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ごんごろ鐘《がね》
新美南吉《にいみなんきち》

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(例)ごんごろ鐘《がね》

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(例)三|月《がつ》八日《ようか》

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(例)ごオん[#「ごオん」に傍点]のあとに
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 三|月《がつ》八日《ようか》
 お父《とう》さんが、夕方《ゆうがた》村会《そんかい》からかえって来《き》て、こうおっしゃった。
「ごんごろ鐘《がね》を献納《けんのう》することにきまったよ。」
 お母《かあ》さんはじめ、うちじゅうのものがびっくりした。が、僕《ぼく》はあまり驚《おどろ》かなかった。僕《ぼく》たちの学校《がっこう》の門《もん》や鉄柵《てつさく》も、もうとっくに献納《けんのう》したのだから、尼寺《あまでら》のごんごろ鐘《がね》だって、お国《くに》のために献納《けんのう》したっていいのだと思《おも》っていた。でも小《ちい》さかった時《とき》からあの鐘《かね》に朝晩《あさばん》したしんで来《き》たことを思《おも》えば、ちょっとさびしい気《き》もする。
 お母《かあ》さんが、
「まあ、よく庵主《あんじゅ》さんがご承知《しょうち》なさったね。」
とおっしゃった。
「ん、はじめのうちは、村《むら》の御先祖《ごせんぞ》たちの信仰《しんこう》のこもったものだからとか、ご本山《ほんざん》のお許《ゆる》しがなければとかいって、ぐずついていたけれど、けっきょく気《き》まえよく献納《けんのう》することになったよ。庵主《あんじゅ》だって日本人《にほんじん》に変《か》わりはないわけさ。」
 ところで、このごんごろ鐘《がね》を献納《けんのう》するとなると、僕《ぼく》はだいぶん書《か》きとめておかねばならないことがあるのだ。
 第《だい》一、ごんごろ鐘《がね》という名前《なまえ》の由来《ゆらい》だ。樽屋《たるや》の木之助《きのすけ》爺《じい》さんの話《はなし》では、この鐘《かね》をつくった鐘師《かねし》がひどいぜんそく持《も》ちで、しょっちゅうのどをごろごろいわせていたので、それが鐘《かね》にもうつって、この鐘《かね》を叩《たた》くと、ごオん[#「ごオん」に傍点]のあとに、ごろごろ[#「ごろごろ」に傍点]という音《おと》がかすかに続《つづ》く、それで誰《だれ》いうとなく、ごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》と呼《よ》ぶようになったのだそうだ。しかしこの話《はなし》はどうも怪《あや》しい、と僕《ぼく》は思《おも》う。人間《にんげん》のぜんそくが鐘《かね》にうつるというところが変《へん》だ。それなら、人間《にんげん》の腸《ちょう》チブスが鐘《かね》にうつるということもあるはずだし、人間《にんげん》のジフテリヤが鐘《かね》にうつるということもあるはずである。それじゃ鐘《かね》の病院《びょういん》も建《た》たなければならないことになる。
 僕《ぼく》と松男君《まつおくん》はいつだったか、ろんよりしょうこ、ごんごろ鐘《がね》がはたしてごんごろごろ[#「ごんごろごろ」に傍点]と鳴《な》るかどうか試《ため》しにいったことがある。静《しず》かなときを僕《ぼく》たちは選《えら》んでいった。鐘楼《しゅろう》の下《した》にあじさいが咲《さ》きさかっている真昼《まひる》どきだった。松男君《まつおくん》が腕《うで》によりをかけて、あざやかに一つごオん、とついた。そして二人《ふたり》は耳《みみ》をすましてきいていたが、余韻《よいん》がわあんわあんと波《なみ》のようにくりかえしながら消《き》えていったばかりで、ぜんそく持《も》ちの痰《たん》のような音《おと》はぜんぜんしなかった。そこで僕《ぼく》たちは、この鐘《かね》の健康状態《けんこうじょうたい》はすこぶるよろしい、と診断《しんだん》したのだった。
