青空文庫アーカイブ

私の母
堺利彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)琴《こと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)私の次兄|乙槌《おとつち》と

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)不器用なたち[#「たち」に傍点]として
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 私の母、名は琴《こと》、志津野《しづの》氏、父より二つの年下で、父に取っては後添えであった。父の初めの妻は小石氏で、私の長兄平太郎を残して死んだ。そのあとに私の母が来て、私の次兄|乙槌《おとつち》と私とを生んだ。私の母が私を生んだのが四十二歳の時、兄を生んだのが三十八歳の時だったはずだから、思うに、母は三十六、七歳の時、堺家にとついだものだろう。
 かように母はずいぶんの晩婚であった。それには理由がある。もっとも、そんなことは、私が大人《おとな》になってから独りで自然に考えついたことで、誰に話を聞いたのでもなく、また少年の頃は全く何の気もつかずにいたことである。母は甚だしいジャモクエであった。その頃の人としては、「キンカ上品、ジャモ柔和」というコトワザがあった位で、一通りのジャモなら一向問題にならなかったのだが、母のジャモはかなりひどかった。鼻の穴が片方はほとんど塞がっており、鼻筋は全く平らに押しつぶされていた。女としてそういう顔容《かおかたち》になった以上、まず嫁入りは六かしいはずである。ただ、私の父が女房に死なれて貧乏世帯に子供をかかえて当惑した時、そこにほぼ双方の境遇が平均したものと考えられる。その外にどういう事情があったのか、私は少しも知らない。何にもせよ、母の晩婚の理由がその容貌上の大弱点にあったことは確かだと思う。しかし、そういう差引算用の結婚が必ずしも夫婦の愛を害するものではなかった。またそういう見苦しい晩婚の女の腹から、二人の立派な(!)男の子が生れるのに、何らの差支えがなかった。またその生れた子供が、母に懐《なつ》き、母にすがり、母を慕い、母を愛するのに、その母の醜い容貌が何らの妨げにもならなかった。実際、醜いと感じたことすらなかった。
 しかしこういうことがあった。ある日、私が鳥わなの見廻りか何かに行って来ると、内には母がたった一人で炬燵《こたつ》にあたっていた。その顔がよほど変に、私に見えた。白毛《しらが》まじりの髪が乱れかかっているところなど、物凄いような気がした。もしかこれが、狸か何かが来て母を喰い殺して、その代りに化けているのではないかと、私は思った。しかし母がやがて笑いを含んで話しはじめると、そんな怪しみなど勿論すぐ消えてしまった。私としては、若い美しい母などというものは、ついぞ考えたこともなかった。
 母は平仮名《ひらがな》以外、ほとんど文字というものを書いたことがなかった。しかし耳学問はかなりに出来ていた。里方の志津野家が少し学問系統の家であったのと、三十幾つまで「行かず後家」の境遇にあったのとのためだろう、浄瑠璃とか、草双紙《くさぞうし》とか、軍談とかいうような物には、大ぶん聞きかじりで通じていた。私らを教訓する時、よく浄瑠璃の文句が引き言にされていた。そういう意味から言えば、私らは、父の方よりも、母の方からヨリ多く教育されていた。
 母はまた、憐みぶかい性質であった。折々門に来て立つ乞食のたぐいなどに対して、いつも温かい言葉をかけていた。猫を可愛がることも、私は母から教えられたような気がした。母は不器用なかたちで、風流と言ったような、気のきいた点は少しもなかったが、それでいて自然の美に対する素朴なアコガレを持っていた。例えば、活け花などという物に対しては、母はほとんど何の感興をも持っていなかったようだが、山や川などに対しては、「おおええ景色じゃなア」などと、覚えず感嘆の叫びを発したりすることがあった。そして、私は、母の感嘆の叫びに依って、自分の目が開いたような気がしていた。
 母はまた、すこしばかり和歌をやっていた。これはただ、里方における周囲から自然に養われたことで、母にそういう才能があったとは思われない。しかし、父の俳句と、母の和歌とが、私の家庭における一つの面白い対立であった。ある時など、母が俳諧味の取りとめなきを指摘すると、父は和歌に面白味のないことを非難するという、文芸的論争が起ったことがある。
