青空文庫アーカイブ

中国怪奇小説集
閲微草堂筆記(清)
岡本綺堂

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)観奕道人《かんえきどうじん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一朝一|夕《せき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「日+均のつくり」、第3水準1-85-12]
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 第十五の男は語る。
「わたくしは最後に『閲微草堂筆記』を受持つことになりましたが、これは前の『子不語』にまさる大物で、作者は観奕道人《かんえきどうじん》と署名してありますが、実は清《しん》の紀※[#「日+均のつくり」、第3水準1-85-12]《きいん》であります。紀※[#「日+均のつくり」、第3水準1-85-12]は号を暁嵐《ぎょうらん》といい、乾隆《けんりゅう》時代の進士《しんし》で、協弁大学士に進み、官選の四庫全書を作る時には編集総裁に挙げられ、学者として、詩人として知られて居ります。死して文達公と諡《おくりな》されましたので、普通に紀文達とも申します。
 この著作は一度に脱稿したものではなく、最初に『※[#「さんずい+欒」、第3水準1-87-35]陽鎖夏録《らんようしょうかろく》』六巻を編み、次に『如是我聞《にょぜがもん》』四巻、次に『槐西雑誌《かいせいざっし》』四巻、次に『姑妄聴之《こもうちょうし》』四巻、次に『※[#「さんずい+欒」、第3水準1-87-35]陽続録《らんようぞくろく》』六巻を編み、あわせて二十四巻に及んだものを集成して、『閲微草堂筆記』の名を冠《かぶ》らせたのでありまして、実に一千二百八十二種の奇事異聞を蒐録《しゅうろく》してあるのですから、とても一朝一|夕《せき》に説き尽くされるわけのものではありません。もしその全貌を知ろうとおぼしめす方は、どうぞ原本に就いてゆるゆる御閲読をねがいます」

   落雷裁判

 清《しん》の雍正《ようせい》十年六月の夜に大雷雨がおこって、献《けん》県の県城の西にある某村では、村民なにがしが落雷に撃たれて死んだ。
 明《めい》という県令が出張して、その死体を検視したが、それから半月の後、突然ある者を捕えて訊問した。
「おまえは何のために火薬を買ったのだ」
「鳥を捕るためでございます」
「雀ぐらいを撃つ弾薬《たまぐすり》ならば幾らもいる筈はない。おまえは何で二、三十|斤《きん》の火薬を買ったのだ」
「一度に買い込んで、貯えて置こうと思ったのでございます」
「おまえは火薬を買ってから、まだひと月にもならない。多く費したとしても、一斤か二斤に過ぎない筈だが、残りの薬はどこに貯えてある」
 これには彼も行き詰まって、とうとう白状した。彼はかの村民の妻と姦通していて、妻と共謀の末にその夫を爆殺し、あたかも落雷で震死したようによそおったのであった。その裁判落着の後、ある人が県令に訊いた。
「あなたはどうしてあの男に眼を着けられたのですか」
「火薬を爆発させて雷《らい》と見せるには、どうしても数十斤を要する。殊に合薬《ごうやく》として硫黄《いおう》を用いなければならない。今は暑中で爆竹などを放つ時節でないから、硫黄のたぐいを買う人間は極めてすくない。わたしはひそかに人をやって、この町でたくさんの硫黄を買った者を調べさせると、その買い手はすぐに判った。更にその買い手を調べさせると、村民のなにがしに売ったという。それで彼が犯人であると判ったのだ」
「それにしても、当夜の雷がこしらえ物であるということがどうして判りました」
「雷が人を撃つ場合は、言うまでもなく上から下へ落ちる。家屋を撃ちこわす場合は、家根《やね》を打ち破るばかりで、地を傷めないのが普通である。然るに今度の落雷の現場を取調べると、草葺き家根が上にむかって飛んでいるばかりか、土間の地面が引きめくったように剥《は》がれている。それが不審の第一である。又その現場は城を距《さ》ること僅か五、六里で、雷電もほぼ同じかるべき筈であるが、当夜の雷はかなり迅烈であったとはいえ、みな空中をとどろき渡っているばかりで、落雷した様子はなかった。それらを綜合して、わたしはそれを地上の偽雷と認めたのである」
 人は県令の明察に服した。

