青空文庫アーカイブ

夜明け前
第二部上
島崎藤村

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)円山応挙《まるやまおうきょ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二十七、八|間《けん》

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 [#…]:返り点
 (例)告[#二]諸外国帝王及其臣人[#一]
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     第一章

       一

 円山応挙《まるやまおうきょ》が長崎の港を描いたころの南蛮船、もしくはオランダ船なるものは、風の力によって遠洋を渡って来る三本マストの帆船であったらしい。それは港の出入りに曳《ひ》き船を使うような旧式な貿易船であった。それでも一度それらの南蛮船が長崎の沖合いに姿を現わした場合には、急を報ずる合図の烽火《のろし》が岬《みさき》の空に立ち登り、海岸にある番所番所はにわかにどよめき立ち、あるいは奉行所《ぶぎょうしょ》へ、あるいは代官所へと、各方面に向かう急使の役人は矢のように飛ぶほどの大騒ぎをしたものであったという。
 試みに、十八片からの帆の数を持つ貿易船を想像して見るがいい。その船の長さ二十七、八|間《けん》、その幅八、九間、その探さ六、七間、それに海賊その他に備えるための鉄砲二十|挺《ちょう》ほどと想像して見るがいい。これが弘化《こうか》年度あたりに渡来した南蛮船だ。応挙は、紅白の旗を翻した出島《でじま》の蘭館《らんかん》を前景に、港の空にあらわれた入道雲を遠景にして、それらのオランダ船を描いている。それには、ちょうど入港する異国船が舳先《へさき》に二本の綱をつけ、十|艘《そう》ばかりの和船にそれをひかせているばかりでなく、本船、曳《ひ》き船、共にいっぱいに帆を張った光景が、画家の筆によってとらえられている。嘉永《かえい》年代以後に渡来した黒船は、もはやこんな旧式なものではなかった。当時のそれには汽船としてもいわゆる外輪型なるものがあり、航海中は風をたよりに運転せねばならないものが多く、新旧の時代はまだそれほど入れまじっていたが、でも港の出入りに曳き船を用うるような黒船はもはやその跡を絶った。
 極東への道をあけるために進んで来たこの黒船の力は、すでに長崎、横浜、函館《はこだて》の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫《ひょうご》の港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、徳川幕府が将軍の辞職を賭《か》けてまで朝廷と争って来た問題である。こんな黒船が海の外から乗せて来たのは、いったいどんな人たちか。ここですこしそれらの人たちのことを振り返って見る必要がある。

       二

 紅毛《こうもう》とも言われ、毛唐人《けとうじん》とも言われた彼らは、この日本の島国に対してそう無知なものばかりではなかった。ケンペルの旅行記をあけて見たほどのものは、すでに十七世紀の末の昔にこの国に渡って来て、医学と自然科学との知識をもっていて、当時における日本の自然と社会とを観察したオランダ人のあることを知る。この蘭医《らんい》は二か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随《したが》って長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉《こくら》、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津《せっつ》の国にあって、明石《あかし》から五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨《すま》の山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家《へいけ》一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大《ばくだい》なものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工《しゅんこう》することができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下《しも》の関《せき》から大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百|艘《そう》以上の船が碇泊《ていはく》しているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋《あばらや》のみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。
 こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗、人情、物産なぞを知るに努めたかは、ケンペルのようなオランダ人のありのままな旅行記が何よりの証拠だ。彼の目に映った日本人は義烈で勇猛な性質がある。多くの人に知られないような神仏のごときをもなおかつ軽《かろ》んずることをしない。しかも一度それを信奉した上は、頑《がん》としてその誓いを変えないほどの高慢さだ。もしそれこの高慢と闘争を好むの性癖を除いたら、すなわち温和|怜悧《れいり》で、好奇心に富んでいることもその比を見ない。日本人は衷心においては外国との通商交易を望み、中にもヨーロッパの学術工芸を習得したいと欲しているが、ただ自分らを商賈《しょうこ》に過ぎないとし、最下等の人民として軽んじているのである。おそらくこれは嫉妬《しっと》と不信とに基づくことであろうから、この際|友誼《ゆうぎ》を結んで百事を聞き知ろうとするには、まずその心を収攬《しゅうらん》するがいい。貨幣の類《たぐい》などは惜しまず握らせ、この国のものを欺《だま》し、この国のものを尊重し、それと親通するのが第一である。ケンペルはそう考えて、自分に接近する人たちに薬剤の事や星学なぞを教授し、かつ洋酒を与え、ようやくのことで日本人の心を籠絡《ろうらく》して、それからはすこぶる自由に自分の望むところを尋ね、かつて世界の秘密とされたこの島国に隠された事をも遺憾なく知ることができたと言ってある。


 遠く極東へとこころざして来た初期のオランダ人の旅について、ケンペルはまた種々《さまざま》な話を書き残した。使節フウテンハイムの一行が最初に江戸へ到着した時のことだ。彼らは時の五代将軍|綱吉《つなよし》が住むという大城に導かれた。百人番というところがあって、そこが将軍居城の護衛兵の大屯所《だいとんしょ》になっていた。一行は命令によってその番所で待った。城内の大官会議が終わり次第、一行の将軍|謁見《えっけん》が行なわれるはずであった。二人《ふたり》の侍が彼ら異国の珍客に煙草《たばこ》や茶をすすめて慇懃《いんぎん》に接待し、やがて他の諸役人も来て一行に挨拶《あいさつ》した。そこに待つこと三十分ばかり。その間に、老中《ろうじゅう》初め諸大官が、あるいは徒歩、あるいは乗り物の輿《こし》で、次第に城内へと集まって来た。彼らはそこから二つの門と一つの方形な広場を通って奥へと導かれる。第一の門からそこまでは数個の階段がある。門と大玄関との間ははなはだ狭くてほんのわずかの間隔に過ぎなかったが、護衛の侍を初め多くの諸役人が群れ集まって来ていた。それから一行は進んで二つの階段をのぼり、まずはいったのは広い一間で、それから右側の一室にはいった。そこは将軍に向かっても、また老中に向かってもすべて対面を求めるものの許可を得るまで待ち合わす所である。そこはなかなか大きな室《へや》であるが、周囲の襖《ふすま》をしめきるとすこぶる薄暗い。わずかに隣室の上部の欄間《らんま》から光線がもれ入るに過ぎない。しかし国風《くにぶり》によって施された装飾の美は目もさめるばかりで、壁と言わず、襖と言わず、構造は実に念の入ったものであったという。待つこと一時間以上、その間に将軍は謁見室に出御《しゅつぎょ》がある。一行のうちの使節のみが導かれて御前に出る時、一同大声で、
「オランダ、カピタン。」
 と呼んだ。これは将軍に近づいて使節に礼をさせるための合図である。将軍が国内の他の最も強大な諸侯に対する場合でも、その態度はすこぶる尊大である。すべて諸侯の謁見に際しても、その名が一度呼び上げられると、諸侯は無言ですわったまま手と膝《ひざ》とで将軍の前ににじりより、前額を床にすりつけて拝礼した上で、また同一の態度で後ろへ這《は》いさがるのである。そこでオランダの使節も同じように、将軍へ献上する進物を前に置き、将軍に対して坐《ざ》し、額《ひたい》を床につけ、一言を発することもなく、あたかも蟹《かに》のようにそのまま後ろへ引きさがった。
 オランダ人がこの強大な君主に対する謁見はこんな卑下したものであった。これほど身を屈して、礼儀を失うまいとしたのは言うまでもなく、この国との通商を求めるためであったからで。随行のケンペルも許されて室を参観することができた時に、彼はすばやく床に敷かれている畳の数を百と数え、その畳がすべて皆同一の大きさであることをみて取り、襖《ふすま》、窓なぞも細かにそれを視察した。室の一面は小さな庭で、それと反対な側は他の二室に連なり、二室共に同一の庭に向かって開くようになっているが、その二室の小さな方に将軍の御座がある。彼はその目で、将軍の風貌《ふうぼう》をも熟視しようとしたが、それははなはだ難《かた》いことであった。というのは、光線が充分に将軍の御座の所まで達しないのと、謁見の時間が短くて、かつ謁見者があまりに礼を低くするため、頭を上げて将軍を見る機会がないからであった。のみならず老中はじめ諸大官が威儀正しくそこに居並ぶから、客も周囲の厳《おごそ》かさに自然と気をのまれるからで。
 しかし、当時のオランダ使節が一行の自卑はこの程度にのみとどまらなかった。ずっと以前には使節が将軍のために行なうことは謁見だけで終わりを告げたものであるが、いつのまにか妙な習慣ができて、使節謁見ずみの後、一行はそのまま退出することを許されない。さらに導かれて、大奥の貴婦人たちに異人のさまを見参《げんざん》に入れるという習わしになっていた。そこでケンペルも蘭医として、他の二人《ふたり》の随行員と共に呼び出され、使節のあとについて、さらに御殿の奥深く導かれて行った。そこには数室からなる大広間がある。ある室は十五畳を敷き、ある室は十八量敷きである。その畳にもまたそこへすわる人によって高下の格のさだまりがある。中央の部分には畳がなく、漆をはいた廊下になっていて、そこにオランダ人らがすわれと命ぜられた。将軍と貴婦人たちとは彼らの右手にある簾《す》の後ろにいた。一通りの挨拶《あいさつ》が終わった後、荘厳な御殿はたちまち滑稽《こっけい》の場所と変わった。一行は無数のばからしくくだらない質問の矢面《やおもて》に立たせられた。たとえばヨーロッパにおける最新の長命術は何かの類《たぐい》だ。その時将軍は彼らオランダ人からはるかに隔たって貴婦人らの間にいたが、次第に彼らに近づいて来、できるだけ彼らに接近して、簾《す》の後方に坐《ざ》しながら、侍臣のものに命じて彼らの礼服なるカッパを取り去らせ、起立して全身を見うるようにさせろとあったから、彼らは言われるままにした。さらに歩め、止まれ、お辞儀をして見よ、舞踏せよ、酔漢《えいどれ》の態《さま》をせよ、日本語で話せ、オランダ語で話せ、それから歌えなどの命令だ。彼らはそれに従ったが、舞踏の時にケンペルは舞いにつれて高地ドイツ語で恋歌を歌った。
 実際、オランダ使節の随行員はこれほどの道化役《どうけやく》をつとめたものであった。しかし彼ケンペルはそこに舞踏を演じつつある間にも、江戸城大奥の内部を細かに視察することを忘れなかった。彼は簾の隙間《すきま》を通して二度も将軍の御台所《みだいどころ》を見ることができた。彼女は美しい黒い目をもち、顔の色が鳶色《とびいろ》に見える美人で、その髪の形はひどく大きかったという。彼女はさだめし背の高い人で、年の頃三十五、六であろうと思われたという。簾は葦《よし》で織られた掛け物で、その背面には美しい透明の絹布を掛けたものである。その一方は装飾のため、一方にはまた後方の人物をかくすために、簾には彩色でいろいろなものが描いてある。将軍自らは薄暗いところにその位置を占めたから、思わずもらす低い声がなかったら、ケンペルなぞはそこに人があるとは知らなかったろうという。ちょうど彼らの前面に当たって他の簾の後ろには位の高い人たちや諸貴女が集まっていた。葦《よし》の簾の間にはところどころに紙の片《きれ》を結びつけて隙間を大きくしたのがケンペルの目についた。彼はひそかにその紙の片を勘定して見たところ、三十ばかりあったから、簾の後ろには同数の人物がいたろうとも想像したという。
 オランダ人らの演戯は約二時間も続いた。彼らは将軍はじめ満廷の慰みのために種々《さまざま》な芸を演じたが、さすがに使節ばかりはその仲間には加わらなかった。フウテンハイムは犯しがたい威風をそなえた重々しい容貌《ようぼう》の人だった。日本人の目にもこの一国の代表者にまでそんな滑稽《こっけい》なまねを演じさせるのは非礼であると見えたものであろう、とケンペルは書き残している。


 その翌年、西暦千六百九十二年(元禄《げんろく》五年)に、今一度オランダ使節は江戸へ参府することになった。そこでケンペルもまたその一行に加わって内地を旅する再度の機会をとらえた。一行は三月はじめに長崎の出島を出発し、船で兵庫に着いて、大坂奉行をも京都所司代をも訪《たず》ねた。この再度の内地の旅は日本の自然や社会を観察する上に一層の便宜をケンペルに与えたのである。大坂奉行の屋敷では、ケンペルはその奉行から十年来の宿痾《しゅくあ》に悩まされていまだに全快しないでいる家人のあることを告げられ、どうしたらそれを治療することができようかと尋ねられた。ともかくも彼は診断することを望んだところ、奉行がそれをさえぎって、病は身体の中の秘密な場所に属するからと言って、くわしくその症状を告げ、それによってよろしく判断し、施薬せられたいとのことであった。そこで彼は求められるとおりにしてやったこともある。その大坂奉行は彼らが異国の風俗をめずらしがり、帽子を手に取って打ちかえしながめるやら、上衣を脱がせて見るやらして、横文字を書け、絵を描《か》け、歌を歌えと所望した上に、なお進んでは舞踏することやヨーロッパ風な風俗習慣のいろいろを実演することまで求めたが、一行のものは、それを拒んだ。彼らが京都所司代を訪ねた時はまた、一つの晴雨計を取り出して来る日本人があって、その性質、使用法なぞを尋ねられたこともある。その晴雨計は、彼らがそこに到着したころから数えると、実に約三十年も前に、オランダ人の贈ったものであった。
 四月下旬のはじめには、一行は遠く旅して行った江戸表にもう一度彼ら自身を見いだした。おり悪《あ》しく雨の多いころで、外出も困難ではあったが、彼らは行装を整えて町を出、江戸城の関門を通り過ぎて第三の城郭に入り、そこで将軍|謁見《えっけん》の時の来るのを待ち合わせた。その間、彼らは雨に湿った靴《くつ》や靴|足袋《たび》を捨てて新しいものに換え、それから謁見室へと導かれた。やせて背は高く、面長《おもなが》で、容貌《ようぼう》の凛々《りり》しいことはドイツ人に似、起居振舞《たちいふるまい》はゆっくりではあるが、またきわめて文雅な感じのある年老いた人がそこに彼らを待ち受けていたという。その人が当時肩を比べるもののない威権の高い老中だった。彼らオランダ人にはすでに前年のなじみのある正直謹厳な牧野備後《まきのびんご》だ。
 オランダ人からの進物を将軍に取り次ぐことも、あるいは将軍の言葉を彼らに取り次ぐことも、それらはみなこの牧野老中がした。例の謁見の儀式が済んだ後、一行はしばらく休息の時を与えられ、長崎奉行の厚意により今一度よく室を参観することをも許された。異人どもにながめを自由にさせよとの心づかいからか、庭園に向かった障子《しょうじ》もあけ放してある。彼らは膝《ひざ》を折り曲げてすわることの窮屈さから免れるため、そこの廊下をあちこち歩いていると、近づいて来て彼らに挨拶《あいさつ》し、異国のことをいろいろと質問する幾人かの貴人もあった。
 やがてまた大奥の広間へと呼び出される時が来た。深い簾《す》のかげには殿中の人たちが集まって来ていた。将軍と二人《ふたり》の貴婦人も一行のものの右手にあたる簾の後ろにいた。その時、彼らの正面に来てすわったのも牧野備後だった。一同の拝礼が型のように終わった後、備後は将軍の名で彼らに挨拶し、さていろいろなことを演ずるようにとの注文を出した。年老いた大通詞《だいつうじ》をしてその意味を彼らに告げさせた。まっすぐにすわって見よ。上衣を脱いで見よ。姓名、年齢を語れ。立て。歩め。ころげ回れ。踊れ。歌え。互いにお辞儀をして見せよ。怒《おこ》って見せよ。食事に客を招くまねをせよ。互いに言葉のやりとりをせよ。父と子の親しい態《さま》をせよ。二人の親友または夫婦が相礼し、または別るる態をせよ。小児と遊び戯れよ。小児を腕の上にのせ、またはそれに似寄ったことをして見せよの類《たぐい》だ。のみならず、彼らは例によって滑稽《こっけい》な、しかもまじめな質問の矢面に立たせられた。たとえば、彼らの住居《すまい》はどんな家であるか。彼らの習慣はどう日本人のと異なるか。彼らの死者を葬る場所はどこで、その時はいつであるか。彼らもホルトガル人同様の祈りをし、偶像をも持っているか。オランダその他の異国にも日本のように地震があり、雷があり、火事があるか。または落雷のために触れて死ぬものがあるかの類《たぐい》である。
 いつのまにかケンペルは道化役者としての彼自身をこの荘厳な殿中に見つけた。彼は同行のオランダ人と共に、帽子をかぶること、話しながら室内を歩くこと、また彼らが十七世紀風の鬘《かつら》を脱いで見せることなぞを命ぜられた。彼はその間、しばしば将軍の御台所を見る機会をも得たという。将軍も日本語で、オランダ人は自分のいる室をことに鋭く見つつある旨《むね》言われたもののようで、彼らは将軍がそのもとの座をすてて彼らの正面にあった貴婦人の所に移ったのを見てそれを推測した。彼らは次ぎに、今一度|鬘《かつら》を脱ぐことを命ぜられ、続いて一同は飛び上がること、踊ること、泥酔漢《よっぱらい》の態《さま》をすること、連れだって歩行するさまなどを実演させられた。日本人はまた、使節とケンペルとに備後《びんご》の年齢は幾歳ぐらいに見えるかと尋ねるから、使節は五十と答え、ケンペルは四十五と答えた。聞くところによると、この老中筆頭の大官はすでに七十歳の高齢であるが、彼らがあまり若く言ったので、衆は皆笑った。次ぎに日本人は彼らをして夫婦のように接吻《せっぷん》させ、貴婦人たちは笑いながらそれを見て、すこぶる満足したもののようであったともいう。さらに日本人はヨーロッパの方で一般に行なわるる敬礼――目下に対し、目上に対し、貴婦人に対し、諸侯に対し、また王に対するそれらの作法の類《たぐい》をやって見せよと言い、続いてケンペルはことに歌を歌うよう所望されてそのもとめに応じた。やがて道化は終わった。彼らは上衣を着、一人《ひとり》ずつ簾《す》の前へ行って、彼らの王公に対すると同様の礼でもって別れを告げた。その日、彼らが殿中で喜劇を行なったのは二時間の余であったという。
 江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞《いとまご》いとして将軍の居城を訪《たず》ねた。その時、百人番で三十分も待たせられたあとで、使節は老中の前に呼び出され、老中は属僚に言い付けて例によって一場の訓示を朗読させた。訓示は主として彼らがシナ人や琉球人《りゅうきゅうじん》の船に妨害を加えてはならないこと、オランダ船にはホルトガル人および切支丹《キリシタン》宗|僧侶《そうりょ》は一人たりとも載せて来てはならないこと、これらの条件を奉じて間違いない限りは商法自由たるべしというのであった。朗読が終わると、使節の前には二つの三宝《さんぽう》が置かれ、その三宝の一つ一つには十重《とかさ》ねずつの素袍《すおう》が載せてあった。将軍から使節への贈り物だ。使節はうやうやしくそれを受け、五つ所紋のついた藍色《あいいろ》な礼服の一つを頭の上に高くあげて深く謝意を表した。それから一同別室へ導かれ、将軍の命で昼飯を下し置かれるとの挨拶《あいさつ》があって、日本風の小さな膳《ぜん》が各人の前に持ち運ばれた。その食事は彼らオランダ人に、この強大な君主の荘厳と驕奢《きょうしゃ》とにふさわしからぬほどの粗食とも思われたという。
 暇乞いはそれだけでは済まされなかった。大奥でもまたもや彼らを見たいと言い出される。年のころ三十ばかりになる白と緑の絹の衣裳《いしょう》をつけた接待役の坊主が来て、鄭重《ていちょう》に彼らの姓名年齢を尋ね、やがてその人の案内で一同導かれて行ったところは例の奥まった簾《す》の前だ。まず日本風に敬礼したところ、簾に近づいてヨーロッパ風にせよとの御意である。それに従うと、今度は歌を歌えとの命である。ケンペルは彼がかつてことに尊重した一貴女のためにものした一つをえらんで歌った。それは彼女の美とその徳とをたたえて、この世のいかなる財宝も、その貴《とうと》さには到底比べられないとの意を詠じたものであった。将軍がその意を訳して聞かせよと彼に命ぜらるるから、そこで彼はその歌をえらんだはほかでもないと言って、この国の君主、皇族、および全日本朝廷の健康と幸福と繁栄とを保全せらるることを祈る外臣が誠実の心をいたすにほかならないと申し上げた。以前の謁見《えっけん》の時と同じように、彼らは上衣を取って室内を歩めと命ぜられ、使節も今度はそれを行なった。続いて彼らの友人、両親、または妻にめぐりあい、または別れを告げる態《さま》、互いにののしり合う態、友人と論争し、やがてまた和解する態なぞを御覧に入れた。それが終わると、ケンペルのそばに近づいて来て健康の診断を求め、試みに彼の意見を聞きたいという一人《ひとり》の剃髪《ていはつ》の人があった。脈を取って検《しら》べて見ると、疑いもない健康者だ。しかし彼はその人の顔のようすや鼻の赤いところから推して、好酒家と知ったから、あまり飲み過ぎないようにと忠告した。将軍はじめ一同がそれを聞き知った時は、あたりにさかんな笑い声が起こった。
 これらは皆、ケンペルがその旅行記にくわしく書き残したことである。時はあだかも徳川将軍家の勢いが実に一代を圧したころに当たる。当時のオランダ使節の一行が商業の自由を許さるるの恵みを感謝したのは、日本国の皇帝の面前においてであるとのみ思っていたとか。彼らはその江戸城の大奥に導かれて、皇帝の居住する宮殿の中に身を置き得たと信じ、彼らのそばに来て一々その姓名、年齢、その他のことを尋ねた数人の頭を円《まる》めた坊主を皇帝の侍医または接待役と信じ、彼らを歓迎する旨《むね》を述べてくれた老中牧野備後こそかつては皇帝の師傅《しふ》であり現に最も皇帝の信任を受けつつある人と信じたという。

       三

 百六十年ほど後に黒船の載せて来たアメリカ使節ペリイはこのオランダ人の態度を捨てた。これまで許されなかった通商の自由を求めるためには、いかなる役割をも忍ぼうとする道化役者ではもとよりなかった。彼はオランダ人のような仮面を脱いで、全く対等の位置に立ち、一国を代表する使節としての重い使命を果たしに来た。
 しかし先着のオランダ人が極東に探り求めたものは、あとから来る人たちのためにすくなからぬ手引きとなったことを忘れてはならない。寛永《かんえい》十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられてからこのかた、この国のものが海外の事情に暗かったように、異国のものもまた極東の事情に暗いものばかりだと思ったら、それこそ早計と言わねばならない。ペリイの取った航路は合衆国の東海岸からマデイラ、喜望峰を迂回《うかい》して、モオリシアス、セイロン、シンガポオルを経、それからシナの海を進んで来たものと言われるが、遠くアナポリスから極東への船旅に上る前に、彼にはすでに長いしたくがあったという。彼は日本に関するあらゆる書籍をあさり、名高いシイボルトが大きな著述を読み、その他必要な書籍の購求をアメリカ政府に請い、オランダ人の造った海図を手に入れるためには政府をして三万ドルの大金をなげうたせたというくらいだ。日本はアメリカを去ることも遠く、しかも文学上には未知の国であったにもかかわらず、東方アジアの国民の中で、日本のようにその関係書類の欧州書庫中に蔵せられたものはなかったとも言わるる。ただ、彼が知ろうとして知り得なかったのは、日本最近の政治上の位置と、天皇と大君(将軍のこと)との真の関係であったとか。
 このペリイが前発の二|艘《そう》の石炭船を喜望峰とモオリシアスとに送らせるほどの用意をしたあとで、四隻の軍艦を率いて遠航の途に上ったのだ。当時、アメリカの科学者およびその他の学者の間にはこの遠洋航隊に代表者を出したいと言って、ペリイに逼《せま》ったというだけでも、いかに空前の企てであったかがわかる。ペリイはこの国へ来て堅い鎖国の扉《とびら》をたたく前にすでに琉球近海や日本海岸のおおよその知識をもっていた。さてこそ、この国の厳禁を無視しまっしぐらに江戸湾を望んで直進して来たわけだ。ペリイが日本の本土に到着する前、琉球島を訪《たず》ねてその王と幕僚とに会見し、さらに小笠原《おがさわら》群島を訪ねて、牛、羊、種子、その他の日用品、およびアメリカの国旗をそこに定住する白人の移民のもとに残して置いたというのを見ても、彼の抱負の小さくなかったことがわかる。彼が浦賀《うらが》の久里《くり》が浜《はま》に到着したころは、ちょうどヨーロッパ勢力の東方に進出する十九世紀のなかばに当たる。早く棉花《めんか》をシナの市場に売り込んで東洋貿易の重んずべきことを知ったアメリカは、イギリスのあとを追ってシナとの通商条約を結び、さらにその方針を一層拡張して、日本にも朝鮮半島にも及ぼそうとしていたころである。ペリイはこの使命を果たすために堅き決心をかため、弘化《こうか》年度に江戸湾に来て開港の要求を拒絶されたビッドル提督の二の舞いを演ずまいとした。人としての彼は「エスイタ教徒の愛嬌《あいきょう》と、ストイック派の樸直《ぼくちょく》と、直進的な気性《きしょう》」とを持っていたと言わるるが、当時の日本人が恐れるところを利用することにかけては全く無遠慮なアメリカ人であった。ともかくも彼は強い力で、その目的を果たした。電信機、機関車、救命船、掛け時計、農作機械、度量衡、地図、海図、その他当時の日本には珍奇な贈り物を残して置いて、この国を去った。しかし彼とても先着のオランダ人と同様に、日本皇帝へささげるための国書が幕府の手に納められ、それが京都までは取り次がれなかった深い事情を知るよしもなかったのである。
 それからの黒船が載せて来た人たちは、いずれもこの国の主権の所在を判断するに苦しんだ。アメリカ最初の領事ハリスでも。イギリス使節エルジンでも。このイギリスの使節が献上した一艘の蒸汽船も、日本皇帝への贈り物であったというが、江戸の役人は幕府へ献上したものだとして、京都まではそれも取り次ごうとしなかった。京都はあっても、ないも同様だ。主権|簒奪《さんだつ》の武将が兵馬を統《す》べ、政事上の力は一切その手にゆだねられていた。
 このことは、しかし在留する外人の次第に感知するところとなって行った。幕府の役人が外人を詐《いつわ》って、将軍は大君で皇帝権を有するものだと信ぜしめたとする英国公使パアクスのような人も出て来た。彼らは兵庫の開港を迫って見、大坂の開市を迫って見て、その時初めて通商条約の勅許の出たのに驚き、まことの主権の所在を突きとめるようになった。種々《さまざま》な行きがかりから言っても、従来開港の方針で進んで来た江戸幕府に同情してひそかにそれを助けようとしているフランス公使ロセスと、この国に革命の起こって来たことを知って西国の雄藩を励まそうとしているイギリス公使パアクスとが、皇帝と大君との真の関係について互いに激論をかわしたということは不思議でもない。

       四

[#ここから1字下げ]
「今日申し上げ候《そうろう》は大切の儀、わが合衆国の大統領においても重大の儀と存じおり候。申し上げ候儀はいずれも懇切の心より出《い》づる事に候につき、右御心得をもっておきき取り下さるべく候。」
[#ここで字下げ終わり]
 最初の米国領事ハリスの口上書をここにすこし引き合いに出したい。極東に市場を開かせに来たアメリカの代表者をして彼ら自らを語らせたい。これは過ぐる安政《あんせい》四年、江戸の将軍|謁見《えっけん》を許された後のハリスが堀田備中守《ほったびっちゅうのかみ》の役宅で述べた口上の趣である。
[#ここから1字下げ]
「――過日大君殿下(将軍)へ大統領より差し上げたる書翰《しょかん》の趣をただいまさらにくわしく申し上げ候儀につき、大統領じきじきに申し上げ候御心得にておきき取り下さるべく候。わが大統領は、日本政府のために大切と心得候ことを包み置き候儀、なにぶん相成りがたく、右は懇切より出《い》で候次第につき、何事も腹蔵なく申し上げ候。合衆国と条約なされ候は、御国において外国と条約なされ候初めての儀ゆえ、大統領においても御国の儀は他国と異なり、親友と相心得申しおり候。合衆国の処置は他の外国と異なり、東方に所領の国これなく候間、新たに東方に領地を得候儀は願い申さず候。合衆国の政府においては他の地方に所領を得候儀は禁じ申し候。国々より合衆国の部に入り候儀を願い候事もこれまでたびたびに御座候えども、遠方かけはなれおり候ところはすべて断わりに及び候。三か年以前、サントウイス島も合衆国の部に加わりたく申し聞け候えども、これもって断わり申し候。これまで合衆国他邦と会盟いたし候儀もこれあり候えども、右は干戈《かんか》を用い候儀はこれなく、条約をもって相結び候事に御座候。ただいま申し上げ候儀、合衆国一体の風儀を御心得までに申し上げ候儀に御座候。
――五十年以前より、西洋は種々変化つかまつり候。蒸汽船発明以来、遠方かけはなれたる御国もごく手近のよう相成り申し候。電信機発明以来、別《べっ》して遠方の事もすみやかに相わかり、右器械を用い候えばワシントンまで一時《いっとき》の間に応答|出来《しゅったい》いたし候。カルホルニヤより日本へ十八日にて参り候儀、出来いたし候も、蒸汽船発明以来ゆえのことに御座候。右蒸汽船発明以来、諸方の交易もいよいよさかんに相成り申し候。右様相成り候ゆえ、西洋諸州いずれも富み候よう相成り申し候。西洋各国にては、世界じゅう一族に相成り候ようつかまつりたき心得にこれあり候は、蒸汽船相用い候ゆえに御座候。右をさえぎりて、外と交易を結ばざる国は世界一統に差しさわり候間、取り除《の》け候心得に御座候。いずれの政府にても一統いたし候儀を拒むべき権はこれあるまじく候。
――右一統いたし候につき、二つの願い御座候。一つは使節同様の事務を取り扱うエジェントを都下に駐在いたさせたき儀にこれあり候。今一つは国々との商売勝手次第に相成り候よういたしたく候。右二か条の儀はアメリカのみにこれなく、国々の懇望に御座候。
――日本の危難は落ちかかりおり申し候。それはイギリス、その他ヨーロッパ各国の事に御座候。イギリスは日本と戦争いたし候儀を好んで心がけおり候。その次第を申し上げん。イギリスは東インド所領をロシアのためにことのほか気づかいおり候儀に御座候。イギリス、フランス一致いたし、ロシアと戦争に及び候は、ロシアの所々蚕食いたし候を憎みての儀に御座候。ロシアはサガレンを領し、かの筋より満州およびシナを横領いたすべくとイギリス存じおり候。満州ならびにシナをロシアにて領し候よう相成り候わば、その兵をもってイギリス所領の東インドを横領いたし候よう申すべく、さ候えば露英の戦争、またぞろ相起こり候事と存じられ候。右様相成り候わば、英国にては右を防ぎ候儀、ことのほかむずかしくこれあるべく、その手段としてサガレン、ならびに蝦夷《えぞ》、函館《はこだて》を領し候よう英国にては心がけおり申し候。さ候えば露国を防ぎ候に格別の便《たよ》りと相成り申すべく候。英国は地続き満州よりも、蝦夷《えぞ》の方を格別に望みおり申し候。」
[#ここで字下げ終わり]


 異国はまだ多くのものにとっては未知数であった。長い鎖国の結果、世界のことはおろか、東洋最近の事情にすら疎《うと》かったこの国のものは、最初の米国領事から種々の先入主となるべきことを教えられた。ハリスは、何が五十年以前からの西洋を変えたかを言っている。それが蒸汽船や電信機なぞの交通機関の出現によることだと言っている。そして「交易による世界一統」の意志が生まれて来たのも、蒸汽船の発明以来だと言っている。
 彼はさらに、日本およびシナが西洋諸国のような交際を開かないからやはり一本立ちの姿であると述べ、シナは十八年前に英国と戦争を起こしたが、エジェントが首府に駐在していたら、あんな戦争にも及ばなかったであろうと述べている。彼はシナ政府の態度に言い及び、広東《カントン》奉行の取り扱いをもって済ませるつもりであったのがそもそもの誤算であったと言い、政府で取り扱うまいとしたところから破裂に及んだと言い、広東奉行が全くのこしらえ事《ごと》をして、ほどよく政府へ申し立て、しかのみならず右の奉行が英国に対し権高《けんだか》であったために、戦争が起こったのだと述べている。この戦争に、シナで人命を失うもの百万人、シナの港々は言うに及ばず、南京《ナンキン》の都まで英国に乗っ取られ、和睦《わぼく》を求めるためにシナより英国へ渡した償金は小判《こばん》にして五百万枚にも及んだ。彼はそれを言って、元来シナは富んでいたが、こんな事でいよいよ衰えた。先年|韃靼《だったん》との戦争でさらに力を失った。この上、イギリスとフランスとが一致してシナへ戦争をしかけたら、行く末はどうなることやら実に測りがたい。今の姿ではシナも英仏両国の望みをいれるのほかはあるまい、さもなくばシナ全国は皆英仏の所領となるであろう。思うに、フランスは朝鮮、イギリスは台湾を領したい望みを抱《いだ》いている。これはよくよく御勘考、御用心あるがいい。天に誓って申し上げるが、シナにもエジェントが北京《ペキン》に駐在したなら、戦争は必ず起こらなかったであろう。英仏両国の政府よりシナとの戦争に荷担《かたん》するよう依頼を受けた時に、アメリカ大統領はそれを断わった。全体、シナ側の取り扱い方についてはアメリカ政府でも不快に感ずることがないでもない。シナの砦《とりで》からアメリカの軍艦へ向けていわれもなく鉄砲を打ちかけたことが二度もある。合衆国の水師提督アームストロングは憤って、広東の港口にある四か所の砲台を破壊した。それも広東奉行の詫《わ》びで戦争にはならずに済んだ。アメリカ政府は英人らと力を合わせてシナと戦争したことはない。シナ争乱の基と言えば、その一つはアヘンである。アヘンは英領東インドの産するところ。そのアヘンがシナの害にはなっても、英国では利益のためにすこしもそれを禁じようとしない。右のアヘンを積み載せた船には、鉄砲などを堅固にそなえ付けて置いて、ひそかに売買する。合衆国大統領が日本のために考えるに、アヘンは戦争より危ない。アヘン交易には日本でも格別注意するようにと大統領も申している。万一、アメリカ人がアヘンを持参したら、日本の役人が焼きすてようと、どうなりと取り計らわれたい。そんなアヘンは焼きすてた上で、過料を取られても決して苦しくない。そうハリスは述べている。
 ハリスが口上書の続きにいわく、
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「――大統領誓って申し上げ候。日本も外国同様に、港を開き、売買を始め、エジェント御迎え置き相成り候わば、御安全の事に存じ奉り候。
――日本数百年、戦争これなきは天幸と存じ奉り候。あまり久しく治平うち続き候えば、かえってその国のために相成らざる事も御座候。武事相怠り、調練行き届かざるがゆえに御座候。大統領考えには、日本世界中の英雄と存じ候。もっとも、英雄は戦《いくさ》に臨みては格別尊きものに候えども、勇は術のために制せられ候ものゆえ、勇のみにて術なければ、実は尊しとは参りがたきものに御座候。今日の備えに大切なるは、蒸汽船その他、軍器よろしきものにほかならず。たとい、英人と合戦なされ候とも、英国はさまでの事にはあるまじくとも、御国の御損失はおびただしき事と存じ奉り候。
――日本はまことに天幸にて、戦争の辛苦は書史にて御覧なされ候のみ、いまだ実地を御覧なき段、重畳《ちょうじょう》の御事に御座候。これは全くかけ離れたる東方の位置にありしため、ただいままでその沙汰《さた》なかりし儀にて、もし英仏両国に近くあらばもちろん、たとい一国にても御国と格別かけ離れおり申さず候わば、疾《と》くに戦争起こり候事にこれあるべく候。戦争の終わりは、いずれ条約取り結ばず候ては相成りがたき御事に候。わが大統領の願いを申さば、戦争いたさずして直ちに敬礼を尽くし条約相成り候よういたしたくとの儀に御座候。西洋近来名高き提督の語にも、『格別の勝利を得候|戦《いくさ》より、つまらぬ無事の方よろし』と御座候。
――今般、大統領より私差し越し候は、御国に対し懇切の心より起こり候儀にて、隔意ある事にはこれなく、他の外国より使節等差し越し候とはわけ違いと申し候。右等の儀よろしく御推察下さるべく候。ことに、このたび御開港等、御差し許しに相成り候とも、一時に御開きと申す儀にはこれなく、追い追い時にしたがい御開き相成り候よういたし候わば、御都合よろしかるべくと存じ奉り候。英国と条約御結びの場合には、必ず右様には相成るまじくと、大統領も申しおり候。国々より条約のため使節差し越し候とも、世界第一の合衆国の使節よりかくのごとく御取りきめ相成り候|旨《むね》、仰せ聞けられ候わば、かれこれは申すまじく候。合衆国大統領は別段飛び離れたる願いは仕《つかまつ》らず、合衆国人民へ過不及なき平等の儀、御許しのほど願いおり候ことに御座候。
――二百年前、御国において、ホルトガル人、イスパニヤ人御追放なされ候ころは、ただいまとは外国の風習大いに異なり申し候。そのころは宗門の事を皆願いおり申し候。アメリカにては宗門などは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧め候ようのことさらにこれなく候。何を信仰いたし候とも人々の心次第に御座候。当時ヨーロッパにては信仰の基本を見出し申し候。右は銘々の心より信じ候ゆえ、その心に任せ候よりほかにいたし方これなくと決着つかまつり候。宗門種々これあり候えども、畢竟《ひっきょう》人を善《よ》くいたし候趣意にほかならず。アメリカには仏の堂も耶蘇《ヤソ》の堂も一様に並びおり、一目に見渡し候よういたしあり、宗門につき一人も邪心を抱《いだ》き候ものこれなく、銘々安らかに今日を送り申し候。ホルトガル人、イスパニヤ人など日本へ参り候は自己の儀にて、政府の申し付けにはこれなく候。そのころは罷《まか》り越し候もの売買をいたし、宗門をひろめ、その上、干戈《かんか》をもって日本を横領する内々の所存にて参りし儀と存じ候。右参り候ものは廉直《れんちょく》のものにこれなく、反逆いたす見込みのものゆえ、その人物も推し量られ申し候。幸いに当時は右様のものこれなく候。
――当時の風習は世界一統の睦《むつ》まじきことを心がけ、一方の潤沢を一方に移し、何地《いずち》も平均に相成り候よういたし候ことに御座候。たとえば、英国にて凶作打ち続き食物に困り候えば、豊かなる国より商売を休《や》めその食物を運びつかわし候ようの風儀に御座候。交易と申し候えば品物に限り候よう相聞こえ候えども、新規発明の儀など互いに通じ合い、国益いたし候もまた交易の一端に御座候。諸州勝手に交易いたし候わばその国のもの世界中の儀をことごとく心得候よう相成り申すべく候。もとより農作は国中第一の業に候えども、国内のものことごとく農作いたし候ようには相成り申さず、その中には職人も産業いたし候ものもこれあり、互いに助け合う儀にこれあり候。国々によりては、他国の方に細工奇麗にて価も安き品|数多《あまた》これあり候。国用より多く出来《しゅったい》いたし候品は外国へ相渡し、その国になき産物は他邦より運び入れ候儀に御座候。それゆえ、諸国の交易いたし候えば、造り出し候品も多く相成り、かつは外国の品物も自由にいたし候儀もでき申し候。自己の製し申さざる品々も容易に得られ候は、容易にこれあり候。交易は直ちに便利なるため、懇切の心よりいたし候えば、戦争を避け候よう自然相成り申し候。もっとも、他邦より産物運び入れ候節は、その租税は必ず差し出し申し候。アメリカにては右租税をもって国内の費用を繕い、なお余りは年々宝蔵へ納め置き候事に御座候。租税の法種々これあり候えども、まず他邦より輸入いたし候ものの税より充分なるはこれなく候。
――ただいま、東インド一円はイギリスの所領と相成り候えども、元来は数か国に分かれおり候ところ、いずれも西洋と条約取り結ばざりしため、ついに英国に一統いたされ候。一本立ちの国の損は諸方において右より心づき申し候。シナ日本においても東インドの振り合いをもって、とくと御勘考これあり候ようしかるべくと存じ奉り候。日本も交易御開きに相成り候わば、御国の船印《ふなじるし》諸州の港にて見知り候よう相成り申すべく候。高山へ格別|眼力《がんりき》よろしき人登り見候わば、アメリカ製の鯨船数百艘、日本国の周囲に寄り合い、鯨漁いたし候儀、相見え申すべし。自国にて、いたしがたき業にてもこれなきを、他国のものに得られ候段、笑止の事に御座候。
――格別|上智《じょうち》のものの申し候には、今般英仏とシナとの戦争長続きはあるまじき由、左《さ》候えばイギリス使節はほどなく御当地へ参り申すべく候。憚《はばか》りながら御手前様、御同列様、御相談の上、その節の御取り扱い等を今より定め置かれ候よう大切に存じ奉り候。私考え候ところにては、交易条約御取り結びのほか、御扱い方もこれあるまじくと存じ奉り候。私名前にて東方にあるイギリス、フランスの高官へ書状差しつかわし、日本政府において交易条約御取り結び相成り、なお、他の外国へも御免許相成るべきはずの趣、申し達し候わば、五十艘の蒸汽船も一艘または二、三艘にて事済み申すべく候。今日は大統領の意向、ならびにかねて申し上げ置き候英国政府の思惑《おもわく》、内々《ないない》に申し上げ候儀に御座候。
――今日は私一生の中の幸福なる日に御座候。今日申し上げ候儀、御取り用いに相成り、日本国安全のなかだちとも相成り候わば、この上なき幸いの儀に御座候。ただいま申し上げ候は、世界中の儀にて、一切取り飾りなどは御座なく候。」
  右の通り申し上げ候事
[#ここで字下げ終わり]
 これがハリスの長口上だ。
 この先着のアメリカ人が教えたことは、よい意味にも悪い意味にもこの国民の上に働きかけた。ハリスは米国提督のペリイとも違い、力に訴えてもこの国を開かせようとした人ではなかった。相応に日本を知り、日本の国情というものをも認め、異国人ながらに信頼すべき人物と思われたのもハリスであった。国を開くか開かないかの早いころに来てこのハリスの教えて置いたことは、先入主となって日本人の胸の底に潜むようになったのである。あだかも、心の柔らかく感じやすい年ごろに受け入れた感化の人の一生に深い影響を及ぼすように。
[#改頁]

     第二章

       一

 商船十数|艘《そう》、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫《ひょうご》の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館《はこだて》からも、または上海《シャンハイ》方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力《ごだいりき》の大船から、達磨船《だるまぶね》、土船《つちぶね》、猪牙船《ちょきぶね》なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊《ていはく》していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。
 慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違《たご》うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸《こうべ》村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所《うんじょうしょ》が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場《はとば》も設けられ、三棟《みむね》ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居《かりずまい》に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。
 翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水《こうずい》のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方《さつまがた》に呼応する相良惣三《さがらそうぞう》一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪《りゃくだつ》に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱《こうらん》を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的《ちょうせんてき》な態度が徳川方を激昂《げきこう》させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川《よどがわ》付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津《あいづ》方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館《はこだて》へも長崎へも向かった。
 海から見た陸はこんな時だ。伏見《ふしみ》、鳥羽《とば》の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門《みかど》と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。
 フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居《かりずまい》する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。
 新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人《ひとり》だ。神戸村の庄屋《しょうや》生島四郎大夫《いくしましろだゆう》と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念《けねん》もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かないように。神戸村の庄屋はそのことを仏国領事に伝えに来た。
「兵庫|奉行《ぶぎょう》はどうしたろう。」
 そういう領事の言葉をカションは庄屋に取り次いだ。通詞を呼ぶまでもなく、カションは自由に日本語をあやつることができたからで。
「お奉行さまですか。」と庄屋は言った。「お奉行さまはもう兵庫にはいません。」
 その時、領事はカションを通して、いろいろなことを訴えた。これではまるで無統治、無警察も同じである。在留する外人に出歩くなと言われても、自分らには兵庫から十里以内に歩行の自由がある。兵庫、神戸の住民は、世態の前途に改善の希望を置いて、この新しい港を開いたのではないかと。さすがのカションにもそう細かいことまでは伝えられなかったが、領事の言おうとする意味はほぼ相手に通じた。
 神戸村の庄屋は言った。
「とにかく、あなたがたの遠く出歩くことは危険ですぞ。」
 兵庫奉行はすでにのがれ、開港地警衛の兵士もまた去ってしまった。わずかに町々を回って歩くのは、町内のものが各自に組織した自警団と、外国軍艦から上陸させた居留民保護の一隊とがあるだけだった。西国諸藩の兵士で勤王のために上京するもの、京坂諸藩邸の使臣で情報を本国にもたらすもの、そんな人たちの通行が日夜に兵庫神戸辺の街道筋に続いていた。

       二

 新時代の幕はこんなふうに切って落とされた。兵庫神戸の新しい港を中心にして、開国の光景がそこにひらけて来た。それにはまず当時の容易ならぬ外国関係を知らねばならない。
 アールコックはパアクスよりも前に英国公使として渡来した人であるが、このアールコックに言わせると、外国は戦争を好むものではない。土地をむさぼるものでもない、ただ戦端を開くように誘う場合が三つある。いやしくも条約を取り結びながらその信義を守らない場合、ゆえなく外人を殺傷する場合、みだりに外人を疑って交易を妨害する場合がそれであると。
 不幸にも、先年東海道川崎駅に近い生麦《なまむぎ》村に起こったと同じような事件が、王政復古の日を迎えてまだ間もない神戸|三宮《さんのみや》に突発した。しかも、京都新政府においては徳川|慶喜《よしのぶ》征討令を発し、征討府を建て、熾仁親王《たるひとしんのう》をその大総督に任じ、勤王の諸侯に兵を率いて上京することを命ずるような社会の不安と混乱との中で。
 慶応四年正月十一日のことだ。兵庫に在留する英国人の一人《ひとり》は神戸三宮の付近で、おりから上京の途中にある備前《びぜん》藩の家中のものに殺され、なお一人は傷つけられ、その場をのがれた一人が海岸に走って碇泊《ていはく》中の軍艦に事の急を告げた。時に英仏米諸国の軍艦は前年十二月七日の開港以来ずっと湾内にある。この出来事を聞いた英国司令官は兵庫神戸付近が全くの無統治、無警察の状態におちいっているものと見なし、居留地保護の必要があるとして、にわかに仏米と交渉の上、陸戦隊を上陸させた。そのうちの英国兵の一隊は進んで生田《いくた》に屯《たむろ》している備前藩の兵士に戦いをいどんだ。三小隊ばかりの英国兵が市中に木柵《もくさく》を構えて戦闘準備を整えたのは、その時であった。神戸から大坂に続いて行っている街道両口の柵門《さくもん》には、監視の英国兵が立ち、武士および佩刀者《はいとうしゃ》の通行は止められ、町々は厳重に警戒された。のみならず、港内に碇泊する諸藩が西洋形の運送船およそ十七艘はことごとく抑留され、神戸の埠頭《ふとう》は英国のために一時占領せられたかたちとなった。


 英国陸戦隊の上陸とともに、兵庫神戸の住民の間には非常な混乱を引き起こした。英国兵が実戦準備の快速なことにもひどく驚かされた。土地の人たちは生田方面に起こる時ならぬ小銃の砲撃を聞いた。わずかの人数で英国兵の一隊に応戦すべくもない備前方があわてて摩耶《まや》山道に退却したとのうわさも伝わった。この不時の変時に、沿道住民の多くはその度を失ってしまった。
 その日の夕方になると、殺害された英国人の死体は担架に載せられてすでに現場から引き取られたとの風評も伝わった。事の起こりは、備前藩の家中|日置帯刀《へきたてわき》の従兵が上京の途《みち》すがらにあって、兵庫昼食で神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人がその行列を横ぎろうとしたのによる。こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにとは、かねて神戸村の臨時取締役たる庄屋生島四郎太夫から外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったのにその意味がよく徹底しなかったのであろう。英人らはこの横断がそれほど違法であるという東洋流の習慣を知らない。おまけに言語は通じないと来ている。前衛の備前兵がそれを制するつもりで、鎗《やり》をあげて威嚇《いかく》を試みたところ、一人の英人はかくしの中に入れていたナイフを執ってそれに抵抗する態度を示したというからたまらない。備前兵は怒《おこ》って一人を斃《たお》し、一人を傷つけたのだ。外国陸戦隊の上陸は、こんな殺傷の結果であった。何にせよ相手は生麦事件以来、強硬な態度で聞こえたイギリスであり、それに兵庫にはこんな際の談判に当たるべき肝心な奉行もいない。兵庫奉行|柴田剛中《しばたごうちゅう》は幕府の役人であるところから、社会に変革が起こると同時に危難のその身に及ぶことを痛く恐怖して、疾《と》くに姿を隠してしまった。この人がのがれる時には、宿駕籠《しゅくかご》に身を投げ、その外部を筵《むしろ》でおおい、あたかも商家の船荷のように擬装して、人をして海岸にかつぎ出させ、それから船に乗って去ったというくらいだ。こんな空気の中で、夕やみが迫って来た。多くの住民の中には家財諸道具を片づけるものがある。ひそかにそれを近村へ運ぶものがある。年寄りや子供を遠くの農家へ避難させるものもある。
 たまたま、三百余人の長州藩《ちょうしゅうはん》の兵士を載せた船が大坂方面からその夜の中に兵庫の港に着いた。おそらく京坂地方もすでに鎮定したので、関税その他を新政府の手に収めることを先務として、兵庫開港場警衛の命を受けて来た人たちであったろう。英国兵はそれとは知らないから、備前藩の兵が大挙してやって来たのだと誤り認めて、まさに発砲するばかりになった。長州兵がそうでないと告げても、外人は信じない。長州兵の中には怒って外人の無礼を懲らそうと主張するものが出て来た。こうなると、町々は焼き払われるだろうと言って、兵火の禍《わざわ》いに罹《かか》ることを恐れる声が一層住民を狼狽《ろうばい》させた。長州兵の隊長は本陣|高崎弥五平《たかさきやごへい》方に陣取ったが、同藩の定紋を印《しる》した高張提灯《たかはりぢょうちん》一対を門前にさげさせて、長州藩の兵士たることを証し、なおその弥五平宅で英国士官と談判した。その時になって外人も備前藩の兵でないだけは諒解《りょうかい》したが、しかしこの地の占領を解くことを断じて肯《がえん》じない。長州兵はやむを得ないで奥平野《おくひらの》村の禅昌寺《ぜんしょうじ》に退いた。そこを宿衛の本拠として、その夜のうちに兵庫その他の警衛に従事した。そして非常を戒めた。
 過ぐる半月あまり安い思いも知らなかった兵庫神戸の住民が全く枕《まくら》を高くして眠ることのできるようになったのは、この長州兵を迎えてからであった。住民はかわるがわる来て、市中の取り締まりについた長州兵に、過ぐる日夜の恐ろしかったことを告げた。幕府廃止以来、世態の急激な変化は兵庫奉行の逃亡となり、代官手代、奉行付き別隊組兵士なぞは位置の不安と給料の不渡りから多く無頼《ぶらい》の徒と化したことを告げた。それらの手合いは自称浪士の輩《ともがら》と共に市中を横行し、あだかも押し借り強盗にもひとしい所行に及び、ひどいのになると白昼人家の門を破って住民を脅迫するやら、掠奪《りゃくだつ》をほしいままにするやら、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を顕出したことを告げた。外国陸戦隊の上陸はこんな際で、住民各自に自衛の方法を講じつつ、いずれも新しい統治者を待ちわびているところであると告げた。
 今や長州兵を迎えて、町々村々の人たちはようやくわずかに互いの笑顔《えがお》を見ることができた。幕府の役人を忌むことが深いだけ、長州兵に信頼することも厚い。あるものは幕府の命によって居留地工事を負担した一役人が巨額の工事金を古井戸の中に埋《うず》めていると告げに来る。あるものは大坂奉行所から新設道路工事を請け負った一役人がその土木工事金を隠匿していると告げに来る。ある事、ない事が掘り出された。在来幕府時代からの諸役人に対して土地のものが抱《いだ》いていた快くない感情までが一緒になって、一時にそこへ発して来た。だれが思いついて、だれがそれに調子を合わせるとも言えないような「えいじゃないか」のめずらしい声が、町々にはわくように起こって来た。


 はやし立てる「ええじゃないか」の騒ぎは正月十四日になってもまだやまない。その群集の声は神戸の海浜にある新しい運上所(税関)にまで響き伝わっていた。
 そこはいわゆる「びいどろの家」である。ガラス板でもって張った窓のある家もまだ神戸|界隈《かいわい》に見られないころに、開港の記念としてできた最初の和洋折衷の建築である。大坂の居館を去って兵庫の方に退いていた各国公使らは、それぞれ通訳に巧みな書記官をしたがえ、いずれも礼服着用で、その二階の広間に集まりつつあった。英国特派全権公使兼総領事パアクス、仏国全権公使ロセス、伊国特派全権公使トゥール、普国代理公使ブランド、オランダ公務代理総領事ブロック、それに米国弁理公使ファルケンボルグの人たちだ。その日、十四日は公使らが神戸運上所に集まって、京都新政府の使臣をそこに迎えるという日であった。
 幾つかの窓を通して、外人居留地と定められた区域の光景もその二階から望まれる。日本側の使臣を待つ間、公使らは思い思いにそれらの窓に近く行った。神戸は岸深《きしぶか》で、将来の繁華を予想させる位置にはあったが、いかに言っても開いたばかりの海浜だ。あるところは半農半漁の漁村に続くオランダ領事館の敷地であり、あるところは率先して工事に取りかかったばかりのようなイギリス領事館の敷地である。南の方に当たっては海も青く光っていて、港に碇泊《ていはく》する五隻の英艦と、三隻の仏艦と、一隻の米艦とを望むこともできた。だれの目にもまだ新しい港の感じが浮かばない。
 そこへおもしろおかしい謡《うた》の囃子《はやし》が聞こえる。三宮《さんのみや》の方角に起こる群集の声は次第に近づいて来る。前年の冬、徳川十五代将軍が大政奉還のうわさの民間に知れ渡るころから、一か月半以上も京坂各地に続いた「えいじゃないか」の騒ぎが、またこの土地に盛り返したのだ。その時、群集は三宮神社の前あたりから運上所を中心にする新開地の一区域にまであふれるように入り込んで来た。
 踊り狂う行列のにぎやかさ。数日前までほとんど生きた色もなかったような地方の住民とも思われないほどの祭礼気分だ。公使らはいずれも声のする窓の方へ行って、熱狂する群集をながめた。手ぬぐいを首に巻きつけて行くもののあとには、火の用心の腰巾着《こしぎんちゃく》をぶらさげたものが続く。あるいは鬱金《うこん》や浅黄《あさぎ》の襦袢《じゅばん》一枚になり、あるいはちょん髷《まげ》に向こう鉢巻《はちまき》という姿である。陽気なもの、勇みなもの、滑稽《こっけい》なものの行列だ。外国人同志の間にはうわさもとりどりで、あの「えいじゃないか」は何を謳歌《おうか》する声だろうと言い出すものがあったが、だれもそれに答えうるものがない。中には二階からガラス窓の一つをあけて、
「ブラボオ、ブラボオ。」
 と群集の方へ向けて日本びいきらしい声を送るフランス書記官メルメット・カションのような人もある。この年若なフランス人は自国の方のカアナバルの祭りのころの仮装行列でも思い出したように、老幼の差別なくもみ合いながら通り過ぎる人々の声を潮《うしお》のように聞いていた。
 そのうちに、新政府の参与兼外国事務|取調掛《とりしらべがか》りなる東久世通禧《ひがしくぜみちとみ》をはじめ、随行員|寺島陶蔵《てらじまとうぞう》、伊藤俊介《いとうしゅんすけ》、同じく中島作太郎なぞの面々がその応接室にはいって来た。当日は、ちょうど新帝が御元服で、大赦の詔《みことのり》も下るという日を迎えていたので、新政府の使臣、およびその随行員として来た人たちは、いずれも改まった顔つきをしていた。初対面のこととて、まず各自の姓名職掌の紹介がある。六か国の代表者の目は一様にその日の正使にそそいだ。通禧《みちとみ》は烏帽子《えぼし》に狩衣《かりぎぬ》を着け、剣を帯び、紫の組掛緒《くみかけお》という公卿《くげ》の扮装《いでたち》であったが、そのそばには伊藤俊介が羽織袴《はおりはかま》でついていて、いろいろと公使らの間を周旋した。俊介は先年|井上聞多《いのうえもんた》と共に英国へ渡ったこともあるからで。武士らしい髷《まげ》を捨てて早くもヨーロッパ風を採り入れているような散髪のものは、正使随行員の中でもこの人|一人《ひとり》だけであった。そこにあるものは何もかもまだ新世帯の感じだ。建築物《たてもの》からして和洋折衷だ。万事手回りかねる際とて、椅子《いす》も粗末なものを並べて間に合わせてある。
 やがて通禧は右手に国書をささげて、各国公使の前でそれを読み上げた。
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「日本国天皇《にっぽんこくのてんのう》、|告[#二]諸外国帝王及其臣人[#一]《しょがいこくのていおうおよびそのしんじんにつぐ》。嚮者将軍徳川慶喜《さきにしょうぐんとくがわよしのぶ》、|請[#レ]帰[#二]政権[#一]也《せいけんをきさんとこいたるや》、|制[#二]允之[#一]《これをせいいんして》、|内外政事親裁[#レ]之《ないがいのせいじはしたしくこれをさいせり》。乃曰《すなわちいわく》、従前条約《じゅうぜんのじょうやくには》、|雖[#レ]用[#二]大君名称[#一]《たいくんのめいしょうをもちいたりといえども》、|自[#レ]今而後《いまよりのちは》、|当[#三]換以[#二]天皇称[#一]《まさにかうるにてんのうのしょうをもってすべし》、而諸国交際之儀《しこうしてしょこくとのこうさいのぎは》、|専命[#二]有司等[#一]《もっぱらゆうしらにめいぜん》。|各国公使諒[#二]知斯旨[#一]《かっこくこうしこのむねをりょうちせよ》。」
  慶応四年正月十日[#地から2字上げ]御諱《おんいみな》
[#ここで字下げ終わり]
 ともかくも、その日は日本の天皇が外国に対する御親政の始めであった。
 午後に、英国公使パアクスは東久世通禧と三宮英人殺傷事件の交渉談判を開いた。パアクスも当時の国情の殺気に満ちた情景は知りつくしていたから、あえてそう難題を持ち出そうとしなかった。即日にも穏やかに神戸の占領を解こうと言って、早速《さっそく》陸戦隊を引き揚げることを承諾した。それにはこの事件の本犯者を厳罰に処して将来の戒めとする事、日本政府はよろしく陳謝の意を表する事とを条件とした。
 やかましい三宮事件もこんなふうで、一気に解決を告げることになった。パアクスは双方の豊かな頬《ほお》に縮れ髯《ひげ》をたくわえている男だが、その時いささか得意げにその頬髯をなでて、
「自分は京都新政府に好意を表するため、かくも穏やかな取り計らいをした。これは御国に対し懇切な心から出た次第で、隔意のある事ではない。他の外国が交渉談判を開くとはわけ違いである。もしこれが他の外国人の殺傷の場合ででもあると、なかなかこんなわけにはまいるまい。」
 こういう意味のことを彼は通訳の書記官ミットフォードに言わせた。そして自分の言うことをわかってくれたかという顔つきで、堅い握手を求めるために、イギリス人らしい大きな手を東久世通禧の方に差し出した。


