青空文庫アーカイブ

みちのく
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)そら[#「そら」に傍点]豆
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 桐の花の咲く時分であった。私は東北のSという城下町の表通りから二側目の町並を歩いていた。案内する人は土地の有志三四名と宿屋の番頭であった。一行はいま私が講演した会場の寺院の山門を出て、町の名所となっている大河に臨み城跡の山へ向うところである。その山は青葉に包まれて昼も杜鵑が鳴くという話である。
 私はいつも講演のあとで覚える、もっと話し続けたいような、また一役済ましてほっとしたような――緊張の脱け切らぬ気持で人々に混って行った。青く凝って澄んだ東北特有の初夏の空の下に町家は黝んで、不揃いに並んでいた。廂を長く突出した低いがっしりした二階家では窓から座敷に積まれているらしい繭の山の尖が白く覗かれた。
「近在で春蚕のあがったのを買集めているところです」
 有志の一人は説明した。どこからかそら[#「そら」に傍点]豆を茹る青い匂がした。古風な紅白の棒の看板を立てた理髪店がある。妖艶な柳が地上にとどくまで枝垂れている。それから五六軒置いて錆朽ちた洋館作りの写真館が在る。軒にちょっとした装飾をつけた陳列窓が私の足を引きとめた。
 緊張の気分もやっと除れた私は、どこの土地へ行っても起るその土地の好みの服装とか美人とかいうのはどういう風のものであろうかと、いつもの好奇心が湧いて来た。
 窓の中の写真は、都会風を模した、土地の上流階級の夫人、髯自慢らしい老紳士、あやしい洋装をした芸妓、ぎごちない新婚夫妻の記念写真、手をつないでいる女学生――大体、こういう地方の町の写真館で見るものと大差はないが、切れ目のはっきりした涼しい眼つきだけは撮されている男女に共通のものがあってこの土地の人の風貌を特色づけていた。
 だが、私が異様に思ったのは、それらに囲まれて中央に貼ってある少年の大きな写真である。写真それ自体がかなり旧式のものを更に年ふるしたせいもあるだろうが、それにしても少年の大ようで豊かでそして何か異様なものが写真面に表われているのに心がうたれた。
 少年はいい絹ものらしい着物を無造作に着て、眼鼻立ちの揃った顔を自然に放置していた。いくら写真を撮し慣れた人でも、これくらい写真機に対して自然に撮させた顔も尠なかろう。
 私が思わず硝子近く寄って、つくづく眺め入るのを見て、有志の一人は側に来て言った。
「それは、東北地方では有名だった四郎馬鹿の写真です」
「白痴なのですか、これが」私は訊ね返した。
「白痴ですが、普通の馬鹿とは大分変っておりまして、みんなに、とても大事にされました」
 そして、これも遠来の講演者に対する馳走とでも思ったように四郎馬鹿について話してくれた。

 汽車の係員たちまでがこの白痴の少年には好意を寄せて無賃で乗車さす任意の扱いが出来たというから東北の鉄道も私設時代の明治四十年以前であろう。この町に忽然として姿の見すぼらしい少年が現われた。
 少年は、見当り次第の商家の前に来て、その辺にある箒を持って店先を掃くのである。その必要のある季節には綺麗に水を撒くのである。そうしたあと、少年はにこにこして店の前に立って何かを待つ様子である。
 始めは何事か判らなかった店の者は余計なことをすると思って、少年の所作を途中で妨げたり、店先に立つ段になると叱って追い放ったりした。少年は情ない顔をして逃げ去る。ときどきは心ない下男に打たれて泣き喚きながら走ったりした。
 けれども少年はしばらくすると機嫌を取直す。というよりも芥を永く溜めてはおけない流水のように、新鮮で晴やかな顔がすぐ後から生れ出て晴やかな顔つきになる。そしてもう別の店の前を掃くのであった。
「性質のいい乞食なのだ。一飯の恵みに与りたいのだ」
 そう受取るようになった店々のものは、掃除をしたあとで立つ少年を台所の片隅に導いて食事をさせた。少年はなぜこれが早く判らなかったのだろうという顔つきをして、嬉しそうに箸を取り上げる。
 少年には卑屈の態度は少しも見えなかった。
 食事の態度は行儀よく慎ましかった。少年はたっぷり食べた。「お雑作でがんした」礼もちゃんと言った。店の忙しいときや、面倒なときに、家のものは飯を握り飯にしたり、または紙に載せて店先から与えようとした。すると少年は苦痛な顔をして受取りもせず、踵を返してすごすごと他の店先へ掃きに行った。坐って膳に向うのでなければ少年は食事と思わなかった。
 少年は銭も受取らなかった。銭は貰ったこともあるが大概忘れて紛失するので懲りたらしい。
「あれは、どこか素性のいい家に生れた白痴なのだ」
「そう言えば、上品だ」
 町の人は、少年自身がわずかに記憶している四郎という名を聞き取って四郎馬鹿と言ったが、四郎馬鹿さんと愛称をもって呼ぶようになった。

