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半七捕物帳
雪達磨
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所詮《しょせん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二番御|火除《ひよ》け地

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あっ[#「あっ」に傍点]
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     一

 改めて云うまでもないが、ここに紹介している幾種の探偵ものがたりに、何等かの特色があるとすれば、それは普通の探偵的興味以外に、これらの物語の背景をなしている江戸のおもかげの幾分をうかがい得られるという点にあらねばならない。わたしも注意して、半七老人の談話筆記をなるべく書き誤らないように努めているつもりであるが、その説明がやはり不十分のために、往々にして読者の惑いを惹き起す場合がないとは限らない。
 これらの物語について、こういう不審をいだく人のある事をしばしば聴いた。それは岡っ引の半七が自分の縄張りの神田以外に踏み出して働くことである。岡っ引にはめいめいの持ち場がある。それをむやみに踏み越えて、諸方で活動するのは嘘らしいというのである。それは確かにごもっともの理窟で、岡っ引は原則として自分だけの縄張り内を守っているべきである。仲間の義理としても、他の縄張りをあらすのは遠慮しなければならない。しかし他の縄張りを絶対に荒らしてはならないというほどの窮屈な規則も約束もない。今日でも某区内の犯罪者が他区の警察の手にあげられる場合もある。まして江戸の時代に於いて、たがいに功名をあらそう此の種の職業者に対して、絶対にその職務執行範囲を制限するなどは所詮《しょせん》できることではない。半七がどこへ出しゃばっても、それは嘘でないと思って貰いたい。
「これはわたくしの縄張り内ですから、威張って話せますよ」と、半七老人が笑いながら話し出したのは、左の昔の話である。

 文久元年の冬には、江戸に一度も雪が降らなかった。冬じゅうに少しも雪を見ないというのは、殆ど前代未聞の奇蹟であるかのように、江戸の人々が不思議がって云いはやしていると、その埋め合わせというのか、あくる年の文久二年の春には、正月の元旦から大雪がふり出して、三ガ日の間ふり通した結果は、八百八町を真っ白に埋めてしまった。
 故老の口碑によると、この雪は三尺も積ったと伝えられている。江戸で三尺の雪――それは余ほど割引きをして聞かなければならないが、ともかくも其の雪が正月の二十日頃まで消え残っていたというのから推し量ると、かなりの多量であったことは想像するに難くない。少なくとも江戸に於いては、近年未曾有の大雪であったに相違ない。
 それほどの大雪にうずめられている間に、のん気な江戸の人達は、たとい回礼に出ることを怠っても、雪達磨をこしらえることを忘れなかった。諸方の辻々には思い思いの意匠を凝らした雪達磨が、申し合わせたように炭団《たどん》の大きい眼をむいて座禅をくんでいた。ことに今年はその材料が豊富であるので、場所によっては見あげるばかりの大達磨が、雪解け路に行き悩んでいる往来の人々を睥睨《へいげい》しながら坐り込んでいた。
 しかもそれらの大小達磨は、いつまでも大江戸のまん中にのさばり返って存在することを許されなかった。七草《ななくさ》も過ぎ、蔵開きの十一日も過ぎてくると、かれらの影もだんだんに薄れて、日あたりの向きによって頭の上から融《と》けて来るのもあった。肩のあたりから頽《くず》れて来るのもあった。腰のぬけたのもあった。こうして惨《みじ》めな、みにくい姿を晒《さら》しながら、黒い眼玉ばかりを形見に残して、かれらの白いかげは大江戸の巷《ちまた》から一つ一つ消えて行った。
