青空文庫アーカイブ

錯覚の拷問室
佐左木俊郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)崖《がけ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)純情|無垢《むく》の

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    1

 集落から六、七町(一町は約一〇九メートル)ほどの丘の中腹に小学校があった。校舎は正方形の敷地の両側を占めていた。北から南に、長い木造の平屋建てだった。
 第七学級の教室はその最北端にあった。背後は丘を切り崩した赤土の崖《がけ》だった。窓の前は白楊《はくよう》や桜や楓《かえで》などの植込みになっていた。乱雑に、しかも無闇《むやみ》と植え込んだその落葉樹が、晩春から初秋にかけては真っ暗に茂るのだった。その季節の間はしたがって、教室の中も薄暗かった。そして、すぐその横手裏は便所になっていた。だから、生徒たちはこの教室の付近にはほとんど集まらなかった。いつも運動場の南の隅から湧《わ》き起こる生徒の叫びを谺《こだま》している、薄気味の悪い教室だった。
 受持ちは鈴木《すずき》という女教員だった。
 鈴木教員は独身で若かった。彼女は優しい半面にいかめしい一面も持っていた。晴天の日の休みの時間中、決して生徒を教室の中に置くようなことはなかった。そして、それは尋常五年の従順な女生徒たちによって容易に実行されたのだった。
 しかし、鈴木教員はなおも忠実に、休業の鐘が鳴ってちょっと教員室に引き揚げていってからすぐまた、自分の受持ち教室の見回りに引き返してくるのが例だった。間のもっとも長い昼食後の休み時間には、わけても忠実にそれを実行するのだった。そして、人けのないがらんとした教室の運動場に面した窓枠に、黒い詰襟の洋服がだらりとかかっているのが始終だった。真ん中から折れて、襟のほうは窓の外に、そして裾のほうが教室の中へ……。
 詰襟のその洋服は吉川《よしかわ》訓導のだった。
 吉川訓導は高等科を受け持っていた。甲種の農学校を卒業してから、さらに一か年間県立師範学校の二部へ行って訓導の資格を取ってきたのだった。だから、学科のうちでも農業の講義にはもっとも熱心だった。農業の実習には、わけても忠実に打ち込んでいた。
 農業の実習地は第七学級の教室の裏手に続く畑だった。だから、実習の畑へ行くには鈴木教員の受け持っている教室の前を通らなければならなかった。吉川訓導はここまで来ると、きっと洋服を脱ぐのだった。そして、洋服の襟のところを掴《つか》んで窓枠を叩《たた》きでもするようにして、ばさりと打ちかけるのだった。
 しかし、吉川訓導が洋服を脱ぎ、脱いだ洋服を窓枠に打ちかけるのは農業の実習のときばかりではなかった。実習を見に行く途中、運動場で生徒たちと一緒に汗を流そうというとき、または体操の時間など、吉川訓導は始終シャツ一枚になるのだった。そして、脱ぐ前には何かを案ずるようにして中のもの検《あらた》めるのが例だった。それから大急ぎでボタンを外して、その洋服を窓枠に打ちかけるのであった。すると、ポケットはちょうど状差しのような具合に教室の中へ、窓の下の板壁に垂れ下がるのだった。

    2

 鐘が鳴りだした。正午になったことを知らせているのだった。吉川訓導は教科書を閉じた。そして窓外にちょっと目をやった。窓の外にはひどく落ち葉がしていた。とその時、吉川訓導の頭の中には芸術家的な仄《ほの》めきで、全然思い設けなかった一つの想念が浮かんできた。占めた! 今日もこれで洋服を脱ぐことができるのだ! 彼は心の中でそう叫んだ。
「では本を閉じて……。午後からは農業の実習をやります。ちょうど運動場にひどく木の葉が散らかっているから、これを掻《か》き集めて堆肥《たいひ》の作り方を練習……」
 生徒たちが、わっ! といって騒ぎだした。
「あああ、そう騒いではいけない。運動場の落ち葉を掻き集めて堆肥を作ると、第一に運動場が奇麗になるし、第二には材料費がいらないし、堆肥ができて、堆肥の作り方が覚えられて……」
 生徒たちは一度に笑いだした。
「それで、まず穴を掘らなければならないから、食事が済んだら鍬《くわ》やシャベルを持ってすぐ裏の畑へ集まる。落ち葉のほうは運動場に埃《ほこり》が立つから、午後の授業が始まってからやること。では、すぐ弁当を食べて……」
 こう言って、吉川訓導は教室を出ていった。
 生徒たちはそれから十五分ほどして、裏の畑へ集まっていった。吉川訓導も両手をポケットに突っ込んで教員室を出ていった。そして、吉川は第七学級の教室の前まで来ると洋服を脱いで、窓枠に打ちかけた。