 パアクスは高い心の調子でいる時であった。この英国公使は前公使アールコックの方針を受け継いだ人で、かつては敵として戦った薩長《さっちょう》両藩の人士と握手する位置に立ち、兵器弾薬の類《たぐい》まで援助を惜しまないについては、その意見にも相応な理由はあった。この人に言わせると、今日世界はすでに全く開けて、いずれの国も皆交際しないものはない。国と国とが交わる以上は、人情もあまねく交わらないわけにいかない。物貨とてもそのとおりであろう。交易の道は小さな損害のないとは言えないが、しかしその小さな損害を恐れてそれを妨げるなら、必ず大艱難《だいかんなん》を引き出すようになる。ヨーロッパ人はもう長いことそれを経験して来た。在来の東洋諸国を見るに、多く皆|旧《ふる》くからの習慣を固守するばかりだ。貿易を制限するところがあり、居留地を限るところがあり、交際の退歩するところがある。我《われ》は開くことを希望するし、彼は鎖《とざ》すことを希望する。そんなふうに競い合って行って、彼も迫り我も迫って互いに一歩も譲らないとなると、勢い銃剣の力をかりないわけにいかなくなる。互いの事情を斟酌《しんしゃく》する必要がそこから起こって来る。それには「真知」をもってせねばならない。そもそも外国人は何のために日本へ来るのであるか。ほかでもない、政府と親しくし、日本人とも親しく交わりたいがためである。交易以来、そのために貧しくなった国はまだない。万一、一方の損になるばかりなら、その交易は必ずすたれる。双方に利があれば必ず行なわれもするし、必ず富みもする。交易をすれは物価が高くなる。物価が高くなれば輸出の減るということも起こって来る。輸入品が多くなれば交易のできなくなることもある。だから節制しないうちに自然と節制があるようなもので、交易は常に氾濫《はんらん》に至らない。国内の人民も物を欠くに至らない。約《つづ》めて言えば、人類の交際は明白な直道で、いじけたものでもなく、曲がりくねったものでもないのに、何ゆえに日本はこんなに外国を嫉視《しっし》するのであるか。外人の居住するものは同盟条約の中について日本のためにならないことがあるのであるか。日本治国の体裁に害あることがあるのであるか。条約の精神が行き渡るなら、今日すでに日本国じゅうのものが交易の利を受けて、おのおのその便利を喜ぶであろう。決して今日のように人心動揺して外人を讐敵《かたき》のように見ることはあるまい。この排外は、全く今までの幕府政治の悪いのと、外交以来諸藩の費用のおびただしいとによっておこって来た。この形勢を打破するには、見識ある日本諸侯の力に待たねばならない。薩長両藩の有志者のごときは実に国を憂うるものと言うべきである。これがアールコック以来の方針を押し進め、徳川の旧勢力に見切りをつけたパアクスの言い分であった。今では彼は各国公使仲間の先頭に立って、いまだに江戸旧幕府に執着するフランスを冷笑するほどの鼻息の荒さである。
 このパアクスだ。後は東久世通禧に約したように、兵庫神戸の警衛を全く長州兵の手に任せて、早速街道両口の木柵《もくさく》を取り払わせ、上陸中の外国兵をそれぞれ軍艦に引き揚げさせ、なお、港内に抑留してあった諸藩の運送船をも解放した。のみならず、彼は兵庫にある仮の居館に公使兼総領事として滞在して、地方一般の無政治無規則から日に日に新しい設備のできて行く状態をながめていた。十五日には兵庫事務局が諸問屋会所に仮に設けられ、十九日にはそれが旧幕府大坂奉行所の所属であった勤番所に移されるという時だ。この国の建て直しの日がやって来て見ると、百般の事務はことごとく新規まき直しで、ほとんど手の着けようがないかにも見えていた。
 しかし、同じ公使仲間でも、新政府に対するアメリカ公使ファルケンボルグの態度はすこし違う。早い話が、アメリカはこの国への先着者である。合衆国と条約を結んだのは、日本が外国と条約を結んだ初めての場合である。その先着者を出し抜いて、事ごとに先鞭《せんべん》を着けようとする英国公使の態度は、ハリス以来日本の親友をもって任ずるファルケンボルグにこころよいはずもない。
 当時、討幕の官軍はいよいよ三道より出発するとのうわさが兵庫神戸まで伝わって来た。大総督|有栖川宮《ありすがわのみや》は錦旗《きんき》節刀を拝受して大坂に出《い》で、軍国の形状もここに至って成ったとの風評はもっぱら行なわれるようになった。月の二十一日には、六か国の公使らは通禧《みちとみ》からの書面を受けて、東征の師の興《おこ》ったという報告に接した。武器を輸入して徳川慶喜およびその臣属を助くべからずとの意味を読んだ。その翌二十二日には兵庫に裁判所を兼ねた鎮台もできて、通禧がその総督に任ぜられたことも知った。
 この空気の中ではあるが、徳川慶喜はすでに前年十二月三日に外国公使らを大坂に集め、どんな変革がこの国に来ようとも、外交の事は依然責任を負うであろうと告げてある。公使らは、にわかに幕府を逆賊とは見なさない。この形勢をみて取ったファルケンボルグは率先して局外中立を唱え出した。そして、ひそかに新政府に武器を販売するイギリスと、旧幕府の手合いに軍用品を供給するフランスとに対して、アメリカの立場を明らかにした。
 ファルケンボルグの出した布告は、だれも正面から争えないほど厳正なものであった。彼は日本の御門《みかど》と大君との間に戦争の起こったことを布告し、かつ合衆国人民の局外中立を厳守すべきことを言い渡した。軍船あるいは運送船を売ることも貸すことも厳禁たるべきもの。兵士はもとより、武器、弾薬、兵粮《ひょうろう》、その他すべて軍事にかかわる品々をあるいは売りあるいは貸し渡すこともまた厳禁たるべきもの。もしこの規則にそむくなら、それは国際法から見て局外中立の法度《はっと》を破るものであるから、敵視せらるるに至ることはもちろんである、万一、これを破るものは軍法によって捕虜とせられ、その積み荷は没収せられ、局外荷主の品たりとも連累《れんるい》の禍《わざわ》いを免るることはできないと心得よ。日本国と合衆国との条約面の権によって、たとい自分の国籍のものたりとも右の規則を破ったものはあえてこれを保護することはできないものである。この布告が合衆国公使ファルケンボルグの名で、日本兵庫神戸にある居留館において、として発表された。
 アメリカ以外の条約国の公使らも、おもてむきこれには異議を唱えるものがなかった。彼らは皆、この局外中立の布告にならった。各国いずれも同じ文句で、ただ公使の名が異なるのみで。でも、生命《いのち》がけの冒険家が集まって来る開港場のようなところには、そう明るい昼間ばかりはない。ユウゼニイと名づくる砲船は十万ドルで肥前《ひぜん》へ売れたといい、ヒンダと名づくる船は十一万ドルで長州へ売れたともいう。その他、買い主と値段のよくわからないまでも、ひそかに内地へ売れたという外国船は幾|艘《そう》かあった。アテリネと名づくる汽船は、これも売り物で、暗夜にまぎれてこっそり兵庫に来たことはすぐその道のものに知れた。

       三

 旧暦の二月にはいって、兵庫にある外国公使らは大坂の会合に赴《おもむ》くため、それぞれしたくをはじめることになった。これは島津修理太夫《しまづしゅりだゆう》をはじめ、毛利長門守《もうりながとのかみ》、細川越中守《ほそかわえっちゅうのかみ》、浅野安芸守《あさのあきのかみ》、松平大蔵大輔《まつだいらおおくらたいふ》(春嶽《しゅんがく》)、それに山内容堂《やまのうちようどう》などの朝廷守護の藩主らが連署しての建議にもとづき、当時の急務は外国との交際を講明しないでは協《かな》わないとの趣意に出たものであった。各国がいよいよ新政府を承認するなら、前例のない京都参府を各国使臣に許されるであろうとの内々の達しまであった。
 それにしても新政府の信用はまだ諸外国の間に薄い。多年、排外の中心地として知られた京都にできた新政府である。この一大改革の機運を迎えて、開国の方向を確定するのが第一だとする新政府の熱心は聞こえても、各国公使らはまだまちまちの説を執って疑念の晴れるところまで至っていない。三宮《さんのみや》事件はこの新政府にとって誠意と実力とを示す一つの試金石とも見られた。二月の九日になると、各国公使あての詫書《わびしょ》が京都から届いた。それは陸奥陽之助《むつようのすけ》が使者として持参したというもので、パアクスらはその書面を寺島陶蔵から受け取った。見ると、朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申しわけがない。今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動《もうどう》の所為のないようきっと申し渡して置く。今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。このたびの儀は、備前家来|日置帯刀《へきたてわき》に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に割腹《かっぷく》を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった、と認《したた》めてある。宇和島《うわじま》少将(伊達宗城《だてむねなり》)の花押《かおう》まである。
 その日、兵庫の永福寺の方では本犯者の処刑があると聞いて、パアクスは二人《ふたり》の書記官を立ち会わせることにした。日本側からは、伊藤俊介《いとうしゅんすけ》、他一名のものが立ち会うという日であった。その時の公使の言葉に、
「自分は切腹が日本武士の名誉であると聞く。これは名誉の死であってはならない。今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
 パアクスも大きく出た。
 その時になると、外人殺害者の処刑について世間にはいろいろな取りざたがあった。世が世なら、善三郎は無礼な外夷《がいい》を打ち懲らしたものとして、むしろお褒《ほ》めにも預かるべき武士だと言うものがある。彼は風采《ふうさい》も卑しくなく、死に臨んでもいささか悪びれた態度もなく、一首の辞世を残して行ったと言うものがある。一方にはまた、末期《まつご》に及んでもなお助命の沙汰《さた》を期した彼であった、同僚の備前藩士から何事かを耳のほとりにささやかれた時はにわかにその顔色を変えて震えた。彼も死に切れない死を死んで行ったと言うものもある。
 四日過ぎには、各国公使は書記官を伴って大坂へ向け出発するばかりになった。居留地の保護は長州兵の隊長に、諸般の事務を兵庫在留の領事らに、それぞれ依頼すべきことは依頼した。兵庫、西宮《にしのみや》から大坂間の街道筋は、山陰、山陽、西海、東海諸道からの要路に当たって、宿駅人馬の継立《つぎた》ても繁雑をきわめると言われたころだ。街道付近の村々からは人足差配方の肝煎《きもい》りが日々両三名ずつ問屋場《といやば》へ詰め、お定めの人馬二十五人二十五匹以外の不足は全部雇い上げとし、賃銭はその月の十四日から六割増と聞こえているくらいだ。各国公使はこの陸よりする途中の混雑を避けて、大坂|天保山《てんぽうざん》の沖までは軍艦で行くことにしてあった。英国公使パアクスの提議で、護衛兵の一隊をも引率して行くことにした。この大坂行きは今までともちがい、各国公使がそれぞれの政府を代表しての晴れの舞台に臨むという時であった。
 どうやら二月半ばの海も凪《なぎ》だ。いよいよ朝早く兵庫の地を離れて行くとなると、なんとなく油断のならない気がして来たと言い出すのはオランダ代理公使ブロックであった。先年、条約許容の勅書を携えて、幕府外国奉行|山口駿河《やまぐちするが》が老中|松平伯耆《まつだいらほうき》を伴い、大坂から汽船を急がせて来たのもこの道だと言い出すのは仏国公使ロセスであった。たとい、前例のない京都参府が自分らに許されるとしても、大坂から先の旅はどうであろうかと気づかうのは米国公使ファルケンボルグであった。


 大坂西本願寺には各国公使を待ち受ける人たちが集まった。醍醐大納言《だいごだいなごん》(忠順《ただおさ》)は大坂の知事、ないしは裁判所総督として。宇和島少将(伊達宗城《だてむねなり》)はその副総督として。
 次第に外国事務掛りの顔もそろった。兵庫裁判所総督としての東久世通禧も伊藤俊介らを伴って来た。これらの人たちが諸藩からの列席者を持ち合わす間に、順に一人《ひとり》ずつ寺僧に案内されて、清げな白足袋《しろたび》で広間の畳を踏んで来る家老たちもある。
 その日、十四日は薩州藩から護衛兵を出して、小蒸汽船で安治川口《あじがわぐち》に着く各国公使を出迎えるという手はずであった。その日の主人役はなんと言っても東久世通禧であったが、この人とても外交のことに明るいわけではない。いったい、兵庫から大坂へかけての最初の外国談判は、朝廷の新政治を外国公使に報告し、諸外国の承認を求めねばならない。それにはなるべくは公卿《くげ》の中でその役を勤めるがよいということであった。ところが、公卿の中に、だれも外国公使に接したものがない。第一、西洋人というものにあったものもない。皆|尻込《しりご》みして、通禧を推した。通禧だけが西洋人の顔を見ているというわけで。彼なら西洋人の意気込みも知っているだろうからというわけで。この通禧は過ぐる慶応三年の冬、筑前《ちくぜん》の方にいて、一つ開港場の様子を見て置いたらよかろうと人にも勧められ、自分からも思い立ったことがある。同時に、三条公にも長崎行きを勧めるものがあったが、同公は一方の大将であり、それに密行も気がかりであるからと言って、同行はされなかった。通禧だけが行った。大山格之助の周旋で、薩州人になって長崎へ行った。さらに五代《ごだい》才助の周旋で、三週間ばかりも長崎にいて、変名でオランダやイギリスの商人にもあい、米人フルベッキなどにも交わった。その時、外国の軍艦も見、西洋の話も聞いたことがある。
 人も知るごとく、通禧は文久三年の過去に、攘夷御親征大和行幸《じょういごしんせいやまとぎょうこう》の事件で長州へ脱走した七卿の一人である。攘夷主唱の張本人とも言うべき人たちの中での錚々《そうそう》である。不思議な運命は、この閲歴を持った人を外国人歓迎の主人役の位置に立たせた。ヨーロッパは日本を去ることも遠く、蘭書以外の洋書のこの国の書庫中に載せらるるものとても少ない。通禧はじめ国際に関する知識もまだ浅かった。しかし、徳川慶喜ですら先年各国公使をこの大坂に集めて将軍自ら会見する先例を開いている。新政府を護《も》り立てようとするものは、この際、何を忍んでも、外国事務局の設置を各国公使に認めさせ、いつまで排外を固執するものでないことを明らかにせねばならない。当時漢訳から来た言葉ではあるが、新熟語として士人の間に流行して来た標語に「万国公法」というがある。旧を捨て新に就《つ》こうとする人たちはそれを何よりの水先案内として、その万国公法の意気で異国人を迎えようとしていた。
 そのうちに、公使らの安治川《あじがわ》着を知らせる使者が走って来た。軍旗をたてた薩州兵の一隊を先頭に、護衛の外国兵はいずれも剣付き鉄砲を肩にして、すでに外人居留地を出発したとの注進がある。駕籠《かご》に乗った異人の行列を見ようとする男や女の出たことも驚くばかり、大坂運上所の前あたりから、居留地、新大橋の辺へかけては人の黒山を築いているとの注進もある。


 各国公使の一行は無事に西本願寺に着いた。公使らは各一名ずつの書記官を伴って来たから、一行十二人の外交団だ。しばらく休息の時を与えるため、接待役の僧が一室に案内し、黒い裙子《くんし》を着けた子坊主《こぼうず》は高坏《たかつき》で茶菓なぞを運んで行って一行をもてなした。
 寺の大広間は内外の使臣が会見室として、すでにその準備がととのえてある。やがて外人側は導かれて畳の上に並べた椅子《いす》に着いた。列藩の家老たちも来てそれぞれ着席する。まず東久世通禧の発話で各公使への挨拶《あいさつ》があった。それは日本の政体の復古した事、帝《みかど》自ら政権を執りたもう事、外国の交際も一切朝廷で引き受ける事は過日兵庫において布告したとおり相違のない旨《むね》を告げ、今回外国事務局を建てて交易通商一切の諸事件をことごとく取り扱うから、今日改めて朝廷守護の列藩と共に、各国公使に会同してこの盟約を定める旨を告げた。これには公使らも異議がない。帝はじめ列藩の諸侯が日本人民のために広く信睦《しんぼく》を求め、互いに誠実をもって交わろうということは、各国においてもかねがね渇望したところである、今後は帝の朝廷を日本の主府と仰いで、万事その政令を奉ずるであろう。公使らはその意味のことを答えた。
 通禧はまた、言葉を改めて言った。このたび万国と条約を改めた上は、帝自ら各国公使に対面して、盟《ちか》いを立てようとの思《おぼ》し召しである。不日《ふじつ》上京あるべき旨、各国公使に申し入れるよう、帝の命を奉じたのであると。公使らは恐れ入ったと言って、いずれ談合の上、明後日その御返事を申し上げると挨拶した。その時の英国公使の言葉に、徳川慶喜討伐の師がすでに京都を出発した上は、関東の形勢も安心なりがたい。もし早く帝に拝謁《はいえつ》することがかなわないならすみやかに浪華《なにわ》の地を退きたい、そして横浜にある居留民の保護に当たりたい一同の希望であると。これを聞くと、米国公使はそばにいる伊国公使や普国公使を顧みて、自分ら三人は明十五日までに大坂を出発して横浜へ回航したい、と述べた。
 ファルケンボルグはしきりに手をもんだ。横浜居留地の方のことも心にかかるから、としきりに弁解した。通禧はその様子をみて取って言った。
「では、こうなすったら、いかがでしょう。明日中には謁見の日取りを京都からも申してまいりましょう。それまで御滞坂になって、その上で進退せられたら。諸君も京都へ行って一度は天顔を拝するがいい。」


 滞坂中の各国公使の間には、帝に謁見の日限を確定して、それをもって盟《ちか》いの意味をはっきりさせたいと言うものと、ひどく上京を躊躇《ちゅうちょ》するものとがあった。このことが京都の方に聞こえると、外国人の参内《さんだい》は奥向きではなはだむつかしい、各国公使の御対面なぞはもってのほかであるということで、京都へ入れることはいけないという奥向きの模様が急使をもって通禧のところへ伝えられた。三条岩倉両公も困って、なんとかして奥向きを説諭してくれるようにとの伝言も添えてあった。
 これには通禧も驚かされた。早速《さっそく》京都への使者を立てて、今はなかなかそんな時でないことを奥向きへ申し上げた。肝心の京都からして信睦《しんぼく》の実を示さないなら、諸外国の態度はどうひっくりかえるやも測りがたい時であると申し上げた。たとえば江戸に各諸藩の留守居を置くと同様なもので、外国と御交際になる以上はその留守居、すなわち各国公使にお会いにならぬという事はできない、これはお会いなさるがいい、西洋各国は互いに交際を親密にしている、日本のように別になっていない、諸藩の留守居と思《おぼ》し召すがいいと申し上げた。
 もはや、周囲の事情はこの島国の孤立を許さない。その時になって見ると、かつては軟弱な外交として関東を攻撃した新政府方も、幕府当局者と同じ悩みを経験せねばならなかった。かつては幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人《けとうじん》と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとした岩瀬肥後《いわせひご》なぞの心を苦しめた立場は、ちょうど新政府当局者の身に回って来た。たとい、相手があの米国のハリスの言い残したように、「交易による世界一統」というごとき目的を立てて、工業その他のまだおくれていた極東の事情も顧みずに進み来るようなものであっても――ともかくも、国の上下をあげて、この際大いに譲らねばならなかった。


 東征軍が出発した後の大坂は、あたかも大きな潮の引いたあとのようになった。留守を預かる諸藩の人たちと、出征兵士のことを気づかう市民とだけがそのあとに残った。そして徳川慶喜はすでに幾度か尾州《びしゅう》の御隠居や越前の松平|春嶽《しゅんがく》を通して謝罪と和解の意をいたしたということや、慶喜その人は江戸|東叡山《とうえいざん》の寛永寺《かんえいじ》にはいって謹慎の意を表しているといううわさなぞで持ち切った。
 大坂西本願寺での各国公使との会見が行なわれた翌日のことである。中寺町にあるフランス公使館からは、各国公使と共に日本側の主《おも》な委員を晩食に招きたいと言って来た。江戸旧幕府の同情者として知られているフランス公使ロセスすら、前日の会見には満足して、この好意を寄せて来たのだ。
 やがて公使館からは迎えのものがやって来るようになった。日本側からの出席者は大坂の知事|醍醐忠順《だいごただおさ》、宇和島|伊予守《いよのかみ》、それに通禧ときまった。そこで、三人は出かけた。
 その晩、通禧らは何よりの土産《みやげ》を持参した。来たる十八日を期して各国公使に上京参内せよと京都から通知のあったことが、それだ。この大きな土産は、通禧の使者が京都からもたらして帰って来たものだ。諸藩の留守居と思《おぼ》し召して各国公使に御対面あるがいいとの通禧の進言が奥向きにもいれられたのである。
 中寺町のフランス公使館には主人側のロセスをはじめ、客分の公使たちまで集まって通禧らを待ち受けていた。そこには、まるで日本人のように話す書記官メルメット・カションがいて、通訳には事を欠かない。このカションが、
「さあ、これです。」
 と、わざわざ日本語で言って見せて、通禧らの土産話をロセスにも取り次ぎ、他の公使仲間にも取り次いだ。
「ボン。」
 ロセスがその時の答えは、そんなに短かかった。思わず彼の口をついて出たその短かい言葉は、万事好都合に運んだという意味を通わせた。英国のパアクス、米国のファルケンボルグ、伊国のトウール、普国のブランド、オランダのブロック――そこに招かれて来ている公使の面々はいずれも喜んで、十八日には朝延へ罷《まか》り出ようとの相談に花を咲かせた。中には、京都を見うる日のこんなに早く来ようとは思わなかったと言い出すものがある。自分らはもう長いこと、この日の来るのを待っていたと言うものもある。
 晩食。食卓の用意もすでにできたと言って、カションは一同の着席をすすめに来た。その時、宇和島少将は通禧の袖《そで》を引いて、
「東久世さん、わたしはこういうところで馳走《ちそう》になったことがない。万事、貴公によろしく頼みますよ。」
「どうも、そう言われても、わたしも困る。まあ、皆のするとおりにすれば、それでよろしいのでしょう。」
 通禧の挨拶《あいさつ》だ。
 配膳《はいぜん》の代わりに一つの大きな卓を置いたような食堂の光景が、やがて通禧らの目に映った。そこの椅子《いす》には腰掛ける人によって高下の格のさだまりがあるでもなかったが、でもだれの席をどこに置くかというような心づかいの細かさはあらわれていた。カションの案内で、通禧らはその晩の正客の席として設けてあるらしいところに着いた。パアクスの隣には醍醐大納言、ファルケンボルグとさしむかいには宇和島少将というふうに。そこには鳥の嘴《くちばし》のように動かせる箸《はし》のかわりに、獣の爪《つめ》のようなフォークが置いてある。吸い物に使う大きな匙《さじ》と、きれいに磨《みが》いた幾本かのナイフも添えてある。食卓用の白い口|拭《ふ》きを折り畳《たた》んで、客の前に置いてあるのも異国の風俗だ。食わせる物の出し方も変わっている。吸い物の皿《さら》を出す前に持って来るパンは、この国のことで言って見るなら握飯《むすび》の代わりだ。
 カションはもてなし顔に言った。
「さあ、どうぞおはじめください。フランスの料理はお口に合いますか、どうですか。」
 給仕人《きゅうじにん》が料理を盛った大きな皿を運んで来て、客のうしろから好きな物を取れと勤めるたびに、通禧らは西洋人のするとおりにした。パアクスが鳥の肉を取れば、こちらでも鳥の肉を取った。ファルケンボルグが野菜を取れば、こちらでも野菜を取った。食事の間に、通禧はおりおり連れの方へ目をやったが、醍醐大納言も、宇和島少将も、共にすこし勝手が違うというふうで、主人の公使が馳走《ちそう》ぶりに勧める仏国産の白いチーズも、わずかにその香気をかいで見たばかり。古い葡萄酒《ぶどうしゅ》ですら、そんな席でゆっくり味わわれるものとは見えなかった。
 しかし、この食卓の上は楽しかった。そのうちに日本側の客を置いて、一人《ひとり》立ち、二人《ふたり》立ち、公使らは皆席を立ってしまった。変なことではある。その考えがすぐに通禧に来た。醍醐大納言や宇和島少将は、と見ると、これもいぶかしそうな顔つきである。なんぞ変が起こったのであろうか、それまで話を持って行って、互いにあたりを見回したころは、日本側の三人の客だけしかその食堂のなかに残っていなかった。


 泉州《せんしゅう》、堺港《さかいみなと》の旭茶屋《あさひぢゃや》に、暴動の起こったことが大坂へ知れたのは、異人屋敷ではこの馳走の最中であった。よほどの騒動ということで、仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員が土佐《とさ》の家中のものに襲われたとの報知《しらせ》である。その乗組員はボートを出して堺の港内を遊び回っていたところ、にわかに土州兵のために岸から狙撃《そげき》されたとのことであるが、旭茶屋方面から走って来るものの注進もまちまちで、出来事の真相は判然しない。ただ乗組員のうちの四人は即死し、七人は負傷し、別に七人は行くえ不明になったということは確かめられた。なお、行くえ不明の七人が難をのがれようとして水中に飛び込んだものだということもわかって来た。
 翌十六日の朝、とりあえず通禧は米国公使館を訪《たず》ねた。ファルケンボルグにあって、どうしたらよかろうと相談すると、仏国の軍艦はまさに横浜へ引き返そうとするところであるという。どうしてもこれは軍艦を引き留めねばならぬ。その考えから、通禧らは米国公使にしかるべく取りなしを依頼しようとした。
 すると、フランス側からは早速《さっそく》抗議を提出して来た。それは御門《みかど》政府外国事務掛り、東久世少将、伊達伊予守両閣下へとして、次ぎのような手詰めの談判を意味したものであった。
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「……かくのごとき事件は世間まれに見聞いたし候《そうろう》事にて、禽獣《きんじゅう》の所行と申すべし。ついては仏国ミニストル、ひとまず軍艦ウエストの船中へ引き取りおり、なお右行くえ相知れざる人々死生にかかわらず残らず当方へ御差し返し下されたく、明朝第八時まで猶予いたし候間、この段大坂を領せらるる当時の政府へ申し進じ置き候。万一、右のとおり御処置これなきにおいてはいかようの御|詫《わ》び御申し入れなされ候とも、かかる文明国の法則に違《たが》い、のみならずことにこのほど取りきめし条約書および条約の文に違背し、また当今御門政府の周囲にありて重役を勤めおる大名の家来にかくのごときの処置行なわれ候ては、これに対し相当と相心得候処置に及び候事にこれあるべく候間、この段申し進じ置き候。謹言。」
  千八百六十八年二月、大坂において
[#地から11字上げ]日本在留
[#地から2字上げ]仏国全権レオン・ロセス
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 ともかくも、五代、岩下らの働きから、十七日の朝八時とは言わないで、正午まで待ってもらうことにした。行くえ不明の七名をそれまでには見つけて返すから、軍艦の横浜へ引き返すことだけは見合わせてほしいと依頼した。さて、通禧らは当惑した。どこにいるやもわからないようなものを必ず見つけて返すと言ってのけたからで。
 その日の昼過ぎには、通禧は五代、中井らの人たちと共に堺《さかい》の旭《あさひ》茶屋に出張していた。済んだあとで何事もわからない。土佐の藩士らは知らん顔をして見ている。ぜひともその晩のうちに七人の死体を捜し出さねば、米国公使に取りなしを依頼した通禧らの立場もなくなるわけだ。一人|探《さが》し出したものには金三十両ずつやると触れ出したところ、港の漁夫らが集まって来て、松明《たいまつ》をつけるやら、綱をおろすやらして探した。七人の異人の死体が順に一人ずつその暗い海から陸へ上がって来た。いずれも着物なしだ。通禧らは人を呼んで、それぞれ毛布に包ませなぞして、七つの土左衛門《どざえもん》のために間に合わせの新規な服を取り寄せる心配までした。中井|弘蔵《こうぞう》がその棺を持って大坂に帰り着いたころは、やがて一番|鶏《どり》が鳴いた。
 風雨の日がやって来た。ウエスト号という軍艦まで死骸《しがい》を持って行くにも、通禧らにはかなりの時を要した。その日は小松帯刀《こまつたてわき》も同行した。このあいにくな雨はどうだ、だれもそれを言わないものはない。しかしその雨を冒してまで届けに行くほどの心持ちを示さなかったら、フランス側でも穏やかに死骸《しがい》を引き取るとは言わなかったであろう。時刻も約束にはおくれた。通禧らは時計の針を正午のところに引き直して行って、ようやく約束を果たし、横浜の方へ引き返すことだけはどうやら先方に思いとどまってもらった。
 浪《なみ》も高かった。フランス側ではこの風に危ないと言って、小蒸汽船を卸して通禧らを送りかえしてくれた。ともかくも、死骸はフランス側の手に渡った。しかし、この容易ならぬ事件のあと始末は。それが心配になって、通禧らは帰りの船からもう一度ウエスト号の方を振り返って見た。例の黒船は気味の悪い沈黙を守りながら、雨の川口にかかっていた。


 しきりに起こる排外の沙汰《さた》。しかも今度の旭《あさひ》茶屋での件は諸外国との親睦《しんぼく》を約した大坂西本願寺会見の日から見て、実に二日目の出来事だ。危うくもまた測りがたいのは当時の空をおおう雲行きであった。そこで新政府では外国交際の布告を急いだ。太政官《だじょうかん》代三職の名で発表したその布告には、幕府において定め置いた条約が日本政府としての誓約であることからはじめて、時の得失により条目は改められても、その大体に至ってはみだりに動かすべきものでないの意味を告げてある。今さら朝廷においてこれを変えられたら、かえって信義を海外万国に失い、実に容易ならぬ大事であると心得よ、皇国固有の国体と万国公法とを斟酌《しんしゃく》して御採用になったのも、これまたやむを得ない御事であると心得よと告げてある。ついては、越前宰相以下|建白《けんぱく》の趣旨に基づき、広く百官諸藩の公議により、古今の得失と万国交際のありさまとを折衷せられ、今般外国公使の入京参朝を仰せ付けられた次第である、と告げてある。もとより膺懲《ようちょう》のことを忘れてはならない、たとい和親を講じても曲直は明らかにせねばならない、攻守の覚悟はもちろんの事であるが、先朝においてすでに開港を差し許され、皇国と各国との和親はその時に始まっている、このたび王政一新、万機朝廷より仰せいだされるについては、各国との交際も直ちに朝廷においてお取り扱いになるは元よりの御事である、今や御親政の初めにあたり、非常多難の時に際会し、深く恐懼《きょうく》と思慮とを加え、天下の公論をもつて奏聞《そうもん》に及び、今般の事件を御決定になった次第である、かつ、国内もまだ定まらない上に、海外万国交際の大事である、上下協力して共に王事に勤労せよ、現時の急務は活眼を開いて従前の弊習を脱するにあると心得よ、とも告げてある。
 これは開国の宣言とも見るべきものであるが、大いに伸びようとするものは大いに屈しなければならないとの意志はこの英断にこもっていた。よろしく世界に進みいでよ、理のあるところには異国人にも頭を下げよ、彼の長を採り我の短を補い万世の大基礎を打ち建てよ、上下一致して縦横に踏み出せ、と言われたのはこの際である。
 二月の十九日に、仏国公使からは五か条の申し出があった。三日間にその決答を求めて来た。その時になると、旭茶屋事件の真相もはっきりして来た。仏国軍艦デュソレッキ号の乗組員は艦長の指揮により、士官両人の付き添いで、堺港内の深浅を測量していたところ、土州兵のためにその挙動を疑われ、にわかに岸からの狙撃《そげき》を受けたものであった。乗組員のうち、わずかに一人《ひとり》だけが水を泳ぎきって無事にその場をのがれたこともわかって来た。フランス側に言わせると、軍港でもないところの海底の深浅を測量したからとて、そのために外国人を斃《たお》すとは何事であるか、もしその行為が不当であるなら乗組員を諭《さと》して去らしめるがいい、それでも言うことをきかなかったら抑留して仏国領事に引き渡すがいい、日本に在留したヨーロッパ人、ないしアメリカ人の身に罪なくして命を失ったものはすでに三十人に及んでいるとの言い分である。


「申し上げます。明後二十三日には堺の妙国寺で、土佐の暴動人に切腹を言い付けるそうでございます。つきましては、フランス側の被害者は、即死四人、手負い七人、行くえ知れず七人でありましたから、土佐のものも二十人ぐらいでよろしかろうということで、関係者二十人に切腹を言い付けるそうでございます。」
「気の毒なことだが、いたし方ない。暴動人の処刑は先方のきびしい請求だから。」
 東久世家の執事と通禧とは、こんな言葉をかわした。
「では、五代才助と上野敬助の両人に、当日立ち会うようにと、そう言ってやってください。」
 と通禧は言い添えた。
 妙国寺に土州兵らの処刑があったという日の夕方には、執事がまた通禧のところへ来て言った。
「今日は土佐家から、客分の家老職に当たります深尾康臣《ふかおやすおみ》も検使として立ち会ったと申してまいりました。鬮引《くじび》きで、切腹に当たる者を呼び出したということですが、なかなか立派であったそうで――辞世なぞも詠《よ》みましたそうで。ところが、切腹を実行して十一人目になりますと、そこに出張していたフランスの士官から助命の申し出がありました。あまり気の毒だから、切腹はもうおやめなさいと申したそうでございます。いや、はや、慷慨家《こうがいか》の寄り集まりで、仏人からそう申しても、ぜひ切ると言った調子で、聞き入れません。これには五代氏も止めるがいいと言い出しまして、切腹、罷《まか》りならぬ、そう厳命で止めさせたと承りました。」
 この「切腹、罷りならぬ」には通禧も笑っていいか、どうしていいか、わからなかった。
 もはや、旧暦二月末の暖かい雨もやって来るようになった。それからの旭茶屋事件には、仏人からの命|乞《ご》いがあり、九人の土州兵を流罪《るざい》ということにして肥後と芸州とに預けるような相談も出た。山階《やましな》の宮《みや》も英国の軍艦までおいでになって、仏国全権ロセスに面会せられ、五か条の中の一か条で御挨拶《ごあいさつ》があった。この事を心配した土佐の山内容堂が病気を押して国もとから大坂に着いた日の後には、償金十五万両を三度に切って、フランス国に陳謝の意を表するほか、十一人の遺族、七人の負傷者のために土佐藩から贈るような日が続いた。

       四

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「先達《せんだっ》て布告に相成り候《そうろう》各国の中《うち》、仏英蘭公使、いよいよ来たる二十七日大坂表出発、水陸通行、同夜|伏見表《ふしみおもて》に止宿、二十八日上京仰せいだされ候。右については、かねて御沙汰《ごさた》のとおり、すべて万国公法をもって御交際遊ばされ候儀につき、一同心得違いこれなきよう、藩々においても厳重取り締まりいたすべく仰せいだされ候事。」
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 この布告が出るころには、米国、伊国、普国の公使らはもはや大坂にいなかった。亡《な》きフランス軍人のために神戸外人墓地での葬儀が営まれるのを機会に、関東方面の形勢も案じられると言って、横浜居留地をさして大坂から退いて行った。後には、上京のしたくにいそがしい英国、仏国、オランダの三公使だけが残った。
 外人禁制の都、京都へ。このことが英公使パアクスをよろこばせた上に、彼にはこの上京につけて心ひそかな誇りがあった。今や日本の中世的な封建制度はヨーロッパ人の東漸《とうぜん》とともに消滅せざるを得ない時となって来ている、それを見抜いたのが前公使のアールコックであり、また、新社会構成のために西方諸藩の人たちを助けてこの革命を成就《じょうじゅ》せしめようとしているものも、そういう自分であるとの強い自負心は絶えず彼の念頭を去らない。このパアクスは、年若な日本の政事家の多い新政府の人たちを自分の生徒とも見るような心構えでもって、例の赤備兵《あかぞなえへい》の一隊を引き連れ、書記官ミットフォードと共に二十七日にはすでに上京の途についた。
 仏国公使ロセスと、オランダ代理公使ブロックとの出発は、それより一日おくれた。これは途中の危険を慮《おもんぱか》り、かつその混雑を防ごうとする日本委員の心づかいによる。神戸三宮事件に、堺旭茶屋事件に、御一新早々|苦《にが》い経験をなめさせられたのも、そういう新政府の人たちだからであった。太政官《だじょうかん》では従来の秘密主義を捨てて、三国の使節が大坂出発の日取りまで発表し、かく上京参内を仰せ付けられたのも深き思《おぼ》し召しのあることだから、いささかも不作法な所業のないように、町役を勤めるものはもちろん、一家一家においても召使いの者までとくと申し聞けよ、もし心得違いのことがあって国難を引き出したら相済まない次第であるぞ、と触れ出した。
 時はあだかも江戸開板の新聞紙が初めて印行されるというころに当たる。東征|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督らの進出する模様は、先年横浜に発行されたタイムス、またはヘラルドの英字新聞を通しても外人の間には報道されていた。大政官日誌以外に、京大坂にはまだ新聞紙の発行を見ない。それでも会津《あいづ》、松山、高松、大多喜《おおたき》等の諸大名は皆京都に敵対するものとして、その屋敷をも領地をも召し上げらるべきよしの報道なぞはしきりに伝わって来た。新政府が東征軍進発のために立てた予算は当局者以外にだれも知るよしもなかったが、大坂の町人で御用金の命に応じたり、あるいは奮って国恩のために上納金を願い出たりしたもののうわさは、金銭のことにくわしい市民の口に上らずにはいなかったころである。
 公使ロセスは書記官カションを同伴して、安治川《あじがわ》の川岸から艀《はしけ》に乗るところへ出た。仏国船将ピレックス、およびトワアルの両人もフランス兵をしたがえて京都まで同行するはずであった。そこへオランダ代理公使ブロックと同国書記官クラインケエスも落ち合って見ると、公使一行の主《おも》なものは都合六人となった。岸からすこし離れたところには二|艘《そう》の小蒸汽船が待っていて、一艘には公使一行と、護衛のために同伴する日本人の官吏およびフランス兵を乗せ、他の一艘には薩州の護衛兵を乗せた。その日は伏見泊まりの予定で、水陸両道から淀川《よどがわ》をさかのぼる手はずになっていた。陸を行く護衛の一隊なぞはすでに伏見街道をさして出発したという騒ぎだ。異国人の参内と聞いて、一行の旅装を見ようとする男や女はその川岸にも群がり集まって来ている。京都の方へは中井|弘蔵《こうぞう》が数日前に先発し、小松|帯刀《たてわき》、伊藤|俊介《しゅんすけ》らは英国公使と同道で大坂を立って行った。ロセスらの一行が途中の無事を祈り顔な東久世通禧《ひがしくぜみちとみ》の名代もその艀《はしけ》まで見送りに来た。


 小蒸汽船が動き出してからも、不慮の出来事を警戒するような監視者の目は一刻も毛色の変わった人たちから離れない。いたるところに青みがかった岸の柳も旅するものの目をよろこばすころで、一大三角州をなした淀川の川口にはもはや春がめぐって来ていた。でも、うっかりロセスなぞは肩に掛けていた双眼鏡を取り出せなかったくらいだ。
「こんなにしてくれなくてもいい。どうして外国人はこんな監視を受けなければならないのか。」
 オランダの代理公使はひどくうるさがって、それを通訳の書記官に言わせると、付き添いの日本の官吏は首を振った。
「諸君を保護するのであります。」
 との答えだ。
 旅の掟《おきて》もやかましい。一行が京都へ着いた際の心得まで個条書になって細かく規定されている。その規定によると、滞在中は洛《らく》の中外を随意に徘徊《はいかい》することは許される、諸商い物を買い求めたり小屋物等を見物したりすることも許される、しかし茶屋酒楼等へひそかに越すことは許されない。夜分の外出は差し留められる事、宮方《みやかた》へ行き合う節は路傍に控えおるべき事、堂上あるいは諸侯へ行き合う節は双方道の半ばを譲って通行すべき事の類《たぐい》だ。それには但《ただ》し書《が》きまで付いていて、宮方へ行き合う節は御供頭《おともがしら》へその旨《むね》を通じ、公使から相当の礼式があれば御会釈《ごえしゃく》もあるはずだというようなことまで規定されている。
 この個条書を正確に読みうるものは、一行のうちでカションのほかにない。カションはそれを公使ロセスにもオランダ代理公使ブロックにも訳して聞かせた。その船の船室には赤い毛氈《もうせん》を敷き、粗末な椅子《いす》を並べて、茶なぞのもてなしもあったが、カションはひとりながめを自由にするために、大坂を離れるころから船室を出て、舷《ふなばた》に近い廊下の方へ行った。そこここには護衛顔なフランス兵も陣取っている。カションはその狭い廊下の一隅《いちぐう》にいて煙草《たばこ》を取り出そうとすると、近づいて来て彼に挨拶《あいさつ》し、いろいろと異国のことを質問する日本の官吏もあった。
 そういうカションはフランス人ながらに、俗にいう袂落《たもとおと》しの煙草入れを洋服の内側のかくしに潜ませているほどの日本通だった。そばへ来た官吏は目さとくそれを見つけて、
「ホ。君は日本の煙草をおやりですか。」
 と不思議そうに尋ねる。
 カションはフランス人らしく肩をゆすった。さらに別のかくしから燧袋《ひうちぶくろ》まで取り出した。彼はその船中で眼前に展開する河内《かわち》平野の景色でもながめながら一服やることを楽しむばかりでなく、愛用する平たい鹿皮《しかがわ》の煙草入れのにおいをかいで見たり、刀豆形《なたまめがた》の延べ銀の煙管《きせる》を退屈な時の手なぐさみにしたりするだけにも、ある異国趣味の満足を覚えるというふうの男だ。やがて彼は煙管を口にくわえて、さもうまそうに刻みの葉をふかしていた。燧石《ひうちいし》を打つ手つきから、燃えついた火口《ほくち》を煙草に移すまで、その辺は彼も慣れたものだ。それを見ると官吏は目を円《まる》くして、こんな人も西洋人の中にあるかという顔つきで、
「へえ、君はなかなかよく話す。」
「どういたしまして。」
「へたな日本人は、かないませんよ。」
「それこそ御冗談でしょう。」
「だれから君はそんな日本語をお習いでしたか。」
「わたしですか。蝦夷《えぞ》の方にいた時分でした。函館奉行《はこだてぶぎょう》の組頭《くみがしら》に、喜多村瑞見《きたむらずいけん》という人がありまして、あの人につきました。その時分、わたしは函館領事館に勤めていましたから。そうです、あの喜多村さんがわたしの教師です。なかなか話のおもしろい人でした。漢籍にもくわしいし、それに元は医者ですから、医学と薬草学の知識のある人でした。わたしはあの人にフランス語を教える、あの人はわたしに日本語を教えてくれました。あの時分は、喜多村さんも若かったし、わたしもまだ……」
「喜多村瑞見と言えば、聞いたことがある。幕府の使節でフランスの方へ行ってるあの喜多村じゃありませんか。」
「そうです。その喜多村さんです。」
 それを聞くと、相手の官吏は急にきげんを悪くして、口をつぐんでしまった。その時、カションは局外中立である自分ら外国人が旧《ふる》い教師のうわさをするのは一向差しつかえはあるまいというふうで、半分ひとりごとのように言った。
「あの人も驚いていましょう。日本の国内に起こったことを聞いたら、驚いてパリから帰って来ましょう。」


 よく耕された平野の光景は行く先にひらけた。そのよろこびが公使の一行をじっとさして置かなかった。いずれも平素はその時ほどの旅行の自由を持たなかったからで。そして、これを機会に、先着のヨーロッパ人が足跡をつけて行って見ようとしていたからで。
 極東をめがけて来たヨーロッパ人の中には、まれに許されて内地に深く進んだものもないではない。その中にはまた、日本の社会を観察して、かなり手きびしい意見を発表したものもないではない。ヨーロッパ文明と東洋文明とを比較して、その間の主《おも》なる区別は一つであるとなし、前者は虚偽を一般に排斥するも、後者は公然一般にこれを承認する。日本人やシナ人にあっては最も著しい虚言が発覚しても恥辱とせられない、かくまで信用の行なわるることの少ないこの社会に、いかにして人生における種々の関係が保たるるかは、解しがたいきわみであると言うものがある。日本人の道徳、および国民生活の基礎に関する思想は全くヨーロッパ人のそれと異なっている、その婦人身売りの汚辱から一朝にして純潔な結婚生活に帰るようなことは、日本には徳と不徳との間になんらの区画もないかと疑わせると言うものがある。自分らが旅行の初めには、土地の非常に豊かなのにも似ず、住民の貧乏な状態のはなはだしいのが目についた、村はもとより、大家屋の多く見える町でさえ活気や繁栄の見るべきものがない、かく人民の貧窮の状態にあるのはただ外形のみであってその実そうでないのか、あるいは実際耕作より得る収入も少ないのか、自分らはそれを満足に説明することができない、日本では政治上にも、統計上にも、また学問上にも、すべてに関してその知識を得ることが容易でない、これは各人がおのれ自身の生活とその職業とに関しない事項を全く承知しないためによると言うものもある。しかし、日本に高い運命の潜んでいることを言わないヨーロッパ人はない。もし彼ら日本人にして応用科学の知識に欠くることなく、機械工業に進歩することもあらば、彼らはヨーロッパ諸国民と優に競争しうるものである、日本は文学上にも哲学上にも未知の国であるが、ここにある家屋は清潔に、衣服も実用に耐え、武器の精鋭は驚くばかりである、独創の美に富んだ美術工芸の類《たぐい》については人によって見方も分かれているが、とにもかくにも過ぐる三百年の間、ほとんど外国と交通することもなしに、これほど独自の文化を築き上げた民族は他にその比を見ない。そう言わないものもない。
「今こそ日本内地の深さにはいって見る時が来た。」
 こうカションが公使のそばへ行って語って見せるたびに、ロセスはそれをたしなめるような語気で、
「カション、いくら君が日本の言葉からはいろうとしても、その言葉の奥にあるものには手が届くまい。やはり、われわれヨーロッパのものは、なかなか東洋人の魂にははいれないのだ。」
 それがロセスの言い草だった。
 公使の一行が進んで行ったところは、広い淀川の流域から畿内《きない》中部地方の高地へと向かったところにあるが、あいにくと曇った日で、遠い山地の方を望むことはかなわなかった。二|艘《そう》の小蒸汽船は対岸に神社の杜《もり》や村落の見える淀川の中央からもっと先まで進んだ。そこまで行っても、遠い山々に隠れ潜んで容《かたち》をあらわさない。天気が天気なら、初めて接するそれらの山嶽《さんがく》から、一行のものは激しい好奇心を癒《いや》し得たかもしれない。でも、そちらの方には深い高地があって、その遠い連山の間に山城《やましろ》から丹波《たんば》にまたがるいくつかの高峰があるという日本人の説明を聞くだけにも満足するものが多かった。中でも、一番年若なカションは、一番熱心にその説明を聞いていた。どんな白い目で極東の視察に来るヨーロッパ人でも、この淀川に浮かんで来る春をながめたら、いかにこの島国が自然に恵まれていることの深いかを感じないものはあるまいとするのも、彼だ。


 次第に淀の駅の船着場も近いと聞くころには、煙《けぶ》るような雨が川の上へ来た。公使一行の中には慣れない不自由な旅に疲れて、早く伏見へと願っているものがある。何が伏見や京都の方に自分ら外国人を待っているだろうと言って、そろそろ上陸後の心づかいを始めるものがある。舷《ふなばた》の側の狭い廊下にもたれて、暖かではあるが寂しい雨を旅らしくながめているものもある。
 日本好きなカションにして見れば、この煙るような雨にしてからが、この国に来て初めて見られるようなものなのだ。なんでも彼は目をとめて見た。しばらく彼は書記官としての自分の勤めも忘れて、大坂|道頓堀《どうとんぼり》と淀の間を往復する川舟、その屋根をおおう画趣の深い苫《とま》、雨にぬれながら櫓《ろ》を押す船頭の蓑《みの》と笠《かさ》なぞに見とれていた。そのうちに、反対な岸の方をも見ようとして、狭い汽船の廊下を一回りして行くと、公使ロセスとオランダ代理公使ブロックとが舷《ふなばた》に近く立って話しているそばへ出た。しとしと降り続けている雨をその廊下からながめながら、聞くつもりもなく彼は公使らの話に耳を傾けた。
「江戸が攻撃されることになったら、横浜はどうなろう。」とロセスの声で。
「無論危ない。救いはどこからもあの港に来ない。おそらく、その日が来たら、居留民を保護する暇なぞは日本新政府の力にもなくなろう。」とブロックの声で。
 遠からず来たるべき江戸総攻撃のうわさが、そこにかわされている。公使らを監視しようとして一刻も油断しない戒心のために、同伴の官吏もひどく疲れた時であったから、公使らはその弱点に乗ずるともなく、互いに遠慮のないところを語り合っているのだ。
「徳川慶喜はただただ謹慎の意を表しているというではないか。戦いを好まないというではないか。」
 と今度はブロックの声で。
「そこだ。そのことはだれも認めている。あの英国公使ですら、それは認めている。それほど恭順の意を表しているものに対して、攻撃を加えるようなことは、正義と人道とが許すだろうか。」とロセスの声で。
「まったく、君の言うとおりだ。」
「なんとかして江戸攻撃をやめさせることはできないものか。自分はもう、こんなみじめな内乱を傍観してはいられない。」
 オランダ公務代理総領事としてのブロックが関東の形勢の案じられると言うにも、相応の理由はあった。この人に言わせると、当時のこの国の急務は内乱をおさめるにある。日本国がいつまでも日本人の手にありたいと願うなら、早くこんな内乱をおさめるがいい。そして国内衰弊の風を諸外国に示さないがいい。これまで強大な諸大名が外国から購《あがな》い入れた軍船、運送船、鉄砲、弾薬の類はおびただしい額に上り、その代金は全部直ちに支払われるはずもなく、現に諸外国の政府もしくは臣民はその債権者の位置にある。もし国内の戦争が日につぎやむ時なく、ここに終わってかしこに始まるというふうに、強大な諸大名が互いに争闘を事としたら、国勢は窮蹙《きゅうしゅく》し、四民は困弊するばかりであろう。これがブロックの懸念《けねん》であった。
「どうしてもこれは英国公使に協議する必要がある。」とまたロセスの声で、「もちろんわれわれは日本の内政に干渉する意志はない。しかしなんらかの形で、南軍の参謀に反省を求める必要がある。あの慶喜をも救わねばならない。一国の政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧《ふる》い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見《えっけん》した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻《もど》りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。

       五

 三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃《げんば》の官を置き、鴻臚館《こうろかん》を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有《みぞう》の珍事であるには相違なかった。
 しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳《おおはらさんみしげとみ》なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東|下向《げこう》は勅諚《ちょくじょう》もあるにはあったが、もっぱら鎖攘《さじょう》(鎖港攘夷の略)の国是《こくぜ》であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪《かんあく》とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟《ひっきょう》外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆《てんぷく》するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮《えいりょ》はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。
 当時、京都は兵乱のあとを承《う》けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸|堺《さかい》の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂《げきこう》もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松|帯刀《たてわき》、木戸準一郎、後藤象次郎《ごとうしょうじろう》、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井|弘蔵《こうぞう》なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛《まも》ることになった。尾州兵は智恩院《ちおんいん》。薩州兵は相国寺《しょうこくじ》。加州兵は南禅寺《なんぜんじ》。


 外国使臣一行の異様な行装《こうそう》を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋《うず》めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠《かご》を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島《なべしま》、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御《しゅつぎょ》して各国代表者の御挨拶《ごあいさつ》を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱《いだ》くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕《きんけつ》の下《もと》に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨《こうがい》するものもある。官吏ともあろうものが夷狄《いてき》の輩《ともがら》を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮《ちゅうりく》すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている群集の中を分けて、西に東にと走り回った。三条、二条の通りを縦に貫く堺町あたりの両側は、公使らの参内を待ち受ける人で、さながら立錐《りっすい》の地を余さない。
 この人出の中に、平田門人|暮田正香《くれたまさか》もまじっていた。彼も今では沢家《さわけ》に身を寄せ、橘東蔵《たちばなとうぞう》の変名で、執事として内外の事に働いている人であるが、丸太町と堺町との交叉《こうさ》する町角《まちかど》あたりに立って、多勢の男や女と一緒に使節一行を待ち受けた。もっとも、その時は正香|一人《ひとり》でもなかった。信州|伊那《いな》の南条村から用事があって上京している同門の人、館松縫助《たてまつぬいすけ》という連れがあった。
 彼岸《ひがん》のころの雨降りあげくにかわきかけた町中の道が正香らの目にある。周囲には今か今かと首を延ばして南の方角を望むものがある。そこは相国寺を出る仏国公使の通路でないまでも、智恩院を出る英国公使と、南禅寺を出るオランダ代理公使との通路に当たる。正香も縫助もまだ西洋人というものを見たこともない。昨日の紅夷《あかえみし》は、実に今日の国賓である。そのことが新政府をささえようとする熱い思いと一緒になって、二人《ふたり》の胸に入れまじった。


 やがて、加州の紋じるしらしい梅鉢《うめばち》の旗を先に立てて、剣付き鉄砲を肩にした兵隊の一組が三条の方角から堺町通りを動いて来た。公使一行を護衛して来た人たちだ。そのうちにオランダ代理公使ブロックと、その書記官クラインケエスとを乗せた駕籠《かご》は、正香や縫助の待ち受けている前へさしかかった。
 遠い世界の人のようにのみ思われていたものは、今二人の平田門人のすぐ目の前にある。正香らはつとめて西洋人の風貌《ふうぼう》を熟視しようとしたが、それは容易なことではなかった。というのは、先方が駕籠の中の人であり、時は短かく、かつ動いているため、思うように公使らを見る余裕もないからであった。のみならず、筒袖《つつそで》、だんぶくろ、それに帯刀の扮装《いでたち》で、周囲を警《いまし》め顔《がお》な官吏が駕籠のそばに付き添うているからで。
 しかし、公使らを乗せた駕籠の窓には簾《すだれ》が巻き揚げてある。時には捧の前後に取りつく四人の駕籠かきが肩がわりをするので、正香らは黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いの下にくっきりと浮き出しているような公使らの顔をその窓のところに見ることはできた。駕籠の造りは蓙打《ござう》ちの腰黒《こしぐろ》で、そんな乗り物を異国の使臣のために提供したところにも、旧《ふる》い格式などを破って出ようとする新政府の意気込みがあらわれている。初めて正香らの目に映る西洋人は、なかなかに侮りがたい人たちで、ことに代理公使の方は、犯しがたい威風をさえそなえた容貌《ようぼう》の人であった。髪の毛色を異にし、眸《ひとみ》の色を異にし、皮膚の色を異にし、その他風俗から言葉までを異にするような、このめずらしい異国の人たちは、これがうわさに聞いて来た京都かという顔つきで、正香らの見ているところを通り過ぎて行った。
 その時、オランダ人の参内を見送った群集はさらに英国公使の一行を待ち受けた。これは随行の赤備兵《あかぞなえへい》を引率していて、一層|華々《はなばな》しい見ものであろうという。ところが智恩院を出たはずの公使らの一行が、待っても、待ってもやって来ない。しまいには正香らはあきらめて、なおも辛抱強くそこに立ち尽くしている多勢の男や女の群れから離れた。
「暮田さん、なんだかわたしは夢のような気がする。」
 正香と一緒に歩き出した時の縫助の述懐だ。


 京都は、東征軍の進発に、諸藩の人々の動きに、諸制度の改変に、あるいは破格な外国使臣の参内に、一切が激しく移り変わろうとするまっ最中にある。
「縫助さん、よく君は出て来た。まあ、この復興の京都を見てくれたまえ。」
 口にこそ出さなかったが、正香はそれを目に言わせて、その足で堺町通りの角《かど》から丸太町を連れと一緒に歩いて行った。そこは平田門人仲間に知らないもののない染め物屋|伊勢久《いせきゅう》の店のある麩屋町《ふやまち》に近い。正香自身が仮寓《かぐう》する衣《ころも》の棚《たな》へもそう遠くない。
 正香が連れの縫助は、号を千足《ちたり》ともいう。伊那時代からの正香のなじみである。この人の上京は自身の用事のためばかりではなかった。旧冬十一月の二十二日に徳川慶喜が将軍職を辞したころから、国政は再び復古の日を迎えたとはいうものの、東国の物情はとかく穏やかでないと聞いて、江戸にある平田|篤胤《あつたね》の稿本類がいつ兵火の災に罹《かか》るやも知れないと心配し出したのは、伊那の方にある先師没後の門人仲間である。座光寺村の北原稲雄が発起《ほっき》で、伊那の谷のような安全地帯へ先師の稿本類を移したい、一時それを平田家から預かって保管したい、それにはだれか同門のうちで適当な人物を江戸表へ送りたいとなった。その使者に選ばれたのが館松縫助なのだ。縫助はその役目を果たし、稿本類の全部を江戸から運搬して来て、首尾よく座光寺村に到着したのは前年の暮れのことであった。当時そのことは京都にある師|鉄胤《かねたね》のもとへ書面で通知してあったが、なお、縫助は今度の上京を機会に、その報告をもたらして来たのである。
 正香としては、このよろこばしい音信《おとずれ》を伊勢久の亭主《ていしゅ》にも分けたかった。日ごろ懇意にする亭主に縫助をあわせ、縫助自身の口から故翁の草稿物の無事に保管されていることを亭主にも聞かせたかった。染め物屋とは言いながら、理解のある義気に富んだ町人として、伊勢屋|久兵衛《きゅうべえ》の名は縫助もよく聞いて知っている。
「どうです、縫助さん、出て来たついでだ。一つ伊勢久へも寄っておいでなさるサ。」
 と言って、正香は連れを誘った。


 御染物所。伊勢屋とした紺暖簾《こんのれん》の見える麩屋町のあたりは静かな時だ。正香らが店の入り口の腰高な障子をあけて訪れると、左方の帳場格子《ちょうばごうし》のところにただ一人留守居顔な亭主を見つけた。ここでも家のものや店員は皆、異人見物の方に吸い取られている。
「これは。これは。」
 正香と連れだっての縫助の訪問が久兵衛をよろこばせた。
「さあ、どうぞ。」
 とまた久兵衛は言いながら、奥から座蒲団《ざぶとん》などを取り出して来て、その帳場格子のそばに客の席をつくった。
 久兵衛もまた平田門人の一人であった。この人は町人ながらに、早くから尊王の志を抱《いだ》き、和歌をも能《よ》くした。幕末のころには、彼のもとをたよって来る勤王の志士も多かったが、彼はそれを懇切にもてなし、いろいろと斡旋《あっせん》紹介の労をいとわなかった。文久年代に上京した伊那|伴野《ともの》村の松尾多勢子《まつおたせこ》、つづいて上京した美濃中津川《みのなかつがわ》の浅見景蔵《あさみけいぞう》、いずれもまず彼のもとに落ちついて、伊勢屋に草鞋《わらじ》をぬいだ人たちだ。南信東濃地方から勤王のため入洛《じゅらく》を思い立って来る平田の門人仲間で、彼の世話にならないものはないくらいだ。
「この正月になりましてから、伊那からもだいぶお見えでございますな。」
 と久兵衛は縫助に言って見せて、王政復古の声を聞くと同時に競って地方から上京して来るもの、何がな王事のために尽くそうとするものなぞの名を数えた。祭政一致をめがけて神葬古式の復旧運動に奔走する倉沢|義髄《よしゆき》と原|信好《のぶよし》、榊下枝《さかきしずえ》の変名で岩倉家に身を寄せる原|遊斎《ゆうさい》、伊那での長い潜伏時代から活《い》き返って来たような権田直助《ごんだなおすけ》、その弟子《でし》井上頼圀《いのうえよりくに》、それから再度上京して来て施薬院《せやくいん》[#「施薬院」は底本では「施楽院」]の岩倉家に来客の応接や女中の取り締まりや子女の教育なぞまで担当するようになった松尾多勢子――数えて来ると、正月以来京都に集まっている同門の人たちは、伊那方面だけでも久兵衛の指に折りきれないほどあった。そう言えば、師の平田鉄胤も今では全家をあげて京都に引き移っていて、参与として新政府の創業にあずかる重い位置にある。
「どれ、お茶でも差し上げて、それからお話を伺うとしましょう。あいにく、家のものを皆出してしまいました。」
 そう言いながら久兵衛は奥の方へ立って行って、こまかい大坂格子のかげで茶道具などを取り出す音をさせた。
 その時、正香はそこの店先にすわり直して、縫助と二人で話した。
「久兵衛さんもおもしろい人ですね。この店では篤胤先生の本を売りますよ。気吹《いぶき》の舎《や》の著述なら、なんでもそろえてありますよ。染め物のほかに、官服の注文にも応じるしサ。まあ商売《あきない》をしながら、道をひろめているんですね。」
「へえ、これはよいお店だ。」
 その店先は、亭主が帳場格子のところにいて染め物の仕事場を監督する場所である。正香は仕事場の方を縫助にさして見せた。入り口から裏の物干し場へ通りぬけられるような土間をへだててその仕事場がある。そこはなかなか広い仕事場であるが、周囲の格子をしめきるとすこぶる薄暗い。しかし三尺もの下壁と言わず、こまかく厚手なぶッつけ格子と言わず、がっしりとした構造は念の入ったものである。正香はまた、四つずつ一組としてある藍瓶《あいがめ》を縫助にさして見せた。わざと暗くしてあるような仕事場の格子を通して、かすかな光線がそこにさし入っている。幾組か並んだ瓶《かめ》の中の染料には熱が加えてあると見えて、静かに沸く藍の香がその店先までにおって来ている。
 久兵衛は自分で茶を入れて来た。それを店先へ運んで来た。その深い茶碗《ちゃわん》の形からして商家らしいものを正香らの前に置き、色も香ばしそうによく出た煎茶《せんちゃ》を客にもすすめ、自分でも飲みながら、
「館松《たてまつ》さんは、もう錦小路《にしきこうじ》(鉄胤の寓居《ぐうきょ》をさす)をお訪《たず》ねでございましたか。」
 こんな話を始めかけると、入り口の障子のあく音がして、家のものが一緒に異人見物からどやどやと戻《もど》って来た。とうとう英国公使だけは見えなかったと言うものがある。こっそりそばへ行ってあのオランダ人のにおいをかいで見たら、どんな異人臭いものかと言うものがある。「いやらし、いやらし」などと言う若い娘の声もする。


