青空文庫アーカイブ

かの女の朝
岡本かの子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)性情《せいじょう》が

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)何故|其処《そこ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ひと[#「ひと」に傍点]
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[#ここから1字下げ]
 K雑誌先月号に載ったあなたの小説を見ました。ママの処女作というのですね、これが。ママの意図《いと》としては、フランス人の性情《せいじょう》が、利に鋭いと同時に洗練された情感と怜悧《れいり》さで、敵国の女探偵を可愛《かわ》ゆく優美に待遇する微妙な境地を表現したつもりでしょう。フランス及《およ》びフランス人をよく知る僕《ぼく》には――もちろんフランス人にも日本人として僕が同感し兼《か》ねる性情も多分《たぶん》にありますが――それが実に明白に理解されます。そして此《こ》の作はその意味として可《か》なり成功したものでしょう。だが、これは僕自身としてのママへの希望ですが、ママは何故《なぜ》、ひと[#「ひと」に傍点]のことなんか書いて居《い》るのですか。ママにはもっと書くべき世界がある。ママの抒情《じょじょう》的世界、何故|其処《そこ》の女主人公にママはなり切らないのですか。ひと[#「ひと」に傍点]のこと処《どころ》ではないでしょう。ママがママの手を動かして自分の筆を運ぶ以上、もっと、ママに急迫《きゅうはく》する世界を書かずには居られないはずです。それを他国の国情など書いて居るのは、やっぱりママの小児性《しょうにせい》が、いくらか見せかけ[#「見せかけ」に傍点]の気持ちに使われて居るからですよ。ママ! ママは自分の抒情的世界の女主人に、いつもいつもなって居なさい。幼稚《ようち》なアンビシューに支配されないで。でなければ、小説なんか書きなさいますなよ。
[#ここで字下げ終わり]

 かの女の息子の手紙である。今、仏蘭西《フランス》巴里《パリ》から着いたものである。朝の散歩に、主人|逸作《いっさく》といつものように出掛《でか》けようとして居る処《ところ》へ裏口から受け取った書生《しょせい》が、かの女の手に渡した。
 逸作はもう、玄関に出て駒下駄《こまげた》を穿《は》いて居たのである。其処へ出合いがしらに来合わせた誰かと、玄関の扉《とびら》を開けた処で話し声をぼそぼそ立てて居た。
 かの女は、まことに、息子に小児性と呼ばれた程《ほど》あって、小児の如《ごと》く堪《こら》え性《しょう》が無《な》かった。
 主人逸作が待って居《い》そうでもあったが、ひと[#「ひと」に傍点]と話をして居るのを好《よ》いことにして、息子の手紙の封筒を破った。そして今のような文面にいきなり打突《ぶつ》かった。
 だが、かの女としては、それが息子の手紙でさえあれば、何でも好かった。小言《こごと》であろうと、ねだりであろうと、(だが、甘えの時は無かった。息子は二十三歳で、十代の時自分を生んだ母の、まして小児性を心得て居て、甘えるどころではなくて、母の甘えに逢《あ》っては叱《しか》ったり指導したりする役だった。普通生活には少しだらしなかったが、本当は感情的で頭の鋭い正直な男子だった。)そしてやっぱり一人息子にぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]な主人逸作への良き見舞品となる息子の手紙は、いつも彼女は自分が先《さ》きに破るのだった。
 ――あら竹越さんなの。
 逸作と玄関で話して居たのは、かの女の処《ところ》へ原稿の用で来た「文明社」の記者であった。
 ――はあ、こんなに早く上《あが》って済みませんでしたけれど……。その代《かわ》りめったにお目にかかれない御主人にお目にかかれまして……。
 竹越氏が正直に下げる頭が大げさでもわざとらしくはなかった。逸作は好感から微笑してかの女と竹越との問答《もんどう》の済むのを待って、ゆっくり玄関口に立って居た。
 竹越氏が帰って行った。二人は門を出て竹越氏の行った表通りとは反対の裏通りの方へ足を向けた。
 ――今の記者|何処《どこ》のだい。
 ――あら、知らないの、だって親し相《そう》に話して居なすったじゃないの。
 ――だって向《むこ》うから親しそうに話すからさ。
 ――雑誌が大変よくってなんて仰《おっしゃ》って居たじゃないの。
 ――だって、記者への挨拶《あいさつ》ならそれよりほか無いだろう。
 ――何処《どこ》の雑誌か知らなくっても?