 その消えてゆく運命を荷《にな》っている雪達磨のうちでも、日かげに陣取っていたものは比較的に長い寿命を保つことが出来た。一ツ橋門外の二番御|火除《ひよ》け地の隅に居据《いすわ》っている雪だるまも、一方に曲木《まがき》家の御用屋敷を折り廻しているので、正月の十五日頃までは満足にその形骸《けいがい》を保っていたが、藪入りも過ぎた十七日には朝から寒さが俄かにゆるんだので、もう堪まらなくなって脆《もろ》くもその形をくずしはじめた。これは高さ六、七尺の大きいものであったが、それがだんだんとくずれ出すと共に、その白いかたまりの底には更にひとりの人間があたかも座禅を組んだような形をしているのが見いだされた。
「や、雪達磨のなかに人間が埋まっていた」
 この噂がそれからそれへと拡がって、近所の者どもはこの雪達磨のまわりに集まった。雪のなかに坐っていたのは四十二三の男で、さのみ見苦しからぬ服装《みなり》をしていたが、江戸の人間でないことはすぐに覚《さと》られた。男の死骸《しがい》は辻番から更に近所の自身番に運ばれて、町奉行所から出張した与力同心の検視をうけた。
 男のからだには致命傷《ちめいしょう》とも見るべき傷のあとは認められなかった。刃物で傷つけたような跡もなかった。絞め殺したような痕《あと》も見えなかった。寒気のために凍死したのか、あるいは病気のために行き倒れとなったのかと、役人たちの意見はまちまちであったが、普通の凍死か行き倒れであるならば、雪達磨のなかに押し込まれている筈がない。これを発見した者はすぐに辻番か自身番へ届けいづべきである。これほどの大きい雪達磨をわざわざこしらえて、そのなかに死骸を忍ばせておく以上、それには何かの仔細がなければならない。彼の死因には何かの秘密がまつわっているものと、役人たちは最後の断案をくだした。
「それにしても、この雪達磨を誰が作ったのか」
 役人たちは当然の順序として、まずその詮議《せんぎ》に取りかかった。町内の者もことごとく吟味をうけたが、誰もこの雪達磨を作ったと白状する者はなかった。かれらの申し立てによると、この雪達磨は三日の夜のうちに何者にか作られたのであるが、前にもいう通り、雪が降れば誰かの手に依って必ず一つや二つの雪達磨は作られるのであるから、この大きい雪達磨が一夜のうちに出現したのをみても、誰も別に怪しむものもなかった。おおかた町内の誰かが拵《こしら》えたのであろうぐらいに思って、なんの注意も払わずに幾日をすごしたのであった。殊にこの近所には武家屋敷が多いので、それは町人がこしらえたのか、武家の若い者どもが作ったのか、それすらも確かには判らなかった。
 勿論これほどの雪達磨が自然に湧き出してくる筈はない。必ずその製作者はどこにか潜《ひそ》んでいるには相違ないのであるが、こうなっては誰も名乗って出るものもない。なにかの手がかりを見付け出すために、達磨は無残に突きくずされて其の形骸は滅茶苦茶に破壊されてしまったが、男の死骸以外にはなんの新らしい発見もないらしかった。くずれた雪はその証跡を堙滅《いんめつ》せんとするかのように次第々々に消え失せて、いたずらに泥水となって流れ去った。
「旦那がた、御苦労さまでございます」
 ひとりの男が自身番のまえに浅黒い顔を出した。かれは三河町の半七であった。八丁堀同心の三浦真五郎は待ち兼ねたように声をかけた。
「おお、半七、遅いな。貴様の縄張り内で飛んでもないことが始まったぞ」
「それを聞くと、わたくしもびっくりしました。で、もう大抵お調べも届きましたか」
「いや、ちっとも見当が付かない。死骸はここにある。よく見てくれ」
「ごめんください」
 半七はすすみ寄って、そこに横たえてある男の死骸をのぞいた。男は手織り縞の綿衣《わたいれ》をきて、鉄色木綿の石持《こくもち》の羽織をかさねていた。履物はどうしてしまったのか、彼は跣足《はだし》であった。半七は丁寧に死骸をあらためたが、やはり何処にも致命傷らしいあとを発見することが出来なかった。
「どうも判りませんね」と、彼も眉をよせた。「まあ、ともかくも其の現場を見とどけてまいりましょう」
