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青春の逆説
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)こって牛[#「こって牛」に傍点]
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 第一部  二十歳

    第一章

      一

 お君は子供のときから何かといえば跣足になりたがった。冬でも足袋をはかず、夏はむろん、洗濯などするときは決っていそいそと下駄をぬいだ。共同水道場の漆喰の上を跣足のままペタペタと踏んで、
「ああ、良え気持やわ」
 それが年頃になっても止まぬので、無口な父親も流石に、
「冷えるぜエ」とたしなめたが、聴かなんだ。蝸牛を掌にのせ、腕を這わせ、肩から胸へ、じめじめとした感触を愉んだ。また、銭湯で水を浴びるのを好んだ。湯気のふき出ている裸にざあッと水が降り掛って、ピチピチと弾み切った肢態が妖しく顫えながら、すくッと立った。官能がうずくのだった。何度も浴びた。
「五へんも六ぺんも水かけまんねん。良え気持やわ」と、後年夫の軽部に言ったら、若い軽部は顔をしかめた。
 お君が軽部と結婚したのは十八の時だった。軽部は小学校の教師、出世がこの男の固着観念で、若い身空で浄瑠璃など習っていたが、むろん浄瑠璃ぐるいの校長に取り入るためだった。下寺町の広沢八助に入門し、校長の驥尾に附して、日本橋筋五丁目の裏長屋に住む浄瑠璃本写本師、毛利金助に稽古本を註文したりなどした。
 お君は金助のひとり娘だった。金助は朝起きぬけから夜おそくまで、背中をまるめてこつこつと浄瑠璃の文句を写しているだけが能の、古ぼけた障子のようにひっそりした無気力な男だった。女房はまるで縫物をするために生れて来たような女で、いつ見ても薄暗い奥の間にぺたりに坐り込んで針を運ばせていた。糖尿病をわずらってお君の十六の時に死んだ。女手がなくなって、お君は早くから一人前の大人並みに家の切りまわしをした。炊事、針仕事、借金取の断り、その他写本を得意先に届ける役目もした。若い見習弟子がひとりいたけれど、薄ぼんやりで役に立たず、邪魔になるというより、むしろ哀れだった。
 お君が上本町九丁目の軽部の下宿先へ写本を届けに行くと、二十八の軽部はぎょろりとした眼をみはった。裾から二寸も足が覗いている短い着物をお君は着て、だから軽部は思わず眼をそらした。
「女は出世のさまたげ」
 熱っぽいお君の臭いにむせながら、日頃の持論にしがみついた。しかし、三度目にお君が来たとき、
「本に間違いないか、今ちょっと調べて見るよってな、そこで待っとりや」と坐蒲団をすすめて置いて、写本をひらき、
 ――あと見送りて政岡が……、ちらちらお君を盗見していたが、次第に声もふるえて来て、生唾をぐっと呑み込み、
 ――ながす涙の水こぼし……
 いきなり霜焼けした赤い手を掴んだ。声も立てぬのが、軽部は不気味だった。その時のことを、あとでお君が、
「なんや斯う、眼エの前がぱッと明うなったり、真ッ黒けになったりして、あんたの顔こって牛[#「こって牛」に傍点]みたいに大けな顔に見えた」と言って、軽部にいやな想いをさせたことがある。軽部は小柄な割に顔の造作が大きく、太い眉毛の下にぎょろりと眼が突き出し、分厚い唇の上に鼻がのし掛っていて、まるで文楽人形の赤面みたいだが、彼はそれを雄大な顔だと己惚れていた。けれども、顔のことに触れられると、さすがに何がなし良い気持はしなかった。
 ……その時、軽部は大きな鼻の穴からせわしく煙草のけむりを吹き出しながら、
「この事は誰にも言うたらあかんぜ。分ったやろ。また来るんやぜ」と駄目押した。けれども、それきりお君は来なかった。軽部は懊悩した。このことはきっと出世のさまたげになるだろうと思った。序でに、良心の方もちくちく痛んだ。あの娘は妊娠しよるやろか、せんやろかと終日思い悩み、金助が訪ねて来ないだろうかと怖れた。己惚れの強い彼は、「教育者の醜聞」そんな見出の新聞記事まで予想し、ここに至って、苦悩は極まった。いろいろ思い案じた挙句、今の内にお君と結婚すれば、たとえ妊娠しているにしても構わないわけだと気がつき、ほッとした。何故このことにもっと早く気がつかなかったか、間抜けめと自ら嘲った。けれども、結婚は少くとも校長級の家の娘とする予定だった。写本師風情の娘との結婚など夢想だにしなかったのではないか。僅かに、お君の美貌が彼を慰めた。
 某日、軽部の同僚と称して、薄地某が宗右衛門町の友恵堂の最中を手土産に出しぬけに金助を訪れ、呆気にとられている金助を相手に四方山の話を喋り散らして帰って行き、金助にはさっぱり要領の得ぬことだった。ただ、薄地某の友人の軽部村彦という男が品行方正で、大変評判の良い、血統の正しい男であるということだけが朧気にわかった。
 三日経つと、当の軽部がやって来た。季節外れの扇子などを持っていた。ポマードでぴったりつけた頭髪を二三本指の先で揉みながら、
「実はお宅の何を小生の……」妻にいただきたいと申し出でた。金助がお君に、お前は、と訊くと、お君は恐らく物心ついてから口癖であるらしく、
「私でっか。私は如何でもよろしおま」表情一つ動かさず、強いて言うならば、綺麗な眼の玉をくるりくるり廻していた。
 あくる日、金助が軽部を訪れて、
「ひとり娘のことでっさかい。養子ちゅうことにして貰いましたら……」
 都合が良いとは言わせず、軽部は、
「それは困ります」と、まるで金助は叱られに行ったみたいだった。
 やがて、軽部は小宮町に小さな家を借りてお君を迎えたが、この若い嫁に「大体に於て満足している」と、同僚たちに言いふらした。お君は白い綺麗なからだをしていた。なお、働き者で、夜が明けるともうぱたぱたと働いていた。
 ――ここは地獄の三丁目、行きは良い良い帰りは怖い。と朝っぱらから唄うたが、間もなく軽部にその卑俗性を理由に禁止された。
「浄瑠璃みたいな文学的要素がちょっともあれへん」と言いきかせた。かつて彼は国漢文中等教員検定試験を受けて、落第したことがあった。それで、お君は、
 ――あはれ逢瀬の首尾あらば、それを二人が最期日と、名残りの文のいひかはし、毎夜毎夜の死覚悟、魂抜けてとぼとぼうかうか身をこがす……。と、「紙治」のサワリなどをうたった。下手糞でもあったので、軽部は何か言い掛けたが、しかし満足することにした。
 ある日、軽部の留守中、日本橋の家で聞いて来たんですがと、若い男が顔を出した。
「まあ、田中の新ちゃんやないの、どないしてたの?」
 もと近所に住んでいた古着屋の息子の田中新太郎で、朝鮮の聯隊に入営していたが、除隊になって昨日帰って来たところだという。何はともあれと、上るなり、
「嫁はんになったそうやな。なんで自分に黙って嫁入りしたんや」と、田中新太郎は詰問した。かつて唇を三回盗まれたことがあり、体のことがなかったのは単に機会だったと今更口惜しがっている彼の肚の中などわからぬお君は、そんな詰問は腑に落ちかねた。が、さすがに日焼けした顔に泛んでいるしょんぼりした表情を見ては、哀れを催した。天婦羅丼をとったりして、もてなしたが、彼はこんなものが食えるかと、お君の変心を怒りながら、帰ってしまった。その事を夕飯のときに軽部に話した。軽部は新聞を膝の上に拡げたままふんふんと聴いていたが、話が唇のことに触れると、いきなり、新聞がばさりと音を立て、続いて、箸、茶碗、そしてお君の頬がぴしゃりと鳴った。お君はきょとんとした顔で暫く軽部の顔を見ていたがにわかに泣声を出した。すると、大きな涙がぽたぽたと畳の上に落ちた。泣声をあとに、軽部は憂鬱な散歩に出掛けた。出しなに、ちらりと眼に入れた肩の線がそんな話のあとでは一層悩ましく、ものの三十分もしない内に帰って来ると、お君の姿が見えぬ。火鉢の側に腰を浮かせて、半時間ばかりうずくまっていると、
 ――魂抜けて、とぼとぼうかうか……、
 声がきこえ、湯上りの匂いをぷんぷんさせて、帰って来た。その顔を一つ撲って置いてから、軽部は、
「女いうもんはな、結婚まえには神聖な体でおらんといかんのやぞ。キッスだけのことにしろやね、……」
 言い掛けて、いつかの苦い想出がふっと頭に来た。何か矛盾めくことを言うようだったから、簡単な訓戒に止めることにした。軽部はお君と結婚したことを後悔した。しかし、お君が翌年の三月、男の子を産むと、日を繰ってみてひやっとし、結婚して置いて良かったと思った。生れた子は豹一と名付けられた。日本が勝ち、ロシヤが負けたという意味の唄が未だ大阪を風靡していたときのことだった。その年、軽部は五円昇給した。
 同じ年の暮、二ツ井戸の玉突屋日本橋クラブの二階広間で広沢八助連中素人浄瑠璃大会が開かれ、聴衆約百名、随分盛会だった。
 軽部村彦こと軽部八寿はそのときはじめて高座に上った。はじめてのことだからと露払いを買って出で、ぱらりぱらりと集りかけた聴衆の前で簾を下したまま語ったが、それでも、沢正オ! と声が掛ったほどの熱演だった。熱演賞として湯呑一個貰った。露払いを済ませ、あと汗びしょのまま会の接待役としてこまめに立ち働いたのが悪かったのか、翌日から風邪をひいて寝込んだ。こじれて急性肺炎になった。かなり良い医者に診てもらったのだが、ぽくりと軽部は死んだ。涙というものは何とよく出るものかと不思議なほど、お君はさめざめと泣き、夫婦はこれでなくては値打がないと、ひとびとはその泣き振りに見とれた。
 しかし、二七日の夜、追悼浄瑠璃大会が校長の肝いりで同じく日本橋クラブの二階でひらかれると、お君は赤ん坊を連れて姿を見せ、どっさり[#「どっさり」に傍点]の校長が語った「紙治」のサワリで、パチパチと音高く拍手した。
 手を顔の上にあげ、人眼につきひとびとは眉をひそめた。軽部の同僚たちは、何か腹の中でお互いの妻の顔を想い泛べて、随分頼りない気持を顔に見せた。校長はお君の拍手に満悦したようだった。
 三七日の夜、あらたまって親族会議があった。四国の田舎から来た軽部の父が、お君の身の振り方に就て、お君の籍は金助のところに戻し、豹一も金助の養子にしてもろたらどんなもんじゃけんと、渋い顔をして意見を述べ、お君の意嚮を訊くと、
「私でっか。私は如何でもよろしおま」
 金助は一言も意見らしい口をきかなかった。
 いよいよ実家に戻ることになり、お君が豹一を連れて日本橋の裏長屋へ帰ってみると、家の中は呆れるほど汚かった。障子の桟にはべたッと埃がへばりつき、天井には蜘蛛の巣がいくつも、押入れには汚れ物が一杯あった。お君が嫁いだ後、金助は手伝い婆さんを雇って家の中を任せていたが、よりによって婆さんは腰が曲り、耳も遠かったのだ。
「此のたびはえらい御不幸な……」と挨拶した婆さんに抱いていた子供を預けると、お君は一張羅の小浜縮緬の羽織も脱がず、ぱたぱたとそこら中はたきはじめた。
 三日経つと、家の中は見違えるほど綺麗になった。婆さんは、実は田舎の息子がと自分から口実を作って暇をとらざるを得なかった。そして、
 ――ここは地獄の三丁目、の唄が朝夕きかれた。よく働いた。そんなお君の帰って来たことを金助は喜んだが、この父は亀のように無口であった。軽部の死に就てもついぞ一言も纒まった慰めをしなかった。
 古着屋の田中新太郎は既に若い嫁をもらっており、金助の抱いて行った子供を迎えに、お君が銭湯の脱衣場へ姿を見せると、その嫁も最近生れた赤ん坊を迎えに来ていて、仲善しになった。雀斑だらけの鼻の低いその嫁と見比べてみると、お君の美貌は改めて男湯で問題になるのだった。露骨に俺の嫁になれと持ち掛けるものもあったが、お君はくるりくるり綺麗な眼の玉をまわして、笑っていた。金助の所へ話をもって行くものもあった。その都度金助がお君の意見を訊くと、例によって、
「私は如何でも……」
 良いが、俺は嫌だと、こんどは金助は話を有耶無耶に断ってしまった。
 夏、寝苦しい夜、軽部の乱暴な愛撫が瞼に重くちらついた。見習弟子はもう二十一歳になっていて白い乳房を子供にふくませて転寝しているお君を見ては、固唾をのみ、空しく胸を燃していた。
 歳月が流れた。

      二

 五年経ち、お君が二十四、子供が六つの年の暮、金助は不慮の災難であっけなく死んでしまった。
 その日、大阪は十一月末というに珍らしくちらちら粉雪が舞うていた。孫の成長と共にすっかり老い込み、耄碌していた金助が、お君に五十銭貰い、孫の手をひっぱって千日前の楽天地へ都築文男一派の連鎖劇を見に行った帰り、日本橋一丁目の交叉点で恵美須町行きの電車にひかれたのだった。救助網に撥ね飛ばされて危うく助かった豹一が、誰かにもらったキャラメルを手にもち、ひとびとに取りかこまれて、わあわあ泣いているところを見た近所の若い者が、「あッ、あれは毛利のちんぴら[#「ちんぴら」に傍点]や」と自転車を走らせて急を知らせてくれ、お君が駈けつけると、黄昏の雪空にもう電燈をつけた電車が何台も立往生し、車体の下に金助のからだが丸く転っていた。ぎゃッと声を出したが、不思議に涙は出ず、豹一がキャラメルのべとべとひっついた手でしがみついて来たとき、はじめて咽喉の中が熱くなった。そして何も見えなくなった。やがて、活気づいた電車の音がした。
 その夜、近所の質屋の主人が大きな風呂敷包をもってやって来、おくやみを述べたあと、
「実は先達お君はんの嫁入りのときでしてん。支度の費用や言うてからに、金助はんにお金を御融通しましたのや。そのときの品が、利子もはいってまへんので、もう流れてまんネやけど、なんやこうお君はんとこでは大切な品や思いまんので、相談によって何せんこともおまへん、と、こない思いましてな。何れ電車会社の……」慰藉金を少くとも千円と見込んで、これでんねんと出したのを見ると、系図一巻と太刀一振だった。ある戦国時代の城主の血をかすかに引いている金助の立派な家柄が、それでわかるのだったが、お君にははじめて見る品だった。金助から左様な家柄に就てついぞ一言もきかされたこともなく、むろん軽部も知らず、軽部がそれを知らずに死んだのは、彼の不幸の一つだった。お君に知らさなかった金助も金助だが、お君もまたお君で、
「折角でっけど、そんなもん私には要用おまへん」と、質屋の申出を断り、その後家柄のことも忘れてしまった。利子の期限云々とむろん慾に掛って執拗にすすめられたが、お君は、ただ気の毒そうに、
「私にはどうでも良えことだっさかい。それになんだんねん……」電車会社の慰藉金はなぜか百円そこそこの零細な金一封で、その大半は暇をとることになった見習弟子に呉れてやる肚だった。そんなお君に山口の田舎から来た親戚の者は呆れかえって、葬式、骨揚げと二日の務めを済ませるとさっさとひきあげてしまい、家の中ががらんとしてしまった夜、ふと眼をさまして、
「誰?」と、暗闇に声を掛けたが、答えず、思わぬ大金をもらって気が変になったのか、こともあろうにそれは見習弟子だと、やがて判った。しかし、あくる日になると、見習弟子は不思議なくらいしょげ返ってお君の視線を避けて、男らしくなく、むしろ哀れだったが、夕方国元から兄と称する男が引取りに来ると彼はほッとしたようだった。永々厄介な小僧を世話でしたのうと兄が挨拶したあと、ぺこんと頭を下げ、
「ほんの心じゃけ、受けてつかわさい」と、白い紙包を差し出して、何ごともなかった顔で、こそこそ出て行った。見ると、写本の字体で、ごぶつぜんとあり、お君が呉れてやったお金がそっくりそのままはいっていた。国へ帰って百姓すると言った彼の貧弱な体やおどおどした態度を憐み、お君はひとけのなくなった家の中の空虚さに暫くぽかんと坐ったままだったが、やがて、
 ――船に積んだアら、どこまで行きやアる、木津や難波アの橋のしイたア……
 思い出したように哀調を帯びた子守唄を高い声で豹一に聴かせた。
 お君は上塩町地蔵路地の裏長屋に家賃五円の平屋を見つけて、そこに移ると、早速、「おはり教えます」と、小さな木札を軒先に吊した。長屋の者には判読しがたい変った書体で、それは父親譲り、裁縫は絹物、久留米物など上手とはいえなかったが、これは母親譲り、月謝五十銭の界隈の娘たち相手にはどうにか間に合い、むろん近所の仕立物も引き受けた。
 慌しい年の暮、頼まれた正月着の仕立に追われて、夜を徹する日が続いたが、ある夜更け、豹一がふと眼をさますと、スウスウと水洟をすする音がきこえ、お君は赤い手で火鉢の炭火を掘りおこしていた。戸外では霜の色が薄れて行き、……そんな母親の姿に豹一は幼心にもふと憐みを感じたが、お君は子供の年に似合わぬ同情や感傷など与り知らぬ母だった。
「お君さんは運が悪うおますな」と、長屋の者が慰めに掛っても、
「仕方おまへん」と、笑って見せた。軽部の死、金助の死と相つづく不幸もどこ吹いた風かといった顔だったから、愚痴の一つも聞いてやり、貰い泣きもさして貰いまひょと期待した長屋の女たちは、何か物足らなかった。
 大阪の路地にはたいてい石地蔵が祀られていて、毎年八月の末に地蔵盆の年中行事が行われたが、お君の住んでいる地蔵路地は名前からして、他所の行事に負けられなかった。戸毎に絵行燈をかかげ、狭苦しい路地の中で、近所の男や女が、
 ――トテテラチンチン、トテテラチン、チンテンホイトコ、イトハトコ、ヨヨイトサッサ、……と踊った。お君は無理して西瓜二十個寄進し、薦められて踊りの仲間にはいった。お君が踊りに加わったため、夜二時までとの警察のお達しが明け方まで忘れられた。
 相変らず、銭湯で水を浴びた。肌は娘の頃の艶を増していた。ぬか袋を使うのかと訊かれた。水を浴びてすくっと立っている、眼の覚めるような鮮かな肢態に固唾をのむような嫉妬を感じていた長屋の女が、あるときお君の頸筋を見て、
「まあ、お君さんたら、頸筋に生ぶ毛が一杯……」生えているのに気が付いたのを倖い、大袈裟に言うので、銭湯の帰り、散髪屋へ立ち寄ってあたって貰った。剃刀が冷やりと顔に触れた途端、どきッと戦慄を感じたが、やがてさくさくと皮膚の上を走って行く快い感触に、思わず体が堅くなり、石鹸と化粧料の匂いのしみ込んだ手が顔の筋肉をつまみあげるたびに、体が空を飛び、軽部を想い出した。
 そのようなお君に、そこの職人の村田は商売だからという顔をときどき鏡にたしかめて見なければならなかった。しかし、その後月に二回は必ずやって来るお君に、村田は平気で居れず、ある夜、新聞紙に包んだセルの反物を持って路地へやって来て、
「思い切って一張羅イを張りこみましてん。済んまへんが一つ……」縫うてくれと頼むと、そのままぎこちない世間話をしながらいつまでも坐り込み、お君を口説く機会は今だ今だと心に叫んでいたが、そんな彼の肚を知ってか知らずにか、お君は、長願寺の和尚さんももう六十一の本卦ですなというつまらぬ話にも、くるりくるりと眼玉をまわして、げらげら笑っていた。
 豹一は側に寝そべっていたが、いきなり、つと起き上ると、きちんと両手を膝の上に並べて、村田の顔を瞶め、何か年齢を超えて挑みかかって来る眼付きだと、村田は怖れ見た。やがて村田は自分の内気を嘲りながら、帰って行った。路地の入口で放尿した。その音を聞きながら、豹一は不安な顔でごろりと横になった。

      三

 豹一は早生れだから、七つで尋常一年生になった。始業式の日にもう泣いて帰ったから、お君は日頃の豹一のはにかみ屋を思い出し、この先が案じられると、訊けば、同級の男の子を三人も撲ったので教師に叱られた、ということだった。
 学校での休暇時間には好んで女の子と遊んだ。少女のような体つきで、顔も色白くこぢんまり整っていたから、女教師たちがいきなり抱きしめに来た。豹一は赧い顔で逃げ、二、三日はその教師の顔をよう見なかった。身なりのみすぼらしさを恥じていたのである。一つには、可愛がられるということが身につかぬ感じで、皮膚はもう自分から世間の風に寒く当っていた。
 一週間に五人ぐらい、同級の男の子が彼に撲られて泣いた。子供にしては余り笑わなかった。泣けば、自分の泣き声に聴き惚れているかのような泣き方をした。泣き声の大きさは界隈の評判だと、自分でも知っていた。ある時、何に腹立ってか、路地の井戸端にある地蔵に小便をひっ掛けた。見ている人があったので、一層ゆっくりと小便をした。お君は気の向いた時に叱った。
 八つの時、学校から帰ると、いきなり仕立おろしの久留米の綿入を着せられた。筒っぽの袖に鼻をつけると、紺の匂いがぷんぷん鼻の穴にはいって来て、気取り屋の豹一には嬉しい晴着だったが、流石に有頂天にはなれなかった。お君はいつになく厚化粧し、その顔を子供心に美しいと見たが、何故かうなずけなかった。仕付糸をとってやりながら、
「向う様へ行ったら行儀ようするんやぜ」
 お君は常の口調だったが、豹一は何か叱られていると聴いた。
 路地の入口に人力車が三台来て並ぶと、母の顔は瞬間面のようになり、子供の分別ながらそれを二十六の花嫁の顔と見て、取りつく島もないしょんぼりした気持になった。火の気を消してしまった火鉢の上に手をかざし、張子の虎のように抜衣紋した白い首をぬっと突き出し、じじむさい恰好で坐っているところを、豹一は立たされ、人力車に乗せられた。見知らぬ人が前の車に、母はその次に、豹一はいちばん後の車。一人前に車の上にちょこんと収っている姿をひねてると思ったか、車夫は、
「坊ん坊ん。落ちんようにしっかり掴まってなはれや」
 その声にお君はちらりと振り向いた。もう日が暮れていた。
「落てへんわいな」と豹一はわざとふざけた声で言い、それが夕闇のなかに消えて行くのをしんみり聴いていた。ふわりと体が浮いて、人力車は走り出した。だんだん暗さが増した。ひっそりとした寺がいくつも並んだ寺町を通るとき、木犀の匂いが光った。豹一は眩暈がし、一つにはもう人力車に酔うていたのだった。それが恥しく情けなかった。梶棒の先につけた提灯の火が車夫の手の動脈を太く浮び上らせていた。尋常二年の眼で提灯に書かれた「野瀬」の二字を判読しようとしていたが、頭の血がすうすう引いて行くような胸苦しさで、困難だった。その夜、一人で寝た。
 蒲団についたナフタリンの匂いが何か勝手が違って、母親のいない淋しさをしみじみ感じさせた。泣けもしなかった。小さな眼で意味もなく天井を睨んでいた。母は階下で見知らぬ人といた。野瀬安二郎だと、あとで判った。
 野瀬安二郎は谷町九丁目いちばんの金持と言われ、慾張りとも言われた。高利貸をして、女房を三度かえ、お君は四番目の女房だった。ことし四十八歳の安二郎がお君を見染めて、縁談を取りきめるまでには、大した手間は掛らなかった。
「私でっか。私は如何でもよろしおま」
 しかし、流石にお君は、豹一が小学校を卒業したら中学校へやらせてくれと条件をつけた。これは吝嗇漢の安二郎にはちくちく胸痛む条件だったが、けれどもお君の肩は余りにも柔かそうにむっちり肉づいていた。
 安二郎には子供がなく、さきの女房を死なせると、直ぐ女中を雇って炊事をやらせるほか、女房の代りも時にはさせていたが、お君が来ると、途端に女中を追い出し、こんどはお君が女中の代りとなった。
「人間は節約せんことには、あかんネやぜ、よう聴いときや」と口癖して、一銭のお金もお君の自由に任せず、毎日の市場行きには十銭、二十銭と端金を渡し、帰ると、釣銭を出させた。ときには自分で市場へ行き、安鰯を六匹ほど買うて来て、自分は四匹、あとはお君と豹一に一匹ずつ与えた。いつか集金に行って乱暴をされたことがあって以来、山谷という四十男を雇って集金に廻らせていたが、むろん山谷は手弁当で、安二郎のところで昼食すら出すことはなかった。山谷は破戒僧面をして、ひとり身だった。ある日、豹一に淫らな表情で、お君と安二郎のことに就て、きくにたえぬ話を言って聞かせた。
「如何してん? 坊ん坊ん」山谷が驚いて豹一の顔を見ると、怖いほど蒼白み、唇に血がにじみ、前歯も少し赤かった。眼がぎらぎら光って、涙をためていた。
 誇張して言えば、その時豹一の自尊心は傷ついた。人一倍傷つき易かった。なお、しょんぼりした。辱かしめられたと思い、性的なものへの嫌悪もこのとき種を植えつけられた。持前の敵愾心は自尊心の傷から膿んだ。横眼を使うことが堂に入り、安二郎を見る眼つきが変った。安二郎の背中で拳骨を振り廻した。母は毎晩安二郎の肩をいそいそ揉んだ。
 豹一は一里以上もある築港まで歩いて行き、黄昏れる大阪湾を眺めて、夕陽を浴びて港を出て行く汽船にふと郷愁を感じたり、訳もなく海に毒づいたりした。
 ある日、港の桟橋で、ヒーヒー泣き声を出したい気持をこらえて、その代り海に向って、
「馬鹿野郎」と、呶鳴った。誰もいないと思ったのが、釣をしていた男がいきなり振り向いて、
「こら、何ぬかす」そして白眼をむいている表情が生意気だと撲られた。泣きながら一里半の道を歩いて帰った。とぼとぼ来て夕凪橋の上でとっぷり日が暮れ、小走りに行くと、電燈をつけた電車が物凄い音で追い駈けて来て、怖かった。
 家へはいると、安二郎は風呂銭を節約しての行水で、お君は袂をたかくあげて背中を流していた。それが済むと、お君が行水し、安二郎は男だてらにお君の背中を流した。そのあと、豹一のはいる番だったが、狸寝入して、呼ばれても起きなかった。
 だんだん憂鬱な少年となり、やがて小学校を卒業した。改めてお君が中学校へ入れてくれるように安二郎に頼んだが、
「わいは知らんぜ」安二郎はとぼけて見せた。軽部が中学校の教員になりたがっていたことなども俄かに想い出されて、お君はすっかり体の力が抜けた。安二郎は豹一に算盤を教え、いずれ奉公に出すか高利の勘定や集金に使う肚らしかった。
 夜寝しな、豹一の優等免状を膝の上に拡げていつまでも見、安二郎が言ってもなかなか寝なかった。やがて物も言わずに突き膝で箪笥の方へにじり寄り、それを蔵いこむ、その腰のあたりを見ると、安二郎はおかしいほど狼狽した。お君が箪笥から自分のものを取り出して、そのまま暇を取ってしまうかと、思い込んだのである。渋々承知した。
 やがて豹一は中学校へはいったが、しかし、安二郎は懐を傷めなかった。お君はどこからか仕立物を引き受けて来て、その駄賃で豹一の学資を賄った。賃仕事だけでは追っ付かず、自分の頭のものや着物を質に入れたり、近所の人に一円、二円と小金を借りたりした。高利貸の御寮はんが他人に金を借りるのはおかしいやおまへんかと言われた。が、実は入学の時の纒った金は安二郎に借り、むろん安二郎はお君から利子をとる肚でいた。仕立物に追われて、お君の眼のふちはだんだん黝んで来た。

    第二章

      一

 中学生の豹一は自分には許嫁があるのだと言い触らした。そのためかえって馬鹿にされていると気が付く迄、相当時間が掛った。その間、自分に箔をつけたつもりで、芸もなくやに下っていたのである。
 彼は絶えず誰かに嘲笑されるだろうという恐怖を疥癬のように皮膚に繁殖させていた。必要以上に肩身の狭い思いを、きょろきょろ身辺を見廻す眼の先にぶら下げていたのである。少年らしい虚栄心で、だから彼には人一倍箔をつける必要があった。おまけに入学試験の時、彼の自尊心にとっては致命傷とも言う失敗があったのだ。
 入学試験は自分の運命を試すようなものだと、彼は子供心にも異様な興奮を感じながら試験場へはいっていた。ところが余り興奮したので、ふと尿意を催した。未だ答案は全部出来ていなかった。出るわけにはいかなかった。その旨監督の教師に言って、途中で便所へ行かせて貰うことも考えたが、実行しかねた。人とは違って自分にはそんなことを要求出来ない子供だと、日頃から何か諦めていたのである。どうにも我慢が出来ず、書きかけの答案を提出して、試験場を出てしまおうか。しかし、そうすれば、落第だ。彼は下腹を押えたままじっとこらえていた。そわそわして問題の意味もろくに頭にはいらなかった。こんなことでは駄目だと、頭を敲きながら、答案用紙にしがみついていると、ふと下腹から注意が外れた。いきなり怖いような快意に身を委ねて、ええ、もうどうでもなれ。坐尿してしまった。あと周章てて答案を書き、机の上へ裏がえしに重ねて、そわそわと出て行く拍子に、答案用紙が下へ落ちた。濡れたのである。
 試験中三時間も子供たちを閉じこめて置くので、こんなことは屡※[#「※」は踊り字のゆすり点、19下-13]あることだから、監督の教師は無表情な顔で坐尿の場所へ来た。教師は黙って拾い上げた。机の上へ置いて、また教壇の方へ戻って行った。しかし、豹一は、教師は俺の顔と答案用紙の番号を見較べた、と思った。途端に落第だと諦めた。
 ところが運良く合格した。つまり難なく中学生になったのである。すると、改めて坐尿のことが苦しくなって来た。入学式の時、誰かあのことを知っているだろうかと、うかがう眼付きになった。試験の時だったからお互いに未だ顔を見知っていなかったが、一人二人素早く見覚えていた奴はあるに違いないと思った。その時の監督の教師は国語を担当していて、豹一の教室へも一週間に四度やって来た。そのたびに、豹一は身を縮めて、ばらされやしないかと冷やひやしていたのである。
 もう一つ、こんなことがあった。同級生間で、誰がどんな家に住んでいるか見届けようと、放課後探偵気取りで尾行することが流行した。ある日、豹一にも順番が廻って来た。家の構えはともかく、高利貸の商売をしているのを知られるのがいやで、尾行られたと気付くと、蒼くなって曲り角からどんどん逃げた。家へ駈け込むとき、軒先へ傘を置き忘れた。果して、
「毛利君! 毛利君! 出て来い」表で呶鳴る声が聴えた。豹一は二階で犯人のように小さく息をこらしていた。顔を両手の中に埋め、眼を閉じていた。表札が「野瀬」となっていることも辛かった。
 そんなことがあって見れば、箔をつける必要も充分あった。しかし、よりによって許嫁があるなどと言い触らしたのはなんとしたことか。許嫁があると言い触らすことによって、家庭的に恵まれている風に見せたかったのだが、未だ一年生の同級生を相手では、効果はなかった。許嫁を羨しがる早熟な者もいなかったのである。やがて、だんだんに馬鹿にされていると気がつくと、もう首席にでもなるよりほかに、自尊心の保ちようがないと思った。
 豹一は顔色が変る位勉強した。自分の学資をこしらえる為に夜おそく迄針仕事をしている母親のことを考えれば、いくら勉強しても足りない気持だった。試験前になると、お君は寝巻のままでお茶と菓子を盆にのせて机の傍へ持って来てくれた。そんな風にされるのが豹一には身に余って嬉しいのである。たとえそれが母親にしろ、夜おそく人にお茶を沸かして貰えようとは夢にも希んでいなかったのだ。階下から聴える安二郎の乱暴な鼾もなぜか勉強に拍車を掛けるのに役立った。もう寝ようと、ふと窓の外を見ると、東の空が紫色に薄れて行き、軒には氷柱が掛り、屋根には霜が降りていた。さすがにしんみりとした気持になるのだった。
 二年に進級する時、成績が発表された。首席になっていた。豹一はかなり幸福な気持になった。しかし、全く幸福だと言っては言い過ぎだった。何かの間違いだろうという心配があったからである。からかわれているのではないかと、身体を見廻す眼付になるのだった。自分の頭脳にはひどく自信がなかったからである。クラスの者は少くとも彼の暗記力の良さだけは認め、怖れを成していたのだが、豹一には人から敬服されるなど与り知らぬことだった。まして首席という位置は、日頃諦めている運命には似つかわしくなかったのである。
 だから、自分でも屡※[#「※」は踊り字のゆすり点、20下-20]首席だという事実を顧る必要があった。言い触らした。いつか「首席」が渾名になってしまった。いわば首席の貫禄がなかったのである。ふと、母親のことや坐尿のことを想い出すと、
「こんどめは誰が二番になるやろな」クラスの者を掴えて言うのだった。
 これは随分鼻についた。クラスの者はうんざりし、豹一がそんな風に首席に箔をつけたがるので、いつかそれをメッキだと思い込んだ。
「あいつはたかが点取虫だ」
 一学期の試験の前日、豹一は新世界の第一朝日劇場へ出掛けた。マキノ輝子の映画を見、試験場へそのプログラムの紙を持って来て見せた。
 そのことが知れて豹一は一週間の停学処分を受けた。一週間経って、教室へ行くと、受持の教師が来て、出席点呼が済むなり、
「此の級は今まで学校中の模範クラスだったが、たった一人クラスを乱す奴がいるので、一ぺんに評判が下ってしまった。残念なことだ」とこんな意味のことを言った。自分のことを言われたのだと豹一はポンと頭を敲いて、舌を出し、首を縮めた。しかも誰も笑いもしなかった。それどころか、そんな豹一の仕草をとがめるような視線がいくつかじろりと来た。豹一はすっかり当が外れてしまった。
 やっと休憩時間になると、豹一はキャラメルをやけにしゃぶっていた。普通、級長のせぬことである。案の定、沼井という生徒が傍へ来て、
「君一人のためにクラス全体が悪くなる」とわざと標準語で言った。豹一は、
「そら、いま教師の言ったことや。君に聴かせてもらわんでもええ。それに心配せんでもええ。君みたいな模範生がいたら、めったにクラスは悪ならん」
 沼井はぞろぞろとクラスの者が集って来たのに力を得たのか、
「教室でものを食べるのは悪いことだよ、君」と言った。またしても標準語だった。
「だから君は食べないやろ? それでええやないか。俺が食べるのはこら勝手や」そう言うと、いきなり沼井の手が豹一の腕を掴んだ。
「口のものを吐き出せ。郷に入れば郷に従えということがある」
 いつかクラスの者に取り囲まれていた。が、その時ベルが鳴った。豹一は授業中もキャラメルをしゃぶっていた。
 三日経った放課後、沼井を中心に二十人ばかりの者にとりかこまれて、鉄拳制裁をされた。豹一は二十分程奮闘したが、結局無暴だった。鼻を警戒していたが、いつの間にか猛烈に鼻血を吹き出し、そして白い眼をむいた。それから間もなく、二学期の試験がはじまった。泡喰って問題用紙に獅噛みついているクラスの者の顔をなんと浅ましいと見た途端、いきなり敵愾心が頭をもたげて来て、ぐっと胸を突きあげた。沼井の方を見ると、沼井もしきりに鉛筆の芯をけずっているのだ。沼井は点取虫だということになっていた。
(ところが俺も点取虫と言われたことがある。沼井と同じ様に思われてたまるものか)
 豹一は書きかけの答案を周章てて消した。そして、つかつかと教壇の下まで行って、提出した。余り豹一の出し方が早いので、皆はあっ気にとられて、豹一の顔を見上げた。
「なんやこれ?」監督の教師は外していた眼鏡を掛けて覗き込んだ。
「白紙です」そして、わざと後も向かず、ざまあ見ろと胸を張って、教室を出た。はじめてほのぼのとした自尊心の満足があった。しかしその満足がもっと完全になるまで、もう三月掛った。翌年の三月、白紙の答案を補うに充分なほどの成績を取って進級するところを見せる必要があったのである。その三月は永かった。それだけに進級した時の喜びはじっと自分ひとりの胸に秘めて置けぬほどだった。気候も良かった。桜の花も咲き初めて、生温い風が吹くのである。豹一はまるで口笛でも鳴らしたい気持で、白紙の答案を想い出した。クラスの者は当分の間彼の声をきいてもぞっとした。なかには落第した者もいるのである。
 そんな風だから豹一はもう完全にクラスの者から憎まれてしまった。しかし、彼の敵愾心は最初から彼等を敵と決めていたから、憎まれてかえってサバサバと落ち着いた。美貌に眼をつけた上級生が無気味な媚で近寄って来ると、かえってその愛情に報いる術を知らぬ奇妙な困惑に陥るのだった。
 三年生の終り頃、ローマ字を書いた名を二つ並べ、同じ字を消して行くという恋占いが流行った。教室の黒板が盛んに利用され皆が公然に占っているのを、除け者の豹一はつまらなく見ていたが、ふと誰もが一度は水原紀代子という名を書いているのに気がついた途端、眼が異様に光った。豹一は最も成績の悪い男を掴え、相手にはまるで何を訊こうとしているのかわからぬ廻りくどい調子で半時間も喋り立てた挙句、水原紀代子に関する二、三の知識を得た。大軌電車沿線S女学校生徒だと知ったので、その日の午後、授業をサボって周章てて上本町六丁目の大軌構内へ駈けつけた。が、余り早く行き過ぎたので、緑色のネクタイをしめたS女学校の生徒が改札口からぞろぞろ出て来るまで、二時間待った。そして、やっと紀代子の姿を見つけることが出来た。教えられた臙脂の風呂敷包と、雀斑はあるが、非常に背が高くスマートだという目印でそれと分ったのだが、そんな目印がなくとも、つんと澄まして上を向いている表情は彼女になくてかなわぬものだと、豹一は思った。げらげらと愛想の良い女なら、二時間も待つ甲斐がなかったのである。
(しかし、なにがS女学校第一の美女だ。笑わせるではないか)
 けれども、大袈裟に大阪中の中学生の憧れの的だと騒がれている点を勘定に入れて、美人だと思うことにした。一般的見解に従ったまでだが、しかし澄み切った両の眼は冷たく輝いて、近眼であるのにわざと眼鏡を掛けないだけの美しさはあった。そんな事を咄嗟の間に考えていると、紀代子は足早に傍を通り過ぎようとした。豹一は瞬間さっと蒼ざめた。話し掛ける言葉がなぜか出て来ない口惜しさだった。
(この一瞬のために二時間を失うてはならない)
 この数学的な思い付きでやっと弾みつけられて、いきなり帽子を取って、
「卒爾ながら伺いますが、あなたは水原紀代子さんですか」
 月並でない、勿体振った言い方をと二時間も考えていた末の言葉だったから、紀代子も一寸呆れた。しかし、紀代子にしてみれば、こんな事はたびたびあることだ。大して赧くもならずに、
「はあ」そして、どうせ手紙を渡すならどうぞ早くという眼付きで、豹一を見た。そんな事務的な表情で来られたので、豹一はすっかり狼狽してしまい、考えていた次の言葉を忘れてしまった。いきなり逃げ出して、われながら不様だった。
 不良中学生にしてはなんと内気なと、紀代子は嗤って、振り向きもしなかったが、彼の美貌だけは一寸心に止っていた。(誰それさんならミルクホールへ連れて行って三つ五銭の回転焼を御馳走したくなるような少年やわ)ニキビだらけのクラスメートの顔をちらと想い泛べた。(しかし、私は違う)彼女は来年十八歳で卒業すると、いま東京帝国大学の法学部にいる従兄と結婚することになっており、十六の少年など十も下に見える姉さん面が虚栄の一つだった。
 それ故、その翌日から三日も続けて、上本町六丁目から小橋西之町への舗道を豹一に尾行られると、半分は五月蠅いという気持から、
「何か用ですの」いきなり振り向いて、きめつけてやる気になった。三日間尾行するよりほかに物一つ言えなかった弱気を苦しんでいた豹一の自尊心は、紀代子からそんな態度に出られたために、本来の面目を取り戻した。
「あんたなんかに用はありませんよ。己惚れなさんな。ただ歩いているだけです」
 すらすらと言葉が出た。その言葉が紀代子の自尊心をかなり傷つけた。
「不良中学生! うろうろしないで、早くお帰り」
「勝手なお世話です」
「子供の癖に……」と言い掛けたが、巧い言葉も出ないので、紀代子は、
「教護聯盟に言いますよ」
 近頃校外の中等学生を取締るために大阪府庁内に設けられた怖い機関を持ち出して、悪趣味だった。
「言いなさい。何なら此処へ呼びましょうか」そう言う不逞な言葉になると、豹一の独壇場だった。
「強情ね、あんたは。一体何の用なの」
「用はない言うてまっしゃろ。分らん人やな、あんたは……」大阪弁が出たので、少し和かになって来た。紀代子はちらと微笑し、
「用もないのに尾行るのん不良やわ。もう尾行んときね。学校どこ?」大阪弁だった。
「帽子見れば分りまっしゃろ」
「見せて御覧」紀代子はわざと帽子に手を触れた。それくらい傍に寄ると、豹一の睫毛の長さがはっきり分るからだった。
「K中ね。あんたとこの校長さん知ってんのよ」
「言いつけたら宜しいがな」
「言いつけるわよ。本当に知ってんねんし。柴田さん言う人でしょ?」
「スッポンいう綽名や」
 いつの間にか並んで歩き出していた。家の近くまで来ると、紀代子は、
「さいなら。今度尾行たら承知せえへんし」
 そして、別れた。
 その間、豹一は、(成功だろうか、失敗だろうか?)とその事ばかり考えていた。結局別れ際に、「承知せえへんし」と命令的な調子でたたきつけられて、返す言葉もなく別れてしまった事から判断して、完全な失敗だと思った。しかし、失敗ほど此の少年を奮起せしむるものはないのである。
 翌日は非常な意気込で紀代子の帰りを待ち伏せた。紀代子は豹一の姿を見ると、瞬間いやな気持になった。昨日はちょっと豹一に好感を持ったのだが、こうして今日もまた待ち伏せられてみると、此の少年も矢張りありきたりの不良学生かと思われたのである。
 紀代子は素知らぬ顔で豹一の傍を通り過ぎた。豹一は駈寄って来て、真赧な顔で帽子を取ってお辞儀をした。すると、紀代子は、
(今日こそ此の少年を思う存分やっつけてやろう。昨日は失敗したが……)
 こんな事を自分への口実にして、並んで歩いてやることにした。実は豹一の真赧な顔が可愛かったのである。ところが、豹一はまるで一人で歩いているみたいに、どんどん大股で歩くのだった。真赧になった自分に腹を立てていたのである。紀代子は並んで歩くにも、歩きようがなかった。
「もう少しゆっくり歩かれへんの?」われにもあらず、紀代子は哀願的になった。
「あんたが早よ歩いたらよろしいねん」
(こいつは上出来の文句だ)と豹一は微笑んだ。紀代子はむっとして、
「あんた女の子と歩く術も知れへんのやなあ。武骨者だわ」嘲笑的に言うと、豹一は再び赧くなった。女の子と歩くのに馴れている振りを存分に装っていた筈なのである。
(此の少年は私の反撥心が憎悪に進む一歩手前で食い止めるために、しばしば可愛い花火を打ち揚げる)文学趣味のある紀代子はこう思った。なお、(此の少年は私を愛している)と己惚れた。それを此の少年の口から告白させるのは面白いと思ったので、紀代子は、
「あんた私が好きやろ」
 豹一はすっかり狼狽した。こんな質問に答えるべき言葉を用意していなかったのである。また彼は小説本など余り読まなかったから、こんな場合何と答えるべきか、参考にすべきものがなかった。無論、「はい好きです」とは言えなかった。第一、彼は少しも紀代子を好いていないのである。心にもないことを言うのは癪だった。暫く口をもぐもぐさせていたが、やっと、
「嫌いやったら一緒に歩けしまへん」という言葉を考え出して、ほッとした。
「けったいな言い方やなあ。嫌いやのん。それとも好きやの。どっちやの。好きでしょ?」さすがに終りの方は早口だった。豹一は困った。好きでない以上、嫌いだと答えるべきだが、それでは余り打ちこわしだ。
「好きです」小さな声で、「好き」という字をカッコに入れた気持で答えた。紀代子ははじめて、豹一を好きになる気持を自分に許した。
 しかし、豹一は「好きです」と言ったために、もう紀代子に会うのが癪だと思っていた。翌日は日曜だったので、もっけの倖いだと思った。紀代子を獲得するまで毎日紀代子に会うべしと、自分に言い聴かせていたのだった。豹一は千日前へ遊びに行った。楽天地の地下室で、八十二歳の高齢で死んだという讃岐国某尼寺のミイラが陳列されていた。「女性の特徴たる乳房その他の痕跡歴然たり。教育の参考資料」という宣伝に惹きつけられて、こそこそ入場料を払ってはいった。ひそかに抱いていた性的なものへの嫌悪に逆に作用された捨鉢な好奇心からだった。
 自虐めいたいやな気持で出て来た途端、思い掛けなくぱったり紀代子に出くわした。(変な好奇心からミイラを見て来たのを見抜かれたに違いない)豹一はみるみる赧くなった。近眼の紀代子は豹一らしい姿に気がつくと確めようとして、眼を細め、眉の附根を引き寄せていた。それが眉をひそめていると、豹一には思われた。胃腸の悪い紀代子はかねがね下唇をなめる癖があり、此の時も、おや花火を揚げている、と思ってなめていた。そんな表情を見ると、もう豹一は我慢が出来なかった。いきなり、逃げ出した。
(あんな恥しいところを見られた以上、俺はもう嫌われるに違いない)豹一は簡単にそう決めてしまった。すると、もう紀代子に会う勇気を失うのだった。もう彼は翌日から紀代子を待ち伏せしなかった。
 ところが、紀代子は豹一が二、三日顔を見せないと、なんとなく物足りなかった。楽天地の前で豹一が逃げ出した理由も分らぬのである。
「何故逃げたのだろうか?」そのことばかり考えていた。つまり、豹一のことばかり考えるのと同じわけである。(嫌われたのではないだろうか?)己惚れの強い紀代子にはこれがたまらなかった。(あんなに仲良くしていたのに……)
 やがて十日も豹一の顔を見ないと、彼女はもはや明らかに豹一を好いている気持を否定しかねた。(なんだ! あんな少年……)
 紀代子は豹一を嫌いになるために、随分努力を図った。彼女は毎日許嫁の写真を見た。許嫁は大学の制帽を被り、頼もしく、美丈夫だと言っても良い程の容貌をしていた。彼女はそれを見ると、豹一の影も薄くなるだろうと、毎日眺めていた。が、余り屡※[#「※」は踊り字のゆすり点、26上-12]眺め過ぎて、許嫁の顔も鼻に突いて来た。(此の顔はひねている。髭の跡も濃い!)彼女はそんな無理なことを考えた。なるほど豹一はおずおずとうぶ毛を見せた少年なのである。しかし、許嫁から度々手紙が来て、東京の学生生活などを書いた文句を見ると、豹一などとは段違いの頼もしさがあった。
 二週間ほど経って、豹一を嫌いになる考えが大体纒り掛けたある日、紀代子は大軌の構内でばったり豹一に出会った。思わずあらと顔を赧くした。彼女は豹一が自分を待っていてくれたと思ったのである。
(やっぱり病気だったのやわ)この考えは一縷の希望として秘めて置いたのだった。彼女は微笑を禁じ得なかった。豹一を嫌いになる考えを咄嗟に捨ててしまった。ところが、豹一は、しまったと、半分逃げ腰だった。実は、彼は紀代子に会うのが怖くて、ずっと大軌の構内を避けていた。学校から帰り途だったが、わざと廻り道をしていた位である。ところが、今日は、うっかりと大軌の構内を通り抜けたのであった。つまり、もう紀代子のことは半分忘れ掛けていたからである。
 いきなり逃げ出そうとした。その足へ途端に自尊心が蛇のようにするする頭をあげて来て、からみついた。(ここで逃げてしまっては、俺は一生恥しい想いに悩まされねばならない。名誉を回復しなければならない)豹一は辛くも思い止った。しかし、名誉を回復するのはどういう風にして良いか分らなかった。まさか紀代子を相手に決闘も出来なかった。豹一はただまごまごしていた。そして、そんな決心にもかかわらず、紀代子の顔もろくによう見なかった。横を向いていた。
 紀代子は豹一が自分の顔を見てくれないのが、恨めしかった。つと寄り添うて、
「どないしてたの? なんぜ会ってくれなかったの? 病気していたの?」
 恨み言を言った。が、豹一は答える術を知らなかった。そして、答える術を知らない自分にむっと腹を立てていた。そんな顔を見ると、紀代子は、やっぱり嫌われたのかと、不安になって来た。それで一層豹一を好いてしまった。例の如く並んで歩いたが、豹一はわれにもあらずぎこちなかった。別れしな、
「今夜六時に天王寺公園で会えへん?」紀代子の方から言い出した。その頃、宵闇せまれば悩みは果てなしという唄が流行していた。約束して別れた。
 豹一はわざと約束の時間より半時間遅れて行った。紀代子は着物を着て、公園の正門の前にしょんぼり佇んでいた。臙脂色の着物に緑色の兵児帯をしめ、頬紅をさしていた。それが、子供めいても、また色っぽく見えた。
「一時間も待ってたんやわ」と紀代子は半泣きのまま、寄り添うて来た。
 並んで歩いた。夜がするすると落ちて、瓦斯燈の蒼白い光の中へ沈んで消えていた。美術館の建物が小高い丘の上に黒く聳えていた。グランドではランニングシャツを着た男がほの暗い電燈の光を浴びて、影絵のように走っていた。藤棚の下を通る時、植物の匂いがした。紀代子は胸をふくらました。時々肩が擦れた。豹一にはそれが飛び上るような痛い感触だった。
(女と夜の公園を散歩するなんて、いやなことだ)
 彼はこの感想をニキビの同級生に伝えてやろうと思った。紀代子にそれと分る位露骨に、つと離れて歩いた。そんな豹一が紀代子には好ましかった。(此の少年は恥しがりで、神経質だわ)しみじみと見上げると、豹一の子供じみた顔の中で一個所だけ、子供離れしたところがあった。広い額に一筋静脈が蒼白く浮き出しているのだ。それが物想いに悩む少年らしく見えた。(きっと私のことで思い悩んでいるのだわ!)
 しかし、その瞬間豹一は、こともあろうに、
(お前の母親はいま高利貸の亭主に女中のようにこき使われているんだぞ! いや、それよりも、もっとひどい事をされているんだぞ)と自分に言い聴かせていた。紀代子は着物を着ると、如何にも良家の娘らしかった。(此の女は俺の母親が俺の学資を作るために、毎晩針仕事をしたり近所の人に金を借りたり、亭主に高利の金を借りたりしていることは知るまい。いや、俺が今日此処へ来る前に漬物と冷飯だけの情けない夕食をしたことは知るまい。無論あとでこっそり母親が玉子焼を呉れたが、これは有難すぎて咽喉へ通らなかった。俺の口はしょっちゅう漬物臭いぞ。今も臭いぞ。それを此の女は知るまい。此の香水の匂いをプンプンさせている女は知るまい。俺の母親は銭湯の髪洗い料を倹約するから、いつもむっと汗くさい髪をしているぞ)
 豹一はふっと泪が出そうになった。が、その眼を素早くこすると、また考え続けた。(この女は俺が坐尿したことを知ったら、もう俺と歩きはしまいだろうな)だからこそ、この娘を獲得することは自尊心を満足さすことになるのだと、豹一は漸く紀代子と歩いている自分の役割に気がついた。
(何か喋らなければならない)
 豹一は急に周章て出した。が、どんなことを喋って良いか分らなかった。恋愛小説など読んだことがないのである。獲得だと大それたことを考えてみたところで、それがどんな実際の言動を意味しているものかも分らなかったのである。今更のように、われながらぎこちなく黙々としている状態に気がつくと、もう豹一は紀代子と歩いているのが息苦しくなった。何か気の利いたことを言おう、はっきりと自分の目的に適ったことを言おうと思いながら、少しもそんな言葉の泛んで来ない自分にいら立っていた。彼はだんだん気持が重くなって来て、随分つまらぬ顔をしていた。(お前は女と口を利く術を知らないのではないか?)そんな自分が紀代子の眼にどんな風にうつるだろうかと考えて見た。彼はもう少しで紀代子に軽蔑されるだろうという心配を抱くところだった。が、紀代子の頬紅をつけた顔を見て、僅にその心配だけは免れた。紀代子の日頃の勝気そうな顔は頬紅をつけているので、今日はいくらか間が抜けて見えたのである。(俺はなんという不調法な男だろう)豹一は自嘲していたが、この不調法という言葉が気に入って、やや救われた。しかし彼はそんな心配をする必要もなかったのだ。紀代子は口をひらけば必ず傲慢な、憎たらしいことを言う豹一よりも、おずすおずと黙っている豹一の方が好きなのである。一つには、彼女は苦しいほど幸福といっても良い気持をもて余して、豹一に口を利かす余裕も与えないくらい、ひとりで喋り出したからである。
 文学趣味のある紀代子は、歯の浮くような言葉ばかり使った。豹一が意味を了解しかねるような言葉や、季節外れの花の名も紀代子の口から飛び出した。もし豹一が紀代子の使う言葉の意味が分らない自分を恥しく思い、俺は何と無学だろうと自分に腹を立てているのでなければ、もう少しで欠伸が出るところだった。
(中学生の俺よりも女学生の紀代子の方がむずかしいことを知っているのは、中学校の教育が悪いからだ)
 紀代子がもし聴いたらうんざりするような、そんな無味乾燥なことを考えながら、豹一は退屈をこらえていた。
 紀代子の「気の利いた」文学趣味のある言葉は、しかしそう永くは続かなかった。知っている限りの言葉を言い尽してしまったからである。
 道が急に明るくなって、いつか公園を抜けて、ラジウム温泉の傍へ来ていた。
 毒々しい色の電燈がごたごたとついている新世界の外れだった。
「俗悪やわ。引き返しましょう」
 そして彼女自身もひどく散文的な気持になってしまって、紀代子は豹一の友達が彼女に下手な文章の恋文を送った話などをした。すると、急に豹一の眼は輝いた。
「誰とどいつが送ったんや?」と訊いて、その名前を確めると、もう豹一は退屈しなかった。はじめて自尊心が満足された。豹一は恋文を見せて貰われへんやろかと、熱心に頼んだ。紀代子は即座に承知した。
「そんならあした見せたげるわね」
 それで翌日の約束が出来てしまった。

