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春永話
折口信夫

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)城島《シキシマ》村

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)璃※[#「王+王」、第4水準2-80-64]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)むら/\
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むら/\と見えて たなびく顔見世の幟のほどを 過ぎて来にけり
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昭和十年三月、私の作る所である。歌は誇るに値せぬが、之に関聯して私ひとり思ひ出の禁じ難いものがある。京の顔見世は、近年十二月行ふことになつてゐる。十一月末にさし迫つて初める為、十二月興行と謂つた形をとることになつてしまつた。此は全く、明治中頃からの新しい為来りに過ぎない。明治の末、大正の初年頃、京の顔見世と言へば、大阪からも見に行く風がはやり出した。ある年の顔見世に、口上の幕がついて鴈治郎が正座にすわつた。……「京の御見物様。毎度よんで頂きましてあり難い為合せに存じます。では御座りますが、ならうことなら、顔見世たつた一度でなく、ほかの時にもよんで頂けますやうお願ひ申し上げます。」まあかう言ふ言ひまはしであつた。そんな事にかけてはちつとも神経を動かさぬ京の見物はおもしろさうに「えへら、えへら」笑うてゐた。京のつましい生活を衝いてゐる、極めて無遠慮な、後味のわるい口上だが、言ふ役者も役者なら、聴いてゐて、「うまいことぬかしよる」と、何でもない顔をしてゐる見物も与し易い群衆であつた。外へ出ると暗い河原に鳴く千鳥、堰塞を溢れる水の音、其さへ、記憶といふ程には残つてゐない。其後東京へ移つて、稍久しくなつた頃、――南座の三浦介の舞台でたふれた。――さう東京へは聞えて来た――役者の上を特に想望しての歌としては、動機が、大分薄いやうな気がする。芝居へ連れて行かれて、自分も迷惑せず、人をも困らさなくなつた頃はもう鴈治郎・我当――後、仁左衛門――対立して人気を争うてゐる時期であつた。どうして覚えてゐるのか知らんが、角か弁天座の竪看板に、我当の兄我童の、仁左衛門襲名の披露狂言大和橋の絵組みがあつて、此に向つて、片手をひろげ片手を地面について、驚いた恰好の馬方の袖に右団治――後、斎入――の紋の松かは菱に蔦の葉がついてゐた。此右団治が役変替を言ひ出したことから、我童狂死、我童びいきの東京の車屋が下阪して、右団治をつけねらつて居ると言つた様な噂まで耳に残つて居る。どこまでが記憶で、何処からが知識のつけ足しやら、今日になつては、甚心もとない。其より少し前、鴈治郎弄花事件と言ふやうな警察事故が起つて、縫物屋通ひの娘たちを驚倒させた。角の芝居と朝日座との間に後、石川呉服店となつた同じ家で、役者の写真を売つて居た。蔀戸をあげ、障子囲ひにした店床を卸した落ちついた家で、手札型の台紙にはつた舞台姿や、豆写真を張りつけた糸巻などが、そこの商品であつた。町々の縫物子が、其を買うては、護り魂のやうに秘めて居たものである。さう言ふ鴈治郎びいきの娘たちが、どんなにかたみ[#「かたみ」に傍点]狭く案じ暮したことだらうと思ふと、昔のあほらしい程ののどかさ[#「のどかさ」に傍点]に笑ひがこみあげて来る。
誰の芝居よりも、右団治一座の狂言によくなじんで居た。此人は、鴈治郎と一座する事が尠く、我当を書き出しに、座頭を勤めたことが続いて後、きつぱり座頭渡しの式をして、我当を押し出した。此は折り目正しい為方だと、今から見れば、そんな何でもない事に感心した世の中だつた。斎入右団治が、そんなさばけたとりしまり[#「とりしまり」に傍点]をしたのも、原因があつた。老齢に向つて、彼の嗜んだ「茶」が、ものを言ひ出した所もあつた。書き物の「石川五右衛門」で、茶の宗匠になつてゐる隠れがの五右衛門を見たが、彼の得意だつた葛籠抜けや、釜煎りの五右衛門よりは、性根をよく表現して、こんな名人が世にあらうかと思はせた。少年期を出たばかりの鑑識を、今更保持する自信も薄くなつたが、ともかくよい役者であつた。高安の老先生が芝居ずきであつた事は聞いてゐたが、近年月郊――老先生の長男――さんの「高安の里?」を読んだら、斎入を認めないやうにとれる文章があつて、私の記憶の為に悲観した。斎入は下品な顔の男であつたと言ふやうに書いてあつたので驚いた。月郊さんは、斎入の顔を一まはり大きくした時蔵――後歌六――と、記憶をふり替へて居られるのではないかと思つた事である。東京でもさうだが、上方でもはつきり、座頭と脇役者とでは格が違ひ、育ちの違ふことを思はせて居た。時蔵は朝日座あたりでは、座頭格に居て、芸も技巧的でおもしろかつたが、中芝居、角芝居の座頭の勤まる柄ではなかつた。寧、勤めなかつたから、その柄が出来てゐなかつたといふ方が当つてゐる。璃※[#「王+王」、第4水準2-80-64]などでも今では、喜多村氏などが、神様見たいに言ふが、――さう言つて、あの不幸な達人を伝へてやつてくれることはあり難いが、――やはり浜芝居の座頭か、書き出しで、長い腕を磨いて来たので、大芝居の座頭の相談役には此以上の人はないが、芸格は低かつたと思ふ。時蔵と似た輪廓だが、長い座頭の経験が、斎入の顔に、芝居の長者らしい品格を置いてゐた。まことに大阪の芝居錦絵――その物は、美しさの真の準拠とはならぬが――をそのまゝの顔姿であつた。だから大阪の錦絵の持つよさ――と言ふより醜さ――が、そのまゝ彼の舞台姿に出てゐた。月郊さんは、芝居擁護者としての伝統に列つた人だが、あの人一代だけは、どうも東京歌舞妓のよさが、喰ひこんで来て居る。あの人の作や評には、凡心服してゐるが、斎入の容貌評については甘心する事が出来ない。六郎先生などに聞いて、高安家の正しい判断を知りたいと思うてゐる。