 役人たちに会釈《えしゃく》して、半七は雪達磨の融けたあとを尋《たず》ねて行った。そこらには雪どけの泥水と、さんざんに踏みあらした下駄の痕とが残っているばかりで、近所の子供や往来の人達がそれを遠巻きにして何かひそひそとささやき合っていた。その雑沓《ざっとう》をかき分けて、半七は足駄《あしだ》を吸いこまれるような泥水のなかへ踏み込んだ。そうして、油断なくその眼を働かせているうちに、彼はまだ幾らか消え残っている雪と泥との間から何物をか発見したらしく、身をかがめてじっと眺めていた。
 彼はそれから少時《しばらく》そこらを猟《あさ》っていたが、ほかにはなんにも新らしい発見もなかったらしく、泥によごれた手先をふところの手拭で拭きながら、もとの自身番へ引っ返してゆくと、与力はもう引き揚げて、当番の同心三浦だけが残っていた。
「どうだ、半七。なにか掘り出したか。しっかり頼むぜ。質《たち》の悪い旗本か御家人どもの仕業《しわざ》じゃあねえかな」
「そうですね」と、半七もかんがえていた。「まあ、どうにかなるかも知れません、どうぞ明日《あした》までお待ちください」
「あしたまで……」と、真五郎は笑った。「そう安受け合いが出来るかな」
「まあ、せいぜい働いてみましょう」
「では、くれぐれも頼むぞ」
 云い渡して真五郎は帰った。そのあとで、半七は再び死骸の袂《たもと》を丁寧にあらためた。

     二

 半七はそれから日本橋の馬喰町《ばくろちょう》へ行った。死骸の服装《みなり》からかんがえて、まず馬喰町の宿屋を一応調べてみるのが正当の順序であった。その隣り町《ちょう》に菊一という小間物屋があって、麹町の大通りの菊一と共に、下町《したまち》では有名な老舗《しにせ》として知られていた。半七は顔を識《し》っている番頭をよび出して、この三日の日に南京玉《なんきんだま》を買いに来た田舎の人はなかったかと訊いた。
 繁昌の店であるから朝から晩まで客の絶え間はない。したがって南京玉を売ったぐらいのお客を一々記憶していることは困難であったが、幸いに当日が正月早々であるのと、かの大雪が降りつづいたのとで、殆ど商売は休み同様であったために、菊一の番頭はその日に買物に来たたった三人の客をよく記憶していた。その二人は近所の娘で、他のひとりは馬喰町の信濃屋という宿屋に泊まっている客であったと彼は説明した。
「名は知りませんが、去年の暮にも一度来て、村の土産《みやげ》にするのだと云って油や元結《もっとい》なぞを買って行ったことがあります。三日の朝にも雪の降るのにやって来て、どうしてもあしたは発《た》たなければならないから、近所の子供たちの土産にするのだと云って、南京玉を二百文買って行きました」
 その田舎の人の人相や年頃や服装などをくわしく聞きただして、半七は更に信濃屋に足をむけた。信濃屋の番頭は宿帳をしらべて、その客は上州太田の在《ざい》の百姓甚右衛門四十二歳で、去年の暮の二十四日から逗留《とうりゅう》していた。どうしても年内には帰らなければならないと云っていたが、それがだんだんに延びてとうとうここで年を越すことになった。三ガ日がすんで、四日の日は是非たつと云っていたが、その前日の午《ひる》すぎに近所へ買物にゆくと云って出たぎり帰ってこないので、宿の方でも心配している。尤《もっと》も去年じゅうの宿賃は大晦日《おおみそか》の晩に綺麗に勘定をすませてあるので、その後の分は知れたものではあるが、ともかくも無断でどこへか形を隠してしまうのはおかしいと、帳場でも毎日その噂をしているとのことであった。
「じゃあ、気の毒だが神田まで来てくれ。なに、決して迷惑はかけねえから」
 迷惑そうな顔をしている番頭を引っ張り出して、半七は彼を神田の自身番へ連れて行った。番頭はその死骸を見せられて、たしかにそれは自分の宿に三日まで泊まっていた甚右衛門という田舎客に相違ないと申し立てた。これで先ず死人の身許《みもと》は判ったが、かれが何者に連れ出されて、どうして殺されたかということは些《ち》っとも想像が付かなかった。