 隠れたところにいて同門の人たちのために働いているような久兵衛は、先師稿本の類が伊那の方に移されたことを聞いたあとで、さらに話しつづけた。
「さぞ老先生(鉄胤のこと)も御安心でございましょう。」
「なにしろ、王政復古の日が来たばかりのごたごたした中で、七十何里もあるところに運搬しようというんですから。」と正香が言って見せる。
「そいつは、なかなか。」と久兵衛も言う。
「いや、」と縫助はその話を引き取った。「わたしが江戸へ出ました時は、平田家でも評議の最中でした。江戸も騒がしゅうございましたよ。早速《さっそく》、お見舞いを申し上げて、それから保管方を申し出ましたところ、大変によろこんでくださいました。道中が心配になりましたから、護《まも》りの御符《ごふ》は白河家《しらかわけ》(京都|神祇伯《じんぎはく》)からもらい受けました。それを荷物に付けるやら、自分で宰領をするやらして、たくさんな稿本や書類を馬で運搬したわけなんです。昨年、十二月の十八日に座光寺へ着きましたが、あの時は北原稲雄もわたしの手を執ってよろこびました。田島の前沢万里、今村|豊三郎《とよさぶろう》、いずれもこの事には心配して、路用なぞを出し合った仲間です。」
 こんな話が尽きなかった。
 旅にある縫助はその日と翌日とを知人の訪問に費やし、出て来たついでに四条の雛市《ひないち》を見、寄れたら今一度正香のところへも寄って、京都を辞し去ろうという人であった。彼は正香の言うように、それほどこの復興の京都に浸《ひた》って見る時を持たないまでも、ともかくも師鉄胤の家を訪ね、正香と旧《ふる》い交わりを温《あたた》め、伊勢久の店先に旅の時を送るというだけにも満足していた。
 この縫助が礼を述べて立ちかけるので、久兵衛はそれを引きとめるようにして、
「オヤ、もうお帰りでございますか。何もおかまいいたしませんでした。」
 その時、久兵衛は染め物屋らしいことを言い出した。昨年の三月、諒闇《りょうあん》の春を迎えたころから再度の入洛を思い立って来て、正香らと共にずっと奔走を続けていた人に中津川本陣の浅見景蔵がある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の一行が美濃《みの》を通過すると知って、にわかに景蔵は京都の仮寓《かぐう》を畳《たた》み、郷里をさして帰って行った。その節、注文の染め物を久兵衛のもとに残した。こんな街道筋の混雑する時で、それを送り届けることも容易でない。いずれ縫助の帰路は大津から中津川の方角であろうから、めんどうでもそれを届けてもらいたいというのであった。
「暮田さん、あなたからもお願いしてください。」と久兵衛は手をもみもみ言った。「初めてお目にかかったかたに、こんなことをお願いしちゃ失礼ですけれど。」
「なあに、そこは万国公法の世の中だもの。」と正香が戯れて見せた。
「それ、それ、」と久兵衛も軽く笑って、「近ごろはそれが大流行《おおはやり》。」
「縫助さん、君もその意気で預かって行くさ。」とまた正香が言い添える。
「暮田さんらしいトボけたことを言い出したぞ。」と縫助まで一緒になって笑い出した。「わたしも今度京都へ出て来て見て、皆が万国公法を振り回すには驚きましたね。では、こうします。立つ前に、もう一度暮田さんを訪《たず》ねます。その時に伊勢屋さんへもお寄りします。」


 英国公使パアクスの上京には新政府でもことに意を用いた。大坂を立つ時は小松|帯刀《たてわき》と伊藤俊介とが付き添い、京都にはいった時は中井弘蔵と後藤象次郎とが伏見|稲荷《いなり》の辺に出迎え、無事に智恩院の旅館に到着した。この公使の一行が赤い軍服を着けた英国の護衛兵(いわゆる赤備兵)を引率し、あるいは騎馬、あるいは駕籠《かご》で、参内のために智恩院新門前通りから繩手通《なわてどお》りにかかった時だ。そこへ二人の攘夷家が群集の中から飛び出したのであった。かねて新政府ではこんなことのあるのを憂い、各藩からは二十人以上の兵隊を出させ、通行の道筋を厳重に取り締まらせ、旅館の近傍へは屯兵所《とんぺいじょ》を設けて昼夜怠りなき回り番の手配りまでしたほどであったのに、新政府が万国交際の趣意もよく攘夷家に徹しなかったのであろう。それ乱暴者だと言って、一行護衛の先頭にあった兵隊が発砲する、群集は驚いて散乱する、その間に壮漢らの撃ち合いが行なわれた。中井弘蔵と後藤象次郎とは公使の接待役として、その時も行列の中にあったが、後藤は赤備兵の中へしゃにむに斬《き》り込んで来たもののあるのを見て、刀を抜いて一名を斃《たお》した。二度目に後藤の刀の目釘《めくぎ》が抜けて、その刀が飛んだ。そこで中井が受けた。中井は受けそこねて、頭部を斬られながらその場に倒れた。一名が兵隊のため生捕《いけど》りにされて、この騒ぎはようやくしずまったが、赤備兵の中には八、九人の手負いを出した。騎馬で行列の中にあったパアクスその人は運強くも傷つけられなかったとはいえ、参内はこの変事のために見合わせになった。さてこそ英国公使の通行を見なかったのである。一方には、紫宸殿《ししんでん》での御対面の式がパアクス以外の二国公使に対して行なわれた。新帝は御袴《おんはかま》に白の御衣《ぎょい》で、仏国のロセスとオランダのブロックとに拝謁を許された。式後の公使には鶴《つる》の間《ま》で、菓子カステラなどを饗《きょう》せられたという。従来、徳川将軍の時代にもまれに外国使節の謁見を許したが、しかし将軍の態度はすこぶる尊大であったのに、その跪坐低頭《きざていとう》の礼をすら免じ、帝みずから親しく異邦人を引見せられるばかりか、彼らをして直立して帝の尊顔を拝することを得せしめたもうたとある。この一事だけでも、彼らフランス人やオランダ人の間には信じがたいほどの大改革の感を与えたという。しかし、繩手通りでの変事がロセスらに知られずにはいなかった。式の終わったあとで、接待役と通詞とを兼ねた伊藤俊介が二公使を接待席に伴ない、その時までロセスに示さずにあったパアクスからの書面を取り出して見せた。それは英国の一騎兵がパアクスの使いとして仏国公使あてに持参したものだ。ロセスはそれを読むと、たちまち顔色を変え、「暴動がある。」と叫びながらそこそこに暇《いとま》を告げて、単騎で智恩院へ駆けつけた。そしてパアクスに向かって、すみやかに兵庫へ帰ろう、軍艦で横浜の方へおもむこうと説き勧めたという。でも、パアクスは頭を左右に振って、仏国公使の勧めに応じなかったとか。
 これらの話をもって、翌日の午後にまた正香は久兵衛を見に寄った。衣《ころも》の棚《たな》の方へ暇乞《いとまご》いに来た縫助とも同道で、二人して伊勢久の店先に腰掛けた。
「どうも驚きましたね。」
 久兵衛は奥からそこへ飛んで出て来て言った。店先に腰掛けるものも、火鉢《ひばち》なぞを引き寄せて客を迎えるものも、互いに顔を見合わせた。
「昨日は、岩倉様が見舞いに行く、越前の殿様(春嶽)が見舞いに行く、智恩院も大変だったそうです。」とまた久兵衛が言い出した。「昨晩はみんな心配したようですよ。」
「でも、パアクスもおもしろい男じゃありませんか。」と正香は言った。「引き連れて来た兵士に傷を負ったものは多いんだけれど、自分も、士官らも、中井、後藤二氏の奮闘のおかげで助かった、今ここで謁見の式も済まさずに帰ってしまったら、皇帝陛下に対しても不敬に当たるだろう――そう言ったそうだ。」
「さあ、この処置はどう収まるものですかサ。すくなくも六、七万両ぐらいの償金は取られるだろうなんて、そんなうわさでございますよ。」
 その時になると、二日を置いて改めて英国公使の参内があると触れ出されたが、町々の取り締まりは一層厳重をきわめるようになった。久兵衛は帳場格子のところへ立って行って、町役人から回って来たばかりの触れ書を取り出して来た。それを正香にも縫助にも見せた。来たる英国公使参内の当日には、繩手通り、三条通りから、堺町の往来筋へかけて、巳《み》の刻《こく》より諸人通行留めの事とある。左右横道の木戸は締め切りの事とある。往来筋に住居《すまい》する町家その他の家族と召使いのほかは、他人一切の滞留を差し留めるともある。
「ホ、」と縫助は目を円《まる》くして、「公用はもちろん、私用でも、町役人の免許を得ないものは通行を許さないとありますね。ぐずぐずしてると、わたしは国の方へ立てなくなる。」
「今は京都も騒がしゅうございますよ。諸藩の人が入り込んでおります。こんな新政府は今にひっくりかえるなんて、内々そんな腹でいるものもございます――なかなか油断はなりません。」
 久兵衛は言葉に力を入れてそれを縫助に言って見せた。
 そこへ久兵衛の養子が奥から顔を出した。店には平田|篤胤《あつたね》の遺著でも取りそろえて置こうというような町人|気質《かたぎ》の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍《あい》の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥《ちょうだんす》の横手にある戸棚《とだな》から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂《おあつらえ》、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど。」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか。」
「よい色に上がりましたよ。」と養子も紙包みを解きながら言った。
「これはよい黒だ。」と正香が言う。
「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅《べに》によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地《はおりじ》の黒も下染めには紅が使ってございます。」
 久兵衛は久兵衛らしいことを言った。


「確かに。」
 その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包《ふろしきづつ》みをも小脇《こわき》にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾《のれん》をくぐって出た。
「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう。」
 と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。
 外国人滞在中は、乗輿《じょうよ》、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活《い》き返るような生気をそそぎ入れつつあった。
「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね。」
 伊那南条村の片田舎《かたいなか》から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。
 縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町《ふやまち》から寺町の通りに出ながら、
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負《しょ》って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋《しょうや》か、本陣|問屋《といや》か、でなければ百姓町人でしょう。」
「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」
「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護《も》り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい。」
「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない。」
「そうでしょうか。」
「見たまえ、こないだわたしは鉄胤《かねたね》先生のところで、天保《てんぽう》時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤|直門《じきもん》は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人《ひとり》というふうにね。鹿児島《かごしま》、津和野《つわの》、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台《せんだい》――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹《やまぶき》、苗木《なえぎ》なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧《たちばなあけみ》のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね。」
「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ。」
「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿《くげ》衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由《わけ》かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊《たま》の真柱《まはしら》』という言葉がある……そうさ、魂の柱さ。そいつを皆が失っているからじゃないかね……今の時代が求めるものは、君、再び生きるということじゃなかろうか……」
 しばらく二人《ふたり》は黙って寺町の通りを歩いて行った。そのうちに、縫助は何か言い出そうとして、すこし躊躇《ちゅうちょ》して、また始めた。
「暮田さん、ここまで送って来ていただけばたくさんです。あすの朝はわたしも早く立ちます。大津経由で、木曾《きそ》街道の方に向かいます。ここでお別れとしましょう。」
「まあもうすこし一緒に行こう。」
「どうでしょう、暮田さん、沢家のお邸《やしき》の方へは何か報告が来るんでしょうか。東山道回りの鎮撫《ちんぶ》総督も行き悩んでいるようですね。」
「どうも、そうらしい。」
「あれで美濃にはいろいろな藩がありますからね。中には、佐幕でがんばってるところもありますからね。」
「これから君の足で木曾街道を下って行ったら、大垣《おおがき》あたりで総督の一行に追いつきゃしないか。」
「さあ」
「中津川の浅見君にはよろしく言ってくれたまえ。それから、君が馬籠峠《まごめとうげ》を通ったら、あそこの青山半蔵の家へも声をかけて行ってもらいたい。」
 とうとう、正香は縫助について、寺町の通りを三条まで歩いた。さらに三条大橋のたもとまで送って行った。その河原《かわら》は正香にとって、通るたびに冷や汗の出るところだ。過ぐる文久三年の二月、同門の師岡正胤《もろおかまさたね》ら八人のものと共に、彼が等持院にある足利尊氏《あしかがたかうじ》以下、二将軍の木像の首を抜き取って、幕府への見せしめのため晒《さら》し物としたのも、その河原だ。そこには今、徳川慶喜征討令を掲げた高札がいかめしく建てられてあるのを見る。川上の橋の方から奔《はし》り流れて来る加茂川《かもがわ》の水に変わりはないまでも、京都はもはや昨日の京都ではない。人心を鼓舞するために新しく作られた「宮さま、宮さま」の軍歌は、言葉のやさしいのと流行唄《はやりうた》の調子に近いのとで、手ぬぐいに髪を包んでそこいらの橋のたもとに遊んでいるような町の子守《こも》り娘の口にまで上っていた。
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     第三章

       一

 東海、東山、北陸の三道よりする東征軍進発のことは早く東濃南信の地方にも知れ渡った。もっとも、京都にいて早くそのことを知った中津川の浅見景蔵が帰国を急いだころは、同じ東山道方面の庄屋《しょうや》本陣|問屋《といや》仲間で徳川|慶喜《よしのぶ》征討令が下るまでの事情に通じたものもまだ少なかった。
 今度の東山道|先鋒《せんぽう》は関東をめがけて進発するばかりでなく、同時に沿道諸国|鎮撫《ちんぶ》の重大な使命を兼ねている。本来なら、この方面には岩倉公の出馬を見るべきところであるが、なにしろ公は新政府の元締めとも言うべき位置にあって、自身に京都を離れかねる事情にあるところから、岩倉少将(具定《ともさだ》)、同|八千丸《やちまる》(具経《ともつね》)の兄弟《きょうだい》の公達《きんだち》が父の名代《みょうだい》という格で、正副の総督として東山道方面に向かうこととなったのである。それには香川敬三、伊地知正治《いじちまさはる》、板垣退助《いたがきたいすけ》、赤松護之助《あかまつもりのすけ》らが、あるいは参謀として、あるいは監察として随行する。なお、この方面に総督を護《まも》って行く役目は薩州《さっしゅう》、長州、土州、因州の兵がうけたまわる。それらの藩から二名ずつを出して軍議にも立ち合うはずである。景蔵はその辺の事情を友人の蜂谷香蔵《はちやこうぞう》にも、青山半蔵にも伝え、互いに庄屋なり本陣なり問屋なりとして、東山道軍の一行をあの街道筋に迎えようとしていた。
 幕府廃止以来、急激な世態の変化とともに、ほとんど一時は無統治、無警察の時代を現出した地方もある中で、景蔵らの住む東濃方面は尾州藩の行き届いた保護の下にあった。それでも人心の不安はまぬかれない。景蔵が帰国を急いだはこの地方の動揺の際だ。


 青山半蔵は馬籠《まごめ》本陣の方にいて、中津川にある二人《ふたり》の友人と同じように、西から進んで来る東山道軍を待ち受けた。だれもが王政一新の声を聞き、復興した御代《みよ》の光を仰ごうとして、競って地方から上京するものの多い中で、あの景蔵がわざわざ京都の方にあった仮寓《かぐう》を畳《たた》み、師の平田|鉄胤《かねたね》にも別れを告げ、そこそこに美濃《みの》の郷里をさして帰って来たについては、深い理由がなくてはかなわない。半蔵は日ごろ敬愛するあの年上の友人の帰国から、いろいろなことを知った。伝え聞くところによると、東山道総督として初陣《ういじん》の途に上った岩倉少将はようやく青年期に達したばかりのような年ごろの公子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿《くげ》であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑《おもわく》もどうあろう。それに正副の総督を護《まも》って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢《とし》の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。
 そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者《きょうどうしゃ》たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島《きそふくしま》の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。
 東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方《じかた》御役所よりの通知で、尾張藩《おわりはん》からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦《にが》い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先《ほこさき》をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具|蒲団《ふとん》、膳椀《ぜんわん》の類《たぐい》を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明《たいまつ》の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。
 半蔵は会所の方へ隣家の伊之助《いのすけ》その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通《かよ》って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千|把《ぱ》から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠《まごめ》宿の囲いうちにのみかぎらない。上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、三留野《みどの》、妻籠《つまご》の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村《かきそれむら》のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
 清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木《ひのき》類の枝を伐採する場所と、元木《もとぎ》の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明《たいまつ》の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋|最寄《もよ》りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
 どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明《たいまつ》一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
 それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和《やまと》五条にも、生野《いくの》にも、筑波山《つくばさん》にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起《ほうき》しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王《たるひとしんのう》を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。

 地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就《と》げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならない。万事草創の際で、新政府の信用もまだ一般に薄かった。東山道総督の執事はそのために、幾たびか布告を発して、民意の尊重を約束した。このたび勅命をこうむり進発する次第は先ごろ朝廷よりのお触れのとおりであるが、地方にあるものは安堵《あんど》して各自の世渡りせよ。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよ。総督の進発については、沿道にある八十歳以上の老年、および鰥寡《かんか》、孤独、貧困の民どもは広く賑恤《しんじゅつ》する。忠臣、孝子、義夫、および節婦らの聞こえあるものへは、それぞれ褒美《ほうび》をやる思《おぼ》し召しであるから、諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べ、書面をもって本陣へ申し出よ。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨《えいし》であるぞ、と触れ出されたのもこの際である。
 こんなふうに、新政府が地方人民を頼むことの深かったのも、一つは新政府に対する沿道諸藩が向背《こうはい》のほども測りがたかったからで。最初、伏見鳥羽《ふしみとば》の戦いが会津《あいづ》方の敗退に終わった時、東山道方面の諸藩ではその出来事を先年八月十八日の政変に結びつけて、あの政変が逆に行なわれたぐらいに考えるものが多かった。もとより沿道の諸藩にもいろいろある。それぞれ領地の事情を異にし、旧将軍家との関係をも異にしている。中には、大垣藩《おおがきはん》のように直接に伏見鳥羽の戦いに参加して、会津や桑名を助けようとしたようなところがなくもない。しかし、京都の形勢に対しては、各藩ともに多く観望の態度を執った。慶喜が将軍職の位置を捨てて京都二条城を退いたと聞いた時にも、各藩ともにそれほど全国的な波動が各自の城下にまで及んで来ると思うものもなかった。その慶喜が軍艦で江戸の方へ去ったと聞いた時にすら、各藩の家中衆はまだまだ心を許していた。日本の国運循環して、昨日の将軍は実に今日の逆賊であると聞くようになって、それらの家中衆はいずれもにわかに強い衝動を受けた。その衝動は非常な藩論の分裂をよび起こした。これまで賊徒に従う譜代臣下の者たりとも、悔悟|憤発《ふんぱつ》して国家に尽くす志あるの輩《ともがら》は寛大の思し召しをもって御採用あらせらるべく、もしまた、この時節になっても大義をわきまえずに、賊徒と謀《はかりごと》を通ずるような者は、朝敵同様の厳刑に処せられるであろう。この布告が東山道総督執事の名で発表せらるると同時に、それを読んだ藩士らは皆、到底現状の維持せられるべくもないことを知った。さすがに、ありし日の武家時代を忘れかねるものは多い。あるいは因循姑息《いんじゅんこそく》のそしりをまぬかれないまでも、君侯のために一時の安さをぬすもうと謀《はか》るものがあり、あるいは両端を抱《いだ》こうとするものがある。勤王か、佐幕か――今や東山道方面の諸藩は進んでその態度を明らかにすべき時に迫られて来ていた。
 慶喜と言えば、彼が過ぐる冬十月の十二日に大小|目付《めつけ》以下の諸有司を京都二条城の奥にあつめ、大政奉還の最後の決意を群臣に告げた時、あるいは政権返上の後は諸侯割拠の恐れがあろうとの説を出すものもあるが、今日すでに割拠の実があるではないかと言って、退位後の諸藩の末を案じながら将軍職を辞して行ったのもあの慶喜だ。いかにせば幕府の旧勢力を根からくつがえし、慶喜の問題を処分し、新国家建設の大業を成し就《と》ぐべきやとは、当時京都においても勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た問題である。よろしく衆議を尽くし、天下の公論によるべしとは、後年を待つまでもなく、早くすでに当時に萌《きざ》して来た有力な意見であった。この説は主として土佐藩の人たちによって唱えられたが、これには反対するものがあって、衆議は容易に決しなかった。剣あるのみ、とは薩摩《さつま》の西郷吉之助《さいごうきちのすけ》のような人の口から言い出されたことだという。もはや、論議の時は過ぎて、行動の時がそれに代わっていた。
 この形勢をみて取った有志の間には、進んで東征軍のために道をあけようとする気の速い連中もある。東山道|先鋒《せんぽう》兼|鎮撫《ちんぶ》総督の先駆ととなえる百二十余人の同勢は本営に先立って、二門の大砲に、租税半減の旗を押し立て、旧暦の二月のはじめにはすでに京都方面から木曾街道を下って来た。

       二

 京坂地方では例の外国使臣らの上京参内を許すという未曾有《みぞう》の珍事で騒いでいる間に、西から進んで来た百二十余人の同勢は、堂上の滋野井《しげのい》、綾小路《あやのこうじ》二卿の家来という資格で、美濃の中津川、落合《おちあい》の両宿から信濃境《しなのざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》にかかり、あれから木曾路にはいって、馬籠峠の上をも通り過ぎて行った。あるところでは、藩の用人や奉行《ぶぎょう》などの出迎いを受け、あるところでは、本陣や問屋などの出迎いを受けて。
「もう、先駆がやって来るようになった。」
 この街道筋に総督を待ち受けるほどのもので、それを思わないものはない。一行の大砲や武装したいでたちを見るものは来たるべき東山道軍のさかんな軍容を想像し、その租税半減の旗を望むものは信じがたいほどの一大改革であるとさえ考えた。やがて一行は木曾福島の関所を通り過ぎて下諏訪《しもすわ》に到着し、そのうちの一部隊は和田峠を越え、千曲川《ちくまがわ》を渡って、追分《おいわけ》の宿にまで達した。
 なんらの抵抗を受けることもなしに、この一行が近江《おうみ》と美濃と信濃の間の要所要所を通り過ぎたことは、それだけでも東山道軍のためによい瀬踏みであったと言わねばならぬ。なぜかなら、西は大津から東は追分までの街道筋に当たる諸藩の領地を見渡しただけでも、どこに譜代大名のだれを置き、どこに代官のだれを置くというような、その要所要所の手配りは実に旧幕府の用心深さを語っていたからで。彦根《ひこね》の井伊氏《いいし》、大垣《おおがき》の戸田氏、岩村の松平《まつだいら》氏、苗木《なえぎ》の遠山氏、木曾福島の山村氏、それに高島の諏訪《すわ》氏――数えて来ると、それらの大名や代官が黙ってみていなかったら、なかなか二門の大砲と、百二十余人の同勢で、素通りのできる道ではなかったからで。
 この一行はおもに相良惣三《さがらそうぞう》に率いられ、追分に達したその部下のものは同志金原忠蔵に率いられていた。過ぐる慶応三年に、西郷吉之助が関東方面に勤王の士を募った時、同志を率いてその募りに応じたのも、この相良惣三であったのだ。あの関西方がまだ討幕の口実を持たなかったおりに、進んで挑戦的《ちょうせんてき》の態度に出、あらゆる手段を用いて江戸市街の攪乱《こうらん》を試み、当時江戸警衛の任にあった庄内藩《しょうないはん》との衝突となったのも、三田《みた》にある薩摩屋敷の焼き打ちとなったのも皆その結果であって、西の方に起こって来た伏見鳥羽の戦いも実はそれを導火線とすると言われるほどの討幕の火ぶたを切ったのも、またこの相良惣三および同志のものであったのだ。
 意外にも、この一行の行動を非難する回状が、東山道総督執事から沿道諸藩の重職にあてて送られた。それには、ちかごろ堂上の滋野井《しげのい》殿や綾小路《あやのこうじ》殿が人数を召し連れ、東国|御下向《ごげこう》のために京都を脱走せられたとのもっぱらな風評であるが、右は勅命をもってお差し向けになったものではない、全く無頼《ぶらい》の徒が幼稚の公達《きんだち》を欺いて誘い出した所業と察せられると言ってある。綾小路殿らはすでに途中から御帰京になった、その家来などと唱え、追い追い東下するものがあるように聞こえるが、右は決して東山道軍の先駆でないと言ってある。中には、通行の途次金穀をむさぼり、人馬賃銭不払いのものも少なからぬ趣であるが、右は名を官軍にかりるものの所業であって、いかようの狼藉《ろうぜき》があるやも測りがたいから、諸藩いずれもこの旨《むね》をとくと心得て、右等の徒に欺かれないようにと言ってある。今後、岩倉殿の家来などと偽り、右ようの所業に及ぶものがあるなら、いささかも用捨なくとらえ置いて、総督御下向の上で、その処置を伺うがいいと言ってある。万一、手向かいするなら、討《う》ち取ってもくるしくないとまで言ってある。
 こういう回状は、写し伝えられるたびに、いくらかゆがめられた形のものとなることを免れない。しかし大体に、東山道軍の本営でこの自称先駆の一行を認めないことは明らかになった。
「偽《にせ》官軍だ。偽官軍だ。」
 さてこそ、その声は追分からそう遠くない小諸藩《こもろはん》の方に起こった。その影響は意外なところへ及んで、多少なりとも彼らのために便宜を計ったものは、すべて偽官軍の徒党と言われるほどのばからしい流言の渦中《かちゅう》に巻き込まれた。追分の宿はもとより、軽井沢《かるいざわ》、沓掛《くつかけ》から岩村田へかけて、軍用金を献じた地方の有志は皆、付近の藩からのきびしい詰問を受けるようになった。そればかりではない、惣三らの通り過ぎた木曾路から美濃地方にまでその意外な影響が及んで行った。馬籠本陣の半蔵が木曾福島へ呼び出されたのも、その際である。


 そこは木曾福島の地方《じかた》御役所だ。名高い関所のある街道筋から言えば、深い谷を流れる木曾川の上流に臨み、憂鬱《ゆううつ》なくらいに密集した原生林と迫った山とにとりかこまれた対岸の傾斜をなした位置に、その役所がある。そこは三棟《みむね》の高い鱗葺《こけらぶ》きの屋根の見える山村氏の代官屋敷を中心にして、大小三、四十の武家屋敷より成る一区域のうちである。
 役所のなかも広い。木曾谷一切の支配をつかさどるその役所には、すべて用事があって出頭するものの待ち合わすべき部屋《へや》がある。馬籠から呼び出されて行った半蔵はそこでかなり長く待たされた。これまで彼も木曾十一宿の本陣問屋の一人《ひとり》として、または木曾谷三十三か村の庄屋の一人として、何度福島の地を踏み、大手門をくぐり、大手橋を渡り、その役所へ出頭したかしれない。しかし、それは普通の場合である。意味ありげな差紙《さしがみ》なぞを受けないで済む場合である。今度はそうはいかなかった。
 やがて、足軽《あしがる》らしい人の物慣れた調子で、
「馬籠の本陣も見えております。」
 という声もする。間もなく半蔵は役人衆や下役などの前に呼び出された。その中に控えているのが、当時佐幕論で福島の家中を動かしている用人の一人だ。おもなる取り調べ役だ。
 その日の要事は、とかくのうわさを諸藩の間に生みつつある偽《にせ》官軍のことに連関して、一層街道の取り締まりを厳重にせねばならないというにあったが、取り調べ役はただそれだけでは済まさなかった。右の手に持つ扇子《せんす》を膝《ひざ》の上に突き、半蔵の方を見て、相良惣三ら一行のことをいろいろに詰問した。
「聞くところによると、小諸《こもろ》の牧野遠江守《まきのとおとうみのかみ》の御人数が追分《おいわけ》の方であの仲間を召し捕《と》りの節に、馬士《まご》が三百両からの包み金《がね》を拾ったと申すことであるぞ。早速《さっそく》宿役人に届け出たから、一同立ち会いの上でそれを改めて見たところ、右の金子《きんす》は賊徒が逃げ去る時に取り落としたものとわかって、総督府の方へ訴え出たとも申すことであるぞ。相良惣三の部下のものが、どうして三百両という大金を所持していたろう。半蔵、その方はどう考えるか。」
 そんな問いも出た。
 その席には、立ち会いの用人も控えていて、取り調べ役に相槌《あいづち》を打った。その時、半蔵は両手を畳の上について、惣三らの一行が馬籠宿通行のおりの状況をありのままに述べた。尾張領通行のみぎりはあの一行のすこぶる神妙であったこと、ただ彼としては惣三の同志|伊達徹之助《だててつのすけ》の求めにより金二十両を用立てたことをありのままに申し立てた。
「偽役《にせやく》のかたとはさらに存ぜず、献金なぞいたしましたことは恐れ入ります。」
 そう半蔵は答えた。
「待て、」と取り調べ役が言った。「その方もよく承れ。近ごろはいろいろな異説を立てるものがあらわれて来て、実に心外な御時世ではある。なんでも悪い事は皆徳川の方へ持って行く。そういう時になって来た。まあ、あの相良惣三《さがらそうぞう》一味のものが江戸の方でしたことを考えて見るがいい。天道にも目はあるぞ。おまけに、この街道筋まで来て、追分辺で働いた狼藉《ろうぜき》はどうだ。官軍をとなえさえすれば、何をしてもいいというものではあるまい。」
「さようだ。」と言い出すのは火鉢《ひばち》に手をかざしている立ち会いの用人だ。「貴殿はよく言った。実は、拙者もそれを言おうと思っていたところでござる。」
「いや、」とまた取り調べ役は言葉をつづけた。「御同役の前でござるが、あの御征討の制札にしてからが、自分には腑《ふ》に落ちない。今になって、拙者はつくづくそう思う。もし先帝が御在世であらせられたら、慶喜公に対しても、会津や桑名に対しても、こんな御処置はあらせられまいに……」


 今一度改めて出頭せよ、翌朝を待ってなにぶんの沙汰《さた》があるであろう、その役人の声を聞いたあとで、半蔵は役所の門を出た。馬籠から供をして来た峠村の組頭《くみがしら》、先代平助の跡継ぎにあたる平兵衛《へいべえ》がそこに彼を待ち受けていた。
「半蔵さま。」
「おゝ、お前はそこに待っていてくれたかい。」
「そうよなし。おれも気が気でないで、さっきからこの御門の外に立ち尽くした。」
 二人《ふたり》はこんな言葉をかわし、雪の道を踏んで、大手橋から旅籠屋《はたごや》のある町の方へ歩いた。
 木曾福島も、もはや天保文久年度の木曾福島ではない。創立のはじめに渡辺方壺《わたなべほうこ》を賓師に、後には武居用拙《たけいようせつ》を学頭に、菁莪館《せいがかん》の学問を誇ったころの平和な町ではない。剣術師範役|遠藤《えんどう》五平太の武技を見ようとして、毎年馬市を機会に諸流の剣客の集まって来たころの町でもない。まして、木曾から出た国家老《くにがろう》として、名君の聞こえの高い山村|蘇門《そもん》(良由)が十数年も尾張藩の政事にあずかったころの長閑《のどか》な城下町ではもとよりない。
 町々の警戒もにわかに厳重になった。怪しい者の宿泊は一夜たりとも許されなかった。旅籠屋をさして帰って行く半蔵らのそばには、昼夜の差別もないように街道を急いで来て、また雪を蹴《け》って出て行く早駕籠《はやかご》もある。
 流言の取り締まりもやかましい。そのお達しは奉行所よりとして、この宿場らしい町中の旅籠屋にまで回って来ている。当今の時勢について、かれこれの品評を言い触らす輩《やから》があっては、諸藩の人気にもかかわるから、右ようのことのないようにとくと心得よ、酒興の上の議論はもちろん、たとい女子供に至るまで茶呑《ちゃの》み噺《ばなし》にてもかれこれのうわさは一切いたすまいぞ、とのお触れだ。半蔵が泊まりつけの宿の門口をはいって、土地柄らしく掛けてある諸|講中《こうじゅう》の下げ札なぞの目につくところから、土間づたいに広い囲炉裏《いろり》ばたへ上がって見た時は、さかんに松薪《まつまき》の燃える香気《におい》が彼の鼻の先へ来た。二人ばかりの泊まり客がそこに話し込んでいる。しばらく彼は炉の火にからだをあたため、宿のかみさんがくんで出してくれる熱いネブ茶を飲んで見ている間に、なかなか人の口に戸はたてられないことを知った。
「おれは葵《あおい》の紋を見ても、涙がこぼれて来るよ。」
「今はそんな時世じゃねえぞ。」
 二人の客の言い争う声だ。まっかになるほど炉の火に顔をあぶった男と、手製の竹の灰ならしで囲炉裏の灰をかきならしている男とが、やかましいお触れもおかまいなしにそんなことを言い合っている。
「なあに、こんな新政府はいつひっくりかえるか知れたもんじゃないさ。」
「そんなら君は、どっちの人間だい。」
「うん――おれは勤王で、佐幕だ。」
 時代の悩みを語る声は、そんな一夜の客の多く集まる囲炉裏ばたの片すみにも隠れていた。


 地方《じかた》御役所での役人たちが言葉のはじも気にかかって、翌朝の沙汰《さた》を聞くまでは半蔵も安心しなかった。その晩、半蔵は旅籠屋らしい行燈《あんどん》のかげに時を送っていた。供に連れて来た平兵衛は、どこに置いても邪魔にならないような男だ。馬籠あたりに比べると、ここは陽気もおくれている。昼間は騒がしくても、夜になるとさびしい河《かわ》から来るらしい音が、半蔵の耳にはいった。彼はそれを木曾川の方から来るものと思い、石を越して流れる水瀬の音とばかり思ったが、よく聞いて見ると、町へ来る夜の雨の音のようでもある。その音は、まさに測りがたい運命に直面しているような木曾谷の支配者の方へ彼の心を誘った。
 もともとこの江戸と京都との中央にあたる位置に、要害無双の関門とも言うべき木曾福島の関所があるのは、あだかも大津伏見をへだてて京都を監視するような近江《おうみ》の湖水のほとりの位置に、三十五万石を領する井伊氏の居城のそびえ立つと同じ意味のもので、幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていたのだ。この関所を預かる山村氏は最初徳川直属の代官であった。それは山村氏の祖先が徳川台徳院を関ヶ原の戦場に導いて戦功を立てた慶長年代以来の古い歴史にもとづく。後に木曾地方は名古屋の管轄に移って、山村氏はさらに尾州の代官を承るようになったが、ここに住む福島の家中衆が徳川直属時代の誇りと長い間に養い来たった山嶽的《さんがくてき》な気風とは、事ごとに大領主の権威をもって臨んで来る尾州藩の役人たちと相いれないものがあった。この暗闘反目は決して一朝一夕に生まれて来たものではない。
 そこへ東山道軍の進発だ。各藩ともに、否《いや》でも応でもその態度を明らかにせねばならない。尾張藩は、と見ると、これは一切の従来の行きがかりを捨て、勤王の士を重く用い、大義名分を明らかにすることによって、時代の暗礁《あんしょう》を乗り切ろうとしている。名古屋の方にある有力な御小納戸《おこなんど》、年寄《としより》、用人らの佐幕派として知られた人たちは皆退けられてしまった。その時になっても、山村氏の家中衆だけは長い武家時代の歴史を誇りとし、頑《がん》として昔を忘れないほどの高慢さである。ここには尾張藩の態度に対する非難の声が高まるばかりでなく、徳川氏の直属として独立を思う声さえ起こって来ている。徳川氏と存亡を共にする以外に、この際、情誼《じょうぎ》のあるべきはずがないと主張し、神祖の鴻恩《こうおん》も忘れるような不忠不義の輩《やから》はよろしく幽閉せしむべしとまで極言するものもある。
「福島もどうなろう。」
 半蔵はそのことばかり考えつづけた。その晩は彼は平兵衛の蒲団《ふとん》を自分のそばに敷かせ、道中用の脇差《わきぎし》を蒲団の下に敷いて、互いに枕《まくら》を並べて寝た。
 翌朝になると、やがて役所へ出頭する時が来た。半蔵は供の平兵衛を門内に待たせて置いて、しばらく待合所に控えていた後、さらに別室の方へ呼び込まれた。上段に居並ぶ年寄、用人などの前で、きびしいおしかりを受けた。その意味は、官軍|先鋒《せんぽう》の嚮導隊《きょうどうたい》などととなえ当国へ罷《まか》り越した相良惣三《さがらそうぞう》らのために周旋し、あまつさえその一味のもの伊達《だて》徹之助に金子二十両を用だてたのは不埓《ふらち》である。本来なら、もっと重い御詮議《ごせんぎ》もあるべきところだが、特に手錠を免じ、きっと叱《しか》り置く。これは半蔵父子とも多年御奉公申し上げ、頼母子講《たのもしこう》お世話方も行き届き、その尽力の功績も没すべきものでないから、特別の憐憫《れんびん》を加えられたのであるとの申し渡しだ。
「はッ。」
 半蔵はそこに平伏した。武家の奉公もこれまでと思う彼は、甘んじてそのおしかりを受けた。そして、屋敷から引き取った。


「青山さん。」
 うしろから追いかけて来て、半蔵に声をかけるものがある。ちょうど半蔵は供の平兵衛と連れだって、木曾福島を辞し、帰村の道につこうとしたばかりの時だ。街道に添うて旅人に道を教える御嶽《おんたけ》登山口、路傍に建てられてある高札場なぞを右に見て、福島の西の町はずれにあたる八沢というところまで歩いて行った時だ。
「青山さん、馬籠の方へ今お帰り。」
 ときく人は、木曾風俗の軽袗《かるさん》ばきで、猟師筒を肩にかけている。屋敷町でない方に住む福島の町家の人で、大脇自笑《おおわきじしょう》について学んだこともある野口秀作というものだ。半蔵は別にその人と深い交際はないが、彼の知る名古屋藩士で田中|寅三郎《とらさぶろう》、丹羽淳太郎《にわじゅんたろう》なぞの少壮有為な人たちの名はその人の口から出ることもある。あうたびに先方から慣れ慣れしく声をかけるのもその人だ。
「どれ、わたしも御一緒にそこまで行こう。」とまた秀作は歩き歩き半蔵に言った。「青山さん、あなたがお見えになったことも、お役所へ出頭したことも、きのうのうちに町じゅうへ知れています。えゝえゝ、そりゃもう早いものです。狭い谷ですからね。ここはあなた、うっかり咳《せき》ばらいもできないようなところですよ。福島はそういうところですよ。ほんとに――この谷も、こんなことじゃしかたがない。あなたの前ですが、この谷には、てんで平田の国学なぞははいらない。皆、漢籍一方で堅めきっていますからね。伊那から美濃地方のようなわけにはいかない。どうしても、世におくれる。でも青山さん、見ていてください。福島にも有志の者がなくはありませんよ。」
 口にこそ出さなかったが、秀作は肩にする鉄砲に物を言わせ、雉《きじ》でも打ちに行くらしいその猟師筒に春待つ心を語らせて、来たるべき時代のために勤王の味方に立とうとするものはここにも一人《ひとり》いるという意味を通わせた。
 思いがけなく声をかけられた人にも別れて、やがて半蔵らはさくさく音のする雪の道を踏みながら、塩淵《しおぶち》というところまで歩いた。そこは山の尾をめぐる一つの谷の入り口で、西から来るものはその崖《がけ》になった坂の道から、初めて木曾福島の町をかなたに望むことのできるような位置にある。半蔵は帰って行く人だが、その眺望《ちょうぼう》のある位置に出た時は、思わず後方《うしろ》を振り返って見て、ホッと深いため息をついた。

       三

 木曾の寝覚《ねざめ》で昼、とはよく言われる。半蔵らのように福島から立って来たものでも、あるいは西の方面からやって来るものでも、昼食の時を寝覚に送ろうとして道を急ぐことは、木曾路を踏んで見るもののひとしく経験するところである。そこに名物の蕎麦《そば》がある。
 春とは言いながら石を載せた坂屋根に残った雪、街道のそばにつないである駄馬《だば》、壁をもれる煙――寝覚の蕎麦屋あたりもまだ冬ごもりの状態から完全に抜けきらないように見えていた。半蔵らは福島の立ち方がおそかったから、そこへ着いて足を休めようと思うころには、そろそろ食事を終わって出発するような伊勢参宮の講中もある。黒の半合羽《はんがっぱ》を着たまま奥の方に腰掛け、膳《ぜん》を前にして、供の男を相手にしきりに箸《はし》を動かしている客もある。その人が中津川の景蔵だった。
 偶然にも、半蔵はそんな帰村の途中に、しかも寝覚《ねざめ》の床《とこ》の入り口にある蕎麦屋の奥で、反対の方角からやって来た友人と一緒になることができた。景蔵は、これから木曾福島をさして出掛けるところだという。聞いて見ると、地方《じかた》御役所からの差紙《さしがみ》で。中津川本陣としてのこの友人も、やはり半蔵と同じような呼び出され方で。
「半蔵さん、これはなんという事です。」
 景蔵はまずそれを言った。
 その時、二人は顔を見合わせて、互いに木曾福島の役人衆が意図を読んだ。
「見たまえ。」とまた景蔵が言い出した。「東山道軍の執事からあの通知が行くまでは、だれだって偽《にせ》官軍だなんて言うものはなかった。福島の関所だって黙って通したじゃありませんか。奉行から用人まで迎えに出て置いて、今になってわれわれをとがめるとは何の事でしょう。」
「ですから、驚きますよ。」と半蔵はそれを承《う》けて、「これにはかなり複雑な心持ちが働いていましょう。」
「わたしもそれは思う。なにしろ、あの相良惣三の仲間は江戸の方でかなりあばれていますからね。あいつが諏訪《すわ》にも、小諸《こもろ》にも、木曾福島にも響いて来てると思うんです。そこへ東山道軍の執事からあの通知でしょう、こりゃ江戸の敵《かたき》を、飛んだところで打つようなことが起こって来た。」
「世の中はまだ暗い。」
 半蔵はそれを友人に言って見せて、嘆息した。その意味から言っても、彼は早く東山道軍をこの街道に迎えたかった。


「まあ、景蔵さん、蕎麦《そば》でもやりながら話そうじゃありませんか。」と半蔵は友人とさしむかいに腰掛けていて、さらに話しつづけた。「君はわたしたちにかまわないで、先に食べてください。そんなに話に身が入っては、せっかくの蕎麦も延びてしまう。でも、きょうは、よいところでお目にかかった。」
「いや、わたしも君にあえてよかった。」と景蔵の方でも言った。「おかげで、福島の方の様子もわかりました。」
 やがて景蔵が湯桶《ゆとう》の湯を猪口《ちょく》に移し、それを飲んで、口をふくころに、小女《こおんな》は店の入り口に近い台所の方から土間づたいに長い腰掛けの間を回って来て、
「へえ、お待ちどおさまでございます。」
 と言いながら、半蔵の注文したものをそこへ持ち運んで来た。本家なにがし屋とか、名物寿命そばありとかを看板にことわらなければ、客の方で承知しないような古い街道筋のことで、薬味箱、だし汁《じる》のいれもの、猪口、それに白木の割箸《わりばし》まで、見た目も山家のものらしい。竹簀《たけす》の上に盛った手打ち蕎麦は、大きな朱ぬりの器《うつわ》にいれたものを膳《ぜん》に積みかさねて出す。半蔵はそれを供の平兵衛に分け、自分でも箸を取りあげた。その時、彼は友人の方を見て、思い出したように、
「景蔵さん、東山道軍の執事から尾州藩の重職にあてた回状の写しさ、あれは君の方へも回って行きましたろう。」
「来ました。」
「あれを君はどう読みましたかい。」
「さあ、ねえ。」
「えらいことが書いてあったじゃありませんか。あれで見ると、本営の方じゃ、まるきり相良惣三の仲間を先駆とは認めないようですね。」
「全くの無頼の徒扱いさ。」
「いったい、あんな通知を出すくらいなら、最初から先駆なぞを許さなければよかった。」
「そこですよ。あの相良惣三の仲間は、許されて出て来たものでもないらしい。わたしはあの回状を読んで、初めてそのことを知りました。綾小路《あやのこうじ》らの公達《きんだち》を奉じて出かけたものもあるが、勅命によってお差し向けになったものではないとまで断わってある。見たまえ、相良惣三の同志というものは、もともと西郷吉之助の募りに応じて集まったという勤王の人たちですから、薩摩藩《さつまはん》に付属して進退するようにッて、総督府からもその注意があり、東山道軍の本営からもその注意はしたらしい。ところがです、先駆ととなえる連中が自由な行動を執って、ずんずん東下するもんですから、本営の方じゃこんなことで軍の規律は保てないと見たんでしょう。」
「あの仲間が旗じるしにして来た租税半減というのは。」
「さあ、東山道軍から言えば、あれも問題でしょうね。実際新政府では租税半減を人民に約束するかと、沿道の諸藩から突っ込まれた場合に、軍の執事はなんと答えられますかさ。とにかく、綾小路らの公達《きんだち》が途中から分かれて引き返してしまうのはよくよくです。これにはわれわれの知らない事情もありましょうよ。おそらく、それや、これやで、東山道軍からはあの仲間も経済的な援助は仰げなくなったのでしょう。」
「だいぶ、話が実際的になって来ましたね。」
「まあ、百二十人あまりからの同勢で、おまけに皆、血気|壮《さか》んな人たちと来ています。ずいぶん無理もあろうじゃありませんか。」
「われわれの宿場を通ったころは、あの仲間もかなり神妙にしていましたがなあ。」
「水戸《みと》浪士の時のことを考えて見たまえ。幹部の目を盗んで民家を掠奪《りゃくだつ》した土佐の浪人があると言うんで、三五沢で天誅《てんちゅう》さ。軍規のやかましい水戸浪士ですら、それですよ。」
「それに、あの相良惣三の仲間が追分《おいわけ》の方で十一軒も民家を焼いたのは、まずかった。」
「なにしろ、止めて止められるような人たちじゃありませんからね。風は蕭々《しょうしょう》として易水《えきすい》寒し、ですか。あの仲間はあの仲間で、行くところまで行かなけりゃ承知はできないんでしょう。さかんではあるが、鋭過《するどす》ぎますさ。」
「景蔵さん、君は何か考えることがあるんですか。」
「どうして。」
「どうしてということもありませんが、なんだかきょうはしかられてるような気がする。」
 この半蔵の言葉に、景蔵も笑い出した。
「そう言えば半蔵さん、こないだもわたしは香蔵さんをつかまえて、どうもわれわれは目の前の事にばかり屈託して困る、これがわれわれの欠点だッて話しましたら、あの香蔵さんの言い草がいい。屈託するところが人間ですとさ。でも、周囲を見ると心細い。王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃありませんか。見たまえ、そよそよとした風はもう先の方から吹いて来ている。この一大変革の時に際会して、大局を見て進まないのはうそですね。」


「景蔵さん、君も気をつけて行って来たまえ。相良惣三に同情があると見た地方の有志は、全部呼び出して取り調べる――それがお役所の方針らしいから。」
 そう言いながら、半蔵は寝覚《ねざめ》を立って行く友人と手を分かった。
「どれ、福島の方へ行ってしかられて来るか。」
 景蔵はその言葉を残した。その時、半蔵は供の男をかえりみて、
「さあ、平兵衛さん、わたしたちもぽつぽつ出かけようぜ。」
 そんなふうに、また半蔵らは馬籠をさして出かけた。
 木曾谷は福島から須原《すはら》までを中三宿《なかさんしゅく》とする。その日は野尻《のじり》泊まりで、半蔵らは翌朝から下四宿《しもししゅく》にかかった。そこここの道の狭いところには、雪をかきのけ、木を伐《き》って並べ、藤《ふじ》づるでからめ、それで道幅を補ったところがあり、すでに橋の修繕まで終わったところもある。深い森林の方から伐り出した松明《たいまつ》を路傍に山と積んだようなところもある。上松《あげまつ》御陣屋の監督はもとより、近く尾州の御材木方も出張して来ると聞く。すべて東山道軍を迎える日の近づきつつあったことを語らないものはない。
 時には、伊勢参宮の講中にまじる旅の婦人の風俗が、あだかも前後して行き過ぎる影のように、半蔵らの目に映る。きのうまで手形なしには関所も通られなかった女たちが、男の近親者と連れだち、長途の旅を試みようとして、深い窓から出て来たのだ。そんな人たちの旅姿にも、王政第一の春の感じが深い。そのいずれもが日焼けをいとうらしい白の手甲《てっこう》をはめ、男と同じような参拝者の風俗で、解き放たれて歓呼をあげて行くかにも見えていた。
 次第に半蔵らは淡い雪の溶け流れている街道を踏んで行くようになった。歩けば歩くほど、なんとなく谷の空も明るかった。西から木曾川を伝って来る早い春も、まだまだ霜に延びられないような浅い麦の間に躊躇《ちゅうちょ》しているほどの時だ。それでも三留野《みどの》の宿まで行くと、福島あたりで堅かった梅の蕾《つぼみ》がすでにほころびかけていた。


 午後に、半蔵らは大火のあとを承《う》けてまだ間もない妻籠の宿にはいった。妻籠本陣の寿平次《じゅへいじ》をはじめ、その妻のお里、めっきり年とったおばあさん、半蔵のところから養子にもらわれて来ている幼い正己《まさみ》――皆、無事。でも寿平次方ではわずかに類焼をまぬかれたばかりで、火は本陣の会所まで迫ったという。脇《わき》本陣の得右衛門《とくえもん》方は、と見ると、これは大火のために会所の門を失った。半蔵が福島の方から引き返して、地方《じかた》御役所でしかられて来たありのままを寿平次に告げに寄ったのは、この混雑の中であった。
 もっとも、半蔵は往《い》きにもこの妻籠を通って寿平次の家族を見に寄ったが、わずかの日数を間に置いただけでも、板囲いのなかったところにそれができ、足場のなかったところにそれがかかっていた。そこにもここにも仮小屋の工事が始まって、総督の到着するまでにはどうにか宿場らしくしたいというそのさかんな復興の気象は周囲に満ちあふれていた。
 寿平次は言った。
「半蔵さん、今度という今度はわたしも弱った。東山道軍が見えるにしたところで、君の方はまだいい。昼休みの通行で済むからいい。妻籠を見たまえ、この大火のあとで、しかも総督のお泊まりと来てましょう。」
「ですから、当日の泊まり客は馬籠でも分けて引き受けますよ。いずれ御先触《おさきぶ》れが来ましょう。そうしたら、おおよそ見当がつきましょう。得右衛門さんでも馬籠の方へ打ち合わせによこしてくださるさ。」
「おまけに、妻籠へ割り当てられた松明《たいまつ》も三千|把《ば》だ。いや、村のものは、こぼす、こぼす。」
「どうせ馬籠じゃ、そうも要《い》りますまい。松明も分けますよ。」
 こんなことであまり長くも半蔵は邪魔すまいと思った。寿平次のような養父を得て無事に成長するらしい正己にも声をかけて置いて、そこそこに彼は帰村を急ごうとした。
「もうお帰りですか。」と言いながら、仕事着らしい軽袗《かるさん》ばきで、寿平次は半蔵のあとを追いかけて来た。
「あの大火のあとで、よくそれでもこれまでに工事が始められましたよ。」と半蔵が言う。
「みんな一生懸命になりましたからね。なにしろ、高札下《こうさつした》から火が出て、西側は西田まで焼ける。東側は山本屋で消し止めた。こんな大火はわたしが覚えてから初めてだ。でも、村の人たちの意気込みというものは、実にすさまじいものさ。」
 しばらく寿平次は黙って、半蔵と一緒に肩をならべながら、木を削るかんなの音の中を歩いた。やがて、別れぎわに、
「半蔵さん、世の中もひどい変わり方ですね。何が見えて来るのか、さっぱり見当もつかない。」
「まあ統一ができてからあとのことでしょうね。」
 と半蔵の方で言って見せると、寿平次もうなずいた。そして別れた。
 半蔵が供の平兵衛と共に馬籠の宿はずれまで帰って行ったころは、日暮れに近かった。そこまで行くと、下男の佐吉が宗太(半蔵の長男)を連れて、主人の帰りのおそいのを案じ顔に、陣場というところに彼を待ち受けていた。その辺には「せいた」というものを用いて、重い物を背負い慣れた勁《つよ》い肩と、山の中で働き慣れた勇健な腰骨とで、奥山の方から伐《き》り出して来た松明を定められた場所へと運ぶ村の人たちもある。半蔵と見ると、いずれも頬《ほお》かぶりした手ぬぐいをとって、挨拶《あいさつ》して行く。
「みんな、御苦労だのい。」
 そう言って村の人たちに声をかける時の半蔵の調子は、父|吉左衛門《きちざえもん》にそっくりであった。


 半蔵は福島出張中のことを父に告げるため、馬籠本陣の裏二階にある梯子段《はしごだん》を上った。彼も妻子のところへ帰って来て、母屋《もや》の囲炉裏ばたの方で家のものと一緒に夕飯を済まし、食後に父をその隠居所に見に行った。
「ただいま。」
 この半蔵の「ただいま」が、炬燵《こたつ》によりかかりながら彼を待ち受けていた吉左衛門をも、茶道具なぞをそこへ取り出す継母のおまんをもまずよろこばせた。
「半蔵、福島の方はどうだったい。」
 と吉左衛門が言いかけると、おまんも付け添えるように、
「おとといはお前、中津川の景蔵さんまでお呼び出しで、ちょっと吾家《うち》へも寄って行ってくれたよ。」
「そうでしたか。景蔵さんには寝覚《ねざめ》で行きあいましたっけ。まあ、お役所の方も、お叱《しか》りということで済みました。つまらない疑いをかけられたようなものですけれど、今度のお呼び出しのことは、お父《とっ》さんにもおわかりでしょう。」
「いや、わかるどころか、あんまりわかり過ぎて、おれは心配してやったよ。お前の帰りもおそいものだからね。」
 こんな話がはじまっているところへ、母屋《もや》の方にいた清助も裏二階の梯子段《はしごだん》を上って来た。無事に帰宅した半蔵を見て、清助も「まあ、よかった」という顔つきだ。
「半蔵、お前の留守に、追分《おいわけ》の名主《なぬし》のことが評判になって、これがまた心配の種さ。」と吉左衛門が言って見せた。
「それがです。」と清助もその話を引き取って、「あの名主は親子とも入牢《にゅうろう》を仰せ付けられたとか、いずれ追放か島流しになるとか、いろいろなことを言いましょう。まさか、そんなばかばかしいことが。どうせ街道へ伝わって来るうわさだぐらいに、わたしどもは聞き流していましたけれど、村のうわさ好きな人たちと来たら、得ていろいろなことを言いたがる。今度は本陣の旦那《だんな》も無事にお帰りになれまいなんて。」
 吉左衛門は笑い出した。そして、追分の名主のことについて、何がそんな評判を立てさせたか、名主ともあろうものが腰縄《こしなわ》手錠で松代藩《まつしろはん》の方へ送られたとはどうしたことか、そのいぶかしさを半蔵にたずねた。そういう吉左衛門はいまだに宿駅への関心を失わずにいる。
「お父《とっ》さん、そのことでしたら。」と半蔵は言う。「なんでも、小諸藩《こもろはん》から捕手《とりて》が回った時に、相良惣三の部下のものは戦さでもする気になって、追分の民家を十一軒も焼いたとか聞きました。そのあとです、小諸藩から焼失人へ米を六十俵送ったところが、その米が追分の名主の手で行き渡らないと言うんです。偽《にせ》官軍の落として行った三百両の金も、焼失人へは割り渡らないと言うんです。あの名主は貧民を救えと言われて、偽官軍から米を十六俵も受け取りながら、その米も貧民へは割り渡らないと言うんです。あの名主はそれで松代藩の方へ送られたというのが、まあ実際のところでしょう。しかしわたしの聞いたところでは、あの名主と不和なものがあって中傷したことらしい――飛んだ疑いをかけられたものですよ。」
「そういうことが起こって来るわい。」と吉左衛門は考えて、「そんなごたごたの中で、米や金が公平に割り渡せるもんじゃない。追分の名主も気の毒だが、米や金を渡そうとした方にも無理がある。」
「そうです、わたしも大旦那《おおだんな》に賛成です。」と清助も言葉を添える。「いきなり貧民救助なぞに手をつけたのが、相良惣三の失敗のもとです。そういうことは、もっと大切に扱うべきで、なかなか通りすがりの嚮導隊《きょうどうたい》なぞにうまくやれるもんじゃありません。」
「とにかく。」と半蔵は答えた。「あの仲間は、東山道軍と行動を共にしませんでした。そこから偽官軍というような評判も立ったのですね。そこへつけ込む者も起こって来たんですね。でも、相良惣三らのこころざしはくんでやっていい。やはりその精神は先駆というところにあったと思います。ですから、地方の有志は進んで献金もしたわけです。そうはわたしも福島のお役所じゃ言えませんでした。まあ、お父《とっ》さんやお母《っか》さんの前ですから話しますが、あのお役人たちもかなり強いことを言いましたよ。二度目に呼び出されて行った時にですね、お前たち親子は多年御奉公も申し上げたものだし、頼母子講《たのもしこう》のお世話方も行き届いて、その骨折りも認めないわけにいかないから、特別の憐憫《れんびん》をもってきっと叱《しか》り置く、特に手錠を免ずるなんて――それを言い渡された時は、御奉公もこれまでだと思って、わたしも我慢して来ました。」
 その時、にぎやかな子供らの声がして、半蔵が妻のお民の後ろから、お粂《くめ》、宗太《そうた》も梯子段《はしごだん》を上って来たので、半蔵はもうそんな話をしなかった。その裏二階に集まったものは、やがて馬籠の宿場に迎えようとする岩倉の二公子、さては東山道軍のうわさなどで持ち切った。
「粂さま、お前さまは和宮様《かずのみやさま》の御通行の時のことを覚えておいでか。」と清助がきいた。
「わたしはよく覚えていない。」とお粂が羞《はじ》を含みがちに言う。
「ゆめのようにですか。」
「えゝ。」
「そうでしょうね。あの時分のことは、はっきり覚えていなさるまい。」
「清助さん、水戸浪士《みとろうし》のことをきいてごらん。」と横鎗《よこやり》を入れるのは宗太だ。
「だれに。」
「おれにさ。このおれにきいてごらん。」
「おゝ、お前さまにか。」
「清助さん、水戸浪士のことなら、おれだって知ってるよ。」
「さあ、今度の御通行はどうありますかさ。」とおまんは言って、やがて孫たちの方を見て、「今度はもうそんなに、こわい御通行じゃない。なんにも恐ろしいことはないよ。今に――錦《にしき》の御旗《みはた》が来るんだよ。」
 半蔵の子供らも大きくなった。その年、慶応四年の春を迎えて見ると、姉のお粂はもはや十三歳、弟の宗太は十一歳にもなる。お民は夫が往《い》きにも還《かえ》りにも大火後の妻籠《つまご》の実家に寄って来たと聞いて、
「あなた、正己《まさみ》も大きくなりましたろうね。あれもことしは八つになりますよ。」
「いや、大きくなったにも、なんにも。もうすっかり妻籠の子になりすましたような顔つきさ。おれが呼んだら、男の子らしい軽袗《かるさん》などをはいて、お辞儀に出て来たよ。でも、きまりが悪いような顔つきをして、広い屋敷のなかをまごまごしていたっけ。」
 もらわれて行った孫のうわさに、吉左衛門もおまんも聞きほれていた。やがて、吉左衛門は思いついたように、
「時に、半蔵、御通行はあと十二、三日ぐらいしかあるまい。人足は足りるかい。」
「今度は旧天領のものが奮って助郷《すけごう》を勤めることになりました。これは天領にかぎらないからと言って、総督の執事は、村々の小前《こまえ》のものにまで人足の勤め方を奨励しています。おそらく、今度の御通行を一期《いちご》にして、助郷のことも以前とは変わりましょう。」
「あなたは、それだからいけない。」とおまんは吉左衛門の方を見て、その話をさえぎった。「人足のことなぞは半蔵に任せてお置きなさるがいい。おれはもう隠居だなんて言いながら、そうあなたのように気をもむからいけない。」
「どうも、この節はおまんのやつにしかられてばかりいる。」
 そう言って吉左衛門は笑った。
 長話は老い衰えた父を疲らせる。その心から、半蔵は妻子や清助を誘って、間もなく裏二階を降りた。母屋《もや》の方へ引き返して行って見ると、上がり端《はな》に畳《たた》んだ提灯《ちょうちん》なぞを置き、風呂《ふろ》をもらいながら彼を見に来ている馬籠村の組頭《くみがしら》庄助《しょうすけ》もいる。庄助も福島からの彼の帰りのおそいのを案じていた一人《ひとり》なのだ。その晩、彼は下男の佐吉が焚《た》きつけてくれた風呂桶《ふろおけ》の湯にからだを温《あたた》め、客の応接はお民に任せて置いて、店座敷の方へ行った。白木《しらき》の桐《きり》の机から、その上に掛けてある赤い毛氈《もうせん》、古い硯《すずり》までが待っているような、その自分の居間の畳の上に、彼は長々と足腰を延ばした。
 子供らがのぞきに来た。いつも早寝の宗太も、その晩は眠らないで、姉と一緒にそこへ顔を出した。背丈《せたけ》は伸びても顔はまだ子供子供した宗太にくらべると、いつのまにかお粂の方は姉娘らしくなっている。素朴《そぼく》で、やや紅味《あかみ》を帯びた枝の素生《すば》えに堅くつけた梅の花のつぼみこそはこの少女のものだ。
「あゝあゝ、きょうはお父《とっ》さんもくたぶれたぞ。宗太、ここへ来て、足でも踏んでくれ。」
 半蔵がそれを言って、畳の上へ腹ばいになって見せると、宗太はよろこんだ。子供ながらに、宗太がからだの重みには、半蔵の足の裏から数日のはげしい疲労を追い出す力がある。それに、血を分けたものの親しみまでが、なんとなく温《あたた》かに伝わって来る。
「どれ、わたしにも踏ませて。」
 とお粂も言って、姉と弟とはかわるがわる半蔵の大きな足の裏を踏んだ。

