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夫婦善哉《めおとぜんざい》
織田作之助

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例夫婦善哉《めおとぜんざい》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一銭|天婦羅《てんぷら》

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(例)まむし[#「まむし」に傍点]
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 年中借金取が出はいりした。節季はむろんまるで毎日のことで、醤油屋《しょうゆや》、油屋、八百屋《やおや》、鰯屋《いわしや》、乾物屋《かんぶつや》、炭屋、米屋、家主その他、いずれも厳しい催促《さいそく》だった。路地の入り口で牛蒡《ごぼう》、蓮根《れんこん》、芋《いも》、三ツ葉、蒟蒻《こんにゃく》、紅生姜《べにしょうが》、鯣《するめ》、鰯など一銭|天婦羅《てんぷら》を揚《あ》げて商っている種吉《たねきち》は借金取の姿が見えると、下向いてにわかに饂飩粉《うどんこ》をこねる真似《まね》した。近所の小供たちも、「おっさん、はよ牛蒡《ごんぼ》揚げてんかいナ」と待てしばしがなく、「よっしゃ、今揚げたアるぜ」というものの擂鉢《すりばち》の底をごしごしやるだけで、水洟《みずばな》の落ちたのも気付かなかった。
 種吉では話にならぬから素通りして路地の奥《おく》へ行き種吉の女房《にょうぼう》に掛《か》け合うと、女房のお辰《たつ》は種吉とは大分|違《ちが》って、借金取の動作に注意の目をくばった。催促の身振《みぶ》りが余って腰《こし》掛けている板の間をちょっとでもたたくと、お辰はすかさず、「人さまの家の板の間たたいて、あんた、それでよろしおまんのんか」と血相かえるのだった。「そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
 芝居《しばい》のつもりだがそれでもやはり興奮するのか、声に泪《なみだ》がまじる位であるから、相手は驚《おどろ》いて、「無茶いいなはんナ、何も私《わて》はたたかしまへんぜ」とむしろ開き直り、二三度|押問答《おしもんどう》のあげく、結局お辰はいい負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想《おも》いで渡《わた》さねばならなかった。それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘《してき》されると、何ともいい訳けのない困り方でいきなり平身低頭して詫《わ》びを入れ、ほうほうの体《てい》で逃《に》げ帰った借金取があったと、きまってあとでお辰の愚痴《ぐち》の相手は娘《むすめ》の蝶子《ちょうこ》であった。
 そんな母親を蝶子はみっともないとも哀《あわ》れとも思った。それで、母親を欺《だま》して買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭を盗《ぬす》んだりして来たことが、ちょっと後悔《こうかい》された。種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き合わぬと見えたが、種吉は算盤《そろばん》おいてみて、「七|厘《りん》の元を一銭に商って損するわけはない」家に金の残らぬのは前々の借金で毎日の売上げが喰込《くいこ》んで行くためだとの種吉の言い分はもっともだったが、しかし、十二|歳《さい》の蝶子には、父親の算盤には炭代や醤油代がはいっていないと知れた。
 天婦羅だけでは立ち行かぬから、近所に葬式《そうしき》があるたびに、駕籠《かご》かき人足に雇《やと》われた。氏神の夏祭には、水着を着てお宮の大提燈《おおぢょうちん》を担いで練ると、日当九十銭になった。鎧《よろい》を着ると三十銭あがりだった。種吉の留守にはお辰が天婦羅を揚げた。お辰は存分に材料を節約《しまつ》したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身《かたみ》の狭《せま》い想いをし、鎧の下を汗《あせ》が走った。
 よくよく貧乏《びんぼう》したので、蝶子が小学校を卒《お》えると、あわてて女中奉公《じょちゅうぼうこう》に出した。俗に、河童《がたろ》横町の材木屋の主人から随分《ずいぶん》と良い条件で話があったので、お辰の頭に思いがけぬ血色が出たが、ゆくゆくは妾《めかけ》にしろとの肚《はら》が読めて父親はうんと言わず、日本橋三丁目の古着屋《ふるてや》へばかに悪い条件で女中奉公させた。河童《がたろ》横町は昔《むかし》河童《かっぱ》が棲《す》んでいたといわれ、忌《きら》われて二束三文《にそくさんもん》だったそこの土地を材木屋の先代が買い取って、借家を建て、今はきびしく高い家賃も取るから金が出来て、河童は材木屋だと蔭口《かげぐち》きかれていたが、妾が何人もいて若い生血を吸うからという意味もあるらしかった。蝶子はむくむく女めいて、顔立ちも小ぢんまり整い、材木屋はさすがに炯眼《けいがん》だった。
 日本橋の古着屋で半年余り辛抱《しんぼう》が続いた。冬の朝、黒門《くろもん》市場への買出しに廻《まわ》り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除《そうじ》している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを見て、そのままはいって掛け合い、連《つ》れ戻《もど》した。そして所望《しょもう》されるままに曾根崎《そねざき》新地《しんち》のお茶屋へおちょぼ(芸者の下地《したじ》ッ子《こ》)にやった。
 種吉の手に五十円の金がはいり、これは借金|払《ばら》いでみるみる消えたが、あとにも先にも纏《まと》まって受けとったのはそれきりだった。もとより左団扇《ひだりうちわ》の気持はなかったから、十七のとき蝶子が芸者になると聞いて、この父はにわかに狼狽《ろうばい》した。お披露目《ひろめ》をするといってもまさか天婦羅を配って歩くわけには行かず、祝儀《しゅうぎ》、衣裳《いしょう》、心付けなど大変な物入りで、のみこんで抱主《かかえぬし》が出してくれるのはいいが、それは前借になるから、いわば蝶子を縛《しば》る勘定《かんじょう》になると、反対した。が、結局持前の陽気好きの気性が環境《かんきょう》に染まって是非に芸者になりたいと蝶子に駄々《だだ》をこねられると、負けて、種吉は随分工面した。だから、辛《つら》い勤めも皆《みな》親のためという俗句は蝶子に当て嵌《はま》らぬ。不粋《ぶすい》な客から、芸者になったのはよくよくの訳があってのことやろ、全体お前の父親は……と訊《き》かれると、父親は博奕打《ばくちう》ちでとか、欺されて田畑をとられたためだとか、哀れっぽく持ちかけるなど、まさか土地柄《とちがら》、気性柄蝶子には出来なかったが、といって、私《わて》を芸者にしてくれんようなそんな薄情《はくじょう》な親テあるもんかと泣きこんで、あわや勘当《かんどう》さわぎだったとはさすがに本当のことも言えなんだ。「私のお父つぁんは旦《だん》さんみたいにええ男前や」と外《そ》らしたりして悪趣味《あくしゅみ》極まったが、それが愛嬌《あいきょう》になった。――蝶子は声自慢《こえじまん》で、どんなお座敷《ざしき》でも思い切り声を張り上げて咽喉《のど》や額に筋を立て、襖紙《ふすまがみ》がふるえるという浅ましい唄《うた》い方をし、陽気な座敷には無くてかなわぬ妓《こ》であったから、はっさい(お転婆《てんば》)で売っていたのだ。――それでも、たった一人《ひとり》、馴染《なじ》みの安化粧品問屋《やすけしょうひんどんや》の息子《むすこ》には何もかも本当のことを言った。
 維康柳吉《これやすりゅうきち》といい、女房もあり、ことし四つの子供もある三十一歳の男だったが、逢《あ》い初めて三月《みつき》でもうそんな仲になり、評判立って、一本になった時の旦那《だんな》をしくじった。中風で寝《ね》ている父親に代って柳吉が切り廻している商売というのが、理髪店《りはつてん》向きの石鹸《せっけん》、クリーム、チック、ポマード、美顔水、ふけとりなどの卸問屋《おろしどんや》であると聞いて、散髪屋へ顔を剃《そ》りに行っても、其店《そこ》で使っている化粧品のマークに気をつけるようになった。ある日、梅田《うめだ》新道《しんみち》にある柳吉の店の前を通り掛ると、厚子《あつし》を着た柳吉が丁稚《でっち》相手に地方送りの荷造りを監督《かんとく》していた。耳に挟《はさ》んだ筆をとると、さらさらと帖面《ちょうめん》の上を走らせ、やがて、それを口にくわえて算盤《そろばん》を弾《はじ》くその姿がいかにもかいがいしく見えた。ふと視線が合うと、蝶子は耳の附根《つけね》まで真赧《まっか》になったが、柳吉は素知らぬ顔で、ちょいちょい横眼《よこめ》を使うだけであった。それが律儀者《りちぎもの》めいた。柳吉はいささか吃《ども》りで、物をいうとき上を向いてちょっと口をもぐもぐさせる、その恰好《かっこう》がかねがね蝶子には思慮《しりょ》あり気に見えていた。
 蝶子は柳吉をしっかりした頼《たの》もしい男だと思い、そのように言《い》い触《ふ》らしたが、そのため、その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰《とりざた》した。酔《よ》い癖《ぐせ》の浄瑠璃《じょうるり》のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚《ぶた》の皮身を味噌《みそ》で煮《に》つめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名《あだな》がついていたくらいだ。
 柳吉はうまい物に掛けると眼がなくて、「うまいもん屋」へしばしば蝶子を連れて行った。彼にいわせると、北にはうまいもんを食わせる店がなく、うまいもんは何といっても南に限るそうで、それも一流の店は駄目や、汚《きたな》いことを言うようだが銭を捨てるだけの話、本真《ほんま》にうまいもん食いたかったら、「一ぺん俺《おれ》の後へ随《つ》いて……」行くと、無論一流の店へははいらず、よくて高津《こうづ》の湯豆腐屋《ゆどうふや》、下は夜店のドテ焼、粕饅頭《かすまんじゅう》から、戎橋筋《えびすばしすじ》そごう横「しる市」のどじょう汁《じる》と皮鯨汁《ころじる》、道頓堀《どうとんぼり》相合橋東詰《あいおいばしひがしづめ》「出雲屋《いずもや》」のまむし[#「まむし」に傍点]、日本橋「たこ梅」のたこ、法善寺境内「正弁丹吾亭《しょうべんたんごてい》」の関東煮《かんとだき》、千日前|常盤座《ときわざ》横「寿司《すし》捨」の鉄火巻と鯛《たい》の皮の酢味噌《すみそ》、その向い「だるまや」のかやく[#「かやく」に傍点]飯《めし》と粕じるなどで、いずれも銭のかからぬいわば下手《げて》もの料理ばかりであった。芸者を連れて行くべき店の構えでもなかったから、はじめは蝶子も択《よ》りによってこんな所へと思ったが、「ど、ど、ど、どや、うまいやろが、こ、こ、こ、こんなうまいもんどこイ行ったかて食べられへんぜ」という講釈を聞きながら食うと、なるほどうまかった。