    3

 風が少しあった。窓の前で、落ち葉が金色や銅色に光って散っていた。午後の陽《ひ》に輝きながら、ひっきりなしにぱらぱらと散るのだった。そして、落ち葉にうずめられた運動場の一部は、まるで火の海のようにぎらぎらと陽の光を照り返していた。生徒たちは赤い顔をして落ち葉の中を駆け回っていた。白いシャツの吉川訓導の後姿がその中にちらりと見えた。
 鈴木女教員は教員室を出ていった。
 彼女は廊下を歩きながら、胸の轟《とどろ》きを感じた。彼女にとって、もっとも魅力のある数分間だった。
 教室の入口の扉が一尺(約三〇センチ)ほど開いていた。彼女は目を瞠《みは》るようにして立ち止まった。心臓が急に激しい運動を始めた。教室の中には机の上に顔を伏せて、一人の女生徒が残っていたからだった。彼女はしいて気持ちを静めようと努めながら、静かに教室の中へ入っていった。
「房枝《ふさえ》さん」
 鈴木女教員は軽くその女生徒の背中を叩きながら、低声《こごえ》に呼んだ。しかし、女の子は顔を上げなかった。鈴木女教員はその瞬間に、窓にかかっている洋服を思い出した。やはり目を覚まさないでいてくれるほうがいいのだと思った。鈴木女教員は房枝をそのままそっとしておくようにして、静かに窓際へ寄っていった。そして、しゃがむようにしてポケットの中へ手を突っ込んだ。
 房枝は鈴木女教員がポケットへ手を突っ込んだちょうどその時、顔を上げて彼女の後姿を追ったのだった。そして、房枝はもう少しで叫び声を上げるところだった。自分のもっとも敬愛している鈴木先生が、そこの窓にかかっている他人の洋服のポケットに手を突っ込んで何か探しているのを見たからだった。のみならず、鈴木先生がそのポケットの中に探り当てたものを、素早く自分のポケットの中へ押し込んだからだった。房枝は見てはいけないものを見たのだった。彼女はすぐにまた机の上に顔を伏せてしまった。胸がどきどきと騒ぎだしている。
「房枝さん、房枝さん」
 鈴木女教員はまた房枝のところへ戻ってきて、その肩を叩いた。
「房枝さん、どうかしたの? え?」
「頭が痛いんです」
 房枝は真っ青な顔を上げて言った。
「頭が痛いんですって!」
 鈴木女教員は房枝の額に手を当てて熱を診た。
「熱は大してないようね。脈は?」
 彼女は脈を診たり、心臓に手をあててみたりした。
「脈が少し多いようね。あら、心臓がばかに早いじゃないこと? こうしていても大丈夫なの? 何かお薬を持ってきてあげましょうね。静かにして寝ていらっしゃい」
 鈴木女教員はそう言って、教室を出ていった。