       四

「あなた。」
「おれを呼んだのは、お前かい。」
「あなたはどうなさるだろうッて、お母《っか》さんが心配していますよ。」
「どうしてさ。」
「だって、あなたのお友だちは岩倉様のお供をするそうじゃありませんか。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわした。
 暖かい雨はすでに幾たびか馬籠峠《まごめとうげ》の上へもやって来た。どうかすると夜中に大雨が来て、谷々の雪はあらかた溶けて行った。わずかに美濃境《みのざかい》の恵那山《えなさん》の方に、その高い山間《やまあい》の谿谷《けいこく》に残った雪が矢の根の形に白く望まれるころである。そのころになると東山道軍の本営は美濃まで動いて来て、大垣《おおがき》を御本陣にあて、沿道諸藩との交渉を進めているやに聞こえて来た。兵馬の充実、資金の調達などのためから言っても、軍の本営ではいくらかの日数をそこに費やす必要があったのだ。勤王の味方に立とうとする地方の有志の中には、進んで従軍を願い出るものも少なくない。
「おれもこうしちゃいられないような気がする。」
 半蔵がそれを言って見せると、お民は夫の顔をながめながら、
「ですから、お母《っか》さんが心配してるんですよ。」
「お民、おれは出られそうもないぞ。そのことはお母《っか》さんに話してくれてもいい。おれがお供をするとしたら、どうしたって福島の山村様の方へ願って出なけりゃならない。中津川の友だちとおれとは違うからね。あの幕府びいきの御家中がおれのようなものを許すと思われない。」
「……」
「ごらんな、景蔵さんや香蔵さんは、ただ岩倉様のお供をするんじゃないよ。軍の嚮導《きょうどう》という役目を命ぜられて行くんだよ。その下には十四、五人もついて御案内するという話だが、それがお前、みんな平田の御門人さ。何にしてもうらやましい。」
 夫婦の間にはこんな話も出た。
 その時になって初めて本陣も重要なものになった。東山道総督執事からの布告にもあるように、徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たものは遠慮なくその事情を届けいでよと指定された場所は、本陣である。諸国の役人どもにおいてせいぜい取り調べよと命ぜられた貧民に関する報告や願書の集まって来るのも、本陣である。のみならず、従来本陣と言えば、公用兼軍用の旅舎のごときもので、諸大名、公卿《くげ》、公役、または武士のみが宿泊し、休息する場所として役立つぐらいに過ぎなかった。今度の布告で見ると、諸藩の藩主または重職らが勤王を盟《ちか》い帰順の意を総督にいたすべき場所として指定された場所も、また本陣である。
 半蔵の手もとには、東山道軍本営の執事よりとして、大垣より下諏訪《しもすわ》までの、宿々問屋役人中へあてた布達がすでに届いていた。それによると、薩州勢四百七十二人、大垣勢千八百二十七人、この二藩の兵が先鋒《せんぽう》として出発し、因州勢八百人余は中軍より一宿先、八百八十六人の土州勢と三百人余の長州勢とは前後交番で中軍と同日に出発、それに御本陣二百人、彦根《ひこね》勢七百五十人余、高須《たかす》勢百人とある。この人数が通行するから、休泊はもちろん、人馬|継立《つぎた》て等、不都合のないように取り計らえとある。しかし、この兵数の報告はかなり不正確なもので、実際に大垣から進んで来る東山道軍はこれほどあるまいということが、半蔵を不安にした。当時の諸藩、および旗本の向背《こうはい》は、なかなか楽観を許さなかった。
 そのうちに、美濃から飛騨《ひだ》へかけての大小諸藩で帰順の意を表するものが続々あらわれて来るようになった。昨日《きのう》は苗木《なえぎ》藩主の遠山友禄が大垣に行って総督にお目にかかり勤王を盟《ちか》ったとか、きょうは岩村藩の重臣|羽瀬市左衛門《はせいちざえもん》が藩主に代わって書面を総督府にたてまつり慶喜に組した罪を陳謝したとか、加納藩《かのうはん》、郡上藩《ぐじょうはん》、高富藩《たかとみはん》、また同様であるとか、そんなうわさが毎日のように半蔵の耳を打った。あの旧幕府の大老井伊|直弼《なおすけ》の遺風を慕う彦根藩士までがこの東征軍に参加し、伏見鳥羽の戦いに会津《あいづ》方を助けた大垣藩ですら薩州方と一緒になって、先鋒としてこの街道を下って来るといううわさだ。
 しかし、これには尾張《おわり》のような中国の大藩の向背が非常に大きな影響をあたえたことを記憶しなければならない。いわゆる御三家の随一とも言われたほど勢力のある尾張藩が、率先してその領地を治め、近傍の諸藩を勧誘し、東征の進路を開かせようとしたことは、復古の大業を遂行する上にすくなからぬ便宜となったことを記憶しなければならない。
 尾州とても、藩論の分裂をまぬかれたわけでは決してない。過ぐる年の冬あたりから、尾張藩の勤王家で有力なものは大抵御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)に従って上洛《じょうらく》していたし、御隠居とても日夜京都に奔走して国を顧みるいとまもない。その隙《すき》を見て心を幕府に寄せる重臣らが幼主元千代を擁し、江戸に走り、幕軍に投じて事をあげようとするなどの風評がしきりに行なわれた。もはや躊躇《ちゅうちょ》すべき時でないと見た御隠居は、成瀬正肥《なるせまさみつ》、田宮如雲《たみやじょうん》らと協議し、岩倉公の意見をもきいた上で、名古屋城に帰って、その日に年寄|渡辺《わたなべ》新左衛門、城代格|榊原勘解由《さかきばらかげゆ》、大番頭《おおばんがしら》石川|内蔵允《くらのすけ》の三人を二之丸向かい屋敷に呼び寄せ、朝命をもって死を賜うということを宣告した。なお、佐幕派として知られた安井長十郎以下十一人のものを斬罪《ざんざい》に処した。幼主元千代がそれらの首級をたずさえ、尾張藩の態度を朝野に明らかにするために上洛したのは、その年の正月もまだ早いころのことである。
 尾州にはすでにこの藩論の一定がある。美濃から飛騨《ひだ》地方へかけての諸藩の向背も、幕府に心を寄せるものにはようやく有利でない。これらの周囲の形勢に迫られてか、大垣あたりの様子をさぐるために、奥筋の方から早駕籠《はやかご》を急がせて来る木曾福島の役人衆もあった。それらの人たちが往《い》き還《かえ》りに馬籠の宿を通り過ぎるだけでも、次第に総督の一行の近づいたことを思わせる。旧暦二月の二十二日を迎えるころには、岩倉公子のお迎えととなえ、一匹の献上の馬まで引きつれて、奥筋の方から馬籠に着いた一行がある。それが山村氏の御隠居だった。半蔵父子がこれまでのならわしによれば、あの名古屋城の藩主は「尾州の殿様」、これはその代官にあたるところから、「福島の旦那様《だんなさま》」と呼び来たった主人公である。


 半蔵は急いで父吉左衛門をさがした。山村氏の御隠居が彼の家の上段の間で昼食の時を送っていること、行く先は中津川で総督お迎えのために見えたこと、彼の家の門内には献上の馬まで引き入れてあることなどを告げて置いて、また彼は父のそばから離れて行った。
 例の裏二階で、吉左衛門はおまんを呼んだ。衣服なぞを取り出させ、そこそこに母屋《もや》の方へ行くしたくをはじめた。
「肩衣《かたぎぬ》、肩衣。」
 とも呼んだ。
 そういう吉左衛門はもはやめったに母屋の方へも行かず、村の衆にもあわず、先代の隠居半六が忌日のほかには墓参りの道も踏まない人である。めずらしくもこの吉左衛門が代を跡目相続の半蔵に譲る前の庄屋に帰って、青山家の定紋のついた麻※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《あさがみしも》に着かえた。
「おまん、おれは隠居の身だから、わざわざ旦那様の前へ御挨拶《ごあいさつ》には出まい。何事も半蔵に任せたい。お馬を拝見させていただけば、それだけでたくさん。」
 こう言いながら、彼はおまんと一緒に裏二階を降りた。下男の佐吉が手造りにした草履《ぞうり》をはき、右の手に杖《つえ》をついて、おまんに助けられながら本陣の裏庭づたいに母屋への小道を踏んだ。実に彼はゆっくりゆっくりと歩いた。わずかの石段を登っても、その上で休んで、また歩いた。
 吉左衛門がお馬を見ようとして出たところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿《つばき》の蕾《つぼみ》もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒《こま》とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間《うまやちゅうげん》のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて、奥の方へ挨拶《あいさつ》に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。
「いや、おれはここで失礼するよ。」
 と吉左衛門は言って、その駒の雄々《おお》しい鬣《たてがみ》も、大きな目も、取りつく蝿《はえ》をうるさそうにする尻尾《しっぽ》までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。
 だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧《ふる》い主人公のつつがない顔を見ることができた。
「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます。」
「おゝ、その方も達者《たっしゃ》か。」
 御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。
 吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。
「お父《とっ》さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ。」
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい。」


 東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼《うぬま》宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒《せんぽう》はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の御隠居が先鋒の重立った隊長らと会見せらるるのもその夜のことである。総督御本陣は、薩州兵と大垣兵とより成る先鋒隊からは三日ずつおくれて木曾街道を進んで来るはずであった。馬籠宿はすでに万般の手はずもととのった。というのは、全軍の通行に昼食の用意をすればそれでよかったからであった。よし隣宿妻籠の方に泊まりきれない兵士があるとしても、せいぜい一晩ぐらいの宿を引き受ければ、それで済みそうだった。半蔵はひとり一室に退いて、総督一行のために祈願をこめた。長歌などを作り試みて、それを年若な岩倉の公子にささげたいとも願った。
 夕方が来た。半蔵は本陣の西側の廊下のところへ宗太を呼んで、美濃の国の空の方を子供にさして見せた。暮色につつまれて行く恵那山《えなさん》の大きな傾斜がその廊下の位置から望まれる。中津川の町は小山のかげになって見えないまでも、遠く薄暗い空に反射するほのかな町の明りは宗太の目にも映った。
「御覧、中津川の方の空が明るく見えるよ。篝《かがり》でもたいているんだろうね。」
 と半蔵が言って見せた。
 その晩、半蔵は店座敷にいておそくまで自分の机にむかった。古風な行燈《あんどん》の前で、その日に作った長歌の清書などをした。中津川の友人景蔵の家がその晩の先鋒隊の本陣であることを考え、先年江戸屋敷の方から上って来た長州侯がいわゆる中津川会議を開いて討幕の第一歩を踏み出したのもまたあの友人の家であるような縁故の不思議さを考えると、お民のそはで枕《まくら》についてからも彼はよく眠られなかった。あたかも春先の雪が来てかえって草木の反発力を増させるように、木曾街道を騒がしたあの相良惣三《さがらそうぞう》の事件までが、彼にとっては一層東山道軍を待ち受ける心を深くさせたのである。あの山村氏の家中衆あたりがやかましく言う徳川慶喜征討の御制札の文面がどうあろうと――慶喜が大政を返上して置いて、大坂城へ引き取ったのは詐謀《さぼう》であると言われるようなことが、そもそも京都方の誤解であろうと、なかろうと――あまつさえ帰国を仰せ付けられた会津を先鋒にして、闕下《けっか》を犯し奉ったのもその慶喜であると言われるのは、事実の曲解であろうと、なかろうと――伏見、鳥羽の戦さに、現に彼より兵端を開いたのは慶喜の反状が明白な証拠だと言われるのに、この街道を通って帰国した会津藩の負傷兵が自ら合戦の模様を語るところによれば、兵端を開いたのは薩摩《さつま》方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。
「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか。」
 寝覚《ねざめ》の蕎麦屋《そばや》であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕《まくら》の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光《しょこう》の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳《は》せ、遠く神武《じんむ》の帝《みかど》の東征にまで持って行って見た。


 まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋《もや》を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。
 いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。
「半蔵さま、お早いなし。」
 と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑《きりばた》、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁《いり》の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆《ばあ》さんたちなどが集まって来た。そこの土竈《どがま》の前には古い大釜《おおがま》を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。
 半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、
「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか。」
「そうなさるがいい。」
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
 そんな話も出た。
 日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒《せんぽう》の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役|桝田屋《ますだや》小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。
  宮さま、宮さま、お馬の前に
  ひらひらするのはなんじゃいな。
   とことんやれ、とんやれな。
  ありや、朝敵、征伐せよとの
  錦《にしき》の御旗《みはた》じゃ、知らなんか。
   とことんやれ、とんやれな。
 島津轡《しまづぐつわ》の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人《さつまはやと》の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗《やり》を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸《ざんがい》以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反《そむ》き去るほどの堅き決意を抱《いだ》かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この勇ましく活気に満ちた人たちが肩にして来た銃は、舶来の新式で、当時の武器としては光ったものである。そのいでたちも実際の経験から来た身軽なものばかり。官軍の印《しるし》として袖《そで》に着けた錦の小帛《こぎれ》。肩から横に掛けた青や赤の粗《あら》い毛布《けっと》。それに筒袖《つつそで》。だんぶくろ。
[#改頁]

     第四章

       一

 四日にわたって東山道軍は馬籠峠《まごめとうげ》の上を通り過ぎて行った。過ぐる文久元年の和宮様《かずのみやさま》御降嫁以来、道幅はすべて二|間《けん》見通しということに改められ、街道に添う家の位置によっては二尺通りも石垣《いしがき》を引き込めたところもあるが、今度のような御通行があって見ると、まだそれでも充分だとは言えなかった。馬籠の宿場ではあと片づけに混雑していた時だ。そこここには人馬のために踏み崩《くず》された石垣を繕うものがある。焼け残りの松明《たいまつ》を始末するものがある。道路にのこしすてられた草鞋《わらじ》、馬の藁沓《わらぐつ》、それから馬糞《まぐそ》の類《たぐい》なぞをかき集めるものがある。
「大きい御通行のあとには、きっと大雨がやって来るぞ。」
 そんなことを言って、そろそろ怪しくなった峠の上の空模様をながめながら、家の表の掃除《そうじ》を急ぐものもある。多人数のために用意した膳《ぜん》、椀《わん》から、夜具|蒲団《ふとん》、枕《まくら》の類までのあと片づけが、どの家でもはじまっていた。
 過去の大通行の場合と同じように、総督一行の通り過ぎたあとにはいろいろなものが残った。全軍の諸勘定を引き受けた高遠藩《たかとおはん》では藩主に代わる用人らが一切のあと始末をするため一晩馬籠に泊まったが、人足買い上げの賃銭が不足して、容易にこの宿場を立てなかった。どうやらそれらの用人らも引き揚げて行った。駅長としての半蔵はその最後の一行を送り出した後、宿内見回りのためにあちこちと出歩いた。彼は蔦屋《つたや》という人足宿の門口にも立って見た。そこには美濃《みの》の大井宿から総督一行のお供をして来た請負人足、その他の諸人足が詰めていて、賃銭分配のいきさつからけんか口論をはじめていた。旅籠屋《はたごや》渡世をしている大野屋勘兵衛方の門口にも立って見た。そこでは軍の第二班にあたる因州藩の御連中の宿をしたところ、酒を出せの、肴《さかな》を出せのと言われ、中にはひどく乱暴を働いた侍衆もあったというような話が残っていた。ある伝馬役《てんまやく》の門口にも立って見た。街道に添う石垣の片すみによせて、大きな盥《たらい》が持ち出してある。馬の行水《ぎょうずい》もはじまっている。馬の片足ずつを持ち上げさせるたびに、「どうよ、どうよ。」と言う馬方の声も起こる。湯水に浸された荒藁《あらわら》の束で洗われるたびに、馬の背中からにじみ出る汗は半蔵の見ている前で白い泡《あわ》のように流れ落ちた。そこにはまた、妻籠《つまご》、三留野《みどの》の両宿の間の街道に、途中で行き倒れになった人足の死体も発見されたというような、そんなうわさも伝わっていた。


 半蔵が中津川まで迎えに行って謁見《えっけん》を許された東山道総督岩倉少将は、ようやく十六、七歳ばかりのうらわかさである。御通行の際は、白地の錦《にしき》の装束《しょうぞく》に烏帽子《えぼし》の姿で、軍旅のいでたちをした面々に前後を護《まも》られながら、父岩倉公の名代を辱《はず》かしめまいとするかのように、勇ましく馬上で通り過ぎて行った。副総督の八千丸《やちまる》も兄の公子に負けてはいないというふうで、赤地の錦の装束に太刀《たち》を帯び、馬にまたがって行ったが、これは初陣《ういじん》というところを通り越して、いじらしいくらいであった。この総督御本陣直属の人数は二百六人、それに用物人足五十四人、家来向き諸荷物人足五十二人、赤陣羽織《あかじんばおり》を着た十六人のものが赤地に菊の御紋のついた錦の御旗と、同じ白旗とをささげて来た。空色に笹龍胆《ささりんどう》の紋じるしをあらわした総督家の旗もそのあとに続いた。そればかりではない、井桁《いげた》の紋じるしを黒くあらわしたは彦根《ひこね》勢、白と黒とを半分ずつ染め分けにしたは青山勢、その他、あの同勢が押し立てて来た馬印から、「八幡大菩薩《はちまんだいぼさつ》」と大書した吹き流しまで――数えて来ると、それらの旗や吹き流しのはたはたと風に鳴る音が馬のいななきにまじって、どれほど軍容をさかんにしたかしれない。東山道軍の一行が活気に満ちていたことは、あの重い大砲を車に載せ、兵士の乗った馬に前を引かせ、二人《ふたり》ずつの押し手にそのあとを押させ、美濃と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》の険しい坂道を引き上げて来たのでもわかる。その勢いで木曾の奥筋へと通り過ぎて行ったのだ。轍《わだち》の跡を馬籠峠の上にも印《しる》して。
 一行には、半蔵が親しい友人の景蔵、香蔵、それから十四、五人の平田門人が軍の嚮導《きょうどう》として随行して来た。あの同門の人たちの輝かしい顔つきこそ、半蔵が村の百姓らにもよく見てもらいたかったものだ。今度総督を迎える前に、彼はそう思った。もし岩倉公子の一行をこの辺鄙《へんぴ》な山の中にも迎えることができたなら、おそらく村の百姓らは山家の酒を瓢箪《ふくべ》にでも入れ、手造りにした物を皿《さら》にでも盛って、一行の労苦をねぎらいたいと思うほどのよろこびにあふれることだろうかと。彼はまた、そう思った。長いこと百姓らが待ちに待ったのも、今日《きょう》という今日ではなかったか。昨日《きのう》、一昨日《おととい》のことを思いめぐらすと、実に言葉にも尽くされないほどの辛労と艱難《かんなん》とを忍び、共に共に武家の奉公を耐《こら》え続けたということも、この日の来るのを待ち受けるためではなかったかと。さて、総督一行が来た。諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来た。地方にあるものは安堵《あんど》して各自に世渡りせよ、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと言われても、だれ一人《ひとり》百姓の中から進んで来て下層に働く仲間のために強い訴えをするものがあるでもない。鰥寡《かんか》、孤独、貧困の者は広く賑恤《しんじゅつ》するぞ、八十歳以上の高齢者へはそれぞれ褒美《ほうび》をつかわすぞと言われても、あの先年の「ええじゃないか」の騒動のおりに笛太鼓の鳴り物入りで老幼男女の差別なくこの街道を踊り回ったほどの熱狂が見られるでもない。宿内のものはもちろん、近在から集まって来てこの街道に群れをなした村民は、結局、祭礼を見物する人たちでしかない。庄屋|風情《ふぜい》ながらに新政府を護《も》り立てようと思う心にかけては同門の人たちにも劣るまいとする半蔵は、こうした村民の無関心につき当たった。

       二

 御通行後の混雑も、一つ片づき、二つ片づきして、馬籠宿としての会所の残務もどうにか片づいたころには、やがて一切のがやがやした声を取り沈めるような、夕方から来る雨になって行った。慶応四年二月の二十八日のことで、ちょうど会所の事務は問屋九郎兵衛方で取り扱っているころにあたる。これは半蔵の家に付属する問屋場《といやば》と、半月交替で開く従来のならわしによるのである。半蔵はその会所の見回りを済まし、そこに残って話し込んでいる隣家の伊之助その他の宿役人にも別れて、日暮れ方にはもう扉《とびら》を閉じ閂《かんぬき》を掛ける本陣の表門の潜《くぐ》り戸《ど》をくぐった。
「岩倉様の御兄弟《ごきょうだい》も、どの辺まで行かっせいたか。」
 例の囲炉裏ばたでは、下男の佐吉がそんなことを言って、御通行後のうわさをしている。毎日通いで来る清助もまだ話し込んでいる。その日のお泊まりは、三留野《みどの》か、野尻《のじり》かなぞと、そんなうわさに余念もない。半蔵が継母のおまんから、妻のお民まで、いずれもくたびれたらしい顔つきである。子供まで集まって来ている。そこへ半蔵が帰って行った。
「宗太さま、お前さまはどこで岩倉様を拝まっせいたなし。」と佐吉が子供にたずねる。
「おれか。おれは石屋の坂で。」と宗太は少年らしい目をかがやかしながら、「山口(隣村)から見物に来たおじさんがおもしろいことを言ったで――まるで錦絵《にしきえ》から抜け出した人のようだったなんて――なんでも、東下《あずまくだ》りの業平朝臣《なりひらあそん》だと思えば、間違いないなんて。」
「業平朝臣はよかった。」と清助も笑い出した。
「そう言えば、清助さんは福島の御隠居さまのことをお聞きか。」とおまんが言う。
「えゝ、聞いた。」
「あの御隠居さまもお気の毒さ。わざわざ中津川までお出ましでも、岩倉様の方でおあいにならなかったそうじゃないか。」
「そういう話です。」
「まあ、御隠居さまはああいうかたでも、木曾福島の御家来衆に不審のかどがあると言うんだろうね。献上したお馬だけは、それでも首尾よく納めていただいたと言うから。」
「何にしても、福島での御通行は見ものです。」
「しかし、清助さん、大垣《おおがき》のことを考えてごらんな。あの大きな藩でも、城を明け渡して、五百七十人からの人数が今度のお供でしょう。福島の御家中でも、そうはがんばれまい。」
「ですから、見ものだと言うんですよ。そこへ行くと、村の衆なぞは実にノンキなものですね。江戸幕府が倒れようと、御一新の世の中になろうと――そんなことは、どっちでもいいような顔をしている。」
「この時節がらにかい。そりゃ、清助さん、みんな心配はしているのさ。」
 とまたおまんが言うと、清助は首を振って、
「なあに、まるで赤の他人です。」
 と無造作に片づけて見せた。
 半蔵はこんな話に耳を傾けながら、囲炉裏ばたにつづいている広い台所で、家のものよりおそく夕飯の膳《ぜん》についた。その日一日のあと片づけに下女らまでが大掃除のあとのような顔つきでいる。間もなく半蔵は家のものの集まっているところから表玄関の板の間を通りぬけて、店座敷の戸に近く行った。全国にわたって影響を及ぼすとも言うべき、この画期的な御通行のことが自然とまとまって彼の胸に浮かんで来る。何ゆえに総督府執事があれほど布告を出して、民意の尊重を約束したかと思うにつけても、彼は自分の世話する百姓らがどんな気でいるかを考えて、深いため息をつかずにはいられなかった。
「もっと皆が喜ぶかと思った。」
 彼の述懐だ。


 その翌日は、朝から大降りで、半蔵の周囲にあるものはいずれも疲労を引き出された。家《うち》じゅうのものがごろごろした。降り込む雨をふせぐために、東南に向いた店座敷の戸も半分ほど閉《し》めてある。半蔵はその居間に毛氈《もうせん》を敷いた。あだかも宿入りの日を楽しむ人のように、いくらかでも彼が街道の勤めから離れることのできるのは、そうした毛氈の上にでも横になって見る時である。宿内総休みだ。だれも訪《たず》ねて来るものもない。彼は長々と延ばした足を折り重ねて、わびしくはあるが暖かい雨の音をきいていたが、いつのまにかこの街道を通り過ぎて行った薩州《さっしゅう》、長州、土州、因州、それから彦根、大垣なぞの東山道軍の同勢の方へ心を誘われた。
 多数な人馬の足音はまだ半蔵の耳の底にある。多い日には千百五十余人、すくない日でも四百三十余人からの武装した人たちから成る一大集団の動きだ。一行が大垣進発の当時、諸軍の役々は御本営に召され、軍議のあとで御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということがあったとか。土佐の片岡《かたおか》健吉という人は、参謀板垣退助の下で、迅衝隊《じんしょうたい》半大隊の司令として、やはり御酒頂戴の一人《ひとり》であるが、大勢《おおきお》いのあまり本営を出るとすぐ堀溝《どぶ》に落ちたと言って、そのことが一行の一つ話になっていた。こんな些細《ささい》なあやまちにも、薩州や長州は土佐を笑おうとした。薩州の三中隊、長州の二中隊、因州の八小隊、彦根の七小隊に比べると、土佐は東山道軍に一番多く兵を出している。十二小隊から成る八百八十六人の同勢である。それがまたまるで見かけ倒しだなぞと、上州縮《じょうしゅうちぢみ》の唄《うた》にまでなぞらえて愚弄《ぐろう》するものがあるかと思えば、一方ではそれでも友軍の態度かとやりかえす。今にめざましい戦功をたてて、そんなことを言う手合いに舌を巻かせて見せると憤激する高知藩《こうちはん》の小監察なぞもある。全軍が大垣を立つ日から、軍を分けて甲州より進むか進まないかの方針にすら、薩長は土佐に反対するというありさまだ。そのくせ薩軍では甲州の形勢を探らせに人をやると、土佐側でも別に人をやって、たとい途中で薩長と別れても甲州行きを決するがいいと言い出したものもあったくらいだ。半蔵の耳の底にあるのは、そういう人たちの足音だ。それは押しのけ、押しのけるものの合体して動いて行った足音だ。互いのかみ合いだ。躍進する生命のすさまじい真剣さだ。中には、押せ、押せでやって行くものもある。彦根や大垣の寝返りを恐れて、後方を振り向くものは撃つぞと言わないばかりのものもある。まったく、足音ほど隠せないものはない。あるものはためらいがちに、あるものは荒々しく、あるものはまた、多数の力に引きずられるようにしてこの街道を踏んで行った。いかに王師を歓迎する半蔵でも、その競い合う足音の中には、心にかかることを聞きつけないでもない。
「彼を殺せ。」
 その声は、昨日の将軍も実に今日の逆賊であるとする人たちの中から聞こえる。半蔵が多数の足音の中に聞きつけたのもその声だ。いや、これが決して私闘であってはならない、蒼生万民《そうせいばんみん》のために戦うことであらねばならない。その考えから、彼はいろいろ気にかかることを自分の小さな胸一つに納めて置こうとした。どうして、新政府の趣意はまだ地方の村民の間によく徹しなかったし、性急な破壊をよろこばないものは彼の周囲にも多かったからで。
 相変わらず休みなしで、騒ぎ回っているのは子供ばかり。桃の節句も近いころのことで、姉娘のお粂《くめ》は隣家の伏見屋から祝ってもらった新しい雛《ひな》をあちこちとうれしそうに持ち回った。それを半蔵のところにまで持って来て見せた。


 どうやら雨もあがり、あと片づけも済んだ三日目になって見ると、馬籠の宿場では大水の引いて行ったあとのようになった。陣笠《じんがさ》をかぶった因州の家中の付き添いで、野尻宿の方から来た一つの首桶《くびおけ》がそこへ着いた。木曾路行軍の途中、東山道軍の軍規を犯した同藩の侍が野尻宿で打ち首になり、さらに馬籠の宿はずれで三日間|梟首《さらしくび》の刑に処せらるるというものの首級なのだ。半蔵は急いで本陣を出、この扱いを相談するために他の宿役人とも会所で一緒になった。
 因州の家中はなかなか枯れた人で、全軍通過のあとにこうしたものを残して行くのは本意でないと半蔵らに語り、自分らの藩からこんなけが人を出したのはかえすがえすも遺憾であると語った。木曾少女《きそおとめ》は色白で、そこいらの谷川に洗濯《せんたく》するような鄙《ひな》びた姿のものまでが旅人の目につくところから、この侍もつい誘惑に勝てなかった。女ゆえに陣中の厳禁を破った。辱《はず》かしめられた相手は、山の中の番太《ばんた》のむすめである。そんな話も出た。
 因州の家中はまた、半蔵の方を見て言った。
「時に、本陣の御主人、拙者は途次《みちみち》仕置場《しおきば》のことを考えて来たが、この辺では竹は手に入るまいか。」
「竹でございますか。それなら、わたしどもの裏にいくらもございます。」
「これで奥筋の方へまいりますと、竹もそだちませんが、同じ木曾でも当宿は西のはずれでございますから。」と半蔵のそばにいて言葉を添えるものもある。
「それは何よりだ。そういうことであったら、獄門は青竹で済ませたい。そのそばに御制札を立てたい。早速《さっそく》、村の大工をここへ呼んでもらいたい。」
 一切の準備は簡単に運んだ。宿役人仲間の桝田屋《ますだや》小左衛門は急いで大工をさがしに出、伏見屋伊之助は青竹を見立てるために本陣の裏の竹藪《たけやぶ》へと走った。狭い宿内のことで、このことを伝え聞いたものは目を円《まる》くして飛んで来る。問屋場の前あたりは大変な人だかりだ。
 その中に宗太もいた。本陣の小忰《こせがれ》というところから、宗太は特に問屋の九郎兵衛に許されて、さも重そうにその首桶《くびおけ》をさげて見た。
「どうして、宗太さまの力に持ちあがらすか。首はからだの半分の重さがあるげなで。」
 そんなことを言って混ぜかえすものがある。それに半蔵は気がついて、
「さあ、よした、よした――これはお前たちなぞのおもちゃにするものじゃない。」
 としかった。
 獄門の場処は、町はずれの石屋の坂の下と定められた。そこは木曾十一宿の西の入り口とも言うべきところに当たる。本陣の竹藪からは一本の青竹が切り出され、その鋭くとがった先に侍の首級が懸《か》けられた。そのそばには規律の正しさ、厳《おごそ》かさを示すために、東山道軍として制札も立てられた。そこには見物するものが集まって来て、うわさはとりどりだ。これは尾州藩から掛け合いになったために、因州軍でも捨てて置かれなかったのだと言うものがある。当月二十六日の夜に、宿内の大野屋勘兵衛方に止宿して、酒宴の上であばれて行ったのも、おおかたこの侍であろうと言って見るものもある。やがて因州の家中も引き揚げて行き、街道の空には夜鷹《よたか》も飛び出すころになると、石屋の坂のあたりは人通りも絶えた。
「どうも、番太のむすめに戯れたぐらいで、打ち首とは、おれもたまげたよ。」
「山の中へでも無理に女を連れ込んだものかなあ。」
「このことは尾州藩からやかましく言い出したげな。領地内に起こった出来事だで。それに、名古屋の御重職も一人、総督のお供をしているで。なにしろ、七藩からの寄り合いだもの。このくらいのことをやらなけりゃ、軍規が保てんと見えるわい。」
 だれが問い、だれが答えるともなく、半蔵の周囲にはそんな声も起こる。
 こうした光景を早く村民から隠したいと考えるのも半蔵である。彼は周囲を見回した。村には万福寺もある。そこの境内には無縁の者を葬るべき墓地もある。早くもとの首桶に納めたい、寺の住持|松雲和尚《しょううんおしょう》に立ち会ってもらってあの侍の首級を埋《うず》めてしまいたい、その考えから彼は獄門三日目の晩の来るのを待ちかねた。彼はまた、こうした極刑が新政府の意気込みをあらわすということに役立つよりも、むしろ目に見えない恐怖をまき散らすのを恐れた。庄屋としての彼は街道に伝わって来る種々《さまざま》な流言からも村民を護《まも》らねばならなかった。

       三

 三月にはいって、めずらしい春の大雪は街道を埋《うず》めた。それがすっかり溶けて行ったころ、かねて上京中であった同門の人、伊那《いな》南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》が美濃路《みのじ》を経て西の旅から帰って来た。
 縫助は、先師|篤胤《あつたね》の稿本全部を江戸から伊那の谷の安全地帯に移し、京都にある平田家へその報告までも済まして来て、やっと一安心という帰りの旅の途中にある。いよいよ江戸の総攻撃も開始されるであろうと聞いては、兵火の災に罹《かか》らないうちに早くあの稿本類を救い出して置いてよかったという顔つきの人だ。半蔵はこの人を馬籠本陣に迎えて、日ごろ忘れない師|鉄胤《かねたね》や先輩|暮田正香《くれたまさか》からのうれしい言伝《ことづて》を聞くことができた。
「半蔵さん、わたしは中津川の本陣へも寄って来たところです。ほら、君もおなじみの京都の伊勢久《いせきゅう》――あの亭主《ていしゅ》から、景蔵さんのところへ染め物を届けてくれと言われて、厄介《やっかい》なものを引き受けて来ましたが、あいにくと、また景蔵さんは留守の時さ。あの人も今度は総督のお供だそうですね。わたしは中津川まで帰って来てそのことを知りましたよ。」
 縫助はその調子だ。
 美濃の大垣から、大井、中津川、落合《おちあい》と、順に東山道総督一行のあとを追って来たこの縫助は、幕府の探索方なぞに目をつけられる心配のなかっただけでも、王政第一春の旅の感じを深くしたと言う人である。なんと言っても平田篤胤没後の門人らは、同じ先師の愛につながれ、同じ復古の志に燃えていた。半蔵はまた日ごろ気の置けない宿役人仲間にすら言えないようなことまで、この人の前には言えた。彼が東山道軍を迎える前には、西よりする諸藩の武士のみが総督を護《まも》って来るものとばかり思ったが、実際にこの宿場に総督一行を迎えて見て、はじめて彼は東山道軍なるものの性質を知った。その中堅をもって任ずる土佐兵にしてからが、多分に有志の者で、郷士《ごうし》、徒士、従軍する庄屋、それに浪人なぞの混合して組み立てた軍隊であった。そんなことまで彼は縫助の前に持ち出したのであった。
「いや、君の言うとおりでしょう。王事に尽くそうとするものは、かえって下のものの方に多いかもしれませんね。」
 と縫助も言って見せた。


 旧暦三月上旬のことで、山家でも炬燵《こたつ》なしに暮らせる季節を迎えている。相手は旅の土産話《みやげばなし》をさげて来た縫助である。おまけに、腰は低く、話は直《ちょく》な人と来ている。半蔵は心にかかる京都の様子を知りたくて、暮田正香もどんな日を送っているかと自分の方から縫助にたずねた。
 風の便《たよ》りに聞くとも違って、実地を踏んで来た縫助の話には正香の住む京都|衣《ころも》の棚《たな》のあたりや、染物屋伊勢久の暖簾《のれん》のかかった町のあたりを彷彿《ほうふつ》させるものがあった。縫助は、「一つこの復興の京都を見て行ってくれ」と正香に言われたことを半蔵に語り、この国の歴史あって以来の未曾有《みぞう》の珍事とも言うべき外国公使の参内《さんだい》を正香と共に丸太町通りの町角《まちかど》で目撃したことを語った。三国公使のうち、彼は相国寺《しょうこくじ》から参内する仏国公使ロセスを見ることはかなわなかったが、南禅寺を出たオランダ代理公使ブロックと、その書記官の両人が黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いのかかった駕籠《かご》に乗って、群集の中を通り過ぎて行くのを見ることができたという。まだ西洋人というものを見たことのない彼が、初めて自己の狭い見聞を破られた時は、夢のような気がしたとか。
 縫助はなお、言葉を継いで、彼と正香とが周囲に群がる人たちと共に、智恩院《ちおんいん》を出る英国公使パアクスを待ったことを語った。これは参内の途中、二人《ふたり》の攘夷家《じょういか》のあらわれた出来事のために沙汰止《さたや》みとなった。彼が暇乞《いとまご》いのために師鉄胤の住む錦小路《にしきこうじ》に立ち寄り、正香らにも別れを告げて、京都を出立して来るころは、町々は再度の英国公使参内のうわさで持ちきっていた。沿道の警戒は一層厳重をきわめ、薩州、長州、芸州、紀州の諸藩からは三十人ずつほどの人数を出してその事に当たり、当日の往来筋は諸人通行留めで、左右横道の木戸も締め切るという評判であった。もはや、周囲の事情はこの国の孤立を許さない。上御一人《かみごいちにん》ですら進んで外国交際の道を開き、万事条約をもって世界の人を相手としなければならない、今後みだりに外国人を殺害したり、あるいは不心得の所業に及んだりするものは、朝命に悖《もと》り、国難を醸《かも》すのみならず、この国の威信にもかかわる不届き至極《しごく》の儀と言われるようになった。その罪を犯すものは士分の者たりとも至当の刑に処せられるほどの世の中に変わって来た。京都を中心にして、国是を攘夷に置いた当時を追想すると、実に隔世の感があったともいう。
「しかし、半蔵さん、今度わたしは京都の方へ行って見て、猫《ねこ》も杓子《しゃくし》も万国公法を振り回すにはたまげました。外国交際の話が出ると、すぐ万国公法だ。あれにはわたしも当てられて来ましたよ。あれだけは味噌《みそ》ですね。」
 これは、縫助が半蔵のところに残して行った言葉だ。
 伊那の谷をさして、広瀬村泊まりで立って行った客を送り出した後、半蔵はひとり言って見た。
「百姓にだって、ああいう頼もしい人もある。」

       四

 一行十三人、そのいずれもが美濃の平田門人であるが、信州|下諏訪《しもすわ》まで東山道総督を案内して、そこから引き返して来たのは、三日ほど後のことである。一行は馬籠宿昼食の予定で、いずれも半蔵の家へ来て草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。
 本陣の玄関先にある式台のところは、これらの割羽織に帯刀というものものしい服装《いでたち》の人たちで混雑した。陣笠《じんがさ》を脱ぎ、立附《たっつけ》の紐をほどいて、道中のほこりをはたくものがある。足を洗って奥へ通るものがある。
「さあ、どうぞ。」
 まッ先に玄関先へ飛んで出て、客を案内するのは清助だ。奥の間と中の間をへだてる襖《ふすま》を取りはずし、二|部屋《へや》通しの広々としたところに客の席をつくるなぞ、清助もぬかりはない。無事に嚮導《きょうどう》の役目を果たして来た十三人の美濃衆は、同じ門人仲間の半蔵の家に集まることをよろこびながら、しばらく休息の時を送ろうとしている。その中に、中津川の景蔵もいる。そこへ半蔵は挨拶《あいさつ》に出て、自宅にこれらの人たちを迎えることをめずらしく思ったが、ただ香蔵の顔が見えない。
「香蔵さんは、諏訪から伊那の方へ回りました。二、三日帰りがおくれましょう。」
 そう言って見せる友人景蔵までが、その日はなんとなく改まった顔つきである。一行の中には、美濃の苗木《なえぎ》へ帰ろうとする人なぞもある。
「今度は景蔵さんも大骨折りさ。われわれは諏訪まで総督を御案内しましたが、あそこで軍議が二派に別れて、薩長はどこまでも中山道《なかせんどう》を押して行こうとする、土佐は甲州方面の鎮撫《ちんぶ》を主張する――いや、はや、大《おお》やかまし。」
「結局、双方へ分かれて行く軍を見送って置いて、あそこからわれわれは引き返して来ましたよ。」
 こんな声がそこにもここにも起こる。
 清助は座敷に出て半蔵を助けるばかりでなく、勝手口の方へも回って行って、昼じたくにいそがしいお民を助けた。囲炉裏ばたに続いた広い台所では、十三人前からの膳《ぜん》の用意がはじまっていた。にわかな客とあって、有り合わせのものでしか、もてなせない。切《き》り烏賊《いか》、椎茸《しいたけ》、牛蒡《ごぼう》、凍り豆腐ぐらいを|煮〆《にしめ》にしてお平《ひら》に盛るぐらいのもの。別に山独活《やまうど》のぬた。それに山家らしい干瓢《かんぴょう》の味噌汁《みそしる》。冬季から貯《たくわ》えた畠《はたけ》の物もすでに尽き、そうかと言って新しい野菜はまだ膳に上らない時だ。
「きょうのお客さまは、みんな平田先生の御門人ばかり。」
 とお粂《くめ》までが肩をすぼめて、それを母親のところへささやきに来る。この娘ももはや、皿小鉢《さらこばち》をふいたり、割箸《わりばし》をそろえたりして、家事の手伝いするほどに成人した。そこにはおまんも裏の隠居所の方から手伝いに来ていた。おまんは、場合が場合だから、たとい客の頼みがないまでも、わざとしるしばかりに一献《いっこん》の粗酒ぐらいを出すがよかろうと言い出した。それには古式にしてもてなしたら、本陣らしくもあり、半蔵もよろこぶであろうともつけたした。彼女は家にある土器《かわらけ》なぞを三宝《さんぽう》に載せ、孫娘のお粂には瓶子《へいじ》を運ばせて、挨拶《あいさつ》かたがた奥座敷の方へ行った。
「皆さんがお骨折りで、御苦労さまでした。」
 と言いながら、おまんは美濃衆の前へ挨拶に行き、中津川の有志者の一人《ひとり》として知られた小野三郎兵衛の前へも行った。その隣に並んで、景蔵が席の末に着いている。その人の前にも彼女は土器《かわらけ》を白木の三宝のまま置いて、それから冷酒を勧めた。
「あなたも一つお受けください。」
「お母《っか》さん、これは恐れ入りましたねえ。」
 景蔵はこころよくその冷酒を飲みほした。そこへ半蔵も進み寄って、
「でも、景蔵さん、福島での御通行があんなにすらすら行くとは思いませんでしたよ。」
「とにかく、けが人も出さずにね。」
「あの相良惣三《さがらそうぞう》の事件で、われわれを呼びつけた時なぞは、えらい権幕《けんまく》でしたなあ。」
「これも大勢《たいせい》でしょう。福島の本陣へは山村家の人が来ましてね、恭順を誓うという意味の請書《うけしょ》を差し出しました。」
「吾家《うち》の阿爺《おやじ》なぞも非常に心配していましたよ。この話を聞いたら、さぞあの阿爺も安心しましょう。旧《ふる》い、旧い木曾福島の旦那《だんな》さまですからね。」
「そう言えば、景蔵さん、あの相良惣三のことを半蔵さんに話してあげたら。」と隣席にいる三郎兵衛が言葉を添える。
「壮士ひとたび去ってまた帰らずサ。これもよんどころない。三月の二日に、相良惣三の総人数が下諏訪の御本陣に呼び出されて、その翌日には八人の重立ったものが下諏訪の入り口で、断頭の上、梟首《さらしくび》ということになりました。そのほかには、片鬚《かたひげ》、片眉《かたまゆ》を剃《そ》り落とされた上で、放逐になったものが十三人ありました。われわれは君、一同連名で、相良惣三のために命|乞《ご》いをして見ましたがね、官軍の先駆なぞととなえて勝手に進退するものを捨て置くわけには行かないと言うんですからね――とうとう、われわれの嘆願もいれられませんでしたよ。」
 やがて客膳の並んだ光景がその奥座敷にひらけた。景蔵は隣席の三郎兵衛と共にすわり直して、馬籠本陣での昼じたくも一同が記念の一つと言いたげな顔つきである。
 時は、あだかも江戸の総攻撃が月の十五日と定められたというころに当たる。東海道回りの大総督の宮もすでに駿府《すんぷ》に到着しているはずだと言わるる。あの闘志に満ちた土佐兵が江戸進撃に参加する日を急いで、甲州方面に入り込んだといううわさのある幕府方の新徴組を相手に、東山道軍最初の一戦を交えているだろうかとは、これまた諏訪帰りの美濃衆一同から話題に上っているころだ。
 その日の景蔵はあまり多くを語らなかった。半蔵の方でも、友だちと二人きりの心持ちを語り合えるようなおりが見いだせない。ただ景蔵は言葉のはじに、総督|嚮導《きょうどう》の志も果たし、いったん帰国した思いも届いたものだから、この上は今一度京都へ向かいたいとの意味のことをもらした。
「今の時は、一人でも多く王事に尽くすものを求めている。自分は今一度京都に出て、新政府の創業にあずかっている師鉄胤を助けたい。」
 このことを景蔵は自己の動作や表情で語って見せていた。皆と一緒に膳にむかって、箸《はし》を取りあげる手つきにも。お民が心づくしの手料理を味わう口つきにも。
 美濃衆の多くは帰りを急いでいた。昼食を終わると間もなく立ちかけるものもある。あわただしい人の動きの中で、半蔵は友人のそばへ寄って言った。
「景蔵さん、まあ中津川まで帰って行って見たまえ。よいものが君を待っていますから。あれは伊那の縫助さんの届けものです。あの人はわたしの家へも寄ってくれて、いろいろな京都の土産話《みやげばなし》を置いて行きました。」


 二日過ぎに、香蔵は伊那回りで馬籠まで引き返して来た。諏訪帰り十三人の美濃衆と同じように、陣笠《じんがさ》割羽織に立附《たっつけ》を着用し、帯刀までして、まだ総督を案内したままの服装《いでたち》も解かずにいる親しい友人を家に迎え入れることは、なんとはなしに半蔵をほほえませた。
「ようやく。ようやく。」
 その香蔵の声を聞いただけで、半蔵には美濃の大垣から信州下諏訪までの間の奔走を続けて来た友人の骨折りを察するに充分だった。
 何よりもまず半蔵は友人を店座敷の方へ通して、ものものしい立附《たっつけ》の紐《ひも》を解かせ、腰のものをとらせた。彼はお民と相談して、香蔵を家に引きとめることにした。くたびれて来た人のために、風呂《ふろ》の用意なぞもさせることにした。場合が場合でも、香蔵には気が置けない。そこで、お民までが夫の顔をながめながら、
「香蔵さんもあの服装《なり》じゃ窮屈でしょう。お風呂からお上がりになったら、あなたの着物でも出してあげましょうか。」
 こんな女らしい心づかいも半蔵をよろこばせた。
 香蔵は黒く日に焼けて来て、顔の色までめっきり丈夫そうに見える人だ。夕方から、一風呂あびたあとのさっぱりした心持ちで、お民にすすめられた着物の袖《そで》に手を通し、拝借という顔つきで半蔵の部屋に来てくつろいだ。
「相良惣三もえらいことになりましたよ。」
 と香蔵の方から言い出す。半蔵はそれを受けて、
「その話は景蔵さんからも聞きました。」
「われわれ一同で命乞いはして見たが、だめでしたね。あの伏見鳥羽《ふしみとば》の戦争が起こる前にさ、相良惣三の仲間が江戸の方であばれて来たことは、半蔵さんもそうくわしくは知りますまい。今度わたしは総督の執事なぞと一緒になって見て、はじめていろいろなことがわかりました。あの仲間には三つの内規があったと言います。幕府を佐《たす》けるもの。浪士を妨害するもの。唐物《とうぶつ》(洋品)の商法《あきない》をするもの。この三つの者は勤王攘夷の敵と認めて誅戮《ちゅうりく》を加える。ただし、私欲でもって人民の財産を強奪することは許さない。そういう内規があって、浪士数名が江戸|金吹町《かなぶきちょう》の唐物店へ押しかけたと考えて見たまえ。前後の町木戸《まちきど》を閉《し》めて置いて、その唐物店で六連発の短銃を奪ったそうだ。それから君、幕府の用途方《ようどかた》で播磨屋《はりまや》という家へ押しかけた。そこの番頭を呼びつけて、新式な短銃を突きつけながら、貴様たちの頭には幕府しかあるまい、勤王の何物たるかを知るまい、もし貴様たちが前非を悔いるなら勤王の陣営へ軍資を献上しろ、そういうことを言ったそうだ。その時、子僧《こぞう》が二人《ふたり》で穴蔵の方へ案内して、浪士に渡した金が一万両の余ということさ。そういうやり方だ。」
「えらい話ですねえ。」
「なんでも、江戸|三田《みた》の薩摩屋敷があの仲間の根拠地さ。あの屋敷じゃ、みんな追い追いと国の方へ引き揚げて行って、屋敷のものは二十人ぐらいしか残っていなかったそうです。浪士隊は三方に手を分けて、例の三つの内規を江戸付近にまで実行した上、その方に幕府方の目を奪って置いて、何か事をあげる計画があったとか。それはですね、江戸城に火を放つ、その隙《すき》に乗じて和宮《かずのみや》さまを救い出す、それが真意であったとか聞きました。あの仲間のことだ、それくらいのことはやりかねないね。そういうさかんな連中がわれわれの地方へ回って来たわけさ。川育ちは川で果てるとも言うじゃありませんか。今度はあの仲間が自分に復讐《ふくしゅう》を受けるようなことになりましたね。そりゃ不純なものもまじっていましたろう。しかし、ただ地方を攪乱《こうらん》するために、乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いたと見られては、あの仲間も浮かばれますまい。」
 こんな話が始まっているところへ、お民は夫の友人をねぎらい顔に、一本|銚子《ちょうし》なぞをつけてそこへ持ち運んで来た。
「香蔵さん、なんにもありませんよ。」
「まあ、君、膝《ひざ》でもくずすさ。」
 夫婦してのもてなしに、香蔵も無礼講とやる。酒のさかなには山家の蕗《ふき》、それに到来物の蛤《はまぐり》の時雨煮《しぐれに》ぐらいであるが、そんなものでも簡素で清潔なのしめ膳《ぜん》の上を楽しくした。
「お民、香蔵さんは中津川へお帰りになるばかりじゃないよ。これからまた京都の方へお出かけになる人だよ。」
「それはおたいていじゃありません。」
 この夫婦のかわす言葉を香蔵は引き取って言った。
「ええ、たぶん景蔵さんと一緒に。わたしもまた京都の方へ行って、しばらく老先生(鉄胤のこと)のそばで暮らして来ます。」


「お民、香蔵さんともしばらくお別れだ。お酒をもう一本頼む。お母《っか》さんには内証だよ。」
 半蔵は自分で自分の耳たぶを無意識に引ッぱりながら、それを言った。その年になっても、まだ彼は継母の手前を憚《はばか》っていた。
「今夜は御幣餅《ごへいもち》でも焼いてあげたいなんて、台所で今したくしています。」とお民は言った。「まあ、香蔵さんもゆっくり召し上がってください。」
「そいつはありがたい。御幣餅とは、よいものをごちそうしてくださる。木曾の胡桃《くるみ》の香《かおり》は特別ですからね。」と香蔵もよろこぶ。
 半蔵は友人の方を見て、同門の人たちのうわさに移った。南条村の縫助が自分のところに置いて行った京都の話なぞをそこへ持ち出した。
「香蔵さん、君は京都のことはくわしい。今度はいろいろな便宜もありましょう。今度君が京都で暮らして見る一か月は、以前の三か月にも半年にも当たりましょう。何にしても、君や景蔵さんはうらやましい。」
「さあ、もう一度京都へ行って見たら、どんなふうに変わっていましょうかさ。」
「なんでも縫助さんの話じゃ、京都は今、復興の最中だというじゃありませんか。」
「伊那でもそれが大評判。一方には君、東征軍があの勢いでしょう。世の中の舞台も大きく回りかけて来ましたね。しかし、半蔵さん、われわれはお互いに平田先生の門人だ。ここは考うべき時ですね。」
「わたしもそれは思う。」
「見たまえ、舞台の役者というものは、芝居《しばい》全体のことよりも、それぞれの持ち役に一生懸命になり過ぎるようなところがあるね。熱心な役者ほど、そういうところがあるね。今度わたしは総督のお供をして見て、そのことを感じました。狂言作者が、君、諸侯の割拠を破るという筋を書いても、そうは役者の方で深く読んでくれない。」
「多勢の仕事となると、そういうものかねえ。」
「まあ、半蔵さん、わたしは京都の方へ出かけて行って、あの復興の都の中に身を置いて見ますよ。いろいろまた君のところへも書いてよこしますよ。関東の形勢がどんなに切迫したと言って見たところで、肝心の慶喜公がお辞儀をしてかかっているんですからね。佐幕派の運命も見えてますね。それよりも、わたしは兵庫《ひょうご》や大坂の開港開市ということの方が気にかかる。外国公使の参内も無事に済んだからって、それでよいわと言えるようなものじゃありますまい。こんな草創の際に、したくらしいしたくのできようもなしさ。先方は兵力を示しても条約の履行を迫って来るのに、それすらこの国のものは忍ばねばならない。辛抱、辛抱――われわれは子孫のためにも考えて、この際は大いに忍ばねばならない。ほんとうに国を開くも、開かないも、実にこれからです……」
「お客さま――へえ、御幣餅《ごへいもち》。」
 という子供の声がして、お粂《くめ》や宗太が母親と一緒に、皿《さら》に盛った山家の料理を囲炉裏ばたの方からそこへ運んで来た。
「さあ、どうぞ、冷《さ》めないうちに召し上がってください。」とお民は言って、やがて子供の方をかえり見ながら、「さっきから囲炉裏ばたじゃ大騒ぎなんですよ。吾家《うち》のお父《とっ》さんの着物をお客さまが着てるなんて、そんなことを言って――ほんとに、子供の時はおかしなものですね。」
 この「お父《とっ》さんの着物」が客をも主人をも笑わせた。その時、香蔵は手をもみながら、
「どれ、一つ頂戴《ちょうだい》して見ますか。」
 と言って、焼きたての御幣餅の一つをうまそうに頬《ほお》ばった。その名の御幣餅にふさわしく、こころもち平たく銭形《ぜにがた》に造って串《くし》ざしにしたのを、一ずつ横にくわえて串を抜くのも、土地のものの食い方である。こんがりとよい色に焼けた焼き餅に、胡桃《くるみ》の香に、客も主人もしばらく一切のことを忘れて食った。


 翌朝早く、香蔵は半蔵夫婦に礼を述べて、そこそこに帰りじたくをした。この友人の心は半分京都の方へ行っているようでもあった。別れぎわに、
「でも、半蔵さん。今は生きがいのある時ですね。」
 その言葉を残した。
 友人を送り出した後、半蔵は本陣の店座敷から奥の間へ通う廊下のところに出た。香蔵の帰って行く美濃の方の空はその位置から西に望まれる。彼は、同門の人たちの多くが師鉄胤の周囲に集まりつつあることを思い、一切のものが徳川旧幕府に対する新政府の大争いへと吸い取られて行く時代の大きな動きを思い、三道よりする東征軍の中には全く封建時代を葬ろうとするような激しい意気込みで従軍する同門の有志も多かるべきことを思いやって、ひとりでその静かな廊下をあちこち、あちこちと歩いた。
 古代復帰の夢はまた彼の胸に帰って来た。遠く山県大弐《やまがただいに》、竹内式部《たけのうちしきぶ》らの勤王論を先駆にして、真木和泉《まきいずみ》以来の実行に移った討幕の一大運動はもはやここまで発展して来た。一地方に起った下諏訪の悲劇なぞは、この大きな波の中にさらわれて行くような時だ。よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものをも否定して、古代日本の民族性に見るような直《なお》さ、健やかさに今一度立ち帰りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢は、当然この運動に結びつくべき運命のものであった、と彼には思われるのである。
 彼は周囲を見回した。過ぐる年の秋、幕府の外交奉行で大目付を兼ねた山口|駿河《するが》(泉処)をこの馬籠本陣に泊めた時のことが、ふと彼の胸に浮かんだ。あの大目付が、京都から江戸への帰りに微行でやって来て、ひとりで彼の家の上段の間に隠れながら、あだかも徳川幕府もこれまでだと言ったように、暗い涙をのんで行った姿は、まだ彼には忘れられずにある。彼はあの幕臣が「条約の大争いも一段落を告げる時が来た」と言ったことを思い出した。「この国を開く日の来るのも、もうそんなに遠いことでもあるまい」と言ったことをも思い出した。とうとう、その日がやって来たのだ。しかも、御親政の初めにあたり、この多難な時に際会して。
 明日《あす》――最も古くて、しかも最も新しい太陽は、その明日にどんな新しい古《いにしえ》を用意して、この国のものを待っていてくれるだろうとは、到底彼などが想像も及ばないことであった。そういう彼とても、平田門人の末に列《つら》なり、物学びするともがらの一人《ひとり》として、もっともっと学びたいと思う心はありながら、日ごろ思うことの万が一を果たしうるような静かな心の持てる時代でもなかった。信を第一とす、との心から、ただただ彼は人間を頼みにして、同門のものと手を引き合い、どうかして新政府を護《も》り立て、後進のためにここまで道をあけてくれた本居宣長《もとおりのりなが》らの足跡をその明日にもたどりたいと願った。

