおかみさんの家に外国人を混ぜずの無礼講の会でもあって、無邪気な美術家らしい遊びに皆旅の憂《う》さを忘れようとする場合には、助教授は何時でも若いものと一緒になって歌った。このさばけた先達《せんだつ》を見送ろうとして、よく鎗錆《やりさび》を持出した画家と勧進帳《かんじんちょう》を得意にした画家とはダンフェール・ロシュルュウの方面から、口三味線《くちじゃみせん》の越後獅子《えちごじし》に毎々人を驚かした画家はモン・パルナッスから、追分《おいわけ》、端唄《はうた》、浪花節《なにわぶし》、あほだら経、その他の隠し芸を有《も》った彫刻家や画家は各自《めいめい》に別れ住む町々から別離《わかれ》を惜みに来た。岡はまた帰国後の助教授の口添に望みをかけて、あきらめ難い心を送るという風であった。こんな場合ででもなければめったに顔を合せることも無いような美術家とも岸本は一緒になった。仏蘭西《フランス》の婦人と結婚して六七年も巴里に住むという彫刻家にも逢った。亜米利加《アメリカ》の方から渡って来て画室|住居《ずまい》するという小柄な同胞の婦人の画家にも逢った。
 助教授を見送って置いて、岸本は地下電車でヴァヴァンの停留場へ出た。彼は所詮《しょせん》国へは帰れないという心を切に感じて来た。その心は国の方へ帰って行く人を見ることによって余計に深められた。ヴァヴァンから下宿をさして歩いて行くと、丁度|羅馬《ローマ》旧教のコンミュニオンの儀式のある頃で、ノオトル・ダムの分院の前あたりで寺参りの帰りらしい幾人《いくたり》かの娘にも行き逢った。清楚《せいそ》な白衣を着た改まった顔付の処女《おとめ》等は母親達に連れられて幾組となく町を歩いていた。彼はこの知らない人ばかりの国へ来てこれから先の自分の生涯をいかにしようかと思い煩った。
「今日まで自分を導いて来た力は、明日も自分を導いてくれるだろうと思う――そんなに心配してくれ給うな」
 東京の方のある友人に宛《あ》てて書いたこの言葉を、岸本は下宿に戻ってからも思い出して見た。出来ることなら彼は旅先で適当な職業を見つけたいと願っていた。出来ることなら国の方に残して置いて来た子供等までも引取って異郷に長く暮したいと願っていた。それにはもっと時をかけ好い語学の教師を得て、言葉を学ぶ必要があった。この言葉を学ぶということと、旅先で執れるだけ筆を執って国を出る時に約束して来た仕事を果すということとは、とかく両立しなかった。おまけに手紙の往復にすら多くの月日を要する遠い空にあっては、国の方の事情も通じかねることが多く、ややもすると彼は眼前の旅をすら困難に感じた。
「運命は何処《どこ》まで自分を連れて行くつもりだろう」
 こうした疑問は岸本の胸を騒がせた。どうかすると彼は部屋の床の上に跪《ひざまず》き、堅い板敷に額を押宛てるようにして熱い涙を流した。

        七十九

 知らない人達の中へ行こうとした岸本は一年ばかり経《た》つうちに、ビヨンクウルの書記やブロッスの教授の家族をはじめ、ラペエの河岸《かし》に住む詩人、マダムという町に住む婦人の彫刻家、ベチウスの河岸に住む日本美術の蒐集家《しゅうしゅうか》なぞの家族を知るように成った。しかし何かこう食足りないような外来の旅客としての歯痒《はがゆ》さは土地の人に交れば交るほど岸本の心に附纏《つきまと》った。
 六月に入って、岸本はビヨンクウルの書記のお母さんから手紙を貰《もら》った。その中にあの老婦人が長いこと病床にあったことから書出して、定めしあなたのことも忘れていたかのようにあなたには思われようが、決してそうで無い、この御無沙汰《ごぶさた》も自分の病気ゆえであると書いてよこした。次の土曜日の晩には食事に来てくれないか、自分等一同あなたを見たいと書いてよこした。最早あなたも少しは仏蘭西語を話されることと思う、自分の家の嫁は英語を話さず忰《せがれ》もとかく留守勝ちのために、しばしばあなたを御招きすることもしなかったと書いてよこした。東京の姪《めい》からも手紙で、あなたにお目に掛るかとよく尋ねよこすと書いてよこした。老婦人はこの手紙を英語で書いてよこした。あの書記のお母さんは一時は危篤を伝えられたほどで、病中に岸本はビヨンクウルを訪《たず》ねても老婦人には逢わずに帰って来たことも有った。
「仏蘭西へ来て一番最初に逢った老婦人が、一番多く自分のことを考えていてくれる」
 岸本は何かにつけてそれを感じたのであった。
 パントコオトの日も過ぎた頃、岸本は復《ま》たビヨンクウルから手紙を貰った。
 その時はお母さんの手でなくて、書記の手で、二三の親しい友達や親戚《しんせき》のものが茶に集るから、岸本にも出掛けて来るようにと、してあった。
 ベデカの案内記なしにはセエヌ河も下れなかった頃に比べると、ともかくも岸本は水からでも陸からでもビヨンクウルに行かれるまでに旅慣れて来た。彼は好きな仏蘭西人の家族を見る楽みをもって、電車でセエヌ河の岸を乗って行った。書記の家の門前に立って鉄の扉を押すと、例の飼犬が岸本を見つけて飛んで来たが、最早《もう》吠《ほ》えかかりそうな姿勢は全く見せなかった。
 老婦人は草花の咲いた庭に出ていて、家の入口の正面にある広い石階《いしだん》の近くに幾つかの椅子を置き、そこで客を待っていた。その辺には長い腰掛椅子も置いてあった。ところどころに樹の葉の影の落ちている午後の日の映《あた》った庭の内で、岸本は老婦人や細君や茶に招かれて来ている婦人の客などと一緒に成った。仏蘭西の婦人を細君にする露西亜《ロシア》の音楽家という夫婦にも引合わされた。
「私も、もう岸本さんにお目に掛れまいかと思いましたよ。こんなに丈夫に成ろうとは自分ながら夢のようです」
 それを老婦人は岸本に言って聞かせた。
 半死の病床から再び身を起した老婦人が相変らず古風な黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着け、まだいくらか自分で自分の年老いた体躯《からだ》をいたわり気味に庭の内を静かに歩いているのを見ることは、岸本に取っても不思議のように思われた。彼はこの老婦人が財産を皆に分けてくれ、遺言《ゆいごん》までもした後で、もう一度丈夫に成ったその手持無沙汰な様子を動作にも言葉にも看《み》て取った。そればかりではない、しばらく話しているうちに、彼はこの家の人達に取ってある真面目《まじめ》な問題が起っていることを知った。

        八十

 仏蘭西を捨てて日本の方へ行ってしまった老婦人の姪の噂が出た。茶の会とは言ってもその日は極く内輪のものだけの集りらしく、紅茶の茶碗《ちゃわん》を手にした人達があちこちの椅子に腰掛けて思い思いに話していた。その中で岸本は老婦人の口から、東京の方にあるマドマゼエルの結婚の話を聞いた。
 老婦人は心配顔に、
「あの手紙を持って来て御覧」
 と細君に言った。細君は家の正面にある石階《いしだん》を上って行って、日本から来た手紙をそこへ持って来た。
「お母さん、滝《たき》という方ですよ」と細君はマドマゼエルの手紙を見て言った。
「岸本さんは滝さんという美術家を御存じですか」と老婦人が訊《き》いた。
「滝という苗字《みょうじ》の美術家なら二人あることは知ってますが、しかし私は直接にはよく知りません」
 この岸本の答は一層老婦人を不安にしたらしかった。
「岸本さんですらよくは御存じないと仰《おっしゃ》る」
 と老婦人は細君と眼を見合せて、姪が結婚するという美術家はどういう日本人であろうという意を通わせた。仏蘭西の方に居てマドマゼエルの為にほんとうに心配している人は、何と言ってもこの叔母さんらしかった。その時岸本は、「姪がああして日本の方へ行ってしまったのは、私が悪いのだ、私の落度だ、と言って皆が私を責めます」と曾《かつ》て老婦人が彼に言ったことを思い出した。事情に疎《うと》い外国の婦人の身をもって、果して適当な配偶者を異郷に見出《みいだ》すことが出来たであろうか、こうした掛念《けねん》がありありと老婦人の顔に読まれた。
「この滝さんは巴里に遊学していらしったことも有るそうです。手紙の中にそう書いてあります」
 と細君が言って、マドマゼエルの手紙をひろい読みして聞かせる中に、岸本に取っては親しい東京の番町の友人の名が出て来た。番町の友人の紹介で、マドマゼエルがその美術家を知ったらしいことも分って来た。
「日本で結婚するなんて、儀式はどうするんでしょう、宗教はどうするんでしょう――マドマゼエルも唯《ただ》一人でさぞ困ることでしょうね」
 と細君が言えば、老婦人もその尾に附いて、
「可哀そうな娘」
 とつぶやいた。
「とにかく、日本の若い美術家も多勢巴里に来ていることですし、私がその滝さんのことを訊いて進《あ》げましょう。マドマゼエルだってしっかりした人ですから、下手《へた》な事をする気遣《きづか》いはありませんよ」
 こう岸本は老婦人や細君を言い慰めた。
 間もなく主人と前後して、日本の弁護士がそこへ入って来た。老婦人はその弁護士にも滝という人の事を尋ねた。あだかも法律を談ずる日本の弁護士ともあるべき人が日本の芸術界の消息に通じていない筈《はず》はないという調子で。その弁護士は滝の名も聞いたことがないと答えたので、老婦人は主人や岸本を前に置いて平素にない苛酷《きび》しい調子を出して言った。
「お二人とも御存じが無い」
 主人はまた東洋の果にあるマドマゼエルの身を案じ顔に、黙ってお母さんの前に立っていた。

        八十一

 岸本は自分をこの仏蘭西人の家族に紹介してくれたマドマゼエルの為に、日本の空を慕って行ったという可憐《かれん》な人の為に、出来るだけその滝という美術家のことを調べて見て、遠く離れて心配している叔母さん達を安心させたいと思った。ビヨンクウルの家を辞して、ポプリエの並木の続いた岸づたいに河蒸汽の乗場へ下りて行く道すがらも、彼は自分で自分に尋ねて見た。何故ビヨンクウルの人達はあれほどマドマゼエルの結婚を心配するのであろうかと。
「相手方が日本人だからではないか――」
 答はどうしてもそこへ落ちて行った。船に乗ってからも岸本はあのマドマゼエルの異国趣味が日本人と結婚するところまで突きつめて行ったかと思いやった。
 それから数日の後、岸本はマドマゼエルの配偶者に就《つ》いて好い話を聞き込んだ。在留する美術家仲間でも、最近にスエズ廻りで国の方から来た画家の牧野が滝のことをよく知っていた。牧野は岡と懇意で、東京の番町の友人とも知合の間柄であった。「老大《ろうだい》」を送り、美術学校の助教授を送り、その他岸本が知っているだけでも三人の若手の美術家を送った「巴里の村」では、この牧野、西伯利亜廻りで来た小竹、その他二三の新顔を加えた訳であった。
「滝のような男の細君に成ったものは、そりゃ仕合《しあわせ》ですよ」
 この牧野の言葉に力を得て、早速《さっそく》岸本はビヨンクウル宛《あて》に好い報知《しらせ》を送った。好い生立《おいた》ちを有《も》った滝の頼もしい人柄に就いて牧野から聞取ったことを書いて、マドマゼエルは選択を過《あやま》らなかった、決して心配することは要《い》らないと思うと書添えて送った。
 書記のお母さんの返事は避暑地なるセエブル・ドロンヌの海岸の方から岸本の許《もと》へ来た。老婦人は岸本の方から言って遣《や》ったことの礼から書出して、忰《せがれ》は今巴里に居るが、しかし御手紙は自分にも読めと言って当地へ送って来たから、自分から御返事する、いろいろ難有《ありがた》かったと書いてよこした。もしも自分の兄が――姪の実父が今日までも生きながらえていたなら、いかに彼がこの結婚を考えたであろう、それを思うと自分はただただ心に驚くばかりであると書いてよこした。しかし御申越の様子では万事好さそうにも思われるし、何等《なんら》の助言をも姪から自分の許へは求めても来ないから、自分等は蔭《かげ》ながらこの事の都合好く運ばれるのを望んでいると書いてよこした。老婦人はまたセエブル地方の大きく美しいことを言い添えて、ここへ暑《あつさ》を避けに来ている幾多の家族は皆友達のようであり、砂上に遊び戯るる子供等を見るのも楽いと書いてよこした。とかく季候は雨勝ちであったが、幸いに日も輝いて来たと書いてよこした。あなたの老友よりともしてよこした。

        八十二

 思いがけない人の心を読んだという心持で、岸本はビヨンクウルの書記|宛《あて》にもう一度手紙を書いてやった。そんなにマドマゼエルの結婚談が心配になるなら、東京の番町の友人はマドマゼエルの力に成る人と思うから、万事あの友人に相談するようマドマゼエルの許へ言ってやったら可《よ》かろうとした手紙を送った。
 この手紙は老婦人の方へ廻って行ったと見え、折返しセエブルの海岸から返事が来た。姪《めい》のことで御心配をかけて済まなかったと老婦人は書いてよこした。申すも心苦しいが、姪は我儘者《わがままもの》で、彼女の好きなことしかした例《ためし》がない、もともと彼女は極くきゃしゃに生れついたもので、彼女の母親も父親もあれまでに彼女が育つとは考えなかったほどである、そして彼女の空想のままに彼女の好めるままにさせて置いて両親が黙って視《み》ていたというのも、恐らくその原因は彼女が長いこと弱々しかったところにあると思うと書いてよこした。彼女は非常に富有な家に生れて、世間というものを知らずにいる、随《したが》って他《ひと》の忠告を容《い》れようとはしない、何事も彼女が独《ひと》りで出来ると思うならば、それが出来れば実に結構であると書いてよこした。なんでも滝という方は巴里《パリ》遊学中には姪を御存じもなかったようである、姪からの手紙には非常に遠慮深い方だとしてあるが、彼女はその滝さんがいかなる種類の美術家であるやすらも報告することを忘れていると書いてよこした。もしまたあなたが忰《せがれ》宛に何か御知らせ下さるようなことが有れば、忰は相変らず図書館の方に通っているし、自分もあなたの御意見によって番町の御友人とやらに御相談するよう姪の許へ只今《ただいま》別に書面を送るつもりである、しかしその御友人の反対を恐れたら、あるいは姪は御相談にも参らないかも知れないと書いてよこした。彼女は半死の床にある母親を捨ててただただ彼女の娯楽のために日本の方へ去ったものである、自分等は電報で彼女の帰国を促したが、彼女が病める母を見舞うために巴里へ着いた時は既に万事が終った後であったと書いてよこした。彼女の我儘は考えて見るだに恐ろしい、自分等には彼女の心は分らないと書いてよこした。
 この老婦人の手紙を前に置いて見ると、岸本は自分まで一緒に叱《しか》られているような気を起した。何事も思った通りにしか出来ないのは、あのマドマゼエルばかりでなくて、彼自身が矢張《やはり》それであるから。しかし彼は心の中でマドマゼエルを弁護した。「日本というものは自分に取っては空想の郷《くに》でしたからね」とは老婦人の述懐ではないか。言わばマドマゼエルは叔母さんの夢見たことを実際に身に行おうとした人ではないか。その人が日本に行き、日本人と結婚するという場合に、何故もっと同情のある心は持てないのであろうか。半死の床にある母親を捨てて仏蘭西《フランス》を出たということは、あるいはマドマゼエルの落度《おちど》かも知れないが、それほど思いつめたところが無くてどうして単身東洋の空に向うことが出来ようかと。
 
        八十三

 老婦人の手紙の中には可成《かなり》苛酷《きび》しいことが書いてあった。しかし知らない土地の人でそれだけ真実《ほんとう》のことを岸本のところへ書いてよこしてくれる人すら、めったに無かった。彼は異邦人としての自分の旅がそれほど土地の人達の生活から縁遠いものであることを知って来た。諸国から巴里に集って来る多くの旅人を相手に生計を営んでいるような人達の間に醸《かも》される空気が、非常に慇懃《いんぎん》なもので険しく冷いものを包んでいるような空気が、慣れては知らずにいるほど職業的に成ってしまったような空気が、実に濃く彼の身を囲繞《とりま》いていることを知って来た。仏蘭西人の家庭を見て来た眼で自分の下宿を見る度《たび》に、何時《いつ》でも彼は嘆息してしまった。
 岸本の下宿には高瀬という京都大学の助教授が独逸《ドイツ》の方から来て泊っていた。この人の部屋は岸本の部屋と壁|一重《ひとえ》隔てた直《す》ぐ隣りにあった。窓一つあるその部屋へ行って見ると、高いプラタアヌの並木の枝が岸本の部屋で見るよりも近く窓際《まどぎわ》に延びて来ていて、濃い葉の緑は早や七月の来たことを語っていた。
「千村君の居た宿屋が見えますね」
 と岸本は思出したように言って、青々とした葉裏から透けて見える向うの旅館の建築物《たてもの》を眺《なが》めた。高瀬を岸本のところへ紹介してよこしたのも同じ大学の教授であった、岸本に取ってはこの下宿の食堂でしばらく食事だけを共にした千村であった。
「千村君も、よくそれでもあんな宿屋に辛抱したと思いますよ」と岸本が言った。「千村君が私にそう言いましたっけ。『あなたの部屋の方は、まだそれでも羨《うらや》ましい。是方《こちら》の窓から見てますと、あなたの部屋の窓には一日日が映《あた》っています』ッて。高い建築物《たてもの》ばかりで出来た町ですから、ああいう日の映らない部屋もあるんですね。ホテルだなんて言うと好さそうですが、実際千村君には御気の毒なようでした」
 こう話しているうちに、向うの旅館へ岸本の方から押掛けて行って夜遅くまで互いに旅の思いを比べ合ったり、千村の方からも食事の度にこの下宿へ通って来て話し込んで行ったりした時のことが、岸本の胸に浮《わ》いて来た。
「千村君の居る頃には、懐郷病《ホームシック》の話なぞもよく出ましたっけ。『お前が西洋へ行ったら、必《きっ》と懐郷病に罹《かか》る』と言われて来たなんて、そんな話も有りました」
 と復《ま》た岸本が独逸の方に行っている千村の噂《うわさ》をすると、高瀬も何か思い出したように、
「西洋へ来ているもので、多少なりとも懐郷病に罹っていないようなものは有りませんよ」
 この高瀬の嘆息は、無暗《むやみ》と強がっているような旅行者の言葉にも勝《まさ》って、なつかしい同胞の声らしく岸本の耳に聞えた。

        八十四

 高瀬は千村教授と同じように経済の方面で身を立てた少壮な学者であった。岸本が巴里で逢《あ》った頃の千村に比べると、高瀬は独逸の方で散々いろいろな思いをした揚句《あげく》に巴里へ来た人で、それだけあの教授よりは旅慣れていた。高瀬は独逸の方で見たり聞いたりしたさまざまな旅行者の話を巴里へ持って来た。驚くべく激しい懐郷病に罹った同胞の話なぞも高瀬の口から出て来た。ある留学生は高い窓から飛んで死んだ。ある人は極度のヒステリックな状態に堕《お》ちた。その人は親切と物数寄《ものずき》とを同時に兼ねたような同胞の連に引立てられて、旅人に身をまかせることを糊口《くちすぎ》とするような独逸の女を見に誘われて行った。突然その人は賤《いや》しい女を見て泣出したという。こんな話を高瀬から聞いた時にも、岸本は笑えなかった。
「酷《ひど》いものですな」と岸本が言った。「巴里にあるわれわれの位置は、丁度東京の神田あたりにある支那《しな》の留学生の位置ですね。よく私はそんなことを思いますよ。これでは懐郷病にも罹る筈《はず》だと思いますよ。今になって考えると、あんなに支那の留学生なぞを冷遇するのは間違っていましたね」
「神田辺を歩いてる時分にはそうも思いませんでしたがなあ。欧羅巴《ヨーロッパ》へ来て見てそれが解《わか》りました」と高瀬も言った。
「あの連中だって支那の方では皆相当なところから来てる青年なんでしょう。その人達が旅人扱いにされて、相応な金をつかって、しかもみじめな思いをするかと思うと、実際気の毒になりますね。金をつかって、みじめな思いをするほど厭《いや》なものはありませんね。私が国を出て来る時に、『欧羅巴へ行って見ると、自分等は出世したのか落魄《らくはく》しているのか分らない』と言った人も有りましたっけ」
 思わず岸本は支那留学生に事寄せて、国を出る時には想像もつかなかったような苦い経験を、日頃の忍耐と憤慨とを泄《も》らそうとした。彼はパスツウルの近くに画室住居する岡や牧野や小竹のことなぞを考える度に、淫売婦《いんばいふ》や裏店《うらだな》のかみさんのような人達と同じ屋根の下に画作することを胸に浮べて、あの連中の実際の境遇を憐《あわれ》まずにはいられなかった。自由、博愛、平等を標語とするこの国には極く富んだものと極く貧しいものとが有るだけで、自分の郷国《くに》にあるような中位《ちゅうい》で快適な生活はないのかとさえ疑った。
 朝に晩に旅の思いを比べ合う高瀬のような話相手を得て見ると、岸本は名状しがたい心持が自分ばかりの感じているものでもないことを知った。屋外《そと》へ歩き廻りに行く折などには、彼は町の附近に見つけて置いた自分の好きな場所へよく高瀬を誘って行った。天文台の裏手にあたる静かな並木の続いた道へ。ルュキサンブウルの美術館の裏手にある薔薇園《ばらえん》へ。時にはまたゴブランの市場に近い貧しい町々の方へ。そして、詩と科学と同時にあるような巴里を客舎の窓から眺《なが》めて長い研究生涯の旅の途中にしばらく息を吐《つ》いて行こうとするような高瀬に、自分の身を思い比べた。

        八十五

「お前の旅は他の人とは違うだろう。お前は隣室の高瀬にまで隠そうとしていることが有るだろう。お前はそれで枕《まくら》を高くしてお前の寝台に眠ることが出来るのか」
 こういう声が来て岸本を試みた。丁度町の角にあたる岸本の部屋は、産科病院の見える並木街に向いた方で高瀬の部屋に続き、モン・トオロン行の乗合自動車の通る狭い横町に向いた方で今一つの部屋に続いていた。その部屋の方は控訴院附の弁護士だという少壮な仏蘭西人が寝泊するだけに借りていて、朝早く出ては晩に遅くなって帰って来た。日中は居ないも同様であった。下宿人としては高瀬、岸本の外に年若な独逸人が居るだけで屋《うち》の内《なか》は割合にひっそりとしていた。自分の部屋に居て聞くと、どうかすると隣室を歩き廻る高瀬の靴音が岸本の耳に入る。科学的な研究を一生の仕事としているような高瀬も油絵具で室内のさまでも描いて見ることを慰みにして、巴里へ来た序《ついで》にそうした余技を試みているらしい。壁越しに聞えて来る靴音は、その人に面と対《むか》っている時にも勝《まさ》って、隣の旅客の学者らしい倦怠《けんたい》を伝えて来た。
 岸本は置戸棚《おきとだな》の開き戸に張ってある姿見の前に行った。旅に来て一層白さの眼立つように成った彼自身の髪の毛がその硝子《ガラス》に映った。しばらく彼は自分で自分のすがたに見入っていた。何となく自ら欺こうとするような人がその姿見の中に居た。
「Dead secret.」
 ふとそんな忌々《いまいま》しい言葉が英語で彼の口に浮んだ。誰にも知れないように自己の行跡を葬ろうとしている岸本は、なるべく他の事に紛れて、暗い秘密に触《さわ》ることを避けようとした。遠く国を離れて一年あまり待つうちに、「何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったから安心してくれ」という便《たよ》りを姪から受取るほどに成った。兄が黙っていてくれ、節子が黙っていてくれ、自分もまた黙ってさえいれば、どうやらこの事は葬り得られそうに見えて来た。兄が黙っていてくれないようなことは無かった。兄は一度引受けたことを飽くまでも守り通す性質で、人一倍体面を重んずる人で、おまけにこの事は娘の生涯にも関《かかわ》ることであるから。節子が黙っていてくれないようなことは無かった。以前に使っていた婆やをすら恐ろしいと言って機嫌《きげん》を取っていると書いてよこすほどの彼女であるから。して見ると自分さえ黙っていれば――黙って、黙って――そう岸本は考えて、更に「時」というものの力を待とうとした。もとより彼は自己《おのれ》の鞭《むち》を受けるつもりでこの旅に上って来た。苦難は最初より期するところで、それによって償い得るものなら自分の罪過を償いたいとは国を出る時からの願いであった。
「こんな思をしても、まだそれでも足りないのか」
 と彼は自分で自分に繰返して見た。

        八十六

 節子はめずらしく岸本の夢に入った。寝苦しさのあまり、岸本が重い毛布を跳ねのけ、壁の側の寝台の上に半ば身を起して周囲《あたり》を見廻した時は、まだ夢の覚《さ》め際《ぎわ》の恐ろしかった心地《ここち》が残っていた。
 夏らしい夜ではあったが、妙に寒かった。岸本は寝衣《ねまき》の上に国の方から持って来た綿入を重ねて、寝台を下りて見た。窓に近く行って高い窓掛を開けて見ると、夜の明けがたの蒼白《あおじろ》い静かな夢のような光線が彼の眼に映った。街路もまだ響の起らない時で、僅《わず》かに辻馬車《つじばしゃ》を引いて通る馬の鈴の音《ね》と、町々を警《いまし》めて歩く巡査の靴音とが、暗いプラタアヌの並木の間に聞えていた。明けそうで明けない短か夜の空は国の方で見るよりもずっと長い黄昏時《たそがれどき》と相待って、異国の客舎にある思をさせる。隣室の高瀬も、仏蘭西人の弁護士もまだよく寝入っている頃らしかった。岸本は喫《の》み慣れた強い仏蘭西の巻煙草《まきたばこ》を一服やって、めったに見たことのない節子の来た夢を辿《たど》った。乳腫《ちちばれ》で截開《せっかい》の手術をしたという彼女が胸のあたりを気にしている容子《ようす》が岸本の眼にちらついた。あだかも一種の恐怖に満ちた幻覚によって、平素《ふだん》はそれほどにも思わない物の意味を切に感ずるように。
「叔父さんは知らん顔をして仏蘭西から帰っていらっしゃいね」
 と東京浅草の家の方で節子の言った言葉、岸本が旅仕度《たびじたく》でいそがしがっていた頃に彼女の近く来て言ったあの言葉が、ふと胸に浮んだ。岸本は独りでそれを思出して見て、ひやりとした。
 窓掛を開けたままにして置いて、復《また》岸本は寝台に上った。もう一度眠に落ちた彼が眼を覚ました頃は大分遅かった。その朝、恐ろしかった夢の心地は、起出して机に対《むか》った時でもまだ彼から離れなかった。
「節ちゃんはどうしてああだろう。どうしてあんな手紙を度々|寄《よこ》すんだろう」
 こう岸本はそこに姪でも居るかのように独りで言って見て、溜息《ためいき》を吐《つ》いた。なるべく「あの事」には触れないように、それを思出させるようなことさえ避けたくている岸本に取っては、節子から度々《たびたび》手紙を貰《もら》うさえ苦しかった。彼は以前にこの下宿に泊っていた慶応の留学生からある独逸語を聞いたことがある。その言葉が英語の incest を意味していて、偏《かたよ》った頭脳のものの間に見出される一つの病的な特徴であると説明された時は、そんな言葉を聞いただけでもぎょっとした。彼はまたある若い夫人に関係があったという他の留学生の身上話を聞かされた時にも、その若い夫人が夫の旅行中に妊娠したという話を聞かされた時にも、そんな話を聞いただけで彼は酷《ひど》く心に責められたことがある。況《ま》してその年若な留学生が自己の美貌《びぼう》と才能とを飾るかのようにその話を始めた時には、彼は独りで激しい心の苦痛を感ぜずにはいられなかった。何故、不徳はある人に取って寧《むし》ろ私《ひそ》かなる誇りであって、自分に取ってこんな苦悩の種であるのだろう、と嘆いたことさえあった。この一年あまりというもの、彼は旅に紛れることによって、僅《わずか》に心の眼を塞《ふさ》ごうとして来た。

        八十七

 なつかしい故国の便りは絵葉書一枚でも実に大切に思われて時々|旧《ふる》い手紙まで取出しては読んで見たいほどの異郷の客舎にあっても、姪《めい》から貰った手紙ばかりは焼捨てるとか引裂いてしまうとかして、岸本はそれを自分の眼の触れるところに残して置かなかった。蔭ながら彼は節子に願っていた。旅にある自分のことなぞは忘れて欲しい、生先《おいさき》の長い彼女自身のことを考えて欲しいと。その心から彼はなるべく節子宛に文通することを避け、彼女に書くべき返事は義雄兄宛に書くようにして来た。しかし、もう好い加減に忘れてくれたかと思う時分には、復た彼女から手紙が来て、その度に岸本は懊悩《おうのう》を増して行った。神戸以来幾通となく寄《よこ》してくれた彼女の手紙は疑問として岸本の心に残っていた。あの暗い影から――一日も離れることの無かったほど附纏《つきまと》われたというあの暗い影から、漸《ようや》く離れることが出来たと言って書いて寄した時からの彼女は、何となく別の人である。あれほどの深傷《ふかで》を負わせられながら、彼女は全く悔恨を知らない人である。岸本に言わせると、若い時代の娘の心をもって生れて来た節子のような女が、非常に年齢《とし》の違った、しかも鬢髪《びんぱつ》の既に半ば白い自分のようなものに対《むか》って、彼女の小さな胸を展《ひろ》げて見せるということが有り得るであろうかと。そう思う度に、岸本は節子が一人の男の児の母であることを想って見た。離れ易《やす》く忘れ易い男と女の間にあって、どれ程その関係が根深いものであるかをも想って見た。そこまで想像を持って行って見なければ、彼女の書いて寄す手紙はどうしても岸本の腑《ふ》に落ちないふしぶしが有った。
「子供を持つとああいうものかしら――」
 何時《いつ》の間にか岸本は思い出したくないことを思い出して、独りで部屋の内に茫然《ぼうぜん》と腰掛けていた。彼は、節子が不義の観念を打消すことによって彼女の母性を護ろうとしているのではないかと疑った。遠く離れて節子のことを考える度に、彼は罪の深いあわれさを感ずるばかりでなかった。同時に言いあらわし難い恐怖《おそれ》をすら感ずるように成った。
 部屋の扉《と》を外から叩《たた》く音がした。岸本は椅子を離れて扉を開けに行った。

        八十八

 扉《と》を叩いたのは岡であった。新しい展覧会の催しがあると言っては誘いに来てくれ、マデラインの寺院《おてら》に近い美術商店に新画が掛替ったと言っては誘いに来てくれるこの画家の顔を見ると、岸本も気を取直した。岡は国へ帰りたくないというような思い屈したものばかりでなく、何時でも血気|壮《さかん》な若々しいものを一緒に岸本の許《もと》へ持って来た。
「岡君、君はアベラアルのことを聞いたことは有りませんか」
 と岸本が言出した。
 古い歴史の多い巴里に居て見るとこの大きな蔵のような都からは何が出て来るか知れないということから始めて、岸本はアベラアルとエロイズの事蹟《じせき》が青年時代の自分の心を強く引きつけたこと、巴里に来て見るとあのアベラアルが往昔《むかし》ソルボンヌの先生であったこと、あの名高い中世紀の坊さんあたりの時代から今のソルボンヌの学問の開けて来たこと、それから巴里のペエル・ラセエズの墓地にあの二人の情人の墓を見つけた時の驚きと喜びとを岡に語った。
「この下宿には今、柳という博士も飯だけ食いに通って来ています。千村君の居たホテルに泊っています。矢張《やはり》京都の大学の先生でサ。その柳博士に、隣に居る高瀬君に、僕と、三人でペエル・ラセエズを訪《たず》ねて見ましたよ。なかなか好い墓地でした。突当りには『死の記念碑』とした大理石の彫刻もあったし、丘に倚《よ》ったような眺望《ちょうぼう》の好い地勢で、礼拝《らいはい》堂のある丘の上からは巴里もよく見えました。散々僕等は探し廻った揚句に、古い御堂の前へ行って立ちました。それが君、アベラアルとエロイズの墓サ。二人の寝像《しんぞう》が御堂の内に置いてあって、その横手のところには文字が掲げてありました。この人達は終生変ることのない精神的な愛情をかわしたなんて書いてありましたっけ。まあ比翼塚《ひよくづか》のようなものですね。でも君、青苔《あおごけ》の生《は》えた墓石に二人の名前が彫りつけてでもあって、それを訪ねて行くんなら比翼塚の感じもするが、どうしてそんなものじゃない。男と女の寝像が堂々と枕を並べているから驚く。『さすがにアムウルの国だ』なんて、高瀬君が言って笑いましたっけ」
 この岸本の旅らしい話は岡を微笑《ほほえ》ませた。岸本は言葉を継いで、
「しかし、カトリックの国でなければ見られないような、古めかしい、物静かな御堂でしたよ。御参りに行くような人も君、沢山あると見えて、その御堂を囲繞《とりま》いた鉄柵《てっさく》のところには男や女の名が一ぱいに書きつけて有りましたっけ。ああいうところは西洋も日本も同じですね。皆あの二人の運命にあやかりたいんですね――」
 そこまで話して行くと、岡は岸本の言葉を遮《さえぎ》った。
「岸本さん、あなたはどう思うんです。あなたの年齢《とし》になっても、まだ恋を想像するようなものでしょうか」
「そりゃ君、年をとれば取ったで、ずっと若い時分とは違った、複雑な恋愛の境地があるとは僕も考えるね。しかし、恋なんてことは最早《もう》二度と僕には来そうも無い」
 若かった日の岸本はこんな話を口にするさえ直《す》ぐ顔が紅《あか》くなった。まだ昔のように熱い涙の流れて来るようなことは有っても、彼の頬《ほお》は最早めったに染まらなかった。

        八十九

「岸本さん、僕は御願いがあって来ました」とその時になって岡が言った。「実は僕はまだ今朝から食いません」
 岸本は眼を円《まる》くして岡の方を見た。旅に来ては互に助けたり助けられたりする間柄で、こんなことはめずらしくは無かったが、あまりに率直な岡の調子が岸本を驚かした。彼はこの話好きな画家が「飢」を側《わき》に置いて、「恋」に就《つ》いて語っていたことを知った。
「岡君も有る時には有るが、無い時にはまた莫迦《ばか》に無い人だねえ」と岸本は心易《こころやす》い調子で言って笑った。「まあ、どうにかしようじゃないか。そんなら君はシモンヌの家で昼食《ひる》でもやりながら待っていてくれ給え。僕は直ぐに後から出掛けて行きますから」
 岸本の旅も足りたり、足りなかったりであった。それは高瀬のような旅とも違って、多くの月日の間には故郷の方の事情の変って行くところからも来、巴里《パリ》に来て出来るつもりの仕事がとかく果せないところからも来ていた。
「外国に来て困るのは、ほんとに困るんだからなあ」こんなことを独《ひと》りで言って見て、一歩《ひとあし》先に出て行った岡の後を追った。
 シモンヌの家へ行って見ると、例の奥まった部屋の片隅《かたすみ》には亭主から給仕まで一緒に集って、客商売の家らしく可成《かなり》遅い食卓に就ていた。シモンヌはますます可愛らしい娘になって行った。彼女は母親の傍《そば》に腰掛けて仏蘭西《フランス》の麺麭《パン》なぞを頬張《ほおば》りながら喰《く》っていた。この家族の食事するさまを楽しげに眺《なが》めながら、同じ部屋に居て岡も簡単な昼食を始めていた。そこへ岸本はいくらかの用意したものを持って行った。
 牧野、小竹の二人がこの珈琲店《コーヒーてん》に落合ってから、岡は余計に元気づいた。三人の画家の中でも、小竹が一番|年長《としうえ》で、その次が岡、牧野の年順らしかった。牧野も、小竹も、岸本に取っては国の方で名前を聞いていた人達であった。牧野には、岸本はもっと激烈な人を想像していた。逢《あ》って見た牧野は存外やさしい、綿密な、しかも気鋭な美術家であった。光沢《つや》のある頬《ほお》の色は紅味勝《あかみが》ちな髪の毛と好く調和して、一層この人を若々しく見せた。小竹には、岸本はもっと親しみ難《にく》いような人を想像していた。旅で一緒に成った小竹は直ぐにも親しめそうな、人を毛嫌《けぎら》いするところの少い美術家で、誰にでも好かれそうな沈着な性質を見せていた。二人は巴里へ来てまだ月日も浅し、旅らしい洋服までが黒い煤《すす》にも汚れずにあった。
「牧野は矢張《やっぱり》牧野だ。もっと弱ってでも来るかと思ったら、君の元気なのには感心した」と岡が言った。
「そりゃ岡なんかとは違うよ」と牧野は戯れるように。
「こうして集って見ると、矢張僕が一番|年長《うえ》かなあ」と岸本が言った。
「岸本さんなぞは、もう老人の部ですよ」と復《ま》た牧野が戯れるように言って笑った。
「でも、国の方に居るとこんなに皆《みんな》集るようなことも無いし、何と言っても旅は面白いね」と小竹が言った。「岡の贔顧《ひいき》なマドマゼエルもよく拝見したしサ――」
「とにかく旅に来ると、自分というものを省るようには成るね」と岡はやや真面目《まじめ》になって答えた。しばらく岸本はこの人達と一緒に楽しい時を送っていた。彼は、何を見聞《みきき》しても面白そうな心にわだかまりの無い牧野や小竹を羨《うらや》ましく思った。

        九十

 国の方に残して置いて来た子供のことも心に掛って、遠く離れている泉太や繁を養うためにも、岸本は果したいと思う仕事を客舎で急ごうとした。七月も下旬に入った頃であった。窓の外へは時々雷雨が来て、どうかすると日中に燈火《あかり》を欲しいほど急に部屋の内を暗くすることも有った。岸本が稿を継ごうとしたのは東京浅草の以前の書斎で書きかけた自伝の一部ともいうべきものであった。部屋に居て机に対《むか》って見ると、その稿を起した頃の心持が、まだこの旅を思立たない前に恐ろしい嵐《あらし》の身に迫って来た頃の心持が、あの浅草の二階でこれが自分の筆の執り納めであるかも知れないと思った頃の心持が、岸本の胸の中を往来した。巴里の客舎にあって、もう一度その稿を継ぐことが出来ると考えるさえ彼には不思議のようであった。
 岸本がアウストリア対セルビア宣戦の布告を読んだのは、丁度その自分の仕事に取掛っている時であった。一日は一日より何となく町々の様子がおだやかでなくなって来た。不思議な、圧《お》しつけるような、底気味の悪い沈黙は町々を支配し始めた。岸本が毎日食堂で見る顔触《かおぶれ》は、産科病院|側《わき》の旅館から通って来る柳博士に隣室の高瀬の二人で、若い独逸《ドイツ》人の客は最早《もう》見えなかった。食堂へ集る度に、高瀬等と岸本とは互いに不思議な顔を見合せるように成って行った。
 来《きた》るべき大きな出来事の破裂を暗示するような不安な空気の中で、岸本は仕事を急いだ。あのノルマンディ生れの仏蘭西の作家が「聖アントワンヌの誘惑」を起稿したのは普仏戦争の最中で、巴里の籠城《ろうじょう》中に筆を執ったとやら。丁度あの作家は五十歳でその創作を思い立ったとやら。岸本はそんなことを旅の身に想像し、国の方に居る頃から友達とよく話し合ったあの作家が四十何年か前には巴里で物を書いていたことを想像し、それによって自分を慰め励まそうとした。時々彼は執りかけた筆を置いて、部屋の窓へ行って見た。驟雨《しゅうう》のまさに来ようとする前のようなシーンとした静かさが感じられた。食堂の方へも行って見た。そこには、おそろしく倹約に暮している下宿の主婦《かみさん》が、燈火《あかり》を点《つ》け惜んで、薄暗い食堂の隅《すみ》に前途の不安を思いながらションボリ立っていた。
「岸本さん、御覧なさい、あれは何かの前兆です」
 と主婦は食堂の窓の側に立って、黄昏時《たそがれどき》の空気のために紅味勝《あかみが》ちな紫色に染まった産科病院の建築物《たてもの》を岸本に指《さ》して見せた。主婦の姪《めい》でリモオジュの田舎《いなか》の方から来ている髪の赤く縮れた娘も一緒にその窓から血の色のような夕映《ゆうやけ》を眺めた。
「戦争は避けられないかも知れませんよ」
 と言って主婦は仏蘭西人らしく肩を動《ゆす》って見せた。
 アウストリア対セルビア宣戦の日から数えて六日目頃に、漸《ようや》く岸本は国の方へ郵便で送るだけの仕事の一部を終った。日頃|往来《ゆきき》の人の多い並木街も何となく寂しく、出歩くものすら少かった。

        九十一

 平和な巴里の舞台は実に急激な勢いをもって変って行った。今日動員令が下るか明日下るかと噂《うわさ》されていた頃に、岸本は高瀬と連立って白耳義《ベルジック》行の人を北の停車場《ステーション》まで送りに行った。序《ついで》に東の停車場へも立寄って見た。その停車場内の掲示の前で、仏独国境の交通は既に断絶し、鉄道も電線も不通に成ってしまったことを知った。巴里を立退《たちの》こうとしてその停車場に群がり集る独逸人もしくは墺地利《オーストリア》人はいずれも旅装束で、構内の敷石の上へ直接《じか》に足を投出し汽車の出るのを待っていた。岸本は自分の直ぐ眼前《めのまえ》で突然卒倒しかけた労働者風の男にも遭遇《でっくわ》した。荷物をかかえた旅客、別離《わかれ》を惜む人々、泣き腫《は》らした婦人の顔などまでが時局の急を告ぐるかのように見えた。岸本は高瀬と一緒に急いで下宿の方へ引返して来て、実に容易ならぬ場合に際会したことを思った。取あえず岸本は自分の部屋に籠《こも》って、国の方の義雄兄|宛《あて》に形勢の迫って来たことを書いた。今後のことは測り難いと書いた。子供のことは何分頼むと書いた。彼は東京にある二三の友人へもいそがしく手紙を認《したた》めたが、西伯利亜《シベリア》経由とした故国からの郵便物は既にもう途絶していることをも知った。
 夕方に、町へ出て見た。彼は早や大きな戦争を予想して悲壮な感じに打たれているような市民の渦の中に立った。そこここに貼付《てんぷ》された三色旗の印刷してある動員令、大統領の諭告《ゆこく》、貨物輸出の禁止令などを読もうとする人達が、今まで鳴《なり》を潜めて沈まり返っていたような町々に満ち溢《あふ》れた。何となく殺気を帯びて来た人々の歩調も忙しげに岸本の胸を打った。夫や、兄弟や、あるいは情人の身を案じ顔な婦女《おんな》までが息をはずませてその間を往《い》ったり来たりした。
 僅《わず》か一週間ばかりの間に岸本はこんな空気の中に居た。急激な周囲の変化はあだかも舞台面の廻転によって劇の光景の一変するにも等しいものがあった。名高い社会党の首領で平和論者であった仏蘭西人が戦争の序幕の中に倒れて行ったことは一層この劇的な光景を物凄《ものすご》くした。岸本は自分の部屋へ行って独りでいろいろなことを思った。遠く故国を離れて来て図らず動乱の中に立った自分の旅の身に思い当った。夜の十一時頃には雨が降出して、窓から外に見える並木も暗かった。

        九十二

 壮丁《そうてい》という壮丁は続々国境に向いつつあった。出征する兵士の並木街を通るような光景が既に二日ばかりも続いた。早《はや》独逸軍の斥候《せっこう》が東仏蘭西の境を侵したという報知《しらせ》すら伝わっていた。下宿では主婦《かみさん》も、主婦の姪も食堂の窓のところへ行って、街路《まち》を通る歩兵の一隊を見送ろうとした。岸本が同じ窓に近く行った時は、主婦は彼の方を振向いて、
「岸本さん、争われないものじゃ有りませんか。吾家《うち》に居た若い独逸人の客が、ちゃんと戦争を知っていましたぜ。親の許《ところ》から手紙が来ると大急ぎで巴里を発《た》って行きましたぜ。確かにあの男は独探《どくたん》ですよ」
 と言いながら自分の鼻の側《そば》へ人差指を宛行《あてが》って見せた。さもさもあんな客を泊めたことを口惜しく思うかのように。
「ホラ、この町を毎日のようにうろうろした変な婦人《おんな》が有りましたろう。皆さんで『カロリイン夫人』だなんて綽名《あだな》をつけた婦人が有りましたろう。どうもあの婦人の様子がおかしいおかしいと思いました。あれは偽《うそ》の白痴ですよ。偽の婦人《おんな》ですよ。白粉《おしろい》なんかをいやに塗《つ》けてると思いましたが、今になって考えると、あれは男の顔ですよ」
 と復《ま》た主婦が言って見せた。疑心に駆《か》られたこの仏蘭西の女は自分の下宿の客ばかりでなく、町を徘徊《はいかい》した白痴の婦人までも独探にしてしまった。
 窓の外を通る兵士の群を見送った眼で主婦の姪を見ると、岸本はリモオジュの田舎《いなか》から出て来たこの娘が紅く顔を泣腫《なきはら》しているのに気がついた。彼女の兄も許婚《いいなずけ》にあたる人も共に出征の途に上るであろうと主婦が岸本に言って聞かせた。岸本は自分の部屋へ行った。列をつくって通る召集された市民の群はその窓の外に続いた。いずれも鳥打帽子を冠《かぶ》り、小荷物を提《さ》げ、仏蘭西の国歌を歌って、並木のかげに立つ婦子供《おんなこども》に別離《わかれ》の叫声を掛けては通過ぎた。一切の乗合自動車も軍用のために徴発され、モン・トオロン行の車の響も絶えた。十八歳から四十七歳までの男児は皆この戦争に参加するとのことで、それらの人達を根こそぎ持って行こうとするような大きな潮が流れ去ろうとしていた。
 巴里在留の外国人で立退きたいと思うものは早く去れ、独逸もしくは墺地利《オーストリア》以外の国籍を有するものは在留を許すとのことであった。この出来事につけても、従軍の志望がしきりに岸本の胸中を往来した。所詮《しょせん》国へは帰れないと思う心の彼は、進んで戦地の方へ出掛けたいと願ったが、身を苦めることばかり多くて思わしい通信を書くことも出来なかろう、と思い直しては自己《おのれ》を制《おさ》えた。戒厳令《かいげんれい》は既に布《し》かれ、巴里の城門は堅く閉され、旅行も全く不可能になった。事実に於《お》いて彼は早や籠城《ろうじょう》する身に等しかった。

        九十三

 到頭岸本は一年余の巴里を離れたいと思立つように成った。動員令が下ってから三週間あまりというものは何事《なんに》も手に着かなかった。昨日は白耳義《ベルジック》ナミュウルの要塞《ようさい》が危いとか今日は独逸軍の先鋒《せんぽう》が国境のリイルに迫ったとか、そういう戦報を朝に晩に待受ける空気の中にあっては、唯々《ただただ》市民と一緒に成って心配を分け、在留する同胞の無事な顔を見て互いに前途のことを語るの外は無かった。隣室の高瀬が柳博士と連立って英国|倫敦《ロンドン》へ向け戦乱を避けようとする際に、岸本も同行を勧められたが、彼はむしろ仏蘭西の田舎へ行くことにして、北の停車場で高瀬と手を分った。敵の飛行船が巴里に襲って来た最初の晩は眠られなかったという画家の小竹も、その一行に加わって八月の半には既に英吉利《イギリス》海峡を越えて行った。
 岸本が知っている僅《わず》かの仏蘭西人の中でも、ビヨンクウルの書記はヴェルサイユの兵営の方にあり、ラペエの詩人は巴里の自動車隊に加わり、ブロッスの教授は戦地の方へ行った二人の子息《むすこ》の身の上を案じつつあった。ビヨンクウルの書記からは特に兵営から岸本の許へ手紙をくれ、われらは互いに同じ聯合軍《れんごうぐん》の側に立つと考えるのも嬉しいと書いてよこした。東京にある滝新夫人(老婦人の姪)からも夫と一緒に仏蘭西へ来遊の意を伝えて来たが、この戦争ではどうすることが出来ようと書いてよこした。岸本の隣室を借りて寝泊りしていた控訴院付の弁護士も何時《いつ》の間にか見えなくなった。例の「シモンヌの家」の珈琲店《コーヒーてん》の主人、下宿の家番の亭主、これらの人達までがいずれも戦地を指して出発した。
 露西亜軍《ロシアぐん》が東独逸に入ったという戦報の伝わった日は、岸本は自分の部屋に居て荷造りに日を暮した。彼の下宿では半ば引越しの騒ぎをした。主婦《かみさん》も、主婦の姪《めい》も、彼よりは一日|前《さき》にリモオジュへ向けて発《た》って行った。一部の旅行が許されるように成ったので、彼も下宿の人達に誘われて主婦の郷里の方へ出掛けることにした。これを機会に仏蘭西の田舎をも見ようとした。戦争以来旅行も不自由になった。旅客一人につき三十キロ以上の手荷物は許されなかった。早くやって来るリモオジュの方の寒さを予想して彼は自分の両手に提げられるだけの衣類を鞄《かばん》に入れて持って行こうとした。書籍なぞは皆置捨てる思いをした。蝉《せみ》の声一つ聞かない巴里の町中でも最早何となく秋の空気が通って来ていた。部屋の壁に残った蠅《はえ》は来て旅の鞄に取付いた。
 寂しい夕方が来た。岸本は独りぎりで部屋に残って、ともかくも一年余を遠い旅に暮したことを思い、消息の絶え果てた故国のことを思い、せめて巴里を去る前に短い便《たよ》りなりとも国の方の新聞|宛《あて》に書送ろうとして鞄の側に腰掛けて見ると、無暗《むやみ》と神経は亢奮《こうふん》するばかりで僅に東京の留守宅へ宛てた手紙を書くに止《とど》めてしまった。宵の明星の姿が窓の外の空にあった。時々その一点の星の光を見ようとして窓側《まどぎわ》に立つと、凄《すさま》じい群集の仏蘭西国歌を歌って通る声が街路《まち》の方に起った。夜の九時といえば町々は早《はや》寂しく、燈火の数も減り、饑《う》えた犬の鳴声が何となく彼の耳についた。この都会に残っている人達はどうなるだろう、婦女《おんな》はどんな目に逢うだろう、それを思うと普仏戦争の当時巴里の籠城をした人達は暗い穴蔵のような地下室に隠れて鼠《ねずみ》まで殺して食ったと言われているが、それと同じような日が復た来るだろうかとは、考えたばかりでも恐ろしいことであった。翌朝の早い出発を思って、彼はろくろく眠らなかった。

        九十四

 ドルセエの河岸《かし》の停車場《ステーション》から岸本は汽車で出掛けた。この田舎行には彼は牧野の外に巴里在留の三人の画家をも伴った。戦争は偶然にも巴里のような大きな都会の響からしばらく逃《のが》れ去る機会を彼に与えた。あの石造の街路を軋《きし》る電車と自動車と荷馬車との恐ろしげな響から。あの層々|相重《あいかさ》なる窮屈な石造の建築物《たてもの》から。あの人を弱くするような密集した群集の空気から。
 同行五人の旅は汽車の中をも楽しくした。前の年の五月に岸本がマルセエユからリオンへ、リオンから巴里へと向った時は殆《ほと》んど夜中の汽車旅であったから、今度の車窓に映るものは初めて見るもののみのようであった。彼は仏蘭西中部の平坦《へいたん》な耕地、牧場、それから森なぞをめずらしく見て行った。オート・ヴィエンヌ州に近づくにつれて故国の方の甲州や信州地方で見るような高峻《こうしゅん》な山岳を望むことは出来ないまでも、一年余を巴里に送った身には久しぶりで地方らしい空気を吸うことが出来た。途中の停車場で負傷兵を満載した列車にも逢った。戦地の方から送られて来たそれらの負傷兵は白耳義《ベルジック》方面の戦いの激しさを事実に於いて語って見せていた。
 七時間ばかりもかかって岸本は連《つれ》と一緒にリモオジュの停車場に着いた。丁度出征する軍人を見送るために町の人達が停車場の附近に集っている時で、生れて初めて日本人というものを見るかのような土地の男や女が右からも左からも岸本等の顔を覗《のぞ》きに来た。
 一日先にこの田舎町へ着いていた巴里の下宿の主婦《かみさん》は停車場まで姪《めい》をよこしてくれた。主婦は姉にあたる人の家で牧野や岸本を待受けていてくれたが、まだ部屋の用意が出来なかった。岸本等は停車場前の宿屋でその日を送ることにした。食事にだけ来いと言って、夕方には主婦の甥子《おいご》が使に来たので、五人の一行は町はずれの家の方へ歩いて行った。日本人のめずらしい土地の子供等は後《あと》になり前《さき》になりしてぞろぞろ随《つ》いて来た。岸本が巴里から一緒にやって来た美術家の中には極《ごく》旅慣れた人も居た。あまりに土地の子供等が煩《うるさ》く随いて来て、どうかすると後方《うしろ》から駆け抜けるようにしては五人の顔を見ようとするので、その画家はわざと子供等の方へ大きな眼球《めだま》を突き付けながら、
「御覧」
 と戯れて見せたこともあった。岸本等が着いたことはこれ程土地の人にはめずらしかった。入口の庭には葡萄棚《ぶどうだな》があり裏には野菜|畠《ばたけ》のあるような田舎風の家で、岸本は巴里の方から来た主婦や主婦の姪と一緒に成った。
「この一番|年長《としうえ》の方が岸本さんです。こちらは牧野さんと仰《おっしゃ》って矢張《やはり》巴里に来ていらっしゃる美術家です」
 こんなことを言って、主婦は姉という人に岸本等を引合わせた。黒い仏蘭西風の衣裳《いしょう》を着けた背の低いお婆さんは物静かな調子で一々遠来の客を迎えた。
 土地の子供の煩さかったことは、葡萄棚に近く窓のある食堂で岸本等が楽しい夕飯に有付《ありつ》いた時にも石垣の外から覗きに来るものがあるくらいであった。こうした場所にも関《かか》わらず、停車場前に戻り、そこに一夜を送って、サン・テチエンヌ寺の塔を宿屋の窓の外に望みながら朝霧の中に鶏の声を聞いた時は、実に彼は胸一ぱいに好い空気を呼吸することの出来る静かな田舎に身を置き得た心地《ここち》がした。

        九十五

 国を出て早や十五カ月ほどに成った。十五カ月とは言っても岸本に取っては随分長い月日であった。過ぐる十五カ月は三年にも四年にも当るように思われた。彼はもう可成《かなり》長い月日の間、故国を見ずに暮したように思った。その間、日頃親しかった人々の誰の顔を見ることも出来ず、誰の声を聞くことも出来ずに暮したように思った。彼は歩きづめに歩いてまで宿屋に辿《たど》り着くことの出来ない旅人のように自分の身を考えた。この仏蘭西《フランス》の田舎《いなか》へは彼は心から多くの希望《のぞみ》をかけて来た。何よりも彼の願いは、たましいを落着けたいと思うことであった。どうやらその願いが叶《かな》いそうにも見えて来た。「君はこんな田舎が好いのか。ここにはブルタアニュの海岸に見つけるほどの野趣も無いではないか。そうかと言って田舎の都会らしい潤いにすらも乏しいではないか。ここは思いの外、平凡な土地ではないか」こう巴里《パリ》から一緒に来た美術家の一人が彼に向って訊《き》いたくらいである。それにも拘《かかわ》らずサン・テチエンヌ寺の立つ高い岡の上に登ってあの古い寺院を背後《うしろ》にした眺望《ちょうぼう》の好い遊園の石垣の上から耕作と牧畜との地たるリモオジュの町はずれを眺《なが》めた日から、しみじみ欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》の旅のことが思われた。ヴィエンヌ河はその町はずれを流れていた。仏蘭西の国道に添うて架《か》けてある石橋、騾馬《らば》に引かせて河岸《かし》の並木の間を通る小さな荷馬車なぞが眼の下に見える。彼はその石垣の上からしばらく自分の宿とする田舎家までも見ることは出来なかったまでも、耕地の多い対岸の傾斜に並ぶ仏蘭西の田舎らしい赤瓦《あかがわら》の屋根を望むことは出来た。
 仏国オート・ヴィエンヌ州、リモオジュ町、バビロン新道《しんみち》、そこが岸本の牧野と一緒に宿をとったところだ。彼は喇叭《らっぱ》を吹いて新聞を売りに来る女のあるような在郷臭《ざいごくさ》い町はずれへ来ていた。その家の二階に沈着《おちつ》いて三日目に、彼は巴里にある岡から手紙を受取って、非常に形勢の迫ったことを知った。急いで書いたらしい岡の手紙の中には、「巴里に帰ることを止《や》めらるべし、必ず」としてあった。巴里に在留する三人の美術家は英国へ逃《のが》れようとして不可能となったともしてあった。

        九十六

 岡からは牧野岸本両名|宛《あて》で同時に別の手紙が来た。
「到頭巴里|立退《たちの》きの幕と成った。既に仏蘭西政府は他へ移ったらしい。大使館でも昨夜書類の焼却などをやっていた。昨日午後|独逸《ドイツ》軍の飛行機が巴里市に六つの爆弾を落した。一つはガアル・ド・リオンに、一つは東の停車場に、一つはサン・マルタンの商店をこわした。最早《もはや》巴里包囲は免れぬらしい。敵の騎兵《きへい》は八十キロメエトルの処まで来ている。昨夜一同集合して最終の相談をして、今日の具合で英国へ渡れなければリオンに一同出発する。今日の中にはとにかく巴里を出る。かかる訳で君等の荷物も、無論|吾儕《われわれ》のもそのまま置捨てることにした。ああ巴里も、わが巴里も、遂《つい》に独逸の奴原《やつばら》に蹂躙《じゅうりん》せらるるのか。小シモンヌが涙ぐんだのを見て巴里を離れるのは慚愧《ざんき》を感ずる。僕には此処《ここ》は旅の土だ。彼等には墳墓の地だ。感慨無量だ」
 巴里から同行した美術家仲間はこの手紙を見てリオンへ向けて発《た》って行った。リモオジュには牧野と岸本だけが残った。三日ばかり経《た》つと、巴里から最終の報告が来た。それを読んで岸本は巴里の天文台及びモン・パルナッスの附近にあった二十一人の同胞を一組とした絵画彫刻科学等の方面の人達が思い思いにあの都を立退いたことを知った。十一人は英国へ。一人は米国へ。二人はニスへ。一人はリオンへ。ディエップ行の列車も明日の朝の三時が最後だとか一歩遅れれば籠城《ろうじょう》の外はないと言われる中にあって、倫敦《ロンドン》へと志した人々があるいはアーヴル経由か、あるいはブルタアニュのサン・モアかと、戦乱を避け惑《まど》うた光景がその報告で想像された。市街の夜の燈火が悉《ことごと》く消され、ブウロンニュの森には牛、豚、羊の群が籠城の食糧の用意に集められたという巴里を美術家仲間で最終に去ったのは岡と今一人の彫刻家であったらしいことをも知った。在留した同胞の殆《ほと》んどすべては既に巴里を去ったことをも知った。
 リオン行の美術家仲間からも汽車旅の混雑と不安とを岸本の許《もと》へ知らせて来た。それで見ると、車掌さえ行先を知らない列車に幾度か乗換え六箇所の停車場で三時間あるいは六時間を待ち都合四十時間もかかって漸《ようや》くリモオジュからリオンに辿《たど》り着くことが出来たとしてあった。岸本等の宿へは、主婦《かみさん》の姉の娘夫婦にあたる人達が巴里から避難して来た。この人達は岸本等が七時間で来たリモオジュまでの汽車旅に三十時間を費したと話した。巴里ばかりでなく北の国境の方からの多数な避難者の群は荷物列車にまで溢《あふ》れているとの話もあった。
「僕等はまだ好いとしても、独逸の方に居た連中はさぞ困ったろうね――」
 と岸本は隣室の牧野を見る度《たび》に言い合った。仏独国境の交通断絶以来全く消息を知ることの出来なかった伯林《ベルリン》の千村教授や、ミュウニッヒの慶応の留学生が倫敦《ロンドン》に落ち延びたことも分って来た。欧羅巴へ来てから岸本が知るように成った同胞の多くは皆戦争の為にちりぢりばらばらに成ってしまった。
 前途のことは言うことが出来なかった。しかし岸本と牧野とは宿の人達の厚意で比較的安全な位置に身を置くことが出来た。主婦は岸本のために何処《どこ》からか机を借りて来て、それを二階の部屋の窓の側に置いてくれた。蔓《つる》の延びて来ている葡萄棚《ぶどうだな》を越して窓の外にはバビロン新道が見えた。岡の地勢を成した牧場はその新道まで迫って来ていて、どうかすると赤い崖《がけ》の上へ来る牛の顔が窓の硝子《ガラス》に映った。

        九十七

 大風の吹き去った後のような寂しさはこの田舎にもあった。働き盛りの男子は皆|畠《はたけ》や牧場を去り、馬は徴発され、小屋も空《むな》しくなり、陶器の工場も閉《とざ》され、商家も多く休み、中学や商業学校の校舎まで戦地の方から送られて来る負傷兵のための収容所となっていた。岸本の眼に触れるものは何一つとして戦時らしい田舎の光景でないものは無かった。野菜畠には戦地にある子を思い顔な老人が耕していた。麦畠には婦女《おんな》の手だけで収穫《とりいれ》の始末をしようとする人達が働いていた。
 ヴィエンヌ河の岸に沿うて高く立つサン・テチエンヌ寺への坂道の角には、十字を彫り刻んだ石の辻堂《つじどう》がある。香華《こうげ》を具《そな》えた聖母マリアの像がその辻堂の中に祠《まつ》ってある。体縮み脊髄《せぼね》の跼《くぐま》った老婆が堂の前で細長い蝋燭《ろうそく》を売っている。その蝋燭の日中に並び点《とぼ》る火影《ほかげ》には、黒い着物のまま石段の上にひざまずいて、戦地にある人のために無事を祈ろうとするような年若な女も居た。
 従軍の志望を果さなかった岸本はこのリモオジュの町はずれへ来てから、巴里の方で見聞《みきき》した開戦当時の光景や、在留する同胞の消息や、牧野等と一緒にあの都を立退くまでの籠城の日記とも言うべきものを書いて故国に居て心配する人達のために報告を送ろうとした。時々彼は筆を措《お》いて家の周囲《まわり》を歩き廻った。梨《なし》、桃は既に熟し林檎《りんご》の実もまさに熟しかけている野菜畠の間を歩いても、紅《あか》い薔薇《ばら》や白い夾竹桃《きょうちくとう》の花のさかんに香気を放つ石垣の側を歩いても、あるいはこのあたりに多い羊の群の飼われる牧場の方へ歩き廻りに行っても、彼は旅らしい心地《こころもち》を味《あじわ》うに事を欠かなかった。そういう折には彼はよく主婦の甥子《おいご》に当るエドワアルをも伴った。
「ムッシュウなんて彼《あれ》のことを御呼びに成らないで、エドワアルと呼捨になすって下さい。あれはまだほんの子供ですから」
 と主婦は十六ばかりになる少年を前に置いて言ったが、牧野も岸本も相変らず「ムッシュウ、ムッシュウ」と呼んで土地の事情に精《くわ》しいその少年を朝晩に相手とした。牧野は近くにある牧場を選んで画作に取りかかった。そこへ岸本が歩いて行って見る度に、必《きっ》と牧野の後に足を投出して眼前《めのまえ》の風景と画布《カンバス》とを見比べているエドワアルを見つけた。岡の地勢を成した牧場の内《なか》の樹木から遠景に見えるリモオジュの町々、古い寺院の塔などが牧野の画の中に取入れられてあった。牛の踏みちらした牧場の草地へはところどころに白い鶏の来るのも見えた。岸本がそこへ行って草を藉《し》き足を投出して見た時は、あの四時間も五時間も高瀬と一緒に警察署の側《わき》に立ちつづけたような巴里の混乱から逃《のが》れて来たというばかりでなく、仏蘭西の旅に来てからの初めての休息らしい休息をそのヴィエンヌの河畔に見つけたように思った。

        九十八

 二月《ふたつき》近く静かな田舎に暮して見ると、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》のことばかりでなく、国を出た当時のことまでが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。彼はそう思った。仮りに人生の審判があって、自分もまた一被告として立たせらるるという場合に当り、いかなる心理を盾《たて》として自己《おのれ》の内部《なか》に起って来たことを言い尽すことが出来ようかと。何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような一生の危機に際会したものが、どうして明白な、条理《すじみち》の立った、矛盾の無い、道理に叶《かな》ったことが言えよう。長い限りの無い悪夢にでも襲われたようにして起って来た恐怖――親戚《しんせき》や友人に対してさえ制《おさ》えることの出来なかった猜疑心《さいぎしん》――眼に見えない迫害の力の前に恐れ戦《おのの》いた彼のたましい――夢のように急いで来た遠い波の上――知らない人の中へ行こうとのみした名のつけようの無い悲哀――何という恐ろしい眼に遭遇《であ》ったろう。何という心の狼狽《ろうばい》を重ねたろう。何という一生の失敗だったろう。この深い感銘は時と共にますますはっきりとして来ることは有っても、薄らいで行くようなものでは無かった。しかし一時のような激しい精神《こころ》の動揺は次第に彼から離れて行った。不幸な姪《めい》に対する心地《こころもち》のみが残るように成って行った。その時になって彼は心静かに自分の行為《おこない》を振返って見た。どうかして生きたいと思うばかりに犯した罪を葬り隠そう葬り隠そうとした彼は、仮令《たとえ》いかなる苦難を負おうとも、一度姪に負わせた深傷《ふかで》や自分の生涯に留めた汚点をどうすることも出来ないかのように思って来た。彼は自分を責めれば責めるほど、涙ぐましいような気にさえ成った。
 その心で、岸本は田舎家の裏にある野菜畠へ行った。一すじの小径《こみち》を中央にして両側に果樹の多く植てある畠の中を歩いて見た。そこは牧野とも一緒によく休みに来て、生《な》っている桃を枝から直《す》ぐにもぎ取っては味ったり、土の香気《におい》を嗅《か》ぎながら歩き廻ったりするところであった。最早《もう》十月下旬の季節が来ていた。枝にある仏蘭西の青梨は薄紅《うすあか》く色づいたのが沢山生り下っていたばかりでは無く、どうかすると熟した果実《くだもの》は秋風に揺れて、まるで石でも落ちるように彼の足許《あしもと》へ落ちるのもあった。
 その畠は一方は町はずれの細い抜道に接し、他の一方は田舎風の赤い瓦屋根《かわらやね》の見える隣家の裏庭に続いていた。岸本は木の靴なぞを穿《は》いて通る人の足音を一方の抜道の方に聞き、野菜畠の中から伝わって来る耕作の鍬《くわ》の音を一方の裏庭の方に聞きながら、桃や梨の樹の間を歩いて新しい果実の香気《におい》を嗅ぎ廻った。あだかも成熟した樹木の生命《いのち》を胸一ぱいに自分の身に受納《うけい》れようとするかのように。
 オート・ヴィエンヌの秋は何となく柔かな新しい心を岸本に起させた。彼は長い年月の間ほとほと失いかけていた生活の興味をすら回復した。仮令《たとえ》罪過は依然として彼の内部《なか》に生きているようなものであっても、彼はいくらか柔かな心でもって、それに対《むか》うことが出来るように成った。

        九十九

 四十日も要《かか》って来る郵便物がボツボツ届くように成ってから、岸本は戦時以来全く絶え果てた故国の消息をリモオジュの田舎に居て知る事が出来た。欧洲の戦乱はどんなに東京の方の留守宅の人達を驚かしたであろう。節子からもそれを心配した手紙をくれた。岸本は彼女や子供に宛てて記念の絵葉書を送る気に成った。仮令《たとえ》僅《わず》かの言葉でもこうして姪の許《もと》へ書くというのは、旅に来てからの岸本には珍らしいことであった。彼は姪へ送るためにサン・テチエンヌ寺の遠景に見える絵葉書を選び、泉太へ送るために羊の群の見える牧場のついた絵葉書を選んだ。前のはヴィエンヌ河の手前から取った風景で、樹木から道路から橋までが彼には既に親しみのあるものであり、遠く古い石塔の聳《そび》え立つ寺院《おてら》は弥撒《メス》などのある度《たび》によく彼の行って腰掛ける場処であった。後のは森を背景にした牧場のさまで、遠く森の間に一軒の田舎家も見えた。浅い谷間の草を食いに来る羊の群、その柔和な長い耳、細い足――そうしためずらしい仏蘭西の田舎の光景《ありさま》は国の方に留守居する子供等の眼を悦《よろこ》ばすであろうと思われた。すこし行けばツウルウズ街道(仏蘭西国道)に出られる彼の宿の周囲には、その絵葉書に見るような牧場が行先に展《ひら》けていた。
 書いた葉書を投函《とうかん》するために岸本は宿を出た。日本人をめずらしがって煩《うるさ》く彼に附纏《つきまと》うた界隈《かいわい》の子供等も、二月ばかり経《た》つうちに彼を友達扱いにするものも多かった。ある町はずれまで行くと、そこには繩飛《なわと》びの仲間入を勧める小娘が集っていた。ポン・ナフという石橋の畔《たもと》まで歩いて行って見ると、そこには彼の側へ来て握手を求める男の児が居た。
「ムッシュウ」
 と呼んでよくその児は走り寄って来た。その児は彼が外出する度に立寄っては腰掛ける橋畔の小さな珈琲店《コーヒーてん》の一人|子息《むすこ》であった。
 ヴィエンヌ河はその石橋の下を流れていた。休息の時を送ろうとして岸本は水辺《みずべ》まで下りて行った。岸に並んで洗濯する婦女《おんな》の風俗などを見ても、田舎にある都会の町はずれとは思われないほど鄙《ひな》びたところであった。石の上で打つ砧《きぬた》の音も静かな水に響けて来た。しばらく岸本は戦争を外《よそ》に砧の音を聞いていた。その時、つと見知らぬ少年が彼の側へ来て声を掛けた。
「異人さん、すこし日本の方のことを聞かせて下さい」
 見ると小学校の上の組の生徒か、あるいはこの町にある簡易な商業学校の下の組の生徒かと思われるほどの年頃の少年だ。
「仏蘭西と日本と何方《どっち》が奇麗でしょう。日本の方が仏蘭西よりはもっと奇麗でしょうか」
 この少年の問は岸本を困らせた。
「そんなことが君、比べられるもんですか」と岸本が言った。「君の国だって奇麗なところも有り、そうで無いところも有るでしょう――僕等の国もその通りでさ」
「日本の海はどんな色でしょう」と復《ま》た少年が訊《き》いた。「黄色でしょうか」
「どうして君、青い色でさ――透明な青い色でさ――それは美しい海ですよ」
 怜悧《りこう》そうな少年の瞳《ひとみ》に見入りながら岸本がそう答えると、少年はまだ見たことのない東洋の果を想像するかのように、
「透明な青い色か」と繰返した。

        百

 ある日、復《ま》た岸本は同じ橋の畔へ出た。黄ばんだプラタアヌの並木の葉は最早毎日のように落ちた。そこは仏蘭西国道の続いて来ているところで、橋に近い石垣の上からはヴィエンヌ河の両岸を望むことも出来、国道の並木の間にサン・テチエンヌ寺の石塔を望むことも出来るような位置にあった。何となく疲れが出て仕事も休もうと思うような日には、岸本の足はよくその橋の畔にある小さな珈琲店へ向いた。彼はそこで温めてくれる一杯の濃い珈琲を味《あじわ》いながら、往来の角に立つ石造りの水道栓《すいどうせん》の柱を眺《なが》め、水瓶《みずがめ》を提《さ》げて集る婦女《おんな》を眺め、その辺に腰掛けて編物する老婆の鄙《ひな》びた風俗を眺めては、独りで時を送るのを楽みにした。白く斑《まだら》に剥《は》げたプラタアヌの太い幹の下あたりには、しきりと落葉を集め廻って遊んでいる子供の群も見えた。その中には拾い集めた落葉を岸本の腰掛ているところへ持って来て見せるほど慣れた二三の小娘もあった。近くの菓子屋で子供の悦《よろこ》びそうな菓子を一袋|奢《おご》ったのが始まりで、その小娘達は岸本を見掛ける度に側《そば》へ来るように成った。
「皆好い児だね。リモオジュのお土産《みやげ》にその葉を小父《おじ》さんが貰《もら》って行きましょうか」
 と岸本が言うと、小娘等は嬉《うれ》しげに並木の下の方へ飛んで行って、幾枚となく落葉を拾っては復た彼の側へ来た。小娘等が持って来たプラタアヌの葉の中には八つ手ほどの大きさのもあった。
「こんなに大きいのは貰っても困る。一番小さなやつを拾って来て下さい」
 と復た岸本が言うと、子供等は馳出《かけだ》して行って、「もう沢山、もう沢山」と彼の方で言っても聞入れないほど沢山なリモオジュ土産を彼の前にあるテエブルの上に置いて見せた。その小娘等に誘われて、こわごわ彼の方へ近づいて来たまだ馴《な》れない一人の女の児もあった。
「もっと日本人の傍《そば》へお出《いで》なさいよ」
 と他の小娘達に手を引かれて、神経質らしいその女の児も彼の前までやって来たが、急に朋輩《ほうばい》の手を振りほどいて一歩|引退《ひきさが》った。
「オオ、可恐《こわ》い」
 とその女の児は気味悪そうに岸本の方を見て言った。
「お出《いで》。丁度あなた方と同い年ぐらいな子供を小父さんも国の方に残して置いて来ました。この小父さんはそんなに可恐いものでは有りませんよ」
 こう岸本は言って、それから三人の小娘に歌を所望した。パトアと称《とな》える方言で出来た小唄のあることを彼は宿の主婦からも聞き、少年のエドワアルからも聞いていた。この岸本の所望は歌好きな小娘達を悦ばせた。遠く泉太や繁から離れて来ている旅の空で、無邪気な子供の口唇《くちびる》から仏蘭西の田舎の俗謡を聞いた時は、思わず岸本は涙が迫った。

        百一

 うちしめった秋らしい空気の中を岸本はバビロン新道《しんみち》の方へ引返して行った。丁度宿の前あたりで野外の画作を終って帰って来る牧野と一緒に成った。少年のエドワアルも牧野の代りに油絵具の箱なぞを肩に掛け、町はずれの国道の方から連立って帰って来た。
「復《ま》た好い画が一枚出来ましたよ」
 エドワアルはそれを岸本に言って見せ、入口の庭にある葡萄棚の下あたりを歩いている主婦《かみさん》にも言って見せた。
「リモオジュのお土産が沢山お出来に成りますね。ほんとに牧野さんのはずんずん描いておしまいなさる」
 と主婦が庭に居て言うと、主婦の姉さんも台所の窓から顔を出して年老いた婦人らしく皆の話すところを聞いていた。その背後《うしろ》から顔を見せる主婦の姪もあった。
 岸本は牧野と一緒に入口の石階《いしだん》を上って田舎家《いなかや》らしい楼梯《はしごだん》の欄《てすり》に添いながら二階の方へ行った。リモオジュの秋は牧野に取っても収穫の多かった時で、引継ぎ引継ぎ出来た風景や静物の画のまだよく乾《かわ》かないのが二階の部屋の壁を一面に占領したくらいであった。岸本は牧野の部屋に行って見る度に、先《ま》ずその油絵具の乾く強い香気《におい》に打たれた。牧野の旅の骨の折れるらしいことは岡に変らなかったが、気鋭で綿密なこの画家は岡が考え苦んで思わしい製作も出来ずにいる間に、どしどし画筆を着けながら疑問を解いて行くという風であった。旅に来て岸本が懇意に成った画家の中でも、岡と牧野とはそれほど気質を異にしていた。東京の方にある中野の友人の噂《うわさ》をしたり、倫敦《ロンドン》へ戦乱を避けて行った高瀬や岡や小竹の噂をしたり、時には夜遅くまで芸術上の談話に耽《ふけ》ったりして、田舎へ来てから岸本が唯《ただ》一人の親しい話相手であり、慰藉《いしゃ》と刺激とを与えてくれたのもこの牧野であった。
 野外の製作に疲れたらしい牧野が靴を脱ぐところを見て、岸本は自分の借りている部屋の方へ行った。橋の畔から帰りがけに聞いて来たヴィエンヌ河の水声はまだ彼の耳の底にあった。彼は巴里の狭苦しい下宿に身を置いたよりも、その田舎家の二階の部屋の方に反《かえ》って欧羅巴の旅らしい心持をしみじみと味うことが出来た。彼は親しみのある宿屋の燈火《ともしび》の前に漸くのことで自分を見つけた旅人のような気もしていた。飾りとても無い部屋で、唯一つある窓のところへ行けば朝晩の露に濡《ぬ》れる葡萄の葉が見られ、寝台の置いてある部屋の隅《すみ》へ行けば枕頭《まくらもと》に掛る黒い木製の十字架が見られ、暖炉の前に行けば幼い基督《キリスト》を抱いた聖母の画像が羅馬《ローマ》旧教の国らしく壁の上を飾っているぐらいに過ぎなかった。しかし彼はその部屋に居る心を移して、あの澱《よど》み果てた生活から身を起して来た東京浅草の以前の書斎の方へ直《す》ぐに自分を持って行って考えることも出来た。あの冷い壁を見つめたぎり、身動きすることも、家のものと口を利《き》くことも、二階から降りることすらも厭《いと》わしく思うように成った七年の生活の終りの方へ。あの光と、熱と、夢のない眠より外に願わしいことも無くなってしまったような懐疑《うたがい》の底の方へ。あの深夜に独り床上に坐して苦痛を苦痛と感ずる時こそ麻痺《まひ》して自ら知らざる状態にあるよりはより多く生くる時であると考えたような自分の身のどんづまりの方へ。あの「生の氷」に譬《たと》えて見た際涯《はてし》の無い寂寞《せきばく》の世界の方へ。あの極度の疲労の方へ。あの眼の眩《くら》むような生きながらの地獄の方へ。あの不幸な姪と一緒に堕《お》ちて行った畜生の道の方へ――
 不思議な幻覚が来た。その幻覚は仏蘭西の田舎家に見る部屋の壁を通して、夢のような世界の存在を岸本の心に暗示した。曾《かつ》ては彼が記憶に上るばかりでなく、彼の全身にまで上った多くの悲痛、厭悪《えんお》、畏怖《いふ》、艱難《かんなん》なる労苦、及び戦慄《せんりつ》――それらのものが皆燃えて、あだかも一面の焔《ほのお》のように眼前《めのまえ》の壁の面を流れて来たかと疑わせた。

        百二

 寺院《おてら》の鐘の音《ね》が響き渡った。ツッサン(死者の祭)の日の来たことを知らせるその鐘の音は樹木の多い町はずれの空を通して、静な煙の立登る赤瓦の屋根の間へも伝わり、黄葉の萎《しお》れ落ちた畠《はたけ》へも伝わって来た。バビロン新道の宿でもその日は鉢植《はちうえ》の菊などを用意し、主婦《かみさん》や少年のエドワアルが墓参りのために近くにある村の方へ出掛けようとしていた。
 岸本がビヨンクウルの老婦人の亡《な》くなったことを聞いたのは、この死者の祭に先だつ数日前であった。今はヴェルサイユの兵営に自転車隊附として働いているあの書記の留守宅から出た通知状は巴里の下宿の方を廻って岸本の手許《てもと》に届いた。それにはあの老婦人の遺骸《いがい》が巴里のペエル・ラセエズの墓地に葬られるということが認《したた》めてあり、子息《むすこ》さんの書記を始め親戚一同の名前がその下の方に精《くわ》しい親戚関係と共に列《なら》べ記してあった。例《たと》えば、亡き人の姪のだれそれ、亡き人の義理ある兄弟のなにがしという風に。あの老婦人が大きな戦争の空気の中で病み倒れて行ったということは一層その死を痛ましくした。リモオジュの客舎で聞く寺院の鐘が特別の響を岸本の耳に伝えたのもそのためであった。
 岸本は仏蘭西へ来て最初に自分を迎えてくれたのがあの老婦人であったことを思出した。異郷にある旅人として、自分のことを一番多く考えていてくれたのもあの老婦人であったことを思出した。王朝時代の昔を忘れかねていたようなあの仏蘭西の婦人が心の中心を失った結果として東洋諸国に対する夢のような憧憬《どうけい》を抱いたのか、どうか、その辺までは彼にも言うことが出来なかったが、とにかく趣味性の発達した、生れついて女らしい徳のある、惜しい人であったことを思出した。全く仏蘭西の言葉も知らずに旅に上って来た彼が異邦人としての沈黙から紛れる方法もなかったような折にも、「あなたは急いで仏蘭西語を学ぶが可《い》い、もしあなたが僅かの書籍《ほん》でも読み得るように成ればそれほどの無聊《ぶりょう》を感じないで済むであろう、自分が書き送るこの数行の言葉でもあなたを慰めることが出来れば仕合せである」などという手紙を寄せて励ましてくれたのもあの書記のお母さんであったことを思い出した。「この悲しい戦争が一日も早く終りを告げることを心から願っている」という意味の言葉で結んだセエブル出の手紙があの老婦人から貰った最後の消息であったことを思い出した。
 知らない国の人が亡くなったとも思われないような力落《ちからおと》しを感じながら、岸本は独《ひと》りでサン・テチエンヌの古い寺院の方へ歩いて行った。

