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支流
齋藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一《ひと》ところ

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)途中|猿羽根《さばね》峠
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 此方から見ると対岸の一《ひと》ところに支流の水のそそいでゐるのが分かる。其処迄は相当の距離があるので、細部は見えないがやはり一つの趣があるやうに見える。即ち、直線的な一様な対岸が其処で割れてゐるのだから、割目の感といつたらよいかも知れない。併しその支流は極めて小さいもので、人々の注意する程度にも至つてゐない。
 晩秋のある日、自分は病後の体を馴らすために、対岸、つまりその支流のそそいで居る側の岸近くを歩いて、桐の木だの、胡桃の木だの、その他の雑木のあるところの日陰に腰をおろして休み休み、なほ歩いて行つた。自分は腰をおろして休むと眠気が出る、さういふ時にはうたたねをする。もう冬外套を著てゐたので、顔をひくくして外套の襟のところにうづめるやうにして眠る、十五分間も眠ればまた起きて歩みだすといふ具合である。歩く道は極めて細いけれども、兎も角農民がその道に頼つて歩くと見えて辛うじて道の形態をなしてゐる。道は最上川の流と稍離れてついて居り、その間は汎濫帯で少し増水すると其処に浸水するやうになつて居る。其処には萱だの川柳などが生えてゐる。
 その細い道の一方(最上川の流と反対側)は畑になつてゐて、豆類の収穫はもう了つて居る。桐や其の他の木からはしきりに落葉してゐる。なほ歩いて行つた。最上川増水の時に出来たらしい、ほら穴のやうな処があつたり、流の跡のやうな処があつたりして、とうとう川に突当つた。川は幅稍ひろく、水は浅く底の砂が透いて見える。底は砂であるから水が激するといふことがない。両岸が思つたより高く、小さいながら水面まで一つの断崖をなして居る。断崖には雑草が密生してゐて紅葉して居る。これをもつと大きい山水に拡大すると一つの大きい谿谷とおもふことも出来る。細い道は其処に極まる。
 これは、前言した支流の川口ではあるまいか、かう自分は思つて、川柳の藪をかき分けて行くと果してさうであつた。この支流の川口であつた。この支流の水が大きい最上川にそそいでゐるところであつた。自分はその川口のところに降りて行つた。
 水は小さいデルタらしいものを作らうとして作りきれず、その両側の水は先づ形容すれば潺湲として流れて居る。自分にはこの漢熟語は未だ活きて居るが、自分の孫ぐらゐの時代になると、もはやかういふ熟語はその語感が活きてゐないだらう。然らば、ただ、音をたてて流れてゐるとだけに表はすだらう。そこを通つた水は合流して、一つの小さいいきほひをなして最上川にそそぐのである。岸には砂が溜まり、小さい砂丘の如き形をなしたところもあり、増水のときに水に浸つたのが未だ乾ききれずに、自分の穿いたゴム靴が度々ぬかつた。其処の砂地の下に石原になつたところがある。これはもつとひどい増水の時に出来た石河原であらう。砂の上には鶺鴒らしい鳥の足跡などがある。かくの如くにして川幅のひろい、平明な最上川の水に合流してゐるのである。岸に近い水中には小さい魚の子が泳いで、銘々日光の影を持つて居る。これなども病後の自分にとつて哀憐に堪へぬ光景だといつてよい。この両岸の高いのが、つまり大袈裟にいふと断崖が、向う岸から見ると一つの割目になつて居て、一種の趣をなして居るのであつた。
 この平凡な細い支流は、五十沢川《いさざはがは》といひ、源を追尋すると畑地の間をとほり、今宿の部落手前にかかり、人家の前では洗濯をされたり、野菜を洗はれたり、汽車の線路を越え、山地に入り、下五十沢《しもいさざは》、上五十沢《かみいさざは》の部落を通り、なかなか遠いところから発してゐるので、自分はそこまでたどることは出来ぬのであつた。
