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生前身後の事
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)瘠我慢《やせがまん》

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(例)その他門下|各々《おのおの》英材が

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(例)いろ/\
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 小生も本年数え年五十になった、少年時代には四十五十といえばもうとてもおじいさんのように思われたが、自分が経来って見るとその時分の子供心と大した変らない、ちっとも年をとった気にはなれない、故人の詩などを見ると四十五十になってそろそろ悲観しかけた調子が随分現われて来るけれども、余はちっとも自分では老いたりという気がしないのみならず、それからそれへと仕事が出て来てどうしてどうしてこれからが本当の仕事ではないか、と、思われる事ばかりだ、瘠我慢《やせがまん》にいうのではない、自分は五十になって老いたりという気がしないのみか若いという気もしない、子供の時と特別に変ったようにも思われない、今の自分としては殆んど年齢を超越してしまっている。
 これは一つは自分が未《いま》だ嘗《かつ》て家庭というものを持たず、自分の肉体の分身に対する愛情という経験が無いというのも一つの理由であるかもしれない、何れにしても自分はまだ死に直面しているという気分は毛頭ないけれども、ここに五十になった紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念の意味で少々死後のことを書いて置いて万々一の用心にし、心のこりを少しでも少なくして置きたいものと思うことは無用でもあるまい。
 利休が旺《さか》んな時代に、これも並び称された無量居士という隠士は死の直前に於て、それまでに書いた自分の筆蹟類をすっかり買い集めてそれを積み上げて火をつけて焼き亡ぼして往生したということだが、自分もそういうことが出来れば非常に幸だと思っているが、そういうことは出来ない、事と次第によっては死んだ後こそ愈々《いよいよ》世間の口が煩さくなるようになるかも知れぬ、そこで文字に就いては死んだ後までも相当の心遣いを残して置かなければならないことは、さてさて業である。
 そこで自分は遺言のつもりで申し遺して置きたいことがある、文字についてばかりではない、自分の有形無形に遺される処のものに就いてここに少しばかり書いて置きたいものだ。

 第一 自分の著作は今も全部統一されているといってよろしいから、このままでいつまでも独立統一した出版所の手によって進行せしめて行きたい、それより来る収利については相当に分配して行きたいものだ、必ずしも親類身寄というものでなくてもよろしい、最もよく著者の著作を理解するものによりて保護存養せしめて貰って行けば結構だが、遠い将来のことは是非もないが、国家が著作権或は登録権を保護する限りそうして行って貰いたいものである。

 第二 著作に伴ういろいろの興行権は著者一代限り、如何なる事情ありとも他に許可しないこと、出版は直接に著作の精神を読んで貰うことが出来るが、興行複製となると著者の目《ま》のあたりの監督がない限り著作の精神とまるっきり変ったものが出来る憂いがあるから、これは出来得る限りの手段を尽して永久に謝絶禁断してしまいたい事。

 第三 余の蔵書遺物等はすべて大菩薩峠紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念館に永久に保存して貰うのが当然だがそれには紀念館を法人にするとか、多くの維持資本を置くとかしなければならないし、それが出来たところで日本の国情では個人や民衆の力ではなかなか管理が六カ敷かろうから、もし紀念館も解散が有効であると見るならば相当の人の評議をもって解散をしても差支えないこと、解散の評議員としては隣人座談会へ常に出席して下さる諸君をお頼み申すがよろしいと思う。

 第四 蔵書は紀念館に保存するが不安ならば一まとめにして帝国図書館に寄附して貰いたい、帝国図書館で相当の好意を以て受付けてくれれば結構だが、受付けてくれない時は誰か有志家に一纏《ひとまと》めにして引取って貰うこと、その場合は外国人でも苦しくない、それも然るべき人が見出せない時はすっかり売り払って差支えないこと。

 第五 大菩薩峠をはじめ著者の自筆原稿も右に準じて処分をするがよろしいこと。

 第六 かりに若《も》し小生に多少の動産不動産があったとしてその場合は半額を余の親族のもので縁の順序によって分つがよろしい、その半額は可然《しかるべく》公共的の事業に使用するがよろしい、尚お配分方法に就いて余が書きのこして置いた時はそれに従って貰うべきこと、余には親類身寄りだからと云って特別に厚くしなければならないとは思っていない、然し多少に不拘《かかわらず》これ等の配分方法について醜い紛議等が生ずるのは不本位千万だから、矢張り隣人座談会へ常々出席の諸君の評議によって裁断して貰うのがよろしいと思う、これ等の諸君のうちから委員を選挙でもして貰って一切の処分をその人達に任せたら、どうかと思う、親類家族の人々よりも余は寧ろそういう方々に処分方の権を依頼したいものだと思っている。

 第七 余は死亡した時も格別広告や通知をして貰わないでよろしい、知った人だけが集って夜分こっそりとやってもらいたい、新聞雑誌に写真や記事を出すことは一切お断りするがよろしい、葬儀の宗旨は何でもよろしい、隣人葬とでもいうことにしていただきたい。

 第八 石碑、銅像、紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念碑の類は一切やめて、ただ大菩薩峠の上あたりへ「中里介山居士之墓」とでも記した石を一つ押し立てればよろしい、併し遺骸はなるべくゆったりとした構造の丈夫な寝棺に入れて、仰向けに寝かしたままゆったりと葬って貰いたい、穴へは多少金をかけてもよろしいから石造か何かにして置いて棺もその中へ十分ゆとりのあるように収めて貰い都合によっては入口をつけて制限的に棺側まで出入の出来るようにして貰いたいものだ、そうにするには棺も外部を石造か金属性で被《おお》わなければならないかもしれないし、棺の中にも何か防腐用剤を詰めて置く必要が出来るかもしれないが、かなり贅沢《ぜいたく》で費用がかかるかもしれないけれども自分に多少遺財がある限りこれは実行して貰いたい、墓標葬式等の費用は極度に切り詰めてもいいから、墓の内部だけは余裕綽々たるものにして置いて貰いたい、併し基督《キリスト》教式でするように死んだあとの面《かお》を見せて廻す事は厳禁する、棺の中へ入れてしまった以上は絶対に人に見せない事、要するに火葬その他肉体を消滅に帰せしむる方法は一切これを忌避し、肉体をどこまでも尊重してゆったりと据《す》えて置いて貰い、何時息を吹き返しても、さしつかえの無いようにして置いて貰いたいこと、これは戯れに云うのではない、どうも自分は死ぬのと眠るのとが同じように思われてならない、死んでも呼吸だけはしているように思われてならない、そこで特にこのことを御依頼して置くのである。

 第九 右の遺骸安置の場所は大菩薩峠の上あたりに越したことはなかろうけれども、あそこまで担ぎ上げるのが難儀とあらばその麓《ふもと》あたりのなるべく人家に遠い処でもよろしい、故郷の地は断じていけない、若し必要があるならば、頭髪でも少し切って故郷には届けてやるがよろしい。

 第十 紀念館の所在地も現在のは全部取りこわし或いは移転してもし小さくとも保存するならば東京附近、明治神宮あたりの地があらば幸、従来の地はそのままにして木を植えて置くこと。

     演劇と我(1)

