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硝子戸の中
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)硝子戸《ガラスど》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二枚|撮《と》って貰った。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31]
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        一

 硝子戸《ガラスど》の中《うち》から外を見渡すと、霜除《しもよけ》をした芭蕉《ばしょう》だの、赤い実《み》の結《な》った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来《こ》ない。書斎にいる私の眼界は極《きわ》めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。
 その上私は去年の暮から風邪《かぜ》を引いてほとんど表へ出ずに、毎日この硝子戸の中にばかり坐《すわ》っているので、世間の様子はちっとも分らない。心持が悪いから読書もあまりしない。私はただ坐ったり寝たりしてその日その日を送っているだけである。
 しかし私の頭は時々動く。気分も多少は変る。いくら狭い世界の中でも狭いなりに事件が起って来る。それから小さい私と広い世の中とを隔離しているこの硝子戸の中へ、時々人が入って来《く》る。それがまた私にとっては思いがけない人で、私の思いがけない事を云ったり為《し》たりする。私は興味に充《み》ちた眼をもってそれらの人を迎えたり送ったりした事さえある。
 私はそんなものを少し書きつづけて見ようかと思う。私はそうした種類の文字《もんじ》が、忙がしい人の眼に、どれほどつまらなく映るだろうかと懸念《けねん》している。私は電車の中でポッケットから新聞を出して、大きな活字だけに眼を注《そそ》いでいる購読者の前に、私の書くような閑散な文字を列《なら》べて紙面をうずめて見せるのを恥ずかしいものの一つに考える。これらの人々は火事や、泥棒や、人殺しや、すべてその日その日の出来事のうちで、自分が重大と思う事件か、もしくは自分の神経を相当に刺戟《しげき》し得る辛辣《しんらつ》な記事のほかには、新聞を手に取る必要を認めていないくらい、時間に余裕をもたないのだから。――彼らは停留所で電車を待ち合わせる間に、新聞を買って、電車に乗っている間に、昨日《きのう》起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。
 私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑《けいべつ》を冒《おか》して書くのである。
 去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当《けんとう》がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来《きた》るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零《こぼ》している。年中行事で云えば、春の相撲《すもう》が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂《すもうきょう》を押《お》し退《の》けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合《つごう》と、紙面の編輯《へんしゅう》の都合とできまるのだから、判然《はっきり》した見当は今つきかねる。

        二

 電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊《き》いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰《もら》いたいのだが、いつ撮《と》りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
 私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載《の》せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断《こと》わろうとしたのである。
 雑誌の男は、卯年《うどし》の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮《と》る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえそんな事はありません」と相手はすぐ答えた。あたかも私が今までその雑誌の特色を誤解していたごとくに。
「当り前の顔で構いませんなら載せていただいても宜《よろ》しゅうございます」
「いえそれで結構でございますから、どうぞ」
 私は相手と期日の約束をした上、電話を切った。
 中一日《なかいちにち》おいて打ち合せをした時間に、電話をかけた男が、綺麗《きれい》な洋服を着て写真機を携《たずさ》えて私の書斎に這入《はい》って来た。私はしばらくその人と彼の従事している雑誌について話をした。それから写真を二枚|撮《と》って貰った。一枚は机の前に坐っている平生の姿、一枚は寒い庭前《にわさき》の霜《しも》の上に立っている普通の態度であった。書斎は光線がよく透《とお》らないので、機械を据《す》えつけてからマグネシアを燃《も》した。その火の燃えるすぐ前に、彼は顔を半分ばかり私の方へ出して、「御約束ではございますが、少しどうか笑っていただけますまいか」と云った。私はその時突然|微《かす》かな滑稽《こっけい》を感じた。しかし同時に馬鹿な事をいう男だという気もした。私は「これで好いでしょう」と云ったなり先方の注文には取り合わなかった。彼が私を庭の木立《こだち》の前に立たして、レンズを私の方へ向けた時もまた前と同じような鄭寧《ていねい》な調子で、「御約束ではございますが、少しどうか……」と同じ言葉を繰《く》り返《かえ》した。私は前よりもなお笑う気になれなかった。
 それから四日ばかり経《た》つと、彼は郵便で私の写真を届けてくれた。しかしその写真はまさしく彼の注文通りに笑っていたのである。その時私は中《あて》が外《はず》れた人のように、しばらく自分の顔を見つめていた。私にはそれがどうしても手を入れて笑っているように拵《こしら》えたものとしか見えなかったからである。
 私は念のため家《うち》へ来る四五人のものにその写真を出して見せた。彼らはみんな私と同様に、どうも作って笑わせたものらしいという鑑定を下《くだ》した。
 私は生れてから今日《こんにち》までに、人の前で笑いたくもないのに笑って見せた経験が何度となくある。その偽《いつわ》りが今この写真師のために復讐《ふくしゅう》を受けたのかも知れない。
 彼は気味のよくない苦笑を洩《も》らしている私の写真を送ってくれたけれども、その写真を載せると云った雑誌はついに届けなかった。

        三

 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
 その時彼はまだ乳離《ちばな》れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷《ふろしき》に包んで電車に載《の》せて宅《うち》まで連れて来てくれた。私はその夜《よ》彼を裏の物置の隅《すみ》に寝かした。寒くないように藁《わら》を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床《ねどこ》を拵《こしら》えてやったあと、私は物置の戸を締《し》めた。すると彼は宵《よい》の口《くち》から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独《ひと》り寝るのが淋しかったのだろう、翌《あく》る朝《あさ》までまんじり[#「まんじり」に傍点]ともしない様子であった。
 この不安は次の晩もつづいた。その次《つぎ》の晩もつづいた。私は一週間余りかかって、彼が与えられた藁の上にようやく安らかに眠るようになるまで、彼の事が夜《よる》になると必ず気にかかった。
 私の小供は彼を珍らしがって、間《ま》がな隙《すき》がな玩弄物《おもちゃ》にした。けれども名がないのでついに彼を呼ぶ事ができなかった。ところが生きたものを相手にする彼らには、是非とも先方の名を呼んで遊ぶ必要があった。それで彼らは私に向って犬に名を命《つ》けてくれとせがみ出した。私はとうとうヘクトーという偉い名を、この小供達の朋友《ほうゆう》に与えた。
 それはイリアッドに出てくるトロイ一の勇将の名前であった。トロイと希臘《ギリシャ》と戦争をした時、ヘクトーはついにアキリスのために打たれた。アキリスはヘクトーに殺された自分の友達の讐《かたき》を取ったのである。アキリスが怒《いか》って希臘|方《がた》から躍《おど》り出した時に、城の中に逃げ込まなかったものはヘクトー一人であった。ヘクトーは三たびトロイの城壁をめぐってアキリスの鋒先《ほこさき》を避けた。アキリスも三たびトロイの城壁をめぐってその後《あと》を追いかけた。そうしてしまいにとうとうヘクトーを槍《やり》で突き殺した。それから彼の死骸《しがい》を自分の軍車《チャリオット》に縛《しば》りつけてまたトロイの城壁を三度|引《ひ》き摺《ず》り廻した。……
 私はこの偉大な名を、風呂敷包にして持って来た小さい犬に与えたのである。何にも知らないはずの宅《うち》の小供も、始めは変な名だなあと云っていた。しかしじきに慣れた。犬もヘクトーと呼ばれるたびに、嬉《うれ》しそうに尾を振った。しまいにはさすがの名もジョンとかジォージとかいう平凡な耶蘇教信者《ヤソきょうしんじゃ》の名前と一様に、毫《ごう》も古典的《クラシカル》な響を私に与えなくなった。同時に彼はしだいに宅のものから元《もと》ほど珍重されないようになった。
 ヘクトーは多くの犬がたいてい罹《かか》るジステンパーという病気のために一時入院した事がある。その時は子供がよく見舞《みまい》に行った。私も見舞に行った。私の行った時、彼はさも嬉しそうに尾を振って、懐《なつ》かしい眼を私の上に向けた。私はしゃがんで私の顔を彼の傍《そば》へ持って行って、右の手で彼の頭を撫《な》でてやった。彼はその返礼に私の顔を所嫌《ところきら》わず舐《な》めようとしてやまなかった。その時彼は私の見ている前で、始めて医者の勧《すす》める小量の牛乳を呑《の》んだ。それまで首を傾《かし》げていた医者も、この分ならあるいは癒《なお》るかも知れないと云った。ヘクトーははたして癒った。そうして宅《うち》へ帰って来て、元気に飛び廻った。

        四

 日ならずして、彼は二三の友達を拵《こしら》えた。その中《うち》で最も親しかったのはすぐ前の医者の宅にいる彼と同年輩ぐらいの悪戯者《いたずらもの》であった。これは基督教徒《キリストきょうと》に相応《ふさわ》しいジョンという名前を持っていたが、その性質は異端者《いたんしゃ》のヘクトーよりも遥《はるか》に劣っていたようである。むやみに人に噛《か》みつく癖《くせ》があるので、しまいにはとうとう打《う》ち殺《ころ》されてしまった。
 彼はこの悪友を自分の庭に引き入れて勝手な狼藉《ろうぜき》を働らいて私を困らせた。彼らはしきりに樹の根を掘って用もないのに大きな穴を開《あ》けて喜んだ。綺麗《きれい》な草花の上にわざと寝転《ねころ》んで、花も茎も容赦《ようしゃ》なく散らしたり、倒したりした。
 ジョンが殺されてから、無聊《ぶりょう》な彼は夜遊《よあそ》び昼遊びを覚えるようになった。散歩などに出かける時、私はよく交番の傍《そば》に日向《ひなた》ぼっこをしている彼を見る事があった。それでも宅にさえいれば、よくうさん臭いものに吠《ほ》えついて見せた。そのうちで最も猛烈に彼の攻撃を受けたのは、本所辺から来る十歳《とお》ばかりになる角兵衛獅子《かくべえじし》の子であった。この子はいつでも「今日《こんち》は御祝い」と云って入って来る。そうして家《うち》の者から、麺麭《パン》の皮と一銭銅貨を貰わないうちは帰らない事に一人できめていた。だからヘクトーがいくら吠えても逃げ出さなかった。かえってヘクトーの方が、吠えながら尻尾《しっぽ》を股《また》の間に挟《はさ》んで物置の方へ退却するのが例になっていた。要するにヘクトーは弱虫であった。そうして操行からいうと、ほとんど野良犬《のらいぬ》と択《えら》ぶところのないほどに堕落していた。それでも彼らに共通な人懐《ひとなつ》っこい愛情はいつまでも失わずにいた。時々顔を見合せると、彼は必《かなら》ず尾を掉《ふ》って私に飛びついて来た。あるいは彼の背を遠慮なく私の身体《からだ》に擦《す》りつけた。私は彼の泥足のために、衣服や外套《がいとう》を汚《よご》した事が何度あるか分らない。
 去年の夏から秋へかけて病気をした私は、一カ月ばかりの間《あいだ》ついにヘクトーに会う機会を得ずに過ぎた。病《やまい》がようやく怠《おこた》って、床《とこ》の外へ出られるようになってから、私は始めて茶の間の縁《えん》に立って彼の姿を宵闇《よいやみ》の裡《うち》に認めた。私はすぐ彼の名を呼んだ。しかし生垣《いけがき》の根にじっとうずくまっている彼は、いくら呼んでも少しも私の情《なさ》けに応じなかった。彼は首も動かさず、尾も振らず、ただ白い塊《かたまり》のまま垣根にこびりついてるだけであった。私は一カ月ばかり会わないうちに、彼がもう主人の声を忘れてしまったものと思って、微《かす》かな哀愁《あいしゅう》を感ぜずにはいられなかった。
 まだ秋の始めなので、どこの間《ま》の雨戸も締《し》められずに、星の光が明け放たれた家の中からよく見られる晩であった。私の立っていた茶の間の縁には、家《うち》のものが二三人いた。けれども私がヘクトーの名前を呼んでも彼らはふり向きもしなかった。私がヘクトーに忘れられたごとくに、彼らもまたヘクトーの事をまるで念頭に置いていないように思われた。
 私は黙って座敷へ帰って、そこに敷いてある布団《ふとん》の上に横になった。病後の私は季節に不相当な黒八丈《くろはちじょう》の襟《えり》のかかった銘仙《めいせん》のどてらを着ていた。私はそれを脱ぐのが面倒だから、そのまま仰向《あおむけ》に寝て、手を胸の上で組み合せたなり黙って天井《てんじょう》を見つめていた。

        五

 翌朝《あくるあさ》書斎の縁に立って、初秋《はつあき》の庭の面《おもて》を見渡した時、私は偶然また彼の白い姿を苔《こけ》の上に認めた。私は昨夕《ゆうべ》の失望を繰《く》り返《かえ》すのが厭《いや》さに、わざと彼の名を呼ばなかった。けれども立ったなりじっと彼の様子を見守らずにはいられなかった。彼は立木《たちき》の根方《ねがた》に据《す》えつけた石の手水鉢《ちょうずばち》の中に首を突き込んで、そこに溜《たま》っている雨水《あまみず》をぴちゃぴちゃ飲んでいた。
 この手水鉢はいつ誰が持って来たとも知れず、裏庭の隅《すみ》に転《ころ》がっていたのを、引越した当時植木屋に命じて今の位置に移させた六角形《ろっかくがた》のもので、その頃は苔《こけ》が一面に生《は》えて、側面に刻みつけた文字《もんじ》も全く読めないようになっていた。しかし私には移す前一度|判然《はっきり》とそれを読んだ記憶があった。そうしてその記憶が文字として頭に残らないで、変な感情としていまだに胸の中を往来していた。そこには寺と仏と無常の匂《におい》が漂《ただよ》っていた。
 ヘクトーは元気なさそうに尻尾《しっぽ》を垂れて、私の方へ背中を向けていた。手水鉢を離れた時、私は彼の口から流れる垂涎《よだれ》を見た。
「どうかしてやらないといけない。病気だから」と云って、私は看護婦を顧《かえり》みた。私はその時まだ看護婦を使っていたのである。
 私は次の日も木賊《とくさ》の中に寝ている彼を一目見た。そうして同じ言葉を看護婦に繰り返した。しかしヘクトーはそれ以来姿を隠したぎり再び宅《うち》へ帰って来なかった。
「医者へ連れて行こうと思って、探したけれどもどこにもおりません」
 家《うち》のものはこう云って私の顔を見た。私は黙っていた。しかし腹の中では彼を貰い受けた当時の事さえ思い起された。届書《とどけしょ》を出す時、種類という下へ混血児《あいのこ》と書いたり、色という字の下へ赤斑《あかまだら》と書いた滑稽《こっけい》も微《かす》かに胸に浮んだ。
 彼がいなくなって約一週間も経《た》ったと思う頃、一二丁|隔《へだた》ったある人の家から下女が使に来た。その人の庭にある池の中に犬の死骸《しがい》が浮いているから引き上げて頸輪《くびわ》を改ためて見ると、私の家の名前が彫《ほ》りつけてあったので、知らせに来たというのである。下女は「こちらで埋《う》めておきましょうか」と尋ねた。私はすぐ車夫《くるまや》をやって彼を引き取らせた。
 私は下女をわざわざ寄こしてくれた宅《うち》がどこにあるか知らなかった。ただ私の小供の時分から覚えている古い寺の傍《そば》だろうとばかり考えていた。それは山鹿素行《やまがそこう》の墓のある寺で、山門の手前に、旧幕時代の記念のように、古い榎《えのき》が一本立っているのが、私の書斎の北の縁から数多《あまた》の屋根を越してよく見えた。
 車夫は筵《むしろ》の中にヘクトーの死骸を包《くる》んで帰って来た。私はわざとそれに近づかなかった。白木《しらき》の小さい墓標を買って来《こ》さして、それへ「秋風の聞えぬ土に埋《う》めてやりぬ」という一句を書いた。私はそれを家《うち》のものに渡して、ヘクトーの眠っている土の上に建てさせた。彼の墓は猫の墓から東北《ひがしきた》に当って、ほぼ一間ばかり離れているが、私の書斎の、寒い日の照らない北側の縁に出て、硝子戸《ガラスど》のうちから、霜《しも》に荒された裏庭を覗《のぞ》くと、二つともよく見える。もう薄黒く朽《く》ちかけた猫のに比べると、ヘクトーのはまだ生々《なまなま》しく光っている。しかし間もなく二つとも同じ色に古びて、同じく人の眼につかなくなるだろう。