 半七が菊一へ詮議に行ったのは、雪達磨のとけている現場で南京玉を三つ四つ発見したからであった。近所の娘子供が落としたものか、あるいは死人の所持品かと、半七は自身番へ引っ返して死人の袂を丁寧にあらためると、袂の底からたった一と粒の南京玉が発見されたので、かれが南京玉の持主であったことは確かめられた。四十以上の田舎者らしい男が南京玉などを持っている筈がないから、おそらく何処かの子供にでもやるつもりで袂のなかに入れて置いたものであろうと半七は鑑定した。
 勿論その南京玉をどうして手に入れたのか、買ったのか貰ったのか、ちっとも見当は付かないのであるが、仮りに先ずそれを買ったものとして、半七はその買い先をかんがえた。もともと子供の玩具《おもちゃ》同様のものであるから、どこで買ったか殆ど雲をつかむような尋ね物であったが、田舎の人は詰まらないものを買うにも、とかく暖簾《のれん》の古い店をえらむ癖があるのを知っているので、かれは先ず馬喰町の近所で最も名高い小間物屋に眼をつけて、案外に安々とその手がかりを探り出すことが出来たのであった。
「ここまでは巧く運んだが、この先がむずかしい」と、彼は又しばらく考えていた。
「もうわたくしは引き取りましてもよろしゅうございましょうか」と、信濃屋の番頭はおずおず訊《き》いた。
「むむ、御苦労。もう用は済んだ」と、半七は云った。「いや、少し待ってくれ。まだ訊きてえことがある。一体この甚右衛門という男はなんの用で江戸へ来ていたのか、おまえ達はなんにも知らねえか」
「ふだんから寡口《むくち》な人で、わたくし共とも朝夕の挨拶をいたすほかには、なんにも口を利いたことがございませんので、どんな用のある人か一向に存じません」
「定宿《じょうやど》かえ」
「去年九月頃にも十日ほど逗留していたことがございまして、今度は二度目でございます」
「酒をのむかえ」と、半七は又訊いた。
「はい。飲むと申しても毎晩一合ずつときまって居りまして、ひどく酔っているような様子を見かけたこともございませんでした」
「誰かたずねて来ることはあったかえ」
「さあ、誰もたずねて来た人はないようです。朝は大抵五ツ(午前八時)頃に起きまして、午飯を食うといつでも何処へか出て行くようでございました」
「五ツ……」と半七は首をかしげた。「田舎の人にしては朝寝だな。そうして何時《なんどき》に帰ってくる」
「大抵夕六ツ(六時)頃には一度帰って来まして、夜食をたべると又すぐに出て行きますが、それでも四ツ(午後十時)すぎにはきっと帰りました。なんでも近所の寄席《よせ》でも聴きに行くような様子でしたが、確かなことは判りません」
「金は持っていたらしいかえ」
「宿へ初めて着きました時に、帳場に五両あずけまして、大晦日《おおみそか》には其の中から取ってくれと申しました。その残金はわたくし共の方に確かにあずかってございますが、自分のふところにはどのくらい持っていましたか、それはどうも判り兼ねます」
「外から帰ってくる時には、いつも手ぶらで帰ったかえ」
「いいえ、いつも何か風呂敷包みを重そうに提げていました。村への土産をいろいろと買いあつめているらしいと女中どもは申していましたが、どんなものを買って来るのか、ついぞ訊いて見たこともございませんでした」
「そうか。じゃあ、おめえの家《うち》へ行ってその座敷をあらためて見よう」
 半七は番頭をつれて、再び信濃屋へ引っ返した。番頭に案内されて、奥二階の六畳の座敷へはいると、そこには別に眼につく物もなかった。更に戸棚をあけてみると、いろいろの風呂敷に包んだものが細紐で十文字に固く縛られて、五つ六つ積みかさねてあった。その一と包みを念のために抽《ひ》き出すと、それは可なりの目方があって、なんだか小砂利《こじゃり》でも包んであるかのように感じられた。番頭立会いでその風呂敷を解いてみると、中からは麻袋や小切れにつつんだ南京玉がたくさんあらわれた。
「何だってこんなに南京玉を買いあつめたのでしょう」と、番頭も呆《あき》れていた。
 どの風呂敷包みからも南京玉が続々あらわれて来たので、半七もさすがにおどろいた。
「なんぼ土産にするといって、こんなに南京玉を買いあつめる奴もあるめえ。商売にする気なら、どこかの問屋から纒《まと》めて仕入れる筈だ。割の高いのを承知で、店々から小買いする筈はねえ。どうも判らねえな」