        百三

 丁度死者のための大きな弥撒《メス》が行われているところであった。ヴィエンヌ河の岸に添うて高く岡の上に立つその寺院《おてら》は、ゴシック風の古い石の建築からして岸本の好ましく思うところで、まるで樹《き》と樹の枝を交叉《こうさ》した林の中へでも入って行くような内部の構造まで彼には親しみのあるものと成っていた。よく彼はそこへ腰掛けに来た。その日もあの亡《な》くなった老婦人の生涯を偲《しの》ぼうためばかりでなく、しばらくその静かな建築物《たてもの》の中で自分のたましいを預けて行くことを楽みにした。あだかも樹蔭《こかげ》に身を休めて行こうとする長途の旅人のごとくに。
 大理石の水盤で手を濡《ぬ》らし十字架のしるしを胸の上に描きながらその日の儀式に参列しようとする婦人の連《つれ》は幾組となく岸本の側を通った。戦時以来初めての死者の祭のことで、負傷した仏蘭西《フランス》の兵士等まで戦友を弔い顔に集って来ていた。羅馬《ローマ》旧教の寺院には何等《なんら》かの形で必ず表し掲げてある「十字架の道」――その宗教的な絵物語の尽きたところまで右側の廻廊について奥深く進んで行くと、そこに空《あ》いた椅子があった。岸本は高い石の柱の側を選んで、知らない土地の人達と一緒に腰掛けた。古めかしく物錆《ものさ》びた堂の内へ響き渡る少年と大人の合唱の肉声は巨大な風琴《オルガン》の楽音と一緒に成って厳粛《おごそか》に聞えて来ていた。丁度暗い森の樹間《このま》を通して泄《も》れる光のように、聖者の像を描いた高い彩硝子《いろガラス》の窓が紺青《こんじょう》、紫、紅、緑の色にその石の柱のところから明るく透《す》けて見えていた。
 祭壇の方から香って来る没薬《もつやく》と乳香の薫《かおり》は何時《いつ》の間にか岸本の心を誘った。彼はこうした羅馬旧教の寺院の空気の中に実際に身を置いて見て、あの人間の醜悪を観《み》つくした末に修道院の方へ歩いて行ったばかりでなく終《しまい》には僧侶に等しい十字架を負う人と成ったという極端な近代人の生涯を想像して見た。彼はまた、あの男色の関係すらあったと言い伝えらるる友人との争闘より牢獄《ろうごく》にまで下った末にデカダンスの底から清浄な智慧《ちえ》の眼を見開いた名高い仏蘭西の詩人の生涯を想像して見た。

        百四

 合唱の声が止《や》むと、大きな風琴《オルガン》の響のみが天井の高い石の建築物《たてもの》の内部《なか》に溢《あふ》れた。やがて白い法服を着けた年とった僧侶が多勢の信徒を見下すような位置にある高い説教台の上に立った。戦時のツッサンの祭に際会して死者を弔うような説教がそれから可成《かなり》長く続いた。岸本の心は慷慨《こうがい》な口調を帯びた僧侶の説教の方へ行き、王冠の形した古めかしい説教台の方へ行き、その説教台と相対した位置にある耶蘇《やそ》の架像の方へ行った。しかし彼は何時の間にかそんなことを忘れてしまった。彼は、赤い法服を着け金色の十字架を胸のあたりに掛けた二三の老僧や黒い法服を着けた十幾人かの中年の僧侶が祭壇の前に並んでいることも忘れ、白い冠《かぶ》りものを冠った尼僧が教え子らしい女生徒を引連れて聴衆の中に混っていることも忘れ、つい側に腰掛けた黒ずくめの風俗の婦人達が説教に耳を傾けていることも忘れ、三本ずつ並んでとぼる長い蝋燭《ろうそく》の火が祭壇のあたりをかがやかしていることも忘れてしまった。唯《ただ》彼は石の柱の側に黙然《もくねん》と腰掛けて、仮令《たとえ》僅《わずか》の間なりとも「永遠」というものに対《むか》い合っているような旅人らしい心持に帰って行った。
 傾きかけた秋の日は高い岡の上に立つ寺院の窓を通して堂内の石の柱に映った。窓という窓の彩硝子は輝いた。あるいは十字架を花の環《わ》の形に、あるいは菱形《ひしがた》に、あるいは円形に意匠したその窓々の尖端《せんたん》、あるいは緑と紅との色の中心に描かれてある聖者の立像、それらが皆夕日に輝いた。こうしたゴシック風の古い建築物の内部にあっては、その中に置かれた羅馬旧教風な金色に錆《さび》た装飾もさ程目立っては見えなかった。あらゆる石の重みと、線と、組立とが高い天井の下に集められて、一つの大きな諧調を成していた。日は長い儀式の中で次第に暮れて行った。窓々に映る夕日も消えて行った。あだかも深い林の中に消えて行く光のように。そこには眼《ま》ばたきするように輝いて来た堂内の燈火《ともしび》と、時々響き渡る重い入口の扉《ドア》の音と、厳粛《おごそか》に沈んで行く黄昏時《たそがれどき》の暗さとが残った。
 岸本がこの寺院《おてら》を出て、ポン・ナフの石橋の畔《たもと》へかかった頃は、まだ空はいくらか明るかった。ヴィエンヌ河の両岸にあるものは皆水に映っていた。彼は牧野と二人でのリモオジュの滞在も最早《もう》僅に成って来たことを思った。二度とこうした仏蘭西の田舎《いなか》に来て好きな寺院に腰掛ける時があろうとも思われなかった。バビロン新道の宿を指《さ》して歩いて行く途《みち》すがらも、彼はこの田舎の都会にある他の寺院にサン・テチエンヌを思い比べて見た。澱《よど》み沈んだ羅馬旧教の空気の中にあって、どれ程の「人」の努力があの古いサン・テチエンヌの寺院を活《い》かしているかを想像して見た。

        百五

 リモオジュには岸本は葡萄《ぶどう》の熟するからやがて酒に醸《かも》されるまで居た。マルヌの戦いも敵軍の総退却で終り、巴里《パリ》包囲の危険も去り、この町へ避難して来た人達も最早大抵帰って行った。戦時の不自由は田舎に居るも巴里に行くも牧野や岸本に取って殆《ほとん》ど変りが無かった。宿の主婦《かみさん》は姪《めい》を連れて復《ま》た巴里の方へ帰ろうとしていた。牧野も同時にこの町を引揚げようとしていた。
「僕は一歩《ひとあし》先に出ます。ここまで来た序《ついで》にボルドオの方を廻って見て来ます。君等は巴里の方で待っていてくれたまえ」
 この話を岸本は牧野にした。
 早や毎朝のように霜が来た。暖炉には薪《まき》を焚《た》くように成った。彼はこの田舎で刺激された心をもって、もう一度巴里の空気の中へ行こうとしていた。旅の序《ついで》に、日頃《ひごろ》想像する南方の仏蘭西をも見るという楽みを胸に描いていた。そこでボルドオを指して出掛けた。開戦当時のような混雑には遭遇しないまでも、改札口のところに立つ警戒の兵士に警察で裏書して貰《もら》って来た戦時の通行券を示すような手数は要《かか》った。
 リモオジュの停車場《ステーション》まで送って来た牧野や少年のエドワアルと手を分ってからは、彼は独《ひと》りの旅となった。やがて彼の乗った汽車はリモオジュの町はずれを通過ぎた。二月|半《なかば》の滞在は短かったとは言え、彼は可成楽しい気の置けない時をそこで送ったことを思い、欧羅巴《ヨーロッパ》へ来てから以来《このかた》ほんとうに溜息《ためいき》らしい溜息の吐《つ》けたのもそこであることを思い、よく行って草を藉《し》いた牧場にも、赤々とした屋根や建築物《たてもの》の重なり合った対岸の町々にも、リモオジュ全体を支配するようなサン・テチエンヌの高い寺院の塔にも、別離《わかれ》を告げて行こうとした。汽車の窓からヴィエンヌ河も見えなくなる頃は、秋雨《あきさめ》も歇《や》んだ。
 岸本は全く見知らぬ仏蘭西人と三等室に膝《ひざ》を突合せて気味悪くも思わないまでに旅慣れて来たことを感じながら、汽車の窓に近く身を寄せて秋のまさに過ぎ去ろうとしている仏国中部の田舎を見て行った。彼は雨あがりの後の黄ばんだ雑木林を眺《なが》めたり、丘つづきの傾斜に白樺《しらかば》、樫《かし》、栗《くり》などの立木を数えたりして乗って行った。時としては線路に添うた石垣の上に野生の萩《はぎ》かとも見まがう黄な灌木《かんぼく》の葉の落ちこぼれているのを見つけて、国の方の東北の汽車旅、殊《こと》に白河あたりを思出した。その葉の色づいたのはアカシヤの若木であった。枯草を満載した軍用の貨物列車、戦地の方の兵士等が飲料に宛《あ》てるらしい葡萄酒の樽《たる》を積んだ貨物列車も、幾台となく擦違《すれちが》って窓の外を通った。
 オート・ヴィエンヌから隣州のドルドオニュへ越え、コキイユという小さな田舎らしい停車場を過ぎて、南へ行く旅客はペリギュウで乗換えた。ポオプイエの附近を乗って行く頃から、車窓の外に見える地味も変り、人家も多くなり、青々とした野菜畠すら望まれるように成ったばかりでなく、車中の客の風俗からして変った。それらの人達の話し合う言葉の訛《なまり》や調子を聞いたばかりでも岸本は次第に西南の仏蘭西に入って行く思いをした。ジロンド州の地方を通過ぎて、暗くなってガロンヌ河を渡った。平時ならば六七時間で来られそうな路程《みちのり》に十一時間も要《かか》った。彼は汽車の窓を通して暗い空に映る無数の燈火《ともしび》を望んだ。そこが仏蘭西政府と共に日本の大使館までも移って来ているボルドオであった。
 これ程楽みにしてやって来れば、それだけでも沢山だ、とは岸本が自分で自分に言って見たことであった。彼には南方の仏蘭西を想像して来た楽みがあり、そこまで動いたという楽みがあった――仮令《たとえ》ボルドオで彼を待受けていてくれたものは二日とも降り続いた雨ではあったが。ボルドオのサン・ジャン停車場前の旅館では、何がなしに彼は国の方へ宛てて旅の便《たよ》りを書送りたいと思う心が動いた。やや単調ではあったが汽車の窓から望んで来たボルドオ附近の平野、見渡すかぎり連り続いた葡萄畑、それらの眺望《ちょうぼう》はまだ彼の眼にあった。幾度《いくたび》となく彼は旅館の一室で暖炉の前に紙を展《ひろ》げて見たり、部屋の内をあちこちと歩いて見たりして、とかく思うように物書くことも出来ないのを残念に思った。部屋の壁には小さな海の画の模写らしい額が掛っていた。それを見てさえ彼の胸には久しぶりで海に近く来た旅の心持を浮べた。
 深い秋雨に濡《ぬ》れながら岸本は町を出歩いた。そこにある大使館を訪《たず》ねて巴里の方の様子を聞くために。あるいはサン・タンドレの寺院を見、あるいはボルドオの美術館なぞを訪ねるために。時とすると新たに戦地の方へ向おうとする歩兵の群が彼の行く道を塞《ふさ》いだ。灰色がかった青地の新服を着けた兵士等の胸には黄や白の菊の花が挿《さ》され、銃の筒先にまでそれが翳《かざ》されてあった。夫を、兄弟を、あるいは情人を送ろうとして、熱狂した婦人がその列に加わり、中には兵士の腕を擁《かか》えて掻口説《かきくど》きながら行くのも有った。
 ガロンヌ河はこの都会の中を流れていた。岸本に取っては縁故の深いあの隅田川《すみだがわ》を一番よく思い出させるものは、リオンで見て来たソオンの谿流《けいりゅう》でもなく、清いセエヌの水でなく、リモオジュを流れるヴィエンヌでなくて、雨に濁ったこのガロンヌの河口であった。そこには岸本の足をとどめさせる河岸《かし》の眺めがあったばかりでなく、どうかすると雨が揚がって、対岸に見える工場の赤屋根には薄く日が映《あた》った。ちぎれた雲の間を通して丁度日本の方で見るような青い空の色を望むことも出来た。つくづく岸本は郷国《くに》を離れて遠く来たことを思った。

        百六

 再び巴里を見るのは何時《いつ》のことかと思って出て来たあの都の方へもう一度帰って行く楽しみを思い、新しい言葉の世界が漸《ようや》く自分の前に展《ひら》けて来た楽しみを思い、ボルドオから岸本は夜汽車で発《た》った。今度帰って見たらどういう冷い風があの都を吹き廻しているだろう、幾人《いくたり》の同胞に逢《あ》えることだろう、と彼は思いやった。窓の外は暗し、車中で眠ろうとしても碌々《ろくろく》眠られなかった。同室の乗客が皆ひどく疲れた頃に汽車の中で夜が明けかかった。
 朝に成って反《かえ》って気の緩《ゆる》んだ岸本はいくらかでも寝て行こうとした。一眠りして眼を覚《さま》すと、その度に彼は巴里が近くなって来たことを感じた。心持の好い朝で、何を眺めても眼が覚めるようであった。次第に巴里の近郊から城塞《じょうさい》の方へ近づいて行った。車窓に映る建築物の趣なぞも何となく変って来た。リモオジュあたりで見て来た地方的なものが堅牢《けんろう》な都会風の意匠となり、二層三層の高さが五層にも六層にもなり、城廓《じょうかく》のように聳《そび》えた建築物と建築物の間には積重ねた煉瓦《れんが》の断面のあらわれたのが高く望まれるように成った。
 朝の八時頃に岸本はドルセエ河岸の停車場に着いた。荷物と一緒に乗った辻馬車《つじばしゃ》の中から彼は右を眺《なが》め左を眺めして行った。ボルドオの公園の方で古池の畔《ほとり》に深い秋を語っていた黄ばんだ柳の葉を眺め、南国的なマグノリアの生々とした濃い緑を眺めて来た眼には、町々は早や全くの冬景色であった。並木も枯々としていた。冷い街路を踏んで行く馬の蹄《ひづめ》の音までが耳についた。彼は思ったよりも寂寞《せきばく》とした巴里に帰って来たことを感じた。
 産科病院の前へ着いて取りあえず岸本は家番《やばん》のかみさんを見舞った。入口の階段に近く住む家番のかみさんは彼を見ると、いきなり部屋から飛んで出て来た。
「岸本さん」
 と言って彼の前に立った家番のかみさんの顔には、籠城《ろうじょう》同様の思いをしてずっと巴里に居た人達の心がありありと読まれた。
 変らずにある下宿を見るのも岸本には嬉しかった。主婦《かみさん》も、主婦の姪もリモオジュから先に着いていて岸本を迎えてくれた。彼は廊下の突当りにある自分の部屋を見に行った。二月半ほど留守にした間に、置捨てて行った荷物でも書籍でも下手《へた》に触《さわ》られないほどの塵埃《ほこり》が溜《たま》っていた。
 主婦の姪は部屋を覗《のぞ》きに来て、
「まあ、何という塵埃でしょう。これでも叔母さんと二人で昨日は一日掃除に掛っていたんですよ」
 と言って笑って、岸本の留守中に届いた国からの小包や新聞や雑誌を食堂の方から運んで来てくれた。その中には長い日数をかけて、よくそれでも失われずに届いたと思うものもあった。岸本は部屋の窓へ行って見た。暗い巴里の冬が最早その並木街へやって来ていた。往来《ゆきき》の人も稀《まれ》であった。向うの産科病院の門、珈琲店《コーヒーてん》、それから柳博士や千村教授がしばらく泊っていた旅館の窓、何もかも眼に浸《し》みた。

        百七

 隣室もひっそりとしていた。控訴院附の弁護士でその部屋を借りていた少壮な仏蘭西人は召集されて行ったぎり宿の主婦のところへ音も沙汰《さた》も無いということであった。「可哀そうに、あの弁護士もひょっとすると戦死したかも知れません」と主婦は岸本に話し聞かせた。隣室にはあのノルマンディあたりの生れの人にでも見るような仏蘭西人が残して置いて行った蔵書や雑誌の類がそっくりそのままにしてあった。岸本はその空虚な部屋を覗《のぞ》いて見て、悽惨《せいさん》な戦争の記事を読むにも勝《まさ》る恐るべき冷たさを感じた。その冷たさが壁|一重《ひとえ》隔てた自分の部屋の極く近くにあることを感じた。岸本は屋外《そと》へ出て日頃よく行く店へ煙草《たばこ》を買いに寄って見た。そこの亭主はまた片脚《かたあし》失うほどの負傷をして今は戦地の病院の方に居るとのことで有った。
 午後に牧野が訪ねて来た。リモオジュからリオンの方へ分れて行った美術家の連中が既に巴里へ帰っていることを岸本は牧野の話で知った。ずっと巴里に残っていた一二の画家もあったことを知った。
「牧野君、町を見に行こうじゃ有りませんか。こんなに巴里が寂しくなってるとは思いませんでしたね」
「リオンの連中が帰って来た時はもっと寂しかったそうです」
 岸本は牧野と二人で話し話し宿を出た。サン・ミッセルの通りまで行って、例の「シモンヌの家」の人達を見に一寸《ちょっと》立寄った。そこの亭主は白耳義《ベルジック》方面の戦場へ向ったぎり行方《ゆくえ》不明に成ってしまった。
 非常な恐怖が過ぎて行った後のような寂しさは町々を支配していた。岸本は牧野と並んで長いサン・ミッセルの通りをセエヌ河の方へと歩いて行って見た。外国人は去り、多くの市民も避難し、僅《わずか》の老人と婦人と子供とだけが日頃人通りの多いあの並木街を歩いていた。牧野はずっと巴里に残っていたという画家の話を歩き歩き岸本にして聞かせた。一時はこの都も独逸《ドイツ》軍の包囲を覚悟し、避難者のためにあらゆる汽車を開放したという話をした。麺麭《パン》なぞを乞《こ》うものには誰にでもただでくれたという話をした。多くの市民は乗るものもなく、皆徒歩で立退《たちの》いたという話をした。それらの人達が夜の街路《まち》に続いて、明方まで絶えなかったという話をした。
 シャトレエの広小路まで歩いた。そこまで行くと、いくらか巴里らしい人の往来《ゆきき》が見られた。二人はセエヌの河岸についてサン・ルイの中の島へと橋を渡り、そこから古いノオトル・ダムの寺院の裏手が望まれるところへ出た。石垣の下の方には並んで釣《つり》をしている黒い人の影も見えた。セエヌの水も寂しそうに流れていた。
「冷たい石の建築物《たてもの》に、黒い冬の木――いかにも巴里の冬らしい感じですね」
 と牧野は画家らしい観察を語った。岸本はこの人と連立って枯々とした並木の間を影のように動いた。石造の歩道を踏んで行く自分等の靴音の耳につくのを聞きながら、今は巴里にある極く僅《わずか》の日本人の中の二人であることをも感じた。

        百八

「早く英吉利《イギリス》を切揚げたまえ。この沈痛な巴里を味《あじわ》いたまえ」
 こう岸本は高瀬へ宛てて手紙の端に書いて送った。倫敦《ロンドン》にある高瀬からその後の様子を尋ねてよこした時の返事として。
 この周囲の寂しさにも関《かかわ》らず、岸本はもう一度自分の部屋の机に対《むか》って見た。灰燼《かいじん》の巷《ちまた》と化し去ることを免れた旅窓の外に見える町々も、変らずにある部屋の内の道具も、もう一度彼を迎えてくれるかのように見えた。ピアノを復習《さら》う音が復《ま》た聞えて来た。例の無心な指先から流れて来るようなその幽《かす》かなメロディばかりでなく、床を歩き廻る小娘らしい靴音までが階上から聞えて来ていた。
 心の悲哀《かなしみ》を忘れるために学び始めた新しい言葉の芽も一息に延びて来た。読もう読もうとしても読めずに蔵《しま》って置いた書籍を取出して見ると、何時の間にか意味が釈《と》れるように成っていた時は、彼は青年時代の昔と同じような嬉しさを感じた。大きな蔵の中にでも納ってある物のような気がしていたラテン民族の学芸の世界は遽《にわ》かに彼の前に展《ひら》けて来た。あそこに詩の精神がある、ここに歴史の精神がある、と言うことが出来るように成った。何等の先入主に成ったものをも有《も》たなかった彼に取っては、殆ど応接するに暇《いとま》の無いようなこの新天地の眺望《ちょうぼう》ほど旅の不自由を忘れさせるものはなかった。
 異郷の生活を続けようとする心を移して、岸本は遠く国の方にある自分の身内のもののことを思いやった。足掛二年の月日は遠く離れている親戚《しんせき》の境遇をも変えた。姪の愛子は夫に随《したが》って樺太《からふと》の方に動いていた。根岸の嫂《あによめ》は台湾の方へ出掛けて行って民助兄と一緒に暮していた。恩人の家の弘が結婚したことも、鈴木の兄が郷里の方で病死したことをも、岸本は旅にいる間に知った。
 何となく遠く成って来た国の方の消息の中で、東京の留守宅の様子を岸本のところへ精《くわ》しく知せてよこすのは節子であった。彼女からの便りで、岸本は義雄兄の家族に托《たく》して置いて来た二人の子供の成長して行くさまを思いやることが出来た。「あなたの方の身体は鉄《かね》ですか」と丈夫な子供等に向って言暮しているという嫂の言葉、黐竿《もちざお》を手にして蜻蛉釣《とんぼつ》りに余念がないという泉太や繁の遊び廻っている様子――耳に聞き眼に見るようにそれらの光景を思いやることの出来るのも、彼女からよこしてくれる手紙であった。
「あの事さえ書いてないと、節ちゃんの手紙はほんとに好《い》いんだがなあ――」
 と岸本は独りでよくそれを言って見た。節子はまた以前の浅草の住居の方から移し植えた萩《はぎ》の花のさかりであるということなどに事寄せて、岸本が見たことの無い子供の誕生日の記念のために書いてよこすことを忘れなかった。

        百九

 あれほど便りをするのに碌々《ろくろく》返事もくれない叔父さんの心は今になって自分に解った、と節子は力の籠《こも》った調子で書いた手紙を送ってよこした。長い冬籠《ふゆごも》りの近づいたことを思わせるような日が来ていた。ルュキサンブウルの公園にある噴水池も凍りつめるほどの寒さが来ていた。部屋の煖炉《だんろ》には火が焚《た》いてあった。岸本はその側へ行って、節子から来た手紙を繰返し読んで見た。叔父さんはこの自分を忘れようとしているのであろうと彼女は書いてよこした。そんなら、それでいい、叔父さんがそのつもりなら自分は最早《もう》叔父さんに宛てて手紙を書くまいと思うと書いてよこした。あれほど自分が送った手紙も叔父さんの心を動かすには足りなかったのかと書いてよこした。叔父さんのことを思い、自分の子供のことを思う度《たび》に、枕の濡《ぬ》れない晩は無いと書いてよこした。そんなに叔父さんは沈黙を守っていて、この自分を可哀そうだと思ってはくれないのかと書いてよこした。
 名状しがたい心持が岸本の胸中を往来した。日頃一種の侮蔑《ぶべつ》をもって女性に対して来たほど多くの失望に失望を重ねた自分の心持がそこへ引出された。姪《めい》を憐《あわれ》み、姪を恐れることはあっても、決して彼女の想像するようなものでは無かった自分の心持がそこへ引出された。節子のことを考える度に、きまりで思出すのは義雄兄の言葉であって、「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言ってくれたあの兄に対して来た自分の心持もそこへ引出された。この岸本の堅く閉《とざ》した心の扉《とびら》の外に来て自分を呼びつづけていたような姪の最後の声を聞く気がした。根気も力も尽き果てたかと思われるようにその扉を叩《たた》いた最後の精一ぱいの音を聞きつけたような気がした。
 煖炉には赤々とした火がさかんに燃えていた。倹約な巴里の家庭では何処《どこ》でも冬季に使用する亀《かめ》の子《こ》形の小さな炭団《たどん》が石炭と一緒に混ぜて焚いてあった。岸本は嘆息して、姪から来た手紙も、覚束《おぼつか》ない羅馬《ローマ》文字で彼女自身に書いてよこした封筒も、共に煖炉の中へ投入れた。見る間に紙は燃え上って、節子の文字は影も形もなくなった。岸本は喪心した人のように煖炉の前に立って、投入れた紙片《かみきれ》が灰に成るのを眺めていた。

        百十

 それぎり節子の消息は絶えた、薄暗く、陰気くさく、ろくろく日光も見られず、極く日の短い時分には午後の三時半頃には最早《もう》暮れかけて、一昼夜の大部分はあだかも夜であるかのような巴里《パリ》の冬が復《ま》た旅の窓へやって来た。到頭岸本は戦時の淋《さび》しい降誕祭を迎え、子供等に別れてから二度目の年を異郷の客舎で越した。
 黄なミモザの花や小さな水仙のようなナアシスに僅《わずか》に春待つ心を慰める翌年の二月半のことであった。一旦消息の絶えた節子からの便《たよ》りが思いがけなく岸本の許《もと》へ届いた。最早手紙は書くまいと思ったが、叔父さんから送ってくれた旅の記念の絵葉書を見るにつけても、つい禁を破ってこの便りをする気に成った、と彼女は書いてよこした。その手紙にはとかく彼女が煩《わずら》い勝である事や、浅草時代の自分は何処《どこ》かへ行ってしまったかと思われるほど弱くなったことや、両手にひろがった水虫のようなものは未《ま》だ癒《なお》らなくて難儀をしているということばかりでなく、母親に対して気まずい思いをしていることが今までに無い調子で書いてあった。読みかけて、岸本は眉《まゆ》をひそめずにはいられなかった。何故というに、節子の手紙を通して聞くあの嫂《あによめ》の言葉は、兄一人だけしか知らない筈《はず》の自分の秘密を感づいているとしか思われなかったから。その時岸本はそう思った。何故、あの義雄兄は嫂にまで隠そうとするような方針を取ってくれたろう。何故、節子はまた母親だけに身の恥を打明けて詫《わ》びるという心を起さなかったろうと。
 節子の手紙で見ると、どうかすると彼女は彼女の幼い弟達の前で、母から「姉さん」という言葉で呼ばれずに「お婆さん」と呼ばれることがあるとしてある。煩い勝ちで台所の手伝いも思うように出来ないという彼女は、この皮肉を浴びる時の辛《つら》さを書いてよこした。そればかりでは無い、彼女の母の言葉としてこんなことまで書いてよこした。「お婆さんでは、なんぼなんでも可哀そうだ――そうだ叔母《おば》さんが可《い》い――この人は姉さんじゃなくて、岸本の叔母さんだよ――」母の言うことはこうした調子だと書いてよこした。
「岸本の叔母さん」
 当てこすりで無くてこれが何であろう、と岸本はその言葉を繰返して見た。彼は節子から来た手紙をよく読んで見るにも堪《た》えない程、今までにない彼女の調子にひどく胸を打たれた。彼女は病的と思われるまで傷《いた》ましい調子で書いてよこした。気でも狂いそうな調子で書いてよこした。その時ほど、岸本は自分故に苦しんで行く姪のすがたをまざまざと見せつけられたことは無かった。

        百十一

 言いあらわし難い恐怖《おそれ》と哀憐《あわれみ》とは、節子の手紙を引裂いて焼捨ててしまった後まで岸本の胸に残った。ずっと以前に岸本が信濃《しなの》の山の上に田舎教師《いなかきょうし》をしながら籠《こも》り暮した頃、城址《しろあと》の方にある学校へ行こうとして浅い谷間《たにあい》を通過ぎたことがある。ある神社の裏手にあたるその浅い谷間の水の流のところで、一羽の小鳥を見つけたことがある。飛去りもせずにいる小鳥を捉《つかま》えるつもりもなく捉えようとして、谷川の石の間を追廻すうちに、何時《いつ》の間にか彼の手にした洋傘《こうもり》は小鳥の翼を打ったことがある。何かに追われたか、病んでいるか、いずれ訳があって飛去りもしない小鳥を傷つけたと気がついた時はもう遅かった。血にまみれながら是方《こちら》を見た時の眼は小鳥ながらに恐ろしく、その小さな犠牲を打殺すまでは安心しなかったことがある。そして半町ばかりも歩いて城址に近い鉄道の踏切のところへ出た頃に、手にした洋傘の柄の折れていたのに気がついたことがある。丁度あの小鳥の眼が、想像で描いて見る節子の眼だ。可傷《いたいた》しい眼だ。鋭いナイフで是方《こちら》の胸を貫徹《つきとお》さずには置かないほどの力を有《も》った眼だ。
 一度犯した罪は何故こう意地悪く自分の身に附纏《つきまと》って来るのだろう、と岸本は嘆息してしまった。仏蘭西《フランス》の詩人が詩集の中に見つけて置いた文句が彼の胸に浮んだ。

   "Que m'importe que tu sois sage,
   Sois belle et sois triste……"

 分別ざかりの叔父の身で自分の姪《めい》を無垢《むく》な処女《おとめ》の知らない世界へ連れて行ったような心の醜さは、この悲痛な詩の一節の中にも似よりを見出すことが出来る。あの北極の太陽に自己《おのれ》が心胸《こころ》を譬《たと》え歌った歌、岸本が東京浅草の住居《すまい》の方でよく愛誦《あいしょう》した歌を遺《のこ》して置いて行ったのも同じ仏蘭西の詩人である。岸本はそうした頽廃《たいはい》した心を有《も》った人が極度の寂寞《せきばく》を感じながら曾《かつ》てこの世を歩いて行ったことを想って見た。その人の歌った紅《あか》くしてしかも凍り果《はつ》るという太陽は北極の果を想像しないまでも、暗い巴里の冬の空に現に彼が望み見るものであることを想って見た。
 町に出て、岸本は節子のために彼女の煩い苦しんでいるという手の薬を探し求めた。子供等へ送るつもりで買って置いた仏蘭西風の黒い表紙のついた手帳と一緒にして、帰朝する人でもある折にそれを托《たく》そうと考えた。こうした心づかいも、よくよく不幸な節子のような姪がこの世に生きながらえていると思うことをどうすることも出来なかった。その悩ましさは、折角《せっかく》リモオジュの田舎の方で回復した新しい旅の心に掩《おお》い冠《かぶ》さって来た。

        百十二

 濃い霧で町の空も暗い日が続いた。時としては町々の屋根に近い空の一部に淡黄な光のほのめきを望み、時としてはめずらしく明るく開けた空に桃色の雲の群を望むような日があっても、復《ま》た復た暗く閉じ籠《こ》められた心持で暮しがちであった。戦時の寂しい冬らしく万物は皆な凍り果てた。寒い雨の来る晩なぞは、岸本は遠く離れている友人等の名前を呼んで見たいと思うことすら有った。彼は東京の加賀町の友人から絵葉書のはしに書いてよこしてくれた「|寂寞懐[#レ]君《せきばくきみをおもう》」という言葉なぞを胸に浮べながら、窓に行って眺《なが》めた。
 六頭の馬に挽《ひ》かれた砲車の列が丁度その町を通った。一砲車|毎《ごと》に弾薬の函《はこ》を載せた車が八頭の馬に挽かれてその後から続いた。街路に立って見る市民の中には一語《ひとこと》熱狂した叫び声を発するものもなかった。いずれも皆静粛な沈黙を守って馬上の壮丁を見送るもののみであった。戦時の空気はそれほど濃い沈鬱《ちんうつ》なものと成って来ていた。岸本は水を打ったようにシーンとしたこの町の光景を自分の部屋から眺めて、数月前よりは反《かえ》って一層胸を打たれた。彼はリモオジュから帰って来てから以来《このかた》、一日は一日よりこの空気の中へ浸って行った。激しい興奮と動揺との時は過ぎて、忍耐と抑制との時がそれに代っていた。
 岸本は自分の部屋を見廻した。戦争以前よりはもっと濃い無聊《ぶりょう》がそこへやって来ていた。
「ああ、復た始まった」
 とそれを思うにつけても、よく目的《めあて》もなしに町々を歩き廻り、寄りたくもない珈琲店《コーヒーてん》へ行って腰掛けたりするより外に時の送りようの無いような、その同じ心持が復た繰返し起って来ることを忌々《いまいま》しく思った。窓から射《さ》して来ている灰色な光線は、どうかすると暗い部屋の内部《なか》を牢獄《ろうごく》のように見せた。周囲が冷い石で繞《かこ》われていることもその一つである。寝る道具から顔を洗う道具から便器まで室内に具《そな》えつけてあることもその一つである。親戚《しんせき》や友人や子供等から全く離れていることもその一つである。訪れるものも少なく、よし有っても故国の食物の話や女の話なぞに僅《わず》かに徒然《つれづれ》を慰め合うのもその一つである。全く外界に縁故の無いのもその一つである。信じ難いほどの無刺戟《むしげき》もその一つである。到底行い得べくも無いような空想に駆《か》らるるのもその一つである。のみならず岸本は自分で自分の鞭《むち》を背に受けねば成らなかった。心に編笠《あみがさ》を冠る思いをして故国を出て来たものがこの眼に見えない幽囚は寧《むし》ろ当然のことのようにも思われた――孤独も、禁慾も。

        百十三

 この侘《わび》しい冬籠りの中で、岸本の心はよく自分の父親の方へ帰って行った。しきりに彼は少年の頃に別れた父のことが恋しくなった。異郷の客舎に居て前途の思いが胸に塞《ふさ》がるような折には、彼は部屋の隅《すみ》にある寝台に身を投げ掛けて白いレエスの上敷に顔を埋めることも有った。例のソクラテスの死をあらわした古い額の掛った壁の側で、この世に居ない父の前へ自分を持って行き、父を呼び、そのたましいに祈ろうとさえして見た。あだかも父に別れたままの少年の時のような心をもって。
 岸本の父は故国の山間にあって三百年以上も続いた古い歴史を有《も》つ家に生れた人であった。峠一つ越して深い谿谷《たに》に接した隣村《となりむら》には、矢張《やはり》同姓の岸本を名乗る家があった。その家が代々、あるいは代官、あるいは庄屋、あるいは本陣、あるいは問屋の職をつとめたことは、岸本の父の家によく似ていた。その家から岸本の母は嫁《かたづ》いて来た。義雄兄はまた幼少の時《ころ》から貰《もら》われて行ってその母方の家を継いだ。義雄兄の養父――節子から言えば彼女の祖父《おじい》さんは、岸本が母の実の兄にあたっていた。岸本が父母の膝下《ひざもと》を離れ、郷里の家を辞して、東京に遊学する身となったのは漸《ようや》く九歳の時であった。十三歳の時には東京の方に居て父の死を聞いた。彼は父の側に居て暮した月日の短かったばかりでなく、母のいつくしみを受ける間もまた短かった。彼がしみじみ母と一緒に東京で暮して見たのは艱難《かんなん》な青年時代が来た頃であって、しかも僅かに二年ほどしか続かなかった。彼は仙台の方へ行っている間に母の死を聞いた。
 これほど岸本は父のことに就《つ》いて幼い時分の記憶しか有たなかった。四十四歳の今になって、もう一度その人の方へ旅の心が帰って行くということすら不思議のように思われた。半生を通して繞《めぐ》りに繞った憂鬱《ゆううつ》――言うことも為《な》すことも考えることも皆そこから起って来ているかのような、あの名のつけようの無い、原因の無い憂鬱が早くも青年時代の始まる頃から自分の身にやって来たことを話して、それを聞いて貰えると思う人も、父であった。何故というに、岸本の半生の悩ましかったように、父もまた悩ましい生涯を送った人であったから。仮りに父がこの世に生きながらえていて、自分の子の遠い旅に上って来た動機を知ったなら何と言うだろう……けれども、岸本が最後に行って地べたに額を埋《うず》めてなりとも心の苦痛を訴えたいと思う人は父であった。

        百十四

  「ちゝはゝの
  しきりにこひし
  雉子《きじ》の声」

 岸本の胸に浮ぶはこの句であった。この短い言葉の蔭に隠されてある昔の人の飄泊《ひょうはく》の思いもひどく彼の身に浸《し》みた。何時来るかも知れないような春を待侘《まちわ》び、身の行末を案じ煩《わずら》うような異郷の旅ででもなければ、これほど父の愛を喚起《よびおこ》す事もあるまいかと思われた。幼い時の記憶は遠く郷里の山村の方へ彼を連れて行って見せた。広い玄関がある。田舎風の炉辺《ろばた》がある。民助兄の居る寛《くつろ》ぎの間《ま》がある。村の旦那衆《だんなしゅう》はよくそこへ話し込みに来ている。次の間があり、中の間がある。母や嫂がその明るい光線の射し込む部屋で針仕事をひろげている。遠い山々、展《ひら》けた谷、見霞《みかす》むように広々とした平野までも高い山腹にある位置からその部屋の障子の外に望まれる。坪庭の塀《へい》を隔てて石垣の下の方には叔母の家の板屋根なども見える。奥の間がある。上段の間がある。一方には古い枝ぶりの好い松の木や牡丹《ぼたん》なぞを植えた静かな庭に面して、廂《ひさし》の深い父の書院がある。それが岸本の生れた家だ。
 岸本は赤い毛氈《もうせん》を掛けた父の机の上に父の好きな書籍や、時には和算の道具などの載せてあったことを記憶でまだありありと見ることが出来た。よく肩が凝るという父の背後《うしろ》へ廻って、面白くも可笑《おかし》くもない歴代の年号などを暗誦《あんしょう》させられながら、「享保《きょうほ》、元禄《げんろく》……」とまるで御経でもあげるように父の肩につかまって唱えたり叩《たた》いたりしたあの書院の内を記憶でまだ見ることも出来た。夜遅くまで物書く父の側に坐らせられ、部屋一ぱいにひろげた白紙の前で、眠い眼をこすりこすり持たせられたあの蝋燭《ろうそく》の火を記憶でまだ見ることも出来た。
 父は厳格で、子供の時の岸本が父の膝《ひざ》に乗せられたという覚えも無いくらいの人であった。父は家族のものに対して絶対の主権者であり、岸本等に対しては又、熱心な教育者であった。岸本は学校の書籍《ほん》を習うよりも前に、父が自身で書いた三字文を習い、村の学校へ通うように成ってからは大学や論語の素読を父から受けた。彼はあの後藤点《ごとうてん》の栗色の表紙の本を抱いて、おずおずと父の前へ出たものであった。何かというと父が話し聞かせることは人倫五常《じんりんごじょう》の道で、彼は子供心にも父を敬《うやま》い、畏《おそ》れた。殊《こと》に父が持病の癇《かん》でも起る時には非常に恐ろしい人であった。岸本は末子《すえっこ》のことでもあり年齢《とし》もまだちいさかったから、それほどの目にも逢《あ》わなかったが、どうかすると民助兄なぞは弓の折《おれ》で打たれた。有体《ありてい》に言えば、少年の岸本に取っては、父というものはただただ恐いもの、頑固《がんこ》なもの、窮屈で堪《たま》らないものとしか思われなかった。

        百十五

 少年の時の記憶はまた東京銀座の裏通りの方へ岸本を連れて行って見せた。土蔵造りの家がある。玄関がある。往来に面して鉄の格子《こうし》の嵌《はま》った窓がある。日の光は小障子を通して窓の下の机や本箱の置いてあるところへ射し入っている。そこが岸本の上京後、小父夫婦やお婆さんの監督の下に少年の身を寄せていた田辺の家だ。
 父から餞別《せんべつ》に貰った五六枚ほどの短冊《たんざく》、上京後の座右の銘にするようにと言って父があの几帳面《きちょうめん》な書体で書いてくれた文字、それを岸本はまだありありと眼に浮べることが出来た。少年の彼は窓の下の本箱の抽斗《ひきだし》の中にその座右の銘を入れて置いて、時には幾枚かある短冊を取出して見た。「行いは必ず篤敬……」などとしてある父の手蹟《しゅせき》を見る度に、郷里の方に居る厳《きび》しい父の教訓を聞く気がしたものであった。覚束《おぼつか》ないながらも岸本が郷里へ文通するように成ってから、父はよく彼の許《もと》へ手紙をくれた。彼の上京後も父は断えざる助言者であった。彼はまた学校の作文でも書くように父へ宛てて書いたが、田辺の小父にそれを見せろと言われた時はよく顔が紅《あか》くなった。この田辺の家へ父が一度郷里の方から出て来た時のことは、岸本に取って忘れ難い記憶の一つであった。父は旅の毛布《ケット》やら荷物やらを田辺の家の奥二階で解《ほど》いて、そこで暫時《しばらく》逗留《とうりゅう》した。郷里に居る頃の父はまだ昔風に髪を束ねて、それを紫の紐《ひも》で結んで後の方へ垂《た》れているような人であったが、その旅で初めて散髪に成った話などした。「あれはああと、これはこうと――」そんなことを独語《ひとりごと》のように言っては、自分の考えを纏《まと》めようとするのが父の癖であった、父は旅の包の中から桐《きり》の箱に入った鏡なぞを取出した時に、「お父《とっ》さん、男が鏡を見るんですか」と彼の方で尋ねると、父は微笑《ほほえ》んで、鏡というものは男にも大切だ、殊に旅にでも来た時は自分の容姿を正しくしなければ成らないと話したこともあった。
 父は随分奇行に富んだ人で、到るところに逸話を残したが、しかし子としての彼の眼には面白いというよりも気の毒で、異常なというよりも突飛に映った。その上京で殊に彼はそれを感じた。父は彼の学校友達の家へも訪《たず》ねて行こうと言出したことがあった。三十間堀の友達の家には、友達の母親が後家で子供達を育てていた。そこへ彼は父を案内して行った。父の為《す》ることは唯《ただ》少年の彼には心配でならないようなものであった。学校友達の家へ訪ねて行くと、先方《さき》でも大変喜んでくれたが、別れ際《ぎわ》に父は友達の母親から盆を借りて土産《みやげ》ばかりに持って行った大きな蜜柑《みかん》をその上に載せた。それを友達の母親の方へ差出すことかと彼が見ていると、父はそうしないで、いきなりその蜜柑を仏壇へ持って行って供えた。こうした父の行いが少年の彼の眼には唯奇異に思われた。彼は父の精神の美しいとか正直なとかを考える余裕はなかった。何がなしにその学校友達の家を早く辞して田辺の方へ父を連れ帰りたいとのみ思った。その時の彼の心では、久し振《ぶり》で父と一緒に成ったことを悦《よろこ》ばないではなかったが、矢張《やはり》郷里の山村の方に父を置いて考えたいと思った。一日も早く父が東京を引揚げ、あの年中|榾火《ほたび》の燃えている炉辺の方へ帰って行って、老祖母《おばあ》さんや、母や、兄夫婦や、それから年とった正直な家僕なぞと一緒に居て貰いたいと思った。後になって考えると、それが彼の上京後唯一度の父子の邂逅《めぐりあい》であったのである。それぎり彼は父を見なかった。

        百十六

 岸本が父を知るように成ったのは、寧《むし》ろ父が亡くなってからの後のことであった。漸《ようや》く彼が青年期に入って彼自身の遽《にわ》かな成長を感じ始めた頃、郷里の方にある老祖母さんの死去を聞いて一度帰省したことがある。民助兄もその頃は既に東京で、彼は兄の代理として老祖母さんを弔いかたがた郷里に留守居する母や嫂の方へ帰って行った。その時、彼は久しぶりで自分の生れた家を見たばかりでなく、父の遺《のこ》した蔵書を見せようと云う母の後に随《つ》いて裏庭の方へ出た。母屋《おもや》の横手から土蔵の方へ通う野菜畑と桑畑《くわばたけ》の間の径《みち》、老祖母さんの隠居所となっていた離れの二階座敷、土蔵の前に植てある幾株かの柿の木、それらは皆な極《ごく》幼い頃に見たと変らずにあった。母は暗い金網戸の閉った土蔵の石段の上に立って、手にした大きな鍵《かぎ》で錠前をガチャガチャ言わせ、やがて彼を二階の方へ案内した。そこに老祖母さんの嫁に来た時の長持が残っている。ここに母の長持が置いてある。それらの古い道具を除いては、土蔵の二階にあるものは父の遺した沢山な書籍《ほん》であった。壁によせて積重ねてある古い本箱からは主として国学に関する書籍が出て来た。それを見て、彼は自分の父がどれ程あの古典派の学説に心を傾けたかを感知した。彼が英学を修め始めた時はまだ父は生きていて、非常に心配した手紙をくれたが、あの父の心持も思い当った。
 その頃から彼は一層よく父を知ろうとするように成った。父に関したことは、いかなる小さな話でも心に留めて置こうとした。折ある毎《ごと》に彼は身内のものや父を知っている人達に父のことを尋ねた。民助兄にも。義雄兄にも。田辺の小父にも。田辺のお婆さんにも。そして、それらの人達の記憶に残るきれぎれな話から父の生涯を想像しようとした。意外にも彼は人から聞いた話よりも、彼自身の内部《なか》に一層よく父を見つけて行った。彼は自分の内部から押出すようにして延びて来る生命《いのち》の芽が、一切の物の色彩を変えて見せるような憂鬱な世界の方へ自分を連れて行く度に、特にそれを感じた。彼は年とれば年とる程、自分の性質が父に似て行くことを驚き恐れた。仙台の旅から帰ったのは彼が二十六歳の頃であった。彼は一夏を郷里の鈴木の姉の家に送って、あの姉の口から父の声を聞きつけたことも有った。「捨吉は俺《おれ》の子だで、あれは学問の好な奴だで、どうかして俺の後を継がせたいものだなんて、お父《とっ》さんがよくそう仰《おっしゃ》ったぞや」と姉は郷里の訛《なまり》のある調子でそれを彼に話し聞かせた。その頃は鈴木の兄も郷里の家に暮して、最も得意な月日を送っていた。姉に取っても楽しい時であった。姉は久しぶりで一緒になった弟を前に置いて、夫に向って、「まあ、捨吉の坐っているところを見てやって下さい、あれの手なぞはお父さんに彷彿《そっくり》です」と話して笑った。その時彼は自分の身体の中に父の手までも見つけた。尤《もっと》も、父は足袋《たび》なぞも図無《ずな》しを穿《は》いたと言われる方で、彼の幼い記憶に残るのは彼よりもずっと背の高い人であったが。

        百十七

 父の憂鬱《ゆううつ》は矢張岸本と同じように青年時代に発したということである。岸本が同年配の他の青年の知らないような心の戦いを重ねたのもその憂鬱の結果であったが、しかし彼は狂《きちがい》じみたという程度に踏みこたえた。父のは、それが本物であった。
 こうした父の持病は一生を通して父を苦しめたとは言え、しかし岸本は父にも健《すこや》かな月日の多かったことを想像することが出来る。その証拠には、父は平田|篤胤《あつたね》の門人であったというし、維新の際には家を忘れて国事に奔走したというし、飛騨《ひだ》の国にある水無《みなし》神社の宮司にもなったというし、それから郷里に退いて晩年を子弟の教育に送ったともいうことである。今は台湾の方で民助兄と一緒に暮している嫂が父の日常のことをよく知っていて、曾《かつ》て東京の根岸の家でその話を岸本にして聞かせたことも有った。「お父さんの癇《かん》の起らない時には、それは優しい人でしたよ。子供に灸《きゅう》一つすえられないような人でしたよ」と嫂は話してくれた。
 この嫂を通して、岸本は父が最後に座敷牢《ざしきろう》で送った日のことを聞いた。幻を真《まこと》と見る父の感覚は眼に見えない敵のために悩まされるように成って行った。「敵が攻めて来る。敵が攻めて来る」と父はよく言ったとか。その恐ろしい幻覚から、終《しまい》には父は岸本家の先祖が建立《こんりゅう》したという村の寺院《おてら》の障子へ火を放とうとした。それが父の牢獄にも等しい部屋の方へ趨《おもむ》く最初の時であった。日頃柔順な子として聞えた民助兄も余儀なく父の前に立って、御辞儀一つして、それから村の人達と一緒に父を後手に縛りあげた。父のために造った座敷牢は裏の木小屋にあった。そこは老祖母さんの隠居部屋と土蔵の間を掘井戸について石段を下りて行ったところにあった。前には古い池があり、一方は米倉に続き、後には岸本の家に附いた竹藪《たけやぶ》が茂っていた。そこで父は最後の暗い日を送った。母は別室に居て父の看護を怠らなかったばかりでなく、日頃父のことを「お師匠様」と呼ぶ村の人達まで昼夜交代で詰めていたということである。
 嫂の話は父が座敷牢で暮した頃の細目《さいもく》を伝えたが、鈴木の姉はまた父の感情を伝えた。姉は最早家出をした夫と別れ住む頃であった。郷里から一寸《ちょっと》出て来て、東京浅草の方にあった岸本の家の二階でその話を弟にした。どうかすると父は座敷牢でも物を書きたいと言って、硯《すずり》や筆を取寄せ、「熊」という字を大きく一ぱいに紙に書いて人に見せたことも有った。そして自ら嘲《あざけ》るように笑って、終《しまい》にはもう腹を抱《かか》えて転《ころ》げるほど笑ったかと思うと、悲しげな涙がその後からさめざめと流れた。「きり/″\す啼《な》くや霜夜のさむしろに衣かたしき独《ひと》りかも寝む」――父はこの古歌を幾度《いくたび》となく口吟《くちずさ》んで見て、自分で自分の声に聞入るようにして、暗い座敷牢の格子《こうし》につかまりながら慟哭《どうこく》したという。「慨世憂国の士をもって発狂の人となす、豈《あ》に悲しからずや」とは父がその木小屋に遺《のこ》した絶筆であったという。父は最後に脚気《かっけ》衝心でこの世を去った。

        百十八

 それから鈴木の姉の上京後、まだ園子の達者でいた時分、岸本は父の墓を建てるために一度帰省したこともある。その時は郷里の鈴木の家に姉を見に立寄り、あれから木曾川に添うて十里ばかり歩いた。郷里とは言っても、岸本があの谿谷《たに》の間の道を歩いて見たことは数えるほどしか無かった。通る度毎《たびごと》に旧《ふる》い駅路の跡は変っていた。母の生れた村まで行くと、古い大きな屋敷は最早見られなかったが、そこには義雄兄の留守宅があって、節子の母親が祖母さんと二人で子供を相手に暮していた。深い谿谷の地勢はそのあたりで尽きて、山林の間の坂の多い道を辿《たど》って行ったところに岸本の村がある。遠い先祖の建立したという寺には岸本の家についた古い苔蒸《こけむ》した墓石が昔を語り顔に並んでいた。岸本は岡の傾斜のところに造られた墓地を通りぬけて、杉の木立の間から村の一部の望まれるような位置へ出た。二つの墳《つか》が彼の眼に映った。そこに両親が眠っていた。
 村には父の教を受けたという人達がまだ多く住んでいた。日頃岸本の家と懇意な隣家の酒屋の主人もその一人だ。その人に誘われて、眺望《ちょうぼう》の好い二階座敷に上って見ると、一段高い石垣の上の位置から以前の屋敷跡が眼の下に見えた。村の大火は岸本の父の家を桑畠に変えた。母屋も、土蔵も最早見られなかった。何となく時雨《しぐ》れて来た空の下には、桑畠の間に色づいた柿の葉の枝に残ったのが故郷の秋を語っていた。岸本は隣家の主人と一緒にその桑畠を指して、そこに父の書院があった、そこに父の愛した古い松の樹があった、と語り合った。家を挙《あ》げて東京に移り住むように成った頃から、以前の屋敷跡は矢張隣家の所有であったから、岸本は酒屋の主人の許しを得て独りで裏づたいに桑畠の間に出て見た。甘い香気《におい》のする柿の花の咲くから、青い蔕《へた》の附いた空《むだ》な実が落ちるまで、少年の時の遊び場所であった土蔵の前あたりの過去った日の光景はまだ彼の眼にあった。父の遺した蔵書を見るために母と一緒に暗い金網戸の前の石段に立った日のことなぞもまだ彼の眼に残っていた。亡《な》くなった老祖母さんの隠居所であった二階座敷から、裏の方へかけて、あの辺だけが僅に焼残っていて、岸本は変らずにある木小屋を見ることが出来た。台湾の方へ行った嫂が話してくれたのも、その小屋のことだ。前にある高い石垣、古い池、後に茂る深い竹藪《たけやぶ》は父の侘《わび》しい暗い最後の月日を想像させた。

        百十九

 すべてこれらの父に関する記憶が旅にある岸本の胸に纏《まと》まって来た。早く父に別れた彼は多くの他の少年が享《う》け得るような慈愛もろくろく享けず仕舞《じまい》であった。そのかわりまた大きくなって、酷《むご》い父と子の衝突というものをも知らずに済んだ。彼はよくそう思った。自分の学ぶこと、為《す》ること、考えることは父と何の交渉があるだろう、もしあの父が生きながらえていたらどんなことに成ったろうと。彼は自分の意のままに父の嫌《きら》いな外国語を修め始めようとした少年の日から、既にもう父の心に背《そむ》き去ったものである。
 不思議にもこの異郷の客舎で、岸本の心は未《いま》だ曾《かつ》て行ったことの無いほど近く父の方へ行くように成った。父の声は復《ま》た彼の耳の底に聞えて来た。紅い太陽が輝くということなしに、さながら銅盤を懸けたかのごとく暗い寒空を通過ぎるような日に、凍った石の建築物《たてもの》の中で旅の前途を考えていると、
「捨吉。捨吉」
 と子供の時に聞いた父の声がもう一度彼の耳に聞えて来るように思われた。
 そればかりでは無い。父が生前極力排斥し、敵視した異端邪宗の教の国に来て、反《かえ》って岸本は父を視《み》る眼をさえ養われた。自分の国の方にいた頃の彼は、平田派の学説に心を傾けた父等の人達があの契冲《けいちゅう》や真淵《まぶち》のような先駆者の歩いた道に満足しないで、神道にまで突きつめて行ったことを寧《むし》ろ父等のために惜んだ。今になって彼は古典の精神をもって終始した父等が当時の愛国運動に参加したことや、学問から実行に移ったことを可成《かなり》重く考えて見るように成った。彼はこの旅に上る前の年に、記念することがあって父の遺した歌集を編み、僅《わずか》の部数ではあったがそれを印刷に附し、父を知る人達の間に分けたことも有った。その遺稿の中には父が飛騨の国で詠《よ》んだかずかずの旅の歌があった。それを彼は思い出して、あの水無《みなし》神社の宮司として飛騨の山中に籠っていた頃が父の生涯の中でも寂しい時であり、懐《なつか》しみの多い時ででもあることを想って見た。彼は又、父が苦しんだ精神病の原因を考えた。それを若い時に想像したようなロマンチックな方へ持って行かないで、もっと簡単な衛生上の不注意に持って行って考えて見た。仮りに父の発狂がそうした外来の病毒から来ているとしても、そのために父に対する心はすこしも変らなかった。恐い、頑固《がんこ》な、窮屈な父は、矢張自分等と同じような弱い人間の一人として、以前にまさる親しみをもって彼の眼に映るように成った。
 この父の前に、岸本は自分の旅の身を持って行った。羞《は》じても、羞じても、羞じ足りないほどの心で国を出て来た時、暗夜に港を離れ行く仏蘭西《フランス》船の甲板《かんぱん》の上に立って最後に別れを告げた時の彼は、実はあの神戸も見納めのつもりであった。彼の旅も、これから先の方針を定めねば成らないところまで行った。

        百二十

「お客さん、お支度《したく》が出来ましてございます」
 仏蘭西《フランス》風の縞《しま》の前垂《まえだれ》を掛けた下女が部屋の扉《と》を開けて、岸本のところへ昼食の時を知らせに来た。下宿でも主婦《かみさん》の姪《めい》はリモオジュへ帰って、田舎出《いなかで》の下女が傭《やと》われて来ていた。
 暗い廊下を通って、岸本は食堂の方へ行って見た。二年近い月日を旅で暮すうちに彼は古顔な客としての自分をその食堂に見た。
「さあ、どうぞ皆さんお席にお着き下さいまし」と肥《ふと》った主婦は仏蘭西|麺麭《パン》を切りながら言った。「私共は田舎料理で、ノルマンディからいらしったお客さまのお口には合いますかどうですか」
 町の近くにあるヴャアル・ド・グラアスの陸軍病院に負傷した夫を見舞うためノルマンディの地方から出て来たという女の客、ある家庭の子供を教えに通っている中年の女教師、それらの人達が岸本の食堂で落合う顔揃《かおぶれ》であった。最早《もう》羅馬《ローマ》旧教のカレエムが始まっていた。毎年の例のように主婦が豚の腸詰なぞを祝う「肉食の火曜」も過ぎていた。四十日間の宗教季節が復《ま》たやって来たことは、仏蘭西で暮した月日の長さを岸本に思わせた。
「岸本さん、お国からお便《たよ》りがございますか。お子さん方も御変りもございませんか。さぞ父さんをお待ちでございましょう」
 と主婦も一緒に食卓に就《つ》きながら言って、大きな皿に盛った精進日《しょうじんび》らしい手料理を順に客の前へ廻した。この主婦はノルマンディから来た女の客の巴里《パリ》で買ったという帽子を褒《ほ》め、家庭教師の新調した着物の好《この》みを褒め、「まあ結構な」とか、「実にまあ御見事な」とか、褒められるだけ褒めた。リモオジュの田舎から出た人だけに、お料理から世辞まで山盛にしなければ承知しなかった。岸本はこの人達の世間話にも聞飽きて、費用のみ要《かか》る外国の旅のことを思いながら食った。食堂から自分の部屋へ戻って行って見ると、つくづく岸本には異人という心が浮んだ。そうそう長く留るべき場所では無し、又長く続けて行くべき境涯でも無いという気がして来た。自分のことをよく心配していてくれたビヨンクウルの老婦人のような温情のある人は亡《な》くなった上に、時局は一層彼の旅を不自由にした。折角懇意になった仏蘭西人で国難のために夢中になっていないものは無かった。学問も、芸術も、殆《ほとん》ど一切休止の姿だ。彼の周囲には、戦争あるのみだ。
 岸本は異郷の土となるつもりで国を出て来た自分の決心が到底行われ難いことを感じて来た。国には彼を待つ頼りの無い子供等があった。彼は、あだかも冷く厳《おごそ》かな運命の前に首を垂《た》れる人のようにして、こうした一生の岐路《わかれみち》に立たせられるよりは寧《むし》ろ与えられた生命《いのち》を返したいとまで嘆いた。彼は亡き父の前に自分を持って行って、「この生命を取って下さい」とも祈った。

        百二十一

「旅人よ、足をとどめよ。お前は何をそんなに急ぐのだ。何処《どこ》へ行くのだ。何故お前の眼はそんなに光るのだ。何故お前はそんなに物を捜してばかりいるのだ。何故お前はそんなに齷齪《あくせく》として歩いているのだ。
 ――旅人よ。お前はこの国を見ようとしてあの星の光る東の方から遙々《はるばる》とやって来たのか。この国にあるものもお前の心を満すには足りないのか。
 ――旅人よ。夕方が来た。何をお前は涙ぐむのだ。お前の穿《は》き慣れない靴が重いのか。この夕方が重いのか。それとも明日の夕方が苦しいのか。
 ――旅人よ。何故お前は小鳥のように震えているのだ。仮令《たとえ》お前の生命《いのち》が長い長い恐怖の連続であろうとも、何故もっと無邪気な心を有《も》たないのだ。
 ――旅人よ。足をとどめよ。この国の羅馬《ローマ》旧教の季節が来ている。お前も来て、主の受難を記念する夕方に憩《いこ》え。お前に食わせる麺麭《パン》、お前に飲ませる水ぐらいはここにも有ろうではないか……」
 書斎でもあり寝室でもある部屋の机に対《むか》って、岸本は自分の書いたものを取出した。窓側《まどぎわ》の壁に掛けてある仏蘭西の暦は三月の来たことを語っていた。その窓側で彼は書きつけた自分の旅情を読み返して見た。
 部屋を見廻すと、まだまだ彼は長い冬籠《ふゆごも》りの有様から抜け切ることが出来なかった。町の空も暗かった。しかし、正月、二月あたりはもっと暗い日の続くことが多かった。彼は恐ろしい低気圧が、十五日も続いた低気圧が、自分の心の内部《なか》を通過ぎて行ったことを感じた。冷い感じのする硝子《ガラス》を通して望まるる町の空は暗いとは言っても早や何となく春めいた紅味《あかみ》を含み、遠い建築物《たてもの》の屋根や煙突も霞《かす》んで見え、戦時の冬らしく凍り果てた彼の旅の窓へも、漸《ようや》く底温かい春が近づいたかと思わせた。
 久し振りで聞く軍隊の相図の笛が岸本の耳についた。喇叭卒《らっぱそつ》を先に立てた仏蘭西歩兵の一隊がゴブランの市場の方角から進んで来た。そして町の片端で足を休めて行こうとするところであった。窓から望むと、冬枯のプラタアヌの並木の下あたりは寄せ集めた銃や肩から卸した背嚢《はいのう》で埋められた。騎馬から下りて休息する将校等も見えた。眼の下に動く兵卒等の軍帽を包んだ紺の布《きれ》や、防寒用の新服はいずれも酷《ひど》く汚れて、風雪の労苦が思いやられた。
「生きたいと思わないものは無い――」
 と彼は自分に言って見た。
 町々の婦女《おんな》は出て兵卒等をねぎらおうとした。葡萄酒《ぶどうしゅ》を奮発する珈琲店《コーヒーてん》のかみさんがあれば、パン菓子を皿に盛って行って勧める菓子屋のかみさんもあった。岸本も部屋にじっとしていられなかった。彼は急いで帽子を冠《かぶ》り、階段を降りて、この人達の中に混ろうと思った。夫や兄弟や従兄弟《いとこ》のことを心配顔な留守居の婦女《おんな》、子供、それから老人なぞが休息する兵卒等の間を分けて、右にも左にも歩いていた。岸本は自分の隠袖《かくし》の中から巻煙草《まきたばこ》の袋を取出し、それを側に居る五六人の兵卒にすすめて見た。

        百二十二

 一日は一日より岸本の旅の心は濃くなって来た。暇さえあれば岸本は自分の下宿を出て、戦時の催しらしい管絃楽《かんげんがく》の合奏を聴《き》くためにソルボンヌの大講堂に上り、巴里の最も好い宗教楽があると言われるソルボンヌの古い礼拝《らいはい》堂へも行って腰掛けた。彼はまた人と連立って、サン・ゼルマンの長い並木街をセエヌの河岸《かし》まで歩きに行って見た。ルウヴル宮殿の古い建物《たてもの》やチュレリイ公園の石垣が対岸に見える河の畔《ほとり》まで行くと、水の流れも何となく霞《かす》んで見え、岸に立つマロニエの並木も芽ぐんで来ていた。そういう日には殊《こと》に春待つ心が彼の胸に浮んだ。
 二年近くかかって育てた新しい言葉も延びて行く時であった。彼は旅人らしく自分の周囲を見廻すと、来《きた》るべき時代のためにせっせと準備しているようなもののあるのに気がついた。彼の眼には、どう見てもそれは芽だ。間断なく怠りなく支度しているような芽だ。それは可成《かなり》もう長いこと萌《きざ》しに萌して来たものであるとも言える。けれども何人《なんぴと》の骨髄にまでも浸《し》み渡るような欧羅巴《ヨーロッパ》の寒い戦争が来て、一層その発芽力を刺激されたようにも見える。そうしたものが彼の周囲にあった。そしてその芽の一つとして、曾《かつ》て一度は頽廃《たいはい》したものの再生でないものは無かった。
 この観望は岸本が旅の心を一層深くさせた。彼の周囲には死んだジャン・ダアクすら、もう一度仏蘭西人の胸に活《い》きかえりつつあった。彼は淫祠《いんし》にも等しいような古いカソリックの寺院を多く見た眼でリモオジュのサン・テチエンヌ寺を見、あのサン・テチエンヌ寺を見た眼を移して巴里のフランソア・ザビエー寺などを見、更に眼を転じて「十字架の道」へと志す幾多の新人のあることに想い到ると、そうした再生の芽を古い古い羅馬旧教の空気の中にすら見つけることが出来るように思った。
 その芽が岸本にささやいた。
「お前も支度したら可《い》いではないか。澱《よど》み果てた生活の底から身を起して来たというお前自身をそのまま新しいものに更《か》えたら可いではないか。お前の倦怠《けんたい》をも、お前の疲労をも――出来ることならお前の胸の底に隠し有《も》つ苦悩そのものまでも」

        百二十三

 町に出て往来《ゆきき》の人々に混りたいと思うような午後が来た。岸本は下宿を出ようとして、丁度パスツウルに近い画室の方から訪《たず》ねて来る牧野に逢《あ》った。
 岡も、小竹も相前後して既に英吉利《イギリス》の方から巴里へ戻って来ている頃であった。牧野は岡の意中の人が国の方で他《わき》へ嫁《かたづ》いたという消息を持って来た。戦争前、美術学校の助教授が巴里を発《た》つという際にも、その他の時にも、まだ岡は一縷《いちる》の望みをそれらの人達の帰国に繋《つな》いでいた。最早岡の意中の人も行ってしまった。それを思いやって、岸本は牧野と顔を見合せた。
「今僕の画室へ岡や小竹が集まっています」と牧野が言った。「どう慰めようもなくて僕等は困ってるところなんです。あなたにでも来て頂かなくちゃ――」
「僕なぞが君、出掛けて行ったところでどうすることも出来ないじゃないか」
 こう岸本は言ったものの、岡のことも心に掛って、呼びに来た牧野と一緒に下宿を出た。
 二人はポオル・ロワイアルの並木街を歩いて行った。暮の降誕祭《ノエル》前に、仏蘭西政府がボルドオから移って来た頃あたりから、町々はいくらかずつの賑《にぎや》かさを増して来たが、しかしまだまだ淋《さび》しかった。戦争が各自の生活に浸潤して行く光景は、特に黒い喪服を着け黒い紗《しゃ》を長く垂下《たれさ》げて歩く婦人の多くなったことを取りたてて言うまでもなく、二人はそれを町で行き逢ういかなる人の姿にも読むことが出来た。汚《よご》れた顔の子供にも、荷馬車に石炭を積んで巨大《おおき》な馬を駆って行く男にも、子供の手を引き腰掛椅子を小脇《こわき》に擁《かか》えながら公園の方へ通う乳母《うば》にも、鳥打帽子を冠《かぶ》った年若な労働者にも、小犬を連れたお婆さんにも、赤い花や桜の実の飾りのついた帽子を冠り莫迦《ばか》に踵《かかと》の隆《たか》い靴を穿《は》き人の眼につく風俗をしてその日の糧《かて》を探し顔な婦人にも。
 天文台前の広場まで行くと、二人は十七八歳ばかりの青年の一群にも遭遇《であ》った。それらの青年は皆学生であった。普通の服に革帯《かわおび》を締め、腕章《うでじるし》を着け、脚絆《ゲートル》を巻きつけ、銃を肩にし、列をつくって、兵式の訓練を受けるためにルュキサンブウルの公園の方へ行くところであった。中にはまだ若々しい聡明《そうめい》な面《おも》ざしのものも混っていた。
「あんな人達まで今に戦争に行くんでしょうか。僕等のことにしたら、短い袴《はかま》を穿《は》いて学校へ通ってる時分の年齢《とし》ですがなあ」
 二人はこんな言葉をかわしながら、いずれ国難に赴《おもむ》こうとしているような仏蘭西の若者達を見送った。
 過ぐる年に比べると並木の芽出もずっと後《おく》れた。プラタアヌの木なぞは未《ま》だ冬枯そのままであった。モン・パルナッスの並木街をノオトル・ダムの分院の前あたりまで歩いて行くと、その辺には漸《ようや》くマロニエの青い芽が見られた。
「もうそれでもマロニエの芽が見られるように成りましたね」
 牧野は岸本と並んで歩きながら言った。
「牧野君もよくあの画室に辛抱しましたね。なんだか今年の冬は特別に長いような気がしました」
 と岸本も足早に歩きながら答えた。彼の胸には逢《あ》いに行く岡のことや、自分の旅のことが往来した。

        百二十四

「君等は感心だ。よくそれでもお互に助け合うね」
 と岸本はパスツウルの通りまで歩いて行った頃に牧野の方を見て言った。
「僕のところへ来るモデルもそれを言いましたよ。『日本人は皆貧乏だ、そのかわり感心に助け合う、他《よそ》の国から来てるものには決してそういうことは無い』ッて」
 と牧野が答えて、自分の家の方へでも帰って行くように画室のある横町の方へ岸本を誘って行った。モン・パルナッスの停車場《ステーション》の裏側からその辺の並木のある通りへかけては、岸本に取っても通い慣れた道だ。巴里を囲繞《とりま》く城塞《じょうさい》の方に近いだけ、いくらか場末の感じもするが、それだけまた気が置けない。よく岸本が牧野の許《もと》へ自炊の日本飯を呼ばれに行って、葱《ねぎ》なぞを買いに出た野菜の店もその通りに見える。そこまで行くと画室も近かった。
 岡や小竹はビイルを置いた机を囲みながら牧野の帰りを待っていた。
「や。どうもお使御苦労さま」と小竹は牧野の方を見た。
「牧野、岸本さんも来たから、一緒に一ぱい遣《や》らんか」と岡も飲みさしたコップを前に置いて言った。
「ああ」
 牧野は主人役と女房役とを兼ねたという風で、何か款待顔《もてなしがお》に画室の隅《すみ》でゴトゴト音をさせていた。この光景《ありさま》を見たばかりでも岸本には「巴里村」の気分が浮んで来た。彼は岡と差向いに腰掛けた。岡は言葉も少かった。癖のように力を入れた肩と熱意の溢《あふ》れた額とに物を言わせ、小竹や岸本のためにビイルを注《つ》いだ。あだかも行く人を送るために互に盃《さかずき》を挙《あ》げようとするかのように。
「物の解《わか》った人が側に附いていながらこういう結果に成ったかと思うと、そればかりが僕には残念なんです」
 岡はそれを言った。
「岡君と僕の場合とを比べることも出来ないが――第一、岡君から見ると僕はずっと年も若かったし、境遇も違っていました。でも、互いに心を許したという点だけでは似てるかと思う。僕は死をもって争った。それでも行く人をどうすることも出来なかった。僕は自分の方から別離《わかれ》を告げましたよ――尤《もっと》も僕の場合には、先方《さき》に許婚《いいなずけ》の人がありましたがね」
 岸本は平素めったに口にしたためしも無いようなことを皆の前に言出した。

        百二十五

 岸本はこの仏蘭西の旅に上って来た時、神戸の旅館で思いがけなく訪ねて来てくれた二人の婦人に邂逅《めぐりあ》ったことを忘れずにいる。二十年の月日を置いて逢って見たあの人達はもう四十を越した婦人でも、二十年前に亡《な》くなった人は何時《いつ》までも同じ若さの女として岸本の胸に残っている。彼が岡や小竹を前に置いて思わず言出したのは、あの神戸で邂逅った婦人等の旧《ふる》い学友にあたる勝子のことであった。青木、市川、菅《すげ》、足立《あだち》――それらの友人と互いに青春を競い合うような年頃に、岸本はあの勝子に逢《あ》った。すべてまだ若いさかりの彼に取って心に驚かれることばかりであった。不思議にも、世に盲目と言われているものが、あべこべに彼の眼を開けてくれた。彼の眼は勝子に向って開けたばかりでなく、それまで見ることの出来なかった隠れた物の奥を読むように成った。彼は自分の身の周囲《まわり》にある年長《としうえ》の友達や先輩の心にまで入って行くことが出来たばかりでなく、ずっと遠い昔に情熱の香気の高い詩歌なぞを遺《のこ》した古人の生涯を想像し、誰しも一度は通過《とおりこ》さねば成らないような女性に対する情熱をそれらの人達の生涯に結び着けて想像するように成った。若い生命《いのち》がそこから展《ひら》けて行った。
 しかし彼の前に展けた若い生命とは、そう明るく楽しいばかりのものではなくて、寧《むし》ろ惨憺《さんたん》たる光景に満たされた。彼は自分の手から※[#「てへん+宛」、第3水準1-84-80]《も》ぎ放されて結局父親の命ずるままに他へ嫁いて行く勝子を見た。簡単に言えば、彼が貧しかったからである。彼は同じ年の若さであっても、今少し豊かな家に生れたならば彼女を引留め得べき多くの暗示を受けたことを忘れることが出来なかった。彼のささげ得るものとては、一片の心のまことに過ぎなかった。「わたしはお前を愛する、わたしの身体《からだ》はもう死んだも同じものだ、残るものは唯《ただ》お前を慕う心があるばかりだ」こう言いながら勝子は父親の手に引かれて行ってしまった。彼はそれを自分の身に経験したばかりでなく、彼の周囲にあった友人の場合にも経験した。市川のような賢い青年であっても、情人の姉なり親戚《しんせき》なりに経済上の安心を与え得なかったものは失敗した。そして日本橋|伝馬町《てんまちょう》の鰹節《かつおぶし》問屋に生れた岡見は成功した。この事実は彼の若い心に深い感銘を刻みつけた。愛の為《な》すなきを悟ったのは実にその時であった。
 小竹や牧野の楽しい笑声が岸本の前で起った。国の方に細君を残して置いて来たというこの二人の画家はわだかまりの無い笑声に紛らして、岡の心を慰めようとしていた。一切を葬る時が来たと言わぬばかりに腕組して考えている岡を見ると、岸本は若い時の自分を眼前《めのまえ》に見るという程ではないまでも、すくなくもそれに似よりの心持を起した――勝子がまだ生きている頃の彼と、岡とは、弟と兄ぐらいの年齢《とし》の相違であったから。

        百二十六

 若かった日のことを思い出すと同時にきまりで岸本の胸に浮んで来る青木の名は、よく彼の話に出るので、岡や牧野にも親しみのあるものと成っていた。彼はあの二十七歳ばかりで惜しい一生を終った友人の言葉を岡の前で思い出した。
「青木君がそう言いましたっけ。『この世にあるもので、一つとして過ぎ去らないものは無い、せめてその中で、誠を残したい』ッて。僕は岡君にあの言葉をすすめたいと思うね」
 こう岸本は岡の方を見て言った。日の暮れる頃まで彼はその画室で話した。その年の正月に巴里《パリ》にある心易《こころやす》い連中だけが集まって、葡萄酒《ぶどうしゅ》を置き、モデルに歌わせ、皆子供のように楽しい一夕《いっせき》を送った時の名残《なごり》は、天井の下の壁から壁へ渡した色紙も古びたままで、まだ牧野の画室に掛っていた。やがて岸本は辞し去ろうとした。牧野は町まで買物があると言って、岡のことを心配しながら岸本に随《つ》いて来た。
 牧野は町に出てから言った。
「今度という今度はさすがの岡も力を落したようですよ」
「まあ、さんざん哭《な》き給えとでも言うより外に仕方が無いね」と岸本も一緒に日暮方の歩道を踏みながら、「あの人のことだから、いずれ何かその中から掴《つか》んで来るでしょう」
「僕の妹を仮りにくれろと言われたところで、僕だって考えますよ。美術家同志というものはあんまり内幕を知り過ぎていて反《かえ》っていけない。妹にまで同じ苦労をさせようとは思いませんからね」
 こんな言葉をかわしながら歩いて、往きかう人の可成《かなり》にあるパスツウルの通りで岸本は牧野に別れた。
 マロニエの並木の芽も一息に延びそうな、何となく三月らしい日暮方であった。七時の夕飯まではまだ間があった。岸本は牧野の画室で引出された心持や、若い時分の友達のことや、それに連れて一緒に胸に浮んで来るあの勝子のことなぞを思いながら、底暖かい町の空気の中を自分の下宿の方へ帰って行った。
「今だに盛岡のことなぞをよく思い出すところを見ると、矢張《やはり》あの人には女らしい好いところが有ったんだナ」
 道すがら岸本はそれを言って見た。盛岡とは勝子の生れた郷里だ。伝馬町とか、西京とか、昔はよく市川や菅などと一緒になる度《たび》にはそんな符牒《ふちょう》が出たものだ。
 岸本が岡の落胆を思いやる心は、やがて勝子の結婚を聞いた時の昔の自分の心だ。確かにそれは若い時の彼に取って打撃であった。見知らぬ新婚の夫婦なぞを町で見かけたばかりでも彼の若い心は傷《いた》んだ。しかし勝子の死を聞いたことは、それよりも更に大きな打撃であった。彼女は結婚して一年ばかり経《た》った後、妊娠中のつわりとやらで、まだ女の若いさかりの年頃で亡《な》くなった。その話を聞いた時の彼には、何となくそこいらが黄色く見えて、往来の土まで眼前《めのまえ》で持上るかのようにすら感じられた。暗い月日がそれから続いた。多くの艱難《かんなん》も身に襲って来た。彼は自分の沮喪《そそう》した意気を回復するまでにどれ程の長い月日を要したかを今だによく想い起すことが出来る。
 仙台の旅はこうした彼の心を救った。一生の清《すず》しい朝はあの古い静かな東北の都会へ行って始めて明けたような気がした。しかし彼はもう以前の岸本では無かった。それから後になって彼が男女の煩《わずら》いから離れよう離れようとしたのも、自分の方へ近づいて来る女性を避けようとしたのも、そして自分|独《ひと》りに生きようとしたのも――すべては皆一生の中《うち》の最も感じ易《やす》く最も心の柔かな年頃に受けた苦《にが》い愛の経験に根ざしたのであった。

        百二十七

「青木君が亡くなってから、もう何年に成るだろう」
 四十いくつかの窓に燈火《あかり》の望まれる産科病院の前に帰ってからも、岸本は自分の部屋の暖炉の上に置いてある洋燈《ランプ》の前に行って、昔の友人に別れてから以来《このかた》のことを辿《たど》って見た。あの青木や、足立や、菅や、市川や、それから岡見兄弟なぞと一緒に踏出した時分の心持を辿って見た。
 夕飯後に、下宿の女中が来て、大急ぎで部屋の窓を閉めて行った。
「窓から燈火が見えると、警察でやかましゅうございますから」
 と女中はそんな戦時らしい言葉を残して出て行った。
 岸本は黄色な布《きれ》の蓋《かさ》のはまった古めかしい感じのする洋燈を自分の机の上に移した。その燈火に対《むか》っていると、彼の心は容易に妻を迎える気に成らなかった結婚前の時へも行き、先輩の勧《すす》めで婚約した園子は曾《かつ》て娘の時分に同じ学校を早く卒業したあの勝子から物を習った人であったことなどへも行き、初めて園子と一緒に小鳥の巣のような家を持った楽しい新婚の当時へも行った。
「父さん、私を信じて下さい……私を信じて下さい……」
 あの園子の言葉、結婚して十二年の後に夫の腕に顔を埋《うず》めて泣いたあの園子の言葉は、岸本が妻から聞いた一番|懐《なつか》しみの籠《こも》った忘れ難い言葉であった。愛することを粗末にも考えまいとして、彼は苦い人生を経験した。彼は失ったものを取返そうとして、反《かえ》って持っている者までも失った。園子が産後の出血で、殆《ほとん》ど子供等に別れの言葉を告げる暇《いとま》もなくこの世を去った頃は、彼は唯《ただ》茫然《ぼうぜん》として女性というものを見つめるような人になってしまった。もし彼がもっと世にいう愛を信ずることが出来たなら、子供を控ての独身というような不自由な思いもしなかったであろう。親戚《しんせき》や友人の助言にも素直に耳を傾けて、後妻を迎える気にも成ったであろう。信の無い心――それが彼の堕《お》ちて行った深い深い淵《ふち》であった。失望に失望を重ねた結果であった。そこから孤独も生れた。退屈も生れた。女というものの考え方なぞも実にそこから壊《くず》れて来た。
 旅に来て、彼は姪《めい》からかずかずの手紙を受取った。いかに節子が彼女の小さな胸を展《ひろ》げて見せるような言葉を書いてよこそうとも、彼にはそれを信ずる心は持てなかった。