    4

 午後の第一時間の授業が始まった。吉川訓導は生徒を連れて畑から運動場へ出てきた。
「じゃ、おい、みんなね、大急ぎでこの落ち葉を掻き集めてくれ」
 吉川訓導はそう言いながら、落ち葉を蹴《け》って歩いた。生徒たちは、わっ! といっせいに地肌を覆い隠している落ち葉を掻き集めにかかった。
「なるべく埃を立てないようにしてくれ。そして、集めた木の葉はいまみんなで掘ってきた穴のところへ運んでいって、積んでおいてくれ」
 窓にかけておいた洋服を取って着ながら、吉川訓導は言った。
「じゃいいかい。おい級長、あまり騒ぎ回らないようにするんだよ」
 吉川訓導はそう言って、行きかけながらポケットの中を探った。そして、急に驚いた表情で立ち止まった。
「おい! 蟇口を拾った人はないか?」
 吉川訓導はなおもポケットの中を掻き探りながら、生徒たちのほうへ戻っていった。
「拾わねえ、おれは」
「おれも拾わねえ」
 生徒たちはがやがやと吉川訓導の周囲を囲んだ。吉川訓導は未練らしく探りつづけた。
「あ、田中《たなか》の奴《やつ》、おれらが畑から来たとき、ここにいて先生の服をいじってたっけが……」
「田中はどこへ行った?」
「田中は落ち葉を運んでいったから、いまに帰ってきます」
 落ち葉を運んでいった六、七人の生徒が駆け戻ってきた。その中に田中が交じっていた。
「田中くん。先生の蟇口を知らなかったか?」
 級長の杉村《すぎむら》が田中のほうへ歩み寄りながら訊《き》いた。
「きみはぼくらが畑にいるうちからこっちへ来て、いちばんにこっちへ来て、先生の洋服を弄《いじ》っていたそうじゃねえか?」
「ぼくはね、ぼ、ぼ、ぼくはね、先生の洋服を、ま、ま、窓へかけてやっただけだよ。ただ、窓へかけてやっただけで、弄らねえよ、ぼくは」
「では、先生の服は落ちていたのかい?」
 吉川訓導は級長に代わって訊いた。
「はい。お、お、落ちていました。そして、ど、ど、ど、どこかの犬が咥《くわ》えて歩いていましたから、そ、そ、それを取り返して、ま、ま、窓へかけておいただけです」
「うむ……」
 吉川訓導は軽く唸《うな》って、田中の顔を見詰めた。
「吉川訓導、どうかなさいましたの?」
 鈴木女教員が窓から首を出して言った。
「え、蟇口をなくしてしまって……」
「まあ、お落としになったんですか? ポケットへお入れになっておりましたの?」
「確かに入れておいたはずなんだが……」
「では、一応わたしのほうの生徒にも訊いてみましょうか?」
 鈴木女教員はそう言って、教壇へ戻った。
「さあ、ちょっとペンを置いて。こっちを見て。……吉川先生が蟇口をおなくしになったそうですけど、みなさんのうちに拾った方はありませんか? 拾って、先生に届けようと思っていて、まだ届けずにいる人はすぐ先生のところへ持っていらっしゃい。……いますぐに先生に届ける人は、その人は正直な人です。たとえ拾ったものでも、その、その人は、泥棒……」
 ここまで話したとき、一人の女生徒、千葉《ちば》房枝が机の横にばたりと倒れた。
「どうしたの? 房枝さん! どうしたの?」
 鈴木女教員は慌てて教壇から下りていった。房枝は静かに起き上がって、真っ青な顔をしておどおどした目で鈴木女教員の顔を見詰めた。
「どうしたの? まだ頭が痛むの?」
 房枝は鈴木女教員の視線を避けるようにしながら、静かに首を振った。