        六

 私はその女に前後四五回会った。
 始めて訪《たず》ねられた時私は留守《るす》であった。取次のものが紹介状を持って来るように注意したら、彼女は別にそんなものを貰う所がないといって帰って行ったそうである。
 それから一日ほど経《た》って、女は手紙で直接《じか》に私の都合を聞き合せに来た。その手紙の封筒から、私は女がつい眼と鼻の間に住んでいる事を知った。私はすぐ返事を書いて面会日を指定してやった。
 女は約束の時間を違《たが》えず来た。三《み》つ柏《かしわ》の紋《もん》のついた派出《はで》な色の縮緬《ちりめん》の羽織を着ているのが、一番先に私の眼に映った。女は私の書いたものをたいてい読んでいるらしかった。それで話は多くそちらの方面へばかり延びて行った。しかし自分の著作について初見《しょけん》の人から賛辞《さんじ》ばかり受けているのは、ありがたいようではなはだこそばゆいものである。実をいうと私は辟易《へきえき》した。
 一週間おいて女は再び来た。そうして私の作物《さくぶつ》をまた賞《ほ》めてくれた。けれども私の心はむしろそういう話題を避けたがっていた。三度目に来た時、女は何かに感激したものと見えて、袂《たもと》から手帛《ハンケチ》を出して、しきりに涙を拭《ぬぐ》った。そうして私に自分のこれまで経過して来た悲しい歴史を書いてくれないかと頼んだ。しかしその話を聴かない私には何という返事も与えられなかった。私は女に向って、よし書くにしたところで迷惑を感ずる人が出て来はしないかと訊《き》いて見た。女は存外|判然《はっきり》した口調で、実名《じつみょう》さえ出さなければ構わないと答えた。それで私はとにかく彼女の経歴を聴《き》くために、とくに時間を拵《こしら》えた。
 するとその日になって、女は私に会いたいという別の女の人を連れて来て、例の話はこの次に延ばして貰いたいと云った。私には固《もと》より彼女の違約を責める気はなかった。二人を相手に世間話をして別れた。
 彼女が最後に私の書斎に坐《すわ》ったのはその次の日の晩であった。彼女は自分の前に置かれた桐《きり》の手焙《てあぶり》の灰を、真鍮《しんちゅう》の火箸《ひばし》で突ッつきながら、悲しい身の上話を始める前、黙っている私にこう云った。
「この間は昂奮《こうふん》して私の事を書いていただきたいように申し上げましたが、それは止《や》めに致します。ただ先生に聞いていただくだけにしておきますから、どうかそのおつもりで……」
 私はそれに対してこう答えた。
「あなたの許諾を得ない以上は、たといどんなに書きたい事柄《ことがら》が出て来てもけっして書く気遣《きづかい》はありませんから御安心なさい」
 私が充分な保証を女に与えたので、女はそれではと云って、彼女の七八年前からの経歴を話し始めた。私は黙然《もくねん》として女の顔を見守っていた。しかし女は多く眼を伏せて火鉢《ひばち》の中ばかり眺めていた。そうして綺麗《きれい》な指で、真鍮の火箸を握っては、灰の中へ突き刺した。
 時々|腑《ふ》に落ちないところが出てくると、私は女に向って短かい質問をかけた。女は単簡《たんかん》にまた私の納得《なっとく》できるように答をした。しかしたいていは自分一人で口を利《き》いていたので、私はむしろ木像のようにじっとしているだけであった。
 やがて女の頬は熱《ほて》って赤くなった。白粉《おしろい》をつけていないせいか、その熱った頬の色が著るしく私の眼に着いた。俯向《うつむき》になっているので、たくさんある黒い髪の毛も自然私の注意を惹《ひ》く種になった。

        七

 女の告白は聴いている私を息苦しくしたくらいに悲痛を極《きわ》めたものであった。彼女は私に向ってこんな質問をかけた。――
「もし先生が小説を御書きになる場合には、その女の始末をどうなさいますか」
 私は返答に窮した。
「女の死ぬ方がいいと御思いになりますか、それとも生きているように御書きになりますか」
 私はどちらにでも書けると答えて、暗《あん》に女の気色《けしき》をうかがった。女はもっと判然した挨拶《あいさつ》を私から要求するように見えた。私は仕方なしにこう答えた。――
「生きるという事を人間の中心点として考えれば、そのままにしていて差支《さしつかえ》ないでしょう。しかし美くしいものや気高《けだか》いものを一義において人間を評価すれば、問題が違って来るかも知れません」
「先生はどちらを御択《おえら》びになりますか」
 私はまた躊躇《ちゅうちょ》した。黙って女のいう事を聞いているよりほかに仕方がなかった。
「私は今持っているこの美しい心持が、時間というもののためにだんだん薄れて行くのが怖《こわ》くってたまらないのです。この記憶が消えてしまって、ただ漫然と魂の抜殻《ぬけがら》のように生きている未来を想像すると、それが苦痛で苦痛で恐ろしくってたまらないのです」
 私は女が今広い世間《せかい》の中にたった一人立って、一寸《いっすん》も身動きのできない位置にいる事を知っていた。そうしてそれが私の力でどうする訳にも行かないほどに、せっぱつまった境遇である事も知っていた。私は手のつけようのない人の苦痛を傍観する位置に立たせられてじっとしていた。
 私は服薬の時間を計るため、客の前も憚《はば》からず常に袂時計《たもとどけい》を座蒲団《ざぶとん》の傍《わき》に置く癖《くせ》をもっていた。
「もう十一時だから御帰りなさい」と私はしまいに女に云った。女は厭《いや》な顔もせずに立ち上った。私はまた「夜が更《ふ》けたから送って行って上げましょう」と云って、女と共に沓脱《くつぬぎ》に下りた。
 その時美くしい月が静かな夜《よ》を残る隈《くま》なく照らしていた。往来へ出ると、ひっそりした土の上にひびく下駄《げた》の音はまるで聞こえなかった。私は懐手《ふところで》をしたまま帽子も被《かぶ》らずに、女の後《あと》に跟《つ》いて行った。曲り角の所で女はちょっと会釈《えしゃく》して、「先生に送っていただいてはもったいのうございます」と云った。「もったいない訳がありません。同じ人間です」と私は答えた。
 次の曲り角へ来たとき女は「先生に送っていただくのは光栄でございます」とまた云った。私は「本当に光栄と思いますか」と真面目《まじめ》に尋ねた。女は簡単に「思います」とはっきり答えた。私は「そんなら死なずに生きていらっしゃい」と云った。私は女がこの言葉をどう解釈したか知らない。私はそれから一丁ばかり行って、また宅《うち》の方へ引き返したのである。
 むせっぽいような苦しい話を聞かされた私は、その夜かえって人間らしい好い心持を久しぶりに経験した。そうしてそれが尊《たっ》とい文芸上の作物《さくぶつ》を読んだあとの気分と同じものだという事に気がついた。有楽座や帝劇へ行って得意になっていた自分の過去の影法師が何となく浅ましく感ぜられた。

        八

 不愉快に充《み》ちた人生をとぼとぼ辿《たど》りつつある私は、自分のいつか一度到着しなければならない死という境地について常に考えている。そうしてその死というものを生よりは楽なものだとばかり信じている。ある時はそれを人間として達し得る最上至高の状態だと思う事もある。
「死は生よりも尊《たっ》とい」
 こういう言葉が近頃では絶えず私の胸を往来《おうらい》するようになった。
 しかし現在の私は今まのあたりに生きている。私の父母《ふぼ》、私の祖父母《そふぼ》、私の曾祖父母《そうそふぼ》、それから順次に溯《さかの》ぼって、百年、二百年、乃至《ないし》千年万年の間に馴致《じゅんち》された習慣を、私一代で解脱《げだつ》する事ができないので、私は依然としてこの生に執着しているのである。
 だから私の他《ひと》に与える助言《じょごん》はどうしてもこの生の許す範囲内においてしなければすまないように思う。どういう風に生きて行くかという狭い区域のなかでばかり、私は人類の一人《いちにん》として他の人類の一人に向わなければならないと思う。すでに生の中に活動する自分を認め、またその生の中に呼吸する他人を認める以上は、互いの根本義はいかに苦しくてもいかに醜くてもこの生の上に置かれたものと解釈するのが当り前であるから。
「もし生きているのが苦痛なら死んだら好いでしょう」
 こうした言葉は、どんなに情《なさけ》なく世を観ずる人の口からも聞き得ないだろう。医者などは安らかな眠に赴《おも》むこうとする病人に、わざと注射の針を立てて、患者の苦痛を一刻でも延ばす工夫を凝《こ》らしている。こんな拷問《ごうもん》に近い所作《しょさ》が、人間の徳義として許されているのを見ても、いかに根強く我々が生の一字に執着《しゅうちゃく》しているかが解る。私はついにその人に死をすすめる事ができなかった。
 その人はとても回復の見込みのつかないほど深く自分の胸を傷《きずつ》けられていた。同時にその傷が普通の人の経験にないような美くしい思い出の種となってその人の面《おもて》を輝やかしていた。
 彼女はその美くしいものを宝石のごとく大事に永久彼女の胸の奥に抱《だ》き締《し》めていたがった。不幸にして、その美くしいものはとりも直さず彼女を死以上に苦しめる手傷《てきず》そのものであった。二つの物は紙の裏表のごとくとうてい引き離せないのである。
 私は彼女に向って、すべてを癒《いや》す「時」の流れに従って下《くだ》れと云った。彼女はもしそうしたらこの大切な記憶がしだいに剥《は》げて行くだろうと嘆いた。
 公平な「時」は大事な宝物《たからもの》を彼女の手から奪う代りに、その傷口もしだいに療治してくれるのである。烈《はげ》しい生の歓喜を夢のように暈《ぼか》してしまうと同時に、今の歓喜に伴なう生々《なまなま》しい苦痛も取《と》り除《の》ける手段を怠《おこ》たらないのである。
 私は深い恋愛に根ざしている熱烈な記憶を取り上げても、彼女の創口《きずぐち》から滴《したた》る血潮を「時」に拭《ぬぐ》わしめようとした。いくら平凡でも生きて行く方が死ぬよりも私から見た彼女には適当だったからである。
 かくして常に生よりも死を尊《たっと》いと信じている私の希望と助言は、ついにこの不愉快に充《み》ちた生というものを超越する事ができなかった。しかも私にはそれが実行上における自分を、凡庸《ぼんよう》な自然主義者として証拠《しょうこ》立てたように見えてならなかった。私は今でも半信半疑の眼でじっと自分の心を眺めている。

        九

 私が高等学校にいた頃、比較的親しく交際《つきあ》った友達の中にOという人がいた。その時分からあまり多くの朋友《ほうゆう》を持たなかった私には、自然Oと往来《ゆきき》を繁《しげ》くするような傾向があった。私はたいてい一週に一度くらいの割で彼を訪《たず》ねた。ある年の暑中休暇などには、毎日欠かさず真砂町《まさごちょう》に下宿している彼を誘って、大川《おおかわ》の水泳場まで行った。
 Oは東北の人だから、口の利《き》き方《かた》に私などと違った鈍《どん》でゆったりした調子があった。そうしてその調子がいかにもよく彼の性質を代表しているように思われた。何度となく彼と議論をした記憶のある私は、ついに彼の怒《おこ》ったり激したりする顔を見る事ができずにしまった。私はそれだけでも充分彼を敬愛に価《あたい》する長者《ちょうしゃ》として認めていた。
 彼の性質が鷹揚《おうよう》であるごとく、彼の頭脳も私よりは遥《はる》かに大きかった。彼は常に当時の私には、考えの及ばないような問題を一人で考えていた。彼は最初から理科へ入る目的をもっていながら、好んで哲学の書物などを繙《ひもと》いた。私はある時彼からスペンサーの第一原理という本を借りた事をいまだに忘れずにいる。
 空の澄み切った秋日和《あきびより》などには、よく二人連れ立って、足の向く方へ勝手な話をしながら歩いて行った。そうした場合には、往来へ塀越《へいごし》に差し出た樹《き》の枝から、黄色に染まった小《ち》さい葉が、風もないのに、はらはらと散る景色《けしき》をよく見た。それが偶然彼の眼に触れた時、彼は「あッ悟った」と低い声で叫んだ事があった。ただ秋の色の空《くう》に動くのを美くしいと観ずるよりほかに能のない私には、彼の言葉が封じ込められた或秘密の符徴《ふちょう》として怪しい響を耳に伝えるばかりであった。「悟りというものは妙なものだな」と彼はその後《あと》から平生のゆったりした調子で独言《ひとりごと》のように説明した時も、私には一口の挨拶《あいさつ》もできなかった。
 彼は貧生であった。大観音《おおがんのん》の傍《そば》に間借をして自炊《じすい》していた頃には、よく干鮭《からざけ》を焼いて佗《わ》びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子《もちがし》の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った。
 大学を卒業すると間もなく彼は地方の中学に赴任した。私は彼のためにそれを残念に思った。しかし彼を知らない大学の先生には、それがむしろ当然と見えたかも知れない。彼自身は無論平気であった。それから何年かの後《のち》に、たしか三年の契約で、支那のある学校の教師に雇われて行ったが、任期が充《み》ちて帰るとすぐまた内地の中学校長になった。それも秋田から横手に遷《うつ》されて、今では樺太《かばふと》の校長をしているのである。
 去年上京したついでに久しぶりで私を訪《たず》ねてくれた時、取次のものから名刺を受取った私は、すぐその足で座敷へ行って、いつもの通り客より先に席に着いていた。すると廊下伝《ろうかづたい》に室《へや》の入口まで来た彼は、座蒲団《ざぶとん》の上にきちんと坐《すわ》っている私の姿を見るや否や、「いやに澄ましているな」と云った。
 その時|向《むこう》の言葉が終るか終らないうちに「うん」という返事がいつか私の口を滑《すべ》って出てしまった。どうして私の悪口《わるくち》を自分で肯定するようなこの挨拶《あいさつ》が、それほど自然に、それほど雑作《ぞうさ》なく、それほど拘泥《こだ》わらずに、するすると私の咽喉《のど》を滑《すべ》り越したものだろうか。私はその時透明な好い心持がした。