       五

 三月下旬には、東山道軍が木曾街道の終点ともいうべき板橋に達したとの報知《しらせ》の伝わるばかりでなく、江戸総攻撃の中止せられたことまで馬籠の宿場に伝わって来るようになった。すでに大政を奉還し、将軍職を辞し、広大な領地までそこへ投げ出してかかった徳川慶喜が江戸城に未練のあろうはずもない。いかに徳川家を疑い憎む反対者でも、当時局外中立の位置にある外国公使らまで認めないもののないこの江戸の主人の恭順に対して、それを攻めるという手はなかった。慶喜は捨てうるかぎりのものを捨てることによって、江戸の市民を救った。
 このことは、いろいろに取りざたせられた。もとより、その直接交渉の任に当たり、あるいは主なき江戸城内にとどまって諸官の進退と諸般の処置とを総裁し順々として条理を錯乱せしめなかったは、大久保一翁、勝安房《かつあわ》、山岡《やまおか》鉄太郎の諸氏である。しかし、幕府内でも最も強硬な主戦派の頭目として聞こえた小栗上野《おぐりこうずけ》の職を褫《は》いで謹慎を命じたほどの堅い決意が慶喜になかったとしたら。当時、「彼を殺せ」とは官軍の中に起こる声であったばかりでなく、江戸城内の味方のものからも起こった。慶喜の心事を知らない兵士らの多くは、その恭順をもってもっぱら京都に降《くだ》るの意であるとなし、怒気|髪《はつ》を衝《つ》き、双眼には血涙をそそぎ、すすり泣いて、「慶喜|斬《き》るべし、社稷《しゃしょく》立つべし」とまでいきまいた。もしその殺気に満ちた空気の中で、幾多の誤解と反対と悲憤との声を押し切ってまでも断乎《だんこ》として公武一和の素志を示すことが慶喜になかったとしたら、おそらく、慶喜がもっと内外の事情に暗い貴公子で、開港条約の履行を外国公使らから迫られた経験もなく、多額の金を注《つ》ぎ込んだ債権者としての位置からも日本の内乱を好まない諸外国の存在を意にも留めずに、後患がどうであろうが将来がなんとなろうがさらに頓着《とんちゃく》するところもなく、ひたすら徳川家として幕府を失うのが残念であるとの一点に心を奪われるような人であったなら、たとい勝安房や山岡鉄太郎や大久保一翁などの奔走尽力があったとしても、この解決は望めなかった。かつては参覲交代《さんきんこうたい》制度のような幕府にとって重要な政策を惜しげもなく投げ出した当時からの、あの弱いようで強い、時代の要求に敏感で、そして執着を持たない慶喜の性格を知るものにとっては――また、文久年度と慶応年度との二回にまでわたって幾多の改革に着手したその性格のあらわれを知るものにとっては、これは不思議でもなかったのである。不幸にも、徳川の家の子郎党の中にすら、この主人をよろこばないものがある。その不平は、多年慶喜を排斥しようとする旧《ふる》い幕臣の中からも起こり、かくのごとき未曾有《みぞう》の大変革はけだし天子を尊ぶの誠意から出たのではなくて全く薩摩《さつま》と長州との決議から出た事であろうと推測する輩《やから》の中からも起こり、逆賊の名を負わせられながらなんらの抵抗をも示すことなしに過去三百年の都会の誇りをむざむざ西の野蛮人らにふみにじられるとはいかにも残念千万であるとする諸陪臣の中からも起こった。
「神祖(東照宮)に対しても何の面目がある。」――その声はどんな形をとって、どこに飛び出すかもしれなかった。江戸の空は薄暗く、重い空気は八十三里の余もへだたった馬籠あたりの街道筋にまでおおいかぶさって来た。
 諸大名の家中衆で江戸表にあったものの中には、早くも屋敷を引き揚げはじめたとの報もある。江戸城明け渡しの大詰めも近づきつつあったのだ。開城準備の交渉も進められているという時だ。それらの家中衆の前には、およそ四つの道があったと言わるる。脱走の道、帰農商の道、移住の道、それから王臣となるの道がそれだ。周囲の事情は今までどおりのような江戸の屋敷住居《やしきずまい》を許さなくなったのだ。
 将軍家直属の家の子、郎党となると、さらにはなはだしい。それらの旗本方は、いずれも家政を改革し、費用を省略して、生活の道を立てる必要に迫られて来た。連年海陸軍の兵備を充実するために莫大《ばくだい》な入り用をかけて来た旧幕府では、彼らが知行《ちぎょう》の半高を前年中借り上げるほどの苦境にあったからで。彼ら旗本方はほとんどその俸禄《ほうろく》にも離れてしまった。慶喜が彼らに示した書面の中には、実に今日に至ったというのも皆自分一身の過《あやま》ちより起こったことである。自分は深く恥じ深く悲しむ、ついては生計のために暇《いとま》を乞いたい者は自分においてそれをするには忍びないけれども、その志すところに任せるであろう、との意味のことが諭《さと》してあったともいう。
 もはや、江戸屋敷方の避難者は在国をさして、追い追いと東海道方面にも入り込むとのうわさがある。この薄暗い街道の空気の中で、どんなにか昔気質《むかしかたぎ》の父も心を傷《いた》めているだろう。そのことが半蔵をハラハラさせた。幾たびか彼に家出を思いとまらせ、庄屋のつとめを耐《こら》えさせ、友人の景蔵や香蔵のあとを追わせないで、百姓相手に地方《じかた》を守る心に立ち帰らせるのも、一つはこの年老いた父である。
 昼過ぎから、ちょっと裏の隠居所をのぞきに行こうとする前に、半蔵は本陣の母屋《もや》から表門の外に走り出て見た。
「村のものは。」
 だれに言うともなく、彼はそれを言って見た。旧幕府時代の高札でこれまでの分は一切取り除《の》けられ、新しい時代の来たことを辺鄙《へんぴ》な地方にまで告げるような太政官《だじょうかん》の定三札《じょうさんさつ》は、宿場の中央に改めて掲示されてある。彼は自分の家の門前の位置から、その高札場のあるあたりを坂になった町の上の方に望むこともでき、住み慣れた街道の両側に並ぶ石を載せた板屋根を下の方に見おろすこともできる。
 こんな山里にまで及んで来る時局の影響も争われなかった。毎年桃から山桜へと急ぐよい季節を迎えるころには、にわかに人の往来も多く、木曾福島からの役人衆もきまりで街道を上って来るが、その年の春にかぎってまだ宿場|継立《つぎた》てのことなぞの世話を焼きに来る役人衆の影もない。東山道軍通過以来の山村氏の代官所は測りがたい沈黙を守って、木曾谷に声を潜めた原生林そのままの沈まり方である。わずかに尾張藩《おわりはん》の山奉行が村民らの背伐《せぎ》りを監視するため、奥筋から順に村々を回って来たに過ぎなかった。
 この宿場では、つい二日ほど前に、中津川泊まりで西から進んで来る二百人ばかりの尾州兵の太鼓の音を聞いた。およそ三組から成る同勢の高旗をも望んだ。それらの一隊が、越後《えちご》方面を警戒する必要ありとして、まず松本辺をさして通り過ぎて行った後には、なんとなくゆききの人の足音も落ち着かない。飛脚荷物を持って来るものの名古屋|便《だよ》りまでが気にかかって、半蔵はしばらくその門前に立ってながめた。午後の日の光は街道に満ちている時で、諸勘定を兼ねて隣の国から登って来る中津の客、呉服物の大きな風呂敷《ふろしき》を背負った旅商人《たびあきんど》、その他、宿から宿への本馬《ほんま》何ほど、軽尻《からじり》何ほど、人足何ほどと言った当時の道中記を懐《ふところ》にした諸国の旅行者が、彼の前を往《い》ったり来たりしていた。


 まず街道にも異状がない。そのことに、半蔵はやや心を安んじて、やがて自分の屋敷内にある母屋《もや》と新屋の間の細道づたいに、裏の隠居所の方へ行った。階下を味噌《みそ》や漬《つ》け物の納屋《なや》に当ててあるのは祖父半六が隠居時代からで、別に二階の方へ通う入り口もそこに造りつけてある。雪隠《せっちん》通《がよ》いに梯子段《はしごだん》を登ったり降りたりしないでも、用をたせるだけの設けもある。そこは筆者不明の大書を張りつけた古風な押入れの唐紙《からかみ》から、西南に明るい障子をめぐらした部屋《へや》の間取りまで、父が祖父の意匠をそっくり崩《くず》さずに置いてあるところだ。代を跡目相続の半蔵に譲り、庄屋本陣問屋の三役を退いてからの父が連れ添うおまんを相手に、晩年を暮らしているところだ。
 そういう吉左衛門は、もはや一日の半ばを床の上に送る人である。その床の上に七十年の生涯《しょうがい》を思い出して、自己《おのれ》の黄昏時《たそがれどき》をながめているような人である。ちょうど半蔵が二階に上がって来て見た時は、父は眠っていた。
「お休みですか。」
 と言いながら、半蔵は父の寝顔をのぞきに行った。その時、継母のおまんが次ぎの部屋から声をかけた。
「これ、お父《とっ》さんを起こさないでおくれ。」
 大きな鼻、静かな口、長く延びた眉毛《まゆげ》、見慣れた半蔵の目には父の顔の形がそれほど変わったとも映らなかった。両手の置き場所から、足の重ね方まで考えるようになったと、よくその話の出る父は右を下にして昼寝の枕《まくら》についている。かすかないびきの声も聞こえる。半蔵はその鼻息を聞きすまして置いて、おまんのいる次ぎの部屋へ退いた。
「半蔵、江戸も大変だそうだねえ。」とおまんは言った。「さっきも、わたしがお父《とっ》さんに、そうあなたのように心配するからいけない、世の中のことは半蔵に任せてお置きなさるがいい、そう言ってあげても、お父さんは黙っておいでさ。そこへ、お前、上の伏見屋の金兵衛《きんべえ》さんだろう。あの人の話はまた、こまかいと来てる。わたしはそばできいていても、気が気じゃない。いくら旧《ふる》いお友だちでも、いいかげんに切り揚げて行ってくれればいい。そう思うとひとりでハラハラして、またこないだのようにお父さんが疲れなけりゃいいが、そればかり心配さ。金兵衛さんが帰って行ったあとで、お父さんが何を言い出すかと思ったら、おれはもうこんな時が早く通り過ぎて行ってくれればいい、早く通り過ぎて行ってくれればいいと、そればかり願っているとさ……」
 隣室の吉左衛門は容易に目をさまさない。めずらしくその裏二階に迎えたという老友金兵衛との長話に疲れたかして、静かな眠りを眠りつづけている。
 その時、母屋の方から用事ありげに半蔵をさがしに来たものもある。いろいろな村方の雑用はあとからあとからと半蔵の身辺に集まって来ていた時だ。彼はまた父を見に来ることにして、懐《ふところ》にした書付を継母の前に取り出した。それは彼が父に読みきかせたいと思って持って来たもので、京都方面の飛脚|便《だよ》りの中でも、わりかた信用の置ける聞書《ききがき》だった。当時ほど流言のおびただしくこの街道に伝わって来る時もなかった。たとえば、今度いよいよ御親征を仰せ出され、大坂まで行幸のあるということを誤り伝えて、その月の上旬に上方《かみがた》には騒動が起こったとか、新帝が比叡山《ひえいざん》へ行幸の途中|鳳輦《ほうれん》を奪い奉ったものがあらわれたとかの類《たぐい》だ。種々の妄説《もうせつ》はほとんど世間の人を迷わすものばかりであったからで。
「お母《っか》さん、これもあとでお父《とっ》さんに見せてください。」
 と半蔵が言って、おまんの前に置いて見せたは、東征軍が江戸城に達する前日を期して、全国の人民に告げた新帝の言葉で、今日の急務、永世の基礎、この他にあるべからずと記《しる》し添えてあるものの写しだ。それは新帝が人民に誓われた五つの言葉より成る。万機公論に決せよ、上下心を一にせよ、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよ、旧来の陋習《ろうしゅう》を破って天地の公道に基づけ、知識を世界に求め大いに皇基を振起せよ、とある。それこそ、万民のために書かれたものだ。

       六

 四月の中旬まで待つうちに、半蔵は江戸表からの飛脚|便《だよ》りを受け取って、いよいよ江戸城の明け渡しが事実となったことを知った。
 さらに彼は月の末まで待った。昨日は将軍家が江戸|東叡山《とうえいざん》の寛永寺を出て二百人ばかりの従臣と共に水戸《みと》の方へ落ちて行かれたとか、今日は四千人からの江戸屋敷の脱走者が武器食糧を携えて両総方面にも野州《やしゅう》方面にも集合しつつあるとか、そんな飛報が伝わって来るたびに、彼の周囲にある宿役人から小前《こまえ》のものまで仕事もろくろく手につかない。箒星《ほうきぼし》一つ空にあらわれても、すぐそれを何かの前兆に結びつけるような村民を相手に、ただただ彼は心配をわかつのほかなかった。
 でも、そのころになると、この宿場を通り過ぎて行った東山道軍の消息ばかりでなく、長州、薩州、紀州、藤堂《とうどう》、備前《びぜん》、土佐諸藩と共に東海道軍に参加した尾州藩の動きを知ることはできたのである。尾州の御隠居父子を木曾の大領主と仰ぐ半蔵らにとっては、同藩の動きはことに凝視の的《まと》であった。偶然にも、彼は尾州藩の磅※[#「石+薄」、第3水準1-89-18]隊《ほうはくたい》その他と共に江戸まで行ったという従軍医が覚え書きの写しを手に入れた。名古屋の医者の手になった見聞録ともいうべきものだ。
 とりあえず、彼はその覚え書きにざっと目を通し、筆者の付属する一行が大総督の宮の御守衛として名古屋をたったのは二月の二十六日であったことから、先発の藩隊長|富永孫太夫《とみながまごだゆう》をはじめ総軍勢およそ七百八十余人の尾州兵と駿府《すんぷ》で一緒になったことなぞを知った。さらに、彼はむさぼるように繰り返し読んで見た。
 その中に、徳川玄同《とくがわげんどう》の名が出て来た。玄同が慶喜を救おうとして駿府へと急いだ記事が出て来た。「玄同さま」と言えば、半蔵父子にも親しみのある以前の尾州公の名である。御隠居と意見の合わないところから、越前《えちぜん》公の肝煎《きもい》りで、当時|一橋家《ひとつばしけ》を嗣《つ》いでいる人である。ずっと以前にこの旧藩主が生麦《なまむぎ》償金事件の報告を携えて、江戸から木曾路を通行されたおりのことは、まだ半蔵の記憶に新しい。あのおりに、二千人からの人足が尾張領分の村々から旧藩主を迎えに来て、馬籠の宿場にあふれた往時のことも忘れられずにある。尾州藩ではこの人を起こし、二名の藩の重職まで同行させ、慶喜の心事が誤り伝えられていることを訴えて、大総督の宮を深く動かすところがあったと書いてある。
 その中にはまた、容易ならぬ記事も出て来た。小田原《おだわら》から神奈川《かながわ》の宿まで動いた時の東海道軍の前には、横浜居留民を保護するために各国連合で組織した警備兵があらわれたとある。外人はいろいろな難題を申し出た。これまで徳川氏とは和親を結んだ国の事ゆえ、罪あって征討するなら、まず各国へその理由を告げてしかるべきに、さらに何の沙汰《さた》もない。かつ、交易場の辺を兵隊が通行して戦争にも及ぶことがあるなら、前もって各国へ布告もあるべきに、その沙汰もない。そういうことを申し立てて一本突ッ込んで来た外人らの多くは江戸開市を前に控えて、早く秩序の回復を希望するものばかりだ。神戸三宮《こうべさんのみや》事件に、堺旭茶屋《さかいあさひぢゃや》事件に、潜んだ攘夷熱はまだ消えうせない。各国公使のうちには京都の遭難から危うく逃げ帰ったばかりのものもある。外人らは江戸攻撃の余波が、横浜居留地に及ぶことを恐れて、容易に東海道軍の神奈川通過を肯《がえん》じない。ついには、外国軍艦の陸戦隊が上陸を見るまでになった。これには総督府も御心配、薩州らも当惑したとある。その筆者に言わせるとすでに、万国交際の道を開いた新政府側としては、東征軍の行動に関しても、外人らの意見を全く無視するわけには行かなかった。江戸攻撃を開始して、あたりを兵乱の巷《ちまた》と化し、無辜《むこ》の民を死傷させ、城地を灰燼《かいじん》に帰するには忍びないのみか、その災禍が外人に及んだら、どんな国難をかもさないものでもないとは、大総督府の参謀においても深く考慮されたことであろうと書いてある。
 こんな外国交渉に手間取れて、東海道軍は容易に品川《しながわ》へはいれなかった。その時は東山道軍はすでに板橋から四谷新宿《よつやしんじゅく》へと進み、さらに市《いち》ヶ谷《や》の尾州屋敷に移り、あるいは土手を切り崩《くず》し、あるいは堤を築き、八、九門の大砲を備えて、事が起こらば直ちに邸内から江戸城を砲撃する手はずを定めていた。意外にも、東海道軍の遅着は東山道軍のために誤解され、ことに甲州、上野両道で戦い勝って来た鼻息の荒さから、総攻撃の中止に傾いた東海道軍の態度は万事因循で、かつ手ぬるく実に切歯《せっし》に堪《た》えないとされた。東海道軍はまた東海道軍で、この友軍の態度を好戦的であるとなし、甲州での戦さのことなぞを悪《あ》しざまに言うものも出て来た。ここに両道総督の間に自然と軋《へだた》りを生ずるようにもなったとある。
「フーン。」
 半蔵はそれを読みかけて、思わずうなった。


 これは父にも読み聞かせたいものだ。その考えから半蔵は尾州の従軍医が書き留めたものの写しをふところに入れて午後からまた裏二階の方へ父を見に行った。
「もう藤《ふじ》の花も咲くようになったか。」
 吉左衛門はそれをおまんにも半蔵にも言って見せて、例の床の上にすわり直していた。将軍家の没落もいよいよ事実となってあらわれて来たころは、この山家ではもはや小草山の口明けの季節を迎えていた。
「半蔵、江戸のお城はこの十一日に明け渡しになったのかい。」とまた吉左衛門が言った。
「そうですよ。」と半蔵は答える。「なんでも、東征軍が江戸へはいったのは先月の下旬ですから、ちょうどさくらのまっ盛りのころだったと言いますよ。屋敷屋敷へは兵隊が入り込む、落ちた花の上へは大砲をひき込む――殺風景なものでしたろうね。」
「まあ、おれのような昔者にはなんとも言って見ようもない。」
 その時、半蔵はふところにして行った覚え書きを取り出した。江戸開城に関する部分なぞを父の枕《まくら》もとで読み聞かせた。大城を請け取る役目も薩摩《さつま》や長州でなくて、将軍家に縁故の深い尾州であったということも、父の耳をそばだてさせた。
 その中には、開城の前夜に芝《しば》増上寺《ぞうじょうじ》山内の大総督府参謀西郷氏の宿陣で種々《さまざま》な軍議のあったことも出て来た。城を請け取る刻限も、翌日の早朝五ツ時と定められた。万一朝廷の命令に抵抗するものがあるなら討《う》ち取るはずで、諸藩の兵隊はその時刻前に西丸の城下に整列することになった。いよいよその朝が来た。錦旗《きんき》を奉じた尾州兵が大手外へ進んだ時は、徳川家の旧|旗下《はたもと》の臣は各礼服着用で、門外まで出迎えたとある。域内にある野戦砲の多くはすでに取り出されたあとで、攻城砲、軽砲の類《たぐい》のみがそこここに据《す》え置かれてあったが、それでも百余の大砲を数えたという。旧旗下の臣も退城し、諸藩の兵隊も帰陣して、尾州兵が城内へ繰り込んだ。そして、それぞれ警備の役目についた。実に慶応四年四月十一日の朝だ。江戸|八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていた幕府大城はその時に最後の幕を閉じたともある。
「お父《とっ》さん、ここに神谷《かみや》八郎右衛門とありますよ。ホ、この人は外桜田門の警衛だ。」
「名古屋の神谷八郎右衛門さまと言えば、おれもお目にかかったことがある。」
「西丸の大手から、神田橋《かんだばし》、馬場先《ばばさき》、和田倉門《わだくらもん》、それから坂下二重門内の百人番所まで、要所要所は尾州の兵隊で堅めたとありますね。」
「つまり、江戸城は尾州藩のお預かりということになったのだね。」
「待ってください。ここに静寛院《せいかんいん》さまと、天璋院《てんしょういん》さまのことも出ています。この静寛院さまとは、和宮《かずのみや》さまのことです。お二人《ふたり》とも最後まで江戸城にお残りになったとありますよ。」
「へえ、そうあるかい。」とおまんがそれを引き取って、「お二人とも苦しい立場さね。そりゃ、お前、和宮さまは京都から御輿入《おこしい》れになったし、天璋院さまは薩摩からいらしったかただから。」
「まあ、待ってください。天璋院さまには、こんな話もありますね。以前、十四代将軍のところへ、和宮さまをお迎えになって、言わばお姑《しゅうと》さまとして、初めて京都方と御対面の時だったと覚えています。そこは天璋院さまです、すぐに自分の席には着かない。まず多数の侍女の中にまじっていて、京都方の様子をとくと見定めたと言いますね。それから、たち上がって、いきなり自分の方が上座に着いたとも言いますね。こうすっくと侍女の中からたち上がったところは、いかにもその人らしい。あの話は今だに忘れられません。ごらんなさい、天璋院さまはそういう人でしょう。今度、城を明け渡すについては、和宮さまは田安《たやす》の方へお移りになるから、あなたは一橋家の方へお移りなさいと言われても、容易に天璋院さまは動かなかったとありますね。それを無理にお連れ申したようなことが、この覚え書きの中にも出ていますよ。」
「あわれな話だねえ。」と吉左衛門はそれを聞いたあとで言った。


「まあ、お話に気を取られて、わたしはまだお茶も入れてあげなかった。」
 おまんは次ぎの部屋《へや》の方へ立って行って、小屏風《こびょうぶ》のわきに茶道具なぞ取り出す音をさせた。
「半蔵、」と吉左衛門は床の上に静坐《せいざ》しながら話しつづけた。「この先、江戸もどうなろう。」
「さあ、それがです。京都の方ではもう遷都論が起こってるという話ですよ。香蔵さんからはそんな手紙でした。あの人も今じゃ京都の方ですからね。」
「どうも、えらいことを聞かされるぞ。この御一新はどこまで及んで行くのか、見当もつかない。」
「そりゃ、お父《とっ》さん――どうせやるなら、そこまで思い切ってやれという論のようです。」
 こんな言葉をかわしているところへ、おまんは隣家の伏見屋からもらい受けたという新茶を入れて来た。時節がらの新茶は香《かおり》は高くとも、年老いた人のためには灰汁《あく》が強すぎる。彼女はそれに古茶をすこし混ぜ入れて来たと言って見せるほど、注意深くもあった。
「あなた、横におなりなすったら。」とおまんは夫の方を見て言った。「そうすわってばかりじゃ、お疲れでしょうに。」
「そうさな。それじゃ、寝て話すか。」
 吉左衛門とおまんとはもはやよい茶のみ友だちである。この父はおまんが勧めて出した湯のみを枕《まくら》もとに引きよせ、日ごろ愛用する厚手な陶器の手ざわりを楽しみながら、年をとってますます好きになったという茶のにおいをさもうまそうにかいだ。半蔵をそばに置いて、青山家の昔話までそこへ持ち出すのもこの父である。自分ごときですら、将軍家の没落を聞いては目もくらむばかりであるのに、実際に大きなものが眼前に倒れて行くのを見る人はどんなであろう、そんな述懐が老い衰えた父の口からもれて来た。武家全盛の往時しか知らないで、代々本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た祖父たちの方がむしろ幸福であったのか、かくも驚くべき激変の時代にめぐりあって、一世に二世を経験し、一身に二身を経験するような自分ごときが幸福であるのか。そんな話が出た。
「そう言えば、半蔵、こないだ金兵衛さんが見舞いに来てくれた時に、おれはあの老友と二人で新政府のお勝手向きのことを話し合ったよ。これだけの兵隊を動かすだけでも、莫大《ばくだい》な費用だろう。金兵衛さんは、お前、あのとおり町人|気質《かたぎ》の人だから、いったい今度の戦費はどこから出るなんて、言い出した。そりゃ各藩から出るにきまってます、そうおれが答えたら、あの金兵衛さんは声を低くして、各藩からは無論だが、そのほかに京大坂の町人たちが御用達《ごようだて》のことを聞いたかと言うのさ。百何十万両の調達を引き受けた大きな町家もあるという話だぜ。そんな大金の調達を申し付けるかわりには、新政府でそれ相応な待遇を与えなけりゃなるまい。こりゃおれたちの時代に藩から苗字《みょうじ》帯刀を許したぐらいのことじゃ済むまいぞ。王政御一新はありがたいが、飛んだところに禍《わざわ》いの根が残らねばいいが。金兵衛さんが帰って行ったあとで、おれはひとりでそのうわささ。」
 そんな話も出た。
「金兵衛さんで思い出した。」と吉左衛門は枕もとの煙草盆《たばこぼん》を引きよせて、一服やりながら、「おれなぞはもう日暮れ道遠しだ。そこへ行くと、あの伏見屋の隠居はよくそれでもあんなにからだが続くと思うよ。年はおれより二つも上だが、あの人にはまだかんかん日があたってる。」
「かんかん日があたってるはようござんした。」とおまんも軽く笑って、「あれで金兵衛さんも、大事な子息《むすこ》さん(鶴松《つるまつ》)は見送るし、この正月にはお玉さん(後妻)のお葬式まで出して、よっぽどがっかりなさるかと思いましたが――」
「どうして、あの年になって、馬の七夜の祝いにでも招《よ》ばれて行こうという人だ。おれはあの金兵衛さんが、古屋敷の洞《ほら》へ百二十本も杉苗《すぎなえ》を植えたことを知ってる――世の中建て直しのこの大騒ぎの中でだぜ。あれほどのさかんな物欲は、おれにはないナ。おれなぞはお前、できるだけ静かにこの世の旅を歩きつづけて来たようなものさ。おれは、あの徳川様の代に仕上がったものがだんだんに消えて行くのを見た。おれも、もう長いことはあるまい……よくそれでも本陣、問屋、庄屋を勤めあげた。そうあの半六|親爺《おやじ》が草葉の陰で言って、このおれを待っていてくれるような気がする……」
「そんな、お父《とっ》さんのような心細いことを言うからいけない。」
「いや、半蔵には御嶽《おんたけ》の参籠《さんろう》までしてもらったがね、おれの寿命が今年《ことし》の七十歳で尽きるということは、ある人相見から言われたことがあるよ。」
「ごらんな、半蔵。お父さんはすぐあれだもの。」
 裏二階では、こんな話が尽きなかった。


 何から何まで動いて来た。過ぐる年の幕府が参覲交代制度を廃した当時には動かなかったほどの諸大名の家族ですら、住み慣れた江戸の方の屋敷をあとに見捨てて、今はあわただしく帰国の旅に上って来るようになった。
「お屋敷方のお通りですよ。」
 と呼ぶお粂《くめ》や宗太の声でも聞きつけると、半蔵は裏二階なぞに話し込んでいられない。会所に集まる年寄役の伊之助や問屋九郎兵衛なぞを助けて、人足や馬の世話から休泊の世話まで、それらのめんどうを見ねばならない。
 東海道回りの混雑を恐れるかして、この木曾街道方面を選んで帰国する屋敷方には、どこの女中方とか、あるいは御隠居とかの人たちの通行を毎日のように見かける。
「国もとへ。国もとへ。」
 その声は、過ぐる年に外様《とざま》諸大名の家族が揚げて行ったような解放の歓呼ではない。現にこの街道を踏んで来る屋敷方は、むしろその正反対で、なるべくは江戸に踏みとどまり、宗家の成り行きをも知りたく、今日の急に臨んでその先途も見届けたく、かつは疾病死亡を相訪《あいと》い相救いたい意味からも親近の間柄にある支族なぞとは離れがたく思って、躊躇《ちゅうちょ》に躊躇したあげく、太政官《だじょうかん》からの御達《おたっ》しや総督府参謀からの催促にやむなく屋敷を引き払って来たという人たちばかりである。
 将軍家の居城を中心に、大きな市街の六分通りを武家で占領していたような江戸は、もはや終わりを告げつつあった。この際、徳川の親藩なぞで至急に江戸を引き払わないものは、違勅の罪に問われるであろう。兵威をも示されるであろう。その御沙汰《ごさた》があるほど、総督府参謀の威厳は犯しがたくもあったという。西の在国をさして馬籠の宿場を通り過ぎる屋敷方の中には、紀州屋敷のうわさなどを残して行くものもある。そのうわさによると、上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷から、小屋敷その他まで、江戸の市中に散在する紀州屋敷だけでも大小およそ六百戸の余もある。奥向きの女中を加えると、上下の男女四千余人を数える。この大人数が、三百年来住み慣れた墳墓の地を捨て、百五十里もある南の国へ引き揚げよと命ぜられても、わずか四、五日の間でそんな大移住が行ないうるものか、どうかと。半蔵らの目にあるものは、徳川氏と運命を共にする屋敷方の離散して行く光景を語らないものはない。茶摘みだ烙炉《ほいろ》だ筵《むしろ》だと騒いでいる木曾の季節の中で、男女の移住者の通行が続きに続いた。
[#改頁]

     第五章

       一

 五月中旬から六月上旬へかけて、半蔵は峠村の組頭《くみがしら》平兵衛《へいべえ》を供に連れ、名古屋より伊勢《いせ》、京都への旅に出た。かねて旧師|宮川寛斎《みやがわかんさい》が伊勢|宇治《うじ》の館太夫方《かんだゆうかた》の長屋で客死したとの通知を受けていたので、その墓参を兼ねての思い立ちであった。どうやら彼はこの旅を果たし、供の平兵衛と共に馬籠《まごめ》の宿をさして、西から木曾街道《きそかいどう》を帰って来る途中にある。
 留守中のことも案じられて、二人《ふたり》とも帰りを急いでいた。大津、草津を経て、京から下って来て見ると、思いがけない郷里の方のうわさがその途中で半蔵らの耳にはいった。京からの下りも加納の宿あたりまでは登り坂の多いところで、半蔵らがそんな話を耳にしたのは美濃路《みのじ》にはいってからであるが、その道を帰って来るころは、うわさのある中津川辺へはまだかなりの距離があり、真偽のほどすら判然とはしなかった。
 鵜沼《うぬま》まで帰って来て見た。新政府の趣意もまだよく民間に徹しないかして、だれが言い触らすとも知れないような種々《さまざま》な流言は街道に伝わって来る時である。どうして、あの例幣使なぞが横行したり武家衆がいばったりして人民を苦しめぬいた旧時代にすら、ついぞ百姓|一揆《いっき》のあったといううわさを聞いたこともない尾州領内で、しかも世の中建て直しのまっ最中に、日ごろ半蔵の頼みにする百姓らが中津川辺を騒がしたとは、彼には信じられもしなかった。まして、彼の世話する馬籠あたりのものまでが、その一揆の中へ巻き込まれて行ったなぞとは、なおなお信じられもしなかった。


 しかし、郷里の方へ近づいて行けば行くほど、いろいろと半蔵には心にかかって来た。道中して見てもわかるように、地方の動揺もはなはだしい時だ。たとえば、馬の背や人足の力をかりて旅の助けとするとしても、従来の習慣《ならわし》によれば本馬《ほんま》三十六貫目、乗掛下《のりかけした》十貫目より十八貫目、軽尻《からじり》あふ付三貫目より八貫目、人足荷五貫目である。これは当時道中するもののだれもが心得ねばならない荷物貫目の掟《おきて》である。本|駄賃《だちん》とはこの本馬(駄荷)に支払うべき賃銭のことで、それを二つ合わせて三つに割ればすなわち軽尻駄賃となる。言って見れば、本駄賃百文の時、二つ合わせれば二百文で、それを三つに割ったものが軽尻駄賃の六十四文となる。人足はまた、この本駄賃の半分にあたる。これらの駄賃が支払われる場合に、今までどおりの貨幣でなくてそれにかわる金札で渡されたとしても、もし一両の札が実際は二分にしか通用しないとしたら。
 その年、慶応四年は、閏《うるう》四月あたりから不順な時候が続き、五月にはいってからもしきりに雨が来た。この旅の間、半蔵は名古屋から伊勢路《いせじ》へかけてほとんど毎日のように降られ続け、わずかに旧師寛斎の墓前にぬかずいた日のみよい天気を迎えたぐらいのものであった。別号を春秋花園とも言い、国学というものに初めて半蔵の目をあけてくれたあの旧師も、今は宇治の今北山《いまきたやま》に眠る故人だ。伊勢での寛斎老人は林崎文庫《はやしざきぶんこ》の学頭として和漢の学を講義し、かたわら医業を勤め、さみしい晩年の日を送ったという。半蔵は旅先ながらに土地の人たちの依頼を断わりかね、旧師のために略歴をしるした碑文までもえらんで置いて、「慶応|戊辰《ぼしん》の初夏、来たりてその墓を拝す」と書き残して来た。そんな話を持って、先輩|暮田正香《くれたまさか》から、友人の香蔵や景蔵まで集まっている京都の方へ訪《たず》ねて行って見ると、そこでもまた雨だ。定めない日和《ひより》が続いた。かねて京都を見うる日もあらばと、夢にも忘れなかったあの古い都の地を踏み、中津川から出ている友人らの仮寓《かぐう》にたどり着いて、そこに草鞋《わらじ》の紐《ひも》をといた時。うわさのあった復興最中の都会の空気の中に身を置いて見て、案内顔な香蔵や景蔵と共に連れだちながら、平田家のある錦小路《にしきこうじ》まで歩いた時。平田|鉄胤《かねたね》老先生、その子息《むすこ》さんの延胤《のぶたね》、いずれも無事で彼をよろこび迎えてくれたばかりでなく、宿へ戻《もど》って気の置けないものばかりになると、先師|篤胤《あつたね》没後以来の話に花の咲いた時。そこへ暮田正香でも顔を見せると、先輩は伊那《いな》の長い流浪《るろう》時代よりもずっと若返って見えるほどの元気さで、この王政の復古は同時に一切の中世的なものを否定することであらねばならない、それには過去数百年にわたる武家と僧侶《そうりょ》との二つの大きな勢力をくつがえすことであらねばならないと言って、宗教改革の必要にまで話を持って行かなければあの正香が承知しなかった時。そういう再会のよろこびの中でも、彼が旅の耳に聞きつけるものは、降り続く長雨の音であった。
 京都を立って帰路につくころから、ようやく彼は六月らしい日のめを見たが、今度は諸方に出水《でみず》のうわさだ。淀川《よどがわ》筋では難場《なんば》が多く、水損《みずそん》じの個処さえ少なくないと言い、東海道辺では天龍川《てんりゅうがわ》の堤が切れて、浜松あたりの町家は七十軒も押し流されたとのうわさもある。彼が江州《ごうしゅう》の草津辺を帰るころは、そこにも満水の湖を見て来た。
 郷里の方もどうあろう。その懸念《けねん》が先に立って、過ぐる慶応三年は白粥《しらかゆ》までたいて村民に振る舞ったほどの凶年であったことなぞが、旅の行く先に思い出された。


 時はあだかも徳川将軍の処分について諸侯|貢士《こうし》の意見を徴せられたという後のころにあたる。薩長《さっちょう》人士の中には慶喜を殺せとの意見を抱《いだ》くものも少なくないので、このことはいろいろな意味で当時の人の心に深い刺激をあたえた。遠く猪苗代《いなわしろ》の湖を渡り、何百里の道を往復し、多年慶喜の背後《うしろ》にあって京都の守護をもって自ら任じた会津《あいづ》武士が、その正反対を西の諸藩に見いだしたのも決して偶然ではなかった。伏見鳥羽《ふしみとば》の戦さに敗れた彼らは仙台藩《せんだいはん》等と共に上書して、逆賊の名を負い家屋敷を毀《こぼ》たれるのいわれなきことを弁疏《べんそ》し、退いてその郷土を死守するような道をたどり始めていた。強大な東北諸侯の同盟が形造られて行ったのもこの際である。
 こんな東北の形勢は尾州藩の活動を促して、旧江戸城の保護、関東方面への出兵などばかりでなく、越後口《えちごぐち》への進発ともなった。半蔵は名古屋まで行ってそれらの事情を胸にまとめることができた。武装解除を肯《がえん》じない江戸屋敷方の脱走者の群れが上野東叡山にたてこもって官軍と戦ったことを聞いたのも、百八十余人の彰義隊《しょうぎたい》の戦士、輪王寺《りんのうじ》の宮《みや》が会津方面への脱走なぞを聞いたのも、やはり名古屋まで行った時であった。さらに京都まで行って見ると、そこではもはや奥羽《おうう》征討のうわさで持ち切っていた。
 新政府が財政困難の声も高い。こんな東征軍を動かすほどの莫大《ばくだい》な戦費を支弁するためからも、新政府の金札(新紙幣)が十円から一朱までの五種として発行されたのは、半蔵がこの旅に出てからのことであった。ところが今日の急に応じてひそかに武器を売り込んでいる外国政府の代理人、もしくは外国商人などの受け取ろうとするものは、日本の正金である。内地の人民、ことに商人は太政官の準備を危ぶんで新しい金札をよろこばない。これは幕府時代からの正銀の使用に慣らされて来たためでもある。それかあらぬか、新紙幣の適用が仰せ出されると間もなく、半蔵は行く先の商人から諸物価のにわかな騰貴を知らされた。昨日は一|駄《だ》の代金二両二分の米が今日の値段は三両二分の高値にも引き上げたという。小売り一升の米の代が急に四百二十四文もする。会津の方の戦争に、こんな物価の暴騰に、おまけに天候の不順だ。いろいろと起こって来た事情は旅をも困難にした。

       二

 京都から大湫《おおくて》まで、半蔵らはすでに四十五里ほどの道を歩いた。大湫は伊勢参宮または名古屋への別れ道に当たる鄙《ひな》びた宿場で、その小駅から東は美濃《みの》らしい盆地へと降りて行くばかりだ。三里半の十三峠を越せば大井の宿へ出られる。大井から中津川までは二里半しかない。
 百三十日あまり前に東山道軍の先鋒隊《せんぽうたい》や総督御本陣なぞが錦《にしき》の御旗《みはた》を奉じて動いて行ったのも、その道だ。畠《はたけ》の麦は熟し、田植えもすでに終わりかけるころで、行く先の立場《たてば》は青葉に包まれ、草も木も共に六月の生気を呼吸していた。長雨あげくの道中となれば、めっきり強い日があたって来て、半蔵も平兵衛も路傍の桃の葉や柿《かき》の葉のかげで汗をふくほど暑い。
「でも、半蔵さま、歩きましたなあ。なんだかおれはもうよっぽど長いこと家を留守にしたような気がする。」
「馬籠《まごめ》の方でも、みんなどうしているかさ。」
「なんだぞなし。きっと、今ごろは田植えを済まして、こちらのうわさでもしていませず。」
 こんな話をしながら、二人《ふたり》は道を進んだ。
 時には、また街道へ雨が来る。青葉という青葉にはもうたくさんだと思われるような音がある。せっかくかわいた道路はまた見る間にぬれて行った。笠《かさ》を傾《かたぶ》けるもの、道づれを呼ぶもの、付近の休み茶屋へとかけ込むもの、途中で行きあう旅人の群れもいろいろだ。それは半蔵らが伊勢路や京都の方で悩んだような雨ではなくて、もはや街道へ来る夏らしい雨である。予定の日数より長くなった今度の旅といい、心にかかる郷里の方のうわさといい、二人ともに帰路を急いでいて、途中に休む気はなかった。たとい風雨の中たりともその日の午後のうちに三里半の峠を越して、泊まりと定めた大井の宿まではと願っていた。
 日暮れ方に、半蔵らは大井の旅籠屋《はたごや》にたどり着いた。そこまで帰って来れば、尾張《おわり》の大領主が管轄の区域には属しながら、年貢米《ねんぐまい》だけを木曾福島の代官山村氏に納めているような、そういう特別な土地の関係は、中津川辺と同じ縄張《なわば》りの内にある。挨拶《あいさつ》に来る亭主《ていしゅ》までが半蔵にはなじみの顔である。
「いや、はや、今度の旅は雨が多くて閉口しましたよ。こちらの方はどうでしたろう。」と半蔵がそれをきいて見る。
「さようでございます。先月の二十三日あたりは大荒れでございまして、中津川じゃ大橋も流れました。一時は往還橋止めの騒ぎで、坂下辺も船留めになりますし、木曾《きそ》の方でもだいぶ痛んだように承ります。もうお天気も定まったようで、この暑さじゃ大丈夫でございますが、一時は心配いたしました。」
 との亭主の答えだ。
 この亭主の口から、半蔵は半信半疑で途中に耳にして来たうわさの打ち消せないことを聞き知った。それは先月の二十九日に起こった百姓|一揆《いっき》で、翌日の夜になってようやくしずまったということを知った。あいにくと、中津川の景蔵も、香蔵も、二人とも京都の方へ出ている留守中の出来事だ。そのために、中津川地方にはその人ありと知られた小野三郎兵衛が名古屋表へ昼夜兼行で早駕籠《はやかご》を急がせたということをも知った。
「して見ると、やっぱり事実だったのかなあ。」
 と言って、半蔵は平兵衛と顔を見合わせたが、騒ぐ胸は容易に沈まらなかった。
 こんな時の平兵衛は半蔵の相談相手にはならない。平兵衛はからだのよく動く男で、村方の無尽《むじん》をまとめることなぞにかけてはなくてならないほど奔走周旋をいとわない人物だが、こんな話の出る時にはたったりすわったりして、ただただ聞き手に回ろうとしている。
「すこし目を離すと、すぐこれです。」
 平兵衛は峠村の組頭《くみがしら》らしく、ただそれだけのことを言った。彼は旅籠屋《はたごや》の廊下に出て旅の荷物を始末したり、台所の方へ行って半蔵のためにぬれた合羽《かっぱ》を乾《ほ》したりして、そういう方にまめまめと立ち働くことを得意とした。
「まあ、中津川まで帰って行って見るんだ。」
 と半蔵は考えた。こんな出来事は何を意味するのか、時局の不安はこんなところへまで迷いやすい百姓を追い詰めるのか、窮迫した彼らの生活はそれほど訴える道もないのか、いずれとも半蔵には言うことができない。それにしても、あの東山道総督の一行が見えた時、とらえようとさえすればとらえる機会は百姓にもあった。彼らの訴える道は開かれてあった。年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなぞは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来たからである。だれ一人《ひとり》、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。
 にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀|買〆《かいしめ》のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。


 中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主《おも》なものは東濃|界隈《かいわい》の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠《つまご》、三留野《みどの》、野尻《のじり》、在方《ざいかた》としては蘭村《あららぎむら》、柿其《かきそれ》、与川《よがわ》その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村《こまばむら》の入り口に屯集《とんしゅう》し、中津川大橋の辺から落合《おちあい》の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人《そうやくにん》中がとりあえず鎮撫《ちんぶ》につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留《とうりゅう》していて、容易に退散する気色《けしき》もなかったとか。
 半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子《こうし》はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風《かみがたふう》な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井《ならい》辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸《きいと》売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。万屋安兵衛《よろずややすべえ》、大和屋李助《やまとやりすけ》、その他、一時は下海道辺の問屋から今渡《いまど》の問屋仲間を相手にこの界隈《かいわい》の入り荷|出荷《でに》とも一手に引き受けて牛方事件の紛争まで引き起こした旧問屋|角屋《かどや》十兵衛の店などは、皆そこに集まっている。今度の百姓一揆はその町の空を大橋の辺から望むところに起こった。うそか、真実《まこと》か、竹槍《たけやり》の先につるした蓆《むしろ》の旗がいつ打ちこわしにかつぎ込まれるやも知れなかったようなうわさが残っていて、横浜貿易でもうけた商家などは今だに目に見えないものを警戒しているかのようである。
 中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人らは王事のために家を顧みる暇《いとま》のないような人たちである。こんな事件が突発するにつけても、日ごろのなおざりが思い出されて、地方《じかた》の世話も届きかねるのは面目ないとは家の人たちのかき口説《くど》く言葉だ。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。
「半蔵さん、あなたの前ですが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ。」
 そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋《つまこ》う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠《かさ》を手にし草鞋《わらじ》をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。

       三

 さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子《でし》の勝重《かつしげ》の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者《たっしゃ》でいるし、あの昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪《たず》ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。
「おゝお師匠さまだ。」
 という声がして、勝重がまず稲葉屋《いなばや》の裏口から飛んで来る。奥深い入り口の土間のところで、半蔵も平兵衛も旅の草鞋《わらじ》の紐《ひも》をとき、休息の時を送らせてもらうことにした。
 しばらくぶりで半蔵の目に映る勝重は、その年の春から新婚の生活にはいり、青々とした月代《さかやき》もよく似合って見える青年のさかりである。半蔵は今度の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪《たず》ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田|鉄胤《かねたね》をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは勝重をもよろこばせたからで。
 稲葉屋では、囲炉裏ばたに続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わすべき場処でもある。しばらく待つうちに、勝重の母親が半蔵らのところへ挨拶《あいさつ》に来た。めっきり鬢髪《びんぱつ》も白くなり、起居振舞《たちいふるまい》は名古屋人に似て、しかも容貌《ようぼう》はどこか山国の人にも近い感じのする主人公が、続いて半蔵らを迎えてくれる。その人が勝重の父親だ。落合宿の年寄役として、半蔵よりもむしろ彼の父吉左衛門に交わりのある儀十郎だ。
「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは。」と儀十郎が言った。「勝重のやつもあなたのおうわさばかり。あれが御祝言の前に、わざわざあなたにお越しを願って、元服の式をしていただいたことは、どれほどあれにはうれしかったかしれません。これはお師匠さまに揚げていただいた髪だなんて、今だによろこんでいまして。」
 儀十郎はその時、裏口の方から顔を出した下男を呼んで、勝重が若い妻に客のあることを知らせるようにと言い付けた。
「よめも今、裏の方へ行って茄子《なす》を漬《つ》けています――よめにもあってやっていただきたい。」
 こんな話の出ているところへ、勝重の母親が言葉を添えて、
「あなた、奥へ御案内したら。」
「じゃ、そうしようか。半蔵さんもお急ぎだろうが、茶を一つ差し上げたい。」
 とまた儀十郎が言った。
 やがて半蔵が平兵衛と共に案内されて行ったところは、二間《ふたま》続きの奥まった座敷だ。次ぎの部屋《へや》の方の片すみによせて故人|蘭渓《らんけい》の筆になった絵屏風《えびょうぶ》なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出られる。美濃派の俳諧《はいかい》は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆はまたこうした儀十郎の家なぞの屏風を飾っている。おまけに、勝重の迎えた妻はまだようやく十七、八のういういしさで、母親のうしろに添いながら、挨拶かたがた茶道具なぞをそこへ運んで来る。隣の国の内とは言いながら、半蔵にとってはもはや半分、自分の家に帰った思いだ。
 しかし、このもてなしを受けている間にも、半蔵はあれやこれやと儀十郎に尋ねたいと思うことを忘れなかった。彼は中津川大橋の辺から落合へかけての間を騒がしたという群れの中に何人の馬籠の百姓があったろうと想像し、庄屋としての彼が留守中に自分の世話する村からもそういう不幸なものを出したことを恥じた。


「もう時刻ですから、ほんの茶漬《ちゃづ》けを一ぱい差し上げる。何もありませんが、勝重の家で昼じたくをしていらしってください。」と儀十郎が言い出した。「半蔵さん、あなたが旅に行っていらっしゃる間に、いろいろな事が起こりました。会津の方じゃ戦争が大きくなるし、この辺じゃ百姓仲間が騒ぐし――いや、この辺もだいぶにぎやかでしたわい。」
 儀十郎は笑う声でもなんでも取りつくろったところがない。その無造作で何十年かの街道生活を送り、落合宿の年寄役を勤め、徳川の代に仕上がったものが消えて行くのをながめて来たような人だ。百姓|一揆《いっき》のうわさなぞをするにしても、そう物事を苦にしていない。容易ならぬ時代を思い顔な子息《むすこ》の勝重をかたわらにすわらせて、客と一緒に大きな一閑張《いっかんば》りの卓をかこんだところは、それでも同じ血を分けた親子かと思われるほどだ。
「でも、お父《とっ》さん、千人以上からの百姓が鯨波《とき》の声を揚げて、あの多勢の声が遠く聞こえた時は物すごかったじゃありませんか。わたしはどうなるかと思いましたよ。」
 勝重はそれを半蔵にも聞かせるように言った。
 その時、勝重の母親が昼食の膳《ぜん》をそこへ運んで来た。莢豌豆《さやえんどう》、蕗《ふき》、里芋《さといも》なぞの田舎風《いなかふう》な手料理が旧家のものらしい器《うつわ》に盛られて、半蔵らの前に並んだ。勝重の妻はまた、まだ娘のような手つきで、茄子《なす》の芥子《からし》あえなぞをそのあとから運んで来る。胡瓜《きゅうり》の新漬けも出る。
「せっかく、お師匠さまに寄っていただいても、なんにもございませんよ。」と勝重の母親は半蔵に言って、供の男の方をも見て、
「平兵衛さ、お前もここで御相伴《ごしょうばん》しよや。」
「いえ、おれは台所の方へ行って頂《いただ》く。」
 と言いながら、平兵衛は自分の前に置かれた膳を持って、台所の方へと引きさがった。
 勝重は若々しい目つきをして、半蔵と父親の顔を見比べ、箸《はし》を取りあげながらも、話した。「この尾州領に一揆が起こったなんて今までわたしは聞いたこともない。」
「それがさ。半蔵さんも御承知のとおりに、尾州藩じゃよく尽くしましたからね。」と儀十郎が言って見せる。
「お父《とっ》さん――問屋や名主を目の敵《かたき》にして、一揆の起こるということがあるんでしょうか。」と勝重が言った。
「そりゃ、あるさ。他の土地へ行ってごらん、ずいぶんいろいろな問屋がある。百姓は草履《ぞうり》を脱がなければそこの家の前を通れなかったような問屋もある。草履も脱がないようなやつは、お目ざわりだ、そういうことを言ったものだ。いばったものさね。ところが、お前、この御一新だろう。世の中が変わるとすぐ打ちこわしに出かけて行った百姓仲間があると言うぜ。なんでも平常《ふだん》出入りの百姓が一番先に立って、闇《やみ》の晩に風呂敷《ふろしき》で顔を包んで行って、問屋の家の戸障子と言わず、押入れと言わず、手当たり次第に破り散らして、庭の植木まで根こぎにしたとかいう話を聞いたこともあるよ。この地方にはそれほど百姓仲間から目の敵《かたき》にされるようなものはない。現在宿役人を勤めてるものは、大概この地方に人望のある旧家ばかりだからね。」
 儀十郎は無造作に笑って、半蔵の方を見ながらさらに言葉をつづけた。
「しかし、今度の一揆じゃ、中津川辺の大店《おおだな》の中には多少用心した家もあるようです。そりゃ、こんな騒ぎをおっぱじめた百姓仲間ばかりとがめられません。大きい町人の中には、内々《ないない》米の買い占めをやってるものがあるなんて、そんな評判も立ちましたからね。まあ、この一揆を掘って見たら、いろいろなものが出て来ましょう。何から何まで新規まき直しで、こんな財政上の御改革が過激なためかと言えば、そうばかりも言えない。世の中の変わり目には、人の心も動揺しましょうからね。なにしろ、あなた、千人以上からの百姓の集まりでしょう。みんな気が立っています。そこへ小野三郎兵衛さんでも出て行って口をきかなかったら、勝重の言い草じゃありませんが、どういうことになったかわかりません。あの人も黙ってみてる場合じゃないと考えたんでしょぅね。平田先生の御門人ならうそはつくまいということで、百姓仲間もあの人に一切を任せるということになりました。三郎兵衛さんが尾州表へ急行したと聞いて、それから百姓仲間も追い追いと引き取って行きました。まあ、大事に立ち至らないで、何よりでございましたよ。」
 これを儀十郎は話し話し食った。そのいい年齢《とし》に似合わないほど早くも食った。


 儀十郎はかなりトボけた人で、もしこれが厳罰主義をもって下に臨む旧政府の時代であったら、庄屋としての半蔵もおとがめはまぬかれまいなどと戯れて見せる。連帯の責任者として、縄《なわ》付きのまま引き立てられるところであったとも笑わせる。
 こんな勝重の父親のこだわりのない調子が、やや半蔵を安心させた。やがて一同昼食をすましたころ、儀十郎はついと座を立って、別の部屋の方から一通の覚え書きを取り出して来た。小野三郎兵衛が百姓仲間に示したというものの写しである。尾州藩の方へ差し出す嘆願趣意書の下書きとも言うべきものである。それには新紙幣の下落、諸物価の暴騰などについて、半蔵が旅の道々|懸念《けねん》して来たようなことはすべてその中に尽くしてあり、この際、応急のお救い手当て、人馬雇い銭の割増し、米穀買い占めの取り締まり等の嘆願の趣が個条書にして認《したた》めてある。三郎兵衛はまた、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、尾州藩が募集した農兵のことを書き添えることを忘れなかった。その覚え書きを見ると、付近の宿々村々から中津川に集合した宿役人、および村役人らが三郎兵衛の提議に同意して一同署名したことがわかり、儀十郎もやはり落合宿年寄役として署名人の中に加わったこともわかり、一方にはまた、あの三郎兵衛が同門の景蔵や香蔵の留守をひどく心配していることもわかった。
「馬籠からは、伏見屋の伊之助さんがすぐさまかけつけて来てくれました。他に一人《ひとり》、年寄役も同道で。」と儀十郎が言う。
「そうでしたか。それを聞いて、わたしも安心しました。自分の留守中にこんな事件が突発して、面目ない。このあと始末はどうなりましょう。」
 半蔵がそれをたずねると、儀十郎は事もなげに、
「それがです。尾州藩のことですから、いずれ京都政府へ届け出るでしょう。政務の不行き届きからこんな騒擾《さわぎ》に及んだのは恐れ入り奉るぐらいのことは届け出るでしょう、届け出はするが、千百五十余人の百姓一揆はざっと四、五百人、実際はそれ以下の二、三百人ぐらいのことに書き出しましょう。徒党の頭取《とうどり》になったものも、どう扱いますかさ。ひょっとすると、この事件は尾州藩で秘密に葬ってしまうかもしれません。あるいは徒党の頭取になったものだけを木曾福島へ呼び出して、あの代官所で調べるぐらいのことはありましょうか。ナニ、それも以前のように、重いお仕置《しおき》にはしますまいよ。これが以前ですと、重々不届き至極《しごく》だなんて言って、引き回したり、梟首《さらしくび》にしたりしたものですけれど。」
「でも、お父《とっ》さん。」と勝重がそれを引き取って、「番太の娘に戯れたぐらいで打ち首になった因州の武士は東山道軍が通過の時にもありますよ。今度の新政府は徒党を組むことをやかましく言うじゃありませんか。宿々の御高札場にまでそれを掲げるくらいにして、浮浪者と徒党を厳禁していますよ。」
「ついでに、六十一万九千五百石(幕府時代に封ぜられた尾州家の禄高《ろくだか》をさす)を半分にでも削るか。」
 と儀十郎は戯れた。
 半蔵がこの奥座敷を離れたのは、それから間もなくであった。彼が表の入り口の土間に降りるところで平兵衛と一緒になった時は、家の人の心づかいかして、草鞋《わらじ》まで新規に取り替えたのがそこに置いてある。そればかりでなく、勝重の母親はよめと共に稲葉屋の門口に出て、礼を述べて行く半蔵らを見送った。
「お師匠さま。」
 と言いながら、半蔵の後ろから手を振って追いかけて来るのは勝重だ。京都の方で半蔵が見たり聞いたりして来たこと、大坂行幸の新帝には天保山《てんぽうざん》の沖合いの方で初めて海軍の演習を御覧になったとのうわさの残っていたこと、あの復興最中の都にあるものは宗教改革の手始めから地方を府藩県に分ける新制度の施設まで、何一つ試みでないもののないことなど、歩きながらの彼の旅の話が勝重の心をひいた。勝重は落合の宿はずれまで半蔵について来て、別れぎわに言った。
「そうでしょうなあ。何から手をつけていいかわからないような時でしょうなあ。どうでしょう、お師匠さま、今度の百姓一揆のあと始末なぞも、吾家《うち》の阿爺《おやじ》の言うように行きましょうかしら。」
「さあ、ねえ。」
「小野三郎兵衛さんも骨は折りましょうし、尾州藩でもこんな時ですから、百姓仲間の言うことを聞いてはくれましょう。ただ心配なのは、徒党の罪に問われそうな手合いです。それとも、会津戦争も始まってるような際だからと言って、こんな事件は秘密にしてしまいましょうか。」
「まあ、けが人は出したくないものだね。」

       四

 野外はすでに田植えを済まし、あらかた麦も刈り終わった時であった。半蔵が平兵衛を連れて帰って行く道のそばには、まだ麦をなぐる最中のところもある。日向《ひなた》に麦をかわかしたところもある。手回しよく大根なぞを蒔《ま》きつけるところもある。
 大空には、淡い水蒸気の群れが浮かび流れて、遠く丘でも望むような夏の雲も起こっている。光と熱はあたりに満ちていた。過ぐる長雨から起き直った畠《はたけ》のものは、半蔵らの行く先に待っていて、美濃の盆地の豊饒《ほうじょう》を語らないものはない。今をさかりの芋《いも》の葉だ。茄子《なす》の花だ。胡瓜《きゅうり》の蔓《つる》だ。
 ある板葺《いたぶ》きの小屋のそばを通り過ぎるころ、平兵衛は路傍《みちばた》の桃の小枝を折り取って、その葉を笠《かさ》の下に入れてかぶった。それからまた半蔵と一緒に歩いた。
「半蔵さまのお供もいいが、ときどきおれは閉口する。」
「どうしてさ。」
「でも、馬のあくびをするところなぞを、そうお前さまのようにながめておいでなさるから。おもしろくもない。」
「しかし、この平穏はどうだ。つい十日ばかり前に、百姓|一揆《いっき》のあったあととは思われないじゃないか。」
 そこいらには、草の上にあおのけさまに昼寝して大の字なりに投げ出している村の男の足がある。山と積んだ麦束のそばに懐《ふところ》をあけて、幼い嬰児《あかご》に乳を飲ませている女もある。
 半蔵らは途中で汗をふくによい中山薬師の辺まで進んだ。耳の病を祈るしるしとして幾本かの鋭い錐《きり》を編み合わせたもの、女の乳|搾《しぼ》るさまを小額の絵馬《えま》に描いたもの、あるいは長い女の髪を切って麻の緒《お》に結びささげてあるもの、その境内の小さな祠《ほこら》の前に見いださるる幾多の奉納物は、百姓らの信仰のいかに素朴《そぼく》であるかを語っている。その辺まで帰って来ると、恵那山麓《えなさんろく》の峠に続いた道が半蔵らの目の前にあった。草いきれのするその夏山を分け登らなければ、青い木曾川が遠く見えるところまで出られない。秋深く木の実の熟するころにでもなると、幾百幾千の鶫《つぐみ》、※[#「けものへん+葛」、第3水準1-87-81]子鳥《あとり》、深山鳥《みやま》、その他の小鳥の群れが美濃方面から木曾の森林地帯をさして、夜明け方の空を急ぐのもその十曲峠だ。


 ようやく半蔵らは郷里の西の入り口まで帰り着いた。峠の上の国境に立つ一里塚《いちりづか》の榎《えのき》を左右に見て、新茶屋から荒町《あらまち》へ出た。旅するものはそこにこんもりと茂った鎮守《ちんじゅ》の杜《もり》と、涼しい樹陰《こかげ》に荷をおろして往来《ゆきき》のものを待つ枇杷葉湯《びわようとう》売りなぞを見いだす。
「どれ、氏神さまへもちょっと参詣《さんけい》して。」
 村社|諏訪社《すわしゃ》の神前に無事帰村したことを告げて置いて、やがて半蔵は社頭の鳥居に近い杉《すぎ》切り株の上に息をついた。暑い峠道を踏んで来た平兵衛も、そこいらに腰をおろす。日ごとに行きかう人馬のため踏み堅められたような街道が目の前にあることも楽しくて、二人《ふたり》はしばらくその位置を選んで休んだ。
 落合の勝重の家でも話の出た農兵の召集が、六十日ほど前に行なわれたのも、この氏神の境内であった。それは尾州藩の活動によって起こって来たことで、越後口《えちごぐち》に出兵する必要から、同藩では代官山村氏に命じ、木曾谷中へも二百名の農兵役を仰せ付けたのである。馬籠《まごめ》の百姓たちはほとんどしたくする暇も持たなかった。過ぐる閏《うるう》四月の五日には木曾福島からの役人が出張して来て、この村社へ村中一統を呼び出しての申し渡しがあり、九日にはすでに鬮引《くじび》きで七人の歩役の農兵と一人《ひとり》の付き添いの宰領とを村から木曾福島の方へ送った。
 半蔵はまだあの時のことを忘れ得ない。召集されて行く若者の中には、まだ鉄砲の打ち方も知らないというものもあり、嫁をもらって幾日にしかならないというものもある。長州や水戸《みと》の方の先例は知らないこと、小草山の口開《くちあ》けや養蚕時のいそがしさを前に控え、農家から取られる若者は「おやげない」(方言、かあいそうに当たる)と言って、目を泣きはらしながら見送る婆《ばあ》さんたちも多かった。もっとも、これは馬籠の場合ばかりでなく、越後表の歩役が長引くようであっては各村とも難渋するからと言って、木曾谷中一同が申し合わせ、農兵呼び戻《もど》しのことを木曾福島のお役所へ訴えたのは、同じ月の二十日のことであったが。
 しばらく郷里を留守にした半蔵には、こんなことも心にかかった。中津川の小野三郎兵衛が尾州藩への嘆願書のうちには、百姓仲間が難渋する理由の一つとして、この農兵の歩役があげてあったことを思い出した。何よりもまず伏見屋の伊之助にあって、村全体の留守を預かっていてくれたような隣家の主人から、その後の様子を聞きたい。その考えから彼は腰を持ち上げた。平兵衛と共に社頭の鳥居のそばを離れた。
 荒町は馬籠の宿内の小名《こな》で、路傍《みちばた》にあらわれた岩石の多い橋詰《はしづめ》の辺を間に置いて、馬籠の本宿にかかる。なだらかな谷間を走って来る水は街道を横切って、さらに深い谿《たに》へと落ちて行っている。半蔵らが帰って来た道は、石屋の坂のあたりで馬籠の町内の入り口にかかる。そのあたりの農家で旅籠屋《はたごや》を兼ねない家はなかったくらいのところだ。