 妙な廻り合せで余輩は演劇というものに思いの外縁がある、世の中に何が華々しい職業だといって演劇ほどの華々しい仕事はあるまい、ところがこっちは派手を嫌うこと、世間へ面出《かおだ》しをすることを嫌がるに於ては無類の男である、それがつながり連がって行くというのも因縁であろう、さて、この度もまた大菩薩峠の形訳上演ということになった、そこで聊《いささ》か劇に就いての繰り言をこの機会に少々並べて後日の記念に備えて置きたいものだと思う。
 抑《そもそ》も余が演劇に本式に関係を持ち出したのはたしか二十四五歳の時、本郷座の「高野の義人」を紀元として見るがよかろう、この時は余は都新聞にいて誰も小説で相当の成功を見ようとは思わなかったのが「高野の義人」が都新聞紙上に連載されて相当の好成績を示していた時分のことだ、当時本郷座は新派の牙城であって巨頭が皆ここに集って歌舞伎の俳優と相対し、天下を二分していたのだが、一時は歌舞伎即ち旧派を圧倒した時代もあったのだが、その時分になるとそれも聊か下火になって毎回どうも思わしからぬ形勢であったのだ、本郷座にも俳優といえば高田実があり、伊井蓉峯があり、藤沢浅次郎があり、河合武雄があり、喜多村緑郎があり、深沢恒造がありその他門下|各々《おのおの》英材が満ち充ちて役者に不足はなかったのだが脚本に全く欠乏していたのである、というのは、不如帰《ほととぎす》でもなし、乳姉妹でもなし、魔風恋風でもなし、新派のやるべきものはやり尽して仝《おな》じ型で鼻についてしまったのだ、脚本家として佐藤紅緑氏が大いに成功もし努めもしたけれどもそれとても隻手をもって無限の供給に堪えきれなくなった俳優の人材に不足はないけれども脚本飢饉の為に新派は衰滅の道を取ろうとしていた時であった、「高野の義人」の時も佐藤紅緑氏が例によって新派の為に書きは書いたが、当人も自信がなく、俳優の幹部も余り気のりがしなかったようだ、そこへ余輩の「高野の義人」に眼をつけたのが高田実であった、何かのはずみに社中の伊原青々園氏に向ってこれを演《や》りたいものだと高田が云い出した、ということを余輩が伊原氏から直接に聞いたのが縁の始りであった。
 これより先き我輩の高田実に傾倒するは古いものであった、いつの頃であったか神田の三崎町の東京座で――東京座といっても今の若い人達には隔世の歴史だが、当時は東京の三大劇場の一つで今の歌右衛門、当時の芝翫《しかん》が歌舞伎座に反旗を飜してここに立て籠《こも》ったこともあり、また我輩も先代左団次一座に先代猿之助だの今の幸四郎の青年時代の染五郎等の活躍を見たこともある、この劇場で偶然余は新派大合同劇を見た、芸題は「金色夜叉《こんじきやしゃ》」で登場俳優は今云ったような面触《かおぶれ》に中野信近などいったようなのも入ってその頃のオール新派と云ってもよろしい、余輩も新派の芝居というものの代表的なやつを纏《まと》めて見たのは多分これが初めてであったろうと思う年齢は十四五であったと思う、当時神田の三崎町には元寇《げんこう》の役《えき》か何かのパノラマ館があったり、女役者一座の三崎座という小劇場があったり、それからその向い側に川上音次郎が独力で拵えはしたが借金のカタになったりして因縁附の「改良座」という洋式まがいの劇場もあってそこで裁判劇などを見たこともあったが役者の名前などは一切記憶していない、そこで新派劇というものを紀元的に見たのはこの東京座の「金色夜叉」をもって最初とする、たしかカルタ会の場面からなのだが何だかしまりのない舞台面で、書生ッポや若い娘共がガヤガヤ騒いだり、キャーキャー云ったりしている、歌舞伎劇のクラシカルな劇に幼少から見慣れていた眼にはあんまりぞっとしなかったのでこの暇と金をもって他の立派な歌舞伎劇を見ればよかったにと聊《いささ》か後悔しながらそれでも我慢して見て行くうちにだんだん面白くなって行った、当時我輩は金色夜叉をまだ書物では読んでいなかったと思うがその内容は或人から聞いて読みたいと心掛けていて果さず、劇で見る方が先きになったようなあんばいであった、併し、進んで行くうちに漸く感興を催して来て遂に高田実の荒尾譲介にぶっつかってしまったのだ、貫一は藤沢浅次郎であった、お宮は高田門下の山田久州男という女形であって、河井と喜多村はその頃は上方へでも行っていたか出ていなかった、赤樫満枝を女団十郎と称ばれた粂八《くめはち》が新派へ加入して守住月華といってつとめていた、我輩が高田を発見したのは貫一が恋を呪《のろ》うて遂に高利貸となって社会から指弾され旧友に殴打されようとしてすさまじい反抗に生きている処へフラリと旧友の荒尾譲介がやって来て声涙共に下りながら旧友、間貫一《はざまかんいち》を面罵するところから始まったのだ、我輩は無条件に無意識にこの役とこの俳優にグングン惹《ひ》き入れられてしまった、それから次に、芝の山内でお宮の車に曳かれやがてそのお宮を捕えて変節を責める処に至って全く最高潮に達してしまった、余は実にそれまでこんな強い感銘を受けた俳優と場面を見たことがない、その後も今日まで見たことはないと云ってよろしい、高田実の荒尾譲介なるものはその当時よりは遙に肥えた今の余輩の観劇眼をもってしても絶品であるに相違ない、あれは正に空前絶後といってよろしい、我輩の高田実崇拝はその時から始まってその後本当に血の出るような小遣を節約しては彼の芝居を見たものだ、そうして愈々《いよいよ》彼が非凡なる一代の名優であることに随喜渇仰した次第である、併し高田の有ゆる演出のうち矢張り荒尾譲介が最も勝れていたと思う、それは原作そのものが優れていたのと相俟《あいま》って現われた結果である、当時紅葉山人もまだ達者でいて、あれを一見して聞きしに勝る名優だと折紙をつけたということが何かの新聞に出ていたが、事実あれならさしもむずかしやの紅葉山人も不足が云えなかったろうと、我輩も想像している。
 今の幸四郎、当時青年俳優中の粋、高麗蔵《こまぞう》もあれに感服して、高田さんにあの譲介につき合ってもらって、自分が貫一をやりたいと云ったというような事も聞いている、その他数知れず演出した高田の芸品のうち何れも彼が絶倫非凡の芸風を示さぬものはないけれども、荒尾譲介ほどのものが産み出せないのは脚本そのもののレベルが高田の持つもののレベルと合奏しきれなかった点もあろうと思う、後の脚本は何れも高田の特徴を認めてそれを仕活すよう活かすようにと企てただけに聊か追従の気味がないではない、紅葉山人の独創と高田実の技量とが名人と名人との兼ね合いであるだけにそこに大きな融合が認められたわけでもあると思われる。
 さて我輩は斯《こ》ういう次第で高田実信者であり(年少客気のみならず今日でもあれほどの俳優は無いと信じている)、その俳優にまた駈け出しの一青年である我輩の作物が演って貰えるということは本懐の至りでもあり光栄の至りとでも云わなければならなかったのだ、伊原君は偶然口利きになったけれども高田がどうして我輩の作物にそれほど興味を持っていたのか分らないようであった、また伊原君という人はなかなか利口な常識的な人だから高田のような天才肌の芸風よりは伊井のような人気のあるものを推賞していたようだった、本来座興的にそんな話はあってもものにはなるまいと誰も彼も見ていたのに、高田の殊の外の乗気にずんずん話が進むのに驚異の念を持っていたようだ、然し我輩に云わせると見ず知らずの一介の青年たる我輩の作に当時劇界を二分して新派の王者の地位にいた高田実が異常の注目を払っていたというのは必ずしも偶然とは思われない理由がある、それは高田崇拝の余り余輩は二三の雑誌にその感想を投書して載せられたことがある、それ等が高田の眼に触れて好感を呼びさまされていた素地があった所以《ゆえん》だと思う、そこで話が大いに進んでとうとうこれを通し狂言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞《しま》の羽織のようなじみな身なりをしていた。
 当時の松竹というものは関西では既に覇《は》を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而《しか》もどの興行も当ったというためしを聞かない、流石《さすが》の松竹も東京では駄目だろう歯が立つまいという噂が聞えた時代である、それと共にこんどの「高野の義人」もやっぱりいけないだろう、それというのが新派が今まで髷物《まげもの》をやって当ったためしがない、例えば高安月郊氏の江戸城明け渡しその他、何々がその適例だ、こんども享保年間の義民伝まがいのもの、それに作者は一向聞えた人ではなし――というのが一般の定評で、伊原君なども現にその説の是認者であったようだ、ところが蓋《ふた》を明けて見ると舞台が活気横溢、出て来る人物が何れも従来の型外れ、見物はかなり面喰ったようだ、そうして連日の満員続き首尾よく大当りに当ったのだ、松竹新派としても息を吹き返した形だし松竹が東京へ乗り出して来たこれが最初の勝利の合戦であった、そこで序幕の高野山の金剛峰寺大講堂の場が総坊主で押し出した、そんな因縁から大谷は、坊主が好きだというような評判がその後ずっともてはやされたものだ、そんなようなわけで我輩は今日まで大谷君に逢うと旧友に逢うといったような気持もするのである、併し、この一挙は成功したが、それから我輩は劇というものは離れて見ているもので、自分の如きものが接近すべきものではないということと、それから劇評なんぞというものが如何にも興のさめたものだという感じに打たれて演劇熱が急転直下して冷めてしまった、新派もその後はやっぱり脚本に恵まれないで、当時の諸星が皆不遇のうちに空しく材能を抱いて落ちて行ったのだ。
 我輩はその後|数多《あまた》の小説を書いたし劇界からも可なりそれが興行方を懇請されたが一切断って劇と関係せず、大菩薩峠が出た後と雖《いえど》も劇の方は見向きもしなかったがそのうちに沢正事件というのが起って来た、此奴はかなりもつれたが未だにその真相を知っているものはあるまいから余り好ましくはないが次に一通り経過を書いて置いて見よう。

     演劇と我(2)