「ではどうしたんですの? あなた、吉川先生の蟇口を拾わなかったこと?」
 房枝はなんとも答えなかった。ただじっと、鈴木女教員の顔を見詰めた。
 固唾《かたず》を呑《の》むようにして房枝の席のほうを見詰めていた生徒たちが、ひそひそと囁《ささや》きだした。房枝が拾ったのではないだろうか? そんなことが囁き交わされているのだった。
「房枝さん、あなた本当に知らないのね」
「…………」
 房枝は小刻みに顫《ふる》えながら頷《うなず》いた。
「では、まあ、あなたは病気なのだから、宿直室へ行って休んでなさい。……ね。さあ、一緒にいらっしゃい」
 鈴木女教員はそう言って、房枝を連れて教室を出ていった。

    5

「まあ、そこへお坐《すわ》んなさい」
 房枝は宿直室の片隅に坐らせられた。
「房枝さん。あなた、吉川先生の蟇口、ほんとに知らないこと?」
 鈴木女教員は机の上に両腕を這《は》わせながら訊いた。しかし、どんなに突っ込んで訊いても、房枝は微《かす》かに顫えながら彼女の顔を見詰めるだけだった。彼女の気持ちはますます焦《じ》れていった。
「もしお金が欲しいのならお金は先生が上げますから、吉川先生の蟇口はお返しなさい。……ね、もし蟇口はもうどこかへやってしまったのなら、ただ正直にそのことを先生に話しなさい。みんな先生がいいようにしてあげるから……あなたが正直に話しさえすれば、お金だって先生が出してあげてもいいわ」
 房枝は泣きだしそうな顔をした。そして、何か言いたそうに唇をひくひく動かしたが、そのままなにも言わずに、顔を伏せてしまった。
「房枝さん、あなたはどうして正直に言えないの? ではいいことよ。あなたのお父さんに来ていただいて、何もかもみんなお話しするから……」
「先生」
 房枝はそう言ったまま、そこへ倒れてしまった。
 拷問というほどのことではなかったのだが、房枝はそれをひどく突き詰めて考えたのだった。そして、二度までも軽い脳貧血を起こした。しかし、房枝はそのまま家に帰されなかった。そしてその夕方、房枝の父親が学校に呼ばれた。校長と首席訓導の吉川先生と、受持ち教員の鈴木先生にそれに房枝の父親が加わった四人で、房枝の口からなんらかの言葉を引き出そうというのだった。
「お房! おめえどうしても言わねえんなら、おめえの口を引き裂いてしまうぞ!」
 父親がこう言って房枝の肩に手をかけた。
「まあ、まあ、そうまでしなくても……」
 校長は父親を宥《なだ》めて自分でいろいろと訊いてみたのだったが、房枝の口は錆《さ》びついたドアのように動かなかった。固い決心の表情で噛《か》み締められているのだった。
「お房! おめえなぜ黙ってるんだ?」
 房枝の父親は掴みかかろうとするのだった。
 校長はそれを押し止《とど》めて言うのだった。
「とにかく、こうなってはどんなことをしたって訊こうなんて無理ですから、二、三日の間、鈴木先生のところへ預けることにして、学校も休ませておいて、よく気を静めさせたら、あるいは自分から言うかもしれませんから」
「意地っ張りな! ほんとに」
「では、千葉さん、あなたはお帰りになってください。房枝さんは今夜から鈴木先生のところへ泊めてもらうことにして……鈴木先生も房枝さんを特別かわいがっていたようですし、房枝さんもことに鈴木先生を慕っているようですから。……かえってそのほうが怜悧《れいり》な方法だと思いますから……」

