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自分のこと
南部修太郎

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(例)※[#「※」は、「嘘」の「くちへん」が「ごんべん」、第4水準2-88-74]
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 明治二十五年の秋、仙臺で生れた。このことは姓と結び合せて自分を宮城縣人と思ふ人もあるらしいが、たゞ生誕の地といふだけで、三ケ月後には仙臺を去り、それから土木技師である父の轉勤につれて東京・神戸・熊本・博多・長崎と轉住した。長崎には住むこと七年、小學校課程の大半をこゝで過し、少年時代の追想の懷しい町である。明治三十八年の春、また父の轉勤とともに東京に上り、赤坂・麹町・四谷に住み移つたが、麻布に家が極まつてからもう二十年になる。そして、この家で芝中學校時代、慶應義塾文科時代、三年間の「三田文學」編輯人時代を經てから文筆生活に入り、結婚し二人の子の父となる現在に及んだ。
 父が謹直な技術家で、而も着實周到な處世家であるのと大體幸運に惠まれた家であるために、過去の家庭生活は極めて平穩無事で、多くの作家達が持つやうな世間的、人間的辛酸は殆ど知らなかつた。まア我儘な、世間知らずのお坊ちやん育ち、それに異性との苦勞もさして知らないのだから、作家的に言へば甚だ貧弱な半生の持主である。
 ただ體のことでは世間的、人間的な苦酸を十分埋め合せるほど苦勞した。神戸にゐた三歳の時器官支カタルがこじれて喘息が持病になり、とりわけ少年期から青年期にかけては三日おきぐらゐにくるその發作にみじめなほど惱まされた。その上十六歳の時には重いチブスで八十日近く入院して瀕死の境から救はれた。十七歳から十八歳へかけては肺炎カタルで少量の喀血までした。重い流行感冐には三四度かかつたが、初めての二十七歳の時には非常な惡性で奇蹟的に命が助かつた。今もなほ時時喘息の發作がくるし、偏頭痛も癖だが、近頃は誰もそんな過去を※[#「※」は、「嘘」の「くちへん」が「ごんべん」、第4水準2-88-74]だと思ふほど表面は丈夫らしく見える。結局、醫者と藥と病床と病院とで暮してしまつたやうな過去半生。それが一方では自分を内面的にし、強情で辛抱強い性質を作り、自然と文筆生活に向はせるやうな素因となつたのだ。
 初めに書いたやうに郷土といふものを持たず、いろいろ地方を住み移つた外に、喘息には土地の變化が一番いいために旅行は可成りした。日本の内地は殆ど足跡あまねく、支那も滿州からはひつて南北の旅を樂しんだ。外に寫眞、音樂、園藝などと各種の趣味をあさつたが、勝負事にも相當に感興を持つた方で、撞球は二十四五歳の頃百五十點[#「點」は底本では「黠」と誤り]突いた。近頃熱心なのは將棋で菊池寛二段の飛香落とどうやら戰へる。麻雀も可成り好きで先頃四段をもらつたが、運符天符の麻雀技の段位などはあてにならぬ。病弱で野外スポオツはまるで駄目だが、水泳だけは案外達者である。但し見る方では大なる蹴球、野球のフアン。
 この四五年、自分の作的境地に自信を失ひ、懷疑否定的氣分に陷るとともに創作力はまるで沈衰してゐる。が、近頃は格別あせつて書かうとも思はず、無理に書いたところでいいものが書けようとも思つてゐない。まあぼちぼち行けといふほどの心持である。そして、もし少し澁味のかかつた年頃にでもなつたら、ちつと大袈裟だが、俯仰天地に恥ぢざるよい[#「よい」に傍点]ものが一つや二つは書けるだらうと夢見てゐる。(昭五・一・二〇)
 [#以下太字]現住所 麻布區新龍土町一二



底本:「新進傑作小説全集月報第七號」(南部修太郎集・石濱金作集付録)平凡社
   1930(昭和5)年2月15日発行
入力:小林徹
校正:伊藤時也
2000年8月7日公開
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