 ――そうさ、何処の雑誌だっておんなじだもの。
 ――あれだ、パパにゃかないませんよ。
 かの女は自分のことと較《くら》べて考えた。かの女はいつか或《あ》る劇場の廊下で或る男に挨拶《あいさつ》された。誰だか判《わか》らなかったが、彼女は反射的に頭を下げた。だが、知らない人に頭をさげたことが気になった。そしてやっぱり反射的にその男のあとを追った。広い劇場の廊下の半町程《はんちょうほど》もその男のあとを追って
 ――あなたは、何誰《どなた》でしたか。
 と真面目《まじめ》で男の顔を見て訊《き》いた。男はかつて、かの女の処《ところ》へは逸作の画業に就《つ》いての用事で、或《あ》る雑誌社から使いに来た人だった。男は、かの女が其《そ》の時の真面目くさって自分の名を訊いた顔を忘れないと方々《ほうぼう》で話したそうだ。だが、それも、五六年前だった。画業に於《おい》て人気者の逸作と、度々《たびたび》銀座を歩いて居るとき、逸作が知らない人達に挨拶をされても鷹揚《おうよう》に黙々と頭を一つ下げて通過するのを見習って、彼女もいつまで、自分のそんな野暮《やぼ》なまじめを繰り返しても居《い》なかったが、今朝《けさ》の逸作が竹越氏に対する適応性を見て、久しぶりで以前の愚直《ぐちょく》な自分を思い出した。
 ――痛《いた》っ。
 かの女は駒下駄《こまげた》をひっくり返えした。町会で敷いた道路の敷石《しきいし》が、一つは角を土からにょっきり[#「にょっきり」に傍点]と立て、一つは反対にのめり込ませ、でこぼこな醜態《しゅうたい》に変《かわ》っているのだ。裏町で一番広大で威張《いば》っている某|富豪《ふごう》の家の普請《ふしん》に運ぶ土砂《どしゃ》のトラックの蹂躙《じゅうりん》の為《た》めに荒された道路だ、――良民《りょうみん》の為めに――の憤《いきどお》りも幾度か覚えた。だが、恩恵もあるのだ。
 ――ねえパパ、此《こ》のO家の為めに我々は新鮮な空気が吸える、と思えば気も納《おさま》るね。
 ――まあ、そんなものだ。
 二人は歩きながら話す。
 実際O家は此の町の一端何町四方を邸内に採っている。その邸内の何町四方は一《いっ》ぱいの樹海《じゅかい》だ。緑の波が澎湃《ほうはい》として風にどよめき、太陽に輝やき立っているのである。ベルリンでは市民衛生の為《た》め市中に広大なチーヤガルデン公園を置く。此《こ》の富豪は我が町に緑樹の海を置いて居《い》る。富豪自身は期せずして良民の呼吸の為めにふんだんな酸素を分配して居るのである。――ものの利害はそんな処《ところ》で相伴《あいともな》い相償《あいつぐ》なっているというものだ――と二人はお腹《なか》の中で思い合って歩いて居るのだ。
 二三丁行くと、或《あ》る重役邸の前門の建て換え場だ。半月も前からである。
 ――変な男女が、毎朝、同じ方向から出かけて来ると思ってるだろうね、人夫《にんぷ》達が。
 と、かの女。
 ――ふん。
 逸作は手を振って歩いて居る。中古の鼠色《ねず》縮緬《ちりめん》の兵児帯《へこおび》が、腰でだらしなくもなく、きりっ[#「きりっ」に傍点]とでもなく穏健《おんけん》に締《しま》っている。古いセルの単衣《ひとえ》、少し丈《たけ》が長過ぎる。黒髪が人並よりぐっと黒いので、まれに交《まじ》っているわずかな白髪が、銀砂子《ぎんすなご》のように奇麗《きれい》に光る。中背《ちゅうぜい》の撫《な》で肩《がた》の上にラファエルのマリア像のような線の首筋をたて、首から続く浄《きよ》らかな顎《あご》の線を細い唇《くちびる》が締めくくり、その唇が少し前へ突き出している。足の上《あが》る度《たび》に脂肪《あぶら》の足跡が見える中古の駒下駄でばたりばたり歩く。
 かの女は断髪《だんぱつ》もウエーヴさえかけない至極《しごく》簡単なものである。凡《およ》そ逸作とは違った体格である。何処《どこ》にも延びている線は一つも無い。みんな短かくて括《くく》れている。日輪草《にちりんそう》の花のような尨大《ぼうだい》な眼。だが、気弱な頬《ほお》が月のようにはにかんでいる。無器用《ぶきよう》な小供《こども》のように卒直に歩く――実は長い洋行後|駒下駄《こまげた》をまだ克《よ》く穿《は》き馴《な》れて居ないのだ。朝の空気を吸う唇に紅《べに》は付けないと言い切って居るその唇は、四十前後の体を身持《みも》ちよく保って居る健康な女の唇の紅《あか》さだ。荒い銘仙絣《めいせんがすり》の単衣《ひとえ》を短かく着て帯の結びばかり少し日本の伝統に添《そ》っているけれど、あとは異人女が着物を着たようにぼやけた間の抜けた着かたをして居る。
 ――ね、あんたアミダ様、わたしカンノン様。