「四郎馬鹿さんに見舞われた店はどうも繁昌するようだ」
 東北の町々にこういう風評が立った。だいぶ以前から四郎は、最初出現したS――の城下町にも飽いて、五六里距った新興の市へ遊びに行った。誰か物好きに荷馬車にでも乗せて連れて行ったらしい。それから少年は町から町へ漂泊することを覚えた。汽車にも乗せた人があるらしい。奥羽、北国の町にも彼の放浪の範囲は拡張された。それらの町々でも少年の所作に変りはなかった。店先の掃除をして一飯の雑作に有りついた。誤解や面倒がる関門を乗り越して四郎の明澄性はそれらの町々の人の心をも捉えた。
「四郎馬鹿さんに見舞われた店は、どうも繁昌するようだ」
 それには多分に迷信性と流行性があったかも知れない。しかし少年の一点の僻みも屈託もない顔つきと行雲流水のような行動とは人々の心に何か気分を転換させ、生活に張気を起させる容易なものがあったらしい。マスコットというものはそうしたものである。
 町々の人は少年を歓迎し始めた。少年の姿を見ると目出度いと言って急いで羽織袴で恭しく出迎えるような商家の主人もあった。華々しい行列で停車場へ送ったりした。少年の姿は絹物の美々しいものになった。町の有力者は言った。
「あの白痴を呼んで来るのは町の景気引立策にもいいですなあ」

 北国寄りのF――町の表通りに、さまで大きくはないがしっかりした呉服店の老舗があった。お蘭という娘があった。四郎はこの娘が好きでF――町へ来ると、きっとこの呉服店へ立寄った。四郎はお蘭の傍にいるだけで満足した。お蘭の針仕事をしている傍に膝をゆるめて坐って、あどけないことを訊ねたり単純な遊びごとをしたりした。小春日和の暖かい日にはうとうと居眠りをした。ときに眼を覚まして、そこにお蘭のいるのを確めると、また安心して瞼をゆるめた。
 お蘭は、世の中の雑音には極めて怖え易く唯一人、自分だけ静な安らかな瞳を見せる野禽のような四郎をいじらしく思った。彼女はこの人並でないものに何かと労りの心を配ってやった。それは母か姉のような気持だった。こうしているうちに一つの懸念がお蘭の心に浮んだ。あるとき彼女は四郎にこう訊いた。
「もし、あたしがお嫁に行くとき、四郎さはどうする」
 四郎は躊躇なく答えた。
「おらも行くだ、一緒に」
 お蘭は転げるように笑った。
「そんなこと出来ないわ。人を連れて嫁に行くなんて」
 四郎には判らなかった。
「どうしてだ」
「お嫁に行くということは私が向うの人のものになってしまうのだから、その人が承知してくれないじゃ、一緒に行けないのよ」
「お蘭さが誰かのものになるというだかね」
「そうよ」
「ふーむ」
 白痴の心にもお蘭が自分から失われ、自分は全く孤立無援で世の中に立つ侘しさがひしひしと感じられた。現われて来る眼に見えぬ敵を想像して周章てはてた。
「お蘭さ、嫁に行っちゃいけねえ」
「そんなこと無理よ」
 四郎は悲しい顔をして考え込んでいたが、もっともらしい大人の真似をして膝を打った。
「それええだ、おらお蘭さ嫁に貰うべえ」
 お蘭は呆れた。けれどもこう答えた。
「四郎さが私をお嫁に貰ってくれるの。こりゃ偉いわねえ」
「おら貰うべえ」四郎は得意な顔つきをした。
「けれども四郎さ。あんたが私をお嫁に貰うには、もっと立派な賢い人にならないじゃ――ねえ、判って」
 お蘭に取って、この言葉は一時凌ぎの気休めであり、また四郎への励ましに使ったものに過ぎないけれども、四郎は永く忘れなかった。彼の心は七八つの幼ないものだが年齢はもう十六七の青年に達していた。