        十

 向い合って座を占めたOと私とは、何より先に互の顔を見返して、そこにまだ昔《むか》しのままの面影《おもかげ》が、懐《なつ》かしい夢の記念のように残っているのを認めた。しかしそれはあたかも古い心が新しい気分の中にぼんやり織り込まれていると同じ事で、薄暗く一面に霞《かす》んでいた。恐ろしい「時」の威力に抵抗して、再びもとの姿に返る事は、二人にとってもう不可能であった。二人は別れてから今会うまでの間に挟《はさ》まっている過去という不思議なものを顧《かえり》みない訳に行かなかった。
 Oは昔し林檎《りんご》のように赤い頬と、人一倍大きな丸い眼と、それから女に適したほどふっくりした輪廓《りんかく》に包まれた顔をもっていた。今見てもやはり赤い頬と丸い眼と、同じく骨張らない輪廓の持主ではあるが、それが昔しとはどこか違っている。
 私は彼に私の口髭《くちひげ》と揉《も》み上《あ》げを見せた。彼はまた私のために自分の頭を撫《な》でて見せた。私のは白くなって、彼のは薄く禿《は》げかかっているのである。
「人間も樺太《かばふと》まで行けば、もう行く先はなかろうな」と私が調戯《からか》うと、彼は「まあそんなものだ」と答えて、私のまだ見た事のない樺太の話をいろいろして聞かせた。しかし私は今それをみんな忘れてしまった。夏は大変好い所だという事を覚えているだけである。
 私は幾年ぶりかで、彼といっしょに表へ出た。彼はフロックの上へ、とんび[#「とんび」に傍点]のような外套《がいとう》をぶわぶわに着ていた。そうして電車の中で釣革《つりかわ》にぶら下りながら、隠袋《かくし》から手帛《ハンケチ》に包んだものを出して私に見せた。私は「なんだ」と訊《き》いた。彼は「栗饅頭《くりまんじゅう》だ」と答えた。栗饅頭は先刻《さっき》彼が私の宅《うち》にいた時に出した菓子であった。彼がいつの間に、それを手帛に包んだろうかと考えた時、私はちょっと驚かされた。
「あの栗饅頭を取って来たのか」
「そうかも知れない」
 彼は私の驚いた様子を馬鹿にするような調子でこう云ったなり、その手帛《ハンケチ》の包をまた隠袋《かくし》に収めてしまった。
 我々はその晩帝劇へ行った。私の手に入れた二枚の切符に北側から入れという注意が書いてあったのを、つい間違えて、南側へ廻ろうとした時、彼は「そっちじゃないよ」と私に注意した。私はちょっと立ち留まって考えた上、「なるほど方角は樺太《かばふと》の方が確《たしか》なようだ」と云いながら、また指定された入口の方へ引き返した。
 彼は始めから帝劇を知っていると云っていた。しかし晩餐《ばんさん》を済ました後《あと》で、自分の席へ帰ろうとするとき、誰でもやる通り、二階と一階の扉《ドアー》を間違えて、私から笑われた。
 折々隠袋から金縁《きんぶち》の眼鏡《めがね》を出して、手に持った摺物《すりもの》を読んで見る彼は、その眼鏡を除《はず》さずに遠い舞台を平気で眺めていた。
「それは老眼鏡じゃないか。よくそれで遠い所が見えるね」
「なにチャブドー[#「チャブドー」に傍点]だ」
 私にはこのチャブドーという意味が全く解らなかった。彼はそれを大差なしという支那語だと云って説明してくれた。
 その夜の帰りに電車の中で私と別れたぎり、彼はまた遠い寒い日本の領地の北の端《はず》れに行ってしまった。
 私は彼を想《おも》い出すたびに、達人《たつじん》という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖《と》ざされた北の果《はて》に、まだ中学校長をしているのだなと思う。

        十一

 ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
 私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。今《いま》まで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいの嵩《かさ》になる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果《はた》したものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せて貰《もら》いたいと頼んだりするのが常であった。中には他《ひと》に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだん厭《いや》になって来た。
 もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかった。
 私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったのはそれから間もなくであった。佗《わ》びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越《ガラスどごし》に眺めながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。御互に体裁《ていさい》の好い事ばかり云い合っていては、いつまで経《た》ったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目《だめ》ですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚しても宜《よろ》しいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻《か》きはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰《つぶ》した所ばかり示す工夫《くふう》をするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮《あせっ》ても、私の射る矢はことごとく空矢《あだや》になってしまうだけです。
「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままを曝《さら》け出《だ》すよりほかに、あなたを教える途《みち》はないのです。だから私の考えのどこかに隙《すき》があって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥《おちい》るのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人も己《おの》れをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破《かんぱ》し合うのです。
「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でも腑《ふ》に落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。
「要するにこれはただ現状維持を目的として、上滑《うわすべ》りな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」
 女は解ったと云って帰って行った。

        十二

 私に短冊《たんざく》を書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やら絖《ぬめ》やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙《まず》い字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
 私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻《か》くために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他《ひと》に送ってやるくらいの所作《しょさ》は、あえてしようと思えば、やれないとも限らないのである。しかし自分が病気のとき、仕事の忙がしい時、またはそんな真似《まね》のしたくない時に、そういう注文が引き続いて起ってくると、実際弱らせられる。彼らの多くは全く私の知らない人で、そうして自分達の送った短冊を再び送り返すこちらの手数《てすう》さえ、まるで眼中に置いていないように見えるのだから。
 そのうちで一番私を不愉快にしたのは播州《ばんしゅう》の坂越《さごし》にいる岩崎という人であった。この人は数年前よく端書《はがき》で私に俳句を書いてくれと頼んで来たから、その都度《つど》向うのいう通り書いて送った記憶のある男である。その後《のち》の事であるが、彼はまた四角な薄い小包を私に送った。私はそれを開けるのさえ面倒だったから、ついそのままにして書斎へ放《ほう》り出《だ》しておいたら、下女が掃除《そうじ》をする時、つい書物と書物の間へ挟《はさ》み込んで、まず体《てい》よくしまい失《な》くした姿にしてしまった。
 この小包と前後して、名古屋から茶の缶が私宛《わたくしあて》で届いた。しかし誰が何のために送ったものかその意味は全く解らなかった。私は遠慮なくその茶を飲んでしまった。するとほどなく坂越の男から、富士登山の画《え》を返してくれと云ってきた。彼からそんなものを貰った覚《おぼえ》のない私は、打《う》ちやっておいた。しかし彼は富士登山の画を返せ返せと三度も四度も催促してやまない。私はついにこの男の精神状態を疑い出した。「大方《おおかた》気違だろう。」私は心の中でこうきめたなり向うの催促にはいっさい取り合わない事にした。
 それから二三カ月|経《た》った。たしか夏の初の頃と記憶しているが、私はあまり乱雑に取り散らされた書斎の中に坐《すわ》っているのがうっとうしくなったので、一人でぽつぽつそこいらを片づけ始めた。その時書物の整理をするため、好い加減に積み重ねてある字引や参考書を、一冊ずつ改めて行くと、思いがけなく坂越の男が寄こした例の小包が出て来た。私は今まで忘れていたものを、眼《ま》のあたり見て驚ろいた。さっそく封を解《と》いて中を検《しら》べたら、小さく畳んだ画が一枚入っていた。それが富士登山の図だったので、私はまた吃驚《びっくり》した。
 包のなかにはこの画のほかに手紙が一通添えてあって、それに画の賛をしてくれという依頼と、御礼に茶を送るという文句が書いてあった。私はいよいよ驚ろいた。
 しかしその時の私はとうてい富士登山の図などに賛をする勇気をもっていなかった。私の気分が、そんな事とは遥《はる》か懸《か》け離れた所にあったので、その画に調和するような俳句を考えている暇がなかったのである。けれども私は恐縮した。私は丁寧《ていねい》な手紙を書いて、自分の怠慢を謝した。それから茶の御礼を云った。最後に富士登山の図を小包にして返した。

        十三

 私はこれで一段落《いちだんらく》ついたものと思って、例の坂越《さごし》の男の事を、それぎり念頭に置かなかった。するとその男がまた短冊を封じて寄《よ》こした。そうして今度は義士に関係のある句を書いてくれというのである。私はそのうち書こうと云ってやった。しかしなかなか書く機会が来なかったので、ついそのままになってしまった。けれども執濃《しつこ》いこの男の方ではけっしてそのままに済ます気はなかったものと見えて、むやみに催促を始め出した。その催促は一週に一遍か、二週に一遍の割できっと来た。それが必ず端書《はがき》に限っていて、その書き出しには、必ず「拝啓失敬申し候えども」とあるにきまっていた。私はその人の端書を見るのがだんだん不愉快になって来た。
 同時に向うの催促も、今まで私の予期していなかった変な特色を帯びるようになった。最初には茶をやったではないかという言葉が見えた。私がそれに取り合わずにいると、今度はあの茶を返してくれという文句に改たまった。私は返す事はたやすいが、その手数《てかず》が面倒だから、東京まで取りに来れば返してやると云ってやりたくなった。けれども坂越の男にそういう手紙を出すのは、自分の品格に関《かか》わるような気がしてあえてし切れなかった。返事を受け取らない先方はなおの事催促をした。茶を返さないならそれでも好いから、金一円をその代価として送って寄こせというのである。私の感情はこの男に対してしだいに荒《すさ》んで来た。しまいにはとうとう自分を忘れるようになった。茶は飲んでしまった、短冊は失《な》くしてしまった、以来端書を寄こす事はいっさい無用であると書いてやった。そうして心のうちで、非常に苦々《にがにが》しい気分を経験した。こんな非紳士的な挨拶《あいさつ》をしなければならないような穴の中へ、私を追い込んだのは、この坂越の男であると思ったからである。こんな男のために、品格にもせよ人格にもせよ、幾分の堕落を忍ばなければならないのかと考えると情《なさけ》なかったからである。
 しかし坂越の男は平気であった。茶は飲んでしまい、短冊は失《な》くしてしまうとは、余りと申せば……とまた端書に書いて来た。そうしてその冒頭には依然として拝啓失敬申し候《そうら》えどもという文句が規則通り繰り返されていた。
 その時私はもうこの男には取り合うまいと決心した。けれども私の決心は彼の態度に対して何の効果のあるはずはなかった。彼は相変らず催促をやめなかった。そうして今度は、もう一度書いてくれれば、また茶を送ってやるがどうだと云って来た。それから事いやしくも義士に関するのだから、句を作っても好いだろうと云って来た。
 しばらく端書が中絶したと思うと、今度はそれが封書に変った。もっともその封筒は区役所などで使う極《きわ》めて安い鼠色《ねずみいろ》のものであったが、彼はわざとそれに切手を貼《は》らないのである。その代り裏に自分の姓名も書かずに投函《とうかん》していた。私はそれがために、倍の郵税を二度ほど払わせられた。最後に私は配達夫に彼の氏名と住所とを教えて、封のまま先方へ逆送して貰った。彼はそれで六銭取られたせいか、ようやく催促を断念したらしい態度になった。
 ところが二カ月ばかり経って、年が改まると共に、彼は私に普通の年始状を寄こした。それが私をちょっと感心させたので、私はつい短冊へ句を書いて送る気になった。しかしその贈物は彼を満足させるに足りなかった。彼は短冊が折れたとか、汚《よご》れたとか云って、しきりに書き直しを請求してやまない。現に今年の正月にも、「失敬申し候えども……」という依頼状が七八日《ななようか》頃に届いた。
 私がこんな人に出会ったのは生れて始めてである。

        十四

 ついこの間|昔《むか》し私の家《うち》へ泥棒の入った時の話を比較的|詳《くわ》しく聞いた。
 姉がまだ二人とも嫁《かた》づかずにいた時分の事だというから、年代にすると、多分私の生れる前後に当るのだろう、何しろ勤王とか佐幕とかいう荒々しい言葉の流行《はや》ったやかましい頃なのである。
 ある夜一番目の姉が、夜中《よなか》に小用《こよう》に起きた後《あと》、手を洗うために、潜戸《くぐりど》を開けると、狭い中庭の隅《すみ》に、壁を圧《お》しつけるような勢《いきおい》で立っている梅の古木の根方《ねがた》が、かっと明るく見えた。姉は思慮をめぐらす暇《いとま》もないうちに、すぐ潜戸を締《し》めてしまったが、締めたあとで、今目前に見た不思議な明るさをそこに立ちながら考えたのである。
 私の幼心に映ったこの姉の顔は、いまだに思い起そうとすれば、いつでも眼の前に浮ぶくらい鮮《あざや》かである。しかしその幻像はすでに嫁に行って歯を染めたあとの姿であるから、その時|縁側《えんがわ》に立って考えていた娘盛りの彼女を、今胸のうちに描き出す事はちょっと困難である。
 広い額、浅黒い皮膚、小さいけれども明確《はっきり》した輪廓《りんかく》を具えている鼻、人並《ひとなみ》より大きい二重瞼《ふたえまぶち》の眼、それから御沢《おさわ》という優しい名、――私はただこれらを綜合《そうごう》して、その場合における姉の姿を想像するだけである。
 しばらく立ったまま考えていた彼女の頭に、この時もしかすると火事じゃないかという懸念《けねん》が起った。それで彼女は思い切ってまた切戸《きりど》を開けて外を覗《のぞ》こうとする途端《とたん》に、一本の光る抜身《ぬきみ》が、闇《やみ》の中から、四角に切った潜戸の中へすうと出た。姉は驚いて身を後《あと》へ退《ひ》いた。その隙《ひま》に、覆面をした、龕灯提灯《がんどうぢょうちん》を提《さ》げた男が、抜刀のまま、小《ち》さい潜戸から大勢|家《うち》の中へ入って来たのだそうである。泥棒の人数《にんず》はたしか八人とか聞いた。
 彼らは、他《ひと》を殺《あや》めるために来たのではないから、おとなしくしていてくれさえすれば、家のものに危害は加えない、その代り軍用金を借《か》せと云って、父に迫った。父はないと断った。しかし泥棒はなかなか承知しなかった。今|角《かど》の小倉屋《こくらや》という酒屋へ入って、そこで教えられて来たのだから、隠しても駄目だと云って動かなかった。父は不精無性《ふしょうぶしょう》に、とうとう何枚かの小判を彼らの前に並べた。彼らは金額があまり少な過ぎると思ったものか、それでもなかなか帰ろうとしないので、今まで床の中に寝ていた母が、「あなたの紙入に入っているのもやっておしまいなさい」と忠告した。その紙入の中には五十両ばかりあったとかいう話である。泥棒が出て行ったあとで、「余計な事をいう女だ」と云って、父は母を叱りつけたそうである。
 その事があって以来、私の家では柱を切《き》り組《くみ》にして、その中へあり金を隠す方法を講じたが、隠すほどの財産もできず、また黒装束《くろそうぞく》を着けた泥棒も、それぎり来ないので、私の生長する時分には、どれが切組《きりくみ》にしてある柱かまるで分らなくなっていた。
 泥棒が出て行く時、「この家《うち》は大変|締《しま》りの好い宅《うち》だ」と云って賞《ほ》めたそうだが、その締りの好い家を泥棒に教えた小倉屋の半兵衛さんの頭には、あくる日から擦《かす》り傷《きず》がいくつとなくできた。これは金はありませんと断わるたびに、泥棒がそんなはずがあるものかと云っては、抜身の先でちょいちょい半兵衛さんの頭を突ッついたからだという。それでも半兵衛さんは、「どうしても宅《うち》にはありません、裏の夏目さんにはたくさんあるから、あすこへいらっしゃい」と強情を張り通して、とうとう金は一文も奪《と》られずにしまった。
 私はこの話を妻《さい》から聞いた。妻はまたそれを私の兄から茶受話《ちゃうけばなし》に聞いたのである。