 と、かの女は柔《やわら》かく光る逸作の小さい眼を指差し、自分の丸い額《ひたい》を指で突いて一寸《ちょっと》気取っては見たけれど、でも他人が見たら、およそ、おかしな一対《いっつい》の男と女が、毎朝、何処《どこ》へ、何しに行くと思うだろうとも気がさすのだった。うぬ惚《ぼ》れの強いかの女はまた、莫迦《ばか》莫迦しくひがみ[#「ひがみ」に傍点]易《やす》くもある。だが結局|人夫《にんぷ》は人夫の稼業《かぎょう》から預けられた土塊《つちくれ》や石柱を抱《かか》え、それが彼等《かれら》の眼の中に一《いっ》ぱいつまっているのだ。その眼がたまたまぬすみ視した処《ところ》が、それは別に意味も無い傍見《わきみ》に過ぎないと、かの女は結論をひとりでつける。そして思いやり深くその労役《ろうえき》の彼等を、あべこべに此方《こちら》から見返えすのであった。
 陽気で無邪気なかの女はまた、恐ろしく思索《しさく》好きだ。思索が遠い天心《てんしん》か、地軸にかかっている時もあり、優生学《ゆうせいがく》や、死後の問題でもあり、因果律《いんがりつ》や自己の運命観にもいつかつながる。喰《た》べ度《た》いものや好《よ》い着物についてもいつか考え込んで居《い》る。だが、直《す》ぐ気が変《かわ》って眼の前の売地の札《ふだ》の前に立ちどまって自分の僅《わず》かな貯金と較《くら》べて価格を考えても見たりする。
 かの女は今、自分の住宅の為《ため》にさして新《あた》らしい欲望を持って居ないのを逸作はよく知って居る。かの女が仮想《かそう》に楽しむ――巴里《パリ》に居る独《ひとり》息子が帰ったら、此《こ》の辺《あたり》へ家を建てて遣《や》ろうか、若《も》しくはいっかな帰ろうとしない息子にあんな家、斯《こ》んな家でも建てて置いたら、そんな興味が両親への愛着にも交《まじ》り、息子は巴里から帰りはしないか。あちらで相当な位置も得、どう考えてもあちら[#「あちら」に傍点]に向いて居る息子の芸術の性質を考えるとこちらへ帰って来るようには言えない。またかの女の芸術的良心というようなものが、それは息子の芸術へというばかりでないもっと根本の芸術の神様に対する冒涜《ぼうとく》をさえ感ずる。芸術的良心と、私的本能愛との戦いにかの女はまた辛《つら》くて涙が眼に滲《にじ》む。息子の居ない一ヶ所|空《から》っぽうのような現実の生活と、息子の帰って来た生活のいろいろな張り合いのある仮想生活とがかの女の心に代《かわ》る代《がわ》る位置を占めるのである。かの女は雑草が好きだ。此の空地《あきち》にはふんだんに雑草が茂っている。なんぼ息子の為に建ててやる画室でも、かの女の好みの雑草は取ってしまうまい。人は何故《なぜ》に雑草と庭樹《にわき》とを区別する権利があったのだろう。例えば天上の星のように、瑠璃《るり》を点ずる露草《つゆくさ》や、金銀の色糸《いろいと》の刺繍《ししゅう》のような藪蔓草《やぶつるくさ》の花をどうして薔薇《ばら》や紫陽花《あじさい》と誰が区別をつけたろう。優雅な蒲公英《たんぽぽ》や可憐《かれん》な赤まま草を、罌粟《けし》や撫子《なでしこ》と優劣《ゆうれつ》をつけたろう。沢山《たくさん》生《は》える、何処《どこ》にもあるからということが価値の標準となるとすれば、飽《あ》きっぽくて浅《あさ》はかなのは人間それ自身なのではあるまいか。だが、かの女が草を除《と》らないことを頑張れば息子も甘酸《あまず》っぱく怒って、ことによったらかの女をスポーツ式に一つ位《くら》いはどやす[#「どやす」に傍点]だろう。そしたらまあ、仕方が無い、取っても宜《よ》い。どやす[#「どやす」に傍点]と言えば、かの女が或時《あるとき》息子に言った。「ママも年とったらアイノコの孫を抱くのだね、楽しみだね」と、極々《ごくごく》座興《ざきょう》的ではあったけれど或時かの女がそれを息子の前で言ってどやさ[#「どやさ」に傍点]れたことをかの女は思い出した。どやし[#「どやし」に傍点]た息子の青年らしい拳《こぶし》の弾力が、かの女の背筋に今も懐かしく残っている。その時息子は言った。「子を生むようなフランス女とは結婚しませんよ。」それはフランス女を子を生む実用にしないと言うのか、或《あるい》は子を生むような実用的なフランス女は美的でないと言う若者の普通な美意識から出た言葉か知らなかったが、それも今では懐かしくかの女に思い返されるのであった。六年前連れて行ってかの女と逸作が一昨年|帰《か》える時、息子ばかりが巴里《パリ》に残った。
 かの女が分譲地の標札《ひょうさつ》の前に停《とま》って、息子に対する妄想《もうそう》を逞《たくま》しくして居《い》る間、逸作は二間|程《ほど》離れておとなしく[#「おとなしく」に傍点]直立して居た。おとなしく[#「おとなしく」に傍点]と言っても逸作のは只《ただ》のおとなしさ[#「おとなしさ」に傍点]ではない。宇宙を小馬鹿《こばか》にしたような、ぬけぬけしいおとなしさ[#「おとなしさ」に傍点]だ。だから、太陽の光線とじか[#「じか」に傍点]取引《とりひ》きである。逸作のような端正《たんせい》な顔立ちには月光の照りが相応《ふさわ》しそうで、実は逸作にはまだそれより現世に接近したひと皮がある。そのせいか逸作も太陽が好きだ。何処《どこ》といって無駄な線のない顔面の初老に近い眼尻の微《かす》かな皺《しわ》の奥までたっぷり太陽の光を吸っている。風が裾《すそ》をあおって行こうと、自転車が、人が、犬が擦《す》り抜けて通って行こうと、逸作は頓着《とんじゃく》なしにぬけぬけと佇《たちどま》って居る。これを、宇宙を小馬鹿にした形と、かの女は内心で評して居る。