    6

 鈴木女教員の手に預けられた房枝は、その下宿の一室にほとんど幽閉された形で一週間を送った。その間を房枝はろくろく食物も摂らなければ、一言の言葉も口に出さなかった。
 そして、房枝は一週間目に、鈴木女教員が学校へ出ていったあとで、その下宿の二階の鴨居《かもい》に自分の赤い帯をかけて、みずから縊《くび》れて死んだのだった。
 房枝の死体をいちばん先に見つけたのは、その素人下宿の女主人だった。机の上に二本の手紙が残されてあった。一本は鈴木女教員に、他の一本は父親に宛《あ》てたものだった。
 父親に宛てた房枝の遺書は意外な、あまりにも意外なことを物語っていた。

 お父さま。いろいろご心配をかけて済みませんでした。お父さまがこの手紙をご覧くださるときには、わたしはもう死んでいるのですから、何もかもみんな申し上げておきます。しかし、これはお父さまに、わたしがどんな子供であったかを知っていただくためにだけ申し上げるのですから、どなたをも責めないでください。
 わたしはどんなにそれが欲しいからとて、他人《ひと》さまのものをとるような子供ではありませんでした。わたしは吉川先生の蟇口をとった人を、ちゃんと知っているのです。しかし、その人はわたしのいちばん好きな、わたしのいちばん尊敬している方なのです。そしてまた、わたしをいちばんかわいがってくださった方なのです。お母さまのないわたしを、お母さまと同じようにかわいがってくださった方なのです。ですからわたしは、お父さまとその方をこの世の中でいちばん好きだったのです。もしかりに、お父さまが他人さまのものをとったことをわたしが知っているとして、わたしの口からお父さまの名を申し上げられるでしょうか? どんなに酷《ひど》い目に遭わされたとて、たとえ八つ裂きにして殺されても、それを申し上げられないことはお父さまもご承知くださることと存じます。あの時に、わたしはお母さまのないわたしを、お母さまのようにかわいがってくださった方のことを、どうしても申し上げられませんでした。
 しかし、わたしはこれから死んでいくのです。お父さまがわたしのことについて安心してくださるように、何もかも申し上げてまいります。吉川先生の蟇口をとったのは、鈴木先生でございます。
(これは本当に、だれにも話さないでください。そして、やはりわたしがとったことにしておいてください。そして、お父さまだけが、わたしが決して悪い子供ではなかったことを思っていてください)
 その日の昼食後の休み時間に、わたしは頭が痛むので教室の中で一人で休んでおりました。すると運動場のほうの窓に、吉川先生が洋服をかけていかれたのです。それから間もなく、鈴木先生が教室に入ってきて、その洋服のポケットの中を探りました。そして、中のものをご自分の懐の中に押し込みました。わたしは目が眩《くら》むほど驚きました。わたしのいちばん好きな、いちばん尊敬している鈴木先生が、そんなことをするのですから。どうぞ、だれにも話さないでください。鈴木先生は悪い方ではありません。きっとあの時、魔とかいうものがさしたのに相違ありませんから。
 午後の授業が始まると、すぐに蟇口がなくなったという騒ぎが始まりました。すると、鈴木先生はご自分がその蟇口を持っているのに、生徒のわたしたちに拾った人はないかと訊くのです。わたしはこの世の中で、わたしがいちばん偉い方だと思っている、わたしのいちばん好きな鈴木先生がそんなことをなさるので、驚いて目が眩んで倒れてしまいました。するとみなさんは、わたしがその蟇口を持っているからだと思ったのです。どうしてわたしをあの時、裸にしてみてくれなかったのでしょうか。
 それからのことは、だいたいお父さまもご存じのはずです。みなさんでわたしを責めはじめました。鈴木先生は悪い方ではないのですが、ご自分でとっていることを言いそびれてしまったものですから、どうかして隠そうとなさったに相違ありません。わたし、鈴木先生がとったのだと分かることが怖くて、わたしがとったことにしておいてもらいたかったのです。わたしはそれでも大して困りません。けれどももし鈴木先生と分かったら、世の中がどんなことになるか分かりません。
 鈴木先生の下宿へまいりましてから、鈴木先生とわたしとは毎日泣いて暮らしました。鈴木先生はいろいろの事情で、ご自分がとったことを白状することがおできにならないのですけど、そのために、わたしがとったと思われるのをかわいそうに思って、先生とわたしとは話もしないで毎日泣いて暮らしたのです。
 お父さま、それではお願いですから、鈴木先生がそれをとったということはだれにも話さないでください。そして、お父さまだけがわたしがとったのではないことを思っていてください。鈴木先生がとったことが分かれば大変なことになるのですけれど、わたしがとったことにしておけば、わたしは子供ですからそのまま何事もなく済むと思います。どうぞお願いします。
 わたしはこれから地下のお母さまのお傍《そば》へまいります。お父さまはどうぞお身体《からだ》を大切にして、達者にお暮らしくださいませ。地の下でお母さまと一緒にお父さまの幸福を祈っております。