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 この町の東端にオボロケ川といふ支流が灑いで居る。この名は尾花沢町の一部に朧気(オボロケ)といふ処があり、この川が其処を通過するのでこの名がある。このオボロケといふのはどういふ意味であらうか。朧気といふのは必ず当字に相違ない。さうしてひよつとすると愛奴語か何かであるのかも知れない。
 大石田から尾花沢にかけ、石器時代の遺物が出で、大石田浄願寺境内などでは雨後に石鏃が露出するくらゐであるから、必ず愛奴語あるひはその訛などが遺存してゐるやうにもおもはれ、金田一博士などに聞いて見たい言葉である。この支流の川口は大体三間ぐらゐで、ふだんは川原になつて居りその川原を流が三つにも四つにも分かれて、最上川にそそいでゐるのである。それだから、護謨の長靴を穿けばそこを楽に渡ることも出来る。夏には子供らが来て、小石で堤防やうのものを作つたりしては遊んで居るし、十一月の今時分になると、この川の岸に女連が集まつて来て菜大根の類を洗つて居る。平凡な川口だと謂つていい。
 併し、満月がのぼる時などは、一見平凡なこの川口も、月光の特別なかがやきを此処で見ることが出来る。これは反射面の多い川口の存在を明かに示してゐるのである。
 この朧気川は山の断崖に沿うて流れたり、稲田のあひを流れたり、また支流を合したりして、尾花沢の朧気といふ部落を経て東へ向つて流れ、それからやうやく南へむかふ。そのあひだに、取上だの古殿《フルドン》などと部落がある。
 それから川が細くなつて、峯岸といふ村の西を流れ、細野といふ村の北端から稍東に寄り、なほ南方の山中まで追尋することが出来る。細野村は山間の村で農を主業としてゐるが、炭焼も可なり居るので、大石田の人々がこの細野炭をも使つて居るのである。銀山の盛な頃にも細野、鶴の子の炭は有名で、炭焼竈は三百から四百を算へたさうである。
 若しも自分の体力が快復して徒歩でここまで来ることが出来、この細野で朧気川に逢ふならば、必ず自分は心なつかしくおもふだらう。さうして、若しも村人の厚意によつて、一夜其処にやどることが出来るならば、翌朝早く立つて南方の山へこの川の源を辿るだらう。只今は米持参でなければ大概の宿屋は宿めないが、この村人の厚意により、握飯をも呉れるならば、自分はその握飯を持ち山中へ分け入り、この川の岸に腰をおろして食べるだらう。さうしてなほ南へ進むうち、川はいよいよ細くなり、道も無くなつて前進を諦めねばならぬところに行くだらう。そこで自分は大体の源をばその辺として、引返す気持になるだらう。大石田の町はづれで最上川に入る朧気川が、かういふ処から発してゐると思うて、一種の満足を覚えるだらう。併しこれはただの空想で、病後の体力が未だそこまでは行つてゐないのである。
 荒町の東に延沢《のべざは》といふ部落がある。延沢は、延沢(野辺沢)能登守の旧領で、旧城址、八幡神社、竜護寺があり、六沢には観音堂がある。銀山の盛なころは延沢銀山と称へた程である。
 かういふ部落にも興亡の小歴史があり、豊年と凶年と相交代しつつ現在に及んで居るのである。また、部落の古文書などに、『大雨洪水、村山郡諸川沿岸被害多し』などといふのが屡見あたるところを見ると、かくのごとき小さい川といへども大雨の時には恐るべき猛威を示すことが必定である。大石田の川口が、大雨にあたつて驚くべき姿を呈するのを実見して、以てその源をも想像することが出来る。
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 それから、丹生《にふ》川がある。これは可なり大きい川で、大石田から半里ばかり北方の川前といふところにそそいで寄る。