   鄭成功と異僧

 鄭成功《ていせいこう》が台湾に拠《よ》るとき、粤東《えつとう》の地方から一人の異僧が海を渡って来た。かれは剣術と拳法に精達しているばかりか、肌をぬいで端坐していると、刃で撃っても切ることが出来ず、堅きこと鉄石の如くであった。彼はまた軍法にも通じていて、兵を談ずることすこぶるその要を得ていた。
 鄭成功は努《つと》めて四方の豪傑を招いている際であったので、礼を厚うして彼を※[#「疑のへん+欠」、第3水準1-86-31]待《かんたい》したが、日を経るにしたがって彼はだんだんに増長して、傲慢無礼《ごうまんぶれい》の振舞いがたびかさなるので、鄭成功もしまいには堪えられなくなって来た。且《かつ》かれは清国の間牒《かんちょう》であるという疑いも生じて来たので、いっそ彼を殺してしまおうと思ったが、前にもいう通り、彼は武芸に達している上に、一種の不死身《ふじみ》のような妖僧であるので、迂闊に手を出すことを躊躇《ちゅうちょ》していると、その大将の劉国軒《りゅうこくけん》が言った。
「よろしい。その役目はわたくしが勤めましょう」
 劉はかの僧をたずねて、冗談のように話しかけた。
「あなたのような生き仏は、色情のことはなんにもお考えになりますまいな」
「久しく修業を積んでいますから、心は地に落ちたる絮《わた》の如くでござる」と、僧は答えた。
 劉はいよいよ戯《たわむ》れるように言った。
「それでは、ここであなたの道心を試みて、いよいよ諸人の信仰を高めさせて見たいものです」
 そこで美しい遊女や、男色《なんしょく》を売る少年や、十人あまりを択《え》りあつめて、僧のまわりに茵《しとね》をしき、枕をならべさせて、その淫楽をほしいままにさせると、僧は眉をも動かさず、かたわらに人なきがごとくに談笑自若としていたが、時を経るにつれて眼をそむけて、遂にその眼をまったく瞑《と》じた。
 その隙《すき》をみて、劉は剣をぬいたかと思うと、僧の首はころりと床に落ちた。

   鬼影

 泉《せん》州の人が或る夜、ともしびの前で自分の影をみかえると、壁に映っているのは自分の形でなかった。
 不思議に思ってよく視ると、大きい首に長い髪が乱れかかって、手足は鳥の爪のように曲がって尖っている。その影はたしかに一種の鬼であった。しかも、その怪しい影は自分の形に伴っていて、自分の動く通りに動いているのである。大いにおどろいて家内の者を呼びあつめると、その影は誰の眼にも怪しく見えるのであった。
 それが毎晩つづくので、その人も怖ろしくなった。家内の者もみな懼《おそ》れた。しかしその子細は判らないので、唯いたずらに憂い懼れていると、となりに住んでいる塾の先生が言った。
「すべての妖はみずから興《おこ》るのでなく、人に因って興るのである。あなたは人に知られない悪念を懐《いだ》いているので、その心の影が羅刹《らせつ》となって現われるのではあるまいか」
 その人は慄然《りつぜん》として、先生の前に懴悔《ざんげ》した。
「実はわたくしは或る人に恨みを含んでいるので、近いうちにその一家をみな殺しにして、ここを逃げ去って、賊徒の群れに投じようかと考えていたところでした。今のお話でわたくしも怖ろしくなりました。そんな企ては断然やめます」
 その晩から彼の影は元の形に復《かえ》った。

   茉莉花

 ※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]中《みんちゅう》の或る人の娘はまだ嫁入りをしないうちに死んだ。それを葬ること式《かた》のごとくであった。
 それから一年ほど過ぎた後、その親戚の者がとなりの県で、彼女とおなじ女を見た。その顔かたちから声音《こわね》までが余りによく肖《に》ているので、不意にその幼な名を呼びかけると、彼女は思わず振り返ったが、又もや足を早めて立ち去った。
 親戚は郷里へ帰ってそれを報告したので、両親も怪しんで娘の塚をあけてみると、果たして棺のなかは空《から》になっていた。そこで、そのありかを尋《たず》ねてゆくと、女は両親を識らないと言い張っていたが、その腋《わき》の下に大きい痣《あざ》があるのが証拠となって、彼女はとうとう恐れ入った。その相手の男をたずねると、もうどこへか姿をかくしていた。
 だんだんその事情を取調べると、※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]中には茉莉花《まつりか》を飲めば仮死するという伝説がある。茉莉花の根を磨《す》って、酒にまぜ合わせて飲むのである。根の長さ一寸を用ゆれば、仮死すること一日にして蘇生する。六、七寸を用ゆれば、仮死すること数日にしてなお蘇生することが出来る。七寸以上を用ゆれば、本当に死んでしまうのである。かの娘はすでに約束の婿がありながら、他の男と情を通じたので、男と相談の上で茉莉花を用い、そら死にをして一旦《いったん》葬られた後に、男が棺をあばいて連れ出したものであることが判った。男もやがて捕われたが、その申し立ては娘と同様であった。
 ※[#「門<虫」、第3水準1-93-49]の県官|呉林塘《ごりんとう》という人がそれを裁判したが、棺をあばいた罪に照らそうとすれば、その人は死んでいないのである。薬剤をもって子女を惑わしたという罪に問おうとすれば、娘も最初から共謀である。さりとて、財物を奪ったとか、拐引《かどわかし》を働いたとかいうのでもない。結局、その娘も男も姦通《かんつう》の罪に処せられることになった。