 また紋次郎君《もんじろうくん》とこのお婆《ばあ》さんの話《はなし》によると、この鐘《かね》を鋳《い》た人《ひと》が、三河《みかわ》の国《くに》のごんごろう[#「ごんごろう」に傍点]という鐘師《かねし》だったので、そう呼《よ》ばれるようになったんだそうだ。鐘《かね》のどこかに、その鐘師《かねし》の名《な》が彫《ほ》りつけてあるそうな、と婆《ばあ》さんはいった。これは木之助《きのすけ》爺《じい》さんの話《はなし》よりよほどほんとうらしい。
 しかし僕《ぼく》は、大学《だいがく》にいっている僕《ぼく》の兄《にい》さんの話《はなし》が、いちばん信《しん》じられるのだ。兄《にい》さんはこういった。「それはきっと、ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鳴《な》るので、はじめに誰《だれ》かがごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》といったのさ。ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》ごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》といっているうちに、誰《だれ》かが言《い》いちがえてごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》といっちまったんだ。するとごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》の方《ほう》がごんごん[#「ごんごん」に傍点]鐘《がね》よりごろ[#「ごろ」に傍点]がいいので、とうとうごんごろ[#「ごんごろ」に傍点]鐘《がね》になったのさ。」
 僕《ぼく》は小《ちい》さかったときには、ごんごろ鐘《がね》をずいぶん大《おお》きいものと思《おも》っていた。しかし国民《こくみん》六|年《ねん》にもうじきなろうという現在《げんざい》では、それほど大《おお》きいとは思《おも》わない。直径《ちょっけい》が約《やく》七十|糎《センチ》だから周囲《しゅうい》は70cm×3.14=219.8cmというわけだ。お父《とう》さんが奈良《なら》で見《み》て来《き》た鐘《かね》というのは、直径《ちょっけい》が二|米《メートル》ぐらいあったそうだから、そんなのにくらべれば、ごんごろ鐘《がね》は鐘《かね》の赤《あか》ん坊《ぼう》にすぎない。
 しかし僕《ぼく》たち村《むら》のものにとっては、いつまでも忘《わす》れられない鐘《かね》だ。なぜなら、尼寺《あまでら》の庭《にわ》の鐘楼《しゅろう》の下《した》は、村《むら》のこどものたまりばだからだ。僕《ぼく》たちが学校《がっこう》にあがらないじぶんは、毎日《まいにち》そこで遊《あそ》んだのだ。学校《がっこう》にあがってからでも学校《がっこう》がひけたあとでは、たいていそこにあつまるのだ。夕方《ゆうがた》、庵主《あんじゅ》さんが、もう鐘《かね》をついてもいいとおっしゃるのをまっていて、僕《ぼく》らは撞木《しゅもく》を奪《うば》いあってついたのだ。またごんごろ鐘《がね》は、僕《ぼく》たちの杉《すぎ》の実《み》でっぽうや、草《くさ》の実《み》でっぽうのたまをどれだけうけて、そのたびにかすかな澄《す》んだ音《おと》で僕達《ぼくたち》の耳《みみ》をたのしませてくれたか知《し》れない。
 おもえば、ごんごろ鐘《がね》についてのおもいでは、数《かず》かぎりがない。

 三|月《がつ》二十二|日《にち》
 春休《はるやす》み第《だい》二|日《にち》の今日《きょう》、ごんごろ鐘《がね》がいよいよ「出征《しゅっせい》」することになった。
 兎《うさぎ》にたんぽぽをやっていると、用吉君《ようきちくん》が、今《いま》おろすところだよ、といって来《き》たので、遅《おく》れちゃたいへんと、桑畑《くわばたけ》の中《なか》の近道《ちかみち》を走《はし》っていった。四郎五郎《しろごろう》さんの藪《やぶ》の横《よこ》までかけて来《く》ると、まだ三百|米《メートル》ほど走《はし》ったばかりなのに、あつくなって来《き》たので、上衣《うわぎ》をぬいでしまった。