 うず高い南京玉を眼のまえに積んで、半七は腕をくんでいたが、やがて思わず口の中であっ[#「あっ」に傍点]と云った。

     三

「おい、番頭さん、まったく誰もこの男のところへ尋《たず》ねて来たことはねえかどうだか、もう一度よく考え出してくれねえか」と、半七は番頭に訊《き》いた。
「さあ、わたくしはどうも思い出せませんが、それでもわたくしの留守のあいだに誰か来たことがあるかも知れませんから、女中どもを一応調べてみましょう」
 番頭は下へ降りて行ったが、やがて引っ返して来て、去年の暮の二十八日に隣り町《ちょう》の豊吉という錺《かざり》職人が一度たずねて来たのを女中の一人が知っている。但しその時は甚右衛門は留守で、豊吉はそれぎり尋ねて来ないということを報告した。
「その豊吉というのはどんな人間だえ」
「以前は小博奕《こばくち》などを打って、あまり評判のよくない男でございました」と、番頭は説明した。
「しかし去年の春頃からすっかり堅くなりまして、商売の方も身を入れますので、この頃はふところ都合もよろしいようで、十一月には品川のお政という女郎をうけ出して、仲よく暮らして居ります」
「いくら品川でも女ひとりを請《う》け出すには纒まった金がいる。多寡《たか》が錺職人が半年や一年稼いでも、それだけの金が出来そうもねえ。なにか金主があるな」
「そうでございましょうか」
「金主はきっとこの甚右衛門だ。もう大抵判っている。しかしこのことは滅多《めった》に云っちゃあならねえぞ。この南京玉はおれが少し貰って行く」
 半七は一と掴みの南京玉を袂に入れて、信濃屋からすぐに隣り町の裏長屋をたずねると、錺職人の豊吉は眉のあとの青い女房と、長火鉢の前で葱鮪《ねぎま》の鍋を突っ付きながら酒をのんでいた。
「おい、錺屋の豊というのはお前か」
「そうでございます」と、豊吉はおとなしく答えた。
「少し用がある。そこまで来てくれ」
「どこへ行くんでございます」
 豊吉の眼はにわかに光った。
「まあ、なんでもいいから番屋まで来てくれ。すぐに帰してやるから」
「いけませんよ。親分」と、彼は早くも半七の身分を覚《さと》ったらしかった。「わたしは決して番屋へ連れて行かれるような覚えはありませんよ。何かのお間違いでしょう」
「強情だな。まあ素直に来いというのに……。ぐずぐずしていると為にならねえぞ」
「だって、親分。むやみにそんなことを云われちゃあ困ります。わたしはこれでも堅気《かたぎ》の職人でございます。なるほど、以前は御禁制の手なぐさみなんぞをやったこともありますが、今じゃあ双六の賽《さい》ころ[#「ころ」に傍点]だって、掴んだことはありません。まったく堅気になったんでございますから、どうかお目こぼしを願います」
「まあ、いいや、そんなことは出るところへ出て云うがいい。なにしろお前に用があるから呼びに来たんだ。おれが呼ぶんじゃねえ、これが呼ぶんだ」
 彼の眼の前へつかみ出したのは、かの南京玉であった。それを一と目みると、豊吉はもうなんにも云わないで、すぐに長火鉢の抽斗《ひきだし》をあけた。ふだんから忍ばせてある鰹節小刀をその抽斗から取り出して、彼はそれを逆手《さかて》に持って起ちあがろうとする時、半七のつかんでいる南京玉は、青も緑も白も一度にみだれて彼の真向《まっこう》へさっ[#「さっ」に傍点]と飛んで来た。
 眼つぶしを食って怯《ひる》むところへ、半七は透かさず飛び込んでその刃物をたたき落とした。葱鮪の鍋の引っくり返った灰神楽《はいかぐら》のなかで豊吉はもろくも縄にかかって、町内の自身番へ引っ立てられた。
「やい、豊。てめえ、手むかいをする以上はもう覚悟しているんだろう。正直に何もかも云ってしまえ。てめえは信濃屋に泊まっている甚右衛門とどうして近付きになった」と、半七はすぐに吟味にかかった。
「別に近付きというわけじゃありません。去年の暮に一度たずねて来て、なにか手文庫の錠前がこわれているから直してくれというので、宿屋に見に行きましたが、あいにく留守で、こっちも忙がしいのでそれぎり行きませんが、その甚右衛門がどうか致しましたか」