   仏陀の示現

 景城《けいじょう》の南に古寺があった。あたりに人家もなく、その寺に住職と二人の徒弟《とてい》が住んでいたが、いずれもぼんやりした者どもで、わずかに仏前に香火を供うるのほかには能がないように見られた。
 しかも彼等はなかなかの曲者《くせもの》で、ひそかに松脂《まつやに》を買って来て、それを粉にして練りあわせ、紙にまいて火をつけて、夜ちゅうに高く飛ばせると、その火のひかりは四方を照らした。それを望んで村民が駈けつけると、住職も徒弟も戸を閉じて熟睡していて、なんにも知らないというのである。
 又あるときは、戯場《しばい》で用いる仏衣を買って来て、菩薩や羅漢の形をよそおい、月の明るい夜に家根の上に立ったり、樹の蔭にたたずんだりする事もある。それを望んで駈け付けると、やはりなんにも知らないというのである。或る者がその話をすると、住職らは合掌して答えた。
「飛んでもないことを仰しゃるな。み仏は遠い西の空にござる。なんでこんな田舎の破寺《やれでら》に示現《じげん》なされましょうぞ。お上《かみ》ではただいま白蓮教《びゃくれんきょう》をきびしく禁じていられます。そんな噂がきこえると、われわれもその邪教をおこなう者と見なされて、どんなお咎《とが》めを蒙《こうむ》るかも知れません。お前方もわれわれに恨みがある訳でもござるまいに、そんなことを無暗に言い触らして、われわれに迷惑をかけて下さるな」
 いかにも殊勝な申し分であるので、諸人はいよいよ仏陀の示現と信じるようになって、檀家の布施《ふせ》や寄進《きしん》が日ましに多くなった。それに付けても、寺があまりに荒れ朽ちているので、その修繕を勧める者があると、僧らは、一本の柱、一枚の瓦を換えることをも承知しなかった。
「ここらの人はとかくにあらぬことを言い触らす癖があって、後光《ごこう》がさしたの、菩薩があらわれたのと言う。その矢さきに堂塔などを荘厳《そうごん》にいたしたら、それに就いて又もや何を言い出すか判らない。どなたが寄進して下さるといっても、寺の修繕などはお断わり申します」
 こういうふうであるから、諸人の信仰はいや増すばかりで、僧らは十余年のあいだに大いなる富を作ったが、又それを知っている賊徒があって、ある夜この寺を襲って師弟三人を殺し、貯蓄の財貨をことごとく掠《かす》めて去った。役人が来て検視の際に、古い箱のなかから戯場《しばい》の衣裳や松脂の粉を発見して、ここに初めてかれらの巧みが露顕したのであった。
 これは明《みん》の崇禎《すうてい》の末年のことである。

   強盗

 斉大《せいだい》は献県の地方を横行する強盗であった。
 あるとき味方の者を大勢《おおぜい》連れて或る家へ押し込むと、その家の娘が美婦《びふ》であるので、賊徒は逼《せま》ってこれを汚《けが》そうとしたが、女がなかなか応じないので、かれらは女をうしろ手にくくりあげた。そのとき斉大は家根に登って、近所の者や捕手の来るのを見張っていたが、女の泣き叫ぶ声を聞きつけて、降りて来てみるとこの体《てい》たらくである。彼は刃をぬいてその場に跳《おど》り込んだ。
「貴様らは何でそんなことをする。こうなれば、おれが相手だぞ」
 餓えたる虎のごとき眼を晃《ひか》らせて、彼はあたりを睨みまわしたので、賊徒は恐れて手を引いて、女の節操は幸いに救われた。
 その後に、この賊徒の一群はみな捕えられたが、ただその頭領の斉大だけは不思議に逃がれた。賊徒の申し立てによれば、逮捕の当時、斉大はまぐさ桶《おけ》の下に隠れていたというのであるが、捕手らの眼にはそれが見えなかった。まぐさ桶の下には古い竹束が転がっていただけであった。