 ――もう宜《い》いのかい。
 逸作の平静な声調《せいちょう》は木の葉のそよぎと同じである。「死の様《よう》に静《しずか》だ」と曾《かつ》て逸作を評したかの女の友人があった。その友人は、かの女を同情するような羨《うらや》むような口調で言った。だが、かの女はそれはまだ逸作に対する表面の批評だと思った。逸作の静寂《せいじゃく》は死魂の静寂ではない。仮《か》りに機械に喩《たと》えると此《こ》の機械は、一個所、非常に精鋭な部分があり、あとは使用を閑却《かんきゃく》されていると言って宜《よ》い。無口で鈍重な逸作が、対社会的な画作に傑出《けっしゅつ》して居るのは、その部分が機敏《きびん》に働く職能《しょくのう》の現れだからである。逸作のこの部分の働きの原動力、それはあるときは画業に対しある時はかの女に対する愛であると云《い》うよりほかない。そしてある時は画業に対しある時はかの女に対してその逸作の非常に精鋭な部分が機敏に働いているのである。かの女も亦《また》それを確実に常に受け取って居《い》るのである。だから、かの女は自分の妄想《もうそう》までが、領土を広く持っている気がするのである。自分の妄想までを傍《そば》で逸作の機敏な部分が、咀嚼《そしゃく》していて呉《く》れる。咀嚼して消化《こな》れたそれは、逸作の心か体か知らないが、兎《と》に角《かく》逸作の閑却された他の部分の空間にまで滲《し》みて行く――つまり逸作が、かの女の自由な領土であるということだ。かの女が、逸作の傍で思い切って何でも言え、何でも妄想|出来《でき》るということが、逸作がかの女の領土である証拠であり、そういう両者の機能的関係が「円満な夫婦愛」などと、世人が言いふらすかの女|等《ら》の本体なのである。だが、かの女は「夫婦愛」などと言われるのは嫌いなのである。夫婦と言う字や発音は、なまなましい性欲の感じだ。「愛」と言うほのぼのとした言葉や字に相応しない、いやらしさをかの女は「夫婦」という字音に感じる。ただ、今はひとのことで或《あ》る時、或る場合|一寸《ちょっと》此《こ》の字が現われて来るのなら彼女は宜いと思う。芝居の仕草《しぐさ》や、浄瑠璃《じょうるり》のリズムに伴《ともな》い、「天下晴れての夫婦」などと若い水々《みずみず》しい男女の恋愛の結末の一場面のくぐり[#「くぐり」に傍点]をつける時に、たった一つ位《くら》い此の言葉を使うのは、世話に砕《くだ》けたなまめかしさを感じて宜いと彼女は思う。だが、もっと地味に、決定的に、質実に、その本質を指定することも出来ない組み合せになって相当、年月を経《へ》た男女――少なくとも取り立てて男女などと感じなくなった自分達だけは、子の前などでは尚更《なおさら》「夫婦」なんてぷんぷんなま[#「なま」に傍点]の性欲の匂《にお》いのする形容詞を着せられるのは恥《はず》かしい。よく年若《としわか》な夫が自分の若い妻を「うちの婆《ばあ》さん」などと呼ぶ、あれも何となく気取って居《い》るように思われるが、でも人の前で、殊《こと》に器量《きりょう》の好《よ》くない夫婦などが「われわれ夫婦」などと言うのを聞くのをかの女は好まない。新聞や雑誌などで、夫婦という字を散見《さんけん》しても、ひとのことどうでも宜《よ》いようなものの、好もしいとはかの女は思わない。
 逸作とかの女との散歩の道は進む。
 ――あたし、あなたに見せるものあるのよ。
 ――そうかい。
 ――何だか知ってる?
 ――知らない。
 ――あてなさい、な。
 ――あたらない。
 ――あれだ。太郎から手紙よ。
 ――おい、見せなさいよ。
 ――道のまん中じゃあないの。
 ――好いからさ。
 ――墓地へ行って見せる。
 かの女は袖《そで》のなかで、がさがさしてる息子の手紙を帯の間へ移す。くどく無い逸作は、或《あ》るものに食欲を出しかけたような唇を、一つ強く引き締めることによって、其《そ》の欲望を制した。かの女のいたずら心が跳ね返って嬉《よろこ》ぶ。
 散歩に伴う生理調節作用として斯《こ》んないたずらが、かの女には快適なのだった。