 自分の身のまわりのことを今更繰返して述べたてるのも嫌な事だがこの生前身後は、まあ我輩の自叙伝のようなものだから、くだらないものであっても記して置いた方がよいと思う、また、こちらでは詰らないことと思っても社会的には存外影響の大きかった事件もある。
 さてそんなわけで「高野の義人」の人気を一時期として我輩は芝居熱が全くさめてしまって、演劇は離れて見るもので近付いて自分が触れるべきものではない、と考えたが、その後も都新聞に小説は彼れ是れと執筆していたが劇の方には触れなかった、そのうちに東京劇壇は松竹が全部資本的に占領してしまった、「高野の義人」の時代に於てはまだ歌舞伎座の本城が田村成義の手で経営され、その後継者として新進歌舞伎菊五郎、吉右衛門等を中心とした当時の市村座が歌舞伎後継として控えている、それから少し後に、帝劇及び有楽座が出現する、例の新派の牙城本郷座も松竹に貸してはいたが、坂田庄太という人がまだ持主であったのだ、そういう中へ松竹が切り込んで来て着々と征服して行ったので、愈々《いよいよ》歌舞伎座を乗取る時などは悲愴な葛藤の起ったりしたのなども我輩は遠くで眺めていた、そうしてさしもの田村将軍なるものも既に老衰の境に入っている、東京の歌舞伎俳優は伝統の間に生き、門閥を誇ることの外には何もなし得ない、そこで歌舞伎へ行って見ても市村へ行って見ても吾々《われわれ》は更に何等の新しい迫力を感ずることが出来なかった、新派は前にも云う通り、その位だから活気ある舞台や興行振りは東京の劇壇では全く見ることが出来なかった、東京の劇壇は沈衰、瀕死《ひんし》の状態にいたのである、その間へ松竹が関西から新鋭の興行力をもって乗り込んで来たのである、我輩はいつも思う、あの当時松竹が東京劇壇を征服したのは松竹がえらい、と云うよりは東京劇壇が意気地が無さ過ぎたと云った方がよい、仮りにその当時我輩をして東京劇壇の総参謀にする者があったとすれば、必ずやあんなにもろく松竹には征服させなかった、これは広言でも何でもない、離れて見ているとよく分るものである、当時|若《も》し歌舞伎或いは新派側に我輩を信頼し得るだけの人物がいたならば松竹を決して今日の大を為し得させなかったと信ずる理由がある、然し実際問題としては、そんなら当時我輩を信頼するだけの人物が東京劇壇にあったとして拙者がそれに応じたかどうかという事であるが、それは全く出来ない相談であった、余輩はどんなに頼まれても決して劇界への出馬などは思いも寄らぬことであった、そこで結局、松竹の覇業は新陳代謝の自然の勢というべきものであった、併し冷眼にその雲行を眺めつつ、松竹を圧《おさ》え東京劇壇を振わすだけの方策は我輩の眼と頭にははっきりと分りながらそのままに見過していた。そうしているうちに松竹は歌舞伎の本城を陥れた。
 そういう変態な不精な立場で小説に隠れるというわけでもないが、大菩薩峠の筆を進めているうちに、都新聞の読者の中にも相当具眼者もあれば有識者もあって隠然の間に大いなる人気を占めていたのである、そうして好事家《こうずか》の間にはこれを是非劇化したい、俳優は誰れがいい、吉右衛門でなければいけぬとか、菊五郎がいいとかいうような噂が絶えず聞かれていた、併し、小生はそういうことに頓着せずして彼是十年も経たろう、時日の事はまたよく調べて追加しようが、兎に角劇界の事は離れているからよく分り過ぎる程分るのである。
 さて、その時分になって都新聞に我輩が紹介で入れた寺沢という男を通じて大阪の沢田正二郎が是非あれをやらして貰いたいとのことだ、沢田正二郎という名は当時坪内博士主宰の劇団や何かでチラホラ聞いていたが、その人も芸風もまだ見たことはない、根津にいる時分よく小石川の植物園へ遊びに行ったものだが、その途中本郷のとある家の路地で、沢田正二郎渡瀬淳子と連名の名札のあるのを見た位のものだ、それが近頃では大阪へ行って新国劇という一団を作りなかなか人気を博しているということであった、そうして是非とも大菩薩峠の机竜之助をやらして貰いたいと寺沢君を通じての申込だ、寺沢も予《かね》てこっちの態度を知っているから「申込んでもそりゃ駄目だ」と断ったが、断られても駄目でも何でもいいから話だけはしてくれろ、斯ういうことで寺沢君から伝達されて来た、その時に余輩はどうしたものか、今までと違ってちょっとそれに耳を傾けたのである。
 一体、沢田君はどういう芸風の人か、今まで何をやったのが出色か、というと松井須磨子のサロメにヨカナンを演《や》ったことがあるというような話だ、それは面白そうだ、ヨカナンをやりこなし得るものが机竜之助を演ったらおもしろいに相違ない、兎に角一度会って見よう、ということになって、寺沢の紹介でたしか日比谷の松本楼で初会見をし、食事を共にした後に帝劇を三人で見物した、それが最初の縁であった。
 だが、その時は劇上演のことには話は進行しなかったのである、とにかく、尚また沢田君の持つ芸の本質を眼のあたり見せて貰わなければならぬ、自分が見に行きたいがその暇がない、また同君も東京へ来て演る機会は少ない、丁度名古屋まで来て、そこで中村吉蔵君の井伊大老を演るという機会があったから、そこで寺沢君に我輩の代理として沢田君の芸風を見届けに行って貰った、帰って来ての寺沢の報告は甚だよい、沢田は貫禄も相当あるし部下もよき一団を相当集めてある、演らして見たらよいと云う様な提案であったと覚えているそこで我輩は考えた、今や歌舞伎は新興の意気はなく、新派は沈衰して振わず、沢田君あたりを一つ起して東京劇壇に風雲を捲き起させるのも眠気|醒《ざま》しではないかという心持にまで進んで来たのだ、そのうちに沢田は我慢しきれず大阪で成功した意気込をもって東京へ旗揚げに来た、沢田としては最初に大菩薩峠をもって来たかったのだろうけれども我輩はまだ熟しないと見てその機会を与えなかった、そこで沢田は東京の旗揚げに多分明治座であったと思う、そこへ乗り込んで「カレーの市民」というのを最初に国定忠治を後に演ったと思っている、なかなかよく演った、ちょっと類のない芸風もあるし覇気もあるし、殊に国定忠治の中気の場、召捕の場の刀を抜かんとして抜き得ざる焦燥の形などは却々《なかなか》うまいものであった、ただ芸風に誇張と臭味とが多少つき纏っていることは素人《しろうと》出身として無理もないと思われる位のものであった、併しこの一座存外によく演りは演るが、東京の芝居見物には殆んど全く馴染《なじみ》が無い、そこで客足の薄いことは全く気の毒でもあり、会社の女工と覚しいようなのを大挙入場させたりして穴埋をするような景気であったり、十数人の見物しか土間にいなかったりというようなこともあった、その帰り途に横浜でやった時の如きは四五人の見物しか数えられない有様でてれ隠しにテニスか何かをやって誤魔化したというような事実話もある、然しこれは彼及び彼一座の恥でもなければ外聞でもない、如何に相当の実力がありとはいえ顔馴染の無い土地へ来ての全く素人出の旗揚げでは無理のないことでもあるそうして大阪へ帰ったが、次に東京へ乗り出すには是非とも別の看板が必要である、いや別の看板がなければ再びは乗り出せないのだ、如何に乗り出したくても興行主が承知する筈《はず》はなかったのだ、そこで沢田は第二回の出戦に当り大菩薩峠著者を衝《つ》くこと甚だ激しいのは当然の成り行きである、一体大菩薩峠というものが掲載当時からそういう一種の人気を持っていた外に、都新聞という新聞が当時は東京市中へ第一等に売れる新聞であり、演芸界花柳界には圧倒的の勢力を持っていたのである。
 こちらは大菩薩峠の著者、相当沢田に対する予備認識も出来たし芸風も眼のあたり特色も看《み》て取っているしその実力に相応して顔馴染の少ない立場にいることに同情も持って居りまたこれを拉《らっ》し来って東京劇壇の眼を醒さしてやろうというような多少の野心もあったものだから、まあともかく脚本を書いて見ろという処まで進むと、沢田は大いに喜んで座付の行友李風《ゆきともりふう》という作者に書かせてその原稿を我輩のもとへ送り届けてよこした、どうも行友君などという人は旧来の作者で我々の思うところを現わし得る人でないという予感もあったけれども、とにかくそれを読むと全然ものになっていないのである、そこで余輩はそのことを云って返してしまった、そうすると、更にまた書き直して送って来た、それもいけない、都合何でも四五回書き改めさせたと思う、最後に至って実によく出来た、固《もと》より行友君という人がそういう人だから内容精神に触れるというわけには行かないが、それにしても練れば練るだけのことはある、最初の原稿とは雲泥《うんでい》の相違ある巧妙な構図が出来上って来た、そこで余輩もこれを賞めて、なおその原稿に詳細な加筆削除を試みたり、附箋をしたりしてこれならばといって帰してやった、(この我輩書き入れの原稿を木村毅君が今所持しているとのことだが、それはたしかに第二回目の時のものだろう、最初のは震災や何かがあり、沢田の身の上にも転変甚だしかったから十中の十までは消滅しているに相違ない)斯うして訂正の脚本原稿と相当に激励の手紙を添えてやると、それを受取ったのが沢田が何でも道後あたりへ乗り込んでいた時ではなかったかと思う、その原稿と手紙を受取って見て沢田と行友とは嬉し泣きに手をとり合って泣いたというようなことがたしか当時の沢田の手紙に書いてあったと思う、その辺までは至極よろしかったが、それからそろそろことがよろしくなくなって来た、もともと我輩の希望には自分の作物の発表慾とか沢田を世間に出すとか何とかいうことよりも、東京劇壇へ一つ爆弾を投じて見たいことにあったのだ、だからその興行は当然東京を初舞台とし、ここから出立しなければならないことに決心していたのだ。
 併し彼が関西に根拠を置く実際上の必要から内演試演は彼の地でやり本舞台はこっちで開かねばならぬ、気に入らなければ即座に中止改演ということを堅く約束した、それが為には何処まででも我輩は試演の見分に行く、そうしてその試演が気に入らなければ何時でも止める、或は練りに練り直した上で公開すると斯ういうことを堅く手紙で約束して置いて、そうして大正何年の秋であったか神戸の中央劇場で試演をやるとのことであったから我輩は態々《わざわざ》神戸まで出かけて行ったところが、神戸の中央劇場に辿り着いて見ると試演どころか絵看板をあげて木戸をとっての本興行だ、それを見た我輩の失望落胆から事がこじれて来た。