        十五

 私が去年の十一月学習院で講演をしたら、薄謝と書いた紙包を後から届けてくれた。立派な水引《みずひき》がかかっているので、それを除《はず》して中を改めると、五円札が二枚入っていた。私はその金を平生から気の毒に思っていた、或懇意な芸術家に贈ろうかしらと思って、暗《あん》に彼の来るのを待ち受けていた。ところがその芸術家がまだ見えない先に、何か寄附の必要ができてきたりして、つい二枚とも消費してしまった。
 一口でいうと、この金は私にとってけっして無用なものではなかったのである。世間の通り相場で、立派に私のために消費されたというよりほかに仕方がないのである。けれどもそれを他《ひと》にやろうとまで思った私の主観から見れば、そんなにありがたみの附着していない金には相違なかったのである。打ち明けた私の心持をいうと、こうした御礼を受けるより受けない時の方がよほど颯爽《さっぱり》していた。
 畔柳芥舟《くろやなぎかいしゅう》君が樗牛会《ちょぎゅうかい》の講演の事で見えた時、私は話のついでとして一通りその理由を述べた。
「この場合私は労力を売りに行ったのではない。好意ずくで依頼に応じたのだから、向うでも好意だけで私に酬《むく》いたらよかろうと思う。もし報酬問題とする気なら、最初から御礼はいくらするが、来てくれるかどうかと相談すべきはずでしょう」
 その時K君は納得《なっとく》できないといったような顔をした。そうしてこう答えた。
「しかしどうでしょう。その十円はあなたの労力を買ったという意味でなくって、あなたに対する感謝の意を表する一つの手段と見たら。そう見る訳には行かないのですか」
「品物なら判然《はっきり》そう解釈もできるのですが、不幸にも御礼が普通営業的の売買《ばいばい》に使用する金なのですから、どっちとも取れるのです」
「どっちとも取れるなら、この際《さい》善意の方に解釈した方が好くはないでしょうか」
 私はもっともだとも思った。しかしまたこう答えた。
「私は御存じの通り原稿料で衣食しているくらいですから、無論富裕とは云えません。しかしどうかこうか、それだけで今日《こんにち》を過ごして行かれるのです。だから自分の職業以外の事にかけては、なるべく好意的に人のために働いてやりたいという考えを持っています。そうしてその好意が先方に通じるのが、私にとっては、何よりも尊《たっ》とい報酬なのです。したがって金などを受けると、私が人のために働いてやるという余地、――今の私にはこの余地がまた極めて狭いのです。――その貴重な余地を腐蝕《ふしょく》させられたような心持になります」
 K君はまだ私の云う事を肯《うけが》わない様子であった。私も強情であった。
「もし岩崎とか三井とかいう大富豪に講演を頼むとした場合に、後から十円の御礼を持って行くでしょうか、あるいは失礼だからと云って、ただ挨拶《あいさつ》だけにとどめておくでしょうか。私の考ではおそらく金銭は持って行くまいと思うのですが」
「さあ」といっただけでK君は判然した返事を与えなかった。私にはまだ云う事が少し残っていた。
「己惚《おのぼれ》かは知りませんが、私の頭は三井岩崎に比《くら》べるほど富んでいないにしても、一般学生よりはずっと金持に違いないと信じています」
「そうですとも」とK君は首肯《うなず》いた。
「もし岩崎や三井に十円の御礼を持って行く事が失礼ならば、私の所へ十円の御礼を持って来るのも失礼でしょう。それもその十円が物質上私の生活に非常な潤沢《うるおい》を与えるなら、またほかの意味からこの問題を眺める事もできるでしょうが、現に私はそれを他《ひと》にやろうとまで思ったのだから。――私の現下の経済的生活は、この十円のために、ほとんど目に立つほどの影響を蒙《こうむ》らないのだから」
「よく考えて見ましょう」といったK君はにやにや笑いながら帰って行った。

        十六

 宅《うち》の前のだらだら坂を下りると、一間ばかりの小川に渡した橋があって、その橋向うのすぐ左側に、小さな床屋が見える。私はたった一度そこで髪を刈《か》って貰った事がある。
 平生は白い金巾《かなきん》の幕で、硝子戸《ガラスど》の奥が、往来から見えないようにしてあるので、私はその床屋の土間に立って、鏡の前に座を占めるまで、亭主の顔をまるで知らずにいた。
 亭主は私の入ってくるのを見ると、手に持った新聞紙を放《ほう》り出《だ》してすぐ挨拶《あいさつ》をした。その時私はどうもどこかで会った事のある男に違ないという気がしてならなかった。それで彼が私の後《うしろ》へ廻って、鋏《はさみ》をちょきちょき鳴らし出した頃を見計らって、こっちから話を持ちかけて見た。すると私の推察通り、彼は昔《むか》し寺町の郵便局の傍《そば》に店を持って、今と同じように、散髪を渡世《とせい》としていた事が解った。
「高田の旦那《だんな》などにもだいぶ御世話になりました」
 その高田というのは私の従兄《いとこ》なのだから、私も驚いた。
「へえ高田を知ってるのかい」
「知ってるどころじゃございません。始終《しじゅう》徳《とく》、徳《とく》、って贔屓《ひいき》にして下すったもんです」
 彼の言葉|遣《づか》いはこういう職人にしてはむしろ丁寧《ていねい》な方であった。
「高田も死んだよ」と私がいうと、彼は吃驚《びっくり》した調子で「へッ」と声を揚《あ》げた。
「いい旦那でしたがね、惜しい事に。いつ頃《ごろ》御亡《おな》くなりになりました」
「なに、つい此間《こないだ》さ。今日で二週間になるか、ならないぐらいのものだろう」
 彼はそれからこの死んだ従兄《いとこ》について、いろいろ覚えている事を私に語った末、「考えると早いもんですね旦那、つい昨日《きのう》の事としっきゃ思われないのに、もう三十年近くにもなるんですから」と云った。
「あのそら求友亭《きゅうゆうてい》の横町にいらしってね、……」と亭主はまた言葉を継《つ》ぎ足した。
「うん、あの二階のある家《うち》だろう」
「ええ御二階がありましたっけ。あすこへ御移りになった時なんか、方々様《ほうぼうさま》から御祝い物なんかあって、大変|御盛《ごさかん》でしたがね。それから後《あと》でしたっけか、行願寺《ぎょうがんじ》の寺内《じない》へ御引越なすったのは」
 この質問は私にも答えられなかった。実はあまり古い事なので、私もつい忘れてしまったのである。
「あの寺内も今じゃ大変変ったようだね。用がないので、それからつい入って見た事もないが」
「変ったの変らないのってあなた、今じゃまるで待合ばかりでさあ」
 私は肴町《さかなまち》を通るたびに、その寺内へ入る足袋屋《たびや》の角の細い小路《こうじ》の入口に、ごたごた掲《かか》げられた四角な軒灯の多いのを知っていた。しかしその数を勘定《かんじょう》して見るほどの道楽気も起らなかったので、つい亭主のいう事には気がつかずにいた。
「なるほどそう云えば誰《た》が袖《そで》なんて看板が通りから見えるようだね」
「ええたくさんできましたよ。もっとも変るはずですね、考えて見ると。もうやがて三十年にもなろうと云うんですから。旦那も御承知の通り、あの時分は芸者屋ったら、寺内にたった一軒しきゃ無かったもんでさあ。東家《あずまや》ってね。ちょうどそら高田の旦那の真向《まんむこう》でしたろう、東家の御神灯《ごじんとう》のぶら下がっていたのは」

        十七

 私はその東家をよく覚えていた。従兄《いとこ》の宅《うち》のつい向《むこう》なので、両方のものが出入《ではい》りのたびに、顔を合わせさえすれば挨拶《あいさつ》をし合うぐらいの間柄《あいだがら》であったから。
 その頃従兄の家には、私の二番目の兄がごろごろしていた。この兄は大の放蕩《ほうとう》もので、よく宅の懸物《かけもの》や刀剣類を盗み出しては、それを二束三文に売り飛ばすという悪い癖《くせ》があった。彼が何で従兄の家に転《ころ》がり込んでいたのか、その時の私には解らなかったけれども、今考えると、あるいはそうした乱暴を働らいた結果、しばらく家《うち》を追い出されていたかも知れないと思う。その兄のほかに、まだ庄さんという、これも私の母方の従兄に当る男が、そこいらにぶらぶらしていた。
 こういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寝そべったり、縁側《えんがわ》へ腰をかけたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子《たけごうし》の窓から、「今日《こんち》は」などと声をかけられたりする。それをまた待ち受けてでもいるごとくに、連中は「おいちょっとおいで、好いものあるから」とか何とか云って、女を呼び寄せようとする。芸者の方でも昼間は暇だから、三度に一度は御愛嬌《ごあいきょう》に遊びに来る。といった風の調子であった。
 私はその頃まだ十七八だったろう、その上大変な羞恥屋《はにかみや》で通っていたので、そんな所に居合わしても、何にも云わずに黙って隅《すみ》の方に引込《ひっこ》んでばかりいた。それでも私は何かの拍子《ひょうし》で、これらの人々といっしょに、その芸者屋へ遊びに行って、トランプをした事がある。負けたものは何か奢《おご》らなければならないので、私は人の買った寿司《すし》や菓子をだいぶ食った。
 一週間ほど経《た》ってから、私はまたこののらくらの兄に連れられて同じ宅へ遊びに行ったら、例の庄さんも席に居合わせて話がだいぶはずんだ。その時|咲松《さきまつ》という若い芸者が私の顔を見て、「またトランプをしましょう」と云った。私は小倉《こくら》の袴《はかま》を穿《は》いて四角張っていたが、懐中には一銭の小遣《こづかい》さえ無かった。
「僕は銭《ぜに》がないから厭《いや》だ」
「好いわ、私《わたし》が持ってるから」
 この女はその時眼を病んででもいたのだろう、こういいいい、綺麗《きれい》な襦袢《じゅばん》の袖《そで》でしきりに薄赤くなった二重瞼《ふたえまぶち》を擦《こす》っていた。
 その後《ご》私は「御作《おさく》が好い御客に引かされた」という噂《うわさ》を、従兄《いとこ》の家《うち》で聞いた。従兄の家では、この女の事を咲松《さきまつ》と云わないで、常に御作御作と呼んでいたのである。私はその話を聞いた時、心の内でもう御作に会う機会も来《こ》ないだろうと考えた。
 ところがそれからだいぶ経って、私が例の達人《たつじん》といっしょに、芝の山内《さんない》の勧工場《かんこうば》へ行ったら、そこでまたぱったり御作に出会った。こちらの書生姿に引《ひ》き易《か》えて、彼女はもう品《ひん》の好い奥様に変っていた。旦那というのも彼女の傍《そば》についていた。……
 私は床屋の亭主の口から出た東家《あずまや》という芸者屋の名前の奥に潜《ひそ》んでいるこれだけの古い事実を急に思い出したのである。
「あすこにいた御作という女を知ってるかね」と私は亭主に聞いた。
「知ってるどころか、ありゃ私の姪《めい》でさあ」
「そうかい」
 私は驚ろいた。
「それで、今どこにいるのかね」
「御作は亡《な》くなりましたよ、旦那」
 私はまた驚ろいた。
「いつ」
「いつって、もう昔の事になりますよ。たしかあれが二十三の年でしたろう」
「へええ」
「しかも浦塩《ウラジオ》で亡くなったんです。旦那が領事館に関係のある人だったもんですから、あっちへいっしょに行きましてね。それから間もなくでした、死んだのは」
 私は帰って硝子戸《ガラスど》の中に坐って、まだ死なずにいるものは、自分とあの床屋の亭主だけのような気がした。

        十八

 私の座敷へ通されたある若い女が、「どうも自分の周囲《まわり》がきちんと片づかないで困りますが、どうしたら宜《よろ》しいものでしょう」と聞いた。
 この女はある親戚の宅《うち》に寄寓《きぐう》しているので、そこが手狭《てぜま》な上に、子供などが蒼蠅《うるさ》いのだろうと思った私の答は、すこぶる簡単であった。
「どこかさっぱりした家《うち》を探して下宿でもしたら好いでしょう」
「いえ部屋の事ではないので、頭の中がきちんと片づかないで困るのです」
 私は私の誤解を意識すると同時に、女の意味がまた解らなくなった。それでもう少し進んだ説明を彼女に求めた。
「外からは何でも頭の中に入って来ますが、それが心の中心と折合がつかないのです」
「あなたのいう心の中心とはいったいどんなものですか」
「どんなものと云って、真直《まっすぐ》な直線なのです」
 私はこの女の数学に熱心な事を知っていた。けれども心の中心が直線だという意味は無論私に通じなかった。その上中心とははたして何を意味するのか、それもほとんど不可解であった。女はこう云った。
「物には何でも中心がございましょう」
「それは眼で見る事ができ、尺度《ものさし》で計る事のできる物体についての話でしょう。心にも形があるんですか。そんならその中心というものをここへ出して御覧なさい」
 女は出せるとも出せないとも云わずに、庭の方を見たり、膝《ひざ》の上で両手を擦《す》ったりしていた。
「あなたの直線というのは比喩《たとえ》じゃありませんか。もし比喩なら、円《まる》と云っても四角と云っても、つまり同じ事になるのでしょう」
「そうかも知れませんが、形や色が始終《しじゅう》変っているうちに、少しも変らないものが、どうしてもあるのです」
「その変るものと変らないものが、別々だとすると、要するに心が二つある訳になりますが、それで好いのですか。変るものはすなわち変らないものでなければならないはずじゃありませんか」
 こう云った私はまた問題を元に返して女に向った。
「すべて外界のものが頭のなかに入って、すぐ整然と秩序なり段落なりがはっきりするように納まる人は、おそらくないでしょう。失礼ながらあなたの年齢《とし》や教育や学問で、そうきちん[#「きちん」に傍点]と片づけられる訳がありません。もしまたそんな意味でなくって、学問の力を借りずに、徹底的にどさりと納まりをつけたいなら、私のようなものの所へ来ても駄目《だめ》です。坊さんの所へでもいらっしゃい」
 すると女が私の顔を見た。
「私は始めて先生を御見上げ申した時に、先生の心はそういう点で、普通の人以上に整《とと》のっていらっしゃるように思いました」
「そんなはずがありません」
「でも私にはそう見えました。内臓の位置までが調《ととの》っていらっしゃるとしか考えられませんでした」
「もし内臓がそれほど具合よく調節されているなら、こんなに始終《しじゅう》病気などはしません」
「私は病気にはなりません」とその時女は突然自分の事を云った。
「それはあなたが私より偉い証拠《しょうこ》です」と私も答えた。
 女は蒲団《ふとん》を滑《すべ》り下りた。そうして、「どうぞ御身体《おからだ》を御大切《ごたいせつ》に」と云って帰って行った。

        十九

 私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町奥の馬場下という町にあった。町とは云い条、その実《じつ》小さな宿場としか思われないくらい、小供の時の私には、寂《さび》れ切《き》ってかつ淋《さむ》しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内《しゅびきうち》か朱引外か分らない辺鄙《へんぴ》な隅《すみ》の方にあったに違ないのである。
 それでも内蔵造《くらづくり》の家《うち》が狭い町内に三四軒はあったろう。坂を上《あが》ると、右側に見える近江屋伝兵衛《おうみやでんべえ》という薬種屋《やくしゅや》などはその一つであった。それから坂を下《お》り切《き》った所に、間口の広い小倉屋《こくらや》という酒屋もあった。もっともこの方は倉造りではなかったけれども、堀部安兵衛《ほりべやすべえ》が高田の馬場で敵《かたき》を打つ時に、ここへ立ち寄って、枡酒《ますざけ》を飲んで行ったという履歴のある家柄《いえがら》であった。私はその話を小供の時分から覚えていたが、ついぞそこにしまってあるという噂《うわさ》の安兵衛が口を着けた枡を見たことがなかった。その代り娘の御北《おきた》さんの長唄《ながうた》は何度となく聞いた。私は小供だから上手だか下手だかまるで解らなかったけれども、私の宅《うち》の玄関から表へ出る敷石の上に立って、通りへでも行こうとすると、御北さんの声がそこからよく聞こえたのである。春の日の午過《ひるすぎ》などに、私はよく恍惚《うっとり》とした魂を、麗《うらら》かな光に包みながら、御北さんの御浚《おさら》いを聴くでもなく聴かぬでもなく、ぼんやり私の家の土蔵の白壁に身を靠《も》たせて、佇立《たたず》んでいた事がある。その御蔭《おかげ》で私はとうとう「旅の衣《ころも》は篠懸《すずかけ》の」などという文句をいつの間にか覚えてしまった。
 このほかには棒屋が一軒あった。それから鍛冶屋《かじや》も一軒あった。少し八幡坂《はちまんざか》の方へ寄った所には、広い土間を屋根の下に囲い込んだやっちゃ[#「やっちゃ」に傍点]場《ば》もあった。私の家のものは、そこの主人を、問屋《とんや》の仙太郎さんと呼んでいた。仙太郎さんは何でも私の父とごく遠い親類つづきになっているんだとか聞いたが、交際《つきあい》からいうと、まるで疎濶《そかつ》であった。往来で行き会う時だけ、「好い御天気で」などと声をかけるくらいの間柄《あいだがら》に過ぎなかったらしく思われる。この仙太郎さんの一人娘が講釈師の貞水《ていすい》と好い仲になって、死ぬの生きるのという騒ぎのあった事も人聞《ひとぎき》に聞いて覚えてはいるが、纏《まと》まった記憶は今頭のどこにも残っていない。小供の私には、それよりか仙太郎さんが高い台の上に腰をかけて、矢立《やたて》と帳面を持ったまま、「いーやっちゃいくら」と威勢の好い声で下にいる大勢の顔を見渡す光景の方がよっぽど面白かった。下からはまた二十本も三十本もの手を一度に挙《あ》げて、みんな仙太郎さんの方を向きながら、ろんじ[#「ろんじ」に傍点]だのがれん[#「がれん」に傍点]だのという符徴《ふちょう》を、罵《のの》しるように呼び上げるうちに、薑《しょうが》や茄子《なす》や唐《とう》茄子の籠《かご》が、それらの節太《ふしぶと》の手で、どしどしどこかへ運び去られるのを見ているのも勇ましかった。
 どんな田舎《いなか》へ行ってもありがちな豆腐屋《とうふや》は無論あった。その豆腐屋には油の臭《におい》の染《し》み込《こ》んだ縄暖簾《なわのれん》がかかっていて門口《かどぐち》を流れる下水の水が京都へでも行ったように綺麗《きれい》だった。その豆腐屋について曲ると半町ほど先に西閑寺《せいかんじ》という寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後《うしろ》は、深い竹藪《たけやぶ》で一面に掩《おお》われているので、中にどんなものがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥でする朝晩の御勤《おつとめ》の鉦《かね》の音《ね》は、今でも私の耳に残っている。ことに霧《きり》の多い秋から木枯《こがらし》の吹く冬へかけて、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、いつでも私の心に悲しくて冷《つめ》たい或物を叩《たた》き込むように小さい私の気分を寒くした。