        百二十八

 ソクラテスの死をあらわした例の古い銅版画の掛った壁を後方《うしろ》にして、寝台に近く岸本は腰掛けた。そして自分の半生を思い続けた。
「情熱あるものといえども、真にその情熱を寄すべき人に遇《あ》うことは難い」
 これは岸本が春待つ旅の宿で故国の新聞紙への便《たよ》りの端に書きつけて見た述懐の言葉であった。夜の九時と言えば窓の外もひっそりとして、往来《ゆきき》の人の靴音も稀《まれ》にしか聞えないような戦時らしい空気の中で、岸本は自分で書いた言葉を繰返して見た。漸《ようや》く八歳の頃に既に激しい初恋を知ったほどの性分に生れつきながら、異性というものを信ずることも出来なくなってしまったような半生の矛盾を考えて見た。
 京都大学の高瀬が隣室に居た頃、柳博士等と連立って訪《たず》ねて行ったあのペエル・ラセエズの墓地にあるアベラアルとエロイズの墓は、まだありありと岸本の眼に残っていた。あの名高い中世紀の僧侶《ぼうさん》は弟子であり情人である尼さんと終生変ることのない愛情をかわしたというばかりでなく、死んだ後まで二人で枕《まくら》を並べて、古い黒ずんだ御堂の内に眠っていた。そこにあるものは深い恍惚《こうこつ》の世界の象徴だ。想像も及ばぬ男女の信頼の姿だ。「さすがにアムウルの国だ」などと言って高瀬は笑ったが、岸本にはあの墓が笑えなくなって来た。仮令《たとえ》アベラアルとエロイズの事蹟《じせき》が一種の伝説であるというにしても。岸本はあの四本の柱で支《ささ》えられた、四つのアーチのどの方面からも見られるカソリック風な御堂の中に、愛の涅槃《ねはん》のようにして置いてあった極く静かな二人の寝像を思出した。あの古い御堂を囲繞《とりま》く鉄柵《てっさく》の中には、秋海棠《しゅうかいどう》に似た草花が何かのしるしのようにいじらしく咲き乱れていたことを思出した。彼はその周囲《まわり》を廻《めぐ》りに廻って二つ横に並んだ男女のすがたを頭の方からも足の方からも眺《なが》めて、立ち去るに忍びない気のしたことを思出した。まるでお伽話《とぎばなし》だ、と彼は眼に浮ぶ二人の情人のことを言って見た。しかし、お伽話の無い生活ほど、寂しい生活は無い。彼は最早《もう》自分の情熱を寄すべき人にも逢わず仕舞《じまい》に、この世を歩いて行く旅人であろうかと自分の身を思って見た。そう考えた時は寂しかった。
 その晩、岸本は遅く部屋の寝台に上った。枕に就《つ》く前にも、床の上に半ば身を起していて、若い時分の友達のことや、自分の青年時代のことを思い出した。あの早くこの世を去った青木に別れた時から数えると、やがて二十年近くも余計に生き延びた自分の生涯を胸に浮べて見た。彼は唯持って生れたままの幼い心でその日まで動いて来たと考えていた。気がついて見ると、どうやらその心も失われかけていた。
「そうだ。何よりも先《ま》ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない」
 と言って見た。旅に来てその晩ほど、彼は自分の若かった日の心持に帰って行ったことは無かった。

        百二十九

 頑《かたくな》な岸本の心にも漸くある転機が萌《きざ》した。もし国の方へ帰らないことに方針を定め、全然知らない人の中へ踏込んで行こうとするには、この戦時に際してどういう道が彼の前にあったろう。今は十八歳から四十八九歳までの仏蘭西《フランス》人が国難に赴《おもむ》いている。学芸に携わるものでも、ビヨンクウルの書記のように自転車隊附として働いているものがあり、ラペエの詩人のように輸送用の自動車に乗って働いているものもある。もし義勇兵に加わっても知らない人の中へ行こうとするほどの心を有《も》つならば、無理にも行く道が無いではなかった。けれども岸本はこれ以上深入して、国の方に残して置いて来た子供等を苦めるには忍びなかった。そこまで行って、漸く彼には帰国の決心がついた。
 義雄兄からはなるべく早く帰って来てくれとした手紙が来るように成った。岸本は兄に宛《あ》ててこの決心を書送った。ともかくも来《きた》る十月の頃まで待ってくれ、それまでには帰国の準備をしたいと思うし、二度と出掛けて来るような機会が有ろうとは一寸《ちょっと》思われないから、出来るだけこの旅を役に立てたいと思うと書送った。
「岸本さん、スエズを経由して日本の方へ帰ります」
 短い言葉に無量の思いを籠《こ》めた絵葉書が千村教授の許《もと》から届いた。それを手にして見ると、岸本は旅の空で懇意になったあの千村の声を親しく聞く気がした。千村は郵船会社の船で倫敦《ロンドン》から帰東の旅に上る時にその便りをくれたのであった。亜米利加《アメリカ》廻りで帰りたいという便りのあった高瀬の出発も最早遠くはあるまいと思われた。
 岸本は部屋の窓へ行って、千村が泊っていた旅館を望んだ。窓の外にあるプラタアヌの並木はまだまだ冬枯そのままであった。その疎《まばら》な枝と枝の間を通して、千村の旧《ふる》い部屋の窓や、その下の方の珈琲店《コーヒーてん》の暖簾《のれん》や、食事の度《たび》に千村が通って来た町の道路などをよく見ることが出来た。あの人達が去った後でもまだ続いている欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争、独《ひと》り見る巴里の三月の日あたり、それらの耳目に触れるものから起って来る感覚は一層岸本の心を居残る旅らしくした。彼はその窓際《まどぎわ》に立って遠く帰って行く旅の人を見送ろうとするかのように、千村の航海を想像した。彼の心は神戸から自分を乗せて駛《はし》って来た仏蘭西船へ行き、あの甲板の上から望んで来た地中海へ行き、紅海へ行き、亜剌比亜《アラビア》海へ行った。恐ろしい永遠の真夏を見るような印度《インド》洋の上へも行った。コロンボ、新嘉坡《シンガポール》、その他東洋の港々の方へも行った。彼は往《ゆ》きと還《かえ》りの船旅を思い比べ、欧羅巴を見た眼でもう一度殖民地を見て行く時の千村を想像し、漠然《ばくぜん》とした不安や驚奇やは減ずるまでも、より豊かな旅の感覚の働きは反《かえ》って還りの航海の方に多かろうと想像した。彼はまた千村が再び母国を見得るの日を思いやって、二年前一切を捨てる思いをして遠く波の上を急いで来た自分の身にも、それと同じような日がいずれは来るように成ったことを不思議にさえ思った。

        百三十

 温暖《あたたか》い雨がポツポツやって来るように成った。来るか来るかと思ってこの雨を待侘《まちわ》びていた心地はなかった。五箇月も前から――旅の冬籠《ふゆごも》りの間――岸本は唯そればかりを待っていたようなものであった。リモオジュの旅以来、彼の周囲には何が有ったろう。仏蘭西国境の山地寄りの方では塹壕《ざんごう》が深く積雪のために埋められたとか、戦線に立つものの霜焼《しもやけ》を救うために毛布を募集するとか、そうした労苦を思いやる市民の心がその日まで続いて来た。彼の耳にする話は一つとして戦争の惨苦を語らないものは無かった。開戦以来、五六十万の仏蘭西人は既に死んでいるとの話もあった。この戦争が終る頃には満足な身体《からだ》で巴里へ帰って来るものは少かろうとの話もあった。彼が町で行き遇《あ》う留守居の子供でも婦女《おんな》でも老人でも、やがて来る春を待侘びていないものは無かった。寒苦、寒苦――この避け難い戦争の悩みの中で、世界の苦の中で、草木の再生がやがて自分等の再生であることを願っていないものは殆ど無いかのように見えた。
 毎日のように岸本は部屋の壁に掛る仏蘭西の暦の前へ行った。日も余程長くなって来た。空も明るくなって来た。最早|煖炉《だんろ》なしに暮すことも出来た。一雨|毎《ごと》に彼は春の来るのを感じた。漸くマロニエの芽もふくらんで来るように成った。彼はあらゆる草木が復活《いきかえ》る中で、やがて来る若葉の世界を待つのを楽みにした。白い蝋燭《ろうそく》を立てたようなマロニエの花が若葉の間に咲いて、冷い硝子窓《ガラスまど》からも、石の壁からも、春の焔《ほのお》が流れて来るのは最早遠くは無かろうと思われた。
 そよそよと吹いて来る夕方の南風に乗って独逸《ドイツ》の飛行船までがやって来るように成った。ある仏蘭西の記者の言草ではないが、あの「空中の海賊」が巴里の市中と市外とに爆弾を落して行った最初の夜は、岸本はその騒ぎも知らずに熟睡していたくらいであった。翌晩、けたたましい物音に彼は床の上で眼を覚《さま》した。喇叭《らっぱ》を鳴して飛ぶ警戒の自動車が深夜の町々を駆け巡《めぐ》った。復《ま》た彼は敵の飛行船の近づいたことを知った。急いで部屋を出て見ると、台所には震えながら祈祷《いのり》をあげている下宿の主婦《かみさん》がある。屋外《そと》には暗い空を仰いで稲妻《いなずま》のような探海燈の光を望む町の人達がある。こうした巴里に身を置いても、彼はそれほど恐ろしくも思わないまでに戦時の空気に慣れて来た。「燕《つばめ》のかわりに飛行船が飛んで来ました」そんなことを云って下宿の人達を苦笑《にがわら》いさせた位であった。それよりも彼はこうした巴里の状況が電報で伝えられて、遠く国の方に居る親戚や知人を心配させることを気遣《きづか》った。
 岸本は旅の窓で、自分を待暮している泉太や繁のことを思い、義雄兄|宛《あて》に知らせてやった帰国の時が子供等の耳に入る日のことを想って見た。それから、もう一度あの不幸な節子を見る日の来ることをも想って見た。それを考えると思わず深い溜息《ためいき》が出た。
 眼前《めのまえ》の戦争から、岸本はその中に動いているいろいろな人の心を読むように成った。丁度あの「アンナ・カレニナ」の終に書いてあるヴロンスキイの出発のようにして、進んで戦地に赴《おもむ》き、自ら救おうとする若い仏蘭西人のあることを彼は想像するに難くなかった。戦争を遊戯視し、まるで串談《じょうだん》でも為《し》に行く人のようにして親しい家族や友人に停車場まで見送られたというブロッスの教授の子息《むすこ》さんのことも彼は聞いて知っていた。その心を思うと、実に可傷《いたいた》しかった。死の中から持来す回生の力――それは彼の周囲にある人達の願いであるばかりでなく、また彼自身の熱い望みであった。春が待たれた。
[#改ページ]

     『寝覚』附記

「寝覚」は、『新生』の改題。
 こんな悲哀と苦悩との書ともいうべきものを、今更読者諸君におくるということすら気がひける。しかし、これなしにはあの『嵐』にまで辿《たど》り着いた自分の道筋を明かにすることも出来ない。
 この作、もと二部より成るが、本来なら更に一部を書き足《た》し全体を三部作ともして、結局この作の主人公が遠い旅から抱《いだ》いて来た心に帰って行くまでを書いて見なければ、全局の見通しもつきかねるような作で、人生記録としてもまことに不充分なものではある。それに、これを書いた当時と二十年後の今日《こんにち》とでは、周囲の事情も異り、人も変り、そういう自分の心の持ち方も改まって来ている。そんなわけで、この文庫第七篇のためにはむしろ第一部を選び、作中の主人公が遠い旅に出るから帰国を思うまでのくだりにとどめ、題も『寝覚』と改めた。
 今日になって見ると、これを書いた当時わたしは新生という言葉に拘泥し過ぎたことに気づく。新生が新生であるというのは、それの達成せられないところにある。そう無造作に出来るものが新生でもない。その意味から言っても、今回改題の『寝覚』こそ、むしろこの作にふさわしい。
 この作の第一部は大正七年四月に着手し、東京大阪両朝日紙上に発表した。時に四十七歳。第二部を脱稿したのはその翌年九月のことであった。昭和二年(民国十六年)に、この作は北京《ペキン》大学の徐祖正氏の訳により支那《しな》語に移され、北新書局というところから出版せられた。自分の著作が隣国読書人の間に紹介せられたのも、それが最初の時であった。因《ちなみ》に、翻訳家としての徐氏はわたしたちが想像も及ばないような苦心を積まれるものらしく、これを支那語に訳出するためにはかなりの年月を要せられたという。そのことは徐氏は手紙でわたしのもとへ書いてよこしてくれ、またその訳書の長い序文のはじにも、「此書因種々事故、遷延甚久。如今以這篇年譜為最後工作。在此※[#「目+分」、第3水準1-88-77]望此書之快成、併敬祝原著者健康。」としてあったのも忘れがたい。
 この『寝覚』第一部の終の方には作中の主人公が亡《な》き父を思うという一節も出て来るが、今日から見るとその父の取扱い方には不充分な点も多い。子として父の俤《おもかげ》を写して見ようとする場合にすらそれだ。まして他の人の俤をやである。それにつけてもつくづく創作の難《むずかし》いことを知る。のみならず自分はまだ血気|壮《さか》んな頃でもあったから、当時深い感慨をもってこの作に筆を執ったので、自分ながら冷静を欠いたと思われるふしもすくなくない。ただただ自分はこれを書くに当って、熱い汗と、冷い汗とを流しつづけた。内容が内容であるだけに、いろいろな問題を引き起したのもまたこの作であった。しかしわたしは多くの場合に黙して来た。自己を反省することの深ければ深いほど、黙しているのが順当であろうと思われたからであった。
 ここに載せる『寝覚』は言わば部分であるが、しかしこれはこれとして、一つの作品とも考えられようかと思う。猶《なお》、いろいろ書きつけて見たいことも多いが、ここに尽せない。
[#改丁、ページの左右中央]

    第二巻

[#改ページ]

        一

 三年近い月日が異郷の旅の間に過ぎた。遠い島にでも流された人のように自分の境涯をよく譬《たと》えて見た岸本は、自分で自分の手錠を解き腰繩《こしなわ》を解く思いをして、侘《わび》しい自責の生活から離れようとしていた。
 帰国の日も近づいて来た。降誕祭《クリスマス》の前には既に来る筈《はず》であったその日も半年ほど延びて、旅で迎える三度目のあの祭と、翌年の正月とをも、岸本は巴里《パリ》の下宿の方で送った。あの仏国汽船でマルセエユの港に辿《たど》り着き、初めて仏蘭西《フランス》の土を踏んで見た頃から数えると、最早《もう》足掛四年にも成る。国を出た当時の彼の決心から言えば、全く後方《うしろ》を振返って見ないで、知らない土地へ行き、知らない人の中へ入り、そして心の悲哀《かなしみ》を忘れようとしたのであって、生きて還《かえ》れる日のあるかどうかと云うようなことは全く考えられもしなかった。ひょっとすると神戸の港も見納めだ。そう思って出て来た国の方へもう一度足を向けようとすることは、いかにもおめおめと帰って行くような気を起させる。けれども戦時以来旅の方法も尽きて来て、この上の滞在は人に心配を掛けるばかりであったし、国の方に残して置いて来た子供等のこともひどく心に掛った。それに抑制と忍耐との三年近い苦行(?)をまがりなりにも守りつづけて来たことは多少なりとも彼の旅の心を軽くした。彼は出獄の日を待受ける囚人のようにして、もう一度国の方に自分の子供等を見得るの日を待受けた。そろそろ遠い旅支度《たびじたく》をも心掛けねば成らなかった。鞄《かばん》に入れて国から持って来た和服の中には、部屋衣《へやぎ》としてよく取出して着た羽織や着物がある。その中には、亡《な》くなってからもう何年になるかと思われるほどの妻の園子の形見として残った一枚の下着もある。その下着の紺絹のついた裏なぞはすっかり擦切《すりき》れてしまった。巴里に滞在中、東京の元園町の友人の家からわざわざ送り届けてくれた褞袍《どてら》は随分役に立って、長い冬の夜なぞは洋服の上にそれを重ね寛濶《かんかつ》な和服の着心地《きごこち》を楽みながら机に対《むか》ったものであったが、その丈夫な褞袍ですら裾《すそ》から白い綿が見えるほどに成った。秋の末から春のはじめへかけて毎年のように身に着けた背広の服は国の方へ持って行かれないほど着古してしまった。彼は赤い着物でも脱ぎ捨てるように、その古い背広を脱ぎ捨てようとしていた。旅の末には、下宿の部屋の汚《よご》れも眼についた。彼はその長く住慣れた部屋にも別れを告げようとしていた。ある時は眼に見えない牢屋《ろうや》のような思いをしたこともある部屋の石の壁にも。ある時は我と我身を抱き締めるようにして、旅の前途を思い煩《わずら》いながら眺《なが》め入ったこともある部屋の硝子窓《ガラスまど》にも。
「還るのを赦《ゆる》されるのだ」
 と彼は自分で自分の帰国のことを言って見た。

        二

 帰支度をする頃の岸本には、何となく国も遠くなってしまった。彼は三年近くも見ない自分の子供等の急激な成長をどれ程のものともはっきり想像することすら出来なかった。彼の眼にあるは旧《もと》の新橋停車場で別れて来たままの何時《いつ》までも同じように幼い子供等の姿に過ぎなかった。欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争はまだ続いていて、下宿と同番地の家番《やばん》の亭主などは出征したぎり、稀《たま》に戦地の方から休暇を貰《もら》って帰って来て顔を見せるくらいのものであったが、そこに留守居する家番のかみさんの子供等は驚くほど大きく成った。階段の昇降《あがりおり》に、岸本はそこいらに遊び戯れている仏蘭西の子供等の側《そば》へよく行った。皆が幾歳《いくつ》になるかということをよく尋ねた。黒い上衣《うわぎ》に短い半ズボンを穿《は》いて脛《すね》をあらわした仏蘭西風の子供の風俗は、国の方で見るものとは似てもつかないようなものばかりだ。でも岸本は側へ来る子供の青い眸《ひとみ》なぞに見入って、国の方に自分を待つ泉太や繁の成長を想像した。これから彼が帰って行って見る泉太はもう十二歳、繁の方は十歳にも成る。
 国を出る時子供を頼んで置いて来た節子のことも、泉太や繁の成長を想像すると同時に、岸本の胸に浮んで来た。下宿の主婦《かみさん》の姪《めい》という人は、可哀そうにあの人の婚約して置いた末《すえ》頼もしい仏蘭西人も戦地の方へ行って死んだとやらで、今ではリモオジュの田舎《いなか》の方に帰っているが、あの主婦の姪が丁度節子と同年だ。彼女は気味の悪いほど赤く縮れた髪をもった、巌畳《がんじょう》な体格の女で、リモオジュから主婦の手伝いに巴里へ出て来たばかりの頃《ころ》はいかにも田舎臭い娘であったが、その人がもう一度田舎の方へ帰って行く頃には見違えるほど巴里の風俗を学んで、働き好きな娘らしい手なぞにもさすがに若い女のさかりを思わせるものがあった。背は主婦よりも高かった。この人を通して岸本はよく自分の姪の成長を想像した。若い娘のようにばかり思っていた節子がもう二十四だ。
 節子からの便《たよ》りは岸本が下宿を引揚げる前に届いた。彼女はつつましやかな調子で、叔父さんのために帰国の旅の無事を祈るということや、留守宅の子供も極く丈夫で叔父さんの帰りを待侘《まちわ》びているということや、しかし叔父さんが遠からず国に帰ってこの留守宅の様子を見たらどう思うであろうか、それが気遣《きづか》われるということなぞを書いてよこした。
「力強い御留守居も出来ないで、ほんとに御免なさいね」
 こんな言葉もその中に書いてあった。
 最早|一頃《ひところ》のように恐ろしく神経の尖《とが》った、可傷《いたいた》しい調子は彼女の手紙の中に無かった。殊《こと》にその最近の便りは、旅に来て岸本が彼女から受取ったかずかずの手紙の中でも一番|心易《こころやす》く読めるような、わだかまりの無い調子で書いてあった。
「節ちゃんもこういう調子でいてくれると難有《ありがた》い」
 思わず岸本はそれを言って見た。同時に、その年齢《とし》までまだ身もかため得ずにぶらぶらしているらしい彼女の事が、何となく無言な力をもって岸本の胸に迫って来た。

        三

 国の方で持上《もちあが》る節子の縁談に就《つ》いては、岸本は全くそれを知らないでも無かった。東京の義雄兄からは、まだそんな話のきまらない前に、一度巴里へ知らせてよこしたことも有った。岸本はその便りを読んだ時に、節子には早く身を堅めさせたいというあの兄の焦《あせ》った心を知り、先方《さき》の望み手というは毎月六七十円の収入のある勤め人であることを知り、その人が徳川時代に名高かったある学者の子孫にあたるということをも知った。兄はまた、その縁談の纏《まと》まることを希望しているとも書いてよこした。その後、兄からは何の沙汰《さた》もなく、節子自身からの折々の便りの中にも何もその事に就いて書いて無いところを見ると、恐らくその話は立消《たちぎえ》になったものであろうと思われたが――
 こうした消息を胸に浮べて見る度《たび》に、節子が人知れず産み落した子供のこと、切開の手術を受けたという彼女の乳房のこと、何事《なんに》も知らない人が一寸《ちょっと》見たぐらいでは分らないまでに成ったという彼女の身体《からだ》のこと――否《いや》でも応でも岸本の心はそれらの打消しがたい隠れた秘密に触れない訳には行かなかった。これから国をさして帰って行こうとする彼は、過ぐる三年近くの間自分の顔をそむけようとし、心の眼を塞《ふさ》ごうとし、どうかして旅に紛れて忘れよう忘れようとした、その恐しいものに面とむかわねば成らない。彼は写真の中で見てさえマブしいような義雄兄の前に自分を持って行って見た。一語《ひとこと》世話を頼むとも言えずに子供を置いて逃出して来た嫂《あによめ》の前に自分を持って行って見た。何事《なんに》も知らずに住慣れた郷里を離れて嫂と共に上京した祖母《おばあ》さんの前に自分を持って行って見た。それから、それらの人達の集っている中で、もう一度帰って行って逢《あ》う節子の前にも自分を持って行って見た。
 岸本は嘆息して、この帰国の容易でないことを想った。しかし、もう一度夜明を待受けるような心をもって、彼はそれらの人達の方に向おうとした。せめてあの嫂だけには一切を打明けよう、そしてこれまでのことを詫《わ》びようと考えた。不幸な節子のためにも自分の力に出来るだけのことをしよう、彼女の縁談のことにも骨折ろうと考えた。岸本に取っては、この帰りの旅はすくなからぬ精神《こころ》の勇気を要することばかりであった。

        四

 戦争の影響は岸本が泊っているような下宿にまで及んで、そこから陸軍病院へ通っていた眼科医の客も去り、家庭教師の客も去り、終《しまい》には客は岸本一人になってしまった。食堂も極く淋《さび》しかった。諸物価騰貴でヤリキレないとこぼしこぼししていた主婦《かみさん》が結局そこを畳んで戦争の終る頃までリモオジュの田舎へでも引込みたいと言出したので、それを機会に岸本は長く住慣れた下宿を去ろうとした。そして、何かにつけ旅立《たびだち》に便利なソルボンヌ附近の旅館の方に移ろうとした。
 まだ岸本は巴里を引揚げる日取も定めることは出来なかった。遠い旅のことで、国の方から来る手紙を待つだけにも可成《かなり》の日数を要した。旅行も困難な時であったから、途中のこともいろいろ問合せて見ねば成らなかった。それによって帰国の旅の方針を定めねば成らなかった。遠く喜望峰《きぼうほう》を経由して、印度《インド》洋から東洋の港々を帰って行く長い航海の旅を択《えら》ぼうか。それとも多少の危険を冒し、途次《みちみち》厳《きび》しい検閲で旅の手帳を取上げられるくらいのことは覚悟しても、英吉利《イギリス》から北海を越え、日頃見たいと思う北欧羅巴の方を廻って、西比利亜《シベリア》を通って帰って行く汽車旅を択ぼうか。遠い露領の果の方には叔父の帰りを待受けると言ってよこした輝子(節子の姉)夫婦も住んでいた。いずれにしてもそうやすやすと帰って行かれる時ではなかった。岸本はその二つの中の何方《どちら》の道を択ぼうかということにさえ思い迷った。
 巴里で岸本が懇意になった美術家仲間の中でも、小竹は既に国へ帰り、岡はしばらくリオンの方へ行っていた。例のパスツウルに近い画室には岸本と一緒に巴里を引揚げようと約束した牧野が居て、この画家は帰りの旅の打合せかたがたよく岸本の下宿へ顔を見せた。
「国の方ではどういうものが僕等を待っていてくれますかサ」牧野を見る度《たび》に、岸本はそれを言わずにはいられなかった。
「留守宅でも困っているんじゃないかと思うんです。帰って行って見たら、第一その心配をしなけりゃ成るまいかと思うんです」
 こう岸本は日頃めったに牧野の前で言出したことも無い自分の留守宅の方の噂《うわさ》をすると、骨の折れる旅を続けて来た牧野はそれを聞いて点頭《うなず》いて見せた。
「二度とこういう旅をしようとは思いませんね」
 牧野を前に置いて、岸本はつくづく辛《つら》いことの多かった過ぐる三年近くの月日を思い出したように嘆息した。
 それが下宿の部屋で牧野を見る最終の時であった。岸本は旅館の方へ行ってから、ほんとうに旅支度を調《ととの》えたいと思った。いよいよ頼んで置いた辻馬車《つじばしゃ》が町の並木の側に来て、仮に纏《まと》めた荷物を送出すという前に、岸本は苦《にが》い昼寝の場所であった部屋の寝台の側へも行き、冷い壁にかかる銅版画のソクラテスの額の下へも行き、置戸棚《おきとだな》の扉《と》に張りつけてある大きな姿見の前へも行った。その部屋を去る頃の彼の髪は自分ながら驚くほど白くなっていた。

        五

 最早岸本は巴里にじっとしている在留者でなくして帰国の途に上りかけている旅行者であった。ソルボンヌの大学に近い旅館に移ってから、毎日のように彼は用達《ようたし》に出歩いた。これから倫敦《ロンドン》へ渡ろうとする手続きを済ますためには、巴里の警察署へも行き、外務省へも行き、英吉利《イギリス》の領事館へも行った。国の方の親しい人達への土産《みやげ》として、こころざしばかりの品々を探すためには、古いサン・ゼルマンの並木街なぞを歩き廻った。丁度セルヴァンテスの三百年祭も来ていて、あの「ドン・キホオテ」を書いた西班牙《スペイン》の名高い作者を記念するための新刊の著述なぞが本屋の店頭《みせさき》を飾っていた。学芸に心を寄せる岸本のような男に取っては、そうした新刊書の眼につく飾窓の前を通りながら、もう黄ばんだ若葉の延びて来ているマロニエの並木の間を往《い》ったり来たりした時には余計に旅らしい心を深くしたのであった。別離《わかれ》を告げるために、彼は日頃《ひごろ》懇意にした仏蘭西人の家々をも訪《たず》ねて見た。どの家を叩《たた》いても戦時らしい心持を起させないところは無かった。ビヨンクウルの書記の家へ行って見た。そこでは最早老婦人の姿は見えず、細君も留守で、二人の子供が家婢《おんな》を相手に淋しそうにしていた。ブロッスの老教授の家へ行って見た。そこでは戦地の方へ行っている若い子息《むすこ》の一人が負傷したとやらで、教授夫婦は見舞のために出掛けて、家婢が心配顔に留守番をしていた。
 いよいよ仏蘭西の旅も終に近いことを思わせるような夕方が来た。岸本は旅館の三階の部屋に独《ひと》り籠《こも》って、古い歴史のあるソルボンヌの礼拝《らいはい》堂の方から石造の町の建築物《たてもの》の間を伝わって来る鐘の音を聞きながら、東京の留守宅|宛《あて》の手紙を書いた。
 かねて岸本にはこの旅を終る頃に為《な》し遂《と》げたいと考えて置いたことが有った。巴里を引揚げる頃が来たら自分の髭《ひげ》を剃落《そりおと》してしまおう、そして帰国の途に上ろうと考えていた。不思議と言えば不思議、突飛《とっぴ》と言えば突飛な考えではあったが、心に編笠《あみがさ》を冠《かぶ》る思いをして国を出て来た岸本には別にそれが不思議でもなく突飛でもなかった。何か彼は現在の自分の心を実際に自分の身に現したかった。
 しばらく岸本は部屋の寝台に腰掛けて自分で自分の為ることを制止《おしとど》めようとして見た。しかし、かねての思いを遂げる時が来ていた。そこで彼は髭を落しに掛った。部屋には壁に寄せて造りつけた石の洗面台がある。その上に姿見がある。彼はその前に立って、自分で剃刀《かみそり》を執った。惜気《おしげ》もなく剃刀を動かす度に、もう幾年となく鼻の下に蓄《たくわ》えて置いたやつが曲《ゆが》めた彼の顔を滑《すべ》り落ちた。好くも切れない剃刀で、彼は唇《くちびる》の周囲《まわり》の腫《は》れ上るほど力を入れて剃った。
 曾《かつ》て国の方で人を教えたこともある自分の姿のかわりに、ずっと以前の書生時代にでも帰って行ったような自分の姿がそこへ顕《あらわ》れて来た。最後に姿見の方へ行って剃り立ての顔を眺めた時は、今まで髭に隠れていた鼻の下あたりが青々として見えた。ところどころからは血も滲《にじ》み出た。
 岸本の顔はまるで変ってしまった。しかし彼はさも心地よげに、両手で口の周囲《まわり》を撫《な》で廻した。この顔でこそ、もう一度国の方へ帰って行って節子の親達にも逢えると考えた。

        六

「オヤ、大層さっぱりとなさいましたね」
 こういう意味のことを仏蘭西の言葉で言って、誰よりも先に岸本の顔を見つけたものは、翌朝《よくあさ》部屋の掃除に入って来た旅館の給仕であった。
 逢う人|毎《ごと》に岸本を見て噴飯《ふきだ》さないものは無かった。巴里の狭い在留者仲間で、外国生活の無聊《ぶりょう》に苦しんでいるような人達は、「村」での出来事か何かのようにして、有るべきところに有るものが有った以前の岸本の顔の方が余程《よほど》好かったと、彼のために突飛な行いを惜んでくれた。別れを兼ねての骨牌《かるた》の会、珈琲店《コーヒーてん》での小さな集りなぞがある度に、岸本は行く先で自分の顔の評を受けた。「髭のあった時分の顔には、なつかしみが有った。何だか髭を取ってしまったら、凄味《すごみ》が出て来た」と言って笑うものがあった。「まあどうなすったんですか。ほんとに、吃驚《びっくり》してしまいましたよ。そんなことを言っちゃ悪いけれども、岸本さんは気でも狂《ちが》ったんじゃないかとそう思いましたよ」と言うものもあった。「惜しいことをした。矢張《やっぱり》君には髭が有った方が好い。国へ帰るまでには是非|生《はや》して行き給え」と言って忠告してくれる人もあった。
「岸本さん、髭が無くなりましたね。何かそれには意味が有るんですか」
 同じ旅館に泊っている留学生が小旅行から戻って来て、それを岸本に尋ねた。この人は慶応出で岸本から見るとずっと年少《としした》ではあったが、何かにつけて彼の力になってくれた。
「昔、岸本さんは坊主にお成んなすったとか――」と復《ま》たその留学生が男らしい眉《まゆ》をあげて、岸本の方を強く見て言った。「何かそれと同じような意味でもあるんですかね」
 さすがに、この人の言うことは鋭かった。岸本は返事に窮《こま》って、
「自分の髪の白くなったのは鏡にでも向わなければ分りませんが、髭の白いのは見えて、心細くて仕様がありません。もう一度書生の昔に復《かえ》ろう。そう思って、君の留守に剃ってしまいましたよ――」これ以上のことは岸本には言えなかった。
 さかんな若葉の緑が何時《いつ》の間にか古めかしく黒ずんだ石造の町々の間へ青々とした生気をそそぎ入れるようにやって来た。岸本は独りで旅館を出て、大学の建築物《たてもの》の側《わき》をある並木街へと取り、オステルリッツの橋の畔《たもと》まで歩いて行った。すこし曇った日で、四月らしい明るい日あたりを見ることは出来なかったけれども、それがセエヌ河に近く行って見る最終の時であろうと思われた。岸本が初めて巴里に入ったのは足掛四年前の四月であったから、丁度巴里を発《た》つ前になってその時の若葉の記憶が復た彼の心に帰って来た。彼は今、石橋の下の方を渦巻き流れて行く清いセエヌの水を見る眼で、遅くも二月《ふたつき》か二月半ばかりの後にはあの旧《ふる》い馴染《なじみ》の隅田川《すみだがわ》を見ることが出来るかと考えた時は、まるで嘘《うそ》のような気がした。

        七

 セエヌの河岸《かし》の中でも、オステルリッツの橋の畔《たもと》から古いノオトル・ダムの寺院の見える中の島あたりへかけては岸本の好きな場所で、過ぐる三年の月日の間、彼はよくその河岸へ旅の憂《う》さを忘れに来た。故郷《ふるさと》なしには生きられないほど国の方にある一切のものの恋しかった時。一日二日の絶食を思うほど旅費も乏しく心もうら悲しかった時。行けるだけの旅を行き尽して一番最後に呼んで見たいものは、子供の時分に死別れた父の名でもなく、十二年も連添った亡き妻の名でもなく、何と言っても濁り気のなく感じ易《やす》い青年時代に知った最初の情人の名であったほど、それほど旅の心の閉じ塞《ふさ》がってしまった時。そういう時に彼が見に来たのはこの水だ。相変らずセエヌは高い石垣の下の方を冷く音も無く流れていた。彼はそれを右手に見ながら、新緑の並木の続いた河岸の歩道に添うて、旅館のある町の方角へと歩いた。
 仏蘭西の旅に来てから以来《このかた》のことが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。彼はこの旅のはじめに国から持って来て仏蘭西人の間に分けた植物の種子《たね》のことを思出した。あの中には中野の友人から贈られた茶の実ばかりでなく、築地《つきじ》の方に住む知人が集めてくれた銀杏《いちょう》、椿《つばき》、沈丁花《じんちょうげ》、その他都合七|種《いろ》ばかりの東洋植物の種子があったことを思い出した。あの土産は殊《こと》の外仏蘭西人にめずらしがられて、ブロッスの老教授の手から彼方《あっち》へ三粒、是方《こっち》へ四粒と分けられたが、ある日本美術|蒐集家《しゅうしゅうか》の庭には銀杏が生《は》えたという話のあったことを思い出した。あの種子の一部は植物園に移って、そこの主事から礼手紙の来たことを思い出した。その後戦争が始まってから植物園に近い教授の住居を訪《たず》ねた時、岸本の方からその事を言出して見ると、教授は仏蘭西人の癖らしく肩を動《ゆす》って、「この戦争では何もかも滅茶々々です」と言ったことを思い出した。
 折角遠いところから持って来た種子もどうなってしまったか。それを思い出すと、異郷の土ともなり得ずに国をさして戻って行こうとする自分の旅のことが一緒に成って岸本の胸の中を往来《ゆきき》した。東洋の果からやって来た彼のような人間は何処《どこ》まで行っても所謂《いわゆる》異国の人で、結局この土地の人達の生活には入り得なかったのだ。自分等は芸術に行くの外は無い、それによってこの土地の人達の生活に触れるの外は無い、こういう考えを彼はこの仏蘭西の旅の最初から起したが、彼のように書籍と睨《にら》めっくらばかりしていて土地の婦人にも近づかないでは、どう知らない人達の中へ行きようも無かった。女から入るということが一番自然な道だ、と彼に話し聞かせたある旅行者もあった。それには彼はあまりに自分を責め過ぎていた。あまりに自分の姪のことで深傷《ふかで》を負い過ぎていた。

        八

 しかし、もう一度結婚ということの方へ岸本の心を向けさせたのもこの異郷の旅であった。セエヌの河岸《かし》から旅館をさして戻って行く道すがら、岸本は三年前この旅に上って来た頃と今この異郷を辞する時と、その往《い》きと還《かえ》りの自分の心持の著るしい相違を思い比べながら歩いた。もともと彼の独身は深く女性を厭《いと》うところから来ていた。彼のように女性を厭いながら、彼のように女性を求めずにはいられなかったとは。旅に来て孤独を守り形骸《けいがい》を苦めるほど余計に彼はその自分の矛盾を思い知るように成った。周囲を見ると、妻のあるものは妻に逢《あ》うことを楽みに、妻の無いものは妻を迎えることを楽みにして、この無聊《ぶりょう》な外国生活から故国の懐《ふところ》へと帰って行かないものは無い。「国の方へ行ったら思うさま遊ぶぞ」こんなことを言って、遣瀬《やるせ》ない旅愁を紛らわそうとする旅行者もある。国の方の言葉、国の方の血、国の方の人――求めても得られない遠い異郷の空にあって、彼はしみじみそれらのものの難有味《ありがたみ》を知った。もしこれから無事に故国に辿《たど》り着くことが出来たら、自分も適当な人を見つけて、もう一度家庭をつくろうし、自分のために一生を誤ろうとした節子にも新しい家庭の人となることを勧めよう、こう彼は考えるように成った。独身の生活から引返して行って二度目の結婚を実行しようと思う心――その心でこそ、彼は再び節子を見ることが出来るとも考えた。
 巴里を発《た》つ前に、彼の再婚説に賛成してくれた一人の美術家もあった。その人は国の方に居る心あたりの婦人を思出して、候補者として勧めてくれるほど世話好きであった。その人はまた彼のためにわざわざ国の方へ手紙まで出して置いてくれた。
「どういうものが国の方で自分を待っていてくれるだろう」
 そう思って歩いて行くと、これから彼の前途に展《ひら》けて来る実際の光景は全く測り知り難いもののような気がした。
 屋並《やなみ》に商家の続いたサン・ミッシェルの並木街まで引返して行くと、文房具を並べたある店の飾窓が岸本の眼についた。その店で彼は自分の子供等のために仏蘭西《フランス》風の黒い表紙のついた帳面や色鉛筆なぞを見立てた。狭い鞄《かばん》の中へ入れて行く僅《わずか》の巴里土産《パリみやげ》でもいかに泉太や繁を悦《よろこ》ばすであろうと思った。それを提《さ》げて旅館へ戻ると、丁度年とった仏蘭西の婦人の訪《たず》ねて来るのに逢った。黒い帽子、黒い着物、黒い手套《てぶくろ》、一切黒ずくめだ。顔にまで黒い網を掛けていた。この戦時らしい喪服を着て訪ねて来た婦人が、長いこと岸本の泊っていた下宿の主婦《かみさん》だ。
 主婦は岸本の旅館まで礼を言いに来た。巴里滞在中、岸本がこの主婦に世話した同胞の客も少くなかったから。序《ついで》に主婦は岸本の末の女の児にと言って、仏蘭西風の人形を提げて来てくれた。
「この人形の頭巾《ずきん》でも、着物でも皆《みんな》私が手縫《てぬい》にしたものです。靴まで穿《は》いています。これをお嬢さんに進《あ》げて下さいまし。お国へお帰りになって解《ほど》いて御覧なさると、分ります。この人形は仏蘭西の女の子の着るものは皆身に着けています」
 こう言った後で、主婦は言葉を継いで、
「もしまた戦争の済んだ時分に、巴里で下宿したいという日本のお方がありましたら、御世話をなすって下さいまし。私もこの商売を廃《や》めてしまったでは御座いませんから」
 と附けたした。
 岸本の方でも礼を言って、二度と来て見る機会のありそうもないこの下宿の主婦にも別れを告げた。

        九

 巴里出発の日には、岸本は朝早く旅館を出て、行きつけの珈琲店《コーヒーてん》で最終の小さな朝飯をやった。麺麭《パン》と、珈琲とで。
 まだ出発|間際《まぎわ》までにはいくらかの時間があった。かねて岸本はこの都を去る前に、一番|終《しま》いにもう一度見て行きたいと思うほど好きな薔薇園《ばらえん》があった。その薔薇園がルュキサンブウルの公園内の美術館の裏手にあった。待ちに待った日がやって来て見ると、彼の足はその薔薇園の方へ向かないで、矢張長く住慣れた下宿のある町の方角へ向いた。彼はなだらかな岡の地勢を成したソルボンヌ界隈《かいわい》の町をパンテオンへと取り、あの古い建築物《たてもの》の側にあるルウソオの銅像の周囲《まわり》を歩いて、それからサン・ジャックの町の狭く長い石造の歩道を進んで行って見た。ヴァアル・ド・グラアスの陸軍病院の前から、ごちゃごちゃと雑貨の店の並んだ細い横町を通り抜けると、その町の角が以前の下宿のある建築物だ。主婦《かみさん》はもう世帯を畳んで他へ移って終《しま》ったから、高い窓々は皆閉きってあったが、三年の間机を置いて獄中で勉強した人のように新しい言葉を学んだその自分の部屋の窓がもう一度彼の眼にあった。まだ朝のうちのことで、日頃顔を見知った朝通いらしい人達、牛乳の罎《びん》を提げた娘、新聞を買いに出る町の下女なぞが高いプラタアヌの並木の間を往《い》ったり来たりしていた。岸本は天文台前の広場について、例のシモンヌの家へも一寸《ちょっと》別離《わかれ》の言葉を掛けに寄った。捕虜にでも成ったらしいという娘の父親は行方《ゆくえ》不明のままであった。二度とこんな旅に来ようとは思わない。それが岸本の腹の中にあっても、さすがにこの大きな都会ももう見られないかと思うと深い愛惜の心が湧《わ》いた。彼はサン・ミッシェルの並木街を旅館まで歩いた。
 岸本が一緒に巴里を引揚げようと約束したのは牧野ばかりでなく、他に二人の同胞の連《つれ》もあった。その人達はいずれも岸本と同じ旅館に泊っていた。やがて出発の時が来た。岸本は連と一緒に旅の荷物を辻待《つじまち》の自動車に載せ、サン・ラザアルの停車場を指《さ》して急いだ。町々は彼の見る車の窓から一目|毎《ごと》に消えて行った。
 停車場へは牧野や岸本を見に来てくれる人達も少くはなかった。戦時以来一緒に籠城《ろうじょう》の思いをしたり、日を定めて骨牌《かるた》に集ったり、希臘飯《ギリシャめし》を附合ったりした連中は、遠く帰って行く岸本等を見送りに来てくれた。英吉利《イギリス》行の兵卒や旅客なぞの往きかう混雑の中で、岸本はすっかり旅支度《たびじたく》の出来た牧野を見た。
「到頭《とうとう》岡君には逢わずじまいに発《た》って行くね」
「岡も何時《いつ》帰ることやら」
 岸本と牧野とは二人でリオンの方に居る岡の噂《うわさ》をした。
「牧野君、まだ僕は迷っていますよ。なるべくは君と一緒に船で帰りたいし、露西亜《ロシア》の方も廻って見たいし――」
「岸本さんはまだそんなことを言ってるんですか」
 巴里を発つ間際になるまで思い迷っている岸本の顔を見て、牧野は元気の好い声で笑った。ともかくも岸本は英吉利まで牧野等と同行することにした。それから先の旅程は倫敦《ロンドン》に着いて見た上で定めることにした。何と言っても戦時の旅であったからで。
 救いの船にでも乗るようにして、岸本は三人の連と一緒に汽車に移った。間もなく動いて行く車の窓から、彼は遠くサクレ・カアルの高塔に日の映《あた》るのを望んだ。あだかもあの岡の上に立つ古い石造の寺院までが彼の帰国を見送ってくれるかのように。それが最後に彼の望んだ巴里であった。

        十

 岸本はセエヌ河口にあたるアーヴルまで動いた。仏国、下セエヌ州にあるというその港までは、巴里から汽車で一日|要《かか》った。そこで仏蘭西の土地を離れて、彼は牧野等と共に夜の汽船で英吉利海峡を越した。
 旅行も困難な時であった。白耳義《ベルジック》仮政府の所在地として聞えたアーヴルでの税関が既にもう第一の関所で、容易には人を通さなかった上に、あの港から海峡を越してしまうまでの間がまた旅するものの難場《なんば》に当っていた。ひしひしと迫って来る物凄《ものすご》い海上の闇《やみ》にまぎれて進んで行く船の中で、何時《いつ》襲いかかるかも知れない敵を待受けるような不安な念慮《おもい》は、おちおち岸本を眠らせなかった。その数日前|独逸《ドイツ》潜航艇のために撃沈された汽船のあるという噂は一層その不安を深くさせた。サウザンプトンに着いて見ると、仏蘭西を出る時ほどの物々しい警戒もなかったが、そこの税関でも矢張容易には旅行者の素通りを許さなかった。連の牧野は鉛筆で税関の官吏のスケッチを作って見せて、それで自分を証拠立てたくらいであった。
 ともかくも岸本は無事に倫敦へ入ることが出来た。そして他の連に別れて、牧野と二人ぎりの旅となった。そこにある日本郵船会社の支店を訪ねて見た日に、彼は西伯利亜《シベリア》廻りの旅を断念した。牧野と連立って、阿弗利加《アフリカ》を経て帰って行く船の旅の方を択《えら》ぶことにした。
 巴里から倫敦へ。まだ岸本は一歩《ひとあし》動いたに過ぎない。しかしその一歩だけでも国の方へ近づいたことを思わせた。倫敦には岸本は九日ばかり船の出るのを待った。その間に巴里からの消息を受取って、モン・モランシイの町の方に住む知人の細君が停車場まで彼の見送りに出向いてくれたことを知った。尤《もっと》も知人の細君が停車場に彼を探した頃は、彼の巴里を発った後であったとか。いろいろと世話になって来たその知人のこと、慶応出の留学生のこと、その他停車場まで見送ってくれた人達のこと、何かにつけて彼は巴里の方のことを思い出した。丁度倫敦でもシェクスピアの三百年祭で、あの名高い英吉利の詩人を記念する年に、偶然にも彼はこの旅に来合せたことを思った。
 三年前、半死の岸本の耳に一条《ひとすじ》の活路をささやいてくれた海は、もう一度故国の方へと彼を呼ぶように成った。その声は復《ま》た彼の耳に聞えて来た。彼はこれから長い日数《ひかず》を海上に送らねば成らないことを思い、倫敦を発つ時にはまだ外套《がいとう》を欲しいくらいの五月初旬の陽気でも国に帰り着く頃の旅仕度も考えて行かねば成らないことを思い、そんな心づかいをするだけでも実に国の方の空の遠いことを思った。

        十一

 郵船会社の船はテエムズの河口にあたるチルビュリイの波止場《はとば》で牧野や岸本の乗組を待っていた。多量な英国出の貨物はあらかた荷積を終ったらしい頃で、岸本等の荷物も先に船の方へ届いていた。船員等は帆柱の下あたりに集って、本船の横手に着いた小蒸汽から順に一人ずつ甲板《かんぱん》へ渡って行く男女の客を見ていた。寒い細《こまか》い雨が時折やって来るような日であった。牧野も、岸本も、雨や汐風《しおかぜ》のために湿った旅の外套に身を包みながら大きな汽船に乗移った。戦時のことで、同胞の道連れも極く少かったが、その中には岸本が巴里で懇意になった夫婦の客もあった。一家族して国の方へ帰って行こうとする人達だ。岸本と前後して巴里を発って来た人達だ。いずれも籠城同様の思いをした開戦当時からの同じ記憶に繋《つな》がれている人達だ。
「子供を連れての旅は容易じゃないね」
 と岸本はその夫婦の客のことを牧野に言って見た。二人までも幼い人達を道連に加えたことは、一層岸本の心に遠い旅立《たびだち》らしい思いをさせた。
 到頭岸本はテエムズの河口を出て行く汽船の甲板の上に、帰国の途に就《つ》く旅人としての自分を見つけた。海は最早《もはや》巴里の客舎で思出して見たり、想像に描いて見たりして、それを無聊《ぶりょう》な時の心やりとしたような遠いところにあるものでなく、実際に彼の眼前《めのまえ》を通過ぎる赤黒い英吉利風の帆、実際に彼の方へ近く飛んで来る海の鴎《かもめ》の群、実際に波の動揺に任せている沈没した船の帆柱|煙筒《えんとつ》であった。懐《なつか》しい故国も最早遠い空のかなたにのみある夢想の郷《さと》ではなくて、一日々々と近づいて行こうとする実際の陸であった。艫《とも》寄りの甲板の欄《てすり》の側に立って、そこから大きな煙筒の方を望むと、さかんな黒い煙が凄《すさま》じい勢いで噴出《ふきだ》している。あだかも羽翼《つばさ》をひろげた黒い怪鳥が一羽ずつそこから舞い起《た》つかのように見える。その煙は、故国に向って行く心を一層切に彼の身に感じさせた。この船の最終に行き着くところは、神戸だ。そう考えると、心を強く刺戟《しげき》するいろいろさまざまなものが国の方で彼を待受けているように思われて来る。再び故国を見得るということは、彼に取って実に嬉しいことでもあり、心配なことでもあった。
 五月《さつき》の雨が濁った波の上へ来た。岸本は側へ来て立つ牧野と並んで、二人で甲板の上から海を眺《なが》めて行った。

        十二

 一昼夜に三百十五六|浬《マイル》を駛《はし》る快い速力で、岸本を乗せた船はドバアの海峡を通り越して行った。航海の五日目には、英吉利沿岸の白く光る崖《がけ》も遠く後方《うしろ》になった。早や何方《どっち》を向いても陸というものを見ることの無いような、青い深い大海の真中へ出て行った。
「この船に乗ってしまえば、もう半分国へ帰ったようなものですよ――」
 牧野は思出したように、折に触れてそれを岸本に言った。船は定期の客船としてより寧《むし》ろ戦時に際しての貨物船と言うべき形で、三方の甲板に分れた客全体の頭数から言っても極《ごく》少い時であった。牧野は岸本が後方の甲板の上に毎日見る唯《ただ》一人の同胞の客で、他はいずれも英吉利人のみであった。それも僅に男女を合せて七人の殖民地行の旅行者を数えるに過ぎなかった。それほど航海するものに取って寂しい時であった。岸本は唯一人の自分をその広い甲板に見つけるようなこともよくあった。そういう時に限って、人には言えない悲しい嵐《あらし》の記憶が、あの仏国汽船で港から港へと波の上を急いだ往きの旅の記憶が、節子のことを義雄兄に頼んで行くつもりの手紙が神戸で書けず上海《シャンハイ》でも書けず香港《ホンコン》まで行く途中に漸《ようや》く書いて置いて行ったような心の経験の記憶が、それらの記憶があだかも昨日のことのように彼の胸の中《うち》に帰って来た。眼前には長い廊下のように続いた板敷がある。白く塗った通風筒がある。柱がある。碇綱《いかりづな》を巻くための鉄製の器具がある。甲板の欄の線と交叉《こうさ》して、上になり下になりして見える遠い水平線がある。日でもかがやいて来ると、譬《たと》えようの無い青さに光る海がある。すべては曾《かつ》て有ったと似よりのもののみだ。岸本は太い綱や船具の積重ねてある側を通って、艫《とも》のところへもよく行って立って見た。水深を測量するための器械が装置してある艫の欄の側《わき》から波間に投入れてある一条の長く細い綱の絶間なくクルクル廻るのを眺めると、独りで故国の空を後方に望んで来た往きの航海の記憶がまた胸に浮んで来た。彼は、眼に見えない烈《はげ》しい力の動いて行った迹《あと》でも辿《たど》るようにして、自分の小さな智慧《ちえ》や力でそれをどうすることも出来なかったことを考えて見た時は、もう一度この甲板の上に立たせられた自分そのものを不思議にさえ思った。
 船は次第に葡萄牙《ポルトガル》南端の沖合からも遠ざかりつつあった。往きのスエズ経由とも違い、この還《かえ》りの船旅は遠く南亜弗利加の果を廻り、赤道を二度も越さねば成らない。その海上から喜望峯まで五千四百|浬《マイル》以上もあった。

        十三

 五十五日の長い船旅の後、四月の末に巴里を辞し五月に入って倫敦を発って来た岸本は漸《ようや》く七月の初めになって神戸の港に辿り着いた。
「神戸へ着く晩は眠るまい。皆起きていよう」
 そんな申合せをするほど楽みにして遠くから港の燈火《ともしび》を望んで来た船客一同と共に、岸本は一夜を和田|岬《みさき》の燈台の附近に送った上で、翌朝の検疫を済ましてから艀《はしけ》に移った。新嘉坡《シンガポール》以来船では俄《にわか》に乗客を加えたから、その朝一緒に上陸する男女の同胞も可成《かなり》多かった。
 しばらく岸本は牧野と二人で税関の側に時を送った。二人はまだ懐しい海岸の土の上に自分等を見つけたばかりの旅行者の姿のままであった。船の入港を知って、上陸者を迎えようとする人達が波止場に集って来た。岸本はそれらの人達に眼をそそいだり、それらの人達の間をあちこちと歩いて見たりした。どうかすると見ず知らずの人にさえ御辞儀の一つもして見たいような気にさえなった。そして遠い国の方から帰って来たものであるというその心を告げたかった。
「牧野君。車なんかに乗らないで、これから宿屋まで歩こうじゃないか。もっと何処《どこ》か歩いて見たいね――跣足《はだし》にでもなって、そこいらを駈《か》け廻って見たいね」
 こう岸本が言出した頃は、久しぶりで見る国の日の光がもう税関の附近まで強く射《さ》して来ていた。岸本は連《つれ》の迷惑なぞを顧みないで、それを言った。それほど彼は自分の小さな胸に満ち来る狂気《きちがい》じみた歓喜《よろこび》を隠せなかった。
 牧野を誘って、以前と同じ旅館まで行く途中で、岸本は旧《ふる》い馴染《なじみ》の顔に遇《あ》った。そこの亭主が彼を迎えに来てくれたのだ。旅館へ着いて見ると、そこでも岸本は三年|振《ぶり》での人に遇った。往きの旅に東京の番町の友人等と連立って船まで別れを惜みに来てくれたその旅館の内儀《かみさん》だ。
 岸本は既に激しい疲労を身に覚えていた。何よりも先《ま》ず彼の願いは旅の着物を脱ぐことにあった。しかし間もなく旅館へ訪ねて来た新聞記者の一団は牧野や彼を休ませなかった。彼は上海まで帰って来ると、船の碇泊《ていはく》中にもう土地の新聞記者に見出されて、旅の話なぞを求められた。その時、国の方で自分を待受けていてくれるものは第一にそうした訪問者であろうということを感じないでもなかった。記者等はその日の夕刊に間に合せたいと言って、なるべく紙面を賑《にぎや》かにするような旅の話を彼の口から引出そうとした。記者の中には、彼が往きの旅で遇《あ》い、またこの還りの旅で遇う人達もあった。
「オヤ、髯《ひげ》が無くなりましたね」
 と言って、彼の顔を忘れずにいた人さえも有った。

        十四

 漸くのことで、牧野と二人ぎりになった神戸の旅館の二階座敷に、岸本は恋しい畳の上の休息に有りついた。
「何だか風邪《かぜ》でも引きそうで、靴下だけはまだ取る気に成れない」
 と岸本は牧野に言って見せて、三年の間寝る時より外にあらわにしたことの無い足だけを包んで置いた。宿屋の浴衣《ゆかた》に靴下穿《くつしたばき》という面白い風俗で、二人は互いに足を投出して見た。清々とした畳の上は、寝ようと起きようと坐って見ようと勝手だ。岸本は部屋中ごろごろ転《ころ》がって歩いてもまだ足りないほどの気楽さを味わった。試みに横になって、あおのけさまに自分の背中を畳に押しあてて見ると、船から上って来た時の心持が湧《わ》き上って来る。まだ彼は半分海に居るような気もする。もし上陸して遭遇《であ》う最初の日本人があったなら、知る知らぬに関《かかわ》らずその人に齧《かじ》り着いて見たいような、そんな心持で帰って来たばかりの自分のような気もして来る。すくなくも彼がこの港をさして遠く帰って来た思郷の念は、あの長期の航海を続ける船乗の心に似たものであった。陸の上に仆《たお》れ伏し、懐しい土に接吻《せっぷん》したいとさえ思うというあの船乗の心は全く彼の心に近いものであった。
「漸く。漸く」
 と彼は言って、互に真黒に日に焼けて来た牧野と顔を見合せた。
 夕刊の出る頃になると、牧野や岸本の無事に仏蘭西から帰国したということが宿の内儀の持って来て見せた新聞にも載せてあった。先刻《さっき》この二階で話したと思うようなことが最早活字になって来た。面白そうな見出しで、多忙《いそが》しく書かれた文章で。岸本は自分のことの出ているその新聞を自分で読んで見た。どんな苦い顔をしてあの義雄兄がこうした記事を読むだろう、という想像が一番先に彼の頭脳《あたま》へ来た。その新聞には、牧野と二人並んだ写真も出ていた。税関の裏手の空地で二人がこの港に着くか着かないにある技師の早取写真に納められたのが、それだ。倫敦《ロンドン》仕込の灰色な脚絆《きゃはん》に靴を包んで軽い麦藁帽《むぎわらぼう》を冠《かぶ》ったのが牧野で、その側に立つが彼だ。まぶしかった日光の反射は彼自身の印画を若過ぎるほど若く見せて、それが自分の旅人姿とも一寸《ちょっと》受取れなかった。
「巴里で三年昼寝をして来た。自分のことなぞはそれで沢山だ」
 と彼は言って見て、いらいらとした旅の心は思うように仕事の出来るだけの沈着《おちつき》をも与えてくれなかったことを思い、僅に故国の新聞へ宛《あ》てて折々の旅の通信を書くにとどめてしまったことを思い、国を出る時の多くの約束もその十が一をも果せなかったことを胸に浮べた。
「でも、割合に好く書いてあるじゃ有りませんか」
 と牧野は側へ来て言って、半分他人のことのようにその新聞を読返した。
 岸本は早や自分等の帰国が京阪地方の人に知れたことを思った。東京の方に自分を待受けている人達――義雄兄を初め、嫂《あによめ》、節子、それから泉太や繁なぞがそれを知る時のことをも想って見た。彼は留守宅宛に、無事に神戸に着いたことを書き、これから大阪や京都に知人を訪ねながら帰って行くことを書いたが、東京へ着く日取もわざと知らせなかった。

        十五

 岸本の身に感ずるは強い歓喜《よろこび》と、そして激しい疲労《つかれ》とであった。彼はその歓喜がどれ程の強さのものとも、又はその疲労がどれ程の激しさのものとも、一寸それを言い表すことが出来なかった。それは一日の休息や一夜の睡眠によって忘れ去り得べくもなく、もっと強く歓喜を貪《むさぼ》りたいと思わせ、もっと激しく疲労を味《あじわ》いたいと思わせるような、そんな性質のものであった。彼は連《つれ》の牧野を見て、日頃船に弱いと言っていたこの画家がさ程疲れたらしい容子《ようす》の無いにも驚いた。
 これほどの歓喜は感じながらも、東京の方角を指《さ》して神戸を発《た》とうとする頃の岸本の足は重かった。大阪まで彼は牧野と連立って帰って行った。牧野も彼もまだ旅姿のままで、一度神戸で脱いだ旅の着物を復《ま》た身に着けて、汽車中|殆《ほとん》ど休みなしに硝子窓《ガラスまど》の側に立ちつづけて行った。あそこに湿った日光の明るさがある、眼のさめるような青田がある、ここに草葺《くさぶき》の屋根があると言って、それを仏国中部の田舎《いなか》あたりで見て来た妙に乾燥した空気や、牛羊の多い牧場や、緑葉の間から見える赤い瓦屋根《かわらやね》の農家なぞに思い比べて行った。
 大阪では岸本は牧野と一緒にある未知の家族を訪《おとな》う筈《はず》であった。そこには岸本の再婚に就《つ》いて、巴里《パリ》の美術家から勧《すす》められて来た人も住んでいたからで。その人の兄と巴里の美術家とは至極懇意な間柄でもあるからで。丁度人が眠くなる夜の部分を通り越すと反《かえ》って頭脳《あたま》が冴《さ》えて来るように、岸本は疲れながらも一層よく思考することが出来るような気がした。彼は自分の再婚に就いて考えた。現実を厭《いと》い果てた寂しい修業地から引返して行って僧侶の身にして妻帯を実行したというあの昔の人達の生涯の意味は、旅に居る間の自分を教えたことを考えた。もう一度夜明を待受けるような心で国に帰って来た彼自身は既に四十五歳にもなることを考えた。もし妻の園子がこの世に生きながらえているとしたら、二十二の歳《とし》に嫁《かたづ》いて来た彼女が早や三十九になるとも考えた。その年に成っての二度目の結婚だ。彼は何もそんなに年の若い妻を迎える心は持たなかったのであるが、そうかと言って四十に手の届く婦人と今更結婚する気にも成れなかった。すくなくも三十前後の婦人に望みを掛けていた。この望みだけは、巴里の美術家から聞いて来たところによると、どうやら叶《かな》いそうであった。
 しかし岸本がこれから未知の家族を訪おうとすることは、準備なしに行かれる普通の楽しい訪問とも違っていた。逢って見て意気の合いそうにも無ければ、断らねば成らない。それは婦人を侮辱するようなものだ。この考えはすくなからず彼を躊躇《ちゅうちょ》させた。何しろ彼はまだ旅から帰ったばかりで、今少し時の余裕を欲しいと思い、相手の婦人を知ることの出来るような自然な機会をも得たいと思った。彼は牧野にこの事を話して、結局その訪問を思い止った。大阪の宿では彼は一日客と話し暮した。牧野と一緒に夏の夜の賑《にぎや》かな町々をも歩いて見た。明るい燈火のかげを歩き廻る時の彼の心は、どうかするとまだ巴里の大並木街《グランブウルバアル》の方へも行き、帰りの旅に見て来た阿弗利加《アフリカ》の殖民地の港の方へも行った。

        十六

 大阪から直《す》ぐに東京へ向おうとしていた牧野と、京都の方に巴里|馴染《なじみ》の千村や高瀬を訪《たず》ねながら東京へ帰って行こうとしていた岸本とは、道頓堀《どうとんぼり》の宿で別れた。一日も早く牧野は東京に入ろうとしていたし、岸本はまた一日でも遅く東京に入ろうとしていた。東京の方に近づけば近づくほど、岸本の足は進まなかった。
「岸本さん、一緒に東京へ入ろうじゃありませんか」
 別れ際《ぎわ》に牧野がそれを言って勧めたが、岸本の方では再会を約して置いて手を分った。何故久し振《ぶり》で東京を見る彼の足がそれほど進まないのか、何故一切の人の出迎えなぞを受けずに独《ひと》りで寂しく東京へ入ろうとしているのか、その彼の心持は七十日の余も帰国の旅を共にした牧野にさえ言えないことであった。
 京都を指《さ》して出掛けて行く時の岸本の側には、最早《もはや》懐《なつか》しい旅の心を比べ合うような連も居なかった。でも岸本はまだ牧野が自分の側にでも居るようにして、二人して一緒に望んで行くように、淀川《よどがわ》一帯の流域とも言うべき地方を汽車の窓から望んで行った。汽車がいくらかずつ勾配《こうばい》のある地勢を登って行くにつれて、次第に遠い山々も容《かたち》を顕《あらわ》した。彼は饑《う》え渇《かわ》いたように車の窓を開け放ち、山城《やましろ》丹波《たんば》地方の連山の眺望《ちょうぼう》を胸一ぱいに自分の身に迎え入れようとして行った。大阪から京都まで乗って行く途中にも、彼は窓から眼を離せなかった。
 京都の宿には、大阪で落合った巴里馴染の画家が岸本より先に着いていた。宿の裏の河原、涼み台、岸に咲く紅《あか》い柘榴《ざくろ》の花、四条の石橋の下の方から奔《はし》り流れて来る鴨川《かもがわ》の水――そこまで行くと、欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争も何処《どこ》にあるかと思われるほど静かであった。
 まだ半ば長途の旅行者のような岸本の心は休むということを知らなかった。京都には巴里の下宿で食卓を共にした千村教授がある。帰国後はもう助教授と言わないで教授の位置に進んだ、仏蘭西《フランス》の旅でも格別懇意にした高瀬がある。それらの人達に逢う楽みに加えて、宿にはまたリオンの方に滞在する岡の噂《うわさ》や巴里のシモンヌの噂などの出る画家がある。鴨川の一日は岸本に取って見るもの聞くもの応接にいとまの無いくらいであった。こうして京都に着いた翌日には、酷《ひど》く彼も疲労《つかれ》の出たのを覚えた。彼は東京の方へ帰って行った後の多忙《いそが》しさを予想して、せめて半日その宿の二階座敷で寝転《ねころ》んで行こうとした。同じ部屋には旅行用の画具なぞをひろげた画家が居て、
「巴里の連中ですか。僕はまだ誰にも逢いませんよ。めったに皆と一緒になるような機会も有りませんよ。国へ帰ると、みんな澄ますように成っちゃって駄目ですね――ちっとも面白か無い」
 こんな話をしながら画作に余念の無い人の側で、時には宿の女中が階下《した》から上って来て話し聞かせる上方言葉をもめずらしく思いながら、岸本は苦しいほど疲れた自分の身体を休めて行こうとした。三年異郷で腰掛けることに慣れて来た彼は、畳の上で坐り直して見るにさえ骨が折れた。膝《ひざ》も脚《あし》も痛かった。彼は胡坐《あぐら》にして見たり、寝転んで見たりした。まだ彼はほんとうに身体を休めるというところまで行かなかった。
 岸本が意を決して西京を発とうとしたのはその夕方であった。東京の方へ向おうとする彼の足はまるで鎖にでも繋《つな》がれているのを引摺《ひきず》って行くように重かった。

        十七

 夜汽車で京都を発った岸本は翌日の午後になって品川の停車場《ステーション》を望んだ。彼は自分の旅の間に完成されたという東京駅をも見たいとは思い、ひょっとするとそこに自分を出迎えていてくれる人もあろうかと気遣《きづか》ったが、しかし品川まで行けば留守宅は近かった。旅の荷物も品川で受取ることにしてあった。彼は東京駅まで乗らずに、その停車場で降りた。
 かねて東京に着く日取もわざと知らせなかった留守宅の人達が、そんな時に岸本の独りで悄然《しょうぜん》と帰って来たことを知ろう筈もなかった。果して停車場の構内には彼を出迎える子供等の影さえも見えなかった。彼は停車場の出口のあたりを歩いて見た。靴のまま堅い土を踏みしめ踏みしめして見た。そうして荷物の受取れるのを待った。その乗降の客も少い建築物《たてもの》の前に立って見て、今更のように彼は遠く旅して帰って来たことを思った。この寂しい入京は、おのずと頭の下るような自分の長旅の終りに適《ふさ》わしいとも思った。
 その時の彼は苦しいほど疲れていることなぞを忘れてしまった。頼んだ辻待《つじまち》の車が来た。荷物も既に別の車の上に積まれた。間もなく彼を乗せた車は品川から高輪《たかなわ》へ通う新開の道路について、右へ動き左へ動きしながら長い坂を登って行った。あのどんよりとした半曇りのような空から泄《も》れる巴里の日あたりとは違って、輝きからして自分の国の方の七月らしい日の光が坂道を流れていた。強い照返しは日除《ひよけ》を掛けた車の中にも満ちた。どうかすると、その日あたりを見て乗って行く彼の頭脳《あたま》の内部《なか》まで射《さ》しこんで来るかと思われるほど強く。車が動く度《たび》に近づいて行く留守宅の方のことは、そこに彼を待つ人達のことは、眼に見る日あたりのまぶしさに混って、しきりに彼の胸を騒がせた。彼は兄を見るの切なさにも勝《まさ》り、嫂《あによめ》を見るの苦しさにも勝って、あの節子を見るには耐えないような気がして来た。自分の不徳ゆえに、罪過ゆえに、いかに彼女が変り果てているだろうかとは、それを想像して行くだけでも耐え難かった。
 喘《あえ》ぎ喘ぎ坂を登って行った車夫は高輪の岡の上まで出ると急に元気づいた。なるべく遅くと注文したいほどに思っている客を乗せて、車はぐんぐん動いて行った。ある横町に折曲ると、その角に煙草屋がある。ふと岸本はその辺に遊んでいる男の児の後姿を見かけて、それが自分の二番目の子供ではないかと思った。
「繁ちゃんじゃないか」
 思わず彼は車の上から声を掛けて見た。
 見違えるほど大きくなった繁はそう言って声を掛けられたのを何と思ったのか、日除の掛った車の方をもよく見ないで、
「父《とう》さんはまだ帰らないよ」
 と言い捨てながら、何か嬉しそうな声を揚げて急に家の方へ駆出して行った。そこからはもう留守宅の格子戸《こうしど》の見えるほど近かった。

        十八

 忍びがたいのを忍んで岸本が家の前に停《と》めさせた車から降りた時、軒下の壁の破れや短い竹垣の荒れ朽ちたのが先《ま》ず彼の眼についた。荷物を卸す音なぞを聞きつけて誰よりも先に入口の格子戸のところへ飛んで出て来たのは嫂であった。嫂は内側から格子戸を一ぱいに開けてくれた。
「やあ、お帰りかね」
 と言って義雄兄は玄関先に立った。続いて兄の子供も、繁もそこへ集った。岸本は旅姿のまま入口の庭に立って一度に皆と顔を合せた。祖母《おばあ》さんの後方《うしろ》に立つ節子をも見た。彼は自分で自分の顔色の苦しく変るのを覚えた。
 やがて岸本は家の人達に迎え入れられた。順に一人ずつ挨拶《あいさつ》があった。岸本は兄の前にも頭をさげ、嫂の前にも頭をさげた。
「捨さん、お帰りでございましたか。あなたもまあ御無事で」
 と静かな調子で言う祖母さんの前へも行って、岸本は挨拶した。そこへ節子も挨拶に出て来た。岸本は唯《ただ》黙って彼女の前にも御辞儀をした。
「これ、一郎も次郎も叔父さんに御辞儀しないか。そんなとこに立っていないで」
 と嫂に言われて、兄の二人の子供と繁とは一緒に揃《そろ》って岸本の前に並んだ。子供等は大人同志の挨拶の済むのを待っていたという顔付で。
「へえ、これが次郎ちゃんですか――」と岸本は初めて逢《あ》う頬《ほお》の紅《あか》い子供を見た。
「あなたの御留守に、これが生れましたよ」と嫂は言い添えた。
 三年も見ない間に繁の背の延びたことは岸本を驚かした。繁は皆の見ている前で父に逢うことをきまりの悪そうにして、少年らしく膝を掻合《かきあわ》せていた。
「捨吉、まあお茶を一つお上がり」
 と奥の部屋の方から呼ぶ義雄兄の前へ行って、岸本は初めて兄と差向いに成った。岸本が国を出る時、名古屋から一寸|別離《わかれ》を告げに来たと言って、神戸の旅館まで訪ねてくれた人に比べると、この兄も何となく老《ふ》けて見えた。
「もうお前も帰りそうなものだと言って、吾家《うち》へ訪ねて来た人なぞもあった。俺《おれ》もね、子供をみんな連れて東京駅まで迎えに行ったが、お前は帰って来ないし……なんでも、大阪までお前の帰って来たことは分ってるが、それから先の行方《いきがた》が知れないなんて言う人もありサ。昨日《きのう》と、一昨日《おととい》と、俺は二度も東京駅まで見に行った」
「そいつは済みませんでした。私は出迎えをお断りするつもりで、わざとお知らせもしませんでした。今々品川からここへやって来たところです」
「捨吉は品川へ着いたんだとサ」兄は家の人達へ聞えるように言って笑った。
 制《おさ》えに制えたようなものが家の内の空気を支配していた。子供等の顔までも何となく岸本には改まって見えた。繁は父の帰宅を知らせるために、学校の方に居る泉太の許《もと》へ駈出《かけだ》して行った。

        十九

「只今《ただいま》」
 という泉太の声が玄関の方でして、やがてこの年長《としうえ》の方の子供は眼を円《まる》くしながら学校通いの短い袴《はかま》のまま父の側《そば》へ御辞儀に来た。
「オオ、泉ちゃんも大きく成りましたね」
 義雄を前に置いて、岸本がそれを言うと、泉太は三年振で会った父から大きく成ったと言われることをさも嬉しそうにしていた。
「泉ちゃんはまだ学校が有ったんだね」と義雄は泉太の方を見て訊《き》いた。
「繁ちゃんが迎えに来てくれて――それで、僕の先生がもう帰ってもいいッて」と泉太は義雄に言った。
「学校の先生も気を利《き》かして、今日は帰してよこして下すった」と嫂がそこへ来て言い添える。
「父さん、父さんッて、毎日のように言い暮して――どれ程父さんのお帰りを待っていたものか知れません」と祖母さんも次の部屋に居ながら言った。
「長々お世話さまでございました。難有《ありがと》うございました」
 こう言いながら、岸本は改めて嫂の前に手をついて御辞儀した。それを見て義雄は軽く点頭《うなず》いた。
「さあ、よしよし、御辞儀が済んだら子供はそっちへ行っといで」
 と義雄に言われて、泉太は祖母さん達の居る次の部屋の方へ引きさがった。
 何よりも先ず岸本は兄や自分の子供等への旅の土産《みやげ》を取出そうとした。跨《また》ぎにくい敷居を跨いで幼いものの側まで帰って来て見ると、そこは彼の留守宅というよりも兄の住居《すまい》というべき形であった。こうした父子の再会にも、そう慣々しく言葉をかわすことはまだ周囲の事情が許さなかった。
「どれ、お土産《みや》を出しますかナ。一ちゃんにも次郎ちゃんにもお土産がありますよ」
 と岸本が言うと、嫂はそれを次郎に言って聞かせて、
「好いねえ。叔父さんがお土産を下さるッて」
「お土産。お土産」
 子供は嬉しそうな声を揚げて、部屋中|大威張《おおいばり》で飛び廻った。
「これ、次郎、そう騒ぐんじゃ無いッて言うに。一番小さなくせに一番この児は威張りたがる」
 と嫂に言われても、次郎は聞入れなかった。
 岸本は旅の鞄《かばん》から取出した帳面や色鉛筆やお伽話《とぎばなし》の本なぞを兄の年長《うえ》の子供と自分の子供等との前へ持って行った。
「なにしろ同じものが三つなければ不可《いけない》んですから」と岸本は嫂等の方を見て言った。
「俺には?」と次郎が悲しそうな声を出した。
「へえ、次郎ちゃんにも」
 岸本は巴里から求めて来た動物の絵本を次郎に分けた。次郎は兄等の貰《もら》った物と、自分のと叔父さんの土産の違うのを不平らしく見比べていたが、やがて機嫌《きげん》を直して、鳥や獣のついたその絵本を母親のところへ持って行って見せ、祖母さんのところへ持って行って見せ、節子のところへも持って行って見せた。
「どれ、見しょ」
 と義雄が郷里の方の言葉を出して言うと、次郎はそれを父親の方へも持って行った。
「何だかこの本は異人臭い」と一郎は叔父の土産を嗅《か》いで見て、笑い出した。
「子供は何か食うものでも貰わないと、貰ったような気がしないぞ――」と義雄は岸本に言った。
「そうですね。大阪で買ったお菓子がありますから、あれも一緒に分けてくれますかナ」
 岸本は起《た》ったり坐ったりした。表の往来に接した窓からは午後の日が祖母さん達の居る部屋の障子に射していた。節子はその部屋の隅《すみ》の方に小さくなって、泉太や繁と一緒に遠い国のお伽話の本なぞをひろげて見ていた。

        二十

 根岸の姪《めい》(岸本が長兄の娘)の夫にあたる人は、義雄兄からの電報が行くと直《す》ぐに岸本に逢いに来てくれた。岸本はこの義理ある甥《おい》と旧《もと》の新橋停車場で別れたぎりの顔を合せた。
「捨叔父さんも御無事にお帰りで――」
 こう言って挨拶する親戚《しんせき》の前では、義雄は弟の遠い旅に行った動機なぞを小欠《おくび》にも出すまいとする風であった。のみならず「弟が」と言っても済むところをわざと「岸本捨吉が」と言って、品川からしょんぼり着いたような弟のことを晴の帰朝者として取扱おうとした。それほど義雄の気質には一門の名誉とか外聞とかいうことを重く視《み》るところがあった。
「叔父さん、まあ洋服でもお脱ぎなすって――ここに浴衣《ゆかた》も出してありますから」
 と嫂が言った。この嫂は岸本のことを呼ぶには一郎や次郎と同じように「叔父さん」と呼ぶ場合の方が多かった。その時になって岸本は漸く旅人の姿でなくなった。
「旅のお話でも一つ伺いましょうか――」
 と祖母さんも奥の部屋へ来て皆と一緒になった。
「祖母さんはお達者なようですね」
 と岸本が言うと、義雄はそれを引取って、
「家中で祖母さんが一番丈夫だ」この兄の言葉は何となく岸本の耳に強く響いた。
「そう言えば、叔父さんは何時《いつ》見てもそう変りなさらない」と嫂が言った。
「そうでもありません」と岸本は自分の額へ手を宛《あ》てて、「髪がもうこんなに白くなっちまいましたよ」
「それに大分日に焼けて来たぞ」
 と義雄が言った。
「私も先刻《さっき》からそう思って見てるところなんですが」と愛子(根岸の姪)の夫も岸本の方を見て、「大分叔父さんは黒くなっていらしった。前にはお髭《ひげ》もおあんなすったようでしたね。どうしてあんな好いお髭を取っておしまいなすったか。何だかお顔がすこし変ったようにも見える」
「これでも、いくらか異人臭くなって帰って来ましたろうか」
 こう岸本は言い紛わした。
 仏蘭西の方で岸本が見聞して来た旅の話は、愛子の夫なぞの聞きたがることであった。大川端《おおかわばた》の方に住む田辺の弘――岸本が恩人の息子さんも、岸本の東京に着いたことを知って訪ねて来た。三年経《た》って復《ま》た一緒に成って見ると、弘ももう立派なお父さんだ。この人の肥《ふと》った体格は亡《な》くなった恩人にますますよく似て来た。こうした旧馴染《むかしなじみ》の客に加えて、旅の話を求めに来る新聞記者なぞもあって、ほとほと岸本は底疲れに疲れている自分の身を忘れた。
 夕方には祖母さんの上げた燈明が仏壇のある部屋の方で光った。岸本はその仏壇の前へ行って、亡き園子をはじめ三人の女の児の古く錆《さ》びた位牌《いはい》が燈明の光に映るのを見た。遠い旅に行く出発の前夜まで無かった古い位牌や仏具なぞは、祖母さん達の郷里から携えて来たものと知れた。嫂や節子は勝手の方から通って来てその仏壇の側を往ったり来たりした。
 岸本は節子に近づくことを避けていた。帰って来てまだろくろく口を利《き》こうともしなかった。唯それとなく彼女の容子《ようす》を見ようとした。彼の眼に映る不幸な犠牲者は遠く離れていて想像したほど変り果てた姿でも無かったので、それには彼はやや安心した。その日の夕飯には、義雄の家族、二人の親戚、泉太や繁まで一緒に食卓に就いた。岸本が帰国の祝いとして、生蕎麦《きそば》の盛《もり》二つずつ出た。兄の家の倹約なことも、骨の折れることも、この馳走《ちそう》が一切を語っていた。岸本は涙のこぼれるような思いをしながら、久し振《ぶり》での夕食を難有《ありがた》く頂戴《ちょうだい》した。

        二十一

 その晩、岸本はまだ旅から帰りたての客のような形で、兄の義雄と同じ蚊屋《かや》の内に寝た。高輪《たかなわ》にあるこの新開の町ではもう一月も前から蚊屋を釣《つ》るという。久し振で帰って来た屋根の下に、古い麻蚊屋の香《におい》を嗅《か》ぎながら横になって見ると、その日一日心配しつづけたことがまだ岸本の胸を去らなかった。何かの碑面にでもありそうな漢文体の文句を暗誦《あんしょう》しながら睡眠《ねむり》を誘おうとしているらしい兄はと見ると、枕《まくら》を並べたその人の方からは何時《いつ》の間にか高い鼾《いびき》が聞えて来た。岸本はよくそれでもこの屋根の下に旅の着物を脱ぐことが出来たと思い、いろいろさまざまなことがそれからそれと胸に満ちておちおち眠られなかった。
 朝になると、義雄はもっと東京の中心に近い町の方の宿屋へ通うことを日課のようにしていると言って、鞄《かばん》をかかえて出掛けて行った。こんな不便な郊外で、電話も無いような住居では、何の事業を画策《かくさく》することも出来ないというのが兄の宿屋通いの趣意であるらしかった。子供等も学校へ出掛けた後で、家の内は静かになった。岸本はこれから当分の間毎日|訪《たず》ねて来てくれそうな多くの客を待受けるような心持で、あちこちと家の内を歩いて見た。置捨てて行った自分の本箱の前をも歩いて見た。古い箪笥《たんす》の前にも行って立って見た。園子の時代から残った八角形の柱時計はまだ同じような振子の音をさせて、旅から帰った彼を迎え顔に見えた。変色した唐紙《からかみ》でも、子供等に傷つけられた壁でも、実に一切のものを捨てる思いをした三年前の嵐《あらし》の烈《はげ》しさを語っていないものは無かった。
 奥の部屋の隅《すみ》には、旅の鞄もまだそのままにして置いてあった。往《ゆ》きと還《かえ》りの船床の番号だの、貼札《はりふだ》だの、海外の諸国を廻ったそれらの印の附いた鞄の中からは、岸本が巴里《パリ》の下宿の方でさんざん着た和服の類が出て来た。彼は裏の擦切《すりき》れた下着や、裾《すそ》から綿の出た褞袍《どてら》なぞを取出して、それを次の部屋に居る嫂《あによめ》や祖母さんに見せ、還りの航海中に自分で面白い恰好《かっこう》に綻《ほころ》びを縫い着けて来た旅の単衣《ひとえ》なぞをも取出して見せた。
 そこへ節子が来た。彼女は祖母さん達の側に坐って、皆の話に耳を傾けていた。何事《なんに》も知らずに郷里の方から出て来たという祖母さん、叔父の旅に出た動機は母親にまでひし隠しに隠してあるという節子――その女ばかりの集りの中で、岸本はいかに自分のことを考えているやも測り難いような嫂を見た。
 庭の方では次郎の独《ひと》りで歌い歩く声が起った。この子供は時々縁側から上って来て、皆の見ている前で母親の懐《ふところ》を探った。
「次郎ちゃん、叔父さんが見てお笑いなさるよ」
 と嫂は言いながらも、誰よりもその末の児が可愛くて可愛くてならないと云う風で、その年齢《とし》になってもまだ乳房を吸わせていた。岸本の鞄の底からは、泉太や繁の世話になった人達へと用意して来た志ばかりの巴里土産も出て来た。彼はそれを嫂の前にも節子の前にも置いた。いずれも巴里のサン・ゼルマンの並木街なぞを歩き廻って見立てて買って来たものであった。あの産科病院前の下宿からわざわざ地下電車で「オペラ」附近の繁華な町の方まで探しに行って来たものもある。遠い旅を記念する心は、贈られる人よりも、反《かえ》って贈る人の方に深かった。
「まあ、こんなにめいめいへ御心配なすって」
 と礼を言う嫂の眼は険しく光った。