我童は、前に姉を失つてゐる。此人も、井戸か何かに這入つて死んでゐる。そこへ、先々代家橘――先代羽左衛門父――を失つた東京劇壇では、彼の上に其幻影を感じて、其身替りに据ゑかけてゐた我童が、姉と同じ病気になつた。その第十一代目仁左衛門の気随気まゝと思はれた生活も、一つは思ひつめない為、随時発散を心がけての気まぐれだつたことを思ふと、其一生に理会がつく。我当は大阪の低い知識の導くまゝに、大和桜井から一里も奥の城島《シキシマ》村まで行つて、「忍阪内ノ陵」――舒明天皇陵――に参つて家兄の平癒を祈つてゐる。だから、私にとつては、仁左衛門について書く方が、当らずとも遠くない見当には這入るのである。毎日新聞と朝日新聞とが、大阪中の家庭を両分して、ひいき争ひをくり返させて居た時代である。鴈治郎・仁左衛門なども、其安易な白石・黒石に立てられたゞけである。だけだ[#「だけだ」に傍点]と言へば、其までゝあるが、我々大阪で若い時を過した者にとつては、だけだ[#「だけだ」に傍点]ではすまないものがある。

日清戦争当時、何を見て過したか、殆、払拭せられた碁盤の面のやうに記憶の痕もなくなつてゐる。ところが唯一つ、花道から走つて出た若い将校の身辺で、幾つかの煙硝火が発火する。今から思へば、舞台に幾筋かの糸が張つてあつて、其を伝つて火が走つて来る為掛けだつたのだらう。其将校、剣をあげて、「突貫」と言つたらしい。其瞬間、しゆつと来た火が、その額のあたりで炸裂する。「やられた」と言つたか、まさか、此時分「万歳」とは言つて落ち入らなかつたと思ふ。立ち身のまゝで幕になるきづかひ[#「きづかひ」に傍点]はないのだが、私の記憶は、其できれてゐる。此が松崎大尉であつて、土地は牙山城外である。演ずる所の優人は、中村鴈治郎であつた。数へて見ると、此が私の八歳の時である。此位にしか覚えてゐないのが、寧、当りまへであらう。此前にも、芝居へは連れて行つてくれてゐるやうに、家人は言つて居たが、何分にも、此外には古い舞台の印象がない。性格としては、仁左衛門の方が、私などには向いてゐる。その舞台も事実、早期において深くなじみを感じてゐる。にも繋らず、壮年の後、鴈治郎の芸に、心をひかれることの多かつたのは、何によるのだらう。考へればいろ/\縁由らしいものはある。だが何としても、芝居最初の遭遇に見たと言ふことが、さうしたすべての上に、圧するほどの力を持つてゐるのだと思ふ。おもしろをかしくもない戦争芝居、其に後年、此舞台などが導きになつて、身たけに合はぬ新しい着物を着たがるやうになつてた役者、此が私の最初の印象だとすれば、私の劇に対する理会なども、凡、思ひ見ることが出来る。だが其も此もどうなるものであらう。



底本:「日本の名随筆 別巻10 芝居」作品社
   1991(平成3)年12月25日第1刷発行
   1997(平成9)年5月20日第4刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第一八巻」中央公論社
   1967(昭和42)年4月発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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