        二十

 この豆腐屋の隣に寄席《よせ》が一軒あったのを、私は夢幻《ゆめうつつ》のようにまだ覚えている。こんな場末に人寄場《ひとよせば》のあろうはずがないというのが、私の記憶に霞《かすみ》をかけるせいだろう、私はそれを思い出すたびに、奇異な感じに打たれながら、不思議そうな眼を見張って、遠い私の過去をふり返るのが常である。
 その席亭の主人《あるじ》というのは、町内の鳶頭《とびがしら》で、時々|目暗縞《めくらじま》の腹掛に赤い筋《すじ》の入った印袢纏《しるしばんてん》を着て、突っかけ草履《ぞうり》か何かでよく表を歩いていた。そこにまた御藤《おふじ》さんという娘があって、その人の容色《きりょう》がよく家《うち》のものの口に上《のぼ》った事も、まだ私の記憶を離れずにいる。後《のち》には養子を貰ったが、それが口髭《くちひげ》を生《は》やした立派な男だったので、私はちょっと驚ろかされた。御藤さんの方でも自慢の養子だという評判が高かったが、後から聞いて見ると、この人はどこかの区役所の書記だとかいう話であった。
 この養子が来る時分には、もう寄席《よせ》もやめて、しもうた屋《や》になっていたようであるが、私はそこの宅《うち》の軒先にまだ薄暗い看板が淋《さむ》しそうに懸《かか》っていた頃、よく母から小遣《こづかい》を貰ってそこへ講釈を聞きに出かけたものである。講釈師の名前はたしか、南麟《なんりん》とかいった。不思議な事に、この寄席へは南麟よりほかに誰も出なかったようである。この男の家《うち》はどこにあったか知らないが、どの見当《けんとう》から歩いて来るにしても、道普請《みちぶしん》ができて、家並《いえなみ》の揃《そろ》った今から見れば大事業に相違なかった。その上客の頭数はいつでも十五か二十くらいなのだから、どんなに想像を逞《たく》ましくしても、夢としか考えられないのである。「もうしもうし花魁《おいらん》え、と云われて八《や》ツ橋《はし》なんざますえとふり返る、途端《とたん》に切り込む刃《やいば》の光」という変な文句は、私がその時分南麟から教《おす》わったのか、それとも後《あと》になって落語家《はなしか》のやる講釈師の真似《まね》から覚えたのか、今では混雑してよく分らない。
 当時私の家からまず町らしい町へ出ようとするには、どうしても人気のない茶畠《ちゃばたけ》とか、竹藪《たけやぶ》とかまたは長い田圃路《たんぼみち》とかを通り抜けなければならなかった。買物らしい買物はたいてい神楽坂《かぐらざか》まで出る例になっていたので、そうした必要に馴《な》らされた私に、さした苦痛のあるはずもなかったが、それでも矢来《やらい》の坂を上《あが》って酒井様の火《ひ》の見櫓《みやぐら》を通り越して寺町へ出ようという、あの五六町の一筋道などになると、昼でも陰森《いんしん》として、大空が曇ったように始終《しじゅう》薄暗かった。
 あの土手の上に二抱《ふたかかえ》も三抱《みかか》えもあろうという大木が、何本となく並んで、その隙間《すきま》隙間をまた大きな竹藪で塞《ふさ》いでいたのだから、日の目を拝む時間と云ったら、一日のうちにおそらくただの一刻もなかったのだろう。下町へ行こうと思って、日和下駄《ひよりげた》などを穿《は》いて出ようものなら、きっと非道《ひど》い目にあうにきまっていた。あすこの霜融《しもどけ》は雨よりも雪よりも恐ろしいもののように私の頭に染《し》み込《こ》んでいる。
 そのくらい不便な所でも火事の虞《おそれ》はあったものと見えて、やっぱり町の曲り角に高い梯子《はしご》が立っていた。そうしてその上に古い半鐘も型のごとく釣るしてあった。私はこうしたありのままの昔をよく思い出す。その半鐘のすぐ下にあった小さな一膳飯屋《いちぜんめしや》もおのずと眼先に浮かんで来る。縄暖簾《なわのれん》の隙間からあたたかそうな|煮〆《にしめ》の香《におい》が煙《けむり》と共に往来へ流れ出して、それが夕暮の靄《もや》に融《と》け込んで行く趣《おもむき》なども忘れる事ができない。私が子規のまだ生きているうちに、「半鐘と並んで高き冬木|哉《かな》」という句を作ったのは、実はこの半鐘の記念のためであった。

        二十一

 私の家に関する私の記憶は、惣《そう》じてこういう風に鄙《ひな》びている。そうしてどこかに薄ら寒い憐《あわ》れな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間《こないだ》、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出《はで》な暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町《さるわかちょう》にあった。電車も俥《くるま》もない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半《よなか》に起きて支度《したく》をした。途中が物騒《ぶっそう》だというので、用心のため、下男がきっと供《とも》をして行ったそうである。
 彼らは筑土《つくど》を下りて、柿の木横町から揚場《あげば》へ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期に充《み》ちた心をもって、のろのろ砲兵工厰《ほうへいこうしょう》の前から御茶の水を通り越して柳橋まで漕《こ》がれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。
 大川へ出た船は、流を溯《さかのぼ》って吾妻橋《あずまばし》を通り抜けて、今戸《いまど》の有明楼《ゆうめいろう》の傍《そば》に着けたものだという。姉達はそこから上《あが》って芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間《たかどま》に限られていた。これは彼らの服装《なり》なり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。
 幕の間には役者に随《つ》いている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬《ちりめん》の模様のある着物の上に袴《はかま》を穿《は》いた男の後《あと》に跟《つ》いて、田之助《たのすけ》とか訥升《とっしょう》とかいう贔屓《ひいき》の役者の部屋へ行って、扇子《せんす》に画《え》などを描《か》いて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄《みえ》だったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りには元《もと》来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心《ぶようじん》だからと云って、下男がまた提灯《ちょうちん》を点《つ》けて迎《むかえ》に行く。宅《うち》へ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半《よなか》から夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗《はなやか》な話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分《さむらいぶん》ではなかった。派出《はで》な付合《つきあい》をしなければならない名主《なぬし》という町人であった。私の知っている父は、禿頭《はげあたま》の爺《じい》さんであったが、若い時分には、一中節《いっちゅうぶし》を習ったり、馴染《なじみ》の女に縮緬《ちりめん》の積夜具《つみやぐ》をしてやったりしたのだそうである。青山に田地《でんち》があって、そこから上って来る米だけでも、家《うち》のものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米を舂《つ》く音を始終《しじゅう》聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関《げんか》玄関と称《とな》えていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついた厳《いか》めしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒《つくぼう》や、袖搦《そでがらみ》や刺股《さつまた》や、また古ぼけた馬上《ばじょう》提灯などが、並んで懸《か》けてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

        二十二

 この二三年来私はたいてい年に一度くらいの割で病気をする。そうして床《とこ》についてから床を上げるまでに、ほぼ一月《ひとつき》の日数《ひかず》を潰《つぶ》してしまう。
 私の病気と云えば、いつもきまった胃の故障なので、いざとなると、絶食療法よりほかに手の着けようがなくなる。医者の命令ばかりか、病気の性質そのものが、私にこの絶食を余儀なくさせるのである。だから病み始めより回復期に向った時の方が、余計|痩《や》せこけてふらふらする。一カ月以上かかるのもおもにこの衰弱が祟《たた》るからのように思われる。
 私の立居《たちい》が自由になると、黒枠《くろわく》のついた摺物《すりもの》が、時々私の机の上に載せられる。私は運命を苦笑する人のごとく、絹帽《シルクハット》などを被《かぶ》って、葬式の供に立つ、俥《くるま》を駆《か》って斎場《さいじょう》へ駈《か》けつける。死んだ人のうちには、御爺さんも御婆さんもあるが、時には私よりも年歯《とし》が若くって、平生からその健康を誇っていた人も交《まじ》っている。
 私は宅へ帰って机の前に坐って、人間の寿命は実に不思議なものだと考える。多病な私はなぜ生き残っているのだろうかと疑って見る。あの人はどういう訳で私より先に死んだのだろうかと思う。
 私としてこういう黙想に耽《ふけ》るのはむしろ当然だといわなければならない。けれども自分の位地《いち》や、身体《からだ》や、才能や――すべて己《おの》れというもののおり所を忘れがちな人間の一人《いちにん》として、私は死なないのが当り前だと思いながら暮らしている場合が多い。読経《どきょう》の間ですら、焼香の際ですら、死んだ仏のあとに生き残った、この私という形骸《けいがい》を、ちっとも不思議と心得ずに澄ましている事が常である。
 或人が私に告げて、「他《ひと》の死ぬのは当り前のように見えますが、自分が死ぬという事だけはとても考えられません」と云った事がある。戦争に出た経験のある男に、「そんなに隊のものが続々|斃《たお》れるのを見ていながら、自分だけは死なないと思っていられますか」と聞いたら、その人は「いられますね。おおかた死ぬまでは死なないと思ってるんでしょう」と答えた。それから大学の理科に関係のある人に、飛行機の話を聴《き》かされた時に、こんな問答をした覚えもある。
「ああして始終《しじゅう》落ちたり死んだりしたら、後から乗るものは怖《こわ》いだろうね。今度はおれの番だという気になりそうなものだが、そうでないかしら」
「ところがそうでないと見えます」
「なぜ」
「なぜって、まるで反対の心理状態に支配されるようになるらしいのです。やッぱりあいつは墜落して死んだが、おれは大丈夫だという気になると見えますね」
 私も恐らくこういう人の気分で、比較的平気にしていられるのだろう。それもそのはずである。死ぬまでは誰しも生きているのだから。
 不思議な事に私の寝ている間には、黒枠《くろわく》の通知がほとんど来ない。去年の秋にも病気が癒《なお》った後《あと》で、三四人の葬儀に列したのである。その三四人の中に社の佐藤君も這入《はい》っていた。私は佐藤君がある宴会の席で、社から貰った銀盃《ぎんぱい》を持って来て、私に酒を勧《すす》めてくれた事を思い出した。その時彼の踊った変な踊もまだ覚えている。この元気な崛強《くっきょう》な人の葬式《とむらい》に行った私は、彼が死んで私が生残っているのを、別段の不思議とも思わずにいる時の方が多い。しかし折々考えると、自分の生きている方が不自然のような心持にもなる。そうして運命がわざと私を愚弄《ぐろう》するのではないかしらと疑いたくなる。

        二十三

 今私の住んでいる近所に喜久井町《きくいちょう》という町がある。これは私の生れた所だから、ほかの人よりもよく知っている。けれども私が家を出て、方々|漂浪《ひょうろう》して帰って来た時には、その喜久井町がだいぶ広がって、いつの間にか根来《ねごろ》の方まで延びていた。
 私に縁故の深いこの町の名は、あまり聞き慣れて育ったせいか、ちっとも私の過去を誘い出す懐《なつ》かしい響を私に与えてくれない。しかし書斎に独《ひと》り坐って、頬杖《ほおづえ》を突いたまま、流れを下る舟のように、心を自由に遊ばせておくと、時々私の聯想《れんそう》が、喜久井町の四字にぱたりと出会ったなり、そこでしばらく※[#「彳+低のつくり」、第3水準1-84-31]徊《ていかい》し始める事がある。
 この町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後《のち》になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵《こしら》えたものに相違ないのである。
 私の家の定紋《じょうもん》が井桁《いげた》に菊なので、それにちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、または他のものから教《おす》わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主《なぬし》がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、あるいはそんな自由も利《き》いたかも知れないが、それを誇《ほこり》にした彼の虚栄心を、今になって考えて見ると、厭《いや》な心持は疾《と》くに消え去って、ただ微笑したくなるだけである。
 父はまだその上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名をつけた。不幸にしてこれは喜久井町ほど有名にならずに、ただの坂として残っている。しかしこの間、或人が来て、地図でこの辺の名前を調べたら、夏目坂というのがあったと云って話したから、ことによると父の付けた名が今でも役に立っているのかも知れない。
 私が早稲田《わせだ》に帰って来たのは、東京を出てから何年ぶりになるだろう。私は今の住居《すまい》に移る前、家《うち》を探す目的であったか、また遠足の帰り路であったか、久しぶりで偶然私の旧家の横へ出た。その時表から二階の古瓦《ふるがわら》が少し見えたので、まだ生き残っているのかしらと思ったなり、私はそのまま通り過ぎてしまった。
 早稲田に移ってから、私はまたその門前を通って見た。表から覗《のぞ》くと、何だかもとと変らないような気もしたが、門には思いも寄らない下宿屋の看板が懸《かか》っていた。私は昔の早稲田|田圃《たんぼ》が見たかった。しかしそこはもう町になっていた。私は根来《ねごろ》の茶畠《ちゃばたけ》と竹藪《たけやぶ》を一目《ひとめ》眺めたかった。しかしその痕迹《こんせき》はどこにも発見する事ができなかった。多分この辺だろうと推測した私の見当《けんとう》は、当っているのか、外《はず》れているのか、それさえ不明であった。
 私は茫然《ぼうぜん》として佇立《ちょりつ》した。なぜ私の家だけが過去の残骸《ざんがい》のごとくに存在しているのだろう。私は心のうちで、早くそれが崩《くず》れてしまえば好いのにと思った。
「時」は力であった。去年私が高田の方へ散歩したついでに、何気なくそこを通り過ぎると、私の家は綺麗《きれい》に取り壊されて、そのあとに新らしい下宿屋が建てられつつあった。その傍《そば》には質屋もできていた。質屋の前に疎《まば》らな囲《かこい》をして、その中に庭木が少し植えてあった。三本の松は、見る影もなく枝を刈り込まれて、ほとんど畸形児《きけいじ》のようになっていたが、どこか見覚《みおぼえ》のあるような心持を私に起させた。昔《むか》し「影|参差《しんし》松三本の月夜かな」と咏《うた》ったのは、あるいはこの松の事ではなかったろうかと考えつつ、私はまた家に帰った。