   張福の遺書

 張福《ちょうふく》は杜林鎮《とりんちん》の人で、荷物の運搬を業としていた。ある日、途中で村の豪家の主人に出逢ったが、たがいに路を譲らないために喧嘩をはじめて、豪家の主人は従僕に指図して張を石橋の下へ突き落した。あたかも川の氷が固くなって、その稜《かど》は刃のように尖っていたので、張はあたまを撃ち割られて半死半生になった。
 村役人は平生からその豪家を憎んでいたので、すぐに官《かん》に訴えた。官の役人も相手が豪家であるから、この際いじめつけてやろうというので、その詮議が甚だ厳重になった。そのときに重態の張はひそかに母を豪家へつかわして、こう言わせた。
「わたしの代りにあなたの命を取っても仕方がありません。わたしの亡い後に、老母や幼な児の世話をして下さるというならば、わたしは自分の粗相《そそう》で滑り落ちたと申し立てます」
 豪家では無論に承知した。張はどうにか文字の書ける男であるので、その通りに書き残して死んだ。何分にも本人自身の書置きがあって、豪家の無罪は証明されているのであるから、役人たちもどうすることも出来ないで、この一件は無事に落着《らくぢゃく》した。
 張の死んだ後、豪家も最初は約束を守っていたが、だんだんにそれを怠るようになったので、張の老母は怨み憤って官に訴えたが、張が自筆の生き証拠がある以上、今更この事件の審議をくつがえす事は出来なかった。
 しかもその豪家の主人は、ある夜、酒に酔ってかの川べりを通ると、馬がにわかに駭《おどろ》いたために川のなかへ転げ落ちて、あたかも張とおなじ場所で死んだ。
 知る者はみな張に背いた報いであると言った。世の訴訟事件には往々《おうおう》こうした秘密がある。獄を断ずる者は深く考えなければならない。

   飛天夜叉

 烏魯木斉《ウロボクセイ》は新疆《しんきょう》の一地方で、甚だ未開|辺僻《へんぺき》の地である(筆者、紀暁嵐は曾《かつ》てこの地にあったので、烏魯木斉地方の出来事をたくさんに書いている)。その把総《はそう》(軍官で、陸軍|少尉《しょうい》の如きものである)を勤めている蔡良棟《さいりょうとう》が話した。
 この地方が初めて平定した時、四方を巡回して南山の深いところへ分け入ると、日もようやく暮れかかって来た。見ると、渓《たに》を隔てた向う岸に人の影がある。もしや瑪哈沁《ひょうはしん》(この地方でいう追剥《おいは》ぎである)ではないかと疑って、草むらに身をひそめて窺うと、一人の軍装をした男が磐石の上に坐って、そのそばには相貌|獰悪《どうあく》の従卒が数人控えている。なにか言っているらしいが、遠いのでよく聴き取れない。
 やがて一人の従卒に指図して、石の洞《ほら》から六人の女をひき出して来た。女はみな色の白い、美しい者ばかりで、身にはいろいろの色彩《いろどり》のある美服を着けていたが、いずれも後ろ手にくくり上げられて恐るおそるに頭《かしら》を垂れてひざまずくと、石上の男はかれらを一人ずつ自分の前に召し出して、下衣《したぎ》を剥《ぬ》がせて地にひき伏せ、鞭《むち》をあげて打ち据えるのである。打てば血が流れ、その哀号《あいごう》の声はあたりの森に木谺《こだま》して、凄惨実に譬《たと》えようもなかった。
 その折檻が終ると、男は従卒と共にどこへか立ち去った。女どもはそれを見送り果てて、いずれも泣く泣く元の洞へ帰って行った。男は何者であるか、女は何者であるか、もとより判らない。一行のうちに弓をよく引く者があったので、向う岸の立ち木にむかって二本の矢を射込んで帰った。
 あくる日、廻り路をして向う岸へ行き着いて、きのうの矢を目じるしに捜索すると、石の洞門は塵《ちり》に封じられていた。松明《たいまつ》をとって進み入ると、深さ四丈ばかりで行き止まりになってしまって、他には抜け路もないらしく、結局なんの獲《う》るところもなしに引き揚げて来た。
 蔡はこの話をして、自分が烏魯木斉にあるあいだに目撃した奇怪の事件は、これをもって第一とすると言った。わたしにも判らないが、太平広記に、天人が飛天夜叉《ひてんやしゃ》を捕えて成敗する話が載せてある。飛天夜叉は美女である。蔡の見たのも或いはこの夜叉のたぐいであるかも知れない。