      二

 そんな交際が三月続いた。が、二人の仲は無邪気なものだった。もし仮りに恋愛とでもいうべきものに似たものがあるとすれば、紀代子が豹一に綿々たる思いを書きつらねた手紙を手渡したぐらいなものだった。つまり、紀代子は彼女の文学趣味を喋るだけでは満足出来ず、文章にして見せたかったのである。手渡したのは、その場で読んで欲しかったからだったのと、さすがに許嫁のある身で、郵送するのははばかられたからである。豹一は紀代子と喋るだけでも相当気骨の折れる仕事だったから、手紙など書いてみようとすら思わなかった。だいいち、それが証拠品となって誰かに嗤われる種となるかも知れないと、警戒したのである。どんな場合でも、彼のそんな警戒心は去らない。
 しかし、彼の自尊心は紀代子から手紙を貰ったことで、かなり満足されていた。自分に課した義務からもう解放されても良い頃だった。少くとも、紀代子への恋文を送った同級生の前では、どんな無茶なことでも言えるのだ。だから、もうあとの交際は半分惰性のようなものだった。実は、少しうんざりしていたのである。ただ、いやな父親の顔を見ているよりは、紀代子と会っている方が気が楽だった位のものである。それともう一つ、豹一にも案外気の弱い、しおらしいところがあって、理由もないのに約束をすっぽかすことが済まなく思われたからである。
 そんな風だったから、二人の仲は三月も続いたが、あとで紀代子が自分に言って聴かせたように、「手一つ握り合わなかった清い仲」だった。豹一にそれ以上のものを求める理由もなかったからだった。紀代子にもたいして恋愛の経験はなく、また生れもよかったから慎しみ深かった。豹一と言えば全く少年だった。それに、豹一にはそんな真似を自ら進んでして、嗤われるだろうという心配があった。そんな臆病な自分を、しかしののしったこともある。
(紀代子がどんな顔をするか、いやがるかどうかを試してみる必要があるかも知れない)
 しかし、もし豹一がその必要をもっと激しく感じたとしたら、元来が向う見ずな男だから、もっと大胆な行動に訴えたかも分らぬ。ところがそれだけは如何なる破目に陥っても出来ぬわけがあった。集金人の山谷からいつか聴いた話が心の底に執拗く根を張っていたから、そのようなことを想い泛べるだけで胸がかきむしられるのだった。
 そんな風に三月続いたのだが、いきなり紀代子は豹一から離れてしまった。まるで何の先触れもなかったのである。豹一は訳が分らなかった。彼はつまらぬ顔をして、毎日そのことを考えた。が、ふと、つまりこれは紀代子のことを考えている勘定になるのではないかと、いまいましくなった。紀代子が鹿の眼のようだとうっとりしていた豹一の眼は、にわかに持ち前の険しい色を泛べ出した。(もっけの幸じゃないか)しかし、それだけでは釈然と出来ぬわけがあった。つい最近彼は紀代子と回転焼屋へ行った。いつも紀代子が勘定を払っていたが、その日に限って彼は、ふと虫の居所の関係で、(お前はこの女に施しを受ける気か?)という気になって自分で勘定を払おうとした。途端に、ズボンから銅貨が三十個ばかり三和土の上へばらばらと落ちた。二銭銅貨が二個あるほかは一銭銅貨ばかりで、白銅一つなかった。彼はみるみる赧くなった。もし落さなかったら、彼は「どや、銅貨ばっかりやろ」とわざとふざけて言って、勘定をすますところだった。それなら如何にも中学生らしいのである。ところが、落してみると、にわかにあのお君の息子となってしまった。紀代子ははッと豹一の顔を見たが、彼を愛していたから、直ぐ膝まずいて、一つ一つ拾ってくれた。そのため豹一は一層恥しい想いをしたのだった。母親がその一枚をこしらえるのにもどれだけ苦労したか分らぬその金を、のんきに女と二人で行った回転焼屋で落した。というだけでも辛かったのに、紀代子にそんな風にされると、もう彼は死ぬ程辛かった。
 だから、そのことはなるべく想い出さぬようにしていた。想い出すたびに、ぎゃあーと腹の底から唸り声が出て来るのだ。しかし、紀代子が自分から去ったかと考えると、否応なしにそこへ突き当らざるを得ない。
(あのために俺は嫌われたのだ)
 しかし、序でに言えば、紀代子はその時真赧になって半泣きの表情を泛べていた豹一の顔ほど、可愛いと思ったことはなかった。従兄と結婚してからも、この時の豹一の顔だけは想い出した位である。
 つまり、紀代子は卒業の、即ち結婚の日が迫って来たのだった。正式の結納品が部屋に飾られたのを見た途端、紀代子はまるであっさりと心が変ってしまった。もともと彼女は、年齢よりも老けた気持をもっており、同級生の中でもいちばん早く結婚するのを誇りにしていたのだった。言わば、それが彼女の美貌を証拠だてるというわけである。豹一の魅力を以てしても、結婚を迎える胸騒がしい彼女の気持に打ち勝つことは出来なかった。それに、もともと豹一にはたった一つの魅力が欠けていた。つまり、「手一つ握り合わなかった清い仲」だったのである。
 紀代子が結婚をするため自分と会わなくなったのだと知ると、豹一はついぞこれまで経験しなかった妙な気持になった。狂暴に空へ向って叫び上げたい衝動にかられたかと思うと、いきなり心に穴があいたようなしょんぼりした気持になったりする。まるで自分でも不思議な、情けない気持だった。彼は未だ嫉妬という言葉を知らなかった。知っていれば、もっと情けなくなったところだった。時にはうんざりした紀代子との夜歩きも、いまは他の男が「独占」しているのかと思うと、しみじみとなつかしくなるのだった。その顔も知らないのがせめてもだった。もし、行きずりにでも見たとすれば、豹一のことだから、一生記憶を去らずに悩まされたところだ。
 豹一は自分が紀代子をたいして好いていなかったことを想い出して、僅に心を慰めた。しかし、今は紀代子の体臭などが妙に想い出されて来るのだった。

      三

 谷町九丁目から生玉表門筋へかけて、三・九の日「榎の夜店」の出る一帯の町と、生玉表門筋から上汐町六丁目へかけて、一・六の日「駒ヶ池の夜店」が出る一帯の町には路地裏の数がざっと七、八十あった。生玉筋から上汐町通りへ 」の字に抜けられる八十軒長屋の路地があり、また、なか七軒はさんでUの字に通ずる五十軒長屋の路地があり、入口と出口が六つあるややこしい百軒長屋もあった。二階建には四つの家族が同居していた。つまり路地裏に住む家族の方が表通りに住む家族よりも多く、貧乏人の多いごたごたした町であった。
 しかし不思議に変化の少い、古手拭のように無気力な町であった。角の果物屋は何代も果物屋をしていた。看板の字は既に読めぬ位古びていた。酒屋は何十年もそこを動かなかった。風呂屋も代替りをしなかった。比較的変遷の多い筈の薬屋も動かなかった。よぼよぼ爺さんが未だに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾っているのだった。八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店にぺたりと坐った一文菓子を売る動作も名人芸のような落着きがあった。相場師も夜逃げをしなかった。
 公設市場が出来ても、そんな町のありさまは変らなかった。普請の行われることがめったになかった。大工はその町では商売にならなかった。小学校が増築される時には、だから人々は珍らしそうに毎日普請場へ顔を見せた。立ち退きを命ぜられた三軒のうち、一家は息子を新聞配達に出し、年金で暮している隠居だったが、自分の家のまわりに板塀を釘づけられても動かなかった。小さな出入口をつけて貰ってそこから出入した。立のき料請求のためばかりではなかったのである。
 全く普請は少かった。路地の長屋では半分崩れかかった家が多かった。また壁に穴があいて、通り掛った人が家の中を覗きこめるような家もあった。しかし、大工や左官の姿も見うけられなかった。最近では寿司屋が近頃十銭寿司が南の方で流行して商売に打撃をうけたので、息子が嫁を貰ったのを機会に、大工を一日雇って店を改造し、寿司のかたわら回転焼を売ることになったことなどが目立っている。
 ところが、野瀬安二郎が大工を五日も雇ったので、人々はあの吝嗇漢の野瀬がようもそんな気になったなと、すっかり驚かされた。転んでもただでは起きぬ野瀬のことやから、なんぞまたぼろいことを考えとるのやろと言うことになった。その通りである。
 安二郎の隣に万年筆屋が住んでいた。一間間口の小さな家だったが、代々着物のしみ抜き屋だったが、中学校を出たそこの息子の代になると、万年筆屋の修繕兼小売屋へハイカラ振って商売替えすることになり、安二郎にその資本三百円の借用を申し込んだ。安二郎はその家が借家ではなく、そこの不動産だと確かめると、それを抵当に貸し付けた。その金がいつの間にか二千五百円を出る位になった。隣近所でも容赦はせぬと、安二郎は執達吏を差し向けて、銭湯へ出掛けた。万年筆屋が銭湯へ呶鳴り込んで来たが、安二郎は、「あんた、人の金ただ借りれると思たはりまんのか」と頭にのせた手拭をとってもう一つ小さく畳むと、また頭の上にのせた。その晩万年筆屋は立ち退いた。安二郎はこの間口一間の家を改造するために、大工を雇ったのである。
 先ず二階の壁を打っ通して扉をつくり、自分の家の二階とそこの四畳半の部屋との間を廊下伝いに往来出来るようにした。階段はそのままに残して置き、店の間の土間にはただテーブルを一個と椅子二個ならべ、テーブルの上にはベルをそなえつけて、「御用の方はこのベルを押すこと」と、無愛想な文句をかいた紙きれをはりつけた。入口には青い暖簾をかけて、「金融野瀬商会」
 べつに看板を掛けた。それには、
「恩給・年金立て替え
 貯金通帳買います
 質札買います」
 恩給・年金の立て替えはべつとして、あとの二つは目新しい商売だった。貯金通帳を買うとは、つまり例えば大阪貯蓄などに月掛けしているものが、満期にならないうちに掛けられなくなったり、満期になったが、金を取るまでの日数を待ち切れなくなった場合、安二郎がそれを相当の値で買いとってやるのである。掛け金の額からは無論がちんと差引くから、あとでゆっくり安二郎が手続きして金をとればぼろい儲けになると、かねがね目をつけていた商売だった。
 質札の方は、ただの二円、三円で買いとってやるのである。それをもって安二郎がうけ出しに行き、改めて古着屋や古道具屋へ売る。質札の額面五円の着物ならば、古着屋へは十二、三円から十五円、二十円にも売れる故、質屋へ払う元利と質札を買った金を差引いても、残りの利益は莫大だった。貧乏人の多い町で、よくよく金に困って、質草もなくただ利子に追われている質札ばかり増えるのを持て余している者がちょっとやそっとの数ではあるまい。だから目先のことだけ考えれば、どうせうけ出しも出来ぬ質札が金になるときけば有難がってやって来るだろう。その足許を見て二束三文で買いとってやるのだと、随分前から安二郎は此の商売をやりたがっていたのである。
 ところが現在の家ではさすがにその商売は出来なかった。高利貸めいてひっそりと奥深く、見知らぬ人の出はいりにもじろりと眼を光らせねばならぬしもたやでは出来ぬ商売だった。そんなところへ安二郎の言葉を借りて言えば、「運良く隣の家が空いた」のである。
 東西屋も雇わず、チラシも配らず、なんの風情もなくいきなり店開きをしたのだが、もうその日から、質札を売りに来た。ベルの音が隣の家まで通ずる仕掛になっている。安二郎はのっそりと腰を上げて廊下伝いに新店の二階へ出て、階段を降り、夏の土用以外に脱したことのない黒い襟巻を巻いた顔をぬっと客の前へ出すのだった。じろりと客の顔を見て椅子に腰を掛け、客には坐れとも言わずに質札を虫眼鏡で仔細に観察してから、質屋の住所と客の住所姓名を訊く。終ると、「金は夕方取りに来とくなはれ」と無愛想に言って、腰を上げると、取つく島のない気持でぽかんとしている客の顔を見向もしないで階段を上り、再び廊下伝いにもとの部屋に帰ってしまうのである。
 豹一は学校から帰ると、その応待をやらされた。実はこんどの二階の部屋は豹一の部屋になったのである。安二郎の鼾が聴えて来ないことは有難かったが、ベルの音には閉口した。勉強の途中でも立たなければならなかったのである。そして客から質札を受け取ると、安二郎に見せに行く。それがたまらなくいやだった。どうしても安二郎と物を言わなければならぬからだった。なるべく安二郎とは口を利かぬようにしていたのである。
(自他ともにその方が得だ)と考えていた。自分も不愉快だから、安二郎も自分と口を利くのは不愉快だろうと、彼は口実をつけていた。しかし、安二郎は豹一をただお君が連れて来た瘤ぐらいに考えていたから、豹一の子供だてらの恨みなどには無縁だった。少くとも豹一が考えているほどには、豹一の気持など深く考えていなかった。自分の事をどう思っていようと、飯はあんまり食わぬようにしてくれさえすれば、べつに文句はないのである。中学校での行状がどうであろうとも、学資を出してやっているわけではない。ただ近頃はやっと家の用事に間に合うようになって、「猫の子よりまし」なのである。例えば、客の応待はしてくれる。質屋への使いに行ってくれる。
 その質屋への使いだけは勘弁してくれと、豹一は頼みたかった。が、そのためには安二郎に頭を下げる必要がある。それがいやだった。豹一はむっとした顔で、渋々質屋へ行った。丁度運悪く紀代子のことですっかり悄気てしまい、自尊心の坐りどころを失っていた時だった。道を歩いていても、すれ違う人のすべてが自分を嘲笑しているように思えた。質屋の暖簾が見えるところまで来ると誰か見てへんやろかと、もう警戒の眼を光らせた。
(お前の母親はお前の学資を苦面するために、この暖簾をくぐったのだぞ)そう自分に言い聴かせて、はじめて暖簾をくぐることが出来た。それでも質屋の子供かなんぞのような顔をつくろってはいった。質屋の丁稚は、
「野瀬はんとこがすばしこい商売をやらはんので、わての方は上ったりですわ。わてらは流して貰わな商売にならへんのに、あんたとこが流れをくい止めはんねん。まるで堤みたいや」とこんなことを早熟た口で言った。なお、
「あんたところはぼろいことしはって、良家やのに、坊ん坊んがこんな使いせんでもよろしおまっしゃろ」
 豹一はむっと腹を立てた。ただ、丁稚が主に安二郎の悪口を言ってみるのだという理由で、僅に食って掛るのを思い止った。蔵から品物が出されて来るのを待っている間、ちらとそこの娘が顔を出し、丁稚を叱りつけるような物の言い方をして、尻を振りながらすっとはいって行った。豹一はキラキラ光る眼でその背中を見送った。品物を用意してきた風呂敷に包み、
「胸に一物、背中に荷物やな」と、丁稚に言われて、帰る道は風呂敷包みをもっているだけ、往く道より辛かった。(胸に一物やぞ!)と、豹一は心の中で叫び、質屋の娘の顔をちらと頭に描いた。
(あの娘は俺をからかう為にのこのこ顔を出しやがったんだ。なるほど中学生の質屋通いは見物だろう)
 奥へはいって行く時、兵児帯の結び目が嘲笑的にぽこぽこ揺れていたのを想い出した。(なんて歩き方だろう? 紀代子はあんな不細工な歩き方をしなかった)ひょんなところで、豹一は紀代子のことを想い出した。すると自尊心の傷がチクチク痛んで来るのだった。(あの娘を獲得する必要がある)思わずそう決心した。それよりほかに、今のこの情けない心の状態を救う手がないと思った。しかし、豹一はそんな莫迦げた決心を実行に移さずに済ますことが出来た。もっと気の利いた方法で自尊心を満足さすに足ることが起って来たからである。
 ある日、豹一は突然校長室へ呼びつけられた。
「蛸を釣られる」のだろうと、度胸を決めて、しかしさすがに蒼い顔をして行くと、校長は、
「君に相談があるのや。掛け給え」と言った。風向きが違うぞと豹一は思い、もし風紀係にでもなれという相談だったら断ろうという覚悟を椅子にどっかりと乗せていると、
「君高等学校へ行く気はないか」
 と意外なことを訊かれた。つい最近も教室で上級学校志望の調査表を配られた。四年生になると、もう卒業後の志望を決めて置く必要があるのだっ[#「っ」は底本では「つ」と誤記]た。彼は上級学校へ行く希望はない旨、書き入れて置いた。中学校を卒業させてくれるだけで精一杯の母親のことを考えると、行きたくても行けぬところだったのである。
「はあ、べつに……」と答えた。
「なぜかね?」校長が訊いたが、豹一は答えられなかった。自分の境遇を説明出来なかった。
「なんででも、行きたいことないんです」
「そりゃ惜しいね」と校長は言い、「実は……」と説明したのはこうだった。ある篤志家があって、大阪府下の貧しい家の子弟に学資を出してやりたい。無論、条件がある。品行方正の秀才で四年から高等学校の試験に合格した者に限る。それも入学試験のむずかしい一高と二高と三高だけに限り、合格した者は東京、京都のそれぞれの塾へ合宿させる。そんな条件に適いそうな生徒があったら推薦してくれと、府下の中学校へ申込んで来た。その候補の一人に豹一が選ばれたのである。
(すると、俺は貧乏人の子だと太鼓判を押されたわけだな)と豹一は思った。どうして校長がそれを知っているのだろうと考えて、思い当るところがあった。
(俺が授業料滞納の選手権保持者だということを知っているんだな)豹一はみるみる赧くなり、逃げ出したい位の恥しさだった。と同時にむっとした。(俺はそんな施しは御免だ! 四年から一高か三高へはいれた秀才に限るだなんて、まるで良種の犬か競走馬を飼うつもりでいやがる)
 豹一は腹を立てたが、しかしそんな候補に選ばれたことは少くとも成績優秀だと校長に認められたことになるのだと、些か慰まるものがあった。そんな豹一の心にまるで拍車を掛けるように、校長は、
「君が行きたくないということは、実に惜しいことだ。他にも候補者はいるけれど、自校では四年から一高か三高へ大丈夫はいれるのは君ぐらいだからな」と言った。豹一の自尊心は他愛もなく満足された。思わず微笑が泛んで来るぐらいだった。が、豹一は周章てて渋い顔になると、
「候補者は誰と誰ですか?」と訊いた。
「君のクラスの沼井と、それから四年F組の播摩だ」
 沼井と聴いたからにはもう豹一は平気で居られなかった。いきなりぶるっと体が顫えた。
(なあんだ。沼井も学資を施して貰うのか。沼井が落第して、俺が合格するとなればこんな気持の良いことはない)そう思うと、元来が敏感に気持の変り易い彼はふと高等学校へ行ってみようかという気になった。母親に学資を苦面させるわけではない。それに、どうせ中学校を出ても、家でこき使われるか、デパートの店員になるよりほかはないのだ。(塾へはいれば安二郎の顔を見なくても済むのだ)それで肚が決った。しかし彼は即座に、じゃあ、そうさせていただきますとは言わなかった。行きたくないと言って置きながら、直ぐ掌をかえすように、行かせて貰いますと飛びつくのは余りに不見識で、浅ましい。
「校長先生のお言葉ですし、一ぺん家の者に相談してみます」こう言った。ここらに豹一が余り人から好かれないところがある。しかし、本当に母親だけに相談する義務はあった。
「そうか。じゃあ相談してみたまえ。なるべく行くよう。中学校だけで止めるのは惜しいからね」
「僕もそう思います」
 帰って母親に、「人の施しを受けて高等学校へ行く可きかどうか」と真剣な顔で相談した。お君は、「私は如何でも良え。あんたの好きなようにし」しかし、「あんまり遠いところへ行かんといてや」
 京都の三高へ行くことに決めた。翌日校長先生に呼ばれると、
「校長先生のお言葉ですし、K中学校の名誉のために見事合格して見よう思います」こんないや味な返事をした。が、その言葉は概して校長の気に入った。
「君はあんまり品行方正とは言えんが、とにかく出来るから推薦したのだ。しっかりやってくれ給え」
 豹一は沼井が三高を受けるのか、一高を受けるのかとそのことばかり考えていたので、校長の言葉も不思議に苦にならなかった。
 豹一はその日から猛勉強をした。心に張りがついた。彼の自尊心はその坐り場所を見つけることが出来たのである。(俺が高等学校の帽子を被る日に、一ぺん紀代子に会っても良い)と、思った。(しかし、紀代子は俺の学資の出所を見抜くかも知れない)
 豹一は翌年の四月、三高の文科へ入学したが、だから紀代子にだけは未だ会わす顔はなかった。

      四

 夕飯が済むと、豹一はぶらりと秀英塾を出た。塾を出ると道は直ぐ神楽坂だが、豹一は神楽坂を避けて、途中で吉田山の山道へ折れて行った。神楽坂の上にあるカフェの女が、二、三日前変な眼付で彼を見たからである。
「まあ、見とおみ、子供みたいな三高生が行きはる」
 豹一は未だ十七歳だった。その年齢の若さを彼は気にしていたのである。そんな若さで高等学校へはいる者は少いのだと己惚れることも出来たが、しかし子供っぽく見えるということはやはりいやだった。髭を伸ばしてうんとじじむさくなってやろうと思っても、一向に生えてくれないのだった。最近ニキビが二つほど生じたので、少し嬉しかった。(十七で三高だから秀才か? いやなこった)彼も中学校にいた頃とは随分変った。前は首席になるために随分骨を折ったものだった。が、秀才とは暗記力の少し良い、点取虫の謂いではないか? 彼は同じ秀英塾に寝起している三高生を見ると、もう秀才というものに信用が置けなかった。塾生は十人いた。何れも四年からはいった秀才ばかりである。ところが、彼等はただ頭脳の悪い勤勉な生徒に過ぎないのだ。暗記力は良い方だといってもよいが、しかし彼等のように飯を食う間も暗記していれば、記憶えられぬ方が不思議だ。教室では教師の顔色ばかりうかがっている。教師の下手な洒落をもノートにうつす始末だ。教師が教室で講義に飽いて雑談すると、「それ試験に出ますか」と質問するていの点取虫だ。おまけに塾の掟を何一つ破るまいと、立居振舞いもこそこそしている。時に静粛を破って寮歌をうたったりするが、それも三高生になれたという嬉しさの余りのけちな興奮だ。
(だいいち秀英塾だなどと名前からしていやだ)
 塾といっても、教師は居らず、ただ三年生の中田が塾長の格で塾生を監督し、時々行状を大阪の「出資者」(――と豹一は呼んでいた――)に報告するだけだった。塾生の外に賄夫婦がいるだけで、昔通りの合宿所とたいして変りはなかった。が、掟だけは厳しい。
 例えば塾生は絶対に塾以外の飲食を禁じられている。学校のホールで珈琲ものめない。無論昼食は持参の弁当である。それも一人々々が持参するのではなく、十人分の飯を入れた櫃と、菜をいれた鍋を登校の際交替で持って行くのである。豹一は風呂敷に包んだ櫃を背負うて行く学校までの道が、あの質屋からの帰り道よりも辛かった。
 それもたとえば短艇部の合宿生が面白半分に担いで行くのだったら、いや味な無邪気振りながら、未だ人の眼にはましだ。しかし、学資を支給されている塾生がそれを担いで行くのは、まるで犬が自分の食器をくわえて歩いているようで浅ましく恥しい。「出資者」の好みだろうが、まるでそれは、「俺は施しを受けているのだ」という宣伝のようだった。塾生がホールへ顔出ししないということで、あいつらは聖人面の偽善者だという眼で見られていることに気が付くと、豹一はある日敢然としてホールで珈琲をのんだ。
 尚、塾生の夕飯後の散歩は一時間と限られていた。午後七時以後の外出は、だから特別の事情のない限り許されぬのである。
(この掟を破る義務があるかも知れない!)吉田山の山道を歩きながら、豹一はふとそう思った。すると、異様に体が顫えて来た。何か思い切ったことをする前のあの興奮だった。
(しかし、なぜそんな義務があるのだろうか?)
 未だそれを実行する勇気が出なかったから、彼は詭弁めいてそんな疑問を発した。偽善者と言われている他の塾生と同列に見られたくないからだろうか? それとも主人に尾を振るのがいやなためか? 塾長の機嫌を取りたくないためだろうか? ――この考えは彼の気に入った。ともあれ彼は「出資者」への感謝ということを知らぬ忘恩の徒だった。彼がこれまで感謝したのは母親にだけだった。
(そうだ!)といきなり豹一は呟いた。(俺が掟を破る義務を感ずるのは、誰もそれを破る勇気のある奴がいないからだ!)
 そう思いつくと、彼ははじめて決然として来た。京都特有の春霞のなかに、キラキラと澄んだ光で輝いている四条通の灯が山の上から眺められた。その明るい光がほのぼのとしたなつかしさで自分を呼んでいると、大袈裟に思った。
(そうだ、四条通へ行こう。あそこなら一時間では帰れぬだろう。掟を破るのはいまだ)
 豹一はその決心を示すように、白線のはいった帽子を脱いで、紺ヘルの上着のポケットへ突っ込んだ。(なんだ。こんな帽子)
 彼は塾生の誰もが三高生であることを誇りとして、銭湯へ行くのにも制帽を脱がぬのをひそかに軽蔑していたのである。人一倍虚栄心の強い豹一がそんな制帽に未練をもたぬとは、彼も相当変ったのである。しかも京都では三高の生徒位、「もてる」人種はいないのではないか。彼は腰につるしていた手拭をとってしまった。
(これはなんのまじないだ! 三高生の特権のシンボルか)
 つまり、彼はその特権が虫が好かないのだった。
 豹一は吉田神社の長い石段を降りて、校門の前まで来た。門衛の方を覗くと、そこに自分の名前を書いた紙片が貼出されてあった。はいって自分宛の手紙を受け取った。手紙は母から来たもので、彼は塾長に知れることを警戒して、いつも学校宛に手紙を送って貰っていたのだった。案の定、五円紙幣が二枚、べったりと便箋にはりつけてあった。為替を組むことを知らないのである。お君は豹一が塾で授業料や書籍文房具代のほかは月一円の小遣しか貰っていないと知ると、内職の針仕事で儲けた金を豹一に送って来るのだった。そのため豹一は小遣には困らなかったが、そのたびに胸を刺される思いがした。
 豹一はひとけの無いグラウンドに突っ立って紙幣を便箋からはがしてポケットへねじこんだ。手紙はあとで読むことにした。何か母親の手紙を読むのが怖いのである。暗くて字が読めぬのを口実にした。
 グラウンドの隅に建っている寄宿舎はわりに静かだった。皆んな夕食後の散歩に出掛けたらしかった。記念祭が近づいたので誰もそわそわして落ち着かず、新入生の歓迎コンパだと称して毎晩のように京極や円山公園へ出掛けて行くらしく、その自由さが豹一には羨しかった。
 ふと振り向くと、東山から月がするすると登っていた。それが豹一の若い心を明るい町の方へ誘うようだった。その左手の叡山には、ケーブルの点々と続いた灯が大学の時計台の灯よりもキラキラと光って輝いていた。校庭の桜の木は既に花が散り尽し、若葉の匂いがした。暗いグラウンドに佇んでいると、いきなり肩を敲かれた。見ると、同じクラスの赤井柳左衛門だった。赤井柳左衛門は寄宿舎にいるんだなと、途端に豹一は思った。
 赤井はその名前が変挺なので、誰よりも先にクラスで存在を認められた。が、豹一はもっと違ったことで彼の存在を知った。赤井は教室でもっとも大胆に大きな声で笑う男だった。それも他の者と一緒に笑うのではなく、誰も笑わない時にいきなり大声で笑い出すのだった。例えば教師がこっそり欠伸を噛み殺しているのを見つけると、彼の笑いが皆を驚かすのだ。そのためには教師の講義もろくにノートせず、教師の動作に注意を配っている必要があるわけだと、ある日豹一は自分が笑おうとした途端に彼に先を越されて、すっかり敬服してしまったことがある。その前の日も、独逸語の時間にいきなり赤井は席を立つと、物も言わず教室を出てしまった。それで覚えていた。
「おい、何しているんだ? こんなところで――」
 赤井は顔中に微笑の皺をつくりながら言った。思い掛けず赤井の顔を見たことで、豹一はすっかり嬉しくなった。
「町へ行こうかどうしようかと考えているんだ」
「行こうか京極、戻ろか吉田、ここは四条のアスファルトだな」と、赤井は歌うように言って、「僕も行こうと思っていたところだ。どうだ、一緒に行かんか」
「行こう」
 赤井を見たので、豹一は今夜の計画が容易く実行出来ると思った。寄宿舎の横の小門を出て、電車道伝いに近衛通の方へ肩を並べて歩きながら、豹一は、
「君は何故皆んなと散歩に行かなかったんだ?」
 と訊いた。すると、赤井は急に背が伸びたような歩き方になって、
「僕は寄宿舎の連中が嫌いなんだ!」吐き捨てるように言った。そして、暫く黙っていたが、ふと引攣るような微笑を顔に泛べると、
「昨日僕は寄宿舎の連中に撲られたんだ。レインコートを着ているのが生意気だというわけさ」
 なるほど赤井は紫色のレインコートをいまも着ている。
「なにも三高生が黒いマントを着て、薄汚い手拭をぶら下げて、高い下駄をはいて、蛮からな声で呶鳴って、みやびやかな京の町の風情を汚さなければならないという法はないよ。だから僕はわざとレインコートを着てやったのさ。彼等の蛮カラ振りは心からのものじゃないんだ。ありゃ見栄だよ。三高生という看板をかついで歩いているだけだよ。君は帽子を被っていないね。君は良いところがあるよ」赤井は上ずった声でそう言って、僕も脱ぐよと帽子を脱いだ。赤井に真似をされたので豹一は簡単に自尊心が温まった。
 荒神口の方へ道を折れて行った。赤井はなおも興奮して一人で喋った。
「彼等は郷に入れば郷に従えといいやがるんだ。それは僕も知っている。しかし、彼等が郷に従うのは彼等の無気力のためだ。彼等の保身のためだ。けちくさい虚栄心のためだ。豚でも反吐を吐く代物だ」
 豹一はふと中学生時代沼井からその言葉を言われたことを想い出して、苦笑した。にわかに赤井が自分の血族のようになつかしくなって来た。あの時、自分は撲られたが、赤井も撲られたのだ! しかし府立一女の寄宿舎の前まで来ると、急に豹一の顔色が変った。
「君金持ってるか」と赤井に突然訊かれたのである。豹一は此の言葉に腹を立てるべきかどうか、ちょっと思案した。秀英塾の塾生は月に一円しか小遣を支給されないことを赤井は知って、それを言ったのではなかろうか?
(俺の貧乏を嘲笑するつもりなら許さぬぞ)
 しかし、赤井の次の言葉を聴いて、豹一の心はすっかり明るくなった。
「実は僕は今日はゲルが無いんだ。質に入れるものもない。此のレインコートを入れてやろうと思うのだが、これは当分着ている必要があるんだ。彼等が怖くて郷に従うたと思われては癪だからね。君持っているなら今晩のところは頼むよ」
 豹一はちょっと赧くなって、
「持ってるよ」と言い、ポケットへ手を突っ込んで、なんと言うこともなしに母親が送ってくれたあの紙幣をさわって見た。
「親父が学生は金を持つと為にならんて言いやがって、ちょっとも送ってくれないから困るよ」と赤井は別に赧い顔もせずに言った。
「僕の親父は変な奴なんだ。柳左衛門という名前をつけやがったことはまあ我慢するとして、僕の中学生時代いつも教室へのこのこ参観しに来やがるんだ。すると、教師が僕に暗誦をさせるんだ。僕は親父が背後で見ていると思うと、あがってしまって、出来やしないんだ。クラスの奴等は僕の親父が来ていることを知っているから、クスクス笑いやがる。すると僕は一層あがるんだ。親父はつかつかと僕の立っている傍へ来ると、僕の背中をつつきやがるんだ。なぜ、暗誦して来ないんだって。そいつは教師の言う文句じゃないか。教師も困って変な顔をせざるを得んよ。止せば良いのに、親父め一週間も経つと、またのこのこ参観に出て来るんだ。おかげで俺は今日は親父が来やしないかと、毎日ひやひやして、ろくすっぽ教師の講義も耳にはいらなかったよ」
「三高へは来ないのか?」と、半分慰めるように豹一が訊くと、赤井は瞬間変な顔をして、
「遠いからだ」と狼狽した。ふと豹一は、あれ[#「あれ」に傍点]は赤井の父親ではないだろうかと思った。入学の宣誓式の時、生徒主事のG教授が長時間にわたって生徒の赤化に就て注意的訓話を述べたが、G教授は物凄い東北弁で、喋っていることの意味がちっとも分らなかった。G教授の訓話が終った途端、うしろの父兄席にいた一人の紳士がいきなり立ち上って、「あなた今何を喋られたのですか。お言葉の意味が少しも分らないので、生徒はじめわれわれ父兄は不安且つ迷惑である。要旨をもう一度明瞭に言っていただきたい」と顔に青筋を立てて言った。「馬鹿! 坐れ」という者もあり、笑う者もあり拍手もあった。その紳士が赤井の父親ではないだろうかと思ったのである。訊いて見ると、果して赤井は、「そうだ。僕の親父なんだ」と眉毛をたれた情けない顔をした。その表情を見ると、豹一は、赤井の突飛な行動もあるいは此の父親のことが原因しているのではないかと思った。そう言えば、赤井の父親も向う見ずなところがある。すると、赤井が妙に気の毒になって来た。
(しかし……)と豹一は思った。(とにかく赤井の父親は赤井をその独特の方法で愛している。ところが俺の現在の父親と来たら、いまでも俺が高等学校から追い出されたら、俺を質屋へ使いに出す肚でいる。どっちが不幸か分るもんか)
 豹一は父親に愛されている赤井と、憎まれている自分とどっちが幸福かと、大人じみた思案をした。が、やがて寺町通の明るい灯がぱッと眼にはいると、豹一はもうそんな思案を中断しほうッと心に灯をともした。
 寺町二条の鎰屋という菓子舗の二階にある喫茶室へ上って行った。蓄音機も置かず、スリッパにはきかえてはいるような静かなその喫茶室が三高生達の記念祭の歌と乱舞で乱暴に騒がしかった。豹一と赤井はわざとそんな連中を避けて、窓から東山の見える隅のテーブルへ腰掛けた。女給仕に珈琲を註文した赤井は、ちらとその女の背後姿を見ながら、
「あいつらはなぜこんなに騒いでいるか知っとるか」と豹一に訊いた。
「上品な喫茶店だから、わざと騒いで見たいんだろう」
 騒いでいる連中の一人が、子供づれの夫婦のテーブルに近づいて帽子を取ると、「いや、ガンツ、ガンツ(―非常に―)済みません」と、ぐにゃぐにゃと頭を下げながら、媚を含んだ声で言って、再びまた騒ぎの群へ飛び帰って行くありさまをにがにがしく見ながら、そう言うと、赤井は、
「それもある。ところが、此の喫茶店は代々三高生の巣で、しかもここの息子がいま三高の理乙にはいっているから、少しぐらい騒がなきゃ損だと思ってやがるんだ。それだけじゃない。今ここへ女が来たろう。お駒ちゃんて言うんだ。皆そいつに気があるもんだから、わざと騒いでいやがるんだ。黙っていても口説けない者が騒いだって口説けるもんか」
 赤井は痩せた頬に冷笑を泛べた。なるほど、赤井が言った「お駒ちゃん」は皆の対象となっているらしく、騒ぎながらちらちらお駒の顔を見ているのが、豹一にもありありと分った。なかにはわざと酔っぱらった振りをしてお駒にしがみついて行く奴もいる。すると、お駒はげらげらと笑いながら、すっと奥へひっこんで、また顔を出す。豹一はそんなお駒の仕草までが癪にさわった。しかし、いずれ何かの必要もあろうかと、その女の顔はしかと記憶えて置くことにした。じろじろ見ていると、お駒は奥へ入ったかと思うと、お茶を持って直ぐに豹一のテーブルへ来た。赧い顔をしていた。豹一は鼻糞をほじっていた。
 十分程してそこを出た。出しなに柱時計を見ると、秀英塾を出てから丁度三時間経っていた。外出時間も丁度切れたと思うと、豹一は重苦しい心がすっと飛んでしまい、足取りも軽かった。「吸え」と赤井が出してくれた「ロビン」という煙草を吸った。が、はじめて吸うので、むせていると、
「こんな軽い煙草にむせる奴があるか」と赤井に言われた。よし、いまに強い煙草が平気で吸えるようになってやるぞと自分に言い聴かせて、何という煙草が強いのかと眼をきょろつかせていると、赤井は、
「ロビンは十銭なんだ。チェリーも十銭だが、チェリーよりもうまいぞ」と通らしく言い、
「ロビンはコマドリか。おい、『コマドリ』へ行こうか。あそこも三高の奴らで一杯だな。正宗ホールも一杯だろう。さてどこへ行こうか」
 三条通から京極へ折れて行こうとすると、
「待て、待て」と赤井が止めた。どこへ行くつもりなのかと立止ると、赤井は豹一をひっ張って、「此処を通ろう」とわざわざ三条通の入口からさくら井屋のなかへはいり、狭い店の中で封筒や便箋を買っている修学旅行の女学生の群をおしのけて、京極の方の入口へ通り抜けてしまった。豹一があっけに取られていると、赤井は、
「これが僕の楽みだ。ちっぽけな青春だよ」と、赧い顔をして言ったが、急にリーダーの訳読でもするような口調になって、
「さくら井屋には旅情が漲っている。あそこには故郷の匂いがある。なあ、そうだろう?」と言った。豹一は赤井も気障なことをいう奴だと思ったので、返事をしなかった。すると赤井は何か思いついたらしく、
「実は此の間僕の妹も修学旅行に京都へ来たんだよ。ところが、妹の奴さくら井屋の封筒が買えなくなったといって、泣き出しゃがるんだ」
 赤井の妹ならば、さぞかしひょろひょろと痩せて背の高い、眼の落ち込んだ、びっくりしたような顔の娘だろうと、豹一はふと微笑した途端に、胸が温った。赤井の言った旅情というものかも知れなかった。妹が兄のいる京都へ修学旅行に来るというそのことが、妹をもたぬ豹一の心を思い掛けず遠く甘くゆすぶって来たのだった。夜汽車の窓を見る気持に似ていた。豹一は晩春の宵の生暖い風を頬に感じた。
「何故妹の奴封筒が買えなかったか知っているか?」不意に赤井が怖い顔をして訊いて来た。そして豹一の返事を待たずに、
「僕が妹の金を捲きあげてやったからだ」そう言って、にわかに赤井の顔が険しくなって来たかと思うと、不意に長い舌をぺろりと出し、
「うわあ!」とわけの分らぬ叫び声をあげた。驚いて豹一が見ると、赤井はフラフラダンスの踊子のように両手を妖しく動かせて、どすんどすんと地団太を踏みながら、長い舌をぺろぺろ出し入れしているのだ。そこが土の上ではなかったら寝ころんで暴れまわりかねない位のありさまだった。擦れ違う人々はびっくりした眼を向けていた。が、赤井の発作は直ぐ止んだ。そして、小売店、食物店、活動小屋、寄席などが雑然と並び、花見提灯の赤い灯や活動小屋の絵看板にあくどく彩られた狭くるしい京極通を歩いて行ったが、ふとひきつるような顔になると、
「どうも僕は三日に一度あんな発作が起って困るんだ」と言った。
「何か恥しいことを想い出した時だろう?」満更経験のないでもない豹一がそう言うと、
「そうだ。どうやら脳黴毒らしい」赤井は簡単にそう言い放ったが、直ぐ心配そうな顔になると、最近さる所へ「肉体の解放」に行ったが、とても汚ならしい女だったから、どうやらジフレスを貰ってもう脳へ来ているかも知れないと、しょんぼりした声で言った挙句、
「僕の青春はもう汚れているんだ!」と、これはわざと悲痛な調子で言った。豹一はそんな赤井の図太い生活にふと魅力を感じたが、僕の青春云々が妙に赤井の気取りのように思われたので、「心配する位なら、行かない方が良いんだ」と突っ離すような、冷かな口を利いた。すると赤井は、「そうだ。そうだ」と苦もなく合槌を打って、「僕は心配なんかしていないぞ。ジフレスがなんだ。そう容易く罹るもんか。昨日僕はちょっと医学書を覗いてみたが、脳へ来るのには五年や十年は掛るらしいんだ。僕の頭は未だ健全なんだ」自分で自分の言葉を打ち消した。
(赤井はえらい男だが、自分の行動を誇張して人に喋りたがるのが欠点だ。つまりデカダン振るのだ。俺なら黙って行る)
 豹一はそう思うと、はじめて自分と赤井との違うところが分ったような気がした。が、実は豹一も元来が自分の行動の効果が気になる質であった。たいして赤井と違いはしない。だからこそ、赤井の中にある虚栄に反撥したくなるのだった。豹一は赤井という鏡にうつった自分の姿に知らず知らず腹を立てていたのだ。
「そうだ、健全らしいよ」豹一はちょっと皮肉って見た。赤井は敏感にそれを察した。大袈裟に、
「僕の行為は軽蔑に値するか知らないが、しかし、肉体の解放は極く自然なんだ。不自然な行為のかげにこそこそ隠れているより、大胆に自然の懐へ飛び込んで行く方が良いんだ。汚れてもその方が青春だ。僕のように敢然と実行する勇気のない奴は、僕を軽蔑する振りで自分の勇気の無さを甘やかしていやがるんだ」
(自分の行為を弁解しているのだ)と豹一は思った。が、実のところ、彼にはこのようにうまく理窟が言えなかった。だから、彼は、
(こいつがこんなに弁解ばかりしているのは、気の弱いせいだ)と思うことにした。彼は冷笑的に黙々としていることによって、やっと赤井の圧迫から脱れられると思った。
(こいつはこんな自己表現にやっきとなっているが、俺は一言も今晩の計画に就ては喋っていないぞ)
 そう言い聴かせることによって、豹一は黙っている状態に意味をつけた。しかし、豹一自身気がついていないことだったが、彼がそんな風に黙っていたのは、なにか奇妙な困惑に陥いっていたからでもあった。彼は赤井の興奮に強いられて、その共鳴を表現することを照れていたのである。芸もなく赤井と一緒に興奮して、青春だ、青春だと騒ぐのが恥しいのである。つまり彼は自分の若い心に慎重になっていたのだ。美しい景色をみて陶酔することを恥じる余り、その景色に苛立つのと同じ心の状態で、彼は赤井の若さに苛立っていたのである。豹一は告白という、青年につきものの行為を恥しく思う男だったのである。彼のように興奮にかられ易い男が、他人の興奮に苛立つのはおかしいと人は思うかも知れないが、しかし豹一の興奮には多少とも計算がまじっていた。だから彼は他人の若い興奮の中にも見えすいた計算を直ぐ嗅ぎつけてしまい勝ちだった。
 赤井は豹一が少しも自分に共鳴しないのを見て、酔わす必要があると思った。豹一だけが自分の心を解してくれる唯一の男だと思っていたのである。丁度京極の端まで来ていた。赤井は先に立って、花遊小路の方へ折れて行き、
「この小路の玩具箱みたいな感じが好きなんだ。僕はいつも京極へ来ると、さくら井屋の中と花遊小路を通り抜けることにしているんだ」
 と言いながら、四条通へ抜けると、薄暗い小路へはいって行った。崩れ掛ったお寺の壁に凭れてほの暗い電灯の光に浮かぬ顔を照らして客待ちしている車夫がいたり、酔っぱらいが反吐を吐きながら電柱により掛っていたりする京極裏の小路を突き当って、「正宗ホール」へはいった。
 そこも三高生の寮歌がガンガンと鳴り響いていた。「紅燃ゆる」の歌もこんな風に歌っては台無しだと思いながら、豹一は赤井のあとについて、隅のテーブルに腰掛けた。たにし[#「たにし」に傍点]の佃煮と銚子が来ると、赤井は、
「君飲めるだろう?」と、盞を渡した。
「うむ」と曖昧に返事をしたが、実は飲むのは生れてはじめてなのである。飲めないと思われては癪だと、赤井がついだのを一息に飲みほしたが、にがかった。たにし[#「たにし」に傍点]を箸でつついていると、「おい、僕にもついでくれ」と言われて、周章てて下手な手つきでついでやると、赤井は馴れた調子で、ぐっとさもうまそうに飲みほした。感心してぽかんと赤井の顔を見ていると、いつの間にか自分の盞が一杯になっていた。それもにがかった。そうして七、八杯続けざまに飲んだが、いつも吐き出したいようなにがさだった。たにし[#「たにし」に傍点]をいくら口の中に入れてもそのにがさは消えなかった。たぶん俺は変な顔をしているだろうと、豹一はそれを誤魔化すように、
「喧しい奴らだ」
 と言いながら、手を伸ばして赤井の煙草を一本抜きとり、吸ったが、それで一層胸が悪くなった。
(あいつらでも酒が飲めるんだぞ! それだのにお前はなんてだらしが無いんだ? これ位の酒に胸が悪くなるなんて)
 ふらふらする頭を傾けて、騒いでいる連中の方をちらと見た途端、一人の生徒が、
「おい、なんだと? 先輩だ?」と呶鳴りながら席を立って行くのが眼にはいった。
「そうだ、僕は先輩だよ」四十位の洋服を着た、貧弱な男がおどおどした容子でそう言った。
「じゃあ、何期生だ?」その生徒は昂然とズボンに手を突っ込んだ儘言った。男はすっかり狼狽して、
「先輩だよ。先輩といったのが何が悪い?」
「何期生か言って見ろ!」
 返事はなかった。恐らくその男は騒いでいる三高生の機嫌を取るために、「しっかりやれ! 諸君、僕は先輩だよ」とかなんとか言ったのに違いないと、豹一は咄嗟に判断して、馬鹿な奴だと思った。むしろ役所の小役人風めいたおどおどしたその男の態度が哀れだった。が、その男よりもその生徒の方を一層軽蔑した。恐らくその男の貧弱な服装を見て、先輩とは偽だと睨んで、突っ掛って行ったに違いない。
(良い服装の堂々たる押し出しの男から先輩だと言われたのなら、たぶんぺこぺこして盞を貰いに行っているところだろう)
「言えないだろう? ざまあ見ろ! 第三高等学校の先輩だなんて、良い加減なことを言うと、承知せんぞ!」
 まるで犯人に言うような言い方で、その生徒が呶鳴ると、拍手があった。すると、彼はますます得意になって、じろじろ部屋の中を見廻しながら、
「俺は官立第三高等学校第六十期生山中弦介だ!」
 最期の花火を打ち揚げると、すっかり悄気て何やらぶつぶつ口の中で呟いているその男を尻眼に席へ戻った。途端に、豹一の耳の傍で、
「三高生がなんだ?」
割れるような声がした。赤井だった。
「誰だ? 呶鳴った奴は……」向うから先刻の生徒がそう呶鳴った。
「俺だ!」そう言って赤井が立とうとするのを、豹一は止めて、
「僕に任せろ」とふらふらと立って、
「文句のある奴は表へ出ろ!」そう叫びながら、外へ出て行った。その拍子にまるで地の揺れるような眩暈がして、ゲッと異様なものが胸を突きあげて来た。豹一は塀に両手を突いて、反吐を吐いた。眼の前が一瞬真っ白になり、倒れそうになった咄嗟に、
(誰も出て来ないな)と思った。「止せ! 止せ! 向うも三高生だよ」としきりに止めているらしい声が聴えた。ガラス障子のなかには濛々たる煙が立ちこめ、人々が蠢いているのを遠い舞台を見るように眺めた。すっかり吐いてしまって、暫く塀に凭れてしゃがんでいると、不思議なくらいしゃんとして来た。
 誰も出て来ないと分ると、豹一は自分の行動が妙に間の抜けたものに思われて来た。赤井に先を越されたという想いと、一つにはその生徒の英雄を気取った、威嚇的な態度に対する義憤から、飛び出してみたものの、一人相撲の感があった。
(うまい時に飛び出して反吐を吐くところを誰にも見つけられなかっただけが、もっけの倖いだった)そう諦めて、豹一は再び正宗ホールのガラス障子をあけた。先刻の生徒と視線が合った。豹一はわざとその傍をゆっくり通って、元の席へ戻った。
 赤井は向い側に坐っている二人連れの上品な顔をした男と前から知り合いのような顔で、盞のやりとりをしていた。
「喧嘩は止し給え」豹一が席に腰を掛けるなり、その一人がそう言って、盞を豹一に向けた。鼻の大きすぎるのが気になったが、感じの良い顔だと思った。もう一人の男が酌をしてくれた。その男は顎が尖っていた。が、べつに悪い感じの顔でもなかった。どちらも若い顔をしていたが、もう四十を過ぎているらしかった。
「君、顔が蒼いぞ」もうぐにゃぐにゃと酔っぱらっている赤井が言った。反吐を吐いたためだったが、豹一は興奮のためだと思われやしないだろうかと心配した。それで、見知らぬ男がついでくれた盞をぐっと飲みほした。
 騒いでいた連中は、「第三高等学校万歳! 昭和六年度記念祭万歳!」と気勢を揚げて、乱暴に入口の障子をあけて出て行った。
「あいつらは名刺にも官立第三高等学校第何期生と刷っていやがるだろう」
 豹一が言うと、鼻の大きな男は、
「辛辣だな。君達も高等学校なんだろう?」顎の尖った男と顔を見合せて、意味もなく笑った。豹一はむっとした顔をした。
「そんな変な顔をするなよ。どうも君達は気が短い。向うも若いが、君たちも若い。が驚いたね。一人が呶鳴ったかと思うと、一人が飛び出している。呼吸が合ってるね。そこが気に入ったよ」
 豹一はこんな風に批評されるのを好まなかった。早く切り揚げようと、赤井に目くばせしたが、赤井はまあ良いじゃないかという顔をした。すると、顎の尖った男が、
「どうです? やりませんか?」と豹一にたにし[#「たにし」に傍点]の佃煮をすすめた。頑として黙っていると、
「遠慮はいらんよ。実のところこれはいくらでもお代りが出来るんでね」
 その気取りのない調子が豹一にはちょっと気に入った。やがて、鼻の大きな男が、
「どうだ、この学生と一緒にガルテンへ行こうか」と顎の尖った男に言った。
「良かろう。面白い。可愛いからね」
 そして豹一らの分まで無理に勘定を済ませると、
「どうです? 一緒に行きませんか」割に丁寧な物の言い方で言った。
「どこでも行きますよ。畜生!」赤井はやけになってそう叫び、黙ってむつかしい顔をしている豹一の傍へ寄ると、
「行こう。面白いじゃないか。ガルテンと言うのは祇園のことだ。園は独逸語でガルテンだろう?」耳の傍で囁いた。
「僕は帰ります」豹一はだし抜けに言った。
(どうせ、俺らを酒の肴にするつもりだろう? いやなこった。誰が幇間になるもんか。赤井の媚びた態度はなんだ)
 意味もなくげらげら笑って、畜生! 畜生! と力んでいる赤井をきっとした眼で睨みつけた。鼻の大きな男は、
「どうして? いいじゃないですか。それとも怖い? なるほど君は未だ若いからね」
 若いと言われたことが豹一の自尊心をかなり傷つけた。
「怖いことはない!」
「じゃ、ついて来給え」
 渋々承知した。正宗ホールを出て、小路を抜けると、四条通を円山公園の方へ歩いて行った。右側の有名な茶屋のある角を折れて、格子戸のある家へ四人であがった。芸者が四人来た。そのうちの大柄の女が豹一を見て、「まあ、可愛い坊ん坊んやこと。おうちどこどすか?」と言った。豹一は横を向いたまま、
「大阪だ」とにがにがしく答えた。体を動かすと、また吐きそうだったからである。
「まあ大阪どっか。あてかて大阪で生れたんどっせ。さあ唄っておみやすな」
 そして芸者は、テナモンヤナイカナイカ、道頓堀よ――と唄った。むろん豹一は唄わなかった。
 一時間ほどして、ふらふらと赤井と一緒にそこを出た。残っている二人に挨拶も出来ぬほど意識が朦朧としていた。南座の横のうどん屋へはいって、鯡うどんを食べた。なんとなく、タヌキということが想い出された。出ると、赤井は、
「金を貸してくれ」と言った。ポケットから五円紙幣を掴み出して渡すと、
「君も一緒に行かんか」
「いやだ!」自分も驚くほど大きな声で答えた。赤井の行くところは大体分っていた。たぶん宮川町の遊廓だろう。いやだと答えたのは本能的なものだった。先刻の席で胸苦しくなって、吐くために芸者に案内されて洗面所へ行った時にだしぬけに経験された、唇をなめくじが這うような、焼いた蜜柑の袋をくわえるような、薄気味わるい感触が、ぞっとするいやさで想い出されるのだ。
 赤井は、
「じゃあ、行って来るよ。僕を軽蔑するなよ」そう言って身をひるがえすと、川添いの暗闇のなかへ吸い込まれて行った。
 豹一は円山公園から知恩院の前へ抜けて、平安神社の方へ暗い坂道を降りて行った。そして岡崎の公園堂の横から聖護院へ出て、神楽坂を登って秀英塾へ帰った。大学の時計台が十時を指していた。義務を果したという安心でホッとすると疲労が来て、直ぐ床を敷いてもぐり込んだ。塾生はちゃんと就眠時間を守っていた。が、塾長の中田は暗闇のなかで目を光らせていて、豹一の口から吐出される「醜悪な臭」をかいだ。中田は無論豹一が掟を破ったことに就て、大阪の塾主へ報告すべきであると思った。が、その破り方が余りに大胆過ぎたので、ひょっとしたらこれは塾長たる自分の落度になりはしないかと思い、報告は後日に延ばすことにした。いずれ機会はいくらでもあろう。あの男のことだ! その豹一はもう前後不覚になってぐっすり眠っていた。