 逸作が、他に向《むか》っての欲望の表現はくどく[#「くどく」に傍点]ないのだ。然《しか》し、逸作の心に根を保っている逸作の特種《とくしゅ》の欲望がある。逸作はそれを自分の内心に追求するに倦《う》まない男だ。逸作の特種な欲望とは極々《ごくごく》限られた二三のものに過ぎないと言える。その一つが、今かの女に刺戟《しげき》された。――息子に対する逸作の愛情は親の本能愛を裏付けにして実に濃《こま》やかな素晴らしい友情だとかの女は視《み》る。不精《ぶしょう》な逸作は、煩《わずら》わしい他人の生活との交渉に依《よ》らなければ保たれない普通の友人を持たないのである。他の肉親には、逸作もかの女も若い間に、ひどい[#「ひどい」に傍点]めに会って懲《こ》りて居《い》る。その悲哀や鬱憤《うっぷん》も交《まじ》る濃厚な切実な愛情で、逸作とかの女はたった一人の息子を愛して愛して、愛し抜く。これが二人の共同作業となってしまった。
 逸作とかの女の愛の足ぶみを正直に跡付ける息子の性格、そしてかの女の愛も一緒に其処《そこ》を歩めるのが、息子が逸作にとって一層《いっそう》うってつけの愛の領土であるわけなのだ。かの女と逸作が、愛して愛して、愛し抜くことに依《よ》って息子の性格にも吹き抜けるところが出来《でき》、其処から正直な芽や、怜悧《れいり》な芽生《めば》えがすいすいと芽立って来て、逸作やかの女を嬉《よろこ》ばした。逸作やかの女は近頃では息子の鋭敏な芸術的感覚や批判力に服するようにさえなった。だが、息子のそれらの良質や、それに附随《ふずい》する欠点が、世間へ成算《せいさん》的に役立つかと危《あや》ぶまれるとき、また不憫《ふびん》さの愛が殖《ふ》える。
 ――おい、小学校の方でなく、こっちから行こうよ。
 ――何故《なぜ》。
 ――だって、子供達が道に一《いっ》ぱいだ。
 ――早く、墓地へ行って手紙|見度《みた》いから近道行こうってんでしょう。
 ――………………。
 ――え、そうでしょう。
 ――俺は子供きらいだ。
 そうだった。かの女はそれを忘れて居たのだ。逸作が近道を行って早く息子の手紙を見度いのも本当だろうが、逸作はたしかに、ぞろぞろ子供に逢《あ》うのは嫌いだった。子供は世の人々が言い尊《とうと》ぶように無邪気なものと逸作もかの女も思っては居なかった。子供は無邪気に見えて、実は無遠慮な我利我利《がりがり》なのだ。子供は嘘《うそ》を言わないのではない。嘘さえ言えぬ未完成な生命なのだ。教養の不足して居《い》る小さな粗暴漢《そぼうかん》だ。そして恥や遠慮を知る大人を無視した横暴《おうぼう》な存在主張者だ。(逸作もかの女も、自分の息子が子供時代を離れ、一つの人格として認め得た時から息子への愛が確立したのだ。)本能で各々《おのおの》その親達が愛するのは宜《よ》い。然《しか》し、逸作達が批判的に見る世の子供達は一見|可愛《かわい》らしい形態をした嫌味《いやみ》な悪《あく》どい、無教養な粗暴な、而《し》かもやり切れない存在だ。
 ――でもパパは、童女《どうじょ》型だの、小児性《しょうにせい》夫人だのってカチ(逸作はかの女を斯《こ》う呼ぶ)を贔屓《ひいき》にするではないか。
 ――大人で童心《どうしん》を持ってるのと、子供が子供のまんまなのとは違うよ。大人で童心を持ってるその童心を寧《むし》ろ普通の子供はちっとも持ってないんだ。だから子供のうちから本当の童心を持ってる子はやっぱり大人で童心を持ってる人と同じく尠《すく》ないんだよ。
 斯《こ》うした筋の通らぬような、通ったような結論を或時《あるとき》二人がかりでこしらえてしまった。
 道の両側は文化住宅地だった。かの女達が伯林《ベルリン》の新住宅地で見て来たような大小の文化住宅が立ち並んでいる。だが、かの女|等《ら》は、此《こ》の日本の小技工のたくみな建築が、寧ろ伯林のよりも効果的だと考えられるのである。日本で想像して居たより独逸《ドイツ》人の技巧は大まかだ。影か、骨か、何かが一《ひと》けた[#「けた」に傍点]足りなくて、あの徒《いたず》らに高い北欧の青空の下に何処《どこ》か間の抜けた調子で立ち並んでいるのであった。日本の建築が独逸のそれを模倣《もほう》しているのは一見明白であるが、実物で無い、独逸建築の写真で見た感覚から、多く此《こ》の抜け目の無い効果を学びとったのであろう。かの女達が伯林で、現在眼の前の実物を観|乍《なが》ら、その建築物の写真の載った写真帖《しゃしんちょう》など見並べると、驚く程《ほど》、其《そ》の写真の方が、線の影や深味《ふかみ》が、精巧な怜悧《れいり》な写術《しゃじゅつ》によって附加されている。その写真帖を、そのまま、日本へ持って帰り、日本の人に見せるのは、少し、そらぞらしい嘘をつくようなうしろめたさを覚えた。が、それかと言って、その写真が計画的に修正でもしてあるわけでもなし、それは何処《どこ》までも、その独逸建築をありの儘《まま》に写した写真なのだから仕方がない。人間の顔を写してもそうなのだ、平たい陰影の少ない東洋人の顔より、筋骨《きんこつ》的な線のはっきりした西洋人の顔が多く効果的に写る――ともかく日本の様式建築が、独逸の効果的写真帖の影や深味|迄《まで》を東洋人の感覚で了解し、原型伯林の建築より効果を出している。それが、日本の樹木の優雅なたたずまいや、葉の濃《こまや》かさの裏表に似つかわしく添って建っているのだ。