   喇嘛教

 喇嘛教《らまきょう》には二種あって、一を黄教といい、他を紅教といい、その衣服をもって区別するのである。黄教は道徳を講じ、因果を明らかにし、かの禅家《ぜんけ》と派を異《こと》にして源を同じゅうするものである。
 但し紅教は幻術《げんじゅつ》を巧みにするものである。理藩院《りはんいん》の尚書を勤める留《りゅう》という人が曾て西蔵《ちべっと》に駐在しているときに、何かの事で一人の紅教喇嘛に恨まれた。そこで、或る人が注意した。
「彼は復讐をするかも知れません。山登りのときには御用心なさい」
 留は山へ登るとき、輿や行列をさきにして、自分は馬に乗って後から行くと、果たして山の半腹に至った頃に、前列の馬が俄かに狂い立って、輿をめちゃめちゃに踏みこわした。輿は無論に空《から》であった。
 また、烏魯木斉に従軍の当時、軍士のうちで馬を失った者があった。一人の紅教喇嘛が小さい木の腰掛けをとって、なにか暫く呪文を唱えていると、腰掛けは自然にころころと転がり始めたので、その行くさきを追ってゆくと、ある谷間《たにあい》へ行き着いて、果たしてそこにかの馬を発見した。これは著者が親しく目撃したことである。
 案ずるに、西域《せいいき》に刀を呑み、火を呑むたぐいの幻術を善くする者あることは、前漢時代の記録にも見えている。これも恐らくそれらの遺術を相伝したもので、仏氏の正法《しょうほう》ではない。それであるから、黄教の者は紅教徒を称して、あるいは魔といい、あるいは波羅門《ばらもん》という。すなわち仏経にいわゆる邪魔外道《じゃまげどう》である。けだし、そのたぐいであろう。

   滴血

 晋《しん》の人でその資産を弟に托《たく》して、久しく他郷《たきょう》に出商いをしている者があった。旅さきで妻を娶《めと》って一人の子を儲けたが、十年あまりの後に妻が病死したので、その子を連れて故郷へ帰って来た。
 兄が子を連れて帰った以上、弟はその資産をその子に譲り渡さなければならないので、その子は兄の実子でなく、旅さきの妻が他人の種を宿して生んだものであるから、異姓の子に資産を譲ることは出来ないと主張した。それが一種の口実《こうじつ》であることは大抵想像されているものの、何分にも旅さきの事といい、その妻ももう此の世にはいないので、事実の真偽を確かめるのがむずかしく、たがいに捫着《もんちゃく》をかさねた末に、官へ訴えて出ることになった。
 官の力で調査したらば、弟の申し立てが嘘か本当かを知ることが出来たかも知れないが、役人らはいたずらに古法を守って、滴血《てきけつ》をおこなうことにした。兄の血と、その子の血とを一つ器《うつわ》にそそぎ入れて、それが一つに融け合うかどうかを試したのである。幸いにその血が一つに合ったので、裁判は直ちに兄側の勝訴となって、弟は笞《むちう》って放逐するという宣告を受けた。
 しかし弟は、滴血などという古風の裁判を信じないと言った。彼は自分にも一人の子があるので、試みにその血をそそいでみると、かれらの血は一つに合わなかった。彼はそれを証拠にして、現在、父子《おやこ》すらもその血が一つに合わないのであるから、滴血などをもって裁判をくだされては甚だ迷惑であると、逆捻《さかね》じに上訴した。彼としては相当の理屈もあったのであろうが、不幸にして彼は周囲の人びとから憎まれていた。
「あの父子の血が一つに寄らないのは当り前だ。あの男の女房は、ほかの男と姦通しているのだ」
 この噂が官にきこえて、その妻を拘引して吟味すると、果たしてそれが事実であったので、弟は面目を失って、妻を捨て、子を捨てて、どこへか夜逃げをしてしまった。その資産はとどこおりなく兄に引き渡された。
 由来、滴血のことは遠い漢代から伝えられているが、経験ある老吏について著者の聞いたところに拠ると、親身の者の血が一つに合うのは事実である。しかし冬の寒い時に、その器《うつわ》を冷やして血をそそぐか、あるいは夏の暑いときに、塩と酢をもってその器を拭いた上で血をそそぐと、いずれもその血が別々に凝結して一つに寄り合わない。そういう特殊の場合がいろいろあるから、迂闊に滴血などを信ずるのは危険であると、彼は説明した。
 成程そうであろうと思われる。しかしこの場合、もし滴血をおこなわなければ、弟はおそらく上訴しなかったであろう。弟が上訴しなければ、その妻の陰事《いんじ》は摘発されなかったであろう。妻の陰事が露顕しなければ、この裁判はいつまでも落着《らくぢゃく》しなかったであろう。こうなると、あながちに役人の不用意を咎めるわけにも行かない。そのあいだには何か自然の約束があるようにも思われるではないか。