      五

 やがて五月一日の記念祭の当日になった。熊野神社から百万遍迄の舗道には到るところにポスターが貼られていた。校庭に面した教室の板塀にもクラスの名と仮装行列の題を書いたポスターがそれぞれにあった。どのポスターにも桜の中に三の字のはいった学校のマークが描かれてあった。午前十時半に式と記念講演がすむと、直ぐ仮装行列がはじまった。楽隊が雇われていた。各クラス毎で経営している模擬店がずらりと並んでいた。模擬店をクラスが経営することに就ては学校当局は最初反対していた。が、自治委員の言い分がやっと通ったのである。日頃無能だと言われている自治委員も案外なところでその役割を発揮した。
 豹一は寄宿舎のデコレーションを一度軽蔑して置くのもわるくないと思った。素直に見に行くと言えないのが彼の厄介な精神なのである。入口には破れ靴やボロ布や雑巾が頭と擦れる位の高さにぶら下げてあり、その一つの赤い布には「浜口雄幸氏三高時代愛用の褌」と御丁寧に木札がついていた。
(莫迦々々しい、何も浜口雄幸の褌まで担ぐ要はあるまい)
 とくぐった途端、ガーンと銅鑼の音が鳴った。一人くぐる毎に、小使部屋で誰かが鳴らしているらしかった。
(流行らぬ客[#「客」は「寄」の誤記か、48下-14]席か化物屋敷じゃあるまいし……)そう心の中で呟いて、豹一は北寮、中寮、南寮の順に各部屋のデコレーションを見て廻った。南寮五番の部屋まで来ると、「虎退治」とデコレーションの題を書いたポスターが貼りつけてありながら、ドアが閉っていた。人々はドアがなかなかあかないので、これもデコレーションの機智の一つかというつまらなそうな顔をして立去って行った。実は「西田哲学」という題で、はいると「絶対無」と書いた紙片のほかになに一つなく、ガランとしていた部屋があったのである。豹一はドアをノックして、
「赤井! 赤井」と呼んで見た。
「誰だ?」赤井の声だった。
「僕だ、毛利だ」と言うと、ドアをあけてくれた。はいって見ると、赤井は裸の体にボール紙の鎧をつけ、兜を被って、如何にも虎退治らしい装立だった。竹藪が装置してあった。
「なんだ、君が虎を退治るのか。見せないのか?」
 とあきれて訊くと、
「実はこれは僕の発案なんだ。実物の人間が立っているところが味噌なんだが、かわり番に立つことにして、いよいよ僕の番になって見ると、とてもこんな恰好で立てやしないんだ。が、発案した以上、立たぬ訳にはいかないじゃないか。それで立つことは立ったが、ドアを閉めて誰もはいれぬようにしてやったんだ。寒いよ。煙草あるか」
 豹一は吹き出してしまった。こんな痩せてひょろひょろした虎退治があろうかと、朝からの不機嫌が消し飛んでしまった。煙草を渡すと赤井は、
「封を切ってないね」
 豹一は幾らか恥しかった。ただなんとなく持っているだけで、吸う気になれなかったのである。照れかくしに、
「虎はどうした?」と言うと、
「デコが間に合わなかったんで、立っている人間がしばしばうおーッと唸る仕掛になっているんだ。妙なものを発案したもんだ」と苦が笑いをした。交替のものが来るまで動けないと言うので、豹一は、
「じゃ、また後で」
 とそこを出た。寄宿舎を出ると、豹一は新築校舎の二階にある自分の教室へ行き、グラウンドに面した窓から仮装行列を見た。丁度豹一のクラスである文科一年甲組の仮装行列がはじまる前で、誰も教室にはいなかった。豹一は自分の仮装行列の提案に反対されたので、参加しなかったのだ。彼はクラスの者が仮装用の費用に出す一円ずつの金を集めれば五十円になる。その金でパンを買って、皆んなでグラウンドへ担いで行き、グラウンドを一周してから代表者がそのパンを養老院へ持って行って寄附することにすれば、下手な仮装よりもぴりッと利いて面白く有意義ではないだろうかと、半なにか偽善者のように思われやしないかと心配しながら、一人一件という義務通り提案したのである。反対されたのは構わなかったが、その時教授の息子である級長の根室が、京都人らしい陰険な眼を眼鏡の奥にぎょろりと光らせながら、ねちねちとした口調で、「毛利君の案は不穏当だと思う。毛利君は何か意味があってそんな提案をしたのか知らないが、そのためわれわれのクラスが学校当局からね[#「ね」に傍点]らまれるようになったら、迷惑である」とかなり感情的な反対意見を述べたのが、癪にさわったからだった。
(ね[#「ね」に傍点]らまれるとはなんだ! 俺を危険人物だと思ってやがる!)
 根室の反対意見にかなり賛成の声が出て、何れも京都に家をもった生徒ばかりだった。結局仮装は「酋長の娘」という無意味な裸ダンスに決った。豹一は立って、不参加を表明した。赤井も、「裸ダンスの方が不穏当ではないか」と反対意見を述べて不参加と決ったのである。
 窓の外を見ていると、教室へぬっと黒い顔を出した男があった。野崎だった。
「君、仮装に出ないの?」と豹一が言うと、野崎は眼鏡の奥で眼をパチパチさせて、
「俺は出えへんのや。練習せえへんかってん」と未だ大阪訛の抜け切らぬ口調で言って、黒い顔をちょっと赧くした。ああ、そうかと豹一は思い当った。野崎はひどく忘れっぽい男で、教室でもたびたび教科書を忘れ、隣の豹一の机へ自分の机を寄せて、「ちょっと見せてんか」とこれが三日に一度である。その都度、気の毒そうに、「君も大阪やろ? 大阪へ帰るんやったらわいの定期貸したるぜ」というのだった。彼は毎日大阪から通学していたのである。
「君はどうするんだ? 定期無しで……?」と訊くと、
「わいは京都で待ってるさかい、大阪へ着いたら直ぐ定期を速達で送ってくれたらええのや」
 その間待っているつもりなのかと、豹一は野崎の底抜けのお人善しに驚いてしまった。彼が忘れるのは教科書だけでなく、例えば自然科学の時間などに、べつの合併教室へ移動するのを忘れ、ぽかんとひとり教室に坐っていることがよくある。独逸語の訳読をやらされるときなど、いきなり三頁位先の方を読み出して、皆んなを面くらわせることもある。ラグビー部へ一週間ほどはいっていたが、練習の時間を故意にすっぽかすと思われて、部を除名されたということだ。だから、仮装行列の練習時間もうっかり忘れたのであろうと、豹一は思ったのである。何れにしても、不参加者が一人増えたわけだと喜んでいると、野崎は、
「俺は色が黒いやろ。しゃから、色が黒くても南洋じゃ美人というあの歌がきらいやねん」と言い、顎をなでて、
「今日一ぺん化粧してこましたろ思て、髭剃ったんやけど、あとからなんぞつけるのん忘れたよって、ひりひりして痛いわ」と言うのだった。豹一はこんなことが平気で言える野崎がにわかに好きになった。その大阪弁も好きだった。自分がわざと標準語まがいの学生言葉を使っているのが恥しかった。なにか野崎の言葉を聴いていると、しょっちゅうなにかに苛立っている自分が恥しくなり、ふっと和かな空気の中に浸ってしまうのだった。
 やがて、「酋長の娘」の仮装行列がはじまった。他愛のない踊だった。
「下手だなあ」と豹一が言うと、野崎は、
「そうや、下手やなあ」
「全部の中でいちばん下手だろう」
「そや、そや。いちばん下手や」
「酋長の娘」が済み、あと五つ六つの仮装行列があってから、寮生の嵐踊が行われた。百人ほどの寮生はいずれも赤い褌一つの裸で、鐘や金盥や太鼓をそれぞれ持っていた。群衆の垣を押しのけて、その行列がぞろぞろ寮から出て来るのを見た途端、豹一はわざとらしく眼をそむけた。彼等がいずれも見物の視線に芸もなくやに下って、蛮カラ振りの効果を見物の物珍しそうな眼つきで計算していると思ったからである。
(あの仮面のような笑い方はなんだ? 彼等は観衆の拍手が必要なのだ!)
 ここでも豹一の批評は苛酷だった。しかも、豹一こそこれまで観衆の拍手を必要として来たのではないか。そういう自分には気がつかなかった。
 ――デカンショ、デカンショと半年暮す、ヨイヨイ……。
 嵐踊がはじまったとき、赤井が教室へはいって来た。
「君は……?」出なかったのかと訊くと、
「風邪ひくとつまらんからね。それにこんな痩せた体をさらけ出せるか」と赤井は言った。
 やがて、仮装行列が全部済み、教授の投票による成績が発表された。「酋長の娘」はビリから二番目の成績だった。ざまあ見ろと思った。
 校長の閉会の挨拶がはじまった時は、校庭はもはや黄昏れていた。「紅燃ゆる」を歌って散会したあと、応援団長の推戴式があった。校庭に篝火をたき、夕闇の中で酒樽を抜いて、応援歌を呶鳴り、新しい応援団長は壇上に立つと、一高に負けるなと悲痛な演説をやって、心あるものは泣くのである。応援団委員は参加人数のかり集めに躍起となった。記念祭がすむと、生徒たちは興奮しながら町へあこがれ出て行く、その足を推戴式のため食い止めなければならない。近頃応援団というものに冷淡になった功利主義者や、事なかれ主義者が多くて困るのである。応援団委員の希望、そして足を食止め易いのは新入生たちであった。豹一、赤井、野崎の三人はまごまごしていたので、寄宿舎の横の小門で掴った。豹一の子供じみた頭や、むやみに上着の袖の長い如何にも新入生らしい服装をなめて掛かったのか、委員は、
「推戴式に出ないと、承知せんぞ!」と威喝した。豹一の自尊心にその命令的な態度が突き刺った。
「いやだ! 三高の伝統は自由だとあんた達が日頃言うじゃないか。出たくないものを無理に止める法はないだろう?」
 実は最近豹一もかり出されて、野球の練習時間中、意味なく太鼓を敲かされたことがあって、応援団には愛想を尽かしていたのである。しかし、その言葉は上級生に対しては少し礼を失していた。
「生意気言うと撲るぞ!」
「撲れ!」
 撲られた。撲った男がしげしげと鎰屋へ通うということをあとで知った時、豹一の眼は異様に輝いた。
 間もなく豹一が鎰屋お駒と散歩しているという噂が立った。

      六

 豹一とお駒の散歩は、赤井に言わせると、飯事に過ぎなかった。つまり豹一は臆病なのだと、簡単に赤井は判断を下した。そんな赤井の肚がわかれば、豹一も改めてなにかの手段を取ったところかも知れぬが、それにしても豹一は余りに恋愛を知らな過ぎた。お駒の方はまだしも、私は一人娘でこの人も一人息子やわ、とこんなことを漠然と考えていた。ところが豹一は真似るべき恋愛のモデルを知らないのである。知っていれば、見栄坊の彼のことだから、そのモデルに従って颯爽と行動することは面白いと思ったかも知れない。それもしかし、彼の記憶の中に根強くはびこっている或る種の嫌悪は、彼が足を踏み外して取乱すことだけは食い止めたに違いないが。つまり彼は流行外れの男だったのである。どんな愚劣な人間でも大した情熱もなしに苦もなくやり遂げて見せることが、彼には出来なかったのだ。だから愛情にかられるということが必要であった。ところが彼は愛情の前で奇妙な困惑を感ずる男だった。人に愛された経験がないのである。自分は人に愛される覚えはないと思い込んでいるのである。
 豹一は何のために散歩しているのかわからなかった。元来彼は何ごとにつけても、自尊心の満足ということ以外には意味をつけることは出来ず、お駒との散歩もむろんそこから出たものだったが、たいした効果はなかったのである。一緒に歩いているところを誰かに見て貰えば、それで自尊心が満足されると思っていたところ、見られたために却って自尊心が傷ついてしまった。
 ある日、植物園を散歩していると、北園町から自転車で通学している桑部という同じクラスの者に見つけられた。豹一は瞬間緊張して、桑部の眼の色の中に効果を計算しようとした。ところが桑部は自転車の上から、ちらっとお駒と豹一を見並べて、にやりと薄笑いを泛べて通り過ぎてしまった。少しも羨望らしい表情はなかった。桑部は自転車に乗っていたから、案外軽い気持で、二人の顔が見られたのである。呼鈴を鳴らして走って行った桑部のうしろ姿を見て、豹一は桑部はたしかに俺を嘲笑したと思った。
(お駒の顔を見て、なんだあんな女という眼をしやがった!)
 豹一はお駒の横顔をじろりと見た。そんな瞬間どんな女でも器量が下って見えるのである。お駒は美しい方だったが、鎰屋の二階で三高生にじろじろ見られている時ほどの美しさは、いま豹一には見えなかった。それにエプロンを外すと、お太鼓の帯も妙にぺったりして、模様の金魚もなにか貧弱だ。かんかんと照っている陽が鼻の横の白粉を脂にして浮かせていた。おまけにじっと豹一に横顔を瞶められたので、嬉しさの余り醜いまでにどぎまぎして赧くなっていた。豹一はお駒を醜いと思い込んでしまった。応援団員たちが熱中しているという肝腎のことは咄嗟に泛ばなかった。桑部の視線ばかりが気になっていたのである。それに彼は、はじめて赤井と鎰屋へ行った晩の、お駒の表情や仕草に良い印象をうけていなかったのだ。
(こんな醜い女と歩いているのが、どうやら俺らしいではないか!)
 そう思うと、豹一は一ぺんにお駒と歩くのがいやになった。しかし、そういう散歩はずるずると夏休み前まで続いた。案外気の弱い男だったから、むげにお駒をしりぞけることが出来なかったのである。
 二学期が来て、高等学校の生徒がそろそろ鎰屋へ顔を見せる頃になっても、豹一の姿だけが現れないとさすがに分ると、お駒はぽかんとしてしまった。自分の顔がだんだん醜い表情を取り出したので、あわてて化粧をしたりした。
(男というものは二月も会わないでいると、もうそのひとを忘れてしまうのだろうか?)こんなことを慰めみたいに考えた。が、豹一のことはなぜか恨む気持になれなかった。(あの人は前途ある高等学校の学生さんだもの、私らを相手にしないのは当り前だ)
 妙なところで、豹一は三高であることが役立ったのである。豹一は二ヵ月の休暇を利用して、やっとお駒と離れてしまったということに、少し自責めいたものを感じていた。お駒を自尊心のだしに使ったということが、済まない気がしていた。豹一はただ、
(俺の様にあっさりと女と別れられる奴はいないだろう。皆んな未練たらしくめそめそしてやがる!)と周囲を見廻してみて、やっと心を慰めた。
 例えば、赤井は此の半年間、一人の女に通い続けているではないか。そのため赤井は寮費を滞納して、寄宿舎を追い出され、鹿ケ谷の下宿へ移ったが、下宿料が後払いだったのに油断して、家から送って来た金を全部その女に注ぎ込んでしまった。月末になって困っているのを見かねて、野崎が自分の授業料を滞納させて立て替えてやった。ところが野崎はそのことを機縁として大阪からの通学を止めて、赤井と同じ下宿に移った。おまけに気の良い野崎は赤井の誘いを断り切れず、ある夜赤井と一緒に宮川町で泊ってしまった。
「これが青春なんだ。汚いところに美しいものを見つけるのが本当の青春なんだ」赤井は良い加減な青春説を振りまわすと、野崎は納得したのかしないのか、気の弱そうな声で、
「うん、そや、青春やな」と黒い顔でうなずくのだった。赤井のむきになって喋っている言葉の意味がわからないのを、赤井に済まなく思っているらしかった。
 野崎は赤井や豹一と一緒に四条通へ出ると、もう宮川町へ行かなければならぬと思い込んでいるらしかった。宮川町が見える「八尾政」へビールをのみにはいったりすると、もうそれは決定的なものになったという顔をするのである。そしてそのための資金を如何にして作るべきかをしきりに考えるのである。京都にある二軒の親戚からはもうこれ以上借りられないぐらい借金してしまった。質に置くものもない。そんな結論に到達すると、彼は赤井の青春のために済まなくなって来る。そしてまた、そのような青春に背中を向けて今夜も一人で帰って行くだろう豹一に対しても、何か済まない気がするのだ。「八尾政」を出ると、はじめて野崎はおずおずと口を切るのだった。
「赤井、金なんとかしようか?」
「うん、そうだな。しかし、べつに今夜は――」そう赤井が言うと、野崎はなにがなんだか分らなくなって来るのだ。赤井の青春説を改めて考え直すのだ。
「君さえ構へんかったら、なんとかするぜ」
「当あるのか?」
 そう言われると、野崎ははじめて釈然として来て、嬉しそうな顔をするのだ。
「あるぜ」
「そうか。そんなら僕どこで待っていようか?」
「ヴィクターで待っててくれ」野崎はなにか責任の重さを痛感したような顔で、夜の町を金策に奔走するのだった。
 ある日、野崎は突然行方不明になった。その前の晩野崎と赤井と一緒に宮川町で泊ったのだが、金無しで泊ったので、野崎は赤井を人質にして金策に出掛けた。が、何時間経っても赤井のところへ帰って来なかった。そこの家の女中が学校へ豹一を訪ねて来て、金をもって帰り、それでやっと赤井は人質から解放されたが、野崎はそれから三日も下宿へ帰って来なかった。二人で探して見たが、見当がつかなかった。三日目の朝、学校へ行くと、野崎がしょんぼり教室に坐っていた。授業が始まる前だったので、直ぐ呼び出して、近衛通の喫茶店へはいり、事情を訊いて見ると、こうだった。
 赤井を人質に残して、出たものの、野崎には金策の当がなかった。三軒ある親戚も一方で借りた金を一方へ返し、そこでまた借りた金で一方へ返ししていたから、随分借金が嵩んでいた。五円返したその場で十円借りるというつもりのヤリ口も、その五円が手にはいらぬ限り不可能だった。下宿で借りるということも考えられたが、それも下宿代が二人分滞っている上に、まだいくらか現金を借りていたから、到底実行出来そうもなかった。おまけに昨夜外泊した顔をぬけぬけと出して借金も出来なかった。豹一なら持っているかも知れないと思ったが、行く前の顔はともかく、宮川町からの帰りの顔をどうして会わされようか。眼が充血し、黒い皮膚がいくらか蒼ざめて、ねっとりと脂の浮いている顔を、豹一の美しい顔の前へ出すのは恥じられた。質草もなかった。大阪まで京阪で帰って、家で貰って直ぐ引きかえして来ようかと思ったが、材木屋をしている父がこの頃糖尿病で臥込んでいることを想い出すと帰れなかった。ひょっとして父の痩せた顔を見て、いきなり日頃の行状を告白したくなったり、また母親から貰って便所で泣いたりしていると帰りが遅くなるやろと思った。当もなく京極を歩いて、誰か知った顔に会えへんやろかと眼をきょろつかせた。この前一銭の金を借りるために、京極を空しく三往復したことを想い出したりした。その時十四銭もっていたのだが、腹は空っているし、珈琲ものみたかった。結局「スター」の喫茶店で十五銭のホットケーキを食べれば、珈琲がついているから、一挙両得だと思ったのであるが、それには一銭足りない、誰か知った奴に会わないかと歩きまわったのである。「スター」の前を六度通ったが、そのたびに、陳列窓のなかにあるホットケーキの見本が眼にちらついてならなかった。三条の「リプトン」で十銭の珈琲を飲むか、うどんをたべるかどっちかにしようと自分に言い聴かせたが、どうにもホットケーキに未練が残った。ふわっと温いホットケーキの一切が口にはいる時のあの感触が唾気を催すほど、想い出されるのだ。蜜のついている奴や、バタのついている奴や、いろいろ口に入れたあとで、にがい珈琲をのんだら、どない良えやろかと、もう我慢出来なかった。顔を見知らぬ三高生が一人擦れ違ったので、済まんけど、一銭貸してくれへんかと頼むと、妙な顔をして、無いぞオと断られた。わいはなんでこないに金が無いのやろ、泣いてこましたろかと、半分泣きかけていたのであった。――会いたいときはなかなか知った顔に会わんもんやなと、その時のことを想い出していると、急にホットケーキが食べたくなった。京極の真中で、財布をあけて勘定してみたら三十銭あった。「スター」へはいってホットケーキを食べた。そこを出て、京極通を三条へ出て、河原町通を四条の方へ引きかえした。四条河原町の手前にある小路を左へ折れて、「ヴィクター」喫茶店へはいった。薄暗いいちばん奥のボックスに坐って、そこの八重ちゃんと呼ぶ女の顔をなんとなく見ていた。八重ちゃんはいつもエプロンの袖から白い腕をにゅっと出して、それが生々しく魅力があった。三人いる女のなかで、彼女がいちばん目立っていそいそと立ち働いているのは、つまりそれだけ綺麗だと自覚している証拠なんだと、赤井がいつか言っていたのを想い出した拍子に、赤井の痩せた、線の細い顔が泛んだ。早く金を持って行ってやらぬと、赤井のことやから、余計勘定が嵩むようなことになるやろと、丁度鳴り出したベエートーヴェンの第五交響楽を深刻な顔で聴いた。なにか気持が落ち着かなかったが、しかしそこを出ても金策の当はないと思うと、半分やけみたいな気持で、交響楽が全部済んでしまうまで、じっと坐っていた。出ると、もう財布の中には一銭もなかった。長崎屋の前を通ると、にわかにはいってカステラを食べたくなった。番茶を貰って、日当りの良い窓側で啜りながら、四条通をぼんやりながめていたら、良いやろなと思った。そのために要る十二銭の金が無いことが、嘘みたいに悲しく、腹立たしかった。再び京極を抜け、寺町通の古本屋を軒並み覗いて廻った。「京屋」という古本屋で、赤井が欲しがっていたコクトウの「雄※[#「※」は「奚+隹」、56上-3]とアルルカン」を見つけ、記憶えて置こうと、値段など訊いた。いまここに十五円の金があれば、その本を赤井のところへ持って行ってやり、そして、一緒に「ヴィクター」へ行ってその本を見ながら、赤井の音楽論が聴かれるのやがと思った。御所の芝生へごろりと寝転んで改めて金をつくる方法を思案した。が、いつかうとうとと居眠りをした。わいはいま寝てる。昨夜の寝不足がたたって、えらい疲れて歯軋りして寝てる、そんなことを夢うつつに意識しながら、一時間ばかり眼をつむったり、人の跫音で眼を覚したりしていたが、いきなりこんな呑気なことをしてられへんと欠伸をして、立ち上った。芝生の露が紺ヘルのズボンを透して、べたっと尻にへばりつき、気持がわるかった。尻をぺたぺた敲きながら、御所を出ると、足は自然に学校の方へ向いた。丸太町の電車通りに添うて熊野神社まで来ると、大学の時計台が見えた。近衛町まで来ると、もう時計の文字がはっきり見え、既に午後一時過ぎだった。直き戻って来てやると赤井に言って来たのだが、もう三時間も経っていた。身を切られるような気がした。近衛通から吉田銀座へ折れて錦林通へ出る細いごたごたした小路へはいって行った。そこに馴染の質屋があった。古着屋のような構えで、入口の陳列窓にいつか入質て流した靴が陳列されていた。野崎はん、今日は何入質はるんどす?言われて考えてみたが、なかった。が、結局咄嗟に脱いだ毛糸のシャツと、帽子と万年筆と銀のメタルとで二円五十銭貸してくれた。思い掛けず金がはいったのですっかり嬉しくなり、近衛通から電車で四条河原町まで行き、長崎屋の二階へ上って、カステラを食べた。なお、紅茶を飲んだ、祇園石段下で電車を乗りかえる時に買ったチェリーの箱が空になるまで、ぽかんとして坐っていた。午後二時半になった。京極で活動を見た。出ると、午後五時だった。もうあたりは黄昏の色だった。赤井は首長くして待ってるやろな、怒っとれへんやろかと、ふとそのことを思い出すと、泣き出したくなった。が、お前ももう二十歳やないかと、固くいましめて、涙だけは流さなかった。そして、もう今となっては金を持って行っても手遅れや、赤井に会わす顔もあらへん、金をこしらえても仕様があらへんと、こんな気楽なことをしょんぼり考えて、僅に心を慰めた。しかし何かに追い立てられるような気持だけは、重くるしくいつまでも去らなかった。浮かぬ顔をして、夜の町を逍遙い歩いた。まさか鹿ケ谷の下宿へ寝れまいと思ったのである。赤井を人質に残して置いて、自分ひとりだけ呑気に下宿へ帰って寝ていられようか。喫茶店へ二回、うどん屋へ二回はいり、そこら辺当もなく、逍遙い歩いている内にだんだん夜が更けて来た。人通りが少くなり、心細くなった。七条内浜まで暗い道をとぼとぼ歩いて行って、木賃宿の割部屋へ泊った。これが赤井の言うデカダンスやと思ってみたり、もうわいは救いようのないほど堕落したと思ってみたり、赤井の顔を想い泛べてみたり、なかなか寝つかれなかった。文字通り枕を濡らす想いで夜が明けた。そして木賃宿を出ると、また一日中野良犬のように町を歩きまわっていた。放浪者を気取っていたが、気取るまでもなく、妙に薄汚く浮浪者じみて来たと思った。相かわらず、ぞおっとする想いで赤井の顔が泛んで来た。ひょっとしたら、赤井は無銭遊興で拘引されているのと違うやろかと思うと、もうへとへとになるまで歩きまわるのが義務のようだった。おかげで、京都の町の地理を随分覚え込んだ。薄汚い路地裏で、びっくりするほど色の白い綺麗な女を見て、ああえらい良えもんを見た、これが今日一日のわいの幸福やと呟いたりした。夜が更けると、また木賃宿に帰った。その夜はぐっすり眠れた。そして夜があけると、また歩きまわっていたのである。そして、三日経ったが、金が一銭も無くなると、死にたいほどの気持になり、木賃宿を出た足でふらふらと学校へ来て、授業が始まる一時間前から、ひとりしょんぼり教室に坐っていたのだった。……
 そんな詳しいことは分らなかったが、野崎が口下手に問われるまま返事した言葉から想像して、たぶんそんなことだろうと、見当がつくと赤井はもう言うべき言葉を知らなかった。心配しながら、且つぶりぶり怒りながら野崎を探し廻っていたことが阿呆らしく想い出された。
「君の放浪は実に君らしい青春だよ」と赤井は辛うじて青春説を口にしたが、しかし、肚の中では、
(つまりこいつは忘れっぽい、頼り無い男なんだ)と妙に諦めていた。
 だが、豹一は何か底知れぬ野崎の魅力に触れた想いで、にわかに友情が温って来た。
(俺はしょっちゅう自尊心の坐りどころを探して、苛立っているが、野崎は珈琲一杯の中に胡座をかいてしまうことが出来る。何という違いだ! つまり俺の方がずっと浅ましい存在なんだ)
 そう思うようになったのは、豹一としてはかなりの進歩だった。豹一は短距離選手のゴール前の醜悪な表情を自分の生き方と比較してみた。(実に同じく醜い緊張だ!)
 彼はもう首席になる決心を断念した。ところが、実のところ、彼は今のままでは進級も危いような状態だったのである。

      七

 校門をはいって直ぐ右手にある賢徳館という古い建物のなかで、及落決定の教授会議がひらかれた。三月の初めで、京都では未だ厳しい寒さだった。ストーヴをたいてもガランとした部屋のなかはなかなか暖まらず、誰かが小用に立つたびに、身を切るような比叡おろしがさっと部屋の中を走った。老年の教授達はズボンに手を突っ込んだまま、せわしく足踏みしていた。例年より冷え方がひどく、ことしは明治何年以来の寒さだと言うことだった。どうやらストーヴに故障があるらしかった。そんな寒い部屋のなかで、殆んど朝から夕方まで坐りずめで、教授も容易な辛抱ではなかった。そのせいか、会議は実にあっけなく早いスピードで進行して行った。毎年、一人の生徒の及落を決めるために、まる半日潰れてしまうようなことがあった。が、ことしは一人の生徒に十分も手間どるようなことはなかった。いちいちその生徒の一生の運命まで考えていたら、きりの無いところである。毎年懐疑的な教授も今日は点数という極めて合理的な決定法に絶対の信用を置いた。
 豹一、赤井、野崎の三人の及落決定も十分とは掛らなかった。三人一束に審議されて、簡単であった。欠席日数が三人とも規定を超過していると聴いて、さっさと小用に立った教授もあるくらいだった。おまけに、品行もわるく、成績不良だった。ことに、独逸語の成績がひどく悪かった。
「どうですな、Hさん」誰かが独逸語のH教授にそう訊いた。H教授が、「もう一年僕の講義を聴かしますかな」と言えば、もうそれきりなのである。
「いやあ、僕には意見がありませんよ。及落どちらでも結構ですな」H教授はそう言ってにやりと微笑った。
「三人とも落第ですな」
「ええ、三人とも――」H教授は嬉しそうにうなずいた。なにかしら満ち足りた気持だった。H教授は昨夜毛利豹一が自分を訪問して来たことをちらと想い出していたのである。
 書斎に通すなり、
「君、用件は何だね?」
「はあ」豹一はさすがにもじもじしていた。その赧くなっている顔をH教授はちょっと可愛いと思った。独逸に留学していた時、こんな顔をした中学生がビールの飲み競べをやっていた。こいつは余り飲めそうにもない。姉の結婚式で二、三杯盞をなめて、ふらふらになって泣き出す手合だろう。
「僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え」
「はあ、その点数のことなんですが」
「点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ」
「なりませんか? そうですか」豹一は思わず立ち上りそうになった。人に頭を下げるのがいやなのである。が、さすがに、これは思い止った。実は、朝から赤井、野崎らと手わけして悪い点を取りそうな教授を訪問しているのである。赤井は日頃H教授に睨まれているし、野崎はひどく成績が悪そうだし、三人のなかでは比較的成績のましだと思われる豹一がH教授訪問の役に当ったのである。その役を果さぬうちはやはり帰れなかった。
「実は赤井と野崎のことなんですが、先生の独逸語の成績がひどく悪いらしいのです。――二学期はわりに良く出来たんですが、一学期の点が悪いんです。他の科目は注意点を免れましたが、先生の点だけが、――独逸語で落第しそうなんです。なんとか及第点にしてやっていただけないでしょうか」
 考えていた言葉をやっとの想いで言って、H教授の顔を見上ると、H教授は薄気味わるく笑っていた。二学期の成績が良かったという豹一の言葉がおかしかったのである。二、三日前答案を採点していた時、H教授は三人の答案が一字一句違わないことを発見して、あきれてしまった。赤井と野崎が豹一の答案を写したに違いないと思った。三人の中では豹一がややましに出来るのだった。H教授は先ず豹一の点を零点にした。他の二人は一学期の点をそのままつけた。すると三人とも二学期を平均して落第点になった。豹一を零にしたのは、もし及落会議で問題になったら助け舟を出してやるつもりでいたからである。
 H教授はくつくつとこみ上げて来るのを我慢しながら、
「赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?」
「はあ」
「君はどうなんだ?」
「僕は……」大丈夫だというその顔がH教授にたまらなくおかしかった。たまりかねて、下を向き、膝の上の成績を仔細に見る真似をして、
「ところが、君の方の点がわるい」わざと渋い声で言うと、
「えッ?」案の定驚いた顔をした。
「赤井は三十八点、野崎は三十七点、君は三十六点だ。君がいちばん悪い」
 そう言ってやると、すごすごと帰って行ったそのことを、H教授は想い出したのである。手土産に三人の名前がはいっているのもおかしかった。H教授は三人の仲の良さにちょっと微笑ましいものを感じた。及第させるならば、三人とも及第させてやりたい、一人だけ欠けると可哀相だという気持だった。豹一が自分の点で落第しそうだったら助け舟を出して他の二人と一緒に及第させてやるか、それとも三人を落第させてやるか、どちらかだと思っていた。が、欠席日数超過で三人とも落第と決ったので、なにか満ち足りた気持がしたのである。
「毛利は出来る科目もあるが、彼は秀英塾だね」と誰かが言った。秀英塾の生徒は皆秀才だということになっていた。
「余っぽど、怠けたのだね、毛利は」誰かが答えた。
「すると、三人とも落第――?」
「異議なし」
 秀英塾では落第すると給費を中止するという規定を教授達はみな知っていた。が、誰も想い出さなかった。そうして三人の落第は簡単に決定した。
 教員室の壁に小さく貼出された紙を見て、落第だとわかると三人は赤井の発言で早速受持の教授を訪問することにした。下鴨にある教授の家の玄関で待っていると、教授が和服のまま出て来て、突っ立ったまま、
「どうもお気の毒だが、決ってしまったものは致方ない。僕も頑張るだけは頑張ってみたのだが、欠席日数があれではね」その癖その教授は彼等の落第を主張した一人だった。受持の教授が自分のクラスの生徒の落第を主張するのはおかしいと、眉をひそめた教授もあったくらいである。
 玄関での立ち話では、三人とも頼むべきこともろくに頼めなかった。阿呆らしい気持で早々に辞すと、足は自然に京極の方を向いた。途々、赤井はひとりで興奮していた。豹一はわりに平静な気持だった。落第と決れば秀英塾から追放されることは免れ得なかった。もう三高生活もこれでおさらばだと、彼ははじめから受持の教授を訪問する気持もなかったのであった。野崎はおかしい程悄気ていた。まるで泣き出さんばかりの顔をしていた。
 そんな野崎の気持は赤井や豹一にははっきりわかっていた。今度の落第は野崎に原因していると、言えば言えないこともなかった。野崎は三人の欠席日数をノートにつけていたのである。誰も野崎の計算を信じていた。だから野崎がもうあと三日休めるぞと言ったので、うかうか三日休むことにした。ところが、野崎の計算の間違いだとわかった。丁度その三日間だけ超過してしまったのである。そのほかに未だこんなこともあった。
 第一日目の試験が済むと、彼等は例によって京極へ出て、三条通の「リプトン」で翌日の試験の秘策を練った。その日の試験は独逸語で、これは豹一の答案を写して、どうにか落第点を免れたので、紅茶の味はうまかった。レモンの香が冬の日らしい匂いをぷんと漂わせて、彼等の寝不足の眼をうっとりと細めた。が、翌日の試験は歴史である。彼等は誰もノートを持っていなかった。勉強しようにも方法がなかった。歴史の教授は及落会議でも相当辛辣だということを赤井が言い出したので、三人とも憂欝になり、紅茶を三杯ものんだ。ところが野崎が同じ中学校出身の先輩に去年のノートを借りる手があると、良い智慧を出したので、もう歴史の試験は半分終ったのも同然だと、彼等は松竹座で映画を見た。松竹座を出ると、野崎はノートを借りに行くことになった。未だそこら辺をぶらぶらしていることに未練のある赤井は時間を打ち合せて、野崎と「ヴィクター」で落ち合い、一緒に下宿へ帰ることにし、豹一は一足先に帰り、良い頃を見計って、赤井の下宿で火をおこしながら待つ。そう決めて別れた。
 豹一は約束の時間より早く赤井の下宿へ出掛けて、しきりに火鉢へ新聞紙をくべていたが、炭は少しも赤くならなかった。部屋の中がさむざむとして、煙が恥しいぐらい立ちこめた。下宿の人に言って、火種を貰うなど、出来ぬ質だった。新聞紙もくべ尽してしまい、何という俺は不器用な男だと、げっそりした。ふと、煙草の吸口がよいと思い、くべてみると、蝋があるのでよく燃えた。そこをすかさず、しきりに火鉢の中へ顔を突っ込んで吹いていると、漸くおこって来た。ちょっと一時間ほど掛ったのである。が、二人はなかなか帰って来なかった。浮かぬ顔をして火鉢に凭れながら無気力に待っていると、浅ましい気持になった。
 二時間ほど経ってやっと足音がしたかと思うと、赤井は真赤な顔をして帰って来た。
「君ひとりか?」と訊くと、赤井は酒くさい息をはきながら、「野崎の奴いくら待っても来ないんだ。一時間以上も待たされた。いつもの伝だと思ったから、諦めて京極で酒を飲んで帰って来たんだ」
 試験中でなにか殺気立っているだけに、赤井は常になくぶりぶり怒っていた。ノートが無いから、勉強の仕様もなく、二人で無駄話をしていた。だんだん夜が更けて来たが、野崎が帰って来ないのでもう明日の試験は諦めようと、興奮しながら言い合っているところへ、野崎がノートを持ってしょんぼり帰って来た。もう十時過ぎていた。
「なんや、赤井、君帰ってたんか?」妙な顔をしてそう言う野崎に二人はあきれてしまった。
 訊いてみると、案の定、野崎はうっかりして約束の時間を間違えたのだった。赤井が出たあとへはいって行って、赤井はえらい遅いなと思いながら、一時間半も待っていたとのことである。一足先に帰るということも考えたが、赤井があとから来ては困ると思ったのと、一つには寒い夜道をひとりで鹿ケ谷まで帰るのが淋しかったので、いつまでも待っていたのである。
「馬鹿だなあ。僕が来たか来なかったか、八重ちゃんに訊けば分るだろう」
 赤井はぷりぷりした。八重ちゃんが自分の来たことを野崎に言わなかったことで、なにか自尊心を傷つけられた気持もあった。が、実は野崎は殆んど毎日のように赤井と通いながら、八重ちゃんにその存在を認めて貰えぬほど、かすんでいたのである。
 いよいよノートを拡げたが、野崎のために四時間も無駄にしたかと思うと、阿呆らしくて気乗りがしなかった。
「野崎、そう悄気るなよ」と、豹一が慰めたが、野崎は虚ろな表情で、しきりに責任感に悩まされていた。そんな野崎の気持がほかの二人にも乗り移って、結局わざわざ疏水伝いに銀閣寺の停留所附近まで出掛けて、珈琲をのんだりし、ろくに勉強も出来なかった。豹一は諦めて、先に秀英塾へ帰ってしまった。野崎と赤井は出町まで足をのばして、徹夜に備えるのだと珈琲を何杯ものんだ。下宿へ帰っても、無駄話ばかりで、なんのための徹夜かわからぬありさまだった。そのため歴史の試験は散々だった。おまけにそれに気をくさらして、あとの試験も上出来とは言えなかったのである。
 だから今度の落第はかえすがえす野崎に原因していると言えば言えたのだ。が、それを自覚してすっかり気をくさらしている野崎を見ると、二人はそれには触れなかった。
 京極へ出ると、先ず「リプトン」へはいった。それから「ヴィクター」へはいった。出ると、長崎屋の二階へあがった。豹一はそのたびに、もはやここも見収めかと、さすがにしみじみとなつかしい眼で、部屋の中を見廻した。意味もなく、京極通りを歩きまわり、疲れると、さてこれからどうしようと、町角でぽかんと、突っ立っていたりした。行きつけの店を一廻り廻ってしまうと、すっかり気がぬけたようになって、行先を思案するために突立っている彼等の顔は、どれも間が抜けて、憂欝そうだった。映画館へ行くにしても、どこの演し物も面白くなさそうだと、一つ一つあげてつまらなくこきおろしていた。結局もう一度「ヴィクター」へ行こうと赤井が浅ましく言い出すと、なんとなくそう決って、ぞろぞろと四条河原町の小路をはいって行った。
「一日に二度もちょっと体裁が悪いな」
 八重ちゃんに気がある赤井が拘泥って言うと、
「そやな、体裁が悪いな。一日に二度も」野崎は元気のない声で言った。彼は「ヴィクター」で一番醜い、男か女かわからぬような顔をしている女の子に参っていると、日頃否定もしなかった。そう言えば「リプトン」のカウンターにいる化物みたいに脊の高い女の子にも、野崎は「肩入れしてる」らしかった。「ヴィクター」を出ると、だから「リプトン」へもう一度行った。そうして、時間を潰しているうちに、日が暮れた。半時間ほど思案した挙句、京極裏の牛肉屋ですき焼きをした。豹一ははじめて、
「僕はもう三高を止す」と言い、理由を訊かれたので、落第すれば秀英塾では給費を断る規定になっているのだと、説明した。
「もう君達にも会われないな」そう言った拍子に、急に眼の裏が熱くなって来た。結局何の意味もない三高生活だったが、赤井と野崎を知ったことがせめてもだと、さっきからそのことばかり考えていたのだった。
「止めなくても良いと思うがな」と赤井は言って、暫く深刻な顔をして考え込んでいたが、ふと顔をあげて、
「名案があるぞ、共済会へ頼んで家庭教師の口を見つけて貰うんだ。そうして野崎と僕の部屋で三人一緒に下宿したら、下宿代は助かる。ねえ、そうしろ、そうしろ」
「そや、そや。家庭教師がええ。三人一緒に下宿したら面白いやないか」野崎も言った。豹一は嬉しかった。自分の貧乏がこうして話題になっていることも、不思議に、恥しく思えなかった。しかし、三高を止す決心は変らなかった。
 豹一の三高を止める決心が容易に翻らないと分ると、赤井と野崎はしんみりと酒をのんだ。そして、酔が廻って来ると、彼等がもうあと三年いるべき学校を、口を極めて罵倒した。もうこれがお別れだと、三人は夜が更けるまで京都の町を歩きまわった。その挙句、赤井と野崎は宮川町へ行くことになり、豹一は南座の横の暗い道を折れて、二人を送って行った。真白く化粧した女がぞろりと派手な着物を着て坐っている家の前で、豹一は二人と別れた。女の眼が無気力な笑いを泛べてじろりとこちらを向いた。豹一は南座の前から電車に乗って秀英塾へ帰った。
 豹一はその夜のうちに荷物を纒めて朝運送屋へ頼み、午頃「ヴィクター」で赤井と、野崎の二人と落合った。そして、二人に見送られて、四条大橋から京阪電車に乗って、大阪へ帰った。