        二十二

 長い留守の間のことを聞いて見たい。その心は岸本に取ってどれ程強いものであるか知れなかった。彼はよく旅の空で帰り支度《じたく》をする頃にそう思った。もし無事に故国に辿《たど》り着くことが出来たら、あの事も聞いて見たい、この事も聞いて見たいと。今、嫂達は彼の側に居る。けれども自分の秘密がこの人達に隠してあるかぎり、長い留守の間の事で言出し得ることはほとほと少かった。嫂達が郷里を引揚げて上京した頃のことを聞いて見ようとする、と直《す》ぐ節子や子供等を置いてこの家を逃出した自分のことに触れて来る。輝子(節子の姉)が露領の方から帰国してこの家に居た頃のことを聞いて見ようとする、と直ぐ節子が人目を避けるために一時この家に居なかったことに思い当る。眼前《めのまえ》に戯れ遊ぶ次郎を見ていても、直ぐ彼の胸には平気で居られないような聯想《れんそう》が迫って来た。節子の産落《うみおと》したという男の児は丁度この短い着物に巾着《きんちゃく》なぞを着けた嫂の子供と同じ年齢《とし》であったから。
 岸本は気を取直して、旅から持って来た別の鞄を解いて見た。
「姉さん、こういう人形が出て来ました。祖母さんにもお眼に掛けますかナ。これは君ちゃん(岸本の末の女の児)に遣《や》ってくれッてそう言って、巴里の下宿の主婦《かみさん》がくれてよこしました」
「どれ――まあこのお人形さんは可愛らしい。青い頭巾《ずきん》なぞを冠《かぶ》って」
 と嫂は言って、瞳《ひとみ》の青い仏蘭西《フランス》の人形を祖母さんや節子と一緒に近く集って眺《なが》めた。
「その人形の着物は、それでも下宿の主婦が自分で手縫にしたものだなんて言いましたっけ。国へ帰ったら、これを解いて見ると分る、仏蘭西の女の児の着るものは皆この人形が身につけていますなんて、そんなことも言ってくれてよこしましたっけ――」
 こう岸本が言うと、節子は母親に寄添いながら、
「髪は茶色ですねえ」
「ほんとに」と祖母さんも人形を手に取って見た。
 何となく節子は自分の手を気にしている容子であった。岸本はそれを看《み》て取って、何気なく訊《き》いた。
「節ちゃん、手はどうです」
「あれの手はもう三年越しよなし」
 と祖母さんは郷里《くに》の方の訛《なまり》を出して言った。節子は黙し勝ちに、水虫のようなものを煩《わずら》いつづけている自分の掌《てのひら》を叔父の方へ見せ、自分でもその掌を眺めていた。
「まだそんなに悪いのかね。もう疾《とっ》くに良くなってることかと思っていた」と言って、岸本は嫂の方を見て、「なんでも巴里の方に居る時分に好い皮膚病の薬が見つかりましてね、それを節ちゃんのところへ送ってよこすつもりでした。丁度子供のところへも町の文房具屋で見つけた帳面がありましたから、一ちゃんに一冊、泉ちゃんや繁ちゃんにも一冊ずつ、それにその薬と、それだけを一緒にして国の方へ帰る友達に頼みました。どうでしょう、その友達の荷物は船と一緒に地中海へ沈んでしまいましたよ。敵の船にやられたんですね。友達だけは別の船で日本へ着きましたが、折角の帳面も薬もそんな訳で皆のところへ届きませんでした――惜しいことをしましたっけ」
 こんな旅の話をするにしても、岸本はそれを節子にしないで、嫂や祖母さんに聞かせるようにした。岸本は節子と自分の関係を叔父姪の普通の位置に引戻そうとした。その方針でこそ、兄や嫂にも安心を与え、同時に長い間の自分の苦悩を忘れることが出来ようかと考えた。

        二十三

「兄さん、これは貴方《あなた》に進《あ》げるつもりで持って来ました」
 義雄が宿屋の方から帰った頃、岸本は旅の鞄から取出して置いたものを記念として兄にも贈った。それは巴里のサン・ミッシェルの並木街あたりを往来《ゆきき》する人達の小脇《こわき》に挾《はさ》まれるような、書籍《ほん》や書類などを納《い》れるための実用向の手鞄であった。
「や。好いものをくれるナ。こいつは貰《もら》って置こう」
 と義雄は機嫌《きげん》が好かった。
 岸本の帰国を聞いて戦時の巴里の消息を尋ねに来る新聞雑誌の記者、その他|旧馴染《むかしなじみ》の客なぞで、一しきり家の内はごたごたした後であった。まだ岸本は長い旅から持越した疲労《つかれ》をどうすることも出来なかった。神戸へ上陸するからその日まで殆《ほとん》ど彼は休みなしと言っても可《い》いくらいに自分を待受けていてくれた国の方のものに触れ続けた。東京へ帰って来て見ると、あの京都の宿でせめて半日なりとも寝転《ねころ》んで来て好かったとさえ思うくらいであった。
 その疲労を制《おさ》えながら、岸本は奥の部屋の方で自分を呼ぶ兄を見に行った。
「捨吉。まあ坐れ。今はいろいろ話すことがある」
 と義雄は言って、弟の留守中に訪問を受けた人達の名とか、兄自身に対して厚意を寄せてくれた人達の名とか、殊《こと》に弟の留守中に兄の一時|煩《わずら》ったことから、その折に援助を受けた親戚《しんせき》の名とか、それらを岸本に話し聞かせた。万事|上手《うわて》に、上手にと、手強《てごわ》く出ようとする方の兄は、言うだけのことを言ってしまわなければ気が済まないという風で、それから自身に書いた書付を出して岸本に見せた。
「これは、まあ参考までに見せて置くが――」
 と言って義雄は別の書付をも出した。
「嘉代《かよ》(嫂の名)、お前の方の書付も叔父さんに出して見せるといい」
 と義雄は嫂をもその二人ぎりのところへ呼んで言った。
 岸本は手を揉《も》みながら兄夫婦の前を引きさがった。その時になって彼は自分の留守中いかに兄の骨の折れたかを知った。「お前が仏蘭西から帰って来るまでには、俺も大いに雄飛するつもりだ」と言って以前に手を分った兄の身にも、まだ時節というもののめぐって来ていないことを知った。そればかりではない、恐らく後になって振返って見ても、自分の留守の三年が兄の生涯の中での一番苦しい時代であったろうということをすら知った。彼はまた、自分の許され難い罪過がとにもかくにも三年の間この家を支《ささえ》る細い力の一つであったような、そんな世の中の不思議にも思い当った。幾つかに分れた岸本兄弟の家の過去は互に助けたり助けられたりであった。その親譲りの精神に富んだ兄の情誼《じょうぎ》に対しても、岸本は今々自分が国へ帰って来たばかりだ、まだ息を吐《つ》く間も無いとは、どうしても言えなかった。多くの人に心配ばかり掛けて来た自分の旅が実際|如何《いか》なるものであったか、その中で子供等を養おうとした自分の苦心をも察して欲しいとは、どうしても言えなかった。まるで兄夫婦を欺くようにして旅に上った自分の行為《おこない》――それだ。第一それだ。「出来たことは仕方が無い、お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言って、自分の一生の失敗を大目に見てくれたような、この兄の言うことなら、仮令《たとえ》どんな無理なことでも彼はそれを聞かなければ成らないように思った。

        二十四

 岸本は誰も家の人の居ないところへ行って、独《ひと》りで自分の右の手を出して見た。そして自分に問い、自分に答えた。
「矢張《やっぱし》、金の問題が附いて廻る――どうも仕方がない」
 岸本はあだかも、手相を観《み》る占者《うらないしゃ》の前にでも出して見せるような手付をして、自分で自分の手を眺めた。その手を他から出された手のようにして出し直して見た。実際、それは誰の手でも無かった。自分の罪過そのものが何処《どこ》から出すともなく出してよこす暗い手だ。
 岸本はもう一度その手を出し直して見た。誰にも知れないように自己の罪迹《ざいせき》を葬ろうとしているような人間のはかなさをよく知るものでなければ、どうしてそんな手のあることを感じ得られよう。それは押頂いても足りないほど感謝すべき手だ。しかし掛引の強い手だ。自分の弱点を握っているような手だ。岸本はつくづく自分の手を眺めて、非常に暗い気持がした。
「姉さん、私も帰って来たものですし、今日からこの家は私にやらせて下さい」
 と岸本は嫂の居る部屋の方へ行ってそれを言った。まだ旅行免状なぞのそっくり入れてある紙入から当座の小遣《こづかい》を出して嫂の手に渡した。
 同じ船で帰国した牧野から手紙で約束のあった日に、岸本は横浜の税関まで残りの荷物を受取りに行って来た。神戸から横浜の方に廻った馴染の船はまだそこに碇泊《ていはく》中で、埠頭《ふとう》に横たわる汽船の側面や黒い大きな煙筒《えんとつ》は一航海の間の種々様々な出来事を語っていた。岸本はその税関の横手からもう一度青い海をも近く望んで来た。
 遠く国を目ざして帰って来た岸本の心――その心は彼に取って失うことの出来ない大切なものであった。その心から言えば、彼は兄にも詫《わ》び、嫂にも詫びなければ成らなかった。意外にも再び兄の無事な顔を見た最初の時から彼はその心を抑《おさ》えられるように成った。「お前はもう何事《なんに》も言うな」と兄の眼が強く物を言った。しかし、それは岸本の本意では無かった。もとより彼は兄夫婦に詫びなければ成らないと思った。それから、自分のためにあれほどの深傷《ふかで》を負わせられながら、しかも彼女自身|何等《なんら》の償いを求めようとする気色《けしき》も無いような節子に対しては、誰にも勝《ま》して詫びる心を実際に自分の身に表《あらわ》さねば成らないと思った。

        二十五

 長い旅から帰った巡礼のようにして留守宅の敷居を跨《また》いだ岸本は、漸くのことで自分の子供等の側に休息らしい休息を見つけるように成った。訪ねて来てくれる客も多く、誰を見ても逢いたいと思う人ばかりで、帰国後は思ったより多忙《いそが》しい日を送ったが、その中でも彼は泉太や繁をそれまでに大きくしてくれた人達への礼奉公を志した。彼は自身の力に出来るだけのことをして、不遇を憤り忍んでいるような兄や、ちょいちょい愚痴も出る嫂や、年とった祖母《おばあ》さんなぞを慰めようとした。兄の気象として、うんと大きく邸《やしき》を構えるか、さもなければどんな侘《わび》しい住居にもじっと我慢するか、どちらにしても中途半端《ちゅうとはんぱ》なことが出来ないようなところから、家の垣なぞが荒れ廃《すた》れても唯《ただ》それは人の見るままに任せてあった。岸本はこの屋根の下に多少なりとも清新なものを注ぎ入れるようにと努めた。どうかすると共倒れにでも倒れそうな気のするほど澱《よど》んだ家の空気の中から、何かしら生れて来るもののあるのを楽みにした。旅から帰って彼が見た節子は、朝も早く起き、嫂を助けながら家事の手伝いをして、すくなくも気を腐らせないで働いている人であった。「お前が帰って来てから、節ちゃんも大分元気づいた」――この兄の言葉から、岸本は自分の帰国が彼女にも多少の希望を与えたことを知った。なにしろ旅の空にある時でも、一番気に掛ったのは彼女のことであったから。その心から彼はすくなからぬ歓喜《よろこび》を自分の身に覚えた。
「父さんが帰っていらしったら、泉ちゃんや繁ちゃんまで眼に見えて違って来ましたよ――矢張《やっぱし》、親は親ですねえ」
 こういう嫂の言葉は、御世辞にしても岸本には嬉しかった。
 何よりも先《ま》ず岸本の願いは自分ながら驚くばかりの激しい旅疲れを少しずつ休める事であった。そういう場合には、彼は二人の子供の側へ行った。客の前なぞで無理に折曲げて坐っていた膝《ひざ》をそこへ行って延ばした。腰掛けることに慣れて来た彼は、時には顔をしかめ、痛い足を擁《かか》えて、子供等の見ている前でうめくような声を出した。
「どうだね、父さんもこれで幾らか異人臭くなって帰って来たかね――」
 と岸本が尋ねると、泉太は繁と並んで父の顔を眺めながら、
「異人臭くって厭《いや》になっちゃった」
 この泉太の人の好さそうな調子が父や弟を笑わせた。

        二十六

「でも、泉ちゃんも繁ちゃんも大きくなったね」と岸本は二人の子供を見較《みくら》べながら、「泉ちゃんの方は、おおよそそれくらいに成ってるだろうとは思ったが、繁ちゃんの大きく成っていたには父さんも驚いた」
「僕と泉ちゃんと並ぶと、背《せい》は同じくらいだね」
 と繁は泉太の方を見て言った。岸本は自分の前に坐っている二番目の子供が、もう、「僕」という言葉なぞを覚えて使っている子供が、神田川に近い以前の家の方で朝晩の区別もはっきり分らないように「これ、朝?」とか「これ、晩?」とかよく訊《き》いたあの幼い繁であるかと考えると、思わず微笑《ほほえ》まずにはいられなかった。
 岸本は言葉を継いで、
「父さんが帰って来た時、車の上から繁ちゃんに声を掛けたろう。父さんには直《す》ぐ繁ちゃんだということが分った。あの時、お前は妙な返事をして馳出《かけだ》して行ったじゃないか」
「僕は、父さんだとは思わなかった」と繁が答えた。
「そうかねえ。父さんが分らなかったかねえ」
「車の方をよく見なかったもの――日除《ひよけ》が掛ってて、よく見えなかったもの――」
 二人の子供は思いついたように顔を見合せて、父が旅の土産を取出しに行った。それを大事そうに父のところへ持って来た。
「泉ちゃんや繁ちゃんはお清書だの図画だのをよく父さんのところへ送ってよこしてくれたね。日本の字は筆で大きく書くだろう。外国ではお前、みんなペンだろう。泉ちゃんのお清書なぞを外国で見ると、字が大きくて、めずらしいくらいだったよ。そう、そう、よくお前達からお手紙なぞも貰ったっけね」
 こうした父の話を聞くよりも、二人の子供は各自《めいめい》そこへ取出して来たものを父に見せようとした。その子供らしい悦《よろこ》びを父にも分けようとした。
「どれ、その帳面をお見せ。仏蘭西風の黒い表紙なぞが附いてて、好い帳面だナア。この帳面と色鉛筆は父さんが巴里《パリ》で買って来たんだよ。お伽話《とぎばなし》の本もあるね。英吉利《イギリス》のお伽話だ。その方は父さんが倫敦《ロンドン》で見つけて来た。二人とも大切にして納《しま》って置くんだぜ」
「なんだかこの本はむずかしくて読めやしない」と繁が言った。
「そりゃ英語だもの」と泉太は弟の方を見た。
「でも、好いやねえ。絵がついてるからねえ」と繁は受けて、「父さんは僕の本にも書いてくれた。一つ読んで見るかナ。『旅より帰りし日――父より――繁へ』」
 読む繁も聞く泉太も二人とも噴飯《ふきだ》してしまった。その時、泉太の方は何か思出したように、
「父さんは好いナア」
「どうして?」と岸本が訊いた。
「だって、独《ひと》りで仏蘭西の麺麭《パン》なんか食べて――」
「独りで? お前達を連れてくわけに行かないじゃないか」
「父さんは何しに仏蘭西へ行ったの――」
 この泉太の問には、岸本も詰ってしまった。屋外《そと》の方では遽《にわか》に蛙《かわず》の鳴出す声が聞えた。岸本は子供等の顔を眺めながら、旅の空では殆《ほと》んど聞かれなかった蛙の声に耳を澄ました。三年も見なかった間に可成《かなり》な幹になった庭の銀杏《いちょう》へも、縁先に茂って来た満天星《どうだん》の葉へも、やがて東京の夏らしい雨がふりそそいだ。

        二十七

 二人の子供は更にお清書だの図画だのを取出して来て岸本に見せ、岸本が旅から送ってよこした絵葉書なぞをもそこへ並べて見せた。
「へえ、リモオジュの絵葉書があるね。これは泉ちゃんのところへ送ってよこしたんだね。よくそれでもこんなに失《な》くならないで残っていたね」
 と言いながら、岸本は子供等と一緒に仏蘭西《フランス》の田舎《いなか》の絵葉書を眺《なが》めた。曾《か》つて二月半ばかりを暮して見たリモオジュの町はずれ、羊の群の飼われている牧場、見覚えのある手前の方の樹木から遠く岡の上に立つサン・テチエンヌの寺院の高い石塔までが、その絵葉書の中にあった。丁度その図面にあらわれているのも岸本が旅で逢《あ》ったと同じ季節の秋で、よく行って歩き廻ったヴィエンヌ河の畔《ほとり》の旅情を喚起《よびおこ》すに十分であった。
「父さん。ここにお船の絵葉書もあるよ」
 と言って繁が出すのを岸本は手に取って見て、
「これは父さんが往《い》きに乗って行ったお船だ。父さんはお前、こういうお船で遠い国の方へ行って来たんだぜ」
「そんなに遠い?」
「お前達は海を見たことがあるかね」
「品川へ行けば海が見える」と繁が答えた。
「僕は鎌倉へ修学旅行に行った。あの時に海を見て来た」と泉太は言った。
 どんな海の向うにこの子供等の知らない国があるかということは、岸本には一寸《ちょっと》それを言いあらわすことが出来なかった。
 泉太も繁も、真黒に日に焼け汐風《しおかぜ》に吹かれて来た父の顔を見まもっていた。この子供等を側に置いて岸本は自分の遍歴して来た港々の奇異な土人の風俗や、熱帯の植物や、鰐《わに》、駝鳥《だちょう》、山羊《やぎ》、鹿《しか》、斑馬《しまうま》、象、獅子《しし》、その他どれ程の種類のあるかも知れないような毒蛇や毒虫の実際に棲息《せいそく》する地方のことを話し聞かせた。
「ホウ。鯨。鯨」
 と二人の子供は互に言い合って、まるでお伽話《とぎばなし》でも聞いているような眼付をしながら、鯨の捕《と》れたのを見て来たという父の旅の話なぞに耳を傾けた。
 まだ岸本は海から這《は》い上って来たばかりの旅行者のような気もしていた。彼の心は還《かえ》りの船旅に通過した赤道の方へも行き、無数な飛魚《とびうお》の群れ飛ぶ大西洋の波の上へも行った。十字架の形をすこし斜に空に描いたような南極星も生れて初めて彼の眼に映じたものであった。暗い海を流れる青い燐《りん》の光も半ば夢の世界の光であった。倫敦《ロンドン》を出発してから喜望峰《きぼうほう》に達するまで、彼は全く陸上の消息の絶え果てた十八日の長い間を海上にのみ送って来た。船は南|阿弗利加《アフリカ》ダアバンの港へも寄って石炭を積んで来た。新嘉坡《シンガポール》に近づく頃望んで来たスマトラの島影、往きに眺め還りにも眺めた香港《ホンコン》の燈台、黄緑の色に濁った支那《しな》の海――こう数えて来ると実に数限りも無い帰国の旅の印象が彼の胸に浮んで来た。

        二十八

 実に突然に、節子は沈んでしまった。それは岸本が来訪の客のいくらか少くなったのを見計らって自分の方から毎日訪問の為に出歩いている頃であった。折角元気づいて働いていた節子が何故そんなに急に鬱《ふさ》いでしまったのか、何が面白くなくてまるで萎《しお》れた薔薇《ばら》のように成ってしまったのか、さっぱり岸本には訳が分らなかった。
「節ちゃんはどうしたというんだろう」
 と彼は独《ひと》りで言って見て、あまりに急激に変って来た彼女の容子《ようす》に驚かされた。
 何か節子は義雄兄から叱《しか》られたことでもあるのか。岸本の見るところでは、別に何事《なんに》も家の内には起っていなかった。何か彼女は母親の仕向けを不満にでも思うことがあるのか。別にそんな様子も見えなかった。
「きっとこういう調子で、自分の留守の間にも姉さん達を困らせたんだろう」
 と復《ま》た言って見て、帰国早々面白くもない顔を見せつけられる彼女の神経質と、自制力の乏しさとに、すこし彼は腹立たしいような気にさえ成った。
 岸本に言わせると、彼が節子に対して済まなかったと思うことは今更繰返すまでもない。唯《ただ》それを赦《ゆる》して貰《もら》おうが為に、出来ることなら一生の失敗から出発して更に新規な道を開こうが為に、一旦《いったん》は帰るまいと思った心をひるがえしてもう一度自分の国へ帰って来た。旅は幸いにも多くの生活の興味を喚起《よびおこ》した。彼は自分でも再婚する心であり、節子の縁談でも起った場合には蔭《かげ》ながら尽すつもりでいる。そして彼女のために進路を開き与えようと心がけている。そのことを義雄兄の前でも話し、兄もまたひどく彼の再婚説に賛成してくれた。節子が沈んでしまわねば成らないほど希望を失うようなことは、彼女の前途には見当らなかった。
 そこで彼は一つの言葉を思いついた。どうしても原因の分らない彼女の濃い憂鬱《ゆううつ》を「節ちゃんの低気圧」という風に言って見た。その日まで彼はなるべく彼女を避けるようにし、直接に言葉を掛けることをすら謹《つつし》み、唯遠くから彼女を眺めて来た。言葉を替えて言えば、彼はまだ真面《まとも》に節子を見得なかった。不思議な低気圧が来て見ると、彼は否《いや》でも応でもこの黙し勝ちな不幸な人の容子を注意して見ない訳にいかなかった。

        二十九

 毎日のように岸本は訪問のために出歩いた。旧知なつかしい心から彼は訪《たず》ねられるだけ親戚《しんせき》や知人を訪ねたいと思った。芝に。京橋に。日本橋に。牛込《うしごめ》に。本郷に。小石川に。あだかも家々の戸を叩《たた》いて歩く巡礼のように。そして高輪を指《さ》して帰って来て見る度《たび》に、相変らず節子は鬱《ふさ》ぎ込んでいた。
 旅から岸本が心配しながら帰って来た時、彼の想像する姪《めい》は姿からしてひどく変り果てた人であった。あの巴里《パリ》の下宿の方で取出すのも恐ろしいほどに思った節子の写真に撮《と》れた姿――彼女自身の言葉を借りて言えば、まるで幽霊のように撮れたという産後の衰えた姿――それがまだ彼の眼にあった。その思いをすれば節子はいくらか瘠《や》せ細ったかと思われる位で、短く切れたという髪でさえ見たところさ程には彼の眼に映らなかった。けれども、これは唯一時彼を安心させたに過ぎなかった。以前とは違って節子の弱くなったことが、次第に兄や嫂《あによめ》や祖母さんの口から泄《も》れて来た。
「お前が帰って来てから、あれで気を張っているものかも知らんが、あんなに朝も早く起きるようなことは節ちゃんとしては、まあ開闢《かいびゃく》以来だ。どうかすると部屋の掃除をする元気もない。自分の寝床を畳むのがもう精々――そんな日がこれまでにいくら有ったか知れない。お前が留守の間はまるで寝て暮した様なものだぞ。稀《たま》に外へ使に出してやれば電車の中で気が遠くなるなんて――ヤカなものだわサ」
 こう義雄は田舎訛《いなかなまり》の混って出て来る調子で岸本に話し聞かせたこともある。その調子は、鈴木の姉のように慎《つつし》み深いか、亡《な》くなった甥《おい》の太一の細君のように賢いか、田辺の家のお婆さんのように勇気があるか、でなければ女として話にならないという風で。
 矢張実際の節子は岸本が心配した通りであった。それほど弱々しい人で、しかも水いじりは勿論《もちろん》、針を持つことさえ覚束《おぼつか》ないというほど手の煩《わずら》いに附纏《つきまと》われているような人で、どうしてこのまま家庭の人と成ることが出来ようかと危《あやぶ》まれた。「お前は人一人をこんなにしてしまった」――そういう声が来て彼を責めたとする。よし節子を囲繞《とりま》く一切の病的なものが悉《ことごと》く彼の責《せめ》のあることでは無いにしても、それほど彼女を力の無いものとした根本の打撃は争われなかった。
 節子の低気圧の何であるかは、どうしても岸本には知ることが出来なかった。それとなく岸本は姪の様子を見に行ったこともあった。北向の部屋の外には、裏木戸から勝手へ通う僅《わず》かばかりの空地がある。そこには日頃《ひごろ》植物の好きな節子が以前の神田川に近い家の方から移し植えた萩《はぎ》がある。その花の押されたのは節子の便《たよ》りと共に巴里の下宿の方へ届いたこともある。三年も経《た》つ間には萩も大きくなった。節子は縁側に出て、独りで悄然《しょんぼり》と青い萩に対《むか》い合って、誰とも口を利《き》きたくないという様子をしていた。

        三十

 ある日も、岸本は以前住った町の方に旧知を訪ねるつもりで、家を出る前に皆と一緒に食卓に就《つ》いた。丁度昼飯時で、兄の家族をはじめ学校の早びけを楽しむ泉太や繁まで一同そこへ揃《そろ》った。
「叔父さんが仏蘭西から帰って来てから、家のものはまだ皆《みんな》遠慮しています。皆これで猫を冠《かぶ》っています」
 こんなことを串談《じょうだん》半分に義雄が言出した。
「どうして、一ちゃんなんかだって泉ちゃんや繁ちゃんの次席《つぎ》に坐らせられて、叔父さんでも居なかろうものならああして黙って食べているもんじゃない。皆これで猫を冠っています。この猫が冠りきれれば大したものだが――それこそ万歳だが」
 と復《ま》た義雄が言った。泉太や繁等は義雄|伯父《おじ》から何を言出されるかという顔付で、伯父と並びながら食べていた。
「自分だっても猫を冠ってるくせに」
 と嫂は義雄の方を見て鋭く言った。この嫂の皮肉は義雄を苦笑《にがわらい》させた。
 節子は母親と一郎の間に坐って、頭をさげたぎり、物も言わずに食べていた。何となく彼女の楽まない容子は、岸本にはそれがよく感じられた。
「まだ節ちゃんはあんな顔をしている」
 そう思いながら岸本はその食卓を離れた。
 どうしてそんなに節子の低気圧が続いているか。原因の知れないだけに、岸本には可哀そうに成って来た。それを気に掛けながら、彼は高輪の家を出て、岡に添うた坂道を電車の乗場まで歩いた。
 電車で浅草橋まで乗って見ると、神田川の河岸《かし》がもう一度岸本の眼にあった。岸本は橋の上に立って、曾《かつ》てよく歩き廻ったその河岸を橋の欄《てすり》のところから眺めた。そこの石垣は以前自分の腰掛けたところだ、ここの船宿の前は以前自分の小舟を出したところだ、と言うことが出来た。七年住慣れた町の方まで歩いて行って見た。旧《ふる》い住居《すまい》であった家は、表の見附《みつき》からして改まり、人も住み変り、唯往来から見える二階のところに彼の残した硝子戸《ガラスど》だけが遠い旅に出るまでのことを語っていた。彼は旧馴染《むかしなじみ》の家々をも訪ねて見た。その中には、日に焼けた彼の頬《ほお》と、白くなった彼の鬢《びん》と、髭《ひげ》の無くなった彼の顔とを見つめたぎり、しばらくその訪問者が旅から帰った彼であることを信じられないかのような面持《おももち》の人さえあった。
 岸本はその町について柳橋を渡りやがて両国橋の近くに出た。旅にある日、ソーン、ヴィエンヌ、ガロンヌなぞの河畔《かわぎし》から遠く旅情を送った隅田川がもう一度彼の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。あのオステルリッツの石橋の畔《たもと》からセエヌ河の水を見て来た眼で、彼は三年の月日の間忘れられなかった隅田川の水が川上の方から渦巻き流れて来るのを見た。

        三十一

 家をさして品川行の電車で帰って行く度《たび》に、岸本はよく新橋を通過ぎて、あの旧停車場から旅に上った三年前のことを思出した。その日の帰路《かえりみち》にも彼は電車の窓から汐留《しおどめ》駅と改まった倉庫の見える方を注意して、市街の誇りと光輝とを他の新しいものに譲ったような隠退した石造の建築物《たてもの》を望んで行った。それほど彼にはまだ旅行者の気分が失《う》せなかった。多くの場合に彼は電車の片隅《かたすみ》に立って、他の乗客をめずらしく思い眺めて、半分異国から来た人のような心持で乗って行った。
 嫂や祖母さんは家の方で夕飯の支度《したく》をしながら、岸本の帰りを待っていた。節子も皆と一緒になって働くだけはよく働いていた。時々岸本は節子の方を見てそう思った。一体嫂達は何か深く思い沈んだようなあの節子をどう見ているのだろうかと。嫂はこんなことはもう毎々だという顔付で、節子が家のものと口を利かないほど黙りこんでしまっていても、さ程気にも掛らないかのようであった。
 その晩、岸本は兄と二人で奥の部屋に話し暮した。そこへ祖母さんも来て、
「節もまあ、あの手をどうかしてやらんけりゃ成るまいかと思いますが――」
 と言出した。何事《なんに》も知らずに郷里《くに》から出て来たという祖母さんは、三年このかた節子の瘠《や》せ衰えたのを一つの不思議のようにして、多病な彼女のためにいろいろと気を揉《も》んでいた。
 義雄に取って、祖母さんは義理ある母親に当っていた。嫂がこの年老いた婦人の一人娘であった。義雄は岸本の家から出て、母方の岸本の姓を継いだ人だけに、祖母さんに対しては遠慮のある口調で、
「捨吉も帰って来たものですし、あれとも相談して何とか方法を講じます」
「なにしろ、節の手が悪くなってから、もうかれこれ三年にも成るで」と祖母さんが言った。
「一度医者には診《み》せましたが」と義雄はそれを遮《さえぎ》るようにして、「その医者の言うには、これは悪い病気に罹《かか》ったものだ、余程の専門家にでも掛けなければ治《なお》らない、それにしても、この手はなかなか長くかかる――そう言って節を帰してよこしました。もしまたあんな風で、到底お嫁にも行けないようなものなら、まあ一応は治療をさせて見ての上の話ですが――何処《どこ》の家にだって片輪の一人ぐらいはよく出来るものです、そう思ってあきらめるんですね」
 こういう兄の話は強く岸本の耳に徹《こた》えた。
 旅にある日、節子を両親に託《たく》してから、岸本の心では、どうやら彼女を破滅から救い得たものと考えていた。節子に持上る縁談のことを聞く度に、一層彼は彼女の回復を確かめたように思っていた。旅から帰って来て見た。節子は弱々しい人であった。しかし彼女が廃人としてまで周囲の人達から見られるほど不具なものに成り行こうとは、どうしても岸本には考えられなかった。「片輪の一人ぐらい」この兄の言葉はひどく岸本を驚かした。
 その心で、翌朝早く岸本は台所の方へ顔を洗いに行った。嫂も、祖母さんもまだ起出さない頃であった。節子一人だけがしょんぼり立働いていた。
「何時《いつ》までそんな機嫌《きげん》の悪い顔をしているんだろう」
 そう思いながら岸本は台所から引返そうとした。口にも言えないような姪の様子はその時不思議な力で岸本を引きつけた。彼は殆《ほと》んど衝動的に節子の側《そば》へ寄って、物も言わずに小さな接吻《せっぷん》を与えてしまった。すると彼が驚き狼狽《あわ》てて節子の口を制《おさ》えたほど、彼女は激しい啜泣《すすりなき》の声を立てようとした。

        三十二

 八月に入って泉太や繁の母親の忌日《きにち》が来た。学校も暑中休暇になった二人の子供は久し振《ぶり》で父と一緒に外出することを楽みにして、その前の晩から墓参りに行く話で持切った。
 朝早く出掛けることにした。岸本は一郎をも節子をも誘った。寺のある郊外の方には岸本が訪ねたいと思う旧友も住んでいたので、彼は帰路《かえりみち》だけ子供を節子に頼んで置いて、自分|独《ひと》りで友達の家の方へ廻るつもりであった。
「捨吉は菅《すげ》さんの許《ところ》へ寄るで。そりゃ節ちゃんも一緒に行って、帰りには子供を連れて来るがよかろう」
 と兄は嫂を取做《とりな》すように言って、「稀《たま》には節子にもそれくらいの元気を出させるが可《よ》い」という意味を通わせた。
 節子はいそいそと支度した。子供等が急《せ》き立てる中で新しい白足袋《しろたび》なぞを穿《は》いて、一番|後《おく》れて家を出た。
「次郎ちゃんが見てるとまた喧《やかま》しい、出掛ける人はさっさと出掛けとくれ」
 という嫂の声を聞捨てながら、三人の子供は歓呼を揚げて真先に駆け出して行った。岸本は物の半町も子供と一緒に歩いたころ、後から薄色の洋傘《こうもり》を手にしながらやって来る節子を待った。外出した途中でよく脳貧血を引起すという節子のことが何よりも彼には気掛りであった。
「節ちゃん、今日は大丈夫かね」
 岸本が尋ねた。
「ええ、大丈夫でしょう」
 こう答える節子の声はつつましやかであった。
「お前の着物も何も皆《みんな》お蔵へ預けてあるなんて――なかなか好いのがあるじゃないか、そんなのが有れば沢山じゃないか」
「好いにも悪いにも、これッきりなんですもの」
 と節子はすこし顔を紅《あか》めた。彼女は何事も思うに任せぬという風で、手にした女持の洋傘のすこし色の褪《あ》せたのをひろげて翳《さ》した。
 旅から帰った叔父に随《つ》いて歩くようなことは、節子に取ってそれが初めての時であった。何時晴れるともなく彼女の低気圧も晴れて行った後で、あれほど岸本の心を刺戟《しげき》した彼女の憂鬱が何処《どこ》にその痕迹《こんせき》を留《とど》めているかと思われるほど、その日は冴《さ》え冴《ざ》えとした眼付をしていた。岸本が三年振で義雄兄の家族と合せにくい顔を合せた時、彼の眼に再び映った節子は思ったより小柄な人であった。恐らく巴里の下宿の主婦《かみさん》の姪なぞに思い比べて来た眼で、節子と同年になるというあの髪の毛の赤く骨格の立派なリモオジュ育ちの仏蘭西の女なぞに思い比べて来た眼で、急に自分の姪を見た故《せい》ででもあったろう。こうして一緒に連立って外出して見るとさすがに三年の間の節子の発達が岸本にもよく感じられた。彼女は狭苦しい籠《かご》の中から出て来て、実に幾年振かで、のびのびと夏の朝の空気を呼吸する小鳥のようであった。家に燻《くす》ぶっている時とも違って、その日の節子はつくり勝《まさ》りのする彼女の性質や、目立たない程度で若い女が振舞うような気取りをさえ発揮した。
 子供等は足の遅い節子を途中で待受けるようにしては復《ま》た先へ急いで行った。節子はこうした日の来たことを夢のように思うという風で、叔父と一緒に黙し勝ちに清正公《せいしょうこう》前《まえ》の停留場まで歩いた。

        三十三

 新宿まで電車で行って、それからまた岸本は子供等や節子と一緒に大久保の方角を指《さ》して歩いた。
 岸本が心配して行ったほど節子は疲れたらしい様子も見せなかった。この弱い姪《めい》をいたわることから言っても、彼はなるべく自分の歩調をゆるめようとした。ずっと以前に一年ばかり彼が住んだことのある郊外――その頃はまだ極く達者であった妻の園子に、泉太や繁から言えば姉達にあたる三人の女の児を引連れて、山から移り住んだ頃の思出の多い郊外――その頃の樹木の多かった郊外が全く変った新開の土地となって彼の行先にあった。
「この辺の町もすっかり変ったね――」
 こう岸本が言って見せるような場合にも、節子はそれを聞くだけに満足して、唯《ただ》黙って叔父と一緒に歩きたいという風であった。久しぶりで「母さん」のお墓の方へ行く兄弟の子供、殊《こと》に兄の方の泉太に取っては、この子供が今歩いて行く道は自分の生れた郊外の方へ通う道に当っていた。
「泉ちゃん、大久保だよ」
 岸本が後方《うしろ》の方から声を掛けると、泉太は一郎や繁と並んで歩いて行きながら、
「ああ、これが僕の生れた大久保だ」
 とさも懐《なつか》しそうに言った。節子は、丁度同じくらいな背に揃《そろ》った三人の少年の後姿を眺《なが》め眺め、直《す》ぐ後から静かに続いて行った。
 以前に比べると寺の附近もずっと変っていた。「叔母さん」へあげるための花を買って行きたいという節子を花屋の店頭《みせさき》に残して置いて、岸本は一足先に寺の境内に入った。やがて節子は白い百合《ゆり》なぞの自分で見立てたのを手に提《さ》げて来て、本堂に続いた庫裏《くり》の入口の側で皆と一緒になった。
「父さん、お線香は僕が持って行く」
 気の早い繁は誰よりも先にそれを言出した。
 園子の死――それから引続いて起って来た種々様々なことが、眼前《めのまえ》に見るものと一緒になって、岸本の胸の中に混り合った。案内顔に先に立って墓地の方へ通って行こうとする年とった寺男、閼伽桶《あかおけ》と樒《しきみ》の葉、子供等の手に振られる赤い紙に巻かれた線香の煙、何一つとして岸本の沈思を誘わないものは無かった。本堂の横手について一筋の細道が墓地の奥の方まで墓参りするものを導くように成っている。その古い墓や新しい墓の間の細道は、岸本が一人ずつ女の児を失う度《たび》に曾《かつ》てよく往《い》ったり来たりしたところであった。岸本は幾年|振《ぶり》かで妻の墓の前に行って立って見た。「遠い旅からよく帰って来た」と言うか、「皆揃ってよく来てくれた」と言うか、それともまた何と言うか、そこに眠っている人の意《こころ》も実に測りかねるような墓の前に。
「叔母さんが亡《な》くなってから、もう七年にも成るかねえ」
 と岸本は花を提げてそこへ随《つ》いて来た節子の方を顧みて言った。
 沈黙は周囲を支配していた。並び立つ古い墓標《はかじるし》も唯生き残るもののためにのみあるかのように見えた。
   岸本園子之墓
    同富子之墓
    同菊子之墓
    同幹子之墓

        三十四

「母さんの隣にあるのが、富姉ちゃんや菊《きい》姉ちゃんのお墓なんだねえ」
「ああそうだよ」
 泉太と繁の二人は互にこう言合った。
 寺男が樒の葉や百合の花なぞで墓の前を飾る間、しばらく岸本は節子や子供等と共に墓参りらしい時を送った。彼はまた寺男の手を借りずに自分で墓場の石を洗って、その上に水をそそいで見せると、泉太や繁もかわるがわる父と同じようにした。
 節子は最後に行って叔母さんの墓の前に掌《て》を合せた。
「両国の煙花《はなび》の晩でしたっけねえ――」
 と節子はそれを叔父に言って、丁度七年前のその日叔母さんの亡くなった当時のことを思出し顔にその墓の側を離れた。
 じめじめと霖雨《ながあめ》の降り続いた後の日に、曾て岸本がこの墓地へ妻を葬りに来た当時の記憶は、復《ま》た彼の眼前《めのまえ》に帰って来た。その時は園子を葬るというばかりでなく、三人の女の児の遺骨をも母と同じ場所に移し葬ろうとした。寺男が掘った土の中には黄に濁った泥水が湧《わ》き溢《あふ》れていた。寺男は両手を深くその中に差入れたり、両足の爪先《つまさき》で穴の隅々《すみずみ》を探ったりして、小さな髑髏《どくろ》を三つと、離れ離れの骨と、腐った棺桶《かんおけ》の破片《こわれ》とを掘出した。丁度八月の明るい光が緑葉《みどりば》の間から射《さ》し入って、雨降|揚句《あげく》のこの墓地を照らして見せた。蒸々とした空気の中で、寺男は汚れた額の汗を拭《ぬぐ》いながら、三つの髑髏の泥を洗い落した。その中で一番小さく日数の経《た》ったのは頭や顔の骨の形も崩《くず》れ、歯も欠けて取れ、半ば土に化していた。一番大きなのは骸骨《がいこつ》としての感じも堅く、歯並も揃い、髪の毛までもいくらか残って、まだ生々《なまなま》とした額の骨の辺に土と一緒に附着していた。それが泉太や繁の姉達だ。そして、その時働いてくれた寺男が今彼等の墓の前に樒を飾ったり線香を立てたりしてくれたその老爺《じいさん》だ。
 鼻を衝《つ》くような惨酷な土の臭気《におい》を嗅《か》いだその時の心の経験の記憶は、恐らく岸本に取って一生忘れることの出来ないものだ。過ぐる年月の間の恐ろしいたましいの動揺。その動揺は妻の死から引続いて起って来たというばかりでなく、実はそれよりもずっと以前に萌《きざ》して来たことが辿《たど》られる。一番小さい幹子の死、続いて五歳になる菊子の死、更に七歳になる富子の死、彼はその三人を一年の間に失った。その頃の彼は、終《しまい》にはもうこの墓地を訪《たず》ねることすら出来なかった。稀《たま》に彼の足がこの寺へ向いても、彼は自分の行く方角を考えて見たばかりでそこへ倒れかかりそうに成るくらいであった。
 こうしたことを胸に浮べながら寺の庫裏《くり》の前まで引返して行った頃に、岸本は自分の側へ来て訊《き》く子供の声に気がついた。
「父さん、今日はこれッきり?」
 と泉太は物足らないような顔付をして言った。
「これッきり? これがお墓参りじゃないか」と岸本は笑いながら言って見せた。「今日はお前、遊びに来たんじゃ無いじゃないか」

        三十五

 しばらく寺の庫裏にも時を送って、やがて境内の敷石づたいに門の外へ出た頃は、八月の日の光がもう大久保の通りへ強く射して来ていた。
 眼に見えない混雑は岸本の行く先にあった。何故かと言うに、こんな墓参りなぞに節子を連れて来たからで。岸本は黙って歩いた。節子も黙って歩いた。二人の沈黙を破るものは唯子供等の間に起る快活な笑声であった。岸本は節子や子供等を休ませるために往《い》きに節子が寄って花を買った家の附近を探した。その辺には旗の出ている小さな氷店ぐらいしか見当らなかったが、そんな店も、新開の町も、以前岸本が住んだ頃の大久保には無いものであった。
 泉太や繁は父と一緒にその店先に腰掛けて、氷の削られる涼しそうな音を聞くだけでも満足した。
「一ちゃん、氷が来ました」
 岸本は氷の盛られたコップを一郎にも勧め、泉太や繁にも分けた。
「泉ちゃん、氷レモンだぜ。父さんも奢《おご》ったねえ」と繁はコップを手にして言った。
「ああ好い香気《におい》だ」と泉太も眼を細くして、手にした匙《さじ》でコップの中の氷をさくさく言わせた。
「節ちゃん、氷は?」と岸本が訊《き》いた。
「すこし頂《いただ》きましょうか」と節子は答えて、人一倍皮膚の感覚の鋭くなっているような病のある手を揉《も》んで見せた。
 節子は叔父に対して言葉が少いばかりでなく、弟の一郎に対しても少かった。陽気で話好きな姉の輝子に思い比べたら、以前からして彼女は物静かな言葉の少い方の性質の人であった。でも、これほど黙ってしまった人では無かった。その日のように冴《さ》え冴《ざ》えとした眼と、物も言わない口唇《くちびる》とは、延びよう延びようとして延びられない彼女の内部《なか》の生命《いのち》の可傷《いたま》しさを語るかのようでもあった。
 墓参りも岸本に取っては帰国後の訪問の一つであった。訪ねられるだけ人を訪ねて見たいと思うその心持から言えば、まだまだ彼は思うことを始めたばかりだ。しかしこの墓参りを一切りとして身体《からだ》を休めたいと考えるほど、人知れず制《おさ》えに制えて来た激しい疲労を感じていた。氷店の直《す》ぐ外まで射して来ている日あたりを眺めて、余計に彼は休息を思うようになった。
 帰路《かえりみち》に向う子供等を送るために、岸本はそこまで一緒に歩くことにした。彼は往きよりも帰りの節子のことを気遣《きづか》った。まぶしい日光は彼でさえ耐え難かった。彼は節子をいたわりいたわり往きと同じ新開の町を新宿の近くまでも送って行った。時には彼の方から、不自由な境涯にある節子の要求を聞いて見ようとして、一緒に歩きながら話しかけるような場合でも、節子ははかばかしい答えさえもしなかった。彼女は唯無言のまま、過ぐる三年の間のことを思出し顔に暑い日の映《あた》った道をひろって行った。
「どうかして、この人は救えないものかなあ」
 その心で岸本は別れて行く節子を見送った。長いこと彼は一つところに立って、三人の子供の後姿や動いて行く節子の薄色の洋傘《こうもり》を見まもっていた。

        三十六

 泉太や繁の暑中休暇は、それから一月ばかり続いた。その間には大暑がやって来た。耐えがたい疲労が今度は本当に岸本の身に襲いかかって来た。もう一切を放擲《ほうてき》させる程の力で。高輪の家の蒸暑い夏の夜なぞは彼は奥の部屋の畳の上に倒れて死んだように成っていることもあった。
 国へ帰って初めてのこの暑さは、岸本が倫敦《ロンドン》出発以来の長い船旅から持越した疲労を引出したばかりでなく、どうかすると三年の仏蘭西《フランス》の旅の間知らない人の中で殆《ほとん》ど休みなしに歩き続けて来たようなその疲労までも引出しそうに成って行った。張り詰めた神経の急激な静止と休息とから、彼の内部《なか》に潜んでいたものは一時《いっとき》に頭を持上げて来た。そして激変した土地の熱の為に蒸されるように成った。
 何となく岸本の心は静かでなくなって来た。何と言っても同じ悲しい記憶に繋《つな》がれているような節子の為《す》ること成すことは彼の上に働きかけた。不思議な低気圧が節子に来た時、それが幾日となく続きに続いた時、仮令《たとえ》彼にはあの節子の苛々《いらいら》とした様子が見ていられなかったとは言え、彼は与えるつもりも無い接吻《せっぷん》なぞを与えたことを悔いた。三年の抑制と自責とは、彼をより強いものにしないで、反《かえ》ってより弱いものにして行くかのようにさえ疑われて来た。世にも不幸な女と共に、どうやら彼はもう一度|試《ため》されそうに成って行きかけた。
 ある日、岸本はその界隈《かいわい》に自分だけ勉強の出来るような部屋でも貸すところがあらばと思って、それを見つけるつもりで家を出た。二家族のものを合せて九人も同じ屋根の下に住む今の家では、旅から持って来た書籍の類を整理する気にも成れなかった。おまけに子供は多し、どうしても彼には仮の書斎を見つける必要が起って来た。町の空へ出て見ると、広い世界を遍歴して来た旅行者の誰しもが経験するような、旅の与えた心持がまだ彼には薄らいでいなかった。その心持は、自分の国を見るのにあだかも外国を見るような感じを抱かせる。どうかすると彼はまだまだ海にでも居るような気がする。上陸して二箇月ばかり何処《どこ》かの土地に滞在するに過ぎないような気がする。彼の心はまだ南|阿弗利加《アフリカ》のケエプ・タウンへも行き、ダアバンへも行き、あのマレエ人や印度《インド》人や支那《しな》人なぞの欧洲人と群居する新嘉坡《シンガポール》あたりの町へも行った。時々彼は自分で自分の眼を疑った。何故というに、そこいらを歩いている女の人が、それが実際日本の女ではなくて、マレエ半島あたりの土人の女ではないかという気を起させるのだから。こうした眼に映る幻影は、旅から疲れて帰って来た彼自身の内部《なか》の光景《ありさま》と不思議に混り合った。彼はあの眼に見えない牢獄《ろうごく》を出る思いをして巴里《パリ》の下宿を離れて来た自分と、もう一度節子に近づいて見た自分と、その間には何の関係があり何の連絡があるかとさえ驚かれるくらいに思って来た。これでも自分は国へ帰って来たのかしらん、そう考えた時は茫然《ぼうぜん》としてしまった。 

        三十七

 岸本は家の近くに二間ある二階を借りた。九月のはじめからそこを仮の書斎として、食事の時と寝泊りする時とには家の方へ通った。彼の子供の中には毎晩よく眠っているのを呼び起さねば成らない習慣のついたものがあった。彼はその子供を呼び起す役目が義雄兄の家族に取って可成《かなり》の苦痛であったことを発見した。どうしてもこれは他人の手を煩《わずら》わすべきことで無い。その考えから彼は北向の部屋に親子三人|枕《まくら》を並べ、大きくなれば自然に治《なお》る時もあるという少年時代の習慣のついた子供を側に寝かせて、なるべく嫂《あによめ》達に迷惑を掛けまいとした。丁度義雄兄は郷里の方へ出掛けて留守の時であった。節子は叔父の骨の折れるのを見兼ねたかして、子供を呼び起しに来てくれたことがあった。その日から両人《ふたり》の間の縒《よ》りが戻ってしまった。
 例の二階の方へ行く度に、時々岸本の頭脳《あたま》の内《なか》はシーンとしてしまった。同時に彼の耳の底にはこういう声が聞えた。
「お前はほんとうに人を憐《あわれ》んだことがあるか。もう一度夜明を待受けるようにして旅から帰って来たお前の心は全体の人の上に向っても、お前の直ぐ隣に居る人の上には向わないのか。お前の眼にはあの半分死んでいる人が見えないのか。その人を憐まないで、お前は誰を憐むのだ」
 一度恐ろしい火傷《やけど》をした悲痛な経験のあるものが今一度火の中へ巻き込まれて行った。岸本が、節子に対する関係は丁度それによく似ていた。しかし彼はもう以前の岸本では無かった。独身を一種の復讎《ふくしゅう》と考えるほど、それほど女性を厭《いと》い悪《にく》むものでは無かった。二度と同じような結婚生活を繰返すまいとし、妻の残した家庭を全く別の意味のものに変えようとし、際涯《はてし》無く寂寞《せきばく》の続く人生の砂漠《さばく》の中に自然に逆ってまでも自分勝手の道を行こうとしたような、そうした以前の岸本では無かった。彼は神戸に着く晩は眠るまいと思うほどの心でもって遠くから故国の燈火《ともしび》を望みながら帰って来たものだ。陸の上に倒れ伏し、懐しい土に接吻したいとさえ思うほどの心でもって長い旅から草臥《くたび》れて帰って来たものだ。
 深い哀憐《あわれみ》のこころが岸本の胸に湧《わ》いて来た。そのこころは節子を救おうとするばかりでなく、また彼自身をも救おうとするように湧いて来た。

        三十八

 節子を憐めば憐むほど、岸本は事情の許すかぎり出来るだけの力を彼女のために注ごうとするようになった。彼が現に負いつつある重荷も、義雄兄夫婦や祖母《おばあ》さんへの礼奉公も、すべては彼女のためと考えるように成った。何よりも先《ま》ず彼は節子の身から養ってかからせたいと考えた。彼女の虚弱、彼女の無気力は、雑草の蔓《はびこ》るに任せた庭のように、あまりに関《かま》わずにあるところから来ていると考えたからで――止《や》むを得ない家庭の事情から言っても、人を憚《はばか》りつづけて来たような彼女自身の暗い境遇から言っても。
 岸本はまた親掛りでいる節子に働くことを教えようとした。今まで通りにして暮して行くにしても、すくなくも彼女のために自活の面目の立てられる方法を考えてやりたいと思った。それには彼は自分の仕事を手伝わせ、談話を筆記することなぞを覚えさせ、その報酬を名としていくらかでも彼女を助けたいと考えた。そうして節子に働くことを教えるばかりでなく、どうかして生き甲斐《がい》のあるような心を起させたいと願った。
 この発案は郷里の方から戻って来た義雄兄を悦《よろこ》ばした。嫂をも悦ばした。
「節ちゃんは手が悪いと言っても水仕事が出来ないだけで、筆を持つには差支《さしつかえ》が無いんでしょう」
 と岸本が言うと、嫂と一緒に居た祖母さんも口を添えて、
「ええええ、節はあれで何か書くようなことは好きな方だぞなし。独《ひと》りで根気に何かよく書いたり読んだりします」
「や。その話は好い話だぞ。そいつは面白かろう」
 と義雄も言った。嫂はそれを引取って、
「ヤクザなものだ、ヤクザなものだッて、父さんは節のことを悪くばかり言って――九円でも十円でも取ろうと思えば取れるものを」
 そう言って涙ぐんだ。
 岸本は例の二階へ行って、自分の言出したことが誰よりも先ず節子を励ましたのを嬉しく思った。彼はその部屋に独り居て、節子が家の方から三時の茶菓子なぞを運んで来た序《ついで》に置いて行ったものを取出して読んで見た。それには種々なことが書いてあった。
「母親は仮令《たとえ》どんなに多くの子供を持とうとも、二六時中子供にばかり煩わされていることは決して決してよい事ではない。どんな場合にも、深い同情者、親切な相談相手、賢い導き手でなければ成らないことは勿論《もちろん》であるけれど、ある程度までの独立自治の心が欲しい。子供はそれによって尊い経験が得られ、母親はそれによって自分の世界を開拓する時を得ることが出来ると思う。こうしたおたがいの最善の理解の上に、はじめて秩序あり生命《いのち》あるまことの生活が営まれる。姑息《こそく》の愛に生命は無い」
 折に触れて節子が書きつけたらしい紙のはじには、誰に見せるためでもない女らしい感想めいたきれぎれの言葉が彼女の閉塞《とじふさ》がったような小さな胸から滲出《しみだ》して来ていた。
「どんなに僅《わず》かでも『主我』のこころのまじった忠告には、人を動かす力はない」
 岸本は微笑《ほほえ》みながら節子が書いたものを読みつづけた。丁度|吃《ども》った人の口から泄《も》れる言葉のようにポツリポツリと物が言ってあったからで。
「すべて、徹底を願うことは、それにともなう苦痛も多い。しかしそれによって与えられる快感は何ものにも見出《みいだ》すことが出来ない……自分の眼に見、耳にきき、自分の足で歩まなければ成らぬ」

        三十九

 まだその他に節子が読んで見てくれと言って置いて行ったものの中には、岸本の帰りの旅を待受ける頃の彼女の心持を書いたものがあり、彼女が産後の乳腫《ちちばれ》で切開の手術を受けるためにある小さな病院に居たという頃のことを日記風に書いたものもあった。いずれも尖《とが》りすぎるほど尖った神経と狭い女の胸とを示したようなもので、読んで見る岸本には余り好い気持はしなかった。
「ほんとに、愛したことも愛されたことも無いような不幸な人だ」
 と岸本は言って見た。
 節子は母親に許されて家の方から岸本を見に来た日のことであった。いくらかでも叔父の仕事を手伝うことは、こうして彼女の通って来る機会を多くした。まだ彼女は叔父の談話なぞを筆記するに慣れていなかった。それに彼女に与える仕事もそう時を定めて有る訳ではなかった。その日は彼は節子のやって来てくれたことに満足して、取り散らした部屋の内でも片付けて貰《もら》おうとした。
「でも、浅草の方に居た時分から見ると、よっぽどお前も違って来たね」
 と岸本は節子の方を見て言った。節子は相変らず言葉も少なかったが、でもこうした延び延びとした気持で居られるのはこの二階に居る時だけだという風で、部屋の隅《すみ》にある茶道具の方へ行ったり床の間に積重ねてある書籍の方へ行ったりして、そこいらを取片付けていた。
「これまでお前がいろいろな目に逢《あ》ったのは無駄には成らなかったと思うね。結局お前を良くしたと思うね」
 とまた岸本が言って見せると、節子は叔父からそう言われることをさも張合のありそうにして、軽く溜息《ためいき》を吐《つ》いて見せた。
「お前の心持なぞはお母さん達とは大分違って来ているんだろう」
「みんな――裏切られてしまうんですもの」
 節子は僅《わず》かにそれだけのことを言って、俯向《うつむ》いてしまった。
 何となく岸本の眼には以前の節子とは別の人かと思われるほどの節子が見えて来た。学校を出てまだ間も無かったような娘らしい人のかわりに、今はずっと姉さんらしい調子で物を言う人が居た。なんにも世の中のことを思い知らなかったような人のかわりに、今はいろいろな悲しみ苦みを通って来た人が居た。どうかすると岸本は兄や嫂《あによめ》なぞの認めもせず、また認めようともしないものをこの節子に見つけることが出来るように思って来た。三年前に比べると、それだけもう二人の位置が変って来ていた。

        四十

 仮の書斎とした部屋の押入には岸本が自分の身体を養うつもりで買って来た葡萄酒《ぶどうしゅ》が入れてあった。仏蘭西《フランス》産としてあって、旅で飲み慣れたように価もそう安くは求められない。彼はその壜《びん》を押入から取出して、
「こいつは自分で飲むつもりだったが、まあそっちへ進《あ》げる。下手《へた》な薬なぞよりは反《かえ》ってこの方が好い。毎日すこしずつお上り」
 と言って節子の前に置いた。
「節ちゃんはそんなに酷《ひど》く瘠《や》せたようにも思われないが――」と復《ま》た彼は言葉を継いだ。「それでも前から比べるとずっと瘠せたかねえ。お前は元から瘠せたような人じゃなかったか」
「前にはこれでも肥《ふと》っていましたとも」と節子はすこし萎《しお》れながら「祖母《おばあ》さんがよくそう言いますよ――『あんなに肥っていた娘がどうしてそんなに瘠せてしまった』ッて」
「お前の髪の毛だって、そんなに切れてもいないじゃないか。そんなに有れば沢山じゃないか。お前が巴里《パリ》へよこした手紙には、心細いほど赤く短く切れちゃったなんて書いてあったっけが」
「漸《ようや》くこれだけに成ったんですよ――」
 と節子は言って、生《は》え際《ぎわ》のあたりの髪の毛をわざと額のところへ垂《た》れ下げて見せた。
「節ちゃんは苦労して、以前《まえ》から比べるとずっと良くなった。何だか俺《おれ》はお前が好きに成って来た――前にはそう好きでもなかったが」
 めずらしく岸本はこんなことを言出した。それを聞くと節子はいろいろなことを思出したように、叔父が遠い国へ行くからこうして復た一緒に話の出来るまでの彼女自身の艱難《かんなん》な月日のことを胸に浮べるという風で、首を垂れたまま黙ってしまった。
 やがて岸本は節子に葡萄酒を持たせて家の方へかえしてやった。その時になってもまだ彼は再婚の望みを捨てなかった。自分[#「自分」は底本では「自然」]も適当な人と共に家庭をつくり、節子にもまた新しい家庭の人となることを勧めようというその旅から持って帰って来た考えは彼を支配していた。神戸からの帰京の途次訪ねる筈《はず》であった大阪の方の人の話はその後|何等《なんら》の手掛りもなかったが、しかし彼の帰国はその他にも適当な候補者を与えられそうに見えた。現に根岸の姪《めい》(愛子)の以前師事した校長先生という人からも、縁談に関した手紙を貰った。校長先生の筆で、是非彼に勧めたい人があると言って、先方《さき》でもこの話の成立つことをひどく希望していると書いてよこしてくれた。委細は根岸に聞いて見てくれ、世話したいと思う人と愛子とは同期の卒業生であるとも書いてよこしてくれた。
 この縁談には岸本の心はやや動いた。相手は全く見ず識《し》らずの婦人ではあったが、日頃近い根岸の姪を通して先方《さき》の人となりや周囲の事情を知り得るという何よりの好い手掛りがあった。ともかくも根岸によく相談して見るという礼手紙を校長先生|宛《あて》に出して置いて、彼は愛子から来る報告を待った。
 岸本の頭脳《あたま》の内《なか》はシーンとして来た。二度結ばれるように成った節子との関係は彼自身の腑甲斐《ふがい》なさを思わせた。けれども彼は眼前にある事柄にのみ囚《とら》われないで、進路を切開かねば成らないと思った――節子のためにも、彼自身のためにも。

        四十一

 根岸の姪からは間もなく委《くわ》しいことを知らせてよこした。愛子は彼女の学友に就《つ》いて、岸本の方で知りたいと思うようなことは一々女らしい観察を書いてよこした。その人の生立《おいた》ちに就て。その人の気質に就て。長く東京に住んで見たものでなければ一寸《ちょっと》思い当らないようなその人の江戸風で平和な家庭に就て。愛子は学友の容貌《ようぼう》のことまで書いて、その点で特に取立てて言うほどの人では無いが、しかし細君としては定めし意気で温順《おとな》しい人が出来るであろうし、母親としては叔母さんの子供を好く見てくれるであろう。第一子供をいじめるほどの強い人では無いと書いてよこした。愛子はまた、平常を熟知する学友と彼女との間が近過ぎるため、あまりに多くを言って見る気には成れないが、しかし叔父さんの心がすすんでいるならばこの縁談に賛成することを躊躇《ちゅうちょ》しないと書いてよこした。彼女としても、旧《ふる》い馴染《なじみ》の学友が叔父さんの家庭に入ることを楽しみに思うとも書いてよこした。
 ここまで話が実際に形を具《そな》えかけて来た。愛子の報告を読むにつけても、岸本は子まで成した節子と自分との関係が如何《いか》にこの二度目の結婚に影響して行くかを想わずにはいられなかった。彼はまた自分の再婚の場合を仮に節子が他へ嫁《かたづ》いたとして宛嵌《あては》めて見た。
「御手紙は難有《ありがと》う。自分はこの縁談に就いてもっとよく考えて見たい」
 こういう意味の返事を根岸へ出して置いて、岸本はこの縁談のあったことを義雄兄に話した。
 食事の度《たび》に家の方へ返って行って見ると、岸本は復た節子の容子《ようす》の何時《いつ》の間にか変って来たのに驚かされた。彼が「節ちゃんの低気圧」と名をつけたものは以前に勝《まさ》る激しさをもって彼女の上に表れて来た。
 ほとほと岸本は節子の意中を知るに苦んだ。彼が再婚説は他から勧められるまでもなく自ら進んで思い立ったことで、そのことは義雄兄の前ばかりでなく節子にも話し聞かせたことであった。そのために節子が家中の誰とも口を利《き》かないほど機嫌《きげん》の悪い顔を見せようとは、どうあっても彼には考えられなかった。最早《もはや》彼と節子との近さは、以前のように彼女から眼をそむけようとし、なるべく彼女から遠ざかろうとし、唯《ただ》蔭ながら尽そうとしたような、そんな隔りのあるものでは無い。彼女を救おうがためには、彼は既に片腕を差出している。節子はその彼をさえ避けようとした。
「ああ、復《ま》た始まった」
 と岸本は独《ひと》りで言って見て、彼女の神経質から堪《たま》らなく苛々《いらいら》としたものを受けた。じっと頭を垂れて考え沈んでしまったような彼女の様子は食卓の周囲《まわり》までも不愉快にした。

        四十二

「節ちゃん、お前はどうしたんだねえ」
 ある日、岸本はうち萎《しお》れた節子の前に近く行って立った。ややもすれば深い失望にでも堕《お》ちて行こうとする彼女の憂い沈んだ様子は、岸本には観《み》ていられなくなって来た。彼は以前に節子をなだめたと同じようにして、復た彼女をなだめようとした。すると節子はすこし顔色を変えながら繊弱《かよわ》い女の力で岸本の胸のあたりを突き退けた。
 こうした節子の低気圧も、しかし以前ほどは続かなかった。激しいだけ、それだけ短かった。その後には以前にも勝る親しみをもって、一層岸本を力にするように成った。
「節ちゃんも好いけれど、何かこう低気圧でも来るように時々黙り込んでしまうには閉口する」
 岸本はそれを食事の折に言出して兄や嫂の前で笑ったこともある。節子はまた皆の前でそう言われても別に悪い顔も見せないほど、元気づいた。
 黙し勝ちな節子は一度、勝手につづいた小部屋の戸棚《とだな》をあけて、その奥に蔵《しま》ってある彼女の手箱を岸本に取出して見せた。手箱と言っても、万事不自由な彼女は菓子の空箱で事を足していた。節子はそれを見てくれと言いたげな表情をして、岸本だけをそこに残して置いて、自分は祖母《おばあ》さんや母親の居る部屋の方へ行った。大事そうにして彼女が蔵って置くものは、岸本の眼には別に変ったものでもなかった。それは彼が仏蘭西の旅に上る頃から以来《このかた》節子に宛てて書いた手紙や葉書の集めたものだ。神戸から出したのもある。往きの航海の途中に出したのもある。巴里へ着いてから出したのもある。リモオジュの田舎《いなか》から出したのもある。留守宅のことを宜《よろ》しく頼む、子供を頼む、というような用事を書いた手紙か、さもなければ簡単な旅の記念に過ぎない。いずれも彼女を厭《いと》い避けようとした苦しく悩ましい心の形見でないものは無い。岸本はそれらの旅の便《たよ》りを書いた時の自分の心持を思い出し、また節子からも神戸へ宛、巴里へ宛、かずかずの変な手紙を貰う度にそれを引裂いて捨てるか暖炉《だんろ》の中へ投げ込んでしまうかしたその自分の心持を思い出して、厭《いや》な気がした。節子の手箱の底には二枚続きの古い錦絵《にしきえ》も入れてあった。三代|豊国《とよくに》の筆としてあって、田舎源氏《いなかげんじ》の男女の姿をあらわしたものだ。それを見ると、この手箱の持主がこんな僅《わずか》な色彩に女らしい心を慰めていたかと思われるだけで、別に岸本は心も曳《ひ》かれなかった。眼前《めのまえ》にある事象《ことがら》にのみ囚われまいとする心、何とかして不幸な犠牲者を救いたいと思う心、その二つの混淆《こんこう》した気持を胸に抱《いだ》きながら岸本は例の二階の方へ行った。そこへ洗濯物を持って一寸家の方から通って来た節子と一緒に成った。岸本は洗濯物を置いて帰って行こうとする節子を呼留めて、自分の再婚の意志を彼女に話した。
「叔父と姪とは到底結婚の出来ないものかねえ」
 思わず岸本はこんなことを言出した。彼は節子の顔を見まもりながら更に言葉を継いで、
「いっそお前を貰っちまう訳には行かないものかなあ。どうせ俺は誰かを貰わなけりゃ成らない」
「吾家《うち》のお父さんはああいう思想《かんがえ》の人ですからねえ」と節子は答えた。
「節ちゃん、お前は叔父さんに一生を託する気はないかい――結婚こそ出来ないにしても」
 こう岸本は言って見て、我と我が口を衝《つ》いて出て来た言葉にすこし驚かされた。
「よく考えて見ましょう」
 その返事を残して置いて節子は家の方へ帰って行った。

        四十三

 短い夜に続く朝の空気の中に、家の裏木戸から勝手口へ通う狭い空地も明るくなった。岸本は旅から帰った年の最後の暑さかと思われるような蒸々と寝苦しい一夜を送った後、家《うち》中の誰よりも先に寝床を離れて、その裏口へ歩きに出た。朝顔もさかりを過ぎた頃であったが、一面に蔓《つる》の絡《から》みついた隣ざかいの塀《へい》は重なり合った葉で埋まっていた。岸本は眼がさめてからもまだ続いている夜の心持を辿《たど》りながら、あちこちと塀の側《わき》を歩いて見た。葉と葉の間に顔を出した清《すず》しい色の花はどれを見ても眼がさめるようであった。その度に、半分夢のように人を待ち明した熱苦しい夜は彼から離れて行った。
 そのうちに節子も起きて来た。彼女は勝手口の戸を開けると直《す》ぐ叔父の姿を見つけた。まだ祖母さんも嫂も起出さないほど早かったので、節子は勝手の支度《したく》を始めない前に一寸叔父を見に来た。花好きな彼女は一つの朝顔の前から他の朝顔の前へと歩いて、そこに一つ咲いた、ここに一つ咲いた、と叔父に花を数えて見せた。
「節ちゃん、昨日の話はどう成ったね。よく考えて見ると言ったお前の返事は」
 と岸本が訊《き》いた。その時節子は持前の率直で、明かに承諾の意味を岸本に通わせた。
「お前は叔父さんを受け入れたね――」
「ええ」
 と節子は点頭《うなず》いて見せた。
 岸本は節子の意中を訊いて見ようとしたに過ぎなかったが、しかし彼女の「ええ」は何がなしに彼を悦《よろこ》ばせた。節子が勝手の方に気付いたようにして急に彼の側を離れて行った後でも、彼は朝の空気の中を歩いて見て、非常に年齢《とし》の違った自分のようなものに向って一生を託してもいいと言う彼女の心根のあわれさを思った。
 その日の午後に、岸本は例の二階の方に居て、仕事の手伝いに来る節子を待受けた。彼は手の悪い節子をいたわるようにして、旅の話なぞを筆記させた。まだ慣れない彼女の胸に浮ばないような文字でもある毎《ごと》に、彼はそれを紙に書いて教えた。どうかすると彼自身筆を執ってその話を書きつけるよりも多くの時間を要した。それにも関《かかわ》らず彼は節子に手伝わせることを楽みにした。
 一仕事終った後、節子は紙や鉛筆なぞを片付けながら思出したように、
「泉ちゃんや繁ちゃんの大きく成った時のことも考えて見なけりゃ成りませんからねえ」
「お前はもうそんな先の方のことを考えているのか」
 と言って岸本は笑った。節子がよく考えて見ようと前の日に言ったのも、主に泉太や繁のことで、彼等がずっと成長した後の日にはいかに自分等二人のものを見るかというにあるらしかった。
「お前はそんなことを言っても、ほんとうに叔父さんに随《つ》いて来られるかい」と復た岸本が言って見た。
「私だって随いて行かれると思いますわ」
 こう節子は答えたが、何時の間にか彼女の眼は涙でかがやいて来た。ややしばらく二人の間には沈黙が続いた。
「今度こそ置いてきぼりにしちゃいやですよ」節子の方から言出した。
「何だか俺は好い年齢《とし》をして、中学生の為《す》るようなことでも為《し》てるような気がして仕方がない」と岸本は言った。「節ちゃん、ほんとに串談《じょうだん》じゃ無いのかい」
「あれ、未《ま》だあんなことを言っていらっしゃる――私は嘘《うそ》なんか言いません」

        四十四

 実に一息に、岸本はこうしたところまで動いて行った。九月も末になって見ると、彼は自分の帰国後の一夏が激しい動揺の中に過ぎて行ったことを感じた。前には彼の心は遠く巴里の下宿に別れを告げて来た頃の方へ帰って行った。あの下宿の食堂から円《まる》い行燈《あんどん》のような巴里の天文台の塔の方に日暮時の窓の燈火《あかり》の点《つ》くのを望み望みした旅の心で、今の自分を考えて見た。
「お前は長旅に疲れて来た。思えば帰朝者の心理は世の多くの人々によって想像されるほど幸福なものでは無い。激しい神経衰弱に掛るものがある。強度に精神の沮喪《そそう》するものがある。いろいろな病を煩《わずら》うものがある。突然の死に襲われるものがある。驚かれるではないか。それを見ても、異常で複雑な作用が、制《おさ》えがたい動揺が、ある隠されたる働きが、仮令《たとえ》眼には見えず人には知られないまでも、帰朝者としてのお前の心を決して静かにしては置かないことが分る。旅から帰って来たばかりで、そう焦心《あせ》るな。先《ま》ず休め」
 こういう声が岸本の耳の底の方で聞えた。最近に、彼は巴里馴染の小竹からも手紙を貰った。西伯利亜《シベリア》経由で彼より先に東京に帰っていたあの画家の消息の中にも、帰朝者としての心持が出ていた。小竹は極く正直に、何となく頭脳《あたま》がハッキリしないで、未だ画作にも取掛らないでいると書いて寄《よこ》した。それを読むと、岸本にはあの仏蘭西印象派その他の作品の模写を携えてリオンから巴里へ帰った時の小竹の草臥《くたび》れたらしい顔付を思出して、そう言って書いてよこした手紙の心持を懐《なつか》しんだ。
「して見ると、皆そうかなあ」
 思わずそれを言って見た。日本に帰って半年ばかりの間、殆《ほとん》ど茫然《ぼうぜん》自失の状態にあったというある知人の言葉も彼の胸に浮んだ。
「ああああ――まるで自分のたましいは顛倒《ひっくりかえ》ってしまった」
 と彼は歎息した。
 旅の空で彼はよく帰国の日を想像したことを思い出した。何が国の方で自分を待受けていてくれるだろうとは、よく彼が自分で自分に尋ねた問であったことを思出した。実際、彼が旅人としての胸に描いて来たように、過去は過去として葬り、不幸な姪には新しい進路を与え、彼自身もまた家庭をつくり、早く母親に別れた泉太や繁のような子供等までも幸福にすることが出来るならば、実にこの世の中は無事であるけれども、もともと遠い旅にまで逃《のが》れて行ったほどのものがどうしてあの震える小鳥のような節子を傍観し得られたろう。彼は生きた屍《しかばね》にも等しい人を抱いてしまった。罪で罪を洗い、過《あやま》ちで過ちを洗おうとするような哀《かな》しい心が、そこから芽ぐんで来た。彼は片腕で足りなければ、節子のために両腕を差出そうとするように成った。でも未だ根岸の姪から賛成してよこした例の縁談を断ってまでも、節子を自分の肩に負おうとするほどの決心はつきかねていた。

        四十五

 身も心も投出して救いを求めているような節子の姿は、一日は一日よりそれがハッキリと岸本にも見えて来た。彼女は叔父と共にある時ばかり、彼女の若い生命《いのち》を楽むかのように見えた。そして他の一切のことを忘れているように見えた。彼女の病も。彼女の不自由な境遇も。彼女の親や姉や従姉妹《いとこ》に対する強い反抗心も。長い艱苦《かんく》の続いた三年の間の回想はこうして旅から叔父を迎えたことを夢のように思わせるという風であった。彼女はよく岸本の側《わき》で熱い涙を流しつづけた。
 節子の実際に弱いことを証拠立てて見せるような日の来たことも有った。岸本は近くにある郵便局まで行くことを節子に頼んだ。秋の彼岸《ひがん》過の日あたりの中をすこし歩いたばかりでも急に彼女は気持が悪くなって来たと言った。郵便局から帰ると間もなく岸本の二階で倒れた。
「叔父さん、関《かま》わずに置いて下さい。このお部屋の隅《すみ》をしばらく拝借させて下さい」
 と節子は言って、二間ある二階の小部屋の方に静かに横に成った。彼女は持病の眩暈《めまい》が通過ぎるのを待とうとしていた。岸本が階下《した》へ降りて節子のために薬を探して来た頃は、未だ彼女の額は蒼《あお》ざめていた。
「節ちゃんも弱くなったねえ。そんなことで脳貧血が起って来るかねえ」
 と言いながら、岸本は探して来た薬を節子にすすめた。
「叔父さんの部屋には何物《なんに》も無い――病人に舞込まれても掛けてやる毛布も無い。ここはまるで俺の庵《いおり》だ」
 と復《ま》た岸本は言って見て、冷い水で絞った手拭《てぬぐい》なぞをすすめて節子をいたわった。
 時々岸本は自分の机の側を離れて節子を見に行った。彼女の額に載せた濡《ぬ》れ手拭は自然と彼女の顔の白いものを拭《ぬぐ》い落した。持って生れたままの浅黒い生地《きじ》がそこにあらわれていた。四人の姉弟《きょうだい》の中でも姉の輝子と弟の一郎とは郷里の方で生れ、次郎はこの東京の郊外で生れ、彼女一人だけが義雄の兄夫婦の朝鮮に家を持っていた頃に生れた。彼女の自然な顔の肌《はだ》の色は朝鮮から持って来た浅黒さだ。
 節子に起って来た脳貧血も割合に軽く済みそうに見えて来た。そのうちには岸本は静かに横に成っている姪《めい》をいたわりながら、こんなことを言って笑えるまでになった。
「随分お前も色が黒いんだね」
 そう言われた節子はまた壁の方へ向いて両手で彼女の顔を隠すほど元気づいた。
 家の方からは祖母さんが心配して一寸《ちょっと》この二階へ節子を見に来た。祖母さんが帰って行く頃、節子は既に身を起していた。
「でも、妙なものですねえ」
 と節子は岸本の方を見て、彼女の内部《なか》に起って来る無量の感慨をそうした僅《わずか》な言葉で言い表して見せようとした。
 その時、岸本の胸には旅にある間かずかずの腑《ふ》に落ちない手紙を彼女から貰《もら》ったことが浮んで来た。神戸で受取り巴里《パリ》で受取った姪の手紙は、今だに彼には疑問として残っていた。彼は初めてあの手紙のことを節子の前に言出して見る気に成った。
「どういうつもりでお前はああいう手紙を叔父さんの許《ところ》へよこしたのかね」
 この岸本の問には節子は何とも答えようのないという風で、黙ってうつむいてしまった。
「俺《おれ》は又、お前が自分の子供のことを考えて、それでああいう手紙をくれるんだと思っていた――そうじゃないのかね」
「今にもう何でも話します」
 節子は言葉に力を籠《こ》めて、唯《ただ》それだけのことを答えた。何時《いつ》の間にか彼女の眼には復た熱い涙が湧《わ》いて来た。それが留め度も無いように彼女の女らしい顔を流れた。

        四十六

「捨吉、すこしお前に話すことがある。後でお前の二階の方へ行こう」
 とある日、義雄はそのことを岸本に告げた。
 岸本は自分の借りている二階の方で兄を待受けた。いつも兄が家の方で岸本と話す場合には、祖母《おばあ》さんとか嫂《あによめ》とかが隣室に居る奥の部屋だ。この兄が誰も家のものの聴《き》いていないところで話しに来ようということは、それだけでも岸本には何か意味ありげに思われた。彼は二階の障子に近く行って立って見た。もう秋の蜻蛉《とんぼ》がさかんに町の空を飛んだ。泉太や繁は近くにある古い池の方へ行って蜻蛉釣に夢中になっている頃だ。往来へ射《さ》して来ている午後の日あたりを眺《なが》めても九月の末を思わせる。長い黐竿《もちざお》をかついで池の方へ通う近所の子供等も二階から見えた。そのうちに岸本は家の方から往来の片側を通って来る兄の姿を見かけた。
 やがて義雄は階下《した》から楼梯《はしごだん》を登って来た。
「うむ、これは明るい二階だ。まあお茶でも一つ呼ばれよう」
 こう言う兄を前にして、二人ぎりで差向いに坐って見ると、岸本の胸には節子のことが騒がしく往《い》ったり来たりした。とても彼にはこの仮の書斎で兄と共に茶話《ちゃばなし》を楽しむほどの心には成れなかった。義雄の話の中には、長いこと弟の子供の世話で骨の折れたことや、岸本の留守中に嫂が泉太や繁を断りたいと言出して、それを兄が頑《がん》として聞入れなかったということなぞが、それからそれへと引出されて行った。
「一旦《いったん》俺は自分の身に引受けたことは、飽までもそれを守り貫く。子供のことばかりじゃないテ。これは言うべきことで無いと思ったら、仮令《たとえ》自分の妻《さい》にだって決して話さん」
 義雄の話がちょいちょい岸本の痛いところへ触《さわ》りかける度《たび》に、岸本はそれを言出されるのを苦痛に感じた。兄はまた泉太や繁の話に戻って、あの子供等が嫂の方に懐《なつ》かないで、仮令|叱《しか》られても何でも兄の方に懐いて来るということなぞを岸本に語り聞かせた。
 二時間ばかりも義雄は弟の二階に居た。岸本は手を揉《も》みながら二階を降りて行く兄を見送った。彼は独《ひと》りになってから、その日の兄の置いて行った話を自分の胸に纏《まと》めて見た。要するに嫂の噂《うわさ》であった。嫂の愚痴の源を、兄はあの嫂に隠していることがあるからだというその兄弟だけの深い秘密に持って行って見せたのであった。
 こうした兄の話は、万更《まんざら》岸本にも思い当らないでは無かった。彼は一度家の方で嫂と話したことがある。その時嫂は彼に向って、「義雄さんは私に隠していることがある」と険しい眼付をして言ったこともあるし、「私達が東京へ出るように成ったのは、一体誰から言出したことなんですか――」と言って彼に問詰めたこともある。かねてからあの嫂の前に詫《わ》びよう詫びようと思っている彼に取っては、その時ほど好い機会は無かった。「詫びるなら、今だ」と命ずるような声を彼は自分の頭の上で聞かないでは無かった。けれども、彼は跨《また》ぎにくい留守宅の敷居を跨いで兄や嫂と顔を合せたそもそもの日にもう詫び損《そこ》ねてしまった。今更それを言出すことも出来なかった。帰国以来急激に変って来た節子との関係から言っても、猶々《なおなお》それが出来なくなった。罪の深いもの同志が如何《いか》に互の苦悩から救われようとして悶《もが》こうと、誰がそんな寝言のようなことを信じよう、そう考えて岸本は部屋の障子の側《わき》に悄然《しょうぜん》と立ちつくした。