 尼寺《あまでら》へ来《き》て見《み》て、僕《ぼく》はびっくりした。まるでお祭《まつ》りのときのような人出《ひとで》である。いや、お祭《まつ》りのとき以上《いじょう》かも知《し》れない。お祭《まつ》りには若《わか》い者《もの》や子供《こども》はたくさん出《で》て来《く》るが、こんなに老人《ろうじん》までがおおぜい出《で》て来《き》はしないのだ。杖《つえ》にすがった爺《じい》さん、あごが地《ち》につくくらい背《せ》がまがって、ちょうど七面鳥《しちめんちょう》のようなかっこうの婆《ばあ》さん、自分《じぶん》では歩《ある》かれないので、息子《むすこ》の背《せ》におわれて来《き》た老人《ろうじん》もあった。こういう人《ひと》たちも、みなごんごろ鐘《がね》と、目《め》に見《み》えない糸《いと》で結《むす》ばれているのだ。僕《ぼく》はいまさら、この大《おお》きくもない鐘《かね》が、じつにたくさんの人《ひと》の生活《せいかつ》につながっていることに驚《おどろ》かされた。
 老人《ろうじん》たちは、ごんごろ鐘《がね》に別《わか》れを惜《お》しんでいた。「とうとう、ごんごろ鐘《がね》さま[#「さま」に傍点]も行《い》ってしまうだかや。」といっている爺《じい》さんもあった。なんまみだぶ、なんまみだぶといいながら、ごんごろ鐘《がね》を拝《おが》んでいる婆《ばあ》さんもあった。
 鐘《かね》をおろすまえに、青年団長《せいねんだんちょう》の吉彦《よしひこ》さんが、とてもよいことを思《おも》いついてくれた。長年《ながねん》お友《とも》だちであった鐘《かね》ともいよいよお別《わか》れだから、子供《こども》たちに思《おも》うぞんぶんつかせよう、というのであった。これをきいて僕《ぼく》たち村《むら》の子供《こども》は、わっと歓呼《かんこ》の声《こえ》をあげた。みなつきたいものばかりなので、吉彦《よしひこ》さんはみんなを鐘楼《しゅろう》の下《した》に一|列《れつ》励行《れいこう》させた。そして一人《ひとり》ずつ石段《いしだん》をあがってつくのだが、一人《ひとり》のつく数《かず》は三つにきめられた。お菓子《かし》の配給《はいきゅう》のときのことをおもい出《だ》して、僕《ぼく》はおかしかった。だが、ごんごろ鐘《がね》を最後《さいご》に三つずつ鳴《な》らさせてもらうこの「配給《はいきゅう》」は、お菓子《かし》の配給《はいきゅう》以上《いじょう》にみんなに満足《まんぞく》をあたえた。
 最後《さいご》に吉彦《よしひこ》さんがじぶんで、大《おお》きく大《おお》きく撞木《しゅもく》を振《ふ》って、がオオんん、とついた。わんわんわん、と長《なが》く余韻《よいん》がつづいた。すると吉彦《よしひこ》さんが、
「西《にし》の谷《たに》も東《ひがし》の谷《たに》も、北《きた》の谷《たに》も南《みなみ》の谷《たに》も鳴《な》るぞや。ほれ、あそこの村《むら》も、あそこの村《むら》も、鳴《な》るぞや。」
と、謎《なぞ》のようなことをいった。
「ほんとだ、ほんとだ。」
と、樽屋《たるや》の木之助《きのすけ》爺《じい》さんと、ほか二、三|人《にん》の老人《ろうじん》があいづちをうった。
 ぼくは何《なん》のことやらわけが分《わ》からなかったので、あとでお父《とう》さんにきいて見《み》たら、お父《とう》さんはこう説明《せつめい》してくれた。
「ごんごろ鐘《がね》ができたのは、わたしのお祖父《じい》さんの若《わか》かったじぶんで、わたしもまだ生《う》まれていなかった昔《むかし》のことだが、その頃《ころ》は村《むら》の人達《ひとたち》はみなお金《かね》というものを少《すこ》ししか持《も》っていなかったので、村中《むらじゅう》がその僅《わず》かずつのお金《かね》を出《だ》しあっても、まだ鐘《かね》を一つつくるには足《た》りなかった。そこで西《にし》や東《ひがし》や南《みなみ》や北《きた》の谷《たに》に住《す》んでいる人《ひと》たちやら、もっと遠《とお》くのあっちこっちの村《むら》まで合力《ごうりょく》してもらいにいったんだそうだ。合力《ごうりょく》というのは、たすけてもらうことなのさ。そうしてようやくできあがった鐘《かね》だから、四方《しほう》の谷《たに》の人《ひと》や向《む》こうの村々《むらむら》の人《ひと》の心《こころ》もこもっているわけだ。だからごんごろ鐘《がね》をつくと、その谷《たに》や村《むら》の音《おと》もまじっているように聞《き》こえるのだよ。」
 ごんごろ鐘《がね》をおろすのは、庭師《にわし》の安《やす》さんが、大《おお》きい庭石《にわいし》を動《うご》かすときに使《つか》う丸太《まるた》や滑車《せみ》を使《つか》ってやった。若《わか》い人達《ひとたち》が手伝《てつだ》った。馴《な》れないことだからだいぶん時間《じかん》がかかった。