「平兵衛さ、今お帰りか。」
「そうよなし。」
「お前は何をしていたい。」
 石屋の坂を登りきったところで、平兵衛は上町の方から降りて来る笹屋《ささや》の庄助《しょうすけ》にあった。庄助は正直一徹な馬籠村の組頭《くみがしら》だ。
 坂になった宿内を貫く街道は道幅とてもそう広くない。旅人はみなそこを行き過ぎる。一里も二里もある山林の方から杉の皮を背負《しょ》って村へ帰って来る男もある。庄助は往来《ゆきき》の人の邪魔にならない街道の片すみへ平兵衛を呼んだ。その時は、一緒にそこまで帰って来た半蔵の方が平兵衛よりすこしおくれた。
「平兵衛さ、おれはもうお留守居は懲り懲りしたよ。」庄助が言い出す。「かんじんの半蔵さまがいないところへ持って来て、お前まで、のんきな旅だ。」
 その時、平兵衛は笠《かさ》の紐《ひも》をといて、相手の顔をながめた。同じ組頭仲間でも、相手は馬籠の百姓総代という格で、伏見屋その他の年寄役と共に会所に詰め、宿内一切の相談にあずかっている。平兵衛も日ごろから、この庄助には一目置いている。
「いや、はや、」とまた庄助が言った。「先月の二十六日には農兵呼び戻しの件で、福島のお役所からはお役人が御出張になる。二十九日にはお前、井伊|掃部頭《かもんのかみ》の若殿様から彦根《ひこね》の御藩中まで、御同勢五百人が武士人足共に馬籠のお泊まりさ。伏見屋あたりじゃ十四人もお宿を引き受けるという騒ぎだ。お前も聞いて来たろうが、百姓一揆はその混雑《ごたごた》の中だぜ。」
「そう言われるとおれも面目ない。」
「お前だって峠村の組頭だ。もっと気をきかせそうなもんじゃないか。半蔵さまに勧めるぐらいにして、早く帰って来てくれそうなもんじゃないか。」
「そうがみがみ言いなさんな。なにしろ、お前、往復に日数は食うし、それにあの雨だ。伊勢路から京都まで、毎日毎日降って、降って、降りからかいて……」
「こっちも雨じゃ弱ったぞ。」
「おまけに、庄助さ、帰り道はまた雨降りあげくの暑い日ばかりと来てる。いくらも歩けすか。それにしても、なんという暑さだずら。」
 こんな平兵衛の立ち話に、いくらか庄助も顔色をやわらげているところへ、半蔵が坂の下の方から追いついた。
「やあ、やあ。今そこで上の伏見屋の隠居につかまって、さんざんしかられて来た。あの金兵衛さんは氏神さまへお詣《まい》りに出かけるところさ。どこへもかしこへもお辞儀ばかりだ。庄助さん、いずれあとでゆっくり聞こう。」
 その言葉を残して置いて、半蔵は家の方へ急いだ。


 妻子はまず無事。
 半蔵は旅じたくを解くのもそこそこに本陣の裏二階を見に行った。臥《ね》たり起きたりしてはいるが、それほど病勢が進んだでもない父吉左衛門と、相変わらず看護に余念のない継母のおまんとが、そこに半蔵を待っていた。
「お父《とっ》さん、京都の方を見て来た目で自分の家を見ると、こんな山家だったかと思うようですよ。」
 とは半蔵が旅から日に焼けて親たちのそばへ帰って来た時の言葉だ。
 彼もいそがしがっていた。つもる話をあと回しにしてその裏二階を降りた。とりあえず彼が見たいと思う人は伏見屋の伊之助であった。夕方から、彼は潜《くぐ》り戸《ど》をくぐって表門の外に出た。宿場でもここは夜鷹《よたか》がなく。もはや往来の旅人も見えない。静かだ。その静かさは隣宿落合あたりにもない山の中の静かさだ。旅から帰って来た彼が隣家の入り口まで行くと、古風な杉《すぎ》の葉の束の丸く大きく造ったのが薄暗い軒先につるしてあるのも目につく。清酒ありのしるしである。
 隠居金兵衛のかわりに伊之助。その年の正月に隠居が見送ったお玉のかわりに伊之助の妻のお富《とみ》。伏見屋ではこの人たちが両養子で、夫婦とも隣の国の方から来て、養父金兵衛から譲られた家をやっている。夫婦の間に子供は二人《ふたり》生まれている。血縁はないまでも、本陣とは親類づきあいの間柄である。この隣家の主人が、新しい簾《すだれ》をかけた店座敷の格子先の近くに席を造って、半蔵をよろこび迎えてくれた。
「半蔵さん、旅はいかがでした。こちらはろくなお留守居もできませんでしたよ。」
 そういう伊之助は男のさかりになればなるほど、ますますつつしみ深くなって行くような人である。物腰なぞは多分に美濃の人であるが、もうすっかり木曾じみていて、半蔵にとっては何かにつけての相談相手であった。
「いや、こんなにわたしも長くなるつもりじゃなかった。」と半蔵は言った。「伊勢路までにして引き返せばよかったんです。途中で、よっぽどそうは思ったけれど、京都の様子も気にかかるものですから、つい旅が長くなりました。」
「たぶん、半蔵さんのことだから、京都の方へお回りになるだろうッて、お富のやつともおうわさしていましたよ。」
「そう言ってくれるのは君ばかりだ。」
 その時、半蔵がしるしばかりの旅の土産《みやげ》をそこへ取り出すと、伊之助はその京の扇子なぞを彼の前で開いて見て、これはよい物をくれたというふうに、男持ちとしてはわりかた骨細にできた京風の扇の形をながめ、胡麻竹《ごまだけ》の骨の上にあしらってある紙の色の薄紫と灰色の調和をも好ましそうにながめて、
「半蔵さんの留守に一番困ったことは――例の農兵呼び戻《もど》しの一件で、百姓の騒ぎ出したことです。どうしてそんなにやかましく言い出したかと言うに、村から出て行った七人のものの行く先がはっきりしない、そういうことがしきりにこの街道筋へ伝わって来たからです。」
「そんなはずはないが。」
「ところがです、東方《ひがしがた》へ付くのか、西方《にしがた》へ付くのか、だれも知らない、そんなことを言って、二百人の農兵もどうなるかわからない、そういうことを言い触らされるものですから、さあ村の百姓の中には迷い出したものがある。」
「でも、行く先は越後《えちご》方面で、尾州藩付属の歩役でしょう。尾州の勤王は知らないものはありますまい。」
「待ってくださいよ。そりゃ木曾福島の御家中衆が尾州藩と歩調を合わせるなら、論はありません。谷中の農兵は福島の武士に連れられて行きましたが、どうも行く先が案じられると言うんです。そんなところにも動揺が起こって来る、流言は飛ぶ――」
「や、わたしはまた、田圃《たんぼ》や畠《はたけ》が荒れて、その方で百姓が難渋するだろうとばかり思っていました。」
「無論、それもありましょう。しまいには毎日毎日、村中の百姓と宿役人仲間との寄り合いです。あの庄助さんなぞも中にはさまって弱ってました。先月の二十六日――あれは麦の片づく時分でしたが、とうとう福島のお役所からお役人に出張してもらいまして、その時も大評定《だいひょうじょう》。どうしても農兵は戻してもらいたい、そのことはお役人も承知して帰りました。それからわずか三日目があの百姓|一揆《いっき》の騒ぎです。」
「どうも、えらいことをやってくれましたよ。わたしも落合の稲葉屋《いなばや》へ寄って、あそこで大体の様子を聞いて来ました。伊之助さんも中津川までかけつけてくれたそうですね。」
「えゝ。それがまた、大まごつき。こちらは彦根様お泊まりの日でしょう。武士から人足まで御同勢五百人からのしたくで、宿内は上を下への混雑と来てましょう。新政府の官札は不渡りでないまでも半額にしか通用しないし、今までどおりの雇い銭の極《き》めじゃ人足は出て来ないし……でも、捨て置くべき場合じゃないと思いましたから、宿内のことは九郎兵衛(問屋)さんなぞによく頼んで置いて、早速《さっそく》福島のお役所へ飛脚を走らせる、それから半分夢中で落合までかけて行きました。その翌日の晩は、中津川に集まった年寄役仲間で寄り合いをつけて、騒動のしずまったところを見届けて置いて、家へ帰って来た時分にはもう夜が明けました。」
 思わず半蔵は旅の疲れも忘れて、その店座敷に時を送った。格子先の簾《すだれ》をつたうかすかな風も次第に冷え冷えとして来る。
「どうも、なんとも申し訳がない。」と言って、半蔵は留守中の礼を述べながらたち上がった。「こんな一揆の起こるまで、あの庄助さんも気がつかずにいたものでしょうか。」
「そりゃ、半蔵さん、笹屋《ささや》だって知りますまい。あれで笹屋は自分で作る方の農ですから。」
「わたしは兼吉や桑作でも呼んで聞いて見ます。わたしの家には先祖の代から出入りする百姓が十三人もある。吾家《うち》へ嫁に来た人について美濃から移住したような、そんな関係のものもある。正月と言えば餅《もち》をつきに来たり、松を立てたりするのも、あの仲間です。一つあの仲間を呼んで、様子を聞いて見ます。」
「まあ、京都の方の話もいろいろ伺いたいけれど。夜も短かし。」

       五

「お霜婆《しもばあ》」
「あい。」
「お前のとこの兼さに本陣の旦那《だんな》が用があるげなで。」
「あい。」
「そう言ってお前も言伝《ことづ》けておくれや。ついでに、桑さにも一緒に来るようにッて。頼むぞい。」
「あい。あい。」
 馬籠本陣の勝手口ではこんな言葉がかわされた。耳の遠いお霜婆さんは、下女から言われたことを引き受けて、もう何十年となく出入りする勝手口のところを出て行った。
 越後路の方へ行った七人の農兵も宰領付き添いで帰って来た朝だ。六十日の歩役を勤めた後、今度御用済みということで、残らず帰村を許された若者らは半蔵のところへも挨拶《あいさつ》に来た。ちょうどそこへ、兼吉、桑作の二人《ふたり》も顔を見せたので、入り口の土間は一時ごたごたした。
 半蔵も西から帰ったばかりだ。しかし彼は旅の疲れを休めているいとまもなかった。日ごろ出入りの二人の百姓を呼んで村方の様子を聞くまでは安心しなかった。
「兼吉も、桑作も、囲炉裏ばたの方へ上がってくれ。」
 と半蔵がいつもと同じ調子で言った。
 そこは火の気のない囲炉裏ばただ。平素なら兼吉、桑作共に土足で来て踏ン込《ご》むところであるが、その朝は手ぐいで足をはたいて、二人とも半蔵の前にかしこまった。もとより旧《ふる》い主従のような関係の間柄である。半蔵も物をきいて見るのに遠慮はいらない。留守中の村に不幸なものを出したのは彼の不行き届きからであって、その点は深く恥じ深く悲しむということから始めて、せめておおよその人数だけでも知って置きたい、言えるものなら言って見てもらいたい、そのことを彼は二人の前に切り出した。
「旦那、それはおれの口から言えん。」と兼吉が百姓らしい大きな手を額《ひたい》に当てた。「桑さも、おれも、この事件には同類じゃないが、もう火の消えたあとのようなものだで、これについては一切口外しないようにッて、村中の百姓一同でその申し合わせをしましたわい。」
「いや、そういうことなら、それでいい。おれも村からけが人は出したくない。」と半蔵が言った。「おれが心配するのは、これから先のことだ。こういう新しい時世に向かって来たら、お前たちだってうれしかろうに。あのお武家さまがこの街道へ来てむやみといばった時分のことを考えてごらん、百姓は末の考えもないものだなんて言われてさ、まるで腮《あご》で使う器械のように思われたことも考えてごらんな。お前たちは、刀に手をかけたお武家さまから、毎日追い回されてばかりいたじゃないか。御一新ということになって来た。ようやくこんなところへこぎつけた。それを考えたら、お前たちだってもうれしかろう。」
「そりゃ、うれしいどころじゃない。」
「そうか。お前たちもよろこんでいてくれるのか。」


 その時、半蔵には兼吉の答えることが自分の気持ちを迎えるように聞こえて、その「うれしいどころじゃない」もすこし物足りなかった。兼吉のそばに膝《ひざ》をかき合わせている桑作はまた、言葉もすくない。しかしこの二人は彼の家へ出入りする十三人の中でも指折りの百姓であった。そこで彼はこんな場合に話して置くつもりで、さらに言葉をつづけた。
「そんなら言うが、今は地方《じかた》のものが騒ぎ立てるような、そんな時世じゃないぞ、百姓も、町人も、ほんとに一致してかからなかったら、世の中はどうなろう。もっと皆が京都の政府を信じてくれたら、こんな一揆も起こるまいとおれは思うんだ。お前たちからも仲間のものによく話してくれ。」
「そのことはおれたちもよく話すわいなし。」と桑作が答える。
「だれだって、お前、饑《う》え死《じ》にはしたくない。」とまた半蔵が言い出した。「そんなら、そのように、いくらも訴える道はある。今度の政府はそれを聞こうと言ってるんじゃないか。尾州藩でも決して黙ってみちゃいない。ごらんな、馬籠の村のものが一同で嘆願して、去年なぞも上納の御年貢《おねんぐ》を半分にしてもらった。あんな凶年もめったにあるまいが、藩でも心配してくれて、御年貢をまけた上に、米で六十石を三回に分けてさげてよこした。あの時だって、お前、一度分の金が十七両に、米が十俵――それだけは村中の困ってるものに行き渡ったじゃないか。」
「それがです。」と兼吉は半蔵の言葉をさえぎった。「笹屋《ささや》の庄助さのように自分で作ってる農なら、まだいい。どんな時でもゆとりがあるで。水呑百姓《みずのみびゃくしょう》なんつものは、お前さま、そんなゆとりがあらすか。そりゃ、これからの世の中は商人《あきんど》はよからず。ほんとに百姓はツマらんぞなし。食っては、抜け。食っては抜け。それも食って抜けられるうちはまだいい。三月四月の食いじまいとなって見さっせれ。今日どんな稼《かせ》ぎでもして、高い米でもなんでも買わなけりゃならん。」
「そんなにみんな困るのか。困ると言えば、こんな際にはお互いじゃないか。そんなら聞くが、いったい、岩倉様の御通行は何月だったと思う。あの時に出たお救いのお手当てだって、みんなのところへ行き渡ったはずだ。」
「お前さまの前ですが、あんなお手当てがいつまであらすか。みんな――とっくに飲んでしまったわなし。」
 粗野で魯鈍《ろどん》ではあるが、しかし朴直《ぼくちょく》な兼吉の目からは、百姓らしい涙がほろりとその膝《ひざ》の上に落ちた。
 桑作は声もなく、ただただ頭をたれて、朋輩《ほうばい》の答えることに耳を傾けていた。やがてお辞儀をして、兼吉と共にその囲炉裏ばたを離れる時、桑作は桑作らしいわずかの言葉を半蔵のところへ残した。
「だれもお前さまに本当のことを言うものがあらすか。」


「そんなにおれは百姓を知らないかなあ。」
 この考えが半蔵を嘆息させた。過ぐる二月下旬に岩倉総督一行が通行のおりには、まるで祭礼を見物する人たちでしかなかったような村民の無関心――今また、千百五十余人からの百姓の騒擾《そうじょう》――王政第一の年を迎えて見て、一度ならず二度までも、彼は日ごろの熱い期待を裏切られるようなことにつき当たった。
「新政府の信用も、まだそんなに民間に薄いのか。」
 と考えて、また彼は嘆息した。
 彼に言わせると、これは長い年月、共に共に武家の奉公を忍耐して来た百姓にも似合わないことであった。今は時も艱《かた》い上に、軽いものは笞《むち》、入墨《いれずみ》、追い払い、重いものは永牢《えいろう》、打ち首、獄門、あるいは家族非人入りの厳刑をさえ覚悟してかかった旧時代の百姓|一揆《いっき》のように、それほどの苦痛を受けなければ訴えるに道のない武家専横の世の中ではなくなって来たはずだからである。たとい最下層に働くものたりとも、復興した御代《みよ》の光を待つべき最も大切な時と彼には思われるからである。
 しかし、その時の彼はこんな沈思にのみふけっていられなかった。二人の出入りの百姓を送り出して見ると、留守中に彼を待っている手紙や用件の書類だけでも机の上に堆高《うずだか》いほどである。種々《さまざま》な村方の用事は、どれから手をつけていいかわからなかったくらいだ。彼は留守中のことを頼んで置いた清助を家に迎えて見た。犬山の城主|成瀬正肥《なるせまさみつ》、尾州の重臣田宮如雲なぞの動きを語る清助の話は、会津戦争に包まれて来た地方の空気を語っていないものはなかった。彼は自分の家に付属する問屋場の世話を頼んで置いた従兄《いとこ》の栄吉にもあって見た。地方を府県藩にわかつという新制度の実施はすでに開始されて、馬籠の駅長としての半蔵あてに各地から送ってよこした駅路用の印鑑はすべて栄吉の手に預かってくれてあった。栄吉は彼の前にいろいろな改正の印鑑を取り出して見せた。あるものは京都府の駅逓《えきてい》印鑑、あるものは柏崎《かしわざき》県の駅逓印鑑、あるものは民政裁判所の判鑑というふうに。
 彼はまた、宿役人一同の集まる会所へも行って顔を出して見た。そこには、尾州藩の募集に応じ越後口補充の義勇兵として、この馬籠からも出発するという荒町の禰宜《ねぎ》、松下千里のうわさが出ていて、いずれその出発の日には一同峠の上まで見送ろうとの相談なぞが始まっていた。

       六

 木曾谷の奥へは福島の夏祭りもやって来るようになった。馬籠荒町の禰宜《ねぎ》、松下千里は有志の者としてであるが、越後方面への出発の日には朝早く来て半蔵の家の門をたたいた。
「禰宜さま、お早いなし。」
 と言いながら下男の佐吉が本陣表門の繰り戸の扉《とびら》をあけて、千里を迎え入れた。明けやすい街道の空には人ッ子|一人《ひとり》通るものがない。宿場の活動もまだ始まっていない。そんな早いころに千里はすっかりしたくのできたいでたちで、家伝来の長い刀を袋のまま背中に負い、巻き畳《たた》んだ粗《あら》い毛布《けっと》を肩に掛け、風呂敷包《ふろしきづつ》みまで腰に結び着けて、朝じめりのした坂道を荒町から登って来た。
 この禰宜は半蔵のところへ別れを告げに来たばかりでなく、関所の通り手形をもらい受けに来た。これから戦地の方へ赴《おもむ》く諏訪《すわ》分社の禰宜が通行を自由にするためには、宿役人の署名と馬籠宿の焼印《やきいん》の押してある一枚の木札が必要であった。半蔵はすでにその署名までして置いてあったので、それを千里に渡し、妻のお民を呼んで自分でも見送りのしたくした。庄屋らしい短い袴《はかま》に、草履《ぞうり》ばきで、千里と共に本陣を出た。
 どこの家でもまだ戸を閉《し》めて寝ている。半蔵は向かい側の年寄役梅屋五助方をたたき起こし、石垣《いしがき》一つ置いて向こうの上隣りに住む問屋九郎兵衛の家へも声をかけた。そのうちに年寄役伏見屋の伊之助も戸をあけてそこへ顔を出す。組頭《くみがしら》笹屋《ささや》庄助も下町の方から登って来る。脇本陣《わきほんじん》で年寄役を兼ねた桝田屋小左衛門《ますだやこざえもん》と、同役|蓬莱屋《ほうらいや》新助とは、伏見屋より一軒置いて上隣りの位置に対《むか》い合って住む。それらの人たちをも誘い合わせ、峠の上をさして、一同|朝靄《あさもや》の中を出かけた。
「戦争もどうありましょう。江戸から白河口《しらかわぐち》の方へ向かった東山道軍なぞは、どうしてなかなかの苦戦だそうですね。」
「越後口だって油断はならない。東方《ひがしがた》は飯山《いいやま》あたりまで勧誘に入り込んでるそうですぞ。」
「なにしろ大総督府で、東山道軍の総督を取り替えたところを見ると、この戦争は容易じゃない。」
 だれが言い出すともなく、だれが答えるともない声は、見送りの人たちの間に起こった。
 奥筋からの風の便《たよ》りが木曾福島の変事を伝えたのも、その祭りのころであった。尾州代官山村氏の家中衆数名、そのいずれもが剣客|遠藤《えんどう》五平次の教えを受けた手利《てき》きの人たちであるが、福島の祭りの晩にまぎれて重職|植松菖助《うえまつしょうすけ》を水無《みなし》神社分社からの帰り路《みち》を要撃し、その首級を挙《あ》げた。菖助は関所を預かる主《おも》な給人《きゅうにん》である。砲術の指南役でもある。その後妻は尾州藩でも学問の指南役として聞こえた宮谷家から来ているので、名古屋に款《よし》みを通じるとの疑いが菖助の上にかかっていたということである。
 この祭りの晩の悲劇は、尾州藩に対しても絶対の秘密とされた。なぜかなら、この要撃の裏には山村家でも主要な人物が隠れていたとうわさせらるるからである。しかしそれが絶対の秘密とされただけに、名古屋の殿様と福島の旦那《だんな》様との早晩まぬかれがたい衝突を予想させるかのような底気味の悪い沈黙が木曾谷の西のはずれまでを支配し始めた。強大な諸侯らの勢力は会津《あいづ》戦争を背景として今や東と西とに分かれ、この国の全き統一もまだおぼつかないような時代の薄暗さは、木曾の山の中をも静かにしては置かなかった。
 こんな空気の中で、半蔵は伊之助らと共に馬籠本宿の東のはずれ近くまで禰宜《ねぎ》を送って行った。恵那山《えなさん》を最高の峰とする幾つかの山嶽《さんがく》は屏風《びょうぶ》を立て回したように、その高い街道の位置から東の方に望まれる。古代の人の東征とは切り離して考えられないような古い歴史のある御坂越《みさかごえ》のあたりまでが、六月の朝の空にかたちをあらわして、戦地行きの村の子を送るかに見えていた。
 峠の上には、別に宿内の控えとなっている一小部落がある。西のはずれで狸《たぬき》の膏薬《こうやく》なぞを売るように、そこには、名物|栗《くり》こわめしの看板を軒にかけて、木曾路を通る旅人を待つ御休処《おやすみどころ》もある。峠村組頭の平兵衛が家はその部落の中央にあたる一里塚の榎《えのき》の近くにある。その朝、半蔵らは禰宜と共に平兵衛方の囲炉裏ばたに集まって、馬の顔を出した馬小屋なぞの見えるところで、互いに別れの酒をくみかわした。
「越後から逃げて帰って来る農兵もあるし、禰宜さまのように自分から志願して、勇んで出て行く人もある。全く世の中はよくできていますな。」
 問屋九郎兵衛の言い草だ。


「伊之助さん――どうやらこの分じゃ、村からけが人も出さずに済みそうですね。」
「例の百姓一揆のですか。そう言えば、与川《よがわ》じゃ七人だけ、福島のお役所へ呼び出されることになったそうです。ところが七人が七人とも、途中で欠落《かけおち》してしまったという話でさ。」
 半蔵と伊之助とは峠でこんな言葉をかわして笑った。
 とりあえず松本辺まで行ってそれから越後口へ向かうという松下千里が郷里を離れて行く後ろ姿を見送った後、半蔵は伊之助と連れだってもと来た道を帰るばかりになった。峠のふもとをめぐる坂になった道、浅い谷、その辺は半蔵が歩くことを楽しみにするところだ。そこいらではもう暑さを呼ぶような山の蝉《せみ》も鳴き出した。
 非常時の夏はこんな辺鄙《へんぴ》な宿はずれにも争われない。会津戦争の空気はなんとなく各自の生活に浸って来た。それを半蔵らは街道で行きあう村の子供の姿にも、畠《はたけ》の方へ通う百姓の姿にも、牛をひいて本宿の方へ荷をつけに行く峠村の牛方仲間の姿にも読むことができた。時には「尾州藩御用」とした戦地行きの荷物が駄馬《だば》の背に積まれて、深い山間《やまあい》の谿《たに》に響き渡るような鈴音と共に、それが幾頭となく半蔵らの帰って行く道に続いた。
 岩田というところを通り過ぎて、半蔵らは本宿の東の入り口に近い街道の位置に出た。
 半蔵は思い出したように、
「どうでしょう、伊之助さん、こんなところで言い出すのも変なものだが君にきいて見たいことがある。」
「半蔵さんがまた何か言い出す。君はときどき、出し抜けに物を言うような人ですね。」
「まあ、聞いてください。こんな一大変革の時にも頓着《とんちゃく》しないで、きょう食えるか食えないかを考えるのが本当か――それとも、御政治第一に考えて、どんな難儀をこらえても上のものと力をあわせて行くのが本当か――どっちが君は本当だと思いますかね。」
「そりゃ、どっちも本当でしょう。」
「でも、伊之助さん、これで百姓にもうすこし統制があってくれるとねえ。」
 と半蔵は嘆息して、また歩き出した。そういう彼は一度ならず二度までも自分の期待を裏切られるような場合につき当たっても、日ごろから頼みに思う百姓の目ざめを信ずる心は失わなかった。およそ中庸の道を踏もうとする伊之助の考え方とも違って、筋道のないところに筋道のあるとするが彼の思う百姓の道であった。彼は自分の位置が本陣、問屋、庄屋の側にありながら、ずっと以前にもあの抗争の意気をもって起こった峠の牛方仲間を笑えなかったように、今また千百五十余人からのものが世の中建て直しもわきまえないようなむちゃをやり出しても、そのために彼ら名もない民の動きを笑えなかった。
[#改頁]

     第六章

       一

 新帝東幸のおうわさがいよいよ事実となってあらわれて来たころは、その御通行筋に当たる東海道方面は言うまでもなく、木曾街道《きそかいどう》の宿々村々にいてそれを伝え聞く人民の間にまで和宮様《かずのみやさま》御降嫁の当時にもまさる深い感動をよび起こすようになった。
 慶応四年もすでに明治元年と改められた。その年の九月が来て見ると、奥羽《おうう》の戦局もようやく終わりを告げつつある。またそれでも徳川方軍艦脱走の変報を伝え、人の心はびくびくしていて、毎日のように何かの出来事を待ち受けるかのような時であった。
 もはや江戸もない。これまで江戸と呼び来たったところも東京と改められている。今度の行幸《ぎょうこう》はその東京をさしての京都方の大きな動きである。これはよほどの決心なしに動かれる場合でもない。一方には京都市民の動揺があり、一方には静岡《しずおか》以東の御通行さえも懸念《けねん》せられる。途中に鳳輦《ほうれん》を押しとどめるものもあるやの流言もしきりに伝えられる。東山道方面にいて宿駅のことに従事するものはそれを聞いて、いずれも手に汗を握った。というは、あの和宮様御降嫁当時の彼らが忘れがたい経験はこの御通行の容易でないことを語るからであった。
 東海道方面からあふれて来る旅人の混雑は、馬籠《まごめ》のような遠く離れた宿場をも静かにして置かない。年寄役で、問屋後見を兼ねている伏見屋の伊之助は例のように、宿役人一同を会所に集め、その混雑から街道を整理したり、木曾|下《しも》四か宿の相談にあずかったりしていた。七里役(飛脚)の置いて行く行幸のうわさなぞを持ち寄って、和宮様御降嫁当時のこの街道での大混雑に思い比べるのは桝田屋《ますだや》の小左衛門だ。助郷《すけごう》徴集の困難が思いやられると言い出すのは梅屋の五助だ。時を気づかう尾州の御隠居(慶勝《よしかつ》)が護衛の兵を引き連れ熱田《あつた》まで新帝をお出迎えしたとの話を持って来るのは、一番年の若い蓬莱屋《ほうらいや》の新助だ。そこへ問屋の九郎兵衛でも来て、肥《ふと》った大きなからだで、皆の間に割り込もうものなら、伊之助の周囲《まわり》は男のにおいでぷんぷんする。彼はそれらの人たちを相手に、東海道の方に動いて行く鳳輦を想像し、菊の御紋のついた深紅色の錦《にしき》の御旗《みはた》の続くさかんな行列を想像し、惣萌黄《そうもえぎ》の股引《ももひき》を着けた諸士に取り巻かれながらそれらの御旗を静かに翻し行く力士らの光景を想像した。彼はまた、外国の旋条銃《せんじょうじゅう》と日本の刀剣とで固めた護衛の武士の風俗ばかりでなく、軍帽、烏帽子《えぼし》、陣笠《じんがさ》、あるいは鉄兜《てつかぶと》なぞ、かぶり物だけでも新旧時代の入れまじったところは、さながら虹《にじ》のごとき色さまざまな光景をも想像し、この未曾有《みぞう》の行幸を拝する沿道人民の熱狂にまで、その想像を持って行った。
 十月のはじめには、新帝はすでに東海道の新井《あらい》駅に御着《おんちゃく》、途中|潮見坂《しおみざか》というところでしばらく鳳輦を駐《と》めさせられ、初めて大洋を御覧になったという報告が来るようになった。そこにひらけたものは、遠く涯《はて》も知らない鎖国時代の海ではなくて、もはや彼岸《ひがん》に渡ることのできる大洋である。木曾あたりにいて、想像する伊之助にとっても、これは多感な光景であった。
「や、これはよいお話だ。半蔵さんにも聞かせたい。」
 と伊之助は言って見たが、あいにくと半蔵が会所に顔を見せない。この街道筋の混雑の中で、半蔵の父吉左衛門の病は重くなった。中津川から駕籠《かご》で医者を呼ぶの、組頭《くみがしら》の庄助《しょうすけ》を山口村へも走らせるのと、本陣の家では取り込んでいた。

       二

 一日として街道に事のない日もない。ともかくも一日の勤めを終わった。それが会所を片づけて立ち上がろうとするごとに伊之助の胸に浮かんで来ることであった。その二、三日、半蔵が病める父の枕《まくら》もとに付きッきりだと聞くことも、伊之助の心を重くした。彼はその様子を知るために、砂利《じゃり》で堅めた土間を通って、問屋場《といやば》の方をしまいかけている栄吉を見に行った。そこには|日〆帳《ひじめちょう》を閉じ、小高い台のところへ来て、その上に手をつき、叔父《おじ》(吉左衛門のこと)の病気を案じ顔な栄吉を見いだす。栄吉は羽目板《はめいた》の上の位置から、台の前の蹴込《けこ》みのところに立つ伊之助の顔をながめながら、長年中風を煩《わずら》っているあの叔父がここまで持ちこたえたことさえ不思議であると語っていた。
 その足で、伊之助は本陣の母屋《もや》までちょっと見舞いを言い入れに行った。半蔵夫婦をはじめ、お粂《くめ》や宗太まで、いずれも裏二階の方と見えて、広い囲炉裏ばたもひっそりとしている。そこにはまた、あかあかと燃え上がる松薪《まつまき》の火を前にして、母屋を預かり顔に腕組みしている清助を見いだす。
 清助は言った。
「伊之助さま、ここの旦那《だんな》はもう三晩も四晩も眠りません。おれには神霊《みたま》さまがついてる、神霊さまがこのおれを護《まも》っていてくださるから心配するな、ナニ、三晩や四晩ぐらい起きていたっておれはちっともねむくない――そういうことを言われるんですよ。大旦那の病気もですが、あれじゃ看護するものがたまりません。わたしは半蔵さまの方を心配してるところです。」
 それを聞くと、伊之助は病人を疲れさせることを恐れて、裏の隠居所までは見に行かなかった。極度に老衰した吉左衛門の容体、中風患者のこととて冷水で頭部を冷やしたり温石で足部を温《あたた》めたりするほかに思わしい薬もないという清助の話を聞くだけにとどめて、やがて彼は本陣の表門を出た。
 伊之助ももはや三十五歳の男ざかりになる。半蔵より三つ年下である。そんなに年齢《とし》の近いことが半蔵に対して特別の親しみを覚えさせるばかりでなく、きげんの取りにくい養父金兵衛に仕えて来た彼は半蔵が継母のおまんに仕えて来たことにもひそかな思いやりを寄せていた。二人《ふたり》はかつて吉左衛門らの退役と隠居がきき届けられた日に、同じく木曾福島の代官所からの剪紙《きりがみ》(召喚状)を受け、一方は本陣問屋庄屋三役青山吉左衛門|忰《せがれ》、一方は年寄兼問屋後見役小竹金兵衛忰として、付き添い二人、宿方|惣代《そうだい》二人同道の上で、跡役《あとやく》を命ぜられて来たあれ以来の間柄である。
 しかし、伊之助もいつまで旧《もと》の伊之助ではない。次第に彼は隣人と自分との相違を感ずるような人である。いかに父親思いの半蔵のこととは言え、あの吉左衛門発病の当時、たとい自己の寿命を一年縮めても父の健康に代えたいと言ってそれを祷《いの》るために御嶽参籠《おんたけさんろう》を思い立って行ったことから、今また不眠不休の看護、もう三晩も四晩も眠らないという話まで――彼伊之助には、心に驚かれることばかりであった。
「どうして半蔵さんはああだろう。」


 本陣から上隣りの石垣《いしがき》の上に立つ造り酒屋の堅牢《けんろう》な住居《すまい》が、この伊之助の帰って行くのを待っていた。西は厚い白壁である。東南は街道に面したがっしりした格子である。暗い時代の嵐《あらし》から彼が逃げ込むようにするところも、その自分の家であった。
 伏見屋では表格子の内を仕切って、一方を店座敷に、一方の入り口に近いところを板敷きにしてある。裏の酒蔵の方から番頭の運んで来る酒はその板敷きのところにたくわえてある。買いに来るものがあれば、桝《ます》ではかって売る。新酒揚げの日はすでに過ぎて、今は伏見屋でも書き入れの時を迎えていた。売り出した新酒の香気《かおり》は、伊之助が宿役人の袴《はかま》をぬいで前掛けにしめかえるところまで通って来ていた。
「お父《とっ》さんは。」
 伊之助はそれを妻のお富にたずねた。隠居金兵衛も九月の下旬から中津川の方へ遊びに行き、月がかわって馬籠に帰って来ると持病の痰《たん》が出て、そのまま隠宅へも戻《もど》らずに本家の二階に寝込んでいるからであった。伊之助にしても、お富にしても、二人は両養子である。隣家に病む吉左衛門よりも年長の七十二歳にもなる養父がいかに精力家だからとはいいながら、もうそう長いこともあるまいと言い合って、なんでもしたいことはさせるがいいとも言い合って、夫婦共に腫物《はれもの》にさわるようにしている。
 ちょうどお富は夕飯のしたくにかかっていたが、台所の流しもとの方からまた用事ありげに夫のそばへ来た。見ると、夫は何か独語《ひとりごと》を言いながら、黒光りのする大黒柱《だいこくばしら》の前を往《い》ったり来たりしていた。
「もうすこし、あたりまえということが大切に思われてもいいがナ。」
「まあ、あなたは何を言っていらっしゃるんですかね。」
「いや、おれはお父《とっ》さんに対して言ってるんじゃない。今の世の中に対してそう言ってるんさ。」
 この伊之助の言うことがお富を笑わせもし、あきれさせもした。何が「あたりまえ」で、何がそんな独語《ひとりごと》を言わせるのやら、彼女にはちんぷん、かんぷんであったからで。
 その時、お富は峠の組頭が来て夫の留守中に置いて行った一幅の軸をそこへ取り出した。それは木曾福島の代官山村氏が御勝手仕法立《おかってしほうだて》の件で、お払い物として伊之助にも買い取ってもらいたいという旦那様愛蔵の掛け物の一つであった。あの平兵衛が福島の用人からの依頼を受けて、それを断わりきれずに、あちこちと周旋奔走しているという意味のものでもあった。
「へえ、平兵衛さんがこんなものを置いて行ったかい。」
「あの人もお払い物を頼まれて、中津川の方へ行って来るから、帰るまでこれを預かってくれ、旦那がお留守でも話のわかるようにしといてくれ、そう言って置いて行きましたよ。」
「平兵衛さんも世話好きさね。それにしても、あの山村様からこういう物が出るようになったか。まあ、お父《とっ》さんともあとで相談して見る。」
 もともと養父金兵衛は木曾谷での分限者《ぶげんしゃ》に数えられた馬籠の桝田屋惣右衛門《ますだやそうえもん》父子の衣鉢《いはつ》を継いで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、山林には木の苗を植え、時には米の売買にもたずさわって来た人である。その年の福島の夏祭りの夜に非命の最期をとげた植松菖助《うえまつしょうすけ》なぞは御関所番《おせきしょばん》の重職ながらに膝《ひざ》をまげて、生前にはよく養父のところへ金子《きんす》の調達を頼みに来たものだ。その実力においては次第に福島の家中衆からもおそれられたが、しかし養父とても一町人である。結局、多くのひくい身分のものと同じように、長いものには巻かれることを子孫繁栄の道とあきらめて来た。天明《てんめい》六年度における山村家が六千六百余両の無尽の発起をはじめ、文久二年度に旦那様の七千両の無尽の発起、同じ四年度に岩村藩の殿様の三万両の無尽の発起など、それらの大口ものの調達を依頼されるごとに、伏見屋でも二百両、二百三十両と年賦で約束して来た御上金《おあげきん》のことを取り出すまでもなく、やれお勝手の不如意《ふにょい》だ、お家の大事だと言われるたびに、養父が尾州代官の山村氏に上納した金高だけでもよほどの額に上ろう。
 伊之助はこの養父の妥協と屈伏とを見て来た。変革、変革の声で満たされている日が来たことは、町人としての彼を一層用心深くした。この大きな混乱の中に巻き込まれるというは、彼には恐ろしいことであった。いつでもそこから逃げ込むようにするところは、養父より譲られた屋根の下よりほかになかった。頼むは、忠、孝、正直、倹約、忍耐、それから足ることを知り分に安んぜよとの町人の教えよりほかになかった。
 そういう彼は少年期から青年期のはじめへかけてを、学問、宗教、工芸、商業なぞの早く発達した隣国の美濃《みの》に送った人で、文字の嗜《たしな》みのない男でもない。日ごろ半蔵を感心させるほどの素直な歌を詠《よ》む。彼が開いて見る本の中には京大坂の町人の手に成った古版物や新版物の類もある。そういうものから彼が見つけて来たのは、平常な心をもつものの住む世界であった。彼は見るもの聞くものから揺られ通しに揺られていて、ほとほと彼の求めるような安らかさも、やさしさも、柔らかさも得られないとしている。彼は都会の町人が狭い路地なぞを選んで、そこに隠れ住むあのわびを愛する。また、あの細《ほそ》みを愛する。彼は養子らしいつつしみ深さから、自分の周囲にある人たちのことばかりでなく、みずから志士と許してこの街道を往来する同時代の人たちのあの度はずれた興奮を考えて見ることもある。驚かずにはいられなかった。伊那《いな》の谷あたりを中心にして民間に起こって来ている実行教(富士講)の信徒が、この際、何か特殊な勤倹力行と困苦に堪《た》えることをもって天地の恩に報いねばならないということを言い出し、一家全員こぞって種々《さまざま》な難行事を選び、ちいさな子供にまで、早起き、はいはい、掃除《そうじ》、母三拝、その他|飴菓子《あめがし》を買わぬなどの難行事を与えているようなあの異常な信心ぶりを考えて見ることもある。これにも驚かずにはいられなかった。
 しかし、彼は養父の金兵衛とも違い、隣家の半蔵と共になんとかしてこのむつかしい時を歩もうとするだけの若さを持っていた。豊太閤《ほうたいこう》の遺徳を慕うあの京大坂の大町人らが徳川幕府打倒の運動に賛意を表し、莫大《ばくだい》な戦費を支出して、新政府を助けていると聞いては、それを理解するだけの若さをも持っていた。いかに言っても、彼は受け身に慣れて来た町人で、街道を吹き回す冷たい風から立ちすくんでしまう。その心から、絶えず言いあらわしがたい恐怖と不安とを誘われていた。


 夕飯と入浴とをすました後、伊之助は峠の組頭が置いて行った例の軸物を抱いて、広い囲炉裏ばたの片すみから二階への箱梯子《はこばしご》を登った。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて置いて、彼は二階の西向きの窓に近く行った。提灯《ちょうちん》でもつけて水をくむらしい物音が隣家の深い井戸の方から、その窓のところに響けて来ていた。
「お父さん、」とまた彼は窓に近い位置から、次ぎの部屋《へや》に寝ていた金兵衛に声をかけた。「今ごろ、本陣じゃ水をくみ上げています。釣瓶繩《つるべなわ》を繰る音がします。」
 金兵衛は東南を枕《まくら》にして、行燈《あんどん》を引きよせ、三十年来欠かしたことのないような日記をつけているところだった。伊之助の言うことはすぐ金兵衛にも読めた。
「吉左衛門さんもおわるいと見えるわい。」
 と金兵衛は身につまされるように言って、そばへ来た伊之助と同じようにしばらく耳を澄ましていた。この隠居は痰《たん》が出て歩行も自由でないの、心やすい人のほかはあまり物も言いたくないの、それもざっと挨拶《あいさつ》ぐらいにとどめてめんどうな話は御免こうむるのと言っているが、持って生まれた性分《しょうぶん》から枕《まくら》の上でもじっとしていない人だ。
「さっき、わたしは本陣へお寄り申して来ました。半蔵さんは病人に付きッきりで、もう三晩も四晩も眠らないそうです。今夜もあの人は徹夜でしょう。」
 伊之助はそれを養父に言って見せ、やがて山村家のお払い物を金兵衛の枕もとに置いて、平兵衛の話をそこへ持ち出した。これはどうしたものか、とその相談をも持ちかけた。
「伊之助、そんなことまでこのおれに相談しなくてもいいぞ。」
 と言いながらも、金兵衛は蒲団《ふとん》から畳の上へすこし乗り出した。平常から土蔵の前の梨《なし》の木に紙袋をかぶせて置いて、大風に落ちた三つの梨のうちで、一番大きな梨の目方が百三匁、ほかの二つは六十五匁ずつあったというような人がそこへ頭を持ち上げた。
「お父さん、ちょっとこの行燈《あんどん》を借りますよ。よく見えるところへ掛けて見ましょう。」
 伊之助は代官の生活を連想させるような幅をその部屋の床の間に掛けて見せた。竹に蘭《らん》をあしらって、その間に遊んでいる五羽の鶏を描き出したものが壁の上にかかった。それは権威の高い人の末路を語るかのような一幅の花鳥の絵である。過去二百何十年にもわたってこの木曾谷を支配し、要害無双の関門と言われた木曾福島の関所を預かって来たあの旦那様にも、もはや大勢《たいせい》のいかんともしがたいことを知る時が来て、太政官《だじょうかん》からの御達《おたっ》しや総督府からの催促にやむなく江戸屋敷を引き揚げた紀州方なぞと同じように、いよいよ徳川氏と運命を共にするであろうかと思わせるようなお払い物である。
「どれ、一つ拝見するか。」
 金兵衛は寝ながらながめていられない。彼は寝床を離れて、寝衣《ねまき》の上に袷羽織《あわせばおり》を重ね、床の間の方へはって行った。老いてはいるが、しかしはっきりした目で、行燈のあかりに映るその掛け物を伊之助と一緒に拝見に行った。彼は福島の旦那様の前へでも出たように、まず平身低頭の態度をとった。それからながめた。濃い、淡い、さまざまな彩色の中には、夜のことで隠れる色もあり、時代がついて変色した部分もある。
「長くお世話になった旦那様に、金でお別れを告げるようで、なんだか水臭いな。水臭いが、これも時世だ。伊之助――品はよく改めて見ろよ。」
「お父さん、ここに落款《らっかん》が宗紫山《そうしざん》としてありますね。」
「これはシナ人の筆だろうか、どうも宗紫山とは聞いたことがない。」
「さあ、わたしにもよくわかりません。」
「何にしろ、これは古い物だ。それに絹地だ。まあ、気に入っても入らなくても、頂《いただ》いて置け。これも御恩返しの一つだ。」
「時に、お父さん、これはいくらに頂戴《ちょうだい》したものでしょう。」
「そうさな。これくらいは、はずまなけりゃなるまいね。」
 その時、金兵衛は皺《しわ》だらけな手をぐっと養子の前に突き出して、五本の指をひろげて見せた。
「五両。」
 とまた金兵衛は言って、町人|風情《ふぜい》の床の間には過ぎた物のようなその掛け軸の前にうやうやしくお辞儀一つして、それから寝床の方へ引きさがった。

       三

  雨のふるよな
  てっぽの玉のくる中に、
   とことんやれ、とんやれな。
  命も惜しまず先駆《さきがけ》するのも
  みんなおぬしのためゆえじゃ。
   とことんやれ、とんやれな。

  国をとるのも、人を殺すも、
  だれも本意じゃないけれど、
   とことんやれ、とんやれな。
  わしらがところの
  お国へ手向かいするゆえに。
   とことんやれ、とんやれな。

 馬籠《まごめ》の宿場の中央にある高札場の前あたりでは、諸国流行の唄《うた》のふしにつれて、調練のまねをする子供らの声が毎日のように起こった。
 その名を呼んで見るのもまだ多くのものにめずらしい東京の方からは新帝も無事に東京城の行宮《かりみや》西丸に着御《ちゃくぎょ》したもうたとの報知《しらせ》の届くころである。途中を気づかわれた静岡あたりの御通行には、徳川家が進んで駿河《するが》警備の事に当たったとの報知も来る。多くの東京市民は御酒頂戴《ごしゅちょうだい》ということに活気づき、山車《だし》まで引き出して新しい都の前途を祝福したと言い、おりもおりとて三、四千人からの諸藩の混成隊が会津戦争からそこへ引き揚げて来たとの報知もある。馬籠の宿場では、毎日のようにこれらの報知を受け取るばかりでなく、一度は生命の危篤を伝えられた本陣吉左衛門の病状が意外にもまた見直すようになったことまでが、なんとなく宿内の人気を引き立てた。
 ある日も、伊之助は伏見屋の店座敷にいて、周囲の事情にやや胸をなでおろしながら会所へ出るしたくをするところであった。彼は隣家の主人がまだ宿内を見回るまでには至るまいと考え、自分の力にできるだけのことをして、なるべくあの半蔵を休ませたいと考えた。その時、店座敷の格子の外へは、街道に戯れている子供らの声が近づいて来る。彼は聞くともなしにその無心な流行唄《はやりうた》を聞きながら、宿役人らしい袴《はかま》をつけていた。
 そこへお富が来た。お富は自分の家の子供らまでが戦《いくさ》ごっこに夢中になっていることを伊之助に話したあとで言った。
「でも、妙なものですね。ちょうどおとなのやるようなことを子供がやりますよ。梅屋の子供が長州、桝田屋《ますだや》の子供が薩摩《さつま》、それから出店《でみせ》(桝田屋分家)の子供が土佐とかで、みんな戦ごっこです。わたしが吾家《うち》の次郎に、お前は何になるんだいと聞いて見ましたら、あの子の言うことがいい。おれは尾州ですとさ。」
「へえ、次郎のやつは尾州かい。」
「えゝ、その尾州――ほんとに、子供はおかしなものですね。ところが、あなた、だれも会津になり手がない。」
 この「会津になり手がない」が伊之助を笑わせた。お富は言葉をついで、
「そこは子供じゃありませんか。次郎が蓬莱屋《ほうらいや》の子に、桃さ、お前は会津におなりと言っても、あの蓬莱屋の子は黙っていて、どうしても会津になろうとは言い出さない。桃さ、お前がなるなら、よい物を貸す、吾家《うち》のお父《とっ》さんに買ってもらった大事な木の太刀《たち》を貸す、きょうも――あしたも――ずっと明後日《あさって》もあれを貸す、そう次郎が言いましたら、蓬莱屋の子はよっぽど借りたかったと見えて、うん、そんならおれは会津だ、としまいに言い出したそうです。会津になるものは討《う》たれるんだそうですからね。」
「よせ、そんな話は。おれは大げさなことはきらいだ。」
 ごくわずかの時の間に、伊之助はお富からこんな子供の話を聞かされた。彼は会所へ出かける前、ちょっと裏の酒蔵の方を見回りに行ったが、無心な幼いものの世界にまで激しい波の浸って来ていることを考えて見ただけでもハラハラした。でも、お富の言って見せたことが妙に気になって、天井の高い造酒場の内を一回りして来たあとで、今度は彼の方からたずねて見た。
「お富、子供の戦さごっこはどんなことをするんだえ。」
「そりゃ、あなた、だれも教えもしないのに、石垣《いしがき》の下なぞでわいわい騒いで、会津になるものを追い詰めて行くんですよ。いよいよ石垣のすみに動けなくなると、そこで戦さに負けたものの方が、参った――と言い出すんです。まあ、どこから会津戦争のことなぞを覚えて来るんでしょう。あんなちいさな子供がですよ。」


 十月も末に近くなって、毎年定例の恵比寿講《えびすこう》を祝うころになると、全く東北方面も平定し、従軍士卒の帰還を迎える日が来た。過ぐる閏《うるう》四月に、尾州の御隠居(徳川|慶勝《よしかつ》)が朝命をうけて甲信警備の部署を名古屋に定め、自ら千五百の兵を指揮して太田に出陣し、家老|千賀与八郎《ちがよはちろう》は先鋒《せんぽう》総括として北越に進軍した日から数えると、七か月にもなる。近国の諸侯で尾州藩に属し応援を命ぜられたのは、三河《みかわ》の八藩、遠江《とおとうみ》の四藩、駿河《するが》の三藩、美濃の八藩、信濃《しなの》の十一藩を数える。当時北越方面の形勢がいかに重大で、かつ危急を告げていたかは、これらの中国諸藩の動きを見てもおおよそ想像せられよう。
 もはや、東山道軍と共に率先して戦地に赴《おもむ》いた山吹藩《やまぶきはん》の諸隊は伊那の谷に帰り、北越方面に出動した高遠《たかとお》、飯田《いいだ》二藩の諸隊も続々と帰国を急ぎつつあった。越後口から奥州路《おうしゅうじ》に進出し、六十里|越《ごえ》、八十里越のけわしい峠を越えて会津口にまで達したという従軍の諸隊は、九月二十二日の会津落城と共に解散命令が下ったとの話を残し、この戦争の激しかったことをも伝えて置いて、すでに幾組となく馬籠峠の上を西へと通り過ぎて行った。
 この凱旋兵《がいせんへい》の通行は十一月の十日ごろまで続いた。時には五百人からの一組が三留野《みどの》方面から着いて、どっと一時に昼時分の馬籠の宿場にあふれた。ようやくそれらの混雑も沈まって行ったころには、かねて馬籠から戦地の方へ送り出した荒町の禰宜《ねぎ》松下千里も、遠く奥州路から無事に帰って来るとの知らせがある。その日には馬籠組頭としての笹屋《ささや》庄助も峠の上まで出迎えに行った。
「お富、早いものじゃないか。荒町の禰宜さまがもう帰って来るそうだよ。」
 その言葉を残して置いて、伊之助は伏見屋の門口を出た。彼は従軍の禰宜を待ち受ける心からも、また会所勤めに通って行った。
 連日の奔走にくたぶれて、会所に集まるものはいずれも膝《ひざ》をくずしながら、凱旋兵士のうわさや会津戦争の話で持ちきった。その日の昼過ぎになっても松下千里は見えそうもないので、家事にかこつけて疲れを休めに帰って行く宿役人もある。例の会所の店座敷にはひとりで気をもむ伊之助だけが残った。本陣付属の問屋場もにわかに閑散になって、到着荷物の順を争うがやがやとした声も沈まって行った時だ。隣宿|妻籠《つまご》からの二人の客がそこへ見えた。妻籠本陣の寿平次と、脇《わき》本陣の得右衛門《とくえもん》とだ。
「やれ、やれ、これでわたしたちも安心した。吉左衛門さんの病気もあの調子で行けば、まず峠を越したようなものです。」
 そういう妻籠の連中の声を聞くと、伊之助はその店座敷の一隅《いちぐう》に客の席をつくるほど元気づいた。同じ宿駅の勤めに従いながら、寿平次らがすこしも疲れたらしい様子のないには、これにも彼は感心した。連日の疲労を休める暇もなく、本陣への病気見舞いに来て、今その帰りがけであるということも、彼をよろこばせた。
「まあ、座蒲団《ざぶとん》でも敷いてください。ここは会所で何もおかまいはできませんが、お茶でも一つ飲んで行ってください。」と言いながら、伊之助は手をたたいて、会所の小使いを呼んだ。熱い茶の用意を命じて置いて、吉左衛門のうわさに移った。
「なんと言っても、馬籠のお父《とっ》さん(吉左衛門のこと)にはねばり強いところがありますね。」と言い出すのは寿平次だ。
「そりゃ、寿平次さん、何十年となくこの街道の世話をして来た人で、からだの鍛えからして違いますさ。」と言うのは得右衛門だ。「どうもあの病人は、寝ていても宿場のことを心配する。ああ気をもんじゃえらい。自分の病気から、半蔵の勤めぶりにまで響くようじゃ申しわけがない、青山親子に怠りがあると言われてはまことに済まないなんて、吉左衛門さんはどこまでも吉左衛門さんらしい。」
「へえ、そんなお話が出ましたか。」と伊之助は二人の話を引き取った。「なにしろ、看護も届いたんです。あれで半蔵さんは七日か八日もろくに寝なかったでしょう。よくからだが続きましたよ。わたしはあの人を疲れさせないようにと思って、会所の事務なぞはなるべく自分で引き受けるようにしていましたが、そこへあの凱旋《がいせん》、凱旋でしょう。助郷《すけごう》の人馬は滞る。御剪紙《おきりがみ》は来る。まったく一時は目を回してしまいました。」
「いや、はや、今度の御通行には妻籠でも心配しましたよ。」と得右衛門は声を潜めながら、「何にしろ、戦《いくさ》に勝って来た勢いで、鼻息が荒いや。あれは先月の二十八日でした。妻籠へは鍬野《くわの》様からお知らせがあって、あすお着きになるおおぜいの御家中方へは、宿々でもごちそうする趣だから、妻籠でもその用意をするがいいなんて、そんなことを言って来ましたっけ。こちらはおおぜいの御通行だけでも難渋するところへもって来て、ごちそうの用意さ。大まごつきにも何にも。あのお知らせは馬籠へもありましたろう。」
「ありました。」と伊之助はそれを承《う》けて、「なんでも最初のお知らせのあった時は、お取り持ちのしかたが足りないとでも言われるのかぐらいに思っていました。奥筋の方でもあの御家中方には追い追い難儀をしたとありましたが、その意味がはっきりしませんでした。そこへ、また二度目の知らせがある。今度は飛脚で、しかも夜中にたたき起こされる。あの時ばかりは、わたしもびっくりしましたよ。上《かみ》四か宿の内で、宿役人が一人《ひとり》に女中が一人手打ちにされて、首を二つ受け取ったと言うんでしょう。」
「その話さ。三留野《みどの》あたりの旅籠屋《はたごや》じゃ、残らず震えながらお宿をしたとか聞きましたっけ。」と得右衛門が言う。
「待ってくださいよ。」と伊之助は思い出したように、「実は、あとでわたしも考えて見ました。これには何か子細があります。凱旋の酒の上ぐらいで、まさかそんな乱暴は働きますまい。福島辺は今、よほどごたごたしていて、官軍の迎え方が下《しも》四か宿とは違うんじゃありますまいか。その話をわたしは吾家《うち》の隠居にしましたところ、隠居はしばらく黙っていました。そのうちに、あの隠居が何を言い出すかと思いましたら、しかし街道の世話をする宿役人を手打ちにするなんて、はなはだもってわがままなしかただ、いくら官軍の天下になったからって、そんなわがままは許せない、ですとさ。」
「いや、その説にはわたしも賛成だ。」と寿平次は言った。「君のところの老人は金をもうけることにも抜け目がないが、あれでなかなか奇骨がある。」


 奥州から越後の新発田《しばた》、村松、長岡《ながおか》、小千谷《おぢや》を経、さらに飯山《いいやま》、善光寺、松本を経て、五か月近い従軍からそこへ帰って来た人がある。とがった三角がたの軍帽をかぶり、背嚢《はいのう》を襷掛《たすきが》けに負い、筒袖《つつそで》を身につけ、脚絆草鞋《きゃはんわらじ》ばきで、左の肩の上の錦《にしき》の小片《こぎれ》に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
 千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶《あいさつ》に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
 その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐《ひも》もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
 さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方《ひょうろうかた》の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降《くだ》った米沢藩《よねざわはん》を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠《かさ》をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下《のきした》に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口《しらかわぐち》よりするもの、米沢口よりするもの、保成口《ぼなりぐち》、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木|為輔《ためすけ》、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担《にな》って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手《しょて》の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「いや、戦地の方へ行って見て、自分の想像と違うことはいろいろありました。同じ官軍仲間でも競争のはげしいには、これにもたまげましたね。どこの兵隊は手ぬるいの、どこの兵隊はまるで戦争を見物してるのッて、なかなか大やかまし。一緒に戦争するのはいやだなんて、しまいまで仲の悪かった味方同志のものもありましたよ。あれは九月の十九日でした、米沢藩の兵が着いたことがありました。ところがこの米沢兵と来たら、七連銃の隊もあるし、火繩仕掛《ひなわじか》けの三十目銃の隊もあるし、ミンベール銃とかの隊もある。大牡丹《おおぼたん》、小牡丹、いれまざりだ。おまけに木綿《もめん》の筒袖《つつそで》で、背中には犬の皮を背負《しょ》ってる。さあ、みんな笑っちまって、そんな軍装の異様なことまでが一つ話にされるという始末でしょう。ちょっとした例がそれですよ。」
 気の置けない郷里の人たちを前にしての千里の土産話《みやげばなし》には、取りつくろったところがない。この禰宜はただありのままを語るのだと言って、さらにうちとけた調子で、
「これはまあ、大きな声じゃ言われないが、戦地の方でわたしも聞き込んで来たことがあります。土佐あたりの人に言わせると、今度の戦争は諸国を統一する御主旨でも、勝ち誇って帰る各藩有力者の頭をだれが抑《おさ》えるか。そういうことを言っていました。七百年来も武事に関しないお公家《くげ》さまが朝廷に勢力を占めたところで、所詮《しょせん》永続《ながつづ》きはおぼつかない。きっと薩摩《さつま》と長州が戦功を争って、不和を生ずる時が来る。そうなると、元弘《げんこう》、建武《けんむ》の昔の蒸し返しで、遠からずまた戦乱の世の中となるかもしれない。まあ、われわれは高知の方へ帰ったら、一層兵力を養って置いて、他日真の勤王をするつもりですとさ。ごらんなさい――土佐あたりの人はそんな気で、会津戦争に働いていましたよ。そりゃ一方に戦功を立てる藩があれば、とかく一方にはそれを嫉《ねた》んで、窮《こま》るように窮るようにと仕向ける藩が出て来る。こいつばかりは訴えようがない。そういうことをよく聞かされました。土佐もあれで今度の戦争じゃ、だいぶ鼻を高くしていますからね。」
 こんな話をも残した。
 千里が荒町の方へ帰って行った後、得右衛門と寿平次とは互いに顔を見合わせていて、容易に腰を持ち上げようとしない。禰宜の置いて行った話は妙に伊之助をも沈黙させた。
「さすがに、会津は最後までやった。」と得右衛門は半分ひとりごとのように言って、やがて言葉の調子を変えて、
「そう言えば、今の禰宜さまの話さ。どうでしょう、伊之助さん、あの禰宜さまが土佐の人から聞いて来たという話は。」
 伊之助は即座に答えかねていた。
「さあ、ねえ。」とまた得右衛門は伊之助の返事を催促するように、「半蔵さんならなんと言いますかさ。この世の中が遠からずまた大いに乱れるかもしれないなんて、そんなことを言われたんじゃ、実際わたしたちはやりきれない。武家の奉公はもうまッぴら。」
「得右衛門さん、」と伊之助は力を入れて言った。「半蔵さんの言うことなら、わたしにはちゃんとわかってます。あの人なら、そう薩摩《さつま》や長州の自由になるもんじゃないと言いましょう。今度の復古は下からの発起ですから、人民の心に変わりさえなければ、また武家の世の中になるようなことは決してないと言いましょう。」
「どうです、寿平次さん、君の意見は。よっぽど考うべき時世ですね。」と得右衛門が言う。
「わたしですか。わたしはまあ高見の見物だ。」
 寿平次はその調子だ。