        四十七

 泉太や繁のためから言っても、岸本は何時まで二家族|同棲《どうせい》のような現在の仮の状態を続けて行くべきでは無いと思って来た。義雄兄の残して置いて行った嫂の噂はこの決心を促させた。
「叔父さん、お父《とっ》さんは何か言いましたか」
 と節子が家の方から洗濯物を擁《かか》えて来て一寸《ちょっと》岸本の二階へ顔を見せた。彼女は父がこの二階で話したことを心配顔に訊《き》いた。
「なんにもお前の話は出なかったよ」
 と岸本は言って見せた。やがて彼は自分の紙入からいくらかの金を取り出して、それを節子の前に置いた。
「節ちゃん、これはお前の稼《かせ》いだ分だ。お前はそのお金を全部お母《っか》さんの方へ進《あ》げておしまい。お前の生活費だけは毎月これから俺の方で保証してあげる。叔父さんも旅から帰ったばかりで、何もかも一人では容易じゃ無いんだが――」
「どうも済みません」
 と答えながら、節子は叔父のこころざしを帯の間に納めた。
 その日は岸本も例《いつも》より早く二階を仕舞って家の方へ帰って行った。丁度家の格子戸《こうしど》の前で、古い池の方から長い黐竿を提《さ》げて戻って来る二人の子供と一緒に成った。一郎と繁だ。
「父さん。銀」
 と繁は指の間に挾《はさ》んだ青い銀色の蜻蛉を父に見せた。
「へえ。お前達はよくそれでも感心にいろいろな蜻蛉の名なぞを知ってるね」
 と岸本が言うと、繁は一郎の方を見て、
「蜻蛉の名ぐらい知らなくって――ねえ、一ちゃん」
「叔父さん、言って見せようか」と一郎は岸本の前に立って、「銀に、汐辛《しおから》に、麦藁《むぎわら》に、それから赤蜻蛉にサ」
「ホラ、黒と黄色の大泥棒――随分、あの池にはいろいろな蜻蛉が居るね」と繁は相槌《あいづち》を打った。
 岸本は格子戸の内から直《す》ぐ玄関先へ上らないで、繁と一緒に潜戸《くぐりど》から庭の方へ抜けた。庭から長火鉢《ながひばち》のある部屋を通して奥の方までも見透される。祖母さんをはじめ、嫂、節子が夕飯の支度《したく》をしながら立働いているのが見える。
 その時、岸本は庭の隅《すみ》に黐竿を立掛けた繁の側へ寄って、低い声で言った。
「繁ちゃん、お前は一ちゃんや次郎ちゃんと喧嘩《けんか》するんじゃないよ――次郎ちゃんはまだ幼少《ちいさ》いんだからね。いいかい。伯母《おば》さんの言うこともよく聞くんだぜ」
 繁は点頭《うなず》いて見せたかと思うと直ぐ父の側を離れて、ぷいと飛んで行ってしまった。
 まだ庭の濃い椿《つばき》の葉なぞは明るかった。岸本はその足で庭から縁側の上に登《あが》って、仏壇のある部屋の方まで行って見た。仮令僅でも節子が自分に取れた報酬を母の手に渡すように成ったことは、何となく彼女の位置を変えて見せた。
「お蔭で、節も稼《かせ》ぐように成りましたよ。彼女《あれ》がお金を持って来て見せましたよ」
 こう言う嫂の機嫌《きげん》の好い顔は実に何年|振《ぶり》で節子の見たものであったか、とそれを岸本も心ひそかに想像した。

        四十八

「叔父さんの馬鹿やい」
 と言いながら次郎は縁側に立って夕飯の時を待つ岸本の側へ寄った。この兄の二番目の子供は「馬鹿やい」を言うほど岸本に対しても遠慮が無くなって来た。どうかすると次郎は外来の食客を見るような眼で叔父を見た。次郎はまた父あり母ある自己《おのれ》の強さを示そうとするかのように、
「この野郎、打《ぶ》つぞ」
 と岸本の方を見て肩を怒らした。嫂はそれを聞きつけたかして、
「次郎ちゃん、そうお前のように威張るんじゃないって言うに」
 と子供を叱るように言った。そう言って叱るこの次郎が嫂にはまた可愛くて、可愛くて、眼の中へ入っても痛くないという風であった。
 夕飯後に、岸本は自分の子供の側で時を送ろうとした。そこへ義雄兄も来て一緒に寛《くつろ》いだ。義雄は弟の留守中世話して見た子供の性質を言って聞かせるようにして、側へ来て立つ繁の方を岸本に指《さ》して見せながら、
「繁ちゃんか。この男はこれでなかなか滑稽家《こっけいか》です」
 そう伯父に言われた繁はすこし身を跼《こご》めて薄笑いした。次郎がそこへ飛んで来た。次郎は父や叔父の見物のあるのを何より悦《よろこ》ばしそうにして、いきなり繁に組付いた。畳の上では二人の子供の相撲《すもう》が始まった。
 繁は次郎に負けて見せた。それを見ていた義雄は繁のわざと投げられた呼吸がさも耐えられないかのように、
「繁ちゃんはそれでも、泉ちゃんと一ちゃんと三人の中では一番相撲は上手だ。まあ家中で、喧嘩をして一番強いのは一ちゃんだ。そのかわり相撲となると繁ちゃんに負ける。繁ちゃんはあれで子供のくせに、いくらか相撲の手を心得てるんだね」
 こう言って義雄は笑った。その時岸本は一郎の方を見て、
「一ちゃんはなかなか敏捷《はしこ》いようですね」
「うむ、あれはまあ才子かも知れない」と言って義雄は腮《あご》を撫《な》でて見て、「そのかわり早熟な方で、すこし勉強すると頭脳《あたま》が痛いなんて、そんな弱いものじゃ話に成りゃしない。泉ちゃんと来たら、これはまたシンネリ、ムッツリの方サ。何を言われても黙っている。でも泉ちゃんは根気は好いぞ。半日一つ事に取付いても飽きないで遣《や》ってる。ああいうのが結局勝利を得るかも知れんテ」
 岸本は自分の子供の方を眺めて、泉太の沈黙が矢張長い留守居から来た不自然なものではないかと想って見た。あの浅草の以前の住居の方で節子をよく泣かせたほどの激しい気象を持った繁が父の留守中のことも思いやられた。岸本は家の中を眺め廻した。こうして義雄兄の子供と自分の子供とを一緒に置くことの結果を考えた。仮令兄には懐《なつ》いても、嫂には懐かないという家庭の空気の中に子供等を置くことの結果をも考えた。いずれは竈《かまど》を分けなければ成らない。兄の家族と別れ住むことを考えなければ成らない。その心支度をすることも彼に取っては礼奉公の一つであると考えた。

        四十九

 十一月を迎えるように成って節子は眼に見えて違って来た。三年も彼女の側に居て彼女のために心配しつづけた祖母さんまでがそれを言うほど違って来た。彼女の動作から彼女の声までも生々として来た。
「でも、ほんとに力を頂きましたねえ」
 節子は岸本の二階に来てそう言って悦《よろこ》んで見せるほどに成った。
 こうした力は――それを貰ったと言って見せる節子の方ばかりでなく、どうかして彼女を生かしたいと思う岸本の方にも強く働いて来た。ほんとうに人一人でも救いたいと考えれば考えるほど、彼は節子の違って来たのを自分の胸に浮べて、その生命《いのち》の動きから湧《わ》いて来る歓喜《よろこび》を自分の身に切に感ずるように成った。のみならず、彼自身と姪との関係までも何となく変質したものと成って行くのを感じて来た。
 もとより岸本は、姪の意志を曲げさせてまでも、無理に彼女を間違った方へ連れて行くつもりは無かった。彼と節子との間には二度結びついてしまうほどの根深いある物が横たわっていた。到底|姑息《こそく》な手段によって互の苦悩から救わるべくも無かった。叔父としての彼が苦しむ罪は、姪としての節子が苦しむ罪だ。もし節子の方から進んで罪過の責を分とうとし、彼女の一生を叔父に託してまでも不思議な運命を共にしようと言うならば、彼は再婚の生活なぞを断念しようとさえ考えて来た。それには彼はもっともっと節子を生かしたいと思った。
 どういう生涯がこうした二人の前に展《ひら》けて行くだろう。もしこれを押し進めて行ったら終《しまい》にはどうなるというようなことは、岸本には考えられなかった。唯《ただ》、彼はもう一度待受けようとする夜明のために、今まで二人で真暗なところを歩きつづけて来たような不幸な姪を道連として、せっせと支度を始めたことだけを感じていた。
 旅から岸本が持って来た書籍の中には、ロセッチの画集も入っていた。それは彼が巴里の下宿に居た頃、ルュキサンブウルの公園の近くにある文房具屋で見つけて来たものであった。アーサア・シモンズの序文の仏訳までも添えてあった。その画集の中にある「ダンテの夢」と題したのは、版としても好ましく出来ていて、豊国の筆に成った田舎源氏《いなかげんじ》の男女の姿を見るとは別の世界の存在を節子に示すであろうと思われた。岸本はその一枚を節子の手箱の底に置いて考えるのも楽しみに思った。
 丁度義雄兄の方でも弟と住居《すまい》を別にしようという問題が実際に持上って来た頃であった。岸本は旅の記念の画を白い紙に包んで、家の方へ行った序《ついで》に節子に送った。その画の裏には次のような文句をも認《したた》めて置いた。
「最後まで忍ぶ者は救わるべし」

        五十

 間もなく岸本兄弟の家族は別れ住もうとする動きの渦の中にあるように成った。新しい住居を見つけて分れて行こうとする兄。しばらく高輪《たかなわ》に居残って跡始末をしようとする弟。岸本は長いこと子供の世話に成った礼の心ばかりに、兄から見せられた書付を引受け、移転に要する費用や当分兄の家族の暮せるだけのものを義雄に贈った。
 何もかも動いて来た。毎日のように義雄は新しい住居を探しに出るように成った。嫂をはじめ節子から子供まで動いて来た。岸本自身も動いて来た。節子と同じ屋根の下に暮して見た四月余りは短かかったと言え、可成《かなり》岸本の心持を変えた。曾《かつ》て憎悪《にくみ》をもって女性に対した時のような、畏怖《いふ》も戦慄《せんりつ》も最早同じ姪から起って来なかった。彼は下手《へた》に節子を避けようとするよりも、そこまで哀憐《あわれみ》を持って行ったことから反《かえ》って自分の心の軽くなるのを覚えた。
 岸本は自分の二階の方で節子と一緒に成った時、こう彼女に言って見た。
「吾儕《われわれ》の関係は肉の苦しみから出発したようなものだが、どうかしてこれを活《い》かしたいと思うね」
 この岸本の言葉は節子を悦ばせた。
「私だって叔父さんに随《つ》いて行かれると思いますわ――何でも教えてさえ下されば」
「お前のことを考えると、何と言うかこう道徳的な苦しみばかり起って来て困った」
「私だっても……」
 こうした二人の心持から言っても岸本は別れ住むことが互のために好いと考えることを節子に話した。
 その時に成っても、堅く結ばれた節子の口はまだそう容易《たやす》く解《ほど》けて来そうも無かった。彼女は思うことの十が一をも岸本に語り得なかった。彼女は無言をもって、言えない言葉に替える場合の方が多かった。そういう沈黙の間には、何処《どこ》までが悲しい嵐《あらし》の過去で、何処までが同じ運命に繋がれている今であるのか、その差別もつけかねるような心持が岸本には起って来た。
「節ちゃん、お前は何時までも叔父さんのものかい」
「ええ――何時までも」
 胸に迫って湧いて来るような涙と共に、節子は啜《すす》り泣く声を呑《の》んだ。

        五十一

 義雄が家族を引連れて移り住もうとする家は上野の動物園からさ程遠くない谷中《やなか》の町の方に見つかった。月の半ば頃には略《ほぼ》その支度《したく》が出来るまでに成った。兄は岸本の方の望みによって、年とった祖母さんだけを弟の家に残して置いて行くことにした。
 到頭岸本は何事《なんに》も詫《わ》びずじまいに、唯《ただ》その心を行為《おこない》に表すだけのことに止めて、別れ行く嫂《あによめ》を見送ろうとするような自分をその引越|間際《まぎわ》の混雑の中に見つけた。
「姉さん、要《い》る物がありましたら、何でもお持ちなすって下さい」と岸本は言って、古い家具や勝手道具の間に合いそうな物まで嫂に分けた。
 時雨《しぐれ》は早や幾度《いくたび》か屋根の上を通過ぎた。嫂が節子を連れて谷中の家へ掃除に出掛ける頃は、義雄は郷里の方に用事があると言って、引越の手伝いを人に頼んで置いて、兄自身は東京に居なかった。その日は嫂も、節子も、二人とも疲れて谷中の方から帰って来た。
「お帰りかい」
 と慰労《ねぎら》うように言う祖母さん、母や姉の帰りを待受けていた一郎と次郎、谷中の家の様子を聞こうとする岸本親子なぞが嫂達の側に集った。
「私はもう掃除に行って来たばかりで、あの家が厭《いや》になってしまいましたよ。暗いの、暗くないのッて」と嫂は岸本に言って見せて、一緒に電車で帰って来た節子の方をも見ながら、「どうして父さんはあんな家を借りる気に成ったろう。あの二階だけは明るいね」
「ええ、二階の方はねえ」と節子も母の顔を見た。
「でも二階の一部屋だけは随分暗い。あれじゃ何処《どこ》からも日の映《あた》りようが無い」
「溝《どぶ》が近くないと好いんですけれどね」
「まあ、御免|蒙《こうむ》って」と復《ま》た嫂が草臥《くたぶ》れたらしく言った。「節ちゃん、お前も御免蒙って足でもお出し」
「叔父さん、御免なさいね」
 と節子も言いながら、母と二人してさも草臥れたらしい足を横に延ばすようにした。彼女は白足袋《しろたび》を穿《は》いた足を岸本の方へ投出しても、それを取繕おうともしないほどの親しみを彼に見せた。その日の節子は叔母さんの墓参りに行った日と同じように、平素に見られないような若さをも発揮した。
「でも、手伝いに来てくれた人があって好うござんしたよ。何もかもその人がしてくれましたよ」
 こう節子は岸本に話しかけながら、母の側で片膝《かたひざ》ずつ折曲げるようにして、谷中まで行って来た足袋の鞐《こはぜ》を解いた。
「とにかく、御苦労だった」
 と祖母さんも言って、一頃《ひところ》は電車に乗ってさえ眩暈《めまい》が起ったほどの節子に引越の手伝いの出来る時が来たことを悦《よろこ》び顔に見えた。
 その翌日は朝から雨が来た。荷造りして待っていた嫂達は、否《いや》でも応でも引越を延ばさねば成らなかった。祖母さんも、嫂も、かわるがわる北向の縁側に出て、晴れそうもない空を眺《なが》めた。郷里の方に居る頃からずっと一緒に暮し慣れて来た祖母さんをこの高輪に残して置いて行くというだけでも、嫂に取っては心細そうであった。
「こんな雨なぞが降らないで、早く追出せば可《い》いのになあ」
 と嫂は半分|独語《ひとりごと》のように言って、岸本をいやがらせた。
 一日降り続いた雨は谷中行の人達を引留めて引越の支度を十分にさせたばかりでなく、祖母さんや岸本の側で語り暮す時をも与えた。岸本の方に頼んで置いた下女が来て、台所の仕事を任せて置かれるだけでも、節子にはそれだけの身の余裕があった。岸本が旅にあった頃、欧羅巴《ヨーロッパ》の戦争が始まって二度目の降誕祭《クリスマス》を迎える前に、彼の帰国の噂《うわさ》が一度留守宅へ伝えられた時の話なぞも、めずらしく節子の口から出て来た。
「父さんがお帰りなさるッて、泉ちゃんも繁ちゃんも夜遅くまで起きてたことが有りますよ。そのうちに泉ちゃんの方は寝ましたが、繁ちゃんはああいう子ですから、一晩ろくに眠らないで待っていましたっけ――よっぽどあの時は嬉しかったんですね」
 荷造りした家具なぞが部屋の隅《すみ》の方に積重ねてあるところで、雨の音で暗くなって行った夕方の空気の中に、節子は高輪で暮して見る最終の日を惜んだ。病のために苦労した彼女はいろいろな薬の名なぞをよく知っていて、岸本のために参考に成るような子供の持薬その他を紙に書残して置いて行こうとした。

        五十二

 朝早く運送屋は荷馬車を曳《ひ》いて来て家の裏木戸の外に馬を停《と》めた。いよいよ谷中行の人達の引移る日が来た。荷造りした世帯《しょたい》道具が車に積まれるのを待つ間も、岸本はこれから出発しようとする嫂達のために曇った天気を気遣《きづか》った。やがて彼は重そうに動いて行く荷馬車を見送って置いて嫂や節子等の出発の支度の出来るのを待った。
「節はまたちょいちょい祖母さんの許《ところ》へ来ておくれよ」
「ええ、上りますとも。どうせ私は叔父さんの御手伝いに参りますからね」
 と節子は答えて、一週に一度位ずつは叔父の手伝いかたがた祖母さんを見に来ることを約した。
 空は降り出す模様もなかったが、しかし寒そうに曇った色は最早冬季の近づいたことを思わせた。嫂と節子とは二人の子供を引連れ、門に出て見送る隣近所の人達にも挨拶《あいさつ》して、その寒い日に出掛けた。岸本は義雄兄の東京に居ないことを考えて、女子供ばかりで谷中の方に向おうとする人達の後姿が見えなくなるまでも家の外に立ちつくした。
「何だか急に家《うち》の内《なか》が寂しくなりましたね」
 と岸本は祖母さんに言って、嫂達を送出した後の部屋々々を歩いて見た。
「祖母さん、この長火鉢《ながひばち》の置いてあるところをあなたの部屋としましょう。今に久米《くめ》さんも来てくれましょうから、あの人には隣の部屋の方を宛行《あてが》いましょう」
 と復た岸本が言った。久米は岸本のことを「先生、先生」と言って園子がまだ達者でいる時分から岸本の家の事情をよく知っている婦人であった。その人も勉強かたがたしばらく岸本の家を助けに来てくれることに成った。彼が新たに雇い入れた女中も矢張久米の世話であった。
 こうして岸本は祖母さんを借り、久米を借り、兄の家族と分離した後の簡易な生活を初めて見た。嫂達が別れて行った翌々日、岸本は節子からの手紙を受取って、それを祖母さんにも読んで聞かせた。静かな雨の音を聞きながら谷中の家の二階の三畳からこの御便《おたよ》りをすると節子は書いてよこした。彼女は長い長い間いろいろ御世話さまに成ったという礼なぞを述べ、引越は昨日でほんとに好かった、そちらでも矢張その御噂をしてくれたことと思うと書いてよこした。物哀《ものがな》しいあの空の色、寒い風に吹かれながら上野の公園側を歩いて来た時は心細かったと書いてよこした。ここへ着いてからは父の知人《しりびと》が手伝いの夫婦をよこしてくれて、自分等は御客さまのようなものであったと書いてよこした。昨夕《ゆうべ》はまた手伝いに来てくれたそのお婆さんに連れられて久し振《ぶり》で明るい町を歩いて見た、その人が帰ってしまってからも母と二人で遅くまで話したが、種々な思いで胸が一ぱいに成ってよく寝られなかったと書いてよこした。彼女はまた弟達の様子をも書き、今寄留届を認《したた》めたところだから一寸《ちょっと》その序《ついで》にこの知らせをする、すこし家が片付いたら御返しものかたがたそのうちに御機嫌《ごきげん》伺いにまいりたいとも書いてよこした。

        五十三

 最早《もはや》、節子は岸本の側に居なかった。彼女の母親も、彼女の弟達も居なかった。何となく下谷の住居《すまい》の方へ嫂を見送ったことを一くぎりとして、あの嫂が祖母さんや一郎を引連れ、郷里の方から出て来てくれた日以来の家庭の小歴史に、そこに一つの線でも引いたような区劃《くかく》が岸本には見えて来た。殊《こと》に岸本は節子と彼自身のために、互に別れ住む日の来たことを楽しく考えた。何故というに、不思議な運命を共にしようとする二人にあっては、互に抑制することを学ばねば成らなかったから。弱い人間である以上、もう一度岸本が遠い旅にでも出なければ成らないようなことが決して起って来ないとは限らなかったから。
 節子を送り出して見ると、余計に岸本はその心持を深くした。同時に節子は今まで岸本の感じなかったような淋《さび》しさをも後へ残して置いて行った。丁度|武蔵野《むさしの》へやって来る初冬が最早この高輪の家の庭先へも忍び足でこっそりやって来ているように、節子の残して行った淋しさが何時《いつ》の間にか彼の内にも外にもあった。殊に彼女が谷中から引越の模様を知らせてよこした手紙は、妙に岸本を淋しがらせた。彼はあの不幸な人のことを考えつづけて、一晩ろくに眠られなかった。いろいろな心持がそこから引出されて行った。その日まで彼が節子のために尽そうとしたのも自己《おのれ》の責任を強く感ずる心からで、そのためには自分の片腕を差出し、まだそれでも足りなくて両腕までも差出したが、しかし自分の全部をそこへ投出すほどの心には成れなかった。憐《あわれ》む人と憐まるる人との隔りは、やがて彼と節子との隔りであった。「節ちゃん、お前は何時までも叔父さんのものかい」と訊《き》いて見るほど近く行った時でも、まだ彼は自分と節子との間にいくらかの隔りを置いていた。どうやら彼はその隔たりまでも捨てて掛ろうとするように成った。まだ若い女のさかりの身で一生を託してもいいと言うほど可憐《かれん》な心を持つ人を救おうがためには、彼は何もかも彼女に与えようとするほどの情熱を感じて来た。それほど節子の書いてよこした手紙は、彼を淋しがらせた。
 こうした眠りがたい夜が続いた。過ぐる三年、罪過の苦痛に悩まされつづけた岸本のたましいはしきりに不幸な姪《めい》を呼んだ。その時になって初めて彼は節子に対する自分の誠実《まこと》を意識するように成った。長い懊悩《おうのう》も、憂鬱《ゆううつ》も、忍耐も、寂しい寂しい異郷の独《ひと》り旅も、すべては皆この一つを感知するために有ったかのように思われて来た。もっともっとこの関係を押し進めて行って見たいと思うほど心もすすんで来た。節子を谷中の方に置いて見て、一層よく岸本にはこのことが分った。
 五晩《いつばん》ばかりも岸本はよく眠らなかった。彼には自分で自分が持ち切れなくなって来た。到頭彼は節子に宛《あ》てて、嫂に読んで聞かせても差支《さしつかえ》の無い手紙を書き、別に書いたものを同封した。その中に、彼は今まで節子に展《ひろ》げて見せたことの無い自分の心胸《おもい》を打明けた。

        五十四

 節子は次のような返事を送ってよこした。
「わたしは心から微笑《ほほえ》みました。幾年も笑ったことのない人になっておりましたのに……何もかもお話しますと申上げましたね。とうとうその時が参りましたよ。わたしはその時がこんなに早く参ろうとは思いませんでした。すくなくも二三年は待たなければ成らないかと思いました……なんにも自分の心を満してはくれなかったと申したことが有りましたね。幼少《ちいさ》い時分からしていろいろな人をじっと見つめておりますと、どこか物足らないところが出て来るんですもの。ほんとうに自分を開放する気には成れませんでした。わたしどもの創作は、最初こそあんなでございましたけれども、間もなくわたしは長い間自分の求めていたものであることを見出しました。けれども、その頃は叔父さんは、ちっとも御自分の御心を開放しては下さいませんでした。それからあの三年の長い間、何一つ小さな物の影すらわたしの心に射《さ》すことは出来ませんでした。富も栄華もわたしの心の糧《かて》ではございませんから……旅からお帰りに成って半月ほどの間、なんにも咽喉《のど》を通らなかったほどのこの大きな喜びは、誰のところへ参りましょう。そうしたものにのみ与えらるる唯一の物では御座いますまいか。あの低気圧の何であったかは、漸《ようや》くお解《わか》りでございましょう。どうぞ長い間のこの心を、そして心からの微笑みを御受け下さい」
 この返事を受取って見ると、岸本は何よりも先《ま》ず節子の率直な告白をうれしく思った。「創作」という言葉でもって二人の間の結びつきを言い表そうとしてあるのにも心を曳《ひ》かれた。岸本は幾度となく節子の返事を読み返して、彼女が書いてよこした短い言葉の間にはいろいろな心持の籠《こも》っているのを見つけた。彼女に言わせると、自分等の関係は最初こそあんなで有ったけれども、間もなく彼女が長い間求めていたものであることを見出したとある。この言葉は、長いこと岸本に疑問として残っていた彼女からの以前の手紙に、神戸で受取り巴里《パリ》で受取りしたかずかずの腑《ふ》に落ちなかった手紙に、彼女自身裏書して見せたようなものであった。岸本は長い旅に出ようとして神戸まで行った時、彼女から受取った最初の手紙の中に、既にもう彼が節子に対して気の毒がる一切の心持を彼女の方から打消してよこしたことを思出すことが出来る。彼はまた、巴里の下宿の方で彼女の手紙を読む度《たび》に、どうしてあれほどの深傷《ふかで》を負わせられた人がかくも悔恨を知らないだろうと不思議に思い思いしたその自分の心持を思出すことが出来る。若い時代の娘の心をもって生れて来た彼女のような人が非常に年齢《とし》の違った自分のようなものに対《むか》って、彼女の小さな胸をひろげて見せるような、そんなことが有り得るであろうかと思い思いしたその自分の心持をも思出すことが出来る。彼はその疑問を彼女の母性にまで持って行って、それによって彼女が不義の観念を打消そうとしているのではないかと疑って見たことをも思出すことが出来る。この一切の疑問が漸く解けかかって来た。

        五十五

 その時になって、仮令《たとえ》誰には赦《ゆる》されなくとも、岸本はあの不幸な姪だけには赦されたことを悟るように成った。彼は節子に対する自分の誠実《まこと》を意識すればするほど、長い間の罪過の苦痛から脱却して行かれるばかりでなく、あれほど身を羞《は》じた一生の失敗をも、我と我身を殺そうとまでした不徳をも、どうやらそれを全く別の意味のものに変えることが出来るような、その人生の不思議に行って衝当《つきあた》った。
 巴里に在留した岡のことが、あの画家がよく産科病院前の下宿へ来ては置いて行った話なぞが、自然と岸本の胸に浮んで来た。旅の空で意中の人の話に熱するあの血気さかんな画家の顔などを見る度に岸本は自分の身に思い比べ、最早《もはや》そういう血の湧《わ》く時代が自分には過去ったことを思い、最早自分の情熱を寄すべき人にも逢《あ》わず仕舞にこの世を歩いて行く旅人であろうかと思い、何とも言って見ようの無い寂しさがそこから浮んで来たことを思い出した。未《ま》だ自分は愛することが出来る。そう考えた時は、彼はある深い喜びと驚きとに打たれた。
 岸本はもう甘んじて節子を負おうとする人であった。彼は何等《なんら》の家庭的な幸福を節子と共に享《う》け得るではなし、そのために自分の子供を仕合せにする何等の希望をも繋《つな》ぐことは出来なかったけれども、唯彼女を助け、彼女を保護することを何よりの楽みとして、二人の間の新しい心に生きようとした。
 こうした心持で、岸本は祖母さんや久米や女中を頼りに自分の子供を育てにかかった。彼は既に例の二階の方の仮の書斎を引払って来て、義雄の起きたり臥《ね》たりしていた奥の部屋に自分の机や書棚《しょだな》を置いた。その部屋で谷中から訪《たず》ねて来た兄を客として迎えて見た。義雄は郷里の方から戻った時で、移転の際に留守にした礼などを言い入れに来たのであった。
「俺《おれ》の家でも万事好都合に行ってね。嘉代も大喜びサ」と義雄が言った。
「へえ、どうかと思って私は心配しておりました」と岸本は兄の話を受けて、「姉さんの口振《くちぶり》ではあまり家も気に入らないような話でしたが、引越して住んで見れば悪くもありませんかナ」
「どうしてどうして。叔父さんの御蔭《おかげ》でこんな好い家へ越せたなんて、しきりにお前に感謝してる」
「そいつはまあ好うござんした。それに、子供が一緒でないだけでも高輪に居た時分とは違いましょう」
「悪く言うのも早いが、褒《ほ》めるのもまた早いや」
 この義雄の言草が自分に対する嫂の噂《うわさ》であるだけ岸本を笑わせた。その日は義雄はあまり長くも腰を据えていなかった。いずれ近いうちに節子をよこすという話なぞを残して置いて帰って行った。岸本と節子との変って来た関係は何となく兄弟の関係までも変えて見せた。彼は義雄を兄として見るばかりでなく、どうかすると親としても見るような今までにない心持をも起して来るように成った。

        五十六

 眠りがたい夜が復《ま》た続いた。どうしてこんなことが起って来たろうと自分に不審に思うほどの心持で岸本は節子の来るのを待ち侘《わ》びた。節子は弟の一郎を連れて、急に時雨《しぐ》れるかと思うと復た晴れて行くような日に高輪へ訪《たず》ねて来た。その日は節子|姉弟《きょうだい》に取って、谷中から祖母さんや叔父を見に来た最初の時であった。一郎は新しく替った学校の徽章《きしょう》を帽子に附け、手土産《てみやげ》を提《さ》げ、改まった顔付をしてやって来た。この一郎と一緒になることは泉太や繁をめずらしがらせた。節子は平素にも勝《ま》して静粛に見えた。彼女は主《おも》に祖母さんの側に居て、谷中の家の様子を聞きたがる年とった祖母さんにいろいろなことを語り聞かせたり慰めたりするという風であった。彼女は近いうちに叔父の手伝いとして復た訪ねて来ることを祖母さんに話して置いて、その日は弟と共に遠い帰路《かえりみち》を急いで行った。
 こうした親類附合の一日も、しかし岸本に取っては忘れられなかった。これまで展《ひろ》げたことの無い自分の胸を展げて見せて、それを受け入れた節子と今まで合せたことの無いような顔を合せたのもその日であった。彼は節子が帰って行った後になって、反《かえ》ってよくその瞬間を自分の胸に描くことが出来た。奥の部屋の方に居る自分のところへ縁側づたいに挨拶《あいさつ》に来た時の彼女の眼。叔父とか姪《めい》とかの普通の心持に妨げられて、どうしてもその時まで合せることの出来なかった二人の心の顔。その日は一同庭先で写真を撮《と》ったが、岸本は写真屋まで使に行くことを節子に頼んだ時のその自分の隠れた心持をも忘れることは出来なかった。町の近くにある写真屋は節子もよく案内だった。彼は節子を使にやる序《ついで》に、彼女自身一人で撮って来るだけの写真の代を人知れず彼女の帯の間に潜ませた。
「どうしましょう。止《よ》しましょうか」
 と節子はわざと格子戸《こうしど》の外で雨傘《あまがさ》を手にしながら言って見せて、玄関先まで一緒に出て見た彼の方を一寸《ちょっと》振向いた。節子が抑《おさ》えに抑えているような親しみを彼に通わせたのも、その短い瞬間に過ぎなかったが。

        五十七

 根岸の姪から岸本は例の縁談に関した手紙を貰《もら》った。愛子は以前にも勝《まさ》る熱心な調子で彼女の学友のことを書いてよこした。彼女が同期の卒業生は各自《めいめい》の家へ順番に寄合って旧交を温めることにしているので、彼女の家でも最近に小さな集りをして、以前格別御世話に成った学校の先生をも招いたと書いてよこした。その先生からも叔父さんの噂《うわさ》が出て、是非この縁談を勧めるようにとの話があったと書いてよこした。彼女が同期の卒業生は今は殆《ほと》んど子供を控えているような人達ばかりで、家庭の人でないものはあの学友のみと成ったと書いてよこした。愛子はまた校長先生の意志にも言い及んで、叔父さんさえ承諾すればこの縁談は纏《まと》まるものと思うと書いてよこした。
 これほど心配してくれる人達があっても、最早岸本の心は定まっていた。彼は節子との関係を持ちながら、こうした縁談に耳を傾けたことを心に羞《は》じた。
「難有《ありがと》う。いろいろ御心配を掛けて済まなかったが、自分は熟考の上で御断りすることに決心した。校長先生へもよろしく伝えて下さい」
 こういう意味の返事を岸本は愛子|宛《あて》に出した。もし愛子の学友が自分の過去を知ったなら、断ってくれて反って可《よ》かったと思うであろう、と想像した。
 丁度節子は叔父の手伝いとして谷中から通って来た日のことであった。あだかも彼女はこの話の成行を知るために高輪へ来合せたかのように。岸本は紙に書いたものを節子に見せて、彼女を安心させることを忘れなかった。
 最早祖母さんの部屋には行火《あんか》が置いてあった。節子はその部屋の方から縁側伝いに岸本の机の側へ来た。
「折角骨折っても、何処《どこ》かへ持って行かれてしまった日には、ほんとにツマラないね」
 前後の話に無関係な、こんな僅《わず》かな言葉が岸本の口から出て来た。でも、それを聞いた節子には岸本の方で言おうとする意味がよく通じた。
「何処かへ持って行かれてしまうなんて――何処へも行かなければ可《い》いじゃありませんか」
 と言って節子は微笑《ほほえ》んだ。
 それぎり、岸本はもうそんな話をしなかった。節子は近くいて見ると、彼は彼女の内部《なか》に燃え上り燃え上りするような焔《ほのお》が生々《いきいき》と彼女の瞳《ひとみ》にかがやくのを見た。時としては彼女の顔に上って来る血潮が深くかすかに彼女の頬《ほお》を染めるのを見た。
 岸本に言わせると、彼と節子とはまだ一歩《ひとあし》踏出したばかりであった。ある意味から言えば、漸《ようや》くこんな境地まで漕付《こぎつ》けたばかりであった。彼は節子をこの世の旅の道連れとして、二人で行けるところまで行こうとした。節子は谷中の方へ帰ってから短い手紙を岸本の許《もと》へ送ってよこした。
「どんなに多くの御不自由を御忍びなさることか。それもわたしからと思いますと、ほんとうに苦しゅうございます。どうぞどうぞすべてを御許し下さいまし」

        五十八

「『冬』が私の側へ来た。
 ――私が待ち受けていたのは、正直に言うともっと光沢《つや》の無い、単調で眠そうな、貧しそうに震えた、醜く皺枯《しわが》れた老婆であった。私は自分の側に来たものの顔をつくづくと眺《なが》めて、まるで自分の先入主となった物の考え方や、自分の予想していたものとは反対であるのに驚かされた。私は尋ねて見た。
 ――お前が『冬』か。
 ――そういうお前は一体私を誰だと思うのだ、そんなにお前は私を見損《みそこ》なっていたのか、と『冬』が答えた。
 ――『冬』は私にいろいろな樹木を指《さ》して見せた。あの満天星《どうだん》を御覧、と言われて見ると、旧《ふる》い霜葉はもう疾《とっ》くに落尽してしまったが、茶色を帯びた細く若い枝の一つ一つには既に新生の芽が見られて、そのみずみずしい光沢《つや》のある若枝にも、勢いこんで出て来たような新芽にも、冬の焔が流れて来ている。満天星ばかりでは無い、梅の素生《すばえ》は濃い緑色に延びて、早や一尺に及ぶのもある。ちいさくなって蹲踞《しゃが》んでいるのは躑躅《つつじ》だが、でもがつがつ震えるような様子は少しも見えない。あの椿《つばき》の樹を御覧、と『冬』が私に言った。日をうけて光る冬の緑葉には言うに言われぬ輝きがあった。密集した葉と葉の間からは大きな蕾《つぼみ》が顔を出している。何かの深い微笑《ほほえみ》のように咲くあの椿の花の中には霜の来る前に早や開落したのさえある。『冬』は私に八つ手の木を指して見せた。そこにはまた白に近い淡緑の色彩の新しさがあって、その花の形は周囲の単調を破っている。
 ――過ぐる三年の間、私は異郷の客舎の方で暗い暗い冬を送って来た。寒い雨でも来て障子の暗い日なぞには、よくあの巴里《パリ》の冬を思出す。そこは一年のうちの最も日の短いという冬至《とうじ》前後になると、朝の九時頃に漸く夜が明けて、午後の三時半には既に日が暮れてしまった。あのボオドレエルの詩の中にあるような赤熱《しゃくねつ》の色に燃えてしかも凍り果てるという太陽は、必ずしも北極の果を想像しないまでも、巴里の町を歩いていてよく見らるるものであった。枯々としたマロニエの並木の間に冬が来ても青々として枯れずにある草地の眺めばかりは特別な冬景色であったけれども、あの灰色に深い静寂なシャヴァンヌの『冬』の色調こそ彼地《かのち》の自然には適《ふさ》わしいものであった。
 ――ことしは久しぶりで東京の郊外に冬籠《ふゆごも》りする。冬の日は光が屋内まで輝き満ちるようなことは過ぐる三年の間はなかったことだ。この季節に、底青く開けた空を望み得るということも、めずらしい。私の側へ来てささやいているのは確かに武蔵野《むさしの》の『冬』だ。
 ――『冬』は私に樫《かし》の樹を指して見せた。髪のように輝いたその葉の間には、歌わない小鳥が隠れて飛んでいて、言葉のない歌を告げ顔である……」
 岸本は抑えに抑えている自分を慰めようとして紙のはじにこれを書きつけて見た。満天星も、梅も、躑躅も、椿も、樫も、彼の部屋の外の縁側から直《すぐ》庭先に見られるものだ。何かの深い微笑のように咲く椿の花、言葉のない歌を告げ顔な歌わない小鳥、それらはみな彼の心の光景だ。
「言わなくたって、もう分ってます」
 この言葉を残して置いて行った節子は、世の幸福を捨てて岸本に随《したが》おうとする彼女の意志を明かにした。過去に於《お》いて罪の深いもの同志が互に世の幸福を捨てるということは、実に一切を捨てるということであった。
 新しい愛の世界が岸本の前に展けかかって来た。恥じても恥じても恥じ足りないように思った道ならぬ関係の底からこれだけの誠実《まこと》が汲《く》めるということは、岸本の精神《こころ》に勇気をそそぎ入れた。そこから彼は今まで知らなかったような力を掴《つか》んだ。

        五十九

 岸本の過去は不思議なくらい艱難《かんなん》な日の連続で、たださえ頑《かたくな》な彼はその戦いのために余計に自分の心を堅く閉じ塞《ふさ》げてしまった。何よりも先《ま》ず自分は幼い心に立ち帰らねば成らない、とはかねて巴里の客舎にある頃の彼の述懐であったが、どうしても彼にはその心に立ち帰ることを許されなかった。火葬場の鉄の扉《とびら》の前に立って灰になった妻の遺骨を眺めても唯《ただ》それを見つめたきり涙一滴流れなかったほどこの世の苦しい傍観者としてあった長い年月の間と言わず、冷然として客舎の石の壁に対《むか》い合っていたような三年の遠い旅の間と言わず、彼の思い続けて来たのは実際次の言葉に籠る可傷《いたま》しい真実であった。
「我等芸術の憐《あわれ》むべき労働者よ。普通の人々にはしかく簡単に自由を与えらるることも我等には何故に許されぬのだろう。それも理《ことわり》である。普通の人々は真心《ハアト》を持つ。我等は遂《つい》に真心の何物をも持たぬ。我等は到底理解せられざる人間である……」
 こうしたことを思い続けた岸本の上にも不思議な変化が日に日に起って来た。彼は持って生れたままの幼い心に立ち帰って行ける日が漸くやって来たことを思い知るように成った。その時になって彼は心から自分の情熱を寄せ得るもののあることを見出した。その歓《よろこ》びを見出した。彼のように寂しい道を歩きつづけて来たものでなければ、どうしてそれほど餓《う》え渇《かわ》いたように生の歓びを迎えるということがあろう。彼は自分のような旅人に与えられた自然の賜物であるとまで考えるほどにして、その新しい歓びに浸って行くように成った。
 すべては岸本に取って心に驚かれることばかりのようであった。彼は自分の生涯の途中に、しかも老い行こうとする年頃の今になって、節子のような女が自分の内部《なか》へ入って来るように成ったことを一つの不思議とさえ考えた。彼はあの青木や菅《すげ》や市川などと青春を競い合った年頃に逢《あ》った勝子のことを節子に思い比べて見た。試みに二人の相違を比較して見た。二人の気質の相違を。二人の容貌《ようぼう》の相違を。二人の年齢の相違を。二十余年も前に青年としての彼が別れた勝子と、今見る節子と、いくらも年齢《とし》が違っていなかった。曾《かつ》て彼は自分と節子との時代の隔たりを、ある近代劇中の老主人公と、洋琴《ピアノ》を弾《ひ》いて聞かせるだけの役目にあの主人公の許《もと》へ通って来る若い娘との隔たりに譬《たと》えて見たことがある。あの無邪気な指先から流れて来るメロディでも聞いて老年の悲哀と寂寞《せきばく》とを忘れようとする人と、まだ生先《おいさき》の長い若草のような人との隔たりに譬えて見たことがある。三年の節子の発達はこの若い娘の位置から余程彼女を変えて見せたとは言え、彼と節子との時代の隔たりはそれにしても争われなかった。幾度《いくたび》彼は節子のような若い女の心が自分に向って動いて来たことを不審に思ったか知れない。彼は節子の「心からのほほえみ」を通して自分と彼女の間の根深い苦悩の微笑みを読むような心を持ち始めた。
 解き放たれかけて来た岸本の胸からは自分ながら思いがけない程のものが迸《ほとばし》り流れて来た。夜もろくに眠られないようなことが、やがて彼には一月ばかりも続いた。

        六十

「自分にはもう悲みということが無くなってしまった」
 こう節子は小さな手帳の中に鉛筆で書きつけて、他にも手短かに書いた言葉と共に彼女が心の消息の断片を岸本のところに置いて行った。その中には、「どうもまだ、からだの具合が悪い、それにつけても葡萄酒《ぶどうしゅ》はつつしまなければいけない」と書きつけたところもあった。二人の間には何時《いつ》の間にか種々《いろいろ》な隠し言葉が出来た。「創作」とか、「葡萄酒」とか。後の言葉は麺麭《パン》を主の肉に代《か》え葡萄酒を主の血に代えるという宗教上の儀式の言葉から意味だけを借りて来たのであった。
 不自由な境涯に置かれて暗いところを歩きつづけて来たような節子の心持が悲哀《かなしみ》というものから離れたと言って見せてあるように、岸本の浸って行った歓びはそれにも勝《ま》して大きかった。彼の通越して来たところが寂しければ寂しいだけ、それだけ広々とした自由な世界に躍《おど》り入ったようなその歓びが大きかった。彼は俄《にわか》に金持にでもなった貧乏な人間に自分を譬えて見た。今まで金というものを持ったことの無い人間はどうそれを使って可《い》いかも分らなかった。彼はずっと以前に巣鴨《すがも》の監獄を出て来たある身内のものを想い起すことが出来る。その身内のものが白足袋《しろたび》穿《は》いたまま獄門の前を走り廻って、狂気したように土を踏みしめたり、娑婆《しゃば》の空気を呼吸したりしたことを想い起すことが出来る。彼の新しい歓びは、その赤い着物を脱いだ人の歓びだ。笑ったことの無い不幸な犠牲者の心からの笑顔を見た人の歓びだ。
 一月《ひとつき》ばかりも寝食を忘れて、まるで茫然《ぼうぜん》自失の状態《ありさま》にあった岸本は、人がこの自分を見たら何と思うであろうと気がつくように成った。彼は一月も眠らなかったその自分に驚いた。若々しい血潮のためには胸も騒ぎ心も狂うばかりであった彼の青年時代ですら、眠られない夜が七日以上に続いたことは無かった。もし彼が二十年若かったら、これ程の精神《こころ》の激動を耐える力はなかったろうとも想って見た。終《しまい》には、彼は自分で自分の情熱を可恐《おそろ》しく思うように成った。
「これは荒びたパッションだ。静かな愛の光を浴びたものとは違う――どうかして早くこんなところを通越してしまいたい――とてもこんなことでは駄目だ」
 と独《ひと》りで言って見て、ボンヤリとした自分を励まそうとした。
 師走《しわす》も十日過ぎに成って岸本は小旅行を思立った。彼は節子の一人で撮《と》れている写真なぞを自分の眼に触れないところへ納《しま》ってしまった。彼女の手紙、彼女の手帳、すべて彼女のことを思わせるようなものを皆納ってしまった。彼の書籍の中からは草花の模様のある濃い色の布片《きれ》が出て来た。それは節子が日頃大切にして彼女の肌身《はだみ》につけていた半襟《はんえり》だ。岸本は枝折《しおり》代りに書籍の中に挾《はさ》んで置いたその女らしい贈物をも納ってしまった。彼は四五日の留守と子供等の世話とを祖母さんや久米に頼んで置いて、ぶらりと高輪の家を出た。

        六十一

 岸本の足は谷中の方へ向いた。彼には義雄の家で用向のために待受ける約束の人があり、保養らしい保養もしないでいるあの兄を誘って磯部《いそべ》あたりまで行って見たいという心があった。彼にはまた、久しぶりで山地に近い温泉場まで行き、榛名《はるな》妙義《みょうぎ》の山岳を汽車の窓から望み、山気に包まれた高原や深い谿谷《けいこく》に接するという楽みがあった。あの塩分の強い濁った礦泉《こうせん》の中に浸りながら、碓氷川《うすいがわ》の流れる音でも聞いて、遠い旅から疲れて帰って来た身も心をも休めたいという楽みがあった。
 義雄が住む家を見に行くのは、岸本に取ってそれが二度目の時であった。上野から先はまだ池《いけ》の端《はた》を廻る電車の出来ていない頃で、岸本は冬枯の公園|側《わき》の道を義雄の家の方へ歩いて行った。節子が谷中から高輪へ通って来るのもこの道だ。そんなことが不忍《しのばず》の池の畔《ほとり》を歩いて行く彼の心を楽しくした。
 別に岸本は、谷中の家に節子を見るということから起って来る彼自身だけの特別な心持を有っていた。彼は谷中の家で見る節子と、高輪の家の方で見る節子と、同じ彼女の間に非常な相違のあることを発見した。この相違はつくり勝《まさ》りのする彼女の性質をよく証拠立てた。一度彼は節子の不用意でいるところへ押掛けて、自分の家の方で見るとは別の人かと思われるほど味もうるおいも無い彼女の姿を見た。高輪で見る節子は、彼女の人となりが苦労して反《かえ》って良くなったと思われるばかりでなく、一度お産をした為に彼女の姿までが反って以前よりは好ましく成ったと思われる人である。丁度彼女のようにお産をして反って身体の余計な肉が脱《と》れてしまったようなある若い婦人もあることを、彼は他から注意されて見た場合なぞもある。谷中の家で見た節子はこの好ましさをブチコワした。彼は一種の幻滅にさえ打たれた。その時、そう思った。こんなに気が楽になるものなら、何故もっと早く谷中の方へ節子を見に来なかったろうと。寒い冷い風が幾晩もよく眠られなかった彼の顔へ来た。磯部へ旅行に出掛けるほど抑えていられなくなって来た自分の精神《こころ》の動揺を沈めるためには、彼は寧《むし》ろ幻滅を期待して義雄の住居の方へ歩いて行った。 
 上野の動物園の裏手から折れ曲って行ったところに、ごちゃごちゃ家の建込んだ細い横町がある。何となく冬の町の空気が湿って、不忍の池に近い気持を起させるのも、稀《たま》に訪ねて行くにはめずらしかった。そこに岸本義雄とした表札が出ていた。
「まあ、叔父さん――」
 思わずそこへ出て来たように声を掛けながら、節子は暗い格子戸の内から日中でも用心のために掛けてある掛金を除《はず》してくれた。

        六十二

 思い切って高輪を出た時から岸本には既に小旅行の気分が浮んだ。手につかない仕事を思い切るまでは苦しかったが、それも思い切ってしまって四五日の休養に出掛けると成ったら余程もう気が楽になった。帰国の日以来、心を労しつづけるばかりで、海の外から楽みの一つにして来た温泉地行すらまだ企てられなかった。そう思って、岸本は自分を慰めた。
 谷中の家の方に来て見ると、この気分が余程濃くなった。暗い静かな入口の小部屋で叔父の帽子や外套《がいとう》を受取ろうとする節子を見た時にも、長火鉢《ながひばち》の置いてある階下《した》の部屋で嫂《あによめ》や節子や次郎と一緒に成った時にも、俄《にわ》かに磯部行を思い立って来たことなぞを皆に話し聞かせる時にも、彼にはもう半分旅行先のような心が起って来た。
「次郎ちゃん」
 と呼ぶ義雄の声が二階の方から聞えた。
「叔父さんになア、どうぞ二階の方へいらしって下さいッて」
 と復《ま》た義雄の声で。
「次郎ちゃん、父さんのところへ行ってそう言って来て下さい。叔父さんはお話がありますから、どうぞ階下《した》の方へいらしって下さいッて」
 こう岸本に言われて、嫂や節子の側に遊び戯れていた次郎は二階へ通う梯子段《はしごだん》を昇ったり降りたりした。
 義雄は階下へ降りて来た。めったに長火鉢の前へ坐ったことも無いような義雄は部屋の隅《すみ》にある行火《あんか》の方へ行った。この義雄を話の仲間に加えたことは、余計にその階下の部屋を女と子供だけの世界のようにして見せた。その時岸本は温泉地の方へ兄を誘いに来たことを言出した。
「稀《たま》にはそれも可《よ》かろう。や。そいつは面白かろう。俺《おれ》も一つ一緒に行ってやろう」
 と義雄は行火の上に手を置いて、楽しそうに笑った。
「節ちゃん、好いねえ。男の人は何処《どこ》へでも身軽に行けて」と嫂は母親らしい調子で節子に言って、やがて岸本の方を見て、「ほんとに、吾家《うち》では湯治にでも随《つ》いて行きたいような人ばかりですよ」
 節子は黙って自分の掌《てのひら》を眺《なが》めながら皆の話に耳を傾けていた。
「何方《どちら》にしても出掛けるのは明日の朝だぞ。俺はその方が都合がいい」と義雄が言った。
「姉さん、今夜は御厄介に成ってもよう御座んすか。久し振《ぶり》で姉さんの家にゆっくりして見ますかナ――」
「ええ。可いどころじゃない」
 岸本は嫂とこんな言葉をかわして旅行先の宿屋にでも身を置いたようにホッと息をした。
「捨吉。まあ、二階で話すサ」
 と言い捨てて兄が梯子段を昇って行った後でも、しばらく岸本はその部屋に居残って旅人のような気軽さを味《あじわ》おうとした。硝子戸《ガラスど》越しに射《さ》して来ている午後の日あたりを眺めると、最早《もう》何処の家でも冬籠《ふゆごも》りらしかった。狭い町中の溝《どぶ》を流れる細々とした水の音が硝子戸の直《す》ぐ外から聞えて来ていた。岸本はその部屋に居ながら、兄の家の格子戸《こうしど》の音かと聞違えるような向いの家の格子戸の音を聞くことが出来、勝手を出たり入ったりして母親を助けながら働いている節子の家庭的な日常の様子を見ることも出来た。祖母さんの若い時分からあるという古い箪笥《たんす》の上には、節子が読みさしの新約全書なぞも置いてあった。その黒い表紙のついた小形の聖書は彼女に読ませるつもりで岸本から贈ったものだ。節子は用事のないかぎり叔父の側へ来ようともしなかったが、親しみの籠《こも》った彼女の無言は人知れず岸本の方へ働いて来た。

        六十三

「節ちゃん、お前の部屋を借りても可いかね」
「ええ。どうぞ」
「今日はゆっくり手紙でも書きたい」
 岸本は節子にこんな話をして置いて、やがて二階に上って見た。急な梯子段はあぶない程の勾配《こうばい》で義雄の部屋の前に続いて行っている。次郎は叔父をこの谷中に迎えたことをめずらしそうにして、その梯子段を昇ったり降りたりした。甘い乳のかわりに唐辛子《とうがらし》を嘗《な》めさせられて漸《ようや》く母親の懐《ふところ》から離れたという幼い年頃の次郎を相手に、二階の部屋々々を見て歩くことも、岸本に取って楽しかった。義雄の部屋には炬燵《こたつ》も置いてあった。高輪から持って来た小机なぞが片隅《かたすみ》の方に役に立っていた。
「捨吉。それじゃ俺はこれから一寸《ちょっと》用達《ようたし》に行って来るがナア、夕飯までには必ず帰る」と言って義雄は階下《した》へ聞えるような手を鳴らして、「まあ、お茶でも一つ飲んで行くか」
 次郎がそこへ顔を出した。義雄は早く茶道具を運んで来るようにと母親に告げることを次郎にいいつけた。
「時に、節ちゃんもいろいろ御世話さま」と義雄が言った。「こないだは又、お前のところから机と言海《げんかい》を買うお金を貰《もら》って来たと言って、や、面白い机が出来たぞ。言海はこりゃ無くちゃならないものだ。机だっても読んだり書いたりするものには必要だが、しかしあの机は俺の家にはすこし過ぎたものサ」
「欲しいと思ったら買わずにはいられなくなるんでしょう。あそこがまだ節ちゃんの若いところですね」
 こう岸本は節子を弁護するように言って笑った。彼は節子の部屋の方で、兄の話に上った新しい机を見て置いた。彼の心の中では、義雄の非難も無理もないと思ったが。
「それはそうと、お前の家でも高輪に居据りだね。今のままでは到底|不可《いかん》ぞ。久米さんだってもそう長く頼んで置く訳には行くまい」
「まあ当分は現状維持です。行くか行かないか、あれで暫時《しばらく》やって見ます。祖母さんでも居て下さらなけりゃ到底私の家は成立ちませんが、お蔭で祖母さんもよくやってくれますし、それに久米さんもなかなかよく働いてくれます。一体、あの人は長いこと病身でしたから、どうかとは思いましたが、すこし無理でも何でもああいう家の事情をよく知ってる人に頼みたいと思うんです。なにしろ私の家には子供が有りますからね」
「早くまあお前も家庭をつくるが可い。根岸の方の話は到頭断ったそうだね。こないだお愛ちゃんのところでその話があったよ。熟考の上で御断りすると、叔父さんから手紙が来たとかッて。お愛ちゃんのお友達という人の写真は俺も見た。なかなか良さそうな人だがナア」
 義雄の話は結局弟に再婚を勧めることに落ちて行った。岸本は黙ってしまった。
「や。こんなに話し込むんじゃ無かった。磯部でゆっくり話せることだ」
 と義雄は思いついたように懐中時計を出して見て、嫂が階下《した》から運んで来た茶を一口飲んで、いそがしそうに起《た》ち上った。

        六十四

 義雄は出て行った。岸本は帰国の日以来初てと言っても可《よ》いほど寂しく静かに遊び暮せるような半日の残りの時をその二階に見つけた。彼は温泉行に誘いに来た自分の心持を兄に汲《く》んで貰《もら》うことは出来ても、黙って結婚に関した話を聞いている自分の心持を最早《もう》兄には説明することが出来ないように成った。
 手紙でも書こう。その旅行先のような気分で岸本は節子の部屋を借りに行った。義雄の部屋から一間薄暗い座敷を隔てて二階で一番明るそうな小部屋がある。窓によせて新しい机が置いてある。机の上には節子が既に用意して置いてくれたと見え、巻紙や新しい筆なぞが載せてある。
「谷中の家の二階の三畳から御便《おたよ》りいたします」と節子が引越の当時高輪へ書いてよこしたのも、その部屋だ。岸本はそこに身を置くことをめずらしく思って、独《ひと》りで机の前に坐って見た。
「節ちゃん、何にも関《かま》わずに置いて下さい。お茶だけ御馳走《ごちそう》して貰えばそれで沢山です」
 と岸本はそこへ茶道具を運んで来た節子に言った。
「叔父さんは今日から旅サ。今夜は宿賃を払ってお前の家に泊めて貰いますぜ」
 と又た岸本が半分|串談《じょうだん》のように言って笑った。
 その時、節子は新しく仕立てた唐桟《とうざん》の綿入を取出して来て岸本に見せた。それは彼女が高輪へ来る時の仕事着にと言って、わざと質素な唐桟を見立てさせて、岸本の方で彼女に買って与えたものであった。「有るもので間に合わせて置こうじゃありませんか」と嫂《あによめ》は言ったが、岸本は遠路《とおみち》を通って来る彼女のことを思って、それに同じ縞柄《しまがら》の羽織とを彼女への贈物としたのであった。
「お母さんが縫って下すったんですよ」
 と節子は言って、彼女の女らしいよろこびを分とうとした。次郎が階下《した》から上って来た。次郎は嬉しそうにそこいらを踊って歩いたり、姉の側へ寄って取縋《とりすが》ろうとしたりした。
「次郎ちゃんも好い児に成りましたね」
 と岸本が言うと、次郎は姉を引立てるようにして、叔父の見ている前で背《せい》の高い姉の手にぶらさがるようにして戯れた。
「高輪に居た時分から見ると、余程《よっぽど》これで違って来ましたよ」
 と節子は岸本に言って見せた。
 母親の呼ぶ声を聞きつけて節子は弟と一緒に階下《した》へ降りて行った。二階には岸本|独《ひと》り残った。節子の勉強する机をなつかしむ心と、独りでノンキにその三畳に横にでも成って見たい心と、その二つの混り合った心から、彼は手紙書く気にも成れなかった。そこは飾り一つ無い小部屋で、唯《ただ》節子が彼女のたましいを沈着《おちつ》ける為にのみある「隠れ家」のようにも見えた。僅《わず》かに女らしい繊細な趣味を机の辺《ほとり》にとどめたような、その部屋の簡素なことが、反《かえ》って岸本を楽ませた。
 一人の客が岸本に逢《あ》いに来てやがて帰って行った頃は日暮に近かった。節子は高輪の方にある時とも違う心易《こころやす》さから、二階を片付けながら岸本に話しかけに来ることもあったが、その度《たび》に次郎が彼女に随《つ》いて来た。一郎までがめずらしそうに二階へ上って来た。彼女は附纏《つきまと》う弟達をうるさがって、部屋々々を逃げて歩いた。
「泉ちゃんや繁ちゃんが大きく成ったら、何と思うでしょうねえ」
 節子は唯そんな僅かな言葉を掛けるのを楽みに岸本の側へ寄った。
「何と思われたって仕方が無いじゃないか。唯、真実《ほんとう》によく知って貰いたいと思うね……大きくなって解《わか》りさえすりゃ、そりゃお前|吾儕《われわれ》の心持を認めてくれる時もあろうじゃないか」
 こう岸本の方では答えたが、それぎりもう二人はそんな話をしなかった。
 義雄は時刻を違《たが》えず夕飯前に帰って来た。何年|振《ぶり》にあの碓氷川の水音が聞けることか、そんな話が義雄の方からも岸本の方からも出た。その晩岸本は宿屋にでも泊るように兄の家に泊めて貰って、翌朝兄と共に磯部へ向けて発《た》った。

        六十五

 山地に近い温泉場での三四日の滞在はひどく疲れて行った岸本に蘇生《そせい》の思いを与えた。彼が磯部まで同伴した義雄兄よりすこし後《おく》れて東京へ引返そうとする頃には、帰国以来とかく手につかなかった自分の仕事に親しもうとする心を起した。
 予《かね》て仏蘭西《フランス》から携え帰った書籍なぞの置いてある高輪の家の書斎がこうした岸本を待っていた。彼は節子と自分の間に見つけた新しい心が、その真実が、長いこと自分の考え苦しんで来た旧《ふる》い道徳とは相容《あいい》れないものであることを知って来た。人生は大きい。この世に成就しがたいもので、しかも真実なものがいくらもある。こう深思する心は岸本を導いた。彼は一門の名誉のために自分の失敗を人知れず葬り隠してくれたような、あの義雄兄との別れ路《みち》に立たせられたことをつくづく感じて来た。彼は兄の心に背《そむ》いても、あの不幸な姪《めい》を捨てまいとした。
 岸本は節子が自分と同じように、黙って彼女の道を歩き出したことを想って見た。日頃「親の面汚《つらよご》し」のように言われている節子にも、その親のために役に立つ時が来た。年も暮れようとする頃に成って、突然義雄が重い眼病に罹《かか》ったからで。急にそんな風に義雄の眼が見えなく成って来た病の源《みなもと》に就《つ》いては、眼科を専門にする博士ですら未《いま》だハッキリしたことは言えないとのことであった。この義雄に随いて病院通いをするにしても、一切の手紙の代筆をするにしても、節子は谷中の家に取って無くてならない人に成って来た。彼女はその境遇の中で、高輪の方に心配している祖母さんや叔父のところへ父親の容態を知らせに来ることを怠らなかった。時としては彼女は寒い雨の降る日に谷中から通って来て、祖母さんの部屋の行火《あんか》に凍えた身を温めながら、少し横に成っていることもあった。
「節ちゃん、お前まで弱ってしまっちゃ不可《いけない》よ」
 こう岸本はそこに疲れ倒れている節子を励ますように言って、彼女の眼に涌《わ》いて来る涙をそっと自分の口唇《くちびる》で拭《ぬぐ》うようにしてやることもあった。
 師走《しわす》ももうあと三日しかないほど押塞《おしつま》った日のこと、岸本は節子から送ってよこした短い手紙を受取った。
「あの聖書の中に、汝等《なんじら》求めよ、さらば与えられん、尋ねよ、さらば遇《あ》わん、叩《たた》けよ、さらば啓《ひら》かれんというところが御座いますね。もう少し前のあたりから、あの辺は私の好きなところで御座います。オオ叩けよ、さらば啓かれん――わたしどもはきっと最後の勝利者でございますね」
 と鉛筆で認《したた》めてあった。
 それを読むと、岸本の胸には二十五というさかりの歳《とし》を迎えようとする彼女のことが思われた。遠い先の方をめがけて自分を力に進もうとする彼女の胸の鼓動までも想像で聞くことが出来るように思われた。
「オオ、叩けよ、さらば啓かれん――」
 岸本は節子の手紙に書いてある文句を繰返して見て、その調子で延び行こうとする彼女の生命《いのち》を想像した。

        六十六

「わたしどもほど、幸福な春を迎えるものがまたと御座いましょうか――」
 年も尽きようとする前の晩に節子の書いたこの短い手紙が岸本の手に届いた。自分等二人ほどと彼女が言って見せた幸福な春は、まだまだ岸本には遠いところにあるとしか思われなかった。彼はそういう抑《おさ》えきれない歓《よろこ》びの言葉が単なる負惜みに堕《お》ちることを恐れた。どうかして彼は周囲のものに対する彼女の小さな反抗心を捨てさせたいと願った。叔父とか姪とかの普通の人情、普通の道徳の見地から、ややもすれば冷い苛酷《かこく》な眼を向けようとするものに対して、彼の執ろうとする道は小さな反抗心を捨てるにあった。最後の勝利なぞということはどうでも可いと思っていた。彼は勝つとか負けるとかを自分の念頭にすら置いていなかった。節子の書いてよこした手紙の文句は短くて、彼女の言おうとする意味はいろいろに取れ易くもあったが、しかし彼が節子と共に待受けたのは決して決して世にいう幸福な春ではなかった。世の幸福も捨てはてた貧しいものにのみ心の富を持来そうとして訪れて来るような春であった。
 やがて新しい年がめぐって来た。節子は叔父の心配して造ってやったコートに身を包んで遠路《とおみち》を通って来るように成った。それまで彼女は激しい季候を防ぐものもなしに、よく途中から寒い雨に濡《ぬ》れて来て、その可傷《いたいた》しさが岸本には見ていられなかったからで。
「コートなんかは無くても済むものだなんて、お父《とっ》さんが喧《やかま》しいことを言いますからね――まだお母《っか》さんだけにしか見せません」
 と言いながら、節子は玄関に畳んで置いてあった質素な感じのする新しいコートを奥の部屋まで持って来て、岸本の見ている前でその灰色のやつに袖《そで》を通したり、玉子色の内紐《うちひも》を結んで見せたりした。彼女は新規に誂《あつら》えるまでもなく、松坂屋あたりの店で見つけた出来で間に合わせて、唯寸法だけを少し詰めて貰ったとも言った。
「私が着ていたって、お父さんは知らずにいますよ」
 と復《ま》た節子は言って、それとなく眼の悪い父親の噂《うわさ》をもした。
 こうした雨具一枚節子に買って宛行《あてが》うにも、岸本は四方八方へ気兼ねをしなければ成らなかった。彼が節子を保護しようとする心もとかく思うに任せなかった。何故というに、彼は谷中の方に節子を置いた時のことばかりでなく、自分の家の方へ訪《たず》ねて来た時のことも考えて見ねば成らなかったから。
「節はあれでどれ程叔父さんを頼りにしているか知れません。叔父さん一人が彼女《あれ》の力です。なんでも若い時には、物をくれる人が一番好い人です」
 こう祖母さんは最早取って二十五にもなる節子のことをまだほんの子供のように言っていた。

        六十七

 しかし、節子に許した岸本の心とても冷熱を繰返さずには動き進んで行くことが出来なかった。激しいパッションがやや沈まって行った後では、それと反対な冷《ひやや》かな心持が来て彼の胸の中で戦った。
 岸本は自分の部屋を見廻した。声が来て独り仕事に親しもうとする彼を試みようとした。その声は大きな打消の声というでもなく、寧《むし》ろ細々とした小さな耳の底にささやくような声ではあったけれども、その小さな声に幻滅的な心持を誘われるものがあった。その声は彼に訊《き》いた。学問や芸術と女の愛とが両立するものだろうか。帰国以来再会した節子と彼との間に起って来たことも結局互の誘惑ではなかったか。二人の結びつきは要するに三年孤独の境涯に置かれた互の性の饑《うえ》に過ぎなかったのではないか。愛の舞台に登って馬鹿らしい役割を演ずるのは何時《いつ》でも男だ、男は常に与える、世には与えらるることばかりを知って、全く与えることを知らないような女すらある、それほど女の冷静で居られるのに比べたら男の焦《あせ》りに焦るのを腹立しくは考えないかと。こうした声から誘われる心持は、節子のためと考えている一切の重荷や、眼に見えない迫害の力のために踏みにじらるることや、耐《こら》えに耐えている心の痛憤や、それらのものをどうかすると堪《た》えがたくはかなく味気《あじけ》なく思わせた。
 まだ彼は節子のような年少《としした》な女が自分に向って彼女の柔かな胸をひろげて見せたことを不審に思わずにはいられなかった。彼は年少な節子の機嫌《きげん》を取ろうとするような自分の姿を見つける度に言いあらわしようのない腹立しさを感じた。彼の気質としては自分で自分の機嫌を取ることも出来ない。どうして気恥しい思いもなしに他《ひと》の機嫌を取ることが出来よう。そこには何となくまだ物足りない余地があった。彼女を保護し、彼女を導くというだけでは、最早彼には物足りなくなって来た。あまりにつつましやかな彼女の手紙の調子も物足りなくなって来た。言葉を更《か》えて言えば彼はもっともっと節子の方から動いて来ることを望んでいた。

        六十八

 谷中から節子が岸本の家へ通って来る日はおおよそ毎週の土曜と定めてあった。彼女は父の附添いとして一日置きの病院通いに差支《さしつかえ》ないかぎり、叔父の許《もと》へ手伝いに来ることを怠るまいとしていた。義雄が眼を患《わずら》うように成ってから、一層節子は母親を助けて働かねば成らないという様子を見せた。仮令《たとえ》僅《わずか》の所得でも彼女は叔父から得る月々の報酬を母親のために役に立てようとしていた。岸本は旅の土産《みやげ》ともいうべき自分の仕事に取掛った時で、彼女に与える仕事らしい仕事を用意する余裕もなく、写し物とか校正とかそういう方の手伝いでも頼みたいと思っていたが、そういう仕事の有る無しに関《かかわ》らず彼は節子と共に働いていると考えることを楽みとした。一度彼は散歩がてら自分の家を出て、節子の通って来る路《みち》の途中まで彼女を迎えに行ったことがあった。品川線の電車の停留場のあるところから彼の家へ通うだけでも可成《かなり》の歩きでがある。その日は、彼は高輪の通りからある横町を折れ曲ったところまで行き、高台に添うた坂道の上まで行き、その坂を降り電車の停留場までも行って待受けたが、到頭節子は来なかった。
 正月の十五日過ぎに、岸本は同じ路を歩いて行くことを楽みに思いながら、ある大きな邸《やしき》の外廓《そとがわ》について郊外らしい途《みち》の曲り角へ出た。その辺で、谷中から遠く通って来る節子を待受けた。彼は黒い質素な風呂敷包なぞを小脇《こわき》にかかえた彼女と一緒に成った。
 節子は途次《みちみち》いろいろなことを思いながらやって来たという風で、岸本に随《つ》いて人通りも少い途を静かに歩いた。突当りに古風な格子《こうし》のはまった窓の見える邸の側まで歩いて行った頃、彼女は岸本の方を見てこんなことを言出した。
「私はもう男に成りましたよ。お父《とっ》さんはあの通りですし、一ちゃんでも次郎ちゃんでもまだ幼少《ちいさ》いんですし、お母《っか》さんと二人でその話をしましてね、私はもう男に成りましたから、そのつもりでよくやりましょうねッて――」

        六十九

 思いつめて来たような節子の言葉は岸本の沈思を誘った。彼女が最早《もはや》この世を捨てようとしていることは、その語気で岸本にそれが感じられた。
 丁度その時、岸本は後の方から歩いて来る人の足音に気がついた。その足音がだんだん近く成って来たかと思うと、やがてその人は彼や節子よりも先に成って、一寸《ちょっと》こちらを振返って見て行った。あだかも後方《うしろ》から見た通りすがりの二人の男女の何者であるかを前からも見て行こうとするかのように。邸つづきの静かな路とは言っても、そこは高輪への通路の一つに当っていた。岸本は節子と一緒に歩くというだけに満足して、家に近い高輪の通りへ出てからは一歩《ひとあし》先へ彼女を急がせた。
 まだ岸本には正月のはじめあたりから続いて来ている割合に醒《さ》めた心持が残っていた。その冷かなものが節子の来るのを待遠しく思うほどの心に混り合っている時であった。その心で、彼は家へ戻った。彼は節子の方からもっと動いて来ることを望んでいたばかりでなく、自分の正体をももっとよく彼女に見届けて貰《もら》いたいと願っていた。丁度|祖母《おばあ》さんは年始かたがたしばらく谷中の家へ、久米は茶の会へ、二人とも留守の日で、岸本は節子の前に自分の胸の底のわだかまりを切出して見る折があった。
「俺《おれ》はもう一生、誰にも自分の心をくれないつもりだった。到頭《とうとう》お前に持って行かれてしまった」
 忘れることの出来ない苦い過去の経験がこんな言葉に成って岸本の口から出て来た。まるで男にでも話しかけるように節子に話しかけた彼の語気はすこし彼女を驚かした。
「まあ、あんな調子で物を仰《おっしゃ》るなんて――」
 と節子はすこし側《わき》の方へ眼をそらして半分|独語《ひとりごと》のように言った。
 しかし岸本は、節子と彼との年齢の相違から起って来る猜疑《うたがい》深い心までも彼女の前には隠すまいとした。
「今まで俺はあんまりお前をいたわり過ぎたと思って来た。女の人だと思っていたわり過ぎるということが、結局本当の話をさせないんだと思って来た。節ちゃん、お前は一体俺みたような人間の何処《どこ》を好いと思う? 髪はもうこんなに白く成って来たし……俺なぞはもうそんなに長く生きてやしないんだぜ。もっと若い人で俺なぞより気の利《き》いてる人がいくら有るか知れない。どうだね、そういう人でも一つ探して見る気に成ったら……」
 半分は心やすだて、半分は串談《じょうだん》のように、岸本はこんなことを言出して笑った。その時ほど岸本は自分の心の醜さをあからさまに節子に見せたことは無いとも思った。それほど彼の言うことは自分の耳にさえ嫌味《いやみ》に皮肉に聞えた。
「そんなら、これから探しましょうかね――せいぜい若い人でも」
 と節子は戯れるように言った後で苦笑いに紛らわした。彼女はもうこんな話を避けたいという様子をした。

        七十

 解《ほど》けかかって来たようでもまだ解けないのは堅く結ばれた節子の口であった。「ほんとうに何でもお話することの出来る時が来ました」と手紙では言ってよこしても、実際の節子はまだ言えない沈黙で言おうとする言葉に更《か》える場合の方が多かった。その節子と対《むか》い合っているうちに、家まで来る途中で彼女の言出した言葉が、「私はもう男に成りました」と彼女の言った言葉が、岸本の気に掛っていた。
「先刻《さっき》お前の途中で言ったことサ――俺はあれを思い出した。お前も苦しんで考えてると見えるね」
 と言って岸本は肉のくるしみから出発した二人の関係をそこまで持って行こうとしているような節子の顔を見まもった。それほど懺悔《ざんげ》の気分で、若い女のさかりの年頃を過そうとする彼女の思いつめた心が可哀そうに成って来た。
「なにもそんなに無理に男と言わなくても可いじゃないか。女でも可いじゃないか。大きな悟りの心を想って御覧、もし魂を浄《きよ》くすることが出来るものなら、肉を浄くすることも出来ようじゃないか――」
 この岸本の言葉は節子をほほえませた。
 その日の午後に、かねて岸本が巴里《パリ》の客舎の方で旅の心を慰め慰めした古い仏蘭西の物語が節子との話の間に引出されて行った。旅から岸本が国の新聞紙へあてて送った折々の通信は節子の手で切抜にして保存してあったくらいで、その中に書いてあるアベラアルとエロイズの名は節子の記憶にも残っていた。まだ岸本はあの古いソルボンヌの礼拝《らいはい》堂などに結びつけて見て来た旅の印象を忘れることが出来なかった。不思議にも死んだ物語が彼の胸に活《い》きて来た。あのペエル・ラセエズの墓地で見て来た古い御堂の内に枕《まくら》を並べて眠っていた僧侶《ぼうさん》と尼僧《あまさん》との寝像が物を言うように成った。この二人は終生変ることの無い精神的な愛情をかわしたとした文句の彫りつけて掲げてあった白い大理石なぞはまだ彼の眼にあった。彼はあの御堂の周囲《まわり》を廻《めぐ》りに廻って立去るに忍びない思いをして来たその自分の旅の心を節子に話した。あの御堂を囲繞《とりま》く鉄柵《てっさく》の内には秋海棠《しゅうかいどう》に似た草花が咲き乱れていたことなぞをも話した。
「そうだねえ。添い遂げられない人達は直《す》ぐ破滅へ急いでしまう。ああいう二人のように長く持ちこたえて行くなんてことは容易じゃないね」
 こう彼は言った。節子はまた熱心に彼の話に耳を傾けていた。この異国の物語は何となく彼女の精神《こころ》を励ましたように見えた。彼はそれを嬉しく思って、何かまたアベラアルの事蹟《じせき》に就《つ》いて書いたものでも手に入ったら、それを彼女に送ろうと約束した。
 めずらしく岸本は節子と二人で話したような気がした。彼女が谷中《やなか》の方へ帰って行った後には、余計にその心持が深かった。長く疑問として残っていた年齢《とし》の相違から来る男女の間の心の隔りなぞも、話せば話すほどそれを忘れることの出来るような動いたものと成って行くように見えて来た。尤《もっと》も岸本の皮肉は節子の胸にこたえたと見え、彼女からは用事の手紙の端に次のような言葉を書き添えてよこした。
「あんなに御いじめなさらないで下さいな。沢山沢山御話したいことがあるけれど、御自分で話されないようにしておしまいなさるんですもの」

        七十一

 岸本は海外の諸国を遍歴して来た旅行記の一部に着手した。その仕事を始めているうちに、雪が来て幾度《いくたび》も書斎の外の庭を埋めた。丁度遠い旅に出るまでの思い出の多い季節を追って、彼はその旅行記を書いて行った。彼は一種の感慨をもって、何物を犠牲にしても生きなければ成らなかったような当時の心の消息をその中に泄《もら》した。彼は旅行記の一節にこう書いた。
「……野蛮人は必要によって動く。私が矢張《やはり》それだ。もうどうにもこうにも仕方がなくなって、それから動いて来た。私はあの七年住慣れた小楼に、土の気息《いき》にまじって通って来るかすかな風の歎息《ためいき》のようにして、悲しい憤怒《いきどおり》の言葉を残して来た。そうだ。光と熱と夢の無い眠《ねむり》の願い、と言った人もある。こういう言葉を聞いて笑う人もあるだろうか。もしこれが唯《ただ》の想像の美しい言い廻しでなく、実際この面白そうなことで充《み》たされている世の中に、光と、熱と、夢の無い眠より外に願わしいことも無いとしたら、どんなものだろう。丁度私はそれに似た名状しがたい心持で、二週間ばかり床の上に震えていたこともある。過ぐる年の冬の寒さも矢張りこの神経痛を引出した。私が静坐する習癖は――実は私はそれでもって自分の健康を保つと考えているのだが、それが反《かえ》ってこうした疼痛《とうつう》を引起すように成ったのかも知れない。それに饒舌《おしゃべり》が煩《うるさ》くて、月に三四度ずつは必ず頼んだ按摩《あんま》も廃《や》めた。私は自分の身体《からだ》が自然と回復するのを待つより外に無かった。はかばかしい治療の方法も無いと言うのだから。私は眠られるだけ眠ろうとした。ある時は酣酔《かんすい》した人のように、一日も二日も眠り続けた。我等の肉体はある意味から言えば絶えず病みつつあるのかも知れない。それを忘れていられるほど平素あまり寝たことの無い私は、こういう場合に自分で自分の身体を持てあました。ある時はもっと重い病でも待受けるような心持で、床の上に眼が覚《さ》めることがあった。不思議な戦慄《せんりつ》が私の全身に伝わった。それが障子の外に起る町の響か、普通の人の感じないような極く軽いかすかな地震か、それとも自分の身体の震えか、殆《ほとん》ど差別のつかないものであった……多くの悲痛、厭悪《えんお》、畏怖《いふ》、艱難《かんなん》なる労苦、及び戦慄は、私の記憶に上るばかりでなく、私の全身に上った――私の腰にも、私の肩にまでも……いかなる苦痛もそれが自己のものであれば尊いような気もする。すくなくも人は他人の歓楽にも勝《まさ》って自己の苦痛を誇りとしたいものである。しかし私は深夜独り床上に坐して苦痛を苦痛と感ずる時、それが麻痺《まひ》して自ら知らざる状態にあるよりは一層多く生くる時なるを感ずる度に、かくも果しなく人間の苦痛が続くかということを思わずにはいられない……曾《かつ》て私は山から東京へ家を移す前に、志賀の山村の友を訪《たず》ねようとして雪道を辿《たど》ったことがある。私は身体の関節の一つ一つが凍りつくほどの思いをしたあの時の寒さを忘れることが出来ない。つくづく私は自分の心の内部《なか》の景色だと思って、あの行く人も稀《まれ》な雪の道を眺《なが》めたことを思出すことも出来る。時々眠くなるような眩暈《めまい》、何処かそこへ倒れかかりそうな息苦しさ、未だ曾て経験したことのない戦慄、もうすこしで私は死ぬかと思ったあの際涯《はてし》の無い白い海を思出すことも出来る。丁度、私が遁《のが》れて来た世界とは、ああいう眩暈《めまい》と戦慄《みぶるい》との出るような寂寞《せきばく》の世界だ。そこにあるものは降りつもる『生』の白雪だ。そこはまるで氷の世界だ。氷の海だ。そして私はその氷の海に溺《おぼ》れた。七年の小楼の生活よ、さらば……」
 現実を厭《いと》い果てるように成ったものが悲痛な心で堕《お》ちて行ったデカダンの生活の底こそは、彼の遁れて行こうとした氷の世界であったのである。

        七十二

 岸本が浅草時代の終にあたる自分の生活をデカダンの生活として考えるように成ったのも、あたかもその生活の中に咲いた罪の華《はな》のように節子を考えるように成ったのも、それは彼が遠い旅に出てからずっと後のことであった。
「人はいかなるものをも弄《もてあそ》ぶように成る」
 これは彼があの浅草の二階である人に書いて送った短い感想であったが、そういう言葉が自分の口から出るほどもう心の毒の廻った時でも、多くの結婚生活が男女夫婦の堕落に終らないとはどうして言えようと考えるほど、それほど女というものの考え方なぞが崩《くず》れて行った時でも、冷然として自己の破壊に対する傷《いたま》しい観察者の運命に想い到った時でも、猶《なお》彼はデカダンとして自分を考えたくないと思っていた。彼は梟《ふくろ》のように眼ばかりを光らせて寂寞と悲痛の底に震えてはいられなかった。それを自分の運命の究極とはどうしても考えたくなかった。「死」を水先案内と呼びかけた人のような熱意を振い興《おこ》して、この人生の航海に何かもっと新しいものを探り求めずにはいられなかった。
 旅行記の一部を書き始めて見ると、あの旅に出る頃のいろいろな出来事の記憶や、いろいろな心の経験の記憶が、後からそれを辿って見たいろいろな心持と一緒に成って岸本の胸に帰って来た。ああいう淀《よど》み果てた生活を押し進めて行ったら、仮令《たとえ》節子のことが起って来なくとも、早晩海の外へでも逃《のが》れて行くの外はなかったろうと想って見た。彼の堕ちて行ったデカダンスとは、中野の友人の言うような「無為」の陥穽《おとしあな》のそれでもなく、寧《むし》ろ結局|狂人《きちがい》にでも成って終を告げるより外に仕方のないようなそんな憂鬱《ゆううつ》な性質のものであった。彼はそんなことを人からも言われ、自分でもよくそんなことを考えて見たことを思い出した。彼の恐れるように成って行ったのは何よりも「死」であった。それが三人の女の児を先立てたことに胚胎《はいたい》したことを思い出した。過去を通して、あの頃ほど「死」が彼の胸を往来したことはなかったが、それがもう破滅に近い暗示のように考えられたことを思い出した。彼が冷い壁をじっと見つめたぎり、人と口をきくことも二階から降りることさえも厭わしく思うほど動けなくなってしまった時は、「死」がそろそろ自分の身体にまで上りかけて来たかと恐ろしく考えたことを思出した。そうした心持で、頽廃《たいはい》した生活の終の幕に近づいて行ったことを思出した。節子を中心にして起って来た強い嵐《あらし》は過去の生涯の中での一つのキャタストロオフであったように見えて来た。
 最早《もはや》草木の活《い》きかえるような季節が岸本の眼前《めのまえ》にめぐって来ていた。
 春らしい雪が来て庭を埋めたと思うと、一晩のうちにそれが溶けて行って、その後には余計に草の芽を見るように成った。何時来るか何時来るかと思って岸本の待侘《まちわ》びていたような春は、漸《ようや》く彼の身にも近づいて来たかと思わせた。彼は思い出の深い心をもってこの季節を迎えるものが自分ばかりでないことを思い、節子が最近に来て置いて行った小さな手帳をあけて見た。
「自分は何故こんなに奥深く思いを秘めて置かなければ成らないのか。もうちっともそんな必要は無くなった。それなのに、胸に溢《あふ》れるほどの思いもそれを言いあらわすべき言葉を奪われてしまった人のように、どうしても外にあらわすことが出来ない。長い長い沈黙――恐ろしいものだ、口業《くごう》を修めていたかのような私は今までのとおりに何故黙ってばかりいるのか。私は話したい、そして、ほんとに聞いて下さるではないか。あの厚い氷が暖かい春の光に逢って次第に溶けて行くように、私の唇《くちびる》もきっと溶けて行くにちがいない。早く早く自由に思いのままを話すことが出来たら、私はどんなに嬉しかろう」
 こう節子はその手帳のはじめに鉛筆で書きつけて、それから難破船の乗組員という心持が随分長く続いたが、今はもう自分の多病なことも何もかも忘れて君と共に生きたいと思うと書いてあった。彼女はまた昔の人の遺《のこ》した歌になぞらえて、上野の杜《もり》にからすの啼《な》かない日はあっても君を恋しく思わない日はないとも書いてあった。