 下流には数個の洲を形成し、常は、水が川原のあひだを数条に分かれて流れて居る。最上川に入るところの有様も大体同じで、数条の川になつてそそいでゐる。そこを鮎もさかのぼるので、丹生川の鮎だといつて賞美されて居る。また、川前の最上川は秋鮭の取れるところで、はるばる海からのぼつてくる雌雄の鮭を取るのである。このへんに鮭の集まるのは、水温の関係だらうといふが、細い調査の出来てゐるわけではないが、鮭の身になつてみれば何かさういふ好い条件があるのかも知れない。去年(昭和二十年)の秋、一日川前に遊び、あのへんの山や最上川畔を逍遥し、水面から鮭の跳ね躍るのを見、土産に鮭をもらつて来たことがあつた。今年は体の都合でそれが出来ないのが心残りである。
 さて、この丹生川を下流から上流にむかつて追尋すると、東へ流れて岩ヶ袋の鉄橋を通過し、尾花沢町の北方を流れ、宮沢村の丹生、正厳の南をとほつて、中洲を作つたり支流を合したり、稍複雑な形貌を呈しつつ、一方は中島、行沢《なめざは》、一方は北郷、坂本、鶴巻田の間から、南方へ嚮を替へ、母袋《もたい》、粟生、下柳渡戸《こやなぎわたと》を経て、滝ノ上、鶴子からなほ南へ走る。そして遠く御所山《ごしよやま》(一名船形山)にその源を発するのである。
 丹生川くらゐの大きさになれば、いろいろの土地、事柄に関聯を持つやうになる。下柳渡戸から近い銀山は足利幕府時代、康正年間と伝へられ、長禄元年から五十年間ばかりは栄えた。今の薬師川が宝川といふ旧名を持つてゐるのはその繁盛を証明してゐる。それから一時廃山となつたが、慶長、元和に至つて再興し、寛永年間に至つて繁昌を極めた。寛永八九年ごろ其処の人口は二十万から三十万を算へたといふ記録が残つて居る。一日一人三合の割当にしてもなほ足らず、餓死する者が続出した程であつた。寛永十一年幕府の直営となり、十二年一時御留山(採掘禁止)となり、十八年から再許可となつたが、寛永も二十年を過ぎ正保元年頃から山が衰退の徴をあらはし、それから明治に至るまで幾多の消長を閲して今は全く廃山に帰してゐる。この銀山を流れる銀山川は丹生川の一支流をなし、下柳渡戸で入るのである。
 銀山温泉の人目に附いたのは正保頃だと云はれて居る。寛永頃になり漸く人目を牽き、湯治する者があつまるに至つた。温泉は銀採掘の衰ふるにつれて盛になつた。
 丹生川の源流御所山は、順徳院がひそかに佐渡をのがれ給ひ、この山の麓に住はれたといふ別伝があり、宮沢村は院崩御の地だといつて、宮沢村には伝説の院御陵もあり、鶴子には御所神社があり、近くに屋敷平だの、御所の宮だの、アマブタ(尼二人)だのの地名があり、又前記の正厳なども順徳院に関係あるものとして信用してゐる農民が多い。この正厳にも御所神社(御所宮)があり、其縁起には、『皇居ヲ正厳ニ卜シ』云々とある。
 元禄二年芭蕉の来たときは、別の計画では、銀山峠を越え、上《かみ》ノ畑《はた》、銀山、延沢を経て尾花沢に至るつもりであつたことは、最近発見の曾良の随行日記によつて明かになつた。併し芭蕉はその計画を変更し、山刀切《なたぎり》峠を越え、堺田、富沢、押切、正厳を経て、尾花沢に至つたのであつた。
 また芭蕉の奥の細道に、『最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ、爰に古き俳詣の種こぼれて』云々とあるので、芭蕉は大石田から船に乗つたやうに解釈してゐたが、近時当地の板垣家子夫氏が、芭蕉は大石田から猿羽根峠を越え、新庄に行つたことを注意したのであつた。
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 芭蕉が大石田から乗船したと従来解釈したのは、奥の細道に、『最上川のらんと、大石田といふ所に日和を待つ』云々とあるからである。それはそれで好いとして、新庄で興行した俳諧があり、『風流亭、水の奥氷室尋る柳かな』といふ芭蕉の句は新庄の風流亭で作つたことが確実だとすれば、一たん大石田から船に乗り、新庄に上陸したこととせねば解釈がつかぬのである。ここの行為は自然でないと板垣氏は疑つてゐたのであつた。然るに計らずも曾良の随行日記が世にいづるに及び、芭蕉は大石田から船に乗らずに、陸路を新庄まで行つたことが明らかになつたのである。