 それから父は、俳諧の歌仙(つけあい)の実例を挙げて、その幽《かす》かな心持や面白味を懇々と説き立てたが、母にはとうとう何のことやら分らなかったらしい。お蔭で私には初めて少し「つけあい」というものの味わいが分った。しかしまたこういうこともあった。維新の際、小倉藩の志士|何某《なにがし》が京都で詠んだという和歌に、「幾十度《いくそたび》加茂の川瀬にさらすとも、柳は元の緑なりけり」というのがあった。ところが和歌の先生は、上の句の「とも」に対して、下の句の結びは「なるらん」でなければ法に合わぬと言って、さように添削したが、作者自身としては、たとい将来のこととは言え、少しも疑いのない堅い決心であるから、「なるらん」などという生ぬるい言葉はいさぎよくないと言って、あくまで「なりけり」を固持していた。父と母とがこの話をしあった時、二人の意見は全く一致して深く作者の意見に同感していた。
 父と母とが面白くない(と言うよりはむしろ滑稽な)言い争いをしていたのを一つ覚えている。母も煙草が好きで、よく長煙管《ながぎせる》でスパスパやっていたが、例の不器用なたち[#「たち」に傍点]として、その火皿に刻みを詰める時、指先でそれを丸めることが足りないので、長い刻みの尾が煙管の先にぶらさがっていることが毎度であった。ある時、父はそれを見るに堪えなかったのだろう、いかにも憎々しそうな、噛んで吐き出すような口調で、そのだらしなさを罵倒した。すると母もムッとして、それが自分の生れつきであること、五十年来の習慣であること、今さらそれを非難されても仕方のないことなどを、すねた言葉でブツブツと返答した。この争いに対しては、私は子供心にも、深く両方に同情した。
 ある年の春、つつじの花の盛りの頃、裏の山の裾にござ[#「ござ」に傍点]を敷いて、そこに夕めしのお膳を持ちだし、母の自慢のえんどうまま[#「えんどうまま」に傍点]で、父は例の一合を楽しみつつ、つつじ見の小宴を催したことがある。それらは父がアジをやるのであるか、それとも母の思いつきであったのか知らないが、とにかく私には嬉しい一家の親しみであった。また、父と母とは、ジャモクエの年寄り夫婦にも似ず――あるいは無邪気な年寄り夫婦らしくと言った方が却っていいかも知れぬが――ある時など、木箱に竹の棒を突きさして、それに紙を張り、糸をつけて、三味線のおもちゃを拵えて見たりしていた。しかしそのおもちゃでは満足が出来なかったと見えて、後にはお隣りから本物を借りて来て、二人でツンツン言わせていたこともある。その歌、「高い山から谷底見れば」「摺り鉢を伏せて眺めりゃ三国一の」などはあえて奇とするに足りないが、「芝になりたや箱根の芝に、諸国諸大名の敷き芝に、ノンノコセイセイ」「コチャエ、コチャエは今はやる、若《わか》い衆《しゅ》が、提灯《ちょうちん》雪駄《せった》でうとてゆく」などの古色に至っては、けだし読者の一粲《いっさん》を博するに足りるだろう。
 母は滅多に外出しなかったので、たまに前の山に千振《せんぶり》摘《つ》みなどに行く時、私らはそれを大変な珍しいことのようにして、そのあとについて行った。母は千振を摘んでは蔭干しにしておいて、毎朝それを茶の中に振りだして飲むのであった。千べん振ってもまだ苦いと言うのが恐らくその名の出処であろう。私もいつかその真似をして、あの苦い味わいを、何か少し尊い物のように思っていた。後に私が人生のある事件を批評する時、「苦底の甘味」という言葉を用いたことがあるが、それは千振の味に思い寄せたのであった。また千振という草のツイツイと立っている姿、あのささやかな白い花の形などが、何とも言われぬしおら[#「しおら」に傍点]しさを私に感じさせた。そして、それも恐らく、母から開かせられた目の働きであったろうと思う。
 ある日、母が珍しく裏の山にナバ(茸《きのこ》)を取りに出た。兄と私とが嬉しがってその前後に飛びまわった。すると猫も跡からやって来て、手柄顔に高い松の木に駈けあがったりした。「猫までが子供と一しょに湧きあがる!」と、母は面白そうにその姿を眺めていた。湧きあがるとは、いい気になってふざけ散らすと言ったような意味。私は、前にも言った通り、母に教えられて大の猫好きであったが、母が毎度話して聞かせたところに依ると、私の幼い頃、キジという猫がいて、それが若様に対する老僕と言ったような格で、一度私の手にかかると、まるで死んだようになって、叩かれようと、攫《つか》まれようと、引きずられようと、自由自在になっていた。しかし次の猫は、それほどのおもちゃにならなかった。彼は冬になると、私の寝床で寝るよりも、母の寝床に寝ることを選んだ。けれども、私が是非とも彼を抱いて寝ることを主張するので、母はいつも、彼を連れて来て私の寝床に入れて、蒲団の外から叩きつけるのであった。すると彼も往生して、私の寝入るまで、ジットそこで我慢し、あとでソウット母の方に行くのであった。
 母はまた、観音様信仰で、毎晩お灯明をあげては、口の中で観音経か何かを誦《ず》しながら拝んでいた。そして毎月十七日の晩には、必ず錦町の観音堂に参った。私も必ずそのお供をした。その晩、観音堂では、三十三体の観音様に一々灯明を供えて、いかにも有難そうに見えていた。私は、(後に記す通り)仏教に対してはあまり同情を持たなかったが、母の故を以て観音様は少し好きだった。