        七十三

 三月に入って、根岸の姪からは大阪の方へ移り住もうとしているという通知があった。まだ岸本は書きかけた旅行記の一部を急いでいる頃であったが、暇乞《いとまご》いかたがた訪ねて来た愛子を高輪の家に迎えた。夫に随《つ》いて根岸を去ろうとしていた愛子は、しばらく東京もお名残《なご》りだという風で台湾の方にある両親(岸本の長兄夫婦)の噂《うわさ》や、露領の方にある輝子(節子の姉)の噂などから、義雄叔父の家の人達の噂に移って、節子に就《つ》いてもこんな噂をした。
「節ちゃんも大違いに成りましたねえ――こないだは根岸の方へ訪ねて来てくれまして、二人でしばらく話しましたっけが。なんですか、前から比べると逢って見てもずっと気持の好い人に成りましたよ」
 岸本は愛子の口から――節子から言えば年長《としうえ》の従姉妹《いとこ》にあたる「根岸の姉さん」の口から、こうした噂を聞くように成ったことを楽しく考えた。それに岸本はこの根岸の姪に自分の末の女の児を頼んであった。愛子の大阪行には種々《いろいろ》な話が出た。
「お前に見せるものがある」
 と岸本は言って、部屋の隅《すみ》に置いてある新しい三本立の本箱を愛子に指《さ》して見せた。本箱とは言っても、三つを一緒に寄せて見たところは書棚《しょだな》ぐらいの大きさがあった。それは彼が巴里から持って帰った荷造りの箱板を材料にした旅の記念で、蓋《ふた》だけを別の檜木《ひのき》の板で造らせたものであった。
「あの本箱の蓋の裏へお前に何か描いて貰いたい。しばらくお前の画も見ない。大阪へ行く前に、桃の花でも描いて置いてってくれないか。そのつもりで俺はあの真中の板をあけて置いた」
 と復《ま》た岸本は言って三尺ばかり長さのある三枚の蓋を裏返しにして、それを愛子の前に並べた。身のまわりの人に頼んで一筆ずつ書いて貰ったものがその蓋の左右にあった。岸本は左の板の方に特色のある細い女らしい筆で芭蕉《ばしょう》の句を書きつけた久米の字を指して見せた。右の板の方には太い筆で書いた節子の字があった。節子の書いたのは、二十代でこの世を去ったある人の遺《のこ》した七言絶句であった。
「へえ、節ちゃんの書いた字はまるで男のようですね」
 と言う愛子と一緒に、岸本はその素木《しらき》の檜木板に眺《なが》め入った。
「節ちゃんも字は達者に成ったね――なにしろ毎日々々お父さんの代筆をさせられてるんだから」
 と彼は言って、ふとあんな文句の見つかったのを節子の来た時に書いて貰ったという話をした。その時節子はこんなものを書いたことが無いという風で、祖母さんの居る部屋の方へ持って行って書いて来たが、出来上ったところを見るとあんな風に少し曲ったという話をもした。彼はその若々しい文句を漢詩の形で遺した人がまだ世にある頃には、愛子なぞが幾歳《いくつ》ぐらいの幼い娘であったろうと想って見た。愛子に絵画を学ぶことを勧め、南画で一家を成したある婦人に師事することを愛子の十三四歳の頃から勧めたのも、そういう青年時代の自分であったことを思い出した。
「何か簡単なもので好い、一寸した素描のようなもので好い。一つ描いて置いてっとくれ」
「描くには描きますが、今|直《す》ぐと言われちゃ少し困りますね」
 と愛子は答えた。趣味というものに生きようとしているかのような愛子は、こうした家具の隠れた装飾なぞを叔父のように無造作に考えてはいないらしかった。いずれ彼女は下図でも造った上で、大阪へ発つ前にもう一度叔父の許《もと》へ訪ねて来ようと言出した。
「なにもそんなに丁寧なもので無くても好い。高《たか》が本箱の蓋じゃないか」
「いえ、そうは行きません」
 と言って愛子は聞入れなかった。

        七十四

 その翌々日のことであった。節子が谷中から見えた時、岸本は根岸の姪《めい》の言ったことを彼女の前で思出して見た。
「お愛ちゃんがお前を褒《ほ》めていたぜ――なんだか俺《おれ》は自分が褒められたように嬉しかった」
 と彼はその包みきれないよろこびを節子に言って見せた。彼の望みは、どうかして周囲に反抗しようとする彼女の苦い反撥《はんぱつ》の感情を捨てさせたいと思っていたからで。それを脱け去る時が、ほんとうに彼女の延びて行かれる時と思っていたからで。
 弱い節子が気候に苦しむのは暑さよりも寒さの方にあった。何時《いつ》も何時も風邪《かぜ》などばかり引いていて、ろくろく仕事の手伝いも出来ないで済まないとは、彼女がよく岸本の許へ書いてよこす言葉であった。極く寒かった間は、岸本は谷中の方に居る時の彼女の骨の折れることを思って、自分の家では寧《むし》ろ彼女を休ませるくらいにした。三月とは言っても復《ま》た気候は寒さを繰返しているような日であった。祖母さんや岸本が帰りの途中を心配したので、その晩は節子は高輪にゆっくりした。
「これは覚えがおあんなさるでしょう」
 と節子は祖母さんの部屋の方から熱い茶なぞを運んで来る序《ついで》に、自分の掛けている半襟《はんえり》を一寸《ちょっと》岸本に見せるようにすることも有った。
「浅草で掛けていたじゃ有りませんか」
 と彼女は言って見せた。
 岸本は折を見て、節子のために下町の方から見つけて来た男の児の人形をそっと取出した。そう大きくもなく、小さくもないもので、着物も着せてはなかったが、眼なぞは男の児らしく愛らしく出来ていた。彼は何のつもりもなく、唯《ただ》用達《ようたし》に行った序にそんなものを見つけて来たのであった。それを節子の袖《そで》の下へしのばせた。
 意外にも、この小さな贈物は節子の眼から留めどの無いような涙を誘い出した。彼女の呑《の》もうとする啜泣《すすりなき》の声は、どうかすると祖母さんや久米や女中にまでも聞えそうに成って来た。
「節ちゃんはどうしたんだねえ」
 終《しまい》には岸本は荒々しく言って、ややもすれば家のものに聞えそうな節子の涙からその場を救おうとした。節子はもう座にも堪《た》えられないという風であった。彼女は部屋の隅《すみ》の方へ立って行って、自分の袖で自分の声を抑《おさ》えるようにしながら、忍び泣きに泣いた。
 その翌朝節子が人形を風呂敷包の中に潜ませて谷中の方へ帰って行く時に成っても、まだ岸本は自分の悪い洒落《しゃれ》を彼女の涙に結び着けて見る暇《いとま》がなかった。節子は谷中の家の二階の例の三畳で書いたらしい手紙を岸本のところへ送ってよこした。昨日は折角くれたものをあんなことに成って、定めし本意なく思ったであろう、と書いてよこした。自分の位置を考えるにつけてもこの節は余計に思出される、自分は愛姉さんや輝姉さんをちっとも羨《うらや》ましいとは思わないが、しかしこればかりは、と書いてよこした。あの無邪気な人形の顔を見たら急に悲しく成って来た、何も知らないあんな幼いものが泣いて別れて行った時のことを思出した、と書いてよこした。忍ぼうとすればするほど意地の悪い涙が後から後から流れて来て、終《しまい》には御不興を受けたようであったが、どうぞすべての失礼を許してくれ、母としての自分の切な心を汲《く》んでくれ、と書いてよこした。節子が自分の生んだ子供を思う心を直接に岸本に打明けたのは、それが初てであった。彼女は手紙の中の宛名《あてな》をも今までのように「叔父さん」とは書かないで、「捨吉様」と書くほどの親しみを見せるように成った。同族の関係なぞは最早この世の符牒《ふちょう》であるかのように見えて来た。残るものは唯、人と人との真実があるばかりのように成って来た。

        七十五

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「恋ふまじきおきてもあらで我が歩むこゝろの御国《みくに》安くもあるかな
 かゞやける道あゆみ行く二人なり鴛鴦《をし》のちぎりもなど羨《うらや》まむ
 我がをしへしのぶにいともふさはしき春さめそゝぐ夕ぐれの窓
 夕ぐれの窓によりては君おもふわれにも似たる春のあめかな
 君をおもひ子を思ひては春の夜のゆめものどかにむすばざりけり
 いくとせか別れうらみし我身にもまたとこしへの春は来にけり
 萌《も》えいでし若葉にそゝぐ春さめをかなしきものと思ひ初《そ》めけり
 君まさむ船路はるかにしのびつゝ聞きし雨ともおもほへぬかな
 春さめにあかき椿《つばき》の花ちりて主なき家はさびしかりけり
 はる/″\と空ながめつゝ君こひしその日おもへば胸せまるかな
 ゆめさめて夜ふかくひとり君おもふまくらべちかき春のあめかな
 いかならむ道行き衣ぬぎ捨てゝなれしあめ聞くはるのよひ/\
 ものまなぶ我にさゝやく春さめは君がもとにも斯《か》くやありなむ
 春さめもいとはで濡《ぬ》るゝ二羽のとりつばさならぶもうれしとは見ぬ
 君やこし我や行きけむさゝやきのゆめうつゝともわかちかねたる
 いにしへをひとりしかたる糸萩《いとはぎ》も笑《ゑ》ましげにこそ萌えいでにけれ
 我がうでに眠りはすれど宵々をもの言はぬ子の淋しくもあるかな
 かゞやけるひとみもあらぬかたにのみうるほふ涙しるや知らずや
 君はまだ筆やはしらせたまふらむ閨《ねや》のうちなる我身はづかし
 みちのべにさゝ紅梅《こうばい》もいとし子が夢にほゝゑむ唇《くち》かとぞ見る
 いくたびか思ひ捨つれどいかにせん我がものにしてわれならぬ子を
 あどけなく緋鯉《ひごひ》のむれにたはむるゝいぢらしきさま眼《ま》のあたり見ゆ
 春のひかり満ちわたりたる大空をうらやましくもかける鳶《とび》かな
 隠れたるを見たまふ父の日ひと日いや親しくもなりまさるかな
 いと高きみ手にすがりて今日もまた涙ぐましく暮れにけるかな
 うたかたのあとなきものを人の世になに求めてか生きんとすらむ
 もしほぐさ昔の人を忍ぶにもしのぶにあまるこゝちこそすれ」
[#ここで字下げ終わり]

 節子はこれを小さな手帳の中に書きつけて来て岸本の許に置いて行った。彼女は唯岸本に見せるためにのみこういう歌をつくって来た。岸本がこれを手にしたのは、あの旧《もと》の新橋停車場から遠い旅に上った三月の二十五日という日も近づいて来た頃であった。間もなく節子は谷中の方から次のような手紙をも送ってよこした。
「先日はおいそがしいところを失礼いたしました。もう御仕事もお済みに成りましたか。先日は未《ま》だかと思いましたので御伺い致すのをやめにしようかと考えましたり、持って参りました歌も御仕事が未だでしたら御目に掛けないで持って帰ろうかとぞんじておりましたのに、御邪魔に成るようなことはなかったかしらと心配してしまいましたのよ。もしそうでしたら御免なさい。これからもそういうような場合もございましたら、そう仰《おっしゃ》ってさえ下されば、どんな我慢も致しましょう……最早《もう》二十五日も近くなって参りましたね。何という大きな相違でございましょう。汽車のひびきの聞えなくなってしまってからも、何時までも同じところに立ちつくしたあの時のことを思いますと、夢のような心持も致します……わたしどもは幸福でございますね。あの頂いたルウソオの懺悔録《ざんげろく》の中に、真の幸福は述べられるもので無い、唯感ぜられる、そして述べ得られないだけそれだけよく感ぜられるというところが御座いますね。ほんとにそうでございますね」

        七十六

 日に日に延びて行く優しい女性の姿が岸本の眼にあった。以前に思い比べると、今彼の眼にある節子は殆《ほとん》ど別の人のように延びて来た。彼は極く若かった頃からの節子のことをいろいろと胸に浮べて見た。郷里の方から東京へ出て来たばかりの十五六歳の頃、まだ短い着物なぞを着て姉の輝子と一緒によく以前の家の方へ遊びに来た学校時代――彼女の女らしい生涯が今のように開けて来ようとは全く岸本には想像もつかなかった。彼は節子が長い長い沈黙から――彼女自身の言草《いいぐさ》ではないが、まるで口業《くごう》でも修めていたかのような沈黙から動き変って来て、今までめったにそんなものを作ったところを見たことも無いような人が自分にくれる手紙のような歌などを書いてよこしたということをめずらしく思った。彼は節子の歌を繰返して、かずかずの言葉のかげに隠された女らしい心持を想像して見た。彼女が世の幸福を捨てても岸本に随《したが》おうとしているのは、鴛鴦《おし》の契りも羨《うらや》ましくないと彼女の歌に言いあらわしてある通りだ。彼女は結婚を断念してかかっているのだ。最初からもう岸本は彼女の自由には成らないのだ。彼女の生んだ子供まで彼女の自由には成らないのだ。この世に何物をも所有することの出来ないのが彼女の愛だ。その心持から、岸本は彼女が覚束《おぼつか》ないながらも宗教へと辿《たど》り行こうとしていることを考えて、言いあらわしようの無いあわれさを覚えた。
「お前は節子をああして置いて可哀そうだとは思わないか。彼女の青春もやがて過ぎ行こうとしているではないか」
 どうかするとこういう声が来て岸本を試みないではなかった。けれども、「わたしどもは幸福でございますね」というその当人をどうしよう。もとより彼は甘んじて節子を自分の肩に負おうとするほど罪過の深さを感ずるものだ。長い間の苦悩からどうにかこうにか彼女を救い出すことが出来て、彼女を幸福にすることが出来るなら、それ以上の運命を弱い人間の力でどうすることが出来よう。
 岸本は自分の生命《いのち》がしきりに彼女に向ってそそぎつつあるのを感じていた。彼は趣味に於《お》いても不思議なくらい節子と一致していた。彼女の髪、彼女の着物なぞは誰のにも勝《まさ》って彼の好みに合った。彼はあの弟子であり尼僧《あまさん》であり情人であったというエロイズをアベラアルの一生に結びつけて想像し、多くの名高い僧侶《ぼうさん》達の生涯にも断ちがたい愛着のくるしみのあったことを想像し、一切を所有してしかも何物をも所有しなかった人達の悲哀《かなしみ》を想像し、その想像を「捨てはてゝ身はなきものと思へども――」と歌った昔の人のパッションにまで持って行って見た。

        七十七

 やがて節子の通って来る道には早咲の椿の花弁《はなびら》なぞがしきりに落ちるように成った。例のように岸本は途中まで迎えに出て、谷中の方からやって来た節子とある邸地《やしきち》つづきの寺の附近で一緒に成った。彼は独《ひと》りで家の界隈《かいわい》を散歩するうちにその辺から東禅寺の墓地へ通う抜け路を見つけて置いた。その日は節子と一緒に墓地を歩いて見ることを楽みにして、先《ま》ずその方へ彼女を誘った。岸本が先立って案内して行ったのは岡の上にある寺の境内を本堂の裏側へと廻ったところであった。そこから東禅寺の墓地へ抜けるには、新しい墓の並んだ同じ地つづきの傾斜を降りて、藪《やぶ》の多い崖《がけ》一つ越さねば成らなかった。岸本は先ずその崖を飛び降りて見せた。それから崖はずれの樹木の間に立つ節子を見上げた。
「お前にそこが降りられるかね」
 と言って岸本が手を貸そうとする間もなく、節子は自分の洋傘《こうもり》を力に崖を降りてから岸本と顔を見合せた。
 どれ程の死者の数が眠っていると言うことも出来ないような、可成《かなり》広い墓地の眺めが二人の眼前《めのまえ》に展《ひら》けた。苔《こけ》蒸した墓石は行く先に並び立っていた。その墓石の古い形式から言っても、惜気もなく石材を使って組立ててある意匠から言っても、全く今の時代からは遠いことを語っていた。そのあたりには何となく廃墟《はいきょ》の感じを与える場所すらもあった。岡つづきの地勢を成した小高いところにある墓地の向うには、古い墓でも動かすかして、四五人の人足の立働くのが見えた。岸本は節子と一緒に石を敷きつめた墓地の一区域へと出た。そこまで行くと人足達の姿も高い墓石に隠れて、唯土でも掘り起すらしい音が闃寂《しん》とした空気にひびけて伝わって来ていた。
 ふと昔の友達の青木が住んだことのあるのもこの広い古い寺の境内であったことが、岸本の胸に来た。彼はあの亡《な》くなった友達と、まだその頃二十一二にしか成らなかった自分とが一緒に腰掛けた墓の側に、結婚の話に思い迷って青木の許へ相談にでも来たらしい年の若い婦人を見かけたことを思出した。しかし彼はこんなことを胸に浮べたのみで、別に節子に話し聞かせようともしなかった。彼は節子を誘って墓地の中の通路を小山の方へと取り、傾斜を成した樹木の多い地勢に添うて石段を上って行った。
 巨大な墓石の並び立つ別の光景《ありさま》がまたその小山の上に展《ひら》けた。そこには全く世間というものから離れたかのような静かさがあった。底青い空の方から射《さ》して来ている四月はじめの日の光が二人の眼前《めのまえ》に落ちていた。岸本は自分の右の手を節子の左の手につなぎ合せて、日のあたった墓石の間を極く静かに歩いた。あだかも、この世ならぬ夫婦のような親しみが黙し勝ちに歩いている節子の手を通して岸本の胸に伝わって来た。
 しかしこのはかない幻のような心持は直ぐに破れた。丁度その小山の上あたりは品川の電車路から高輪へ通う人達の通路に当っていた。節子は元来た道の方へ石段を降りかけようとしたところで、傾斜の半途に蔭の落ちている常磐木《ときわぎ》の間を通して、逸早《いちはや》く向うの方から歩いて来る人の影を見つけた。そして岸本の側から離れた。
「向うへ行こう。お墓に腰でも掛けて話そう」
 と岸本は言って、節子と一緒にその石段を降りた。

        七十八

「どうして俺は自分の姪なぞにお前のような人を見つけたろう。何故もっと他の人にお前を見つけなかったろう」
 岸本は元来た墓地の一区域へ引返して行ってから節子にそれを言出した。節子は墓の隅《すみ》に小さな※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]子《ハンケチ》を敷いて、例の灰色のコートのままその石の上に腰掛けた。
「でも、よくこんなに見つかったものですね」と節子が言った。
「矢張、苦しんだ揚句だから見つかったんだね。さもなかったら、こんな不思議なところへは出て来なかったかも知れない」
 その時ほど岸本は節子と二人ぎりでのびのびと屋外《そと》の空気を呼吸したり青空を楽んだりするような位置に自分を見出したことは無かった。節子はまた、仮令《たとえ》僅《わずか》の時でもそれを自分等二人のものとして並び腰掛けながら送ることを楽みに思うという風であった。
「そうそうお前に聞いて見ようと思うことがあった」と岸本は言った。「お前からくれた手紙の中に――ほら、何もかも話せる時が来たなんて――お前は俺に書いてよこしたことが有ったろう。こんなに早くその時が来ようとは思わなかった、すくなくも二三年は待たなければ成らないかと思ったなんて――もしあの時、俺が結婚したら、お前はどうするつもりだったのかね。俺は自分でも結婚するつもりだったし、お前にも結婚を勧めるつもりだった。そのつもりで旅から帰って来た。もし俺が結婚したら――それでもお前は待ってるつもりだったのかい」
「ですから、低気圧が起って来たんじゃ有りませんか」
 と節子はすこし顔を紅《あか》めながら答えた。
 この節子の答えは岸本を静止《じっと》さして置かなかった。実際、旅から帰って来た彼をもう一度節子に近づけたのも、あの不思議な低気圧であったから。
「ああそうか。そうだったのか」
 と岸本は思い出したように言って、古い墓石の並んだ前をあちこちと歩いて見た。三年も節子が待受けていたのは、良い縁談でもなく、出世の道でもなく、旅から帰って来る岸本であったということが、最早疑問として残して置く余地も無くなって来た。節子に起って来た憂鬱《ゆううつ》の何であったかは、旅で貰《もら》ったかずかずの手紙の内容《なかみ》と相待って、何もかも一息に岸本の胸に解けて来るように成った。
「もう低気圧は起りません」
 節子は感慨の籠《こも》った調子でそれを言って見せて、やがて墓の隅を離れた。
「椿が咲いてますね」
 と節子が言出した頃は、彼女は既に崖を上って、新しい墓のある傾斜の地勢を岸本と一緒に歩いていた。しばらく二人で腰掛けて来た墓地の一区域も眼の下に見えるように成った。
「でも、三年の間よくそうして待っていられたね」と岸本は歩きながら節子の方を顧みて、「お前の手でも悪くなかったら、そうして待ってはいられなかったかも知れない」
「そうですね。この手が悪くなかろうものなら……私はお嫁に行かなくちゃ成らなかったかも知れませんよ。余程《よほど》この手にはお礼を言わなくちゃ成りませんね」
「しかし節ちゃん、お前はそれでほんとに可《い》いのかい――これから先、そうして独りで立って行かれるのかい」
「そんなに信用がありませんかねえ――」
 この節子の力を入れて言った言葉は岸本に安心を与えた。

        七十九

 墓地で送った時は短かった。しかしその夕方まで家の方で節子と一緒に成った間にも勝《まさ》って忘れがたい印象を岸本に与えた。それから二三日|経《た》つと彼は谷中からの手紙を受取った。それは義雄兄の意を受けて節子の代筆した金の相談に関した手紙ではあったが、彼女は別に鉛筆で書きつけた歌を同封してよこした。

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「くれなゐの椿の花はおくつきに二人あゆみしみちにも散りぬ
 君もなく我が身もなくて魂《たま》二つ静かにはるのひかりのなかに
 青葉もる春のひかりはやはらかく苔むせる石のうへに落ちけり
 手をとりて静かにあゆむ石段やはるかぜゆるくおくれ毛をふく」
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 これを読んで岸本は墓地での印象が彼女の上にも深かったことを知った。
 その頃からの節子は顔の白いものなぞもなるべく薄く目立たないようにつくろうとする人に成って行った。この事は些細《ささい》ながらに岸本の心を悦《よろこ》ばせた。彼女の顔の淡いよそおいは、こころよく岸本の忠告を容《い》れたのであるから。それがまた今までに比べてどれ程彼女を自然にしたか知れなかったから。同時に彼は老い行こうとするものの心づかいが知らず識《し》らずの間にこんな忠告の形を取ってあらわれて来たことを考えて、なるべく彼女の目立たないようにとは、その実自分の嫉妬《しっと》であることを心に恥じない訳に行かなかった。どうかするとその心は、年若な人達に接触する機会を持った彼女の境遇に向わないでは無かった。でもその嫉妬は軽く通過ぎて行ってしまうような、そんな程度のものであった。ある時、彼は節子の前に、その心を話して見る折を持ったことも有った。
「俺のところへは随分いろいろな女の人が訪ねて来るぜ。お前はそれでも気に成らないかね」
 と彼の方で串談《じょうだん》半分に言出して見た時でも、節子は苦笑《にがわらい》して取合わなかった。
「こういう心持には嫉妬は附き物なんだ。別にそんなものの起って来ないところは不思議じゃないか」
 と彼の方で言うと、節子は例の調子で、
「そんな余裕が無いんでしょうに……」
 と答えたこともあった。
 節子が一切をささげて岸本に随おうとする心は、それが彼にもよく感じられた。「お前は何時までも俺のものかい」と彼の方で訊《き》いた時に、「ええ何時までも」と答えた通り、彼女はすでにすでに岸本のものであった。それにも関《かかわ》らず、求めても求めても得られない愛着の切なさは、自分のものでありながら自分のもので無いと思う節子をどうすることも出来なかった。夜になると、寂しいところにある彼のたましいはよく節子の名を呼んだ。彼女は自分と共にある、自分もまた彼女と共にあるだろうか、そんなことを思いながら独り寝た。どうかすると彼は半分夢のように、自分の耳の底の方で優しいささやくような声を聞いた。
「わたしの旦那《だんな》さん」
 熱心にその声を探そうとする度《たび》に何物も彼の腕の中には無かった。唯彼の手は空虚を掴《つか》んだ。

        八十

 義雄兄の家族と分離してから以来《このかた》岸本が祖母《おばあ》さんを借り久米を借りして始めて見た簡易な生活も半年ばかり続いた。岸本の方に無くて叶《かな》わぬ祖母さんは、兄の方にも無くて叶わぬ家庭の調和者で、そうそう長く高輪の家に引留めて置けない事情が起きて来た。岸本がこの祖母さんを失うのは、自分の家から中心の人を失うに等しかったのみならず、彼は折角自分の許《もと》へ勉強するつもりで来てくれた久米に対しても、とかく子供等のために煩《わずら》わされ勝ちなのを気の毒に思うように成った。彼は不自然に抑《おさ》えられていた子供等の性質が如何《いか》に急激に祖母さんや久米の温情の下に緩《ゆる》められたかを見た。その結果は、母親のない子供等を慰めることは出来ても叱《しか》ることの出来ない人達に取って、いかに頭痛の種であるかを見た。殊《こと》に二番目の繁が一度愚図り始めたら、泣くだけ泣かなければ止《や》まないという風で、日に日に募って行くこの児の駄々《だだ》は久米をも女中をも泣かせてしまうのを見た。どうしてもこれは自分で養うの外は無い、なるべく自然な方へ頼りの無い子供等を連れて行って彼等の成長を待つの外は無い。こう岸本は考えて、どのみち高輪の家を解散しようと思い立つように成った。彼は自分の子供等のことで、これ以上祖母さんや久米に心配を掛けるには忍びなかった。
 そこで彼は一つの試みを思い立った。それは泉太や繁と一緒に下宿へ移るということであった。彼は巴里《パリ》の方で経験して来た三年の下宿生活が何等《なんら》かこの試みに役に立つであろうという期待を持った。尤《もっと》もその事は未《ま》だ誰にも言わずにあった。
 節子のために再婚を断念して掛った岸本がこうして家庭というものを出てしまうということは、そして旅人の生活に帰って行くということは、寧《むし》ろ彼には当然の成行《なりゆき》と思われた。その心持で、ある日彼は谷中の方からやって来る節子を待受けた。
 節子は訪《たず》ねて来た。丁度家のものは祖母さんはじめ子供から女中まで上野の方へ花見に出掛けた時で、岸本|独《ひと》り寂しく留守をしていた。節子は例のように先《ま》ず祖母さんを見ようとして、長火鉢《ながひばち》の置いてある部屋の方へ行った。
「祖母さんは?」
 と訊《き》く彼女を迎えて見ると、まるで家の内は寺院《おてら》のようにしんかんとしていた。岸本は以前の浅草の家の方で、よく家のものを送り出し、表の門を閉めて置いて、独り居る寂しさを楽んだことなぞを思い出した。
「今日は皆お花見さ、俺《おれ》独りお留守居だ。お前も帰るなら、もう帰っても可《い》い」
「そんなら帰りましょうか」
 と節子はわざと言って見せて、それから、廊下づたいに奥の部屋へ来た。岸本は誰よりも先ず節子に自分の手一つで泉太や繁を養って見ようと思い立っていること、それには遠からず適当な下宿を見つけて子供等と一緒に移り住もうと考えいることなぞを言出した。
「男の手で果してこんなことが出来るだろうか。出来ても、出来なくても、まあ俺は自分で子供を育てて見るつもりだ」
 この岸本の思い立ちは、それほど節子を驚かしもしなかった。

        八十一

「いよいよ高輪もお仕舞《しまい》ですかねえ」
 そういう節子は、この屋根の下に岸本よりも多くの記憶を持っていた。彼女をこの家に移して置いてそれから遠い旅に上ったのは岸本であっても、三年の暗い月日をここに送ったのは彼女自身であるから。
 その時に成って見ると、四年このかた住み荒した家の内のさまが今更のように岸本の眼についた。四年前節子が品川の方に起る汽車の響の聞えなくなるまで同じところに立ちつくしたという庭先へは、最早濃い春がめぐって来ていて、青々とした若葉の色は草木の感じを深くした。ろくろく手入をしたことの無い庭の植木という植木は一つとして野性に帰っていないものは無いかのように見えた。梅の枝なぞは殊に延び放題延びて、黒ずんだ旧葉《ふるは》の上に更に新しい葉を着けていた。庭の片隅《かたすみ》には乙女椿《おとめつばき》と並んだ、遅咲の紅《あか》い椿もあった。その花のさかり、青葉のさかりは、荒れ朽ちた軒端《のきば》の感じに混って奥の部屋の縁先にある古い硝子戸《ガラスど》に迫って来るかのように映っていた。

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「灰色に銀糸まじれる遠方《をちかた》の夕立のごとき思ひ出の家
 銀もよし灰色もまたなつかしやくりひろげたる絵まきものみな」
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 岸本の胸に浮ぶのはこの歌であった。高輪も終に近いかと思えば名残《なごり》惜しいとして、最近に節子から貰《もら》った手紙の中に書添えてあった歌だ。尤《もっと》も、彼は下手《へた》にそんな文句を言出したりなぞして、彼女の顔を紅めさせるでもあるまいと思い、それを彼女の前で口吟《くちずさ》んで見ることはしなかった。
「椿がよく咲いていますね」
 と言う節子と一緒に、やがて岸本は縁側から庭へ降りて見た。細くて、しかも勁《つよ》い椿の枝の下の方には、大輪な紅い花が葉と葉の間にいくつとなく咲き乱れていた。そっくり花弁《はなびら》の形をそなえたまま庭土の上に落ちたのもあった。岸本は名残惜しそうな眼付をした節子をその椿の樹の下あたりに見た。
「どうだね、お前の髪にでも挿《さ》して見たら」
 と岸本が言ったので節子は彼方是方《あちこち》と蕾《つぼみ》を探したが、彼女の取ろうとするのはいずれも彼女の手の届かないところにあった。その時、岸本は節子の手が椿の枝に触れるほどの位置にまで彼女の身体を抱きあげてやるようなユウモアのある心持に成った。
 節子はめずらしく快活な、抑《おさ》えきれないような笑声と共に庭へ降りて来た。彼女は折取った紅い椿の蕾を一寸《ちょっと》髪に宛行《あてが》って見せたのみで、別にそれを挿そうとはしなかった。しばらく岸本は縁側に腰掛け、自分の側に節子をも腰掛けさせて、正午近い春の日が庭土の上にあたっているのを眺めながら二人ある静かさを楽しもうとした。

        八十二

 節子は庭から縁側に上って、昼飯の支度《したく》をするために勝手の方へ行った。昼には、岸本は長火鉢の置いてある祖母さんの部屋で、節子と二人ぎり簡単な食事をやった――彼女が庭から持って来た椿の花の蕾は長火鉢の板の上に載せて置いて。
 岸本の眼に映るその日の節子は、日頃気兼ねをしなければ成らない誰のことも全く忘れ去っている人のように見えた。それがまた、あまりに遠慮がちな平素の彼女にも勝《まさ》って、どれ程彼女を自然にしたか知れなかった。濃い茶色の縁を裾《すそ》の方に取ったような※[#「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72]幅《ふきはば》の広い質素な着物までが、部屋々々を往《い》ったり来たりする彼女の動作によく似合って見えた。
「お前は一体静かなことが好きなんだろう。そこが俺《おれ》と一致するところかも知れないね」
 岸本はこんな言葉を残して置いて、節子をもてなすものを探すために一寸高輪の通りまで行って来ようとした。
「節ちゃん、一寸お留守居を頼んだぜ。俺は行って何か菓子でも見つけて来る」
 こう言って出た。
 岸本が町から引返して来た時は、節子は奥の部屋に居て茶の用意をしていた。まだ四月の下旬であるというに、彼はめずらしい粽《ちまき》なぞを見つけて来た。男の児の節句も近づいたことを思わせるその笹《ささ》の葉の蒸された香気《におい》は、節子の口から彼女の忘れようとして忘れ得ない子供の噂《うわさ》を引出すに十分であった。岸本は自分と彼女との間に生れた男の児のことに就《つ》いて、その時初めていろいろな話に触れた。
「たしか親夫《ちかお》という名だっけね。あの名は――ほら、坊さんが自分の児に命《つ》けるつもりで考えて置いたやつを、わざわざ譲ってくれたんだなんて、お前の手紙の中に書いてあったじゃないか」
 こんな知らない子供の存在を考えて見たばかりでも心の震えた旅の当時に比べると、岸本は全く別の心持で節子の前にそれを言うことが出来るように成った。節子はまた、罪過そのものも今はもう懐《なつ》かしいという面持《おももち》で、しばらく彼女がお産のために行っていたという片田舎《かたいなか》の方へ、そこにある産婆の家の二階の方へ岸本の想像を誘うようにした。不幸で、しかも幸福な子供が生みの親にも劣らぬ親切な両親を得て、平和な農家の家庭に養われているという話になると、彼女の顔には若い母らしい特別な表情さえ浮んだ。
「へえ、その家では釣堀《つりぼり》をやってるのかね。一つ鯉《こい》でも釣りに行くような顔をして、そのうちに訪ねて行って見るかナ」
 この岸本の言葉は節子をほほえませた。
「しかし、何処《どこ》でどういう人に逢《あ》うか真実《ほんと》に解《わか》らないものですね――」と節子が言った。「あの田舎で大変御世話になった女のお医者さまのことを巴里へ書いてあげましたろう。あの人に逢いましたよ。お父《とっ》さんの行く眼の病院で……あの人も今では眼科の方の助手なんでしょう」
 しばらく節子の話は途切れた。その沈黙の何であるかは物を言うよりもはっきりと岸本の胸に通って来た。
「お前のお母《っか》さんは、一体どうなんだろう」と岸本はその沈黙の続いた後で言出した。「お母さんは『あの事』を知ってるんだろうか――」
「お母さんは知っていましょうよ」と節子が言った。
「輝はどうだろう」
「姉さんも知っているかも知れませんよ。丁度姉さんがお産で帰って来た時は、私はこの家に居ませんでしたからね。姉さんがお父さんの方へ行って聞けば、お母さんに行ってお聞きと言われるし、お母さんの方へ来て聞けば、お父さんに行ってお聞きと言われたなんて――姉さんだって不思議に思ったんでしょう。あの時分はお父さんは未だ名古屋でしたからね」
「そんなら、お愛ちゃんは?」
「さあ、根岸の姉さんもどうですかねえ……」
 と節子は言い淀《よど》んだ。復《ま》たしばらく二人は無言のまま対《むか》い合っていた。
「何だか、すこし変な気がして来た」
 と岸本が言うと、節子はそれを受けて、
「しかし、もうお話に成りましたよ」
 深い溜息《ためいき》でも吐《つ》くように、彼女はそれを岸本に言って見せた。

        八十三

 二人|籠《こも》っている楽しい一日もやがて底悲しく暮れて行った。一月ほど前に岸本から送った男の児の人形を大切にして僅《わず》かに母らしい悲哀《かなしみ》を寄せている節子、その人形に黒い着物を着せ黒い頭巾《ずきん》まで冠《かぶ》せ自分の児でも連れ歩くように風呂敷包の中に潜ませて岸本の許へ持って来て見せる程の節子、話そう話そうとして今までその話をする機会も思うように見出せなかったと言いたげな節子、その節子は母としての彼女の心を岸本に汲取《くみと》って貰うことを何より嬉《うれ》しく思うという風であったが、二人の間に生れた子供の話が出れば出るほど岸本はきびしい現実の感じを誘われた。節子はその話につけて、片田舎に産後の身を養っていた間よく例の女医に誘われて自分の子供の貰われて行った家へ遊びに出掛けたことを話した。その家の人達はしきりに彼女の素性《すじょう》を知りたがって、いろいろに手を分けて詮索《せんさく》したことや、名前を明すことが出来なければ東京のどの辺か、せめて方角だけでも教えよと言われたが、それだけはお断りすると言って到頭女医の方で明さなかったことなぞを話した。
「そりゃ可愛がっているんですよ――あの児の眼の悪かった時なぞは、そこの阿爺《おやじ》さんが毎日のように背負《おぶ》ってお医者の家へ通っていましたっけ」
 と岸本に話し聞せた。
 そろそろ家の内は薄暗くなりかけた。未だ屋外《そと》は明るかったが、岸本も節子も帰りの遅い祖母さん達のことを案じるように成った。
「節ちゃん、お前も帰る支度をするがいい」
 と岸本の方で言出した時、節子は座を起《た》ちかけて、
「私はもう帰りません」
 とわざと言って見せた。こういう時の節子の語気には岸本を噴飯《ふきだ》させるほどの率直があった。
「祖母さん達も、もうそれでも帰りそうなものだなあ」
 と言いながら、岸本は部屋々々を歩き廻って見た。北向の部屋の外から勝手の方へ通う廊下の屋根には小さな明り窓があって、その窓から射す日暮時の光が廊下に接した小部屋の障子を薄明るく見せていた。節子は鏡台の前に立って乾《かわ》いた髪をときつけながら帰り支度をしていた。何気なく岸本は節子の背後《うしろ》に立って、鏡の中にある彼女の女らしい姿を見た。その時、節子は岸本の胸に彼女の頭を押し当てて、この家を立ち去るに忍びないような柔かな表情を鏡に映して見せた。花見帰りの人達は間もなく遠路《とおみち》を疲れて戻って来た。
「へえ、只今《ただいま》」
 という祖母さんと一緒に、泉太や繁の楽しそうな笑い声が急に家の内《なか》を賑《にぎや》かにした。
「お蔭さまで、大楽しみを致しました」という女中までが草臥《くたぶ》れたらしく帰って来た。
「父さん、今日は大失策《おおしくじり》をやらかしたよ」と気の早い繁が誰よりも先ず途中での昼食のことを言出した。「泉ちゃんがお蕎麦屋《そばや》と間違えて、お料理屋へ飛び込んだりなんかして――玉子焼に、椀盛《わんもり》にサ――そりゃ高く取られたから」
「僕はお蕎麦屋と間違えちまったのサ」と泉太も笑い出した。
「それはそうと、お嬢さまがいらしって下すっても、今日はお昼飯《ひる》の支度も致して置きませんで」
 こう女中は節子の方を見て言った。
 この女中は節子のことを「お嬢さま、お嬢さま」と呼んでいた。
「いえ、有るもので頂いて置きましたよ」
 と節子は答えて、祖母さんや岸本が夕飯を一緒にと勧めたのも聞き入れずに、暗くなる家路を心配しながらそこそこに谷中をさして帰って行った。

        八十四

 それから、岸本は子を連れた旅人のような方針に向って動いた。そして最早《もはや》家庭というものに未練のない自分だけの栖所《すみか》を下宿に求めようとした。端午《たんご》の来る頃には――泉太や繁が幼少《ちいさ》い時分に飾った古びた金時《きんとき》や鯉《こい》なぞを取出して見たり、粽《ちまき》を祝ったりするのを楽みにしている間に――彼はわざとばかり菖蒲《しょうぶ》の葉をかけたこの軒端も見納《みおさ》めにするような心でもって、すでにすでに高輪を去ろうとする心支度を始めていた。
 高輪の家に集って子供の面倒を見てくれた人達、殊に久米は岸本の思い立ちを危んだが、結局彼の意見に賛成してくれるように成った。祖母さんは谷中へ、久米は彼女の家へ、女中はまた女中で思い思いに離れ行く時が近づいて見ると、家中のものは互に名残《なごり》を惜むように成った。
 五月の十五日過ぎには岸本は愛宕下《あたごした》の方の適当の下宿を見つけて来たほど事を運んだ。その時に成るまで、彼は下宿へ連れて行くということを二人の子供に言出しかねていた。学校の友達という友達で家庭から通っていないものは無い中にあって、泉太や繁が子供心に果して自分の言うことを聞き入れるだろうか、そう思っては幾度《いくたび》か躊躇《ちゅうちょ》した。
 ある日、祖母さんも久米も一緒に集っている食卓の側で、岸本はその事を子供等に言出した。
「どうだね、父さんはお前達を寄宿舎へ連れて行こうと思うが。義雄伯父さんのところからは近いうちに祖母さんを返してよこしてくれと言って来てるし、どうしてもこの家は止さなけりゃ成らない。他《よそ》には母さんが有るからああしてみんな家から学校へ通っているんだけれどお前達には母さんが無いだろう。そこで父さんは寄宿舎を思いついた。父さんがお前達と一緒にその寄宿舎へ入るんだぜ。どうだね、父さんと一緒に行くかね」
「行くよ」と繁が言った。
「父さん」と泉太は弟の言葉を遮《さえぎ》るようにして、「寄宿舎から学校へ行かれる?」
「それゃ行かれるとも」
「御飯もそこで食べさせてくれる?」と今度は繁が訊《き》いた。
「食べさせるとも。そのための寄宿舎だ。そのかわり寄宿舎へ入ったら、お前達は父さんの食べる物を食べなくちゃいけない。あれが厭《いや》だ、これが厭だなんてことは、寄宿舎では言えない。出すものを食わなけりゃ成らない。それでもお前達は可いかね」
「ああ、可いとも」と泉太が事もなげに言った。
「寄宿舎には他に人も居るんだぜ。そこへ行って繁ちゃん見たいにあばれたら、それこそ大変だ。余程《よっぽど》改良しなけりゃ。あんな大きな声を出して怒鳴ったり、障子を破いたりなんかしようものなら、一日でお断りを食う」
「寄宿舎へ行けば、僕だって改良するサ」
 と繁が頭をかいた。
「オヤオヤ、もっと早く改良なされば可いのに」と言って、久米は笑った。
 思いの外、泉太や繁が早く承知したので、岸本はやや心を安んじた。そればかりではない、変化を好む子供等は一日も早く父の言う寄宿舎を見たいと願うように成った。

        八十五

 高輪《たかなわ》を去る時が来て見ると、あの品川の停車場から乗って来た車を降りて独《ひと》りでしょんぼりこの家の門口に立った帰国の日以来のことが何となく岸本の胸に纏《まと》まって来た。未だ未だ彼の心は薄暗くて附纏う秘密の影から離れることは出来なかったけれども、でもその薄暗さは遠い旅で暮した月日の暗さとは比較に成らなかった。歩けば歩くほど彼の心は明るく成って来た。この歓《よろこ》びは更にこれから行くべきところへ行こうとする彼を励まさずに置かなかった。
 下宿に移る前の日には、岸本はあらかた世帯を畳むまでに漕付《こぎつ》けることが出来た。古い箪笥《たんす》を欲しいという祖母さんへは園子の時代から残っていたやつを、油絵の額をという久米へは彼女の部屋に掛っていたルュキサンブウルの公園の風景を、いずれも半歳《はんとし》余を一緒に高輪で暮した記念として分けた。祖母さんが燈明をたやさなかった仏壇には古い小さな位牌《いはい》が錆《さ》びた金色に光っていた。岸本は遠い旅まで持って行った記念の鞄《かばん》を提《さ》げて来て、その中に位牌を納めた。
「御覧、母さんが鞄の中に入ってしまった」
 と彼は泉太や繁に言って、その鞄を子供等の前で提げて見せた。
「僕にも母さんを提げさせて」
 と二人の子供はかわるがわるその鞄を持ち廻った。
 翌朝は早や六月を迎えた。谷中からは節子が祖母さんを迎えかたがた手伝いに来た。岸本は以前の浅草の家から移し植えた萩《はぎ》を根分けして、一株は久米に贈り、一株は谷中行の荷車の端に積んだ。古い家具なぞが動かされる度《たび》に、見慣れた家の内部《なか》の光景《さま》は壊《こわ》れて行った。
 祖母さんはじめ久米や女中は下宿まで子供等を見送りたいと言って、一同|揃《そろ》って愛宕下をさして出掛けた。岸本は皆より一歩《ひとあし》おくれて、一番最後に高輪の家を見捨てた。
 古い寺院《おてら》にでも見るような青苔《あおごけ》の生《は》えた庭の奥まったところにある離座敷《はなれ》に行って着いた人達は、早く届いた荷物と一緒に岸本を待っていた。岸本は東と北との開けた古風な平屋造りの建物の中に新しい栖所《すみか》を見つけた。二間あって、一方を自分の書斎に、一方を子供等の部屋に宛《あ》てることが出来た。
「なあんだ――寄宿舎かと思ったら、宿屋だ」
 この繁の言葉がそこに集っている一同を笑わせた。しかし泉太も繁もこの下宿へ移って来たことをめずらしそうにして、離座敷から母屋《おもや》の方へ通う廊下をしきりに往《い》ったり来たりした。
 丁度昼飯時に当っていた。岸本は祖母さん達と一緒に食事をして、いろいろ世話に成った礼を述べて一同と別れた。この下宿へは岸本は最近に台湾の方から上京した一人の学生をも伴って来ていた。もう長いこと台湾に暮している民助兄からの紹介で。仮令《たとえ》しばらくの間でもその青年を世話しながら一緒に住むことは、子供を控えた岸本に取って何より心強かった。最早彼は泉太や繁に取っての父親であるばかりでなく、同時に母親であった。この生活の方法は可成《かなり》な時と注意と力とを子供のために割《さ》き与えねば成らなかったとは言え、大いに彼の心を安んじさせた。何となく彼は隣の家を出て、自分の家へ移って来たような思いをした。

        八十六

「叔父さんはわたしの失望して通りすぎた道をこれから歩もうとしていらっしゃる。叔父さんはわたしと違って、きっと成功者ですよ――なんにも失望することが無いんですもの。この間お話をうかがって、育児などということに興味をもって来たと仰《おっしゃ》った時、一寸《ちょっと》不思議のように思われましたが、それはやがて男と女の相違であるかも知れません。わたしは母と名のついた時からでございます、自分の失われたものの為に願ったこと、それからわたしが求めても求めても得られなかったものを他の子供にと思い立ちました。それは子供の真の要求であろうと思ったからでございます。わたしの力は小そうございます。けれども心ばかりは決して人に劣らないつもりでございました。しかし全然考えを異にした一家族でございますもの、どんなに力を尽しましても、同じ軌道に立つことは出来ませんでした。一二箇月もかかって漸《ようや》く築きたてたばかりの根拠も直《す》ぐ破られてしまいますもの。子供をほんとうに一個の人として考えもし、取扱ってもやることが、自己を重んじさせることであろうというような考え方と、大人を全能の神のように思わせようとして催眠術をかけて置きたいという考え方と、両立しよう筈《はず》がございません。そしてその催眠術を廃するには、わたしはあまりに根深く所謂《いわゆる》罪人でございましたのね。それにもう一つは、叔父さんからお預りした幼い人達なり、自分の弟なりで、真実の親子でなければ通じないようなところが無いでもございませんでした。これは自分のものだから、他《ひと》のだから、などというそんな考えからでなく、どうすることも出来ないものだろうかとも思います。――今の叔父さんは随分お骨の折れることと思います。けれども、それは一歩《ひとあし》ごとにお互いの心が近づいて行くことなのでございますから、子供の上にもしばらくの動揺はありましょうとも、きっと心からの感謝と信頼の情とをもって、向日葵《ひまわり》の花のように光のなかにあゆむことが出来ると堅く信じます。そう云うものを持つことの出来る方を御羨《おうらや》ましくも思います……」
 節子はこういう手紙を愛宕下の宿|宛《あて》に送ってよこした。彼女は自己《おのれ》の失敗を語ることによって、男の手一つに子供を育てて行こうとする岸本を慰めてよこした。
 岸本がこの手紙を受取ったのはもう大分下宿に沈着《おちつ》いた頃であった。何故彼が好んでこんな生活を始めたか、その深い事情は節子一人より他に知るものが無かった。幾度《いくたび》となく彼は義雄兄の前に、この下宿まで辿《たど》り着いた自分の道筋を――節子と自分との一切の関係を打明けようと思い立たないでは無かった。
「お前達は叔父と姪《めい》ではないか。お前達の為《す》ることは結局不徳の継続ではないか」
 兄の答えを想像するとこの言葉に尽きていた。そう思う度に岸本は嘆息して、持前の沈黙に帰って行った。

        八十七

 愛宕下の下宿には何一つ岸本が巴里《パリ》の下宿生活を偲《しの》ばせるような似よりのものは無かった。プラタアヌの並木の映る窓のかわりに、ここには庭の青い松葉なぞの見える障子がある。モン・パルナッス通いの電車の音や大きな荷馬車の音やその他石造の街路から窓の硝子《ガラス》に伝わって来る恐ろしい町の響のかわりに、ここには町中と言っても静かな母屋《おもや》の二階と階下《した》とから庭をへだてて聞える客の話声や煙草盆の音がある。「お支度《したく》が出来ました」と言っては食事の時|毎《ごと》に部屋の扉《と》を叩《たた》きに来る仏蘭西《フランス》の家婢《かひ》のかわりに、ここには御膳《おぜん》や飯櫃《おはち》を持って母屋の台所の方から通って来る女中がある。寝台や蝋燭台《ろうそくだい》から洗面器まで置いてある部屋の片隅《かたすみ》の壁の上に掛ったソクラテスの最後の図なぞのかわりに、ここには長押《なげし》の上の模様のような古い扇面を貼《は》りまぜた横長い額がある。すべてが懸絶《かけはな》れていた。それにも関《かかわ》らず、岸本は巴里の下宿生活の記憶をここへ来て喚起《よびおこ》そうとした。あの異郷の旅窓で独《ひと》り学芸に親しんだように、今またこの離座敷《はなれ》の障子の側に机を寄せて帰国以後とかく仕事も手に着かなかった一年の月日を取返そうとした。秋までに彼は旅行記の稿を継ごうとする心があった。そのために専心机に対《むか》おうとすることから言っても節子を通してちょいちょい聞えて来る義雄兄の嫌味《いやみ》を避けようとすることから言っても、彼はしばらく節子から離れていようと考えるように成った。
 下宿へ移って一月あまり経《た》つ頃に、節子は暑さの見舞をかねて例の鉛筆で走り書に書いた手紙を送ってよこした。先日伺った時も、お髭《ひげ》の延びたせいばかりでなく、何だかお痩《や》せに成ったようで、自分は大変済まないことをしているような気がする、何から何まで御一人に御心配をかけて、と書いてよこした。自分もこの前伺った二三日前から少し弱っていたので、昨日は父の御供をして病院から帰りかける途中で歩かれなくなってしまった、尤《もっと》も無理に押して出掛けたことではあったが、半分夢中で谷中の家に帰り着くことが出来たと書いてよこした。こんな場合につけても叔父さんのことを思い出す、自分が我儘《わがまま》の言えるのは叔父さんと共にある時ばかりだと書いてよこした。自分の今の境遇も辛《つら》いと書いてよこした。そういえば今夜は七夕《たなばた》だ、去年の今頃はどんなに旅から帰る叔父さんを待受けたろう、いくら自分ばかり織女を気取ってもその頃の叔父さんは未だ牽牛《けんぎゅう》では無かったなぞとも書いてよこした。すこし身体の具合が悪くなったからもう止《や》める、これを受取ってくれる頃は、あるいは丁度去年あの漸くお目に掛って、うれしいとも悲しいとも名のつけようの無い心持を味《あじわ》っていた頃かも知れないと書いてよこした。
 こういう節子の手紙は、折角離れていようと思う岸本の心を彼女の方へと巻き込まずには置かなかった。どうかすると、その手紙の中には、「織女を恐《こわが》っている牽牛なんて有りませんね」などとした初心《うぶ》な調子で書いたところも有った。その節子の初心なところが彼女の若いことを証拠立てていて、反《かえ》っていじらしく岸本の心に絡《まと》いついた。
 下宿に移ってからの岸本は、子供の身の辺《まわり》の世話から言っても、女の手を煩《わずら》わしたいと思うことが多かった。その意味から言っても高輪の方に暮した時と同じように土曜日|毎《ごと》に来る節子が彼に取っては可成《かなり》の手伝いに成った。しかし彼は暑中の間、節子に通って来て貰《もら》う度数を減そうとした。月に二度しか彼女を見ないことにした。どうかして彼はもっと自分の精神《こころ》の動揺が沈まるのを待とうとした。

        八十八

 岸本は節子に珠数《ずず》を贈った。幾つかの透明な硝子の珠《たま》をつなぎ合せて、青い清楚《せいそ》な細紐《ほそひも》に貫通《とお》したもので、女の持つ物に適《ふさ》わしく出来ていた。彼が移り住んだ下宿の界隈《かいわい》は増上寺を中心にした古い寺町で、そういうものを容易《たやす》く手に入れられるような位置にもあった。価も安く求められたのであった。
 この簡素な、しかし心を籠《こ》めた贈物はひどく節子を悦《よろこ》ばせた。彼女がそれを納めて帰ったのは七月の半ば頃に愛宕下へ訪《たず》ねて来た時で、丁度岸本もしばらく彼女から離れているくらいにして旅行記の稿を継ごうとしていた頃であった。後でよこした彼女の手紙の中には、大変好い物を貰った、谷中へ帰ってからも幾度となくそっと掛けて見たということが書いてあった。いずれ自分も男持に出来たのを探して、この返礼としたいとも書いてあった。岸本はその節子を谷中の家の二階の三畳に置いて想像するのを楽みに思った。覚束《おぼつか》ないながらも宗教へと辿《たど》り行こうとしている彼女の手箱の中に、自分の贈った熱い思慕のしるしを置いて考えるのも楽みに思った。
 その時の節子の手紙は珠数の礼ばかりではなかった。彼女は岸本の苛々《いらいら》とした沈黙を彼女自身に対する何かの不満という風に釈《と》って書いてよこした。年齢の相違、智識の相違――そういうものから来る叔父さんの不満は自分にもよく分るということがその手紙の中に書いてあり、気のつかないうちに自分は何時《いつ》の間にか堅くなっていたのかも知れない、言うことがあるなら何事も遠慮なく言ってくれということなども書いてあった。
「節ちゃんは何を釈り違えて行ったんだろう。自分はそんなつもりでいるんじゃ無い」
 と彼は言って見たが、こういう狭い女の胸から出て来るような言葉が、不思議とまた彼女の方へ岸本の心を巻き込む力を持っていた。彼はそう思って嘆息した。学問や芸術と男女の愛とは何故こう両立し難いのだろうと。そういう時の彼の胸にはよく「愛と智慧《ちえ》とに満ちたアッソシエ」の言葉が浮んで来る。「アッソシエ」とは生涯の伴侶《はんりょ》という意味に当る。そこまで行くということは容易でないまでも、すくなくも彼が節子と共に辿り着きたいと願うところは、多分に「友情」の混った男女の間柄であった。二人が愛情の生《お》い立ちから言っても、これから将来のことを考えても、彼の心は抑《おさ》えに抑えたものであらねば成らなかった。
 しかし、岸本の眼にある節子は最早《もはや》以前の節子ではなかった。長いこと寂しかった彼の生涯に一輪の花をつけたような節子は最早映像としても全く別の人であった。驚くばかり彼女の身体に延びて来た線、悩ましいまでに柔かく女らしい彼女の表情――彼はそれらの眼にあるものを払いのけて自分の机に対《むか》っていることが出来ないばかりでなく、「淋《さび》しくて淋しくてお写真を抱いて呼んでいましたのよ」というような彼女の声を払いのけることも出来なかった。自分から節子のために珠数を見立てて贈ったほどの岸本は、この断ちがたい愛着をどうすることも出来なかった。彼はあの深い雪の中に坐ってまでも「自然」を超えようとした人の努力などを想像して見て、それによって自分を励まそうとした。国に帰ってからの二度目の大暑が復《ま》たやって来て見ると、熱のために蒸されるものは庭先の草木ばかりでは無かった。彼は烈《はげ》しい恋の情に燃えて一週間ばかり仕事も手につかなかった。

        八十九

 節子は弟を連れて七月の末に岸本の下宿へ訪ねて来た。丁度学校の暑中休暇が始まった頃で、その季節に一郎を迎えることは泉太や繁に取っても嬉しそうであった。同宿の青年が台湾の方へ帰省したことはややその夏を淋しくしたが、それでも子供等に取っては一年の中の最も楽しい時であった。
 子供等は離座敷《はなれ》の縁先に集まって、節子|姉弟《きょうだい》が一鉢《ひとはち》ずつ提《さ》げて来てくれた朝顔を見ていた。岸本もその花のすがたを見に行って、それから部屋の方へ二人の子供を呼んだ。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、お出で。今日は一ちゃんが来たから、お前達も着物を着更《きか》えましょう」
 岸本はこんなことを言って子供の世話をするのに大分もう慣れて来た。二つ違いの兄弟とは言っても泉太と繁とは殆《ほとん》ど同じ丈《たけ》の着物で間に合った。二人の子供は父がそこへ取出したのを附紐《つけひも》のしるしで見分けて、思い思いに着た。節子はまたその側へ寄って、子供等の脱ぎ捨てたものを畳んだり、部屋の隅《すみ》に片附けたりした。
「節ちゃん、お前も着更えないかね」
 と岸本は言って見た。
 この下宿へ移ってから、岸本は節子のために一枚の着更《きがえ》を用意して置いた。彼女が谷中から通って来る途中の暑さを思う心から、特に女の身体に合うように仕立てさせて置いたものであった。その涼しそうな単衣《ひとえ》に着更えて岸本と共に時を送って行くことを彼女は何よりの楽しみにしていた。
 その日は節子は躊躇《ちゅうちょ》した。それを岸本も看《み》て取って、
「それもそうだね。今日は一ちゃんと一緒だね」
 と言い直した。
 節子は風呂敷包を持って岸本の居間の方へ来た。彼女は膝《ひざ》の上でその風呂敷包を解いて、岸本から贈った珠数の返礼を取出して見せた。
「好いのがありましたよ」
 と言いながら節子が岸本の前に置いたのは、紐の色からして茶色に、さも男の持つ珠数らしく出来ていた。彼の方から贈ったものに比べると、珠《たま》のかたちも大きく、色も黒かった。
 子供等は何事《なんに》も知らなかった。唯三人の揚げる声が庭にある無花果《いちじく》の樹の下あたりから楽しそうに聞えて来ていた。岸本は節子が人知れず苦心してそういうものを見つけて来てくれたその心づかいを先《ま》ず嬉しく思った。
「どうだろう、俺に似合うだろうか」
 と岸本は笑いながら節子に言って見せた。掌《てのひら》の上に載せて見た珠と珠の触れる音すら、何となく彼の耳に快かった。
 やがて岸本が節子の贈物を首に掛けた時は、自分ながら妙に改まった心持に成った。髪のある僧侶として自分を考えるには、彼の胸に躍《おど》る血潮はあまりに生々《なまなま》しく、彼の歩いて来た道はあまりに罪が深かった。こうした珠数でも胸の上に懸《か》けて幻の栖所《すみか》のように今の生活を思うような心と、夜も寐《ね》られぬほど血の涌《わ》くような心とが、彼には殆ど同時にあった。

        九十

 離座敷《はなれ》から母屋《おもや》の方へ通う廊下つづきには庭の見透《みとお》しの好いところがあった。しばらく子供等はその涼しい風の来るところに集まって遊んでいたが、やがて三人とも揃《そろ》って愛宕山の方へ出掛けて行った。庭にある大きな青桐《あおぎり》の方から聞えて来る蝉《せみ》の鳴声は、遽《にわか》に子供の部屋をひっそりとさせた。
 岸本は泉太の机の上を片付けて、そこへ節子を誘った。その机の上に自分で書溜《かきた》めて置いたものを載せて見せた。彼が節子に読んで見て貰おうと思ったのは手紙がわりに彼女に宛てて自分の胸に浮んで来たことを順序もなく書きつけたものだ。いそがしいのにこんなことを書いて僅《わずか》に自ら慰めるとか、滝のように汗を流して働いた後で復《ま》た書きつけるとか、そんな言葉を添えたものもある。一枚の紙に書いたのもある。僅な紙の片《きれ》の端に書いたのもある。それを集めて節子の前に置いて見ると可成な嵩《かさ》があった。どうかすると自分ながら驚くばかり放肆《ほしいまま》な想像――そういうものが抑えに抑えようとしている精神《こころ》の力を破って紙の上に迸《ほとばし》って出て来ていた。その中には子供を海水浴へ連れて行こうと思う序《ついで》に、節子のためにも町へ出て女の水着を見立てに行ったことや、一緒に潮水に浸る楽みを想像したことや、海の荒れていることを聞いて折角節子を驚かすつもりでひそかに立てて置いた計画も見合せたことを書きつけたところも有った。子供と一緒に近くにある禅宗の寺院《おてら》を訪ねた時、幽寂《しずか》な庭に添うた廻廊で節子を思い出したことを書きつけたところもあった。その中にはまた、過ぐる冬の磯部の旅以来の自分の心の戦いから、節子に知って置いて貰いたいと思う種々様々な心の消息を書きつけたところもあった。
 節子は黙って身動きもせずに読み耽《ふけ》っていた。あだかも彼女の神経のすべてが紙の上に吸われて行ったかのように。時とすると岸本は彼女の背後《うしろ》に立って、長い生《は》えさがりの毛や、女らしい特色のある耳などの眼につく彼女の横顔を眺めながら、自分の読ませたいと思うもののどの部分が彼女に読まれているかを覗《のぞ》きに行った。
「いそがしいいそがしいと思いながら矢張お前へ宛てて書きたい。いそがしいいそがしいと思いながら矢張お前のことを思い続ける。自分は我慢して月に二度しかお前を見ないことにしたが、今ではそれを後悔している。お前を見ない二週間は全く待遠しい。昨夜《ゆうべ》は非常に暑苦しかった。おちおち眠られないほどお前を思いつづけた。あの高輪の縁側で、萩の葉の暗い庭に向ったところで、二人あることを楽みながら夜遅くまで互に蚊に喰《く》われて起きていた短夜《みじかよ》の空が、復《ま》た自分を憂鬱《ゆううつ》にする。こうした夏の夜はお前を待つ心で満たされる。自分はもう一晩でもお前を思わずには眠られない……一昨日《おととい》の晩はお前が二度目の母になった夢を見て、お前のお父《とっ》さんから乱打されたと思ったら眼が覚《さ》めた。悲痛な夢の涙の残りがお前の縫って贈ってくれた天鵞絨《びろうど》の枕《まくら》を濡《ぬ》らした……」
 こうしたことを書きつけたところも有った。
「どうだね、すっかり読んで見たかね」
 と言いながら彼が節子の背後《うしろ》に立って見た時は、節子は眼に一ぱい涙をためて仰ぐように彼女の顔を向けた。彼は節子の涙が歓びの涙であるのを知った。その涙が彼女の成熟した頬《ほお》を伝って流れるのを見た。
 その日の午後に、岸本は節子の前に行って立って見た。彼は節子の今の境遇を思いやる心から、彼女に訊《き》いて見た。
「節ちゃん、お前は一人でそうしていて、ほんとに寂しかないのかい」
「一人じゃ無いじゃありませんか――二人じゃ有りませんか」
 この節子の答えは岸本の耳に深く響いた。その時、彼は黒い珠数の掛った自分の胸に思わず彼女を押当てた。
「ああ――可愛い」
 深い溜息《ためいき》でも吐《つ》くように、しかも極《きわ》めて熱心に彼はそれを言った。

        九十一

 二鉢の朝顔を残して置いて節子姉弟はその日の夕方に谷中へ帰って行った。翌朝も、翌々朝も、節子の置いて行った朝顔が岸本の部屋の縁先で咲いた。
「私ね、嬉しくて嬉しくて仕方がないの。だって――」
 こんな隔ての無い調子で書き出してある節子の手紙が八月の初に岸本の手に届いた。彼女は家へ帰ってから書きかけて置いたものだと言って、短い、しかし心を籠《こ》めた便《たよ》りを送ってよこした。先日伺った日の前の晩は自分も何度となく眼をさましてよく眠られなかったと書いてよこした。一週間|経《た》って、もう一週間と思うとがっかりしてしまう、一週間でも随分長い思いがすると書いてよこした。彼女は早くその手紙を出すことの出来なかった身の辺《まわり》の種々《いろいろ》な消息を書いた末に「早くお目に掛りとうございます」ともしてよこした。到頭岸本は八月の半ば過ぎ頃までに纏《まと》めたいと思った旅行記の続稿を予定の三分一も書くことが出来なかった。「年を取れば取ったで複雑な恋愛の境地があろうとは僕も考える――しかし、恋なんてことは、もう二度と僕には来そうもない」とは曾《かつ》て彼が異郷の徒然《つれづれ》を慰めようとして画家の岡なぞに語った述懐であった。実際そう思って歩いて来たこの世の旅の途中に、仕事もろくに手につかず夜もろくに眠られないような恐ろしい情熱が彼を待受けようとは。彼は自分の内部《なか》から押出して来たこのパッションの激浪をどうなりともして衝《つ》き切らねば成らないような心をもって、その夏の「峠」を越した。
 涼しい雨がやって来て離座敷《はなれ》の縁先を濡《ぬら》すような日もあった。雨はよく深い廂《ひさし》の下まで降り込んだ。母屋《おもや》へ通う廊下のところなぞは上草履《うわぞうり》でも穿《は》かなければ歩かれなかった。そういう日には特に下宿住居の心持や、乾燥した巴里《パリ》の方の町の空でこの雨の恋しかったことなどが岸本の胸に浮んで来て、静かに自己を省みる心に返らせた。彼は到底このままの節子との関係を長く持ち続けて行くことの出来ないのを思った。もっと二人の出発点に遡《さかのぼ》って、根本から考え直して見ねば成らない時が来たように思った。何故というに、彼が節子と二人で出て来たところは、本当に彼女と一緒に成ることも出来なければ、そうかと言って彼女から離れていることも出来ないような位置にあったからで。節子を愛すれば愛するほど彼はその感じを深くした。彼女と一緒に成るようなことは到底彼女には望めないことであった。そんなら全く互に孤独を厳守して精神上の友であるのに甘んずることが出来るかというに、それも彼の情熱が許さなかった。どうかすると彼は、少しでも好い方へ節子を導きつつあるのか、それとも二人して堕落の路を踏みつつあるのか、その差別も言えないように自分で自分を疑うことすらあった。彼は節子に対する哀憐《あわれみ》を自分の行けるところまで持って行こうとして、兄に隠し、嫂《あによめ》に隠し、祖母さんに隠し、久米に隠し、自分の子供にまで隠し、まるで谷底を潜《くぐ》る音のしない水のように忍び足に歩き続けて来た。この二人の路の行《ゆ》き塞《つま》ることは見|易《やす》い道理であったかも知れない。

        九十二

 最早《もはや》岸本は今までのように窮屈な、遠慮勝ちな、気兼ねに気兼ねをして人を憚《はばか》りつづけて来たような囚《とら》われの身から離れて、もっと広い自由な世界へ行かずにはいられないようなところまで動いた。
 四年の間自己の秘密を隠しに隠そうとした岸本の心にも、漸《ようや》くその時に成ってある転機が萌《きざ》して来た。暗い暗い心を抱《いだ》いて遠く流浪の旅に上った日以来、いくらかでも彼が明るいところへ出て来たと思ったことは、二度あった。一度は、異郷の旅を行き尽して再び故国へと彼の心の向うように成った時だ。彼は赤い着物でも脱ぎ捨てるようにして、あの着古した旅の服を巴里《パリ》の客舎に脱ぎ捨てて来た。当時の彼の心では、どうやら自分の一生の失敗も葬り得られたつもりであった。国に帰ることは、彼には赦《ゆる》されることであった。五十五日の船旅の後で、彼は夢寐《むび》にも忘れることの出来ない土を踏んだ。そうして自分の子供の側まで帰って来て見ると、未だ未だ彼は眼に見えない牢屋《ろうや》の中に自分を見つけた。彼は不幸な犠牲者が自分と同じ牢屋の中にあるのを発見した。彼が笑ったことの無い節子の心からの笑顔を見た日は、すくなくも明るいところへ出て来たと思った二度目の時であった。けれども彼の言うこと為《な》すこと考えることは過去の行為に束縛せられて、何時《いつ》でも最後には暗い秘密に行って衝《つ》き当った。彼は過去の罪過を償おうが為に苦しんでも、自分の虚偽を取除こうが為には今まで何事も努めなかったことに気がついた。暗い秘密を隠そう隠そうとしたことは自分のためばかりでなく、一つは節子のためであると考えたのも、それは互に心を許さない以前に言えることであって、今となっては反《かえ》ってそれを隠さないことが彼女のためにも真《まこと》の進路を開き与えることだと考えるように成った。
「一切を皆の前に白状したら」
 岸本は今まで聞いたことの無い声を自分の耳の底で聞きつけた。もし嘘《うそ》でかためた自分の生活を根から覆《くつがえ》し、暗いところにある自分の苦しい心を明るみへ持出して、好い事も悪い事も何もかも公衆の前に白状して、これが自分だ、捨吉だ、と言うことが出来たなら。
 そこまで考え続けて行った時、岸本はこの心の声を打消したいように思った。
「嘘でかためたにしろ、何にしろ、あれほど義雄さんに強《し》いるようにして頼んで置いて、今更そんなことが出来るものだろうか」
 そう思うと彼は躊躇《ちゅうちょ》しない訳にいかなかった。自己の破壊にも等しい懺悔《ざんげ》――彼は懺悔という言葉の意味が果してこういう場合に宛嵌《あては》まるかどうかとは思ったが――その結果が自分に及ぼす影響の恐ろしさを思うと、猶更《なおさら》躊躇しない訳にいかなかった。それの出来る時が、眼に見えない牢屋から本当に出られる時だろう、心から青空の見られるような気のする時だろう、待ち受けた夜明けの来る時だろう、そうは思っても、そこまで行くだけの精神《こころ》の勇気を起そうとするだけでも容易では無かった。

        九十三

 未だ岸本は一切をそこへ曝《さら》け出してしまう程の決心もつきかねていたが、自分の苦しい出発点に遡って根本から考え直して掛ろうとするには、どうしてもその心の声を否《いな》むことが出来なかった。それをするには、いろいろな人が懺悔を書いた例に倣《なら》って、自分も愚しい著作の形でそれを世間に公《おおやけ》にしようと考えるように成った。「あの事」を書いたら。そんなことは以前の彼には考えられもしなかったのみか、なるべく「あの事」には触れまいとして節子から来た手紙は焼捨てるとか引裂いて捨てるとかした以前の彼の眼から見たら、まるで狂気の沙汰《さた》であった。こんなところへ岸本を導いたものは節子に対する深い愛情だ。
 懺悔へ。岸本はどうしてこんな心に成れたろうと時々自分ながらびっくりすることも有った。彼の心がその方に向おうとしただけでも、何となく彼の歩いて行く路《みち》には新しい未来が感じられて来た。種々な事が先の方に起って来そうにも思われた。その先の方には今々《いまいま》どうすることも出来ないでいるものの本当の意味の解決が求められそうにも思われた。長いこと附纏《つきまと》われた暗い秘密を捨てようとする心は、未だそれを捨てもしてない前から、既にもうこうした翹望《ぎょうぼう》を起させた。その翹望は、悲しい暗い過去にばかりとかく拘泥《こだわ》り勝ちであった岸本の心を駆って、おのずと先の方に向わせるように成った。もし懺悔を書く日が来たら。それを想うと彼はもっとよく自分の心に聞いて見なければ成らなかった。
 今まで射《さ》したことの無い光がこんな風に岸本の精神《こころ》の内部《なか》へ射して来たばかりでなく、帰国の日以来とかく疲労し易《やす》かった彼の身体までが漸くその頃に成って回復の時に向って来た。寒暑、乾湿、風雨、霜雪、日光の度を異にした遠い異郷の方から帰って来て、本当に自分の身体に成れたと思うまでには彼は一年の余も要《かか》った。
 新しい秋の空気は既に部屋の内まで通って来ていた。彼は漸く故国に帰り着くことが出来たかのような心でもって、葉と葉の奥に日の映《あた》った庭の見える縁先へ行った。熱い、寂しい感じのする百日紅《さるすべり》の花なぞもさかりに咲く時であった。その花の色までが妙に彼の眼にしみた。そして自分の国の方のものらしい親しみを感じさせた。

        九十四

 九月の三日は節子に取って忘れられない日であった。彼女は自分の子供のために毎年その誕生日を記念することを忘れなかった。
「復《ま》た風引いて四日ばかり休んでおります。明日はお目にかかれませんが、明後日《あさって》はきっとお伺いします。九月の三日ですものね。無理にもあがれないことはありませんけれど、一日だけ我慢しましょうね。では明後日ね」
 こうした手紙が月のはじめに節子から届いた。最早《もはや》彼女はこれ程心易い調子で岸本に宛《あ》てて書くように成った。
「では明後日《あさって》ね」
 と岸本は繰返して見て、まるで吃者《どもり》のようにしか物の言えなかった人が、可哀そうなほど日蔭者の自制と遠慮とに慣らされて来たような人が、どうかして早く自由に思うように話したいと言っていた人が、その自然な調子の出るところまで彼女の唇《くちびる》も解けて来たかと思った。
 約束の日に岸本は節子を迎えた。もし懺悔を書くとしたら、その前に節子だけには話して、彼女の承諾を求めたいと思ったが、何事も未だ彼は話さずに置いた。
 節子は露領の方から近く帰国するという報知《しらせ》のあった姉夫婦の噂《うわさ》なぞをした後で、
「どうしてそんなに人の顔を見ていらっしゃるんです」
 と岸本に訊《き》いた。
 二間続いた離座敷《はなれ》には、同じ部屋の内に書斎もあれば、客間もあれば、茶の間もあった。岸本は湯をたやさずにある火鉢《ひばち》の方へ節子を誘って、自分の好きな熱い茶を彼女に勧め、自分でも飲みながら、本当にその畳の上に親めるような心になった。
「今日はお前が来ると言うんで、久しぶりで髭《ひげ》を剃《そ》って待っていた――髭でも延びてる時はそうは思わないが、これを剃ってサッパリすると、自分ながらそう思うね。こうして独《ひと》りで置くのは惜しいものだと思うね」
 こうした岸本の冗談が節子を笑わせた。
 岸本はその心で節子を見た。何時の間にか彼女の生命《いのち》も、あだかも香気を放つ果実《くだもの》のように熟して来ていた。彼はその見違えるほど生々とした表情を彼女の外貌《がいぼう》のどの部分にも看《み》て取ることが出来た。彼女の濃くなった髪の毛にも、彼女の冴《さ》え冴《ざ》えとした眸《ひとみ》にも。あの帰国当時の義雄兄の言草ではないが、「片輪の一人ぐらい」とまで周囲のものから見られるほど衰え果てた人を、ともかくもそこまで生かすことが出来たその人の知らない骨折を思うと、彼にはいくらか自分で慰めるに足るような気がした。
「それはそうと、吾儕《われわれ》の小さな歴史も始まってから何年に成るだろう」
「今年で六年越しじゃありませんか」
「そうか――もう六年越しかねえ」
 岸本は節子と二人でこんな言葉をかわした。その時、彼は節子に訊いて見た。
「節ちゃん、俺は疾《と》うからお前に訊いて見たいと思っていたんだが――お前の『創作』というのは一体何時頃から始まったんだろう。お前の方が俺《おれ》よりも早いことだけは分ってる」
「いずれ手紙にしてお目に掛けますよ」
 と節子は伏目勝ちに答えた。
 その日は岸本は女の手を煩わしたいと思う細々《こまごま》とした仕事を一日節子に手伝って貰《もら》った。近くの町で彼は眼の悪い義雄兄のために手ごろな杖《つえ》を見立てて買って来て置いた。その杖を持たせて節子を谷中《やなか》の方へ帰した。

        九十五

「先日お話のあったことを書いてお目にかけます。一番最初わたしの上った頃の叔父さんはほんとにこわい方でしたよ。だって、毎日々々あんなに黙って、こわい顔ばかりしていらしったんですもの。それに泉ちゃん達のことと言えば、前に不可《いけない》と仰《おっしゃ》ったことでも、後でしてやればいいじゃないかって、叱《しか》られてしまうんですもの。どうして可《い》いか解りませんでしたよ。ですからね、その頃はただ気遣《きづか》いな、こわい方だったけれども、肩なんか揉《も》んであげるように成ってから、だんだんこわくなくなりましたよ。そればかりでなく、今までわたしなんかもう本当に誰からもやさしくなんてして頂いたことは有りませんでしたから。家でも、根岸でも、学校でもね。わたしの周囲《まわり》にあったものは、そうですね、こう威圧というようなものばかりだったんですもの。ですから今とはとても比べものには成りませんけれど、あの頃でさえ他のどんな人よりやさしくして下さるのが嬉しかったの。今まで男の人なんかは何だか気味悪いようにばかり思って、知ろうともしませんでしたけれども、何だか少しずつ分って来るような気がしましたよ。叔父さんもわたしが最初上った頃から見ると、じりじりと疲れていらしったようでしたね。御心配や何やかやで、よく横に成っていらっしたじゃ有りませんか。わたしはどうかして進《あ》げたいと思っても、どうすることも出来ませんでしたの。それ以前でもこれが進んで行ったらどうなるなどということは考えたこともありませんでしたから、ほんとに一頃《ひところ》は何もかも滅茶苦茶でしたよ。どうかすると叔父さんがにくらしくてにくらしくてね。三日ばかりそんな日の続いたことが有りました。けれど急に種々《いろいろ》なものが、今まで知らなかったものが見えて来ました。それからは一方では憎みながら、一方では矢張《やっぱり》囚われていたんですね。時によると憎みが余計に頭を持上げたり、時にはその反対のこともありました。それからあの母になったことを知った頃からは、両方とも余計に深いものに成って行ったんですね。遠い旅にお出掛になるなんてことをうかがった時は、不思議な位に思いましたよ。その時はもう離れられないものに成っていましたから。まあどうしてそんな心持に成れただろうと思いましてね。あの晩のこと覚えていらしって――ほら、元園町のお友達からお使で、迎えの俥《くるま》の来たことがありましたろう。会があったりして随分遅く一時か二時頃に帰っていらしって、好い事があるから話して聞かせるなんて仰って、わたしがまいりましたら、可哀そうな娘だなあッて、堅く抱きしめて大きな溜息《ためいき》していらしったの。わたしも何だかよく分らなかったんですけれど、悲しくなって泣いちまいましたの。今でもあの晩のことを時々思い出しますよ。あの次の日かに旅のお話がありましたっけね。彼地《あちら》へお立ちになる頃は、憎みも余程少くはなっていましたが、未だそれでも残っておりました。神戸をさして行っておしまいになってからは、それが皆思いやりというようなものに変ってしまいましたのよ。そして長い間にだんだん叔父さんに見つけたものばかりが、他の人の持っていないものだと思うようなものばかりが残りましたのよ。それからはもうほんとうに好きになってしまいましたの。
 ――まだ書かなくちゃ成りませんけれど、お父さんがいつも直《す》ぐそこの御座敷にばかりいらっしゃるんですもの。気が気じゃありません。次郎ちゃんも来て、悪戯《いたずら》ばかりして書けませんから、復《また》この次にね」
 節子は初めてこんな精《くわ》しい消息を泄《も》らしてよこした。これを読むと岸本の胸にはいろいろ思い当ることばかりであった。節子の所謂《いわゆる》「創作」がこんなに早く彼女の上に起って来たことは、幸か、不幸かは、岸本にも言えなかったが、すくなくも彼女が女の一生のうちの最も柔かく最も感じ易い時代を自分と共に過して来たことは今日までの二人の小さな歴史でよく想像することが出来た。
 岸本の眼にある節子は、未《ま》だ落ちつくところに落ちついていなかった。彼女がこころざしていることを知るものは岸本一人の外に無かった。彼女の青春も既に過ぎ去ろうとしている。そしてその責《せめ》は全く彼にある。彼は何物を犠牲にしても、この人のために真《まこと》の進路を開き与えないのは嘘だと思った。