       四

 東北戦争――多年の討幕運動の大詰《おおづめ》ともいうべき戊辰《ぼしん》の遠征――その源にさかのぼるなら、開国の是非をめぐって起こって来た安政大獄あたりから遠く流れて来ている全国的の大争いが、この戦争に運命を決したばかりでなく、おそらく新しい時代の舞台はまさにこの戦争から一転するだろうとさえ見えて来た。
 当時、この日の来るのを待ち受けていた人たちのことについては、実にいろいろな話がある。阿島の旗本の家来で国事に心を寄せ、王室の衰えを慨《なげ》くあまりに脱籍して浪人となり、元治《げんじ》年代の長州志士らと共に京坂の間を活動した人がある。たまたま元治|甲子《きのえね》の戦さが起こった。この人は漁夫に変装して日々|桂川《かつらがわ》に釣《つ》りを垂《た》れ、幕府方や会津桑名の動静を探っては天龍寺にある長州軍の屯営《とんえい》に通知する役を勤めた。その戦さが長州方の敗退に終わった時、巣内式部《すのうちしきぶ》ら数十人の勤王家と共に幕吏のために捕えられて、京都六角の獄に投ぜられた。後に、この人は許されたが、王政復古を聞くと同時によろこびのあまりにか、精神に異状を来たしてしまったという。おそらくこの不幸な勤王家はこんな全国統一の日の来たことすら知るまいとの話もある。
 時代の空気の薄暗さがおよそいかなる程度のものであったかは、五年の天井裏からはい出してようやくこんな日のめを見ることのできた水戸《みと》の天狗連《てんぐれん》の話にもあらわれている。その侍は水戸家に仕えた大津地方の門閥家で、藤田《ふじた》小四郎らの筑波組《つくばぐみ》と一致の行動は執らなかったが、天狗残党の首領として反対党からしきりに捜索せられた人だ。辻々《つじつじ》には彼の首が百両で買い上げられるという高札まで建てられた人だ。水戸における天狗党と諸生党との激しい党派争いを想像するものは、直ちにその侍の位置を思い知るであろう。筑波組も西に走ったあとでは彼の同志はほとんど援《たす》けのない孤立のありさまであった。襲撃があるというので、一家こぞって逃げなければならない騒ぎだ。長男には家に召使いの爺《じい》をつけて逃がした。これはある農家に隠し、馬小屋の藁《わら》の中に馬と共に置いたが、人目については困るというので秣《まぐさ》の飼桶《かいおけ》をかぶせて置いた。夫人には二人《ふたり》の幼児と下女を一人《ひとり》連れさせて、かねて彼が後援もし危急を救ったこともある平潟《ひらがた》の知人のもとをたよって行けと教えた。これはお尋ね者が来ても決して匿《かく》してはならないとのきびしいお達しだからと言って断わられ、日暮れごろにとぼとぼと帰路についた。おりよくある村の農家のものが気の毒がって、そこに三、四日も置いてくれたので、襲撃も終わり危険もないと聞いてから夫人らは家に帰った。当時は市川三左衛門《いちかわさんざえもん》をはじめ諸生党の領袖《りょうしゅう》が水戸の国政を左右する際で、それらの反対党は幕府の後援により中山藩と連合して天狗残党を討《う》とうとしていたので、それを知った彼は場合によっては天王山《てんのうざん》に立てこもるつもりで、武器をしらべると銃が七|挺《ちょう》あるに過ぎない。土民らはまた蜂起《ほうき》して反対党の先鋒となり、竹槍《たけやり》や蓆旗《むしろばた》を立てて襲って来たので、彼の同志数十人はそのために斃《たお》れ、あるものは松平周防守《まつだいらすおうのかみ》の兵に捕えられ、彼は身をもって免かれるというありさまであった。その時の彼は、日中は山に隠れ、夜になってから歩いた。各村とも藩命によって出入り口に関所の設けがある。天狗党の残徒にとっては到底のがれる路《みち》もない。大胆にも彼はその途中から引き返し、潜行して自宅に戻《もど》って見ると、家はすでに侵掠《しんりゃく》を被って、ついに身の置きどころとてもなかったが、一策を案じてかくれたのがその天井裏だ。その時はまだ捜索隊がいて、毎日昼は家の内外をあらために来る。天井板をずばりずばり鎗で突き上げる。彼は梁《うつばり》の上にいながら、足下に白く光るとがった鎗先を見ては隠れていた。三峰山《みつみねさん》というは後方にそびえる山である。昼は人目につくのを恐れて天井裏にいても、夜は焼き打ちでもされてはとの懸念《けねん》から、その山に登って藪《やぶ》の中に様子をうかがい、夜の明けない先に天井裏に帰っているというのが彼の身を隠す毎日の方法であった。何を食ってこんな人が生きていられたろう。それには家のものが握飯《むすび》を二日分ずつ笊《ざる》に入れ、湯は土瓶《どびん》に入れて、押入れに置いてくれる。彼は押入れの天井板を取り除き、そこから天降《あまくだ》りで飲み食いするものにありつき、客でも来るごとにその押入れに潜んでいてそれとなく客の話に耳を澄ましたり世間の様子をうかがったりした。時には、次男が近所の子供を相手に隠れんぼをはじめ、押入れに隠れようとして、家にはいないはずの父をそこに見つける。まっ黒な顔。延びた髪と髯《ひげ》。光った目。その父が押入れの中ににらんで立っているのを見ると、次男はすぐに戸をぴしゃんとしめて他のところへ行って隠れた。子供心にもそれを口外しては悪いと考えたのであろう。時にはまた、用を達《た》すための彼が天井裏から床下に降りて行って、下男に見つけられることもある。驚くまいことか、下男はまっ黒な貉《むじな》のようなやつが縁の下にいると言って、それを告げに夫人のところへ走って行く。まさかそれが旦那《だんな》だとは夫人も言いかねて、貉か犬でもあろうから捧で突ッついて見よなぞと言い付けると、早速《さっそく》下男が竹竿《たけざお》を取り出して来て突こうとするから、たまらない。幸いその床下には大きな炉が切ってあって、彼はそのかげに隠れたこともある。五年の月日を彼はそんな暗いところに送った。いよいよ王政復古となったころは、彼は長い天井裏からはい出し、大手を振って自由に濶歩《かっぽ》しうる身となった。のみならず、水戸藩では朝命を奉じて佐幕派たる諸生党を討伐するというほどの一変した形勢の中にいた。彼としては真《まこと》に時節到来の感があったであろう。間もなく彼は藩命により、多年|怨《うら》みの敵なる市川三左衛門らの徒を捕縛すべく従者数名を伴い奥州に赴《おもむ》いたという。官軍が大挙して奥羽同盟の軍を撃破するため東北方面に向かった時は、水戸藩でも会津に兵を出した。その中に、同藩銃隊長として奮戦する彼を見かけたものがあったとの話もある。


 すべてがこの調子だとも言えない。水戸ほど苦しい抗争を続けた藩もなく、また維新直後にそれほど恐怖時代を顕出した地方もめずらしいと言われる。しかし、信州|伊那《いな》の谷あたりだけでも、過ぐる年の密勅事件に関係して自ら毒薬を仰いだもの、元治年代の長州志士らと運命を共にしたもの、京都六角通りの牢屋《ろうや》に囚《とら》われの身となっていたものなぞは数え切れないほどある。いよいよ東北戦争の結果も明らかになったころは、それらの恨みをのんで倒れて行ったものの記憶や、あるいは闇黒《あんこく》からはい出したものの思い出のさまざまが、眼前の霜葉《しもは》枯れ葉と共にまた多くの人の胸に帰って来た。
 今さら、過ぐる長州征伐の結果をここに引き合いに出すまでもないが、あの征伐の一大失敗が徳川方を覚醒《かくせい》させ、封建諸制度の革新を促したことは争われなかった。いわゆる慶応の改革がそれで、二百年間の繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が非常な勢いで廃止され、上下共に競って西洋簡易の風《ふう》に移ったのも皆その結果であった。旧《ふる》い伝馬制度の改革が企てられたのもあの時からで、諸街道の人民を苦しめた諸公役らの無賃伝馬も許されなくなり、諸大名の道中に使用する人馬の数も減ぜられ、問屋場|刎銭《はねせん》の割合も少なくなって、街道宿泊の方法まで簡易に改められるようになって行きかけていた。今度の東北戦争の結果は一層この勢いを助けもし広げもして、軍制武器兵服の改革は言うまでもなく、身分の打破、世襲の打破、主従関係の打破、その他根深く澱《よど》み果てた一切の封建的なものの打破から、もはや廃藩ということを考えるものもあるほどの驚くべき新陳代謝を促すようになった。
 何事も土台から。旧時代からの藩の存在や寺院の権利が問題とされる前に、現実社会の動脈ともいうべき交通組織はまず変わりかけて行きつつあった。
 江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都|駅逓司《えきていし》の設置、定助郷《じょうすけごう》その他|種々《さまざま》な助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆|相対《あいたい》賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭《はねせん》なるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。


 しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋《ますだや》および出店《でみせ》をはじめ、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒ある旧《ふる》い御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋《はたごや》というふうに、追い追いと転業するものができ、身分としては卑《ひく》い町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代《さんきんこうたい》の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾《きそ》寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那《いな》の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山《かざこしやま》の山道を越しては助郷の勤めに通《かよ》って来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手に唾《つば》をして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達《ごようたし》を勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下に賤《いや》しめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押えられれば押えられるほど、奢《おご》りも増長して、下着に郡内縞《ぐんないじま》、または時花《はやり》小紋、上には縮緬《ちりめん》の羽織をかさね、袴《はかま》、帯、腰の物までそれに順じ、知行取《ちぎょうと》りか乗り物にでも乗りそうな人柄に見えるのをよいとした時代もあったのである。
 さすがに二代目の桝田屋惣右衛門《ますだやそうえもん》はこれらの人たちの中ですこし毛色を異にしていた。幕府時代における町人圧迫の方針から、彼らの商業も、彼らの道徳も、所詮《しょせん》ゆがめられずには発達しなかったが、そういう空気の中に生《お》い立ちながらも、この人ばかりは百姓の元を忘れなかった。すくなくも人々の得生ということを考え、この生はみな天から得たものとして、親先祖から譲られた家督諸道具その他一切のものは天よりの預かり物と心得、随分大切に預かれば間違いないとその子に教え、今の日本の宝の一つなる金銀もそれをわが物と心得て私用に費やそうものなら、いつか天道へもれ聞こえる時が来ると教えたのもこの人だ。八十年来の浮世の思い出として、大きな造り酒屋の見世先《みせさき》にすわりながら酒の一番火入れなどするわが子のために覚え書きを綴《つづ》り、桝田屋一代目存生中の咄《はなし》のあらましから、分家以前の先祖代々より困窮な百姓であったこと、当時何不足なく暮らすことのできるようになったというのも全く先祖と両親のおかげであることを語り、人は得生の元に帰りたいものだと書き残したのもこの人だ。亭主《ていしゅ》たる名称を継いだものでも、常は綿布、夏は布羽織、特別のおりには糸縞《いとじま》か上は紬《つむぎ》までに定めて置いて、右より上の衣類等は用意に及ばない、町人は内輪に勤めるのが何事につけても安気《あんき》であると思うと書き残したのもまたこの人だ。この桝田屋の二代目惣右衛門は、わが子が得生のすくないくせに、口利口《くちりこう》で、人に出過ぎ、ことに宿役人なぞの末に列《つら》なるところから、自然と人の敬うにつけてもとかく人目にあまると言って、百姓時代の出発点を忘れそうな子孫のことを案じながら死んだ。しかし、三代目、四代目となるうちには、それほど惣右衛門父子が馬籠のような村にあって激しい生活苦とたたかった歴史を知らない。初代の家内が内職に豆腐屋までして、夜通し石臼《いしうす》をひき、夜一夜安気に眠らなかったというようなことは、だんだん遠い夢物語のようになって行った。それに、宿内の年寄役、組頭、皆それは村民の入札で定めたのが役替《やくが》えの時の古い慣例で、役替え札開きの日というがあり、礼高で当選したものが宿役人を勤めたのである。そのおりの当選者が木曾福島にある代官地へのお目見えには、両旦那様をはじめ、家老、用人、勘定方から、下は徒士《かち》、足軽、勘定下組の衆にまでそれぞれ扇子なぞを配ったのを見ても、安永《あんえい》年代のころにはまだこの選挙が行なわれ、したがって競争も激しかったことがわかる。いつのまにか、これとてもすたれた。年寄役も、組頭も、皆世襲に変わった。いかに不向きでもその家に生まれ、またはその家から分かれたものは自然に人から敬われ、旦那衆と立てられるようになって来た。あだかも江戸あたりの町人仲間に、株というものが固定してしまったように。
 この旦那衆だ。中にはいろいろな人がある。駅逓司《えきていし》の趣意はまだ皆の間に徹しないかして、一概にこれを過激な改革であるとなし、自分らの利害のみを考えるものも出て来た。古い宿場の御伝馬役として今までどおりのわがままも言えなくなるとみて取った人たちの助太刀《すけだち》は、一層その不平の声を深めた。
「これは宿場の盛衰にもかかわることだ。伏見屋の旦那あたりが先に立って、もっと骨を折ってくだすってもいい。」
 旧御伝馬役の中には、こんなことを言い出したものもある。


 民意の開発に重きを置いた尾州藩中の具眼者がまず京都駅逓司の方針に賛成したことは不思議でもない。このことが尾州領内の木曾地方に向かって働きかけるようになって行ったというのも、これまた不思議でもない。京都駅逓司の新方針によると、たとい諸藩の印鑑で保証する送り荷たりとも、これまでのように問屋場を素通りすることは許されない。公用藩用の名にかこつけて貫目を盗むことも許されない。袖《そで》の下もきかない。荷物という荷物の貫目は公私共に各問屋場で公平に改められることになった。
 東京と京都との間をつなぐ木曾街道の中央にあって、多年宿場に衣食した馬籠の御伝馬役の人たちはこの改革に神経をとがらせずにはいられなかったのである。彼らの多くは、継ぎ立てたい荷物は継ぎ立てるが、そうでないものは助郷村民へ押しつけるような従来の弊習に慣れている。諸大名諸公役の大げさな御通行のあったごとに、すくなくも五、六百人以上の助郷村民は木曾四か宿に徴集されて来て朝勤め夕勤めの役に服したが、その都度《つど》割りのよい仕事にありつき、なおそのほかに宿方の補助を得ていたのも彼らである。街道で身代を築き上げた旦那衆と同じように、彼らもまた宿場全盛のころのはなやかな昔を忘れかねている。宿駅と助郷村々との課役を平等にせよというような駅逓司の方針は彼らにとってこの特権から離れることにも等しかった。
 旧御伝馬役の一人に小笹屋《こざさや》の勝七がある。この人なぞは伊之助の意見を聞こうとして、ある夜ひそかに伏見屋の門口をたたいたくらいだ。
「まあ、本陣へ行って聞いてくれ。」
 それが伊之助の答えだった。
「オッと、伏見屋の旦那、それはいけません。宿の御伝馬役と在の助郷とはわけが違いますぞ。桝田屋の旦那でも、蓬莱屋《ほうらいや》の旦那でも、皆おれたちの肩を持ってくださる。お前さまのような人は、もっと宿内のものをかわいがってくだすってもいい。」
 そう勝七が言い立てても、伊之助は隣の国から来た養子の身ということを楯《たて》にして、はっきりした返事をしなかった。同じ旦那衆の一人でも、伊之助だけは中庸の道を踏もうとしている。この「本陣へ行って聞いてくれ」が、いつでも彼の奥の手だ。
 十二月の下旬には、この宿場ではすでに幾度か雪を見た。時ならない尾州藩の一隊が七、八十人の同勢で、西から馬籠昼食の予定で街道を進んで来た。木曾福島行きの御連中である。ちょうど余日もすくない年の暮れにあたり、宿内にあり合わせた人馬もあちこちと出払った時で、特に荷物の継立《つぎた》てを頼むと言われても手が足りなかった。にわかなことで、助郷も間に合わない。宿駅改革の主旨にもとづく課役の平等は旦那衆の家へも回って行く。ともかくも交通機関の整理が完成されるまで、街道に居住するものはもとより、沿道付近の村民は皆各人が助郷たるの意気込みをもって、一軒につき一人ずつは出てこの非常時に当たれとある。こうなると、町人と言わず、百姓と言わず、宿内で人足を割り当てられたものは継立て方を助けねばならなかった。
 ある旦那衆などは、もうたまらなくってどなった。
「何。われわれの家からそんな人足なぞに出られるか。本陣へ行って聞いて来い。」


 父吉左衛門もめっきり健康を回復して来たので、それに力を得て、人足のさしずをするために本陣を出ようとしていたのは半蔵である。彼はすでに隣家の伊之助を通して、町内の旦那衆や旧御伝馬役の意向を聞いていた。
「もちろん。」
 半蔵の態度がそれを語った。あとは自分でも人足の姿に身を変え、下男の佐吉に言い付けて裏の木小屋から「せいた」(木曾風な背負子《しょいこ》)を持って来させた。細引《ほそびき》まで用意した。彼は町内の旦那衆なぞから出る苦情を取り合わなかった。自分でもその日の人足の中にまじり、継立て方を助けるようにして、それを一切の答えに代えようとしていた。
「旦那、お前さまも出《で》させるつもりか。」
 と佐吉はそこへ飛んで来て言った。
「おれが行かず。お前さまの代わりにおれが行かず。一軒のうちでだれか一人出ればそれでよからずに。」
 とまた佐吉が言った。
 しかし、半蔵はもう背中に半蓑《はんみの》をつけて、敷居の外へ一歩《ひとあし》踏み出していた。尾州藩の一隊は幾組かに分かれて、本陣に昼食の時を送っている家中衆もある。幾本かの鎗《やり》は玄関の式台のところに持ち込んである。あの客の接待には清助というものがあって、半蔵もその方には事を欠かなかった。
「お民、頼んだぜ。」
 その言葉を妻に残して置いて、彼は客よりも先に自分の家の表門を出た。
 半月交代の問屋場は向こう上隣りの九郎兵衛方で開かれるころであった。問屋の前あたりには、思い思いに馬を引いて来る宿内の馬方もある。順番に当たった人足たちが上町からも下町からも集まって来ている。
「本陣の旦那、よい馬は今みんな出払ってしまった。いくら狩り集めようとしても、女馬か、あんこ馬しかない。」
 そんなことを言って、人馬の間を分けながらあちこちと走り回る馬指《うまざし》もある。
「きょうはおれもみんなの仲間入りだぞ。おれにも一つ荷物を分けてくれ。」
 この半蔵の言葉は人足指《にんそくざし》ばかりでなく、そこに働いている問屋の主人九郎兵衛をも驚かした。人足一人につき荷物七貫目である。半蔵はそれを「せいた」に堅く結びつけ、半蓑の上から背中に担《にな》って、日ごろ自分の家に出入りする百姓の兼吉らと共に、チラチラ雪の来る中を出かけた。
「ホウ、本陣の旦那だ。」
 とわけもなしにおもしろがる人足仲間もある。半蔵の方を盗むように見て、笠《かさ》をかぶった首を縮め、くすくす笑いながら荷物を背負《しょ》って行く百姓もある。
「これからお前さま、妻籠《つまご》まで――二里の山道はえらいぞなし。」
 兼吉の言い草だ。
 峠の上から一石栃《いちこくとち》(俗に一石)を経て妻籠までの間は、大きな谷の入り口に当たり、木曾路でも深い森林の中の街道筋である。過ぐる年月の間、諸大名諸公役らの大きな通行があるごとに、伊那方面から徴集される村民が彼らの鍬《くわ》を捨て、彼らの田園を離れ、木曾下四か宿への当分助郷、あるいは大助郷と言って、山蛭《やまびる》や蚋《ぶよ》なぞの多い四里あまりのけわしい嶺《みね》の向こうから通って来たのもその山道である。
 背中にしたは、なんと言っても慣れない荷だ。次第に半蔵は連れの人足たちからおくれるようになった。荷馬の歩みに調子を合わせるような鈴音からも遠くなった。時には兼吉その他の百姓が途中に彼を待ち合わせていてくれることもある。平素から重い物を背負い慣れた肩と、山の中で働き慣れた腰骨とを持つ百姓たちとも違い、彼は手も脚《あし》も震えて来た。待ち受けていた百姓たちはそれを見ると、さかんに快活に笑って、またさっさと先へ歩き出すというふうだ。
 その日ほど彼も額からにじみ出る膏《あぶら》のような冷たい汗を流したことはない。どうかすると、降って来る小雪が彼の口の中へも舞い込んだ。年の暮れのことで、凍り道にも行き悩む。熊笹《くまざさ》を鳴らす勁《つよ》い風はつれなくとも、しかし彼は宿内の小前《こまえ》のものと共に、同じ仕事を分けることをむしろ楽しみに思った。また彼は勇気をふるい起こし、道を縦横に踏んで、峠の上で見つけて来た金剛杖《こんごうづえ》を力に谷深く進んで行った。ようやく妻籠手前の橋場というところまでたどり着いて、あの大橋を渡るころには、後方からやって来た尾州藩の一隊もやがて彼に追いついた。

       五

 明治二年の二月を迎えるころは、半蔵らはもはや革新潮流の渦《うず》の中にいた。その勢いは、一方に版籍奉還奏請の声となり、一方には神仏|混淆《こんこう》禁止の叫びにまで広がった。しかし、それがまだ実現の運びにも至らないうちに、交通の要路に当たるこの街道筋には早くもいろいろなことがあらわれて来た。
 木曾福島の関所もすでに崩《くず》れて行った。暮れに、七、八十人の尾州藩の一隊が木曾福島をさしてこの馬籠峠の上を急いだは、実は同藩の槍士隊《そうしたい》で、尾州公が朝命を受け関所の引き渡しを山村氏に迫る意味のものであったことも、後になってわかった。山村家であの関所を護《まも》るために備えて置いてあった大砲二門、車台二|輛《りょう》、小銃二十|挺《ちょう》、弓|十張《とはり》、槍《やり》十二筋、三つ道具二通り、その他の諸道具がすべて尾州藩に引き渡されたのは、暮れの二十六日であった。その時の福島方の立ち合いは、白洲《しらす》新五左衛門と原佐平太とで、騎馬組一列、小頭《こがしら》足軽一統、持ち運びの中間小者《ちゅうげんこもの》など数十人で関所を引き払った。もっとも、尾州方の依頼で騎馬組七人だけは残ったが、二月六日にはすでに廃関が仰せ出された。
 福島代官所の廃止もそのあとに続いた。山村氏が木曾谷中の支配も当分立ち合いの名儀にとどまって、実際の指揮はすでに福島興禅寺を仮の本営とする尾州|御側用人《おそばようにん》吉田猿松《よしださるまつ》の手に移った。多年山村氏の配下にあった家中衆も、すべてお暇《いとま》を告げることになり、追って禄高《ろくだか》等の御沙汰《ごさた》のある日を待てと言われるような時がやって来た。
 木曾谷の人民はこんなふうにして新しい主人公を迎えた。福島の代官所もやがて総管所と改められるころには、御一新の方針にもとづく各宿駅の問屋の廃止、および年寄役の廃止を告げる総管所からのお触れが半蔵のもとにも届いた。それには人馬|継立《つぎた》ての場所を今後は伝馬所と唱えるはずである。ついては二名の宿方総代を至急福島へ出頭させるようにとも認《したた》めてある。もはや、革新につぐ革新、破壊につぐ破壊だ。


「お母《っか》さん、いよいよ問屋も御廃止ということになりました。」
「そうだそうな。わたしはお民からも聞いたよ。」
「会所もいよいよ解散です。年寄役というものも御廃止です。」
 半蔵と継母のおまんとはこんな言葉をかわしながら、互いの顔を見合わせた。
「さっき、わたしはお民とも相談したよ。こんな話を聞いたらあのお父《とっ》さんはきっとびっくりなさる。まあ、お前にも言って置くが、このことはお父さんの耳へは入れないことにせまいか。」
 とおまんが言い出した。
 さすがに賢い継母も一切を父吉左衛門には隠そうと言うほど狼狽《ろうばい》していた。その年の正月にはおくればせながら父も古稀《こき》の祝いを兼ねて、病中世話になった親戚《しんせき》知人のもとへしるしばかりの蕎麦《そば》を配ったほど健康を回復した人である。でも、吉左衛門の老衰は争われなかった。からだの弱って来たせいかして、すこしのことにもすぐに心を傷《いた》めた。そして一晩じゅう眠られないという話はよくあった。どうして、半蔵の方からそこへ持ち出して見たように、ありのままを父にも告げたらとは、この継母には考えられもしなかった。
「ごらんな。」とまたおまんは言った。「お父《とっ》さんがこの前の大病だって、気をおつかいなさるからだよ、お父さんはお前、そういう人だよ。」
「でも、こんなことは隠し切れるものでもありませんし、わたしは話した方がいいと思いますが。」
「なあに、お前、あのとおりお父さんは裏の二階に引っ込みきりさ。わたしが出入りのものによく言って聞かせて、口留めをして置いたら、お父さんの耳に入りッこはないよ。」
「さあ、どういうものでしょうか。」
「いえ、それはわたしが請け合う。あのお父さんのからだにさわりでもしたら、それこそ取り返しはつかないからね。」
 父のからだにさわると言われては、半蔵も継母の意見に任せるのほかはなかった。
 本陣の母屋《もや》から裏の隠居所の方へ通って行く継母を見送った後、半蔵は周囲を見回した。おまんがあれほど心配するように、何事も父の耳へは入れまいとすればするほど、よけいに隠し切れそうもないようなこの改革の評判が早くも人の口から口へと伝わって行った。これは馬籠一宿の事にとどまらない。同じような事は中津川にも起こり、落合にも起こり、妻籠《つまご》にも起こっている。現に、この改革に不服を唱え出した木曾福島をはじめ、奈良井《ならい》、宮《みや》の越《こし》、上松《あげまつ》、三留野《みどの》、都合五か宿の木曾谷の庄屋問屋はいずれも白洲《しらす》へ呼び出され、吟味のかどがあるということで退役を申し付けられ、親類身内のもの以外には面会も許さないほどの謹慎を命ぜられた。在方《ざいかた》としては、黒川村の庄屋が同じように退役を申し付けられたほどのきびしさだ。
 こういう時の彼の相談相手は、なんと言っても隣家の主人であった。「半蔵さん、それはこうしたらいいでしょう」とか、「ああしたらいいでしょう」とか心からの温情をもって助言をしてくれるのも、宿内の旦那衆仲間からはいくらか継子《ままこ》扱いにされるあの伊之助のほかになかった。彼は裏の隠居所の方に気を配りながらも、これまでの長い奉公が武家のためにあったことを宿内の旦那衆に説き、復古の大事業の始まったことをも説いて、多くの不平の声を取りしずめねばならなかった。同時に、この改革の趣意がもっと世の中を明るくするためにあることをも説いて、簡易軽便の風に移ることを、旧御伝馬役の人々に勧めねばならなかった。理想にしたがえば、この改革は当然である。この改革にしたがえば、父祖伝来の名誉職のように考えて来た旧《ふる》い家業を捨てなければならない。彼の胸も騒ぎつづけた。


 福島総管所の方へ呼び出された二人《ふたり》の総代は旧暦二月の雪どけの道を踏んで帰って来た。この人たちが携え帰った総管所の「心得書付《こころえかきつけ》」はおおよそ左のようなものであった。
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一、東山道何宿伝馬所と申す印鑑をつくり、これまでの問屋と申す印鑑は取り捨て申すべきこと。
一、問屋付けの諸帳面、今後新規に相改め、御印鑑継立て、御証文継立て、御定めの賃銭払い継立てのものなど帳分けにいたし、付け込みかた混雑いたさざるよう取り計らうべきこと。
一、筆、墨、紙、蝋燭《ろうそく》、炭の入用など、別帳にいたし、怠らずくわしく記入のこと。
一、宿駕籠《しゅくかご》、桐油《とうゆ》、提灯《ちょうちん》等、これまでのもの相改め、これまたしかるべく記入のこと。
一、新規の伝馬所には、元締役《もとじめやく》、勘定役、書記役、帳付け、人足指《にんそくざし》、馬指《うまざし》など――一役につき二人ほどずつ。そのうち、勘定役の儀は三人にてもしかるべし。その方どものうち申し合わせ、または鬮引《くじび》き等にて元締、勘定、書記の三役を取りきめ、帳付け以下の儀は右三役にて相選み、人名一両日中に申し出《い》づべきこと。もっとも、それぞれ月給の儀は追って相談あるべきこと。
一、宿駅助郷一致の御趣意につき、助郷村々に対し干渉がましき儀これなきよう、温和丁寧に仕向け候《そうろう》よういたすべきこと。
一、御一新|成就《じょうじゅ》いたし候までは、二十五人二十五匹の宿人馬もまずまずこれまでのとおり立て置かれ候につき、御印鑑ならびに御証文にて継立ての分は宿人馬にて相勤め、付近の助郷村々より出人足《でにんそく》の儀は御定め賃銭払いの継立てにつかわし、右の刎銭《はねせん》を取り立つることは相成らず候。助郷人馬への賃銭は残らず相渡し、帳面記入厳重に取り調べ置き申すべきこと。
一、相対《あいたい》賃銭継立ての分は、宿人馬と助郷人足とを打ち込みにいたし、順番にてよろしく取り計らうべきこと。
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 なお、右のほか、追い追い相談に及ぶべきこと。
 とある。
 これは新たに生まれて来る伝馬所のために書かれたもので、言葉もやさしく、平易に、「御一新成就いたし候まで」の当分臨機の処置であることが文面のうちにあらわれている。こんな調子は、旧時代の地方《じかた》御役所にはなかったことだ。ことに尾州藩から来た木曾谷の新しい支配者が宿駅助郷の一致に力瘤《ちからこぶ》を入れていることは、何よりもまず半蔵をうなずかせる。
 しかしその細目《さいもく》の詮議《せんぎ》になると、木曾谷十一宿の宿役人仲間にも種々《さまざま》な議論がわいた。総管所からの「心得書付」にもあるように、当時宿場の継立てにはおよそ四つの場合がある。御印鑑の継立て、御証文の継立て、御定め賃銭払いの継立て、そして相対賃銭払いの継立てがそれだ。この書付の文面で見ると、印鑑および証文で継立ての分は宿人馬で勤め、助郷村々の出人足は御定め賃銭払いの継立てに使用せよとあるが、これは宿方と助郷との差別なく、すべて打ち込みにしたいとの説が出る。十一宿も追い追いと疲弊に陥って、初めての人馬を雇い入れるなぞには困難であるから、当分のうち一宿につき正金二百両ずつの拝借を総管所に仰ぎたいとの説も出る。金札(新紙幣)通用の励行は新政府のきびしい命令であるが、こいつがなかなかの問題で、当時他領の米商人をはじめ諸商人どもは金札を受け取ろうともしない。風のたよりに聞けば、松本領なぞでは金札相場を二割引きに触れ出したとのこと。これはどうしたものか。当節は他領の商人どもが何割引きでも新紙幣を受け取らないから、したがって切り替えをするものもなく、実に世上まちまちのありさまで、当惑難渋をきわめる。ついては、金札相場の通用高を一定してほしい――そういう説も出る。これらはすべて十一宿打ち合わせの上、総代連名の伺い書として総管所あてに提出することになった。
「半蔵さま。」
 と言いながら、組頭の庄助がよくこっそりと彼を見に来る。この人は、百姓総代として町人|気質《かたぎ》の旦那衆に対抗して来た意地《いじ》ずくからも、伝馬所の元締役その他の人選については、ひどく頭を悩ましていた。
「どうだろう、庄助さん、今までのような大げさな御通行はもうあるまいか。」
「まずありますまいな。」
「ないとすれば、わたしには考えがある。」
 そう半蔵は言って、これまでのように二軒の継立て所を置く必要もあるまいから、これを機会に本陣付属の問屋場を閉じ、新しい伝馬所は問屋九郎兵衛方へ譲りたいとの意向をもらした。半蔵はすでにその決意を伊之助だけには伝えて置いてあった。
 庄助は言った。
「しかし、半蔵さま。そうお前さまのように投げ出してしまわないで、もっと強く出《で》さっせるがいいぞなし。この馬籠の村を開いたのも、みんなお前さまの家の御先祖さまの力だ。いくらでも、お前さまは強く出《で》さっせるがいい。」


 とうとう、半蔵は自分の注文どおりに、新設の伝馬所を九郎兵衛方に譲り、全く新規なもののしたくをそこに始めさせることにした。新しい宿役人は入札の方法で、新規入れかわりに七人の当選を見た。世襲の長い習慣も破れて、家柄よりも人物本位の時に移り、本陣付属の問屋場でその勤めぶりを認められた半蔵の従兄《いとこ》、亀屋《かめや》の栄吉のような人が宿役人仲間の位置に進んだ。
 こうなると、会所も片づけなければならない。諸帳簿も引き渡さなければならない。半蔵は下男の佐吉に言い付け、会所の小使いに手伝わせて、旧問屋場にあった諸道具一切を伝馬所の方へ運ばせることにした。彼は自分の部屋《へや》にこもり、例の店座敷のわきで、本陣、問屋、庄屋の三役を勤めて来た公用の記録の中から、伝馬所へ引き渡すべきものを選みにかかった。父吉左衛門の問屋役時代から持ち伝えた古い箱の紐《ひも》を解いて見ると、京都道中通し駕籠《かご》、または通し人足の請負として、六組飛脚屋仲間や年行事の署名のある証文なぞがその中から出て来る。彼はまた別の箱の紐を解いた。あるものは駅逓司《えきていし》、あるものは甲府県、あるものは度会府《わたらいふ》として、駅逓用を保証する大小|種々《さまざま》の印鑑がその中から出て来る。それらは最近の府藩県の動きを知るに足るもので、伝馬所に必要な宿駅の合印《あいじるし》である。尾州藩関係の書類、木曾下四宿に連帯責任のある書付なぞになると、この仕分けがまた容易でなかった。いかに言っても、会所や問屋場は半分引っ越しの騒ぎだ。いろいろなことが胸に満ちて来て、諸帳簿の整理もとかく彼の手につかなかった。
 お民が吉左衛門のことを告げにそこへはいって来たころは、店座敷の障子も薄暗い。
「まあ、あなたは燈火《あかり》もつけないで、そんなところにすわってるんですか。」
 お民はあきれた。しょんぼりとはしているが、膝《ひざ》もくずさないような夫を彼女はその薄暗い部屋《へや》に見たのだ。
「お父《とっ》さんがどうした。」と半蔵の方からきいた。
「それがですよ。何か家の内にあるんじゃないかッて、しきりにお母《っか》さんにきくんだそうですよ。これにはお母さんも返事に困ったそうですよ。」
 とお民は言い捨てて、奥の方へ燈火を取りに行った。彼女は自分でさげて来た行燈《あんどん》に灯《ひ》を入れて、その部屋の内を明るくした。
「どうも心が騒いでしかたがない。」と半蔵は周囲を見回しながら言った。「さっきから、おれはひとりですわって見てるところさ。」
「妻籠《つまご》でもどうしていましょう。」とお民は兄の家の方のことを思い出したように。
「そりゃ、お前、寿平次さんのとこだって、おれの家と同じことさ。今ごろはきっと同じような話で持ちきっているだろうよ。」
「そうでしょうかねえ。」
「おれがお前に話してるようなことを、寿平次さんはお里さんに話してるにちがいないよ。そうさな、ずっと古いことはおれにもまあよくわからないが、吾家《うち》のお祖父《じい》さんにしても、お父《とっ》さんにしても、ほとんどこの街道や宿場のために一生を費やしたようなものさね。その長い骨折りがここのところへ来て、みんな水の泡《あわ》のように消えてしまうなんて、そんなものじゃないとおれは思うよ。すくなくも本陣問屋として、諸国の交通事業に参加して来たのも青山家代々のものだからね。福島の総管所から来る書付にもそのことは書いてある。これまで本陣問屋で庄屋を兼ねるくらいのところは、荒蕪《こうぶ》を切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違ないが、しかしこの際はそういう古い事に拘泥《こうでい》するなと教えてあるんだよ。あの笹屋《ささや》の庄助さんなぞはおれのところへやって来て、いくらでもお前さまは強く出さっせるがいいなんて、そんなことを言って行ったが、このおれたちが自分らをあと回しにしなかったら、どうして宿場の改革も望めないのさ。」
「まあ、わたしにはよくわかりません。なんですか、あんなにお母《っか》さんが心配していらっしゃるものですから、自分まで目がくらむような気がしますよ。」
 お民は子供に食わせることを忘れていなかった。彼女はこんな話を打ち切って、また囲炉裏ばたの方へまめまめしく働きに行った。
 山家はようやく長い冬ごもりの状態から抜け切ろうとするころである。恵那山《えなさん》の谿谷《けいこく》の方に起こるさかんな雪崩《なだれ》は半蔵が家あたりの位置から望まれないまでも、雪どけの水の音は軒をつたって、毎日のようにわびしく単調に聞こえている。いろいろなことを半蔵に思い出させるのも、石を載せた板屋根から流れ落ちるそのしずくの音だ。眠りがたい一夜をお民のそばに送った後、彼はその翌朝に会所の方を見回りに行った。何事も耳には入れずにある父のことも心にかかりながら、会所の入り口の戸をあけかけていると、ちょうどそこへやって来る伊之助と一緒になった。
「いよいよ会所もおなごりですね。」
 そう語り合う二人は、明け渡した城あとでも歩き回るように、がらんとした問屋場の方をのぞきに行った。会所の方の店座敷の戸をも繰って見た。そこの黄色な壁、ここの煤《すす》けた襖《ふすま》、何一つその空虚な部屋で目につくものは、高い権威をもって絶対の屈従をしいられた宿場の過去と、一緒にこの街道に働いた人たちの言葉にも尽くされない辛労とを語らないものはない。
 思わず半蔵は伊之助と共に、しばらく会所での最終の時を送った。その時、彼は伊之助の顔をながめながら、静かな声で、感ずるままを語った。彼に言わせると、先年お救い願いを尾州藩に差し出した当時、すでに宿相続をいかにすべきかが一同の問題になったくらいだ。あの時の帳尻《ちょうじり》を見てもわかるように、七か年を平均して毎年百七十両余が宿方の不足になっていた。あの不足が積もって行く上に、それを補って来た宿方の借財が十六口にも上って、利息だけでも年々二百四十四両余を払わねばならなかった。たとい尾州藩のお救いお手当てがあるとしても、この状態を推し進めて行くとしたら、結局滅亡に及ぶかもしれない。宿場にわだかまる多年の弊習がこの行き詰まりを招いた。さてこそ新規まき直しの声も起こって来たのである。これまで自分は一緒にこの街道に働いてくれる人たちと共に武家の奉公を耐《こら》えようとのみ考え、なんでも一つ辛抱せという方にばかり心を向けて来たが、問屋も会所もまた封建時代の遺物であると思いついて、いささか悟るところがあった。上御一人《かみごいちにん》ですら激しい動きに直面したもうほどの今の時に、下のものがそう静かにしていられるはずもないと。
 伊之助は、爪《つめ》をかみながら、黙って半蔵の言うことを聞いていた。半蔵の耳はまた、やや紅《あか》かった。
「しかし、伊之助さんも御苦労さまでした。お互いに長い御奉公でした。」
 とまた半蔵は言い添えた。
 もはや諸道具一切は伝馬所の方へ運び去られている。半蔵は下男の佐吉を呼んで、戸をしめ、鍵《かぎ》をかけることを言いつけて置いて、やがて伊之助と共に会所の前を立ち去った。

       六

 平田延胤《ひらたのぶたね》の木曾街道を通過したのは、馬籠ではこの宿場改革の最中であった。延胤は東京からの帰り路《みち》を下諏訪《しもすわ》へと取り、熱心な平田|篤胤《あつたね》没後の門人の多い伊那の谷を訪《おとな》い、清内路《せいないじ》に住む門人原|信好《のぶよし》の家から橋場を経て、小昼《こびる》(午後三時)のころに半蔵の家に着いた。しばらく木曾路の西のはずれに休息の時を送って行こうとしていたのである。もっとも、この旅は延胤|一人《ひとり》でもない。門下の随行者もある。伊那からそのあとを追い慕って、せめて馬籠まではと言いながら見送って来た南条村の館松縫助《たてまつぬいすけ》のような人もある。
 延胤は半蔵が師|鉄胤《かねたね》の子息で、故翁篤胤の孫に当たる。平田同門のものは日ごろ鉄胤のことを老先生と呼び、延胤を若先生と呼んでいる。思いがけなくもその人を見るよろこびに加えて、一行を家に迎へ入れ、自分の田舎《いなか》を見て行ってもらうことのできるというは、半蔵にとって夢のようであった。木曾は深い谿《たに》とばかり聞いていたのにこんな眺望《ちょうぼう》のひらけた峠の上もあるかという延胤を案内しながら、半蔵は西側の廊下へ出て、美濃《みの》から近江《おうみ》の方の空のかすんだ山々を客にさして見せた。その廊下の位置からは恵那山につづく幾つかの連峰全部を一目に見ることはできなかったが、そこには万葉の古い歌にある御坂《みさか》も隠れているという半蔵の話が客をよろこばせた。彼は上段の間へ人々を案内して、その奥まった座敷で、延胤が今京都をさして帰る途中にあることから、かねて門人|片桐春一《かたぎりしゅんいち》を中心に山吹社中の発起になった条山《じょうざん》神社を伊那の山吹村に訪い、そこに安置せられた国学四大人の御霊代《みたましろ》を拝し、なお、故翁の遺著『古史伝』の上木頒布《じょうぼくはんぷ》と稿本全部の保管とに尽力してくれた伊那の諸門人の骨折りをねぎらいながら、行く先で父鉄胤に代わって新しい入門者に接して来たことなぞを聞いた。
 おまんやお民も茶道具を運びながらそこへ挨拶《あいさつ》に出た。半蔵はそのそばにいて、これは母、これは妻と延胤に引き合わせた。彼は先師の孫にも当たる人に自分の継母や妻を引き合わせることを深いよろこびとした。めずらしい客と聞いてよろこぶお粂《くめ》と宗太も姉弟《きょうだい》らしく手を引き合いながら、着物を着かえたあとの改まった顔つきで、これも母親のうしろからお辞儀に出た。半蔵の娘もすでに十四歳、長男の方は十二歳にもなる。
 延胤も旅を急いでいた。これから、中津川泊まりで行こうという延胤のあとについて、一緒に中津川まで行くことを半蔵に勧めるのも縫助だ。そういう縫助も馬籠まで来たついでに、同門の景蔵の家まで見送りたいと言い出す。これには半蔵も心をそそられずにはいられなかった。早速《さっそく》彼は隣家の伏見屋へ下男の佐吉を走らせ、伊之助にも同行のよろこびを分けようとした。伊之助は上の伏見屋の方にいて、そのために手間取れたと言いわけをしながら、羽織袴《はおりはかま》でやって来た。
「若先生です。」
 その引き合わせの言葉を聞くと、日ごろ半蔵のうわさによく出る平田先生の相続者とはこの人かという顔つきで、伊之助も客に会釈《えしゃく》した。
 一同中津川行きのしたくができた。そこで、出かけた。師鉄胤のうわさがいろいろと出ることは、半蔵の歩いて行く道を楽しくした。こんな際に、中央の動きを知ることは、彼にとっての何よりの励ましというものだった。彼は延胤一行の口から出ることを聞きもらすまいとした。過ぐる年の十月十三日に旧江戸城にお着きになった新帝にもいったん京都の方へ還御《かんぎょ》あらせられたと聞く。それは旧冬十二月八日のことであったが、さらに再度の東幸が来たる三月のはじめに迫っている。それを機会に、師鉄胤もお供を申し上げながら、一家をあげて東京の方へ移り住む計画であるという。延胤が旅を急いでいるのもそのためであった。飽くまで先師の祖述者をもって任ずる鉄胤の方は参与の一人として、その年の正月からは新帝の侍講に進み、神祗官《じんぎかん》の中心勢力をかたちづくる平田派の学者を率いて、直接に新政府の要路に当たっているとか。今は師も文教の上にあるいは神社行政の上に、この御一新の時代を導く年老いた水先案内である。全国の代表を集めて大いに国是《こくぜ》を定め新制度新組織の建設に向かおうとするための公議所が近く東京の方に開かれるはずで、その会議も師のような人の体験と精力とを待っていた。


 延胤は関東への行幸のことについてもいろいろと京都方の深い消息を伝えた。かくも諸国の人民が新帝を愛し奉り、競ってその御一行を迎えるというは理由のないことでもない。従来、主上と申し奉るは深い玉簾《ぎょくれん》の内にこもらせられ、人間にかわらせたもうようにわずかに限りある公卿《くげ》たちのほかには拝し奉ることもできないありさまであった。それでは民の御父たる天賦の御職掌にも戻《もと》るであろう。これまでのように、主上の在《いま》すところは雲上と言い、公卿たちは雲上人ととなえて、龍顔は拝しがたいもの、玉体は寸地も踏みたまわないものと、あまりに高く言いなされて来たところから、ついに上下隔絶して数百年来の弊習を形造るようになった。今や更始一新、王政復古の日に当たり、眼前の急務は何よりまずこの弊習を打ち破るにある。よろしく本朝の聖時に則《のっ》とらせ、外国の美政をも圧するの大英断をもって、帝自ら玉簾の内より進みいでられ、国々を巡《めぐ》らせたまい、簡易軽便を本として万民を撫育《ぶいく》せられるようにと申上げたものがある。さてこそ、この未曾有《みぞう》の行幸ともなったのである。
 そればかりではない。もっと大きな事が、この行幸のあとに待っていた。皇居を京都から東京に還《うつ》し、そこに新しい都を打ち建てよとの声が、それだ。もし朝廷において一時の利得を計り、永久治安の策をなさない時には、すなわち北条《ほうじょう》の後に足利《あしかが》を生じ、前姦《ぜんかん》去って後奸《こうかん》来たるの覆轍《ふくてつ》を踏むことも避けがたいであろう。今や、内には崩《くず》れ行く中世的の封建制度があり、外には東漸するヨーロッパの勢力がある。かくのごとき社会の大変態は、開闢《かいびゃく》以来、いまだかつてないことであろうとは、もはや、だれもがそれを疑うものもない。この際、深くこの国を注目し、世界の大勢をも洞察《どうさつ》し、国内のものが同心合体して、太陽はこれからかがやこうとの新しい希望を万民に抱《いだ》かせるほどの御実行をあげさせられるようにしたい。それには、非常な決心を要する。眼前にある些少《さしょう》の故障を懸念《けねん》して、この遷都の機会をうしなったら、この国の大事もついに去るであろう――実際、こんなふうに言わるるほどの高い潮《うしお》がやって来ていた。
 一緒に街道を踏んで峠を降りて行く延胤に言わせると、遷都の説はすでに一、二の国学者先輩の書きのこしたものにも見える。それがここまで来て、言わば東幸の形で遷都の実をあげる機運を迎えたのだ。これには伊之助も耳を傾けていた。
 一同の行く先は言うまでもなく中津川の本陣である。ちょうど半蔵の友人景蔵も、香蔵も、共に京都の方から帰って来ているころで、景蔵の家には、めずらしく親しい人たちの顔がそろった。そこには落合から行った半蔵の弟子《でし》勝重《かつしげ》のような若い顔さえ見いだされた。そしてその東美濃の町に延胤を迎えようとする打ちくつろいだ酒盛《さかも》りがあった。その晩は伊之助もめずらしく酔って、半蔵と共に馬籠をさして帰って来たころは夜も深かった。


 三か月ほど後に、中津川の香蔵が美濃を出発し、東京へとこころざして十曲峠《じっきょくとうげ》を登って来たころは、旅するものの足が多く東へ東へと向かっていた。今は主上も東京の方で、そこに皇居を定めたまい、平田家の人々も京都にあった住居《すまい》を畳《たた》んで、すでに新しい都へ移った。
 旅を急ぐ香蔵に門口から声をかけられて見ると、半蔵の方でもそう友人を引き留めるわけに行かない。香蔵は草鞋《わらじ》ばきのまま、本陣の玄関の前から表庭の植木の間を回って、葉ばかりになった牡丹《ぼたん》の見える店座敷の軒先に来て腰掛けた。そこに笠《かさ》を置いて、半蔵が勧める別れの茶を飲んだ。
 文字どおり席の暖まるに暇《いとま》のないような香蔵は、師のあとを追うのに急で、地方の問屋廃止なぞを問題としていない。半蔵はひどく別れを惜しんだ。野尻《のじり》泊まりで友人が立って行った後、彼は大急ぎで自分でもしたくして、木曾福島の旅籠屋《はたごや》までそのあとを追いかけた。
 とうとう、藪原《やぶはら》の先まで追って行った。五日過ぎには彼は友人の後ろ姿を見送って置いて、藪原からひとり街道を帰って来る人であった。旧暦五月の日の光は彼の目にある。平田同門の人たちの動きがしきりに彼の胸に浮かんだ。その時になって見ると、師岡正胤《もろおかまさたね》、三輪田元綱《みわたもとつな》、権田直助《ごんだなおすけ》なぞはいずれも今は東京の方で師の周囲に集まりつつある。彼が親しい先輩|暮田正香《くれたまさか》は京都皇学所の監察に進んだ。
「そうだ、同門の人たちはいずれも十年の後を期した。奥羽の戦争を一期として、こんなに早く皆の出て行かれる時が来ようとは思わなかった。」
 と彼は考えた。
 多くの人が統一のために協力した戦前と戦後とでは、こうも違うものかとさえ彼は思った。彼はまた、遠からず香蔵と同じように東京へ向かおうとする中津川の景蔵のことを考え、どんな要職をもって迎えられても仕える意のないあの年上の友人のことを考えて、謙譲で名聞《みょうもん》を好まない景蔵のような人を草叢《くさむら》の中に置いて考えることも楽しみに思った。
 木曾福島の関所も廃されてからは、上り下りの旅行者を監視する番人の影もない。上松《あげまつ》を過ぎ、三留野《みどの》まで帰って来た。行く先に謹慎を命ぜられていた庄屋問屋のあることは、今度の改革の容易でないことを語っている。この日になってもまだ旧《ふる》い夢のさめないような庄屋問屋は、一切外出を許さない、謹慎中は月代《さかやき》を剃《そ》ることも相成らない、病気たりとも医師の宅へ療養に罷《まか》り越すことも相成らない、もっとも自宅へ医師を呼び寄せたい時はその旨《むね》を伺い出よ、居宅は人見《ひとみ》をおろし大戸をしめ潜《くぐ》り戸《ど》から出入りせよ、職業ならびに商法とも相成らない、右のほかわかりかねることもあらば宿役人を通して伺い出よとの総管所からのきびしいお達しの出たころだ。
 さらに妻籠《つまご》まで帰って来た。半蔵が妻籠本陣へ見舞いを言い入れると、ちょうど寿平次は留守の時であったが、そこでも会所は廃され、問屋は変わる最中で、いったん始まった改革は行くところまで行かなければやまないような勢いを示していた。
 妻籠の宿場を離れると、木曾川の青い川筋も見えない。深い谷の尽きたところから林の中の山道になって、登れば登るほど木曾の西のはずれへ出て行かれる。五月の節句もまためぐって来て山家の軒にかけた菖蒲《しょうぶ》の葉も残っているころに、半蔵は馬籠の新しい伝馬所の前あたりまで戻《もど》って来た。旧会所の建物は本陣表門のならびに続いて、石垣《いしがき》の多い坂道の位置から伏見屋のすぐ下隣りに見える。さびしく戸のしまったその建物の前を立ち去りがたいようにして、杖《つえ》をつきながら往《い》ったり来たりしている人がある。その人が彼の父だ。大病以来めったに隠居所を離れたこともない吉左衛門だ。半蔵は自分の家の方へ降りかけたところまで行って、思わずハッとした。


「お父《とっ》さん、どちらへ。」
 声をかけて見て、半蔵は父がめずらしく旧友金兵衛を訪《たず》ねに行って来たことを知った。その父が家の門前までひとりでぽつぽつ帰って来たところだということをも知った。
「お父さん、大丈夫ですか。そんなにひとりで出歩いて。」
 と彼は言って、裏の隠居所まで父を送らせるために自分の子供をさがしたが、そこいらには宗太も遊んでいなかった。彼は自身に父を助けるようにして、ゆっくりゆっくり足を運んで行く吉左衛門に付き添いながら、裏二階の前まで一緒に歩いた。
 今は半蔵も問屋役から離れてしまったことを父に隠せなかった。新しい伝馬所は父の目にも触れた。継母や妻の心配して来たことを、いつまで父に告げないのはうそだ。その考えから、彼は母屋《もや》の方へ引き返して行った。
「お民、帰ったよ。」
 その半蔵の声をきくと、お民は前の晩に菖蒲《しょうぶ》の湯をつくらせておそくまで夫を待ったことなぞを語った。そういう彼女は、やがてまた夫との間に生まれて来るものを待ち受けているような時である。彼女はすでに五人の子の母であった。もっとも、五人のうち、男の子の方は長男の宗太に、妻籠の里方へ養子にやった次男の正己《まさみ》。残る三人は女の子で、姉娘のお粂のほかには、さきに次女のお夏をうしない、三女に生まれたお毬《まり》という子もあったが、これも早世した。どうかして今度生まれて来るものは無事に育てたい。そんな話が夫と二人ぎりの時には彼女の口からもれて来る。彼女の内部《なか》に起こって来た変化はすでに包み切れないほどで、いろいろと女らしく心をつかっていた。
 夕方から、半蔵は父を見に行った。例の裏二階に、吉左衛門はおまんを相手の時を送っていた。部屋《へや》の片すみには父がからだを休めるための床も延べてある。これまで父の耳にも入れずにあったことは、半蔵がそれを切り出すまでもなく、吉左衛門は上の伏見屋の金兵衛からいろいろと聞いて来て、青山一家にまで襲って来たこんな強い嵐《あらし》が早く通り過ぎてくれればいいという顔つきでいる。
「きょうはくたぶれたぞ。」と吉左衛門が言い出した。「まあ、おれもめずらしく気分のいい日が続くし、古稀《こき》の祝いのお礼にもまだ行かなかったし、そう思って、旧《ふる》い友だちの顔を見に行って来たよ。おれもへぼくなった。上の伏見屋まで坂を登るぐらいに、息が切れる。それにあの金兵衛さんがおれをつかまえて放さないと来てる。いろいろの宿場のうわさも出たよ――いや、大長咄《おおながばなし》さ。」
 老年らしい沈着《おちつき》をもった父の様子に、半蔵もやや心を安んじて、この宿場の改革が避けがたいというのも一朝一夕に起こって来たものではないことや、もはや木曾谷中から寄せた人足が何百人とか伊那の助郷から出た人足が千人にも及ぶとかいうようなそんな大通行の許される時代でないことや、したがって従来二十五人二十五匹のお定めの宿伝馬もその必要なく、今に十三人十三匹の人馬を各宿場に用意すればそれでも交通輸送に事を欠くまいというのが、福島総管所の方針であるらしいことなぞを父に告げた。
「まあ、おれのような昔者には、今の世の中のことがわからなくなって来た。」と吉左衛門は言った。「金兵衛さんの言い草がいい。とても自分には見ちゃいられないと言うんさ。あの隠居としたら、そうだろうテ。」
「そう言えば、お父さんは夢をごらんなすったというじゃありませんか。」と半蔵は父の顔をみまもる。
「その夢さ。」
「言って見れば、どんな夢です。」
「まあ梁《はり》が落ちて来たんだね。あんまり不思議な夢だから、易者にでも占ってもらおうかと思ったさ。何か家の内がごたごたしてる。さもなければ、あんな夢を見るはずがない。おれはそう思って、気になってしかたがなかった。」
「実は、お父さん、わたしはありのままをお話しした方がいいと思っていたんです。お母《っか》さんやお民が心配するものですからね――お父さんのからだにでもさわるといけないなんて、しきりにわたしを止めるものですからね――つい今までお父さんには隠してありました。」
 おまんは部屋を出たりはいったりしていた。彼女は半蔵父子の話の方に気を取られていたというふうで、次ぎの部屋から茶道具なぞをそこへ運んで来た。きのうの粽《ちまき》は半蔵にも食わせたかったが、それも残っていない――そんな話が継母の口から出る。時節がら、その年の節句祝いも簡単にして、栄吉、清助の内輪のものを招くだけにとどめて置いたとの話も出る。
 吉左衛門は思い出したように、
「いや、こういうことになって来るわい。今までおれも黙って見てたが、あの参覲交代が御廃止になったと聞いた時に、おれはもうあることに打《ぶ》つかったよ。」
「……」
「半蔵、本陣や庄屋はどうなろう。」
「それがです、本陣、庄屋、それに組頭《くみがしら》だけは、当分これまでどおりという御沙汰《ごさた》がありました。それも当分と言うんですから、改革はそこまで及んで行くかもしれません。」
 その返事を聞くと、吉左衛門は半蔵の顔をながめたまましばらく言葉もなかった。


「しかし、きょうはお父さんもお疲れでしょう。すこし横にでもおなりなすったら。」と半蔵が言葉をつづけた。
「それがいい。そう話に身が入っちゃ、えらい。」とおまんも言う。
「じゃ、そうするか。この節は宵《よい》から寝てばかりさ。おまんもおれにかぶれたと見えて、おれが横になれば、あれも横になる。」
 吉左衛門はそんなことを半蔵に言って見せて、笑って、おまんの勧めるままに新しい袷《あわせ》の寝衣《ねまき》の袖《そで》に手を通した。半蔵の見ている前で、細い紐《ひも》を結んで、そこに敷いてある床の上にすわった。七十一歳を迎えた吉左衛門は、かねてある易者に言われたよりも一年多く生き延びた彼自身をその裏二階に見つけるような人であった。
「半蔵、見ておくれよ。」とおまんが言った。「ことしはお父さんに、こういうものを造りましたよ。わたしの丹精《たんせい》した袷だよ。お父さんはお前、この年になるまでずっと木綿《もめん》の寝衣で通しておいでなすった。やわらかな寝衣なぞは庄屋に過ぎたものだ、おれは木綿でたくさんだ――そうおっしゃるのさ。そりゃ、お前、氏神さまへ参詣《さんけい》する時の紙入れだって、お父さんは更紗《さらさ》の裏のついたのしかお使いなさらないような人だからね。でも、わたしは言うのさ。七十の歳《とし》にもおなりになるなら、寝衣にやわらか物ぐらいはお召しなさるがいいッて――ね。どうしてもお父さんはこういうものを着ようとおっしゃらない。それをわたしが勧めて、ことしから着ていただくことにしましたよ。」
 こんなおまんの心づかいも、吉左衛門の悲哀《かなしみ》を柔らげた。吉左衛門は床の上にすわったまま、枕《まくら》を引きよせて、それを膝《ひざ》の上に載せながら、
「まあ、金兵衛さんのところへも顔を出したし、これでおれも気が済んだ。明日か明後日のうちにはお粂《くめ》や宗太を連れて、墓|掃除《そうじ》だけには行って来たい。」
 そう言って、先代隠居半六の命日が近いばかりでなく、村の万福寺の墓地の方には、早世した二人の孫娘が、亡《な》きお夏とお毬《まり》とが、そこに新しい墓を並べて眠っていることまでを、あわれ深く思いやるというふうであった。
「あれもこれもと思うばかりで、なかなか届かないものさね。」
 とも吉左衛門は言い添えた。
 その晩、母屋《もや》の方へ戻《もど》って行く半蔵を送り出した後、吉左衛門はまだ床の上にすわりながら、自分の長い街道生活を思い出していた。半蔵の置いて行った話が心にかかって、枕についてからもいろいろなことを思いつづけた。明日もあらば、と父は思い疲れて寝た。