 今一つ母についての思い出。これはよほどまだ私の小さい時のこと。私が炬燵の中で――母と私とが一緒に寝る広い寝床の中で――目をさますと、母は既に起き出でて竈《くど》の前で飯を炊いていた。私が何か言うと、「起きたかな、お目ざましをあぎょう」と言って母は竈《くど》の熱灰《あつばい》の中に埋めておいた朝鮮芋を取りだして、その皮をむいて持って来てくれた。黄色い美しい芋の肉から白い湯気がポカポカと立っていた。どうして、こんな光景が、特に私の記憶に残っているのか分らないが、恐らくその蒸し焼の芋の味が特別にうまかったのだろう。
 今一つ、これは私が母に対する唯一の反感。ある時、私が何かのことで、さんざん母にグズっていた。母も大ぶん怒って私を叱っていた。すると、母はちょうどお膳ごしらえをしていたのだが、とつぜん醤油つぎを引っくりかえした。赤黒い醤油がたくさん畳の上にこぼれた。母は慌ててそれをツケギで掬《すく》い取るやら、そのあとを雑巾《ぞうきん》で拭くやら(恐らく父に内証にするため、大急ぎで)していたが、「こんなことになるのも、お前があんまり言うことを聞かんからじゃ」とまた私を叱りつけた。私は非常に不平だった。私が言うことを聞かんのは悪いだろう。しかし、醤油つぎを引っくりかえしたのはまさに母のそそう[#「そそう」に傍点]である。自分のそそう[#「そそう」に傍点]の責任を私に塗りつけるのはひどい。私はそんな意味で大いに憤慨した。我が尊信する母、我が敬愛する母といえども、腹立ちまぎれには、やっぱりこんなことを言うのかと。
 考えて見るに、私は父と母とから、ちょうど半々ずつくらい性質を遺伝したらしい。体質の方では、父も小さいし、母も小さいし、そして私も小さいのだから、文句はない。しかし、私が小さいながらやや頑丈な処があるのは、母の方から来たのかとも思う。母は強いという方ではなかったが、母の弟たる「志津野のおじさん」などは、ずいぶん大きな、しっかりした体格であった。性質の方では、私に多少の才気があるのは父の方から来たのであり、幾らか学問好きで、そして少しゆっくりしたようなところがあるのは、母の方から来たのだと思われる。私は大体において善良な正直な男だと信じているが、それはまさに父母両方から来ている。もし私に、けちくさい、気の小さい、小事にアクセクするというところが著しく現われているとするなら、それは父の方からの欠点である。もしまた私に、不器用な、不活溌な、優柔不断なところが大いに存在しているとするならば、それは母の方からの弱点である。
 母の家には昔大きな蜜柑の木があったが、その蜜柑が熟する頃になると、母の父(即ち私の祖父)は、近処の子供を大ぜい集めて、自分は蜜柑の木の上に登って、そこから蜜柑をちぎっては投げ、ちぎっては投げ、そして子供が喜ぶのを見て面白がっていた。私はそんな話を、花咲爺の昔話と同じように聞いていたのだが、またどこやらにただの昔話とは違って、自分の祖父にそんな面白い人があったという誇りを感ずる点があったように思う。
 父方の祖父については、私は何の知るところもない。思うにそれは、祖父が早く死んだので、幾許《いくばく》も父の記憶に残っていなかったためだろう。父方の祖母はかなりシッカリした婦人であったらしい。早く夫に別れて、年の行かぬ二人の子供を守《も》り立てて行ったのは、容易なことでなかったろう。その頃、江戸に行っていた私の父に対して、国元の祖母から送った手紙が一通、私の手に残っているが、その筆跡もなかなか達者だし、文句もずいぶんシッカリしている。また、祖母の妹(私の父の叔母《おば》、私の大叔母)は、私もよく知っていたが、これがなかなかただの女でなかった。変屈者《へんくつもの》、やかまし屋として、あちこちで邪魔にされた場合もあったようだが、私から見ると、ずいぶん面白いところのある、よいおばさんであった。この人が大阪から私の父によこした手紙が残っているが、「黄粉が食いとうても臼がのうてひけぬ、今度来るなら臼を持って来ておくれ、うんちんはおれが出す」と言った調子である。明治二十二年に、八十に近いお婆さんが、大胆な言文一致体で手紙を書いていたのである。これらのことも、私に取っては確かに多少の誇りであった。



底本:「日本の名随筆42・母」作品社
   1986(昭和61)年4月25日第1刷発行
   1988(昭和63)年1月20日第5刷発行
底本の親本:「堺利彦伝」中公文庫、中央公論社
   1978(昭和53)年4月
入力:もりみつじゅんじ
校正:菅野朋子
2000年6月1日公開
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