    第三章

      一

 豹一が学校を止めたと聞いて、
「やめんでもええのに、しゃけど、お前がやめよう思うんやったら、そないしたらええ」と、お君は依然としてお君だったが、しかし、暫く見ないうちに、お君はめっきりやつれていた。眼のまわりが目立って黝んでいた。
 未だ三十六だったが、眼のまわりの皺は四十を越えていた。髪の毛は油気もなく、バサバサと乾いていた。仕立物の賃仕事に追われていたのだと、豹一は見るなり思い掛けず涙が落ちた。昨日までうかうかと高等学校の生徒であったことが、われながら不思議なくらいだった。呑気に赤井や野崎と遊び廻っていたことなど遠い昔のようだった。想い出されもしなかった。想い出せば、母親に済まない気持になるところだった。高等学校を止めたということが極く当然のことだったと、今はその気持がすっかり身についてしまった。
 高等学校の学資は秀英塾から出ていたから、もう母親は針仕事の必要もないと豹一は思っていたが、そう言う訳には行かなかったのだ。豹一に小遣を送ってやるためだけではない。豹一が中学校へはいった時に、お君は安二郎から金を借りた。借りただけの額は全部渡してしまった筈だのに、安二郎は、
「わいの計算では未だ三百円残ってる。これでもお前のことやから大分利子をまけたってるねんぜ」そしてお君の貰う仕立物の賃をまきあげるのだった。お君は豹一に送るために貯めている金を隠すのに苦労した。
 そんな事情がわかると、豹一は、なんと言う夫婦だ、これでも夫婦といえるかと、もう少しで安二郎と別れてしまうように母親を説き伏せるところだった。母親は不平らしい愚痴一つ言わず、「あてはどうでもよろしおま」と言う顔をしているのが、一層あわれだった。しかし、母親と一緒に飛び出して、食べて行ける当もなかった。豹一は毎朝新聞がはいると、飛びついて就職案内欄を見た。質札を売りに来る客と応待する合間を盗んで、履歴書を書いた。楷書の字が拙かったので、一通書くのに十枚も反古が出来た。十通ばかり書いたが、面会の通知は一通も来なかった。履歴書を返送して来る方は良い方で、たいていは何の返事もなかった。十八歳までの半生が踏みにじられたような情けない気持になった。自尊心を傷つけられたと腹を立てるよりも、自分は就職など出来る人間ではないのだと自信のない気持でしょんぼり気が滅入った。店の間のテーブルに肘をついて、野瀬商会と白ぬきの文字のはいった暖簾を見ながら、欠伸をかみ殺して客を待っていると、そうして高利貸の手代みたいになっていることがいかにも自分に似つかわしいように思われる。それがたまらなくいやだった。返送されて来た履歴書を書き直す元気もなく、手垢のついたまま別のところへ送る時は、さすがに浅ましい気持になった。
 ある日、製薬会社が広告文案係を求めているのを見て、広告文案など作れそうにもなかったが、とにかく三つばかり文案を作って履歴書と一緒に送ったところ、一週間ほど経って面会の通知が来た。文案がパスしたと思うと嬉しくて、俺に文才があるのだろうかと、ふと赤井が三高の「嶽水会雑誌」へ小説を投稿して没にされたことを想い出したりした。ひょっとしたら面会の時の口答試問ではねられるかも知れないと心配もするなど、豹一はそわそわと落ち着かなかった。
 面会の日、朝早くから起きて朝飯もろくろく食わずに玉造にある製薬会社へ駆けつけてみると、所定の時間には未だ一時間あった。半時間も早く出頭するのは癪だとふと思ったから、門からひきかえして近所の五銭喫茶店へはいって、演芸画報を見たり、新聞の就職案内欄を写したりして時間を潰し、きっちり午前九時に、受付へ出頭して葉書を見せると、可愛い少女の給仕に二階の粗末な応接間へ連れて行かれた。給仕が出て行ったあと、直ぐむやみに髪の毛の長い男がはいって来て、不安そうな眼をしょぼつかせて椅子に腰掛けると、
「あんたも応募でっか」と訊いた。
「はあ」と曖昧に返事していると、
「面会の通知来たんはあんたと僕と二人だけでっか」
 豹一が返事しないので、
「ほかにも応接間あるよって、未だほかに待たされとる奴がいまっしゃろな。なんしょ、ここは大けな建物やさかいな。――何人ぐらい採りよるかな」馴々しい口調だった。
「さあ、何人ぐらいでしょうな、五、六人、それとも――。数名採用とありましたね」豹一は思わずそんな返事をしていた。
「いくら呉れまっしゃろな? 六十円、それぐらいは貰わな食ていかれへんがな」
「そうですね。六十円ぐらいでしょうね」豹一はそんな無気力な返事をしている自分が情けなかった。
「ほんま言うたら、六十円でもやって行かれしまへんネん。子供が二人も居よりまんネん。きょう日物が高おまっさかいな」
「二人もね」
「ええ、二人もいよりまんネ。もう直き三人ですわ。さっぱりわや[#「わや」に傍点]です。しかし、ここの会社アはえらい家族主義や言いまっさかい、まさか社員が食て行かれんようなことはしまへんやろ。その代り、よう働かしよりまっしゃろな」
「はあ、家族主義ですか?」豹一は自分の返事が野崎に似ていると思い、さすがに苦笑した。長髪の男はぺらぺらと喋り続けながら、神経質に膝をふるわせているのだった。不安な気持を誤魔化すためにこんなに喋っているのだなとふと思った。
 気の抜けた空虚な表情で、ぽかんと呼出しを待っていたが、誰も部屋へ来なかった。
「えらい待たしよりまんな」
 長髪の男がぼやいた[#「ぼやいた」に傍点]ので、豹一ははじめて、活気づいた。
(こんなに待たされるというのはお前らしい運命だぞ!)
 何に向ってか分らぬそんな敵愾心めいたものが出て来て、眠気が消えてしまった。しかも、未だそれより一時間も待たされたので、豹一はすっかり腹を立ててしまった。呼びに来た少女の給仕が豹一の表情を見てびっくりした程であった。
(こんなに腹を立てていては、口頭試問の成績は悪いに決っている)さすがに自分にもそう言い聴かせるぐらいだった。
「お先に」
 長髪の男へそう挨拶して、少女のあとに随いて廊下へ出た。廊下の突き当りの部屋へはいると、七、八人の試験官の眼がいっせいにじろりと来た。
(おおぜい居やがる)ぱっと眼の前が燃えてもう少しでお辞儀をするのを忘れるところだった。周章てて頭を下げ、二、三歩進んだ拍子に椅子に打っ突かってしまった。
(俺らしい失敗だ)と、もう自分にも腹を立てて、どすんと音を立てて腰掛けた。醜いまでに真赤になっていることが意識された。それが情けなくて、むっとした顔を上げた。その顔を見た途端に一人の試験官は「不採用」とメモに印をつけた。
「なぜ和服を着て来たんですか?」豹一の着流し姿を咎めて、一人が訊いた。椅子へ足の爪先を打っ突けたときの痛みが消えていなかったので、豹一は顔をしかめながら、
「洋服が無かったからです」と答え、(着流しはおもしろくなかったかな?)と思った。
「高等学校の制服はあるでしょうね」
「はあ、しかし、もう学生じゃありませんから」
「なぜ退学したのですか?」
「つまらなかったからです」
「赤じゃなかったんですか?」
「いや、落第したんです」
「理由は?」
「怠けたからです」もはや試験官の誰もが豹一の不採用を疑わなかった。広告文の出来が良くても、中学校から三高へはいった秀才でも、小さな会社ならいざしらず、うちのような大会社ではこういう男は困るのだ。しかし試験官よりも前に、もう豹一は不採用を覚悟していた。
「御苦労でした。結果は追って通知しますから」
 丁度正午のサイレンが鳴っていた。三時間待たされたわけだと、豹一は思った。ひどく物腰の鄭重な男に見送られて、廊下を歩きながら、豹一はあの長髪の男はたぶん昼食の時間の済むまでもう一時間待たされるだろうと思った。
 一週間経つと、不採用の通知が来た。その会社で発売している薬の見本袋が封筒の中にはいっていた。なるほど家族主義だなと思いながら、豹一はそれをごみ箱へ捨ててしまい、また履歴書を書いた。翌日の新聞に、その会社の広告文案募集の広告が出ていた。

      二

 豹一が就職を焦っているのを見て、お君は、
「なにもお前が働かんでもええ」と言ったが、そう言われると豹一は一層焦った。毎朝新聞がはいる音で眼が覚めた。寝床のなかへ持ってはいって眼を皿のようにして、就職案内欄を見た。適当と思われる募集が出ていると、もうそわそわして寝つかれなかった。就職とはこんなに困難なものかと、なにか慄然とする想いだった。
 ある日、「調査係募集。学歴年齢ヲ問ワズ。活動的人物ヲ求ム。某財閥直営会社。本日午前十時中央公会堂二階別室ニテ面会ス」という広告を見て、中之島の中央公会堂へ出掛けたところ、調査係とは体の良い口調で、実は生命保険の勧誘員のことだった。しかし、ここでも年齢が若すぎるという理由で断られた。
「せめてもう一つ位年が行っていたらな。来年もう一ぺん来とくなはれ、なんとかしまっさかい」と、代理店長らしい男に言われた。
(俺が来年まで就職出来ないと決めていやがる)
 と豹一は腹を立てたが、しかしふと、一年や二年は失業したままでいる人間がざらにあるのだと思うと、そんな言葉もあるいは有難く聴くべきところかも知れないと、ひどく元気のない歩き方で薄暗い公会堂の階段を降りた。
 帰りの電車は立てこみ、乱暴に踏みつけられた。その拍子に、(俺は生命保険の勧誘員にも成れないんだ)としょんぼり頭に泛んで、腹を立てる元気もなく、片一方の足で踏まれた足をこそこそと撫でていた。が、帰ると、日本畳新聞社から記者採用の通知が来ていた。
 翌日、勝山通の日本畳新聞社へ出掛けた。電車の中で「採用致し度く、ついては一応御面談の儀もあり――」と薄い青色のインクで走り書きしたハガキを何度もふところから取出してみた。本当に採用かどうかと不安な気持で、空いた席がありながら、ずっと立ったままだった。勝山通四丁目で降りて、新開地らしく雑然と小売店や鉱業事務所が両側に並んでいるコンクリートの道を勝山通八丁目の生野女学校の傍まで行ったが、それらしい会社は見つからなかった。番地もとびとびだった。ひきかえして、省線のガード下を折れて行くと、薄汚いしもた屋の軒に「日本畳新聞社」と小さな看板が出ていた。格子窓の上に掛っている日覆にもその字があった。
 戸をあけると、三和土の右側に四畳半位の板の間があり、机と椅子が二つ窓側に並び、そのうしろに帳簿棚が、その前にも机と椅子があった。それで辛うじてその板の間の部屋が事務所らしい体裁を備えていた。三和土のうしろに格子戸があり、台所が隙間から見えた。板の間から一段あがって、奥の座敷があるらしかった。
 案内を請うと、奥からでっぷり肥えた四十位の女が出て来た。片一方の眼がぎらぎら光って、じっと横の方を凝視していた。義眼らしかった。葉書を見せると、板の間の椅子へ坐らせて、女は押入の戸をあけて、そこについている二階への階段をばたばたと上って行った。かと思うと直ぐ降りて来て、
「どうぞお二階へお上りやしとくれやす」と言った。スリッパを脱ごうとすると、
「どうぞそのままで。だいじおへんどっせ」京都訛で言った。二階へ上ると、窓側の机の前にあぐらをかいて、浴衣掛けのまま、ペンを走らせていた男が振り向いて、ガラスペンを耳の横へ挟むと、
「さあ、こっちへ来とくなはれ」と畳の上に置いてある籐椅子をすすめた。小柄な上にひどく痩せて、顔色のわるい、六十近い貧弱な男だった。口髭を生やしているために、一層貧相に見えた。浴衣をはだけた胸は皺だらけで、静脈が目立っていた。
「僕が社長です」そう言って、籐椅子へちょこんと坐り、きょときょとした眼で豹一を見た。が、直ぐ自分から視線を外らしてしまった。
「お忙しいところを――」と豹一が言うと、
「いやもう忙しゅうて困っとりまんねん。なんしょ年が、年でっさかいな。ちょっと書き物すると、脳がのぼせてくらくらしまんねん。社員が二人いましたやが、一人は病気でやめましてん。もう一人はもううちに十年ほど居てくれてる社員でっけどな、今営業のことで出張してまんねん、編輯は僕一人でやって来ましたんやが、もうこら誰ぞに半分助けて貰わな仕様ない、こない思てあんたに頼むことになったんでんねん、どないだ? やって呉れはりまっか?」それで採用と決ったのも同然だった。
「僕に出来ることでしたら」
「いや。あんたやったら文句無しに出来ますわ。三高を途中でやめはったそうでんな。惜しいこっちゃ。兵役は? ああ、なるほど、未だ十八、さよか」
 勤務時間は午前九時から午後五時まで、月給は四十二円、賞与は年末に一回、月給の十割乃至十二割と決めたあと、社長は日本畳新聞社の業績に就いて喋ったが豹一はろくろく聴いていなかった。
 翌日九時に出社すると、いきなり郵送用の帯封へ宛名を書かされた。正午まで打っ続けに三時間書いた。購読者だけでなく、宣伝用に無料で送附する同業者の宛名も書くので、なかなか捗らなかった。一々……畳店と畳の字を入れなければならぬのだが、畳という字が画が多くてやり切れなかった。六号活字でぎっしりと詰めて印刷してある同業者名簿をながめて、しきりに溜息をつき、また柱時計を何度も見上げた。正午のサイレンが鳴るまで、四百枚書いた。
 最初決めていた枚数より少し多かったので、ちょっと気持よかったが、直ぐ無意味な快感だと、馬鹿らしい気持になった。
「お昼飯にしとおくれやんす」
 奥座敷から妻君の声がしたので、豹一はほっとして表へ出た。勝山通八丁目まで行って、飯屋で労働者にまじって十二銭の昼食をたべたあと、喫茶店の長椅子の上で死んだようになって横たわっていた。一時になると、帰って再び帯封を書き出した。西日が射し込んで来て、じっとりと額に汗がにじんだ。右の手がまるで自分のものとも思えぬ程痛んだ。中指に桃色のペンだこが出来たのを、情けない気持で見ながら、年中帯封を書かされるのなら、やり切れぬなと思った。
(働くとはこんなに辛いものか)とすっかり驚いた気持で、しきりに無味乾燥なその仕事を続けていると、三時が来て、社長の妻君がお茶をいれてくれた。貪るように啜っていると、社長が褌一つの裸で二階から降りて来て、
「こない日が射し込んで来よったら、毛利君かなわんやろ。もう直き簾をはりこむぜ。――どないや、帯封何枚ぐらい書けた?」
「六百枚位でしょう」
「そら早い。商売人なみや」
 褒められたと思ったので、「帯封書きはえらいですね」と、微笑しながらお愛想にそう言うと、
「明日からほかの仕事してもらうぜ。月給はろて帯封書いて貰てたらうちの損や。商売人に頼んだら千枚なんぼで安う書いてくれよるネやから」
 豹一はむっとしたが、同時に助かったという気持もした。その日一日中帯封を書いて、五時過ぎ、台所で手を洗って、「そんなら、帰らせていただきます」くたくたになって帰った。
 翌朝眼を覚した時、今日も一日働くのかと思うと、怖いような気持がした。寝床の上にぼんやりと坐ったまま、なぜか紀代子や鎰屋のお駒の顔を想い泛べた。九時きっちりに出社すると、帳簿の整理をやらされた。振替郵便が来ると、入金簿へ金額、氏名、名目を記載し、もし購読料ならば購読者名簿へ購読年月日を記載し、広告掲載料ならば別の名簿へその旨書きいれる。単行本註文ならば、小包をつくり、猫間川の郵便局へ持参する。購読料が切れていると、あらかじめ印刷した催促のハガキを出す。そのたびに催促名簿へ年月日と氏名を記入し、その返事の有無をも書き込む。べつに郵便切手名簿へも「一銭五厘切手一枚、催促ハガキ用」等と書き込み、なお支出簿へも、「一銭五厘催促用支出」と記入するなど、一つの用件にたいてい三つか四つの帳簿に記入する必要があり、またその都度いろいろな印を印台から取出さねばならず、間誤ついた。
 五厘切手使うのにも、まるで官庁のように、いろいろな帳簿に記入するので、社長の吝嗇な性格がひとごとならず、情けなく思われた。何かの時に支出簿を繰っていると、社員月給支払の文字が見えたので、注意して調べてみると、三年間に三円しか昇給していなかった。豹一はなぜか顔が赧くなった。その日の午後、ハガキに間違って三銭切手を貼ったところ、社長が見つけて、「もったいないことしいなや」と、きびしく注意した。周章ててはがそうとすると、「無茶したらあかんぜ」ハガキをもったまま、台所へ行き金盥の水の中に浸して、切手をはがして戻って来ると、「気イつけてくれんとあかんぜ。切手はこないしてめくるのやぜ」と、言った。豹一は暫く顔をあげることが出来なかった。
 一週間経ったある朝、豹一が出社して間もなく、白い縮のシャツの上へ薬剤師や医者の着る白い診療服のようなものを羽織った男が、自転車を押してはいって来て、柱時計を見上げ、
「あ、五分遅刻したぞ。この時計遅れてるのんと違うか」そう言いながら、豹一のうしろの机の埃をぷっと吹いて、「僕、営業主任の園井です。よろしく」と豹一に挨拶した。豹一は周章てて振り向きぺこんと頭を下げた。「出張してましてん。昨夜帰って来ましてん」
 園井は未だ三十を余り出ていないのに、半分頭がはげていた。玉子型の顔がてかてかと光って、口髭を小さく生やしていた。社長一人、社員二人の会社で、わざわざ主任だと言いたそうなところが、そんな顔に備っていると思ったが、豹一はべつにおかしいとも思わず、固い表情で、
「暑くて大変だったでしょう」われながら卑屈だと思った。
「いや、暑いの、暑くないのって、ほんまにやり切れんかった」鼻を抜ける声で言って、眼鏡を突き上げると、「さあ、馬力を掛けて行こか。えらい仕事溜ってしもた。忙しゅうてどもならん」ガチャガチャ机の抽斗をあけたり、帳簿をくったりして、いかにも忙しそうな物音を立てていた。
「毛利君、ここへ切手貼ってんか」そう言って園井が出したハガキを見ると、小さな楷書の字でぎっしり詰めて書いてあった。それがいかにも律義者めいて、よくもこんなに根気よく丁寧に書けるものだと、豹一は感心してしまった。豹一は園井がもう十年もここで働いていることや、三年に三円しか昇給しなかったことを想い出した。
 園井は正午まで煙草一つ吸わず、帳簿の整理をしたり、集金郵便の予告状を書いたりして、打っ続けに働き、正午のサイレンが鳴ると、自転車に乗って近所にある自宅へ昼食をたべに行ったが、豹一が喫茶店から帰って見ると、もう物差を出して、しきりに広告欄の大組みをしていた。
 そんな園井の視線を背中に感じていると、豹一はうかうか怠けるわけに行かなかった。じーんと時間の歩みが止ったような蒸暑さで、新聞をひろげて切抜記事を探していると、うつらうつらするのだった。そんな時は、いつか新聞の家庭欄などを見るともなく見ているのだが、ふと何やら園井の気配を感ずると、周章てて新聞をパラパラめくって、なんとなく鋏を取り上げたりした。ふと振り向くと、園井は物差の横ににじんだインクをせっせと吸取紙で拭っているなど、園井の勤務振りは一分の隙もなかった。
 社長は二階で裸になってせっせっと記事を書いているし、妻君は奥の座敷で針仕事をしながら、居眠りをしたり、煙草を吸いながら虚ろな眼でじっと膝の上の猫を見たりしているし、結局誰も見ているわけでないのに、なぜ園井はこんなに真剣になって仕事をするのかと、豹一は驚いてしまった。
 社長と園井が印刷所へ出張校正に行った留守中、豹一が帯封を書いていると、妻君が奥から出て来て、
「毛利はん。済んまへんけど、あんた、一つ手紙書いてくれはれしまへんどっしゃろか」と豹一に手紙の代筆を頼んだ。大津の料理屋で働いている彼女の友達から、近況問合せの手紙が来た、その返事を書いてくれと、彼女は言い、
「どんな風に書きましょう」豹一が訊くと、
「わてのこのお腹のなかにたまってる、いやや、いやや、思う気持を一ぺん正直に書いてほしいんどっせ」そして、彼女はこまごまと、「身の上話」をはじめた。
 彼女は大津の料理屋で仲居をしていたが、一昨年社長の先妻が死んだ後釜にはいった。むろん浮いた仲ではない。仲人の口利きで、ちゃんとした見合結婚だったが、二十以上も年の違う社長と結婚する気になったのは、仲人の口で、社長が十年新聞を経営している間に五、六万の金をため、おまけに子供がないという点に心を惹かれたからだった。社長はもう六十過ぎているから、老先は短い。してみると、遺産の転り込むのも早いことだと慾を出して、来てみると、社長は未だピンピンしてけちくさく、嫉妬深い。それは我慢出来るとしても、どうにも我慢出来ないのは、結婚したのに籍をいれてくれず、おまけに園井の薦めで跡取に十二の子を養子に貰ったことだ。その養子はこともあろうに、園井の甥で、いずれ社長が死んだ暁は遺産は全部養子のものになり、後見者の園井が自由にしてしまうに違いない。
「わてらには一文も転り込んで来えしまへんのどっせ。そらまあ、よろしおすけど、未だに市場行きの金かてわてに自由にさせてくれはらしまへんのどっせ。それに、あんた――」妻君は義眼でない方の眼をふっと細めて、「こないだ中までいてくれはった菅はんいうお人をね、わてと怪しいいうて追い出したり、そら焼餅やかはんのどっせ。わてはもういつ何時でも、暇貰おう思てまんのどす」
 そんな妻君の愚痴を、手紙の文章に纒めあげるのはむずかしかった。
「もう永いこと返事を出せしまへんのどす。うちが字の商売をしていてからに、手紙一本書けへんいうわけに、いかへんどっしゃろ。どうぞ、書いとおくれやっしゃ。ほかの人に頼まれへんのどっさかい」
 そう言われてしきりに頭をひねっている時、豹一はふと、園井があのように律義に働いている理由がわかったと、思った。すると、にわかに周囲の空気が重くるしく感じられて来た。豹一は直ぐにも逃げ出したくなった。しかし、豹一は実行しかねた。手紙の代筆が済むと、相変らず帯封を書き続けるのだった。そこをやめて、ほかに働く当もないのだ。豹一はそんな自身が、さすがに卑屈だと恥じられた。
 翌日新聞が刷り上って来たので、その発送をしなければならなかった。八頁の新聞だから先ず二枚ずつ頁を間違えぬように重ねる。次にそれを小さく畳む。それへ帯封を巻きつけて糊をつけるのだ。四千部、夕方までに発送を済まさねば、発行期日に間に合わぬというので、社長、妻君、園井、園井の妻君、豹一の五人掛りだった。豹一は新聞を畳む仕事をやらされたが、八頁のものを折目を正しくつけて小さく畳むのには、かなり力が要った。百部も畳まぬうちに掌の皮が擦りむけた。豹一は窓側に置いてある牛乳の瓶に眼をつけて、それで折目をつけることにした。それで、少し楽になった。百部畳むと、床の上に積んで、斜めに崩し、折目をスリッパで踏むのだ。前へ、後へと踏みながら、豹一は泣き出したい顔をぽかんと天井へ向けていた。
 分業だから、少しも休むわけには行かなかった。欠伸一つ出来ぬ忙しさで、豹一は泡食っている咄嗟に、チャップリンの「モダンタイムズ」を想い出した。(新聞記者だと思っていたのに、これではまるで労働者だ)
 僅に正午の休みを想って心を慰めていた。サイレンが鳴ると、飛び出して喫茶店へはいり、冷たい珈琲をのんで、椅子の上でじっと眼をつむって横になっていよう。しかし、正午が来ても休憩はなかった。パンを頬ばりながら、仕事を続けねばならなかった。
「遠慮せんと、食ってや」
 社長の言葉にいちいち礼を言わねばならないのが情けなかった。いつものように、午後の日射しが執拗にはいって来た。額から流れ落ちる汗が瞼を伝うと、まるで涙を流しているのではないかと、思われた。いつか豹一は、大声で歌を唄っている自分にびっくりした。そうでもしなければ、その機械的な仕事に堪えられなかったのだろうが、動物じみて大声を出している自分がさすがに浅ましかった。
 いきなり肩を小突かれた。体が宙を飛んでいるような甘い快感がはっと破れて、にわかに眼の前が明るくなった。立ちながら、うとうと居眠りをしていたらしかった。眼が覚めた拍子に、手は反射的に新聞を畳んでいたが、「居眠りしてる場合やあれへんぜ。しっかりしてや」そう言って、社長はなおも二、三回豹一の肩を小突いた。咄嗟に豹一の頭は、牛乳の瓶をがちゃんと机の上へ敲き割って、そこを飛び出すことを想った。
(こんなに侮辱されても、未だここで働きたいのか? 単にいやなところだというのではない。侮辱されたんだぞ)豹一の眼は久し振りにぎらぎら光って、部屋の中をにらみ廻した。が、ふと社長の妻君がせっせと帯封に糊をつけているのを見た途端、その光はあっけなく消えてしまった。社長の妻君のバサバサした髪の毛の聯想で、母親のことが頭に泛んだからである。
(ここを飛び出せば、当分また失業だぞ、それでもお前は母親の手前平気で居れるというのか?)豹一は握りしめた牛乳の瓶で新聞の折目を押えた。(母親のことを考えたら、自分勝手な気持で行動することは許されないぞ)
 突然頭に泛んだこの考えは、しかし豹一自身にも意外だった。今まで自分の行動を支えて来た筈の自尊心を、こんなに容易く黙殺出来ようとは、夢にも思っていなかったのである。
「どうも昨夜寝不足でしたもんで――」そう言って、へっへとだらしなく笑っている自分にも、驚いてしまった。さすがに顔は蒼ざめていた。

      三

 月末、日割勘定で月給を貰った。電車賃や、昼食代を差引くと、いくらも残らない額だった。書潰しの封筒の表に毛利君と書いた月給袋を社長から渡されたとき、さすがになんとなく屈辱を感じた。
(これが欲しさに辛いことを我慢して来たのか?)そう思うと、たまらなかった。(いや、月給は問題外だ。ただ我慢して働くということが俺の義務なのだ)そう思って慰めた。しかし、帰って母親に見せた時の母親の顔で、さすがに労が報いられた気持がした。
「お前みたいな疳癪もちの子でも、よう使てくれはるな。有難いこっちゃ」お君はそう言った。
「ほんまにいな」そんな大阪弁で豹一も笑いながら言った。
「月給を貰うのやさかい、お前も洋服こしらえたらどないや?」
「いや、構へん。これで結構や」
 今まで高等学校の制服をボタンだけつけかえて通して来たのだった。元来が見栄坊の彼だから、体裁の悪さは存分に感じて来たのだが、この際余計な金は使いたくないと我慢していたのだった。が、結局母親が執拗く薦めたので、月賦払の洋服をつくることにした。
 縞のワイシャツの上へ地味なネクタイをしめて、上衣のボタンを丁寧に二つもはめると、如何にもお勤人らしくなった。その姿でびっしょり汗をかきながら出社すると、社長は、「これは、これは」と、驚いた顔をして見せた。社長は褌一つだった。
 豹一は暑いというのを理由に、上衣を脱ぎ、往復にも肩に担いだ。それではじめて新調の洋服を着ているという気恥しさから免れた。が、不器用な彼はネクタイが上手に結べなかったので、道を歩きながらでもしょっちゅうネクタイの結び目へ手をやっていた。だから、誰も彼を一眼見れば、彼がお洒落男か、それともはじめて洋服を着た男であるかのどちらかに違いないと、簡単に見抜けたわけである。
(はじめて背広を着る気持は、葬式の日に散髪するようなものだ)
 当分の間、彼はこんな風に洋服に拘泥っていた。電車の中でも、道を歩いていても、人の洋服ばかりに気をとられていた。つまり、自分より年をとった人ばかり、それも大抵お勤人ばかりを注視していたのである。
(あの会社員らしい男は、夜寝る時ズボンを蒲団の下へ敷かないらしい)等々。自然、豹一の感情はだんだん分別臭くお勤人じみて来た。帽子屋の飾窓の前に立って、麦藁帽など物色しないのが、まだしもだと言えるぐらいだった。
 日が暮れて、とぼとぼと帰る途、下を向いて歩く習慣がついた。
「心身共に疲労した。心身共に疲労した」豹一はそんな言葉をぶつぶつと呟きながら歩いた。三高にいた時、漢文の教師から「君は心身共に堕落している」と言われたことがあった。それを、なんということもなしに思い出していた。その時教室の中でケッケッと笑っていた。そんな元気はいまは無かった。
 まるで泳ぎつくようにして、日曜を待ち焦れた。が、日曜が発送日に当っていることもあった。すっかり悄気てしまうのだった。休むわけには行かず、夜おそく新聞を畳んで、郵便局までリヤカーにのせて持って行くのだった。翌日、代休を申出る勇気もなかった。二週間打っ続けに働いて、やっと休みになると、漫才小屋へ行った。他愛もなくげらげら笑って、浅ましかった。月末になると、こともあろうにひそかに昇給を期待する顔をして、一層浅ましかった。たいして骨惜しみせずに、こつこつ働いているとわれながら感心していたぐらいだし、しかも記事など永年の経験者である社長よりも上手だったから、ひょっとしたらという気があった。しかし、やはり社長は五厘切手一枚のことにも目の色をかえる男であった。昇給どころか、豹一が原稿用紙を乱暴に無駄使いするので、口実さえつけば減俸してやりたいぐらいに思っていたのである。
(なまじっかお情けに一円ぐらい昇給させて貰って、愚劣な喜び方をするよりは、いっそ永久に昇給しない方がましだ)そう思ってみたものの、矢張り月給袋の中を見ると、なにか侮辱されたような気持がして、ひそかに社長に腹を立てた。が、そんな自分にはさすがに一層腹が立った。
(お前も随分卑俗な人間になってしまったではないか)
 もはや自分が許しがたい人間になってしまったと、豹一はがっかりした。何故こんな風になったのかと考えてみたが、分らなかった。もともとはじめから、彼は働くことの面白さなどという贅沢なものを味わなかった。いきなり帯封書きだったのである。だから、毎日が実に退屈な、無気力な日々の連続であった。昇給のことでも考えているよりほかに、致方がなかったのである。彼にとって不幸なことは、彼が同僚というものを持たなかったことである。社長、園井、自分、この三人しか社にいなかったが、園井はもはや昇給のことは諦める気持を十年養って来て、いまはもっと大きな野心で、ふくれあがっている。つまり、誰も昇給のことに血眼になる者がいなかった。だから、豹一ひとり知らず知らずそんな風になってしまったのである。いわば、独立の道を切りひらいたのである。
(少しも昇給しないのは侮辱されているようなものだ)
 もし、自分の周囲に昇給のことをしょっちゅう考えているものがいたら、彼はてんで昇給など問題にしなかったところである。
 豹一はまる一年半、性こりもなく昇給を期待していたのである。(こんどこそ、昇給しなければここを廃めるんだぞ)そう言い聴かせてから、半年もうかうか経ってしまった。もはや豹一は、完膚なきまでに自分を軽蔑していた。余り毎日退屈だったので、彼は「本邦畳史」の記事蒐集に取り掛った。それを連載すれば、たとえ社長と雖も、自分を認めてくれるだろうなどと、ひそかにそれで以て昇給を期待することだけは、さすがに許さなかったが。
 自分自身から見離されてしまったので、彼は全く古手拭のような無気力な、ひっそりした人間になってしまった。しかし、二十歳の彼にはしばしば自分を軽蔑するだけの若さは未だ残っていた。それがせめてもであった。そして、ある日、彼は遂にその若さに物を言わせてしまった。
 その日、発送日だった。だから、彼はいつもより機嫌が悪かった。が、ただ一つ、彼がかなり苦心して纒めあげた「本邦畳史」の第一回目が掲載されているのを見るという楽みがあった。ところが、刷り上って来たのを見ると、それがどこにも載っていなかった。
「どうして載せてくれないんですか?」と、社長に抗議するのも恥しい気持で、豹一は赧くなって、そわそわと新聞から眼を離した。
(没にされたのだろうか、それとも次号廻しだろうか?)そんなことをしょんぼり考えているところへ、印刷所から、別刷りだと言って、百部ほど刷り上りを持って来た。見ると、「本邦畳史」が相当大きな見出しで載っていた。
「別刷りというのもあるんですね」と豹一はそれとなく社長に訊いてみた。
「へえ、おまっせ」社長はアルミの金盥にいれた糊をしきりにこねまわしながら、ぼそんとした声で言い、そして、「こら内緒やが――」最近当局の新聞取締がきびしくなり、むやみに広告の段数をふやすことが出来なくなったので、検閲係や官庁へ提出用の分として、広告の段数を減らし、記事の段数をふやした別刷りの新聞をつくって置くのだと、社長は説明した。
「君、御苦労やけど、別刷りの新聞二部、府庁の特高課へもって行ってんか」
「今直ぐですか」反射的にそう言ったが、むろん怒ったような声だった。
「ああ、今直ぐ行ってんか」
「いやです!」大袈裟に言えば、一年半こらえにこらえて来ただけの声の響きはあった。豹一自身、われながら満足出来る声だった。少くとも辞職の瞬間に相応わしいような声だと、思った。自分の記事が別刷りの埋草だけに使われたということへの怒りが、この気持に拍車を掛けた。社長の痩せた貧相な顔を見ると、さすがに気の毒な気もしたが、しかしもはや不正を前にしては、そんな同情はこの際の勘定にいれる必要はなかった。
「なんでや?」社長はさすがに糊から眼を離したが、豹一の真蒼な顔を見ると、なに思ったか、とんとんと二階へ駈け上って行った。
「毛利君、どないしたんや? お腹でも痛いのか?」園井はびっくりした声で、しかしわざとゆっくりとそう言った。豹一は返事をしなかった。間髪をいれず社長のあとを二階へ追うて行って、辞職を申出でる必要があるか、どうか、咄嗟のうちに考えていたからである。
(まごまごしていて、時期を逸しては醜態だ)そう思って、二階へ行こうとしたところへ社長が降りて来て、豹一に市電の切符を二枚渡した。
(莫迦々々しい。まるで俺が、電車賃を惜しんで、府庁へ行くのをきらったのだと思っていやがる)それで、彼の決心はいよいよ固くなった。
「僕は今日限り廃めさせていただきます」わりに丁寧な声が出たので、われながら気持良かった。
「なんでや? 藪から棒に――」
 巧く理由が説明出来そうにもなかったし、また、一刻もそこに居りたくなかったので、物も言わず、いきなり外へ飛び出した。戸を閉めるとき、乱暴に大きな音がした。はっとそれが気になった。二、三間歩いてから、振り向くと、軒先に「日本畳新聞」の看板が貧相に掛っているのが眼にはいった。そこが薄汚いしもた屋であることも、なんとなしに眼に痛かった。足蹴に掛けたという気持が思い掛けず、胸を重く締めつけた。まる一年半、少くとも自分の失業を救ってくれたのではないかと、力無く呟いてみた。自分が廃めたあと、社長はまた頭がふらふらするといいながら、ひとりで編輯しなければならないのだと、社長の皺だらけの薄い胸や、壊れかけたガラスペンなどが頭に泛んで来た。僅に、(しかし、社長はあの不正の手段で、五、六万円の金を溜めて来たんだ)と思うと、気が楽になり胸を張って勝山通四丁目の停留所の方へ歩いて行ったが、直ぐに気の抜けた歩き方になった。停留所まで来たが、電車を待つ気になれなかった。ただなんということもなしに、当もなく電車道を歩いて行った。寒いのでせかせかと足早に歩いたが、不正と闘ったという心の張りがちっとも感じられなかった。
(到頭失業者になったぞ)という想いが追いかけて来た。天王寺西門前からやっと西行きの電車に乗った。が、一つ停留所を過ぎただけで、もう恵美須町の終点だった。乗換券も貰わずに降りて、新世界へ行った。活動写真を見たりして時間を潰しているうちに夜になった。恵美須町から電車に乗り、日本橋筋一丁目の乗換場所で降りて、谷町九丁目へ行く電車を待っているうち、ふと気が変って足は千日前の方へ向いた。なんとなく家へ帰るための電車を待つ気がしなかったのである。千日前から法善寺境内にはいると、いきなり地面がずり落ちたような薄暗さであった。献納提灯や燈明の明りが寝呆けたように揺れていた。豹一はなにか暗澹とした気持になった。
 境内を出ると、貸席が軒を並べている芝居裏の横丁だった。胸に痛いようなしょんぼりした薄暗さだと思われた。
「ちょっと、ちょっと、洋さん」声掛けられて急いで通り抜けて行った。前方には光が眩しく流れていて、戎橋筋だった。その光の流れはこちらへも向うの横丁へも流れて行かず、筧を流れる水がそのまま氷結してしまったようだった。それが豹一の心に眩しかった。
 その光の中に、詳しく言えば、小間物屋の飾窓に立って、飾窓を覗いていた女が、ふと振り向いて、豹一の顔を見た途端、
「あッ」思わず同時に、声が出た。か、どうかは咄嗟のことであとから考えてみても記憶はなかったが、豹一はいきなり突っ立ったまま、暫く動けなかった。紀代子だった。薄暗いところから出て来た豹一には、紀代子が明るい光のなかにいるせいか、思い掛けず美しく見えた。それが豹一の頭に、
(俺はいま失業者だ)と不意に想い出させた。そのため、豹一は一層狼狽してしまった。貸席のある横丁からのこのこ出て来たということも、咄嗟のうちに頭にあった。
 紀代子は直ぐ視線を外らし、飾窓の前を離れて歩き出した。それで、彼女に連れがあることがはじめて分った。彼女は実に簡単に素知らぬ顔をつくっていた。
(亭主だな)豹一は途端に察した。どんな顔をしているか、見てやろうかと、覗いてみたが、極めて平凡な顔だったので、印象がはっきりしなかった。つまり紀代子の亭主は世間にざらにある若い亭主の顔をしていたのである。
 二、三間行くと、紀代子はいきなり振り向いて、ペロリと赤い舌を出した。豹一の自尊心は簡単に傷ついた。丁度自分の身なりの貧弱さを気にしながら、おずおずとあとに随いて行きかけた矢先だったのである。紀代子の舌に噛みついてやりたいぐらいのいまいましさだったが、それが実行出来そうもなかったので、一層口惜しかった。豹一はこそこそと反対の方へ引きかえして行った。靴の底がすり切れて、ペタペタと情けない音を立てた。
 しかし紀代子も実は恥しい想いをしていたのである。豹一の顔が暗がりからぬっと出て来た時、紀代子は傍に立っている亭主のニキビだらけの顔を実に醜いと思った。さすがに豹一は未だ少女のような顔をしていたのである。しょんぼりしていたので、一層可憐だった。洋服がお粗末だったので、にやけて見えることも免れていた。紀代子はなんとなく豹一の手前恥しくなった。亭主の顔のことばかりでなかった。彼女は丁度ハンドバッグをねだって、「世帯が荒い。もったいない」と亭主にはねつけられていたところだった。亭主は官庁に勤めていたが、未だハンドバッグが簡単に買えるほどの月給は貰っていなかった。それが紀代子には豹一の手前ひそかに恥しかった。しかも、そのハンドバッグはたった四円八十銭ではないかと、こそこそと逃げるように立去ったが、それでは余り芸が無さ過ぎると思った。ふと振り向いた。その途端にペロリと舌を出した。女学生のような無邪気な仕草をちょっと借りてみたのは咄嗟の智慧だった。それでなんとなく世帯臭い恥しさが隠せると思ったのである。それに、ちょっとした媚態になるではないかと、紀代子は計算していた。だから一層効果的にと、長い間舌を出していた。つまりは年に似合わぬ悪どい表情だった。
 ところが豹一にはそんな紀代子の気持は分らず、紀代子の念入りの表情を見てすっかり参ってしまった。(よし、どうあっても自尊心の傷を回復しなければならぬ!)戎橋の上を通りながら、豹一は上衣のボタンを一つちぎってしまった。彼の心は朝から興奮に駆られ易い状態にあった。いきなり難波の方へ引き返した。(紀代子の顔を撲ってやる義務がある)こんな野蛮なことを考えた。電車通のゴーストップで信号を待っていると、ふと、(しかし、まさか雑閙の中で撲るわけにも行くまい)青が出て、大股で横切りながら、(いや、雑閙であることが是非必要なんだ! 効果もあるし、しかも非常な勇気が要る)

      四

 半時間ほど戎橋筋を駈けずりまわったが、紀代子の姿は見つからなかった。おかげで雑閙のなかで女の顔を撲るという不愉快なこともせずに済んだと、ほッとした。が、同時にひどく意気込んでいただけに、がっかりして諦め切れぬ気持が残った。なおも未練たらしくうろつき廻った挙句、魂の抜けたような顔をして喫茶店にはいって行った。
「らっしゃいませ」
 ひどくはすっぱな声がしたので、びっくりして顔をあげると、厚化粧をした女の顔が五つ、六つ赤い色の電燈に照らされて、仮面のようにこちらを向いていた。カフェではなかったかと、豹一は思わず入口の方を振り向いたが、カウンターが入口にあるところや、女たちが皆突っ立っているところを見ると、そうでもなさそうだった。しかし、それにしてもまるでカフェのような喫茶店だと思うと、豹一は逃げ出したくなった。この際ミルクホールのようなしょんぼりした喫茶店でぽかんとしているのが適しいのである。が、うかうかと間違ってはいった以上、こそこそ逃出して、似顔画描かなにかと思われては癪だと、ルンバの音を腹立しく聴きながら、隅の方の席へ坐った。
 女たちはいずれもあくどい色のイヴニングを着て、ルンバに合せて、妖しく尻を振っていた。例外なしに振っているところを見ると、営業者の命令であるのかもわからなかった。安来節踊りの腰付きのようなものもあれば、レヴューガールのような巧妙なのもあった。が、いずれにしても醜悪を極めていた。ふと女たちの眼が一せいに自分に注がれているのに気がついた。豹一は自分の眼の方向を見抜かれたと思い、みるみる赧くなった。
 ところが、女たちが彼の方を見ていたのは、彼が実に一風変っていたからである。彼はまるで飯屋へ入るような容子で、ここへはいって来たのだ。普通男たちは例外なしに、多少とも気取ってはいって来るものである。わざと何気ない顔を渋くつくろう方などは良い方で、レコードの調子に合せてステップを踏みながら席につくなど、ざらである。帽子に手をかけたり、ネクタイにさわったりするのが十人のうち六人ぐらい。友達づれは、たいていわざとらしく話をしながらはいって来るか、誰か一人が女の立っている傍の席を見つけると、他の者がへっへと笑いながら随いて来る。女と顔見知りの者は「あいつ来てへんかったか」といいながら来るのが十人のうち四人。黙って顔をにらみつけながらはいって来るのが四人。あとの二人は、「どうぞこちらへ」というまで坐らない。
 ざっとこんな風だったから、豹一のようになんの気取りもなしに、行きつけの飯屋へはいるような容子でぶらりとはいって来るのは珍らしいのである。実は元来気取り屋の豹一も、ここへはいって来る瞬間、さすがに気取るだけの心の張りを無くしていたのである。だから、随分人眼をひいた。おまけに彼は美貌だった。つまり彼女たちに言わせると、一風変っていたのである。
 眉毛を細く描いた眼の細い女が、豹一のテーブルへ近づいて来て、
「あんた、ボタンがとれちゃってるわよ」と、豹一の上衣にさわった。彼女も、もし豹一が赧くなっているのでなかったら、こんな風に馴々しくしなかったのだ。普通、若くて美しい男は蒼い顔をして、じっと眼を据えているものである。つまりどこか不良くさいと、一応は敬遠されるものだ。豹一はおどろいて、上衣を見た。二つともボタンがとれていた。一つは戎橋の上でちぎって捨てた記憶はあるが、あとの一つはどこでとれたのかわからなかった。
「恋人につけて貰いなさいよ。みっともないわよ」私がつけてあげますよと言わんばかりだったが、そんな眼つきがわかるほどには、豹一はすれていなかった。
「恋人なんかあるもんか」殆んど口に出かかった言葉をぐっとのみ込んだ。紀代子のことがちらりと頭に泛んだからである。恋人がないということが、この際なにか恥しいことのように思えた。なお、ボタンがとれていることも、なにか失業者じみている。だいいち、上衣のボタンの無いのが眼につくのは、寒空にオーバーも着ていないというはっきりした証拠になる!
(よし、この女を恋人にしてやる)
 だしぬけにそう決心した。みっともないと言われたことが、我慢がならなかった。おまけに東京弁だ!
「どうしてとれちゃったの?」女はなおも上衣にさわっていた。香油の匂いが鼻をついた。豹一は顔をしかめた。
(まるで質屋の小僧のように俺の洋服を調べてやがる)豹一の決心はいよいよ固くなった。かつて、毎日質屋へやらされたことを腹立しく想い出した。続いて、かつてのさまざまなみじめな出来ごとが、次から次へ頭へ泛んで来た。
(こんなみじめな俺が衆人環視のなかで、この女を恋人にして見せるのは、面白い)
 紀代子の顔を撲れなかった代償としても、充分やり甲斐のあることだと、豹一は胸を熱くしていた。が、衆人環視のなかで、恋人にしてみせるとは、いったいどんなことなのか、豹一にはわからなかった。ふと、顔が赧くなるような、乱暴なことを思いついた。が、さすがに実行出来なかった。それどころか、物を言おうとすると、体が固くなって来た。
(こんなことでは駄目だぞ! よし、百数えるうちに、この女の手をいきなり掴むのだぞ)そう言い聴かせた。握るといわずに、掴むというところが、豹一らしい。
「ねえ? あんた、お家どこなの?」
 豹一は返事をしなかった。一つ二つと数え出していたからである。
(五つ、六つ……十、十五、……二十、……)
 いきなり煙草の銀紙をまるめた玉が飛んで来て、豹一の肩に当った。
(二十七、二十八、……どいつだ? 二十九、三十、……)
 豹一はじろりと部屋の中を見廻した。若い男と視線が合った。咄嗟ににらみかえして、豹一は、
(あいつ、この女に気があるらしいな)と、思った。その男もじっと眼を据えて、にらみかえしていた。女は素早く二人の容子に気がついて、
「およしよ。あの人、不良よ」豹一の耳の傍で言った。
 不良と聴いて、豹一の眼は一層凄みを帯びた。余りににらみ過ぎて、泪が出そうになったので、あわてて、眼をこすって、またにらみかえした。
(よし、あの男の眼の前で、この女の手を掴んでやる! それから、あの男に飛び掛って行くんだ! おっと、数えるのを忘れていた。一足飛びに五十と行こう。……五十一、五十二、……)
 豹一の顔はだんだん凄く蒼白んで来た。ルンバの早いテンポに合わせて、数え方も早くなって行った。
(百数えて、これが実行出来なければ、お前はおしまいだ! 一生人に軽蔑され続けるんだぞ。それでも良いか? お前の母親は辱しめられたんだぞ)
 もうあとへ引けないと思うと、豹一はだんだん息苦しくなって来た。銀紙を投げた男はいまにも飛び掛って来そうだった。
(六十二、六十三……、六十七、六十八、……)
 豹一ははげしく胸の音を聴いた。ついぞこれまで女の手を握ったことが無いのである。
「七十、七十一、七十二、……七十五、……」
 はねつけられた時のことを考えると、だんだん勇気が挫けて来た。いきなり、豹一は声を立てて数えはじめた。
「七十六、七十七、七十八……」
 女はあきれてしまった。(この人気違いではないかしら?)
 豹一はもうそんな女の顔を見向きもしなかった。ただ、じっと男の顔をにらみつけていた。
「七十九、八十、八十一、……」
 ルンバの騒音は豹一の声を殆んど消していた。が、豹一の真赤になった耳は自分の声と格闘を続けていた。
「八十一、八十二、八十三、……」
「らっしゃいませ」
「珈琲ワン」
「ありがとうございます」
「ティワン」
 喧騒のなかで、豹一の声は不気味に震えていた。
「八十四、八十五、八十六、……」
 色電球の光に赤く染められた、濛々たる煙草のけむりの中で、豹一の眼は白く光っていた。
「八十七、八十八、八十九……」
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 第二部  青春の逆説