   不思議な顔

 蒙陰《もういん》の劉生《りゅうせい》がある時その従弟《いとこ》の家に泊まった。いろいろの話の末に、この頃この家には一種の怪物があらわれる。出没常ならず、どこに潜んでいるか判らないが、暗闇で出逢うと人を突き仆《たお》すのである。そのからだの堅きこと鉄石のごとくであると、家内の者が語った。
 劉は猟《かり》を好んで、常に鉄砲を持ちあるいているので、それを聞いて笑った。
「よろしい。その怪物が出て来たらば、この鉄砲で防ぎます」
 書斎は三間になっているので、彼はその東の室《へや》で寝ることにした。燈火《ともしび》にむかって独りで坐っていると、西の室から何者か現われて立った。その五体は人の如くであるが、その顔が頗る不思議で、眼と眉とのあいだは二寸ぐらいも距《はな》れているにも拘らず、鼻と口とはほとんど一つに付いているばかりか、その位置も妙に曲がっていた。顔の輪郭もまたゆがんでいる。よく見ると、不思議というよりも頗る滑稽な顔ではあるが、なにしろ一種の怪物には相違ないと見て、劉はすぐに鉄砲をとって窺うと、かれは慌てて室内へ退いて、扉のあいだから半面を出して窺っているのである。
 劉が鉄砲をおろすと、彼はそろそろ出かかる。劉がふたたび鉄砲をむけると、彼はまた隠れる。そんなことを幾たびも繰り返しているうちに、彼はたちまち顔の全面をあらわして、舌を吐き、手を振って、劉を嘲《あざけ》るかのようにも見えたので、急に一発を射撃すると、弾《たま》は扉にあたって怪物の姿は隠れた。
 劉は窓格子のあいだに鉄砲を伏せて、再びその現われるのを待っていると、彼はふたたび出て来て弾にあたった。その仆《たお》るる時、あたかも家根瓦の落ちて砕けるような響きを発したのである。近寄ってみると、それは毀《こわ》れた甕《かめ》の破片であった。
 更にあらためると、怪物の正体はこの家にある古い甕であることが判った。
 それが不思議な顔をしていたのは、小児《こども》がその甕のおもてへいたずら書きをしたのである。小児が手あたり次第に書いたのであるから、人間の顔がおかしくゆがんで、眼も鼻も勿論ととのっていない。それでも人間の顔を具《そな》えたために、こんな怪をなすようになったのかも知れないというのであった。

   顔良の祠

 呂城は呉の呂蒙《りょもう》の築いたものである。河をはさんで、両岸に二つの祠《やしろ》がある。
 その一つは唐の名将|郭子儀《かくしぎ》の祠である。郭子儀がどうしてこんな所に祀られているのか判らない。他の一つは三国時代の袁紹《えんしょう》の部将の顔良《がんりょう》を祀ったもので、これもその由来は想像しかねるが、土地の者が祷《いの》るとすこぶる霊験があるというので、甚だ信仰されている。
 それがために、その周囲十五里のあいだには関帝廟《かんていびょう》(関羽を祀る廟)を置くことを許さない。顔良は関羽《かんう》に殺されたからである。もし関帝廟を置けば必ず禍いがあると伝えられている。ある時、その土地の県令がそれを信じないで、顔良の祠の祭りのときに自分も参詣し、わざと俳優に三国志の演劇《しばい》を演じさせると、たちまちに狂風どっと吹きよせて、演劇の仮小屋の家根も舞台も宙にまき上げて投げ落したので、俳優のうちには死人も出来た。
 そればかりでなく、十五里の区域内には疫病が大いに流行して、人畜の死する者おびただしく、かの県令も病いにかかって危うく死にかかったというのである。
 およそ戦いに負けたといって、一々その敵を怨むことになっては、古来の名将勇士は何千人に祟《たた》られるか判らない。顔良の輩が千年の後までも関羽に祟るなど、決して有り得べきことではない。これは祠に仕える巫女《みこ》のやからが何かのことを言い触らし、愚民がそれを信ずる虚に乗じて、他の山妖水怪のたぐいが入り込んで、みだりに禍福をほしいままにするのであろう。