     演劇と我(3)

 しかし、沢田君も我輩が態々神戸まで出かけて来たと聞いて、竜之助の衣裳、かつらのまま楽屋から出口まで飛び出して来て我輩に上草履《うわぞうり》を進めたりなどする態度は甚だ慇懃《いんぎん》のものだ、しかしもう開幕間際だったから、楽屋へは行かず直ちに桟敷《さじき》に出て見物したが、竜之助が花道を出て大菩薩峠にかかるその姿勢がまた気に入らなかった、今更故人に対してアラを拾い立てるわけではないが、とにかく沢田君が出ると神戸の見物もなかなか湧いたものだが、舞台へかかる足どりにも八里の難道という足どりは無く、峠の上へ来て四方を見渡す態度にも境界そのものがなくて、どうも見栄《みえ》を切って大向うの掛声を待ち受けるものの如くにしか見えなかったので、あゝこれは見ない方がいいと我輩はそのままサッサと帰って京阪の秋景色を探り木曾路から東京へ帰ってしまった、斯ういう態度は小生の方も少し穏かでないかもしれないが、これはどうも自分の癖で意気の合わぬものを辛抱してまで調子を合せるということは我輩には出来ぬことである、沢田君も多少その辺から癪《しゃく》に障《さわ》っていたかもしれぬ。
 そうしているうちに、愈々《いよいよ》また東上してたしか明治座での再度の旗揚であった、そこで我輩もまあ一度だけは東京であのまま演らせて見るほかはあるまい、一度だけは黙認していようという態度をとっていたのが悪かったのだ、神戸の時にすっかり絶縁を宣告して置けばよかったのかもしれないが、生じい親切気を残したのが却って彼の為に毒となったようだ。
 果して大菩薩峠を持ち来した再度の旗揚げは彼の出世芸であった、その興行的成功は我輩にとっては予想外でも何でも無かったが世間には予想外であった、前の時にあれほどみじめなものが、こんどは連日満員また満員で、満員を掲げなかったのは一日か二日という成績で打ち上げた、それから彼が素晴らしい勢となって一代の流行児となったのだが、こちらはもう彼を一度世に出すだけのことをしてやればよい、彼は彼としての存在を示せばよいのだ、そこで、全く絶縁の筈のところが彼はこの人気に乗じて極力大菩薩峠を利用しようと心懸けた、無理無体に自分の専売ものとして持ち歩こうとしはじめた、そうして著者に対しては十二分の反抗心を蓄えながら作物だけは大いに利用しようとした処に、すさまじい悖反《はいはん》がある、それが為に我輩の悩まされたると手古《てこ》ずらされた事は少々なものでなかった。
 余の老婆心では彼のいい処は認めるが、然しながらあの行き方では精々お山の大将で終るだけのもので、あれを打ち破らなければ本ものにならないと見ていたのだが、彼の周囲の文士とか劇作家とかいう手合は徒《いたず》らにその薄っペラなところだけを増長させて、彼を人気天狗に仕立て上げてしまう外には何にもなし得ないものだ、そういう社会の弊風をあさましいものと見た、その中へ春秋社の神田豊穂君だの公園劇場の根岸寛一君だとかいうのが※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]ったが、事は愈々紛擾を増すばかりで、彼は京阪、九州地方まで無断興行をして歩いたり、ロクでもないレコードを取ったり、傍若無人の反抗振りを示したが、最後に根岸君の手から謝罪的文の一通を取り全く大菩薩峠から絶縁することになって(つまり沢田はもう決して大菩薩峠を演らない)という一札が出来上ってケリがついたのだ、その時に俵藤丈夫君が来て大いにたんかを切って行ったのも覚えている。
 大菩薩峠を演らずとも沢田君並にその一党の人気はなかなか盛んのものであった、またいろいろの意味で沢田の人気へ拍車をかけるものが群っている、一時は沢田の外に役者は無いような景気であった、この人気を煽《あお》ることには相当の理由がある、沢正君は早稲田の出身であって、早稲田出身者は人気ものを作ることに於て独特の勢力をもっていると云われる、然し斯ういう勢力はその人を大成せしめずして寧《むし》ろこれを毒すること甚だしいものだと思っている、沢正以前に松井須磨子なるものがあってこれがまた非常な人気を煽られたもので須磨子の外に女優なしと思われるほどに騒がれた、しかし余輩はそれを見てあぶないものだと思った、松井須磨子は早稲田生えぬきの島村抱月の愛弟子《まなでし》である、一体早稲田派が宣伝に巧みなのは大隈侯以来の伝統である、朝に失敗した大隈が野に下って、学校を立て言論界へ多くの人材を送った、そこで早稲田には筆の人が多いし、宣伝機関が自由になる、自然人気ものを作るのはお手のものといった景気がある、前の松井須磨子もそうであるし、今の沢正もそれだ、須磨子なども寄ってたかって高い処へ押し上げてしまってそうして梯子《はしご》を引いたような形だから、ああいう運命に落つるのも已《や》むを得ないのであった、今また沢正にも同じ轍《てつ》を踏ませるな、困ったものだと思いながら眺めていたが、然し彼の行動には我輩に対する見せつけとか当てつけとかいうものが絶えず隠然として流れていた、しかし、こっちはもう自分の作物が彼等の人気に関係しさえしなければそれでいいのだから済ましているうちに彼等自身も絶縁はしながらも絶えずこの大菩薩峠には憧《あこが》れをもち、世間もまたいつかそのうちに沢正によっての机竜之助が見られるものだということを期待していた。
 それは大震災前後の事であった、それ以前沢正の傍若無人な人気の増長振りが警視庁あたりでも睨《にら》まれていたようだ、なに警察の干渉などは人気になって却ってよろしいなどと放言していたこと等が甚だ当局の癪にさわっていたようである、そこで、公園劇場での賭博問題がきっかけとなって、彼等一党が総検挙をされたようであった、これで沢正一座も愈々没落かと思われた、これまでの彼の人気と増長ぶりについては喝采《かっさい》する者は絶えず喝采していたが、余輩から見ると、自暴《やけ》の盲動的勇気としか見えなかった、自暴で背水の陣を敷くと人間はなかなか強くもなれるし、また意外な好運も迎えに来るものだと思わしめられないでもないが、無理は無理だ、と我輩のみならず、心ある者は彼をあやぶみきっていたが、果してこの検挙で幕が下りた、これでさすがの驕慢児も往生だと世間は見ていたが、なかなか悪運(?)の強い彼にとって、この検挙拘留中に彼《か》の大震災で、これがまた彼にとって有利と好運とに展開されたのである。
 拘留中の沢田とその一党は大震災の為に放免された、それが機会でまた彼が復活して、どういう運動の結果か、復興第一に日比谷公園で大野外劇を演り、沢正が弁慶勧進帳で押し出すというような変態現象を現出してしまった、それから籾山《もみやま》半三郎君が出資者となって赤坂の演技座に大劇場としての仮普請をして、沢正の為に根城を拵《こしら》えてやったり、非常の景気であって、一代も彼を拍手喝采することで持ち切りであったが、あぶない事はいよいよあぶない、大菩薩峠に反いてからの後の沢田というものは全く意地と反抗とヤケとで暴れ廻っているのだ、何も知らない世間はその勇猛な奮闘振りだけを見て喝采するが我輩のように彼の大きくなったのも小さくなったのも内外の悩みも委細心得ているものにとっては、ああいう行き方が不憫で堪らなかった、といってなまじい同情を寄せて撚《よ》りを戻してはよろしくないに相違ない、我輩は頑として近寄ることをしなかったが、その間いろいろの方面からいろいろの意味で懇願したり、釈明したり謝罪的の表明をして来たり、籾山君なども自身幾度び我輩を口説《くど》きに来たかわからないし、沢田君も再々自身もやって来たしいろいろと好意を表したが我輩としてはどうしても作物の上で再び彼と見ゆることは絶対的に許されない事であったのだ。
 そのうちに、沢田があの通り若くして斃《たお》れることになってしまった、病名は中耳炎ということであったが、なあに中耳炎のことがあるものか、ああいう無理の行き方をすればまいって了《しま》うのはあたり前である、沢正なればこそあれだけにやったのだ、普通の人なら少くとも五年前に死んでいたのだ、その後は意地だけであそこまで通して来たのだ、中耳炎というのはその当座の病名だけのものだ、我輩から云わせれば社会の軽薄なる人気が寄ってたかって彼を虐殺してしまったのだ、丁度、松井須磨子を殺したように、また後の文士直木三十五と称するこれは素質から云っても程度から云っても須磨子や沢正に下ること数等のものだが、そんなような手合をすら稀《まれ》に見る天才かの如く持ち上げて、そうして過分の労力を消耗させて殆んど虐殺に等しい最期をさせた、余輩は斯ういう行き方を非常に嫌う、もし沢正にして他の人気やグループを悉《ことごと》く脱出しても真に大菩薩峠の作意を諒解し、我輩の忠言を聴き節を屈し己《おの》れを捨て、そうして磨きをかけたならばはじめて古今無類の立派な名優が出来上ったに相違ないと我輩は思う、世間の賞《ほ》めるのは彼の最も悪いところを賞めるのである、彼の最もよいと云われるところは我輩から見れば毫釐《ごうり》の差が天地の距りとなっている、彼が最後まで机竜之助を演りたい演りたいということに憧《こが》れて憧れ死にをしたような心中は、真に惜しいことであるが、この一枚の隔たりがとうとう彼には見破られないで亡くなったのだ。
 その当時彼に対して面会を避けたり要求懇請を突っぱねたりつれない挙動のみを見せた我輩に対し負けず嫌いの彼がどの位内心悲憤していたかということも想像出来るし、その悲憤に対して何も知らぬファンが一にも二にも彼に同情するの余り、我輩を悪《あし》ざまにした、我輩の蒙《こうむ》った不愉快も少々なものではなかった、当時、彼から来た手紙なども見ないで放っぽり出していたのだが、近頃或事件の必要から古い手紙類を整理したところ、一通の封の切らないやつが出て来た、今日これを書く機会に封を切って見よう。
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冠省
御無沙汰に打過ぎて居りまするがお変なき事と大慶に存じます。
扨て
いろ/\御無理を申して御煩せしてからもう三年に近くなります、小生が御音信をしたり、御訪ねをすると屹度《きつと》大人のお煩ひになることを恐れますが、でも小生の止むに止まれぬ願を更めてお胸にお止め下さいまし、あれからとても諦めねばならぬ事と押へ忘れ様とつとめて長い月日が立ちました、でも絶えず私の頭の中に往来するのをどうする事も出来ずに歯を喰ひしばつて我慢をして来ましたが、今年は私共新国劇も愈々満十周年を数へますので、いさゝか其紀[#「紀」に「(ママ)」の注記]念を致したいのでございます。
で其紀念興行(六月)を催すに何よりも吐[#「吐」に「(ママ)」の注記]胸を突いて来るものはお作大菩薩峠の事でございます。
私は過去の一切に就いてお心にそまなかつた事を更めて陳謝いたします。
どうぞ私共の苦闘十年にめでゝお作上演をお許容下さいまし。
只管《ひたすら》に願上ます。
これまでの行がかり上いろ/\な方面への責任等は総べてを私が背負ひまして御迷惑はかけますまひ、一度拝眉心からお願したいと存じて居ります。[#地から1字上げ]頓首
  三月十一日早朝
[#地から3字上げ]沢田正二郎
[#ここで字下げ終わり]