 ごんごろ鐘《がね》はひとまず鐘楼《しゅろう》の下《した》に新筵《にいむしろ》をしいて、そこにおろされた。いつも下《した》からばかり見《み》ていた鐘《かね》が、こうして横《よこ》から見《み》られるようになると、何《なに》か別《べつ》のもののような変《へん》な感《かん》じがした。緑青《ろくしょう》がいっぱいついている上《うえ》に、頂《いただき》の方《ほう》には埃《ほこり》がつもっているので、かなりきたなかった。庵主《あんじゅ》さんと、よく尼寺《あまでら》の世話《せわ》をするお竹《たけ》婆《ばあ》さんとが、縄《なわ》をまるめてごしごしと洗《あら》った。
 すると今《いま》まではっきりしなかった鐘《かね》の銘《めい》も、だいぶんはっきりして来《き》た。吉彦《よしひこ》さんがちょっと読《よ》んで見《み》て、
「こりゃ、お経《きょう》だな。」
といった。それからまた、
「安永《あんえい》何《なん》とか書《か》いてあるぜ。こりゃ安永年間《あんえいねんかん》にできたもんだ。」
といった。すると、どもりの勘太《かんた》爺《じい》さんが、
「そ、そうだ。う、う、おれの親父《おやじ》が、う、う、生《う》まれたとしにできた、げな。お、お、親父《おやじ》は安永《あんえい》の、う、う、うまれだ。」
と、かみつくようにいった。
 紋次郎君《もんじろうくん》とこの婆《ばあ》さんが、
「三河《みかわ》のごんごろという鐘師《かねし》がつくったと書《か》いてねえかン。」
ときいた。
「そんなことは書《か》いてねえ、助九郎《すけくろう》という名《な》が書《か》いてある。」
と、吉彦《よしひこ》さんが答《こた》えると、婆《ばあ》さんは何《なに》かぶつくさいってひっこんだ。
 和太郎《わたろう》さんが牛車《ぎゅうしゃ》をひいて来《き》たとき、きゅうに庵主《あんじゅ》さんが、鐘供養《かねくよう》をしたいといい出《だ》した。大人《おとな》たちは、あまり時間《じかん》がないし、もうみんなじゅうぶん別《わか》れを惜《お》しんだのだから、鐘供養《かねくよう》はしなくてもいいだろう、といった。しかし若《わか》い尼《あま》さんは、眼鏡《めがね》をかけた顔《かお》に真剣《しんけん》な表情《ひょうじょう》をうかべて、「いいえ、自分《じぶん》の体《からだ》を熔《と》かして、爆弾《ばくだん》となってしまう鐘《かね》ですから、どうしても供養《くよう》をしてやりとうござんす。」といった。
 大人《おとな》たちは、やれやれ、といった顔《かお》つきをした。みんな、庵主《あんじゅ》さんがしようのない頑固者《がんこもの》であることを知《し》っていたからだ。しかし庵主《あんじゅ》さんのいうことも道理《どうり》であった。
 鐘供養《かねくよう》というのは、どんなことをするのかと思《おも》っていたら、ごんごろ鐘《がね》の前《まえ》に線香《せんこう》を立《た》てて庵主《あんじゅ》さんがお経《きょう》をあげることであった。庵主《あんじゅ》さんは、よそゆきの茶色《ちゃいろ》のけさを着《き》て、鐘《かね》のまえに立《た》つと、手《て》にもっている小《ちい》さい鉦《かね》をちーんとたたいて、お経《きょう》を読《よ》みはじめた。はじめはみんな黙《だま》ってきいていたが、少《すこ》したいくつになったので、お経《きょう》を知《し》っている大人達《おとなたち》は、庵主《あんじゅ》さんといっしょに唱《とな》え出《だ》した。何《なん》だか空気《くうき》がしめっぽくなった。まるでお葬《とむら》いのような気《き》がした。年寄《としよ》りたちはみなしわくちゃの手《て》を合《あ》わせた。
 鐘供養《かねくよう》がすんで、庭師《にわし》の安《やす》さんたちが、またごんごろ鐘《がね》を吊《つ》りあげると、その下《した》へ和太郎《わたろう》さんが牛車《ぎゅうしゃ》をひきこんで、うまいぐあいに、牛車《ぎゅうしゃ》の上《うえ》にのせた。その時《とき》、黄色《きいろ》い蝶《ちょう》が一つごんごろ鐘《がね》をめぐって、土塀《どべい》の外《そと》へ消《き》えていった。
 和太郎《わたろう》さんが牛《うし》を車《くるま》につけているとき、みんなはまたいろいろなことをいった。
「この鐘《かね》がなしになると、これから報恩講《ほうおんこう》のときなんかに、人《ひと》を集《あつ》めるのに困《こま》るわなア。」
といったのは、いつも真面目《まじめ》なことしか言《い》わない種《たね》さんだ。
「なあに、学校生徒《がっこうせいと》を呼《よ》んで来《き》て、ラッパを吹《ふ》かせりゃええてや。トテチテタアをきいたら、みんな、ほれ報恩講《ほうおんこう》がはじまると思《おも》って出《で》かけりゃええ。」
と答《こた》えたのは、ひょっとこづらをして見《み》せることの上手《じょうず》な松《まつ》さん。