   繍鸞

 父の先妻の張夫人に繍鸞《しゅうらん》という侍女《こしもと》があった。
 ある月夜に、夫人が堂の階段《きざはし》に立って繍鸞を呼ぶと、東西の廊下から同じ女が出て来た。顔かたちから着物は勿論、右の襟の角の反れているのから、左の袖を半分捲いているのまで、すべて寸分も違わないので、夫人はおどろいて殆んど仆れそうになった。やがて気を鎮めてよく視ると、繍鸞の姿はいつか一人になっていた。
「お前はどっちから来ました」
「西のお廊下から参りました」
「東の廊下から来た人を見ましたか」
「いいえ」
 これは七月のことで、その十一月に夫人は世を去った。彼女の寿命がまさに尽きんとするので、妖怪が姿を現わすようになったのかとも思われる。

   牛寃《ぎゅうえん》

 姚安公《ちょうあんこう》が刑部に勤めている時、徳勝門外に七人組の強盗があって、その五人は逮捕されたが、王五《おうご》と金大牙《きんたいが》の二人はまだ縛《ばく》に就かなかった。
 王五は逃れて※[#「さんずい+敦」、第3水準1-87-12]《かく》県にゆくと、路は狭く、溝は深く、わずかに一人が通られるだけの小さい橋が架けられていた。その橋のまんなかに逞ましい牛が眼を怒らせて伏していて、近づけば角《つの》を振り立てる。王はよんどころなく引っ返して、路をかえて行こうとする時、あたかも邏卒《らそつ》が来合わせて捕えられた。
 一方の金大牙は清河橋《せいがきょう》の北へ落ちてゆくと、牧童が二頭の牛を追って来て、金に突き当って泥のなかへ転がしたので、彼は怒ってその牧童と喧嘩をはじめた。ここは都に近い所で、金を見識っている者が土地の役人に訴えた為に、彼もまた縛られた。
 王も金も回部の民で、みな屠牛《とぎゅう》を業としている者である。それが牛のために失敗したのも因縁《いんねん》であろう。

   鳥を投げる男

 雍正《ようせい》の末年である。東光《とうこう》城内で或る夜、家々の犬が一斉に吠えはじめた。その声は潮《うしお》の湧くが如くである。
 人びとはみな驚いて出て見ると、月光のもとに怪しい男がある。彼は髪を乱して腰に垂れ、麻の帯をしめて蓑《みの》を着て、手に大きい袋を持っていた。袋のなかにはたくさんの鵝鳥《がちょう》や鴨の鳴き声がきこえた。彼は人家の家根の上に暫く突っ立っていて、やがて又、別の家の屋根へ移って行った。
 明くる朝になって見ると、彼が立っていた所には、二、三羽の鵝鳥や鴨が檐下《のきした》に投げ落されていた。それを煮て食った者もあったが、その味は普通の鳥と変ったこともなかった。その当座はいかなる不思議か判らなかった。
 然るにその鳥を得た家には、みな葬式が出ることになった。いわゆる凶※[#「煮」の「者」に代えて「(急-心)+攵」、第4水準2-79-86]《きょうさつ》が出現したのである。わたしの親戚の馬《ば》という家でも、その夜二羽の鴨を得たが、その歳に弟が死んだ。思うに、昔から喪に逢うものは無数である。しかもその夜にかぎって、特に凶兆を示したのはなんの訳か。そうして、その兆を示すために、鵝鴨《がおう》のたぐいを投げたのはなんの訳か。
 鬼神の所為《しょい》は凡人の知り得る事あり、知り得ざる事あり、ただその事実を録するのみで、議論の限りでない。