 ――何処の国の都会の住宅地でもそうだけど、五万円や八万円かかった住宅はどっさり建ってるでしょう。それでいて門標《もんぴょう》を見れば、何処の誰だか分らない人の名ばかりじゃないの。世の中にお金が無いなんて嘘のような気がするのね。
 ――………………。
 ――何故《なぜ》だまって笑ってらっしゃるの。
 ――だって、君にしちゃあ、よくそんな処《ところ》へ気が付いたもんだ。
 四辺《しへん》の空気が、冷え冷えとして来て墓地に近づいた。が、寺は無かった。独立した広い墓地だけに遠慮が無く這入《はい》れた。或《あ》る墓標の傍《そば》には、大株の木蓮《もくれん》が白い律義《りちぎ》な花を盛り上げていた。青苔《あおごけ》が、青粉《あおこ》を敷いたように広い墓地内の地面を落ち付かせていた。さび静まった其《そ》の地上にぱっと目立つかんな[#「かんな」に傍点]やしおらしい夏草を供《そな》えた新古の墓石や墓標が入り交って人々の生前と死後との境に、幾ばくかの主張を見せているようだ。尠《すく》なくともかの女にはそう感じられ、ささやかな竹垣や、厳《いか》めしい石垣、格子《こうし》のカナメ垣の墓囲いも、人間の小さい、いじらしい生前と死後との境を何か意味するように見える。
 ――生きて居《い》るものに取っては、茲《ここ》が、死人の行った道の入口のような気がして、お墓はやっぱりあった方が宜《よ》いのね。
 ――そうかな、僕ぁ斯《こ》んなもの面倒くさいな。死んだら灰にして海の上へでも飛行機でばら撒《ま》いてもらった方が気持が好《い》いな。
 いつか墓地の奥へ二人は来て居た。
 ――どれ見せな。
 ――息子の手紙? 執念深く見度《みた》がるのね。
 ――お墓の問題よりその方が僕にゃ先きだ。
 其処《そこ》に転《ころ》がっている自然石の端《はし》と端へ二人は腰を下ろした。夏の朝の太陽が、意地悪に底冷《そこび》えのする石の肌をほんのりと温《あたた》め和《なご》めていた。二人は安気《あんき》にゆっくり腰を下ろして居《い》られた。うむ、うむ、と逸作は、旨《うま》いものでも喰《た》べる時のような味覚のうなずきを声に立てながら息子の手紙を読んで居る。
 ――ねえパパ。
 ――うるさいよ。
 ――何処《どこ》まで読んだ?
 ――待て。
 ――其処《そこ》に、ママの抒情《じょじょう》的世界を描けってところあるでしょう。
 ――待ち給《たま》え。
 逸作は一寸《ちょっと》腕を扼《やく》してかの女を払い退《の》けるようにして読み続けた。
 ――ねえ、ママの抒情的世界を描きなさいって書いて来てあるでしょう。ねえ、私の抒情的世界って、何なの一《いっ》たい。
 ――考えて見なさい自分で。
 ――だってよく判《わか》らない。
 ――息子はあたま[#「あたま」に傍点]が良いよ。
 ――じゃ、巴里《パリ》へ訊《き》いてやろうか。
 ――馬鹿《ばか》言いなさんな、またたしなめられるぞ。
 ――だって判んないもの。
 ――つまりさ、君が、日常|嬉《よろこ》んだり、怒ったり、考えたり、悲しんだりすることがあるだろう。その最も君に即《そく》したことを書けって言うんだ。
 ――私のそんなこと、それ私の抒情的世界って言うの。
 ――そうさ、何も、具体的に男と女が惚《ほ》れたりはれ[#「はれ」に傍点]たりすることばかりが抒情的じゃないくらい君判んないのかい。息子は頭が良いよ。君の日常の心身のムードに特殊性を認めてそれを抒情的と言ったんだよ、新らしい言い方だよ。
 ――うむ、そうか。
 かの女のぱっちりした眼が生きて、巴里の空を望むような瞳《ひとみ》の作用をした。
 ――判ってよ、ようく判ってよ。
 かの女は腰かけたまま足をぱたぱたさせた。
 かの女の小児型の足が二つ毬《まり》のように弾《は》ずんだ。よく見ればそれに大人《おとな》の筋肉の隆起《りゅうき》がいくらかあった。それを地上に落ち付けると赭茶《あかちゃ》の駒下駄《こまげた》の緒《お》の廻《まわ》りだけが括《くび》れて血色を寄せている。その柔《やわら》かい筋肉とは無関係に、角化質《かくかしつ》の堅い爪《つめ》が短かく尖《さき》の丸い稚《おさ》ない指を屈伏《くっぷく》させるように確乎《かっこ》と並んでいる。此奴《こいつ》の強情《ごうじょう》!と、逸作はその爪を眼で圧《おさ》えながら言った。
 ――それからね。君の強情も。
 ――あたしの強情も抒情《じょじょう》的のなかに這入《はい》るの。
 ――そうさ。
 ――そんな事言えば、いくらだってあるわ。私が他所《よそ》から独《ひと》りで帰って来る――すると時々パパがうちから出迎えてだまって肩を抑《おさ》えて眼をつぶって、そして開《あ》けた時の眼が泣いている。こんなことも?