「ほんな馬鹿《ばか》な。ラッパで爺《じい》さん婆《ばあ》さんを集《あつ》めるなどと、ほんな馬鹿《ばか》な。」
と、種《たね》さんはしかたがないように笑《わら》った。
「これでごんごろ鐘《がね》もきっと爆弾《ばくだん》になるずらが、あんがい、四郎五郎《しろごろう》さんとこの正男《まさお》さんの手《て》から敵《てき》の軍艦《ぐんかん》にぶちこまれることになるかもしれんな。」
と吉彦《よしひこ》さんがいった。四郎五郎《しろごろう》さんの家《いえ》の正男《まさお》さんは、海《うみ》の荒鷲《あらわし》の一人《ひとり》で、いま南《みなみ》の空《そら》に活躍《かつやく》していらっしゃるのだ。
「うん、そうよなあ。だが、正男《まさお》の奴《やつ》も、ごんごろ鐘《がね》でできた爆弾《ばくだん》たあ知《し》るめえ。爆弾《ばくだん》はものをいわねえでのオ。」
と無口《むくち》でがんじょうな四郎五郎《しろごろう》さんは、煙草《たばこ》をすいながらぽつりぽつり答《こた》えた。
「だが、これだけの鐘《かね》なら爆弾《ばくだん》が三つはできるだろうな。」
と、誰《だれ》かがいった。
「そうよなあ、十はできるだら。」
と誰《だれ》かが答《こた》えた。
「いや三つぐれえのもんだら。」
と、はじめの人《ひと》がいった。
「いいや、十はできるな。」
と、あとの人《ひと》が主張《しゅちょう》した。僕《ぼく》はきいていておかしくなった。爆弾《ばくだん》にも五十キロのもあれば五百キロのもあるというように、いろいろあることを、この人《ひと》たちは知《し》らないらしい。しかし僕《ぼく》にも五十キロの爆弾《ばくだん》ならいくつできるか、五百キロのならいくつできるか、ということはわからなかった。
 いよいよごんごろ鐘《がね》は出発《しゅっぱつ》した。老人達《ろうじんたち》は、また仏《ほとけ》の御名《みな》を唱《とな》えながら、鐘《かね》にむかって合掌《がっしょう》した。
 鐘《かね》には吉彦《よしひこ》さんがひとりついて、町《まち》の国民学校《こくみんがっこう》の校庭《こうてい》までゆくことになっていた。そこには、近《ちか》くの村々《むらむら》からあつめられた屑鉄《くずてつ》の山《やま》があるということだった。
 ぼくたち村《むら》の子供《こども》は、見送《みおく》るつもりでしばらく鐘《かね》のうしろについていった。来《こ》さん坂《ざか》[#「来さん坂」に傍点]もすぎたが、誰一人《だれひとり》帰《かえ》ろうとしなかった。小松山《こまつやま》のそばまで来《き》たが、まだ誰《だれ》も帰《かえ》るようすを見《み》せなかった。帰《かえ》るどころか、みんなの顔《かお》には、町《まち》まで送《おく》ってゆこう、という決意《けつい》があらわれていた。 
 しかし僕《ぼく》たちは小《ちい》さい子供《こども》はつれてゆくわけにはいかなかった。そこで松男君《まつおくん》の提案《ていあん》で、新《しん》四|年《ねん》以下《いか》の者《もの》はしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]から村《むら》へ帰《かえ》り、新《しん》五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》が、町《まち》までついてゆくことにきまった。
 しんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]で、十五|人《にん》ばかりの小《ちい》さい者《もの》がうしろに残《のこ》った。ところが、そこでちょっとした争《あらそ》いが起《お》こった。新《しん》四|年《ねん》だから、帰《かえ》らねばならないはずの比良夫君《ひらおくん》が、帰《かえ》ろうとしなかったからだ。五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》が、帰《かえ》れ帰《かえ》れ、というと、比良夫君《ひらおくん》はいうのだった。
「俺《おれ》あ、今《いま》四|年《ねん》だけれど、一|年《ねん》のときいっぺんすべっとる(落第《らくだい》している)で、年《とし》は五|年《ねん》とおんなじだ。」
 なるほど、それも一つのりくつである。しかし五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》は、そんなりくつは通《とお》させなかった。とうとう腕《うで》ずくで解決《かいけつ》をつけることになった。