   節婦

 任士田《にんしでん》という人が話した。その郷里で、ある人が月夜に路を行くと、墓道の松や柏のあいだに二人が並び坐しているのを見た。
 ひとりは十六、七歳の可愛らしい男であった。他の女は白い髪を長く垂れ、腰をかがめて杖を持って、もう七、八十歳以上かとも思われた。
 この二人は肩を摺り寄せて何か笑いながら語らっている体《てい》、どうしても互いに惚れ合っているらしく見えたので、その人はひそかに訝《いぶか》って、あんな婆さんが美少年と媾曳《あいびき》をしているのかと思いながら、だんだんにその傍へ近寄ってゆくと、かれらのすがたは消えてしまった。
 次の日に、これは何人《なんびと》の墓であるかと訊《き》いてみると、某家の男が早死にをして、その妻は節を守ること五十余年、老死した後にここに合葬したのであることが判った。

   木偶の演戯

 わたしの先祖の光禄公《こうろくこう》は康煕《こうき》年間、崔荘《さいそう》で質庫《しちぐら》を開いていた。沈伯玉《ちんはくぎょく》という男が番頭役の司事を勤めていた。
 あるとき傀儡師《かいらいし》が二箱に入れた木彫りの人形を質入れに来た。人形の高さは一尺あまりで、すこぶる精巧に作られていたが、期限を越えてもつぐなわず、とうとう質流れになってしまった。ほかに売る先もないので、廃《すた》り物として空き屋のなかに久しく押し込んで置くと、月の明るい夜にその人形が幾つも現われて、あるいは踊り、あるいは舞い、さながら演劇《しばい》のような姿を見せた。耳を傾けると、何かの曲を唱えているようでもあった。
 沈は気丈の男であるので、声をはげしゅうして叱り付けると、人形の群れは一度に散って消え失せた。翌日その人形をことごとく焚《や》いてしまったが、その後は別に変ったこともなかった。
 物が久しくなると妖をなす。それを焚けば精気が溶けて散じ、再び聚《あつ》まることが出来なくなる。また何か憑《よ》る所があれば妖をなす。それを焚けば憑る所をうしなう。それが物理の自然である。

   奇門遁甲

 奇門遁甲《きもんとんこう》の書というものが多く世に伝えられている。しかも皆まことの伝授でない。まことの伝授は口伝《くでん》の数語に過ぎないもので、筆や紙で書き伝えるのではない。
 徳《とく》州の宋清遠《そうせいえん》先生は語る。あるとき友達をたずねると、その友達は宋をとどめて一泊させた。
「今夜はいい月夜だから、芝居を一つお目にかけようか」
 そこで、橙《だいだい》の実十余個を取って堂下にころがして置いて、二人は堂にのぼって酒を飲んでいると、夜も二更《にこう》に及ぶころ、ひとりの男が垣を踰《こ》えて忍び込んで来たが、彼は堂下をぐるぐる廻りして、一つの橙に出逢うごとに、よろけて躓《つまず》いて、ようように跨《また》いで通るのであった。
 それが初めは順に進み、さらに曲がって行き、逆に行き、百回も二百回も繰り返しているうちに、彼は疲れ切って倒れ伏してしまった。やがて夜が明けたので、友達はその男を堂の上に連れて来て、おまえは何しに来たのかと詰問すると、彼はあやまり入って答えた。
「わたくしは泥坊でございます。お宅へ忍び込みますと、低い垣が幾重にも作られて居ります。それを幾たび越えても、越えても、果てしがないので、閉口して引っ返そうとしますと、帰る路にもたくさんの垣があって、幾たび越えても行き尽くせません。結局、疲れ果てて捕われることになりました。どうぞ御存分に願います」
 友達は笑って彼を放してやった。そうして、宋にむかって言った。
「きのうあの泥坊が来ることを占い知ったので、たわむれに小術を用いたのです」
「その術はなんですか」
「奇門の法です。他人が迂闊におぼえると、かえって禍いを招きます。あなたは謹直な人物である。もしお望みならば御伝授しましょうか」
 折角であるが、自分はそれを望まないと宋は断わった。友達は嘆息して言った。
「学ぶを願う者には伝うべからず、伝うべき者は学ぶを願わず。この術も終《つい》に絶えるであろう」
 彼は悵然《ちょうぜん》として宋を送って別れた。



底本:「中国怪奇小説集」光文社文庫、光文社
   1994(平成6)年4月20日初版1刷発行
入力:tatsuki
校正:九尾乃雪舟斎
2003年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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