       七

 六月にはいって、半蔵は尾州家の早い版籍奉還を聞きつけた。彼は福島総管所から来たその通知を父のところへ持って行って読み聞かせた。
[#地から2字上げ]徳川三位中将
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今般版籍奉還の儀につき、深く時勢を察せられ、広く公議を採らせられ、政令帰一の思《おぼ》し召しをもって、言上《ごんじょう》の通り聞こし召され候《そうろう》事。
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 とある。
 これは新政府行政官から出たもので、主上においても嘉納《かのう》あらせられたとの意味の通知である。総管所からはこの趣を村じゅうへもれなく申し聞けよとも書付を添えて、庄屋としての半蔵のもとへ送り届けて来たものである。
 すでに起こって来た木曾福島の関所の廃止、代官所廃止、種々《さまざま》な助郷名目の廃止、刎銭《はねせん》の廃止、問屋の廃止、会所の廃止――この大きな改革は、とうとうここまで来た。さきに版籍奉還を奏請した西南の諸侯はあっても、まだそれが実顕の運びにも至らないうちに、尾州家が率先してこのことを行ない、名を譲って実をあげようとするは、いわれのないことでもない。徳川御三家の随一として、水戸に対し、紀州に対し、その他の多くの諸侯に対し、大義名分を正そうとする尾州家にこのことのあるのは不思議でもない。あの徳川慶喜が大政を奉還し将軍職を辞退した当時、広大な領土までをそこへ投げ出すことを勧め、江戸城の明け渡しに際しても進んで官軍の先頭に立った尾州家に、このことのあるのもまた不思議でもない。
「お父《とっ》さん、ここに別の通知がありますよ。徳川三位中将、名古屋藩知事を仰せ付けられるともありますよ。」
「して見ると、藩知事公かい。もう名古屋のお殿様でもないのかい。」
「まずそうです。人民の問屋も、会所も廃させて置いて、御自分ばかり旧《むかし》に安んずるような、そんなつもりはないのでしょう。」
 吉左衛門は半蔵と言葉をかわして見て、忰《せがれ》の言うことにうなずいたが、目にはいっぱい涙をためていた。


 七月の来るころには、吉左衛門はもはやたてなかった。中風の再発である。どっと彼は床についていて、その月の半ばにはお民の安産を聞き、今度生まれた孫は丈夫そうな男の子であると聞いたが、彼自身の食は次第に細るばかりであった。そういう日が八月のはじめまで続いた。ついに、おまんや半蔵の看護もかいなく、養生もかなわずであった。彼は先代半六のあとを追って、妻子や孫たちにとりまかれながら七十一歳の生涯《しょうがい》をその病床に終わった。それは八月四日、暮れ六つ時《どき》のことであった。
 その夜のうちに、吉左衛門の遺骸《いがい》は裏二階から母屋《もや》の奥の間に移された。栄吉、庄助、つづいて伊之助なぞはこの変事を聞いて、早速《さっそく》本陣へかけつけて来た。中でも、伊之助は福島総管所からのお触状《ふれじょう》により、新政府が産業奨励の趣意から設けられた御国産会所というものへ呼ばれ、その会合から今々帰ったばかりだと言って、息をはずませていた。あわただしくもかけつけて来てくれたこの隣家の主人を見ることは、半蔵にとって一層時を感じさせ、夕日のように沈んで行った父の死を思わせた。
 翌朝は早くから、生前吉左衛門の恩顧を受けた出入りの衆が本陣に集まって来て、広い囲炉裏ばたや勝手口で働いた。よろこびにつけ、かなしみにつけ、事あるごとに手伝いに来て、互いに話したり飲み食いしたりするのは、出入りの衆の古くからの慣例《ならわし》である。今は半蔵も栄吉や清助を相手に、継母の意見も聞いて、本陣相応に父を葬らねばならない。彼は平田門人の一人《ひとり》として、この際、神葬を断行したい下心であったが、従来青山家と万福寺との縁故も深く、かつ継母のおまんが希望もあって、しばらく皆の意見に従うことにした。ともかくも、この葬式は父の長い街道生活を記念する意味のものでありたいと彼は願った。なるべく手厚く父を葬りたい。そのことを彼は伊之助の前でも言い、継母にも話した。やがて納棺の用意もできるころには、東西の隣宿から泊まりがけで弔いに来る親戚《しんせき》旧知の人々もある。寿平次、得右衛門は妻籠《つまご》から。かつて半蔵の内弟子《うちでし》として少年時代を馬籠本陣に送ったことのある勝重《かつしげ》は落合から。奥の間の机の上では日中の蝋燭《ろうそく》が静かにとぼった。木材には事を欠かない木曾山中のことで、棺も厚い白木で造られ、その中には仏葬のならわしによるありふれたものが納められた。おまんらが集まって吉左衛門のために縫った経帷子《きょうかたびら》、珠数《じゅず》、頭陀袋《ずだぶくろ》、編笠《あみがさ》、藁草履《わらぞうり》、それにお粂《くめ》が入れてやりたいと言ってそこへ持って来た吉左衛門常用の杖《つえ》。いずれも、あの世への旅人姿のしるしである。おまんはそのそばへ寄って、吉左衛門の掌《てのひら》を堅く胸の上に組み合わせてやった。その時、半蔵はお粂や宗太を呼び寄せ、一緒によく父を見て置こうとした。長い眉《まゆ》、静かな口、大きな本陣鼻、生前よりも安らかな顔をした父がそこに眠っていた。多勢のものが別れを告げに棺の周囲に集まる混雑の中で、半蔵は自分の子供に注意することを忘れなかった。ようやく物心づく年ごろに達して、部屋《へや》のすみに腕を組みながら、じっと祖父の死を考え込むような顔つきをしているのは宗太だ。お粂は、と見ると、これは祖父にかわいがられた娘だけに、姉らしく目のふちを紅《あか》く泣きはらして、奥の坪庭の見える廊下の方へ行って隠れた。
 寿平次の妻、お里も九歳になる養子の正己《まさみ》(半蔵の次男)を連れて、妻籠からその夕方に着いた。日が暮れてから、半蔵は村の万福寺住持が代理として来た徒弟僧を奥の間に迎え、人々と共に棺の前に集まって、一しきり読経《どきょう》の声をきいた。吉左衛門が生前の思い出話もいろいろ出る中に、半蔵は父が小前《こまえ》のものに優しかったこと、亡《な》くなる前の三日ほどはほとんど食事も取らなかったこと、にわかに気分のよいという朝が来て、なんでも食って見ると言い出し、木苺《きいちご》の実の黄色なのはもう口へははいるまいかなぞと尋ね、孫たちをそばへ呼び寄せて放さなかったが、それが最後の日であったことを語った。父はお家流をよく書き、書体の婉麗《えんれい》なことは無器用な彼なぞの及ぶところでなかったが、おそらくその父の手筋は読み書きの好きなお粂の方に伝わったであろうとも語った。父はまた、美濃派の俳諧《はいかい》の嗜《たしな》みもあったから、臨終に近い枕《まくら》もとで、父から求めらるるままに、『風俗文選《ふうぞくもんぜん》』の一節を読み聞かせたが、さもあわれ深く父はそれを聞いていて、やがて、「半蔵、おれはもう行くよ」との言葉を残したとも語った。
 伊之助は言った。
「そう言えば、吾家《うち》の隠居(金兵衛)もこんなことを言っていましたっけ――いつぞや吉左衛門さんが上の伏見屋へお訪《たず》ねくだすって、大変に長いお話があった。あの時自分は気もつかなかったが、今になって考えて見ると、あれはこの世のお暇乞《いとまご》いにおいでくだすったのだわいッて。」


 吉左衛門の遺骸が本陣の門口まで運び出されたのは、翌日の午後であった。寺まで行かないものはその門口で見送るように、と呼ぶ清助の声が起こる。そこには近所のかみさんや婆《ばあ》さんなぞの女達がおもに集まっている。
「お霜|婆《ばあ》。」
「あい。」
「お前も早くおいでや。」
「あい。」
 出入りの百姓兼吉のおふくろは人に呼ばれて、あたふたとそこへ走り出た。耳の遠いこの婆さんまでが、ありし日のことを思い出して、今はと見送ろうとするのであろう。その中には、珠数を手にした伊之助の妻のお富もまじっていた。
 その時、百姓の桑作は人を分けて、半蔵をさがした。桑作はそこに門火《かどび》を焚《た》いていた一人の若者を半蔵の前へ連れて行った。
「旦那、これはおふき婆(半蔵の乳母《うば》)の孫よなし。長いこと山口の方へ行っていたで、お前さまも見覚えはあらっせまいが、あのおふき婆の孫がこんなに大《でか》くなった。きょうはこれにもお見送りをさしてやっていただきたい。そう思って、おれが連れて来たに。」
 と桑作は言った。
 間もなく野辺送《のべおく》りの一行は順に列をつくって、寺道の方へ動き出した。高く掲げた一対の白張提灯《しらはりぢょうちん》を案内にして、旧庄屋の遺骸がそのあとに続いた。施主の半蔵をはじめ、亀屋《かめや》栄吉、伏見屋伊之助、梅屋五助、桝田屋《ますだや》小左衛門、蓬莱屋《ほうらいや》新助、旧問屋九郎兵衛、組頭庄助、同じく平兵衛、妻籠本陣の寿平次、脇《わき》本陣の得右衛門なぞは、いずれも青い編笠《あみがさ》に草履ばきで供をした。産後のお民だけは嬰児《あかご》の森夫《もりお》(半蔵の三男)を抱いて引きこもっていたが、おまん、お喜佐、お里、それにお粂も年上の人たちと同じように彼女のみずみずしい髪を飾りのない毛巻きにして、その列の中に加わった。
 やがてこの行列が街道を右に折れ、田圃《たんぼ》の間の寺道を進んで、万福寺の立つ小山に近づいたころ、そこまでついて行った勝重は清助と共に、急いで列を離れた。これは寺の方に先回りして一行を待ち受けるためである。万福寺にはすでに近村から到着した会葬者もある。今か今かと待ち受け顔な松雲和尚《しょううんおしょう》が勝重らを迎え入れ、本堂と庫裏《くり》の間の入り口のところに二人《ふたり》の席をつくってくれた。
「それじゃ、勝重さん、帳面方は君に頼みますよ。」
 と清助に言われるまでもなく、勝重はそこに古い机を控え、その日の書役《かきやく》を引き受けた。そこは細長い板敷きの廊下であるが、一方は徒弟僧なぞの出たりはいったりする寺の囲炉裏ばたに続き、一方は錆《さ》び黒ずんだ板戸を境にして本堂の方へ続いている。薄暗い部屋《へや》をへだてて、奥まった方の客間も見える。勝重は、その位置にいて、会葬者の上がって来るごとにその名を記《しる》しつけ、吉左衛門が交遊のひろがりを想像した。しばらく待つうちに遺骸も本堂の前に着いて、勝重の周囲には廊下を歩きながらの人たちの扇がそこにもここにも動いた。
 時には清助が机の上をのぞきに来る。山口、湯舟沢、落合、それから中津川辺からの会葬者はだれとだれとであろうかというふうに。勝重は帳面を繰って、なんと言っても美濃衆の多いことをさして見せ、わざわざ弔いに見えた美濃の俳友なぞもあることを話したあとで、さらに言葉をついで、
「まあ、清助さん、そう働いてばかりいないで、すこしお休み。わたしは今度馬籠へ来て見て、お師匠さまの子供衆が大きくなったのに驚きましたよ。ほんとに、皆さんが大きくおなりなすった。わたしには一番それが目につきます。お師匠さまの家にお世話になった時分、あのお粂さんなぞはまだわたしの膝《ひざ》にのせて抱いたくらいでしたがねえ。」
 こんな話が出た。
 そこへうわさをしたばかりの姉弟《きょうだい》が三人づれで寺の廊下を回って来た。中でも、妻籠から来た正己はじっとしていない。これが馬籠のお寺かという顔つきで、久しぶりに一緒になったお粂や宗太を案内に、太鼓のぶらさがった本堂の方へ行き、位牌堂《いはいどう》の方へ行き、故人|蘭渓《らんけい》の描いた本堂のそばの画襖《えぶすま》の方へも行った。松雲和尚の丹精《たんせい》からできた築山風《つきやまふう》の庭の見える回廊の方へも行った。この活発な弟を連れて何度も同じ板の間を踏んで来る姉娘の白足袋《しろたび》も清げに愛らしかった。
 儀式の始まる時も近づいた。年老いた金兵衛は寺の方で棺の到着を待ち受けていた一人であるが、その時、伊之助と一緒に方丈を出て、勝重の前を会釈して通った。この隠居は平素よりも一層若々しく見えるくらいの結い立ての髪、剃《そ》り立ての顔で、伊之助に助けられながら本堂への廊下を通り過ぎた。一歩一歩ずつ小刻みに刻んで行くその足もとには無量の思いを託して。


「喝《かつ》。」
 式場での弔語の終わりにのぞんで、松雲和尚はからだのどこから出したかと思われるような、だれもがびっくりするような鋭い声を出した。この世を辞し去る旅人の遺骸を前にして、和尚がおくる餞別《せんべつ》は、長い修業とくふうとから来たような禅僧らしいその一語に尽きていた。
 式も済み、一同の焼香も済んで、半蔵はその日の会葬者へ礼を述べ、墓地まで行こうという人たちと一緒に本堂を出た。寺の境内にある銀杏《いちょう》の樹《き》のそばの鐘つき堂のあたりで彼は近在帰りの会葬者に別れ、経王石書塔《きょうおうせきしょとう》の文字の刻してある石碑の前では金兵衛にも別れた。山門の外の石段の降り口は小高い石垣《いしがき》の斜面に添うて数体の観音《かんのん》の石像の並んでいるところである。その辺でも彼は荒町や峠をさして帰って行く村の人々に別れた。
 小山の傾斜に添うた墓地の方では、すでに埋葬のしたくもできていた。半蔵らはその入り口のところで、迎えに来る下男の佐吉にもあった。用意した場所の深さは何尺、横幅何尺、それだけの深さと横幅とがあれば大旦那《おおだんな》の寝棺を納めるに充分であろうなぞと佐吉は語る。やがて生々《なまなま》しい土のにおいが半蔵らの鼻をついた。そこは青山の先祖をはじめ、十七代も連なり続いた古い家族の眠っているところだ、掘り起こした土は山のように盛りあげられて、周囲にある墓の台石もそのために埋《うず》められて見える。
 しばらく半蔵は人の集まるのを待った。おまんらは細道づたいに、閼伽桶《あかおけ》をさげ、花を手にし、あるいは煙の立つ線香をささげなどして、次第に墓地へ集まりつつあった。そこここには杉《すぎ》の木立《こだ》ちの間を通して、恵那山麓《えなさんろく》の位置にある村の眺望《ちょうぼう》を賞するものがある。苔蒸《こけむ》した墓と墓の間を歩き回るものがある。
「いつ来て見ても、この御先祖のお墓はいい。」
 と寿平次は半蔵に言って見せる。それは万福寺を建立した青山|道斎《どうさい》の形見だ。万福寺殿昌屋常久禅定門《まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん》の文字が深く刻まれてある古い墓石だ。いつ来て見ても先祖は同じように、長いと言っても長い目で、自分の開拓した山村の運命をそこにながめ暮らしているかのようでもある。
「いかにもこれは古人のお墓らしい。」
 とまた寿平次は言っていた。いつのまにか松雲も来て半蔵のうしろに立ったが、静かな声で経文を口ずさむことがなかったら、半蔵はそこに和尚があるとも気づかなかったくらいだ。やがて、あちこちと気を配る清助のさしずで、新しい墓標も運ばれて来て、今は遺骸を葬るばかりになった。
 鍬《くわ》をさげて埋葬の手伝いに来ている出入りの者の間には、一しきり寝棺をそばに置いて、どっちの方角を頭にしたものかとの百姓らしい言葉の争いもあった。北枕とも言い伝えられて来たところから、これは北でなければならないと言うものがある。仏葬から割り出して、西、西と言うものがある。墓地は浅い谷をへだてて村の裏側を望むような傾斜の地勢にあったから、結局、その自然な位置に従うのほかはなかった。
「さあ、細引《ほそびき》の用意はいいか。」
「皆しっかり手をかけろ。」
 こんな声が人々の間に起こる。
 寝棺は静かに土中に置かれた。鍬を手にした佐吉らのかける土は崩《なだ》れ落ちるように棺のふたを打った。おまんから孫の正己までが投げ入れる一塊《ひとくれ》ずつの土と共に、親しいものは寄り集まって深く深く吉左衛門を埋めた。


 その葬式のあった晩は、吉左衛門に縁故の深かった人たちが半蔵の家の方に招かれた。青山の家例として、その晩の蕎麦振舞《そばぶるまい》には、近所の旦那衆が招かれるばかりでなく、生前吉左衛門の目をかけてやったような小前のものまでが招かれた。
 時間を正確に守るということは、当時の人の習慣にない。本陣から下男の佐吉を使いに走らせても、なかなか時間どおりには客が集まらなかった。泊まりがけで来ている寿平次夫婦、得右衛門、それに勝重なぞは今一夜を半蔵のもとに送って行こうとしている。夕方から客を待つ間、半蔵は寿平次と二人《ふたり》で奥の間の外の廊下にいて、そろそろ薄暗い坪庭を一緒にながめながら話した。
 その時になって見ると、葬られて行くものは、ひとり半蔵の父ばかりではなかった。あだかも過ぐる安政の大地震が一度や二度の揺り返しで済まなかったように、あの参覲交代制度の廃止を序幕として、一度大きく深い地滑《じすべ》りが将軍家の上に起こって来ると、何度も何度も激しい社会の震動が繰り返され、その揺り返しが来るたびに、あれほどの用心深さで徳川の代に仕上げられたものが相継いで半蔵らの目の前に葬られて行きつつある。
 時には、半蔵は家のものに呼ばれて、寿平次のそばを離れることもある。街道を走って来る七里役(飛脚)はいろいろな通知を彼のもとに置いて行く。金札不渡りのため、福島総管所が百方周旋の結果、木曾谷へ輸入されるはずの大井米が隣宿落合まで到着したなぞの件だ。西からはまた百姓暴動のうわさも伝わり、宿場の改革に反対な人たちの不平はどんな形をとってどこに飛び出すやも知れないような際に、正金を融通《ゆうずう》したり米穀を輸入したりして時局を救おうとする当局者の奮闘は悲壮ですらある。
「問屋役廃止以来、おれもしょんぼり日を暮らして来た。」と半蔵は自分で自分に言った。「明るい世の中を前に見ながら、しおれているなんて――おれはこんなばかな男だ。」
 半蔵はまた寿平次のいるところへ戻《もど》って行った。寿平次と彼とは互いに本陣同志、また庄屋同志で、彼の心にかかることはやがて寿平次の心にかかることでもある。
「半蔵さん、飛脚ですか。」
「えゝ、宿場の用です。いよいよ大井米もわれわれの地方へはいって来ます。」
「近いうちに君、名古屋藩も名古屋県となるんだそうじゃありませんか。そうなれば、福島総管所も福島出張所と改まるという話ですね。今度来る土屋総蔵《つちやそうぞう》という人は、尾州の御勘定奉行だそうですが、そういう人が来て民政をやってくれたら、この地方も見直しましょう。」
「そりゃ、君、尾州家で版籍を奉還する思いをしたら、われわれの家で問屋や会所を返上するぐらいは実に小さな事でさ。」
「さあ、ねえ。」
「どうでしょう。どうせ壊《こわ》れるものなら、思い切って壊して見たら。」
「半蔵さんは平田門人だから、そういう意見も出る。」
「でも、そこまで行かなかったら、御一新の成就《じょうじゅ》も望めなかありませんか。」
「君の言うように、思い切って壊して見る日にゃ、自分でも本陣や問屋と一緒に倒れて行くつもりでなくちゃ……こういう時になると、宗教のある人は違う。まあ、新政府のやり口をもっとよく見た上でないとね。一切はまだわたしには疑問です。」
 その時、松雲和尚をはじめ、旧年寄役の人たちなぞが来て席に着き始めるので、二人はもうそんな話をしなかった。そこには奥の間、仲の間、次の間の唐紙《からかみ》をはずし、三室を通して客の席をつくってある。二里も三里もあるところから峠越しでその日の葬式に列《つら》なりに来て、万福寺や伏見屋に泊まっている隣の国の客もあったが、そういう人たちも提灯《ちょうちん》持参で招かれて来た。日ごろ出入りの大工も来、畳屋も来た。髪結いの直次も年をとったが、最後まで吉左衛門の髭《ひげ》を剃《そ》りに油じみた台箱をさげて通《かよ》ったのも直次で、これも羽織着用の改まった顔つきでやって来た。
 松雲和尚の前に栄吉、得右衛門の前に清助、美濃から来た客の前には勝重までが取り持ちに出て、まず酒を勧めた。
「そうだ、今夜は皆の盃《さかずき》を受けて回ろう。おれも飲もう。」
 半蔵はその気になって、伊之助と寿平次とが隣り合っている膳《ぜん》の前に行ってすわった。
「よくこんなにおしたくができましたね。」
 と言って、伊之助も盃を重ねている。こうした一座の客として来ていても、静かに膳の上をながめ、膳に映る小盃の影を見つけて、それをよく見ているような人は伊之助だ。その時、半蔵が酒を勧めながら言った。
「まあ、時節がら、質素にとも思いましたがね、今夜だけは阿爺《おやじ》の生きてる日と同じようにしたい。わたしもそのつもりで、蕎麦《そば》で一杯あげることにしましたよ。」
 半蔵は伊之助から受けた盃を寿平次の方へもさした。
「寿平次さん、この酒は伏見屋の酒ですよ。今夜は君もゆっくり飲んでください。」
 そこここの百目蝋燭《ひゃくめろうそく》の灯《ほ》かげには、記念の食事に招かれて来た村の人たちが並んで膳についている。寿平次はそれを見渡しながら、箸《はし》休めの茄子《なす》の芥子《からし》あえも精進料理らしいのをセカセカと食った。猪口《ちょく》の白《しら》あえ、椀《わん》の豆腐のあんかけ、皿《さら》の玉子焼き、いずれも吉左衛門の時代から家に残った器《うつわ》に盛られたのが、勝手の方から順にそこへ運ばれて来た。小芋《こいも》、椎茸《しいたけ》、蓮《はす》の根などのうま煮の付け合わせも客の膳に上った。
 あちこちと半蔵が盃を受けて回るうちに、ふと屋外にふりそそぐ雨の音が耳についた。秋の立つというころの通り雨が庭へ来る音だ。やがてその音の降りやむころには、彼は大工の前へも盃を受けに行き、髪結いの直次の前へも受けに行った。
「おれにも盃をくれるかなし。」
 と子息《むすこ》の代理に来たお虎《とら》婆さんがそこへすわり直して言った。先祖の代から本陣に出入りする百姓の家のものだ。
「半蔵さま、お前さまの前ですが、大旦那はこういうお客をするのが好きな人で、村のものを集めてはよくお酒盛りよなし。ほんとに、大旦那は気の大きな人だった。」
 とお虎が言う。そこには兼吉も桑作も膝《ひざ》をかき合わせている。半蔵は婆さんから受けた盃を飲みほして、それを兼吉にさし、さらに桑作にもさした。
「そりゃ、お前、一度でも吾家《うち》の敷居をまたいだものへは、何か一品ずつ形見が残して置いてあったよ。そういうものがちゃんと用意してあったよ。」と半蔵が言って見せる。
「大旦那はそういう人よなし。」
 とお虎婆さんも上きげんで、わざわざその日のために黒々と染めて来たらしい鉄漿《かね》をつけた歯を見せて笑った。この酒好きな婆さんは膳の上に盃を置いた手で、自分の顔をなで回しながら、大旦那の時分の忘れられないことを繰り返した。
 次第に半蔵が重ねた盃の酒は顔にも手にも発して来た。その晩は彼もめずらしく酔った。客一同へ蕎麦が出て、ぽつぽつ席を立ちかけるものもあるころには、物を見る彼の目も朦朧《もうろう》としていた。しまいには奥の間の廊下の外にすべり出し、そこに酔いつぶれていて、勝重の介抱に来てくれたのをわずかに覚えているほど酔った。
[#改頁]

     第七章

       一

 例の万国公法の意気で、新時代を迎えるに急な新政府がこれまでの旧《ふる》い暦をも廃し、万国共通の太陽暦に改めたころは、やがて明治六年の四月を迎えた。その時になると、馬籠《まごめ》本陣の吉左衛門なぞがもはやこの世にいないばかりでなく、同時代の旧友であれほどの頑健《がんけん》を誇っていた金兵衛まで七十四歳で亡《な》き人の数に入ったが、あの人たちに見せたらおそらく驚くであろうほどの木曾路《きそじ》の変わり方である。今は四民が平等と見なされ、権威の高いものに対して土下座《どげざ》する旧習も破られ、平民たりとも乗馬、苗字《みょうじ》までを差し許される世の中になって来た。みんな鼻息は荒い。中馬稼《ちゅうまかせ》ぎのものなぞはことにそれが荒く、牛馬の口にばかりついていない。どうかすると荷をつけて街道に続く牛馬の群れは通行をさまたげ、諸人の迷惑にすらなる。なんと言っても当時の街道筋はまだやかましい昔の気風を存していたから、馬士《まご》や牛追いの中には啣《くわ》え煙管《ぎせる》なぞで宿村内を歩行する手合いもあると言って、心得違いのものは取りただすよしの触れ書が回って来たほどだ。下から持ち上げる力の制《おさ》えがたさは、こんな些細《ささい》なことにもよくあらわれていた。これまで、実に非人として扱われていたものまで、大手を振って歩かれる時節が到来した。新たに平民と呼ばれて雀躍《こおどり》するものもある。その仲間入りがまことに許されるなら、貸した金ぐらいは棒引きにすると言って、涙を流してよろこぶものがある。洪水《こうずい》のようにあふれて来たこの勢いを今は何者もはばみ止めることができない。武家の時が過ぎて、一切の封建的なものが総崩《そうくず》れに崩れて行くような時がそれにかわって来た。


 本陣、脇《わき》本陣、今は共にない。大前《おおまえ》、小前《こまえ》なぞの家筋による区別も、もうない。役筋《やくすじ》ととなえて村役人を勤める習慣も廃された。庄屋《しょうや》、名主《なぬし》、年寄《としより》、組頭《くみがしら》、すべて廃止となった。享保《きょうほう》以来、宿村の庄屋一人につき玄米五石をあてがわれたが、それも前年度(明治五年)までで打ち切りとした。庄屋名主らは戸長、副戸長と改称され、土地人民に関することはすべてその取り扱いに変わり、輸送に関することは陸運会社の取り扱いに変わった。人馬の継立《つぎた》て、継立てで、多年|助郷《すけごう》村民を苦しめた労役の問題も、その解決にたどり着いたのである。
 大きな破壊が動いたあとだ。いよいよ廃藩が断行され、旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで蝦夷地《えぞち》ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過ぐる三年の間のことである。武家の地盤は全く覆《くつがえ》され、前年の十二月には全国募兵の法さえ設けられて、いわゆる壮兵のみが兵馬の事にたずさわるのを誇れなくなった。
 瓦解《がかい》の勢いもはなはだしい。従来一芸をもって門戸を張り、あるいはお抱《かか》え、あるいはお出入りなどととなえて、多くの保護を諸大名旗本に仰いでいた人たちまでが、それらの主人公と運命を共にするようになって行った。その影響は次第に木曾路にもあらわれて来る。一流の家元と言われた能役者で、旅の芸人なぞの群れにまじり、いそいそとこの街道に上って来るのも、今はめずらしくない。


 この混沌《こんとん》とした社会の空気の中で、とにもかくにも新しい政治の方向を地方の人民に知らしめ、廃関以来不平も多かるべき木曾福島をも動揺せしめなかったのは、尾州の勘定奉行《かんじょうぶぎょう》から木曾谷の民政|権判事《ごんはんじ》に転任して来た土屋総蔵の力による。ずっと後の時代まで善政を謳《うた》われた総蔵のような人の存在もめずらしい。この人の時代は、木曾谷の支配が名古屋県総管所(吉田|猿松《さるまつ》の時代)のあとをうけ、同県出張所から筑摩県《ちくまけん》の管轄に移るまでの間で、明治三年の秋から明治五年二月まで正味二年足らずの短い月日に過ぎなかったが、しかしその短い月日の間が木曾地方の人民にとっては最も幸福な時代であった。目安箱《めやすばこ》の設置、出板《しゅっぱん》条例の頒布《はんぷ》、戸籍法の改正、郵便制の開始なぞは皆その時代に行なわれた。総蔵はまた、凶年つづきの木曾地方のために、いかなる山野、悪田、空地《あきち》にてもよくできるというジャガタラ芋《いも》(馬鈴薯《ばれいしょ》)の試植を勧め、養蚕を奨励し、繰糸器械を輸入した。牛馬売買渡世のものには無鑑札を許さず、下々《しもじも》が難渋する押込みと盗賊の横行をいましめ、復飾もしない怪しげな修験者《しゅげんじゃ》には帰農を申し付けるなど、これらのことはあげて数えがたい。この民政権判事が村々の庄屋|一人《ひとり》ずつに出頭を命じ、筑摩県への郷村の引き渡しを済ましたのは、前年二月十七日のことであった。総蔵は各村の庄屋が新しい戸長と呼ばれるのを見、そろそろ児童の就学ということが地方有志者の間に考えられるころに、それらの新しい教育事業までは手を着けないで木曾の人民に別れを告げて行った。
 すべてが試みでないものはないような時だ。太陽暦の採用以来、時の分《わか》ちも今は明けの何時《なんどき》、暮れの何時とは言わない。その年から昼夜二十四時に改められた。月日の繰り方もこれまでの暦にくらべると一か月ほど早い。これは前年十二月上旬をもって太陰暦の終わりとし、新暦による正月元日が前年の冬のうちに来たからであった。
 人心の一新はこんな暦からも。しかし、これまで小草山の口開《くちあ》けから種まきの用意まで一切はこの国固有の暦を心あてにして来た農家なぞにとっては、朔日《ついたち》だ十五日だということも月の満ち欠けに関係のないものはない。どうしても旧暦で年を取り直さなけれは新しい年を迎えた気もしないという村民のところへは、正月が一年に二度来る始末だ。多くの人々は新旧二通りの暦を煤《すす》けた壁に貼《は》りつけて置いて、新暦の四月一日が旧の三月幾日に当たると知らなければ、春分の感じが浮かぶはおろか、まだ季節の見当さえもつかなかった。
 その年から新たに祝日と定められた四月三日は、木曾路で初めて迎える神武天皇祭である。その日は一般に休業し、神酒《みき》を供え、戸々奉祝せよ。旧《ふる》い習慣を脱しないで五節句休業のものもあるが、はなはだ不心得の事である。今後祝日のほかは家業を怠るまいぞ。こんなお触れが、筑摩県|権令《ごんれい》の名で駅々村々へ回って来る。あざやかな国旗が石を載せた板屋根の軒に高く掲げられるのも、これまでの山の中には見られなかった図だ。
 半蔵の妻お民も、今は庄屋の家内でなくて、学事掛《がくじがか》りを兼ねた戸長の家内であるが、その祝日の休業を機会に、兄寿平次の家族を訪《たず》ねようとして馬籠の家を出た。もっとも、この訪問は彼女|一人《ひとり》でもない。彼女と半蔵との間には前年の二月に四男の和助《わすけ》が生まれて、その幼いものと下女のお徳とを連れていた。馬籠から奥筋へと続く木曾街道はお民らの目にある。ところどころの垣根《かきね》には梅も咲く。彼女らは行く先に日の丸の旗の出ている祝日らしい山家のさまをながめながめ、女の足で二里ばかりの道を歩いて、午後に妻籠《つまご》の生家《さと》に着いた。

       二

 お民はある相談をもって妻籠のおばあさんや兄寿平次を見に来た。その相談は、娘お粂《くめ》の縁談に関する件で、かねて伊那の南殿村、稲葉《いなば》という家は半蔵が継母おまんの生家《さと》に当たるところから、おまんの世話で、その方にお粂の縁談がととのい、前年の冬には南殿村から結納《ゆいのう》の品々を送って来て、その年の二月の声を聞くころはすでに結婚の日取りを申し合わせるまでに運んだのであった。今度のお民の妻籠訪問はその報告というばかりでなく、兄夫婦の耳にも入れて相談したいと思って来たことがあるからで。
 お民ももう五人の子の母である。兄の家にもらわれて来ている次男の正己《まさみ》と、三男の森夫との間には、二人《ふたり》まで女の子を失ったが、それらの早世した幼いものまで合わせると七人もの子をなした年ごろに達している。今さら、里ごころでもあるまいに。しかし、その年になっても妻籠に帰って来て見ると、やはりおばあさんのそばは彼女にとって自分の家らしかった。ちょうど寿平次は正己を連れ、近くに住む得右衛門を誘い合わせ、祝日の休暇を見つけて山遊びに出かけた留守のおりであったが、年老いてまだ元気なおばあさんは孫のよめに当たるお里を相手に、妻籠旧本陣の表庭にいて手造りの染め糸を乾《ほ》すところであった。男の下着の黄八丈《きはちじょう》にでも織るものと見えて、おばあさんたちが風通しのいいところへ乾している糸の好ましい金茶であるのもお民の目についた。古くから山地の農民の間に実用されて来たように、おばあさんはその黄色な染料を山の小梨《こなし》に取ることから、木槌《きづち》で皮を砕き、日に乾し、煎《せん》じて糸を染めるまで、そういうことをよく知っていた。縫うこと、織ること、染めること、すべてこのおばあさんに仕込まれて、それをまた娘のお粂に伝えているお民としては、たまの里帰りが彼女自身の娘の昔を思い出させないものはない。
 やがて天井の高い、広い囲炉裏ばたでは、おばあさんはじめお里やお民が黒光りのする大黒柱の近くに集まって、一しきり子供の話で持ちきった。お里と寿平次の間には長いこと子供がなく、そのために正己を馬籠から迎えて養っていたほどであるが、結婚後何年ぶりかでめずらしい女の子が生まれた。琴柱《ことじ》がその子の名だ。足掛け三つになる琴柱はもうなんでも言える。それに比べると、お民の連れて来た和助は誕生後二か月にもなるが、まだ口がきけない。立って歩くこともできない。殻《から》から出たばかりの青い蝉《せみ》のように、そこいらの畳の上をはい回っている。
「はい、今日《こんち》は。」
 琴柱が女の子らしいませた口のききかたをすると、和助はその方へお辞儀にはって行った。何をどう覚えたものか、この子供はむやみやたらとお辞儀だ。おばあさんの方へお辞儀に行けば、お里の方へもお辞儀に行く。まだ無心な目つきをした幼いもののすることに、そこに集まっているものは皆笑った。
「もうたくさん。」
 とお民が言って見せると、和助はまたお辞儀をした。
「お民、この子はまだお乳かい。お誕生が済んだら、お前、もう御飯でもいいぜ。なんにしても今があぶないさかりだねえ。ほんとに、すこしも目は放せませんよ。」
 とおばあさんも言ってみた。
 母であることはお民を変えたばかりでなく、お里をも変えた。あれほど病気がちで子供のないのをさみしそうにしていたお里が、母親らしい肉づきをさえ見せて来た。めっきり世帯《しょたい》じみても来た。お里はもはや以前のように、いつお民があって見ても変わらないような、娘々しい人でもない。そういうお民も子供のことに心を奪われて、ほとんど他をかえりみる暇がない。木曾谷三十三か村の人民が命脈にもかかわるような山林事件のために奔走している夫半蔵のことよりも、自分の子供に風でも引かせまいとすることの方がお民には先であった。


 寿平次も正己を連れて屋外《そと》から戻《もど》って来た。二人とも山遊びらしい軽袗《かるさん》ばきだ。兄はお民を見ると、自分の腰につけている軽袗の紐《ひも》をときながら、
「来たね。」
 と相変わらずの調子だ。
 寿平次も半蔵と同じように、今は新しい戸長の一人である。遠からず筑摩県地方は村々の併合が行なわれ、大区、小区の区制が設けられるはずで、そのあかつきには彼は八大区の区長としての候補者に定められているが、そんなことでも気をよくしている矢先であった。おまけに、お里には琴柱というかわいいものができて、行く行くは正己にめあわせられるという楽しみがあった。正己もめっきり成長した。すでに十三歳にもなる。来たる年には木曾福島の方へ送って、大脇自笑《おおわきじしょう》の塾《じゅく》にでも入門させ、自分のよい跡目相続としたい。そんな話が寿平次の口から出て来た。
 妻籠にはまだ散切頭《ざんぎりあたま》も流行《はや》って来ない。多くのものの目にはその新しい風俗も異様に映る。その中で、今度お民が来て見た時は兄はすでにさっぱりとした散髪《さんぱつ》になっていた。
「どうだ、お民。おれに似合うか。」
 と寿平次の言い草だ。
「半蔵さんもどうしているかい。」とまた寿平次がきく。
「兄さん、うちのいそがしさと来たら、見せたいよう。髭《ひげ》もろくに剃《そ》らずに飛び歩いていますよ。わたしが何をきいても、山林事件のためだとばかりで、くわしいことも話しません。」
「今度という今度は半蔵さんも全力をあげているらしい。おれも相談にはあずかってるし、大賛成じゃあるが、せめてこれが土屋総蔵の時代だとねえ。」
「そのことは、兄さん、うちでも言ってるようですよ。」
「そりゃ、名古屋県がこの木曾に出張所を置いて直接民政をやったころは、なんでも親切に、人民をよく教え導くという調子さ。あの土屋総蔵なぞは赴任して来ると、すぐ六人の官吏を連れて開墾その他の見分《けんぶん》にやって来たからね。あの時の見分は、贄川《にえがわ》から妻籠、馬籠まで。おれはあの権判事を地境《じざかい》へ案内した時のことを忘れない。木曾はこんな産馬地《うまどこ》だから、各村とも当歳の駒《こま》を取り調べて、親馬から、毛色、持ち主の名前まで書き出せというやり方だ。それからあの見分を済ましたあとで、村々へ回状を送ってよこしたが、その回状がまた振るってる。あれほど休泊の手当てに及ばないししたくも有り合わせでいいと言ってあるのに、うんとごちそうしてくれた村々がある。とかく官吏が旅行の際には不正な事も行なわれがちだから、今後ごちそうは無用だと書いてよこした。あれは明治三年の九月だ。そうだ、政府からは駅逓司《えきていし》の菊池大令史がこの地方へ出張して来たころだ。なんと言っても、土屋総蔵の時代はよかったよ。そのあとへ筑摩県の権判事として来た人が、今度は大いに暴威を振るおうとするんだから、まるで善悪の対照を見せつけられるようなものさね。こんな乱暴なやり口じゃ、今に地租の改正が始まっても、思いやられるナ。そりゃ、お民、あれほど半蔵さんが山林事件に身を入れて、いくらこの地方のために奔走しても、今の筑摩県の権判事がかわりでもしないうちはまずだめだとおれは見てる……」

       三

 馬籠本陣を見た目で妻籠本陣を見るものは、同じような破壊の動いた跡をここにも見いだす。夕飯にはまだすこし間のあるころに、お民は兄について、部屋《へや》部屋を見て回った。御一新の大改革が来るまで、本陣にのみあるもので他の民家になかったものは、玄関と上段の間とであった。本陣廃止以来、新政府では普通の旅籠屋《はたごや》に玄関を造ることを許し、上段の間を造ることをも許した。これまで公用兼軍用の客舎のごときもので、主として武家のためにあったような本陣は、あだかもその武装を解かれて休息している建物か何かのようである。
 お民は寿平次と一緒に玄関の方へ行って見た。彼女が娘時代の記憶のある式台のあたりはもはや陣屋風の面影をとどめない。その前へ来て黒羅紗《くろらしゃ》の日覆《ひおお》いなぞのかかった駕籠を停《と》めさせる諸大名もなければ、そのたびに定紋《じょうもん》付きの幕を張り回す必要もない。広い板敷きのところは、今は子供の遊び場所だ。そして青山家の先祖から伝わったような古い鎗《やり》のかかったところは、今はお里が織る機《はた》の置き場所だ。
 上段の間へも行って見た。あの黒船が東海道の浦賀に押し寄せてからこのかたの街道の混雑から言っても、あるいは任地に赴《おもむ》こうとし、あるいは帰国を急ごうとして、どれほどの時代の人がその客間に寝泊まりしたり、休息したりして行ったかしれない。今はそこもからッぽだ。白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上までが湿《し》けて見える。
「お民、お前のところじゃ、上段の間を何に使ってるかい。」
「うちですか。うちじゃ神殿にして、産土神《うぶすな》さまを祭っていますよ。毎朝わたしは子供をつれて拝ませに行きますよ。」
「そういうところは、半蔵さんの家らしい。」
 兄妹《きょうだい》はこんな言葉をかわした。
「まあ、来てごらん。」
 という寿平次のあとについて、お民はさらに勝手口の木戸から庭の方へ出て見た。思い切った破壊がそこには行なわれている。妻籠本陣に付属する問屋場、会所から、多数《たくさん》な通行の客のために用意してあったような建物までがことごとく取り崩《くず》してある。母屋《もや》と土蔵と小屋とを除いた以外の建物はほとんど礎《いしずえ》ばかり残っていると言っていい。土蔵に続くあたりは桑畠《くわばたけ》になって、ところどころに植えてある桐《きり》の若木も目につく。
 お民は思い出したように、
「あれはいつでしたか、うちで炬燵《こたつ》の上に手を置いて、『お民、今に本陣も、脇《わき》本陣もなくなるよ』ッて、そんな話を家のものにして聞かせたことがありましたっけ。あの時はわたしはうそのような気がしていましたよ。お父《とっ》さん(吉左衛門)の百か日が来た時にも、まさかうちで本気にそんなことを言ってるとは思いませんでした。ところが、兄さん、ちょうどあのお父さんが亡《な》くなって一年目に、うちでも母屋だけ残して、新屋の方は取り払いでしょう。主《おも》な柱なぞは綱をつけて、鯱巻《しゃちま》きにして引き倒しましたよ。恐ろしい音がして倒れて行きましたっけ。あの大きな鋸《のこぎり》や斧《おの》で柱を伐《き》る音は、今だにわたしの耳についています。」


 その晩、お民は和助を早く寝かしつけて置いて、寿平次のいる寛《くつろ》ぎの間《ま》におばあさんやお里とも集まった。娘お粂の縁談について、折り入ってその相談に来たことを兄夫婦らの前に持ち出した。
 妻籠でもうすうす聞いてくれたことであろうがと前置きをして、その時お民が語り出したことは、こうだ。もともとお粂には幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁《いいなずけ》があった。本陣はじめ、問屋、庄屋、年寄の諸役がしきりに廃止される時勢は年若な娘の身の上をも変えてしまった。というのは、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかない時勢になって来ては、早い許嫁の約束もひとまずあきらめたいと言って、先方の親から破談を申し込んで来たからであった。あのお粂が自分はもうどこへも嫁《かたづ》きたくないと言い出したのは、その時からである。けれども、女は嫁《とつ》ぐべきもの、とは半蔵が継母おまんの強い意見で、年ごろの娘がいつまで父に仕えられるものでもないし、好きな読み書きの道なぞにいそしみ通せるものではなおさらないと言って、いろいろに娘を言いすかし、伊那《いな》の南殿村への縁談を取りまとめたのであった。
 この縁談には、おまんも間にはいってすくなからず骨を折った。お民に言わせると、稲葉の家はおまんが生家方《さとかた》のことでもあり、最初からおまんは乗り気で、この話がまとまった時にも生家へあてて長い手紙を送り、まずまず縁談もととのって、自分としてもこんなうれしいことはないと言ってやったほどだ。半蔵はまた半蔵で、「うちの祖母《おばあ》さんの言うことも聞かないようなものは、自分の娘じゃない」と言っているくらいの人だから、かつておまんに逆らおうとしたためしもない。その祖母に対しても、お粂はこの縁談を拒み得なかった。伊那からはすでに二度も仲人《なこうど》が見えて、この二月には結婚の日取りまでも申し合わせた。先方としては、五、六、七、八の四か月を除けば、それ以外の何月に定めてもいいとある。そこで、こちらは娘のために来たる九月を選んだ。そのころにでもなれば、半蔵のからだもいくらかひまになろうと見越したからで。意外にも、お粂は悲しみに沈んでいるようで、母としてのお民にはそれが感じられるというのであった。
「なにしろ、うちじゃあのとおり夢中でしょう。木曾山のことを考え出すと、夜もろくろく眠られないようですよ。わたしはそばで見ていて、気の毒にもなってさ。まずまず縁談もまとまったものだから、こまかいことはお前たちによろしく頼むとばかり。お粂のことでそうそう心配もさせられないじゃありませんか。」とお民は言って見せる。
「いったい、この話がまとまったのは去年の春ごろじゃなかったか。あれから一年にもなる。もっと早く諸事進行しなかったものか。」と言い出したのは寿平次だ。
「そんな、兄さんのような。」とお民は承《う》けて、「そりゃ、話がまとまるとすぐ伊那の方へ手紙を出して、結納《ゆいのう》の小袖《こそで》も、織り次第、京都の方へ染めにやると言ってやったくらいですよ。ごらんなさいな、織って、染めて、それから先方へ送り届けるんじゃありませんか。」
「いや、なかなか男の言うような、そんな無造作なわけにいかすか。まず織ることからして始めにゃならんで。」とおばあさんも言葉をはさんだ。


「おれに言わせると、」とまた寿平次が言い出した。「この話は、すこし時がかかり過ぎたわい。もっとずんずん運んでしまうとよかった。娘が泣いてもなんでも、皆で寄ってたかって、祝っちまう――まずそれが普通さ。そのうちにはかわいい子供もできるというものだね。」
「お粂はことし幾つになるえ。」とおばあさんはお民にきく。
「あの子も十八になりますよ。」
「あれ、もうそんなになるかい。」と言って、おばあさんはお民の顔をつくづくと見て、「そうだろうね、吉左衛門さんの三年がとっくに来たからね。」
「して見ると、わたしたちが年を取るのも不思議はありませんかねえ。」とお里もそばにいて言葉を添える。
「何かなあ。あれでお粂も娘の一心に何か思いつめたことでもあるのかなあ。」と寿平次が言った。
「それがですよ。」とお民は答える。「許嫁《いいなずけ》の人のことでも忘れられないのかというに、どうもそうじゃないらしい。」
「それで、何かえ。お粂はどんなようすだえ。」とまたおばあさんがきく。
「わたしが何をたずねても、うつむいて、沈んでばかりいますよ。」
「そりゃ言えないんだ。」と寿平次は考えて、「ああいう早熟な子にかぎって、そういうことはあることだよ。」
「ほんとに、妙な娘ができてしまいました。あの年で、神霊《みたま》さまなぞに凝って――まあ、お父《とっ》さん(半蔵)にそっくりなような娘ができてしまいました。」
「でも、お民、おれはいい娘だと思う。」
 と寿平次は言って、その晩の話はお粂のようすを聞いて見るだけにとどめようとした。お民の方でも、それを生家《さと》の人たちの耳に入れるだけにとどめて、おばあさんや兄の知恵を借りに来たとはまだ言い出せなかった。
 馬籠峠の上ともちがい、木曾も西のはずれから妻籠まではいると、大きな谷底を流れる木曾川の音が日によって近く聞こえる。お民は久しぶりでその音を耳にしながら、その晩は子供と一緒におばあさんのそばに寝た。

       四

 翌朝になると、寿平次の家では街道に接した表門のところへ新しい掛け札を出す。
  信濃国、妻籠駅、郵便御用取扱所
               青山寿平次
 こんな掛け札もお民としては初めて見るものだ。近く配達夫になったばかりのような村の男も改まった顔つきをしてやって来る。店座敷はさしあたり郵便事務を取り扱うところにあてられていて、そこの壁の上には新たに八角型の柱時計がかかり、かちかちという音がし出した。
 まだわずかしか集まらない郵便物を袋に入れて、隣駅へ送ること、配達夫に渡すべきものへ正確な時間を記入すること、妻籠駅の判を押すこと、すべてこれらのことを寿平次は問屋時代と同じ調子でやった。それから戸長らしい袴《はかま》をつけて、戸長役場の方へ出勤するしたくだ。
「なあに、郵便の仕事の方はまだ閑散なものさ。切手を貼《は》って出せば、手紙の届くということが、みんなにわからないんだね。それよりは飛脚屋に頼んで手紙を持って行ってもらった方が確かだなんて、そういう人たちだ。郵便はただ行くと思ってる。困りものだぞ。」
 と言って、寿平次は出がけにお民に笑って見せた。同じ戸長でも、お民の夫が学事掛りを兼ねているのにひきかえ、兄の方はこんな郵便事務の取り扱いを引き受け、各自の気質に適した道を選んで、思い思いに出て行こうとしつつある。なんと言っても郵便制は木曾路に開始せられたばかりのころで、まだお民には兄が新しい仕事の感じも浮かばない。
 この里帰りには、お民は娘お粂のことばかりでなく、いくらか夫半蔵をも離れて見る時を持った。妻籠に着いた翌日は午後から雨になって、草木の蕾《つぼみ》を誘うような四月らしい雨のしとしと降る音が、よけいにその心持ちを引き出した。彼女の目に映る夫は、父吉左衛門の亡《な》くなったころを一区画《ひとくぎり》として、なんとなく別の人である。どういう変化が夫自身の内部《なか》に起こって来たとも彼女には言えないし、どういうものの考え直しが行なわれたとも言って見ることはできないが、すくなくも父の死にあったころは夫が半生のうちでも特別の時代であった。連れ添って見てそのことはわかった。幼少な時分から継母に仕えて身を慎んで来た夫に、おそかれ早かれ起こるべきこの変化が来たことは不思議でないかもしれない。その考えから、それとない人のうわさにも彼女はよく耳を傾ける。妻籠の人たちの言うことを聞いて見たいと思うのもそのためであった。


「お民さんか。これはおめずらしい。」
 門口から、声をかけながら雨の中を訪《たず》ねて来る人がある。昔なじみの得右衛門だ。お民にと言って、自分の家から鯉《こい》を届けさせるような人だ。
 得右衛門も脇《わき》本陣の廃止を機会に、長い街道生活から身を退いている。妻籠の副戸長として寿平次を助けながらもっと村のために働いてもらいたいとは、村民一同の希望であったが、それも辞し、辛抱人の養子実蔵に副戸長をも譲って、今は全くの扇屋の隠居である。
「どうです、お民さん、妻籠も変わりましたろう。」
 と言って、得右衛門は応接間と茶の間とを兼ねたような寿平次が家の囲炉裏ばたにすわり込んだ。温暖《あたたか》い雨は来ても、まだ火のそばがいいと言っている得右衛門は、お民から見ればおじさんのような人だ。どこか故吉左衛門らと共通なところがあって、だんだんこういう人が木曾にも少なくなると思わせるのもこの隠居だ。
「いや、変わるはずですね。」とまた得右衛門が言った。「御本陣の主人が先に立って惜しげもなく髪を短くする世の中ですからね。戸長さんがあのとおりの散髪なのに、副戸長が髷《まげ》ではうつりが悪い。実蔵のやつもそんなことを言い出しましてね、あれもこないだ切りました。その前の晩に、髪結いを呼ぶやら、髪を結わせるやら――大騒ぎ。これが髷のお別れだ、そんなことを言って、それから切りましたよ。そう言えば、半蔵さんはまだ総髪《そうがみ》ですかい。」
「ええ、うちじゃ総髪にして、紫の紐《ひも》でうしろの方を結んでいますよ。」とお民が答える。
「半蔵さんで思い出した。そう、そう、あの暦の方の建白は朝廷の御採用にならなかったそうですね。さぞ、半蔵さんも残念がっておいででしょう。わたしは寿平次さんからその話を聞きましたが。」
 この半蔵の改暦に関する建白とは、かなり彼の心をこめたもので、新政府が太陽暦を採用する際に、暦のような国民の生活に関係の深いものまで必ずしもそう西洋流儀に移る必要はなく、この国にはこの国の風土に適した暦もあっていいとの趣意から、当局者の参考にと提出したのであった。それは立春の日をもって正月元日とする暦の建て方である。彼は仮に「皇国暦」とその名を呼んで見た。不幸にも、この建白は万国共通なものを持とうとする改暦の趣意に添いがたいとのかどで、当局者の耳を傾けるところとはならなかった。
 お民は言った。
「なんですか、わたしにゃよくわかりませんがね、うちでもかなり残念がってはいるようですよ。」


 当時、民間有志の建白はそうめずらしいことでもない。しかし新政府で採用した太陽暦もまだ試みのような時のことで、それにつながる半蔵の建白はとかく郷里の人の口に上っていた。狭い山の中ではそうした意見の内容よりも建白そのものを話の種にして、さも普通でない行為か何かのようにうわさもとりどりである。中には、彼が落胆のあまり精神に異状を来たしたそうだなどと取りざたするものさえある。
 寿平次が戸長役場の方から戻《もど》って来るころには、得右衛門もまだ話し込んでいた。ふとお民は幼いものの泣き声を聞きつけ、付けて置いた下女のお徳の手から和助を受け取り、子供を仮寝させるによい仲の間の方へ抱いて行った。そこは兄が寛ぎの間に続いていて、部屋の唐紙《からかみ》のあいたところから隣室での話し声が手に取るように聞こえる。
「あれからですよ、どうも馬籠の青山は変わり者だという風評が立ったのは。」というのは兄の声だ。
「とかく、建白の一件は崇《たた》りますナ。」と得右衛門の声で。
「そんな変わり者だなんて言われたら、だれだって気持ちはよかない。あれで半蔵さんも『自分は奇人とは言われたくない、』と言っていますさ。」とまた兄の声で。
 夫のうわさだ。お民は片肘《かたひじ》を枕《まくら》に、和助に乳房《ちぶさ》をくわえさせ、子供がさし入れる懐《ふところ》の中の小さな手をいじりながら、隣室からもれて来る話し声に耳を澄ました。頑固《がんこ》なように見えて、その実、新しいものを受けいれ、時と共に推し移ろうとする兄と、めまぐるしく変わり行く世に迎合するでもなく、さりとて軽蔑《けいべつ》するでもなく、ただただながめ暮らしているような昔|気質《かたぎ》の得右衛門との間には、いろいろな話が出る。以前に比べると、なんとなくあの半蔵が磊落《らいらく》になったというものもあるが、半蔵は決して磊落な人ではないという話が出る。初めて一緒に江戸への旅をして横須賀《よこすか》在の公郷村《くごうむら》に遠い先祖の遺族を訪《たず》ねた青年の日から、今はすでに四十二歳の厄年《やくどし》を迎えるまでの半蔵を見て来た寿平次には、すこしもあの人が変わっていないという話も出る。なるほど、水戸《みと》の学問が興ったころから、その運動もまたはなやかであったころから、それと並んで復古の事業にたずさわり、ここまで道を開《あ》けるために百方尽力したは全国四千人にも達する平田|篤胤《あつたね》没後の諸門人であり、その隠れた骨折りは見のがすべきではないけれども、中津川の景蔵、香蔵、馬籠の半蔵なぞの同門の友だち仲間が諸先輩から承《う》け継いだ国学で、どうこの世界の波の押し寄せて来た時代を乗ッ切るかは見ものだという話なぞも出る。
「痛《いた》」
 思わずお民は添い寝をしている子供の鼻をつまんだ。子供が乳房をかんだのだ。お民は半ば身を起こすようにした。彼女はそっと子供のそばを離れ、おばあさんやお里のいる方へ一緒になりに行こうとしたが、そのたびに和助が無心な口唇《くちびる》を動かして、容易に母親から離れようとしなかった。

       五

「まあ、お前のように、そう心配したものでもないよ。」
 こういうおばあさんの声を聞いたのは、やがてお民が妻籠を辞し去ろうとする四日目の朝である。たとい今度の里帰りには、娘お粂のことについてわざわざ来たほどのよい知恵も得られず、相談らしい相談もまとまらずじまいではあっても、無事でいるおばあさんたちの顔を見て慰められたり励まされたりしたというだけにも彼女は満足しようとした。
 そこへお里も来て、
「お民さん、まだお粂の御祝言《ごしゅうげん》までには間もあることですから、気に入った着物でも造ってくれて、様子をごらんなさるさ。」
「そうだとも。」とおばあさんも言う。
「そのうちにはお粂の気も変わりますよ。」とまたお里がなんとなく夫寿平次に似て来たような冷静なところを見せて言った。「いくら読み書きの好きな娘だって、十八やそこいらで、そうはっきりした考えのあるもんじゃありませんよ。」
「お里の言うとおりさ。好きな小袖《こそで》でも造ってくれてごらん。それが何よりだよ。わたしたちの娘の時分には、お前、自分の箪笥《たんす》ができるのを何よりの楽しみにして、みんな他《よそ》へ嫁《かたづ》いたくらいだからねえ。」
 とおばあさんも言葉を添えた。子から孫の代を見て、曾孫《ひいまご》まであるこのおばあさんは、深窓に人となった自分の娘時分のことをそこへ持ち出して見せた。ことに、その「箪笥」には力を入れて。
 こんなことで、お民はそこそこに戻《もど》りのしたくした。馬籠の方に彼女を待つ夫ばかりでなく、娘のことも心にかかって、そう長くは生家《さと》に逗留《とうりゅう》しなかった。うこぎの芽にはやや早く、竹の子にもまだ早くて、今は山家も餅草《もちぐさ》の季節であるが、おばあさんはたまの里帰りの孫娘のために、あれも食わせてやりたい、これも食わせてやりたいと言う。その言葉だけでお民にはたくさんだった。来た時と同じように、彼女は鈴の鳴る巾着《きんちゃく》を和助の腰にさげさせ、それから下女のお徳の背におぶわせた。
「あれ、お民、もうお帰りかい。それでも、あっけない。和助もまたおいでや。この次ぎに来る時は大きくなっておいでや。まだまだおばあさんも達者《たっしゃ》で待っていますよ。」
 このおばあさんにも、お民は別れを告げて出た。
 街道には、伊勢参宮《いせさんぐう》の講中《こうじゅう》なぞが群がり集まるころである。木曾路ももはや全く以前のような木曾路ではない。お民の亡《な》き舅《しゅうと》、吉左衛門なぞが他の宿役人を誘い合わせ、いずれも定紋付きの麻の※[#「ころもへん+上」、第4水準2-88-9]※[#「ころもへん+下」、第4水準2-88-10]《かみしも》を着用して、一通行あるごとに宿境《しゅくざかい》まで目上の人たちを迎えたり送ったりしたころの木曾路ではもとよりない。古い駅路の光景も変わった。あの諸大名が多数の従者を引きつれ、お抱《かか》えの医者までしたがえて、挾箱《はさみばこ》、日傘《ひがさ》、鉄砲、箪笥《たんす》、長持《ながもち》、その他の諸道具の行列で宿場宿場を埋《うず》めたような時は、もはや後方《うしろ》になった。まだそれでも明治二年のころあたりまでは、ぽつぽつ上京する大名や公卿《くげ》の通行を見、二十人から八十人までの縮小した供数でこの街道を通り過ぎて行ったが、それすら跡を絶つようになった。
「さあ。早くおいで。」
 とお民はあとから山の中の街道を踏んで来るお徳を促した。そして、彼女が兄の口ぶりを借りて言えば、「土屋総蔵時代とは、まるで善悪の対照を見せつけられる」筑摩県の官吏を相手にして、尾州藩の手を離れてからこのかた、今や木曾山を失おうとする地方《じかた》の人民のために争えるだけ争おうとしているような夫半蔵の方へ帰って行った。
 諸方の城郭も、今は無用の長物として崩《くず》されるまっ最中だ。上松《あげまつ》宿の原畑役所なぞが取り払われたのは、早くも明治元年のことである。それは尾州藩で建てた上松の陣屋とも、または木曾御材木役所とも呼び来たったところである。お民が人のうわさによく聞いた木曾福島の関所の建物、彼女の夫がよく足を運んだ山村氏の代官屋敷――すべてないものだ。二百何十年来この木曾地方を支配するようにそびえ立っていたあの三|棟《むね》の高い鱗茸《こけらぶ》きの代官屋敷から、広間、書院、錠口《じょうぐち》より奥向き、三階の楼、同心園という表居間《おもていま》、その他、木曾川に臨む大小三、四十の武家屋敷はことごとく跡形もなく取り払われた。
 どれほどの深さに達するとも知れないような、この大きな破壊のあとには何が来るか。世にはいろいろと言う人がある。徳川十五代将軍が大政奉還を聞いた時に、よりよい古代の復帰を信じて疑わなかったような平田門人としても、彼女の夫たちはなんらかの形でこれに答えねばならなかった。



底本:「夜明け前 第二部(上)」岩波文庫、岩波書店
   1969(昭和44)年3月17日第1刷発行
   2000(平成12)年5月15日第27刷改版
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
   1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋、砂場清隆
校正:原田頌子
2001年6月27日公開
2004年2月10日修正
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