 松男君《まつおくん》が比良夫君《ひらおくん》に引《ひ》っ組《く》んだ。そして足掛《あしか》けで倒《たお》そうとしたが、比良夫君《ひらおくん》は相撲《すもう》の選手《せんしゅ》だから、逆《ぎゃく》に腰《こし》をひねって松男君《まつおくん》を投《な》げ出《だ》してしまった。
 こんどは用吉君《ようきちくん》が、得意《とくい》の手《て》で相手《あいて》の首《くび》をしめにかかったが、反対《はんたい》に自分《じぶん》の首《くび》をしめつけられ、ゆでだこのようになってしまった。
 そんなことをしている間《あいだ》に、鐘《かね》をのせた牛車《ぎゅうしゃ》はもうしんたのむね[#「しんたのむね」に傍点]をおりてしまっていた。五|年《ねん》以上《いじょう》の者《もの》は、気《き》がせいてたまらなかった。ぐずぐずしていると、ついに鐘《かね》にいってしまわれるおそれがあった。そこで、比良夫君《ひらおくん》のことなんかほっといて、みんな鐘《かね》めがけて走《はし》った。総勢《そうぜい》十五|人《にん》ほどであった。鐘《かね》に追《お》いついてみると、ちゃんと比良夫君《ひらおくん》がうしろについて来《き》ていた。みんなは少《すこ》しいまいましく思《おも》ったが、考《かんが》えてみると、それだけ比良夫君《ひらおくん》の熱心《ねっしん》がつよいことになるわけだから、みんなは比良夫君《ひらおくん》を許《ゆる》してやることにした。
 川《かわ》の堤《つつみ》に出《で》たとき、紋次郎君《もんじろうくん》が猫柳《ねこやなぎ》の枝《えだ》を折《お》って来《き》て鐘《かね》にささげた。ささげたといっても、鐘《かね》のそばにおいただけである。すると、みんなは、われもわれもと、猫柳《ねこやなぎ》をはじめ、桃《もも》や、松《まつ》や、たんぽぽや、れんげそうや、なかにはペンペン草《ぐさ》までとって来《き》て鐘《かね》にささげた。鐘《かね》はそれらの花《はな》や葉《は》でうずまってしまった。
 こうして僕《ぼく》たちは村《むら》でただひとつのごんごろ鐘《がね》を送《おく》っていった。

 三|月《がつ》二十三|日《にち》
 ひるまえ、南道班《みなみみちはん》子供常会《こどもじょうかい》をするために尼寺《あまでら》へいった。
 いつも常会《じょうかい》をひらくまえに、境内《けいだい》をみんなで掃除《そうじ》することになっているのだが、きょうは僕《ぼく》はひとつみんなの気《き》のつかないところをしてやろうと、御堂《みどう》の裏《うら》へまわって、藪《やぶ》と御堂《みどう》の間《あいだ》のしめった落《お》ち葉《ば》をはいた。裏《うら》へまわっていいことをしたと思《おも》った。それは僕《ぼく》の好《す》きな白椿《しろつばき》が咲《さ》いているのを見《み》つけたからだ。
 何《なん》というよい花《はな》だろう。白《しろ》い花《か》べんがふかぶかとかさなりあい、花《か》べんの影《かげ》がべつの花《か》べんにうつって、ちょっとクリーム色《いろ》に見《み》える。神《かみ》さまも、この花《はな》をつつむには、特別上等《とくべつじょうとう》の澄《す》んだやわらかな春光《しゅんこう》をつかっていらっしゃるとしか思《おも》えない。そのうえ、またこの木《き》の葉《は》がすばらしい。一|枚《まい》一|枚《まい》名工《めいこう》がのみで彫《ほ》ってつけたような、厚《あつ》い固《かた》い感《かん》じで、黒《くろ》と見《み》えるほどの濃緑色《のうりょくしょく》は、エナメルをぬったようにつややかで、陽《ひ》のあたる方《ほう》の葉《は》は眼《め》に痛《いた》いくらい光《ひかり》を反射《はんしゃ》するのだ。
 じつにすばらしい花《はな》が日本《にっぽん》にはあるものだ。いつかお父《とう》さんが、日本《にっぽん》ほど自然《しぜん》の美《び》にめぐまれている国《くに》はないとおっしゃったが、ほんとうにそうだと思《おも》う。
 掃除《そうじ》が終《お》わって、いよいよ第《だい》二十|回《かい》常会《じょうかい》を開《ひら》こうとしていると、きこりのような男《おとこ》の人《ひと》が、顔《かお》の長《なが》い、耳《みみ》の大《おお》きい爺《じい》さんを乳母車《うばぐるま》にのせて、尼寺《あまでら》の境内《けいだい》にはいって来《き》た。
 きけばその爺《じい》さんは深谷《ふかだに》の人《ひと》で、ごんごろ鐘《がね》がこんど献納《けんのう》されるときいて、お別《わか》れに来《き》たのだそうだ。乳母車《うばぐるま》をおして来《き》たのは爺《じい》さんの息子《むすこ》さんだった。