 乱暴に白い足袋《たび》を踏《ふ》みつけられて、キャッと声を立てる、それもかえって食慾《しょくよく》が出るほどで、そんな下手もの料理の食べ歩きがちょっとした愉《たの》しみになった。立て込んだ客の隙間《すきま》へ腰を割り込んで行くのも、北新地の売れっ妓の沽券《こけん》に関《かか》わるほどではなかった。第一、そんな安物ばかり食わせどおしでいるものの、帯、着物、長襦袢《ながじゅばん》から帯じめ、腰下げ、草履《ぞうり》までかなり散財してくれていたから、けちくさいといえた義理ではなかった。クリーム、ふけとりなどはどうかと思ったが、これもこっそり愛用した。それに、父親は今なお一銭天婦羅で苦労しているのだ。殿様《とのさま》のおしのびめいたり、しんみり父親の油滲《あぶらじ》んだ手を思い出したりして、後に随いて廻っているうちに、だんだんに情緒《じょうちょ》が出た。
 新世界に二|軒《けん》、千日前に一軒、道頓堀に中座の向いと、相合橋東詰にそれぞれ一軒ずつある都合五軒の出雲屋の中でまむし[#「まむし」に傍点]のうまいのは相合橋東詰の奴《やつ》や、ご飯にたっぷりしみこませただし[#「だし」に傍点]の味が「なんしょ、酒しょが良う利いとおる」のをフーフー口とがらせて食べ、仲良く腹がふくれてから、法善寺の「花月《かげつ》」へ春団治《はるだんじ》の落語を聴《き》きに行くと、ゲラゲラ笑い合って、握《にぎ》り合ってる手が汗をかいたりした。
 深くなり、柳吉の通い方は散々|頻繁《ひんぱん》になった。遠出もあったりして、やがて柳吉は金に困って来たと、蝶子にも分った。
 父親が中風で寝付くとき忘れずに、銀行の通帳と実印を蒲団《ふとん》の下に隠《かく》したので、柳吉も手のつけようがなかった。所詮《しょせん》、自由になる金は知れたもので、得意先の理髪店を駆《か》け廻っての集金だけで細かくやりくりしていたから、みるみる不義理が嵩《かさ》んで、蒼《あお》くなっていた。そんな柳吉のところへ蝶子から男履《おとこば》きの草履を贈《おく》って来た。添《そ》えた手紙には、大分永いこと来て下さらぬゆえ、しん配しています。一同舌をしたいゆえ……とあった。一度話をしたい(一同舌をしたい)と柳吉だけが判読出来るその手紙が、いつの間にか病人のところへ洩《も》れてしまって、枕元《まくらもと》へ呼び寄せての度重なる意見もかねがね効目《ききめ》なしと諦《あきら》めていた父親も、今度ばかりは、打つ、撲《なぐ》るの体の自由が利かぬのが残念だと涙《なみだ》すら浮《うか》べて腹を立てた。わざと五つの女の子を膝《ひざ》の上に抱《だ》き寄せて、若い妻は上向いていた。実家へ帰る肚を決めていた事で、わずかに叫《さけ》び出すのをこらえているようだった。うなだれて柳吉は、蝶子の出しゃ張り奴《め》と肚の中で呟《つぶや》いたが、しかし、蝶子の気持は悪くとれなかった。草履は相当無理をしたらしく、戎橋《えびすばし》「天狗《てんぐ》」の印がはいっており、鼻緒《はなお》は蛇《へび》の皮であった。
「釜《かま》の下の灰まで自分のもんや思たら大間違いやぞ、久離《きゅうり》切っての勘当……」を申し渡した父親の頑固《がんこ》は死んだ母親もかねがね泣かされて来たくらいゆえ、いったんは家を出なければ収まりがつかなかった。家を出た途端《とたん》に、ふと東京で集金すべき金がまだ残っていることを思い出した。ざっと勘定して四五百円はあると知って、急に心の曇《くも》りが晴れた。すぐ行きつけの茶屋へあがって、蝶子を呼び、物は相談やが駈落《かけお》ちせえへんか。
 あくる日、柳吉が梅田の駅で待っていると、蝶子はカンカン日の当っている駅前の広場を大股《おおまた》で横切って来た。髪《かみ》をめがねに結っていたので、変に生々しい感じがして、柳吉はふいといやな気がした。すぐ東京行きの汽車に乗った。
 八月の末で馬鹿《ばか》に蒸し暑い東京の町を駆けずり廻り、月末にはまだ二三日|間《ま》があるというのを拝み倒《たお》して三百円ほど集ったその足で、熱海《あたみ》へ行った。温泉芸者を揚げようというのを蝶子はたしなめて、これからの二人《ふたり》の行末のことを考えたら、そんな呑気《のんき》な気イでいてられへんともっともだったが、勘当といってもすぐ詫びをいれて帰り込む肚の柳吉は、かめへん、かめへん。無断で抱主のところを飛出して来たことを気にしている蝶子の肚の中など、無視しているようだった。芸者が来ると、蝶子はしかし、ありったけの芸を出し切って一座を浚《さら》い、土地の芸者から「大阪《おおさか》の芸者衆にはかなわんわ」と言われて、わずかに心が慰《なぐさ》まった。
 二日そうして経《た》ち、午頃《ひるごろ》、ごおッーと妙《みょう》な音がして来た途端に、激《はげ》しく揺《ゆ》れ出した。「地震《じしん》や」「地震や」同時に声が出て、蝶子は襖に掴《つか》まったことは掴まったが、いきなり腰を抜《ぬ》かし、キャッと叫んで坐《すわ》り込んでしまった。柳吉は反対側の壁《かべ》にしがみついたまま離《はな》れず、口も利けなかった。お互《たが》いの心にその時、えらい駈落ちをしてしまったという悔《くい》が一瞬《いっしゅん》あった。

 避難《ひなん》列車の中でろくろく物も言わなかった。やっと梅田の駅に着くと、真《まっ》すぐ上塩町《かみしおまち》の種吉の家へ行った。途々《みちみち》、電信柱に関東大震災の号外が生々しく貼《は》られていた。
 西日の当るところで天婦羅を揚げていた種吉は二人の姿を見ると、吃驚《びっくり》してしばらくは口も利けなんだ。日に焼けたその顔に、汗とはっきり区別のつく涙が落ちた。立ち話でだんだんに訊《き》けば、蝶子の失踪《しっそう》はすぐに抱主から知らせがあり、どこにどうしていることやら、悪い男にそそのかされて売り飛ばされたのと違うやろか、生きとってくれてるんやろかと心配で夜も眠《ねむ》れなんだという。悪い男|云々《うんぬん》を聴き咎《とが》めて蝶子は、何はともあれ、扇子《せんす》をパチパチさせて突《つ》っ立っている柳吉を「この人|私《わて》の何や」と紹介《しょうかい》した。「へい、おこしやす」種吉はそれ以上|挨拶《あいさつ》が続かず、そわそわしてろくろく顔もよう見なかった。
 お辰は娘の顔を見た途端に、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を顔にあてた。泣き止《や》んで、はじめて両手をついて、「このたびは娘がいろいろと……」柳吉に挨拶し、「弟の信一《しんいち》は尋常《じんじょう》四年で学校へ上っとりますが、今日《きょう》は、まだ退《ひ》けて来とりまへんので」などと言うた。挨拶の仕様がなかったので、柳吉は天候のことなど吃り勝ちに言うた。種吉は氷水を註文《いい》に行った。
 銀蠅《ぎんばえ》の飛びまわる四|畳《じょう》の部屋《へや》は風も通らず、ジーンと音がするように蒸し暑かった。種吉が氷いちごを提箱《さげばこ》に入れて持ち帰り、皆は黙々《もくもく》とそれをすすった。やがて、東京へ行って来た旨《むね》蝶子が言うと、種吉は「そら大変や、東京は大地震や」吃驚《びっくり》してしまったので、それで話の糸口はついた。避難列車で命からがら逃げて来たと聞いて、両親は、えらい苦労したなとしきりに同情した。それで、若い二人、とりわけ柳吉はほっとした。「何とお詫びしてええやら」すらすら彼は言葉が出て、種吉とお辰はすこぶる恐縮《きょうしゅく》した。
 母親の浴衣を借りて着替《きか》えると、蝶子の肚はきまった。いったん逐電《ちくでん》したからにはおめおめ抱主のところへ帰れまい、同じく家へ足踏み出来ぬ柳吉と一緒に苦労する、「もう芸者を止めまっさ」との言葉に、種吉は「お前の好きなようにしたらええがな」子に甘《あま》いところを見せた。蝶子の前借は三百円足らずで、種吉はもはや月賦《げっぷ》で払う肚を決めていた。「私《わて》が親爺《おやじ》に無心して払いまっさ」と柳吉も黙《だま》っているわけに行かなかったが、種吉は「そんなことしてもろたら困りまんがな」と手を振《ふ》った。「あんさんのお父つぁんに都合《ぐつ》が悪うて、私は顔合わされしまへんがな」柳吉は別に異を樹《た》てなかった。お辰は柳吉の方を向いて、蝶子は痲疹厄《はしか》の他には風邪《かぜ》一つひかしたことはない、また身体《からだ》のどこ探してもかすり傷一つないはず、それまでに育てる苦労は……言い出して泪の一つも出る始末に、柳吉は耳の痛い気がした。

 二三日、狭苦しい種吉の家でごろごろしていたが、やがて、黒門市場の中の路地裏に二階借りして、遠慮気兼ねのない世帯《しょたい》を張った。階下《した》は弁当や寿司につかう折箱の職人で、二階の六畳はもっぱら折箱の置場にしてあったのを、月七円の前払いで借りたのだ。たちまち、暮《くら》しに困った。
 柳吉に働きがないから、自然蝶子が稼《かせ》ぐ順序で、さて二度の勤めに出る気もないとすれば、結局稼ぐ道はヤトナ芸者と相場が決っていた。もと北の新地にやはり芸者をしていたおきんという年増《としま》芸者が、今は高津に一軒構えてヤトナの周旋屋《しゅうせんや》みたいなことをしていた。ヤトナというのはいわば臨時雇で宴会《えんかい》や婚礼《こんれい》に出張する有芸仲居のことで、芸者の花代よりは随分安上りだから、けちくさい宴会からの需要が多く、おきんは芸者上りのヤトナ数人と連絡《れんらく》をとり、派出させて仲介《ちゅうかい》の分をはねると相当な儲《もう》けになり、今では電話の一本も引いていた。一宴会、夕方から夜更《よふ》けまでで六円、うち分をひいてヤトナの儲けは三円五十銭だが、婚礼の時は式役代も取るから儲けは六円、祝儀もまぜると悪い収入《みい》りではないとおきんから聴いて、早速《さっそく》仲間にはいった。
 三味線《しゃみせん》をいれた小型のトランク提げて電車で指定の場所へ行くと、すぐ膳部《ぜんぶ》の運びから燗《かん》の世話に掛《かか》る。三、四十人の客にヤトナ三人で一通り酌《しゃく》をして廻るだけでも大変なのに、あとがえらかった。おきまりの会費で存分愉しむ肚の不粋な客を相手に、息のつく間もないほど弾《ひ》かされ歌わされ、浪花節《なにわぶし》の三味から声色《こわいろ》の合の手まで勤めてくたくたになっているところを、安来節《やすぎぶし》を踊《おど》らされた。それでも根が陽気好きだけに大して苦にもならず身をいれて勤めていると、客が、芸者よりましや。やはり悲しかった。本当の年を聞けば吃驚《びっくり》するほどの大年増の朋輩《ほうばい》が、おひらきの前に急に祝儀を当てこんで若い女めいた身振りをするのも、同じヤトナであってみれば、ひとごとではなかった。夜更けて赤電車で帰った。日本橋一丁目で降りて、野良犬《のらいぬ》や拾い屋(バタ屋)が芥箱《ごみばこ》をあさっているほかに人通りもなく、静まりかえった中にただ魚の生臭《なまぐさ》い臭気《しゅうき》が漂《ただよ》うている黒門市場の中を通り、路地へはいるとプンプン良い香《にお》いがした。