    第一章

      一

「……九十、九十一、九十二、九十三……」
 唱名のように声をだして、豹一は数を読みつづけて行った。
 豹一は顫えていた。声まで顫えていた。
 いつもの豹一ならそんな自分を許しがたいと思ったところだ。いつ如何なる場合にも声が顫えるようなことは金輪際あってはならないのだ。それが豹一の掟だった。いったいにわれにもあらず興奮した姿を見せるのは、かねがね醜態ということに決めているのである。だいいち、この場合声を出すことすらいけないのである。百読む間に女の手を握るという思いつきは、余り賢明な思いつきとはいえないが、それは兎も角、数を読むならば黙って読めば良いのである。動物的に浅ましく声を出し、おまけにその声が顫えるなど以ての外である。
 しかし、無我夢中になっていた豹一には、そこまで気がつく余裕はなかった。いわば耳かきですくうほどの冷静さも残っていなかった。興奮をおそれなくなるほど、興奮していたのである。
「……九十四、九十五、……」
 相変らず、いやな声を出していた。
「……九十六、九十七、……」
 あと三つで百だと思うと、むしろ情けなかった。百になれば、女の手を握らなくてはならない。この死ぬほどの辛さと来ては、百ぺん失業した方がましだと思うぐらいだった。
 だいいち豹一にはついぞこれまでどの女の手を握った経験もない。友人と握手するのさえ照れる男である。それが初対面の女の手をいきなり握ろうというのだから、いってみれば無暴だった。しかも豹一は坐っていて、女は立っている。物かげでこっそり握るというわけにはいかなかった。衆人環視のなかである。たとえどさくさまぎれで握るとしても少くとも二つの眼だけはそれを見逃すまい。挑み掛るようにじっとこちらを睨んでいる二つの眼、――いまさき煙草の銀紙をまるめて投げた男だ。しかし、それよりも豹一がおそれているのは、手を握ろうとして女にはねつけられた場合のことである。
「いやな人!」と、逃げられたら、自尊心を傷つけられた想いに先ず当分は悩まなくてはならない。いや、逃げられるぐらいならまだ良い方だ。「キャッ!」と、声を立てられたりなぞすれば、眼もあてられない。しかも、その可能性はどうやら無限大だった。女はべつに好意を示しているわけでもないと、豹一は思っていた。それどころか、どうやら軽蔑していると思われる節もある。冬空にオーバーもなしに、柄にもない喫茶店へまぎれ込んで来た男など、充分軽蔑に価する筈だ! おまけに女は歯切れの良い東京弁と来ている。
 だからこそ、握り甲斐もあるわけだと、そんな妙なことを思いついた自分を、豹一はいますっかり後悔していた。しかし、乗り掛った船だった。それが実行出来ないようでは、死んだ方がましだと、豹一は「ひるむ心に鞭あてた」気持を振い起していた。自然、声も出る。
「……九十八……」あと二つだ。
「手相を見てやろう」などといって、こそこそ握るようなやり方では駄目だぞと、豹一は咄嗟に自分に言いきかせた。
「……九十九……」
 九十九・五というのはない。ぐっしょり汗をかいた。一秒だった。
「百!」
 豹一は無我夢中で手を伸した。そして女の手を掴んだ。手は引込められようとした。豹一はあわててぐっと力を入れた。女の掌は顔に似合わず、ざらざらしていた。しかし、さすがに若い女らしい温みがあった。咄嗟のうちに、豹一はそれを感じた。女の手に急に力がはいった。それも感じた。しかし、豹一は女の顔をよう見なかった。見れば、うんざりしたところだ。女はびっくりして、随分頓間な顔をしていたからである。しかし、それも豹一のせいだ。いきなり握る――のは良いとしても、それはまるで掴むといった方が適しいほど味もそっ気もない乱暴な握り方だった。酔っぱらいでも、少し相手が女だということは、勘定に入れている筈だ。少くとも握った瞬間に、妙な骨の音なぞしない。しかし、豹一は成功の喜びに酔うていた。(おれは衆人環視のなかで此の女をものにしたのだ!)
 義務を果してしまえば、もう用のなくなった女の手を、豹一はいきなり離してしまった。他愛もないことだが、豹一にとっては、女をものにするという欲望は、この程度の簡単なことで満足されるのだった。二十歳の年頃にしては、少し慾が無さすぎるかも知れない。手を握るという義務を果せば、もうあと用事はなく、二度と会うこともあるまいなどと、まるで昆虫のようなあっけ無さである。もっとも、もし豹一がそこで女の顔を見れば、為すべきことが未だ少し残っていると思ったかも知れない。――女はぷっとふくれた顔をしていた。豹一があまり早く手を離したので、莫迦にされたと思ったのである。そんな不満な表情を見れば、豹一のことだから、嫌われたのだと早合点して、もう一度握りかえさねばと、思い直したことであろう。――しかし、もっけの倖いには、豹一はそんな無駄なことをせずに済んだ。
 銀紙の玉を投げた男がいきなり傍によって来たからである。男の手が女を退けるまえに、女は傍を離れた。その時、まるでわざとのようにルンバの曲がやんだ。レコードを仕かえるまで、少し間があった。
「あんさんとは今日こんお初にござんす……」案の定、わざとらしいはったりの仁義を掛けて来た。鼻に掛った声だった。「……野郎若輩ながら、軒下三寸を借りうけましての仁義失礼さんにござんす……」そうして、男は聴馴れぬ調子でぺらぺら喋り立てたが、再び電気蓄音機が鳴り出したので、はっきり聴きとれなかった。曲は「赤い翼」。豹一は自分が案外落着いているのを嬉しく思った。
「表へ出くされ!」柄のわるい妙な大阪訛で男がいった。これは聴き洩さなかった。聴き洩すと、恥になる。豹一は伝票を掴んで立ち上った。
 勘定を払って表へ出ると、男はしきりに洟をかみながら待っていた。蓄膿症らしい。(随分威勢のあがらぬ与太者じゃないか)豹一はその男を小馬鹿にしたくなった。男は洟をかんだあとの紙を小さく畳んで袂にいれると、鼻をクスンクスンさせながら、「随いて来い」と、言った。豹一は黙ってうなずいた。
 男は御堂筋をナンバの方へ歩きだした。ぞろりと着流しの上へ総絞りの兵児帯を結んだ男の恰好はいかにもちゃちな与太者めいていたが、歩を移すたびにその結び目が尻の上で揺れるので、うしろから見て豹一はふとおかしくなった。女のような大きな尻だった。
 御堂筋から南海通の方へ折れて行った。黙々として歩きながら、豹一はどうした訳か気持が些かも殺気立って来ないのに弱った。
 男は振り向いた。そして、
「来くされ!」はき出すように言った。
 南海通の漫才小屋の細長い路次をはいって行った。二人並んで歩けないほど狭かった。弥生座の裏手あたりまで来て、男は立ち止った。そして洟をかんだ。それが済むとねちねちした口調で言った。
「おい! お前逃げもせんと、よう随いて来たな。ええ度胸や」
「そうかね」豹一は四十男のような口を利いた。男はちょっと考えて、
「ええ度胸かなんか知らんけど、生意気な真似しやがると、承知せえへんぞ! ええか、おい、ちょっと男前や思て、ひとのスメ(娘)に手エ出しやがって、それで済む思てけつかんのか、おれを誰や思てけつかんのや、道頓堀の勝いうたら、お前みたいな、へなちょこの軟派とちょっと違うネやぞ。――さあ、どやしたるさかい、面を出しくされ!」
 しかし、道頓堀の勝の手が伸びて来るまで、少し間があった。そのため豹一はすっかり焦れていたので、いよいよ道頓堀の勝の拳骨が飛んで来た時、待ってましたと思ったぐらいだった。
「待ってました!」
 弥生座の舞台にレヴュー「銀座の柳」の幕が上った途端、二階の客席からそう奇声があがった。
「東銀子頑張れ!」
 知らぬ人は、東銀子とは舞台の前方へ一人抜け出してチャールストンを踊っている主役の踊子だと、思ったかも知れぬ。が、実は後列の隅の方で沢山の踊子にまじって細い足を無気力にあげている胸の薄い少女が、東銀子だった。
「銀ちゃん、頑張って頂戴」
 声のする方を見あげて、銀子は、あ、北山さんだと、手をあてた腰を動かしながら、ふっと泪が落ちそうになった。いつの間にまぎれ込んだのか、二階の客席でしきりに銀子の名をよんでいるのは、文芸部の北山だった。
 昭和…年頃のあやしげなレヴュー団によくあった例だが、そのレヴュー団、ピエロ・ガールスではたいていの踊子たちは入団した途端に女にされてしまう。そのたび、文芸部の北山はものの哀れを感じたといって、泥酔してしまうのだった。
 東銀子は十七歳、一月前に入団したとき、その少年のような胸を見て、北山は男優一同に、
「此の子にさわるでねえぞ!」と常にない凄んだ声で駄目を押した。
「するてえと、バッカスの旦那が、泡盛の肴に生大根を囓るって寸法ですかい」
 北山は先生とはよばれず、バッカスの旦那で通っていた。未だ三十五、六だが、浅草にいた頃の電気ブラン、浅草から千日前へ崩れて来てからの泡盛のために頭髪がすっかり禿げあがって、爺むさかった。
「莫迦野郎! おれは小便臭いのは此の小屋の臭いだけで充分だ」
 そうはいったものの、しかし間もなく起った「北山老人は東銀子にプラトニックラブを捧げている」という噂を、北山自身敢て否定しなかった。そう思わせて置く方が銀子をまもるためにも良いのだと、つまり北山もいつかその噂を否定しがたい気持になっていた。毎夜小屋がハネると、南海通の木村屋喫茶店へ銀子を連れて行った。銀子は、
「北山さんはお酒のむから、きらいやわ」
 北山をげっそりさせた。
 噂によると、これまでどの女優にもそんなことをしなかった品行方正の北山が、舞台稽古の時たまりかねたのか、銀子をわざわざ舞台裏へ連れ込んで、永いこと銀子の頭に手をのせていたということである。銀子は随分いやがっていたということである。北山はすっかり面目をなくした。
 しかしそんな噂のおかげで、そしてまたしょっちゅう銀子の身辺から眼を離さなかったおかげで、銀子はどうやら此の一月無事だった。
 ところが、昨夜徹夜で舞台稽古をしたとき、北山は不覚にも泡盛に足をとられて、千日前の金刀比羅の境内で打っ倒れていた。その隙に、銀子は誰かに女にされてしまった。と、知ると、北山はやけくそになって朝っぱらからの迎酒に泥酔したあげく、ふらふらと二階の客席にまぎれこんで、しきりに銀子の名を呶鳴り出したのだった。
 頭の上まで足をあげながら、銀子は身が縮む想いだった。
「銀ちゃん、頑張れ、頑張れ!」
 北山は立ち上って銀子の踊りに合わせて、あやしげな身振りで踊りだした。どっと、笑い声が起った。見物人は舞台より二階の余興の方に気を取られてしまった。
   ジャズで踊って、リキュルでふけて、
   明けりゃダンサーの涙雨
 北山はしわがれた声で歌い出した。踊子たちはくすくす笑い出した。しかし、銀子は笑えなかった。踊りが済むと、銀子は楽屋へ駆け込んで、窓側にしょんぼり坐った。次の幕の衣裳をつける気もしなかった。泣けもしない顔を窓にくっつけていると、
「銀ちゃん、何してるの?」寄って来た踊子は、ふと路次を見て、「あら、誰や倒れたはるわ。銀ちゃん、見て御覧」
 銀子はいきなり子供のように声をあげて、
「みんな来て御覧! 誰や倒れてはるし」
 どやどやと窓側に寄って来た。
「ほんに。――喧嘩やろか」
 豹一はしょんぼり立ち上って、すごすご路次を出て行った。道頓堀の勝はとっくに姿を消していた。

      二

 薄暗い電燈の下で、お君は仕立物の針仕事をしていた。
 下寺町の坂を登って来る電車の音や、表を通る下駄の音は凍てついた響きに冴えて、にわかに夜が更けたようだった。お君は針の目に糸を通しながら、豹一の帰りのおそいのを想った。夜業でおそくなることもあるが、しかしこんなにおそいのははじめてだった。深くは気にかけなかったが、しかし犬の遠吠をきいていると、戸外の寒さが想いやられた。安二郎がけちだから、ほんのちょっぴり炭火をいれているだけだったが、それでも家の中はさすがに温みはあった。
 安二郎は背中を猫背にまるめて、しきりに算盤をはじいていた。算盤をはじいているときほど楽しいことは、またとないのだ。ことにそれが女房に貸しつけた金の元利計算と来ては、ぞくぞくするほどたまらない。夜のふけるのも知らなかった。しかし、繰りかえし計算したあげく、安二郎はおやと、不安になった。安二郎はお君の仕立賃のほか、最近は豹一がお君に渡す月給の幾割かをも右左にまきあげていたので、正直な計算によれば、もはや取るべきものはすっかり取ってしまったどころか、取り過ぎている勘定になっているのだった。安二郎は狼狽した。これ以上お君の手から取りあげるのは不正所得なのだ。われながらも浅ましいほど高い利率を課して来たのに、もうすっかり返済されているとは、なんとしたことか。かえすがえす残念だった。安二郎は自分の計算を疑った。もう一度おそるおそる計算してみた。同じことだった。この上は不正所得であろうとなかろうと、欺して取るより仕方がないと、安二郎は覚悟を決めた。しかし、お君は欺せても、豹一の眼はいまいましいほど鋭い。
「えらい冷え込んで来ましたな。炭つぎまひょか」お君が言った。
「なに言うねん。もったいない。きょう日炭一俵なんぼする思てるねん」
 安二郎は痔をわずらっているので、電気座蒲団を使っている。その電気代がたまったものではない。尻に焼けつく思いがするのだ。それを想えば、この上灰にしかならぬ高価い炭をうかうかと使うてなるものか。
(寒いといえば目茶苦茶に炭をつぎやがるし、暑ければ暑いで、目茶苦茶に行水しやがるし、どだいこのおなごの贅沢にも困ったもんや)
 行水をするとき、お君は相変らず何度も水を浴びた。湯気の吹き出た白い体にサッと水が咆り掛って、弾み切った肢体がすくっと立つ――そのなまめかしさを安二郎はたびたびうっとりと愉しむのだったが、やはり、消費される水のことを想えば胸が痛むのだった。水ならまだしも、炭と来てはまるで紙幣を焼いているようなものだ。僅かにお君の肌のほてるような温もりが安二郎の悲しい心を慰めるのだった。寒中炬燵なしでどうにか凌げるからだった。さすがに老齢で、足はチリチリと冷えるが、それも足袋をはいて寝れば、いくらか我慢が出来る。
(しかし、あの餓鬼は若い身空で贅沢に炬燵をいれてけつかる)安二郎はひょんなところでふと豹一のことを想い出した。(たかが炭団代というても莫迦にはならんぞ!)
 一月いくらになるだろうかと暗算して、なるほど莫迦にならぬと思った途端に突如として安二郎の頭に名案が閃いた。炭団代を豹一に払わせるのだ。今まで費した金ばかりに気をとられていて、「実費」を支払わせることが思いつかなかったのは、なんとしたことかと、安二郎は自分のうかつさをののしった。
 安二郎は再び算盤をはじき出した。先ず炭団代何十銭也といれた。間髪を入れず、水道代何十銭、次に電気代は何円何十銭也……。安二郎はにやりと笑った。取るべき実費はいくらでもあるではないか。食費何円何十銭也、部屋代何円何十銭也、――今月からは〆めて何十何円何十銭也を豹一に払わせるのだと、算盤の音は活気を帯びた。われながらうっとり出来る高額だったので、安二郎は今月から取りはじめるのはなんとしても惜しいと、いろいろ考えたあげく、子供の時分からの養育費を取るべきだという結論に達した。しかし、さすがの安二郎もそれは余り残酷だと思ったので、豹一が月給を取るようになってからの分を取ることに負けてやろうと、結局そこへ「手を打つ」ことにした。幾分の思いやりだった。その代りこれまでの分は利子をつけることにした。
 安二郎は余りの幸福さにわれを忘れてしまったので、
「お君!」と、思わず女房の名を呼んだ。しかし、べつに改めて言うべきこともなかったので、咄嗟に考えて、用事を吩咐ることにした。
「電気座蒲団の線はずしてんか」自分で立ってはずすと、その間座蒲団の温もりから尻を離さねばならない。それが惜しいのだ。
「よろしおま」お君は立ってコードをはずした。だんだん座蒲団の温もりがさめて行った。すっかり冷たくなってしまうと、安二郎はやっと尻をあげた。途端に痔の痛みが来た。
「あ、痛、痛、あ、痛ア!」
 尻を突きだしたじじむさい中腰で寝床の方へ歩いて行きながら、安二郎は、
(誰がなんちゅうても豹一から下宿代を取ってこましたるぞ)と、力んだ。(取る権利が無いとは言わせんぞ。そや。おれはあいつの親や。親ならどんな権利でもあるネやぞ)安二郎はこれまで豹一を負債者とばかり考えていたので、実は豹一が、息子であることにうっかりしていたのだった。(親やったら息子の儲を取るのは、こら当然や。あ、痛、痛! あいつはもう一人前の月給取やさかい、父親には下宿代を渡さんならん義務があるネや。それぐらいあいつでも知ってくさるやろ。高等学校まで行きやがって、それ知らんのやったら、こら学校の教育方針がわるいネやぞ)
 安二郎は豹一がいまは一人前の月給取であることに、父親の顔で悦に入った。
 丁度その時、戸外にしょんぼりした足音がして、今日失業したばかりの豹一が帰って来た。道頓堀の勝に撲り倒された屈辱をもて余して、当もなく夜更の街をさまよい歩き、もう十二時近かった。
 豹一は安二郎の寝巻姿を見て、途端に胸が塞がった。安二郎の着物を畳んでいる母の姿が眼に痛かった。
「どないしてん? えらい遅かったやないか」お君が言ったが、豹一は返辞をせず、さっさと二階へ上ってしまった。むろん安二郎にも挨拶一つしなかった。
 そんな豹一にお君はふっと取りつく島のない気持を感じたが、しかしお君はそれを苦にもせずえらい物言わずの子やなあと、ただそれだけだった。しかし、豹一の寒そうな後姿を見て、
(オーバーたらいうもん買うてやらんならん)
 この頃針仕事の賃を、安二郎の言うままに渡して来たことを、お君はちょっと後悔した。
(内緒で銭を蓄めんならん)長い睫毛のうしろで綺麗な眼の玉をくるりくるりまわしながら、針箱の抽出へこっそり隠すべき一円紙幣や五十銭銀貨を頭に描いた。(オーバーてなんぼ程するのやろか)
 しかし、安二郎が声を掛けたのでお君はその思案を中絶しなければならなかった。そして、白い炬燵になった。
 豹一は二階で長い欠伸をしていた。精も張もない長い欠伸を虚ろに吐き出している自分がさすがに情けなく、乱暴に洋服を脱ぎ捨てた。そして、蒲団のなかへもぐり込んだ。炬燵が入れてあった。ふっと温いものが足から眼に来た。その拍子に、母親に返辞一つしなかった自分の態度がチリチリ後悔された。
 失業したときかすのがいやで、わざと口を利かなかったのだとは、この際良い加減な弁解だった。つまりは、理由もなく口を利く気がしなかったのだ。今日にはじまったことではない。日頃から豹一は安二郎のいる前では母親につとめて口利かず、そんな習慣が出来てしまっていることをひそかに詫びる気持をもちながら、どうすることも出来なかった。そのたび、何か済まない、済まないと思うのだったが、しかし今夜ほどそれが胸をしめつけたことはなかった。気の弱りだろうか、豹一はシンと鼻に泪がたまって来た。
 思えば今日の豹一は、たしかに泣きたくなるほどみじめだった。しかし、それだからとて、こっそり泪を流すとは、日頃の豹一の流儀から言えば、だらしがないのだった。そんな気の弱まりは、かねがね自分には許してない筈だ。しかし、さすがの豹一も母親の顔を見た途端に、徹頭徹尾心の張りをなくしてしまい、失業のことが針のように感じられたのだった。自他ともに颯爽としていた筈の今日の失業も、にわかにみじめになってしまったのである。
 母親が入れてくれたのだと思えば、炬燵の温もりが痛いほど感じられて、豹一は思わず、
「えらいことをしてしまいましてん。失業しましてん。えらい済んまへん」ぶつぶつと声を出して呟いた。
 すっかり気が滅入ってしまった豹一は、誰も見ていないので、もうやけにだらしなく泪を流し、しまいに悔恨の気持が妙に動物的なものになってしまって、こつこつと頭を敲きはじめた。しかし、その動作が豹一にふと、道頓堀の勝に撲られたことを聯想させた。すると、豹一ははじめて決然として来た。あわてて泪をこすると、豹一はいきなり狂暴な表情になり、弥生座の裏路次でぶざまに倒れていた自分の姿を想い出した。
 朝、安二郎は豹一の起きて来るのを待って、
「なあ、豹一」珍らしく自分から話しかけた。
「あのな、……」
 以下の言葉はここに写すまでもあるまい。豹一の答は頗る簡単だった。
「よろしい。欲しいだけ取って下さい。なんなら月末に請求書を出してもらいましょうか」さすがに声は顫えていた。が、請求書という巧い言葉を思いついたので、豹一の興奮はいくらか静まった。
 しかし安二郎は請求書ときいて、飛び上らんばかりに喜んでいた。こんなに簡単に、いざこざなしに話がつくと思っていなかったから、余り話がうますぎると、ちょっぴり不安に思ったぐらいだった。
「用談」が済むと、豹一はいつものように畳新聞社へ出勤する顔で、さっさと家を出た。夕方帰って来た豹一は、しかし昨日のままの失業者に過ぎなかった。

      三

 凍てついた道を寒風が吹き渡っていた。豹一は寒そうに身を縮めたしょんぼりした恰好で、街から街へ就職口を探して空しく、歩きまわっていた。
 昭和十六年の常識からはちょっと考えられぬところだが、当時は、大学出の青年が生活に困って紙屑屋を開業したと、新聞に写真入りの、いわば失業時代だった。たとえば、ある日、
「社会部見習記者一名募集」、「応募者ハ本日午前九時履歴書ヲ携帯シテ本社受付マデ。鉛筆持参ノコト東洋新報」
 そんな三行広告が新聞に出ている朝、豹一が定刻より一時間早く北浜三丁目の東洋新報の赤い煉瓦づくりのビルへ行ってみると、もうまるで何ごとか異変の起ったような人の群が一町も列を成して続いていた。一名採用するというのに、この失業者の群はなんということかと、豹一はそんな世相をひとごとならず深刻に考えるまえに、そうした列に加わることに気恥しく屈辱めくものを感じた。よっぽど帰ろうかと思ったが、しかし、ここを逃しては、当分就職口はあるまい。どさくさまぎれの気持で、しょんぼり列のうしろに並んだ。
 無意味に待たされて、その列は一時間ほどじっと動かなかった。寒さと不安に堪えかねて、ひとびとはしきりに足踏みしていた。九時過ぎにやっと動きだしたが、摺足で歩くほど、のろい進み方だった。前の方から伝って来た「情報」によると、先ず一人一人履歴書を調べられているらしく、それを通過したものだけが直ぐあとで筆記試験を受けることになっているらしかった。中学校卒業程度以下の学歴の者は文句なしにはねられるらしいと、いいふらす者もあった。(すると中学校も案外出て置くべきだな)あまり感心の出来ない調子で、豹一は呟いた。
 筆記試験へ残った者は百人ばかりあった。豹一もその一人だった。三階の講堂へ詰めこまれると、豹一はわざと出口に近いいちばん後列の席に坐った。嫌気がさした時、試験の最中にすぐ飛び出せるための用意で、なかなか手廻しが良かった。席に就いてから半時間待たされた。豹一は苛苛として来た。
(どうせ、今登って来た階段の数は何段あったかなんていう問題を出されるに決っているのだ)試験の結果に就いては前以て全く諦めていた豹一は、腹立ちまぎれに、そんなことを考え、そのため一層苛立っていた。(「歩数だけ」と答を書いてやろうかな。但し二段一度に登ったところもあり、正確を期待しがたい――か。ケッ、ケッ、ケッ!)それでちょっと慰まった。
 やがて、背の高い痩せた男が長い頭髪をかきむしりながらはいって来て、壇上に立った。
「えらいお待たせしまして、申訳ありません。えー、実は今日の筆記試験の係の男が、急に姿を消してしまいまして、えー、お茶でも飲みに行ったのやろかと思いまして心当りあちこち探しにやっているのでありますが、どこへ逐電しましたのか皆目見当がつかない状態でありますので、とりあえず私が代役することになりました」笑い声が起ったが、しかし直ぐ止んだ。「――えー、そういう訳で、大変お待たせしまして、恐縮です」
 その時給仕があわててはいって来て、壇上の男に何か耳打ちした。
「えー、いまその男から電話が掛って来たそうであります。実は食事に行っているそうでありましてそれがまたとても暇の掛る店と見えまして、当分帰れそうにないから、誰か代ってやってくれということであります。とにかく私が代役するぶんには変りありません」
 豹一はこのふざけた「演説」に腹を立てるべきかどうかちょっと考えた。しかしずり落ちそうな眼鏡のうしろで眼をしょぼつかせているその男の印象はそんなに悪くなかったから、豹一はわざわざ席を立つこともしなかった。
「いま給仕が問題用紙を配ります。余白に答案を書いて下さい。時間の制限はありません。しかし、夕方まで掛ったりされますと、私が大いに迷惑します。――答案が出来ましたら、ここへ持って来て下さい。そして帰って下すってよろしいです。結果は追って――」いい掛けて、大声で、「おい、そうだな?」と給仕に問うた。給仕はうなずいた。「――結果は追って通知することになっています。えー、それから煙草は御自由に」
 豹一は三本目の煙草を吸っていた。
 問題用紙が配られた
   一、作文「新聞の使命に就て」
   二、左の語を解説せよ
    Lumpen
    室内楽
    A la mode
    Platon
 そんな問題だった。横文字を読むために問題用紙を横に動かす音が、サラサラと鳴った。豹一の傍の席でしきりに鉛筆を削っていた男が、暫く問題を見つめていたが、いきなり立上って、
「こら帰った方が得や。一人しか採れへんのに出来もせん試験を受けても仕様があらへん」豹一にきこえるように言って、こそこそと出て行った。すると、これを見ならうように、つづいて三人出て行った。
 豹一は居残って答案を書くことに、ちょっと拘泥った。なんだか出て行った人に済まないとも思われた。が、いま出て行っては、あいつは答案が書けないのだと軽蔑されるおそれがあると思い、辛うじて席に止った。答案を書いていると、ふっと鎰屋のお駒や紀代子や喫茶店の女の顔が思い掛けず甘い気持で頭に泛んだ。それほど講堂のなかの空気が息苦しく思われたのだ。一刻もじっとしていられない気持で、豹一はまるで逃馬のように卒然となぐり書きして、あっという間に答案を提出してしまった。むろん、読み返しもしなかった。たとえ二人のうち一人採用されるにしても、自分は不採用に決っていると、新聞記者になることにすっかり見切りをつけてしまった。ところが、そんな風に早く提出してしまったことが、豹一に幸したのだった。
 実は全部提出するまで根気よく待っていた壇上の試験係には随分気の毒な話だが、編輯長の方針では、採点する答案は最初に提出した十人だけと、あらかじめ決っているのである。そのあとから提出した答案は一束に没籠にほうり込まれてしまったのだ。どんなに良く出来た答案でも、永い時間掛って書くようなのは、新聞記者としては失格だという編輯長の意見だった。新聞記者の第一条件は、文章が早く書けるということ、しんねりむっつり文章に凝るような者やスロモーは駄目だというわけだった。
 ところで、その十人の答案は大半出来がわるかった。編輯長は答案を調べながら屡※[#「※」は踊り字のゆすり点、91-下8]吹きだした。編輯次長はわざわざ編輯長の部屋へ呼ばれた。
「傑作があるぜ、これどないや。Lumpen(ルンペン)を合金ペンと訳しとるねんや」
「だいぶ考えよったですな」
「まだある。やっぱり同じ男や。Platon(プラトン)はインクの名前やいうとるねや」
「文房具で流したところは、なかなか凝ってますな。まだありませんか。傑作は――」
「室内楽を麻雀やぬかしとる」
「こら良え。なるほど麻雀やったら、部屋のなかで鳴りますな」
「部屋の中の楽しみやと考えよったのやろ」
「A la mode(アラモード)に傑作がありまっしゃろ」
「あるぜ。献立表というのがある。あ、そう、そう、これはどないや。モーデの祈りとはどないや」
「新聞記者にするのは惜しいですな」
「吉本興業に頼んでやると良えな」
 結局、豹一の答案がいちばん出来が良かった。たとえば、ルンペンを「独逸語で屑、襤褸の意、転じて社会の最下層にうごめく放浪者を意味する。日本では失業者の意に用う。しかしルンペンとは働く意志のない者に使うのが正しいから、たとえばこの講堂へ集った失業者はルンペンではない」と、編輯長自身にも書けない立派な答案だった。しかも皮肉ったエスプリが出ている。それに、提出の順序も一番だった。早速、豹一のところへ面会の通知が速達された。

      四

 豹一は他人に与える自分の印象に就いては全然自信がなかったので、面会の通知が来たときもすっかり喜び切ることは出来なかった。面会の時の印象がわるくて不採用になるかも知れないと、かなり絶望的に考えたのである。己れを知るものといえるわけだ。
 実際豹一が学校にいた頃、教授達の豹一に対する批評は「態度不遜だ」ということに一致していた。しかしここで豹一のために弁解するならば彼自身教授に対して個人的に不遜な態度をとった覚えはないつもりだった。ただ、教室を軽蔑していた。そしてまた些かの未練も残さずに中途で退学してしまった。つまるところは、「光輝あるわが校の伝統を軽蔑している」ことになったのである。しかし、それにしてもある教授のように、「毛利豹一はおれを莫迦にしている」とむきになるのはいうならば余りに豹一的で、つまり些か大人気ないことではなかろうか。豹一はただ慇懃な態度が欠けていたのだ。他人に媚びることをいさぎよしとしない精神が、彼を人一倍、不遜に見せただけのことである。
 ところが、銀行や商事会社なら知らず、新聞社では慇懃な態度はあまり必要とされないのである。少くとも外勤の社会部の記者には必要ではない。もっとも、社内にあって良い地位を虎視眈眈とねらっている連中ならば、たとえば編輯長の前ではあくまで慇懃であってもらいたいものだが、しかし先ず新参の見習記者には用のない話だ。面会に来て、どんな頭の下げ方をするだろうかなど、編輯長の頭には全然なかった。
「えらい威勢の良い奴ちゃな」――でも構わなかったのである。それどころか、新聞記者には威勢の良いのは、うってつけである。苛々と敏感に動く豹一の眼を見て、編輯長は、(こいつは鋭いところがあるぞ)と、すっかり気に入った。(ちょっとぐらい社のタイピストと問題を起しよっても、構へんやろ。この男前はなかなか使い道があるぞ)と、編輯長は思った。
「どんな方面の仕事が担当したいねん、言うてみ。カフェー廻りはどないや。それともダンスホールか」カフェーやダンスホールの評判記でかなりの読者を獲得している新聞だったのだ。ところが、豹一の言葉は編輯長をがっかりさせてしまった。
「僕の性質としましては、あまり人なかに出るのは適当じゃないと思いますので、なるべく社内でやるような仕事をしたいと思います」正直な言葉だった。
「内勤か?」編輯長は不機嫌に口をとがらした。
「内勤はいま一杯ふさがっとる。校正やったら一人欠員があるけど――」校正と聞いて、豹一はぞっとした。畳新聞社で二年間毎日やっていた校正の辛さが想出された。豹一はあわてて言った。
「外勤でも結構です」
「――そうか。そんならひとつ気張ってやってんか。――そんなら今日はこれで帰って良えぜ。あした朝九時に来てんか。いま皆外へ出てるよって、あした皆に紹介することにしよう」
 豹一ははっとした。じつは面会の時間は九時と通知されていたのだが、例の癖で一時間以上遅れたのである。それを一言も咎めなかった編輯長に、豹一は好感をもった。
「じゃあ、あした来ます。九時ですね」
「そうしてエ」
 局長室を出た途端に、豹一は、「やあ」と、声を掛けられた。筆記試験の時壇上で妙な演説をやった男だった。
「君、入社したんですか」
「はあ」
「今日は用事ないんでしょう?」
「はあ」
「あったって構わん。お茶のみに行こう」男はさっさと階段を降りて行った。豹一もうしろからついて行った。
 社の表に一人の男が空を仰いで突っ立っていた。
「今日の天気はどないです?」豹一の連れの男はそう声を掛けた。
「さあ、雪でんな」空を仰いでいた男が言った。
「降りますかね」
「降りまんな」
 社の近くの喫茶店に落着くと、男は、
「いまの男は販売部長や。天気予報の名人やと自称しとるらしいが、満更当らんわけでもない。毎日空模様を見て、その日の印刷部数をきめるのがあの人の仕事でね。雨が降ると、立売が三割減るからね、なかなか販売部長も頭を悩ますよ。雪か。雪なら四割減るかな。――君傘は? ……傘いるよ」と、ひとりで喋った。「何をのむ?」
「珈琲で結構です」
「遠慮しなさんな、君に払わさんというわけでもないからね」にやりと笑って、「おい、珈琲二つと、トーストパン二つ!」と、注文した。
 珈琲とパンが来ると、男は、
「やり給え」あっけにとられて豹一が珈琲を啜っていると、「不味いだろう? ここの女の顔もそうだがね」
 そんな男の調子に圧倒されそうになったので、豹一はわざと図太い態度で、じろじろ女の顔を見廻し、なるほどねという顔をした。すると、いきなり、
「そうじろじろ見るなよ」男の声が来た。豹一ははっと赧くなったが、実は豹一に言ったのではなかった。
「おい、美根ちゃん、そんなにおれの顔を見ないでくれ!」
「まあ、失礼!」
「監視せんでも良えぞ。勘定はこの人が払ってくれる。食逃げはせんからね。いつものようには……」
 そして、豹一に、「君、勘定を払ってもらった上にはなはだ恐縮だが……」しかし、ちっとも恐縮しているような態度は見せず、にやにやと顎をなでていたが、いきなり、「金を貸してくれ」と、言った。
 ずり落ちそうな眼鏡のうしろで、細い眼をしょぼつかせている外観から想像も出来ない、まるで斬り捨てるような言い方だったから、豹一はあっと駭いたが、しかし、さすがに直ぐに言葉をかえして、「いくら?」と、訊いた。
「五十銭で良えです」しかし豹一が財布をあけるのを見て、「一円にして貰おうかな」
 結局三円とってしまうと、男は、
「金を借りたからというわけではないが、とにかく自己紹介して置こう。僕は社会部の土門です。土に門と書く。ツチカドとよむのが正しいが普通ドモンとよばれている。ども[#「ども」に傍点]ならんというわけやね」下手に洒落のめした。豹一は土門の言葉の隙間へ、
「僕毛利です。どうかよろしく」と、小さく挨拶を割り込ませた。
「あ、毛利君ですね? 払いますよ毛利君この金は……。但し一年以内に……。時々催促して下さい」にこりともせず土門は言った。豹一は莫迦にされているような気がしてむっとしたが、しかし相手はそんな表情を、可愛い若武者だとながめながら「僕は君が気に入ったよ君の貸しっ振りはなかなか良いところがあるよ」一層豹一を怒らせてしまった。「いや、実際の話が、何が気持良いといっても、金を借りる時相手に気前よく出されるほど気持の良いものはないね。たとえ五十銭の金にしたところがだね、気持よく、ああ、あるよと出された五十銭ってものは、あんた、なんですよ、九十八円ぐらい遊んだほどの値打があるからね」
「金の話はよしましょう」豹一はだしぬけに言った。高利貸をしている安二郎のことが頭に泛んだせいもあった。
「あ、そう」土門はあっさりとしたもので、「じゃ、仕事の話をしようではないか。君は社会部だね。じゃ、僕と同じだ。どうせ、僕が当分君の仕事を見てあげることになるんだろうが、――なんといっても僕は社会部では古参だからね。部長よりも古い。というのは、つまり僕は部長になる資格がなかったという意味になるが、実はその意志がなかったんだ。序でに言っとくと、僕は副部長待遇です。君、いいだろう? 『待遇』ってのは……。嬉しいじゃないか。え、へ、へ。そこでだね。君に教える第一のことは、先ず名刺をつくることだ。名刺を持たない新聞記者ってものは余っ程怠け者か、――この僕の如き――それとも余っ程腕利きのどちらかで、まあ、とにかく聞屋には名刺が要るもんだね。といったって、べつに聞屋が威張って良いというわけじゃないよ。聞屋の威張れるのは火事場だけだ。そう思って置けば、間違いないね」
「僕もそう思います」豹一は我が意を得たという顔で言った。
「そら良え現象や。ところが、威張る新聞記者は佃煮にするほどいますわい。なるほど、威張ろうと思えば、威張れるがね。しかし威張って良い理由はどこにも無いんだ。たとえば、よく使われる例だが、失業した新聞記者は水をはなれた魚のようにみじめなんだ。してみるとだね、てめえらが威張れたのは、てめえら自身の、――変ないい方だが、――人格ではなくて、実は背景になっている新聞のおかげだ。つまり、虎の威を借りている、といっては月並かな。君あれだよ、つまるところ新聞記者という特権を濫用しているんだよ」
 特権という言葉が出たので、豹一は土門の考えにすっかり共鳴してしまった。もっとも土門はその言葉をいうとき、ニキビをつぶしていた。いや、つぶす真似をしていた。
「咽喉が乾いた。珈琲もう一杯のもう」土門は新しい珈琲が来るとまた喋り続けた。「しかしまあ、とにかく名刺を作ることだね。君のような可愛い顔をした男が、半鐘が鳴って火事場に駆けつけても、名刺が無ければ通してくれないからね。八百屋お七が変装して吉三に会いに来たと思われるぜ。――失敬、失敬、そう怖い顔をするなよ。いや実際君の顔は可愛いよ。おれに変態趣味があれば、君に申込むね。全く、君はにくらしいほど美少年だ。僕は僕の少年時代を想い出すね。君とそっくりだった」
 豹一は危く噴きだすところだった。なにも豹一は自分を美少年と想っているわけではなかったが、しかし、不細工だと形容するほかの無い土門のそんな言葉には、さすがにあきれてしまった。土門はなおも洒蛙々々と続けた。
「君、用心すると良いよ。君のような美少年は危い。相手が女だとあれば、君も大いにやに下っても良いが、しかし、男に目をつけられるのは、目もあてられないからね、不気味ではあるな。いまはこの風潮は大いにすたったが、しかし昔は盛んだったね。いや、全くの話が、プラトンかソクラテスかどっちかが言っているように、男の肉体というものは女の肉体より綺麗だからね。彫刻を見ればわかるじゃないか。だから美意識の異常に発達した、たとえばうちの編輯長の如きが大いにこの趣味を解するのも無理はないね。君、編輯長に気をつけ給え。いや、これは臆測に過ぎんがね。しかし、どうもあの編輯長は臭いね。というのは、全然女に興味がないらしいんだ。それがあやしい。社の創立当時のことだがね、丁度夏だったもんで、奴さん褌一つで駆けずりまわる――のはおかしいか。駆けずりまわるときはさすがに洋服は着込んでいたらしいが、さて社で記事を書くときは褌一つだったんだ。まあ、それほど大車輪で目覚しかったんです。ところが、当時社長の女秘書がいたんだ。これがまた頗る美人で、おまけに名門の出だもんで、例の遊ばせ言葉と来てるんだ。じつは、結婚してたんだが、亭主が小間使に手を出したてんで、飛び出して尖端を切った職業婦人になったという代物なんだがね。この秘書女史が編輯長と同じ部屋にいたんだが、ある日、この女史が社長にいきなり辞意を表明したと、思い給え。その理由がなんだと思う……? うふふ」土門は嬉しそうに笑った。「――その理由ってのは、君、あれだよ。うふふふ……。編輯長さんの越中をなんとかしてもらえんか――って、そんな言い方はしなかっただろうが、ともかくまあそんな意味のことをやわりやわり社長に言ったんだね。社長もさすがに弱って、結局編輯長を呼びつけて曰くだ、――君、褌は困るね。せめて汚れない奴を着用してくれんか。――あははは」土門はまるで転げまわっていた。「――というわけで、問題はけりがついたが、ともかく美人の秘書の前で汚れた褌一つで平気でいるところを見ると、奴さん女には全然興味がないと見てまあ差支えないだろう? 少しでも興味があればだね、少くともステテコ位は穿いたろう。まあ、そう言ったわけで、女に興味が無いとすれば、残るのは美少年だ。どうだ、君、僕の推理は……? わりに筋が通ってるだろう? だからさ、まあ君は大いに編輯長に気をつけることだね。え、頼みまっせ。けっ、けっ、けっ」土門は口の泡を噛みながら笑った。
 いったい言葉の乱れている、――たとえば標準語と大阪弁がちゃんぽんになっているような男には、健全な精神が欠けていると見てたぶん間違いはないが、この土門のような男はその代表的なものである。ことに土門は言葉が乱れているばかりでなく、その言い方が真面目に見えたり不真面目に見えたり、つまり、底抜けにふざけていて、いってみればデカダンスのにおいが濃いというわけだった。
 こういう男は得てして生真面目な男を怒らせるものなのだが、豹一は自分で思っているほどには人から生真面目に思われない男だったから、莫迦にされてるような気はしたものの、すっかり腹を立てるまでには到らなかった。それに突拍子もないところへ大阪弁が飛び出したりして、土門の態度に案外気取りのないところが、いくらか気に入っていたのである。
 もうひとつには豹一は土門の話よりも、土門の煙草を吸う動作にすっかり気を取られていたので、腹を立てる余裕などは無かったのだ。土門の煙草の吸い方はあきれるほど早かった。三分ノ一ほどせわしく吸うと、もう新しい煙草に火をつけている。それが休む暇もないのである。マッチをつけるのがもどかしいらしく、煙草から煙草へ火を吸い移すのだ。瞬く間に一箱を平げてしまうその早さに、一日掛って一箱がやっとの豹一はあきれてしまった。が、豹一が注意をそそられたのは、そのことだけではない。よく見ると、土門は必ず煙草の端をやたらに濡らすのである。そして、濡れたところをしきりに手でもみほごす。しまいにはそこをひき千切ってしまって、そして、ペッペッと煙草の葉を吐き出す。すると、もうそれを吸うのがいやになったらしく、やに色に焦げた指先で新しい煙草を取り出して火を吸い移している。話しっ振りの飄々たるに似合わぬ、なにか苛々とした焦燥がその吸い方に現われていたのである。なお注意して見ると、土門は話しながら、しきりに煙草の箱を千切っているのだ。瞬く間にテーブルの上が紙屑で一杯になってしまうのだった。千切るのは煙草の箱だけではない。マッチ、メニュー、――手当り次第だった。
 話しっ振りも動作もどちらも行儀がわるいと言ってしまえば、いちばん分り易かったが、しかし、豹一はなぜかその土門の苛々した態度になんとなく奇異なものを感じたのだった。
 土門はなおも喋り続けた。しかし、どうやら勤務時間をサボっての閑あかしらしい土門の気焔をここに写すのは、これぐらいに止めて置こう。どうせ土門と豹一はその夜また会うことになっているのだ。
「どや、今晩つきあわんかね?」土門にすすめられて、豹一は断り切れなかったのである。
「債権者の方から逃げる手はないぞ!」一応断ると、土門はそう言った。豹一は土門のような男には尻込みしたさまを見せたくないと思った。たとえ地獄へ一緒に行こうというのであっても……。また、土門が天国へ行こうという筈もないわけだ。それだからこそ、一層尻込みしたくなかったのである。

      五

 その日、夕方の六時に豹一は弥生座の前で土門と落ち合うことになっていた。
 豹一は約束の時間より少し早目に弥生座の前に立っていた。冬の日は大急ぎで暮れて行った。六時を過ぎても土門は姿を見せなかった。しょんぼり佇んで千日前の雑閙に注意深く眼を配っていると、なにか新社員のみじめさといったものが寒々と来た。道頓堀の赤玉のムーラン・ルージュが漸くまわり出して、あたりの空を赤く染めた。待たされている所在なさに、ぼんやり赤い空を仰いでいると、いきなり若い女の体臭が鼻をかすめた。レヴュガールが三人、ぽかんと突っ立っている豹一の前を通り過ぎたのだった。弥生座へはいって行くその後姿を見て、豹一はふとそのなかの一人が靴下も穿かぬ足を寒そうに赤くしているのに、心を惹かれた。
 土門はなかなか現れなかった。豹一にとっては気の毒な話だが、土門は約束の時間を守らないことで定評があった。遅れて来ることもあれば、むやみに早く来ることもある。早く来た時は、相手の来ぬ間にしびれを切らして帰ってしまうので、結局来ないのと同じ結果になるのだった。今日は遅れて来るつもり――いや、土門に「つもり」などがあろうか、ともあれ遅れて来るらしい。当分豹一は待たねばならない。
 土門が来るまでに、大急ぎで土門に就いて述べて置こう。
 土門は自分では五十歳だといいふらしているが、本当は三十六歳である。しかし、如何にも三十六歳らしい顔をしている土門の印象を捉えることは容易ではない。つまり非常に老けて見えたり若く見えたりするのだ。土門は自分自身の印象を変えるために、随分苦心していると、思われる節がある。たとえば豹一が見たのは頭髪をむやみに伸ばして眼鏡を掛けたところだったが、一月経てば、丸坊主になり、眼鏡を外してしまっていないとは保証出来ないのである。夏にスキー帽を被って、劇場へ現われたりする。毎年一回昇給するその翌日は、必ず洋服を着変えて出社し、「おかげをもちまして質受け出来ました」と真夏にわざと冬服である。そして、そういった尻から同僚に金を借りている。
「月給があがったんだろう! 貸し給え」
 以前はそういうことはなかった。むだな冗談口ひとつ敲くようなことはなかったのだ。無口だが、しかしたとえば編輯会議などでは、糞真面目な議論をやったものである。観念的だとか弁証法的だとか、妥協を知らぬ過激な議論をやっていたものである。なんでも学生時代からある社会運動に加っていたとかいうことで、そういえばたしかにそんな理窟っぽい口吻があった。
 ところが、急に変りだしたのである。実にふざけた男になってしまったのだ。ある日、退社時刻の六時が来ると、いきなり眼覚し時計が鳴り出した。驚き、かつ笑いながら社員たちが音のする方を見ると、土門は悠々と自分の机の上にある眼覚し時計の音を停め、さっさと帰ってしまった。――その日から、土門は変ったと見られた。
 まず第一に、土門は社に不平があるのだろうと噂された。退社時刻に眼覚し時計を鳴らすのは、何かのあてこすりだろうということになったのだ。丁度、土門の後輩が部長に昇進して、創立以来の古参の土門には気の毒なことだともっぱら同情されていた矢先だったから、この観察も無理はなかった。その頃土門はしきりに、「俺は五十歳だ。もはや老朽だ」といいふらしていた。五十歳だとすると、つまり土門は二十年間東洋新報に勤めている勘定になるのだが、じつは東洋新報は創立以来まだ十年にしかならぬ。してみると、土門は五十歳だといいふらすことで、わざと自分の古参を自嘲しているというわけになる。いわばやぶれかぶれの五十歳なのだと、穿った観察をする者もいた。もっとひどいのになると、土門がかつていつの編輯会議にも、所謂進歩的な意見を吐いていたのは、部長になりたいばっかりの自己主張であったというのだ。しかし、それは少し酷だ。部長になり損ねたために人間が変ってしまったとは、余りに浅薄な見方ではなかろうか。が、それならば土門の変った原因はなんであるか――他人にはむろん土門自身にもはっきりわからなかった。
 とにかく土門は変ったのである。入社当時の所謂過激な議論はとっくに収っていたものの、たとえば「人間の幸福は社会の進歩にある」とか、「文化が進むことによってわれわれは幸福になれるのだ」ぐらいのことはいっていた。ところが、それすらも言わなくなったどころか、「猿に毛が三本増えたって猿が幸福になれるもんか。そのでん[#「でん」に傍点]で文化が進歩したって、人間が幸福になれると思うのは、大間違いだ」かつての自分の意見を否定し、おまけにその口調がふざけたものになってしまった、「文化人になりたいか? よし、五十銭出せ! 文化人にしてやる!」若い記者がしきりに映画論をやっているのを見ると、必ずそんな意味のいやがらせを言った。
 土門は社会面の特種以外に映画批評も担当していたが、「キングコング」のような荒唐無稽な映画だけを褒めた。なお、飛行機や機関銃の出て来ない映画は、土門の批評によればつまらないというのだった。日本の映画では大都映画をしきりに褒めていた。レヴューが好きで、弥生座のピエロ・ガールスのファンだった。今日土門が豹一と弥生座の前で会うことにしたのも、じつはピエロ・ガールスを見るためであった。
 七時過ぎになってやっと土門はひょろ長い姿を見せた。
「さあ、はいろう、はいろう」待たして済まなかったとも言わず、さっさと弥生座のなかへはいって行った。豹一は切符をどうするのかとちょっと迷ったが、そのまま土門のあとに随いてはいった。「お切符は……?」豹一は入口でそうきかれた。赧くなった。
「金を取る気か! 取るなら、取れ! 但し、子供は半額だろう?」土門は済ました顔で、入口の女の子にそう言った。
「ああ、お連れさんですか?」女の子は豹一が土門の連れだとわかると、「お二階さん御案内!」と、わざと大きな声で言った。
「いや。階下で結構です。階下の方がなんとなくよく見えますからね」
 土門はそう言って、黒い幕のなかへはいった。舞台では「浪人長屋」という時代物の喜劇がはじまっていた。
 土門は豹一と並んで席に就くと「一ちゃん!」と呶鳴った。すると、おそろしく長い顔をした浪人者が、舞台の上からきょろきょろ客席の方を見廻した。そして、土門の顔を見つけると、いきなり頭に手をあてて、あっという間に鬘を取ってしまった。観衆はどっと笑った。浪人者は済ました顔で鬘を被り、芝居を続けた。
「あれは中井一というんだ。顔が長いだろう? だから、長井一とよぶ奴もある。僕の親友です」土門は豹一にそう説明した。そして、また呶鳴った。「森凡!」
 ひどくしょんぼりした顔の小柄な浪人者が、横眼で土門の方を見て、ウインクした。豹一が土門の横顔を見ると、土門は生真面目な顔をしていた。
「親友です」
 バンドがタンゴの曲を伴奏すると、中井一と森凡はのろのろと立ち廻りをはじめた。急に笑い声がおこったので、なにがおかしいのかと、気をつけてみると、彼等浪人者は立ち廻りしながらタンゴのステップを踏んでいた。「もはや、これまで! さらばじゃ!」中井一はすたこらと逃げ去ってしまった。倒れていた森凡はのっそり立ち上ると、「後を慕いて!」言いながら、着物の裾をからげた。赤い腰巻が見えた。「これは失礼」森凡は裾を下した。途端に幕が降りた。
 豹一はわれを忘れてげらげらと笑った。腹が痛くなるほどだった。ふと土門の顔を横眼で見ると、土門は案外つまらなそうな顔をしていた。豹一はすかされたような気になった。(面白くないのだろうか?)しかし、根っからの大阪人である土門に、以前なら知らず、この喜劇の底抜けの面白さがわからぬという筈はなかった。が、じつは土門はこの幕をもうかれこれ十日間も打っ続けに見ているのである。否応なしに見せられているのである。土門の目的は次の幕のレヴューにあった。
 やがてレヴュー「銀座の柳」の幕があいた。土門はわざと腕組みなどしていたがなにかそわそわと落ちつかなかった。
「後列右から二番目の娘に惚れるなよ」土門は豹一に囁いた。
 豹一は何気なく後列の右から二番目の踊子を見た。途端にどきんとした。足に見覚えがある。
 先刻弥生座の前で土門を待っていた時、鮮かな印象を風のなかに残してさっと通り過ぎた少女にちがいはない。顔はしかと見覚えなかったが、痛々しいほど細いその足が心に残っていた。その時三人いたのだが、その少女だけ靴下を穿かず、むき出した足が寒そうに赤かった。
「なんという子ですか?」豹一は思わず訊いた。土門は答えた。
「東銀子」
 ずんぐりと太い足にまじっているために、なよなよしたその細い足は一層目立っていた。病身の少年のように薄い胸だった。削りとったような輪郭の顔に、頬紅が不自然な円みをつけていた。耳の肉が透いて見えそうだった。睫毛の長い眼が印象的だった。
 にこりともせずに、固い表情で踊っていた。つんとした感じを僅かに救っているのは、おちょぼ口をした可愛い唇であった。済まし込んで踊っているのだと、見れば見られたが、豹一はふっと泣きたそうな表情を銀子の顔に見たように思った。きびしい甘さに心を揺すぶられる想いで、豹一は銀子の顔から眼を離すのが容易でなかった。
 ふと傍の土門をうかがうと、土門はなにか狼狽したありさまを見せていた。「おかしい。どうもおかしい!」唸るように土門は言った。顎のあたりが蒼くなっていた。土門はそわそわと東銀子の顔を見ていたが、やがて、なに思ったか、
「帰ろう」と、言い、いきなり席を立って、出口の方へさっさと歩いて行った。豹一は後を追った。
 土門は出口のところで、立ち止った。そして振りかえって、舞台をちらと見た。土門の口から溜息のような声が出た。「あかん!」そして豹一の手を引っ張って、弥生座を出た。