        九十六

 眼前にある平和な光景は寧《むし》ろ岸本の心を引留めることばかりであった。二人の子供は最早すっかり今の生活に慣れて、父と共に楽しい日を送りつつある。
「泉ちゃん、じゃんけんしようよ――」
 などと言って兄と共に遊ぼうとする繁には母の記憶が無いばかりでなく、兄の泉太ですら亡《な》くなった母さんをよく覚えていないと言う程で、二人の子供は唯々《ただただ》父を便《たよ》りにし、父と共に住むことを何よりの幸福としている。
「じゃん、けん、ぽん」
「ぱあと出て」
「ぱあと出て」
「ぐっと出て」
「ぱあと出て」
「ちょっきはどうだい」
 こんな二人の子供の遊び声がよく廊下のところで起って、少年時代の昔へと岸本の心を誘うのであった。
 この子供の許《もと》へ毎週に一度は節子が通って来て、彼等のために着物や袴《はかま》の綻《ほころ》びを縫《ぬ》ったり、父の手で出来ない世話をしたりしてくれる。子供もまた谷中の方まで二人でよく遊びに行くように成って、祖母《おばあ》さんや、伯父《おじ》さんや、伯母《おば》さんや、それから一郎と次郎とを見ることを楽みにしている。岸本さえ今まで通りにしていれば、何もこの子供等の幼い心を曇らせずに済む。そればかりではない。岸本の動き方一つではその影響は彼の身に近い一切の人に及んで行きそうに見えた。そしてその影響からもう一度彼の方に返って来るものは、実に自分の心に辛《つら》いものばかりのように見えた。
 最近に、岸本はある雑誌を受取った。その中に細君を失って再婚したある宗教家のことが出ていた。その再婚した宗教家と、独身の岸本との比較が出ていた。岸本は一度もその宗教家には逢《あ》って見たことも無かったが、その人の失った細君は昔彼が教えたことのある生徒であった。亡くなった友人の青木のことなどと一緒によく彼の記憶に上る勝子とは同姓で、たしか同郷で、同じ麹町《こうじまち》の学校に生徒として来ていた人であった。そんな関係から万更知らない人のことでも無いような気がしてその雑誌を読んで見ると、亡くなった細君の身としたら再婚する宗教家よりも、下宿に子供を養っている岸本の方がどんなにか頼もしいという意味のことが書いてあった。定めし岸本の細君は草葉の蔭で自分の夫に感謝しているだろうという意味のことも書いてあった。思わず岸本は独りで顔を紅《あか》めた。自分の現在の位置の偽りであることは、そんな雑誌を読んで見るにつけても、寧《むし》ろ人知れず彼の心を引留めるようにした。
 岸本は迷いに迷った。そればかりのことに現在の生活を更《あらた》められないのかという声と、そればかりのことに現在の平和を破壊するのかという声と、その二つの声が彼の心の内部《なか》で戦った。こうした心持が続いているところへ、かねて帰国の噂のあった節子の姉がいよいよ夫と共に引揚げて来ることを岸本は露領の方からの便りで知った。輝子夫婦は二人ある子供を連れて十月に入ってから東京に着いた。

        九十七

 幾年|振《ぶり》かで輝子夫婦が叔父に逢いに来ようという日には、谷中の義雄の方からも一緒に岸本の宿に集まろうという前触《まえぶれ》があった。義雄は節子を連れて輝子達より一歩《ひとあし》先に愛宕下へ来た。
 輝子の夫――岸本から言えば義理ある甥《おい》にあたる中根は曾て露都に遊学したこともある人で、もう長いこと露西亜《ロシア》の生活に浸って来た少壮な官吏であった。岸本が仏蘭西《フランス》の旅を終って、アーヴルの港を辞し去ろうとした当時、南|阿弗利加《アフリカ》を廻って国の方へ帰って行く船旅を択《えら》ぼうか、それとも英吉利《イギリス》から北海を越え北|欧羅巴《ヨーロッパ》の方を廻って西伯利亜《シベリア》経由で帰って行く汽車旅を択ぼうかとさんざん思い迷ったことがあったが、その後者の方を択ぼうとした旅の心の中には遠く露領の果に中根夫婦を訪《たず》ね、ある人が「小鳥の巣」に譬《たと》えた楽しげな家庭を見、サモワアルで温めた露西亜の茶でも馳走《ちそう》になって、旅の疲れを忘れて行きたいと思う楽みがあったからで。岸本はそんな旅の心持を胸に浮べながら、二人の子供を引連れて来た輝子を迎えた。
「泉ちゃんも、繁ちゃんも、大きくなりましたね」
 輝子は先《ま》ずそれを言って、浦潮《ウラジオ》仕込の旅の服を着た自分の子供を離座敷《はなれ》の片隅《かたすみ》に立たせ、年少《としした》の女の児の冠《かぶ》っていた赤い帽子なぞを脱がせてやった。「浦潮の姉さん」と言えば、以前の高輪の家の方へお産のために帰国したこともあるので、泉太や繁に取ってもこの再会は一層嬉しげであった。岸本の子供等は露領の方から来た幼い人達の側に集まって、その服装を見るさえめずらしそうにしていた。
「節ちゃん達の方が先に成りましたね」
 と輝子は姉らしい言葉を節子に掛けて置いて、それから岸本のところへ子供を連れて挨拶《あいさつ》に来た。
「まあ、これで私も安心しました――久しぶりで叔父さんにもお目に掛れて」
 と輝子は浦潮からの旅の空を思い出し顔に言った。
 そのうちに中根も見えた。中根は一番|後《おく》れてやって来て、義雄の居るところで岸本とも一緒に成った。
「叔父さんには私は浅草でお目に掛ったぎりです。私も今度は七年目で日本の土を踏んで見ました」
 この中根の帰朝者らしい調子が岸本の耳には懐《なつ》かしかった。輝子はまた、
「仏蘭西からお帰りの時は、お寄り下さるかと思って、随分お待ち申しました」
 と旅の土産《みやげ》なぞをそこへ取出しながら言った。一つ一つを模様のついた紙にひねった菓子、表紙の意匠からして特色のあるお伽噺《とぎばなし》の本、いずれも露西亜の香《におい》のしないものはなかった。見るもの聞くものは忘れがたい帰国の日のことを岸本の胸に喚起《よびおこ》させた。
「節ちゃん、お前にはお茶番を頼んだぜ」
 と岸本は節子に言って、この珍客を款待《もてな》そうとした。彼はあの独りで悄然《しょうぜん》と高輪《たかなわ》の家の門口に立った時の帰朝者としての自分の姿を眼前《めのまえ》にある中根夫婦に思い比べずにはいられなかった。土産一つ出すにも、彼は「どうぞお貰い下さい」という調子で、兄夫婦や兄の子供の前に差出したものだ。中根夫婦が今、「これを進《あ》げます」と言ったように、泉太や繁に旅の土産を分つのに比べたら、何という相違だろうと思った。

        九十八

 夕飯まで離座敷《はなれ》に集まった親戚《しんせき》のものは、大人も、子供も、互に楽しい時を送った。二人ある輝子の子供のうちで、兄の子供の方は賢《さとし》と言い、妹の方は毬子《まりこ》と言ったが、毬子は賢ほど人見知りをしなかった。その毬子は直《す》ぐ泉太や繁の側へ行って子供らしい遊戯の仲間入をしている。賢は用心深く中根の側にばかり居て、「賢さん、賢さん」と岸本の子供に呼ばれても父親から離れようとはしなかったが、そのうちに飛出して行って繁を相手に相撲《すもう》なぞを取り始める。その光景《ありさま》を眺《なが》めながら中根は露西亜《ロシア》の旅の話に余念が無かった。義雄は部屋の片隅《かたすみ》に節子を呼んで親類|宛《あて》の手紙の代筆なぞをさせていたし、輝子は物書く妹の側へ覗《のぞ》きに行ったり子供等の側へ寄ったりして、叔父の下宿を見るのもめずらしそうに二つ続いた部屋の内を往《い》ったり来たりした。
「浅草の方にあった時計も掛っていますね」
 と輝子は言った。
 岸本の部屋の壁の上には古い柱時計があった。浅草から高輪へ移され、高輪から愛宕下《あたごした》へ移された八角形の時計は未だ振子の音を止めないで、園子の達者であった時代と同じように時を刻んでいた。その変らずにある時計の面《おもて》までが、遠く離れていた親戚の復《ま》た一緒に成れる時の来たことを祝うかのように見えた。
 夕飯には岸本は中根夫婦の帰朝を祝う意《こころ》ばかりに一同へ鳥の肉を振舞うことにした。女中は母屋《おもや》の方から食卓だの、食器だの、焼鍋《やきなべ》だの、火を入れた焜炉《こんろ》だのを順に運んで来た。やがてかしわの肉を盛った大きな皿までがそこへ揃《そろ》った。
「節ちゃん、この肉はお前に頼もう」
 と岸本が節子の前に立って言うと、そこへ輝子も来て、
「じゃ、ここは節ちゃんと私と二人で引受けましょう」
 と言って手伝い始めた。
 節子はすでに焜炉の前に坐っていた。熱くなった鍋に鳥の脂肪《あぶら》の溶けて行く音を聞きつけて、四人の子供は思い思いに食卓の周囲《まわり》に坐ろうとした。
「もう少し待って下さい。出来ると直ぐに呼びますからね」
 と輝子は手を振って子供等を制するようにした。
「節ちゃん、お父《とっ》さんは何処《どこ》にしましょう」と復た輝子が妹の方を見て言った。「お父さんにはお皿につけて進《あ》げる方が好いわねえ。それじゃお父さんにここへ坐って頂いて、それから順に子供に並んで貰《もら》いましょうか」
「この台が少し狭いのねえ」と節子が言った。
「もし台が狭かったら、俺《おれ》だけは別に膳《ぜん》にしても可《い》いぜ」と主人役の岸本は一寸《ちょっと》そこへ差図《さしず》しに行った。
「じゃ。そうして頂きましょうか」と輝子が言った。「節ちゃんと私とがこの角へ坐りましょう。お鍋を一つ台の上に載せましょう。煮ながら頂きましょう」
「叔父さん、もうそろそろ坐って頂いてもようござんすよ」と節子は岸本を見て言った。
 この準備が出来たので、岸本は義雄と中根の居る部屋の方へ行って、
「義雄さん、なんにも有りませんが、どうぞいらしって下さい。さあ中根さんも、どうぞ」
 と言い入れた。

        九十九

 二つの焜炉に掛けた鍋の中の脂肪《あぶら》はふつふつと沸き立った。柔かそうに煮えた葱《ねぎ》や、色の変って来た鳥の肉からはさかんに気《いき》が立って、うまそうな香気《におい》を周囲に蒔《ま》き散らした。
「お父さんは私の側へお坐り下さい」
 と輝子に言われて、義雄は自慢な婿や姉娘の帰国に眼の不自由も忘れているかのように見えた。
「お鍋がすこし遠方ですから、お父さんには取って進《あ》げますよ」と輝子はその場を取做《とりな》すように言った。
「ようし」と言いながら、義雄は眼病以来の癖のように一寸食器を手でさぐって、それを自分の方へ引寄せた。
「さあ、中根さん」と岸本は輝子と差向いに食卓に就《つ》いた中根の方を見て言った。「今日は鳥の御馳走《ごちそう》にしました――外国からお帰りになると、反《かえ》ってこういうものの方が好かろうと思いましてね」
「久し振で皆さんと御一緒に頂きますかナ」と言って洋服のままかしこまる中根の膝《ひざ》も痛そうであった。
 岸本の子供等は父から声の掛るのを待受け顔であった。その側には父親似の眼付をした賢や、赤いリボンを髪にかけてニコニコした毬子が小鳥のように並んだ。
「賢さん、鳥は好き?」と泉太が訊《き》いた。
「好き」と賢が答えた。
「僕もこれが大好きサ」と復《ま》た泉太が言った。
「頂きます」と繁は早や兄よりも先に箸《はし》を執りあげた。
 楽しい食事の音がそこにもここにも起った。食卓の周囲《まわり》に集まる親戚のものは熱い葱を噛《か》み、鳥の肉を噛むのに余念も無かった。
「義雄さんにお替りをして進《あ》げとくれ」と岸本は肉の片を頬張《ほおば》りながら輝子に言った。
「さあ、お替えなすって。ずんずん煮えますから」と輝子は隣の方へ手を出して見せた。
「節ちゃん、お前もお上りよ」こう岸本は節子にも言って、皿にある薄赤い鳥の生肉を順に鍋の方へと移した。取替《とっか》え引替《ひっか》え子供等のお替りで、煮ながら食うものはいそがしかった。
「お節ちゃん、葱を入れないで下さい」
「僕には蒟蒻《こんにゃく》ばかり」
 こんな註文《ちゅうもん》が遠慮なく煮方の方へやって来た。
「中根さん、もっと召上って下さいませんか」
 と岸本に言われても、中根は時々膝の上に箸を休めて、食うことよりも寧《むし》ろこの大人や子供の親しいものが一緒に集まった光景《ありさま》を楽むかのように見えた。
 やがて一同は夕飯を終った。満腹した人達は食卓を離れて、思い思いのところに寛《くつろ》いだ。
「叔父さん、いずれすこし落着きましたら露西亜のお茶でも入れますから、私共へもいらしって頂きましょう」
「サモワアルも今度来る時に持って来ましたよ。あれでお茶を沸かすと、それはおいしいんですよ」
 中根夫婦がかわるがわる話しかける話声も何となく岸本の下宿を賑《にぎや》かにした。
 再会した親戚のもの同志が互の異郷の旅の話は一晩で尽くすべくもなかった。中根夫婦は渋谷の方に見つけた新しい住居《すまい》へ、義雄と節子とは谷中へ、いずれも礼を言って立ちかけるのを岸本は泉太や繁と一緒に玄関まで見送った。兄、義理ある甥、姉妹《きょうだい》の姪《めい》、甥子《おいご》、それから姪子――それらの人達が一団として残して置いて行った空気は、皆帰って行った後に成っても妙に強い力で岸本の心を圧した。つくづく岸本は自分の現状を打破することの難《むずかし》いのを思った。

        百

「父さん――お節ちゃんは僕等の第二の母さん?」
 とある日、泉太が父の側《そば》へ来て訊《き》いた。
 岸本はこの問を出した子供の顔を見まもった。「どうしてお前はそんなことを訊く。誰かにそんなことを言われて来たのかい」
「だって、姉《ねえ》やが僕に訊くんだもの」
 と言って泉太は困ったような顔をした。
「お前達には母さんは一人しか無いじゃないか」
 と岸本は泉太を言いなだめたが、しかしこの子供の訊く「第二の母さん?」は、誰にそんなことを訊かれたよりも強く岸本の胸に徹《こた》えた。
 泉太は最早《もう》この下宿から小学校の一番上の組に通うほどの少年であった。時々岸本は子供の顔を見ているうちに、父の仕事の手伝いとして通って来る節子がいかに泉太等の眼に映り、いかに少年の日の記憶として後まで残るであろうということを考えて、それを自分の幼かった時の記憶に結びつけて思い比べないではなかった。節子が一番心配しているのもこの泉太等のことだ。「泉ちゃん達の大きく成った日のことも考えて見なければ成りませんからねえ」とか、「泉ちゃん達が大きく成ったらどう思うでしょうねえ」とかは、そもそも岸本が節子に心を許した頃に彼女の口から聞いた言葉だ。この子供が大きくなって皆の読むものでも読んで見ようという日に、もし父の書いた愚しい書物なぞを開けて見たとしたら――もしその中に父と節子との関係を読んだとしたら――もし彼等の知らなかった腹違いの弟が一人この世に生きていることを発見したとしたら――それを思うと岸本は誰に隠そうとするよりも先《ま》ず自分の子供に隠さねば成らないような気がして、一切を皆の前に白状するというような行為《おこない》の好いかどうかに迷わずにはいられなかった。
 十月の第二の土曜に、節子は例のように谷中から通って来た。未だ岸本は節子と自分との関係をすっかり明かにしようというようなことを一つの考えとして自分の腹の中に蔵《しま》って置いて、彼女に話すことすら躊躇《ちゅうちょ》しているくらいであった。
「泉ちゃんが妙なことを訊いたぜ――」
 と岸本は話の序《ついで》に、泉太が彼の側へ来て尋ねたことだけを節子に言出した。
「尤《もっと》も、女中にそんなことを言われて、調戯《からか》われて来たらしいんだ」と復《ま》た彼は附けたした。
 さすがの節子もこの話を聞いた時は何時《いつ》になく彼女の顔色を変えた。
「きっとあの女中でしょうよ」
 と節子はそこに居ない人のことをそれとなく言って見て、無邪気な子供にそんな知恵をつけるとは余計なことをしたものだと言わぬばかりに眉《まゆ》をひそめた。
 しかし節子は直ぐに機嫌《きげん》を取り直した。彼女は岸本を見に来た楽しげな表情に返った。せっせと二人で蒔《ま》いたものを漸《ようや》く収穫《とりい》れられる時が来たのか、それほど二人の愛情が熟して来たのか、それともまた節子は多年の無気力から岸本は長い旅の疲労から漸く回復する時に届いたためであるのか、いずれとも言うことは出来なかったが、漸くその時になって初めて彼は荒《すさ》びたパッションから離れ行くことが出来た。深い秋の空気も何となく彼の身にしみて来た。

        百一

[#ここから2字下げ]
"Your hands lie open in the long fresh grass,――
 The finger-points look through like rosy blooms:
 Your eyes smile peace. The pasture gleams and glooms
 'Neath billowing skies that scatter and amass.
 All round our nest, far as the eye can pass,
 Are golden kingcup-fields with silver edge
 Where the cow-parsley skirts the hawthorn-hedge.
 'Tis visible silence, still as the hour-glass.[#底本ではピリオド(.)なし]

 Deep in the sun-searched growths the dragon-fly
 Hangs like a blue thread loosened from the sky:――
 So this wing'd hour is dropt to us from above.
 Oh ! clasp we to our hearts, for deathless dower
 This close companioned inarticulate hour
 When twofold silence was the song of love."

右訳歌
「緑の草の中にしも腕《かひな》を君が擲《な》げやれば
 を指の尖《さき》のほの透《す》きてあからむ花と擬《まが》ふかな、
 さても微笑《ほほゑ》むやさ眼《まみ》や。散りては更に寄せ来《く》なる
 雲の波だつ空の下に照りては陰《かげ》る牧の原。
 二人|巣籠《すごも》るこのほとり眼路《めぢ》のかぎりはおしなべて
 黄金《こがね》の花の毛莨《きんぽうげ》、野末の線《すぢ》は白銀《しろがね》に、
 いぬ芹《ぜり》生《お》ふる山※[#「木+査」、第3水準1-85-84]子《さんざし》の垣根の端《はし》に連なりぬ。
 げに静けさの眼にも見えて、漏刻《ろうごく》の如《ごと》しめやかに。

 日影も忍ぶ草がくれ、蜻蛉《あきつ》はひとりみ空より
 解けにし藍《あゐ》の一すぢの糸かとばかりかゝりたる、
 『時』の翅《つばさ》もさながらに二人の上に休《やす》らひぬ。
 噫《ああ》、うち寄せむ、胸と胸、これや変らぬ珍宝《うづたから》、
 美《うま》し契のこまやかにたとしへもなきこの刻《きざみ》、
 二重《ふたへ》に合へる静けさぞ君と我との愛の歌」
[#ここで字下げ終わり]

 生命《いのち》の家。岸本の胸に浮ぶは曾《かつ》て中野の友人によって訳されたこの歌であった。彼は六畳の部屋の片隅に子供の着物なぞを入れた古い箪笥《たんす》の前に居て、そこに足を投出しながら、しばらく障子の開いたところからうち湿った秋の空を眺めていた。側には節子が針仕事する手を休めて、同じように箪笥に倚《よ》りかかり、同じように白足袋《しろたび》はいた足を延ばし、丁度並んだ男女《ふたり》の順礼のように二人して通り越して来た小さな歴史を思い出し顔であった。
 漸く岸本は自分の情熱の支配者であることが出来た。そのために煩《わずら》わされるということが無くなった。彼は中野の友人が訳した歌のこころを、愛しようとするものと愛されようとするものの合致から流れて来る音楽として想像して見た。深い「生」の舞踏として想像して見た。その舞踏は陶酔そのものとも言いたいほど乱れ狂う「スコッチッシ」のそれではなくて、寧ろ片手は互の指を組み合せ、片手は互の身体を軽く抱き、足並を揃えて極く静かに踊る「タンゴオ」の境地として想像して見た。どうやら彼はその音楽を見つけることの出来るような愛の世界に辿《たど》り着いた。学問や芸術と男女の愛とは果して一致するものだろうかというような疑いに苦しむ必要も漸く無くなって来た。どうかすると節子は彼の見ている前で、帯の間から櫛《くし》なぞを取出して、彼女の額に垂下《たれさが》る髪をときつけたり、束ねた髪のかたちを直したりするほどの親しみを見せる。彼はその濃い光沢《つや》のある髪を見た眼を直ぐ書籍の上に移すことも出来、その女らしいしなやかな表情を側《わき》に置いて自分の仕事を十分に思考することも出来るように成った。
 その日は、節子は実際に宗教生活に入って行く心支度《こころじたく》を始めねば成らないような話をして、彼女の前途の事なぞを語り暮した。節子が谷中をさして帰りかける頃には、もう寒いくらいの秋雨が来た。その翌日に成って彼女は岸本のところへ手紙を寄せて、帰って行く電車の間なぞが丁度雨の降るさかりであったから、ひどく濡《ぬ》れたりしたが、お蔭で大した困難もなく谷中の家に着いたと書いてよこした。それやこれやで手が大変に痛んで、御飯の時にも箸《はし》を持つことが出来ず、左の手に匙《さじ》を持つ始末であったが、油を塗って一晩休んだら今朝は余程好くなったと書いてよこした。彼女は又、身の辺《まわり》の澱《よど》んだ空気のことを書いて、その中に大きな声さえ出すことも出来ないように坐って、いやだいやだと思いながら今の境遇に引かれて行くのは、矢張自分が弱いからだというような嘆息をも書いてよこした。その手紙の奥には、涙ににじんだ左の数行の文字も書いてあった。「先刻《さっき》から何時間ここに坐っておりましょう。もう薄暗くなりました――わたしはもう何物《なんに》も要《い》りません、どうぞ最後の日まで愛させて下さい……」

        百二

 一度岸本の心に転機が萌《きざ》してからは、眼前《めのまえ》にある平和も、かりそめの安逸も、自分に取って体裁の好く都合の好いようなことも、結局それをどうすることも出来なかった。一方に彼を引留めようとするものがあればあるほど、彼が心に聞きつけた声はますますはっきりして来るばかりであった。十一月も末になる頃には、彼は大体の仕事の手筈《てはず》を定めるまでに成った。秋から取り掛っている旅行記の残部をも完成した上で、その他気に掛る仕事を片付けてしまった上で、それから書きにくい懺悔《ざんげ》に着手しようと思い立った。そうした著作は、よし書いて置いたにしたところで、自分の死後にでも発表すべきものではなかろうか――そんな考えが来て復《ま》た彼を引留めようとしないではなかったが。
 前の年に高輪の家の方で迎えたよりももっと寒い初冬がもうそろそろ愛宕下の下宿の庭先へやって来た。北東《きたひがし》に向いて朝のうちしか日の映《あた》らない離座敷《はなれ》は殊《こと》に寒かった。女中の案内なしに廊下の突《とっ》つきの部屋のところへ来て、障子の外から声を掛けるのは節子だ。丁度岸本は自分の思い立ったことを話すつもりで彼女を待受けている時であった。節子の癖で、子供の部屋の方から一寸岸本の居るところを覗《のぞ》くようにして、それからコートの紐《ひも》なぞを解いた。
 岸本の部屋の庭に面したところは全部障子であった。何となく遽《にわ》かに高くなったような板張の天井、残った蠅《はえ》の眼につく壁、いずれも初冬のおとずれを思わせないものは無かったが、殊に部屋の障子がそれを感じさせた。煤《すす》けて暗かったのを白く張替えてからは、急に明るくもなった。岸本はその初冬らしい親しみを増した障子の側で、懺悔を書こうと思うという話を節子に聞かせて、彼女の承諾を求めようとした。その日まで隠しに隠して来た二人の秘密を曝《さら》け出してしまおうということは、岸本の方で思ったほど節子を驚かしもしなかった。のみならず、彼女は例の率直な調子で、岸本の思い立ちに同意をあらわした。
「黙って置きさえすれば、もう知れずに済むことなんですけれど――」と節子は言った。「わたしにお娵《よめ》に来てくれなんて煩《うるさ》いことを言う人も無くなって、却《かえ》って好いかも知れません」
 岸本は節子の顔を眺めたまま、しばらく言葉も無かった。
「お前のように直ぐそういう風に持って行ってしまうから不可《いけない》――俺はそう眼前《めのまえ》のことばかりも考えてはいない」
 と岸本は言って見た。もし彼が旅から帰って来て節子を愛するという心を起さなかったら、あるいはここまで眼がさめるということも無いかも知れなかった。その心から、彼は言葉を継いで、
「俺は自分の子供が大きく成ったら読んで貰うつもりサ。下手《へた》に隠すまいと思って来たね。阿爺《おやじ》はこういう人間だったかと、ほんとうに自分の子供にも知って貰いたいと思って来たね……」

        百三

「お前の家でも、祖母さんはもう行火《あんか》かね」
 と岸本は節子に言いかけて、子供の部屋の方に温めて置いた土製の行火を見に行った。それを自分の部屋まで引いて来て、北向の障子の側に置いた。
「子供が学校から寒がって来るだろうと思って、今日は行火をこしらえといた」
 と岸本は言って見せて、寒い季節を感じ易《やす》い節子の身体をも温めさせた。
「節ちゃん、お前の悪い手を一つ見せとくれ。来年からは、お前の手を直すことも俺《おれ》の仕事の一つにしたいと思ってる」
 と岸本に言われて、節子は長いこと水いじりの出来ない手を行火の蒲団《ふとん》の上に置いて見せた。皮膚を侵す病は最早《もう》彼女の掌《てのひら》全体に渡っていて、神経の鋭くなった指のあたりからはどうかすると血が流れるとのことであった。
「ひどい手をしてるんだね」と岸本が言った。「こんなに悪くなるまで放擲《ほったらか》して置くなんて――まあ、良い医者に診《み》て貰《もら》うんだね」
 節子は自分でも掌を眺《なが》めていたが、やがて蒲団の中へ引込ましてしまった。来年の正月あたりから、病院にでも節子を通わせたいという岸本の話は、ひどく彼女を悦《よろこ》ばせた。それには彼は今までのように一週に一度の手伝いも一切りとし、用事でもある時に通って来て貰うことにして、手の療治を専心に心がけさせたいという話をして彼女を慰めようとした。
 その時節子は何か思い出したように、行火にあたりながら涙ぐんだ。
「よく私は吾家《うち》のお父《とっ》さんにそう言われますよ――愛宕下へ行って帰って来ると、まるで一日二日は腑抜《ふぬ》けのように成ってしまうなんて」
「お前もまた面白くないなんて、寝たりなんかしちゃ不可《いけない》サ」
「なんですか姉さんが帰って来てから、余計にお父さんの調子が違って来ました。私は人間じゃ無いようなことを言われて……」
「何と言われたって可《い》いじゃないか――そんなことを気にしたところで仕方がない。そういう苦い反撥心《はんぱつしん》を捨てるサ」
「…………」
「そこがお前、懺悔《ざんげ》の心じゃないか。何も修道院や尼寺まで行かなくたって、宗教というものは有るものだろう。谷中の家を直《す》ぐに寺院《おてら》だと観《み》る訳には行かないものかね。俺はまあそう思うんだが、反抗したところで無駄だと思ったら、そういう反撥心を捨てて掛るんだね」
「…………」
「お前と俺とは、もうここまで来たものだ。行くところまで行くより外に仕方が無いサ。こんな日蔭者のような調子で、これが遣《や》り切れるものかね。もっと生きて出ることを考えようじゃないか――」
 子供が学校から帰って来てからは二人はもうこんな話をしなかった。節子の快い承諾を得たことは一層岸本の決意を堅めさせることに成った。その日節子が帰った後で、岸本は彼女の残して置いて行った言葉を思い出して見た。
「三年も待っていられたんですもの……何時《いつ》までだって私は待ちましょう……」

        百四

 翌年の三月が来た。いよいよ岸本が思い立った懺悔を書く支度《したく》に移る前に、その時に成っても未《ま》だ残っていた小さな仕事を片付けようとする頃には、彼の周囲にあるものも種々《いろいろ》に動き変って来ていた。渋谷に新居を構えた中根は妻子だけをその家に残して置いて、復《ま》た遽《にわ》かに露領をさして出掛けて行った。大阪の愛子の許《もと》にいた岸本が末の女の児――君子は岸本の方で引取って養うことに成って、愛宕下へ帰って来ていた。この君子を加えてから岸本は三人の子供を連れて下宿する身となった。谷中の家では、節子の母親が流行の感冒《かぜ》に罹《かか》ったのが因《もと》で、それきりどっと床に就《つ》いていた。
 嫂《あによめ》の病気は少しも快《い》い方に向わないで、だんだん重くなって行きそうであった。それを岸本は自分で見舞に行った時に看《み》て来たばかりでなく、谷中から来る種々な報告で知るように成った。節子の手紙を持って体温器なぞを借りに来る一郎の話で。谷中へ行った帰りがけにはよく嫂の様子を知らせに寄る輝子の話で。岸本は病人のことを心配し出したばかりでなく、看護のために昼夜附きりだという節子のためにも気を揉《も》んだ。もう三晩ばかりも碌々《ろくろく》休まないという節子からの便《たよ》りのあったのが、前の月の十九日あたりのことだ。
「夜明でございます。今しがた祖母さんに按摩《あんま》さんの方を代って頂いて、階下《した》へ来ました。御飯掛けた少しの間にこれを書いております――」
 こうした文句の書いてある節子の手紙を読んだ時の心持は、ずっと岸本に続いて来ていた。寒い二月の夜の三時頃に弟を連れて医者の家を叩《たた》き起しに行ったという節子を岸本は想像で見ることが出来た。胸の痛む病人の側に附いていてはほんの少し寝返りを打たせるにも手を貸さなければ成らないほどであるが、しかし母の看護には出来るかぎりの力を尽しているから安心してくれという彼女をも、そのいそがしく骨の折れる中で凍って書けないという硯《すずり》に対《むか》いながら夜明けの心持を分けようとする彼女をも、岸本は想像で見ることが出来た。
 月の十日過には、嫂の病気は胸膿《きょうのう》という名がついた。医者の勧めで、適当な病院を択《えら》んで手術をしなければ成るまいとのことで、義雄がその相談に愛宕下へやって来るほどに成った。前の年の暮に露領の方へ行く中根の送別会が駒形《こまがた》の鰻屋《うなぎや》であった折なぞは未だ嫂はピンピンしていた。岸本はそのことを兄の前に言出して見た。
 相談の中途で義雄は声を低くして、
「例の一件で心配させたことが、矢張嘉代の病気に祟《たた》っているかも知れんテ。吾家《うち》の祖母さんもああいう人だから、そう口に出してハッキリとは言わない。ハッキリとは言わないが、年寄は年寄だけに、『郷里の方から出て来なければ、嘉代もこんな病気には成るまい』ぐらいの調子はあるテ」
 つい義雄はそれが口に出るという風であった。その時岸本は以前から懇意な博士の通うある病院を思い出して、その博士とは深い縁故のある田辺の弘(岸本が恩人の子息《むすこ》)からよく話して貰おう、一日も早く嫂が入院のことを取計《とりはから》おうと言出した。彼は弘を見るために、これから直にも出掛けようということを兄に約した。
 その時の義雄は最早附添なしに独《ひと》りで岸本の部屋に訪《たず》ねて来て、独りで廊下を帰って行くほど眼も快《よ》くなった。岸本は母屋《おもや》の玄関まで義雄を送りに出た。別れ際《ぎわ》に、義雄は半分|独語《ひとりごと》のように、
「でも、御方便なものだ」
 こう言い捨てた言葉を残して言った。

        百五

 谷中の家に病んでいた嫂が和泉《いずみ》橋に近い病院の方へ移ったのは、それから三四日後のことであった。入院の日は嫂は籠《かご》で、輝子と節子とが俥《くるま》で随《つ》いて行ったということを、岸本は後になって聞いた。附属の看護婦も同じ郷里の方の生れの人とやらで、病人も大いに安心したらしいということをも聞いた。
 ある日、岸本は三人の子供を学校へ送り出して置いて、独りで自分の部屋の机に対《むか》って居ると、思い掛けない時に節子が訪ねて来た。彼女は例のように病院へ行くと言って家を出た足を愛宕下の方へ向けて、一寸《ちょっと》岸本を見に寄ったとのことであった。彼女はもう幾晩となく碌《ろく》に休まないという看護の疲労や、母の病気の心配や、それらのものに抵抗しようとして気を張っていなければ成らないような心から遁《のが》れて、ほんの僅《わず》かの息を吐《つ》く時を岸本の側へ見つけに来たという様子であった。
「俺はお前のことを心配していた……そんなに幾晩も休まなかったら、後で弱るぜ」
 と岸本は言って、激しい底疲れのために苦しそうにしている節子の顔を見まもった。どうかすると彼女の蒼《あお》ざめた頬《ほお》には薄紅《うすあか》い血の色が上って、それがまた彼女の表情をいじらしく鋭くした。
「でも、病院へ通うように成ってから、お前も余程楽になったろう――」と復《ま》た岸本はいたわるように言って見た。
「それがですよ、私でも附いていませんとお母《っか》さんが愚図々々言いまして――それに夜は寂しがりましてねえ。ですから私はお母さんの側へ行って泊ってあげることにしていますよ」
「輝にでも代って貰うが可《い》いじゃないか」
「ええ、姉さんも来てくれますが、何しろ子供がありますからねえ。私の家の方にはいざという場合に、ほんとうに頼みに成るような人はありません……」
 こう言って、節子は帯の間に手を差入れながら俯向《うつむ》いた。
「節ちゃん、どうだねえ、お前の『創作』はこういう時の役に立ってるかねえ」
「その力一つで私は持ってるようなものなんですよ……」
 と節子は言って見せてホッと深い息をした。
 やがて節子は自分の子供のことに就《つ》いて、例の女医から得た消息を岸本に話し始めた。その子供の話になると、彼女は他の一切のことを忘れているかのように見えた。彼女は父に内証で、いずれ折を見て自分の子供に逢《あ》おうと女医に約束したことや、幼年画報なぞを買ってそれとなく子供に贈るつもりで女医に託したことや、最早子供が字なぞを書くようになって仮の親達から末頼もしく思われているという女医の話なぞを岸本にして聞かせた。
 しばらく節子は岸本の側で、自分の子供の噂《うわさ》に時を忘れていた。
「そう言えば、もう病院へ行かなきゃ成るまい。お母さんもお前を待ってるだろう」
 と岸本の方で節子を促すように成った。彼の胸は節子の弱ってしまわないように、何とかして彼女を力づけたいと思うその心配で一ぱいになった。
「葡萄酒《ぶどうしゅ》でも飲んでおいで」と言いながら、岸本は思いついたように部屋の隅《すみ》にある茶戸棚《ちゃとだな》の方へ立って行った。そこからボルドオの罎《びん》を取出した。彼は自分でも仕事の疲労を忘れるために買って置いたその好い香気《におい》のする興奮剤を激しく疲れている節子に飲ませた。

        百六
 
 病院の方の様子を気遣《きづか》って、入院後六日ばかりになる嫂を見舞うために、岸本は愛宕下の下宿を出た。和泉橋まで電車で行って、それから病院を訪ねると、そこは岸本に取っても見覚えのある古い大きな建物の跡であった。未だ朝のうちのことで、施療を受けるための男や女の患者が入口の石の柱の側に群り集っていた。
 嫂の病室は、幾|棟《むね》かの建物に連なる長い病院風の廊下を突当ったところにあった。この病院へ通う博士の厚意で、小児科の病室の明いたところが嫂に貸し与えられてあった。岸本嘉代とした黒い札の掲げてある部屋の中には、寝台が一つ壁によせて置いてあった。その上に見違えるほど病み衰えた嫂が横に成っていた。
「オオ、叔父さんか」
 と嫂は訪ねて行った岸本を見て言った。部屋には嫂だけで、附添のものも見えなかった。
「姉さん、独《ひと》りですか」と岸本が訊《き》いた。
「昨夜《ゆうべ》は節も用があると見えて、家へ帰りましたよ」と嫂はさも寂しそうに言って見せた。
 嫂は気は確かなものであった。岸本はこの病人の口からも、部屋へ見廻りに来る附属の看護婦からも、未だ手術のないことを聞いた。彼は既に医者側の相談にも立会って、これほど衰弱した病人の身体に手術を加えることの危険をも聞いていた。
「看護婦さん、叔父さんがお見舞に来て下すったに、お茶でも入れて進《あ》げて下さい」
 こんな風に嫂は寝台の上で気を揉んで、粘って来る自分の口を枕許《まくらもと》の紙の片《きれ》で拭《ぬぐ》おうとするほど元気づいて見える時もあった。
 しばらく岸本は寝台の側に腰掛けながら病人の顔を見ていた。彼の眼に映る嫂は、二度と谷中の家の方へ帰って行かれそうも無い人であった。古い病室らしい壁を背景のようにして、その側に寝ている嫂を見るのも寂しい感じを起させた。一方の窓によせて室咲《むろざき》の草花の鉢《はち》が置いてあったが、それは病人を慰めるために節子が買って持って来たものと知れた。
 未だ節子は谷中からやって来なかった。岸本は病人の欲しがる氷を枕頭《まくらもと》の容器《うつわ》から匙《さじ》で飲ましたりなぞして、時には気息《いき》の籠《こも》った窓の硝子《ガラス》を開けに行った。三月の二十日頃の日あたりがその病室の外にあった。窓に近く紅《あか》い芍薬《しゃくやく》の芽の延びて来ているのが岸本の眼についた。もう春だ。庭のあちこちには、患者等の楽しげに散歩しているのも見えた。さまざまな心持がその時窓の側に立つ岸本の胸に帰って来た。何故義雄兄はこの嫂にまで自分等の秘密を隠したろう、仮令《たとえ》義雄兄はそう考えたところで何故節子までが母親だけに打明けて詫《わ》びるということをしなかったろう、とよく異郷の旅の空で胸に浮べた心持が帰って来た。もう一度故国を見得るの日が来たら、せめて嫂だけには打明けよう、そしてこれまでのことを詫びよう、とそう考えて帰国の途に上った時の心持も帰って来た。
 その心で岸本は寝台の方を見た。一切を皆の前に曝《さら》け出そうと志しているほどの自分が、死んで行く人に何を隠して置こう、所詮《しょせん》嫂は助かりそうも無い人だ、この病人の気の確かな中《うち》に言おう――この考えがしきりに岸本を促した。その時、彼は看護婦でも急に部屋の扉を開けて入って来るのを気遣った。幾度《いくたび》となく彼はそこに跪《ひざまず》くつもりで、病人の寝ている側を往《い》ったり来たりした。

        百七

「死んで行く人に隠して置くなんて……そんな法は無い」
 そう思いながら岸本は病院の門を出た。到頭彼は打明けようと思うことも言わず仕舞《じまい》に、唯《ただ》嫂の側で看護の時を送ったというだけに留めて、病室を離れて来てしまった。どうして本当のことというものはこう口に出せないのだろう、それを考えて、彼は病院の門を出てから独りで歎息した。
 岸本が愛宕下へ帰って行ったのは昼近い頃であったが、自分の部屋に戻ってからもその事が半日彼の胸から離れなかった。夜になって、離座敷《はなれ》のひっそりとする時が来て見ると、余計にその事が思われた。既に病人自身が承諾し、病人の身内のものが承諾しても、まだそれでも万一の場合を顧慮して躊躇《ちゅうちょ》している主治医が手術を決行する時は、やがてもう機会の過去ってしまう時かも知れない。岸本は愚図々々している時ではないと考えた。三人の子供の寝沈まる頃から、彼は遽《にわ》かに思い立って嫂に宛《あ》てた手紙を書いた。
「病院の寝台の上でこの手紙をお読み下さい――」
 こうした書出しで、病人に読んで貰うためになるべく文句を手短かに手短かにと書いた。彼は唯今日まで嫂に隠して置いたその詫《わび》の心を書くだけに満足しようとした。短く、短くと、心掛けた手紙は夜の二時頃までも掛った。
 翌朝岸本はそれを懐《ふところ》にして復た病院をさして出掛けた。丁度嫂の病室の方では節子が母親の側に附いているところへ行き合せた。節子の側で見る嫂は前の日に独りで見たよりもずっと病人らしい我儘《わがまま》を言う人で、そこに親子としての親しみもあらわれていた。前の日の病室の寂しさに引きかえ、窓の側に置いてある草花の鉢一つより外に眼につくものも無い灰色な部屋の中にあっては、つとめて眼立たない服装《なり》をして母を看護している節子の姿態が一層|際立《きわだ》って女らしく見えた。
「へえ、節ちゃんは何か読んでるね」
 と岸本は部屋の隅にある置戸棚の前に行って立って見た。母の看護のかたわら節子が病院で夜を送る時の心やりと見え、ルウソオの「懺悔」の訳本なぞが読みさしの枝折《しおり》の入ったままその戸棚の上に置いてあった。
 しばらく岸本はその病室で時を送った。医局の方に懇意な博士を訪ねて病人のことを頼みにも行って来た。彼は懐にしている手紙を嫂に残して置いて後で静かに読んで見て貰うつもりであった。その心で、嫂の側に居た節子を一寸《ちょっと》病室の外へ呼んだ。そこの廊下つづきには、看護婦等の往来《ゆきき》する長い板敷とは少し離れた別の廊下があった。岸本は節子と二人で硝子戸越しに向うの廊下の硝子戸の見える高い柱の側に立って、書いて持って来た手紙のことを話した。
「矢張《やっぱり》、そりゃ書いた方がようござんすよ。口じゃ言えませんからね」
 と節子は言って、遽かに沈思を誘われたかのように硝子戸の外を眺めながら立っていた。
「じゃ、行こう」
 と岸本が病室の方へ節子を誘おうとした時は、さすがに狼狽《ろうばい》の色が彼女の顔に動いた。節子は岸本に随《つ》いて病室に入ると直ぐ窓の方へ行った。岸本が病人の側に立って看《み》ている間に、節子はもう窓際で涙ぐんだ。
「姉さん、私はあなたに読んで頂くつもりで、手紙を書いて持って来ました。後でこれを御覧なすって下さい……」
 この言葉と、詫の心の籠った御辞儀と、手紙とを残して置いて、間もなく岸本はその病室を出た。

        百八

 その日の夕方のことであった。岸本は愛宕下の方に帰っていて、下宿の電話口へ呼出された。
「父さん、病院から電話」
 と泉太や繁は言い合って、二人とも心配顔に電話口の下のところに集まっていた。嫂の手術が午後にあったことを岸本はその時の電話で知った。先方の声は節子で、手術後の病人の疲れて休んでいることや、父も今谷中の方から来ているということなぞを病院から知らせてよこした。
「今朝置いて来た手紙を姉さんは見て下すったろうか」と岸本はその電話口で訊いた。
「見ません」と節子の声で。
「あ、そうか、見なかったのか――」
「預って置いてくれと言いますから、私がお預りして置きました」
 とまた節子の声で。
 電話口を離れてから、岸本は自分の心持の十分に嫂に届かなかったことを残念に思いながら部屋の方へ戻って行った。
 しかし岸本が実際に自分の為《し》たことを皆の前に白状してしまおうと思って、本気でその支度に取り掛ろうとしたのも、嫂に宛てた手紙を書いた時からであった。節子の言草ではないが、黙って置きさえすればもう知れずに済む事だ。自分はこの通り愚かしいという事をわざわざ表白して、その結果はどうなる。この考えは幾度となく岸本を抑制《おしとど》めないではなかった。もしも台湾の民助兄夫婦や大阪の愛子夫婦なぞがこの事を知ったとしたら。遠く北海道の方に住む園子の生家《さと》の人達の耳にまでも伝わる時があるとしたら。直接に自分の行為《おこない》に関係の無い人達のことを考えたばかりでもこの通りであった。その度に岸本は精神《こころ》の勇気も挫《くじ》けて、思い立ったことを中止しようとしたことも一度や二度ではなかった。嫂に宛てた手紙を書いた事は、この岸本から実際の動きを引出した。漸く彼は自分の意志から進むことが出来そうに成って来た。彼は種々な方面から自分の身に集って来る嘲笑《ちょうしょう》を予期した。非難を予期した。場合によっては、社会的に葬らるるであろうということも予期した。その結果として、多年彼の携わっていた学芸の世界から退かなければ成らないようなことをも――
 恐ろしく悲しい嵐《あらし》の記憶がひしひしと岸本の胸に迫って来るように成った。「叔父さん、私をどうして下さいます」と言ったような過ぐる年の節子の思い屈した様子が、人知れず罪の意識に責められていた彼女のいたいたしさが、死体となって河岸《かし》へ流れ着いた妊娠した若い女を聯想《れんそう》させずには置かないような彼女の顔にあらわれて来た暗い影が――それらの記憶が復《ま》たありありと彼の眼前《めのまえ》にちらついた。一度は自殺の瀬戸際にまで彼を追いやったのも、節子の顔にあらわれて来たあの恐ろしい「死」の力だ。遠い旅に出て、彼女を破滅から救い、同時に自分をも救おうとするようなことが、そこから起って来た。兄を欺き、嫂を欺き、親戚を欺き、友人を欺き、世間をも欺いて、洋行の仮面にかこつけて国から逃出すようなことも、そこから起って来た。節子と自分との関係を明かにするには先ずその出発点からブチマケて掛らねば成らなかった。岸本は暗いところにある自分の恥を明るみへ持出そうとする時に成って、復た復た非常に躊躇した。

        百九

 一日々々と衰えて行った嫂《あによめ》の容体は、医者の骨折も、節子の看護も、結局それをどうすることも出来なかった。手術後十日ばかりの頃には、唯《ただ》病人の死を待つばかりのように成った。今日は病院から電話が掛って来るか、明日は掛って来るか、と岸本は下宿の方に居て三人の子供を相手にその噂《うわさ》をした。
 四月に入って、節子は母親の容体が急激に変って来たことを知らせてよこした。それを聞いて岸本は病院をさして急いだ。その日は電車でなく俥《くるま》で、嫂が附属の看護婦一同へ※[#「巾+白」、第4水準2-8-83]子《ハンケチ》などを途中で買い求めて行った。義雄兄は最初から慈善の意味で建ててある病院へ嫂を入れることを好まなかった。でもそこには岸本が懇意な博士もあり、まるで嫂はお客様のような扱いを受けた。岸本のつもりでは、嫂が入院中のことは自分で引受けて義雄兄の方へは心配の掛らないようにしようとした。それを嫂への御礼にとも考えた。
 節子は看護に疲れた顔を泣き腫《はら》しながら病室の方で岸本を待ち受けていた。岸本が病人の側で彼女と一緒に成った頃は、義雄も輝子も急いで集まって来た。死は既に嫂の身体に上りかけていた。何を視《み》るともなく見張ったその大きな眼は僅《わず》かに他の人から岸本を区別することが出来るくらいであった。絶間の無い荒い病人の呼吸、医者や看護婦の部屋を出たり入ったりする音なぞが何となく臨終の近いことを思わせた。
 谷中からは祖母《おばあ》さんが一郎と次郎を連れて別離《わかれ》を告げに来た。
「次郎ちゃん、もっと側へいらっしゃい」
 と輝子が言添えた。
「お母《っか》さん、次郎ちゃんですよ」
 と節子は母親の耳に口を寄せて言った。
「次郎ちゃんがよく見えますか」
「ああ見える。次郎ちゃんもよく来たね」
 と嫂は苦しそうな息の中で言って、次郎の方へ痩《や》せ衰えた手を差延した。祖母さんはその側に跪《ひざまず》いたまま死んで行く自分の娘の方を見て掌《て》を合せていた。
 岸本が病院附の若い助手を探すために廊下へ出た頃は、日は既に暮れていた。高い硝子戸《ガラスど》の外は雨でも来るように暗かった。泣き泣き病室を出て来た一郎は次郎と共に祖母さんに連れられて誰よりも先にその長い廊下を帰って行った。間もなく岸本は病人の側で田辺の弘とも一緒に成った。岸本の親戚《しんせき》でここに集らない者は、哈爾賓《ハルビン》の方に行っている輝子の夫、台湾の民助兄、大阪の愛子などであった。
「叔父さんは居るかい」
 という嫂の声を岸本は寝台の周囲《まわり》に身内のものの集まっている中で聞きつけた。嫂はまだ何か言おうとしたが、それぎり声は激しい呼吸に変ってしまった。岸本はそれを嫂の最後の別れの言葉かと聞いた。

        百十

 節子の母親は病院に二十二日居て亡《な》くなった。遺骸《いがい》の始末まで病院の方の世話に成ることは岸本の本意ではなかったが、しかしその病院の規則として、そこの病室で亡くなったものは病院から火葬場の方へ送り、骨にして遺族へ渡すまでの面倒を見てくれるとのことであった。岸本は愛宕下《あたごした》の方に居て嫂の遺骸が火葬場の方へ送られたことを聞いた。それを聞いた日から、彼は自分の懺悔《ざんげ》の稿を起した。
 世間を狭《せば》めるということが、未だ愚かしい著作を発表するまでにも行かないうちに、早や岸本の身に感じられて来た。帰国後の岸本はある私立の大学で一週に二時間ほどの講義を受持っていた。彼は著作のために忙しくなるというのを口実にして、それとなく講座に立つことを遠慮した。諸方には仲間同志その他の種々な会合があった。そういう場所へも出席することを遠慮するように成った。彼の思い立ったことは早やこの通り自分を肩身の狭いものにした。それにも関《かかわ》らず、彼は今までの岸本捨吉を捨て、元の一書生に還《かえ》るつもりで、もっと明るい自由な世界へ出て行こうとした。誰にも黙って眼に見えない牢屋《ろうや》を出る時が来た。この考えは彼を悦《よろこ》ばせた。彼はあの長い流浪の旅を終って故国に帰り着いた当時のことを思い出した。あの長期の航海を続ける船乗の心に自分の耐えがたい思郷の念を譬《たと》えて見たことを思い出した。陸の上に仆《たお》れ伏し、懐《なつ》かしい土に接吻《せっぷん》したいと思うという船乗の心は全く自分の心に近いと考えたことを思い出した。今こそまことにその時が来た。この考えもまた彼を悦ばせた。
 その時になって見ると、岸本が辿《たど》り着いた愛の世界は罪過の苦しみから出発したところからは可成《かなり》遠いものであった。

  「二人していとも静かに燃え居れば世のものみなはなべて眼を過ぐ」

 これは節子が最近の心の消息を伝えた歌だ。彼女は岸本の一切を所有し、岸本はまた彼女の一切を所有した。しかし二人とも何物をも所有してはいなかった。
 最早《もはや》岸本は何処《どこ》に節子を置いても可いという気がした。節子の精神《こころ》が独《ひと》り立ちの出来るまでに彼女を養い育てたという気もした。若い若いと思っていた節子が既に二十六にも成る。もし彼女の将来の望みが宗教生活を送るというにあるならば、岸本は今まで毎月彼女を補助して来たようにこれから先も彼女の衣食に事を欠かさないようにして、どうかして彼女の望みを遂げさせたいと思った。

        百十一

 岸本が病院まで手紙を書いて持って行った心は到頭嫂には届かずじまいであったろうか。そうでもなかったことを岸本はあの嫂が亡くなった後になって知った。義雄兄が嫂の遺骨を携えて郷里の方へ出掛ける前に、兄の口からその話が出て、「叔父さんから手紙が来てる、あの手紙は人が見ると不可《いけない》、焼いてしまえ」と嫂は言い遺《のこ》したとか。して見ると矢張自分の心が届かないではなかった、とそう岸本は独りで自分を慰めた。
 岸本は義雄兄にも黙って、眼に見えない暗い牢屋を出るつもりであった。あの兄の心に背《そむ》いても節子を捨てまいと考えた時に、既にもう岸本は兄との別れ路《みち》に立たせられたことを感じたのであった。不思議な運命を考える度《たび》に、岸本はよく節子その人のことに思い当った。寂しい彼が生涯の途中に節子のような女のあらわれて来たということさえ彼には既に不思議であるばかりでなく、長いこと彼女の求めていたものを岸本に見出したという彼女の愛着の心もまた一つの不思議であった。もしも岸本が罪過の対象をもっと別の気質の人に見つけたとしたら、節子のように彼を憎むということも無いかわりに、節子のようにまた彼から離れがたく思うということも無いかも知れなかった。三年の旅の間も岸本を待ちつづけるようなことは節子として始めて見る女心だ。それが無ければ低気圧というものが再会した彼女に起っても来なかろうし、低気圧が彼女に起って来なければ或《あるい》は岸本の方で二度と彼女に近づくことも無かったかも知れない。節子ゆえに、岸本はあれほどの苦悩を得たのだ。節子ゆえに、岸本はあれほどの哀憐《あわれみ》を感じたのだ。罪過も、旅も、それからまた互に一生を託するような悲哀《かなしみ》も――一切は実に節子その人を対象にして起って来たことだ。岸本は、あの病人の個性というものをよくも見究《みきわ》めずに唯《ただ》病気のみを診断しようとする医者のような人達から一口に自分の行為《おこない》を審《さば》かれることを非常に残念に思った。
「どうせ人間の為《す》ることだ」
 と岸本はそこへ自分を投出すように言って見てはよく独りで嘆息した。
 しかし岸本は自分の懺悔が発表される日を待って、義雄兄|宛《あて》に手紙を書くつもりであった。自ら進んで兄の勘当をも受けよう、そして謹慎の意をあらわそう、そんなことを考えているところへ、思いがけない日に義雄兄が訪《たず》ねて来た。郷里の方で営んだという嫂の葬式を済ませ、やがて義雄は東京に帰って来ている頃であった。この兄は新規に起った節子の縁談を持って岸本の下宿へやって来た。

        百十二

「や。どうも大分好い話だ。それに就《つ》いて妙なことがここに持上った」
 と義雄は先《ま》ず節子の縁談のことを言出して、それから岸本の前に坐り直した。
 節子の縁談は当然起って来べき時に向いていた。これまでとてもそういう話がちょいちょい無いではなかったが、その度に節子が堅く拒んで来たばかりでなく、娘を自分の側から手放したくないという嫂は大抵の場合に節子の方に荷担して縁談を成立たせなかった。その嫂もこの世に居なかったし、早く妹の身を堅めさせたいと心配する輝子も附いていたし、のみならず岸本が蔭《かげ》になり日向《ひなた》になりして節子を生かそうとした骨折を知らない人から見たら、彼女は独りで置くには惜しいほど気力を回復した女であった。彼女は最早「幽霊」でもなければ「片輪」でもなかった。
「委《くわ》しいことを話して見なければ解らんが――」と義雄は例の手強く出る調子で言った。「こないだ布施《ふせ》が来て――布施と俺《おれ》とは大の仲好しだから、あの男が言うには、『君の許《ところ》には未だ嫁《かたづ》かない娘さんがあるようだが、他《よそ》へくれても可《い》いのか』と俺に訊《き》いた。『くれても可いどころじゃない』と俺が言うと、『よし、そんなら僕が仲人《なこうど》に立とう』と。そこで貰《もら》おう、くれようという話が始まった。何しろ、先方《さき》の家の財産は五万円から有るというんだ。おまけに布施の方では、一切|是方《こっち》のことは調べないと言うんだぜ。こんなウマい話は一寸《ちょっと》無いサ。節ちゃんももう好い歳《とし》だから、こんな好い貰い手のある時に俺の方では嫁けてしまいたいとそう思うんだが、彼女《あれ》が不承知だ。いろいろそこにはゴタゴタしたことがあって――俺の方で少し言い過ぎたようなこともあったが――何だか、昨夜《ゆうべ》なぞは節ちゃんの様子が変だ。遅くまで掛って荷物なぞを片付ける音がする。家でも出てしまうんじゃないかと、祖母さんは心配する。丁度また妙なことがあるもので、祖母さんが一ちゃんに買物に行ってお出《いで》と言って、五円札を一枚|長火鉢《ながひばち》の上に載せて置いたところが、その五円札が失《な》くなった。一ちゃんは知らないと言うし、祖母さんは確かに置いたと言うし、まさか節ちゃんが取るようなことはすまいが、しかし疑って見れば家を出るつもりで取らんとも言えない……」
「節ちゃんはそんな人じゃ有りません」と岸本は兄の言葉を遮《さえぎ》った。「あの人に限って、物を置いて行こうとも、取るような人じゃ有りません」
「それはまあどうでも可いとしたところで――」と義雄は言葉を継いだ。「何しろ、あの様子じゃ危くて仕様が無い。今朝は中根へ電話を掛けて、輝にも来て貰うことにした。輝でも来たら、どう節ちゃんも落付くものか知らんが、俺はそのままにしてお前の許《ところ》へやって来た。節ちゃんが何と言うかと思ったら――馬鹿な、この好い話を虚偽の結婚だなんて。虚偽の結婚とは何だ。誰だってそういう風にしてお嫁に行く。中根が輝を貰う時だって、先方《さき》で俺の娘を見たことも無い。輝の方だっても知らない。それでも結婚して見れば、あの通り幸福な家庭を造れる。まあ誰が見たって、あれなら申分の無い夫婦というものだサ。何処《どこ》の誰だって、女と生れて来て、今日《こんにち》お嫁に行かないようなものは無い。もしあれば、そんなものは片輪だ。俺の田舎《いなか》には何百軒という家があって、一人としてその家に結婚しないような女は居ない。一箇村の中で唯《たった》一人結婚しない女がある。お霜婆さんという女だけが一生独りで暮した。それだけだ。それ見ろ、結婚しないなんてことは人間の仲間に入れないことだ。一度はお嫁に行かんけりゃ成らん。一度行って、出て来たものなら、またそれでも可い。一度も行かんという法はないサ。例《たと》えばだ、嘉代の死んだに就《つ》いて諸方《ほうぼう》へ通知を出したろう、この葉書の裏に親戚総代として岸本捨吉と連名になっている田辺弘とあるのはこれはお節さんの旦那《だんな》さんの名ですかなんて、田舎の方へ行っても直ぐにそんなことを訊《き》かれる。世間というものはそういうものだサ」
「それで、兄さんはどうしようというんですか」と岸本が訊いた。
「だから明日でも節ちゃんをお前のところへ呼んでサ、お前からもよく彼女《あれ》に勧めて貰いたい」と義雄が言った。
「私からそれを勧めることは出来ません」
 岸本は簡単に答えた。それを聞いて義雄は更に言葉を継ごうとした。

        百十三

 義雄は弟の部屋を見廻して更に言いつづけた。「これでお前が細君も貰わずにいるなんてこともいくらか節ちゃんの方に響いているテ。遠心力のようなもので、遠廻しに引いている気味があるテ。節ちゃんもあれで一度はお嫁に行く気になったんだ。お前が仏蘭西《フランス》に行って留守の間に、一度は見合の写真までうつさしたものだサ。一体言うと、お前が旅から帰らない中に彼女《あれ》は嫁けてしまうつもりだった。何だか近頃の彼女の様子は、自分の産んだ子供のことでもしきりに聞きたがってるような風に見える。ホラ、例の一件で宜《よろ》しく世話になった看護婦があったろう。あの看護婦も今は病院の助手で、時々俺の家へも訪ねて来るサ。どうも見るのに、節ちゃんがあの看護婦から何か子供のことでも引出そうとしているらしい。下手《へた》にそんな話を聞かされては、それこそ大変だ。禁物。禁物。それで俺はあの看護婦に堅くその話を封じて置いたが。まあ、台湾の兄貴でもこういう時に東京に家を持ってると、あの兄貴の家へ節ちゃんを預けてしまう。俺としては、それが上分別だ。何にしても、あの様子は危くて仕様が無い。昨夜《ゆうべ》の節ちゃんと来たら、どんな間違いを起すか知れないような風サ。考えて見ると、世の中のことは実《み》もあり蓋《ふた》もありさネ。去年台湾の兄貴が出て来た時にサ、兄貴が莫迦《ばか》にお前のことを褒《ほ》めて、捨吉だけは無難だ、彼《あれ》だけはまあ兄弟中で一番安心だ、と言うじゃないか。その一番安心なお前が――これで兄貴も知らないようなことが有るんだからねえ。俺はその時|可笑《おか》しくなった。兄貴がそう言って知らずにいるところが可笑しくなった。しかし、俺は岸本の家ということを考える。祖先伝来の岸本の家の名誉ということを考える、中味はともあれだ、岸本捨吉で立てて置けば人も知らずに済むし、家の名前も汚さずに済むし、祖先に対しても面目を失わないというものだ。俺はそのくらい大きく考えてる。岸本の家の名誉に比べたら、節ちゃん一人の間違いぐらいは何でもないことだ。寧《むし》ろあんなものは間違いがあってくれれば可いぐらいに考えてる。そのくらい俺は岸本兄弟のためという事を重く視《み》てる」
 義雄の声は次第に高くなって、離座敷《はなれ》から母屋《おもや》の座敷の方へ響けて行った。その時まで岸本は首を垂《た》れて兄の言うことを聞いていたが、この兄にも黙って自分の秘密を捨てようとしていることに想い到った。いずれは兄の勘当を受けようとまで心を決めている矢先だ。彼は自ら進んで被告の位置に立とうとした。節子の縁談のことで訪ねて来た兄の話頭を自分の上に向けて貰おうとした。
「多分、兄《あに》さんは私が旅に出た時のこともよく御存じないだろうと思いますが――」と岸本が言出した。「国の方に子供でもなければ、二度と兄さんにお目に掛るつもりはありませんでした」
「や。その話が出れば言うが」と義雄は弟の方を強く見て、「先ずどうも、子供を頼んで置いて外国へ出掛けて行くというのに、留守居のものにも逢わずに行ってしまうなんてことは――常識のあるものには出来ないことだサ。お前は何だったろう、嘉代が田舎から出て来る前に、神戸の方へ子供を置いて行ってしまったろう。『捨さんは未だ神戸に居るそうだ』ッて、嘉代なぞは出て来て見て呆《あき》れてしまった」
「そりゃもう姉さんの腹を立たれたのは、御尤《ごもっと》もです」
「あの時のことを話せば、俺は未だ名古屋に居て、お前の不始末を知った。それから東京へ出て来て見た。嘉代が俺の袖《そで》を引いて、『どうも節ちゃんの様子がおかしいぞなし、あの娘《こ》に訊《き》いても泣いてばかりいるが、どうもこれは只《ただ》ではない、貴方《あなた》がまた下手《へた》なことを言出したらどういうことに成るか知れんぞなし』と彼女《あれ》が言うじゃないか。そこで俺が嘉代に、『解った、解った、貴様はここへ出るな、貴様は何事《なんに》も言うな』と。その時はもうお前、節ちゃんはこれだろう――」
「いや、その話を伺うまでもなく、私も既に一度は死を決したものです」
「そりゃお前のことだから、それくらいのことは有ったろう――そりゃ、有ったろう――」
「私も子供は控えておりますし、おめおめと国へは帰って来ましたが、しかしこの事のためには今日《こんにち》まで自分の力に出来るだけのことをしたつもりです」
「その点は申し分は無いサ。その点は完全無欠だ。お前も一度死を決したという以上は、その時にこの事は終りを告げたものじゃないか。お前のようにそう気にするところが、そこがお前の性分だ。そこがお前のように学問にでも凝ろうというところだ。そりゃ俺だって、お前の心情を汲《く》まんでは無い。お前が神戸を立つ時にも書けなかった手紙を香港《ホンコン》の船の中で俺の許《ところ》へ書いてよこしたという心持は、俺にも解ってる。その心持が解ればこそ、俺はお前の不始末を引受けた。お前がまた仏蘭西《フランス》から帰って来た時に、出迎えの人を一切断って、独《ひと》りでポツンと品川へ着いたなんてことも、俺はちゃんと見てる。そりゃ、まあ、不始末と言えば不始末だが、お前のようにそう気にするなんてことが俺なぞから見れば可笑しい。誰にだってこんなことは有る――みんな似たようなことをやってる――こんなことぐらいが一体、何だ」

        百十四

 うんと一つ弟の油を絞って置こうというような兄と、甘んじて兄の非難を受けようとして頭を垂れたまま言葉も少く聞いている弟と、この二人が対《むか》い合って坐っていた。何とも知れない戦慄《せんりつ》が身体へ伝わって来る度《たび》に、岸本は自分ながら顔色の蒼《あお》ざめ変るのを覚えた。そればかりでなく、遠廻しに触《さわ》られても痛いような自分の弱点を自分からそこへ持出そうとしている平素にない岸本の態度が、相手の義雄に不審を抱かせるように成った。
 義雄は、ついぞこの事のために死を決したこともあるなぞと言出したためしの無い岸本の顔を不思議そうに眺《なが》めて、
「何しろ俺は、学問に於《お》いてはお前に及ばないかも知れないが、しかし人間として見たらお前なぞよりも遙《はる》かに高いところにあるつもりだ。そりゃ俺の方がずっと上手《うわて》だ。何処《どこ》を押せばどういう音《ね》が出るぐらいの活《い》きた人生哲学は可成《かなり》修業をつんでる。何かお前も思案に困ることがあったら、俺の許《ところ》へ相談に来いよ。お前のように独りで考え込んでしまって、下手なことをしちゃ不可《いかん》ぜ――そんなら、今日はこれで帰る」
 と言って義雄は起《た》ちかけた。
 岸本は手を揉《も》み揉み兄を見送ろうとして一緒に次の部屋まで出た。
「もう時刻ですから、昼食《おひる》でも進《あ》げると可いんですが――」
 と言う岸本の方を義雄は未だ全快とまでは行かない眼で幾度となくよく見るようにして、「こりゃ愛宕下の方も変だわい、ここにも何か間違いでも起りそうだわい」と言ったように見返り見返りした。ひょっとすると、当分これぎり兄を見る時がないかも知れない。この考えが閃《ひらめ》くように岸本の頭脳《あたま》へ来た。彼は誰を相手に言葉の上の争いをしようでは無かった。唯自分を投出そうとしていた。そして一切を生命《いのち》の趨《おもむ》くままに委《ゆだ》ねようとしていた。その前途の不安を胸に持って、彼は兄が別れを告げて行った後まで長いこと廊下のところに立ちつくした。
 それから数日の後、岸本が節子のことを案じ暮しているところへ彼女から手紙が届いた。それによって岸本は節子の一度は遭遇しなければ成らないような時機が到頭彼女の上にやって来たことを知った。彼女は前にも一度あった縁談を復《ま》た布施さんから持出したことから始めて、布施さんがその話をして帰った後では父はもうすっかりその気に成っていたということを書いてよこした。自分へは祖母さんからその話があったが、堅く断ったと書いてよこした。それが父の意にさからって、今更そんな下手な哲学者の悟《さとり》を開いたようなことが言えるかという烈《はげ》しい父の言葉の末に、嫁にも行かないようなものは不具の外には無い、不具のようなものは養う義理も無い、最早《もはや》親でもなく子でもない、今直ぐ出て行けというような話があったと書いてよこした。自分はこれ程お願いしても聞かれないのかと言出して見たところ、勿論《もちろん》と大きく叱《しか》られ、いっそ家を出てしまおうと思い、御|挨拶《あいさつ》して父の前を退《の》こうとした時、待て、そこへ坐れと言われて、復たさんざん種々《いろいろ》な話があったと書いてよこした。その晩はそのままになって、翌日叔父さんの許から父の帰って来る頃には中根の姉も電話で呼びよせられ、父と姉との間にいろいろな話が出たと書いてよこした。そして姉を通して、無理には勧めないというだけの父の答を聞いたが、この間に立って皆を言い宥《なだ》めたのは祖母さんであったと書いてよこした。一旦《いったん》家を出てしまおうと思った時、叔父さんの手紙だのその他種々なものは一ト纏《まと》めにしたが、未だそのままにしてあるとも書いてよこした。最後まで忍ぶものは救わるべし、自分は今可成張りつめた心でいられるとも書いてよこした。

        百十五

 岸本の書き溜《た》めて置いた懺悔《ざんげ》の稿はポツポツ世間へ発表されて行った。岸本と節子との最初の関係は早や多くの人の知るところと成った。かねて自分の身に集まる嘲笑《ちょうしょう》と非難とは岸本の期していたことで、それがまた彼の受くべき当然の応報《むくい》であった。
 下宿にある岸本は当分客を謝《ことわ》るようにして、殆《ほと》んど誰にも逢《あ》わずに屏居《へいきょ》の日を送っていた。五月の下旬になった頃であった。この岸本のところへ女中の案内もなしに勝手を知った節子の姉が用事ありげに訪《たず》ねて来た。
「ごめん下さいまし」
 という輝子の声を聞いたばかりでも、岸本にはもう秘密をブチマケた後の特別な心持が先に立った。
「泉ちゃんも繁ちゃんも学校ですか。君ちゃんもこの節はお弁当ですか――」
 こんな子供の噂《うわさ》は前置で、輝子は自分の言いに来たことを言出しかねて、話のハズミを捉《とら》えようとしているという風に見えた。気まずい思いのする時がしばらく岸本の方にも続いた。
「叔父さんは私が何に上りましたか、お解《わか》りでしょう」
 到頭輝子はこんな風に、改まった調子で切出した。
「俺《おれ》の書いたものを読んで見たかね」と岸本は言った。
「拝見いたしました。実に驚いてしまいました。まさかあんなことをお書きに成ろうとは思いませんでした――誰だって叔父さんの為に惜まないものは有りません」
「…………」
「生憎《あいにく》また私の御懇意に願ってるような家では皆あれを読んでます。何だか、おかしいおかしいと思ってるうちに、ポカッとあんなことが出てしまった……私にそれを見ろッて、ある家の奥さんが出して下すった時は、丁度また節ちゃんのことが出ている時じゃありませんか」
「しかし俺だって、相応に覚悟して掛ったことだ」
「そりゃ誰方《どなた》だってもそう言いますサ。よくよく考えた上でなければこんなことは書けないッて。叔父さんは御自分で為《な》すったことを御自分でお書きなさるんですから、それでも好いかも知れませんが、唯《ただ》妹さんが可哀そうだッて――何処《どこ》へ私が伺ってもそれを言われます。ほんとにあんなことをお書きになって、節ちゃんをどうして下さいます」
「でも節ちゃんは承知なんだ。節ちゃんの承諾を得た上で、俺はあれを発表した」
「そりゃ、まあそうかも知れませんけれど――もう少しどうにか成らないものですかねえ。あるところの旦那《だんな》さんなんかも仰《おっしゃ》るには、これじゃ妹さんが可哀そうだ、何とか成らないものだろうかッて。『夢だった』とでもする訳には行かないものかッて、そこの旦那さんも仰るんですよ」
「そうお前達に心配を掛けて、それは俺も済まないと思う。しかし、誰が迷惑するッて言ったって、一番迷惑するのは俺じゃないか」
「何しろ当人の叔父さんがそれをお書きなさるものを側《はた》でどうすることも出来ないようなものですけれど……ああいうことをお出しになって、人は何と思うでしょうねえ。これは実際のことだと思って読むでしょうか。それとも作り話だと思うでしょうか」
「それは俺にも解らないサ。こういう人生もあると思って読んでくれる人もあるだろうサ」
「まあ、人の噂も七十五日ッて言いますから、今に何処かへ消えちまう時もまいりましょう――もうこんな話は止《よ》しましょう」
 輝子は嘆息するように言って、襦袢《じゅばん》の袖《そで》で涙を拭《ふ》いた。この輝子の前に、岸本は自分の書いたものをよく読んで見てくれというより他の挨拶《あいさつ》の仕様も無かった。

        百十六

 幾度か岸本は義雄兄に宛《あ》てた手紙を書こうとして、その度《たび》に筆を捨てては嘆息した。兄の心に背《そむ》いても懺悔を公にしかけた彼は、どうしても黙って置く訳には行かなかった。一方にはその責《せめ》を負い、一方にはしばらく兄に別れを告げるつもりで、机に対《むか》って紙をひろげて見た。とても彼はその書きにくい手紙に自分の思うことの十が一をも言いあらわすことは出来なかった。もともと自分は大兄をはじめ、亡《な》くなった姉さんの御咎《おとが》めを受けるつもりで遠い旅から帰って来たものである、それにも関《かかわ》らず平然として今日に到ったと書いた。かく御厚志に甘えることを次第に心苦しく思うように成った自分は、むしろ御咎めを受くるこそ自分の本意であると思い立ち、自分の為《し》たことを皆の前に白状しようと決心したと書いた。今こそ大兄から自分を責めて貰《もら》える時が来たと書いた。相応に古い歴史のある岸本一門の名誉のためという御話もあったが、そのために自分の失敗を塗りかくすことも、長い間の隠蔽《いんぺい》の苦しみを忍ぶことも、自分に取っては耐えられなくなって来たと書いた。多くの美徳を具《そな》えた人達を祖先に持った岸本の家の子孫に自分のような不都合なものの生れて来たことは、祖先を辱《はずかし》める次第であるが、しかし自分の不都合を責めて貰うということが反《かえ》って祖先の徳をあらわすことであろうと思うと書いた。曾《かつ》て遠い異郷に赴《おもむ》こうとする時、失礼な手紙を残して置いて旅に上った自分は、今またこんな手紙を大兄に宛てて送ることを悲しむと書いた。これも自分としては已《や》むを得ないと書いた。種々な心の経験は自分をしてここに到らしめたと書いた。自分は自ら進んで大兄の勘当を受ける心でこの手紙を認《したた》めると書いた。自分の公にする懺悔は自ら鞭《むち》うとうとする心から出たものではあるが、節子がその過《あやま》ちの対象である以上、彼女に迷惑を及ぼさないとは言えないと書いた。しかし、大兄はじめ一時は自分のこの行為《おこない》を迷惑に感ぜらるるとも、ずっと後になって見てあるいは節子のためにも好かったと思われる時があろうかと考えると書いた。では、しばらくお目に掛ることの叶《かな》わぬものが、ここにお別れを告げると書いた。今日までいろいろとお世話に成ったことを忘れる自分ではないと書いた。祖母さんはじめ、皆々様|御機嫌《ごきげん》よくと書いた。義雄大兄、捨吉拝と書いた。猶々《なおなお》、泉太繁等は時々お訪ねすることがあろうと思うが、それだけは御許しを願って置くと書いた。岸本はこれを書いてホッと息を吐《つ》いた。この手紙は谷中宛に郵便で出すことにしたが、これが義雄兄の手に届く時は、しばらく節子にも別れを告げる時だと思った。彼女の修業の上から言っても、岸本はそれを彼女のために好いと考えた。彼は一切を節子の自由に任せようとした。今日まで節子を導いて来た彼女の生命《いのち》は明日も彼女を導くであろうと信じたからで。

        百十七

 谷中《やなか》の家を中心にした親戚《しんせき》との衝突は最早避けがたく思われて来た。それにしても岸本は節子の位置をハッキリさせて置きたいと思い、更に義雄兄に宛《あ》てて前に送ったよりは一層書きにくい手紙を書きに掛った。
 この手紙は大兄に宛てたものではあるが、輝子に持参して貰うためわざと渋谷の方へ送る、と岸本は書き出した。何卒《なにとぞ》輝子に読ませて聞いて頂きたいと書いた。自分は大兄に節子のことをよく知って頂きたいためばかりでなく、輝子にもそれを知って置いて貰いたいと思い、それでこの手紙を持って行って貰うことにしたと書いた。今更自分が仏蘭西《フランス》の旅に出掛けた当時の恥に満ちた心を申上げるまでもない、ここには主として節子に起って来た心の変化を申上げたいと書いた。自分がそれを知ったのは国を去って遠く行こうとする時からであったと書いた。自分はあの神戸の旅館で節子からの便《たよ》りを受取って見て、自分の旅の決意が彼女の心を動かしたことを知って、寧《むし》ろそれを意外に思ったと書いた。自分は仏国の港に着き、巴里《パリ》に着いた。旅にある自分の心は、節子をして一切の旧《ふる》い記憶から離れさせたい、自分のことなぞは忘れて貰いたい、そして彼女の身を立てることを考えさせたいというにあったと書いた。「お前はもうこの事を忘れてしまえ」と言ってよこしてくれた大兄からの便りを巴里の客舎で読んだ時は、余計にこの心を深くしたと書いた。それからの月日の間、節子からの便りを読む度《たび》、いかに自分は責められたろうと書いた。その度に自分は返事さえ出すことをしなかったのみか、なるべく直接に彼女に文通することを避け、用事ある時は、それを大兄に宛てて言い送るくらいにしたと書いた。それにも関らず、節子からの便りは続いた。一度絶えたと思った便りが復《ま》た続いた。彼女は長い三年の間自分に宛てて書くことを忘れなかったと書いた。漸《ようや》く自分の帰国の日が来た。旅は自分の生活を変えたばかりでなく物の考え方をも変えさせた。自分は独身を固守するつもりも無かった。自分自身結婚する考えでもあり、節子にもまた適当な配偶者を択《えら》んで結婚することを勧めるつもりであった。その心で帰って来て見ると節子は一度ならず二度までも憂鬱《ゆううつ》に沈むような人であったと書いた。自分の眼に映る節子は到底|今日《こんにち》の節子から思い比べることの出来ないほど衰え果てた人であったと書いた。自分が二度と彼女に近づいて見るように成ったのも、再婚の考えをひるがえすように成ったのも、自己《おのれ》の罪過の責を負おうと決意するように成ったのも、すべては皆彼女の破滅を傍観し得られなかったところから起きて来たことだと書いた。自分は蹉《つまず》きもし、失望もし、迷いもした。しかし大体に於《お》いて彼女を救おうとした自分の方針を過まらなかったつもりだと書いた。罪の深いところから出発した自分は、すくなくも自己《おのれ》に省みて疚《やま》しくないところまで彼女を導いたつもりだと書いた。自分等は罪で罪を洗い、過ちで過ちを洗おうとした、その結果として互に独身をちかったと書いた。節子には最早《もはや》家庭の人となる望みはなかろうと思うと書いた。彼女の願いは、覚束《おぼつか》ないながらも静かな宗教生活に入ることにあるだろうと思うと書いた。自分はすこしも彼女を拘束する考えは持たない、彼女の前途に幸福あれかしと願うの外はないと書いた。今になって見ると自分の為たこと考えたことは、帰国当時の心持からは大分|隔絶《かけはな》れたものであるが、しかし自分としてはこれより外に道の歩みようが無かったと書いた。猶《なお》、今日までの通り節子の生活は自分の方で保証する、それを自分の責任とも考えると書いた。それには輝子の手を煩《わずら》わすなり、為替《かわせ》に託するなりして、送金したいと思うと書き添えた。
 復《ま》た復た岸本は筆を擱《お》いて嘆息してしまった。複雑し矛盾した心の経験は到底こんな手紙に尽しようが無かった。

        百十八

 渋谷の輝子は岸本の方から送った手紙を谷中まで届けに行った帰りだと言って、愛宕下《あたごした》の下宿へ立寄った。
「浦潮《ウラジオ》の姉さん」
 何事《なんに》も知らない子供等は無邪気な声を掛けた。輝子は「渋谷の姉さん」としてよりも未だ「浦潮の姉さん」として子供等に喜び迎えられていた。
「一寸《ちょっと》父さんのところへ御使に来ましたから、その御用を済ましてしまって――それから後で」
 と輝子は泉太や繁を言い宥《なだ》めた。岸本は湯をたやさずにある火鉢《ひばち》の側で輝子を迎えた。義雄兄の方からの返事を聞くまでは彼も落ちつかなかった。
「お父《とっ》さんが、いずれこの御返事は後から致しますッて――」
 輝子は意味ありげに言って、更にきっぱりとした調子で、
「節ちゃんはもう叔父さんのところへお手伝いには上げませんから、そのお積りでいらっして下さい」
 こう岸本に言った。輝子は、岸本が悪い顔でもするのを待受けるかのようにそれを言ったが、岸本の方ではもとよりそのつもりであった。
「それは承知しました」
 と彼は簡単に答えた。
「それから、お父さんが叔父さんにそう言って下さいッて――『青くなったり、赤くなったりして、自分の為た事を書かなければ食えないかと思うと、御気の毒な商売だ』ッて、そう言って下さいッて――」
 輝子を通して聞くこの兄の言葉をも岸本はそのまま受けて置いた。それよりも岸本は祖母《おばあ》さんのことを知りたかった。
「祖母さんにも話してくれたかね――」と彼が訊《き》いた。
「それですよ」と輝子はすこし肩を動《ゆす》るようにして、「祖母さんに黙って置いては悪かろうと思いまして、私から節ちゃんのことを話しました。どうして祖母さんは、悟でも開いたような顔をして、そんな話を聞いてもそれは平常《いつも》の通りでしたよ……叔父さんの御手紙は私も拝見しましたがね、何にしても可哀そうなものは節ちゃんです。子供があると、なかなか忘れられないものだそうです」
 こう言って輝子は笑った。彼女はもうこんな話をしたくないという風で、取返しのつかない叔父の懺悔から親戚同志の楽しい平和が破られた事を哀《かな》しむように見えた。こうした場合の輝子は言うだけのことを言っても、その後から直に彼女の涙もろい性質を見せた。
「どれ、御用はこれで済みました――君ちゃんも姉さんの側へいらっしゃい」
 と輝子は次の部屋に遊んでいる君子を呼んで、大人同志の気まずい心持を子供の方へ避けた。
 独りになってから岸本は節子に宛てて誰に見せても差支《さしつかえ》の無い手紙を送った。それには義雄兄の方へ書面を出して自分の立場を明かにしたこと、しばらく御無沙汰《ごぶさた》すること、祖母さんはじめ目上の人達へ奉仕の心を励んでくれということなぞを簡単に書いて送った。その翌々日、彼は節子からの返事を受取って見て、父の心はとけない、しかし自分は漸く少し楽な心持に成った、ほんとに勉強したいような気も起って来たから安心してくれという意味の言葉を見つけた。その返事の中には、「お父さんのところへ最初の御手紙の参りました時にも、私には見せませんで、自分で何かお書きになって、台湾の伯父さんの許《ところ》へ出しました」ともしてあった。「布施さんから復た葉書が参りました。先日の御手紙は拝見した、その事につき御面談申上げたいことがあるから近日お伺いすると言って参りました――好い加減にして下されば好いのにね」ともしてあった。それを見て岸本は、義雄兄や輝子の間には未だ節子の縁談の続いていることを知った。