 山椒昆布《さんしょこんぶ》を煮る香いで、思い切り上等の昆布を五分四角ぐらいの大きさに細切りして山椒の実と一緒に鍋《なべ》にいれ、亀甲万《きっこうまん》の濃口《こいくち》醤油をふんだんに使って、松炭《まつずみ》のとろ火でとろとろ二昼夜煮つめると、戎橋《えびすばし》の「おぐらや」で売っている山椒昆布と同じ位のうまさになると柳吉は言い、退屈《たいくつ》しのぎに昨日《きのう》からそれに掛り出していたのだ。火種を切らさぬことと、時々かきまわしてやることが大切で、そのため今日は一歩も外へ出ず、だからいつもはきまって使うはずの日に一円の小遣《こづか》いに少しも手をつけていなかった。蝶子の姿を見ると柳吉は「どや、ええ按配《あんばい》に煮えて来よったやろ」長い竹箸《たけばし》で鍋の中を掻《か》き廻しながら言うた。そんな柳吉に蝶子はひそかにそこはかとなき恋《こい》しさを感じるのだが、癖で甘ったるい気分は外に出せず、着物の裾《すそ》をひらいた長襦袢の膝でぺたりと坐るなり「なんや、まだたいてるのんか、えらい暇《ひま》かかって何してるのや」こんな口を利いた。
 柳吉は二十歳の蝶子のことを「おばはん」と呼ぶようになった。「おばはん小遣い足らんぜ」そして三円ぐらい手に握《にぎ》ると、昼間は将棋《しょうぎ》などして時間をつぶし、夜は二《ふた》ツ井戸《いど》の「お兄《にい》ちゃん」という安カフェへ出掛けて、女給の手にさわり、「僕《ぼく》と共鳴せえへんか」そんな調子だったから、お辰はあれでは蝶子が可哀想《かわいそう》やと種吉に言い言いしたが、種吉は「坊《ぼ》ん坊んやから当り前のこっちゃ」別に柳吉を非難もしなかった。どころか、「女房や子供捨てて二階ずまいせんならん言うのも、言や言うもんの、蝶子が悪いさかいや」とかえって同情した。そんな父親を蝶子は柳吉のために嬉《うれ》しく、苦労の仕甲斐《しがい》あると思った。「私のお父つぁん、ええところあるやろ」と思ってくれたのかくれないのか、「うん」と柳吉は気のない返事で、何を考えているのか分からぬ顔をしていた。

 その年も暮に近づいた。押しつまって何となく慌《あわただ》しい気持のするある日、正月の紋附《もんつき》などを取りに行くと言って、柳吉は梅田《うめだ》新道《しんみち》の家へ出掛けて行った。蝶子は水を浴びた気持がしたが、行くなという言葉がなぜか口に出なかった。その夜、宴会の口が掛って来たので、いつものように三味線をいれたトランクを提げて出掛けたが、心は重かった。柳吉が親の家へ紋附を取りに行ったというただそれだけの事として軽々しく考えられなかった。そこには妻も居れば子もいるのだ。三味線の音色は冴《さ》えなかった。それでも、やはり襖紙がふるえるほどの声で歌い、やっとおひらきになって、雪の道を飛んで帰ってみると、柳吉は戻っていた。火鉢《ひばち》の前に中腰になり、酒で染まった顔をその中に突っ込むようにしょんぼり坐っているその容子《ようす》が、いかにも元気がないと、一目でわかった。蝶子はほっとした。――父親は柳吉の姿を見るなり、寝床《ねどこ》の中で、何しに来たと呶鳴《どな》りつけたそうである。妻は籍《せき》を抜いて実家に帰り、女の子は柳吉の妹の筆子が十八の年で母親代りに面倒《めんどう》みているが、その子供にも会わせてもらえなかった。柳吉が蝶子と世帯を持ったと聴いて、父親は怒《おこ》るというよりも柳吉を嘲笑《ちょうしょう》し、また、蝶子のことについてかなりひどい事を言ったということだった。――蝶子は「私《わて》のこと悪う言やはんのは無理おまへん」としんみりした。が、肚の中では、私の力で柳吉を一人前にしてみせまっさかい、心配しなはんなとひそかに柳吉の父親に向って呟く気持を持った。自身にも言い聴かせて「私は何も前の奥さんの後釜《あとがま》に坐るつもりやあらへん、維康を一人前の男に出世させたら本望《ほんもう》や」そう思うことは涙をそそる快感だった。その気持の張りと柳吉が帰って来た喜びとで、その夜興奮して眠れず、眼をピカピカ光らせて低い天井《てんじょう》を睨《にら》んでいた。
 まえまえから、蝶子はチラシを綴《と》じて家計簿《かけいぼ》を作り、ほうれん草三銭、風呂銭《ふろせん》三銭、ちり紙四銭、などと毎日の入費を書き込んで世帯を切り詰め、柳吉の毎日の小遣い以外に無駄な費用は慎《つつし》んで、ヤトナの儲けの半分ぐらいは貯金していたが、そのことがあってから、貯金に対する気の配り方も違って来た。一銭二銭の金も使い惜《お》しみ、半襟《はんえり》も垢《あか》じみた。正月を当てこんでうんと材料《もと》を仕入れるのだとて、種吉が仕入れの金を無心に来ると、「私《わて》には金みたいなもんあらへん」種吉と入れ代ってお辰が「維康さんにカフェたらいうとこイ行かす金あってもか」と言いに来たが、うんと言わなかった。
 年が明け、松の内も過ぎた。はっきり勘当だと分ってから、柳吉のしょげ方はすこぶる哀れなものだった。父性愛ということもあった。蝶子に言われても、子供を無理に引き取る気の出なかったのは、いずれ帰参がかなうかも知れぬという下心があるためだったが、それでも、子供と離れていることはさすがに淋《さび》しいと、これは人ごとでなかった。ある日、昔の遊び友達に会い、誘《さそ》われると、もともと好きな道だったから、久しぶりにぐたぐたに酔うた。その夜はさすがに家をあけなかったが、翌日、蝶子が隠していた貯金帳をすっかりおろして、昨夜の返礼だとて友達を呼び出し、難波《なんば》新地へはまりこんで、二日、使い果して魂《たましい》の抜けた男のようにとぼとぼ黒門市場の路地裏長屋へ帰って来た。「帰るとこ、よう忘れんかったこっちゃな」そう言って蝶子は頸筋《くびすじ》を掴んで突き倒し、肩をたたく時の要領で、頭をこつこつたたいた。「おばはん、何すんねん、無茶しな」しかし、抵抗《ていこう》する元気もないかのようだった。二日酔いで頭があばれとると、蒲団にくるまってうんうん唸《うな》っている柳吉の顔をピシャリと撲って、何となく外へ出た。千日前の愛進館で京山小円《きょうやまこえん》の浪花節を聴いたが、一人では面白いとも思えず、出ると、この二三日飯も咽喉へ通らなかったこととて急に空腹を感じ、楽天地横の自由軒で玉子入りのライスカレーを食べた。「自由軒《ここ》のラ、ラ、ライスカレーはご飯にあんじょう[#「あんじょう」に傍点]ま、ま、ま、まむしてあるよって、うまい」とかつて柳吉が言った言葉を想い出しながら、カレーのあとのコーヒーを飲んでいると、いきなり甘い気持が胸に湧《わ》いた。こっそり帰ってみると、柳吉はいびきをかいていた。だし抜けに、荒々《あらあら》しく揺すぶって、柳吉が眠い眼をあけると、「阿呆《あほ》んだら」そして唇《くちびる》をとがらして柳吉の顔へもって行った。

 あくる日、二人で改めて自由軒へ行き、帰りに高津のおきんの所へ仲の良い夫婦の顔を出した。ことを知っていたおきんは、柳吉に意見めいた口を利いた。おきんの亭主《ていしゅ》はかつて北浜《きたはま》で羽振りが良くおきんを落籍《ひか》して死んだ女房の後釜に据《す》えた途端に没落《ぼつらく》したが、おきんは現在のヤトナ周旋屋、亭主は恥《はじ》をしのんで北浜の取引所へ書記に雇われて、いわば夫婦共稼ぎで、亭主の没落はおきんのせいだなどと人に後指ささせぬ今の暮しだと、引合いに出したりした。「維康さん、あんたもぶらぶら遊んでばかりしてんと、何ぞ働く所を……」探す肚があるのかないのか、柳吉は何の表情もなく聴いていた。維康さんの肚は分らんとおきんはあとで蝶子に言うたので、蝶子は肩身の狭い思いがした。が、間もなく働き口を見つけたので、蝶子は早速おきんに報告した。それで肩身が広くなったというほどではなかったが、やはり嬉しかった。
 千日前「いろは牛肉店」の隣《となり》にある剃刀屋《かみそりや》の通い店員で、朝十時から夜十一時までの勤務、弁当自弁の月給二十五円だが、それでも文句なかったらと友達が紹介してくれたのだ。柳吉はいやとは言えなかった。安全剃刀、レザー、ナイフ、ジャッキその他理髪に関係ある品物を商っているのだから、やはり理髪店相手の化粧品を商っていた柳吉には、いちばん適しているだろうと骨折ってくれた、その手前もあった。門口の狭い割に馬鹿に奥行のある細長い店だから昼間なぞ日が充分《じゅうぶん》射《さ》さず、昼電を節約《しまつ》した薄暗いところで火鉢の灰をつつきながら、戸外の人通りを眺《なが》めていると、そこの明るさが嘘《うそ》のようだった。ちょうど向い側が共同便所でその臭気がたまらなかった。その隣りは竹林寺《ちくりんじ》で、門の前の向って右側では鉄冷鉱泉を売っており、左側、つまり共同便所に近い方では餅《もち》を焼いて売っていた。醤油をたっぷりつけて狐色《きつねいろ》にこんがり焼けてふくれているところなぞ、いかにもうまそうだったが、買う気は起らなかった。餅屋の主婦が共同便所から出ても手洗水《ちょうず》を使わぬと覚しかったからや、と柳吉は帰って言うた。また曰《いわ》く、仕事は楽で、安全剃刀の広告人形がしきりに身体を動かして剃刀をといでいる恰好が面白いとて飾窓《ウインドー》に吸いつけられる客があると、出て行って、おいでやす。それだけの芸でこと足りた。蝶子は、「そら、よろしおまんな」そう励《はげ》ました。
 剃刀屋で三月《みつき》ほど辛抱したが、やがて、主人と喧嘩《けんか》して癪《しゃく》やからとて店を休み休みし出したが、蝶子はその口実を本真《ほんま》だと思い、朝おこしたりしなくなり、ずるずるべったり店をやめてしまった。蝶子は一層ヤトナ稼業《かぎょう》に身を入れた。彼女だけには特別の祝儀を張り込まねばならぬと宴会の幹事が思うくらいであった。祝儀はしかし、朋輩と山分けだから、随分と引き合わぬ勘定だが、それだけに朋輩の気受けはよかった。蝶子はん蝶子はんと奉《たてまつ》られるので良い気になって、朋輩へ二円、三円と小銭を貸したが、渡すなり後悔して、さすがにはっきり催促出来なかったから、何かとべんちゃら(お世辞)して、はよ返してくれという想いをそれとなく見せるのだった。五十銭の金にもちくちく胸の痛む気がしたが、柳吉にだけは、小遣いをせびられると気前よく渡した。柳吉は毎日がいかにも面白くないようで、殊《こと》にこっそり梅田新道へ出掛けたらしい日は帰ってからのふさぎ方が目立ったので、蝶子は何かと気を使った。父の勘気がとけぬことが憂鬱《ゆううつ》の原因らしく、そのことにひそかに安堵《あんど》するよりも気持の負担の方が大きかった。それで、柳吉がしばしばカフェへ行くと知っても、なるべく焼餅を焼かぬように心掛けた。黙って金を渡すときの気持は、人が思っているほどには平気ではなかった。