 ――うん。
 逸作は一寸《ちょっと》面倒らしい顔をした。
 ――そう、そう、その事ね。私たった一度山路さんとこで話しちゃった。そしたら山路さんも奥さんも不思議そうな顔して、「何故《なぜ》でしょう」って言うの。「大方《おおかた》、独りで出つけない私が、よく車にも轢《ひ》かれず犬にも噛《か》まれず帰って来たって不憫《ふびん》がるのでしょう」って言ったら、物判《ものわか》りの好《よ》い夫婦でしょう。すっかり判ったような顔してらしったわ。「私のこと、対世間的なことになると逸作は何でも危《あぶ》ながります」って私言ったの。こんな事も抒情的なの。
 ――だろうな。
 逸作は自分に関することを、じかに言われるとじきにてれ[#「てれ」に傍点]る男だ。
 ――序《ついで》に私、山路さんとこでみんな言っちまった。世間で、私のことを「まあ御気丈《おきじょう》な、お独り子を修行《しゅぎょう》の為《ため》とは言え、よくあんな遠方《えんぽう》へ置いてらしった。流石《さすが》にあなた方はお違いですね。判ってらっしゃる」って、世間は単純にそんな褒《ほ》め方ばかりしてます。雑誌などでも私を如何《いか》にも物の判った模範的な母親として有名にしちまいましたが、だが一応はそういうことも本当ですが、その奥にまだまだそれとはまるで違った本当のところがあるのですよ。そんな立ち勝《まさ》った量見《りょうけん》からばかりで、あの子を巴里《パリ》へ置いときませんって、――巴里は私達親子三人の恋人です。三人が三人、巴里《パリ》に居《い》るわけに行きませんから、せめて息子だけ、巴里って恋人に添わせて置くのを心遣《こころや》りに、私達は日本って母国へ帰って来ましたの。何も息子を偉《えら》くしようとか、世間へ出そうとか、そんな欲でやっとくんでもありません。言わば息子をあすこに置いとくことは、息子に離れてる辛《つら》い気持ちとやりとりの私達の命がけの贅沢《ぜいたく》なんですよ。…………てね。
 かの女は自分がそう言って居るうちに、それを自分に言ってきかせて居るような気持《きもち》になってしまった。
 ――ねえパパ、こんな処《ところ》へ朝っから来て、こんなこと言ったりしてることも私の抒情《じょじょう》的世界ってことになるんでしょうね。
 ――ああ、当分、君の抒情的世界の探索《たんさく》で賑《にぎや》かなことだろうよ。
 逸作は、息子の手紙を畳《たた》んだりほぐしたりしながら比較的実際的な眼付きを足下《あしもと》の一処《ひとところ》へ寄せて居た。逸作は息子に次に送る可《か》なりの費用の胸算用《むなざんよう》をして居るのであろう。逸作の手の端《はし》ではじけている息子の手紙のドームという仏蘭西《フランス》文字の刷《す》ってあるレターペーパーをかの女はちらと眼にすると、それがモンパルナッスの大きなキャフェで、其処《そこ》に息子と仲好《なかよ》しの女達も沢山《たくさん》居て、かの女もその女達が可愛《かわい》くて暇《ひま》さえあれば出掛《でか》けて行って紙つぶてを投げ合って遊んだことを懐しく想い出した。
 逸作が暫《しばら》く取り合わないので、かの女も自然自分自身の思考に這入《はい》って行った。
 暫くしてかの女が、空に浮く白雲《しらくも》の一群に眼をあげた時に、かの女は涙ぐんで居《い》た。かの女は逸作と息子との領土を持ち乍《なが》らやっぱりまだ不平があった。世の中にもかの女自身にも。かの女はかの女の強情《ごうじょう》をも、傲慢《ごうまん》をも、潔癖《けっぺき》をも持て剰《あま》して居た。そのくせ、かの女は、かの女の強情やそれらを助長《じょちょう》さすのは、世の中なのだとさえ思って居る。
 人懐《ひとなつ》かしがりのかの女を無条件に嬉《よろこ》ばせ、その尊厳《そんげん》か、怜悧《れいり》か、豪華か、素朴か、誠実か、何でも宜《よ》い素晴らしくそしてしみじみと本質的なものに屈伏《くっぷく》させられるような領土をかの女は世の中の方にもまだ欲しい。かの女はそういうものが稀《まれ》にはかの女の遠方《えんぽう》に在《あ》るのを感じる。然《しか》し遠いものは遠いものとして遥《はる》かに尊敬の念を送って居たい。わざわざ出かけて行って其処《そこ》にふみ入ったり、附《つ》きまつわったりするのは悪《あく》どくて嫌だ。かの女はそんな空想や逡巡《しゅんじゅん》の中に閉じこもって居る為《ため》に、かの女に近い外界からだんだんだん遠ざかってしまった。かの女は閑寂《かんじゃく》な山中のような生活を都会のなかに送って居るのだ。それが、今のところかの女に適していると承知《しょうち》して居る。だが、かの女はそれがまた寂しいのだ。自分の意地や好みを立てて、その上、寂しがるのは贅沢《ぜいたく》と知りつつ時々涙が出るのだった。
 まだその日の疲れの染《にじ》まない朝の鳥が、二つ三つ眼界を横切った。翼《つばさ》をきりりと立てた新鮮な飛鳥《ひちょう》の姿に、今までのかの女の思念《しねん》は断《た》たれた。かの女は飛び去る鳥に眼を移した。鳥はまたたく間に、かの女の視線を蹴《け》って近くの小森に隠れて行った。残されたかの女の視線は、墓地に隣接するS病院の焼跡《やけあと》に落ちた。十年も前の焼跡だ。焼木杭《やけぼっくい》や焼灰等は塵《ちり》程も残っていない。赤土《あかつち》の乾きが眼にも止まらぬ無数の小さな球となって放心《ほうしん》したような広い地盤《じばん》上の層をなしている。一隅《いちぐう》に夏草の葉が光って逞《たく》ましく生えている。その叢《くさむら》を根にして洞窟《どうくつ》の残片《ざんぺん》のように遺《のこ》っている焼け落ちた建物の一角がある。それは空中を鍵形《かぎがた》に区切り、刃《やいば》型に刺し、その区切りの中間から見透《みとお》す空の色を一種の魔性《ましょう》に見せながら、その性全体に於《おい》ては茫漠《ぼうばく》とした虚無を示して十年の変遷《へんせん》のうちに根気《こんき》よく立っている。かの女は伊太利《イタリア》の旅で見た羅馬《ローマ》の丘上のネロ皇帝宮殿の廃墟《はいきょ》を思い出した。恐らく日本の廃園《はいえん》に斯《こ》うまで彼処《あそこ》に似た処《ところ》は他には無かろう。
  廃墟は廃墟としての命もちつゝ羅馬市の空に聳《そび》えてとこしへなるべし。
 かの女は自分が彼処《あそこ》をうたった歌を思い出して居《い》た。
 と、何処《どこ》か見当の付かぬ処で、大きなおなら[#「おなら」に傍点]の音がした。かの女の引締《ひきし》まって居た気持を、急に飄々《ひょうひょう》とさせるような空漠《くうばく》とした音であった。
 ――パパ、聞こえた?