 この手紙の表書きには本所区向島須崎町八九番地とあって日附は三月十一日になっているが、年号はちょっとわからない、兎に角我輩が早稲田鶴巻町にいる時分使に持たせてよこしたので郵便ではなかったからスタンプもない、これを今T君に筆記をして貰っている今日、即ち昭和九年の六月十八日にはじめて封を切って読み下して見ると感慨無量なるものがある。
 我輩はこれほどに切なる沢田君の手紙をも封を切らずに十年間も放り出して置くような人間である、如何に自分が無情漢であるかということの証拠になるかもしれないが、この無情は持って生れた我輩の一つの特質なるを如何ともすることが出来ない、凡《およ》そ好かれたり、よろこばれたりするような親切は本当の親切ではない、本当の親切は大いに憎まれなければならない、大いに怨《うら》まれて憎まれるほどの親切でなければ骨にも身にもなるものではないという片意地が我輩には今日でもあるのである、彼の心の中の或ものを微塵に砕いてその後に来るものでなければ本当のものではない、然るにとうとうこの機会が到来しないで沢田は死んでしまった。
 彼の病気が愈々危篤の時余は東京にいなかったと思うが、余の家族のものは余に代って見舞の電報を打ったということだが、こちらは何の見舞もせず、また先方からも何とも挨拶はなかった。
 沢田が死ぬと新聞雑誌は非常なる報道をしたり記事で埋まったりしたけれども誰も一人も我輩のところへ沢田正二郎を聞きに来た新聞雑誌記者もなし、また聞きに来られても会って話をする時間があったかどうかわからない。
 何にしても好漢沢田、我輩と握手をする為に東を志して西を向いて歩いていた、好会のようでそうして生涯遂に相合わなかったが、今や間違っても間違わなくても彼ほどに強い憧れをこの作に持っていた俳優は無かったのだ、それを思うとさすがの無情漢も暗然として涙を呑むばかりだ。
 それから大震災の後、本郷座の復興第一興行に当って市川左団次君の一座でこの大菩薩峠を興行したことがある。
 その時余輩は高尾山に住んでいたのだが、そこへ松竹から川尻清譚君だの植木君だのという人が見えて左団次一座があれを演《や》りたいからとの申出であった、そうして脚色者としては菊池寛君に依頼したいとの先方からの希望つきで、菊池君も略《ほ》ぼ承知らしい口振りであった、それからもう一つ、こんどの本郷座復興は帝都に於ける大震災後の大劇場の復興としては最初のものである、本郷座といえば松竹が高野の義人を演って初めて当りをとった記念の意味もあるというようなわけで、この興行にはかなり松竹大谷君の意志も動いているのであった、第一左団次自身が果してあれを進んで演りたい意気込みがどの程度まであったか知れないが、それをともかく動かしたのは大谷君の力と看なければなるまい、然し、大谷君がそれほどあの作に傾倒しているかどうかということは余程考えものである、兎も角も当時の歌舞伎劇団の中心勢力と見るべき左団次一党を動かして、こちらに花を持たせて置き、その次には著者を説いて活動写真に撮って大いに儲《もう》けたい、儲けてそうしてこの天災非常時の穴埋めにしたいというそろばん[#「そろばん」に傍点]から割り出したものと見ることも一つの看方《みかた》である。
 併し余輩も考えた、今や大震災直後の人心を見るとすさび切っている、そうして市民が慰安を求むるの念は渇者の水を求めるようなものである、演劇というものは市民にとって娯楽物でも贅沢物でもない、全く必須の精神的食糧であるということがこの際最もよく分った、そういう必要があってわざわざこの山の中まで要求がある以上は辞退すべきではない、それではそういう意味でわたしも奉仕的に出馬をしよう、併しながらあの作はいろいろ嫌な問題を惹《ひ》き起し、興行禁止を声明しているのだ、それを許す以上には立派にその意義と名分とを鮮明しなければならぬ、それにはまず都下の新聞関係者を招待して小生の意志を表明したい、それからまた左団次君その他とも会見したい、菊池君が脚色してくれるのは結構だがしかしこれも予《あらかじ》め会見して意志を疎通して置く必要がある、その辺のこと宜敷《よろしく》頼むということを伝えた、そのお膳立もすっかり出来たということで余輩は東京へ出かけて行った。
 松竹では芝の紅葉館へ東京の各新聞社の劇評家連を殆んど全部集めてくれた、城戸四郎君や川尻君も出席して席を斡旋《あっせん》して呉れた、然し余は実は斯ういうつもりではなかったのである、震災非常時の際ではあり、新聞記者諸君にもバラック建へ集って貰い、そうして小生は一通り興行承諾に対する意志を聞いて貰い謄写版刷でも出して直截簡明に震災非常時気分でやって貰うつもりであったのだ、然るに松竹ではやはり従来の例をとって記者諸君を招待したのだ、これは自分としては多少案外であったが、まあ松竹のして呉れるようにして置いてその翌日であったかまた同じ紅葉館の別室で城戸、川尻両君の立会いで菊池寛君と会見した。
 一体、菊池寛君に脚色させるということは誰れの名指しであったか希望であったか知らないが、誰れにしても小生は自分の作物を脚色して貰う以上は予め意志を疎通させて置くと共に、出来上った脚色に就ては一応見せて貰わなければならない、そうして如何なる名家名手がやってくれるにしろ、原著者の作意精神に添わぬ時は御免を蒙《こうむ》るより外はない、菊池君とはその時が初対面であったが、文壇大御所というアダ名はその時分附いていたかどうかは知らないが、いろいろの文士連がいやに菊池君を担《かつ》ぎ廻っていることだけは認めた、その以前にも菊池君が大菩薩峠を賞《ほ》めたから、以て如何にその価値が分るなんぞというようなことを云い触らしていやに菊池を担ぐ者共が文壇や出版界にいるのが随分おかしいことだと思っていた、余輩の目から見れば、年齢にしては幾つも違うまいが、菊池君などは学校を出たての青年文士としか思っていなかったのである、その菊池君が大いに推薦するとか何とか云って取沙汰するのはおかしいと思った、一体あの文筆の仲間には皆んなそれぞれチェーンストーアーが出来ていてうっかり庇《ひさし》を貸そうものなら母屋をも取ろうとする仕組みになっていることを我輩も経験上よく見抜いていた。
 それに菊池君に脚色させては新聞、雑誌、出版界、劇作家連の間に設けて置く彼等文壇一味の伏兵が一時に起ってそれこそいいように母屋をまるめて了う魂胆は眼に見えるようでもある。
 兎に角我輩はその席上では菊池君をおひゃらかしてしまったというわけではないが、肝胆を照らして頼むわけには行かないで、余計な事ばかり喋べり散らしたので城戸四郎君などはイライラしていたようであった、その席はそれで済んだが、後で菊池君が脚色を辞退して来てしまった、興行者側では当惑したろうが自分の方では一向当惑しなかった、気に入った脚色が出来なければ上演しないまでの事だ、先方には幾らも好脚本はある筈、こちらは強《し》いて上演して貰う必要もないのである、然し興行者側としては折角ここまで来たものを脚色問題で頓挫せしむるのは忍びないことであると見えて、菊池君に代るべき脚色者をという話であったが生じいの脚色者では原著者が承知する筈はなし、そうかと云って岡本綺堂老《おかもときどうろう》あたりがやってくれれば申分はあるまいがあの人は絶対に他のものを脚色しない、そこで、興行者側も困り抜いて左団次一座の座附の狂言作者に切り張りをさせて誤魔化そうとする浅はかな魂胆を巡らそうとした策士もあったようだが、そんなことは問題にならず、そこでとうとう原著者自身に脚色して貰うより外はないということになって原著者自身が筆を取って脚色したのが白揚社から出版になった小冊子脚本全四幕のものであった。
 ところが、その時は昼夜二回の非常時興行で、時間の組合せの上から二幕しか出せないということになった、しかもその二幕も間《あい》の山《やま》だの大湊《おおみなと》の船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎなかった。
 左団次君とは紅葉館の前後、小生が左団次君の招待ということで、麻布の大和田で鰻《うなぎ》の御馳走になりながら木村錦花君川尻君あたりと話をした、そうしてどうやら斯うやら本郷座のタッタ二幕の上演を見るに至ったが、右のように間の山や船小屋のいい処が出ないで、比較的見すぼらしい二場所が出たのだが、あの時に松蔦君あたりに間の山のお君をさせ、左団次君に大湊船小屋の場を出させでもすれば同じ二幕でもずっと勝れた効果があったであろうが、余り効果が出ては困る人があったに相違ない、然し、左団次君の竜之助はたったあれだけでもなかなかの貫禄を見せ、その後病気で亡くなったが中村鶴蔵君のがんりきなども素敵な出来であって、昼夜二回興行のうち昼の部分はこの大菩薩峠と他に従来の歌舞伎劇が三幕ばかり、夜は菊池寛君のエノクアーデンを焼き直したようなものと、その以前に余輩が書いた黒谷夜話の中味によく似たところがあるという谷崎潤一郎君の「無明と愛染」というような新作を並べたものであったが、昼の方が興行的に断然優勢を示していたのは矢張り大菩薩峠の贔負《ひいき》が相当力をなしていたものと思われる。
 震災当時はそんなようなわけで、劇場らしい劇場は全部焼失してしまったのだから、随分異例のことが多く、麻布の十番あたりの或る小屋へ少々手入れをしてそこを仮りに明治座と名付けて左団次一座を出演させたようなこともあったが、然し本格的にはこの本郷座が東京震災復活の第一の大劇場であったが、その後今日では本郷座も活動小屋に変化してしまって歴史ある名残《なご》りはもうすっかり見られなくなってしまった。
 さあ、劇と我とに就ては、まだ細かい事は幾らもあるし、これより田中智学翁斡旋の帝劇興行をはじめ、歌舞伎、東劇、明治座の最近にまで及ぶのだが、それは追って稿を改めて述べる事とし、次号には全く別の方面の人物論から着手しようと思う。