 実家に帰っているという柳吉の妻が、肺で死んだという噂《うわさ》を聴くと、蝶子はこっそり法善寺の「縁結《えんむす》び」に詣《まい》って蝋燭《ろうそく》など思い切った寄進をした。その代り、寝覚めの悪い気持がしたので、戒名《かいみょう》を聞いたりして棚《たな》に祭った。先妻の位牌《いはい》が頭の上にあるのを見て、柳吉は何となく変な気がしたが、出しゃ張るなとも言わなかった。言えば何かと話がもつれて面倒だとさすがに利口な柳吉は、位牌さえ蝶子の前では拝まなかった。蝶子は毎朝花をかえたりして、一分の隙もなく振舞《ふるま》った。

 二年経つと、貯金が三百円を少し超《こ》えた。蝶子は芸者時代のことを思い出し、あれはもう全部|払《はろ》うてくれたんかと種吉に訊くと、「さいな、もう安心しーや、この通りや」と証文出して来て見せた。母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、瞼《まぶた》が熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。そこで貯金はちょうど三百円になった。そのうち、柳吉が芸者遊びに百円ほど使ったので、二百円に減った。蝶子は泣けもしなかった。夕方電灯もつけぬ暗い六畳の間の真中《まんなか》にぺたりと坐り込み、腕《うで》ぐみして肩で息をしながら、障子紙の破れたところをじっと睨んでいた。柳吉は三味線の撥《ばち》で撲られた跡《あと》を押《おさ》えようともせず、ごろごろしていた。
 もうこれ以上|節約《しまつ》の仕様もなかったが、それでも早くその百円を取り戻さねばならぬと、いろいろに工夫した。商売道具の衣裳も、よほどせっぱ詰れば染替えをするくらいで、あとは季節季節の変り目ごとに質屋での出し入れで何とかやりくりし、呉服屋《ごふくや》に物言うのもはばかるほどであったお蔭で、半年経たぬうちにやっと元の額になったのを機会《しお》に、いつまでも二階借りしていては人に侮《あなど》られる、一軒借りて焼芋屋《やきいもや》でも何でも良いから商売しようとさっそく柳吉に持ちかけると、「そうやな」気の無い返事だったが、しかし、あくる日から彼は黙々として立ちまわり、高津神社坂下に間口一間、奥行三間半の小さな商売家を借り受け、大工を二日雇い、自分も手伝ってしかるべく改造し、もと勤めていた時の経験と顔とで剃刀問屋から品物の委託《いたく》をしてもらうと瞬《またた》く間に剃刀屋の新店が出来上った。安全剃刀の替刃《かえば》、耳かき、頭かき、鼻毛抜き、爪切《つめき》りなどの小物からレザー、ジャッキ、西洋剃刀など商売柄、銭湯帰りの客を当て込むのが第一と店も銭湯の真向いに借りるだけの心くばりも柳吉はしたので、蝶子はしきりに感心し、開店の前日朋輩のヤトナ達が祝いの柱時計をもってやって来ると、「おいでやす」声の張りも違った。そして「主人《うち》がこまめにやってくれまっさかいな」と言い、これは柳吉のことを褒《ほ》めたつもりだった。襷《たすき》がけでこそこそ陳列棚《ちんれつだな》の拭《ふ》き掃除をしている柳吉の姿は見ようによっては、随分男らしくもなかったが、女たちはいずれも感心し、維康さんも慾が出るとなかなかの働き者だと思った。
 開店の朝、向う鉢巻《はちまき》でもしたい気持で蝶子は店の間に坐っていた。午頃《ひるごろ》、さっぱり客が来えへんなと柳吉は心細い声を出したが、それに答えず、眼を皿《さら》のようにして表を通る人を睨んでいた。午過ぎ、やっと客がきて安全の替刃一枚六銭の売上げだった。「まいどおおけに」「どうぞごひいきに」夫婦がかりで薄気味《うすきみ》悪《わる》いほどサーヴィスをよくしたが、人気《じんき》が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それもほとんど替刃ばかり、売り上げは〆《し》めて二円にも足らなかった。
 客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。話の種も尽《つ》きて、退屈したお互いに顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい想いがした。退屈しのぎに、昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古《けいこ》しに行きたいと柳吉は言い出したが、とめる気も起らなかった。これまでぶらぶらしている時にはいつでも行けたのに、さすがに憚《はばか》って、商売をするようになってから稽古したいという。その気持を、ひとは知らず蝶子は哀れに思った。柳吉は近くの下寺町の竹本|組昇《そしょう》に月謝五円で弟子入《でしい》りし二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁《あさ》って、毎日ぶらりと出掛けた。商売に身をいれるといっても、客が来《こ》なければ仕様がないといった顔で、店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなる、その声がいかにも情けなく、上達したと褒めるのもなんとなく気が引けるくらいであった。毎月食い込んで行ったので、再びヤトナに出ることにした。二度目のヤトナに出る晩、苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業《しょうばい》大事とつとめて、一人で座敷を浚《さら》って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われるものではなかった。夕方、蝶子が出掛けて行くと、柳吉はそわそわと店を早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店でかやく[#「かやく」に傍点]飯とおこぜの赤出しを食い、烏貝《からすがい》の酢味噌で酒を飲み、六十五銭の勘定払って安いもんやなと、カフェ「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れをしている女給にふんだんにチップをやると、十日分の売上げが飛んでしもうた。ヤトナの儲けでどうにか暮しを立ててはいるものの、柳吉の使い分がはげしいもので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱したあげく、店の権利の買手がついたのを幸い、思い切って店を閉めることにした。
 店仕舞いメチャクチャ大投売りの二日間の売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった。
 二階借りするにも前払いでは困ると、いろいろ探しているうちに、おきんの所へ出はいりして顔見知りの呉服屋の担《かつ》ぎ屋《や》が「家《うち》の二階空いてまんね、蝶子さんのことでっさかい部屋代はいつでもよろしおま」と言うたのをこれ倖《さいわ》いに、飛田《とびた》大門前通りの路地裏にあるそこの二階を借りることになった。柳吉は相変らず浄瑠璃の稽古に出掛けたり、近所にある赤暖簾《あかのれん》の五銭|喫茶店《きっさてん》で何時間も時間をつぶしたりして他愛なかった。蝶子は口が掛れば雨の日でも雪の日でも働かいでおくものかと出掛けた。もうヤトナ達の中でも古顔になった。組合でも出来るなら、さしずめ幹事というところで、年上の朋輩からも蝶子|姐《ねえ》さんと言われたが、まさか得意になってはいられなかった。衣裳の裾なども恥かしいほど擦《す》り切れて、咽喉《のど》から手の出るほど新しいのが欲しかった。おまけに階下《した》が呉服の担ぎ屋とあってみれば、たとえ銘仙《めいせん》の一枚でも買ってやらねば義理が悪いのだが、我慢してひたすら貯金に努めた。もう一度、一軒店の商売をしなければならぬと、親の仇《かたき》をとるような気持で、われながら浅ましかった。
 さん年経つと、やっと二百円たまった。柳吉が腸が痛むというので時々医者通いし、そのため入費が嵩んで、歯がゆいほど、金はたまらなかったのだ。二百円出来たので、柳吉に「なんぞええ商売ないやろか」と相談したが、こんどは「そんな端金《はしたがね》ではどないも仕様がない」と乗気にならず、ある日、そのうち五十円の金を飛田の廓《くるわ》で瞬く間に使ってしまった。四五日まえに、妹が近々|聟《むこ》養子を迎《むか》えて、梅田新道の家を切り廻して行くという噂が柳吉の耳にはいっていたので、かねがね予期していたことだったが、それでも娼妓《しょうぎ》を相手に一日で五十円の金を使ったとは、むしろ呆《あき》れてしまった。ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰って来たところを、いきなり襟を掴んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締《し》めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、おばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思う存分|折檻《せっかん》しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまいに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が聟養子を迎えると聴いたくらいでやけになる柳吉が、腹立たしいというより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情《ちじょう》めいた。隙を見て柳吉は、ヒーヒー声を立てて階下へ降り、逃げまわったあげく、便所の中へ隠れてしまった。さすがにそこまでは追わなかった。階下の主婦は女だてらとたしなめたが、蝶子は物一つ言わず、袖に顔をあてて、肩をふるわせると、思いがけずはじめて女らしく見えたと、主婦は思った。年下の夫を持つ彼女はかねがね蝶子のことを良く言わなかった。毎朝味噌しるを拵《こしら》えるとき、柳吉が襷《たすき》がけで鰹節《かつおぶし》をけずっているのを見て、亭主にそんなことをさせて良いもんかとほとんど口に出かかった。好みの味にするため、わざわざ鰹節けずりまで自分の手でしなければ収まらぬ柳吉の食意地の汚さなど、知らなかったのだ。担ぎ屋も同感で、いつか蝶子、柳吉と三人連れ立って千日前へ浪花節を聴きに行ったとき、立て込んだ寄席《よせ》の中で、誰《だれ》かに悪戯《いたずら》をされたとて、キャッーと大声を出して騒《さわ》ぎまわった蝶子を見て、えらい女やと思い、体裁の悪そうな顔で目をしょぼしょぼさせている柳吉にほとほと同情した、と帰って女房に言った。「あれでは今に維康さんに嫌《きら》われるやろ」夫婦はひそひそ語り合っていたが、案の定、柳吉はある日ぶらりと出て行ったまま、幾日《いくにち》も帰って来なかった。