        二十四

「そんな所に生《お》い立《た》って、よく今日《こんにち》まで無事にすんだものですね」
「まあどうかこうか無事にやって来ました」
 私達の使った無事という言葉は、男女《なんにょ》の間に起る恋の波瀾《はらん》がないという意味で、云わば情事の反対を指《さ》したようなものであるが、私の追窮心《ついきゅうしん》は簡単なこの一句の答で満足できなかった。
「よく人が云いますね、菓子屋へ奉公すると、いくら甘いものの好な男でも、菓子が厭《いや》になるって、御彼岸《おひがん》に御萩《おはぎ》などを拵《こしら》えているところを宅《うち》で見ていても分るじゃありませんか、拵えるものは、ただ御萩を御重《おじゅう》に詰めるだけで、もうげんなり[#「げんなり」に傍点]した顔をしているくらいだから。あなたの場合もそんな訳なんですか」
「そういう訳でもないようです。とにかく廿歳《はたち》少し過ぎまでは平気でいたのですから」
 その人はある意味において好男子であった。
「たといあなたが平気でいても、相手が平気でいない場合がないとも限らないじゃありませんか。そんな時には、どうしたって誘《さそ》われがちになるのが当り前でしょう」
「今からふり返って見ると、なるほどこういう意味でああいう事をしたのだとか、あんな事を云ったのだとか、いろいろ思い当る事がないでもありません」
「じゃ全く気がつかずにいたのですね」
「まあそうです。それからこちらで気のついたのも一つありました。しかし私の心はどうしても、その相手に惹《ひ》きつけられる事ができなかったのです」
 私はそれが話の終りかと思った。二人の前には正月の膳《ぜん》が据《す》えてあった。客は少しも酒を飲まないし、私もほとんど盃《さかずき》に手を触れなかったから、献酬《けんしゅう》というものは全くなかった。
「それだけで今日まで経過して来られたのですか」と私は吸物をすすりながら念のために訊《き》いて見た。すると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論|素人《しろうと》ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首を縊《くく》って死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那《だんな》が二人あって、双方が意地ずくで、身受の金を競《せ》り上《あ》げにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責《ぎりぜめ》にもしたらしいのです。……」
「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」
「当時の私は丁稚《でっち》の少し毛の生《は》えたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸妓《げいしゃ》はあなたのために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚《ねざめ》が悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
 元日に込《こ》み合《あ》った私の座敷は、二日になって淋《さび》しいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういう憐《あわ》れな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客は真面目《まじめ》な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど艶《つや》っぽい言葉を使わなかった。

        二十五

 私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
 或日私は切通《きりどお》しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋《ぎゅうや》の傍《そば》に、寄席《よせ》の看板がいつでも懸《かか》っていた。
 雨の降る日だったので、私は無論|傘《かさ》をさしていた。それが鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張で、上から洩《も》ってくる雫《しずく》が、自然木《じねんぼく》の柄《え》を伝わって、私の手を濡《ぬ》らし始めた。人通りの少ないこの小路《こうじ》は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄《あしだ》の歯に引《ひ》っ懸《かか》る汚《きた》ないものはほとんどなかった。それでも上を見れば暗く、下を見れば佗《わ》びしかった。始終《しじゅう》通りつけているせいでもあろうが、私の周囲には何一つ私の眼を惹《ひ》くものは見えなかった。そうして私の心はよくこの天気とこの周囲に似ていた。私には私の心を腐蝕《ふしょく》するような不愉快な塊《かたまり》が常にあった。私は陰欝《いんうつ》な顔をしながら、ぼんやり雨の降る中を歩いていた。
 日蔭町《ひかげちょう》の寄席《よせ》の前まで来た私は、突然一台の幌俥《ほろぐるま》に出合った。私と俥の間には何の隔《へだた》りもなかったので、私は遠くからその中に乗っている人の女だという事に気がついた。まだセルロイドの窓などのできない時分だから、車上の人は遠くからその白い顔を私に見せていたのである。
 私の眼にはその白い顔が大変美しく映った。私は雨の中を歩きながらじっとその人の姿に見惚《みと》れていた。同時にこれは芸者だろうという推察が、ほとんど事実のように、私の心に働らきかけた。すると俥が私の一間ばかり前へ来た時、突然私の見ていた美しい人が、鄭寧《ていねい》な会釈《えしゃく》を私にして通り過ぎた。私は微笑に伴なうその挨拶《あいさつ》とともに、相手が、大塚楠緒《おおつかくすお》さんであった事に、始めて気がついた。
 次に会ったのはそれから幾日目《いくかめ》だったろうか、楠緒《くすお》さんが私に、「この間は失礼しました」と云ったので、私は私のありのままを話す気になった。
「実はどこの美くしい方《かた》かと思って見ていました。芸者じゃないかしらとも考えたのです」
 その時楠緒さんが何と答えたか、私はたしかに覚えていないけれども、楠緒さんはちっとも顔を赧《あか》らめなかった。それから不愉快な表情も見せなかった。私の言葉をただそのままに受け取ったらしく思われた。
 それからずっと経《た》って、ある日楠緒さんがわざわざ早稲田へ訪《たず》ねて来てくれた事がある。しかるにあいにく私は妻《さい》と喧嘩《けんか》をしていた。私は厭《いや》な顔をしたまま、書斎にじっと坐っていた。楠緒さんは妻と十分ばかり話をして帰って行った。
 その日はそれですんだが、ほどなく私は西片町へ詫《あや》まりに出かけた。
「実は喧嘩をしていたのです。妻も定めて無愛想でしたろう。私はまた苦々《にがにが》しい顔を見せるのも失礼だと思って、わざと引込《ひっこ》んでいたのです」
 これに対する楠緒さんの挨拶《あいさつ》も、今では遠い過去になって、もう呼び出す事のできないほど、記憶の底に沈んでしまった。
 楠緒さんが死んだという報知の来たのは、たしか私が胃腸病院にいる頃であった。死去の広告中に、私の名前を使って差支《さしつかえ》ないかと電話で問い合された事などもまだ覚えている。私は病院で「ある程の菊投げ入れよ棺《かん》の中」という手向《たむけ》の句を楠緒さんのために咏《よ》んだ。それを俳句の好きなある男が嬉《うれ》しがって、わざわざ私に頼んで、短冊に書かせて持って行ったのも、もう昔になってしまった。

        二十六

 益《ます》さんがどうしてそんなに零落《おちぶれ》たものか私には解らない。何しろ私の知っている益さんは郵便脚夫であった。益さんの弟の庄さんも、家《うち》を潰《つぶ》して私の所へ転《ころ》がり込んで食客《いそうろう》になっていたが、これはまだ益さんよりは社会的地位が高かった。小供の時分本町の鰯屋《いわしや》へ奉公に行っていた時、浜の西洋人が可愛《かわい》がって、外国へ連れて行くと云ったのを断ったのが、今考えると残念だなどと始終《しじゅう》話していた。
 二人とも私の母方の従兄《いとこ》に当る男だったから、その縁故で、益さんは弟《おとと》に会うため、また私の父に敬意を表するため、月に一遍ぐらいは、牛込の奥まで煎餅《せんべい》の袋などを手土産《てみやげ》に持って、よく訪ねて来た。
 益さんはその時何でも芝の外《はず》れか、または品川近くに世帯を持って、一人暮しの呑気《のんき》な生活を営んでいたらしいので、宅《うち》へ来るとよく泊まって行った。たまに帰ろうとすると、兄達が寄ってたかって、「帰ると承知しないぞ」などと威嚇《おどか》したものである。
 当時二番目と三番目の兄は、まだ南校《なんこう》へ通っていた。南校というのは今の高等商業学校の位置にあって、そこを卒業すると、開成学校すなわち今日《こんにち》の大学へ這入《はい》る組織《そしょく》になっていたものらしかった。彼らは夜になると、玄関に桐《きり》の机を並べて、明日《あした》の下読《したよみ》をする。下読と云ったところで、今の書生のやるのとはだいぶ違っていた。グードリッチの英国史といったような本を、一節ぐらいずつ読んで、それからそれを机の上へ伏せて、口の内で今読んだ通りを暗誦《あんしょう》するのである。
 その下読が済むと、だんだん益さんが必要になって来る。庄さんもいつの間にかそこへ顔を出す。一番目の兄も、機嫌《きげん》の好い時は、わざわざ奥から玄関まで出張《でば》って来る。そうしてみんないっしょになって、益さんに調戯《からか》い始める。
「益さん、西洋人の所へ手紙を配達する事もあるだろう」
「そりゃ商売だから厭《いや》だって仕方がありません、持って行きますよ」
「益さんは英語ができるのかね」
「英語ができるくらいならこんな真似《まね》をしちゃいません」
「しかし郵便ッとか何とか大きな声を出さなくっちゃならないだろう」
「そりゃ日本語で間に合いますよ。異人だって、近頃は日本語が解りますもの」
「へええ、向《むこう》でも何とか云うのかね」
「云いますとも。ペロリの奥さんなんか、あなたよろしいありがとうと、ちゃんと日本語で挨拶《あいさつ》をするくらいです」
 みんなは益さんをここまでおびき出しておいて、どっと笑うのである。それからまた「益さん何て云うんだって、その奥さんは」と何遍も一つ事を訊《き》いては、いつまでも笑いの種にしようと巧《たく》らんでかかる。益さんもしまいには苦笑いをして、とうとう「あなたよろしい」をやめにしてしまう。すると今度は「じゃ益さん、野中《のなか》の一本杉《いっぽんすぎ》をやって御覧よ」と誰かが云い出す。
「やれったって、そうおいそれとやれるもんじゃありません」
「まあ好いから、おやりよ。いよいよ野中の一本杉の所まで参りますと……」
 益さんはそれでもにやにやして応じない。私はとうとう益さんの野中の一本杉というものを聴《き》かずにしまった。今考えると、それは何でも講釈か人情噺《にんじょうばなし》の一節じゃないかしらと思う。
 私の成人する頃には益さんももう宅《うち》へ来なくなった。おおかた死んだのだろう。生きていれば何か消息《たより》のあるはずである。しかし死んだにしても、いつ死んだのか私は知らない。

        二十七

 私は芝居というものに余り親しみがない。ことに旧劇は解らない。これは古来からその方面で発達して来た演芸上の約束を知らないので、舞台の上に開展《かいてん》される特別の世界に、同化する能力が私に欠けているためだとも思う。しかしそればかりではない。私が旧劇を見て、最も異様に感ずるのは、役者が自然と不自然の間を、どっちつかずにぶらぶら歩いている事である。それが私に、中腰《ちゅうごし》と云ったような落ちつけない心持を引き起させるのも恐らく理の当然なのだろう。
 しかし舞台の上に子供などが出て来て、甲《かん》の高い声で、憐《あわ》れっぽい事などを云う時には、いかな私でも知らず知らず眼に涙が滲《にじ》み出る。そうしてすぐ、ああ騙《だま》されたなと後悔する。なぜあんなに安っぽい涙を零《こぼ》したのだろうと思う。
「どう考えても騙されて泣くのは厭《いや》だ」と私はある人に告げた。芝居好のその相手は、「それが先生の常態なのでしょう。平生涙を控《ひか》え目《め》にしているのは、かえってあなたのよそゆきじゃありませんか」と注意した。
 私はその説に不服だったので、いろいろの方面から向《むこう》を納得させようとしているうちに、話題がいつか絵画の方に滑《すべ》って行った。その男はこの間参考品として美術協会に出た若冲《じゃくちゅう》の御物《ぎょぶつ》を大変に嬉《うれ》しがって、その評論をどこかの雑誌に載せるとかいう噂《うわさ》であった。私はまたあの鶏の図がすこぶる気に入らなかったので、ここでも芝居と同じような議論が二人の間に起った。
「いったい君に画《え》を論ずる資格はないはずだ」と私はついに彼を罵倒《ばとう》した。するとこの一言《いちごん》が本《もと》になって、彼は芸術一元論を主張し出した。彼の主意をかいつまんで云うと、すべての芸術は同じ源《みなもと》から湧《わ》いて出るのだから、その内の一つさえうんと腹に入れておけば、他は自《おの》ずから解し得られる理窟《りくつ》だというのである。座にいる人のうちで、彼に同意するものも少なくなかった。
「じゃ小説を作れば、自然柔道も旨《うま》くなるかい」と私が笑談《じょうだん》半分に云った。
「柔道は芸術じゃありませんよ」と相手も笑いながら答えた。
 芸術は平等観から出立するのではない。よしそこから出立するにしても、差別観《さべつかん》に入《い》って始めて、花が咲くのだから、それを本来の昔へ返せば、絵も彫刻も文章も、すっかり無に帰してしまう。そこに何で共通のものがあろう。たとい有ったにしたところで、実際の役には立たない。彼我共通の具体的のものなどの発見もできるはずがない。
 こういうのがその時の私の論旨《ろんし》であった。そうしてその論旨はけっして充分なものではなかった。もっと先方の主張を取り入れて、周到な解釈を下《くだ》してやる余地はいくらでもあったのである。
 しかしその時座にいた一人《いちにん》が、突然私の議論を引き受けて相手に向い出したので、私も面倒だからついそのままにしておいた。けれども私の代りになったその男というのはだいぶ酔っていた。それで芸術がどうだの、文芸がどうだのと、しきりに弁ずるけれども、あまり要領を得た事は云わなかった。言葉|遣《づか》いさえ少しへべれけであった。初めのうちは面白がって笑っていた人達も、ついには黙ってしまった。
「じゃ絶交しよう」などと酔った男がしまいに云い出した。私は「絶交するなら外でやってくれ、ここでは迷惑だから」と注意した。
「じゃ外へ出て絶交しようか」と酔った男が相手に相談を持ちかけたが、相手が動かないので、とうとうそれぎりになってしまった。
 これは今年の元日の出来事である。酔った男はそれからちょいちょい来るが、その時の喧嘩《けんか》については一口も云わない。

        二十八

 ある人が私の家《うち》の猫を見て、「これは何代目の猫ですか」と訊《き》いた時、私は何気なく「二代目です」と答えたが、あとで考えると、二代目はもう通り越して、その実《じつ》三代目になっていた。
 初代は宿なしであったにかかわらず、ある意味からして、だいぶ有名になったが、それに引きかえて、二代目の生涯《しょうがい》は、主人にさえ忘れられるくらい、短命だった。私は誰がそれをどこから貰って来たかよく知らない。しかし手の掌《ひら》に載せれば載せられるような小さい恰好《かっこう》をして、彼がそこいら中《じゅう》這《は》い廻っていた当時を、私はまだ記憶している。この可憐な動物は、ある朝家のものが床を揚《あ》げる時、誤って上から踏み殺してしまった。ぐうという声がしたので、蒲団《ふとん》の下に潜《もぐ》り込《こ》んでいる彼をすぐ引き出して、相当の手当《てあて》をしたが、もう間に合わなかった。彼はそれから一日《いちんち》二日《ふつか》してついに死んでしまった。その後《あと》へ来たのがすなわち真黒な今の猫である。
 私はこの黒猫を可愛《かわい》がっても憎《にく》がってもいない。猫の方でも宅中《うちじゅう》のそのそ歩き廻るだけで、別に私の傍《そば》へ寄りつこうという好意を現わした事がない。
 ある時彼は台所の戸棚《とだな》へ這入って、鍋《なべ》の中へ落ちた。その鍋の中には胡麻《ごま》の油がいっぱいあったので、彼の身体《からだ》はコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下まで滲《し》み通《とお》って私をずいぶんな目に逢《あ》わせた。
 去年私の病気をする少し前に、彼は突然皮膚病に罹《かか》った。顔から額へかけて、毛がだんだん抜けて来る。それをしきりに爪で掻《か》くものだから、瘡葢《かさぶた》がぼろぼろ落ちて、痕《あと》が赤裸《あかはだか》になる。私はある日食事中この見苦しい様子を眺めて厭《いや》な顔をした。
「ああ瘡葢を零《こぼ》して、もし小供にでも伝染するといけないから、病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい」
 私は家《うち》のものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。昔《むか》し私の知っている西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰って可愛《かわい》がっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと云って、医者に頼んで殺して貰った事を、私はよく覚えていたのである。
「クロロフォームか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくって仕合せだろう」
 私は三四度《さんよたび》同じ言葉を繰《く》り返《かえ》して見たが、猫がまだ私の思う通りにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝てしまった。その間私はついに彼を見る機会をもたなかった。自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。
 十月に入《い》って、私はようやく起きた。そうして例のごとく黒い彼を見た。すると不思議な事に、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛が生《は》えかかっていた。
「おや癒《なお》るのかしら」
 私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでいた。すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
 私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁《いんねん》があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか私にはまるで解らない。

