青空文庫アーカイブ

二人《ふたり》の兄弟《きょうだい》
島崎藤村《しまざきとうそん》

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)二人《ふたり》の兄弟《きょうだい》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例) 一 |榎木《えのき》の実《み》
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一 |榎木《えのき》の実《み》

 皆さんは榎木の実を拾ったことがありますか。あの実の落ちて居《い》る木の下へ行ったことがありますか。あの香《こう》ばしい木の実を集めたり食べたりして遊んだことがありますか。
 そろそろあの榎木の実が落ちる時分でした。二人の兄弟はそれを拾うのを楽《たのし》みにして、まだあの実が青くて食べられない時分から、早く紅《あか》くなれ早く紅くなれと言って待って居ました。
 二人の兄弟の家《いえ》には奉公して働いて居る正直な好《い》いお爺《じい》さんがありました。このお爺さんは山へも木を伐《き》りに行くし畠《はたけ》へも野菜をつくりに行って、何でもよく知って居ました。
 このお爺さんが兄弟の子供に申しました。
「まだ榎木の実は渋くて食べられません。もう少しお待ちなさい。」とそう申しました。
 弟は気の短い子供で、榎木の実の紅くなるのが待って居られませんでした。お爺さんが止めるのも聞かずに、馳出《かけだ》して行きました。この子供が木の実を拾いに行きますと、高い枝の上に居た一|羽《わ》の橿鳥《かしどり》が大きな声を出しまして、
「早過ぎた。早過ぎた。」と鳴きました。
 気の短い弟は、枝に生《な》って居るのを打ち落すつもりで、石ころや棒を拾っては投げつけました。その度《たび》に、榎木の実が葉と一緒になって、パラパラパラパラ落ちて来ましたが、どれもこれも、まだ青くて食べられないのばかりでした。
 そのうちに今度は兄の子供が出掛けて行きました。兄は弟と違って気長な子供でしたから「大丈夫《だいじょうぶ》、榎木の実はもう紅くなって居る。」と安心して、ゆっくり構えて出掛けて行きました。兄の子供が木の実を拾いに行きますと、高い枝の上に居た橿鳥がまた大きな声を出しまして、
「遅過ぎた。遅過ぎた。」と鳴きました。
 気長な兄は、しきりと木の下を探《さが》し廻《まわ》りましたが、紅い榎木の実は一つも見つかりませんでした。この子供がゆっくり出掛けて行くうちに、木の下に落ちて居たのを皆《みん》な他《ほか》の子供に拾われてしまいました。
 二人の兄弟がこの話をお爺さんにしましたら、お爺さんがそう申しました。
「一人はあんまり早過ぎたし、一人はあんまり遅過ぎました。丁度|好《い》い時を知らなければ、好い榎木の実は拾われません。私《わたし》がその丁度好い時を教えてあげます。」と申しました。
 ある朝、お爺さんが二人の子供に、「さあ、早く拾いにお出《いで》なさい、丁度好い時が来ました。」と教えました。その朝は風が吹いて、榎木の枝が揺れるような日でした。二人の兄弟が急いで木の下へ行きますと、橿鳥が高い枝の上からそれを見て居まして、
「丁度|好《い》い。丁度好い。」と鳴きました。
 榎木の下には、紅い小さな球《たま》のような実が、そこにも、ここにも、一ぱい落ちこぼれて居ました。二人の兄弟は木の周囲《まわり》を廻《まわ》って、拾っても、拾っても、拾いきれないほど、それを集めて楽《たのし》みました。
 橿鳥は首を傾《かし》げて、このありさまを見て居ましたが、
「なんとこの榎木の下には好《い》い実が落ちて居ましょう。沢山お拾いなさい。序《ついで》に、私も一つ御褒美《ごほうび》を出しますから、それも拾って行って下さい。」と言いながら青い斑《ふ》の入った小さな羽を高い枝の上から落してよこしました。
 二人の兄弟は榎木の実ばかりでなく、橿鳥の美しい羽を拾い、おまけにその大きな榎木の下で、「丁度好い時」までも覚えて帰って来ました。

二 釣りの話

 ある日、お爺《じい》さんは二人の兄弟に釣りの道具を造って呉《く》れると言いました。
 いかにお爺さんでも釣りの道具は、むずかしかろう、と二人の子供がそう思って見て居《い》ました。この兄弟の家《うち》の周囲《まわり》には釣竿《つりざお》一本売る店がありませんでしたから。
 お爺さんは何処《どこ》からか釣針を探《さが》して来ました。それから細い竹を切って来まして、それで二本の釣竿を造りました。
「針と竿が出来ました。今度は糸の番です。」とお爺さんは言って、栗《くり》の木に住む栗虫から糸を取りました。丁度お蚕《かいこ》さまのように、その栗虫からも白い糸が取れるのです。お爺さんは栗虫から取れた糸を酢に浸《つ》けまして、それを長く引延しました。その糸が日に乾《かわ》いて堅くなる頃《ころ》には、兄弟の子供の力で引いても切れないほど丈夫で立派なものが出来上りました。
「さあ、釣りの道具が揃《そろ》いました。」と言って兄弟に呉れました。
 二人の子供はお爺さんが造った釣竿を手に提《さ》げまして、大喜びで小川の方へ出掛けて行きました。小川の岸には胡桃《くるみ》の木の生《は》えて居る場所がありました。兄弟は鰍《かじか》の居そうな石の間を見立てまして、胡桃の木のかげに腰を掛けて釣りました。
 半日ばかり、この二人の子供が小川の岸で遊んで家《うち》の方へ帰って行きますと、丁度お爺さんも木を一ぱい背負《しょ》って山の方から帰って来たところでした。
「釣れましたか。」とお爺さんが聞きますと、兄弟の子供はがっかりしたように首を振りました。賢いお魚は一|匹《ぴき》も二人の釣針に掛《かか》りませんでした。
 その時、兄弟の子供はお爺さんに釣りの話をしました。兄はゆっくり構えて釣って居たものですから釣針にさした餌《えさ》は皆《みん》な鰍に食《たべ》られてしまいました。
 弟はまたお魚の釣れるのが待遠しくて、ほんとに釣れるまで待って居られませんでした。つい水の中を掻廻《かきまわ》すと、鰍は皆《みん》な驚いて石の下へ隠れてしまいました。
 お爺さんは子供の釣りの話を聞いて、正直な人の好さそうな声で笑いました。そして二人の兄弟にこう申しました。
「一人はあんまり気が長過ぎたし、また、一人はあんまり気が短過ぎました。釣りの道具ばかりでお魚は釣れません。」



底本:「赤い鳥傑作集」坪田譲治編、新潮文庫、新潮社
   1955(昭和30)年6月25日発行
   1974(昭和49)年9月10日29刷改版
   1989(平成1)年10月15日48刷
底本の親本:「赤い鳥 復刻版」日本近代文学館
   1968(昭和43)〜1969(昭和44)年発行
入力:舞
校正:Juki
2000年2月15日公開
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