 七日経っても柳吉は帰って来ないので、半泣きの顔で、種吉の家へ行き、梅田新道にいるに違いないから、どんな容子かこっそり見て来てくれと頼んだ。種吉は、娘の頼みを撥《は》ねつけるというわけではないが、別れる気の先方へ行って下手《へた》に顔見られたら、どんな目で見られるかも知れぬと断った。「下手に未練もたんと別れた方が身のためやぜ」などとそれが親の言う言葉かと、蝶子は興奮の余り口喧嘩までし、その足で新世界の八卦見《はっけみ》のところへ行った。「あんたが男はんのためにつくすその心が仇《あだ》になる。大体この星の人は……」年を聞いて丙午《ひのえうま》だと知ると、八卦見はもう立板に水を流すお喋《しゃべ》りで、何もかも悪い運勢だった。「男はんの心は北に傾《かたむ》いている」と聴いて、ぞっとした。北とは梅田新道だ。金を払って外へ出ると、どこへ行くという当てもなく、真夏の日がカンカン当っている盛《さか》り場《ば》を足早に歩いた。熱海の宿で出くわした地震のことが想い出された。やはり暑い日だった。
 十日目、ちょうど地蔵盆《じぞうぼん》で、路地にも盆踊りがあり、無理に引っぱり出されて、単調な曲を繰《く》りかえし繰りかえし、それでも時々調子に変化をもたせて弾いていると、ふと絵行燈《えあんどん》の下をひょこひょこ歩いて来る柳吉の顔が見えた。行燈の明りに顔が映えて、眩《まぶ》しそうに眼をしょぼつかせていた。途端に三味線の糸が切れて撥ねた。すぐ二階へ連れあがって、積る話よりもさきに身を投げかけた。
 二時間経って、電車がなくなるよってと帰って行った。短い時間の間にこれだけのことを柳吉は話した。この十日間梅田の家へいりびたっていたのは外やない、むろん思うところあってのことや。妹が聟養子をとるとあれば、こちらは廃嫡《はいちゃく》と相場は決っているが、それで泣寝入りしろとは余りの仕打やと、梅田の家へ駆け込むなり、毎日膝詰の談判をやったところ、一向に効目がない。妻を捨て、子も捨てて好きな女と一緒に暮している身に勝目はないが、廃嫡は廃嫡でも貰《もら》うだけのものは貰わぬと、後へは行けぬ思《おも》て梃子《てこ》でも動かへんなんだが、親父《おやじ》の言分はどうや。蝶子、お前気にしたあかんぜ。「あんな女と一緒に暮している者に金をやっても死金《しにがね》同然や、結局女に欺されて奪《と》られてしまうが落ちや、ほしければ女と別れろ」こない言うたきり親父はもう物も言いくさらん。そこで、蝶子、ここは一番芝居を打つこっちゃ。別れた、女も別れる言うてますと巧《うま》く親父を欺して貰うだけのものは貰《もろ》たら、あとは廃嫡でも灰神楽《はいかぐら》でも、その金で気楽な商売でもやって二人|末永《すえなご》う共白髪《ともしらが》まで暮そうやないか。いつまでもお前にヤトナさせとくのも可哀想や。それで蝶子、明日《あした》家の使の者が来よったら、別れまっさときっぱり言うて欲しいんや。本真《ほんま》の気持で言うのやないねんぜ。しし、芝居や。芝居や。金さえ貰たらわいは直《じ》き帰って来る。――蝶子の胸に甘い気持と不安な気持が残った。
 翌朝、高津のおきんを訪れた。話を聴くと、おきんは「蝶子はん、あんた維康さんに欺されたはる」と、さすがに苦労人だった。おきんは、維康が最初蝶子に内緒《ないしょ》で梅田へ行ったと聴いて、これはうっかり芝居に乗れぬと思った。柳吉の肚は、蝶子が別れると言ってしまえば、それでまんまと帰参がかない、そのまま梅田の家へ坐り込んでしまうつもりかも知れぬ。とそうまではっきりと悪くとらず、またいくら化粧問屋でもそこは父親が卸《おろ》してくれぬとすれば、その時はその時で悪く行っても金がとれるし、いわば二道を掛けているか、それとも自分で自分の気持がはっきりしてないか、何しろ、柳吉には子供もあることだと、そこまでは口に出さなかったが、いずれにせよ蝶子が別れると言わなければ、柳吉は親の家におれぬ勘定だから結局は柳吉に戻って欲しければ「別れると言うたらあきまへんぜ」蝶子はおきんの言う通りにした。嘘にしろ別れると言うより、その方が言い易《やす》かった。それに、間もなく顔を見せた使の者は手切金を用意しているらしく、貰えばそれきりで縁が切れそうだった。

 三日経つと柳吉は帰って来た。いそいそとした蝶子を見るなり「阿呆やな、お前の一言で何もかも滅茶苦茶や」不機嫌《ふきげん》極まった。手切金云々の気持を言うと、「もろたら、わいのもらう金と二重取りでええがな。ちょっとは慾を出さんかいや」なるほどと思った。が、おきんの言葉はやはり胸の中に残った。
 父親からは取り損ったが、妹から無心して来た金三百円と蝶子の貯金を合わせて、それで何か商売をやろうと、こんどは柳吉の口から言い出した。剃刀屋のにがい経験があるから、あれでもなし、これでもなしと柳吉の興味を持ちそうな商売を考えた末、結局焼芋屋でもやるより外には……と困っているうちに、ふと関東煮《かんとだき》屋が良いと思いつき、柳吉に言うと、「そ、そ、そらええ考えや、わいが腕前ふるってええ味のもんを食わしたる」ひどく乗気になった。適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田《とびた》大門前通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。現在年寄夫婦が商売しているのだが、土地柄、客種が柄悪く荒っぽいので、大人《おとな》しい女子衆《おなごし》は続かず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、案外安く造作から道具|一切《いっさい》附き三百五十円で譲《ゆず》ってくれた。階下は全部|漆喰《しっくい》で商売に使うから、寝泊《ねとま》りするところは二階の四畳半一間あるきり、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭《いんきくさ》かったが、廓《くるわ》の往《ゆ》き帰りで人通りも多く、それに角店《かどみせ》で、店の段取から出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打ったのだ。新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ梅をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾《のれん》をくぐって、味加減や銚子《ちょうし》の中身の工合、商売のやり口などを調べた。関東煮屋をやると聴いて種吉は、「海老《えび》でも烏賊《いか》でも天婦羅ならわいに任しとくなはれ」と手伝いの意を申《もう》し出《い》でたが、柳吉は、「小鉢物はやりまっけど、天婦羅は出しまへん」と体裁よく断った。種吉は残念だった。お辰は、それみたことかと種吉を嘲《あざけ》った。「私《わて》らに手伝《てつど》うてもろたら損や思たはるのや。誰が鐚《びた》一文でも無心するもんか」
 お互いの名を一字ずつとって「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。まだ暑さが去っていなかったこととて思いきって生ビールの樽《たる》を仕込んでいた故、はよ売りきってしまわねば気が抜けてわや(駄目)になると、やきもき心配したほどでもなく、よく売れた。人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙《いそが》しく、小便に立つ暇もなかった。柳吉は白い料理着に高下駄《たかげた》という粋《いき》な恰好で、ときどき銭函《ぜにばこ》を覗《のぞ》いた。売上額が増《ふ》えていると、「いらっしゃァい」剃刀屋のときと違って掛声も勇ましかった。俗に「おかま」という中性の流し芸人が流しに来て、青柳《あおやぎ》を賑《にぎ》やかに弾いて行ったり、景気がよかった。その代り、土地柄が悪く、性質《たち》の良くない酒呑《さけの》み同志が喧嘩をはじめたりして、柳吉はハラハラしたが、蝶子は昔とった杵柄《きねづか》で、そんな客をうまくさばくのに別に秋波をつかったりする必要もなかった。廓をひかえて夜更《おそ》くまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色《むらさきいろ》に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で一刻《いっとき》うとうとしたかと思うと、もう目覚ましがジジーと鳴った。寝巻のままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品付十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物《つけもの》、ご飯と都合四品で十八銭、細かい商売だと多寡《たか》をくくっていたところ、ビールなどをとる客もいて、結構商売になったから、少々眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒《はだざむ》くなると、もう関東煮屋に「もって来い」の季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、銘酒《めいしゅ》の本鋪《ほんぽ》から、看板を寄贈《きぞう》してやろうというくらいになり、蝶子の三味線も空《むな》しく押入れにしまったままだった。こんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、柳吉の身の入れ方は申分なかった。公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費《むだづか》いもないままに、勢い溜《た》まる一方だった。柳吉は毎日郵便局へ行った。体のえらい商売だから、柳吉は疲《つか》れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を知っていたので、蝶子はヒヤヒヤしたが、売物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。そういう飲み方も、しかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ廻っても心配は尽きなかった。大酒を飲めば馬鹿に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいか無口の柳吉が一層無口になって、客のない時など、椅子《いす》に腰掛けてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、やはり、梅田の家のこと考えてるのと違うやろか、そう思って気が気でなかった。