      六

 弥生座を出ると、雪だった。しとしとと落ちて来る牡丹雪を、眩い光が冷たく照らしていた。夜の底が重く落ちて白い風が走っていた。
「寒い、寒い!」土門は動物的な声をだして、小屋の向いにある喫茶店へ飛び込んだ。豹一も随いてはいった。
 ストーブで重く湿った空気がいきなり体を取りかこんだ。土門は曇った眼鏡を外した。すると、はれあがった瞼が土門の顔をふしぎに若く見せた。
 土門は珈琲を一口啜ると、立ち上ってカウンターの方へ行き、電話を借りた。
「もし、もし、弥生座……?」
 どこへ掛けるのかと思っていたら、つい鼻の先の今出て来たばかりの弥生座へ掛けているのだった。いかにも土門らしいと、豹一は思った。
「文芸部の北山君を呼んでくれ。……土門だよ。ツ、チ、カ、ド……東洋新報の……。あ、そう」
 喫茶店の隣は銭湯だった。湯道具を前垂に包み、蛇の眼の傘をさした女が暖簾をくぐって出て来た。豹一は窓硝子の曇りを手で拭って、その女の後姿がぼうっと霞んで遠ざかって行くのを、見ていた。
 再び土門の大きな声が聴えて来た。相手が電話口へ出たらしかった。
「――挨拶は抜きだ。雪どころの騒ぎか! おいけしからんぞ! 貴様なぜおれに黙ってあの娘に手をつけた? ――誰のことだとはなんだ? いわずと知れた……そうだよ、東銀子だ! 二度も言わすな。――その通り、東銀子だ! ――なに? もう一ぺんいってみろ! よくわかったねとは何ごとだ! 余人は知らず、あの娘に関してはだね、そんじょそこらの桂庵より見る眼はもってるんです。一眼見りゃわかるんだ。温泉場の三助じゃねえが……わかるんです。――ああ、お説の通り、わいはぞっこん参ってまんねん。何がわるい? 貴様も五十なら、おれも五十歳だ。年に不足はあるまい。ただ、おれはだね、貴様のように未だうら若い生娘に手をつけないだけだ。――なに? 下手人はほかにある? 白っぱくれるな! おい! ピエロ・ガールスに悪漢はちゃちな海賊船ほどいるがね、あのいたいけな、なよなよした、可憐な東銀子のような娘を食うのは、ピエロ・ガールスひろしといえど、貴様のような助平爺ひとりだ! 白っぱくれてもらわんときまいよ。おい! 泣きながら踊ってたぞ! 冷血漢め! 電話掛けたのは、貴様の老いぼれた顔を見たくないからだ。ありがたく思え! 顔を見れば、噛み殺してやる! いいか、覚悟しろ! ――なに? 会いたい? よし会ってやる。――おれが今どこに居るかぐらい探せばわかる。半時間以内におれの居所を探しだせ! それまでに貴様の汚ない顔を見せなけりゃ、弥生座を焼いてやる! ――左様、おれは坂崎出羽守だ! 千姫はおれが救い出す。貴様なんか指一本触れさすものか! けっ、けっ、けっ!」
 あたりに構わぬ大きな声で呶鳴っていたが、妙な笑い声を最後にやっと受話機を掛けると、土門は、「長い電話を掛けさせやがった」と言いながら、豹一の席へ戻って来た。店の女の子たちは、くすくす笑っていた。土門は、なにがおかしいと、にらみつけて置いて、珈琲を一息にぐっと飲みほし、「元気を出せ!」と、誰にともなく言った。豹一はそれを自分のことのようにきいて、はっとした。土門の電話口での話に、すっかり気が滅入っていたからである。
 しかし、なぜ気が滅入ったのであろうか。豹一は土門のようにとりとめないことを言う男の言葉は注意してきくまいと思っていたから、最初のうちはなにげなくきいていたのだが、土門の口から東銀子という名前が飛び出した途端に、どきんとした。そして、どうやら、東銀子が文芸部の北山に「手をつけられた」ことに、土門が抗議しているらしいとわかると、にわかに心が曇ったのである。どうせ、土門の言うことだから、出鱈目にちがいないだろうと、あわてて打ち消してみたが、しかし、先刻土門がそわそわと小屋を出てしまったのは、舞台の銀子を見てなにか察したのであろうと思えば思われたし、それに、ふざけた調子ではあったが、土門の電話での抗議ぶりには、いくらか本当めいたものがあるとも思われた。また、たとえそれが全く根もない事実に過ぎないと、無理に自分に言いきかせることが出来たとしても、いったんそれをきいてしまった以上、打ち消しようもないほど、心の曇りは深かった。つまりは、思い掛けぬ銀子への恋情だろうか。それが豹一にふしぎだった。
 二十歳の青年が舞台の上の踊子に恋情を感ずるというのは、あるいは極めてありふれたことであるかも知れないが、しかし豹一は案外に勁い心をもっていたためか、たとえば中学生時代女学生の紀代子と夜の天王寺公園を散歩した時も、また、高等学校時代鎰屋のお駒と円山公園を寄り添うて歩いた時も、恋情のひとかけらも感じなかったのである。それをいま情けないことに、ひょんな工合に銀子に恋情を感じたのは、なんとしたわけであろうか。
 だが、はっきりと気がつけば、豹一自身いまいましいことにちがいないこの恋情に就ては、細かしく説明しない方が、賢明かも知れない。だから大急ぎで述べることにするが、つまり豹一がふと見た銀子の痛々しく細い足の記憶が、土門の電話口でいきなり生々しく甦って来たせいではなかろうか。そしていうならば、そんな豹一の心の底に、母親と安二郎を結びつけて考えたときのあのちくちくと胸の痛くなる気持が執拗に根をはっていたのである。
 豹一は重い心で、窓硝子に顔をすりつけて外をながめた。しとしとと雪が降っていた。視線がぼやけた拍子に、だしぬけに感傷的になって来た。
 土門は例のいらいらした手つきで、煙草の端をちぎっていたが、ふいに言った。
「おい! そんなしんみりした顔をするなよ」豹一の顔を嬉しそうに覗きこんだ。
「雪を見てるんです」言いながら、遠いハーモニカの音をきくような気がふっとした。夏の黄昏の時間が、雪を見ている豹一の心を流れた。
「あははは……。雪を見てるというか? なるほど、東銀子に惚れたな」
 やっぱり見抜かれたかと、豹一は赧くなった。しかし、土門はもともと敏感な男だったが、いまは他人の心など計るような面倒くさいことはしなかった。土門がそんなことを言ったのは、じつは次の言葉を出すためのまくら[#「まくら」に傍点]に過ぎなかった。
「惚れても駄目でっせ。いまのおれの電話をきいたか? 東銀子はもうあかん。一眼この眼で見ればわかるんだ。今日の東銀子の踊り方を見た途端に、おれは諦めたね。ああ、東銀子も失われたかとね。へ、へ、へ」土門の笑いは豹一の心をますます重くした。
「珈琲もう一杯のみましょう!」
「ああ、飲もう。よくぞ言った。人生の無常がわかるとは、良いところがある。君はいくつだ?」
「二十歳です」豹一は噛みつくように言った。
「じゃ、僕と三十ちがいだ。僕は五十だ」
 豹一はぷっと吹き出した。眼鏡を外した土門はどう見ても三十二、三にしか見えなかった。しかし、豹一の笑はすぐ止った。その時、一人の男が禿げあがった頭に雪をかぶって、飛び込んで来たが、その顔を見るなり、(文芸部の北山という男だな)と直感したからである。豹一は咄嗟に緊張した。この男が銀子に手をつけたのか、ともう笑えなかった。白い眼でじっとにらみつけた。が、男はそんな豹一には目もくれず土門と向いあった豹一の傍に腰を掛けると「違うぞ。誤解だ、誤解だ!」と、言った。土門はそれには答えず、
「おれがここにいるとよくわかったな」
「どうせ近くだとにらんだわい」
「電話のおれの声の大きさでわかったというんだろう。そこで、もっと大きな声をききに来たってわけか」土門はそう言って、でかい声で笑った。
 豹一はそうして二人が笑っているありさまを不真面目なものに思い、じっと息をこらしていた。二人が笑うぶんだけ、豹一は怖い顔をしていたのである。土門はやがて笑い止むと、
「誤解とぬかしたな」と、言った。
「誤解だ。誤解も誤解も大誤解だ。おれが下手人だなんて、悲しいことをいってくれるな」北山はいかにも悲しそうな声をだした。が、それはまるで座附作者が役者に科白をつけているとしかきこえなかった。
「本当か?」
「遺憾ながら本当だ」
「なるほど、遺憾ながらでっか。そんなら、誰だ?」
「わからん。わかろうとは思わん。わかると一層辛い。わかっているのは、銀子が失われたという、痛ましい事実だけなんだ」
「…………」
 土門はわけのわからぬ唸り声を出したが、いきなり、
「握手しよう」と北山の手を握った。
「どうせ、下手人はもみあげの長いヴァレンチノだろう。わしはいっそお宅に下手人になってもらいたかった」
 土門はわざとしんみりした声をだした。
「わしもやっぱり旦那に下手人になってもらいたかったよ」北山が言った。
「ざまあみろ」と、土門。
「ざまあみろ」と、北山。
「いい気持だ。焼酎禿のくせに踊子にうつつを抜かしやがって……。あはは……。恥しくねえのか?」
「うむ、いったな」
「どうだ、恥しくねえのか」
「うーむ」
「さあ、さあ、返答、返答!」
「さあ、それは……」
「返答、なんと? なんと?」
「恥しいのは、お互いさまだ。てめえの歳はいくつだと思ってやがるんだ」
「おお、よくきいてくれた。五十だ。隠しはせん」
「隠せるもんか?」
「なにをッ、こののんだくれ!」
「なにをッ、てめえには五円貸してあるぞ!」北山はそう言ったかと思うと、今までその存在を全く無視していた豹一の方を向いて、「君、こいつにいくら借りられた?」
 豹一は彼等のふざけた問答にすっかり腹を立てていたから、それに返辞しなかった。土門が代って答えた。
「三円だ」そう言って、土門は、「紹介しよう」と、豹一を北山に紹介した。「毛利君だ。ほやほやの新聞記者。――こちらはピエロ・ガールスの座附作者であらせられる北山老人」
 よろしくと豹一が頭を下げると、北山は瞬間別人のように改った表情をちょっと見せて、「これは、これは……。何ぶんともに……」と、古風な挨拶をした。
 やがて三人はその喫茶店を出て、歌舞伎座の方へ歩いて行った。いつもはあくどい感じに赤黒く輝いている千日前通も、今夜は雪のせいか、しっとりとした薄明りに沈んでいた。人通もふしぎなくらいまばらだった。豹一は土門や北山のあとに随いて行きながら、顔にかかる雪を冷たいと思った。

    第二章

      一

 東洋新報の編輯長はいつになく機嫌がわるかった。
 この人には子供が十人もあり、最近も五十六の年でありながら妻君に双生児を生ませたということである。二代目春団治に似てひらめのように下ぶくれしたこの人の顔はとぼけた大阪弁が似合っていた。めったに社員を叱ったことがなく、たとえばタイピストなどが仕事の上でひどい失敗をやっても、「もうこんなへま[#「へま」に傍点]やりなや。なんしょ、わてはあんたに肩入れしてるのやよって、叱りとうても叱られへんがな」と、冗談口を敲くぐらいのものだった。誰からも親しまれ、この人の怒った顔を見たこともない社員の方が多かった。この人の顔から機嫌のわるい表情を想像するのは余程困難なのである。
 今日もはじめのうちは、編輯長が機嫌がわるいなどとは誰も気がつかなかった。口をとがらして、しきりにぶつぶつ言いながら編輯長室のなかを歩きまわっているのが、硝子扉ごしに見られたが、まさかそれが怒りを爆発させないために、必死の努力をはらっているのだなどとは、気づかなかった。周章て者は、編輯長が口笛の練習をしているのだと思ったぐらいである。
 編輯次長と社会部長が編輯長室へ呼ばれ、そして出て来た顔を見て、はじめて人々は、おや変だぞと気がついた。両人とも真蒼な顔をしていたのである。
「なんぞおましたか?」口の軽い連中がそう訊いたが、しかし、二人とも答えなかった。まさか、いま編輯長から「良え年してなにぼやぼやしてるねん。そんなこっちゃったら、もう新聞記者をやめなはれ」と言われて来たのだとは、長と名がついた手前でも言えなかったのだ。両人は、いまいましそうに、「土門の奴め!」と、唇を噛んでいた。
 じつは、その日の大阪の新聞が一斉にデカデカと書き立てている記事を、よりによって、東洋新報だけが逃がしていたのである。映画女優の村口多鶴子がキャバレエ「オリンピア」のラウンドガールになったという、いまならさしずめ黙殺されるか、扱うにしても遠慮して小さく扱われそうな記事なのだが、当時はこんな記事が特種として、あらゆる新聞の三面に賑かに取扱われていたのだった。妙な言葉だが、キャバレエはなやかなりし頃であった。それに、村口多鶴子は監督との恋愛事件のいまわしい結果が刑法問題になったという、いわば新聞の見出し通り、「問題の美貌女優」だった。「オリンピア」の支配人がそのネーム・ヴァリューに眼をつけるだけのことはあったのだ。ラウンド・サーヴィスするだけの報酬が、一晩何百円だと新聞に報ずるところも、満更誇張とは思えなかった。それほど有名だったのである。それを東洋新報だけが黙殺したとはなんとしたことであろうか。東洋新報はかねがねこの種の記事で売っており、おまけに「オリンピア」は大事な広告主である。よろしくたのみますと、わざわざ営業部からの依頼もあったのだ。
 編輯長が機嫌をわるくするのも、無理はなかったのだ。しかし、東洋新報ではなにもその特種をわざと黙殺したわけではなかったのだ。社会部長はちゃんと腕利きの記者を「オリンピア」へ派遣したのである。社会部長に手落ちはない筈だ。その旨編輯長に言うと、
「いったい、誰に行かせたんや」
「土門です」
「土門君をここへ呼びなはれ」
 しかし、土門はまだ出社していなかった。実は土門は昨夜写真班と一緒に「オリンピア」へ出掛けたことは出掛けたのだが、「オリンピア」の支配人が新聞記者のサーヴィスに飲み次第の饗応をしたので、よせばよいのにピエロ・ガールスの北山を電話で呼び寄せ、二人で飲みはじめると止らず、かんじんのインターヴィユはそっちのけで、到頭泥酔してしまい、今日は二日酔で休んでいたのである。土門がいないので、編輯長は自然次長と社会部長の両人に当り散らすより外に仕方がなかった。それでなくとも編輯長は土門を叱りたくはなかった。叱っても張りあいのない男だというより、やはり子飼の記者でありながら結局部長にしてやれなかった土門を叱りつけるのは、いわば情に於てしのびなかったのだ。それに、こんな大きな問題は、やはり責任を次長や部長に転嫁して置く方が適わしいのではないか。両人とも良い迷惑だった。ことに編輯長のとぼけた大阪弁も、「新聞記者をやめなはれ」というような言葉になると、冗談にいわれたのであったが、意外な効果を発揮した。彼等は土門の来るのを手ぐすね引いて待っていた。土門は良いとき休んだものである。
 編輯長は一通り怒りを通過させてしまうと、善後策を思案した。営業部からの抗議があってみれば、とにかく「オリンピア」のためにその記事をのせる必要がある。といって今からでは手遅れだ。結局、他の新聞と全然変った扱い方をするのだ。どの新聞でも、「オリンピア」に於ける彼女をインタヴィユしていたが、もはやそれでは二番煎じだから、「オリンピア」がカンバンになってからの彼女の尾行記をものするのだ。誰をその任にあたらしたものかと、編輯長は硝子扉ごしに編輯室のなかを物色した。
 ある者は机の上で夕刊用の原稿を書いている。ある者は電話を掛けている。ある者は新聞のとじこみを見ている。用事のない者は、ストーヴのまわりに集って、がやがやと雑談している。それらの顔をひとつひとつ見て行ったが、どれもこれも適任者と思えるものがなかった。ふと、隅の方に一人仲間はずれて固い姿勢で突っ立っている豹一の姿が目に止った。まるで、何ものかに向って身構えているような、いらいらした姿勢だったので、いやでも編集長の目を惹いた。その美貌にも注意を惹くものがあった。
(あの男誰やったかな?)
 忘れっぽい癖の編輯長は咄嗟には思い出せなかった。
 入社してから半月経っていたのだが、全くの見習記者に過ぎぬ豹一は、仕事らしい仕事も与えられず、ただ意味もなく毎日出社しているだけのことだった。だから編輯長はうっかりと豹一の存在を忘れていたのだった。ところが、いまよく見ると、豹一の印象は群を抜いて異常なものがあった。そんな風に一人ぽつりと離れて、鋭敏な眼を光らせながら突っ立っているのは豹一だけだった。妙に生気が感じられた。
 じつは、仕事らしい仕事を与えられず、ときどき土門に金を借りられる以外は誰からも一顧も与えられなかったので、豹一はうんざりし、かつ何か屈辱を感じていたのである。新入社員のみじめな負目が皮膚にこびりつき、ひとびとの視線が何れも軽蔑の色を泛べているように大袈裟に感じられたので、自然豹一の社内に於ける態度は、醜いほどぎこちなかった。しょっちゅう何糞と力みかえりながら、どこかの隅に突っ立って眼を光らせていたのである。ひとつには、机の数が不足していたので、豹一には坐るべき場所がなかったのだった。
 とにかく、編輯長ははじめて豹一に注目した。思い出すまでちょっと時間が掛った。
(あ、あれか?)とはじめて豹一が新しくはいった見習記者であることに気がついた途端、編輯長はなにかしら満足感を覚えた。入社試験の成績が風変りに良かったことが思い出された。見れば美少年だ。(あの男をひとつ使って見るかな)美少年だから、カフェの女給の尾行に適任だという編輯長の咄嗟の考えは、極めて安易な思いつきだったが、結局人を使うのにこんな安易な公式的なやり方がいちばん無難なのかも知れぬ。
 給仕に呼ばれて、豹一は編輯長室へはいって行った。
「君、いま手が空いているか?」
用事を吩咐る時の編輯長の文句はいつもこれだ。つまりは、人を使うのが巧いというわけだった。ところがこの言葉は豹一にははなはだ面白くなかった。手の空いていない時など、入社以後絶対になかったのである。
「はあ、べつに……」豹一は赧くなった。
「そんなら、ひとつやって貰おうか?」編輯長は豹一の成すべき仕事を説明して、
「こら大任やよって、気張ってやってや」と、念を押した。
 この際なら、どんなけちな仕事にでも豹一は活気づくことが出来たにちがいなかった。だから、大任だという編輯長の言葉は豹一をすっかりのぼせあがらせてしまった。
「いま直ぐ廻ります」豹一は「廻ります」という如何にも新聞記者らしい言葉を使えたことに満足しながら、言った。
「いま直ぐ言うても、カフェは晩にならんと店をあけへんぜ」
 編輯長に言われて、豹一はまるで出鼻をくじかれた想いで、周章てて、
「はあ、そんなら晩に……」と、言った。これもわれながら芸もない科白だった。一層まごついてしまった豹一は重ねて変なことを言った。
「原稿は僕が書くんですか?」
 むろんそんなわかり切った質問をする気は毛頭なかったのである。むしろ、良い原稿を書くぞという意気込みを含ませて、わざとそう言ったまでのことであった。ところが、編輯長にはそれがまるで「なるべくなら、ほかの人に書いてもらいたい。僕には未だ良い記事を書く自信がありませんから……」といっているようにきこえた。編輯長はがっかりしてしまったが、とにかく、「金が要るやろ」と、伝票を書いてくれた。
 豹一はそれを持って階下の会計へ行き、金を貰った。そして再び二階の編輯室へ現れて、壁に掛けてあるオーバをとって着込み、出て行った。その後姿をちらと見て、編輯長は一層失望してしまった。豹一のオーバは母親が無理算段の金で買ってくれたものだが、いわゆる「首つり」という代物だった。日本橋の洋服屋の店頭にぶら下げてある既製品だった。寸法を間ちがえたのか、むやみに裾が長かった。それをひきずるように着て、固い姿勢で歩いて行く豹一の後姿というものは、まるで宝塚少女歌劇の男役としか見えず、どう見ても一人前の新聞記者とは受けとれなかったのである。
 編輯長がそんな風な失望を感じたことは知らず、豹一は滑稽なことだが、仕事を与えられた喜びにすっかり興奮して淀屋橋の方へ歩いて行った。編輯長の前で随分へまなことを言ったことを想えば、どうあってもこの「大任」を果さねばならぬ。豹一はひどく落着きがなかった。淀屋橋まで来たが、足は止まらず、一気に肥後橋まで来てしまった。
 交叉点で信号を待っている間に、豹一はふと村口多鶴子の記事をよむために新聞を買うことを思いついた。朝日ビルの前で一そろいの新聞を買った。そしてビルのフルーツパーラーへはいって片っ端から読んで行った。
 世事にうとい豹一は村口多鶴子に関しては全く無知といって良かった。その名前も編輯長にいわれてはじめて知ったぐらいであった。「罪の女優」だとか「嘆きの女優」だとか新聞の見出しに使われている意味がちっともわからなかった。新聞もそれに就ては詳しく書かなかった。もはや散々報道されつくして、映画ファンでなくても誰でも知っている事実であったから、わざわざ村口多鶴子が「罪の女優」である所以を説明する必要もなかったのである。
 買って来た新聞に全部眼を通したが、結局豹一は村口多鶴子の罪や嘆きに就ては得るところがなかった。(なにが「罪」なもんか?)と、豹一は軽率にも呟いた。新聞に出ている村口多鶴子の顔には、罪とか嘆きとかいった印象は全くなかったのである。「新聞記者の前に語る」――あるいは「テーブルの間を泳ぐ」――村口多鶴子の顔はいちように妖艶とでもいいたい笑いを派手に泛べていた。まるでその写真から笑い声がきかれるようだった。イヴニングの胸のあたりにつけている花が、その笑いを一層はなやかなものにしていた。豹一は「罪の女優」とか「嘆きの女優」とか書いてあるのがどうもうなずけなかった。
(胸に花とはなんだい?)
 ありていに言えば、豹一はその写真に腹を立ててしまった。写真班が無理に笑わせたぐらいのことはわかりそうなものだのに、豹一にはそんな思慮深いところがなかった。だから、全く向う見ずに、花一つのことにも大袈裟に腹を立ててしまったのである。しかし、なぜそんなに腹が立つのであろうか。元来は虚栄心の強い男でありながら、――いやそのためか、豹一は華やかな名とか社会的な地位を鼻の先にぶら下げている連中には、一応は「因縁をつけたがる」というわるい癖があった。自然彼は弱いうらぶれたものに本義的に惹きつけられるのだった。しかし、これを正義感だと一概に片づけてしまうのは、軽卒であろう。なにかしら我慢の出来ぬ苛立った精神が、勝手気儘な好悪感の横車を通しているとでもいうところではなかろうか。いってみれば、彼には鷹揚な気持というものが生れつき備っていなかったのだ。ひとつにはこのとるに足らぬ(――と彼は思った――)女性を、大騒ぎで祭りあげている新聞記事というものに、自分が記者であることを忘れて、苦々しく思ったのである。そして、自分がそういうことを強いられている新聞記者であることを想出すに及んで、一層苦々しかった。(こういうことをさせられるのがおれの役目か?)そしてまた、序でに(おれならもう少し巧く書く)なお、つけ加えるならば、彼がなんの恨みもないのにこんなに村口多鶴子に面白からぬ感じを抱いたのは、彼が今夜彼女に会わねばならぬということも勘定に入っていた。
 その年齢からいっても、また性質からいっても、豹一にとってはどんな女性も苦手だったが、ことにこのどうやら高慢ちきそうな(――おまけに美しいと来ている――)村口多鶴子のような女は体がふるえるほど苦手だと思われた。(この女はおれを軽蔑するだろう)情けないことに、豹一はおじ気がついてしまった。すると、自分が腹立たしくなって来た。豹一はいきなり、なにが怖いもんかと起ち上って、
(勇気を出して会いに行くんだ! なんだ、こんな女ぐらい……)
 喧嘩に出掛ける男みたいに、物凄い勢でそこを飛び出した。が、村口多鶴子に会うまではまだ時間があり過ぎた。

      二

 キャバレエ「オリンピア」の「支配人」佐古五郎は昨日から引続いて、仰々しく燕尾服を着込んで、鼠のように忙しく立ち廻っていた。村口多鶴子のせいである、「支配人」ということにしているのだが、本当は宣伝部長とでもいうところだった。電機の工事人として、しばしば「オリンピア」へ工事に出掛けていたのが縁となって、「オリンピア」の電気掛りに雇われたのが、つい二、三年前のことだったが、いまでは平気で、「支配人」と自称し得るところにまで、「出世」した。所詮ただの鼠ではあるまいと業者でも評判であった。
 事実、才人であったかも知れない。てんで教養のないところなども宣伝部長としては打ってつけであった。普通の内気の人なら想像もつかないようなあくどい宣伝法を採用するなど、電機工あがりの彼を以てしてはじめて出来る芸当であった。たとえば村口多鶴子を「招聘」したことなどがそれである。歌人だとか女優くずれだとか、有名人をキャバレエに「招聘」するのは、宣伝としてはもはや常識になってしまっていることながら、村口多鶴子の場合だけは、業者もあっと驚いた。さすが佐古だと、その図太さには歯の立たぬ感じであった。
 問題の女優として宣伝されていたそのポスター価値を考えてみれば、なるほど一応は思いつけぬこともなかったが、しかしそれだけに一層なにか手の出せぬ感じだった。佐古めやりくさったとは、所詮あとの嘆きだった。一日の報酬何百円だと、そんな金ずくめの話なら、二の足も踏まなかったが、ともかく法廷にも立ち女優もやめねばならないほどの罪を犯した女ではないか。監督との醜関係の後始末を闇に葬ったと、まだ世間の記憶には血なまぐさかった。無罪にはなったというものの、やはり当分は世間へ出ることは憚るべき身である。事実機敏な映画会社でも彼女を引っこ抜くのは、もう少しあとでと思っていたくらいである。そんな村口多鶴子を引っ張り出そうとは、だから抜目のない業者もさすがに憚ったのだ。それを佐古は平気でやったのだ。いまいましいほどの図太い神経だと、業者もあきれたのも無理はなかった。
 図太い神経だけではなかった。執拗な押しの強さもあった。細かい頭の働きもあった。それでなければ、いくらなんでも村口多鶴子にうんといわすことが出来なかった筈である。全くそうした事件がなくとも、キャバレエに出ることなど自他ともに想像も出来ないような女だった。附焼刃にしろ、教養のある女優といわれていた。知性の女優とよばれていた。それゆえに人気もあり、また事件も一層大袈裟に騒ぎ立てられたのだ。事件のあとで歌など作っていた。だから、けっして彼女から、売り込んだ話ではない。わかりきったことである。佐古が持って行った話だ。当然のこととして、彼女ははねつけた。泪を流した恨めしそうな眼で、じっと佐古をにらんだのだ。普通の神経をもった男なら、それきりで諦めた話だった。ところが佐古にはそうしたものが欠けていた。
「あんたの人気を維持するためじゃおまへんか、それに、いま引っ込んでしもては、一生女優として立てなくなりまっせ。なにも、いつまでも居て貰おうとは思てしまへん。ここでの話でっけどな、うちの経営者が△△キネマを買収する計画を樹てていますねん。こら誰にも言わんといとくれやすや、その暁はあんたに一枚看板になって貰わんならん。芸術映画ちゅうもんをやりまっさかいな、どうしてもあんたみたいなひとに出て貰わんならんのや。つまりやな、あんたは△△キネマの舞台挨拶にでも出るのや思てくれはったら、よろしおまんねん」
 こうした嘘八百のことを佐古は前後四、五回にわたって、徐々に彼女に説明したのだ。彼女の映画界復帰の夢に希望をもたせたところはさすがであった。佐古は彼女を説き伏せるために、あらゆる手段をえらんだ。彼女の老いたる母親は何のことかわからぬ理由で、白浜温泉へ招待されたりした。女中のところへ身分不相応の品物がデパートから届けられた。母親、女中と三人ぐらしの彼女の生活費は、最近切り詰めてはいても、やはり相当な額だった。かつての人気女優の生計の苦しさというものは切ないものだったが、しかしこれも二ヵ月にわたって、「オリンピア」の会計が無理矢理に彼女の手に渡した。その額は女中の見積りによるもので、多くもなし、少なくもなし、全くあきれるほどの正確な額だった。
 そうまでされては、彼女ももはや断り切れなかった。むろん、頼みもしないのに、いや、それどころかそんな理由のない金は受け取れぬと、ヒステリックに拒み続けていたのに、まあ、まあと無理に渡されたのだから、彼女は腹を立てていた。しかし、そうした佐古のやり方も、もしこれが教養のある人間がやったことだったなら、彼女のなかにある教養がそれに反撥したことであろうが、佐古のような人間がやったのであってみれば、彼女も顔を赧らめることが少しで済んだ。こういう下卑た人間の前では、女というものは、異国人の前に於けるように、いくらか羞恥心を忘れるものであろうか。ともあれ、彼女は佐古のやり方にだんだん馴れて来て、そんなに腹も立てなくなった。むしろ佐古をさげすみ、微笑を以て佐古の勧誘の言葉をきくようになった。佐古は遂に成功した。
 二ヵ月にわたる口説き落しの努力が報いられたので、さすがの佐古も余程嬉しかったと見えて、自祝の意味もあり、多鶴子がいよいよ「オリンピア」に現れる晩、それは昨夜だったが、燕尾服を着用したのである。おまけに佐古はこともあろうに、多鶴子とおそろいの真紅の薔薇を、燕尾服の胸にぶら下げたのである。しかし、誰もこれを莫迦莫迦しいこととも思わなかった。いや、注意すらしなかった。人々は美しい村口多鶴子にすっかり惹きつけられてしまい、ある者は感嘆の余り異様に興奮し、佐古なんかに注意をはらう余裕なぞてんで無かったのであった。
 大成功だった。彼女を招聘するために佐古が惜し気もなく使った機密費の額に最初文句をつけ通しだった経営者も、純白のイヴニングの裾さばきも軽やかな、匂うばかりの村口多鶴子を見た途端、慾も得も忘れてしまった。いや、それを想い出したところで、客止めの盛況を見ては、文句のなかったところだ。
「良え女子を入れてくれたな」経営者は佐古に一言だけ感謝の言葉を与えた。
 この一言がしかし佐古をぎくりとさせた。経営者の眼は多鶴子の胸から腰へ執拗に注がれていた。音を立てるような視線だった。(覘てけつかる)佐古はすっかり狼狽してしまった。
 実は佐古が村口多鶴子を「オリンピア」に招聘するために涙ぐましいほどの努力をはらったのは、慾得をはなれた考えからであった。電機工をしていた頃、彼の菜っ葉服のポケットには村口多鶴子のプロマイドがはいっていたこともあった。といって、はじめのうちはべつに取り立てて彼女ひとりに憧れていたわけではない。たいていの美しい女優ならいちように心をそそったものだ。むろん女優に限らなかったろう。ただ、偶然彼女のプロマイドを拾ったというだけの話だった。が、ポケットから出して、つくづく見れば良い女だと思った。こんな女をとひそかに夢を描き、悩ましく思いつめるようになった。トーキーで声をきいて一層心を惹きつけられた。無理にそんな声を出しているとしか思えぬ、しわがれた悩ましい声は、なにもかも知りつくしたような円熟した女の底の深さを囁いて、佐古の好奇心を刺戟した。
 だから、彼女を招聘するために、自分でも不思議なほど熱心になれたのだった。経営者の眼の色に彼女への野心を見て、狼狽したのも無理はなかった。なんのことはない、経営者の好奇心を満足さすため努力したようなものだと、佐古はがっかりしてしまった。
 売り上げの額がいつもの三倍にもなった大成功ながら、佐古は昨夜欝々としてたのしまなかった。(おれが儲けるわけではあらへん)全部経営者のふところにはいる金だと思えば、阿呆らしかった。おまけに、村口多鶴子も経営者の女になってしまうのだ。いまいましかった。
 他の人は知らず、経営者にだけは佐古も頭が上らなかった。張り合う気などとても持てなかった。可哀相に佐古は昨夜一晩中無気力な嫉妬に苦しんで、眠れなかったぐらいであった。が、今夜の佐古は昨夜よりいくらか変っていた。村口多鶴子を諦めるのは未だ早いと思ったのだ。諦めるわけもなかった。経営者と張りあう気持が少しだが生れて来たのだった。いわば、経営者へのひそかな反抗だった。この反抗心は今日店へ来て多鶴子の姿を一眼見た途端、いきなりふくれあがったのだ。
(経営者も糞もあるもんか? 馘首にするならしやがれ。ここを追い出されたっておれは水商売仲間ではつぶしがきく男や。それに、あの女をおれのものにしたら、あの女でおれは食って行けるのやないか)そう思うと、もう佐古の足は自然に動き出して、多鶴子のいる客席の方へ歩き出した。「いらっしゃいませ」
 佐古はまず客の方へ挨拶して置いてから、揉手の手をほどき、多鶴子の肩をとんと敲いて、「ちょっと」柱のかげへ呼んだ。
「……? ……」固い表情で多鶴子は寄って来た。強い香水の匂が佐古の鼻の穴の毛をふるわせた。すっかり興奮してしまった佐古はわれを忘れて、ぐっと多鶴子の体へもたれかかるようにしながら、多鶴子が擽ったくて我慢が出来ぬほど耳近く口を寄せて、
「あんたに注意してかんならんことがあるのや。気になってたのや。あのな、おやじを警戒しなはれや。あんたのため思ていうたげてんねんやさかい、よう心得ときなさい」
「ありがとう」多鶴子はひらりと身をひるがえして、元の席へ戻った。
 多鶴子には、佐古が言った「おやじ」とは誰のことか咄嗟にわからなかった。が、わかろうともしなかった。警戒すべきは「おやじ」だけではない。どの男だってそうだ。昨夜一晩でうんざりするほど経験させられたのだ。わざわざ呼んでそのような忠告を親切めかす佐古だって警戒すべき一人だと、いえばいえないこともないのだった。そういうことを言われるのも、役目のひとつかと、多鶴子は悲しい心を押えて極めて事務的にきいたまでであった。
 しかし、佐古は多鶴子の「ありがとう」という言葉にすっかりのぼせあがっていた。(あの女はおれに感謝してくれとる。あの女は支配人のおれに頼ってくれとる)そう思って、にやにやしていた。佐古のような抜目のない人間でも、いったん女に惚れるとからきしだらしがなくなっていたのである。(ざまあ見てけつかれ!)佐古は心の中でひそかに経営者に向って舌を出した。丁度その時、ボーイがやって来て新聞記者の来訪を伝えた。
「新聞記者?」佐古は眉をひそめた。
 新聞記者連には昨日招待状を出し、随分と饗応してやったのだ。おかげで今日の朝刊にはデカデカと村口多鶴子の記事が写真入りだった。宣伝にはなったと、佐古はその効果を一応は喜んだ。しかし、今の佐古としてはなにか人眼のつかないところへ多鶴子をそっとして置きたい気持であった。騒ぎ立てられるのが怖いのだ。多鶴子を張りに来る客はいまはどいつもこいつも恋敵なのだ。もう新聞記者には用はないのだ。佐古は舌打ちした。
「どこの新聞記者や?」そう言いながら、ボーイのもって来た名刺を見た。
  東洋新報記者 毛利豹一
 毛利豹一という名刺には全然記憶はなかったが、東洋新報という四字を見ると、佐古には思い出されるものがあった。今朝、佐古は多鶴子の記事を読むために、一つ残らず大阪の新聞へ眼を通した。一つだけ、全然多鶴子のことを書いていない新聞があった。それが毎週「オリンピア」の広告を出してやっている東洋新報だと知ると、その時佐古はまだ多鶴子の宣伝に情熱をもっていたから、大いに憤慨して、早速東洋新報の広告部へ電話で抗議したのだった。
 その怒りが今もなお佐古の心の中に残っていた。佐古は名刺を握りしめたまま、入口の方へ駆けつけた。ボーイはあとを追うて、
「こっちの方です」
 出入商人や従業員が出はいりする勝手口の方を指さした。

       三

 わざと閉店近くの夜十一時過ぎ、豹一はひきずるように着た長いオーバーのポケットに両手を突っ込んで、「オリンピア」の前へ現われたのだった。
 ジャズバンドの音が気おくれした豹一を押しのけるようになかからきこえて来て、道頓堀のアスファルトを寒く乾かしていた。
 なんということか、豹一は何度かためらった挙句、ボーイや女給たちが並んでいる正面の入口からはいる気がせず、「男ボーイ入用」「雑役夫入用」「淑女募集」などの貼紙が風にはためいている勝手口から飛び込んだ。
 そこにボーイがいて「なんぞ用だっか」とじろりと見られた。あるいは、若い豹一を見てボーイに雇われに来たのだと思ったのかも知れぬ。豹一のようないくらか蒼ざめた、顔かたちの整った青年は、ボーイにうってつけなのだ。
「新聞記者のものですが……」うろたえた豹一は、「新聞社のもの……」というところを、そんなへまを言ってしまった。
「名刺もったはりまっか」
 なるほど新聞記者は先ず名刺が要ると土門がいったのはこれだったかと、豹一は正直に作って置いた莫迦に小型の名刺を出した。ボーイはちらとそれを見て、
「はあ、さいですか? いま係の方に来てもらいまっさかい、ちょっとお待ちなすって……。さあ、どうぞ、お掛け下さい」
 名刺の効果はてきめんだった。ボーイは急に言葉使いを改め、椅子をすすめた。そして、陰気くさい溜り部屋のドアを押して出て行った。ドアをひらいた拍子に、はなやかなキャバレエの内部がぱっと見えた。豹一は妙に緊張した。
 暫く待っていると、燕尾服の胸に薔薇の花をつけた男が下品な感じの顔をぬっと出した。
「私佐古です」そう言ったかと思うと、いきなり、「あんた、東洋新報の方でんな?」と呶鳴りつけるように言った。
「はあ」豹一は相手の顔をしげしげと観察しながら、答えた。
「あんたとこはけしからん」佐古はどう見ても駈出しの新聞記者としか見えぬ、子供っぽい豹一をなめて掛ったのか、のっけ[#「のっけ」に傍点]から喧嘩腰だった。「なんでうちの記事を書いてくれはれしまへんねん。よそさんは皆書いてくれはりまっせ。ほんまにけしからん。書かんのは君とこだけやぜ。どないしてくれる気や?」
 豹一はむっとした。「だから今日こうしてわざわざ来てるんじゃないですか?」豹一は「わざわざ」に力を入れて、そう言った。その調子にはまるで豹一の外観からは想像も出来ぬ、鋭いものがあったから、さすがに佐古は、「今日来ても手おくれや」とは口に出せなかった。
(駈出しの癖に威張ってくさる。こういうのがかえってうるさいのかも知れぬ)下手に怒らしてはあとが怖いと、佐古は咄嗟に考えた。(こういう青っぽい駈出しが、得てしてあと先も見ずに慾得もなしに、無茶なゴシップを書きくさるのや)
 佐古の顔は急にほころびた。
「それはよう来てくれはりました。さあどうぞ!」まるで打って変ったようにぐにゃぐにゃした佐古は、そう言って豹一をドアの外へ連れ出した。
 眼も痛むような明るい光線がジャズの喧噪に赤く青く揺れている社交場が、眩しく展けていた。豹一はもう何ものも眼にはいらぬような興奮した状態になって道頓堀に面した窓側のテーブルへ連れて行かれた。
「さあ、どうぞ!」佐古はソファの方へ掌を出した。
 豹一は虚勢を張りながら、いきなりどすんと腰を下したが、スプリングがついていたので、危く転りそうになった。かなり済ましこんでいたので、ぶざまなことにはちがいなかった。佐古の眼が笑ったと、豹一は咄嗟に思った。
 佐古は豹一がやっとソファの奥深く収ってしまうのを見届けてから、「では御ゆっくり……」と言って、眼ばかりぎょろぎょろ光らせている豹一をそこに残して、立去ってしまった。
 やがて、ボーイが現れて、テーブルの上へ爪楊子入れのようなちっぽけなグラスを置き、それに洋酒を注いで立去った。ビール罎やコップが載っているのならともかく、そんなちっぽけなグラスがぽつりと大きなテーブルの上に置かれた図は、いかにもわびしかった。じっとそれを見ていると、豹一はなんだか恥しくなって来た。豹一は照れかくしにそのグラスを手に取って、一気にそれを口へ流しこんだ。
「あ!」ジンだった。舌を咽喉をさす強烈な刺戟に、豹一は眼の玉までやけるような気がした。驚いて、下を向き床の上へこっそり吐き出していると、ふっと衣ずれの音がして、生温い女のにおいが閃いた。顔をあげると、白いイヴニングを着た女がすんなりとテーブルの横に立っていた。
(村口多鶴子だな?)と、豹一は直感した。
「やあお待たせしました、村口さんです。――こちらは新聞社の方……」傍についている佐古は器用に掌を使いながら、そう紹介した。
「どうぞよろしく」仮面のように笑いを釘づけながら、村口多鶴子は妙に重みのあるしわがれ声で挨拶した。
「はあ……」豹一は情けないほど小さな声が曖昧に出ただけで、われながらぎこちなかった。なんだか胸がどきどきした。醜態にも酒を吐き出しているところを見つけられたと、眼が霞むほど赧くなってしまった。
「失礼します」と多鶴子はそう言って、豹一の向い側に腰をおろした。微笑の膠着したその顔は明かに、豹一の質問を催促していた。
(いよいよ喋らねばならない!)豹一はテーブルの上の空のグラスを手にとって、神経質に弄んでいた。
 佐古はそれを見ると、豹一がお代りを催促しているのだと、感ちがいして酒を取りに行くべく、その場をはずしてしまった。あとには豹一と多鶴子は無意味に残されて、物も言わずに向き合っていた。目まぐるしく交錯する赤、青の光線が思い切ってはだけた多鶴子の白い胸を彩っていた。多鶴子の顔が正視出来ないので、豹一は自然胸のところばかり見ていたが、赤く染められた胸の静脈が急にぴりりと動いた。そして、多鶴子は微笑の仮面を不意にはずして、眉をひそめた表情になった。余り豹一が黙ってばかしいるので、多鶴子もいらいらして来たのである。しかし、豹一はなおも口が利けなかった。どんな風な質問をして良いのか、さっぱり見当がつかなかった――というよりも、むしろ気遅れがしていたので。
 多鶴子は莫迦にされているような気がした。無躾に質問される方が未だしもだと、思うぐらいであった。多鶴子はふっと顔をそむけて、窓の外を見た。道頓堀川の暗い流れに、「オリンピア」のネオンサインの灯影が歪になって、しきりに点滅していた。寒々としたながめだった。(なぜこんなところに働く気になったのだろうか?)改めてそのことが後悔された。昨夜から引続き、泣きたいぐらいの気持であった。自分の人気への自信や顧慮というものがなかったならば、とってつけたような笑い顔など、みじめ過ぎるところではないか。うかうかと佐古の甘言に乗ったという想いが強かった。彼女の教養はこの「紳士の社交場」に於ける自分の姿をきびしく批判していた。蝶々のように客席から客席へ飛びまわっている自分の姿を、先生が見たらなんと言うだろう? 中途退学だが、彼女は広島県のある女学校へ通っていたことがあり、その時可愛がってくれた先生はアララギ派の歌人だった。因みに彼女はアンドレ・ジイドが愛読書だと、かつて映画雑誌のハガキ質問に答えたことがあった。
 彼女は余っ程席を立とうかと、思った。そんな彼女を僅かに引止めたのは、豹一の少女のような睫毛の長い美しい顔だった。ぶくぶくのオーバーの下に大人に成りきらないきゃしゃな体がかくれているのかと思うと、彼女は本気になって腹を立てることも出来なかった。生毛まで赤くして、何か言おうと力んでいるさまを見ると、彼女は、ふっとおかしくなり、
「あのウ、社はどちらですの?」随分好意を示したのだった。
 ところがその時豹一は、口も利けずにいる情けない状態から逃れ出るために、散々苦心した挙句、昼間新聞を見てむやみに彼女に腹を立てていた時の気持を無理に呼びおこして、(この女に口も利かないなんて、お前は軽蔑に価するぞ! なんだ、こんな女ぐらい……、じかに見れば年増じゃないか?)[#「)」は底本では「」」と誤記]と、ひそかに喧嘩腰になって、カッと眼を光らせていたところだった。だから、多鶴子の方から先に言葉を掛けられて見ると、物事にこだわり易い豹一は、先を越されてしまったと、ますます屈辱を感じてしまった。自然、多鶴子の問に答える豹一の言葉は普通のなまやさしい答えでは済まされない筋合いになっていた。
 ところが、運良くそこへ佐古が洋酒の瓶をもって現れたので、豹一は苦しい気持を押してまで失敬なことは言わずに済んだ。
「どないだ? 東洋新報さん。ネタがとれましたか?」
 佐古が「東洋新報さん」といってくれたので、豹一はもう多鶴子に答えなくも良いとほっとして、
「はあ、とれました」と、思わず言った。多鶴子はその言葉にあきれてしまった。その顔を見ると、豹一もさすがに、(嘘をつけ!)と、苦しかった。
「そんならもう酔ってもよろしいな。一つ、行きましょう! こら、誰にも罎にもさわらさん内緒の洋酒でっさかいな、じイわり味わうとくれやす」
 ボーイの手を借りずにわざわざ持って来てやったのだという顔で、佐古は豹一のグラスに注ぎながら多鶴子に目くばせした。多鶴子は心得て立ち上り、
「どうぞよろしく」席をはずしてしまった。豹一はあわてて、
「はあっ!」と、わけのわからぬ掛声を挨拶がわりに唸りあげて、多鶴子の後姿を見送った。
「さあ、いただきまひょ」佐古は飲めと催促した。豹一は眼をつむって、噛みちぎるように、一気に飲み乾し、グラスを佐古の手に渡した。
「凄い! 凄い! お水は……?」
「結構です」実は欲しかったのだが、わざわざ言われると、持前の負けずぎらいからそう答えざるを得なかったのだ。
 余程悪質のジンだと見えて、急激に廻って来た。豹一は醜態を見せぬ内にと思い、
「お忙しいところをどうも……」ぶらんと頭を下げて、わりに新聞記者らしい言い方でそういうと、ふらふらと「オリンピア」を出て行った。
 出ると、寒い風がさっと来た。肩をすくめた拍子にぐらぐら目まいがして、道頓堀の灯が急に真っ白にぼやけて、視線になだれこんで来た。かと思うと、いきなり遠ざかり、頭の中を赤い色が走った。
 無我夢中で食傷横町の狭くるしい路次を抜け、法善寺の境内にぽかりと出た。凍てついた石畳の上にぽつんとベンチが置かれてあるのを見て、豹一は這うようにして、それに腰を下ろした。途端にげっと吐き気を催した。動物的な感覚がこみあげて来て、豹一はたまり切れずげッ! ばッ! とやった。石畳の上へ吐きだされた汚物からかすかに湯気があがるのを見ながら、豹一は今夜の仕事が未だ残っていることをふと想った。金刀比羅天王の赤い提灯がひっそりと揺れていた。

      四

 夜の一時を過ぎると、気の早い拾い屋が道頓堀通のアスファルトへ手車を軋ませながら、薄汚い姿を現わす。それと前後して、どこから集って来たのか、おびただしい数の自動車が夜中の葬式のようにずらりと並ぶ。カフェの灯がぽつりぽつりと消されて行って、やがてあわただしい暗さがあたりに漂うと、アスファルトは急に凍てついた白さに冴える。そんな暗さの中に最後まで残っていた「オリンピア」の灯も、やがてひとつひとつ消されて行き、ほの暗くなった表口からショールにくるまった女給たちがぞろぞろと出て来て、寒い肩をすぼめていた。ひとり毛皮の外套を着た女がすらりとした長身で、飛ぶように出て来て、五六台並んだいちばん前の車に駆け寄った。
 扉がひらいた。
「さあ、どうぞ!」そう言ったのは、中折を阿弥陀にかぶった佐古だった。
「お送りしまひょ!」その言葉にその女はステップから足をおろした。
「あらいいんですの」村口多鶴子だった。
「まあ、まあ、ちょっとその辺まで送らしとくれやす」そう言って、佐古はいきなり多鶴子の耳に顔を寄せ、
「早くせんと経営者が来まっせ」意味あり気に囁いた。
 その言葉と佐古の掌に押されて、多鶴子はさっと車内へ飛び込んだ。佐古はあとに続いて、中腰のまま扉を閉めながら、「帝塚山まで……」と、なかば多鶴子にきかせる気持で、運転手に命じた。多鶴子は佐古の言った行先に安心したさまで、はじめてクッションの奥へ体をずらした。そして車が動き出すと、習慣でコンパクトをちらと覗いた。眼尻の皺が夜更けの時間を見せていた。(今日いちにちの役目もやっと済んだ!)
 しかし、未だ済んでいない者があった。佐古と、もうひとり豹一だ。
 豹一は寒い風に吹かれながら、多鶴子が「オリンピア」から出て来るのを、浮かぬ顔で待っていたのだった。女給帰りを待ち受けているらしい男たちにまじっていると、(なんという仕事か?)と、むかむかして来た。しかし、やっと多鶴子が出て来ると、さすが豹一ははっと緊張した。なるべく多鶴子に見つけられぬようにと、後の方に並んでいる車のかげにかくれたが、多鶴子はむろんそんな方へは一瞥もくれず、さっさといちばん前の車に乗ってしまった。豹一はあわてて、「あの女の車をつけてくれ!」と、言いながら、運転手の返辞も待たずに飛び乗った。オーバーの長い裾が邪魔になって、文字通り転ったが、しかし眼だけは多鶴子の車から離さなかった。
「早くやってくれ!」多鶴子の車が動き出したので、豹一は気が気でなかった。
 運転手はしかしのろのろと扉を閉めながら、
「どこまででっか?」
「何べん言わすんだ? あの車をつけてくれ。あの女の車」豹一は、こいつは耳が遠いんだと思うことによって腹立って来る気持を押えることにした。「早くやってくれ!」
「そない急かしたかて、前がつかえてまんがな」
「後へ下れば良いじゃないか?」豹一は到頭腹を立てた。
「後へ下ったら、二つ井戸まで行ってしまいまっせ。なんなら高津さんまで行きまひょか」
 ここで喧嘩していては、多鶴子の車を見失うと思ったので、豹一は、
「頼む、早くやってくれ!」と、下手に出た。この「頼む」という言葉でやっと動き出した。そして巧みに他の車の間を抜け出た。
「金はいくらでも出す!」この言葉をもっと早く言うべきだった。急にスピードが出た。そして、徐々に前方の車との距離を詰めて行った。豹一はほっとした。が、相かわらず中腰のままだった。
 多鶴子の車は道頓堀通を真っ直ぐ御堂筋へ出てナンバの方へ折れて行った。カーブした拍子に、多鶴子はちらと眼をあげて走っている方角をたしかめたが、すぐまたコンパクトを覗いた。つまり、そうして居れば、佐古の相手にならなくても済むのである。車は電車通に添うて日本橋筋一丁目の方角へ折れて行った。
 やがて車は日本橋筋一丁目の交叉点を霞町の方へ折れて行った。豹一の車もあとに続いていた。
 多鶴子の車が霞町から天王寺公園横の坂を登って行くと、佐古は、
「寒い、寒い、隙間風がはいって来よる」と、言い出した。そして、坂を登る動揺を防ぐために、半身乗り出して運転台の方へ寄り掛っていたが、いきなり、「そこを閉めてくれ!」といいながら、運転台の横の窓ガラスを閉める真似をした。真似をしたというのはじつははじめから閉っていたからである。その動作の咄嗟に、佐古は五円紙幣を運転手の膝の上へ落し、何やら囁いた。
 多鶴子はおやと思った。その瞬間、車は阿倍野橋まで来たが、彼女の住居のある帝塚山へ行くべく右へ折れずに、不意に左へ折れてしまった。迂回するためかと思ったが、車はそのまま真っ直ぐ天王寺の方へ走って行った。そのかすかなタイヤの軋みを多鶴子ははっと不気味にききながら、
「方角がちがってよ。運転手さん! 引きかえして頂戴!」思わず叫んだ。
 しかし、佐古の意を察している運転手は、よくあることやと苦笑しながら、それに耳を藉そうとはしなかった。
「佐古さん!」多鶴子は佐古の顔をきっとにらんだ。「車を引きかえして頂戴!」
「そら無茶でっせ。わてはなにも運転手さんやあらへん。引きかえそうにも、わてが運転するわけにいきまへんがな」済ましこんでそう言うと、あははと、多鶴子の白い眼へ笑いをかぶせた。多鶴子は叫び出しそうになったが、さすがにかつての人気女優だった。やっとこらえて、十分用心深い表情のまま、じっと車の方向を見つめていた。
 阿倍野橋から二町も行った頃だろうか、いきなり車が停った。運転手は素早く降りて、「清川」と門燈の出ているしもた屋風の家へはいって行った。それがどんな商売の家であるか、多鶴子には直ぐわかった。古びているが、映画のセットにこれとそっくりの家が出て来る。
 運転手が出て来るまで、佐古はこの男に似合わぬ神経質な手つきで、煙草を吸っていた。電機工の時分から憧れていた此の美しい女優を自由にすることが出来るといううずくような期待から、さすがにぶるぶるふるえが来たのである。多鶴子は佐古の隙をうかがって逃げるという、映画的な場面を頭に描いた。
 運転手は直ぐ出て来た。そして、佐古に眼くばせして、扉をあけた。佐古は先に降りて、「どうぞ」と、莫迦ていねいに運転手の傍に立って、多鶴子を促した。
 じっとクッションの隅に身をすくめていることは、多鶴子の矜恃が許さなかった。多鶴子は黙ってうなずき、車の外へチョコレートの靴下に包まれたすんなりした足を伸ばした。佐古は身ぶるいした。蒼ざめた多鶴子の顔は、佐古の眼にも凄いほど美しく見えた。佐古はなんだか大それたことをしているような気がするほどだった。
 その時、豹一の車がぎいとにぶい音を軋ませて、辷りこんで来た。そして停った。
「あ、いかん、停めたらいかん!」豹一は思わず叫んでいたが、頓間な運転手は多鶴子の車を掴えることばかしに気を取られていたので、豹一がそう叫んだ時、既にまるで当然のようにブレーキを掛けてしまっていた。
(まずいところで停めやがった!)尾行して来たのをわざわざ知らせるようなものではないかと、豹一はいきなりオーバーの襟を立てて、顔をかくそうとしたが、多鶴子は素早くそれを見つけて、「あ!」かすかに叫び声をあげた。
(あ、この人は……)インターヴィユを取りに来て一言も喋らなかったという点だけでも、記憶に残るに充分だった。(あの新聞記者だ!)咄嗟に想い出すと、多鶴子はなんのために豹一がそんなところへ現われたかを考える余裕もなく、突然身をひるがえすと、豹一の車へ駆け寄った。
「乗せて下さらない?」そして、返辞も待たずに、豹一の傍へ転り込むように飛び乗ってしまった。
 柔い腰の感触がいきなり豹一の体を敲いた。思わず身を避けた拍子に、強い女の香がぷんと鼻に来た。豹一は一層周章ててしまって、咄嗟に口も利けなかった。
「こら、待て! 待ちくさらんか!」驚いた佐古がそんな芝居掛った科白を、地金の柄のわるい調子で言った時、豹一の車は多鶴子を乗せたまま、再び深夜の街へ走り出していた。
 豹一も多鶴子も運転手に「走れ」と命じたわけではなかった。ただ運転手が咄嗟の機転を利かせたのだった。彼は豹一の顔から察して豹一を多鶴子の情人だと、簡単に決めていたのである。だから、命じられなくても、充分、心得ていたわけだ。