「白らばっくれるな。さっき南京玉を見たときに、てめえはどうして顔の色を変えた。さあ、有体《ありてい》に申し立てろ。手前なんで甚右衛門を殺した。ほかにも同類があるだろう、みんな云ってしまえ」
「でも親分。無理ですよ。なんで私が甚右衛門を……。今もいう通り、たった一度しか逢ったことのない男をなんで殺す筈があるんです。察してください」と、豊吉は飽くまでも抗弁した。
「まだそんなことを云うか。おれが無理か無理でねえか、南京玉に聴いてみろ」と、半七は睨み付けた。「てめえがいつまでも強情を張るなら、おれの方から云って聞かせる。あの甚右衛門という奴は正直な田舎者のように化けているが、あいつは確かに贋金《にせがね》遣いだ」
 豊吉の顔は藍のようになった。
「どうだ、図星だろう」と、半七がたたみかけて云った。「あいつが南京玉を買いあつめているのは贋金の金に使うつもりだ。あいつらのこしらえる贋金の地金は、貧乏徳利の欠片《かけら》を細かに摺《す》り潰《つぶ》して使うんだが、それがこの頃はだんだん上手になって、小さい南京玉をぶっ掻いて地金にするということを俺はかねて聴いている。それも一軒の店で一度にたくさん買い込むと人の眼につくので、田舎者の振りをして方々の店から少しずつ買いあつめていたのに相違ねえ。てめえは錺屋だ。あの甚右衛門とぐる[#「ぐる」に傍点]になって、贋金をこしらえる手伝いをしたろう。どうだ、これでもまだ白《しら》を切るか」
 豊吉はまだ黙っていた。
「まだ云って聞かせることがある」と、半七はあざ笑いながら云いつづけた。「てめえはいい女房を持っているな。あの女は幾らで品川から連れてきた。その金はどこで都合して来た。てめえ達が一年や半年、夜の目も寝ずに稼いだって、女郎なんぞを請け出して来るほどの金はできねえ筈だ。その金はみんな甚右衛門から出ているんだろう」
 ここまで問いつめられても、豊吉はまだ強情に口をあかないので、彼をひと先ず番屋につないで置いて、半七は更にその女房をよび出して、彼の家へふだん近しく出入りするものを調べた。その結果、おなじ職人の源次と勝五郎、四谷の酒屋|播磨《はりま》屋伝兵衛、青山の下駄屋石坂屋由兵衛、神田の鉄物《かなもの》屋近江屋九郎右衛門、麻布の米屋千倉屋長十郎の六人を召し捕って、一々厳重に吟味すると、果たして彼等一同共謀の贋金つかいであることが明白になった。
 雪達磨の底にうずめられていた甚右衛門は、上州太田在の生まれであるが、今は一定の住所もないのである。
 かれらが南京玉を原料として作りあげた贋金は専《もっぱ》ら一分金と二分金とで、それを江戸でばかり遣っていると発覚の早いおそれがあるので、甚右衛門は田舎者に化けて、旅から旅を渡りあるいて、巧みにそれを遣っていたのであった。
 それにしても甚右衛門を誰が殺したのか、それはまだ判らなかった。

     四

 贋金つかいは江戸時代の法として磔刑《はりつけ》の重罪である。かれら一同はどうで助からない命であるから、誰が甚右衛門を殺そうとも所詮は同じ罪であるものの、ともかくもその事情を明白にしておく必要があるので、一同は更にきびしい吟味をうけた。そうして、かれら七人のなかで雪達磨の一件に直接関係のあるのは、かの錺《かざり》職の豊吉と源次と、近江屋九郎右衛門と石坂屋由兵衛との四人であることが判った。
 豊吉が品川から連れてきたお政という女は、もう年明《ねんあ》け前でもあったが、それでも何やかやで三十両ばかりの金がいるので、豊吉は抱え主にたのんで先ず半金の十五両を入れて、女を自分の方へ引き取ることにした。のこる半金の十五両は去年の大晦日までに渡す約束であったが、とてもその工面《くめん》は付かないので、彼は同類の甚右衛門にたのんだが、甚右衛門は素直に承知しなかった。
「おれのところへそんな事を云って来るのは間違っている。神田の近江屋か石坂屋へ行け」と、かれは情《すげ》なく跳ねつけた。