     同時代の人と我

 余輩と同時代の人物のうち、今年即ち余輩の五十歳を標準として少くとも同時代の空気を呼吸した人で、今日は歴史的になっている人だけを挙げて、将来歴史的になるべき人でも現存して居られる分ははぶき度いと思う。
 右の意味に於て私と同時代の世界の最大の偉人はトルストイであったと云って宜かろう、これは特に自分が文学に多少縁故のあるところから見た、ひが[#「ひが」に傍点]目ではなく、有ゆる方面を通じて、これを歴史に照してトルストイの偉大さは卓絶している、全世界の全人類史を通じて仮りに五人十人の偉人を挙げて見たところでトルストイの偉大さは矢張りそのうちから外れることのない程の大きさを持っている、十九世紀から二十世紀へかけて世界がこの偉人を持っていたということに大きな光彩を有している、この人は千八百二十八年に生れて千九百十年余が二十六歳の時にこの世を去った。
 それから文学に於てこれに劣らぬ全世紀有数の文豪としてビクトルユーゴーがまた明治十八年まで(即ち余の生れた年)生きていた、現に日本人でもこの偉人に目のあたり面会した人がある、板垣退助伯爵の如きは慥《たし》かにその一人である、余は知人原氏の紹介をもって板垣伯に面会しユーゴーの印象に就いて聞いて置きたいつもりで電話までかけたがつい果さずいるうちに板垣伯は亡くなられた。
 余が親しく風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》を見た人物のうちでは救世軍の開祖ウイリヤムブース大将を以て最大不朽なる人物とする、日本へ来戦された当時東京座に於てブース大将の演説会が開かれた時、余も新聞記者の末席に控えて親しくその風采に接しその演説を終りまで聞いた、その時東京市長であった尾崎行雄氏が挨拶をし、島田三郎氏も何か話をしたと思うが両君共に甚だ背のひくい感じをしたが、今の山室中将その時は少佐位であったかしら、これが通訳を承ったが、これは実に両々相待って火花の散るような壮観を呈したのを覚えている、長身偉躯にして白髪白髯慈眼人を射るブース大将の飾らざる雄弁を引き受けて短躯小身なる山室軍平氏が息をもつかせずに火花を散らした通訳振りは言語に絶したる美事さであったと覚えている。
 別の方面でこれ等のレベルに立つ偉人はまずトーマスエディソンであろう、この人は昭和五年余が四十六歳の時にこの世を去った。
 それから政治家としてはグラドストン、ジスレリー、ルーズベルト、といったような人があり、芸術家方面ではロダンだのイブセンだのという人があるが、これは歴史的価値に於て前の人達とは大分に遜色があるようだ。
 日本に於ては不世出の聖主明治大帝には蔭ながらにも親しく御俤を仰いだことの一度もないのは明治生れの自分として甚だ残念な次第である、それだけ自分の境遇というものが恵まれなかったのである。
 それから明治の功臣としても日常写真顔で、もう別人ではない程に馴染《なじ》んでいながら親しく風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]を見たことも極めて乏しい、板垣伯は余輩が小学校時代自由党の総理として我が郷里へ鮎漁に来たのか招いたのか――したことがある、その時に政客や有志家達が夥しく押し寄せて来た中に板垣伯がナポレオン式のヘルメットのような帽子を被《かぶ》り、鮎漁の仮小屋に腰をかけ瘠《や》せたからだに長い髯《ひげ》を動かして周囲の者を相手に頻りに話しをしていたのを覚えている、件《くだん》の帽子を被っていたから人相はよく分らなかった。
 それから、伊藤博文公は韓国統監時代に李王世子のお伴《とも》をしてであったか、なかったか三越へ馬車(自動車ではなかったと思う)を乗りつけてそこから簡単に統監服のままで馬車へ乗り降りする処だけを見た、これも細かな表情などは少しも覚えていない、哈爾賓《ハルピン》で亡くなったのはそれから間もないことであった、それから原敬氏はこれも馬車であったか――たぶん箱馬車と思う――白髪に和服で悠然と納まり込んで走らせるのを見たし、都新聞の幹部会の時三縁亭の別室で一方には政友会の代議士総会があり、一方の別室に原敬と高橋|是清《これきよ》と野田卯太郎の三人が額を突き合せて話をしているのを見たことがある。
 軍人として、日本歴史上の名将東郷平八郎元帥の俤《おもかげ》をすら親しくは余は一度も見たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこと質朴な老軍人が坂を上って来ると思ってよく見たらそれが乃木将軍であった、後ろに人力車を引き連れていたかと思う。
 明治、大正へかけての史上の大物としては余は目のあたり見たのは殆んどその位のものである、いやそれから大隈伯の演説は二三回聞いたことがある、山県公《やまがたこう》は無論見ない、併し、好き嫌いという感情から云えば、世間に大いに好かれ人気の盛んであった大隈侯よりは、世間から悪く云われた山県公の方が自分は遙かに好きであった、なお、序《ついで》に云えば、山県系の嫡子として、やはり世間からビリケン呼ばわりをされて人気の乏しかった寺内元帥なども、自分は甚だ好きな人物の一人である、どうして好きかと問われると、何等の理由も事情も無いようなものだが、曾《かつ》て新聞にいて、ある部面を受持っていた時分、非常に些細と思われることであっても、事軍紀に関するような事ある時は、当時、陸軍大臣であった寺内氏は、必ず副官をして、それを説明或いは訂正をなさしめたものだ、それは必ずや副官達に心ある者があってするので無く大臣自身が、いかに新聞の隅までも眼を通して、そうして、細事をも粗末にはしないという用心が働いていることを、余は認めて、寺内さんという人はエライ、世間は非立憲だの長閥軍閥の申し子だのと悪評で充ちているけれども、なかなかそんな横暴一片の人ではないと、感心して、ひそかに寺内信者の一人になっていたまでの事だ。
 同じような意味で平田東助氏(後に伯爵)の事も云える、平田氏も不人気な政治家ではあったが、余輩はその人を信じていた、平田氏の方では一向、余輩の事は知るまいが、余輩が預かっていた新聞のある部面の記事を、平田氏が内相であった時分に、激称した事があって、それが為に同僚の記者が大いに面目を施して来たというような事を帰社して話した事があった、その後、平田氏は所謂世間には不人気で烟《けむ》たがられたけれども、その後、漸く堅実な人気を以て、遂には大久保卿以来の内務大臣だとまで云われるようにもなった、余輩が他事《よそごと》ながら弁護した点に、世間は平田氏が村長格の性器であって、報徳宗を鼓吹したりすることは、一代の空気を陰化せしめてよろしくないという様な世論に反して、みだりに政客的放慢心を以て小器大善を論ずるのは宜しくない、苟《いやしく》も政治家が思想信念を以って世を導かんとするは大いに尊敬もし認識もしなければならぬという様の事を論じたのであったと思う。