        二十九

 私は両親の晩年になってできたいわゆる末《すえ》ッ子《こ》である。私を生んだ時、母はこんな年歯《とし》をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰《く》り返《かえ》されている。
 単にそのためばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里にやってしまった。その里というのは、無論私の記憶に残っているはずがないけれども、成人の後《のち》聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世《とせい》にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。
 私はその道具屋の我楽多《がらくた》といっしょに、小さい笊《ざる》の中に入れられて、毎晩|四谷《よつや》の大通りの夜店に曝《さら》されていたのである。それをある晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見つけて、可哀想《かわいそう》とでも思ったのだろう、懐《ふところ》へ入れて宅《うち》へ連れて来たが、私はその夜どうしても寝つかずに、とうとう一晩中泣き続けに泣いたとかいうので、姉は大いに父から叱《しか》られたそうである。
 私はいつ頃《ごろ》その里から取り戻されたか知らない。しかしじきまたある家へ養子にやられた。それはたしか私の四つの歳であったように思う。私は物心のつく八九歳までそこで成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻るような仕儀となった。
 浅草から牛込へ遷《うつ》された私は、生れた家《うち》へ帰ったとは気がつかずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変らず彼らを御爺《おじい》さん、御婆《おばあ》さんと呼んで毫《ごう》も怪しまなかった。向《むこう》でも急に今までの習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。
 私は普通の末《すえ》ッ子《こ》のようにけっして両親から可愛《かわい》がられなかった。これは私の性質が素直《すなお》でなかったためだの、久しく両親に遠ざかっていたためだの、いろいろの原因から来ていた。とくに父からはむしろ苛酷《かこく》に取扱かわれたという記憶がまだ私の頭に残っている。それだのに浅草から牛込へ移された当時の私は、なぜか非常に嬉《うれ》しかった。そうしてその嬉しさが誰の目にもつくくらいに著るしく外へ現われた。
 馬鹿な私は、本当の両親を爺婆《じじばば》とのみ思い込んで、どのくらいの月日を空《くう》に暮らしたものだろう、それを訊《き》かれるとまるで分らないが、何でも或夜こんな事があった。
 私がひとり座敷に寝ていると、枕元の所で小さな声を出して、しきりに私の名を呼ぶものがある。私は驚ろいて眼を覚《さ》ましたが、周囲《あたり》が真暗《まっくら》なので、誰がそこに蹲踞《うずくま》っているのか、ちょっと判断がつかなかった。けれども私は小供だからただじっとして先方の云う事だけを聞いていた。すると聞いているうちに、それが私の家《うち》の下女の声である事に気がついた。下女は暗い中で私に耳語《みみこすり》をするようにこういうのである。――
「あなたが御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父《おとっ》さんと御母《おっか》さんなのですよ。先刻《さっき》ね、おおかたそのせいであんなにこっちの宅《うち》が好なんだろう、妙なものだな、と云って二人で話していらしったのを私が聞いたから、そっとあなたに教えて上げるんですよ。誰にも話しちゃいけませんよ。よござんすか」
 私はその時ただ「誰にも云わないよ」と云ったぎりだったが、心の中《うち》では大変嬉しかった。そうしてその嬉しさは事実を教えてくれたからの嬉しさではなくって、単に下女が私に親切だったからの嬉しさであった。不思議にも私はそれほど嬉しく思った下女の名も顔もまるで忘れてしまった。覚えているのはただその人の親切だけである。

        三十

 私がこうして書斎に坐《すわ》っていると、来る人の多くが「もう御病気はすっかり御癒《おなお》りですか」と尋ねてくれる。私は何度も同じ質問を受けながら、何度も返答に躊躇《ちゅうちょ》した。そうしてその極《きょく》いつでも同じ言葉を繰《く》り返《かえ》すようになった。それは「ええまあどうかこうか生きています」という変な挨拶《あいさつ》に異《こと》ならなかった。
 どうかこうか生きている。――私はこの一句を久しい間使用した。しかし使用するごとに、何だか不穏当《ふおんとう》な心持がするので、自分でも実はやめられるならばと思って考えてみたが、私の健康状態を云い現わすべき適当な言葉は、他《た》にどうしても見つからなかった。
 ある日T君が来たから、この話をして、癒《なお》ったとも云えず、癒らないとも云えず、何と答えて好いか分らないと語ったら、T君はすぐ私にこんな返事をした。
「そりゃ癒ったとは云われませんね。そう時々再発するようじゃ。まあもとの病気の継続なんでしょう」
 この継続という言葉を聞いた時、私は好い事を教えられたような気がした。それから以後は、「どうかこうか生きています」という挨拶《あいさつ》をやめて、「病気はまだ継続中です」と改ためた。そうしてその継続の意味を説明する場合には、必ず欧洲の大乱を引合《ひきあい》に出した。
「私はちょうど独乙《ドイツ》が聯合軍《れんごうぐん》と戦争をしているように、病気と戦争をしているのです。今こうやってあなたと対坐していられるのは、天下が太平になったからではないので、塹壕《ざんごう》の中《うち》に這入《はい》って、病気と睨《にら》めっくらをしているからです。私の身体《からだ》は乱世です。いつどんな変《へん》が起らないとも限りません」
 或人は私の説明を聞いて、面白そうにははと笑った。或人は黙っていた。また或人は気の毒らしい顔をした。
 客の帰ったあとで私はまた考えた。――継続中のものはおそらく私の病気ばかりではないだろう。私の説明を聞いて、笑談《じょうだん》だと思って笑う人、解らないで黙っている人、同情の念に駆《か》られて気の毒らしい顔をする人、――すべてこれらの人の心の奥には、私の知らない、また自分達さえ気のつかない、継続中のものがいくらでも潜《ひそ》んでいるのではなかろうか。もし彼らの胸に響くような大きな音で、それが一度に破裂したら、彼らははたしてどう思うだろう。彼らの記憶はその時もはや彼らに向って何物をも語らないだろう。過去の自覚はとくに消えてしまっているだろう。今と昔とまたその昔の間に何らの因果を認める事のできない彼らは、そういう結果に陥《おちい》った時、何と自分を解釈して見る気だろう。所詮《しょせん》我々は自分で夢の間《ま》に製造した爆裂弾を、思い思いに抱《いだ》きながら、一人残らず、死という遠い所へ、談笑しつつ歩いて行くのではなかろうか。ただどんなものを抱《だ》いているのか、他《ひと》も知らず自分も知らないので、仕合せなんだろう。
 私は私の病気が継続であるという事に気がついた時、欧洲の戦争もおそらくいつの世からかの継続だろうと考えた。けれども、それがどこからどう始まって、どう曲折して行くかの問題になると全く無知識なので、継続という言葉を解しない一般の人を、私はかえって羨《うらや》ましく思っている。

        三十一

 私がまだ小学校に行っていた時分に、喜《き》いちゃんという仲の好い友達があった。喜いちゃんは当時|中町《なかちょう》の叔父さんの宅《うち》にいたので、そう道程《みちのり》の近くない私の所からは、毎日会いに行く事が出来|悪《にく》かった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向うから来るにきまっていた。そうしてその来る所は、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんの許《もと》であった。
 喜いちゃんには父母《ちちはは》がないようだったが、小供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらく訊《き》いて見た事もなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんの所へ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっと後で聞いた話であるが、この喜いちゃんの御父《おとっ》さんというのは、昔《むか》し銀座の役人か何かをしていた時、贋金《にせがね》を造ったとかいう嫌疑《けんぎ》を受けて、入牢《じゅうろう》したまま死んでしまったのだという。それであとに取り残された細君が、喜いちゃんを先夫《せんぷ》の家へ置いたなり、松さんの所へ再縁したのだから、喜いちゃんが時々|生《うみ》の母に会いに来るのは当り前の話であった。
 何にも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、別段変な感じも起さなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけまわって遊ぶ頃に、彼の境遇などを考えた事はただの一度もなかった。
 喜いちゃんも私も漢学が好きだったので、解りもしない癖《くせ》に、よく文章の議論などをして面白がった。彼はどこから聴いてくるのか、調べてくるのか、よくむずかしい漢籍の名前などを挙《あ》げて、私を驚ろかす事が多かった。
 彼はある日私の部屋同様になっている玄関に上り込んで、懐《ふところ》から二冊つづきの書物を出して見せた。それは確《たしか》に写本であった。しかも漢文で綴《つづ》ってあったように思う。私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここを引《ひ》っ繰返《くりかえ》して見ていた。実は何が何だか私にはさっぱり解らなかったのである。しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと露骨な事をいう性質《たち》ではなかった。
「これは太田南畝《おおたなんぼ》の自筆なんだがね。僕の友達がそれを売りたいというので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」
 私は太田南畝という人を知らなかった。
「太田南畝っていったい何だい」
「蜀山人《しょくさんじん》の事さ。有名な蜀山人さ」
 無学な私は蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそう云われて見ると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と訊《き》いて見た。
「五十銭に売りたいと云うんだがね。どうだろう」
 私は考えた。そうして何しろ価切《ねぎ》って見るのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買っても好い」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
 喜いちゃんはこう云いつつ私から二十五銭受取っておいて、またしきりにその本の効能を述べ立てた。私には無論その書物が解らないのだから、それほど嬉《うれ》しくもなかったけれども、何しろ損はしないだろうというだけの満足はあった。私はその夜|南畝莠言《なんぽしゆうげん》――たしかそんな名前だと記憶しているが、それを机の上に載せて寝た。

        三十二

 翌日《あくるひ》になると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。
「君|昨日《きのう》買って貰った本の事だがね」
 喜いちゃんはそれだけ云って、私の顔を見ながらぐずぐずしている。私は机の上に載せてあった書物に眼を注いだ。
「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」
「実はあすこの宅《うち》の阿爺《おやじ》に知れたものだから、阿爺が大変怒ってね。どうか返して貰って来てくれって僕に頼むんだよ。僕も一遍君に渡したもんだから厭《いや》だったけれども仕方がないからまた来たのさ」
「本を取りにかい」
「取りにって訳でもないけれども、もし君の方で差支《さしつかえ》がないなら、返してやってくれないか。何しろ二十五銭じゃ安過ぎるっていうんだから」
 この最後の一言《いちごん》で、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやり潜《ひそ》んでいた不快、――不善の行為から起る不快――を判然《はっきり》自覚し始めた。そうして一方では狡猾《ずる》い私を怒《いか》ると共に、一方では二十五銭で売った先方を怒った。どうしてこの二つの怒りを同時に和《やわ》らげたものだろう。私は苦《にが》い顔をしてしばらく黙っていた。
 私のこの心理状態は、今の私が小供の時の自分を回顧して解剖するのだから、比較的|明瞭《めいりょう》に描き出されるようなものの、その場合の私にはほとんど解らなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上|解《わか》るはずがなかった。括弧《かっこ》の中でいうべき事かも知れないが、年齢《とし》を取った今日《こんにち》でも、私にはよくこんな現象が起ってくる。それでよく他《ひと》から誤解される。
 喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安過ぎるんだとさ」と云った。
 私はいきなり机の上に載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に突き出した。
「じゃ返そう」
「どうも失敬した。何しろ安公《やすこう》の持ってるものでないんだから仕方がない。阿爺《おやじ》の宅《うち》に昔からあったやつを、そっと売って小遣《こづかい》にしようって云うんだからね」
 私はぷりぷりして何とも答えなかった。喜いちゃんは袂《ふところ》から二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を触れようともしなかった。
「その金なら取らないよ」
「なぜ」
「なぜでも取らない」
「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」
 私はたまらなくなった。
「本は僕のものだよ。いったん買った以上は僕のものにきまってるじゃないか」
「そりゃそうに違いない。違いないが向《むこう》の宅《うち》でも困ってるんだから」
「だから返すと云ってるじゃないか。だけど僕は金を取る訳がないんだ」
「そんな解らない事を云わずに、まあ取っておきたまいな」
「僕はやるんだよ。僕の本だけども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったら好いじゃないか」
「そうかそんなら、そうしよう」
 喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。そうして私は何の意味なしに二十五銭の小遣を取られてしまったのである。

        三十三

 世の中に住む人間の一人《いちにん》として、私は全く孤立して生存する訳に行かない。自然|他《ひと》と交渉の必要がどこからか起ってくる。時候の挨拶《あいさつ》、用談、それからもっと込《こ》み入《い》った懸合《かけあい》――これらから脱却する事は、いかに枯淡な生活を送っている私にもむずかしいのである。
 私は何でも他《ひと》のいう事を真《ま》に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧《かえり》みないとすると、時々飛んでもない人から騙《だま》される事があるだろう。その結果|蔭《かげ》で馬鹿にされたり、冷評《ひや》かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
 それでは他はみな擦《す》れ枯《か》らしの嘘吐《うそつき》ばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も借《か》さず、心も傾《かたむ》けず、或時はその裏面に潜《ひそ》んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢《かしこ》い人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手《しょて》から仮定して、かからなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。
 もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶《くもん》が起る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善《よ》い人を少しでも傷《きずつ》けたくない。そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。
 この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常にそこに蟠《わだか》まっている。
 私の僻《ひがみ》を別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦《にが》い記憶をもっている。同時に、先方の云う事や為《す》る事を、わざと平たく取らずに、暗《あん》にその人の品性に恥を掻《か》かしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
 他《ひと》に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧《あいまい》な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀《まれ》には相手に彼相当な待遇を与えたりしている。
 しかし今までの経験というものは、広いようで、その実《じつ》はなはだ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮を廻《めぐ》らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。
 それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極《きわ》めてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それを確《たしか》める機会をもたない事が多い。そこにまた私の疑いが始終《しじゅう》靄《もや》のようにかかって、私の心を苦しめている。
 もし世の中に全知全能《ぜんちぜんのう》の神があるならば、私はその神の前に跪《ひざま》ずいて、私に毫髪《ごうはつ》の疑《うたがい》を挟《さしはさ》む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶《くもん》から解脱《げだつ》せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹《れいろうとうてつ》な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙《だま》されるか、あるいは疑い深くて人を容《い》れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充《み》ちている。もしそれが生涯《しょうがい》つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。

        三十四

 私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」というから、「ああやった」と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。
 それまで自分の云った事について、その方面の掛念《けねん》をまるでもっていなかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。
「君はどうしてそんな事を知ってるの」
 この疑問に対する彼の説明は簡単であった。親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に関係のある或|家《うち》の青年が、その学校に通っていて、当日私の講演を聴いた結果を、何だか解らないという言葉で彼に告げたのである。
「いったいどんな事を講演なすったのですか」
 私は席上で、彼のためにまたその講演の梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1-86-3]《こうがい》を繰《く》り返《かえ》した。
「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」
「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」
 私には断乎《だんこ》たるこの返事がいかにも不思議に聞こえた。しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、止《よ》せばよかったという後悔の念であった。自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせ解りゃしません」という簡単な彼の一言《いちごん》で、みごとに粉砕《ふんさい》されてしまって見ると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。
 これはもう一二年前の古い話であるが去年の秋またある学校で、どうしても講演をやらなければ義理が悪い事になって、ついにそこへ行った時、私はふと私を後悔させた前年を思い出した。それに私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を下りる間際《まぎわ》にこう云った。――
「多分誤解はないつもりですが、もし私の今御話したうちに、判然《はっきり》しないところがあるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。できるだけあなたがたに御納得《ごなっとく》の行くように説明して上げるつもりですから」
 私のこの言葉が、どんな風に反響をもたらすだろうかという予期は、当時の私にはほとんど無かったように思う。しかしそれから四五日|経《た》って、三人の青年が私の書斎に這入《はい》って来たのは事実である。そのうちの二人は電話で私の都合を聞き合せた。一人は鄭寧《ていねい》な手紙を書いて、面会の時間を拵《こしら》えてくれと注文して来た。
 私は快《こころ》よくそれらの青年に接した。そうして彼らの来意を確《たし》かめた。一人の方は私の予想通り、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人の方は、案外にも彼らの友人がその家庭に対して採《と》るべき方針についての疑義を私に訊《き》こうとした。したがってこれは私の講演を、どう実社会に応用して好いかという彼らの目前に逼《せま》った問題を持って来たのである。
 私はこれら三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明したつもりである。それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。「あなたの講演は解らなかったそうです」と云われた時よりも遥《はるか》に満足なのである。
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〔この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。だからその手紙はみな好意に充《み》ちていた。なぜ一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を附加して、私の不明を謝し、併《あわ》せて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思う旨《むね》を公けにするのである。〕
[#ここで字下げ終わり]