 しかし近江屋へは今までたびたび無心に行っているので、豊吉もさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。よんどころなく品川の方へは泣きを入れて、七草の過ぎるまで待って貰うことにしたが、豊吉自身の手では正月早々にその工面のつく筈はないので、かれは大雪の小降りになるのを待って、三日ひるすぎに再び甚右衛門の宿へ訪ねてゆくと、町内の角であたかも彼の帰ってくるのに出逢った。豊吉はよんどころない事情を訴えて、かさねて金の無心をたのむと、甚右衛門はやはり承知しなかった。それでも豊吉が執拗《しつこ》く口説くので、甚右衛門も持て余したらしく、そんなら神田の近江屋へ行っておれが一緒に頼んでやろうということになって、二人は雪のなかを神田の鉄物屋まで出向いて行った。
 近江屋には同類の石坂屋由兵衛と錺職の源次とが年始に来ていた。丁度いいところだと奥へ通されて、日の暮れるまで五人が酒をのんでいるうちに、甚右衛門は豊吉にたのまれた十五両のことを云い出すと、九郎右衛門も由兵衛もいやな顔をした。そして、そのくらいの金は甚右衛門が用立てるのが当然だと云った。この仕事については甚右衛門がふだんから一番余計に儲けているという不平話も出た。なにしろみんな酔っているので、ふた言三言の云い争いからあわや腕ずくになろうとする一刹那に、どうしたのか甚右衛門はうん[#「うん」に傍点]と唸ったままで倒れてしまった。四人もさすがにおどろいて介抱したが、もう蘇《い》きなかった。
「さあ、どうしよう」
 四人は顔を見あわせた。頓死として正直にとどけて出れば論はないのであるが、彼等には何分にもうしろ暗いことがあるので、甚右衛門の死をなるべくは秘密に付してしまいたいと思った。四人は夜のふけるまで甚右衛門の死骸をそこに横たえて置いて、店の者の手前は正体なく酔っている彼を介抱して帰るように見せかけて、豊吉と源次はその死骸を肩にかけて出た。由兵衛も附き添って出た。主人の九郎右衛門もなんだか不安なので、これもそこらまで送ってゆく振りをして後から出て行った。
 大雪の夜は更《ふ》けて、町には往来の絶えているのが彼等のためには仕合わせであった。四人は三、四町ほども死骸をはこび出して、堀端の火除け地に捨てようとしたが、なるべく一日でも後《おく》れて人の眼につくことを考えて、かれらは協力してそこに大きな雪達磨を作った。そうして、甚右衛門の死骸をその底へ深く埋めて置いた。いっそ往来へ投げ出して置いたらば、凍死か行き倒れで済んだかも知れなかったのであったが、かれらの浅はかな知恵が却《かえ》っておのれに禍いして、思いもよらない悪事発覚の端緒を開いたのであった。
 勿論、かれらは甚右衛門のふところや袂から証拠となるような品々をことごとく取り出してしまった。菊一で買った南京玉も無論取り出したのであったが、心が慌てているので其の幾粒かをこぼしたらしい。そうして、その南京玉が彼等を当然の運命に導いたのであった。
 贋金つかいの商人《あきんど》四人と共謀の錺職三人がすべて法のごとくに処刑されたのは云うまでもない。先に死んで刑戮《けいりく》をまぬかれた幸運の甚右衛門は、専ら旅先で贋金をつかっていたのであるが、他の商人四人は江戸市中で巧みに使用したことを白状した。
 しかしその総高はまだ千両に上《のぼ》らなかった。



底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
   1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
   1997(平成9)年5月15日11刷発行
※旺文社文庫版を元に入力し、光文社文庫版に合わせて校正した。この過程で確認した、両者の相違を示す。
・なんぼ土産にするといって[#旺文社文庫版「なんぼ土産にするとかって」]
入力:網迫
校正:おのしげひこ
2000年7月6日公開
2004年2月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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