 夏はさ中にも近づいたが山の傾斜にさしかかって建て連らねられたF――町は南の山から風が北海に吹き抜けるので熱気の割合に涼しかった。果樹園や畑の見えるだらだら下りの裾野平の果に、小唄で名高いY――山の山裾が見え、夏霞がうっすり籠めている中に浪がきらりきらり光った。刈り取って乾してある熟麦の匂いがした。
 それらが縁側から見える中座敷でお蘭は帷子の仕つけ糸を除っていた。表の町通りにわあわあいう声がして、それが店の先で纏ると、四郎が入って来た。
 四郎はお蘭の前に来ると、お蘭が何とか言ってくれるまでぷすっとして黙って立っているのがいつもの癖であった。それがこの白痴に取ってせいぜい甘えた態度だった。それが面白いのでお蘭はなるたけ気がつかぬ振りをしてうつ向いている。
 だが、やがて振仰いだときにお蘭はびっくりして叫んだ。
「何ですねえ、四郎さんは。そんなおかしな服装をして」
 四郎は赤い羽織に大黒さまのような頭巾を冠っていた。
「おら、嫌だと言ったんだけれど、みんなが無理に着せるんだよ」
 四郎はお蘭の怒りに怯えながら言った。
「すぐお脱ぎなさい」
 お蘭は手伝って四郎からそのおかしなものを取り去ってやった。
「白痴だと思ってこの子を玩弄物にするにも程がある」
 すると四郎は、
「白痴だと思って――この子を――玩弄物にするにも程がある」
 とおずおず口移しに真似て言った。不断、お蘭のいうことはすべて賢い言葉だと思って、口移しに真似て見るのが四郎の癖であった。日頃はそれも愛嬌に思えたが、今日はお蘭には悲しかった。お蘭は冷水で絞った手拭を持って来てやったり、有り合せの蕨餅に砂糖をかけて出してやったりした。
 四郎は怯えも取れて、いつものようにお蘭の側に坐ってどこかで貰って来た絵本を拡げてお蘭の説明を訊くのであった。お蘭は仕事をしながら説明をしてやる。
「これなんだね」
「鉄道馬車」
「これなんだね」
「お勤め人、洋服を着て鞄持って」
 四郎はその絵姿をつくづく眺めていたが、やがて言った。
「おら、もうじき洋服を着るだよ」
 お蘭は、これがただの四郎の空想だと思った。
「それはいいわね」
 四郎は得意になった。
「おら唄うたって、踊りおどるだよ」
 お蘭は少々訝しく思えて来た。
「どこでよ、どうしてよ」
「そして、悧巧になって、お蘭さ嫁に貰いに来るだよ」
 お蘭はふと、近頃人の噂では四郎の人気につけ込んで興行師がこの白痴の少年に目をつけ出したということを思い出した。これは只事ではない。
「駄目よ、駄目よ、四郎さん。そんなことしちゃ」
 けれども四郎はいつもの通りにはお蘭のいうことを聴き入れなかった。
「よっぽど悧巧にならなけりゃ、おらに、お蘭さ嫁に来めえ」
 そういうと四郎はふいと立って出て行ってしまった。
 洋服を着て派手な舞台に立つことと嫁を貰う資格とを無理に結びつけて誰かがこの白痴の少年の心に深々と染み込ませたものらしい。