        百十九

[#ここから1字下げ]
「噫《ああ》、万事休す。われに断腸の思いあり。足下は自己を懺悔すと称《とな》えながら、相手方の生活を保証することによって不徳を遂行せんとするの形跡あるは言語道断なりと言うべし。吾娘はわれに於いて処分するの覚悟を有す。敢《あえ》て足下の容喙《ようかい》を許さず。
 ここに涙を振《ふる》って足下を義絶す。
[#地から2字上げ]岸本義雄
 岸本捨吉殿
猶、子供は罪なきものなれば、泉太、繁二子が時々の来訪を許す。
  世の中の善きも悪《あ》しきも知れる身のなど踏み迷ふ人の正みち」
[#ここで字下げ終わり]
 義雄は輝子を使として、これを岸本の許へ持たせてよこした。いずれ返事をすると義雄の方から前触《まえぶれ》のあったのがこれだ。
 輝子は父の封書を岸本の前に置いたまま、直ぐに座をはずした。彼女は離座敷《はなれ》の廊下の方へ起《た》って行って、しばらく障子の外に立ちつくした。やがて岸本がその絶交状を読んでしまった頃を見計らって、復た彼女は叔父の居るところへ引返して来た。
「お前のお父《とっ》さんのところからこういうものが来た」
 岸本はそれを輝子に言って見せたぎりで、大判の奉書に兄自身筆を執って眼病後の人らしく大きく書いてある手紙を巻き納めた。
「叔父さんの親切にして下さるのが、反って節ちゃんには身の仇《あだ》ですよ」
 この輝子の言葉が岸本の沈思を破った。輝子はさも迷惑顔にそれを言ったが、岸本の方では別にその事について何も言おうとはしなかった。彼は自分で茶を入れて、使に来た輝子をねぎらうようにした。
 輝子が帰って行った後、岸本は兄の書いたものを読み返した。その手紙の終に諷諭《ふうゆ》の意を寄せたらしく書き添えてある兄の三十一文字《みそひともじ》を繰返して見た。

  「世の中の善きも悪しきも知れる身のなど踏み迷ふ人の正みち」

 岸本は兄の非難と、長いこと自分の考え苦しんで来た心持とを思い比べた。彼はそう思った。成程、兄の非難することは以前の自分にも赦《ゆる》しがたい罪悪と考えられた。それはまたこの世に成就しがたいことでもある。しかし自己《おのれ》に顧みて疚《やま》しくないところまで行ったものであったら、仮令《たとえ》この世に成就しがたいことでも、一概にそれを罪悪とは考えられないと。これほど岸本は兄と意見が違うばかりでなく、以前の自分とも違って来た。彼は唯黙ってこの手紙を受けて置いた。懺悔の内容そのものが彼には答の一切であった。
 義雄は一方に岸本を絶交し、一方には節子に結婚を勧めようとした。そのことを岸本は節子からの手紙で読んだ。節子は岸本に宛てて書いた中に、別に父に与えた手紙をも同封してよこした。その二通の手紙にざっと眼を通して見た後で、岸本は彼女が父に与えたという方を読返して見た。
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「先日の御説確かに拝聴|仕《つかまつ》り候《そうろう》。父上の論法より推す時は、あるいはそこに到着するやも計られず候。されど、百万遍の迷《まよ》い言《ごと》何の益《えき》なけれど聞いてつかわすべしとの仰せを幸《さいわい》、おのが心事を偽らず飾らず唯《ただ》有りのままに申し上ぐべく候。
 ――先《ま》ず申上げたきは親子の間に候。親の命に服従せざるごときは人間ならずとは仰せられ候えども、そは余りに親権の過大視には候わずや。斯《か》く言えばいたずらに親を軽視するものとの誤解も候わんなれども、決して決してさる意味にて申上るにはこれなく候。何事も唯々諾々《いいだくだく》としてその命に従い、あるいは又、内部に反感等を抱《いだ》きながら表面には唯これに従うごときは、わが望むところにはこれなく候。生命ある真の服従こそわが常の願いに候。思想の懸隔に加えて、平生の寡言《かごん》のため、これらを言い出ずる機会もなく今日に至りしものにこれあり候。
 ――自己の過ちを悔いもせず改めもせで、二度《ふたたび》これを継続するがごときは禽獣《きんじゅう》の行為なりと仰せられ候。まことに刻々として移り行く内部の変化を顧みることもなく、唯外観によりてのみ判断する時は、あるいは世の痴婦にも劣るものとおぼさるべく候。すべてに徹底を願い、真実を慕うおのが心のかの過ちによりて奈何《いか》ばかりの苦痛を重ねしか。そは今更|云々《うんぬん》致すまじ。最後の苦汁の一滴まで呑《の》み乾《ほ》すべき当然の責ある身にて候えば。されど孤独によりて開かれたるわが心の眼は余りに多き世の中の虚偽を見、何の疑うところもなくその中に平然として生息する人々を見、耳には空虚なる響を聞きて、かかるものを厭《いと》うの念は更に芭蕉《ばしょう》の心を楽しみ、西行《さいぎょう》の心を楽しむの心を深く致し候。わが常に求むる真実を過ちの対象に見出したるは、一面より言えば不幸なるがごとくなれど、必ずしも然《さ》らで、過ちを変じて光あるものとなすべき向上の努力こそわが切なる願いに候。
 ――おのが生きむとする道を宗教に択《えら》びたるは、一つは神を求むる心より、一つはかの歎《なげ》きの底より浮びたる時にあたり恐るべき世の冷《つめた》さに触れ、その悔悟も熱心も遂《つい》に多くの罪人等の自棄《じき》に陥る道に到るべきことを見出したるに外ならず候。宗教につきては、ここにはわが志を申上ぐるにとどめ申すべく候。
 ――右は意を尽さざるところ多けれども、これによりてわが心事の一端なりとも御斟酌《ごしんしゃく》下され候わんには幸《さいわい》にこれあり候」
[#ここで字下げ終わり]

        百二十

 節子が父に宛《あ》てたという手紙を手にして見ると、いよいよ彼女の立場の明かに成ったことが岸本にもよく感じられた。強烈な威圧の力も結局小さなたましい一つをどうすることも出来ないということをも感じられた。岸本は彼女から自分の方へくれた手紙をも読返して見た。
「昨日、布施さんが見えまして、いよいよ本当にお断りいたしました。一昨々日姉が参りました時、まだお父さんはあの縁談に未練があったんでございましょう、祖母さんと姉にいろいろ相談しまして、二人から私にそれを言わせたんですよ。姉がその話のおしまいに、叔父さんとすっかり別れて自分|独《ひと》りでやるというものか、それとも今までのようにして自分の仕事をするというものか、それを聞かなければお父さんに返事が出来ないと言うんですよ。それから私が、何年|逢《あ》わないでいてもそんなことは関《かま》わない、精神《こころ》の上からは叔父さんに別れるなんてことは出来ないってそう言ったんですよ。それを姉がお父さんに話したんでしょう。そうしまして、私がお父さんの前へ御辞儀に行きましたら、何とも言わないで長い間黙っていらっしゃるものですから、姉が何か言うことは有りませんかッてお父さんに言いましたら、俺《おれ》は呆《あき》れて物が言えない、人間だと思えばこそ話しもするがそんな禽獣《きんじゅう》には何も言うことは無い、彼等は禽獣に等しいものだ、蠅《はえ》なんて奴は高貴な人の前でも戯れるようなものだ、そんなものと真人間《まにんげん》と一緒にされて堪《たま》るものかなんて、それからも随分激しい調子でいろいろ仰《おっしゃ》ったんですよ。姉が、そんなに御自分のことばかり仰っても、節ちゃんの方のことも聞いてやらなくちゃ、私が聞いてもその通りには話せませんから節ちゃんに書いて貰《もら》うことにしましょう、それを私がお父さんに読んであげましょうッて言いましたのよ。お父さんはそれを聞きましてね、鸚鵡《おうむ》や鸚哥《いんこ》なんて奴はよくしゃべるから、迷い言の百万遍くりかえしても俺の耳には入らないが、禽獣のしゃべるのを一つ聞いてやろう、人間の顔をした禽獣のことだから何か物も書くだろう、一つ禽獣の書いたものを見てやろうと仰るんですよ。とても何を書いても解《わか》って貰えようは無いとは思いました。けれども自分の考えだけは一応明かにして置きたいと思いましたので、別紙のようなものを昨晩書きました。今日にも姉が参りましたら、読んで貰いましょうと思っております。毎日何かにつけて、そんなことを言われますけれど、この節は腹など立たなくなりました。自分をうつ鞭《むち》とも考えまして、はっきりした心持で一心に勉強したり家事を手伝ったりしております。つくづく『創作』の力を思います。それにしてもお父さんの気象として、何でも御自分の意のままに成ると考え、無理にもまたそうしなければ気のすまないところから、思いのままならぬ嘆息を僅《わず》かに禽獣と見て慰めていらっしゃるかと思いますと、お気の毒のようにもぞんじます。おん身御大切に。もうすこしで遠い旅からお帰りになった日も復《ま》た参りますね」
 節子がこれを書いてよこしたのは六月の下旬だ。どうせ一度はこういう時が来る、岸本は節子のことを思いやった。そこから本当の進路が開ける、彼女が心のどん底を父に打明けただけでも、それだけでも既に彼女は明るみへ出られたのだとも思いやった。岸本はつくづく「創作」の力を思うという彼女を想像し、誰一人理解するもののない彼女の周囲を想像し、親の心に背《そむ》いても生きて出ようとするものの涙の多い朝晩を想像した。

        百二十一

「お前は恐ろしいことをしてくれた。黙って置きさえすれば最早知れずに済むことではないか。黙って置きさえすればお前は好い親戚《しんせき》として通り、好い叔父さんとして通っているではないか」
 こういう声が来て絶えず岸本の耳の辺《ほとり》にささやいた。
 真実の曝露《ばくろ》ということは弟の方から進んで受けようとした勘当ぐらいの程度に止まらないで、兄の方から宣告でも下したような義絶にまで導いた。それはまた、親の計画を齟齬《そご》させ、娘を親から反《そむ》かせ、混雑と狼狽《ろうばい》とを親戚の間に蒔《ま》き散らした。岸本が自分の生活を根から覆《くつがえ》そうとして掛ったことは、今更眼に見えない牢屋《ろうや》なぞを出られて堪《たま》るものかというものをも、嘘《うそ》を嘘として置いて貰わないことには周囲《はた》で迷惑だというものをも、そういうものまでも一緒に覆してしまった。
 しかし岸本はもっと広い自由な世界をめがけて脇目《わきめ》もふらずに急ごうとした。仮令《たとえ》親戚から離れ、人から爪弾《つまはじ》きせられ、全く自分一人に生きなければ成らないような時が来ようとも、彼としてはそれも已《や》むを得なかった。七月に入る頃までには、彼は海の外へ逃《のが》れようとした旅の動機から、暗夜に神戸の港を離れて行く外国船の中の客となったまでの事実を世間に発表した。過ぐる年月の間の最も心の暗かった時のことが、一日々々と曝露されて行った。長いこと彼の身に附纏《つきまと》った秘密の影、葬ろう葬ろうとして到底葬り得なかった過去の罪過――彼はそれらの暗いものと共に倒れて行く自己《おのれ》を見るような傷《いた》ましい心持に満たされた。
 節子が愛宕下へ通って来る道も最早絶え果てた。岸本は彼女への月々の仕送りも見合せ、手紙を書くことも見合せ、ただただ引籠《ひきこも》り勝ちに謹慎の意をあらわしていた。でも節子の方からはよく手紙をよこした。彼女は折々の消息を岸本に伝えることを怠らなかった。この間父に宛てて書いたものを姉が来た時に読んで貰ったと彼女は書いてよこした。その時も二階から聞える父の大きな声が自分をハラハラさせるほどであったが、結局姉を通して、「今に俺が考えて置く」という父の返事であったと書いてよこした。父は嫌《いや》な顔をしていることもあるが、どうかするとすっかり馬鹿にでも成ったように自分を見ている時もあると書いてよこした。父から叔父さんへ送った返事のことも姉から聞いて、仕方の無い自然の成行《なりゆき》と思うと書いてよこした。しかし今までの苦しいことも、悲しいことも、何一つ無駄になったものの無いことを思えば、今度のような出来事からもいろいろと物を考えさせられて、反《かえ》って自分に取っては静かにはっきりとした心持で勉強の出来る時を与えられたような気がすると書いてよこした。彼女はまた、今後お目に掛れるのは何時《いつ》のことか、何年の後かと書いてよこした。その時になって叔父さんに自分を見て貰うのが何よりの楽しみだと書いてよこした。自分は毎日神に祈るようになったと書いてよこした。

        百二十二

「お節さんはどうなすったんですか。この節はさっぱりお見えに成りませんねえ」
 母屋《おもや》の台所の方から膳《ぜん》を運んで来た女中がそれを岸本に言った。丁度昼飯時で、三人の子供は学校の方へ弁当を持って行っていた。女中は岸本の膳だけを離座敷《はなれ》に置いて、
「お子さん方の着物の綻《ほころ》びでもありましたら、ずんずんお出しなすって下さい。手はいくらも御座いますから」
 という言葉を残して置いて母屋の方へ引返して行った。
 岸本に取っては帰国当時の季節を思い出させるような七月らしい雨の来た日であった。その時になって見ると、彼はこの下宿に一番長く泊っている客で、一年ばかり離座敷で暮すうちには女中等の顔までも変って来た。例のように彼は部屋の茶戸棚《ちゃとだな》の側に陣取って膳に対《むか》って見た。懺悔《ざんげ》を書き始めてから以来《このかた》閉居する身には庭の草木も眼についた。夏らしい涼しい雨は開けひろげた障子の外に見える青桐《あおぎり》の幹をも伝って流れていた。縁先に立つ古く細い松の根、苔《こけ》の生《は》えた庭石、青々とした笹《ささ》の葉、皆|濡《ぬ》れて見えた。彼は飯櫃《めしびつ》を自分の方へ引寄せて、手盛りでノンキにやった。その部屋から雨を眺《なが》めながら独りで飯を食った。
 節子がこの下宿へ仕事の手伝いに通って来た日のことは、最早静かなところで想い起して見る昨日のことであった。岸本は未だこの庭へ鶯《うぐいす》が来てさかんに鳴いていた頃に節子が一度病院から訪《たず》ねて来たことを想い出し、嫂《あによめ》が亡《な》くなってから十日ばかり経《た》った頃に彼女がひどく疲れてやって来たことをも想い出した。四月の末には彼女はリリスの花を一鉢《ひとはち》持って来て置いて行ったこともあった。五月に入っても未だ彼女は通って来ていて、その月の末までは顔を見せた。ほんとに好い事があるから頼みつけの米屋へ電話を掛けてくれ、そうしたらお伺いする、何も何もお目に掛った上でという意味の手紙をよこした翌日、彼女はやって来た。彼女のいう「ほんとに好い事」とは、例の女医から自分の子供の写真を手に入れたと言って、それを岸本の許へ見せに持って来たのであった。その時、岸本は初めて親夫という子供の姿を見た。それを節子と一緒に見た。その子供のおもざしは母親によく似ていて、殊《こと》に眼付なぞは節子にそっくりで、幼い遊び友達と二人で写真に撮《と》れていた。「お前はもう子供を欲しいとは思わないか」そんな串談《じょうだん》の中にも、岸本は節子の独身で居るのを憫《あわれ》む心から言って見た時、彼女は首を振って、「もう沢山、このうえ子供があったら私は死んでしまいますよ」と真面目顔《まじめがお》に答えたこともあった。それが彼女の通って来た最後の時であった。
 食後に、岸本は節子から預かって置いた子供の写真を取出しに行って見た。罪のない幼いものの存在が今はハッキリと岸本の父らしい意識に上るように成った。

        百二十三

 庭先にふりそそぐ雨の音を聴《き》きながら、岸本は更に思いつづけた。沈まって行った情熱を静かなところで想い起して見ると、実にいろいろなことがその中から出て来た。
 二階がある。窓がある。障子がある。障子の外は直《す》ぐ物干場につづいて、近くの町の屋根も見える。遠く小高い崖《がけ》の地勢に立つ雑木林の一部も見える。郊外らしい空もそこから望まれる。その窓際《まどぎわ》に身をよせて、譬《たと》えようのない不安に沈んだ人のようにしょんぼり窓の外を眺めている女がある。この二階が以前の高輪《たかなわ》の家の近くに岸本の仮の書斎としてあったところだ。この女が節子だ。
 その時ほど岸本は自分の弱いことを感じたことは無かったことを思い出した。何故というに、三年の旅の修業が実際何の役に立つかと自分ながら疑われて来たのも、その時であったから。節子が二度母にならないとも限らないような心配らしい口吻《くちぶり》を泄《も》らしたのも、その時であったから。人の経験というものの力なさがその時ほど彼を嘆息させたことも無かった。あれほど死に損《そこ》なうような苦い思いを一度経験しながら――あれほど寂しい流浪《さすらい》の旅に行って異郷の客舎の床《ゆか》の上に跪《ひざまず》き、冷い板敷に額を押宛てるまでにして、男泣きに泣いても足りないほどの痛苦を一度経験しながら――その経験が少しも彼の頼みにはならなかった。彼は新たに同じ事を悲まねば成らないような位置にその時の自分を見出したのであった。彼は節子に言った。「二度とあんな旅に出掛けるなんてことは、俺には出来ない。もしそんな場合が起って来るとしたら、俺は死ぬより外に仕方がない。さもなければ、寺院《おてら》へでも入ってしまう。そんな話を聞いたばかりでも、俺はもうこの頭を剃《そ》ってしまいたく成った――」これほど彼は深い悲痛を覚えたことを思い出した。何という不安な日がそれから二人の上に続いたろう。節子はその心配を胸にもちながら、高輪から谷中《やなか》の家へ引移って行ったことを思い出した。彼はまた節子から来た手紙の端に次のような短い言葉を読むまでは安心しなかったことを思い出した。
「最早僧坊生活の必要もなくなりましたから、御安心下さい」
 岸本が自分と節子との結びつきをおろそかに考えないように成ったのも、彼女に対する自分の誠実《まこと》を意識するように成って行ったのも、この悲哀《かなしみ》に打たれた後から起きて来たことを思い出した。荒びたパッションが通り過ぎて行った後になって見て、一層その事がはっきりと岸本の胸に纏《まと》まって浮んで来た。

        百二十四

 しかしそればかりではない、岸本は節子と共に送った月日の間に、子供の時分から先入主となったいろいろな物の考え方なぞを変えさせられたことを思い出した。彼はあの仏蘭西《フランス》現代の彫刻家の手につくられたマリアの石像というものを思い出した。その石像は、彼が仏蘭西の旅の間に到るところの羅馬《ローマ》旧教の寺院や又は美術館などに見つけた古画と比べるまでもなく、あのリモオジュの田舎家《いなかや》の壁に掛っていたマリアの図に見つけるほどの聖母らしい面影にも欠けていたことを思い出した。その石の塊からは何が浮いて来るかと言うに、ありふれたマリアの像に見るような平和と円満とのかたちではなくて、子を産んだ処女の衰えた姿であったことを思い出した。豊かな頬《ほお》と胸とのかわりに、げっそり削り取られたように肉がその石に彫り刻んであったことを思い出した。丁度彼が遠い旅から帰って来て見た節子の変り果てた姿がそれであった。その節子が眼に見えて違って来て、三年も彼女の側に居て心配しつづけた祖母《おばあ》さんまでがそれを言うほど違って来たことを思い出した。彼女の動作から、彼女の声まで生々として来たことを思い出した。しまいには節子が彼のところへ来て、「でも、ほんとに力を頂きましたねえ」と言って悦《よろこ》んで見せるほど違って来たことを思い出した。その時から彼の不義の観念が一変したと言っても可《い》いほど動いたものと成って来た。この世ならぬ夫婦のような親しみがそこから生れて来たばかりでなく、互に一生を托《たく》そうとするような悲しみも生れて来たばかりでなく、それまで苦しみに苦しんだ罪と過《あやま》ちとが反って罪と過ちとを救うほどの清浄で自然な力を感じさせた。彼が罪の浄化ということを考えるように成ったのも、その頃からであった。彼が長いこと先入主となった肉の卑《いや》しめから離れるように成ったのも、その頃からであった。彼のように女性を軽蔑《けいべつ》して来たというのも、一つは彼の性分にあったとは言え、その卑しめの心が多分に女性を厭《いと》わしく煩《わずら》わしいものにしたことにも想い当った。彼はよく節子にあのアベラアルとエロイズの話をしたことを思い出した。彼女が未だこの下宿へ通って来る頃には、あの僧侶《ぼうさん》と尼僧《あまさん》との伝説に関したものを見つけて置いてそれを彼女に読ました事を思い出した。あの巴里《パリ》のペエル・ラセエズの墓地に静かな愛の涅槃《ねはん》のように眠っていた二人の寝像《しんぞう》。曾《かつ》ては通りすがりの旅人のようにして読んで来たあの羅馬旧教風な古めかしい御堂の横手に彫ってあった文字。それを彼は眼に浮べて見て、終生変ることの無かったというあの僧侶と尼僧とのような精神的な愛情が、東洋風に肉を卑しむ心から果して生れて来るものだろうかとも考えるように成った。
 岸本が待受けた夜明は、何もそう遠いところから白んで来るでもなく、自分の直ぐ足許《あしもと》から開けて行きそうに見えた。血から解き放され、肉から解き放されて行くことを感知する度《たび》に、暗かった彼の心も次第に明るい方へ、明るい方へと出て行く思いをした。

        百二十五

 七月の末まで待つうちに、節子の前途に開けかかった進路のいとぐちが朧気《おぼろげ》ながら岸本には見えて来た。台湾の民助兄でも東京に家を持っていると節子を預けたいと言った義雄兄の口吻《くちぶり》と、「吾娘はわれに於いて処分するの覚悟を有す」と書いてよこしたような義雄兄の文句と、その後の節子からの手紙で父はしきりに台湾の伯父さんの上京を促しているということなどを綜《あつ》め合せて見ると、そこに岸本は義雄兄の意嚮《いこう》を読んだ。兄弟の縁を絶ってまでも節子に岸本のことを思い切らせようとした義雄兄が、反対に節子の告白を聞いて、黙ってそのままにして置く気遣《きづか》いもなかった。けれども、岸本は今々どうすることも出来ないでいるものの本当の意味の解決を彼女と自分との告白の結果に求めようとした。所詮《しょせん》彼女は一足飛びに自身の択《えら》んだ方針へ進んで行かれる人ではなかった。
「ああそうだ――いずれ節ちゃんは台湾へでもやられるように成る――」
 岸本は独《ひと》りでそれを言って見て、一方には彼女を可哀そうに思い、一方にはそれを寧《むし》ろ彼女のために可《い》いと考えた。岸本は確かに彼女の前途に進路が開けかかって来たことを想って見た。すくなくとも、彼女が今の境涯から動いて出られるというだけでも。
 見ることの出来ないように成った節子を思いやりながら、岸本はよく子供を連れて夕方から町の空へ出た。往来で行き逢う人々の中にも、彼は節子と同じような年頃の婦人を見かけて、それらの知らない人の通り過ぎる影に彼女を思い比べることがあった。そういう場合の彼は後姿なぞの節子に似た人をどうかすると見かけるまでであって、髪のかたち一つ彼女と同じものに遭遇《でっくわ》すということさえ殆《ほとん》ど無かった。節子の髪の形は矢張《やっぱり》彼女一人の特有なものであった。それに似よりのものを彼女の身内の人達に求めると、一番彼女に近い筈《はず》の亡《な》くなった嫂を想い出さないで、反って祖母さんの方を思い出すのが岸本の常であった。祖母さんはもう好い年齢《とし》で、頭《つむり》の上あたりは禿《は》げ、髪もあらかた抜け落ちてしまったが、未だそれでも後の方には房々《ふさふさ》とした毛の残りを見せている人だ。それを集めれば、どうにか老人《としより》らしい髪ぐらいは結える人だ。この特色が節子に伝わって、後から見た彼女の髪のかたちを特に岸本は好ましく思っていた。髪ばかりではない、女らしい耳でも、額つきでも、彼女は身内のものの誰よりも祖母さんに似ていた。博多《はかた》の帯のことから話が出て、節子は女としての自分を岸本に言って見せたこともあった。彼女に言わせるとすらりとしたきゃしゃな体格にでも生れついて来た人でなければ、博多の帯なぞというものは似合わない。自分のようにこうゴツゴツした身体のものは、そういう柄でないと。不思議にも岸本はその骨張った、ゴツゴツした、背の高い節子から、悩ましいまでに柔かく女らしい線なぞの流れて来るのを見つけたものであった。
 岸本の下宿のあるところから愛宕山《あたごやま》へは近かった。そこへ子供を連れて行く折なぞは、泉太や繁が父と一緒に歩き廻ることを楽みにするばかりでなく、君子までも嬉しそうに随《つ》いて来た。見上げるように急な男坂《おとこざか》の石段でも登って行くと、パノラマのような眺望《ちょうぼう》がそこに展《ひら》けている。新しい建築物《たてもの》で満たされた東京の中心地の市街から品川の海の方まで見えるその山の上で、岸本の心はよく谷中の空の方へ行った。

        百二十六

 この節はちっとも手紙を寄《よこ》さないと御思いになりましょう、と節子が書いてよこした。彼女のことがしきりに気に掛っている時で、岸本はその手紙をひぐらしの鳴声の深くすずしく聞えて来るような自分の部屋の障子の側で読んで見た。いつでもそういう時があったら、ほんとに手紙らしい手紙を書いているといったような好ましい心持で書いた手紙を差上げるために、今の自分が支度《したく》をしていると思い出して頂きたい、と彼女は書いてよこした。こうしてお目にも掛れないように成ったら、さぞ自分が鬱《ふさ》ぎ込むとでも父は思っていたのであろう、それなのに自分が一生懸命で勉強しているので父は案外なような顔付で随分いろいろなことを言うと書いてよこした。でも余りにいろいろなことを言われると、少しでも眼前《めのまえ》の煩《わずら》わしさから離れたいと思うから、余計に読みたいと思う書籍《ほん》も読めると書いてよこした。
 めずらしく彼女は幼少《ちいさ》い時分の追憶などをその手紙の中に書きこんでよこした。自分は随分貧しく育てられたが、しかしこうして置けば可《よ》かったと後で悔むようなことは何事《なんに》も無かったから、家庭の貧しさもさほどに苦にもしなかったと書いてよこした。自分は他の子供のようにお銭《あし》を持って行って少しずつ菓子などを買うものでは無いと思い込んでいたが、田舎で生煎餅《なませんべい》というあの三角な菓子などを売りに来て、他の子供が皆それを持っていると、どうかすると自分も欲しくなったと書いてよこした。それを御願いして、では買って進《あ》げるから一銭だけ自分で出して行くようになどと言われると、子供心に嬉しかったと書いてよこした。見ると、状箱のような容器《いれもの》に毛糸で編んだお金入が入れてある、そのお金入の中にほんの僅《わずか》なお金を見た時は、自分はほんとに済まないことを言ったような悲しい気持になって、もう決してそんなことは言い出すまいと思ったと書いてよこした。それが自分の十か十一の歳《とし》の時であったと書いてよこした。考えて見ると自分は幼少《ちいさ》い時から苦労性であったと書いてよこした。
 今度なぞは、もし台湾へ行くように成ろうとも、最早心の曇るようなことはあるまいと思う、と彼女はまた書いてよこした。この間も父が一ちゃんを酷《ひど》く叱った時、後で一ちゃんが青ざめた顔をしていたから、祖母さんが見かねて、いろいろなことを言ったと書いてよこした。その時父の言うには、節ちゃんなんかがそういう意見を出しているに違いないが、口で言って聞く位なら真《まこと》に有難い、口で言っても聞かないものがあればこそ牢屋もあり警察もある、言うことを聞かない奴にも種々《いろいろ》あるが、そういう奴はまたそういう奴で別に処分する、そんなことを言って暗に父から仄《ほの》めかされたと書いてよこした。けれども自分はしっかりした、心強いものを持っている。台湾へ行くように成ろうと朝鮮へ行くように成ろうとそんなことのために動かされないと書いてよこした。「いつでも心の中では御一緒ですものね」とも書いてよこした。
 これを読むと、岸本はいたいたしい、いらいらとした位置に節子を置いて考えるにも耐えないような気がして来た。どうかして今の境遇から離れさせたい。その意味から彼は寧《むし》ろ節子の台湾行の一日も早く事実となるのを望んでいた。

        百二十七

 遠いところへ節子が行ってしまう前に、岸本は一度彼女に逢《あ》いたいと思う心を起さないではなかった。告白後の節子が殆《ほとん》ど幽閉の身も同様で、「何処《どこ》へも出ちゃ不可《いけない》」と父から厳《きび》しく言い渡されて、渋谷の姉の家へ独《ひと》りで行くことすらも禁じられているのを岸本は知っていた。その中でも、もし彼の方で節子を見たいと思えば、いかにでもして逢うぐらいの機会が見出せないでもなかった。しかし彼は無理にそんな機会を見つけてまでも、こっそり逢いに行くような場合でないと思った。それよりも彼は明るいところで互に顔の合せられる時まで待とうとした。「今後お目に掛れるのは何時《いつ》のことか、何年の後か」という意味の言葉が節子から来た手紙の中にも書いてあったが、その時こそ彼はほんとうに落着くところへ落着いた彼女を見たいと思い、今日の艱難《かんなん》と忍耐とを昔話にすることの出来るような彼女を見たいと思った。今は一切をそこへ投出したばかりの時だ。節子も、彼も、互に謹慎の意をあらわそうとしている時だ。長い将来のことを考えて、忍ぼうとする時だ。
 岸本は節子を見ることは出来なかったが彼女の声を聞くことだけは出来た。「お節さんから電話でございます」と言って下宿の女中が取次いでくれる度《たび》に、岸本はよく電話口のところへ行って懐《なつ》かしい声を聞いた。「こちらは自働電話でございますから」という声が伝わって来てから、岸本は節子が町へ買物に出ることをも、夜だけそれが許されていることをも知った。彼女の意味は、遠慮なく話してくれても関《かま》わないというにあるらしかった。「お前の方はそうでも、俺《おれ》の方はそうは行かない」――その断りが一語《ひとこと》言えないような位置に立って、茶の間に居る宿の主婦《かみさん》から台所の方に働く女中等の聞いているところで、どうかすると電話口に近い宿の主人《あるじ》の部屋に集まって涼みがてらに将棋をさしている人達までが聞いているところで、岸本は節子からの折々の報告を受けたり、相談に答えたりした。
「叔父さんでいらっしゃいますか――」
 ある晩、節子の声が復《ま》た掛って来た。
「なんですか、三晩も続けて叔父さんの夢を見たもんですから――あまり気になりましてね――どうかなすったんじゃないかと思いましてね――皆さんお変りもありませんか――」
 と節子の方から訊《き》いた。
 その時、岸本は彼女の話で台湾の民助兄が遠からず上京するということだけを確めた。尤《もっと》も、あの兄の用事の都合で、上京の日取は未だ定まらないとのことではあったが。
「そうか。いよいよ台湾の兄貴が出て来るかね」と岸本は言った。「お前も是非お願いするがいい――自分の方から進んでお供をするがいい――」
「私もそう思いまして――」と節子の声で。
「今度はそっちが旅に出掛ける番だね――」
 それを岸本が言うと、しばらく聞かない節子の楽しい笑声が彼の耳に伝わって来た。
 岸本は堅く閉《とざ》された大きな扉を隔てて、その内と外とで節子と言葉をかわすような思いをした。
 電話が切れた後のシーンとした沈黙は谷中《やなか》の方の夏の夜へ、明るく電燈の点《つ》いた町中の自働電話室へ、その電話口に立つ節子の方へ岸本の心を誘った。

        百二十八

 八月の末まで待った。岸本は蔭ながら節子のことを心配しつづけて、未《ま》だ台湾から何とも言って来ないのかとその便《たよ》りを待遠しく思っていた。彼は節子から次のような手紙を受取った。
「今日はお父《とっ》さんも病院へお出掛けになりましたから、久しぶりでお二階の三畳でこれを書きます。私がこの部屋に居るのは何だかお邪魔のようでもあり、お父さんは居睡《いねむ》りしていらっしゃる時の外は何時でも暗誦《あんしょう》ですから、私の方でも思うようには出来ませんから、長い間ずっと階下《した》の四畳半で皆と一緒におります。この頃は私は人の知らない満足と隠れた誇りとに満ちた日々を送っております。私共はすでにすでに勝利者の位置にあることを感じますね。自分のベストを尽した時でなければ、心から満足を感ずることも出来ないのに、私の周囲にある人達はどうしてこう小さなことに一生懸命になったり悦《よろこ》んだり悲しんだりして、それでいながら根本の問題には触れようともしないのでしょう。近頃ほんとうに生き甲斐《がい》のある時を送ったと思いましたのは、お母《っか》さんの亡《な》くなった前後でございました。それから思い合せて下すっても、この頃の日々がどんなものかは想像して見て下さることが出来ましょう。お母さんが病院へ入ります前に、『お前がもし大病なような時でも、わたしにはこれだけのことはして進《あ》げられない』とよく言い言いしましたっけ。それにつけても、自分の直《す》ぐ隣に居る人達を愛したくていながら、愛することの出来ないのは悲しいものとぞんじます。思えば僅《わず》かに心の顔を合せることの出来ましたお母さんとの間は、どんな他の人との関係にも勝《まさ》って私の心に鮮《あざや》かでございますが、その母子の愛情ですら私どもの創作には比較にも成らないような気が致します。これほどの創作が肉体と共に滅びてしまうようなものとは、どうしても考えられません。『神もし選び給わば、死して後なおよく愛することを得べし』とか。あの異国の婦人の言葉を私はどんなに嬉しく感じましたでしょう。今は創作の豊富を願うの外には何もございません。風吹かば吹け、雨降らば降れ――死の上にすら超越せしものなるを。
 ――私の健康を御心配下さることは何もございません。少しぐらいな無理も、溢《あふ》るる希望の前には何でもございませんから……」
 岸本は節子の心がここまで来たかと思い、何物にも蹂《ふ》みにじられまいとする彼女の愛情の頼もしさを思い、同時にこれほど激した手紙を書かせる彼女の境涯の切なさを思った。節子がユウモアのある心持の時と言えば、極く近く顔を寄せて、まるでたましいの奥まで見込むように眸《ひとみ》を合せることを好きでよくした。岸本はその節子の眸を見るような心持で、支那風《しなふう》の紅《あか》い紙箋《しせん》に鉛筆で書いてある彼女の心の消息を読んだ。
「つくづく年は取りたくないものだと思います。私はお婆さんに成りましても、苛酷《かこく》な心だけは持ちたくないと思います」
 こんな嘆息したような言葉が節子の手紙の終の方に書き添えてあった。

        百二十九

「オヤ、またおいそがしいところでしたかねえ」
 と言って輝子が渋谷から岸本の下宿を見舞いに来た。一旦《いったん》眼前《めのまえ》の平和が破れてからは、岸本は一方に輝子を見ることも苦しく思い、一方には門を鎖《とざ》してあるも同様に引籠《ひきこも》り勝ちな今の身で、遽《にわか》に遠くなってしまったような親戚《しんせき》に逢うことを懐かしくも思った。
「どうだ、俺《おれ》はこの節こういうものを穿《は》いて毎日仕事をしてる」
 と言いながら、岸本は山国の農夫の着ける紺木綿《こんもめん》のカルサンを着けたまま、自分で茶を入れに火鉢《ひばち》の側へ立って行った。
「東京でこんなカルサンなぞを穿いてる人はめったに無いね。奇を好むように思われるのも嫌《いや》だから、お客さまでもある時には大急ぎで脱いでしまう。まあお前だからこのままだ」と復《ま》た岸本が言った。
「いえ、よくお似合になりますよ――」と輝子は若い外交官の細君らしい調子で。
「そうお前のように言ったものでもない。ここの家の内儀《おかみ》さんなぞは東京の人で、こういうものを見たことも無かろう。いや、笑うにも、何にも。まるで茶番にでも出て来そうだなんて。しかし仕事着としては実に具合が好いね。夏はどうかと思ったが、割合にそう暑くない。俺のように坐って仕事をするものには蚊に喰《く》われなくて可《い》い。外国なんかへ行って帰って来ると、こういう好いもののあることが分るね」
 こんな話をして笑う間は、岸本は兄から絶交された身をも忘れて輝子と対《むか》い合っていることが出来た。しかし輝子の話が一度谷中の方の噂《うわさ》なぞに触れかけると、岸本は笑えなかった。
「こないだお父《とっ》さんが一ちゃんを連れて渋谷へ見えましたっけ」と輝子は言った。「その時も節ちゃんの話が出ましたっけ。お父さんが私に、『お前も愛宕下へは行くな――言うことを聞かないと、お前まで勘当してしまうぞ』ッて、そう言うんですよ。私は私で考えがありますし、叔母さんの生きていらっしゃる中《うち》からお世話に成っといてお訪《たず》ねもしないなんてことは私には出来ない。お父さんが何と言ったってそんなことは関《かま》いません」
「一体、お前は俺の懺悔《ざんげ》が出ない中から節ちゃんのことを知ってたろうか」
「知ってました。お母《っか》さんも知ってましたし、私も知ってました。ホラ、私は一度|浦潮《ウラジオ》から帰っていたことがありましょう。節ちゃんが何処かへ行っていたことがありましょう。ひょいと戸棚《とだな》かなんか開けて、お母さんの許《ところ》へ来た節ちゃんの手紙を見ちまいました。何かの用で、叔父さんのことが書いてありました。あの時、私は知りました。その前から節ちゃんの居るところを誰も私には教えないんでしょう――おかしい、おかしいと思っていたんですよ」
 こうした話をするように成っただけでも、いくらか輝子の心は解けて来た。妹の節子が今の祖母さん似なら、姉の輝子の方は何処か岸本兄弟を生んだ母親に似たところがあった。岸本の母親が何時でも人と人との間の調和者としてあったように、輝子もまた調和者として叔父の許へ尋ねて来たような口吻《くちぶり》を見せた。

        百三十

「節ちゃんも悪いと思いますよ――」と輝子が言い出した。「もうすこし祖母さんやお父さんに済まなかったと思うと可《い》いんですけれど、ちっともそんな様子を見せないんですもの。何ですか、自分じゃ立派なことでもしてるような顔付をして、すこしも祖母さんやお父さんに悪かったとは思っていないようなんですもの――」
 それを聞いて、岸本は節子のために何か言って見ようとしたが、「そりゃ節ちゃんだって悪かったとは思っている」ということと、「しかし節ちゃんは今自分の為《す》ることを決して悪いとは思っていない」ということと、その間には口で言えない領分があった。感じて貰《もら》うより外に仕方の無いような領分があった。岸本はある点までは輝子の言うことも聞いて見たいと思って、黙って煙草を燻《ふか》していた。
「ですから、お父さんもこないだそう言っていましたよ」と復《ま》た輝子が言った。「節ちゃんの様子と来たら、まるで洒蛙々々《しゃあしゃあ》してるなんて――」
「心持の違ったものの中に居ると、そう成るよ。どうして可いか解《わか》らなく成るよ」と岸本は言って見せた。「あんまりいろいろなことを言われて御覧、トボケてでもいるより外に仕方が無いからね」
 今度は輝子の方が黙ってしまった。岸本は節子と父との隔りが、やがて自分と輝子との隔りであることを思わずにはいられなかった。彼はこんな風に輝子に言って見た。
「つまり、節ちゃんの心持がお父さんには解らないから仕方が無いサ」
「そうかも知れませんけれど、お父さんの心持も節ちゃんには解っていません」
「まあ、俺に言わせると、節ちゃんはお父さんに接近し過ぎたんだね。すくなくもお前よりは、節ちゃんの方がお父さんに接近して見た方だね。何だか節ちゃんもそんなことを言っていたよ。あの代筆をさせられるまでは、お父さんのことがそうよく解らなくって、反《かえ》って好かッたって……」
「一体、節ちゃんは叔父さんによく似てますね」
「そうかなあ……俺に似てるかなあ」
「何事でもこう物をひねって考えるようなところが、それはよく叔父さんに似てますよ。そういう人達が二人|揃《そろ》ってしまったんですから、どうにも仕様がない」
 この輝子の調子が岸本を笑わせた。その時、岸本は嘆息するようにして、
「お前達は節ちゃんが地獄の方へでも歩いて行くように思っているんだろう。ところが節ちゃんは、自分じゃ極楽の方へ歩いてるつもりでいる――そんなに見当が違って来ているんだもの」
「何ですか知りませんけれど、少し普通じゃ有りませんのねえ」
 こう言って、輝子はまた輝子で嘆息した。
 岸本はもうこんな話をしたくなかった。節子のことにさえ触れなければ、輝子は気の置けない話好きな親戚であり、折々子供を見に来てくれるような温情のある人であった。「姉さんの来てあげるのが、そんなに貴方《あなた》がたには嬉しいの」こう言いながら泉太や繁に取りまかれる時が、一番輝子らしい時であった。
「もう君ちゃん達も学校から帰って来る時でしょうか。それじゃ、今少し御邪魔させて頂いて」
 と言って話頭を変えようとする輝子を前に置いて、岸本は満洲の方に居る輝子の夫の噂や台湾から上京するという民助兄の噂などに返った。
「ことしの夏は俺も暑い思いをした。殆んど誰にも逢わずに懺悔を書いて暮した。でも梅雨《つゆ》が短くて、それだけは助かったね。まるでこの一夏は、熱い汗と冷い汗とを流しつづけたようなものだね」
 と岸本は輝子に言って見せた。

        百三十一

 到頭十月の初までも待った。岸本は節子からの手紙を読む度《たび》に、今日は台湾の方から何とか言って来るか、明日は何とか言って来るか、とそればかりを待ち暮した。一月《ひとつき》は一月より気まずい思いをして谷中の家に暮すように成って行った節子の様子が岸本には思いやられた。彼女は岸本との交通を断たれてから、自活の道をも断たれてしまった。その中で折角延びて来た生命《いのち》の芽を育てて行くということも容易ではないと思いやられた。もし、自分が側に附いていたら。それを岸本は考えて、情熱と真実とに生きようとするものの告白後の結果に、その酷《むご》たらしさに、胸の塞《ふさ》がる思いをした。
「早く旅にでも何でも出掛けるが可《い》い」
 と岸本は独《ひと》りでよくそれを節子のために言って見た。
 節子から来る手紙で、岸本は彼女がどういう日を送っているかをありありと眼に見るように想像することが出来た。鶉《うずら》を飼うことに夢中になり花をつくることに夢中になっているというある人の噂が義雄兄と祖母さんの間に出て、「あの男もつまらないものに凝る男だ」と義雄兄が言出す、祖母さんはそれを受けて「それも楽みで好いわのい」と答えると、「それもそうだ、同じ凝るにも鶉や花に凝る奴は人が見ても楽めるが、男や女に凝る奴は処分にいかん」……こんな会話のはしにも当てこすりを言われて、それを聞かされているという節子を想像することが出来た。ある時は食事の後で宗教の話が出て、「宗教なんてものに碌《ろく》なものは無い、そんなものを信じる奴は馬鹿ばかりだ、天理教だの日蓮《にちれん》宗だの耶蘇《やそ》教だの皆《みんな》きちがいのやることだ」と言い出したという義雄兄をも、それを聞いて余程《よほど》何か言おうかとは思ったが我慢したという節子をも想像することが出来た。
「けれども、女の伝道師などにも一種の型がございますね。ああいうのは私もあんまり好きではございません。外観から申しましても私の好きなのは、所謂《いわゆる》上品から野暮を捨て、意気から下品を捨てたものでございますから」
 こんなことを節子は手紙の中に書いてよこすこともあった。
 何故宗教の話なぞが谷中の家で出るかというに、言うまでもなく節子の志すところがそこにあるからだ。身内のものの中から宗教の方面に人を送るというのも床《ゆか》しいことだと考えるようなものは、兄弟中で岸本の外には無かった。彼は節子の向いて行こうとする方面に賛成しているばかりでなく、寧《むし》ろその志を励ましたいくらいに思っていた。彼は節子からの依頼で、基督《キリスト》教主義のもとに出来た婦人の寄宿舎の様子を聞き合せたこともある。もし節子が宗教生活に身を投じようとならば、いくらも彼女の行く道はありそうに思えた。岸本に言わせると、彼女の宗教心は、言わば心の芽だ。そのかわり彼女には子供の時分から無理に注《つ》ぎ込まれたような先入主と成ったものが無い。その心の芽が罪過から萌《きざ》して来たところに、岸本は望みを掛けていた。いずれにしても、彼女は今々|直《す》ぐに思うところへ出て行かれるような人ではなかった。「時」というものの力を待つの外はない人であった。
 こうした心持から、岸本は節子のために民助兄の上京を待受けた。漸《ようや》く十月の半ば過ぎまで待って、その月の十一日に基隆《キールン》出帆の船に乗るという兄の通知が岸本のところへ届いた。

        百三十二

 台湾の民助兄は大阪の愛子夫婦の家に一二泊、用事の都合で静岡へも立寄って、その上で上京した。この兄は先《ま》ず谷中の家の方に着いて、それから岸本のところへ尋ねて来ることになった。
 節子が動こうとする頃には、岸本もまた動こうとしていた。彼は自分の下宿からさ程遠くない天文台の附近に家を見つけて移り住もうとしていた。下宿の離座敷《はなれ》を借りて三人の子供を養うも、一軒の家を借りて出るのも、半分旅人のような彼の生活には殆んど変りが無かった。彼は唯《ただ》、今の離座敷にあるものをそっくり新規な家の方へ持って行くだけのことであった。丁度|煮焚《にたき》の世話を頼むに好さそうな婆やも一人見つかったし。泉太をはじめ繁や君子まで日に増し成長して来て、自分の子供は自分の手で育てたいと思った彼が望みもいくらか遂げられたからで。子供等もまた次第に父と四人だけの簡素な生活に慣らされて来たからで。
 ある朝……十月の二十日過ぎの頃、岸本はひどい雨の音で眼がさめた。未だ夜は明けきらなかった。一年半足らず暮して見た離座敷の南側にある窓の雨戸の透間《すきま》の薄明るくなったのが彼の眼に映った。枕《まくら》の上で聴《き》くと、何処《どこ》から伝わって来るともなく虫の鳴声がする。それが秋雨の音の中で聞える。ややしばらく彼は枕に頭をつけたままで、窓の外の庭草に降りそそぐ夜明がたの雨を聞いていたが、あの巴里《パリ》の下宿の方に居る時分どうかするとよく眠られないで夜中に眼をさましたことを思い出した。その度に寝台を下りて、暗い旅の窓の側で仏蘭西《フランス》の煙草なぞを吸《の》んで見て、復《ま》た寝台に上ったことを思い出した。何時《いつ》の間にか彼の心は谷中の家の方へ行った。そこに泊っている民助兄がどういう心持で自分の懺悔を読んで見てくれたかを思い、またどういう心持でこの下宿へ尋ねて来てくれるかを思った時は、自分の身を羞《は》じる心と、遠く行く節子を憐《あわれ》む心と、この生に徹したいと思う心と、それらの心が一緒になって耳に聞える虫の鳴声と混り合った。彼は窓の外で鳴く虫が秋雨に打たれているのか、自分が冷い思いをしているのか、その差別もつけかねるように思いながら、次第に明るくなって行く朝を迎えた。
 岸本はそろそろ引越の支度《したく》をしながら民助兄を待っていた。午後から兄が尋ねて来た頃は何時の間にか雨も通過ぎた後であった。前の年に一度、民助は台湾の方から上京して久しぶりで弟と顔を合せたことがあった。その兄も、岸本が仏蘭西の旅に上ろうとした当時神戸の旅館で偶然落合って別離《わかれ》の酒を酌《く》みかわした頃の兄も、殆んど変りのないほどの人であった。今度逢って見ると、相変らず民助は身体のよく動く人で、台湾|土産《みやげ》のバナナの菓子や羊羹《ようかん》を提《さ》げて来て子供等の悦《よろこ》ぶ顔を見ようとする人で、種々な事業上の話から台湾の方に嫂《あによめ》と二人住む家の庭の熱帯植物の特色などまで物静かに語り聞かせるような人ではあったが、しかし岸本は今まで合せたことの無いような顔を合せた。節子の話が出るまでは、岸本は沈着《おちつ》かなかった。

        百三十三

 岸本は半日民助兄と話し暮した。久しぶりで酒を取寄せ、夕飯を出す頃になっても、未だ節子の話は出なかった。子供等は台湾の伯父さんと一緒に食事することをめずらしがるばかりでなく、土産にと言って民助のくれた椰子《やし》の実の菓子鉢《かしばち》などを見るにつけても熱い地方のことを子供心に聞きたがるという風で、食後まで伯父さんの側を離れようとはしなかった。
「お客さまはお泊りでございますか」
 とやがて女中が訊《き》きに来るように成った。
「子供は今夜は早く寝るが好い……お前達はもう寝よや……泉ちゃんも繁ちゃんもお休み」
 と民助に言われて、子供等は何かなしに嬉しそうに床に就《つ》いた。女中は客の夜具を運んで来て、離座敷《はなれ》の潜《くぐ》り戸《ど》を閉めて行った。母屋《おもや》の台所の方では未だ宵の口と言ってもいいほどの時ではあったが、宿の主人の笑声一つ離座敷へは聞えて来なかった。
「時に、懺悔《ざんげ》の一件だ」
 と民助が切出した。
 岸本はその話の出るのを待受けていた。民助兄がここへ訪《たず》ねて来る前に谷中の方で既に義雄兄との協議のあったことをも想像していた。それにしても、節子を処分しようとしている義雄兄からの依頼を受けてやって来た長兄を前に置いて、岸本は何を話していいかも分らなかった。
「まあ廻りくどいことは訊くまい……」と民助が言った。「貴様が旅に出掛けるまでのことは俺《おれ》の方では問わない。旅から帰って来てだナ、それから復《ま》た節ちゃんと関係があったか、どうか――それを訊こう」
「ありました」と岸本は簡単に答えた。
「それはどうも怪《け》しからん。国へ帰って来てから復た関係をつけるなんて、実に言語道断だ。貴様も意志の弱い男じゃないか」
「そりゃもとより弱いものです。弱いことは自分でも承知しています。私から義雄さんへ宛《あ》てて手紙を進《あ》げて置きました。あの中にはいくらか自分の心持も出ているつもりですが、あれを兄《あに》さんは読んで見て下すったでしょうか。私が旅から帰って来ますと、義雄さんの家の様子といい、節ちゃんの様子といい、なかなか口にも言えないようなものでした。まるで節ちゃんは半分死んでる人でした。まあ私は人一人を憐《あわれ》むような量見を起したんですね」
「関係なしに、そういう量見を起したなら、そりゃ聞える――そりゃ立派なものだ」
「しかし、関係とは言いますけれど、男と女の間でそういうことにでも成らなけりゃ本当に相手のものを救うような気にも成らないようなものじゃ有りませんか。私もひどくそういう関係を卑《いや》しんだ時代も有りました。そこからいろいろな苦しみも起って来たようなものですが、今では兄さん達のようにそれほど卑しいものとは思っていません」
「そういうむつかしいことは俺は知らない。俺はそういうことを言いに来たんじゃない。貴様が一婦人の愛に溺《おぼ》れていることを言いに来たんだ」

        百三十四

 民助は弟の反省を促そうとするような調子で、今まで誰にも話したことの無いという父の生涯に隠れたものを岸本の前に展《ひろ》げて見せた。民助に言わせると、あれほど道徳をやかましく言った父でも誘惑には勝てなかったような隠れた行為《おこない》があって、それがまた同族の間に起って来た出来事の一つであったという。
「俺は今までこんなことを口に出したことも無い」と民助は弟を前に置いて、最早《もはや》この世に居ない父の道徳上の欠陥が末子《まっし》の岸本にまで伝わり遺《のこ》っているのを悲むかのような口調で言った。
「そういうお父《とっ》さんの側に附けて置いては不可《いけない》――どうしても捨吉は他《よそ》へ修業に出さなけりゃ不可――その考えが俺にあったから、お父さんに勧めて貴様を東京へよこすことにした。その親の子だ。余程考えてよく行《や》って貰《もら》わんけりゃ成らんというのは、そこだ。まあ俺なぞから見ると、貴様のように一婦人に迷うなんてことが、てんで可笑《おか》しい」
「そう兄《あに》さんのように言っても困ります」と岸本は答えた。「ここまで出て来るには私だってもいろいろなところを通って来た揚句《あげく》です。一婦人とは言いますけれど、私はそう軽く視《み》ていません。もしそんなことを言ったら、一生互に苦労する細君だっても一婦人じゃありませんか」
「いや、そこが可笑しいと言うんだよ。同じ苦労するならばだナ、もっと大きなことの為に苦労するが可《い》いじゃないか。もっと世の中のために成るとか、人間全体のために益《えき》になるとかサ」
「私もそう思わないじゃ有りません。しかし人間のためと言いましても、自分のすぐ隣に居る人から始めるより外に仕方がないと思ったんです。そこで私はどうかして節ちゃんを生かしたいとも考えるように成りましたし、子供も自分で育てて見る気に成ったんです」
「どうも、貴様のは随分曲りくねって来ているんだなあ……」
 民助は笑い出した。やがて何か言い出そうとして、やや躊躇《ちゅうちょ》した後で、
「そこでだ――俺は今度、節ちゃんを台湾へ連れて行くつもりだ――どうだ、そっちの意見は」
 この兄の言葉こそ岸本の待受けていたものであった。
「あ、そうですか、連れてって下さいますか。是非それは私からもお願いしたいと思っていたんです」と岸本は力を入れて答えた。
 民助は眼を円《まる》くして弟の方を見た。遠い所へ節子を連れて行ってしまおうという自分の発議にどうして弟が嫌《いや》な顔もしないのか、とそれを意外に思うらしかった。
「や。そいつは難有《ありがた》い」と民助が言った。「貴様まで賛成してくれれば俺も安心だ。これでまあ今度出て来た俺の役目も果せるというものだ。世の中のことは淡泊にかぎるよ。俺はその主義サ。何事でも淡泊でなけりゃ不可《いけない》。あまりこだわり過ぎては不可。まあ何だわい、あれで節ちゃんも台湾へでも行ってだナ、すこし経《た》って見たら、馬鹿々々しいことをしたと自分でもそう思うかも知れない」
「いや、それはすこし違います。あの人の心持が沈着《おちつ》いては来ましょうが、馬鹿々々しいことをしたとは考えまいと思います」
「まあ何でも可いや。心持が沈着きさえすれば、それで可い――」
 秋らしい夜は何時《いつ》の間にか更《ふ》けて行った。「このくらいにして置いて、もう寝よう」という兄のために、岸本は女中の置いて行った夜具を延べたり、自分の床をその側に敷いたりして、兄弟|枕《まくら》を並べて寝た。少年時代の岸本が東京へ遊学するために一緒に徒歩で郷里の山々を越したのも、この兄だ。青年時代の彼がまた飄泊《ひょうはく》の旅から引返して来て、一旦《いったん》家出をした恩人の田辺の許へきまりの悪い坊主頭で一緒に詫《わび》を入れに行ったのも、この兄だ。種々様々なことが寝床に入ってからも岸本の胸に満ちて来た。節子はどうなる――そこへ考えが落ちて行くと、彼は兄の言った言葉を思って見てよく眠らなかった。

        百三十五

 翌朝、岸本は離座敷《はなれ》の廊下から庭へ降りて、独りで考えを纏《まと》めるために無花果《いちじく》の樹《き》の下へ行った。そこから自分の部屋へ引返して来て民助と一緒に朝の茶を飲みながら話した。学校へ通う子供等を送り出した頃から、民助の話は復《ま》た「懺悔《ざんげ》の一件」に繋《つな》がって起って来たが、でも前の晩に比べると余程打解けた調子で話すように成った。
「一体、どうしてああいうことを発表する気に成ったのかね」と民助は言って、やや声を低くして、「義雄の追求の仕方があまり苛《きび》しかったんだろうッて、俺は台湾の方に居てお秋(嫂《あによめ》の名)と二人でその噂《うわさ》をしていたよ――」
 民助は思い当ることでもあるように言った。それを聞いた岸本の胸には、節子と二人で暗い暗い月日を送った時のことが浮んで来た。
「それもあります」と岸本は答えた。「しかし、そればかりで投出したという訳じゃありません。まあ、いろいろな心の経験が重なり重なってああいうところへ出て行ったんです。その証拠には私は義雄さんのために尽すことを決して嫌《いや》だとは思っていません。そりゃどうかということがあれば、今でも自分の力に出来るだけのことは為《す》るつもりでいます。唯《ただ》私は貴方《あなた》がたと同じようにそれを為たいと思うんです。それだけです」
「そこでだ、節ちゃんは台湾へ連れて行くことに決ったしと――」
 と民助は言いかけながら、岸本の見ている前で座を起《た》って、帯を締め直した。この兄は短い上京の日取の間に自分の用事も達《た》さなければ成らずと言ったように坐り直して、やがて四方八方を円《まる》く治めて行きたいという口調で、更に言葉を継いで、
「俺もこうして出て来た以上は、このままにして置いて行く訳にはいかない。兄弟が仲違《なかたが》いをしているなんてことは不可《いけない》。どうしても貴様と義雄とは元通りにして置いて行かないと、俺の役目が済まん」
「それは少し困ります」と岸本は驚いて、兄の言葉を遮《さえぎ》った。「私の方からは勘当を受けようと言い出してあるくらいですし、当分はこのままにして置いて頂きたいと思います」
「それは不可――何処《どこ》かで、貴様と義雄とを逢わせて、俺が仲直りをさせて置いて行く――このままなんてことは、どうしても不可――」
 こう言って、民助が聞入れそうにもないので、岸本は義雄の方から来ている絶交状のことを思い出した。それを納《しま》って置いたところから取出して来た。
「義雄さんからこういうものが来ています」と岸本はその手紙を民助の前に置いた。「私の方から言えば、こういうものを頂戴《ちょうだい》して置くのも、自分から勘当を受けるのも、謹慎している意味に変りは無いようなものです。もし兄さんの役目が済まないという御考えでしたら、この手紙を持って行って頂きましょうか」
「よし。俺がそれを預かって行こう」
 と民助も折れて、大判の奉書に義雄自身の手で大きく書いてある手紙をひろげて見た。
「兄弟の縁を切るなんてことは容易なことじゃ有りません」と岸本は言った。「まあ他の親戚《しんせき》が聞いたら何と思うか知りませんが、私はそれほど悪い人間じゃありませんよ」
「白状するだけ、まだそれでも正直なところが有るかナ」と民助は笑った。「貴様もまあ、何か立派な仕事でもして、この不名誉を回復するがいい」
「立派な仕事なんて言いますけれど、あそこまで節ちゃんを連れて来たことが私には可成《かなり》な仕事でした――どうせ、人間の為ることです、そう大したことの出来よう筈《はず》もありません――まあ、節ちゃんのことは宜《よろ》しく御願い申します――私はどうにかこうにかここまで漕付《こぎつ》けて来たようなものなんです――」
「そりゃどうせ貴様等は結婚することは出来ないんだからなあ。心で思ってる分には、幾ら思っていたって差支《さしつかえ》はない――そりゃ差支はない」
 十年一日のようにある事業家を助けて三つ組の銀盃《ぎんぱい》と金子《きんす》とを贈られたという民助は、台湾の方で事務でも運ぶように節子の話を運んだ。
「そんなら俺はこれから谷中へ行って来る。二三日内に復《ま》たやって来る」
 と兄は言って、義雄の手紙を懐《ふところ》にして起ち上った。

        百三十六

 新規な住居《すまい》の方へ岸本が引移ろうとする前の日の午後に、復た民助が訪ねて来た。
「いよいよ引越しだね」
 と民助は弟の部屋を見廻しながら言った。
「今度の引越はこの通り簡単です。まあお話しなすって下さい」
 こう岸本も答えて、何もかも動きかけて来た中で、兄が齎《もたら》した報告を受けようとした。
「あれから谷中でよく話して見た。義雄が言うには、『どうして捨吉はああいう懺悔を断りなしに発表した、何故その前に俺に相談しないか』という話があった。義雄に相談すれば、止《と》められるにきまってるから――貴様が断りなしに決行したのは、そりゃ解《わか》ってる」
 民助は万事|呑込顔《のみこみがお》に言って見せて、やがて弟の顔を眺《なが》めながら言葉を継いだ。
「そこでだ。俺の考えと義雄の考えとは少し違う。俺の考えでは、貴様が心の中で節ちゃんのことを思ってる分には、幾ら思っていても関《かま》わんと。そんなことまで他人が関渉の出来るものでもない。ところが義雄の考えはそうじゃない。心の中で思っていても不可と言うんだ。貴様が節ちゃんのことをあきらめてしまうまでは、この手紙は受取らんと言うんだ。義雄の方でもそう言うし、貴様も当分謹慎していたいと言うものなら、俺も今度は見合せて帰る。まあ、この手紙はそっちへ納《しま》って置け」
 こう言った後で、民助は預かった手紙を懐から取出して、それを弟の前に置いた。
 遽《にわ》かに母屋《おもや》の方から飛んで来た子供にさまたげられて、一時二人の話は途切れた。岸本は一旦《いったん》出したものを引込ますということよりも、節子の前途のことを憂うる心が先に立った。
「私から兄さんにお願いして置きたいと思いますが――」と岸本が言った。「節ちゃんがこれから先の方針のことで、いずれ話の出るような折もありましょう。あの人の意志だけは重んじてやって下さい。それだけは当人の自由に任せてやって下さい」
「そりゃ言うまでもない」と民助は答えた。「人の意志を束縛するようなことは俺は嫌《きら》いだ。その点は節ちゃんの自由に任せるわい」
「無理なことをしますと、どういう悲劇が起らないともかぎりませんぜ――」
「まあ、台湾へでも連れて行って見たらばナ、どうまた気が変らんものでもあるまい。その時はその時サ」
「あの人の手は、もう少し治して置くと可《よ》かったんですが、嘉代さんの病気でそれなりに成っちまいました。台湾の方へ行って姉さんのお手伝いが十分に出来れば可いが――それを私は心配しています」
「ナニ、台湾の方は内地とは違って気候も熱いしナ、節ちゃんの手なぞも自然に好くなるだろうと俺は見てる」
「何方《どっち》にしても、あの人がほんとうに生きて出られるようにしてやりたい――それが私の希望なんです。生きて出られさえすれば、それが何よりです」
 岸本はまだその他に、節子の志望が宗教へ行くことにあるという話を民助の耳に入れて置こうとしたが、兄は笑って相手にしなかった。
「さあ、これで大体の事は決った――」と民助は言った。「もう一つ断って置くが、節ちゃんの方に心残りがあっても不可《いかん》からナ、貴様から餞別《せんべつ》を贈ることは見合せて貰いたい」
「承知しました。私の方では万事遠慮しましょう。台湾の方へあの人を連れて行って頂くのが何よりと思います」
「義雄も賛成、貴様も賛成だ。俺もまあこれで出て来た甲斐があった。節ちゃんも大悦びサ。もう俺に随《つ》いて行くつもりで、今日なぞは荷物をこしらえていたよ――」

        百三十七

 自己《おのれ》をそこへ投出してかかった岸本がこれまで親戚《しんせき》に答えて来たことは極く簡単であった。輝子は岸本が告白の当時に来て言った。「節ちゃんはもう叔父さんのところへお手伝いにはよこしませんから、そのつもりでいらしって下さい」――「どうぞ」義雄が次に手紙を送ってよこした。「貴様は義絶してしまうから、そう心得ろ」――「どうぞ」岸本はこの簡単な答を今また民助に対しても繰返すの外は無かった。「貴様は心で思っていろ、節子はもう遠いところへ連れて行ってしまうぞ」――「どうぞ」
 新しい住居で今一度|逢《あ》おうということを約して置いて、やがて民助はそこそこに谷中の方へ戻って行った。強い悲哀《かなしみ》が岸本の心に残った。
「父さん」
 と言って繁が庭伝いに屋外《そと》から帰って来た頃は、部屋の内はもう薄暗かった。
「父さんはこんな暗いところに何していたの」と繁が訊《き》いた。
「お引越しの支度《したく》をしていたサ」と岸本は答えた。
「僕は父さんが居ないのかと思った。こんなに暗くなるまで、燈火《あかり》も点《つ》けないで――」
 と言いながら繁は離座敷《はなれ》の電燈をひねって歩いて、鞄《かばん》や柳行李《やなぎごうり》などの取出してある二つの部屋を明るくした。
 下宿で暮して見る最終の晩が来た。夕飯後からは岸本は殊《こと》にいそがしい思いをした。子供等は新しい住居の方へ行くことを楽みにして、名残《なごり》を惜む宿の女中を相手に引越しの前らしい時を送っていた。そのごたごたした中で岸本は節子から電話の掛って来たことを知った。
「叔父さんでいらっしゃいますか……」
 母屋《おもや》の電話口で聞くこの声は、復《ま》た何時《いつ》聞くことの出来るかと思われるような懐《なつ》かしい声であった。互に見ることの出来ない大きな扉の内と外とで別離《わかれ》を告げるような声であった。
「え――え――え」
 混線した電話の雑音が途切れた後で、復た節子の声が彼の耳に伝わって来た。
「台湾の伯父さんにお前のことを頼んで置いた――これから先の方針の話でも出た時にだね、お前の意志だけは重んじるようにッて、俺《おれ》の方でよく頼んで置いた――無論それはお前の自由に任せるッて、返事をしてくれた――」
「え――台湾の伯父さんがそう言って下さいましたか――」と節子の声で。
 周囲に人の出入《ではいり》のある電話口で、岸本はそれ以上の心を伝えることが出来なかった。誰が聞いても差支《さしつかえ》のないような、極くありふれた言葉に託して、言おうとしても言えない言葉を送るの外はなかった。
「今度お引越しになるお宅の番地を伺って置きましょう――」と節子の声で。「発《た》ちます前に、お届けしたいものが有りますからね――一寸《ちょっと》待って下さいね、伺ったお処《ところ》を書きつけますからね――」
 しばらく岸本は電話口に立っていた。眼に見えないところで節子が手帳でも取出して、此方《こちら》から知らせる町名番地などを書取る光景《さま》が想像せられた。
「それから今度のお宅の御近所に電話がありましたら、その番号も伺って置きましょう――」と復た節子の声で。
「もうそれには及ぶまい」と岸本は返事をした。「ここでお別れとしよう――好い旅をして来て下さい――台湾の伯母さんの側へ行って、しっかりお手伝いをして来て下さい――頼みますぜ――そんなら、御機嫌《ごきげん》よう――」
「叔父さん――」
 最後に岸本を探すような節子の声が聞えて来た。別離《わかれ》を惜んで立ち尽しているような節子も可哀そうに思い、岸本は一ト思いにその電話を切った。

        百三十八

 愛宕下の下宿から天文台の附近に見つけた住居《すまい》までは、谷底から岡の上へ通うほどの距離しかなかった。岸本は三人の子供と婆やとを引連れて、皆一緒に歩いて新しい家に移った。
 漸《ようや》く岸本は自分の住居らしい住居に帰国後とかく定まらなかった書斎の置き場所を見つけることが出来た。そこから天文台の建築物《たてもの》は見えないまでも近い。何となく巴里《パリ》の天文台の近くに三年も暮して見た旅窓を思い出させる。そこには二階がある。神田川の川口に近い町中で七年も臥《ね》たり起きたりした以前の小楼を思い出させる。子供等はめずらしがって、家の周囲《まわり》にある木の多い小路《こうじ》や、谷底の町の方へ続いた坂道などを走り廻った。
 引越して三日目に、岸本は節子から手紙と小包とを受取った。小包の中からは彼女が谷中の方で手植にしたという秋海棠《しゅうかいどう》の根が四つ出て来た。岸本は彼女から来た手紙を二階の新しい書斎で読んで見た。
「取急ぎしたためます。この手紙は前後もなくしたためますから、そのおつもりで御覧下さい。未だ愛宕下の方へお伺いします頃、祖母さんの鼈甲《べっこう》のかんざしの頂《いただ》いたのがありまして、それを束髪のに直して貰《もら》うように頼んで置きましたが、そのままに成っております。あれは私にはもう用のないものでございます。失礼ですがあれを記念に差上げたいと思いますけれど、いろいろ都合もございますので、もし上野|辺《あたり》へいらっしゃるような時がございましたら、どうぞお受取り下さい。小間物店のあるところは別紙にしたためて置きました。それから只今《ただいま》小包をお送りしましたからお受取り下さい。
 ――頂いたお手紙やその他のものはどんな機会で人の目に触れないともかぎりませんから、これも一ト纏《まと》めにして旅に出る前にそちらへお届けします。どうぞお預かり下さい。創作を護るためには、どんな犠牲をも払わねば成りませんからね。
 ――新しい日の教育を受けるような心持で私は旅に出掛けてまいります。創作のためにベストを尽して下さる時が旅にある私の一番強い時であることを思って見て下さいまし。以前に頂きました帯と着物でございますね、こちらではちっとも都合が出来ないものですから、あれをそっくり旅費やら何やらに宛《あ》てることに成りました。お志しは身につけ心につけて長く頂いておりますから、どうぞ形の上の失礼をお許し下さい。
 ――もっと落ちついて、ゆっくりこの手紙を差上げたいのですけれど、これだけでも余程骨折って、僅《わずか》にしたためるのでございます。お別れなんて言うのも何だかおかしいようでございますね。何時でも御一緒なんですもの。台湾の伯父さんからのお話もございますし、しばらく御無沙汰《ごぶさた》に成りましょうが、どうぞおん身御大切に。創作のために払う犠牲は嬉しゅうございます。さようなら」
 節子はこれだけのことを鉛筆で書きつけてよこした。「創作のために払う犠牲は嬉しい」というような健気《けなげ》な言葉の書いてある紙の上には、離別の涙のそそがれた痕《あと》がにじんでいた。岸本はこれを読んで、どうやら真《まこと》の進路のいとぐちが彼女の上に開けかかって来たことを想像し、幽閉も同様な今の境涯から動いて出て行かれるというのも確かに彼女の心からであると想像して見た。
 その日、岸本は谷中の方から訪ねて来た民助を迎えて、新しい住居で別れの食事をした。節子が台湾行の旅費をも兄の手に託した。
「私はもうお見送りはしません――今度は遠慮します」
 こう言って岸本は兄に別れた。民助はまた何時節子を連れて台湾の方へ向うというその日取すらも弟に告げようとはしなかった。

        百三十九

 今はもう岸本に取って、節子の旅立を蔭《かげ》ながら見送るばかりに成った。彼女が涙の多い六年の月日を送った後で進んで遠い旅に出ようとするその前途を見まもるばかりに成った。
 十月の晦日《みそか》に、輝子は岸本の家を見ながら訪ねて来て、二階の部屋で妹の話をした。
「明日の午後一時に節ちゃん達も東京駅を発《た》つそうです」と輝子は言った。「明日は私も谷中へ行くつもりですが――後へ節ちゃんの心が残るといけないから、誰も停車場までは来てくれるなッて、台湾の伯父さんもそう仰《おっしゃ》いますからね、私もまあ一ちゃんでも連れて、上野あたりまで見送ってあげるつもりです」
「ああそうか。俺も今度は万事遠慮することにした」と岸本は答えた。
「昨日は私の家でも台湾へ行く人だけを呼びました。台湾の伯父と節ちゃんの二人にお客さまに成って頂きましてね。何か私も節ちゃんにお餞別《せんべつ》をと思いまして、何でもお望みって言いましたら、節ちゃんが書籍《ほん》を欲しいなんて言いましてね、二人で神田まで探しに行きましたよ。そう言えば、節ちゃんの頂いた書籍で、叔父さんのところにお預けしたのが有るそうですね。あれを私に頂いて来てくれッて、節ちゃんから言伝《ことづ》かってまいりましたよ。もし有りましたら」
「お前も明日谷中へ行くなら、そう言っておくれ。節ちゃんも無論承知のことだろうとは思うがね、これから台湾へ行ってゆっくり書籍《ほん》でも読める時があると思うと大違いだッて、俺がそう言っていたッて。どうせ義雄さんの方から節ちゃんの食い扶持《ぶち》が行く訳ではなかろうし、台湾の伯母さんから見れば厄介者《やっかいもの》が一人舞込むようなものだからねえ。男はそこへ行くと大ざッぱだが、女の人は細《こまか》いから。節ちゃんも居にくいようなことが有りゃしないかと思って、俺は心配して遣《や》るよ」
「それは節ちゃんも心配していましたよ」
「まあ書籍を上げるのは見合せよう。しばらく俺の方へ預かって置こう」
「でも、私はそう言伝かって来たんですもの」
「いや、節ちゃんにそう言っておくれ。しっかり台湾の伯母さんのお手伝いをしておくれッて」
 こんな話をしているうちに、長いこと掛って自分の養い育てたものを根こそぎ持って行かれてしまうような悲哀《かなしみ》が強い力で岸本の心を圧して来た。
「ああああ――こんなに親戚があっても、俺の心を汲《く》んでくれるような人は居ないのか」
 と言いながら岸本は起《た》って行って茶道具を持って来た。
「しかし、無理もないねえ。俺が何をして来たのか、どういう心持で居るのか、親戚は知らないんだからねえ――」と復《ま》た岸本は言って、熱い茶を輝子に振舞いながら言葉を継いだ。「仮令《たとえ》俺が何を書こうと、捨吉がこんな寝言を書いたかぐらいに思われれば、それまでだねえ。そうさなあ、俺の心を汲んで貰えそうな人は、お前の旦那《だんな》さんと田辺の弘さんとだ。お前に俺の心持は解《わか》らなくても、お前の旦那さんは解ってくれるだろうと思うよ――」
 この岸本の言葉を聞いて、輝子は苦笑《にがわら》いしながら香ばしい茶のにおいを嗅《か》いでいた。
「どれ、婆やさんとも階下《した》で少しお話して」
 と言って輝子は二階から降りて行った。
 輝子が渋谷をさして帰った後、岸本は独りで新しい書斎を歩いて見た。その時になって見ると、眼に見えない鎖に繋《つな》がれていなければ成らないようなことも、こそこそ自分を隠さなければ成らないようなことも、そういうことは何も無かった。彼は自分が広々とした自由な世界に出て来たことを感ずるばかりでなく、節子にまでその時がやって来たことを心ひそかに想像して見た。彼女はもうそんなに遠かった。しかし又、そんなに近かった。

        百四十

「わが心にあらず、御心《みこころ》のままに。
[#地から2字上げ]節子
[#ここから2字下げ]
 捨吉様
心からの信頼をもって遠い旅に上る身の幸《さち》を思い、そのよろこびをここに残してまいります」
[#ここで字下げ終わり]
 節子が谷中から送ってよこしたこの手紙が岸本の許《もと》に届いた。最早彼女が東京を出発するという十一月の朔日《ついたち》も来た。岸本はこの手紙を繰返し読んで見て、彼女と共に送った年月の間のことを振返って見る気に成った。丁度あの夕方の小枝《こえだ》に集まるがやがやとした鳥の声が沈まって行って一番最後に残るものは唯《ただ》一つの小鳥の声であったという歌の文句のように、泣いたり笑ったりしたことも沈まって行って、愛のまことだけが残る時も来るだろう。こう岸本は考えて、自分の小さな智慧《ちえ》や力でどうすることも出来ないような「生命《いのち》」の趨《おもむ》くままに一切を委《ゆだ》ねようとした。
 岸本は節子から別に送り届けて来た小包を開けて見た。彼女が預かって置いてくれという風呂敷包の中のものは他の品でもなかった。それは彼女の手箱であった。その中からは高輪《たかなわ》時代の形見らしい朝顔の押花も出て来たし、例の男の児の人形も出て来た。彼女が日頃の心やりとしたもの、何となく香《におい》の残ったもの、そういうものがそっくり入れてあった。何時の間にか彼女は岸本の古い写真をも集めていたと見え、少年の時から青年の頃へかけての面影が幾枚となくその中から出て来た。その手箱の底には岸本の写真と彼女自身のとを合せて納《しま》って置くような女らしいこともしてあった。しかし、岸本の心を引いたのは一陽斎|豊国《とよくに》の筆とした一枚の古い錦絵《にしきえ》であった。岸本の未だ見たことのない図で、三十六句選の一つに見立てて昔の婦人の姿をあらわしたものであった。彼女は閨《ねや》の中のかなしみをも隠さずに、その古い錦絵に寄せた彼女の女らしい心を残して置いて行こうとしていた。どういう機会で人の目に触れないともかぎらないからと言ってよこしたその手箱の中には、岸本から送った手紙や葉書のほんの用事を書いたようなものまで大切にして入れてあったが、唯|珠数《ずず》だけが無かった。岸本はあの思慕のしるしとして彼の方から送ったものだけを節子が旅に持って行くことを知った。
 午過《ひるすぎ》の日は新しい住居《すまい》の二階の部屋に満ちた。東北《ひがしきた》に開けた窓の外には、細くてしかも勁《つよ》い樫《かし》の樹の枝が隣家の庭の方から延びて来ていて、もうそろそろ冬支度《ふゆじたく》をするかのような常磐樹《ときわぎ》らしい若葉が深い色に輝いた。幾度となく岸本はその窓へ行った。樫の樹の梢《こずえ》の上の方に開けた十一月らしい空を望んだ。そして遠い旅に上る節子のために、その好い日和《ひより》を祝してやった。台湾の伯父さんに附添いながら、いそいそとして谷中の家を出る旅人としての彼女の姿が岸本の想像に上って来た。
「婆や、今何時だねえ」と岸本はその窓の側から階下《した》へ声を掛けた。
「丁度一時でございます」と婆やは眼鏡を掛けたまま梯子段《はしごだん》の下へ来て答えた。
「台湾のお客さまは今東京駅を発つところだよ」
 と岸本は言って見せて、復《ま》た窓の外を眺《なが》めた。青い明るい空のかなたには、遠く流れる水蒸気の群までが澄んで見渡された。彼は香港《ホンコン》や上海《シャンハイ》へ寄港して来た自分の帰国の航海を思い出し、黒潮を思い出し、あの辺の海の色を思い出し、初めて台湾あたりへ踏出して行く節子のためにも彼女の船旅の楽しかれと願った。
 岸本はその足で梯子段を下りた。子供の部屋と食堂の間を通って縁側から庭へ下りた。そこには草花を植えるぐらいの僅《わず》かな空地があった。節子の残して置いて行った秋海棠《しゅうかいどう》の根が塀《へい》の側《わき》に埋めてあった。
「遠き門出の記念として君が御手《みて》にまいらす。朝夕|培《つちか》いしこの草に憩《いこ》う思いを汲ませたもうや」
 この節子の書き残した言葉が岸本の気に成った。引越早々の混雑の中で、彼は四つの根を庭に埋めて置いたが、その埋め方の不確実《ふたしか》なのが気に成った。何となくその根のつくと、つかないとが、これから先の二人の生命《いのち》に関係でもあるかのように思われて成らなかった。試みに掘出して見ると、毛髪でも生えたように気味の悪い秋海棠の黒ずんだ根が四つとも土の中から転《ころ》がって出て来た。
「父さん、どうするの」と学校から早びけで帰って来た繁が訊《き》いた。
「ああそうだ、お節ちゃんが置いて行ったんだね」と泉太も庭へ下りて来て言った。
「やあ。僕も手伝おうや」
 こういう子供を相手に、岸本はその根を深く埋め直して、やがてやって来る霜にもいたまないようにした。節子はもう岸本の内部《なか》に居るばかりでなく、庭の土の中にもいた。



底本:「新生(上)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年3月25日発行
   1969(昭和44)年11月20日20刷改版
   1982(昭和57)年3月20日39刷
   「新生(下)」新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年5月10日発行
   1970(昭和45)年1月20日20刷改版
   1983(昭和58)年2月15日41刷
※定本版「藤村文庫」第七篇(新潮社、1938年6月刊)は、本作品の前編だけを「寝覚」と題して収録している。上巻末尾の「『寝覚』附記」は、著者が同書に後書きとして付したものである。
入力:H・大野
校正:かとうかおり
2000年3月23日公開
2004年2月10日公開
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