 深谷《ふかだに》というのは僕《ぼく》たちの村《むら》から、三|粁《キロ》ほど南《みなみ》の山《やま》の中《なか》にある小《ちい》さな谷《たに》で、僕《ぼく》たちは秋《あき》きのこをとりに行《い》って、のどがかわくと、水《みず》を貰《もら》いに立《た》ち寄《よ》るから、よく知《し》っているが、家《いえ》が四|軒《けん》あるきりだ。電燈《でんとう》がないので、今《いま》でも夜《よる》はランプをともすのだ。その近所《きんじょ》には今《いま》でも狐《きつね》や狸《たぬき》がいるそうで、冬《ふゆ》の夜《よる》など、人《ひと》が便所《べんじょ》にゆくため戸外《こがい》に出《で》るときには、戸《と》をあけるまえに、まず丸太《まるた》をうちあわせたり、柱《はしら》を竹《たけ》でたたいたりして、戸口《とぐち》に来《き》ている狐《きつね》や狸《たぬき》を追《お》うのだそうだ。
 お爺《じい》さんは、ごんごろ鐘《がね》の出征《しゅっせい》の日《ひ》を、一|日《にち》まちがえてしまって、ついにごんごろ鐘《がね》にお別《わか》れが出来《でき》なかったことを、たいそう残念《ざんねん》がり、口《くち》を大《おお》きくあけたまま、鐘《かね》のなくなった鐘楼《しゅろう》の方《ほう》を見《み》ていた。
「きのう、お別《わか》れだといって、あげん子供《こども》たちが、ごんごん鳴《な》らしたが、わからなかっただかね。」
と庵主《あんじゅ》さんも気《き》の毒《どく》そうにいうと、
「ああ、この頃《ごろ》は耳《みみ》の聞《き》こえる日《ひ》と聞《き》こえぬ日《ひ》があってのオ。きんの[#「きんの」に傍点]は朝《あさ》から耳《みみ》ん中《なか》で蝿《はえ》が一|匹《ぴき》ぶんぶんいってやがって、いっこう聞《き》こえんだった。」
と、お爺《じい》さんは答《こた》えるのだった。
 お爺《じい》さんは息子《むすこ》さんに、町《まち》までつれていって鐘《かね》に一目《ひとめ》あわせてくれ、と頼《たの》んだが、息子《むすこ》さんは、仕事《しごと》をしなきゃならないからもうごめんだ、といって、お爺《じい》さんののった乳母車《うばぐるま》をおして、門《もん》を出《で》ていった。
 僕《ぼく》たちは、しばらく、塀《へい》の外《そと》をきゅろきゅろと鳴《な》ってゆく乳母車《うばぐるま》の音《おと》をきいていた。僕《ぼく》はお爺《じい》さんの心《こころ》を思《おも》いやって、深《ふか》く同情《どうじょう》せずにはいられなかった。
 それから僕《ぼく》たちの常会《じょうかい》がはじまった。するとまっさきに松男君《まつおくん》が、
「僕《ぼく》に一つ新《あたら》しい提案《ていあん》がある。」
といった。みんなは何《なん》だろうかと思《おも》った。
「それは、今《いま》のお爺《じい》さんを町《まち》までつれていって、ごんごろ鐘《がね》にあわしてあげることだ。」
 みんなは黙《だま》ってしまった。なるほどそれは、誰《だれ》もが胸《むね》の中《なか》でおもっていたことだ。いいことには違《ちが》いない。しかしみんなは、昨日《きのう》、町《まち》まで行《い》って来《き》たばかりであった。また今日《きょう》も、同《おな》じ道《みち》を通《とお》って同《おな》じところに行《い》って来《く》るというのは面白《おもしろ》いことではない。
 しかし、
「賛成《さんせい》。」
と、紋次郎君《もんじろうくん》がしばらくしていった。
「僕《ぼく》も賛成《さんせい》。」
と勇気《ゆうき》をふるって僕《ぼく》がいった。すると、あとのものもみな賛成《さんせい》してしまった。
「本日《ほんじつ》の常会《じょうかい》、これで終《お》わりッ。」
と松男君《まつおくん》が叫《さけ》んで、たあッと門《もん》の外《そと》へ走《はし》り出《だ》した。みんなそのあとにつづいた。
 亀池《かめいけ》の下《した》でお爺《じい》さんの乳母車《うばぐるま》に追《お》いついた。僕《ぼく》たちはお爺《じい》さんの息子《むすこ》さんにわけを話《はな》して、お爺《じい》さんをこちらへ受《う》けとった。お爺《じい》さんは子供《こども》のように喜《よろこ》んで、長《なが》い顔《かお》をいっそう長《なが》くして、あは、あは、と笑《わら》った。僕《ぼく》たちもいっしょに笑《わら》い出《だ》してしまった。
 何《なに》も心配《しんぱい》する必要《ひつよう》はなかった。昨日《きのう》通《とお》ったばかりの道《みち》でも、少《すこ》しも退屈《たいくつ》ではなかった。心《こころ》に誠意《せいい》をもって善《よ》い行《おこな》いをする時《とき》には、僕《ぼく》らはなんど同《おな》じことをしても退屈《たいくつ》するものではない、とわかった。それにお爺《じい》さんがいろいろ面白《おもしろ》い話《はなし》をしてくれた。