 逸作とかの女は不意に笑った顔を見合わせて居たのだ。
 ――墓地のなかね。
 ――うん。
 逸作はあたりまえだと言う顔に戻って居る。
 ――墓地のなかでおなら[#「おなら」に傍点]する人、どう思うの。
 かの女は逸作を覗《のぞ》くようにして言った。
 ――どうって、…………君はどう思う。
 ――私?
 かの女は眼を瞑《つむ》って渋《しか》め面《つら》して笑い直した。そして眼を開いて真面目に返ると言った。
 ――余《よ》っぽど現実世界でいじめられてる人じゃないかしら。普通ならお墓へ来れば気が引締まるのに。お墓へ来て気がゆるんでおなら[#「おなら」に傍点]をする人なんて。
 かの女達が腰を上げて墓地を出ようとすると、其処《そこ》へ突然のようにプロレタリア作家甲野氏が現われた。
 朝は不思議にどんなみすぼらしい人の姿をも汚《きた》なくは見せない。その上、今日の甲野氏はいつもよりずっと身なりもさっぱりして居る。
 ――やあ。
 ――やあ。
 男同志の挨拶《あいさつ》――。
 かの女は咄嗟《とっさ》の間に、おなら[#「おなら」に傍点]の嫌疑《けんぎ》を甲野氏にかけてしまった。そしてその為《た》めに突き上げて来た笑いが、甲野氏への法外《ほうがい》な愛嬌《あいきょう》になった。そのせいか一寸《ちょっと》僻《ひが》み易《やす》い甲野氏が、寧《むし》ろ彼から愛想よく出て来た。
 ――奥さんには久し振りですな。
 ――散歩?
 ――昨夜晩くまでかかって××社の仕事が済んだので、今朝《けさ》早く持ってって来ました。
 ――奥さんがお亡《なく》なりになってからお食事なんか如何《どう》なさいますの。
 ――外で安飯《やすめし》を喰《た》べてますよ。
 ――大変ね。
 ――独《ひと》り者の気楽さって処《ところ》もありますよ。
 墓地を出て両側の窪《くぼ》みに菌《きのこ》の生《は》えていそうな日蔭《ひかげ》の坂道にかかると、坂下から一幅《いっぷく》の冷たい風が吹き上げて来た。
 ――どうです、僕の汚い部屋へ一寸《ちょっと》お寄りになりませんか。
 ――有難《ありがと》う。
 逸作もかの女も甲野氏の部屋へ寄るとも寄らぬとも極《き》めないでぶらぶら歩いた。道が、表街近くなった明るい三つ角に来た時、甲野氏は、自分の部屋に寄りそうもない二人と別れて自分の家の方へ行こうとしたが、また一寸引きかえして来て、殊《こと》にかの女に向いて言った。
 ――僕、昨日の朝、散歩の序《ついで》に戸崎夫人の処《ところ》へ寄って見ましたよ。
 ――そう、此頃《このごろ》あの方どうしてらっしゃる?
 ――相変《あいかわ》らず真赤な洋服かなんか着てね、「甲野さんのようなプロレタリア文学家と私のような小説家と、どっちが世の中の為《た》めになるかってこと考えて御覧《ごらん》なさい。世の中には食えない人より食える人の方がずっと多いのだから、私の小説は、その食える人の方の読者の為めに書いてるんだ。」と、斯《こ》うですよ。は、は、は、は。
 かの女は、華美でも洗練されて居《い》るし、我儘《わがまま》でも卒直《そっちょく》な戸崎夫人の噂《うわ》さは不愉快《ふゆかい》でなかった。そういう甲野氏も僻《ひが》み易《やす》いに似ず、ずかずか言われる戸崎夫人をちょいちょい尋《たず》ねるらしかった。
 ――あなたの噂《うわさ》も出ましたよ。あなたをたんと褒《ほ》めて居たが、おしまいが好《い》いや、――だけどあの方あんなに息子の事ばかり思ってんのが気が知れないって。
 かの女はぷっと吹き出してしまった。かの女は子を持たない戸崎夫人が、猫、犬、小鳥、豆猿と、おおよそ小面倒な飼い者を体の周りにまつわり付けて暮らして居る姿を思い出したからである。



底本:「愛よ、愛」メタローグ
   1999(平成11)年5月8日第1刷発行
底本の親本:「岡本かの子全集 第五巻」冬樹社
   1974(昭和49)年12月発行
※「二三丁」「量見《りょうけん》」「鍵形《かぎがた》」の表記について、底本は、原文を尊重したとしています。
入力:門田裕志
校正:土屋隆
2004年2月17日作成
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