 房枝の遺書には、だいたいそういう意味のことが書かれていた。

    7

 房枝の父親は房枝の遺書に頼んであったことを守って、なにも言わずに房枝の葬式を済ませた。しかし、房枝の父はだんだん我慢ができなくなっていった。死んだ房枝のことを考えると、かわいそうで涙が出てきて、どうしても鈴木女教員を責めずにはいられない気持ちになってくるのだった。だが、房枝のああいう遺書のことを思うと、父親は涙を呑みながらも、歯を食い締めて我慢をするのだった。
 毎日朝から晩まで房枝のことばかり突き詰めて考えていた房枝の父親は、房枝の三七日の墓参りの済んだあとでとうとう鈴木女教員を責めに彼女の下宿を訪ねていった。
「鈴木さんは、おいでかね」
 こう言って鈴木女教員の部屋に入っていった房枝の父親は、そこの机で読書をしている鈴木女教員を見るとろくろく挨拶《あいさつ》もせずに、懐から房枝の遺書を取り出した。
「これはわたしの馬鹿《ばか》な娘の遺書ですがね。まあ、読んでみてください。娘は、わたしの口からはだれにもなにも言わないでくれと書いてありますがね。しかし、あなたにだけでもこれを見ておいていただかないと、わたしはどうしても気が済まないのです。そしてこれを見てくだされば、わたしの気持ちだって分かってくださるはずだから」
 父親は初め怒りを含んだ声で言いだしたのであったが、言っているうちにだんだん哀れっぽくなってきていた。
「では、ちょっと拝見いたします」
 鈴木女教員はなにげなくその遺書の手紙を読みだした。しかし、読んでいるうちに彼女の顔色は青白くなってきた。手紙を持った手が小刻みにわなわなと顫えだした。そして彼女は、手紙を読み終えると同時に、わーっ! と声を立てて泣いて、そこの畳に顔を伏せてしまった。
「房枝さんがこんな気持ちでいてくれたのに……房さんが……」
 鈴木女教員はそう言いながら啜《すす》り泣いた。
「過ぎ去ったことは仕方がないです。ただ、房枝の気持ちが分かってくだされば、わたしはそれで気が済むというものです」
 房枝の父親は、もはや鈴木女教員を責める気にはなれなかった。父親には、自分の娘と鈴木女教員との間が、お互いがどんな感情を抱き合っていたか、いまはそれをはっきりと感ずることができるような気がするのだった。
「でも、房枝さんも、ちょっと思い違いをしている点があるのです」
 しばらくしてから、鈴木女教員は言った。
「わたしが吉川先生の洋服のポケットに手を突っ込んで物を探ったのは本当ですけど、それは蟇口ではなかったのです」
「暮口でなくて、なんだったというんです」
「それはどうぞ、いま、ここでは訊かないでくださいまし。いまに何もかも分かるときがまいります。かわいそうに、この部屋は房枝さんの拷問に遭った部屋ですから、わたしもこの部屋で拷問されたいのですけど、いまはなにも訊かないでおいてくださいませ。あの蟇口をとったのはわたしでもなく、もちろん房枝さんでもなく、それがだれだったかいまに分かるときがまいります」
「いったい、だれなんです! それは?」
「それをお話しするのには、わたしが吉川先生のポケットから何をとったかということからお話ししなければ分からないのです。しかし、わたしはいまのところそれを申し上げにくいのです。わたしの口から申し上げなくても、いまに何もかも分かって、わたしも房枝さんも明るみへ出られるのです。吉川先生が近々のうちに結婚をなさるそうですけど、吉川先生が結婚をなされば、それで何もかも分かりますから」
「え? 吉川先生が結婚すれば分かるんですって? どういうわけです」
「おかしい話ですけど、吉川先生の結婚が、わたしも房枝さんもそんな人間ではなかったことを証明してくれるのでございます。それまでなにも訊かずにおいてください」
「いや、なにもいますぐ聞かしていただきたいとは申しませんがね」
「わたし、これから房枝さんのお墓へお参りに行って、通じないまでもお詫《わ》びを申してまいりたいと存じますから……」
 鈴木女教員は涙を拭《ふ》きながら立ち上がった。