      五

「あ、そこで停めて頂戴」
 小綺麗な洋風のこぢんまりした住宅の前まで来ると、多鶴子は車を停めた。
「ここですの。私の家……」そう言って、多鶴子はクッションから腰を浮かせながら、「どうもありがとうございました」
 豹一に礼を述べかけた拍子に、(そうだ! この人を家へ案内しよう)だしぬけに思いついた。
 謝礼の意味からいっても、その必要はあるわけだと思った。わざわざ送ってくれた人を、帰らすのは失礼にあたると、多鶴子は自分に言いきかせたが、じつはこのまま帰らすわけにはいかぬわけがほかにあった。今夜新聞にかかぬように頼むということが残っていたのだ。
「御迷惑でしょうが、寄って行って下さいません? 夜分のことでなんにもおもてなし出来ませんけれど……」多鶴子はそう言った。
 そんなことを言われると夢にも思っていなかったから、豹一は不意打をくらった気持でぱっと赧くなり、
「いや、ここで失礼します」正直な返事だった。じつは豹一はここまで同乗して来るのさえも、窮屈で仕方がなかったのである。この上、家のなかまではいって息のつまるような気持を味わせられるのは真平だと思ったのだ。運転手が羨んだ車中も、豹一には長い道中だった。やっと車が停って、折角やれやれと思ったところではないか。全く運転手に金を払うということさえなかったら、途中でも逃げ出したい気持だったのだ。
 ところが、その金は多鶴子が当然のように素早く運転手に渡してしまった。運転手はじつは「金はいくらでも出す」といった豹一から貰いたかったのだが、多鶴子から渡された金を見て、ひどく満足した。
(男ならこんなに呉れるまい)運転手は金を貰った以上、豹一だけを乗せてもう一度走るのは損だと思った。二重取りもさせないほどの多額の金だったのである。それに、二重取りしたくとも、出すまい。「さっき女に貰ったじゃないか」と着いた時いわれるにきまっている。そう思ったから、運転手は、豹一がなんといっても走らなかった。
「もうガソリンが切れてまんねん。どこまででっか?」
「下寺町だ」
「入庫の方角と違いますわ。あきまへん、降りとくなはれ」結局、豹一は降りざるを得なかった。
 車は後戻りすべく、夜更けの空気のなかに爆音を響かせて、不格好に迂回しはじめた。ぽかんと突っ立っていた豹一は周章てて飛びのいた。自然、豹一は多鶴子の家の玄関に近寄った勘定になった。
「どうぞ!」多鶴子が言った。
 豹一は多鶴子の言うままになるより仕方なかった。そんな夜更けの住宅地では、もう帰る車を拾うのも容易ではないと諦めた。しかし、その夜更けという点で、豹一もこだわっていた。「夜分のことで……」と、さっき多鶴子も言った筈だった。が、豹一は、僅かに仕事という点を自分への口実にすることが出来た。ひょんなところで新聞記者であることを自覚するところを見れば、まだまだ豹一は新聞記者ではなかった。
 自動車の音でそれと気づいたらしく、玄関に灯がつけられた。
「只今!」多鶴子が声をかけると、
「お帰り遊ばせ」なかから女中の声がして、戸をひらいた。
「どうぞ! お先に……」
 言われて、豹一が玄関にはいると、女中が頭を下げていた。そろえて下しているその手を見て、豹一はおやっと思った。痛々しく赤ぎれて、ところどころ血がにじんでいるとも見えた。豹一はだしぬけに母親のことを想い出した。胸がしめつけられる思いだった。
 多鶴子は女中に命じて、豹一を応接間に案内させると、階下の日本間にいる母親のところへ顔を出した。
「お帰り」母親は長火鉢の前に背中を猫背にまるめて、ちょこんと坐っていた。
「未だ起きていらしたの?」
「いや。いま寝ようと思っていたところだよ……」母親はなにか狼狽して、「……炬燵が熱すぎたので、外へ出して冷ましてから寝ようと思って……」
 そんな風に弁解する母親が、多鶴子はおかしいと思うより、むしろつんと胸にこたえて悲しかった。昨夜も多鶴子が帰るまで寝ようとしなかった。長火鉢の前でじっと坐ったまま、欠伸ひとつせず待っていてくれたのかと、多鶴子はそんな母親の心配がむしろ悲しく心配しないでも良い、大丈夫だ、さきに寝ていてくれと、あれほど言ったのである。ところが、やはり今夜も起きて待っていた。そして心配の余り寝られなかったという気持をごまかすために、炬燵なんかひきあいに出しているのだ。以前はこんな風ではなかった。撮影の都合で帰宅がおくれるなど珍らしくなく、思いがけぬ徹夜撮影で家をあけることさえあったのだが、わざわざ電話で断るまでもなく、母親は安心して寝ていたのである。
 女優になる前ダンサーをしていた頃もそうだった。ダンサーになりたての頃、一度無断で家をあけたことがあった。女友達の下宿で長話をしている内に電車がなくなり、泊めてもらったのだが、夜なかに公衆電話が掛って来た。母親から掛けて来たのだった。事情がそれとわかって、母親はほっとしたが、それでも余程周章てたと見えて、娘に靴を買ってやるべくいれて置いた金を財布ぐるみ公衆電話のなかへ置き忘れてしまった、――心配したのはあとにもさきにもその時だけで、以後帰宅がおそくなっても安心して居れたのである。信用していたのだ。
 それが、例の事件があってからは、もう娘の身辺が心配で心配でたまらなくなった。ことにオリンピアへ出る昨日今日がそうだった。事件が一段落すんで、やれやれと骨身を削られて細った肩をなでたのも束の間だ。もう男たちの遊び場所へ顔出ししなければならぬようになってしまったのだ。二度とあんな間違いは起してくれるなと、「只今」という多鶴子の声をきくまでは、長火鉢の傍も離れられないのだった。
 そんな風に心配されているのかと思うと、多鶴子はなにかたまらなかった。しかもそうして心配している顔をかくそうとする母親の気持がわかるだけに、一層たまらなかった。
「莫迦ね。早く寝みなさいな」しかし、母親はすぐには起とうとしなかった。なにかおろおろとして多鶴子の顔色をうかがっているのだった。
 母親は今夜誰か男の客があることを、敏感に知っていた。思わず二階の方へ聴耳が立って行くのだった。無理もなかった。こんな夜更けに男の客なぞここ二年ほど絶えてなかったのである。二年前にはあった。いきなり夜おそく訪ねて来て、多鶴子に紹介された。それが監督の矢野だった。いつも多鶴子がお世話になりましてと、ぺこぺこ頭を下げると、ああ、ああと鷹揚にうなずいていたが、その鷹揚さは多鶴子を人気女優に仕上げてやった監督としてのそれよりも、既に多鶴子の心身を自由にしてしまっているという強味に裏づけされていた。残酷な尊大さで、矢野は、「あんたも良い娘を産みなすったな」と言っていたが、その晩黙って泊って行った。それからもちょくちょく来た。きけば矢野には妻子もあるということで、その人達にも済まぬことだとひそびそと多鶴子に迫っていたが、多鶴子は、なにいいのよ。そう言っている内に、ふと多鶴子の体の異状に気がついた。もはや、ものも言えず、悲しい眼付きで娘を見ていたが、やがてそれが思い過しだったと、ほっとした途端に、なんとしたことか、娘が警察へ呼ばれた。あとでその理由がわかり、そんなことをさせる位なら、女優を廃めさせてでも産まし育てるのだったのにと後悔したが遅く、矢野の入智慧かと矢野が恨めしかった。はじめて来たときのあの矢野の尊大な態度がいつまでも想い出されるのだった。いまも母親はその晩のことを想い出し、ふっと不安な眼を二階へ向けた。が、
「お客さんは誰……?」とはきけなかった。
 そんな母親の気持を多鶴子は敏感に察した。
「お客さんがあるのよ……」自分の方から言い出して、
「新聞社の方よ。私の尾行記を書きたいんですって。うるさいのね。新聞記者って……。だけど、行かないとわるいから、ちょっと顔出しして来るわ」
 そして、先に寝んで頂戴と、次の間にはいって、イヴニングを和服に着替えながら、多鶴子はそんな風に言ったことを、若い新聞記者にはちょっと済まなく思った。そのため彼女は美しい女特有の本能から、念入りに化粧をしなおした。
「どうもお待たせしました。――先ほどはありがとうございました」
 そして、向い合って腰を下すと、豹一が出された珈琲に手をつけていないのに素早く気がついて、
「さあ、どうぞ。冷めないうちに……」しかし、待たされている間に、すっかり冷たくなっているのに気がつき、
「あら、もう冷たくなっちゃいましたね。御免なさい」尻あがりの口調で言って、女中を呼ぶためにベルを押した。全く申分ないほど、愛相がよかったのである。
 若い女中は一目見た途端に、豹一を好いてしまった。映画女優のところへ女中に雇われるだけあって、彼女は非常に映画趣味があったから、ぶくぶくのオーバーを不恰好に身につけた豹一を見ると夜ふけのせいもあって、此の美少年は「男装の麗人」ではなかろうかと思ったほどである。全くだしぬけにはしたない恋を感じてしまった女中は、可哀相におどおどして応接間へ現れた。珈琲茶碗を差出すのがたまらなく恥しかった。汚い手を見せねばならぬからであった。
 ところが、もし豹一が幾分でもこの女中に惹きつけられるところがあるとすれば、それは彼女が大急ぎでべたべたにぬりつけた鼻の頭ではなくて、彼女が見せるのを憚った、赤切れた汚い手だったかも知れない。豹一にとっては、それだけ切りはなして見ただけでも、その手は胸をうつに充分だった。母親の手を連想するからであった。ところが、豹一はその手を豪華な装飾に輝いている応接間で見た。豹一は一層胸を打たれて、弥生座の舞台で踊っていた東銀子の赤い足を不意に思い出した。豹一は思わず涙が落ちそうになったのを、周章ててその部屋に対する反感で拭って起ち上った。
「これで失礼します」
 こともあろうに、折角新しい珈琲が来た途端に、帰るといい出した豹一に、多鶴子は驚いてしまった。
「まあ、いいじゃありませんの。もう少しゆっくりして下すっても……。そんなに早くお帰りになったら、私怒りましてよ」
 本当に怒ってしまった。そして、いま帰られては困ると、多鶴子は必死になって豹一を引き止めた。そんな自分を浅ましいと思うぐらいだった。豹一も、なぜこんなに引き止められるのかと、不思議でたまらなかった。とにかく熱心に引止められたので、豹一はそれを振り切って帰ることに、ちょっとした満足を想った。
「もう、こんなに更くなりましたから……」そう言い捨てて、扉を押した。そして、階段を降りて行った。
「あら、お帰りですの?」女中が玄関へ顔を出した。
 豹一はそれに答えず、汚い靴を突っ掛けると、大急ぎで出て行った。犬の遠吠をききながら、住吉線の姫松の停留所まで行き、豹一はやっと車を拾った。帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情が、なぜか頭を去らなかった。
 女中は、豹一を見送ってしまうと、応接間へ後かたづけの顔ではいって行った。彼女はなにか不満だった。そんなに早く帰ってしまうと思っていなかった。泊って行くものと決めていたのである。彼女の女主人とどういう関係の男か見当もつかなかったが、ともあれ泊って行ってほしかった。それが言葉も掛けずに、帰ってしまったのである。寂しかった。(私のような女中風情には言葉も掛けて下さらぬのが当り前だ)
 しかし、なにも女中だけには限らなかった。いくらか違うが、彼女の女主人だってそれに似た気持を味わされてしまったのだ。女中がはいって行った時、多鶴子は長椅子に腰を掛けたまま、身動きもせずに、呆然としていたのである。
「お泊りじゃございませんでしたのね」女中がそう言った時、多鶴子ははじめてわれにかえった。
「わかってるじゃないの。誰が泊めるの? あんな新聞記者!」多鶴子は叱りつけるように言った。
 実は彼女は豹一を引止めた時、夜更けのことでもあり、泊めてやるべきだと思っていた。ところが、女中にそう言われてみると、なにかそんな自分の考えははしたないもののように思われたのだ。帰りぎわに豹一が言った「もうこんなに更くなりましたから……」という言葉が、妙に皮肉な響きをもって想い出されるのだった。多鶴子はこんな夜更に豹一を家に伴って来たことを、軽はずみだったと、はじめて後悔した。
 女中はひそかに心を寄せた男をそんな風に言われたので、ふと悲しくなった。が、さすがに敏感に、多鶴子の怒りを察して、それに順応した。
「ほんとにそうですわね。あんな新聞記者! それになんですわ。生意気すぎますわ。挨拶もせずに帰って行ったりして……」
 女中は、豹一が多鶴子に挨拶をして帰ったのか、挨拶もせずに帰ったのか、知らなかった。だから、この言葉は彼女自身のことを言ったに過ぎなかった。ところが、全く多鶴子にとっては、豹一は「挨拶もせずに帰って行ったりして」しまったのである。いや、それどころか、彼女の引止めるのも振り切って帰ってしまったのである。(何か腹の立つことがあったのだろうか?)
 考えてみて、なかった。まさか、女中の赤い手を見たのが原因だったとは、気づく筈もなかった。原因がないとすれば、多鶴子にとって全くこれ以上に自尊心を傷つけられることはなかったわけである。しかも、肝腎の新聞記事に就て一言も触れぬさきに帰られてしまったことは、かえすがえす立つ瀬がなかった。
 女中の言葉は、だから、多鶴子には余程痛かった。が、多鶴子はふと、さっき女中が変な眼付で豹一をうっとり眺めていたのを想い出した。それで、多鶴子はちょっと慰まった。
(この娘、嘘を言ってるわ。あの新聞記者に惚れてるのに、あんなことを言ってる! ……そうだ。あの新聞記者は丁度この娘が恋人になるのに適しいような男なんだわ!)多鶴子はそう思って、豹一をさげすむことにした。
(あんな男を相手に腹を立てるのは、いっそ恥しいことだわ!)
(つまり、あの男の相手は女中だけで結構)
 自分の心に無理にそう言いきかす必要があるほど、豹一のことが頭にこびりついて離れなかったのである。
 彼女は、このままで済ませぬと思った。だから、彼女は翌日豹一の社へ電話を掛けるという軽はずみなことを、全く思い掛けずやってしまったのである。

      六

 夕刊第一版の原稿〆切は正午だった。
 昨夜の疲れですっかり寝すごしてしまった豹一が出社したのは、もう十一時近かった。豹一は尾行記の原稿を〆切時間に間に合わせるため、大急ぎで4B[#「4B」は二マス使わず、一マスに横並び、127上-8]の鉛筆を走らせていた。
 鉛筆の芯が折れた。
「給仕! 鉛筆だ!」
 普通の時なら、給仕に用事を吩咐たり出来なかったのだが、急いでいたから、先輩たちの口調を真似てそう呶鳴った。だが、悲しいことには、彼はまだ新米だと見られていた。おまけに若い。誰も鉛筆を持って来なかった。豹一は赧くなった。すると、
「よう、鉛筆だよ!」豹一のところへ、鉛筆を持って来てくれた男がある。見ると、土門だった。
「あ、済みません」豹一は嬉しかった。
「金貸してくれ! 五十銭で良いよ」いつものでん[#「でん」に傍点]だと苦笑しながら、机の上に五十銭銀貨を置くと豹一は再びザラ紙の上へ尾行記を書き続けて行った。
 土門は銀貨をズボンのポケットに入れながら、
「いこう熱心でげすな。いったい何の記事?」訊ねかけて、豹一が答えぬ先に、「あ、なるほど。村口多鶴子の……。代役恐縮だね。あはは」笑った。豹一はふと顔をあげて、
「村口多鶴子っていったいどんな女優なんですか? なにをしたんですか?『罪の女優』ってなんのことですか?」ほかに訊く人もなかったから、土門と顔を合せたのを良い機会だと思って、訊いてみた。
「おや? 知らないのか? こりゃ愉快だね。村口多鶴子の一件を知らん新聞記者がいるとは愉快だよ。ことにそいつの尾行を書くっていう手合が知らぬと来ては、あはは、たまりまへんよ。ぞくぞく嬉しくなりまんがな。朝っぱらからあんまり喜ばさないで頂戴ね。へ、へ、へ、……」嬉しそうに笑っていたが、ふと真顔になると、
「本当に知らないの?」
「ええ」
「そうか、じゃ教えてやろう。村口多鶴子ってのは、ありゃ君つまらない奴だよ。良い役をつけて欲しさに、監督とくっつきやがった挙句、到頭カル焼みたいに肥り出して来たお腹を、あっという間にもとのスタイルに整形したというかどで、ちょっと来なさい――そんな奴だよ。それで謹慎してりゃ、未だ可愛いが、よくよく人気稼業が忘れられんと見えて、しゃりしゃり『オリンピア』へ現れて来るって代物だ。酔っぱらって書けなかったいいわけじゃないが、あんな奴の提灯持記事を書くのは、おら真平でがんすよ。あはは」土門は一気にまくし立てると、「だが、君は役目だから、せいぜい書きたまえよ、はじめての記事だろう? 頑張って書きたまえ。じゃあ、また……」と、言いながら、立ち去ってしまった。
 なるほど、そんなわけだったかと、豹一はもう書き続けるのがいやになった。じつは彼は提灯を持って書いていたのである。豹一はいきなりいままで書き綴って来た原稿用紙を破ってしまった。そして、新しいザラ紙に「1」と番号をつけた。
 やがて、豹一は土門に刺戟された辛辣な文章で書きはじめた。「止」と終止符号を書いたのはもう正午近かった。豹一は原稿を読みながら、編輯室を横切って、編輯長のところへ持って行った。そして、出て来ると、給仕が寄って来て、
「あんた、昨夜『オリンピア』へ行きはりましたか?」と、訊いた。そうだとうなずくと、給仕は、
「そんなら、あんたに電話が掛ってますわ」小莫迦にした口調で言った。
 豹一の名はわからなかったから、昨夜「オリンピア」へ来た人を呼んでくれと、掛けて来たのは村口多鶴子だった。
 電話口へ出て、それと知ると、豹一は周章てた。それでなくとも、豹一はこれまで電話というものを使った経験が余りなく、ことに社でははじめてである。豹一は真赤になって、はあ、はあと下手な返辞ばかりしていた。
「昨夜は大変失礼しました」声で豹一だとわかると、多鶴子はそう言った。
「はあ」失礼したのは自分の方ではなかったかと、豹一はふと昨夜帰りぎわに見た多鶴子の哀願的な表情を想い出した。
「あのう、ちょっとお話したいことがありますの。いま、お手すきでしょうか」
「はあ」
「では、会っていただけます?」
「はあ」
「心斎橋の不二屋でお待ちしていますわ」
「はあ」
「すぐ来ていただけます?」
「はあ。不二屋ですね」豹一はびっしょり汗をかいていた。断り切れなかった。
 いま、彼女のことを散々にこきおろした記事を書いたばかりではないか。豹一はすっかり恐縮していた。もともと彼女には反感をもっていた筈だった。ことに、土門の話をきいただけに一層その反感に油が注がれている筈だ。だから、むやみに恐縮するのは変な話だったが、その反感をすっかり文章に出してしまったいま、無理にその反感に頼ろうにも、効果は少かった。それに面と向っての話ではないだけに、いつもなら、その美しい顔から受ける冷たい感じに反感を覚えることもなかったわけだ。ひとつには、多鶴子の電話を通した声は例の重みのあるしわがれた響きがなく、案外に透き通った優しい響を伝えていたのである。
 電話機を掛けると、豹一はオーバーをひっ掛けながら、社を飛び出した。
 不二屋へはいって行くと、多鶴子はさきに来ていて、手袋をはめた指を一本あげて豹一に合図した。
「お呼び立てしまして……さあ、どうぞ!」多鶴子に言われて、豹一は、赧くなりながら、向いあった席に腰を下した。
 テーブルに両手をついた時、豹一ははっとした。掌に黒い墨のようなものがついていたのだ。はっと手をひっ込めた拍子に、(鉛筆の粉で汚れたのだな)と、思った。つまり、夢中になって多鶴子の尾行記を書いた証拠なのだ。豹一は顔もようあげず、痛い気持でしきりに掌をズボンの膝でこすっていた。
 何を飲むかときかれたので、豹一は珈琲だと答えた。多鶴子はボーイを呼んで、
「お珈琲にお菓子、……それから、私はクリーム、……クリームはなに……?」
「ヴァニラだけでございます」
 ボーイが言った。
「それでいいわ」注文し終ると、多鶴子ははじめてゆっくりと豹一を観察した。
 そして驚いた。はいって来た時の、おかしいほど真赤になったとはてんでちがって、いま豹一はいくらか蒼ざめた顔にむっとした表情をうかべていた。じろりと多鶴子を見あげた。その眼の色に、かすかな敵愾心さえあった。(なんという表情の変り易い男だろう)多鶴子はあきれてしまった。
 実は、なにごとにつけてもけちをつけたがる豹一の厄介な精神は、全く莫迦げたことだが、この時も多鶴子がアイスクリームを注文したことに憤慨していたのである。豹一に言わせると、寒中アイスクリームを食べるのは気障だというのである。ことに多鶴子のような若い女が人前で食べるのは気障だというのである。
 学校時代ある夜おそく豹一は友人の赤井と野崎と連立って、京極裏のスター食堂へ行った。寒中のことで、ことに京都は底冷えがひどく、彼等はストーブの傍に椅子を寄せて陣取った。なにを食べようということになると、食べることにかけては全く意地汚い野崎が、いっぺんアイスクリームを食べてみたいな、去年の夏から食べたことあらへんから、と言い出した。すると、赤井がすかさず、うん、おれもそれ食べたいと、思ってたんだと、応じた。毛利、君はときかれたので、豹一は異を樹てるというより、極く普通のことだが、珈琲を注文し、そして、彼等が肩のあたりをぶるぶるふるわせながら、アイスクリームを噛じるようにのみこんでいるのを、にやにや笑って見ていた。すると、赤井は、寒中のアイスクリームの味を知らんとは、お前田舎者だぞと歯を鳴らしながらいった。
 そのことを豹一は想い出していたのだ。しかし、その時田舎者だといわれたが、豹一はそんなに腹が立たなかった。なぜなら、赤井や野崎のそんな気障っぽさはまるで腹の中ではしゃぎまわっているような、気障っぽさであったから……いうならば、多鶴子のそれのようにつんと乙にすまし込んだ気障っぽさではなかったからである。
 そんな風にけちをつけたがるところ、つまり豹一は量見がせまいというのではなかろうか。たぶん、それに違いはあるまい。もともとの性質がそうなのだから致方のないところだが、ひとつには、彼には物ごとに対するはっきりした意見、つまり人生観だとか思想だとかいうようなものが欠けていたせいでもある。だから、このようにこせこせした意見だけを小出ししているわけだった。衝動的にしか物ごとが考えられず、従って行動出来ず、自尊心の振幅が彼を動かしていたわけであった。
 多鶴子はそんな豹一の表情を見ると、いきなり昨夜の彼の無礼を想い出した。そして、わざわざ彼を電話で呼び出す気になったわけがはっきりとして来た。
 全く、彼女はなんのために再び豹一に会う気になったのか、はっきりわからなかったのである。むろん、昨夜あんな風にされたままでは済まぬという気持はひそかにあった。が、それだけの理由で、彼に会うとは、余りにはしたないことではなかろうか。たかが相手はとるに足らぬ駈出し記者ではないか。そう思うと、電話を掛けたことを軽はずみだと後悔する気持が強かった。ぽっと顔を赧らめてはいって来た豹一を見ると、ますます気持が強くなった。つまり、豹一に対してなんらかの意味で惹きつけられて了うのが許しがたいほど恥しく思えたのである。
 だから、いま豹一がそんな可愛げのない表情を見せてくれることは、彼女にとっては、むしろサバサバするようなものであった。
(そうだ! 私は昨夜のこの男の無礼に黙っておれず、わざわざ会うことにしたのだ!)そう意味がつくと、はしたないとか、軽はずみという後悔がなくなった。彼女は睫毛の長い眼をじっと豹一に注いだ。そして、どんな文句を浴びせ掛けてやろうかと、思案した。
 ふと彼女は、女らしい敏感さで、豹一のオーバーの疲れに眼がついた。まるで可哀相なほど皺がよっている。おまけに、既製品だと見えて、身に合わずぶくぶくなのだ。なお、仔細に見れば、洋服は冬物ではないらしい。ネクタイだって、みじめなものだった。昨夜と同じ柄だが昨夜より皺が多い。
「そのオーバーどなたのお見立て……?」いきなりそう訊いてやろうか、と多鶴子は思った。が、瞬間、豹一の痩せた頬が、眼を痛く突いて来た。
 すると、もう彼女はそれが口に出せなかった。そんな言葉を想いついただけでも、なんだか気の毒になって来た。(おや、いけない!)多鶴子は思わず心の中で叫んだ。(私はこの人に同情している)
 つまり、それでは、やはり豹一に心を惹かれてわざわざ会う気になったということになるのだ。
 彼女は周章てて豹一から眼を離した。その拍子に、(あッ、そうだ!)と、微笑した。
(大変なことを忘れていた。この人に頼むことがあったのだわ)
 尾行記のことで頼むために、わざわざ会うているのではなかったかと、彼女はまわりくどい径路を通ったあげく、やっとその結論に到達した。多鶴子はほっとして口をひらいた。
「あのう、じつはお願いがあるんですけれど……。きいていただけます? ……昨夜おっしゃってました尾行記のことですけど……」
 豹一はぎくりとした。
「……無理なお願いなんですけど、書かずに置いて下さいません?」ほかに弄すべき策も見当らなかったので、多鶴子はそのように真正面から頼んでみた。
 豹一は返事の仕様がなかった。いまそれを書いて来たばかしではないか。活字に組まれて、いま頃は輪転機に載せられた時分だろうと思うと、豹一は、
「ど、どうしてですか?」と、なにか胸のあたりが重いような声を出した。が、次の瞬間にはもう豹一は充分意地わるい口調になって、
「書かれちゃ困るんですか?」土門の話を想い出していた。
(書かれると人気に障わると、いうんだろう。この女はなによりも人気が大切なんだ。監督との問題でも、人気を出すための打算なんだ)
 その女のことを散々悪く書いてしまったあとでも、なおこんな風に頭のなかで鞭をふるっていたのは、ひとつには豹一は多鶴子に対して済まぬと思う自分の気弱さを、振い立たせるためでもあったろうが、じつは、丁度そこへアイスクリームが運ばれて来たからであった。
「困るっていうわけでも……」ありませんと、多鶴子がいい掛けるのを、豹一は畳み掛けて行って、
「人気にかかわるっておっしゃるんでしょう!」
 多鶴子はふと眼を落した。
「人気ですって……?」語尾が落ちた。
「違いますか?」
「違います!」いきなり、多鶴子の眼の輝きが睫毛を押しあげた。「人気、人気って皆様がおっしゃいますが、……」多鶴子の声は朗読口調になった。
「……私そんなに自分の人気のことばかし考えているのでしょうか。……たとえば、矢野さんのことにしろ、皆様は、村口は良い役をつけてもらいたさに、矢野に貞操を与えたなんて、ひどいことをおっしゃいますが、私そんな気で矢野さんとお交際したのでしょうか。人気のために、自分の人気のために、自分を殺したのでしょうか? ……違いますわ。なるほど、矢野さんは私の恩人です。しかし恋愛とそれとは違います。いくら恩人だからって、矢野さんが好きでなければ、私あんな風なお交際はしませんわ。私、ただ、矢野さんが好きだっただけです。それだけです。だからこそ、あのこと[#「あのこと」に傍点]にしろ、矢野さんがそうしろとおっしゃったときその通りにしたのです。好きな人の言うことだから、そうしたのです。それを皆様は、なにもかも人気のためだと、お片づけになるのですわ。色眼鏡でごらんになるのですわ。あなたもきっとそうでしょうね?」
 そう言って、彼女はふっと「寂しい微笑」を泛べた。途端に、彼女はその微笑が意識的なものであると気づいて、いやになった。習慣というものは怖しいものだと、思った。彼女は無意識にクローズ・アップの表情をとっていたのである。
(しかし、私の言ってることは嘘じゃない)彼女はそう思った。(少くとも私は自分の人気よりも矢野さんを愛していた)
 咄嗟にそう信ずることが出来た。永い間、自分に言いきかせて来たから、もはや、それ以外の考え方が出来なかったのだ。いわば、彼女の固着観念になっているのであった。
 しかし、この固着観念を人前ではっきり述べるのは、いまがはじめてだった。彼女はこんなところでそれを言いたくないと、思った。「世間の眼」へのはじめての抗議を、こんな喫茶店のなかでしたくなかった。ことに相手は、新聞記者という点を勘定にいれるにしても、ともかく子供すぎるほど若い男なのだ。
 しかし、多鶴子は豹一がびっくりした表情で熱心にきいてくれているらしいのを見て、いくらか張りあいがあると思った。たしかに豹一は、多鶴子の言葉に心を惹かれていた。自分の「批判」が辛辣であっただけに、一層彼女の言葉を信ずる気持が強かった。(土門なんかの言葉があてになるもんか!)と思った。
 多鶴子は人なかだという点を考慮して、声を低めねばならなかった。感情がたかまっているのに、声を低めねばならないということは、自分の悲しさを一層深めていると思い、思わず瞳がうるんでいた。それを見ると、豹一はますます心を動かされた。極端に走りやすい豹一は、いきなり起ち上った。
「そうですか。わかりました。しかし、尾行記は書いてしまったんです。間に合うかどうかわかりませんが、とにかく社へ電話して発表を見合せてもらうことにします」
 そう言うと、豹一は、そんなことが許されるかどうかも思ってみずに、急いで電話を借りに行った。

      七

 編輯長は豹一の原稿の字の下手糞で、乱暴なのに辟易したが、とにかくざっと眼を通してみた。そして、眼を通してみてよかったと、思った。
(読まんと、社会部長のところへ廻したりしたら、えらいこっちゃ。社会部長のこっちゃさかい、あとさきも見んとそのまま印刷に廻しよるやろ)
 村口多鶴子の悪口を書いているばかりでなく、「オリンピア」の宣伝部長まで醜行をあばかれているのだった。発表すれば、「オリンピア」から抗議は当然来るべき原稿なのだった。それだけに、特種としての値打は充分あるわけだが、それでは営業部の方が困るだろう。編輯部の立場としては、なるべくなら採用したいところだが、しかし、やはり営業部との摩擦は避けたかった。ひとつには、情にもろい編輯長は、村口多鶴子をかばってやりたかった。
 編輯長は豹一の原稿を没にした。が、豹一には些か可哀相な気がした。偶然に恵まれたというものの、それだけの材料をスクープするのは、余程活躍したにちがいないのだ。
(やっぱりあいつは見どころがあった。寒いのに夜なかまでよう活躍しよった。没になったと知ったら、悲観しよるやろ)そう思っているところへ、豹一から電話が掛って来た。
「僕、毛利です」
 編輯長は相手が誰か咄嗟にわからなかった。若い声だから、たいした人間からではないのだろうと、
「毛利て誰やねん?」
「はあ。あの社会部見習の毛利豹一です」
「なんや、君か? なんぞ用か?」
「はあ、あのう、さっきの原稿もう印刷に廻ってますか?」
「まだやぜ。それがどないしてん?」
「まだですか。そうですか。そんなら、大変勝手ですけど、あれを没にして下さいませんか?」
「なんでや?」
「はあ。あのう、ちょっと事情がありまして……」
「そうか。そんなら、君のいう通りにしとくわ」編輯長は微笑した。「そいで、いまどこにいるねん?」
「はあ。心斎橋の不二屋に……」
「誰といるねん? 恋人とか?」
 編輯長は思いがけぬ豹一の申出でにすっかり気を良くして、そんな冗談をいい、
「それじゃ、くれぐれもお願いいたします」
 という豹一の汗のたれるような言葉を耳に残しながら、電話を切った。途端に、編輯長は、
(あいつ村口多鶴子に頼まれよったんやろ。いま会うとるのやろ)
 若い部下のはなやかな活動を想像して、全く上機嫌だった。丁度その時土門が前借の印を求めに来たので、盲印を押してやるぐらいだった。
 電話を掛け終ると、豹一は多鶴子のところへ戻って来て、記事の発表を見合せることにした旨言った。
「ありがとう。折角お骨折りなすったのに……」
 多鶴子はそう言いながら、ふと、(結局この人は昨夜私を救うために、骨を折ってくれたということになるのだわ)と、思った。多鶴子はいきなり起ち上ると、
「ここを出ません?」朗かな声で、一緒に歩きましょうという気持を含めて、言った。
 なによりも多鶴子は、豹一が自分の言葉に感動してくれたことが嬉しかった。そして、すぐ希望以上の処置をとってくれた豹一が、多鶴子の持前の虚栄の眼からは、まるで騎士のように見えるのだった。
 昨夜彼女の自尊心をかなり傷つけた筈の、豹一の行動も、いまにして思えば、夜更という点にひどくこだわった好ましい内気さから出たものと、考えられるのだった。そして、帰りぎわの風のような素早さは、騎士のように颯爽たるものがあったと、このかつての女優は思った。
 心斎橋の雑閙を避けて、御堂筋の並木道を大丸の方へ、肩を並べて歩いて行った。柔い日射しが二人の顔にまともに降り注いだ。寝不足の豹一の眼にはその日射しが眩しかった。彼は眉の附根を寄せていた。多鶴子はライトの強烈な刺戟に馴らされていたから、そんなことはなく、豹一のその表情を見て、眉をひそめていると感違いした。つまり、不機嫌だと思ったのである。
 これは彼女の虚栄から言っても、あり得べからざることだった。彼女は豹一の心を惹きつけるべく、本能的に努力した。心斎橋まで来ると、多鶴子は、
「引きかえしましょう」と、言い、なお、「私と歩くのお嫌い?」とまで言う始末だった。
 誰が考えても、豹一は多鶴子から良い待遇をされていることになる。並んで歩いているだけでも、羨望に価するのだ。さすがに豹一はすれ違いざまにしげしげと見て行くひとびとの眼のなかに、それを読んだ。
(おれは人気女優と肩を並べて歩いているのだ!)
 悪い気はしなかった。が、かねがね豹一は「人気」などというものは軽蔑していた筈ではないか、それを、こんな風に喜んでいるのは、矛盾といってよいのか、あるいは彼の若さといってよいのか、――ともあれ他人がこんな考えを抱いているのを見ると、豹一はむかむかと軽蔑心が湧いて来るところだった。しかし、さすがに豹一は、そういう矛盾に気づいたのか、それとも照れていたのか、すっかり悦に入ってしまっているわけではなかった。
 だから、そんな風に質問されて、「いや、光栄のいたりです」などと、たとえ笑いながらにしても、言うような莫迦げたことはしなかった。といって、咄嗟に良い返答も泛ばなかった。
「まあ、しかし……」結局、そんな風に口のなかで呟いた。
 多鶴子は気色を損じてしまった。豹一は多鶴子の心の動きに敏感になっていたから、すぐ、(拙いことを言ったもんだ)と、気がついて、
「僕いま勤務時間中をサボってることになるんです。たまにサボるのも良いですね」苦しい弁解だった。
 が、この言葉は釈りようによっては「私と歩くのはお嫌い?」という多鶴子の問に答えていることになった。少くとも多鶴子は、豹一が自分と一緒に歩くことを喜んでいるものと釈りたかった。釈った。
 つまり、その苦しい弁解はいくらか成功だった。多鶴子も満足したし、また豹一も満足出来た。誰にきかれても恥しくない言葉だったからである。
 この豹一の慎重さは、なお見るべき効果を収めた。彼は厚面しい男や、抒情的な恋人のよく使う、
「こうして歩いているところを見たら、ひとはどう思うでしょうかね?」
 というような、思わせ振りな言葉はあくまで警戒していた。つまり、教養ある女をいっぺんにうんざりさせてしまうような言葉を、調子に乗ってうかうかと口にするようなことはしなかったのである。そのため、多鶴子は若い新聞記者と肩を並べて御堂筋の舗道をわざわざ往復しているということを、必要以上に意識せずに済んだ。自然豹一の心を惹きつけるための無意識な媚はすらすらと発露された。豹一は自惚れても良かったのである。ところが、意外な出来ごとのために、豹一は全然正反対の気持になってしまった。
 大丸の前まで来た時だった。
「毛利さんに妹さんがあったら、きっと綺麗な人だと思うわ」
 と、相手の嬉しがるような言葉を口に出しかけた多鶴子が、不意に顔色を変えて言葉をのみこんだ。真蒼な痙攣が多鶴子の横顔に来た。おやっと思った豹一の眼に、大丸の扉を押して出て来た男の姿が、なぜか止った。
 バンドのついた皮の外套を短く着て、ゴルフ用のズボンを覗かせていた。縁なしの眼鏡の奥から、豹一をじろりとにらんだ。が、その前にその男は多鶴子の顔を見ていた。そして、あっという顔付きで立ちすくんでいたが、やがて固い歩き方で寄って来ると、
「暫く……。どうしてるの」と、多鶴子に言葉を掛けた。
「…………」多鶴子はハンドバッグの金具をパチンとしめなおした。かすかに手がふるえていた。
「新聞で見たよ、『オリンピア』に出ているんだってね? ――まあ、元気でやりなさい」豹一の方をじろりと見てから、もう一度多鶴子の顔を見た。多鶴子は、
「ありがとう」と、小さく言った。男は手をあげて、
「じゃ」行ってしまった。
「あ」多鶴子は靴の踵をちょっと動かしたが、あとを追うのを思い止った。そして、暫く立ちすくんでいたが、やがて物も言わずに歩き出した。
「誰ですか?」豹一はやっと訊いた。
「矢野さん」それっきり多鶴子は口を利かなかったから、豹一はいや応なしに、「私は矢野さんが好きでした」とさっき不二屋できいた多鶴子の言葉を取りつく島のない気持で想い出さされてしまった。なお、今しがた矢野さんが残して行った見下すような(――と豹一は思った――)一瞥を想い出した。
 豹一は自分の表情をもて余した。多鶴子の足が急に早くなったので、瞬間少しは歪んだにちがいない表情をそれと気づかれるおそれがなくて、もっけの倖いだと思ったものの、多鶴子の足が早くなったのは、それだけ心が動揺している証拠だと、豹一にもその動揺がそのまま乗り移って来た。所詮心の平かな筈はなかった。
 いくらか自惚れかけているところだけに、多鶴子の動揺は一層辛かった。それに情けないことには、豹一の眼から見て、矢野は想像以上に立派に見えた。寒い風も当らぬような顔で立去って行ったのではないか。豹一は自分が矢野の前で頗る影が薄かったと、思った。
 多鶴子は黙々としていたので、豹一はそんな風に孤独な考えに耽った。
(矢野はおれがこの女の傍にいるのを見て、ちゃんちゃらおかしいと思っただろう)
 嫉妬の気持はこうして、徐々に豹一の心にしのび込んで来た。豹一の心を惹きつけようという多鶴子のさっきからの無意識な努力は、かえって黙っていることによってはじめて実を結んだ。
 だが、さすがに豹一は余り黙っているので、いつまでもついて歩いているのは浅ましいことだと、思った。豹一は多鶴子の顔を非常に美しいと、意識しながら、
「僕ここらで失礼します」と、言った。そして、だしぬけに傍を離れてしまった。
 そんな風にいきなり立ち去ろうとした豹一を見て、多鶴子ははじめてわれにかえった。
「あ、毛利さん」呼び止めて、「今夜『オリンピア』へ来て下さらない?」と、言った。
 そして、豹一の方へ二、三歩駆寄った。
 寒い風が日のかげった舗道に吹いた。
 豹一は、
「ええ」と、声をあげた。そして別れた。

    第三章

      一

 佐古の顔を見なければならぬかと思うと、多鶴子はもう「オリンピア」へ行く気がしなかった。しかしはっきりとそう言う名はついていないが、前借乃至契約金に似た金を貰っている以上、いきなり廃めてしまうわけにはいかなかった。人気稼業をしていただけに、契約の重んずべきことは判りすぎるほど知っていた。どうしようかと、多鶴子は朝から思案していたのである。
 ところが、豹一に「今夜『オリンピア』へ来て下さらない?」と言った瞬間に彼女の心は決ってしまった。
 いきなり廃めてしまっては角が立つ。佐古には昨夜のことは知らぬ顔を見せて置けば良いのだと、多鶴子はいつもの時間に「オリンピア」へ出掛けた。
 しかし、なぜ豹一に「オリンピア」へ来てくれと言ったのであろうか。
 一人でも多く客を勧誘するための商売気からだときいても、相手が豹一とあれば、いくら宣伝係とはいえ、佐古も喜ぶまい。むろん、そんな気持からではなかった。いうならば、多鶴子自身それをはっきり意識しなかったことだが、やはりその夜もう一度豹一と会わずにはいられなかったのである。と、いって浮わついた気持でもなかった。少年のような豹一を相手に恋人なんぞ考えてみてもおかしい、つまりその日思い掛けなく矢野に会うたという心の動揺が、豹一というあまり男臭くない杖を必要としたのだった。
 矢野と会うのは五カ月振りだった。事件が起って以来である。会いたくても会えなかった。世間が会わさないのだと、多鶴子は思っていた。そう思いたかった。事件を良い機会に矢野の方から逃げ出したとは、思いたくなかった。向うも会いたいと思っているのだろうと、信じていた。が、矢野の顔を見た途端、その気持が裏切られてしまったのだ。五月振りに、しかもああした事件があった後の出会いならば、もっと切ない気持がお互いに湧いた筈である。少くも、多鶴子は口も利けないほど切なかった。ところが、矢野はいけ洒蛙々々とした態度を見せた。多鶴子にはそう見えた。途端に、自分から逃げ出したかったのだと、多鶴子は思った。立話さえ憚からねばならぬ気持はわかる。しかし、それにしても、もう少し愛情の籠った態度を見せてくれてもよかりそうなものだと、後追い掛けた咄嗟の恨みだった。結局はじめからてんで愛情がなかったのだと、もうあとを追う気はしなかった。矢野に愛情がなかったと、思うと、多鶴子ははじめて自分が矢野を愛していたのだと、はっきりわかるような気がした。人気のためではない好いているからだった、――と、豹一に言った言葉もこの時の多鶴子の気持から押せば、満更弁解でもなかったわけだ。その証拠に、多鶴子はもう矢野のことを思い切らねばならぬと、思ったではないか。その瞬間の豹一は、どう見ても矢野よりも影が薄かった筈だ。と、同時にどんな醜男であるとしても、いくらかましに見えた筈だ。今夜「オリンピア」へ来てくれと、多鶴子がいったのも無理からぬことだった。
 なお、序でにいうならば、多鶴子に「オリンピア」へ行く決心をさせたのも矢野の後姿だった。女は失恋したときは、けっしてひとりきりにならないものだ。たとえ、心の苦しみを忘れるために旅行するにしても、誰かにその旨言ってからするのが普通である。
 ともかく、多鶴子は「オリンピア」へいつもの時間に現れた。佐古は多鶴子の顔を見ても、昨夜のことは全然知らぬ顔をするつもりだったが、多鶴子が現れると、
「おや、いらっしゃい」と、思わず言ってしまった。まるで、意外な人を迎えるような言葉だった。つまり、ひょっとしたら多鶴子は来ないのではなかろうかと心配していた気持を、うかつに見せたわけだった。
 十時頃、豹一はやって来た。多鶴子は当然来るものを待っていたという顔で出迎えたが、そんな風に思われたと知れば、豹一としてははなはだ面白からぬところだった。いそいそと出掛けて来たわけではなかったのである。
 まことに厄介な話だが、豹一は多鶴子のいいなり次第にのこのこやって来るということに、例によってひどくこだわっていた。行かねばならぬという理由がちっとも見つからぬのである。これには豹一は困った。ひそかに多鶴子に心を寄せているなどとは、ひとは知らず、この自尊心の強い男には、許しがたいことだった。理由が見つからねば、行くことを思い止った方が良いと、豹一は自分に命じたが、これははなはだ無気力な命令だった。その証拠に彼はそう命令してからでも、然るべき理由の発見に頭を悩ました。ふと、彼は矢野の顔を想い出した。縁なし眼鏡の奥からじろりと見たさげすむような眼。眼から眉へかけての濡れたようななまなましい逞しさ。
 豹一はやっと理由を発見した(そうだ。あんな男に負けてなるものか。おれはあの女をものにしてみせるぞ!)
 豹一の考え方はいつもこれだった。が、この時の考え方にはいくぶん嫉妬の気持もまじっていた。それだけに強かった。豹一はだしぬけに頭に泛んで来たこの考え方に従うことにした。これが、「オリンピア」へ行く口実になった。
 そんな豹一の考えを知ったら、多鶴子はぞっとしたであろう。それとも、おかしいと思ったであろうか。しかし、豹一はそんな変な考えを鼻の先にぶらさげて多鶴子の前に現れたわけではなかった。
 やっと口実が見つかってほっとしたというものの、しかし、多鶴子をものにせよと自分に課した義務というものは、二十歳の豹一にとっては随分重荷だった。彼はぶるぶる顫えながら、多鶴子の前に現れたのである。まるで吩咐られた通りにおやつを貰いに来た子供のように、多鶴子には見えた。だから多鶴子は随分好ましいと思い、粗末には扱わなかった。
 役目柄、多鶴子はあちこちのテーブルへ挨拶に出むかなければならなかったが、その都度豹一に、
「ちょっと待っててね」と、言った。そして直ぐ戻って来て豹一の傍に坐るのだった。
 そんな風にされるのは客のなかで豹一ひとりだったから、彼は随分よろこんで良いわけだった。ところが、彼はちっとも嬉しくなかった。例の義務を想い出していたからである。
(なにかしなければならない!)そう思うのだが、しかし、なにをすれば良いのか見当がつかなかった。口説くというような考えは、頭をかすめもしなかった。いろいろ考えたあげく、いつか喫茶店でやったように、手を握るということを思いつくのが関の山だった。結局それを決行しようとだしぬけに、決心した。豹一はそわそわしだした。
 が、丁度良い工合にその時多鶴子の手は空いていなかった。多鶴子はボーイがわざとむかずに持って来た林檎を手にとると、器用な手つきでそれをむきだしたのである。むろん豹一のためにだった。不器用な豹一は林檎ひとつようむかず、そんな多鶴子を見て、ふと心が温った。瞬間義務のことは忘れ、繊細な多鶴子の指の美しさにうっとりとした。
 そんな夜が四五日続いた。その三日間なにひとつ「義務」に気に入るような行動は出さなかったために、豹一は些かうんざりしていたが、あるいはそれがかえって良かったのかも知れぬ。「義務」の命ずるままに乱暴に手を握ったりすればお互い不愉快なことこの上ない。全くのところ、豹一はいっぺんに愛相をつかされたところだったかも知れない。しかし、そんなことはなかったから、多鶴子は彼女自身の表現を借りていえば、豹一と「遊ぶことに小川の清流のような気持」を味わっていた。つまり、矢野の男くささを忘れるためには、豹一のような内気な少年と接触しているのが最も良い方法だったのである。
 もし豹一の変挺な「義務」というものを抜きにして考えるならば、二人の仲は全くままごとじみていたわけである。誰の眼もそれを怪しむものはない筈だった。しかし、美貌の点に於いてはひけをとらぬこの二人の組み合せは、さすがにひとびとの眼を瞠らしめるに足るものがあった。就中、佐古の眼に余った。
 佐古は豹一と多鶴子の「特別の関係」に就いては、この間の晩身を以て知っていただけに、やきの廻ることおびただしかった。豹一に弱点を掴まれているという痛さのために、一層癪に障った。ことに腹が立ってならないのは、毎晩豹一が閉店になるまで粘って、多鶴子と同じ車で帰って行くということだった。そのため、彼の図々しい計画もさすがに手も足も出なかったのだ。
(おれの計画の邪魔をしやがる。生意気な若造や!)
 しかし、そのことは豹一の意志から出たのではなく、じつは多鶴子から同じ車で途中まで送ってくれと、頼まれたことをやっていたまでであった。しかし、それならそれで佐古は一層腹を立てたところだったかも知れない。
(あいつは惚れられとる。生意気な奴)……には変りなかった。
(二度と再び『オリンピア』へ来られんように、がーんとひとつ行ったらんといかん!)そう思ったが、しかし、さすがに大人気ないと躊躇した。が、ふと、(あいつはうちの商売の邪魔や!)
 そう思いつくと、やっと口実がついた。これならば、ひとにきかれたとしても、恥しくないわけだ。少くとも、佐古は焼餅をやいて若い男を撲ったと思われなくて済む。
 かつての電機工らしく、佐古は他人を撲る快感を想って、ぞくぞくした。が、ふと思えば、佐古は豹一に弱点を握られているわけだった。
(おれが出たら拙い。あとで新聞に書かれたらわやくちゃになる)そこで、佐古はかねがね「オリンピア」と縁のある道頓堀の勝に依頼することにした。
 道頓堀の勝は頼まれたことを、簡単にやってのけた。わざわざ喧嘩を売るきっかけを求める必要もなかったのである。道頓堀の勝は「オリンピア」が閉店になって、豹一が多鶴子より一足先に出て来るところを待ちうけていたのだが、おいと声を掛けて寄って行ったかと思うと、もう豹一の方から突っ掛って来た。弥生座の裏路次で撲り倒された相手を豹一が忘れているわけもなかったのである。豹一は前後の見境もなく、突っ掛って行ったが、
「二度と再びこの店へ来やがると、承知せえへんぞ!」
 という道頓堀の勝の鼻声をきいた途端に、意識を失った。
 はっと気がつくと、車に乗っていた。傍に多鶴子がいた。いつも豹一が降りることにしていた日本橋筋一丁目はとっくに過ぎていた。
 簡単に撲り倒された醜態を見られたかと思うと、豹一はあのまま死んでしまった方が良いと思うぐらいだった。そして誰にも知られていないが、この前にも一度こんなことがあったと思えば、一層身が縮まり、もう多鶴子にも愛想をつかされたと、しょんぼり気が滅入ったが、車が帝塚山へつくと、多鶴子は泊って行けと意外なことを言った。
「でも……」と、さすがに渋ると、多鶴子は、
「そんな体ではひとりで帰れないわ」
 まるで豹一の体をかかえんばかりにして、車から降ろした。豹一はもう断る口も利けなかった。じかに触れて来る多鶴子の手や肩や胸のかすかな感触のせいばかりではない。そんな風に病人扱いにされることが、消え入りたいほど恥しかったからである。
 倒れるときちょっと頭をうったのは、それに興奮していたせいもあって脆くも意識を失ったのだが、かすり傷ひとつなかったのである。大袈裟に倒れたわりにかすり傷ひとつなかったという点で、豹一はますますしょげて、情けない状態になっているのを、多鶴子はかつ安心し、かつおかしいと思った。
 多鶴子は殆んど夜通し豹一を「看病」した。じつは円タクの運転手からことのいきさつをきいていた。運転手のいうところによれば、撲った男は豹一に、「二度と再び『オリンピア』……」云々といったそうである。だから、運転手の想像によると、撲った男はいろおんなを豹一にとられたのか、それとも「オリンピア」に頼まれてやったのかどちらかだというのであった。それをきいて多鶴子はなにか自分の責任を感じた。だから、「看病」の義務はあると思った。ひとつには、女中が豹一を看病することに異常な情熱を見せたので、多鶴子はなにか気色を損じ、女中に任せきりで置くというわけにいかなかったのである。
 可哀相に豹一は氷枕をあてがわれた。飛びあがるほど冷たかったのと、そんな風に病人扱いにされる恥しさのため、豹一は到頭熱を出してしまった。多鶴子は看病の仕甲斐があったわけである。彼女はすっかり疲労してしまった。
 女中は自分が看病出来ぬので、すっかり多鶴子に嫉妬を感じた。女中は漠然とした不安を抱きながら、眠った。
 この不安は適中した。恥しさのため腹を立てんばかりに逆上してしまった豹一と、疲労のために日頃の半分も理性が働かなかった多鶴子は、ありきたりの関係に陥った。
 戸外は小雪だった。