 〇六月朔日 大石田ヲ立(辰刻)、一栄、川水、弥陀堂迄送ル、馬弐疋

 曾良の日記にかうあるから、芭蕉と曾良は銘々馬に乗り、元禄二年陰暦六月一日、午前八時頃一栄宅から大石田を立つたのである。一栄と川水二人が弥陀堂まで見おくつた。弥陀堂は何処であるか、井出村の地蔵堂などではなかつただらうか。一栄は高野平右衛門、川水は高桑加助で、一栄は最上川東岸に住んでゐたらしい。それは今の板垣氏宅の近くであつただらうといはれてゐる。川水に関し、板垣氏は乗船寺にある過去帳を調べたことがあるが、今の高桑一門の一人だといふことが分かつた。現在の町長高桑祐太郎氏の祖先といふことになるのであらうか。
 新庄の俳人は風流(渋谷甚兵衛)、柳風(渋谷仁兵衛)、孤松(加藤四郎兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善右衛門)等である。六月三日、天気よく、二人は新庄を立ち、一里半程行つて、本合海《もとあひかい》から乗船した。それから古口《ふるくち》で乗継し、清川を経、雁川で下船した。それから羽黒へ行つてゐる。当時は船に乗るにも一々添状を頼りにしたもので、やはり旅は難儀であつたことが分かる。
 芭蕉と曾良は大石田から乗船しようと思つて、日和を待つてゐたが、最上川が増水して、なかなか船が出ない。そこで計画を変更して陸路を行くことにしたのであらう。途中|猿羽根《さばね》峠がある。眺望の利くところで、又『猿羽根山こえ舟形こえて逢ひに来たぞえ万場町に』といふ新庄ぶしのある山である。芭蕉と曾良は馬に乗つてその峠を越え、舟形をとほり、新庄に行つたものである。
 芭蕉の行動を挿入したから、話が前後したが、ついでに尾花沢以来の芭蕉の行動を補入することにする。五月十六日、羽前村山郡新庄領の堺田に著き大雨のため宿る。十七日快晴出発、案内人に荷を持たせ山中を通り、市野々、関谷を経て正厳で大夕立に逢つたりして昼頃尾花沢の清風宅へ著いた。十八日、養泉寺に移つた。十九日、養泉寺、素英(打川伊左衛門)宅に招かれ奈良茶漬の御馳走。廿日、養泉寺、廿一日、朝、小三郎(似休の子)に招かる。夜、遊川(沼沢所左衛門)に招かる。清風宅に泊る。廿二日、夜素英に招かる。清風宅に泊る(?)。廿三日、夜秋調(仁左衛門)に招かる。清風宅に泊る。廿四日、夜一橋寺で食事、養泉寺泊。廿五日、大石田から川水訪問したが、皆の都合わるく俳諧をせずにしまつた。夜、秋調から招かる。廿六日、遊川と東陽(歌川平蔵)と逢ふ。
 廿七日、始めて天気になつたので、馬で尾花沢を立つて、楯岡、天童を経て山寺著。巡拝、坊に泊る。山形に行かうとしたが止めた。廿八日、馬で、天童、六田、上飯田を経て、午後一時頃、大石田の一栄宅に着いた。上飯田迄川水出迎へた。廿九日、黒滝向川寺参詣(曾良行かず)、夕食川水宅。一栄宅泊。卅日、歌仙一巻終了、書了。六月朔日、大石田出発。かういふ順序である。
 最上川の支流は、なほ下流に向つて数ふれば、小国川、鮭川(真室川大沢川合流)、立谷沢川、赤川等がある。赤川最も大きく、湯殿山の谿谷から発して、酒田近くで、最上川に入つてゐる。是等の支流と本流との関係は学者の論ずるところで有益である。



底本:「日本の名随筆33 水」作品社
   1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
   1996(平成8)年2月29日第15刷発行
底本の親本:「齋藤茂吉全集 第七巻」岩波書店
   1975(昭和50)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:氷魚、多羅尾伴内
2003年12月12日作成
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