    8

 鈴木女教員はその晩、房枝と同じようにして自殺をした。房枝が帯をかけた鴨居に帯をかけて首を縊《くく》り、机の上に三本の遺書が置いてあった。
 遺書の一本は自分の勤めていた小学校の校長に宛てられていた。他の二本は自分の父親と房枝の父親に宛てたものだった。
 校長に宛てられた彼女の遺書は彼女の公開状ともいうべきもので、長々と書かれていた。そして自分の父親と房枝の父親に宛てた遺書の重要な部分は、いずれも校長に宛てた遺書の一部に過ぎないものだった。
 高津《たかつ》先生。長い間いろいろとお世話さまになりました。いつまでもいつまでも先生の膝下《しっか》にお導きを承りたく願っていたわたしではありましたが、悪戯《いたずら》好きな運命の神さまは辛《つら》い永久の別れを命ずるのでございます。
 しかし、わたしはお別れに臨んで、悪魔の杖《つえ》によって隠されたる原因をはっきりと申し上げておきたく存じます。わたしの教え子の千葉房枝がみずから果てて間もないのに、わたしがまた同じ運命を辿《たど》りましたなら、さぞかし世間の人々を驚かし、一つの謎《なぞ》を残すに相違ないと存じますから……。
 高津先生。先生はわたしがこういう道を選びましたら、やはりこの原因は吉川訓導の蟇口に絡んでいるのだとお思いでしょうか。そうお思いになるのもご無理のないことでございます。そして、直接には実にその蟇口に原因を発しているのでございます。一個の暮口、十円足らずの金銭がこうして二つの魂を奪い、生命を攫《さら》っていくのかと思いますと、膚《はだえ》に粟《あわ》の噴くのを覚えます。
 しかし、その表面の物質的なものの裏に、もっともっと複雑した精神的なものがあったのでございます。そしてそれは、ある教師の不道徳な行為から出発しているのでございます。そのある教師とは、やはり先生の膝下に教鞭《きょうべん》を執っている吉川訓導なのでございますが、わたしはその理由を詳しく証明いたしたくはございません。彼のやがての結婚が、もっとも的確にこれを証明してくれるからでございます。
 わたしは先生の膝下にまいりましてから間もなく――甚だお恥ずかしいことですが、これはわたし一個人に関することでなく、千葉房枝の名誉にも関することですから、もう何もかも申し上げてしまいます――わたしは吉川訓導と、深い深い恋に落ちたのでした。そしてわたしたちは、お互いの愛情を交換すべく、一つの方法を思いつきました。わたしは雨の降らない日の休業時間には、決して生徒を教室の中に置きませんでした。そして吉川訓導は、シャツ一枚になって生徒とともに運動をいたしました。この二つの新しい運動奨励法は、校長先生をはじめ他の先生がたからたいへんほめていただいたのですが、吉川訓導はその洋服を、きっとわたしの受持ち教室の窓に投げかけておいたことをお気づきでございましたでしょうか。わたしたち、お互いの愛情の交換は、その洋服のポケットの中で行われていたのです。吉川訓導はポケットの中に手紙を入れて、その洋服を運動場のほうから窓へかけていく。わたしは生徒のいない教室へ入っていって、内側からそのポケットの中の手紙を取り、自分の手紙を残してきたのでした。そしてわたしたちの恋愛は、六か月にわたって続いていきました。わたしはその間に、自分のすべてを吉川訓導に捧《ささ》げたのでした。しかし吉川訓導は、彼のすべてをわたしに与えていたのではありませんでした。
 最後に吉川訓導は、自分たちはどうしても別れねばならないことをわたしに告げてまいりました。許嫁《いいなずけ》の方があり、近々のうちにどうしても結婚しなければならないからとの理由でございました。わたしは潔く諦《あきら》め、彼の卑劣な過去を許してやろうと考えたのでございます。しかしそれと同時に、卑屈な吉川訓導は許すことのできない不道徳な行為をしていたのでございます。その卑屈な陰険な行為こそが純情な千葉房枝を殺し、わたしにこういう道を選ばせることになったのでございます。
 わたしが吉川訓導から、彼の結婚を告げた手紙を受け取ったとき、ちょうど千葉房枝は頭が痛むというので教室に休んでおりました。そして彼女は、見るともなしにわたしが吉川訓導の洋服のポケットを探っていたのを目撃して、わたしが何かものを取っているものと思ったのでございます。そしていよいよ蟇口のなくなった騒ぎになりますと、純情な彼女はわたしを案ずるのあまり、とうとう脳貧血を起こして倒れたのでございます。それを、なんと愚かなわたしの錯覚でございましたでしょう? きっと彼女がその蟇口を取ったものと思い込み、まるで拷問にかけるようにして訊こうとしたのでございます。しかし、純情であくまでわたしを慕っていた彼女は、とうとうわたしを罪人にすることができずにみずから自分の身を殺していったのでございます。(千葉房枝の純情は、彼女が彼女の父親に書き残した手紙をお読みくださいませ)
 そして、千葉房枝がわたしの名誉を気づかいながら書いた遺書によりますと、吉川訓導の蟇口はわたしが取ったことになっておりますが、前にも申し上げましたように、それは、わたしがポケットから手紙を取ったのを目撃した彼女の錯覚で、実はわたしでもなかったのでございます。その名誉はわたしが死をもって証明すると同時に、さらに的確に、吉川訓導の近々に挙げられる結婚が証明してくれることをわたしは信じております。と申しますのは、吉川訓導はわたしがそのポケットを探ることを知っていて、自分の蟇口がなくなったという穽《わな》を構えて、わたしをその無実の罪に陥れ、自分からわたしというものを有無を言わせずに引き裂こうとしたのでございました。
 高津先生。こうして、彼の卑劣な虚構が純情|無垢《むく》の千葉房枝を殺してしまいました。わたしはこれから、気の毒なかの少女を慰めるべく、彼女の後を追ってまいります。どうぞわたしに代わり、吉川訓導の卑屈な不道徳極まる行為を責められ、哀れな少女千葉房枝の名誉を世の中の人々にお告げくださいますようお願いいたします。
 わたしのこの遺書と、千葉房枝が彼女の父親に宛てた遺書とを卑劣な吉川訓導の目に晒《さら》して、彼の卑屈にも不道徳極まる精神を刺激し、神聖な教育界から彼のごとき人間を除き、純情無垢の児童の将来と幸福とを誤りませんよう、お別れに当たりくれぐれもお願いいたしておきます。