 案の定、妹の婚礼に出席を撥ねつけられたとて柳吉は気を腐《くさ》らせ、二百円ほど持ち出して出掛けたまま、三日帰って来なかった。ちょうど花見時で、おまけに日曜、祭日と紋日《もんび》が続いて店を休むわけに行かず、てん手古舞いしながら二日商売をしたものの、蝶子はもう慾など出している気にもなれず、おまけに忙しいのと心配とで体が言うことを利かず、三日目はとうとう店を閉めた。その夜更《おそ》く、帰って来た。耳を澄《す》ましていると、「今ごろは半七さんが、どこにどうしてござろうぞ。いまさら帰らぬことながら、わしというものないならば、半兵衛《はんべえ》様もお通に免《めん》じ、子までなしたる三勝《さんかつ》どのを、疾《と》くにも呼び入れさしゃんしたら、半七さんの身持も直り、ご勘当もあるまいに……」と三勝半七のサワリを語りながらやって来るのは、柳吉に違いなかった。
 夜中に下手な浄瑠璃を語ったりして、近所の体裁も悪いこっちゃと、ほっとした。「……お気に入らぬと知りながら、未練な私が輪廻《りんね》ゆえ、そい臥《ふ》しは叶《かな》わずとも、お傍《そば》に居たいと辛抱して、これまで居たのがお身の仇……」とこっちから後を続けてこましたろかという気持で、階下《した》へ降りた。柳吉の足音は家の前で止った。もう語りもせず、気兼ねした容子で、カタカタ戸を動かせているようだった。「どなたッ?」わざと言うと、「わいや」「わいでは分りまへんぜ」重ねてとぼけてみせると、「ここ維康や」と外の声は震《ふる》えていた。「維康いう人は沢山《たんと》いたはります」にこりともせず言った。「維康柳吉や」もう蝶子の折檻を観念しているようだった。「維康柳吉という人はここには用のない人だす。今ごろどこぞで散財していやはりまっしゃろ」となおも苛《いじ》めにかかったが、近所の体裁もあったから、そのくらいにして、戸を開けるなり、「おばはん、せせ殺生《せっしょう》やぜ」と顔をしかめて突っ立っている柳吉を引きずり込んだ。無理に二階へ押し上げると、柳吉は天井へ頭を打《ぶ》っつけた。「痛ア!」も糞《くそ》もあるもんかと、思う存分折檻した。
 もう二度と浮気《うわき》はしないと柳吉は誓《ちか》ったが、蝶子の折檻は何の薬にもならなかった。しばらくすると、また放蕩《ほうとう》した。そして帰るときは、やはり折檻を怖《おそ》れて蒼くなった。そろそろ肥満して来た蝶子は折檻するたびに息切れがした。
 柳吉が遊蕩に使う金はかなりの額だったから、遊んだあくる日はさすがに彼も蒼くなって、盞《さかずき》も手にしないで、黙々と鍋の中を掻きまわしていた。が、四五日たつと、やはり、客の酒の燗《かん》をするばかりが能やないと言い出し、混ぜない方の酒をたっぷり銚子に入れて、銅壺《どうこ》の中へ浸《つ》けた。明らかに商売に飽《あ》いた風で、酔うと気が大きくなり、自然足は遊びの方に向いた。紺屋《こうや》の白袴《しろばかま》どころでなく、これでは柳吉の遊びに油を注ぐために商売をしているようなものだと、蝶子はだんだん後悔した。えらい商売を始めたものやと思っているうちに、酒屋への支払いなども滞《とどこお》り勝ちになり、結局、やめるに若《し》かずと、その旨柳吉に言うと、柳吉は即座《そくざ》に同意した。

「この店譲ります」と貼出《はりだ》ししたまま、陰気臭くずっと店を閉めたきりだった。柳吉は浄瑠璃の稽古に通い出した。貯《たくわ》えの金も次第に薄くなって行くのに、一向に店の買手がつかなかった。蝶子の肚はそろそろ、三度目のヤトナを考えていた。ある日、二階の窓から表の人通りを眺めていると、それが皆客に見えて、商売をしていないことがいかにも惜《お》しかった。向い側の五六軒先にある果物屋が、赤や黄や緑の色が咲《さ》きこぼれていて、活気を見せた。客の出入りも多かった。果物屋はええ商売やとふと思うと、もういても立ってもいられず、柳吉が浄瑠璃の稽古から帰って来ると、早速「果物屋《あかもんや》をやれへんか」柳吉は乗気にならなかった。いよいよ食うに困れば、梅田へ行って無心すれば良しと考えていたのだ。
 ある日、どうやら梅田へ出掛けたらしかった。帰って来ての話に、無心したところ妹の聟が出て応待したが、話の分らぬ頑固者の上にけちんぼと来ていて、結局|鐚《びた》一文も出さなかったとしきりに興奮した。そして「果物屋をやろうやないか」顔はにがりきっていた。
 関東煮の諸道具を売り払った金で店を改造した。仕入れや何やかやで大分金が足らなかったので、衣裳や頭のものを質に入れ、なおおきんの所へ金を借りに行った。おきんは一時間ばかり柳吉の悪口を言ったが、結局「蝶子はん、あんたが可哀想やさかい」と百円貸してくれた。
 その足で上塩町《かみしおまち》の種吉の所へ行き、果物屋をやるから、二三日手を貸してくれと頼んだ。西瓜《すいか》の切り方など要領を柳吉は知らないから、経験のある種吉に教わる必要に迫《せま》られて、こんどは柳吉の口から「一つお父つぁんに頼もうやないか」と言い出していた。種吉は若い頃お辰の国元の大和《やまと》から車一台分の西瓜を買って、上塩町の夜店で切売りしたことがある。その頃、蝶子はまだ二つで、お辰が背負うて、つまり親娘《おやこ》三人総出で、一晩に百個売れたと種吉は昔話し、喜んで手伝うことを言った。関東煮屋のとき手伝おうと言って柳吉に撥ねつけられたことなど、根に持たなかった。どころか店びらきの日、筋向いにも果物屋があるとて、「西瓜屋の向いに西瓜屋が出来て、西瓜同志(好いた同志)の差し向い」と淡海節《たんかいぶし》の文句を言い出すほどの上機嫌だった。向い側の果物屋は、店の半分が氷店になっているのが強味で氷かけ西瓜で客を呼んだから、自然、蝶子たちは、切身の厚さで対抗しなければならなかった。が、言われなくても種吉の切り方は、すこぶる気前がよかった。一個八十銭の西瓜で十銭の切身何個と胸算用《むなざんよう》して、柳吉がハラハラすると、種吉は「切身で釣《つ》って、丸口で儲けるんや。損して得とれや」と言った。そして「ああ、西瓜や、西瓜や、うまい西瓜の大安売りや!」と派手な呼び声を出した。向い側の呼び声もなかなか負けていなかった。蝶子も黙っていられず、「安い西瓜だっせ」と金切り声を出した。それが愛嬌で、客が来た。蝶子は、鞄《かばん》のような財布を首から吊《つ》るして、売り上げを入れたり、釣銭を出したりした。
 朝の間、蝶子は廓の中へはいって行き軒《のき》ごとに西瓜を売ってまわった。「うまい西瓜だっせ」と言う声が吃驚《びっくり》するほど綺麗《きれい》なのと、笑う顔が愛嬌があり、しかも気性が粋でさっぱりしているのとがたまらぬと、娼妓達がひいきにしてくれた。「明日《あした》も持って来とくなはれや」そんな時柳吉が背にのせて行くと、「姐《ねえ》ちゃんは……?」ええ奥さんを持ってはると褒められるのを、ひと事のように聴き流して、柳吉は渋《しぶ》い顔であった。むしろ、むっつりして、これで遊べば滅茶苦茶に羽目を外す男だとは見えなかった。
 割合熱心に習ったので、四、五日すると柳吉は西瓜を切る要領など覚えた。種吉はちょうど氏神の祭で例年通りお渡りの人足に雇われたのを機会《しお》に、手を引いた。帰りしな、林檎《りんご》はよくよくふきんで拭《ふ》いて艶《つや》を出すこと、水密桃《すいみつとう》には手を触れぬこと、果物は埃《ほこり》をきらうゆえ始終|掃塵《はたき》をかけることなど念押して行った。その通りに心掛けていたのだが、どういうものか足が早くて水密桃など瞬く間に腐敗《ふはい》した。店へ飾《かざ》っておけぬから、辛い気持で捨てた。毎日、捨てる分が多かった。といって品物を減らすと店が貧相になるので、そうも行かず、巧く捌《は》けないと焦《あせ》りが出た。儲も多いが損も勘定にいれねばならず、果物屋も容易な商売ではないと、だんだん分った。

 柳吉にそろそろ元気がなくなって来たので、蝶子はもう飽いたのかと心配した。がその心配より先に柳吉は病気になった。まえまえから胃腸が悪いと二ツ井戸の実費医院《じっぴ》へ通い通いしていたが、こんどは尿《にょう》に血がまじって小便するのにたっぷり二十分かかるなど、人にも言えなかった。前に怪《あや》しい病気に罹《かか》り、そのとき蝶子は「なんちう人やろ」と怒《おこ》りながらも、まじない[#「まじない」に傍点]に、屋根瓦《やねがわら》にへばりついている猫《ねこ》の糞《ふん》と明礬《みょうばん》を煎《せん》じてこっそり飲ませたところ効目《ききめ》があったので、こんどもそれだと思って、黙って味噌汁の中に入れると、柳吉は啜《すす》ってみて、変な顔をしたが、それと気付かず、味の妙なのは病気のせいだと思ったらしかった。気が付かねば、まじないは効くのだとひそかに現《げん》のあらわれるのを待っていたところ更《さら》に効目はなかった。小便の時、泣き声を立てるようになり、島の内の華陽堂《かようどう》病院が泌尿科《ひにょうか》専門なので、そこで診《み》てもらうと、尿道に管を入れて覗いたあげく、「膀胱《ぼうこう》が悪い」十日ばかり通ったが、はかばかしくならなかった。みるみる痩《や》せて行った。診立て違いということもあるからと、天王寺《てんのうじ》の市民病院で診てもらうと、果して違っていた。レントゲンをかけ腎臓結核《じんぞうけっかく》だときまると、華陽堂病院が恨《うら》めしいよりも、むしろなつかしかった。命が惜しければ入院しなさいと言われた。あわてて入院した。
 附添いのため、店を構っていられなかったので、蝶子はやむなく、店を閉めた。果物が腐って行くことが残念だったから、種吉に店の方を頼もうと思ったが、運の悪い時はどうにも仕様のないもので、母親のお辰が四、五日まえから寝付いていた。子宮癌《しきゅうがん》とのことだった。金光教《こんこうきょう》に凝《こ》って、お水をいただいたりしているうちに、衰弱《すいじゃく》がはげしくて、寝付いた時はもう助からぬ状態だと町医者は診た。手術をするにも、この体ではと医者は気の毒がったが、お辰の方から手術もいや、入院もいやと断った。金のこともあった。注射もはじめはきらったが、体が二つに割れるような苦痛が注射で消えてとろとろと気持よく眠り込んでしまえる味を覚えると、痛みよりも先に「注射や、注射や」夜中でも構わず泣き叫んで、種吉を起した。種吉は眠い目をこすって医者の所へ走った。「モルヒネだからたびたびの注射は危険だ」と医者は断るのだが、「どうせ死による体ですよって」と眼をしばたいた。弟の信一は京都|下鴨《しもがも》の質屋へ年期奉公していたが、いざという時が来るまで、戻れと言わぬことにしてあった。だから、種吉の体は幾つあっても足らぬくらいで、蝶子も諦め、結局病院代も要るままに、店を売りに出したのだ。