      二

 昔なら、たとえば平安時代なら、美貌の男女の関係を述べるのに、一頁も要しなかったところだろうが、現代の、しかも頗る自負心の強いこの二人には右のような数々の偶然が必要であった。
 女中が想像するぐらいだから、極めてありふれたことにはちがいないというものの、そうした偶然がなければ、かりにお互いにどれだけ好き合っているにしても、めったにそういう関係に陥らなかったであろう。
 もはやなにひとつ拒むものがなくなってからも、多鶴子は思い出したように、豹一を突き飛さんばかりにした。が、突き飛したといえば、豹一の方も同様であった。
彼の精神状態はいかに逆上しているときでも、全部は朦朧としてしまわないという点で、特異性があった。頑固な牧師のようにひそかに抱いているある種の嫌悪は、その時も敏感な蛇のように鎌首を擡げていた。母親の顔、東銀子の薄い胸細い足、それらが泛んでは消え、消えては泛んだ。そのため、豹一はもっとも楽しかるべきときでさえ、残酷な犯罪を犯したあとのようなけわしい表情になっていた。嫌悪しているものに逆に惹きつけられるという、捨鉢な好奇心は彼に慟哭の想いをさせてしまったのである。
義務を果したという、自尊心の満足もこの時はてんで役に立たなかった。なぜなら、彼の自尊心は矢野の顔を想い出すことによって、勝利感どころか、全く粉微塵になってしまったのだ。
(あいつはこの女を自由にしていたのだ!)自分を情けない状態に置くためには、そのことを思うだけで充分だった。(この女もあいつの自由になることを喜んでいたのだ! 丁度こんな風に……)それを感覚的に想像するに及んで、彼の苦悩は極まった。
 自尊心を問題外に考えても、感覚的な嫉妬とともに始った最初の恋ほど苦しいものはまたとあるまい。女の魅力が増せば増すほど、嫉妬の苦しみは大きいのだ。
 可哀相に豹一は夜通し悩み続けた。ことにやりきれなかったのは、彼がいままで嫌悪していたことは、女の意志に反して行われるものと思っていたのに、意外にもそれは思いちがいだったということだった。
 彼は女の生理の脆さに絶望してしまった。彼がいきなり多鶴子を突き飛ばしたのも無理はなかった。
(女って駄目だ!)なぐりつけたいような気になった。
「矢野とはなんにもなかったと、誓ってくれ!」半泣きの声を出して、そんな無理なことを言ったかと思うと、
「いまでも矢野が好きなんだろう?」噛みつくように言って、ピシャリと多鶴子の頬をなぐった。
 いかにも内気らしくおどおどしたり、つんと済ましこんでいたり、随分ぎこちない豹一ばかり見て来た多鶴子は、そんな情熱的な豹一を見ると、思わず唇の端に微笑を泛べた。そして、恐らくは無意識だったろうが、もっと彼を苛めるようなことを、ふといってしまった。
「ダンサーをしていた時、いろんな人に口説かれて困ったわ、伊太利人もあったわ」
 ちょっとした昔話と、きき流せることも出来る言い方だったが、豹一の顔は途端に曇った。
「好きになったんだろう? 誰か……」
「そりゃ、少しは……。しかし、たいしたことはなかったわ」
「どんな人?」
「やっぱり踊りの上手な人ね。リードのうまい人だったら、踊ってる間だけ、ちょっと迷わされるわ」
 豹一の顔はにわかに歪んだ。数えきれぬほど沢山な男に抱かれて踊っていたのだと思うだけでもやりきれなかったのに、踊ることによって自他ともにひそかに愉む気があったのかと思えば、もう豹一の嫉妬は果てしがなかった。
 そんな豹一を見て、多鶴子はもう自分の年齢を気にしなくとも良いと思った。じつは多鶴子は、隠してはいたが、豹一よりも六つも年上であることに女らしい負目を感じていたのであった。なお彼女は、豹一の狂暴的な嫉妬に心を打たれてしまった。矢野は嫉妬の素振りも見せぬほど円熟していた。ときには憎いと思われるぐらい紳士であった。それに比べると、豹一の表情のひとつひとつはそのまま恋する男のそれであった。
(こんな情熱的な人を見たことがない)多鶴子はそう思った。
 豹一がもし四十男であったなら、彼の嫉妬ぶりにはさすがの多鶴子もうんざりしたところであろうが、その点彼の若さがそれを救っていた。
(初心なんだわ)感激した彼女は豹一に、
「これまであんたほど好きになった人はないわ」と、言った。
 自尊心の強い彼女としては、よくよくの言葉だった。他の男、たとえば矢野には言えなかった言葉だった。相手が豹一だから言えたのである。だから、豹一は喜んでもよかったのだ。ところが、豹一は「これまで……」といういい方が気にくわなかった。
(これまで[#「これまで」に傍点]何人の男に惚れたんだろう?)
 ほんの言葉の端にも、(嫉妬)がひっ掛かって行くのだった。なお、そんな風に「好きになった」とはっきり言われるのも辛かった。いっそ嫌いだと言われた方がサバサバするのだった。愛されていると思うと、一層嫉妬の苦しみが増すばかりだった。
 豹一は朝までけわしい表情を続けていた。そして、朝になると、その表情は一層はげしくなった。
 朝刊に昨夜「オリンピア」の表で暴行事件があったと、出ていたのである。

   東洋新報記者撲らる
      原因は女出入か?

 そんな風な見出しであった。どの新聞にも出ているというわけではなく、載せているのは「中央新聞」だけだったが、「中央新聞」は「東洋新報」と色彩を同じくし、いわば文字通りの商売敵だった。従って皮肉な調子が記事にあらわれていた。朝の珈琲を応接間の長椅子に腰かけて飲みながら、新聞を読むという余り柄にもないことをやったばっかしに、そんな記事を読まされてしまったのである。豹一は黙ってそれを多鶴子に渡した。
 多鶴子は記事のなかから、自分の名前を見つけてしまうと、いきなり、(あ、佐古が書かしたんだわ)と思った。
 豹一とそのような関係になった以上、佐古の嫉妬の仕業だと思うのは一応当然ではあったが、じつはその記事は撲った道頓堀の勝の友人の記者が書いたのだった。佐古のためにここで弁解して置くが、佐古の与り知らぬことだった。藪蛇になるようなことを佐古がするわけもない筈だ。それに、出されてわるい「オリンピア」の名もちゃんと出ているではないか。
 しかし、「中央新聞」もまた「オリンピア」の広告を毎週掲載している以上「オリンピア」の悪宣伝をするために、その記事を載せたわけではない。全く正反対だった。
「村口多鶴子を迎えて連日満員の『オリンピア』の前で」東洋新報の某記者が口論の末なぐられたと、ただそれだけの記事で、いわば「オリンピア」の宣伝をしているようなものだったが、多鶴子は自分の名前が出ている以上、昨夜豹一が撲られたことをあわせ考えて、なにかそれに深い意味を見つけざるを得なかった、彼女はもはや「オリンピア」へ行く気がしなかった。ひとつには豹一と一緒に居る時間を割くのがいやだった。
「私お店へ行くのをよすわ」多鶴子は新聞を伏せると、そう言った。
 が、その前に豹一は東洋新報をやめる決心をつけていた。そんな記事が出た以上社に迷惑を掛けたことになる。
「僕も社をやめます」豹一は、「やめんでもええぜ」という編輯長の言葉をふときく想いで、しかし強い口調でそう言った。
「そう? じゃ、今日は二人で遊ぼうね」多鶴子が言うと、豹一は、
「…………」赧い顔をした。そんな朝の豹一が多鶴子にはたまらなく可愛いと思ったが、じつは豹一はその「遊ぼうね」という媚を含んだ言葉でやはり辛い嫉妬をそそられていたのだった。
 多鶴子が顔を見せないので、佐古は周章てて多鶴子の家へ飛んで来た。多鶴子は豹一と芝居を見に行って居り、留守だった。佐古は役目柄辛抱強く待った。夜おそくやっと帰って来たのを掴えて、佐古は、
「休むなら前もって言うてくれはらんと困りまんな。芝居とちごてあんたの役は代役がききまへんよってな」と、言った。
「あら、すみません」
「そない、あら、すみませんテあっさり言われたら困りまっせ。いったい来てくれはるんでっか、くれはれしまへんのか、どっちだんねん?」
「すみませんが、やめさせていただきます」
「えっ?」佐古は「げっ」と聴えるような声を出した。
「私、これでも随分辛抱したもんですわ。最初の一晩でじつはやめさせていただきたかったんです」それは約束がちがうという佐古の顔へ、多鶴子はにやりと微笑を投げかけて、「……いいえ、最初の二晩で、……」と、言った。
 佐古ははっとした。多鶴子は続けて、
「あの晩あんなことがございましたし、……私よっぽどあれきりお店へ出るのよそうと思ったんですけど……」
 佐古の顔をまじろぎもせずに見つめながら、待合へ連れ込まれようとした晩のことを徐々に持ち出した。佐古は引き下らざるを得なかった。玄関まで見送って、
「夜分冷えますのに、御足労でした」多鶴子はそう言葉を残して、すっとなかへ消えてしまった。
 佐古は莫迦にされたような気持でぷりぷりした。多鶴子があんなに周章てて奥へはいったのは、誰かが待っているためだろうと思うと、一層腹が立った。佐古の想像通りだった。豹一が待っていたのである。
 佐古を追っぱらったあとの応接間へ多鶴子が再びはいって来ると、いままで佐古が腰かけていた椅子に豹一がいて、多鶴子が食い残したチョコレートをむしゃむしゃ食べていた。
 わるいところを見つけられたと、豹一は真赧になってしまったが、多鶴子は、
「まあ!」子供の盗み食いを見つけた母親のような顔になった。たとえ、その時豹一が子供のように見えなくとも、そしてまた、どんな見つけられてわるいようなことをしていたとしても、この時の豹一なら多鶴子の気に入った筈だ。佐古のいやな顔を見たあとだったからである。「さあ、いやな奴を追っぱらった。もう二人きりね」
 多鶴子は豹一の傍にぴったり体をつけて坐りながら言った。昨夜から妙にそわそわと落ち着かなかった母親も、多鶴子に無理に説き伏せられて、温泉へ行ってしまった。残るのは女中だけだった。
 豹一と多鶴子の仲が心配していた通りになったとはっきりわかると、ひそかに豹一に恋をしている女中は、すっかりしょげてしまって、溜息ばかしついていた。泪ぐむことさえあった。
 多鶴子はさすがにそれを気づくと、豹一にそのことを冗談めかして言った。
「あんた罪な人ね」恋をすると、いくらか下品な調子が出るのだろうか、多鶴子はそんな風に蓮っ葉に言って、豹一の膝をつねるのだった。
「痛ア!」そんな声を出す自分を、豹一はさすがに浅ましいと思い、昨夜来谷町九丁目の家へ帰らずにいることをふっと思い出し、「お帰り、えらい遅かったな。はよ寝エや、炬燵いれたるさかい」といういつもの母親の声が遠くからチクチク胸を刺して来るのだったが、もはや嫉妬のためにますます多鶴子への恋を強められている豹一には、多鶴子の傍をはなれて家へ帰るなど到底出来そうにもなかった。
 ふとした拍子に豹一が自嘲的に思い泛べた表現を借りていえば、そんな風に多鶴子の「食客」となって、二週間経った。
 恋をしている証拠に、豹一はもはや多鶴子以外になんの興味も感じ得なかった。もともとたいして世上百般のことに興味をもたない彼ではあったが、しかし、少くとも彼の自尊心を刺戟することに対しては情熱的に興味をもっていた。ところが、その自尊心も彼には残り少なかった。そんな風に嫉妬に苦しみながらも多鶴子を愛している以上、自尊心にははじめから兜をぬいでいたのである。
 ところが、一方多鶴子の方は、それがはじめての経験ではないという点だけでも、豹一よりいくらか余裕があった。おまけに、彼女は嫉妬する必要もない。従って彼女には豹一のこと以外になお興味をもち得る余裕があった。「人気」がそれだった。
 彼女は豹一との恋以外になんら為すところのない生活に漸く焦り出して来た。もし彼女が毎晩「オリンピア」へ出掛けて、くだらぬ男たちに取りまかれていたのなら、豹一と一緒にいることにほっとした救いめいたものを感じ、そうした生活に飽くこともなかったわけだが、ただ豹一とばかしいる生活では、折角の豹一の魅力も薄らいで来るのだった。豹一の魅力をほんとうに味うためには、彼女には、やはり「俗物」とまじわることが必要だった。彼女はもう一度返り咲きすることを想った。むろん、それは彼女の虚栄からばかしではなかった。ひとつには生活の資を得る手段でもあった。
 しかし、ともあれ彼女が「人気」への憧れをだんだんに見せるようになったのは、豹一にとっては苦々しいことだった。その持論からいっても苦々しかったが、ひとつはなにか不安気な気持もあったのだ。
 じつは、豹一は多鶴子が矢野を愛したということがどうにも我慢がならず、散々努力したあげく、多鶴子の口から、矢野とああいう関係になったのはみな人気をあげるためで、愛したおぼえは少しもないと無理に言わせて、それをまた自分に無理に思いこませて、僅かに慰めていたのである。だから、彼女がふたたび、「人気」への色気を見せたということは、そのためには彼女はなにをしでかすかもわからぬとして漠然とした不安を、豹一の心に強いる結果になったわけである。
 そしてこの不安は単なる杞憂では終らなかった。

      三

 ある日、多鶴子は用事があると称して、ひとりで外出した。
「どんな用事」とは豹一はなぜかきけなかった。
 そして、女中と二人で留守番をすることになった。
 念入りに化粧して、そわそわと出て行った多鶴子の後姿を見た瞬間から、豹一の心は胸苦しく立ち騒いだ。
 散らかした鏡台を跡かたづけしている女中の顔を見ていると、今しがたまでその鏡に映っていた多鶴子の顔の美しさが想い出された。その美しい顔で誰と会うているのかと思うと、彼の眉のまわりににわかにけわしい嫉妬が集って来た。
 落日の最後の明りが窓硝子を去った。あたりが薄紫色に沈んでしまうと、多鶴子と離れている時間がひしひしと迫って来て、豹一の心を滅入らせた。
 電燈がついた。多鶴子はまだ帰って来なかった。豹一は町へ出掛けることにした。
 南海電車で難波まで来た。そこから、心斎橋筋の雑閙のなかを北の方へ歩いて行った。ついぞこれまでなかったことだが、今夜の豹一はすれ違う男たちの顔が眼について仕方がなかった。なんというおびただしい数の男だろう。その男たちのうちには、多鶴子と踊った者もいるに違いない。また、多鶴子の映画を見てひそかに不逞な想像をしていた者もいるだろう。
(おれは村口多鶴子の恋人だ!)という自負心の満足はしかしちっともなかった。それどころか、いかにもダンスをやりそうな気障な服装の男を見ると、豹一は周章てて首を振った。
 戎橋の上で豹一はふと立止った。
 対岸のキャバレエ「銀座会館」からジャズバンドの騒音がきこえていた。宗右衛門町の青楼の障子に人影が蠢いていた。よく見ると、芸者が客と踊っているのだった。軽薄な腰の動きが豹一の心をしめつけた。冷たい川風が吹きあげていた。
 ふたたび歩き出した途端、傍をすれちがった女のコートを見て、豹一は思わず、あ、寒さを忘れてしまった。多鶴子だった。
 そう気づくより前に、多鶴子の傍に並んで歩いている男の顔を、矢野だと、気がついていた。
「…………」呼ぼうと思ったが声が出ず、豹一は唇まで真蒼になった。
 駆け寄って、いきなり多鶴子の顔を撲る――と、咄嗟に頭に泛んだが、実行出来ず、やっとの想いで足を引き抜くようにしながら、急いで二人の前へ抜け出ると、素知らぬ顔をつくろってゆっくりと歩き出すのが関の山だった。そんな風な下手な思わせぶりなことしか出来ないのを、さすがに悲しいと思ったが、いったん素知らぬ振りをした以上そうして歩き続けるより仕方なかった。うしろから二人が来ると思えば、背中が焼かれるようだった。
 おどろいた多鶴子の顔を想像するという消極的な残酷さを味うのがせめてもだった。
 しかし、矢倉寿司の前まで来ると、豹一はもうそんな思わせぶりな態度が続けて居れず、いきなり振り向いた。
 多鶴子と矢野は宗右衛門町の角で車を拾って、乗り込もうとしていた。ちらと多鶴子が困惑した表情を見せてこちらを向いた。さすがに豹一の心にはとっくに気がついていたのである。
「あ、待て、乗ったらいかん」
 はっきりとそんな風に言ったかどうかは、豹一には記憶がなかった。が、ともかく、矢野のあとから車に乗り込もうとするのを見て、豹一は動物的な叫び声をあげながら、駆け寄った。その時、車は走り出した。多鶴子はじっと前を見たまま、振りむきもしなかった。
 豹一はその表情に取りつく島のない気持を強いられ、なにかいまわしい想像が生々しく頭に閃いた。
「女心はわからぬものだ」月並な表現だと思う余裕もなく、豹一は思わず呟いた。
 家を出るとき、妙にそわついていた多鶴子のありさまにふと不安を感じたのは、やはり虫の知らせだったかと、豹一はわれにもあらず迷信じみた考えを抱いた。
(矢野と打ち合せしてあったにちがいない)その通りだった。
 多鶴子は偶然矢野に会うたわけではなかった。話があるから会いたいと、矢野から場所と時間を指定した手紙が来たのだった。手紙を見た途端に、多鶴子は出掛ける心が決った。豹一に済まない気がしたかどうかは、ここで述べる筋合のものでもあるまい。矢野はやはり自分から逃げていたわけでもなかったと、ともかく多鶴子は頬を燃やしたのだ。いそいそと出掛ける気になりながら豹一に済まないもないものである。因みにいえばたいていの職業をもつ女はそんなに嫌いな男でない限り、話があるといわれれば、出掛けるものである。善良な女ほどそうだ。
 話というのは、多鶴子が思った通り仕事のことであった。
「どうだね。君ひとつレコード歌手にならんかね」会うなり、矢野は事務的な口調で切り出した。
 映画界へ復帰するのは当分困難だし、といって今更もう一度キャバレエ勤めでもあるまい。
「君の声なら案外ブルース物で売り出せると思うのだが……」
「しかし……」全く経験がないから……と、多鶴子がいい出すのを、
「いや、大丈夫だよ」と矢野は押えて、「君さえその気があるなら……」
「レコード会社で使って下さるの?」
「うん。大体あらかじめの話はついているんだ。どうだ? これから会社の人に会おうじゃないか」
「ええ」
 二人はかき船を出て、車を拾った。
 そして、レコード会社の人に会いに行った――かどうかは、説明の限りではない。少くとも豹一にはどうでも良いことだった。もはや彼にとっては、たとえ多鶴子が矢野と会うたのは仕事や人気のためだとわかったところで、なんの気休めにもならないのだ。むしろ、そうだとはっきりわかれば多鶴子の肉体の悲しみにたえきれぬ想いがするところかも知れぬ。かえって、浮気心で矢野に会うていてくれる方が助かるのだった。
 豹一は悲痛な顔をして、暫く自動車の行方を見送っていたが、やがて魂の抜けたような歩き方でとぼとぼと橋の方へ引きかえした。
 橋を渡ってしまうと、あたりはぱっと明るかった。その明りで豹一は財布のなかを調べた。そして、行き当りばったりのスタンドバーでカクテルを飲んだ。
 急に酔がまわって来て、足が頭が体全体がふらついた。
 御堂筋で車を拾った。がっくりと首をたれながら、
「新世界ラジウム温泉横!」
 その言葉と同時に、シイトの上に打っ倒れて、反吐を吐いてしまった。
(あ、汚してしまった)と、後悔したが、運転手に謝る気も起らぬほど動物的な感覚に意識がしびれてしまっていた。
 ラジウム温泉の横で車を降りて、軍艦横町へふらふらとはいって行くと、ききおぼえのある声がふと耳に来た。
(土門の声だな)
 いつか一緒に行った店の暖簾をくぐると、はたして土門と北山がいた。路次まできこえるような大きな声で呶鳴っていたところを見ると、どうやら北山を掴えて議論をしていたらしかったが、土門は豹一の姿を見ると、急に話をやめて、
「や、珍客! 珍客! どないしたはりましてん? いったい、ちょっとは顔見せなはれな。いや、ここじゃないよ。社の方でっせ。――とにかくまあ一杯いこう!」上機嫌な顔を見せた。
 こんな時に思い掛けなく土門に会えたことは、なんとなくありがたい気がして、豹一はすすめられるままに、四五杯続けざまに飲んだ。
「御見事、御見事! それでいくらか血色が良うなりましたわい」
 土門が言うと、箸を無理矢理にカラーの間から背中へいれて、ぽりぽりかゆいところをかいていた北山が、
「いや、ちっとも良くなってません」恐らくさっきからの議論の仕返えしだろうか、土門に逆らうように言って、
「どうしたんです? 血色がわるいですね」
 豹一ははじめていくらか赧くなって、
「さっき車のなかで吐いたんです」苦笑しながら言った。
「それやいけませんね。酒は毒ですよ。あんた方にはまだ酒を飲むのは早い。よした方がいいですね」北山は日頃に似合わぬしんみりした口調で言った。
 豹一はふっと温いものが胸に落ちる想いで、「はあ」素直にきいていた。
 すると、土門が急に笑い声を立てた。
「北山からかうのはよせよ! 貴様がそんな意見が出来た柄か、あ、は、は、……」
 北山の顔を、こいつめとにらみつけた。北山もちょっとにらみかえしぷっと噴き出しそうになるのをこらえながら、済ましこんでいた。
 豹一ははじめて、北山にからかわれていたことに気がついて、気をわるくした。途端に多鶴子のことがチクリと刺す想いで想い出され、気持が沈んだ。
「おい、しっかりしろ」いきなり土門が肩を敲いた。「しょんぼりする手はさらにないと思うがね。愚僧なんかには、なんでそんなに面白くない顔をするのか、わかり、や、せんね。良い恋人をもちながら、まだ不平があるのかね? おい、こら? いっぺんどやしたろか?」
「恋人なんかありませんよ」
「ぬかしたな。村口多鶴子はどうした? ――そんな顔せんといて頂戴んか。ちゃんと聴込みがあるんでっさかい。惚れてるか、惚れられてるか、そこまでは知らんがね」
「惚れてませんよ」
「じゃ、惚れられてるのか? いよいよ以てけしからん」そう言ったが、すぐ土門は、「あ、なるほどわかった」と、大声を出した。
「痴話喧嘩だね。そうだろう?」
 豹一は黙って体を動かした。
「痴話喧嘩ぐらいでくよくよするなよ。なんだ、あんな女。たかが村口多鶴子じゃないか」土門に言われて、豹一は、
「そうですよ。あんな女!」と、言って、こんにゃくをその気もなく口に入れた。口をもぐもぐ動かせながら浅ましい気持をしょんぼり噛んでいた。
「女優で想い出したがね」と、北山が口をはさんだ。「僕の友人で女優のプロマイドをうつすのを商売にしてる奴がいるんだ。そいつからきいた話だがね。そいつがね、浴衣の宣伝写真をうつすことになったんだ。いや、浴衣とはあんまり冬むきじゃないがね。しかし、まあ季節はずれと言えばね、その浴衣の宣伝写真はなんと五月頃にとるってからね。いや、こんなことはどうでも良いことだ。とにかく、奴さんその五月頃にだね、宣伝用の浴衣をもってなんとかいう女優のところへ行ったんだよ。そして、これを着変えて下さいって浴衣を出すとね、別室で着変えると思いきや、その女優はなんたることにや、奴さんの眼の前でぱっとだね……、とにかくあれだよ、浴衣ってものは素肌の上に着るもんだからね、しかし、まあ、おれなら眼をまわさないがね。奴さんともかくやられたらしい。あ、は、は、……凄い女優もいるもんだね」
「感心したか?」土門が口をはさんだ。
「おらあレヴュー小屋の住人だぜ。貴様はどうなんだ? 感心したろう」
「わてはろくろ首を見てもおどろかん。もっとも、見たこともないがね。――感心するとしたら、こちら様だろう」土門は豹一を指した。
 豹一はからかわれていることに腹を立てる余裕もなかった。北山の話が豹一の心に与えた効果は、そんな余裕があるには、余りにどぎつすぎたのである。
 その夜、豹一は二人に誘われて飛田遊廓で一夜を明かした。
 高等学校時代、赤井や野崎に誘われても頑として応じなかった豹一も、いまは自虐的な気持から、二人のあとに随いて行った。
 女は長崎県松浦郡の五島から来たと、言った。女が親元へ出す手紙の代筆をしてやりながら、いろいろ女の身の上話をきいた。
「こんな生活をどう思う?」
「馴れてますわ」
「はじめはしかし、いやだったろう? 悲しいと思ったろう?」豹一の顔は残酷なほど凄んでいた。
 しかし、結局は金に換算される一種の労働に過ぎないと、女が思い諦めているのを知ると、だしぬけに豹一の心は軽くなった。今まで根強く嫌悪していたものが、ここでは日常茶飯事として、取引されているのだ。
「平気だ! 平気だ!」
 豹一は洗面所の鏡に蒼ざめた顔をうつしながら、声を出して呟いた。
(多鶴子とこの女とどちらがちがうのだ!)
 けれども、さすがに部屋にいて窓の下を走る車のヘッドライトが暗闇の天井を一瞬間明るく染めたのを見ると、夜更のしみじみとした感じも手伝って、遠く多鶴子のことが慟哭の思いで頭にうかんで来た。

      四

 朝、豹一は魂の抜けたような気持であったが、心はようやく一時的に落ち着いていた。夜の色がだんだんに薄紫色に薄らいで行き、やがて東の空が橙色に燃え出すと多鶴子と別々にすごした悩ましい時間ももはやどこかへ消え去ってしまった想いで、じたばたと立ち騒ぐ心も諦めのなかに沈んでしまった。
 しかし、土門や北山と別れて、ラジウム温泉にはいり、広い浴槽のタイルにより掛って、虚ろな気持で体に湯を掛け湯を掛けしていると、ふと多鶴子のさびのある声をもう一度ききたいと思った。
 ラジウム温泉を出ると、公衆電話のなかへ飛び込んだ。五銭白銅を入れて、待っている一瞬、胸さわぎした。多鶴子の電話の声が美しかったことを想い出した。
「通じましたから、お話し下さい」交換手の声に、多鶴子の家の内部が見える思いだった。女中が電話口に出ていた。多鶴子はいるかときくと、
「只今、お留守でございますが……」それでは、やはり昨夜から帰っていなかったのかと、改めて淋しい気持になり、
「あ、そうですか。失礼しました」と、切ろうとすると、女中は豹一の声だと察したらしく、
「あんた、毛利さん? なぜ昨夜お帰りにならなかった? 先生と御一緒じゃなかったの? ――そう? あんたいまどこ? 早く帰って来て下さいな。私ひとりなのよ、淋しいわ」
 帰るもんかと、豹一は電話を切った。しかし、帝塚山へ帰らないとすれば、もう豹一の帰るところは、谷町九丁目の家よりほかになかった。
 新聞社をやめて、おまけに多鶴子の家で「食客」同様の生活をしていた以上、心にかかりながら、やはり母親に会わす顔がないままにずるずると遠のいて半月も経っていたのである。
 いまさら帰れないと、豹一は背中を焼かれる思いだったが、しかし、もはやそこよりほかに帰って行くところがないというより、なんの前ぶれもなしに突然のように姿を消してしまった自分を、身を切られる想いで心配しているだろう母親のやつれた顔を想えば、足は自然谷町の方へ向いた。
 さすがにいつもの出入口からようはいらず、「野瀬商会」と暖簾の出ている方からまるで質札を売りに来た男のような態度で、こっそりはいった。
 店の間には誰もいなかった。
 かつて時々店番をさせられ、質札を売りに来た客の応待をしていた小さなテーブルによりかかって、暫く躊躇っていたが、やがて、「御用の方はこのベルを押すこと」と無愛想な文句で貼紙されているベルを押した。
「へい――」
 長くひっぱるような声がきこえて、おいでやすと、やがて母親が出て来た。客に見せる愛想笑いを顔に釘づけながら出て来たのだが、豹一の顔を見た途端、その笑がすっと崩れたが、すぐ、こんどはこぼれるばかりの嬉しい表情が泛びあがって来て、唇がわなわなとふるえ、眼に涙が来た。そして、きんきんした顔で、
「ああ、びっくりした。お前やったんか。どないしてたんや。阿呆やな。こんなところからはいって来る人があるかいな。さあ、あっちからはいらんかいな」叱りつけるように言った。
「ここからでも良えやろ」豹一はぼそんと打っ切ら棒に言った。
 それで、母子の挨拶になった。水いらずの気持だった。
「ほんまにどないしてたんや。会社の仕事やったんか。字がなんぼでも書けるんやさかい、手紙ぐらい出さんいう子があるかいな」嬉しさの照れかくしに、そんな風に叱りつけていたが、やがて奥へすっこんで、「豹一が帰って来ましたぜ」安二郎に言っていた。
 安二郎の呶鳴りつけるような声が、咳ばらいと一緒にきこえて来た。豹一はちょっと身がすくんだ。その拍子に多鶴子の顔がだしぬけに頭をかすめた。すると、眼の前が血の色に燃えて、安二郎の前に出た豹一の顔は今日はじめての生気を取り戻していた。呶鳴りつけるなら、勝手に呶鳴りつけろといった顔であった。
 そんな顔色を見なくとも、安二郎はむろん呶鳴りつけたいところであった。しかし、安二郎はじっと我慢した。
 安二郎にとっては、豹一が半月家をあけようと、一月家をあけようと、そんなことはどうでもよかった。ただ、三日前の節季に豹一がいなかったということは、はなはだ残念なことであった。貰うべき下宿代も貰えなかったのだ。それだけが癪だった。だから、顔を見るなり、呶鳴りつけたい気持だったが、しかしさすがに安二郎は慎重だった。下手に呶鳴りつけて、怒らすと再び飛び出してしまうおそれがあると、豹一の気性をのみこんでいたから、お君が嬉し涙をこぼしたほど、口調を柔らげたのである。
「家をあけるのは、そら構へんぜ、しゃけど、きまりだけはきちんとしといてもらおう。節季はもう過ぎてるぜ」それだけを言った。
 頭から呶鳴りつけて来るものと身構えていたから、豹一はすかされた気持だった。
(なるほど、金のことを言いやがったわい)豹一は思わずにやりと微笑した。
 一見はなはだ和かな風景であった。
「利子をつけてお渡しします」
「いつくれるんね?」
「今夜お渡しします」
「そうか? 間違いなや」
 安二郎はちらと上機嫌な表情を見せた。お君が豹一のために食事を出してやっているのを見ても、この際いやな顔はせぬことにした。
 母親の給仕でお茶漬を食べていると、豹一はじーんと気が遠くなるほど、頭の底が静まって、放心したような快いけだるさが感じられた。食べなれた漬物の味もなつかしかった。食事が終ると、豹一は再びオーバーを着た。
「どこへ行くねや?」
「社へ金もらいに行くねや」
「真っ直ぐ帰っといでや」
「大丈夫や」そう言って、家を出た。
 北浜二丁目で電車を降りて、東洋新報のビルの方へ歩き出しながら、豹一はさすがに浅ましい気がした。安二郎に渡す必要がなければ、おめおめ日割勘定のサラリーを貰いに行かないだろうと、思った。
 ビルの前の掲示板に、その日の夕刊が貼出されてあった。それをちらっと見ると豹一はもはや自分がここの社員ではないということがはっきりと意識され、こそこそと玄関をくぐった。
 会計へ出頭して、先月の中頃に退社したものだが、半月だけはたしかに出勤した故、もしや規程でその日割勘定でもらえることになっているのだったら、いま受け取りたいのだがと、半泣きの顔で早口に言うと、会計係は名前をきいて、
「あ、君のサラリーまだだったね。君、やめたの?」
 と、言いながら、褐色の俸給袋を渡してくれた。毛利豹一殿と殿をつけて表に書いてあるのを、なにか不思議なくらい鄭重に扱われた気持で気持よく見ながら、玄関を出てから、封を切ってみると、一月分のサラリーがそっくりそのままはいっていた。
 豹一はふたたび会計のところへ戻って、なにかの間違いではないかと言った。
「さあ。僕にはわからん、君、まだ辞職届を出してへんかったのとちがうか。届が出てなかったら、こっちは辞めてないもんと認めるさかいな。一月分渡さんならん。しかし、まあ、多いよって、文句はないやろ」
「そんなら、僕はまだ馘首になっていないんですか。もう半月も無断で休んでるのですが」そうきいていると、うしろから不意に、
「気の弱い奴だな」声がした。振り向くと、土門が前借の伝票をもって立っていた。「そんなことで新聞記者が勤まるか。半月ぐらい休んだかて、なにが馘首になるもんか。君、撲られて気絶したんだろう? 一月ぐらい入院して、当り前のところだ」そう土門は言った。
「しかし、……」そのために「中央新聞」に書かれて、社に迷惑を掛けたのだから……と、言うと、土門は、会計係と前借のことで押問答しながら、
「うちの社はそんなことで馘首にするような水くさい社とちがう。水くさいのは会計だけや」背中で言って、「さあ、編輯長に挨拶して来給え。君の姿が見えんから、えらい淋しがっとる。奴さん、君に気があるんだよ。用心し給え」そしてまた会計係とぶつぶつ押問答をはじめた。
 しかし、豹一は動こうともしなかった。なぜか編輯長に会わせる顔がないと思った。
「さあ早く行った、行った。行くなら早い方が良いぞ。じらすのは悪い。君のにおいがもう二階までにおってるからね。奴さん気が気じゃないよ。君のように、そうものごとにいちいちこだわってると、北山みたいに頭がはげあがるよ」
 土門に言われて、豹一は、(そうだ。このまま編輯長に会わずに帰るのは、かえって失礼になる。たとえ辞めるにしても一応断ってからにするのが礼儀だ)と、思いながら、やっと二階への階段をあがって行った。
 その気の弱さと紙一重の裏あわせになっている豹一の気持から推して、普通なら、黙ってしまうところだった。そしてお互い気まずい想いをし、あげくは、相手が怒っているだろうと気をまわして、その必要もないのに敵愾心すら抱くような破目になるところだった。だから、そのように編輯長に会う気になれたことは、豹一にとっては嬉しかった。
 果して結果はよかった。編輯長は豹一の顔を見るなり、
「どないしてたんや? えらい心配してたんやぜ。君、物凄い立廻りやった言うことやな」笑いながら言った。
「はあ。そのことでお詫び……」と、豹一が言いかけるのを、終いまで言わさず、
「構へん。構へん。気にしなや。よその新聞に書かれたぐらいで気にしたらあかん」
「でもあんな風に書かれましたら、……」
「どない書きよっても構へんやないか。君はなにか、中央新聞の記事を認めるのんか。中央新聞の威力におそれを成してるのんか。君は中央新聞の廻し者とちがうやろ? そやろ? そんなら、あんな記事黙殺したら良えやないか。それよりうちの新聞にひとつ良え記事書いてえな」その言葉で、馘首ではなかったことがはっきりわかったも同然だった。
 豹一はこれまであらゆる人間を敵愾心の対象にしていた。人を見れば泥棒と思えのでん[#「でん」に傍点]で、人さえ見れば自尊心を傷つけて掛って来るものと思って、必要以上に敵愾心を燃やしていたのである。
 ところが、そうした編輯長の大阪弁まるだしのとぼけた話し振りに接していると、なにかしみじみとした雰囲気に甘くゆすぶられる想いで彼は敵愾心に苛立っている日頃の自分の醜さに恥しくなった。豹一は泣きたいぐらいの甘い気持で、編輯室を辞した。
 外に土門が待っていた。
「どうだった?」
「馘首じゃなかったです」そう言うと、土門は、
「そうだろう? おれの言うことに間違いはないだろう? 感心したろう?」
「はあ、感心しました」
「二円貸してくれ」
 この際、こんな風に金を借りられることもなにか気持が良かった。
「ああ」軽く答えて、俸給袋を取りだしながら、すっかり心が軽くなっていた豹一は柄にもない冗談をふと言ってみたくなった。
「あのね、土門さん。お貸ししますがね。この前の借金はあれはもう何年ぐらいあとでかえしていただけますか?」
 土門の手に金を渡しながら、そんな拙い冗談を言った。思い掛けない豹一のそんな冗談に土門は瞬間あっという顔を見せたが、さすがに、
「じゃあ、とにかく内金を入れて置こう。さあ、二円かえしたよ。帳面から引いといてくれ給え」今豹一から受け取ったばかしの金を、再び豹一にかえした。「ところで、その金で飯を食おうじゃないか」
「食いましょう」豹一はさすがは土門だと、げらげら笑いながら、言った。
 支那料理屋を出ると、あたりはすっかり黄昏の色だった。豹一はそのまま土門と別れて帰るのが惜しいというより、ひとりになって孤独な気持のなかに閉じこもるのが怖かった。
「どうです? 活動でもみませんか?」豹一は土門を誘った。
「よし来た」
 千日前へ出た。活動小屋の看板を見あげて歩きながら、土門は片っ端から演し物をこきおろした。弥生座の前まで来ると、土門は、
「東銀子どうしたか、君知ってるか?」と、訊いた。
 知らないと答えると、土門は、
「失踪したんだ。行方不明なんだ。余り皆んながひどい目に会わせやがったんで、到頭小屋を逃げ出したんだ。悲しいこった。――ところで、このことでいちばん悲観してるのは、いったい誰だと思う?」
「北山さんでしょう?」
「半分当った。じつは、このおれもだ。いや、案外君もその一味かも知れんぞ! あ、は、は、……」土門の笑い声が寒空に響くのを、豹一はしょんぼりした気持できいた。
 ある三流小屋の前まで来ると、豹一ははっと顔をそむけた。村口多鶴子の主演している古い写真がセカンドで掛っているのだった。絵看板のなかで、あくどい色に彩られた多鶴子の顔がイッと笑っていた。こそこそと通り過ぎようとすると、土門が、
「おい、君の恋人の写真やってるぞ! 見ようじゃないか」と、引き止めた。
 豹一は怖い顔をして、切符売場へ寄って行った。
「切符はいらんよ」土門が言った声も、殆んどきこえなかった。
 黒い幕をあげて、なかへはいると、いきなり多鶴子の声だった。顔だった。肢態だった。幅のひろい、しかし痩せた肩をいからせ気味に、首をうしろへそらして、うっとりとした眼で、男に取りすがり、
「…………」
 なにを言ってるのか、豹一にはききとれなかった。涙がいっぱいの気持だった。なまなましい多鶴子の肢態の記憶が豹一の胸をしめつけていた。痛いような嫉妬が、多鶴子の白い胸のホクロひとつにまで哀惜を覚える心とごっちゃになって、豹一は身動きもせず、じっとスクリーンを見つめていた。
 だんだんたまらなくなってきた。
 写真のなかの多鶴子はピストルを握って、男に迫った。
「こりゃ。良きじゃね」
 土門が豹一に囁くために、ふと横を向くと、いつのまにか豹一の姿が見えなくなっていた。

      五

 小屋を出るとすっかり夜だった。盛り場の灯がチリチリと冷たく、輝いていた。
 豹一は薄暗い電車通に添うて、谷町九丁目の方へ帰って行った。
 下寺町の坂下まで来ると、急にぱっと明るくなった。停留所の前のカフェのネオンが点滅しているのだった。
 うなだれていた顔をあげて、ふとその方を見ると、真っ白に白粉をつけて、カフェの入口に立っている女の視線と打っ突かった。
「お兄さん。おはいりやすな」女は眼のまわりに皺をつくって、笑った。その笑いがネオンの色に、赤く染まり青く染った。
 豹一はあわてて視線をそらし、寒々とした気持で坂を登りかけたが、だしぬけに、
(あの女を口説いてやろう)と、変なことを思いついた。
 豹一はひきかえして、カフェのなかへはいって行った。入口に立っていた女が傍へ来た。
 豹一はぱっと赧くなった切りで、物を言おうとすると体がふるえた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、すべての女に対する嫌悪と復讐の気持に凄んだ表情を、交互にその子供っぽい美しい顔に泛べながら、豹一はじっと女を見据えていた。
 その夜、その女は豹一のものになった。自分から誘惑して置いて、
「お前は馬鹿な女だ」と、言ってきかせ、醜悪に固くなっている女のありさまを、残酷な快感を味いながら、じっと見つめた。そして、女をさげすみ、自分をさげすんだ。女は友子といい、豹一より一つ年下の十九歳だった。初心だが、醜い女だった。
「こんなことになったら、もうあんたと別れられへんわ」乾いた声で言った。なにか哀れだった。
 豹一はふと、多鶴子もこんな哀れなありさまを矢野に見せたことがあるのだろうかと、辛い気持で見ていた。
「捨てんといてね」友子は何度も言った。そして、豹一の膝に頭をくっつけたまま離れなかった。膝が熱くなって来た。
 死んだように生気のない頭髪を、豹一はちょっと触ってから、いきなり友子を突き離した。
 それきり、友子に会わなかった。
 三月経った。
 ある日、豹一が日本橋筋一丁目の交叉点を横切っていると、うしろから、女の声で呼び止められた。振り向くと、友子が着物の裾を醜くみだして、追って来るのだった。はっと立止ったが、信号が黄に変っていたので、豹一はその気もなくどんどん横切ってしまった。なにか逃げているような気がした。
 友子は信号にかまわず横切って来た。
「あんた探してたんやわ」傍へ来ると、友子はもう涙ぐんでいた。
 近くの木村屋の喫茶店へはいった。ソーダ水のストローをこなごなに噛み千切りながら、友子は妊娠している旨豹一に言った。
 豹一ははっとした。友子は白粉気なくて、蒼ぐろい皮膚を痛々しく見せていた。唇に真赤に口紅がついていたが、それが一層みすぼらしく見えた。好みのわるい小さなマフラを、羽織の紐の下へ通して掛けていた。
 豹一はふと、
(ショールを買ってやろう)と、思った。豹一は友子と結婚した。
 谷町九丁目の路次裏に二階を借りて、豹一は毎朝新聞社へ出掛けた。
 その年の秋、豹一は見習記者から一人前の記者に昇進した。従って、五円昇給した。友子はそれを機会に、豹一に頭髪を伸ばすことをすすめた。
 豹一の頭髪が漸く七三にわけられるようになった頃、友子は男の子を産んだ。産気づいたことが、母親の声で新聞社へ電話された。
 豹一は火事場に駈けつけるような恰好で、飛んで帰った。産婆が来ていた。
 階下の台所を借りて湯をわかしていた母親は、豹一の顔を見るなり、
「はよ、二階へ行ったりイ。両方の肩をしっかり持ってたるんやぜ」と、言った。
 豹一は友子の枕元に坐って、友子の肩を掴んだ。友子は、苦しそうに、うん、うん、うなっていたが、たまりかねたのか、豆絞の手拭をぎりぎりと噛み出した。
 陣痛がはじまっていたのだ。友子の眼のふちは不気味なほど黝んでいた。豹一は、じっとそのあたりを見つめていた。
「さあ、もうちょっとの辛抱や。しっかり力みなはれや。聟さんもしっかり肩を抑えたりなはれや。もうちょっとや」
 産婆の声をきいていると、豹一は友子の苦痛がじかに胸にふれて来て、もう顔を正視することが出来なかった。
(このまま死ぬのじゃないだろうか?)ふと、そんなことを想って、ぞっとした。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏!」
 いつの間にあがって来たのか、母親が産婆の横にちょこんと座って、念仏を低く唱え、唱えしていた。
 豹一は眼をつぶった。
「はあッ」産婆の掛声に豹一は眼をひらいた。友子の低い鼻の穴が大きくひらいた。その途端、赤児の黒い頭が豹一の眼にはいった。そして、まるくなった体がするすると、出て来た。
 産声があがった。豹一は涙ぐんだ。いままで嫌悪していたものが、この分娩という一瞬のために用意されていたのかと、女の生理に対する嫌悪がすっと消えてしまった。なにか救われたような気持だった。
「よかった。よかった」と、いいながら、部屋のなかをうろうろ歩きまわった。
「じっとしてんかいな」母親が叱りつけた。
 豹一はふと膝のあたりに痛みを感じた。枕元に鋏が落ちていて、豹一はその上に膝をついていたのだった。
 その日、産声が空に響くようなからりとした小春日和だったが、翌日からしとしと雨が降り続いた。四畳半の部屋一杯にお襁褓が万国旗のように吊された。
 お君は暇を盗んでは、豹一のところへしげしげとやって来た。
 火鉢の上へかざしたお襁褓の両端を持ちあいながら、豹一とお君は、
「乳母車を買わんならんな」
「そやな」
「まだ乳母車は早いやろか」
 そんな風なことを話しあった。やがて、お君は、
「早よ帰らんと叱られるさかい、帰るわ」そう言って立ち上り、買って来た赤ん坊の玩具をこそこそと出して、友子の枕元に置くと、また来まっさ、さいなら。
 雨の中を帰って行った。
 一雨一雨冬に近づく秋の雨がお君の傘の上を軽く敲いた。



底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版株式会社
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7) 年3月20日第3版発行
入力:小林繁雄
校正:伊藤時也
2000年3月18日公開
2000年8月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

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