 四郎がお蘭のところへ来なくなって、この白痴の少年が金モールの服をつけ曲馬の間に舞台に現れて、唄をうたい踊りを踊ったのち、真鍮の小判だの肖像入の黄財布だのを福の縁起だといって見物に売るという噂を耳にした、お蘭は立っても居てもいられなかった。片親の父に相談してみても物堅い老舖の老主人は、そんな赤の他人の白痴などに関まっても仕方がないと言って諦めさせられるだけだった。
 冬が来て春が来た。四郎の人気はだんだん落ちて、この頃では、白粉や紅を塗って田舎芝居で散々愚弄される敵役に使われているという風評になった。お蘭は身を切られるように思いながらじっとその噂を聞いた。四郎がたとえこの町へ帰って来てもどうなるものではない。馬鹿を悧巧にしてやることが出来るというでもないがしかしとにかく、早く帰って来て欲しいと神仏へ祈請もした。
 また幾つかの春秋が過ぎた。四郎の噂は聞かれなくなった。
 父親は死んで、お蘭は家を背負わなければならなかった。生前に父親も親戚も婿をとるようかなりお蘭を責めたものだが、こればかりはお蘭は諾わなかった。四郎が伝え聞いたらどんなに落胆するであろう。この心理がお蘭には自分ながらはっきり判らなかった。お蘭の玉の緒を、いつあの白痴が曳いて行ったか、白分が婿を貰い、世の常の女の定道に入るとすれば、この世のどこかの隅であの白痴が潰え崩れてしまうような傷ましさを、お蘭の心がしきりに感ずるのをどうしようもなかった。
 北海の浪の吼ゆる日、お蘭は、四郎が今は北海道までさすらって興行の雑役に追い使われているということを聞いた。
 いつか婚期を失ってしまったお蘭は自分自身を諦め切っている気持に伴って、もはや四郎を生ける人としては期待しなくなった。

 私はこの話を昼も杜鵑の鳴く青葉の山へ行っても、晩の歓迎会の席でも、また宿屋へ帰っても古いことを知ってそうな年寄りを見つけると、訊ねて聞き取ったのである。歓迎会で会った老婦人の一人は言った。
「お蘭さんは、まだ生きているはずでございます。××蘭子と言うのです。何なら尋ねてご覧遊ばせ。F――町はちょうど講演にお廻りになる町でもこざいましよう」

 私が尋ねるまでもなく私がF――町へ入ると、停車場へ出迎えた婦人連の中にお蘭を見出した。白髪の上品な老婦人で耳もかなり遠いらしく腰も曲っている。だが、もっと悲劇的な憂愁を湛えた人柄を想像していたのに、極めて快活で人には剽軽らしいところを見せ、出迎えの連中の中での花形になっていた。
 私は河鹿の鳴く渓流に沿った町の入口の片側町を、この老婦人も共に二三人と自動車で乗り上げて行った。なるほど左手に裾野平が見え、Y山の崖の根ぶちに北海の浪がきらきら光っている。私は同席の人もあるので、どうかと思ったがお蘭老婦人のあまりに快濶な様子に安心して訊いてみた。
 私がたずねようとした四郎という白痴の少年の名だけを聞き取った彼女はすぐこう言った。
「一時は四郎も死んだことにして思い諦めましたが、なにしろ自分より六つ七つ若いのですからまだ生きているかも知れません。もし四郎が帰って来たら労わって迎えてやる積りです。こう心を定めてから、気持はだいぶ楽になりました」
 だから一時拵えた四郎の位牌も何もかも捨ててしまって、折につけ四郎の消息を探ることにしていると、お蘭老女は語った。
 私は、不思議な人情を潜った老女の顔に影のように浮く薄白いような希望のいろを、しみじみと眺めた。そして一人の女性にこうまで深く染み通らせた白痴少年の一本気をも想ってみた。その夜、客となった長者の家の奥座敷で食事後休んでいると、お蘭老女が尋ねて来た。そして話の途絶えた間、北海の浪の音を聞いていると、私はこの老婦人と一緒に永遠に四郎を待つ気持になれた。烏賊つり船の灯が見え始めた。
[#地から1字上げ](昭和十二年十月)



底本:「ちくま日本文学全集 岡本かの子」筑摩書房
   1992(平成4)年2月20日発行
底本の親本:「岡本かの子全集」冬樹社
入力:さぶ
校正:しず
1999年3月20日公開
2003年5月18日修正
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