 こればっかりは運よく、すぐ買手がついて、二百五十円の金がはいったが、すぐ消えた。手術と決ってはいたが、手術するまえに体に力《りき》をつけておかねばならず、舶来《はくらい》の薬を毎日二本ずつ入れた。一本五円もしたので、怖《こわ》いほど病院代は嵩んだのだ。蝶子は派出婦を雇って、夜の間だけ柳吉の看病してもらい、ヤトナに出ることにした。が、焼石に水だった。手術も今日、明日に迫り、金の要ることは目に見えていた。蝶子の唄もこんどばかりは昔の面影《おもかげ》を失うた。赤電車での帰り、帯の間に手を差し込んで、思案を重ねた。おきんに借りた百円もそのままだった。
 重い足で、梅田新道の柳吉の家を訪れた。養子だけが会《お》うてくれた。たくさんとは言いませんがと畳に頭をすりつけたが、話にならなかった。自業自得《じごうじとく》、そんな言葉も彼は吐《は》いた。「この家の身代は僕が預っているのです。あなた方に指一本……」差してもらいたくないのはこっちのことですと、尻《しり》を振って外へ飛び出したが、すぐ気の抜けた歩き方になった。種吉の所へ行き、お辰の病床《びょうしょう》を見舞うと、お辰は「私《わて》に構わんと、はよ維康さんとこイ行ったりイな」そして、病気ではご飯たきも不自由やろから、家で重湯やほうれん[#「ほうれん」に傍点]草|炊《た》いて持って帰れと、お辰は気持も仏様のようになっており、死期に近づいた人に見えた。
 お辰とちがって、柳吉は蝶子の帰りが遅《おそ》いと散々|叱言《こごと》を言う始末で、これではまだ死ぬだけの人間になっていなかった。という訳でもなかったろうが、とにかく二日後に腎臓を片一方切り取ってしまうという大手術をやっても、ピンピン生きて、「水や、水や、水をくれ」とわめき散らした。水を飲ましてはいけぬと注意されていたので、蝶子は丹田《たんでん》に力を入れて柳吉のわめき声を聴いた。
 あくる日、十二三の女の子を連れて若い女が見舞に来た。顔かたちを一目見るなり、柳吉の妹だと分った。はっと緊張《きんちょう》し、「よう来てくれはりました」初対面の挨拶代りにそう言った。連れて来た女の子は柳吉の娘だった。ことし四月から女学校に上っていて、セーラー服を着ていた。頭を撫《な》でると、顔をしかめた。
 一時間ほどして帰って行った。夫に内緒で来たと言った。「あんな養子にき、き、気兼ねする奴があるか」妹の背中へ柳吉はそんな言葉を投げた。送って廊下《ろうか》へ出ると、妹は「姉《ねえ》はんの苦労はお父さんもこの頃よう知ったはりまっせ。よう尽してくれとる、こない言うたはります」と言い、そっと金を握らした。蝶子は白粉気《おしろいけ》もなく、髪もバサバサで、着物はくたびれていた。そんなところを同情しての言葉だったかも知らぬが、蝶子は本真《ほんま》のことと思いたかった。柳吉の父親に分ってもらうまで十年掛ったのだ。姉さんと言われたことも嬉しかった。だから、金はいったん戻す気になった。が無理に握らされて、あとで見ると百円あった。有難かった。そわそわして落ちつかなかった。
 夕方、電話が掛って来た。弟の声だったから、ぎょっとした。危篤《きとく》だと聞いて、早速駆けつける旨、電話室から病室へ言いに戻ると、柳吉は「水くれ」を叫んでいた。そして、「お、お、お、親が大事か、わいが大事か」自分もいつ死ぬか分らへんと、そんな風にとれる声をうなり出した。蝶子は椅子に腰掛けて、じっと腕組みした。そこへ泪が落ちるまで、大分時間があった。秋で、病院の庭から虫の声もした。
 どのくらい時間が経ったか、隙間風が肌寒くすっかり夜になっていた。急に、「維康さん、お電話でっせ」胸さわぎしながら電話口に出てみると、こんどは誰か分らぬ女の声で、「息を引きとらはりましたぜ」とのことだった。そのまま病院を出て駆けつけた。「蝶子はん、あんたのこと心配して蝶子は可哀想なやっちゃ言うて息引きとらはったんでっせ」近所の女達の赤い目がこれ見よがしだった。三十歳の蝶子も母親の目から見れば子供だと種吉は男泣きした。親不孝者と見る人々の目を背中に感じながら、白い布を取って今更の死水《しにみず》を唇につけるなど、蝶子は勢一杯《せいいっぱい》に振舞った。「わての亭主も病気や」それを自分の肚への言訳にして、お通夜《つや》も早々に切り上げた。夜更けの街を歩いて病院へ帰る途々《みちみち》、それでもさすがに泣きに泣けた。病室へはいるなり柳吉は怖い目で「どこイ行って来たんや」蝶子はたった一言、「死んだ」そして二人とも黙り込んで、しばらくは睨み合っていた。柳吉の冷やかな視線は、なぜか蝶子を圧迫《あっぱく》した。蝶子はそれに負けまいとして、持前の勝気な気性が蛇のように頭をあげて来た。柳吉の妹がくれた百円の金を全部でなくとも、たとえ半分だけでも、母親の葬式の費用に当てようと、ほとんど気がきまった。ままよ、せめてもの親孝行だと、それを柳吉に言い出そうとしたが、痩せたその顔を見ては言えなかった。
 が、そんな心配は要らなかった。種吉がかねがね駕籠かき人足に雇われていた葬儀屋《そうぎや》で、身内のものだとて無料で葬儀万端を引き受けてくれて、かなり盛大《せいだい》に葬式が出来た。おまけにお辰がいつの間にはいっていたのか、こっそり郵便局の簡易養老保険に一円掛けではいっていたので五百円の保険料が流れ込んだのだ。上塩町に三十年住んで顔が広かったからかなり多かった会葬者に市電のパスを山菓子に出し、香奠返《こうでんがえ》しの義理も済ませて、なお二百円ばかり残った。それで種吉は病院を訪ねて、見舞金だと百円だけ蝶子に渡した。親のありがたさが身に沁《し》みた。柳吉の父が蝶子の苦労を褒めていると妹に聞いた旨言うと、種吉は「そらええ按配や」と、お辰が死んで以来はじめてのニコニコした顔を見せた。
 柳吉はやがて退院して、湯崎温泉へ出養生《でようじょう》した。費用は蝶子がヤトナで稼いで仕送りした。二階借りするのも不経済だったから、蝶子は種吉の所で寝泊りした。種吉へは飯代を渡すことにしたのだが、種吉は水臭いといって受取らなかった。仕送りに追われていることを知っていたのだ。
 蝶子が親の所へ戻っていると知って、近所の金持から、妾になれと露骨《ろこつ》に言って来た。例の材木屋の主人は死んでいたが、その息子が柳吉と同じ年の四十一になっていて、そこからも話があった。蝶子は承りおくという顔をした。きっぱり断らなかったのは近所の間柄気まずくならぬように思ったためだが、一つには芸者時代の駈引きの名残《なご》りだった。まだまだ若いのだとそんな話のたびに、改めて自分を見直した。が、心はめったに動きはしなかった。湯崎にいる柳吉の夢《ゆめ》を毎晩見た。ある日、夢見が悪いと気にして、とうとう湯崎まで出掛けて行った。「毎日魚釣りをして淋しく暮している」はずの柳吉が、こともあろうに芸者を揚げて散財していた。むろん酒も飲んでいた。女中を捉《とら》えて、根掘《ねほ》り聴くとここ一週間余り毎日のことだという。そんな金がどこからはいるのか、自分の仕送りは宿の払いに精一杯で、煙草代《たばこだい》にも困るだろうと済まぬ気がしていたのにと不審《ふしん》に思った。女中の口から、柳吉がたびたび妹に無心していたことが分ると目の前が真暗になった。自分の腕一つで柳吉を出養生させていればこそ、苦労の仕甲斐《しがい》もあるのだと、柳吉の父親の思惑《おもわく》をも勘定に入れてかねがね思っていたのだ。妹に無心などしてくれたばっかりに、自分の苦労も水の泡《あわ》だと泣いた。が、何かにつけて蝶子は自分の甲斐性の上にどっかり腰を据えると、柳吉はわが身に甲斐性がないだけに、その点がほとほと虫好かなかったのだ。しかし、その甲斐性を散々利用して来た手前、柳吉には面と向っては言いかえす言葉はなかった。興ざめた顔で、蝶子の詰問《きつもん》を大人しく聴いた。なお女中の話では、柳吉はひそかに娘を湯崎へ呼び寄せて、千畳敷や三段壁など名所を見物したとのことだった。その父性愛も柳吉の年になってみるともっともだったが、裏切られた気がした。かねがね娘を引きとって三人暮しをしようと柳吉に迫ったのだが、柳吉はうんと言わなかったのだ。娘のことなどどうでも良い顔で、だからひそかに自分に己惚《うぬぼ》れていたのだった。何やかやで、蝶子は逆上した。部屋のガラス障子に盞《さかずき》を投げた。芸者達はこそこそと逃げ帰った。が、間もなく蝶子は先刻の芸者達を名指しで呼んだ。自分ももと芸者であったからには、不粋なことで人気商売の芸者にケチをつけたくないと、そんな思いやりとも虚栄心《きょえいしん》とも分らぬ心が辛《かろ》うじて出た。自分への残酷《ざんこく》めいた快感もあった。

 柳吉と一緒に大阪へ帰って、日本橋の御蔵跡《みくらあと》公園裏に二階借りした。相変らずヤトナに出た。こんど二階借りをやめて一戸構え、ちゃんとした商売をするようになれば、柳吉の父親もえらい女だと褒めてくれ、天下晴れての夫婦《めおと》になれるだろうとはげみを出した。その父親はもう十年以上も中風で寝ていて、普通《ふつう》ならとっくに死んでいるところを持ちこたえているだけに、いつ死なぬとも限らず、眼の黒いうちにと蝶子は焦った。が、柳吉はまだ病後の体で、滋養剤《じようざい》を飲んだり、注射を打ったりして、そのためきびしい物入りだったから、半年経っても三十円と纏まった金はたまらなかった。
 ある夕方、三味線のトランクを提げて日本橋一丁目の交叉点《こうさてん》で乗換《のりか》えの電車を待っていると、「蝶子はんと違いまっか」と話しかけられた。北の新地で同じ抱主の所で一つ釜の飯を食っていた金八という芸者だった。出世しているらしいことはショール一つにも現われていた。誘われて、戎橋《えびすばし》の丸万でスキ焼をした。その日の稼ぎをフイにしなければならぬことが気になったが、出世している友達の手前、それと言って断ることは気がひけたのだ。抱主がけちんぼで、食事にも塩鰯一|尾《び》という情けなさだったから、その頃お互い出世して抱主を見返してやろうと言い合ったものだと昔話が出ると、蝶子は今の境遇《きょうぐう》が恥かしかった。金八は蝶子の駈落ち後間もなく落籍《ひか》されて、鉱山師の妾となったが、ついこの間本妻が死んで、後釜に据えられ、いまは鉱山の売り買いに口出しして、「言うちゃ何やけど……」これ以上の出世も望まぬほどの暮しをしている。につけても、想い出すのは、「やっぱり、蝶子はん、あんたのことや」抱主を見返すと誓った昔の夢を実現するには、是非蝶子にも出世してもらわねばならぬと金八は言った。千円でも二千円でも、あんたの要るだけの金は無利子の期間なしで貸すから、何か商売する気はないかと、事情を訊くなり、早速言ってくれた。地獄で仏とはこのことや、蝶子は泪が出て改めて、金八が身につけるものを片《かた》ッ端《ぱし》から褒めた。「何商売がよろしおまっしゃろか」言葉使いも丁寧《ていねい》だった。「そうやなア」丸万を出ると、歌舞伎《かぶき》の横で八卦見に見てもらった。水商売がよろしいと言われた。「あんたが水商売でわては鉱山《やま》商売や、水と山とで、なんぞこんな都々逸《どどいつ》ないやろか」それで話はきっぱり決った。