        三十五

 私は小供の時分よく日本橋の瀬戸物町《せとものちょう》にある伊勢本《いせもと》という寄席《よせ》へ講釈を聴きに行った。今の三越の向側《むこうがわ》にいつでも昼席の看板がかかっていて、その角《かど》を曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
 この席は夜になると、色物《いろもの》だけしかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、席数からいうと一番多く通《かよ》った所のように思われる。当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便が好かったからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。
 これも今からふり返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起させるようにできていた。高座《こうざ》の右側《みぎわき》には帳場格子《ちょうばごうし》のような仕切《しきり》を二方に立て廻して、その中に定連《じょうれん》の席が設けてあった。それから高座の後《うしろ》が縁側《えんがわ》で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜《なな》めに井桁《いげた》の上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余分の地面を取り込んでいた。その庭を東に受けて離れ座敷のような建物も見えた。
 帳場格子のうちにいる連中は、時間が余って使い切れない有福な人達なのだから、みんな相応な服装《なり》をして、時々|呑気《のんき》そうに袂《たもと》から毛抜《けぬき》などを出して根気よく鼻毛を抜いていた。そんな長閑《のどか》な日には、庭の梅の樹《き》に鶯《うぐいす》が来て啼《な》くような気持もした。
 中入《なかいり》になると、菓子を箱入のまま茶を売る男が客の間へ配って歩くのがこの席の習慣になっていた。箱は浅い長方形のもので、まず誰でも欲しいと思う人の手の届く所に一つと云った風に都合よく置かれるのである。菓子の数は一箱に十ぐらいの割だったかと思うが、それを食べたいだけ食べて、後からその代価を箱の中に入れるのが無言の規約になっていた。私はその頃この習慣を珍らしいもののように興がって眺めていたが、今となって見ると、こうした鷹揚《おうよう》で呑気《のんき》な気分は、どこの人寄場《ひとよせば》へ行っても、もう味わう事ができまいと思うと、それがまた何となく懐《なつか》しい。
 私はそんなおっとりと物寂《ものさ》びた空気の中で、古めかしい講釈というものをいろいろの人から聴いたのである。その中には、すととこ[#「すととこ」に傍点]、のんのん[#「のんのん」に傍点]、ずいずい[#「ずいずい」に傍点]、などという妙な言葉を使う男もいた。これは田辺南竜《たなべなんりゅう》と云って、もとはどこかの下足番であったとかいう話である。そのすととこ[#「すととこ」に傍点]、のんのん[#「のんのん」に傍点]、ずいずい[#「ずいずい」に傍点]ははなはだ有名なものであったが、その意味を理解するものは一人もなかった。彼はただそれを軍勢の押し寄せる形容詞として用いていたらしいのである。
 この南竜はとっくの昔に死んでしまった。そのほかのものもたいていは死んでしまった。その後《ご》の様子をまるで知らない私には、その時分私を喜こばせてくれた人のうちで生きているものがはたして何人あるのだか全く分らなかった。
 ところがいつか美音会の忘年会のあった時、その番組を見たら、吉原の幇間《たいこもち》の茶番だの何だのが列《なら》べて書いてあるうちに、私はたった一人の当時の旧友を見出した。私は新富座へ行って、その人を見た。またその声を聞いた。そうして彼の顔も咽喉《のど》も昔とちっとも変っていないのに驚ろいた。彼の講釈も全く昔の通りであった。進歩もしない代りに、退歩もしていなかった。廿世紀のこの急劇な変化を、自分と自分の周囲に恐ろしく意識しつつあった私は、彼の前に坐りながら、絶えず彼と私とを、心のうちで比較して一種の黙想に耽《ふけ》っていた。
 彼というのは馬琴《ばきん》の事で、昔|伊勢本《いせもと》で南竜の中入前をつとめていた頃には、琴凌《きんりょう》と呼ばれた若手だったのである。

        三十六

 私の長兄はまだ大学とならない前の開成校《かいせいこう》にいたのだが、肺を患《わずら》って中途で退学してしまった。私とはだいぶ年歯《とし》が違うので、兄弟としての親しみよりも、大人《おとな》対小供としての関係の方が、深く私の頭に浸《し》み込《こ》んでいる。ことに怒《おこ》られた時はそうした感じが強く私を刺戟《しげき》したように思う。
 兄は色の白い鼻筋の通った美くしい男であった。しかし顔だちから云っても、表情から見ても、どこかに峻《けわ》しい相《そう》を具えていて、むやみに近寄れないと云った風の逼《せま》った心持を他《ひと》に与えた。
 兄の在学中には、まだ地方から出て来た貢進生《こうしんせい》などのいる頃だったので、今の青年には想像のできないような気風が校内のそこここに残っていたらしい。兄は或上級生に艶書《ふみ》をつけられたと云って、私に話した事がある。その上級生というのは、兄などよりもずっと年歯上《としうえ》の男であったらしい。こんな習慣の行なわれない東京で育った彼は、はたしてその文《ふみ》をどう始末したものだろう。兄はそれ以後学校の風呂でその男と顔を見合せるたびに、きまりの悪い思をして困ったと云っていた。
 学校を出た頃の彼は、非常に四角四面で、始終《しじゅう》堅苦しく構えていたから、父や母も多少彼に気をおく様子が見えた。その上病気のせいでもあろうが、常に陰気臭《いんきくさ》い顔をして、宅《うち》にばかり引込《ひっこ》んでいた。
 それがいつとなく融《と》けて来て、人柄《ひとがら》が自《おの》ずと柔らかになったと思うと、彼はよく古渡唐桟《こわたりとうざん》の着物に角帯《かくおび》などを締《し》めて、夕方から宅を外にし始めた。時々は紫色《むらさきいろ》で亀甲型《きっこうがた》を一面に摺《す》った亀清《かめせい》の団扇《うちわ》などが茶の間に放《ほう》り出《だ》されるようになった。それだけならまだ好いが、彼は長火鉢《ながひばち》の前へ坐《すわ》ったまま、しきりに仮色《こわいろ》を遣《つか》い出した。しかし宅のものは別段それに頓着《とんじゃく》する様子も見えなかった。私は無論平気であった。仮色《こわいろ》と同時に藤八拳《とうはちけん》も始まった。しかしこの方《ほう》は相手が要《い》るので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。私は真面目《まじめ》な顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。
 この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、待夜《たいや》も済んで、まず一片付《ひとかたづき》というところへ一人の女が尋ねて来た。三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事を訊《き》いた。
「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
 兄は病気のため、生涯《しょうがい》妻帯しなかった。
「いいえしまいまで独身で暮らしていました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾《わたくし》のようなものは、どうせ旦那《だんな》がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」
 兄の遺骨の埋《う》められた寺の名を教《おす》わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。
 私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆《おばあ》さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺《しわ》が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女《かのおんな》が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛《つら》い悲しい事かも知れない。

        三十七

 私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺《のこ》して行ってくれなかった。
 母の名は千枝《ちえ》といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐《なつ》かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
 母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿《たど》って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
 私の知っている母は、常に大きな眼鏡《めがね》をかけて裁縫《しごと》をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球《たま》の大きさが直径《さしわたし》二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこし顋《あご》を襟元《えりもと》へ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間《いっけん》の襖《ふすま》を想《おも》い出《だ》す。古びた張交《はりまぜ》の中《うち》に、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》なども鮮《あざ》やかに眼に浮んで来る。
 夏になると母は始終《しじゅう》紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》を着て、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯を締《し》めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装《なり》で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻《えんばな》へ出て、兄と碁《ご》を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄《ずがら》として、私の胸に収めてある唯一《ゆいいつ》の記念《かたみ》なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子《かたびら》を着て、同じ帯を締《し》めて坐っているのである。
 私はついぞ母の里へ伴《つ》れて行かれた覚《おぼえ》がないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めて訊《き》きたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやり霞《かす》んで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四《よ》ツ谷《や》大番町《おおばんまち》で生れたという話だけは確《たし》かに聞いていた。宅《うち》は質屋であったらしい。蔵が幾戸前《いくとまえ》とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもう潰《つぶ》れてしまったのだろう。
 母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気《おぼろげ》に覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよく弁《わきま》えない今の私には、ただ淡《あわ》い薫《かおり》を残して消えた香《こう》のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
 しかしそう云えば、私は錦絵《にしきえ》に描《か》いた御殿女中の羽織っているような華美《はで》な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏《もみうら》を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍《ぬい》も交《まじ》っていた。これは恐らく当時の裲襠《かいどり》とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。
 それのみか私はこの美くしい裲襠がその後《ご》小掻巻《こがいまき》に仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。

        三十八

 私が大学で教《おす》わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別《せんべつ》を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵《たかまきえ》の緋《ひ》の房《ふさ》の付いた美しい文箱《ふばこ》を取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆を執《と》って見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影《おもかげ》を濃《こまや》かに宿しているように思われてならない。母は生涯《しょうがい》父から着物を拵《こしら》えて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度《したく》をして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》も、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥《たんす》の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊《き》いて見たい。
 悪戯《いたずら》で強情な私は、けっして世間の末《すえ》ッ子《こ》のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中《うちじゅう》で一番私を可愛《かわい》がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中《うち》には、いつでも籠《こも》っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床《ゆか》しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢《かし》こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていた。
「御母《おっか》さんは何にも云わないけれども、どこかに怖《こわ》いところがある」
 私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひっぱりだ》してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融《と》けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際《きわ》どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切《とぎ》れ途切れに残っている彼女の面影《おもかげ》をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴《ほうふつ》する訳に行かない。その途切《とぎれ》途切に残っている昔さえ、半《なか》ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは掴《つか》めない。
 或時私は二階へ上《あが》って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経《た》っても留らなかったり、あるいは仰向《あおむき》に眺めている天井《てんじょう》がだんだん上から下りて来て、私の胸を抑《おさ》えつけたり、または眼を開《あ》いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体《からだ》だけが睡魔の擒《とりこ》となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
 私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣《つか》ったのか、その辺も明瞭《めいりょう》でないけれども、小供の私にはとても償《つぐな》う訳に行かないので、気の狭い私は寝ながら大変苦しみ出した。そうしてしまいに大きな声を揚《あ》げて下にいる母を呼んだのである。
 二階の梯子段《はしごだん》は、母の大眼鏡と離す事のできない、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》の張交《はりまぜ》にしてある襖《ふすま》の、すぐ後《うしろ》についているので、母は私の声を聞きつけると、すぐ二階へ上って来てくれた。私はそこに立って私を眺めている母に、私の苦しみを話して、どうかして下さいと頼んだ。母はその時微笑しながら、「心配しないでも好いよ。御母《おっか》さんがいくらでも御金を出して上げるから」と云ってくれた。私は大変|嬉《うれ》しかった。それで安心してまたすやすや寝てしまった。
 私はこの出来事が、全部夢なのか、または半分だけ本当なのか、今でも疑っている。しかしどうしても私は実際大きな声を出して母に救を求め、母はまた実際の姿を現わして私に慰藉《いしゃ》の言葉を与えてくれたとしか考えられない。そうしてその時の母の服装《なり》は、いつも私の眼に映る通り、やはり紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》に幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯だったのである。

        三十九

 今日は日曜なので、小供が学校へ行かないから、下女も気を許したものと見えて、いつもより遅く起きたようである。それでも私の床を離れたのは七時十五分過であった。顔を洗ってから、例の通り焼麺麭《トースト》と牛乳と半熟の鶏卵《たまご》を食べて、厠《かわや》に上《のぼ》ろうとすると、あいにく肥取《こいとり》が来ているので、私はしばらく出た事のない裏庭の方へ歩を移した。すると植木屋が物置の中で何か片づけものをしていた。不要の炭俵を重ねた下から威勢の好い火が燃えあがる周囲に、女の子が三人ばかり心持よさそうに煖を取っている様子が私の注意を惹《ひ》いた。
「そんなに焚火《たきび》に当ると顔が真黒になるよ」と云ったら、末の子が、「いやあーだ」と答えた。私は石垣の上から遠くに見える屋根瓦《やねがわら》の融《と》けつくした霜《しも》に濡《ぬ》れて、朝日にきらつく色を眺めたあと、また家《うち》の中へ引き返した。
 親類の子が来て掃除《そうじ》をしている書斎の整頓するのを待って、私は机を縁側《えんがわ》に持ち出した。そこで日当りの好い欄干《らんかん》に身を靠《も》たせたり、頬杖《ほおづえ》を突いて考えたり、またしばらくはじっと動かずにただ魂を自由に遊ばせておいてみたりした。
 軽い風が時々|鉢植《はちうえ》の九花蘭《きゅうからん》の長い葉を動かしにきた。庭木の中で鶯《うぐいす》が折々下手な囀《さえず》りを聴かせた。毎日|硝子戸《ガラスど》の中に坐《すわ》っていた私は、まだ冬だ冬だと思っているうちに、春はいつしか私の心を蕩揺《とうよう》し始めたのである。
 私の冥想《めいそう》はいつまで坐っていても結晶しなかった。筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、あれにしようか、これにしようかと迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだという呑気《のんき》な考も起ってきた。しばらくそこで佇《たた》ずんでいるうちに、今度は今まで書いた事が全く無意味のように思われ出した。なぜあんなものを書いたのだろうという矛盾が私を嘲弄《ちょうろう》し始めた。ありがたい事に私の神経は静まっていた。この嘲弄の上に乗ってふわふわと高い冥想《めいそう》の領分に上《のぼ》って行くのが自分には大変な愉快になった。自分の馬鹿な性質を、雲の上から見下《みおろ》して笑いたくなった私は、自分で自分を軽蔑《けいべつ》する気分に揺られながら、揺籃《ようらん》の中で眠《ねむ》る小供に過ぎなかった。
 私は今まで他《ひと》の事と私の事をごちゃごちゃに書いた。他の事を書くときには、なるべく相手の迷惑にならないようにとの掛念《けねん》があった。私の身の上を語る時分には、かえって比較的自由な空気の中に呼吸する事ができた。それでも私はまだ私に対して全く色気を取り除き得る程度に達していなかった。嘘《うそ》を吐《つ》いて世間を欺《あざむ》くほどの衒気《げんき》がないにしても、もっと卑《いや》しい所、もっと悪い所、もっと面目を失するような自分の欠点を、つい発表しずにしまった。聖オーガスチンの懺悔《ざんげ》、ルソーの懺悔、オピアムイーターの懺悔、――それをいくら辿《たど》って行っても、本当の事実は人間の力で叙述できるはずがないと誰かが云った事がある。まして私の書いたものは懺悔ではない。私の罪は、――もしそれを罪と云い得るならば、――すこぶる明るいところからばかり写されていただろう。そこに或人は一種の不快を感ずるかも知れない。しかし私自身は今その不快の上に跨《また》がって、一般の人類をひろく見渡しながら微笑しているのである。今までつまらない事を書いた自分をも、同じ眼で見渡して、あたかもそれが他人であったかの感を抱《いだ》きつつ、やはり微笑しているのである。
 まだ鶯《うぐいす》が庭で時々鳴く。春風が折々思い出したように九花蘭《きゅうからん》の葉を揺《うご》かしに来る。猫がどこかで痛《いた》く噛《か》まれた米噛《こめかみ》を日に曝《さら》して、あたたかそうに眠っている。先刻《さっき》まで庭で護謨風船《ゴムふうせん》を揚《あ》げて騒いでいた小供達は、みんな連れ立って活動写真へ行ってしまった。家も心もひっそりとしたうちに、私は硝子戸《ガラスど》を開け放って、静かな春の光に包まれながら、恍惚《うっとり》とこの稿を書き終るのである。そうした後で、私はちょっと肱《ひじ》を曲げて、この縁側《えんがわ》に一眠り眠るつもりである。
[#地から1字上げ](二月十四日)



底本:「夏目漱石全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63)年7月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:大野晋
1999年8月22日公開
2004年2月26日修正
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