 ただ一つ困《こま》ったことは、乳母車《うばぐるま》のどこかが悪《わる》くなっていて、押《お》していると右《みぎ》へ右《みぎ》へとまがっていってしまうことだった。だから押《お》す者《もの》は、十|米《メートル》ぐらいすすむたびに、乳母車《うばぐるま》のむきをかえねばならなかった。僕《ぼく》たちはこのやっかいな乳母車《うばぐるま》をかわりばんこに押《お》していったのである。
 正午《しょうご》じぶんに、僕《ぼく》たちは町《まち》の国民学校《こくみんがっこう》についた。昨日《きのう》のところになつかしいごんごろ鐘《がね》はあった。
「やあ、あるなア、あるなア。」
と、お爺《じい》さんは鐘《かね》が見《み》えたときいった。そして、触《さわ》りたいからそばへ乳母車《うばぐるま》をよせてくれ、といった。僕《ぼく》たちは、お爺《じい》さんのいうとおりにした。
 お爺《じい》さんは乳母車《うばぐるま》から手《て》をさしのべて、なつかしそうにごんごろ鐘《がね》を撫《な》でていた。
 僕《ぼく》たちは弁当《べんとう》を持《も》っていなかったので腹《はら》ぺこになって、村《むら》に二|時頃《じごろ》帰《かえ》って来《き》た。それから深谷《ふかだに》までお爺《じい》さんを届《とど》けにいってくるのは楽《らく》な仕事《しごと》ではなかった。が、感心《かんしん》なことに誰《だれ》もいやな顔《かお》をしなかった。僕《ぼく》らはびっこをひきひき深谷《ふかだに》までゆき、お爺《じい》さんをかえして来《き》た。
 夕御飯《ゆうごはん》のとき、きょうのことを話《はな》したら、お父《とう》さんが、それはよいことをした、とおっしゃった。
「ん、そういえば、あのごんごろ鐘《がね》は深谷《ふかだに》のあたりでつくられたのだ。いまでもあの辺《あた》りに鐘鋳谷《かねいりだに》という名《な》の残《のこ》っている小《ちい》さい谷《たに》があるが、そこで、鋳《い》たということだ。その頃《ころ》の若《わか》いもんたちは、三日三晩《みっかみばん》、たたら[#「たたら」に傍点]という大《おお》きなふいごを足《あし》で踏《ふ》んで、銅《かね》をとかす火《ひ》をおこしたもんだそうだ。」
 それでは、あのお爺《じい》さんもまたごんごろ鐘《がね》と深《ふか》いつながりがあったわけだ。
 僕《ぼく》は又《また》してもおもい出《だ》した、吉彦《よしひこ》さんが鐘《かね》をつくとき言《い》った言葉《ことば》を――「西《にし》の谷《たに》も東《ひがし》の谷《たに》も、北《きた》の谷《たに》も南《みなみ》の谷《たに》も鳴《な》るぞ。ほれ、あそこの村《むら》もここの村《むら》も鳴《な》るぞ。」
 ちょうどそのとき、ラジオのニュースで、きょうも我《わ》が荒鷲《あらわし》が敵《てき》の○○飛行場《ひこうじょう》を猛爆《もうばく》して多大《ただい》の戦果《せんか》を収《おさ》めたことを報《ほう》じた。
 僕《ぼく》の眼《め》には、爆撃機《ばくげきき》の腹《はら》から、ばらばらと落《お》ちてゆく黒《くろ》い爆弾《ばくだん》のすがたがうつった。
「ごんごろ鐘《がね》もあの爆弾《ばくだん》になるんだねえ。あの古《ふる》ぼけた鐘《かね》が、むくりむくりとした、ぴかぴかひかった、新《あたら》しい爆弾《ばくだん》になるんだね。」
と僕《ぼく》がいうと、休暇《きゅうか》で帰《かえ》って来《き》ている兄《にい》さんが、
「うん、そうだ。何《なん》でもそうだよ。古《ふる》いものはむくりむくりと新《あたら》しいものに生《う》まれかわって、はじめて活動《かつどう》するのだ。」
といった。兄《にい》さんはいつもむつかしいことをいうので、たいてい僕《ぼく》にはよくわからないのだが、この言葉《ことば》は半分《はんぶん》ぐらいはわかるような気《き》がした。古《ふる》いものは新《あたら》しいものに生《う》まれかわって、はじめて役立《やくだ》つということに違《ちが》いない。



底本:「ごんぎつね・夕鶴」少年少女日本文学館第十五巻、講談社
   1986(昭和61)年4月18日第1刷発行
   1993(平成5)年2月25日第13刷発行
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
1999年10月25日公開
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