 少々混線するが少し前に戻って、余輩の生れた明治十八年という年に、ビクトルユーゴーが死んだのも奇縁と云わば云える、余の生れは四月四日で、ユーゴーの死んだのは五月二十二日だから何かの因縁を結びつけるには相当の時間である、余輩を以て日本の馬琴に比するものはあるが、それは当を失している、余には作家としての系統も師匠も無いが、もし有りとすればトルストイではなくユーゴーを挙げなければならぬ、ユーゴー以来の作家ということが不遜ならば、ユーゴーがわが文学の師ということは云えるかも知れない。
 またこの年は、日本で三菱の岩崎弥太郎が死んでいる、弥太郎の弟の弥之助というのは余が本名と同じことだが、これは我輩の父の名が弥十郎という弥の名を取ったものではあるが、一つには余の父が日本一の富豪にあやからせようと思って、岩崎弥之助の名を取ったのである、そうして写真で見ると岩崎弥太郎の顔が如何にも我輩によく似ていると評する者がある、斯ういう因縁から見立てると、我輩はユーゴーほどの人物になり、同時に岩崎ほどの金持にならねば申訳の立たぬ理窟にはなるだろう。
 英国のジョンラスキンの死んだのは明治二十三年で、丁度余輩が六歳にして初めて小学校へ入学した年であって、この時日本に於ては教育勅語が降下された年である、星亨《ほしとおる》の殺されたのと、福沢諭吉の死んだのは明治三十四年余が十七歳の時であった、トルストイの死んだ年即ち明治四十三年、余が二十六歳の時に本郷座で「高野の義人」を上演したのである。
 三十前の時であったか、熱海の今は無くなっているが、山田屋という宿屋に暫く滞在していたが、その時隣室に八十にもなろうという色の白い小づくりなおじいさんがいて、朝から晩まで殆んど座敷へ籠《こも》りきりで非常におとなしいものであったが、毎朝梯子段をのぼりおりして廊下を渡っては風呂場へ行く、女中などは、あのおじいさんはあのお年で誰も附添というては一人もなく、ああして逗留していなさるが、こちらも心配であります、というようなことを云った、余輩とはよく浴槽の中で一緒になりお互いに丁寧の挨拶をしたものだが、世間話などは少しもしなかった、或時女中にあのおじいさんはおとなしくて朝から晩まで一室に居られるが何をしているのかと訊ねると、何もしないでおとなしくしていられますが、袋の中から将棋の駒を出しては一人で並べて楽しんでいる様ですといった、その後或る機会に女中の持って来た宿帳を見ると右の老人の所に「小野五平」と記してあった、この老人は当時の将棋の名人小野五平翁であったのだ、間もなくこちらが先きであったか先方が先きであったか熱海を引き揚げてしまった。
 後藤新平子を見たのも熱海であった、或晩散歩をしていると、書生に提灯《ちょうちん》を持たせて黒い長いマントを着た長身の男が一人坂の途中に立って海の方を眺めていたが、通りかかってよく見ると、それは新聞の写真顔で見覚えのある後藤――その時は子爵であった、またこの人は東京の帝劇の食堂などでも見かけたことがある、非常な政界の人気男であったが、晩年は振わなかった、しかし余輩ははじめからこの人は余り好きではなかった。
 犬養木堂は議会で見ただけであった、右掌を腮《あご》に、臂《ひじ》を卓上に左の手をズボンのかくしに突込んで、瘠《や》せこけたからだに眼を光らせて、馬鹿にしきった形で議会を見おろしていた処がなかなかよかった。
 それから全く風采を見ない人であるけれども、同時代在野の政治家として、星亨ほどの人物は無いと思う、しかし余は星が殺された時分には島田三郎の信者であって、島田の攻撃ぶりと伊庭《いば》の非常手段に非常なる共鳴をもっていたので、星の偉さが分ったのはずっと後のこと、実際政党人として一人をもって全藩閥を敵に廻して戦える度胸を備えた大物であったと思わずにはいられない、殊に政党の振わざる今日に於て星を思うこと痛切なるものがある、余の生れた三多摩地方は皆殆んど星の党であるのに、余は幼少より少しもそんな感化も影響も受けず、東京へ飛び出しても島田三郎等の説に共鳴して星を憎んだものだが、今日に至ると全く一変している。
 それから、学術界の方で出京早々十四五歳の時、加藤弘之博士の講演を聞いたことがある、所は帝国教育会の講堂、加藤博士は監獄教誨師問題について当時各宗教家間に軋轢《あつれき》があったことからこの際何の宗教にも属していない儒教の人を用いたらよかろうというような説であったと覚えている、その前席であったか後席であったか、片山潜氏の演説があったことを覚えている、片山氏の演説ではじめて自分は「ツラスト」という言葉を覚えた。
 さて、宗教界に於ては仏教の釈宗演《しゃくそうえん》、南天棒あたりの提唱は聞いた、キリスト教会では植村正久、内村鑑三あたりの先生とは親しく座談もし、数回教えも受けた。
 次は、文学界の方面だが、自分は尾崎紅葉も知らない、正岡子規も知らない、夏目漱石も知らない、樋口一葉も知らない、二葉亭四迷も知らない、国木田独歩も知らない、人間としては何等の親しみも無かったけれどもこれ等の人の作物は皆相当に読ませられ感化も蒙《こうむ》っている、師事したり崇拝したりするという事はないが明治では右等の数名が最も傑出した文学者であると自分は認めている、そう/\徳富蘆花氏には二度ばかりお目にかかったことがある、俳句の方で内藤鳴雪翁は何かの折によく見かけたものだ、俳優で市川団十郎は見たといい切れないほどの印象であることを遺憾とする、先代菊五郎は見なかったが先代左団次は見た、新派では高田実が大いに傑出すると思っている、川上音次郎も見た――筈である。
 落語家で聞いたもののうちでは橘家円喬が断然優れていた。
 浪花節で桃中軒雲右衛門も芸風の大きいことに於てずば抜けていた、剣道で旧幕生残りの人で僅かに心貝忠篤氏の硬骨振りが目に止まっているばかり。画家では芳崖も雅邦も玉章も見知らない、危険人物としては、幸徳秋水と大いに議論をしたことがある、まあそういったようなもので、他にも随分偉い人も多かったけれども親しく見ることの機会も与えられず、また特に何等の縁故もなかった、人を知ることに於ても人に知られる事に於ても不相変《あいかわらず》自分は貧弱極まるものである、現在生きて居られる諸名士のうちにも随分不朽の人物がおいでになるに相違あるまいと思うが、これとても一度も親しくお目にかかったことのない方が多い。