 帰って柳吉に話すと、「お前もええ友達持ってるなア」とちょっぴり皮肉めいた言い方だったが、肚の中では万更《まんざら》でもないらしかった。
 カフェを経営することに決め、翌日早速周旋屋を覗きまわって、カフェの出物《でもの》を探した。なかなか探せぬと思っていたところ、いくらでも売物があり、盛業中のものもじゃんじゃん売りに出ているくらいで、これではカフェ商売の内幕もなかなか楽ではなさそうだと二の足を踏んだが、しかし蝶子の自信の方が勝った。マダムの腕一つで女給の顔触れが少々悪くても結構|流行《はや》らして行けると意気込んだ。売りに出ている店を一軒一軒廻ってみて、結局下寺町電停前の店が二ツ井戸から道頓堀、千日前へかけての盛り場に遠くない割に値段も手頃で、店の構えも小ぢんまりして、趣味に適《かな》っているとて、それに決めた。造作附八百円で手を打ったが、飛田の関東煮屋のような腐った店と違うから安い方であった。念のため金八に見てもらうと、「ここならわても一ぺん遊んでみたい」と文句はなかった。そして、代替りゆえ、思い切って店の内外を改装《かいそう》し、ネオンもつけて、派手に開店しなはれ、金はいくらでも出すと、随分乗気になってくれた。
 名前は相変らずの「蝶柳」の上にサロンをつけて「サロン蝶柳」とし、蓄音器《ちくおんき》は新内、端唄《はうた》など粋向きなのを掛け、女給はすべて日本髪か地味なハイカラの娘《こ》ばかりで、下手《へた》に洋装した女や髪の縮《ちぢ》れた女などは置かなかった。バーテンというよりは料理場といった方が似合うところで、柳吉はなまこの酢の物など附出《つきだ》しの小鉢物を作り、蝶子はしきりに茶屋風の愛嬌を振りまいた。すべてこのように日本趣味で、それがかえって面白いと客種も良く、コーヒーだけの客など居辛かった。
 半年経たぬうちに押しも押されぬ店となった。蝶子のマダム振りも板についた。使ってくれと新しい女給が「顔見せ」に来れば頭のてっぺんから足の先まで素早く一目の観察で、女の素姓《すじょう》や腕が見抜けるようになった。ひとり、どうやら臭いと思われる女給が来た。体つき、身のこなしなど、いやらしく男の心をそそるようで眼つきも据《すわ》っていて、気が進まなかったが、レッテル(顔)が良いので雇い入れた。べたべたと客にへばりつき、ひそひそ声の口説《くぜつ》も何となく蝶子には気にくわなかったが、良い客が皆その女についてしまったので、追い出すわけには行かなかった。時々、二、三時間暇をくれといって、客と出て行くのだった。そんなことがしばしば続いて、客の足が遠のいた。てっきりどこかへ客を食わえ込むらしく、客も馴染みになるとわざわざ店へ出向いて来る必要もなかったわけだ。そのための家を借りてあることもあとで分った。いわばカフェを利用して、そんな妙な事をやっていたのだ。追い出したところ、他の女給たちが動揺《どうよう》した。ひとりひとり当ってみると、どの女給もその女を見習って一度ならずそんな道に足を入れているらしかった。そうしなければ、その女に自分らの客をとられてしまってやって行けなかったのかも知れぬが、とにかく、蝶子はぞっと嫌気《いやけ》がさした。その筋に分ったら大変だと、全部の女給に暇を出し、新しく温和《おとな》しい女ばかりを雇い入れた。それでやっと危機を切り抜けた。店で承知でやらすならともかく、女給たちに勝手にそんな真似をされたら、もうそのカフェは駄目になると、あとで前例も聞かされた。
 女給が変ると、客種も変り、新聞社関係の人がよく来た。新聞記者は眼つきが悪いからと思ったほどでなく、陽気に子供じみて、蝶子を呼ぶにもマダムでなくて「おばちゃん」蝶子の機嫌はすこぶる良かった。マスターこと「おっさん」の柳吉もボックスに引き出されて一緒に遊んだり、ひどく家庭的な雰囲気《ふんいき》の店になった。酔うと柳吉は「おい、こら、らっきょ」などと記者の渾名を呼んだりし、そのあげく、二次会だと連中とつるんで今里新地へ車を飛ばした。蝶子も客の手前、粋をきかして笑っていたが、泊って来たりすれば、やはり折檻の手はゆるめなかった。近所では蝶子を鬼婆《おにばば》と蔭口たたいた。女給たちには面白い見もので、マスターが悪いと表面では女同志のひいきもあったが、しかし、肚の中ではどう思っているか分らなかった。

 蝶子は「娘さんを引き取ろうや」とそろそろ柳吉に持ちかけた。柳吉は「もうちょっと待ちイな」と言い逃《のが》れめいた。「子供が可愛いことないのんか」ないはずはなかったが、娘の方で来たがらぬのだった。女学生の身でカフェ商売を恥じるのは無理もなかったが、理由はそんな簡単なものだけではなかった。父親を悪い女に奪《と》られたと、死んだ母親は暇さえあれば、娘に言い聴かせていたのだ。蝶子が無理にとせがむので、一、二度「サロン蝶柳」へセーラー服の姿を現わしたが、にこりともしなかった。蝶子はおかしいほど機嫌とって、「英語たらいうもんむつかしおまっしゃろな」女学生は鼻で笑うのだった。
 ある日、こちらから頼みもしないのにだしぬけに白い顔を見せた。蝶子は顔じゅう皺《しわ》だらけに笑って「いらっしゃい」駆け寄ったのへつん[#「つん」に傍点]と頭を下げるなり、女学生は柳吉の所へ近寄って低い声で「お祖父《じい》さんの病気が悪い、すぐ来て下さい」
 柳吉と一緒に駆けつける事にしていた。が、柳吉は「お前は家に居《お》りイな。いま一緒に行ったら都合《ぐつ》が悪い」蝶子は気抜けした気持でしばらく呆然《ぼうぜん》としたが、これだけのことは柳吉にくれぐれも頼んだ。――父親の息のある間に、枕元で晴れて夫婦になれるよう、頼んでくれ。父親がうんと言ったらすぐ知らせてくれ。飛んで行くさかい。
 蝶子は呉服屋へ駆け込んで、柳吉と自分と二人分の紋附を大急ぎで拵《こしら》えるように頼んだ。吉報《きっぽう》を待っていたが、なかなか来なかった。柳吉は顔も見せなかった。二日経ち、紋附も出来上った。四日目の夕方呼出しの電話が掛った。話がついた、すぐ来いの電話だと顔を紅潮させ、「もし、もし、私維康です」と言うと、柳吉の声で「ああ、お、お、お、おばはんか、親爺は今死んだぜ」「ああ、もし、もし」蝶子の声は癇高《かんだか》く震《ふる》えた。「そんなら、私はすぐそっちイ行きまっさ、紋附も二人分出来てまんねん」足元がぐらぐらしながらも、それだけははっきり言った。が、柳吉の声は、「お前は来ん方がええ。来たら都合《ぐつ》悪い。よ、よ、よ、養子が……」あと聞かなかった。葬式にも出たらいかんて、そんな話があるもんかと頭の中を火が走った。病院の廊下で柳吉の妹が言った言葉は嘘だったのか、それとも柳吉が頑固な養子にまるめ込まれたのか、それを考える余裕もなかった。紋附のことが頭にこびりついた。店へ帰り二階へ閉《と》じ籠《こも》った。やがて、戸を閉め切って、ガスのゴム管を引っぱり上げた。「マダム、今夜はスキ焼でっか」階下から女給が声かけた。栓《せん》をひねった。
 夜、柳吉が紋附をとりに帰って来ると、ガスのメーターがチンチンと高い音を立てていた。異様な臭気《しゅうき》がした。驚いて二階へ上り、戸を開けた。団扇でパタパタそこらをあおった。医者を呼んだ。それで蝶子は助かった。新聞に出た。新聞記者は治《ち》に居て乱を忘れなかったのだ。日蔭者自殺を図《はか》るなどと同情のある書き方だった。柳吉は葬式があるからと逃げて行き、それきり戻って来なかった。種吉が梅田へ訊《たず》ねに行くと、そこにもいないらしかった。起きられるようになって店へ出ると、客が慰めてくれて、よく流行《はや》った。妾になれと客はさすがに時機を見逃さなかった。毎朝、かなり厚化粧してどこかへ出掛けて行くので、さては妾になったのかと悪評だった。が本当は、柳吉が早く帰るようにと金光教の道場へお詣りしていたのだった。
 二十日余り経つと、種吉のところへ柳吉の手紙が来た。自分ももう四十三歳だ、一度|大患《たいかん》に罹《かか》った身ではそう永くも生きられまい。娘の愛にも惹《ひ》かされる。九州の土地でたとえ職工をしてでも自活し、娘を引き取って余生を暮したい。蝶子にも重々気の毒だが、よろしく伝えてくれ。蝶子もまだ若いからこの先……などとあった。見せたらこと[#「こと」に傍点]だと種吉は焼き捨てた。
 十日経ち、柳吉はひょっくり「サロン蝶柳」へ戻って来た。行方を晦《くら》ましたのは策戦や、養子に蝶子と別れたと見せかけて金を取る肚やった、親爺が死ねば当然遺産の分け前に与《あずか》らねば損や、そう思て、わざと葬式にも呼ばなかったと言った。蝶子は本当だと思った。柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形《おたふくにんぎょう》が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提灯《おおぢょうちん》がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。おまけに、ぜんざいを註文《ちゅうもん》すると、女夫《めおと》の意味で一人に二杯ずつ持って来た。碁盤《ごばん》の目の敷畳に腰をかけ、スウスウと高い音を立てて啜《すす》りながら柳吉は言った。「こ、こ、ここの善哉《ぜんざい》はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫《だゆう》ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯|山盛《やまもり》にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山《ぎょうさん》はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」蝶子は「一人より女夫の方がええいうことでっしゃろ」ぽんと襟を突き上げると肩が大きく揺れた。蝶子はめっきり肥えて、そこの座蒲団が尻にかくれるくらいであった。

 蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝《こ》り出した。二ツ井戸天牛書店の二階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十《たいじゅう》」を語り、二等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。
(昭和十五年八月)



底本:「ちくま日本文学全集 織田作之助」筑摩書房
   1993年5月20日第一刷発行
底本の親本:「現代日本文学全集70」筑摩書房
入力:野口英司
校正:江戸尚美
1998年3月12日公開
2000年12月1日修正
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