 鈴木女教員が高津校長に宛てた遺書には、だいたいこういう意味のことが書かれていた。

    9

 鈴木女教員の葬式のあった晩、吉川訓導は高津校長の自宅へ呼ばれていった。
「吉川くん、ほかじゃないが、千葉房枝の自殺と鈴木女教員の自殺についてのことだ。しかし、ぼくの口からはなにも言いたくない。まあ、これを読んでくれれば分かる」
 高津校長はこう言って、吉川訓導に鈴木女教員が自分に宛てた遺書を読ませた。
 読んでいくうちに、吉川訓導の顔色はだんだんと変わっていった。その手が小刻みに顫えた。彼は唇を噛んでそれを読みつづけた。
「校長先生。いかにも卑劣なようですが、事実として、この鈴木女教員の遺書の中に一か所だけ、弁明しておかなければならないところがあります」
 彼は読み終わると、顫える声で言った。
「この蟇口のことですが、これは事実なくなったんで、決してわたしの意識的にやった卑劣な手段じゃないんです。意識的にこういうことをやるくらいなら、わたしから結婚のことを言ってやるはずはありませんから……」
「しかしだね、それはきみの言うとおりとして、学校としての責任をどうするんだね」
「わたしと鈴木女教員の恋愛、つまり自分たちがポケットの中で手紙を交換したことは、発表していただいても仕方がありません。二人の自殺がそこにあるのですから。そしてわたしは、責任上教育界から身を退《ひ》くつもりです」
 校長はそのことについて、なにも言わなかった。吉川訓導が教育界から身を退くということを止めもしなかった。そして、その事件の内容の一部が発表されたに過ぎなかった。
 それから一か月ほどして、鈴木女教員が言ったとおりに吉川訓導は結婚式を挙げたが、その時は彼は小学校の教師ではなく、ある山里の豪農の若主人だった。結婚の予定を決して変更しなかったのは、自分の卑劣を覆い隠そうとしているのだと思われたくないがためだった。鈴木女教員の遺書の事実は肯定し、無実として否定すべきところを否定したと思われたいという気持ちから、無理にも予定どおりに鈴木女教員の言ったとおりにしたのだった。
 鈴木女教員の代わりの教員が来、吉川訓導の代わりの師範学校出の先生が来て、丘の中腹の学校は元どおりの、内に波瀾《はらん》を孕《はら》んだ表面の平和を続けていった。
 運動場が雪にうずめられ、教室の中の火鉢のほとりでおりおり、生徒たちの間に鈴木女教員と千葉房枝のことが話されたりした。
 雪が消えて畑の土が温かくなってくると、高等科の生徒はまた農業の実習に引き出された。堆肥で馬鈴薯《ばれいしょ》を植え付けようというのだった。
 高津校長がそれを教えていた。
「先生、この堆肥の中に蟇口がありました」
 生徒の一人が、高津校長のところへその蟇口を持っていった。
 もはや生徒らは、去年の秋のあの事件を忘れているのだった。
「うむ、どれ」
 校長は怪訝そうに眉《まゆ》を寄せてそれを受け取った。
 その蟇口の革は鋭い歯で噛まれたらしく、ぐしゃぐしゃに傷んでいた。中には五円札が一枚、一円札二枚、それから銀貨や銅貨を取り混ぜて約八円ばかりの金が入っていた。が、その札はぐしゃぐしゃと何かに噛まれたに相違なく、ほとんど穴だらけになっていた。
 そして一枚、同じように歯の跡のついた本屋の受取りが入っていたが、それには、
『吉川先生さま』
 と書いてあった。
「あ、これは吉川先生の蟇口だ。堆肥を作るときもっとよく切り返していれば、あの時すぐ見つかったのに……道理で悪い堆肥だと思ったら、そんな乱暴な切り返しをしているから。……堆肥というやつは切るときに、こういうものが入っていてもすぐ見つかるくらいに切り返さなければいけないんだよ」
 高津校長は生徒たちに言って聞かしたのだった。
「田中くん、だったかな、あの吉川先生の洋服、犬が咥えて落としたのを見つけて窓へかけてやったというのは? きみがあの時、ついでにこの蟇口を見つけてくれればなにも問題は起こらなかったのにな」
 高津校長は寂しい微笑を浮かべて言った。
「とにかく、これを吉川先生のところへ持っていって、安心させてやらなければいけない。気にかけているんだろうからな」
 こういって、高津校長はその晩、吉川先生を訪ねていった。
 高津先生は隣村へ行くその汽車の中で、当時のことを追想していた。

    10

 学校の運動場に生徒がいなくなると、犬がのそのそと入ってくることは珍しいことではない。
 近所の農家の子犬が第七学級の教室の窓の下を通ると、窓から黒い洋服がぶらさがっていた。その詰襟の垢《あか》のついたカラーは三日月形になって覗《のぞ》いていた。
 三日月形というよりも、魚の形に近かった。
 色彩が鰊《にしん》に似ていた。
 とにかくも子犬は魚が引っかかっていると思った。子犬はその魚に跳びついて咥えた。一緒に洋服が落ちてきた。意外にも魚は魚の味を持っていなかった。
 咥えて二、三度左右に振ってみたが、やはり魚の味は出てこなかった。
 咥えて振り回して歩いているうちに、子犬は蟇口を発見した。洋服を咥えて振り回しているうちに、そのポケットから落ちたのだった。
 子犬は一片の肉が落ちていると思った。貪《むさぼ》るようにして噛んでみた。
 これはカラーよりはいくぶんの味があったが、いくら噛んでも肉の味は出てこなかった。
 そのうちにふたたび詰襟のカラーが目についた。子犬は味のない肉を捨てて、魚のほうへ行った。そこへ一人の少年がばたばたと走ってきた。
 田中だった。
「この畜生! この畜生!」
 子犬は追われて魚を置いて逃げた。
「いつでも来やがる、この畜生め!」
 田中はなおも追いかけた。その時、田中の蹴った落ち葉が蟇口を覆い隠してしまった。子犬を追っていった田中は戻ってきて、洋服を窓にかけた。
 そこへ大勢の生徒が出てきた。吉川先生が落ち葉を集めて畑のほうへ運ぶように命令した。
 落ち葉の下になっていた蟇口はその時、落ち葉と一緒に運ばれていったのだった。



底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
  1995(平成7)年8月5日初版発行
入力:大野晋
校正:しず
1999年6月10日公開
2000年11月10日修正
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