     大菩薩峠出版略史

 それから同時代の史上の人物としては勝海舟《かつかいしゅう》がある、勝の死んだのは明治三十二年余が十五歳の時のことであった、無論親しくその人を見たことはないが、その頃出た「氷川清話」という本は愛読したもので、少年時代のこれ等の書によって受けたところの感化は少いものではなかった。
 カールマルクスは余が生れる二年程前に死んでいる、ナイチンゲールとも青年時代までは同じ地球の空気を吸っていたことと思う、レニンもまた史上有数の人物だ。
 相撲では梅ヶ谷、常陸山の晩年を国技館の土俵の前で見たことがある、年寄としての大砲も見た、然し国技館の本場所へは僅に一回行って見ただけで、その後は新聞見物に過ぎなかった、太刀山の全盛時代一度その武者振りを見たいとは思ったが進んで行こうという機会を作ることなくして終った、然し普通の姿での太刀山は屡々《しばしば》見た。
 日本の漢詩学界の豪傑|森槐南《もりかいなん》が亡くなったのは余の二十七歳の時であった。
 渋沢栄一翁の姿は時々見かけた、固《もと》よりこれも親しくは何の交渉も無いけれど、後にその令息の一人秀雄氏と帝劇の関係で知り合いになってから渋沢一家が大菩薩峠の熱心な愛読者であるということを聞いていた、老子爵も都新聞に連載時代から愛読して居られたような形蹟がある、これはまだ歴史の人ではないが岩崎小弥太男もまた都新聞時代から大菩薩の愛読者であったと想像の出来ない事もない。
 明治天皇の御英姿を拝する機会は得られなかったが、大正天皇の行幸を拝したことは一二回ある。

 さて、少くとも吾れと同じ世紀の間に生きていた因縁のある歴史的或は世間的に知名の方々に対しては略《ほぼ》右のようなものであり、尚多少の遺漏があるかも知れないが、それは追って思いつき次第補充するとして次には今日まで共にこの世界に生きて来た有縁無縁の人でさまで有名でもなく、歴史にも世間にも印象を残すのなんのという人ではなく最も平凡に生き平凡に死んだ人の思い出を一つ書いて置きたいのであるが、それはまた少し後廻しにして、この機会に昨今、最も身辺の問題となっている大菩薩峠の出版史というようなのを少し述べて置きたいと思う、それも細かく書くと容易ならぬものだからそれは後日の事として概略だけを書いて置きたい。
 新聞に発表したことは別として、書物として初めてこれを世に出したのは大正―年―月―日玉流堂発行の和装日本紙本「甲源一刀流の巻」を最初とする。
 今でこそ大菩薩には一々何の巻何の巻と名を与えているが、最初都新聞に連載した時は、この巻々の名は無かったものである、それをこの出版に際して第一冊に「甲源一刀流の巻」の名を与えたのが例になったのである、この初版の出版ぶりはかなり原始的なものであった、これより先き自分は弟に本郷の蓬莱町へ玉流堂というささやかな書店を開かせた、同時に自分は活字道楽をはじめた、この活字道楽というのは今日までも自分にとって一つの癌《がん》のようなもので、かなり苦しめられつつあって、容易に縁の切れない道楽の一つであるが、本来どうか自分は一つ印刷所を持ちたい、それは最少限度のものであってよろしい、兎に角半紙一枚刷りなりとも拵《こしら》えて、それを知己友人に配るだけの設備でもよいから欲しい、ということは兼ねての念願であった、そうしてまず築地の活版であったか秀英舎であったかの売店へ行って、一千字ばかり一本ずつ売って貰いたいといって申込んだが、先方では取り合われなかったと思っている、然し、それを三本ずつか何かにして仮名を少し余計に買ってそれからケースを三枚ばかり買い込んでそれで手前印刷をはじめたのである、漢字は大抵の場合は片仮名で間に合せることにして、それから手紙の代りのようなものを組みはじめて見たのだが、それからそれと材料を買い入れ、やがてケースも二十枚ばかりになり、活字も数万個を数えるようになって「手紙の代り」だの「聖徳太子の研究」だのという小冊子を拵えては知己友人に配布していたのである、印刷機は今は校正刷に使っている式の手引という原始的の平版であった、その古機械を三十円ばかりで買って据えつけ、それへ自分でインキつけまでして刷り出したものである、組から刷から活字の買入、紙の買出しに至るまで一切合切自分でやって見たのだが、この道楽は実に面白くて面白くて堪らない程であった、活字を拾って組むという事は彫刻をすると同じような愉快が得られる、余り面白いので熱中してしまって病気にかかるほどであった、そうして追々術も熟練し、活字も殖えて来るに従って、これで一つ大菩薩峠を出版して見てやろうという気になって、それが実行にかかったのはかなりロマンチックな仕事振りであった。
 まずあの手引の古機械は美濃版がかかることになっているが、むろん美濃全紙面を印刷面にするわけには行かない、天地左右をあけて四六版の小型に組めば四面だけはかかることになっている、そこで一台に四頁を組みつけてそうして機械|漉《す》きの美濃半紙を一〆《ひとしめ》ずつ買って来てはそれにかけて甲源一刀流の巻の最初からやり出したものでとにかくあれが二三百頁あってそれを文選、植字、校正、印刷、一切一人で三百部だけ拵えて刷り上げたのである、然し三百部だけは刷り上げて見たけれども、その中には到底文字の読めない刷り損じが幾枚も出来て、結局ものになったのは、やっと二百五六十に過ぎなかったと思う、文選、植字、印刷、解版皆自分の手でやったが、ただ蓬莱町の店から真島町の自宅へゲラに入れて運ばせるのと、手引の向うへ廻ってルラを持たせてインキつけをさせる役目を弟やなにかにやらせたと思うが、それも皆んないやがってかなり泣き言をいっていたようだ、しかしそうして兎も角もあの甲源一刀流の巻の全部だけは右の如く三百部内高は二百五六十程度を刷り上げてそれを自分も折ったり近所の人も頼んだりして折らせた、然し、製本は到底お手製というわけには行かない、これは近所の人の紹介で神田区の或製本屋へ頼むことにした、それから口絵は小川芋銭氏と井川洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]氏に頼むことにした、三度刷位の木版に注文して芋銭氏にはお地蔵様を描いて貰い、洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]氏には竜之助を描いて貰った、それを都新聞の木版彫刻師に頼んで刷り上げ、そうして製本に廻したのである。
 製本の好みとしては、紫表紙|和綴《わとじ》にして金で大菩薩峠の文字を打ち出すことにしたが、これがなかなか思うようには行かなかった、製本屋も本式の大量製産をやる店ではなかったので、なかなか迷惑がったようであるし、自分も亦《また》全く無経験者だから随分奔走した、それから美濃紙の買入についても本郷神田辺の紙屋を一軒一軒自分で聞いて歩いて品があると云えばその店へ坐り込んでその紙の質を一枚一枚吟味して見たりなどするものだから、紙屋でも苦い面をするようだったが、こっちはそれに気がつかなかった、そうしてあちらの店で一〆買い、こちらの店で一〆買って、可成《かなり》質の違わぬものを買い集めたものであったが、その経験によるとたしか一〆が三四円程度であったと思うが、それでも店によって一〆について一円も相場が違うようなことを発見し、商売というものはやっぱり坪を探すものだなということに気がついた、然し、一〆でそんなに値段が違うというのは自分が見ては質にはそんなに差はないと思ったけれども事実品質がそれだけ違うのか或いは取引とかストックとかの関係でそういうことになるものか、何にしても同じ商品でもそういう高低のあるものだというような知識は与えられたのである。
 さて、そうして第一冊の三百部正味二百五六十部の製本がすっかり出来上ってしまった、そうして都新聞の片隅に小さい広告を出し、一円の定価をつけて売り出したのである、本郷の至誠堂という取次店がこれを扱ってくれたが、永年の読者で直接注文もかなりあった、その注文者のうちにはこんな汚ない不細工の印刷では売り物になるものかといって小言をいって来た人もあったが、その粒々辛苦(或は道楽)の内容を知らないのだ、その汚ない不器用の出来上りが実は無上の珍物であるということを知ろう筈はない、その時は紙型はとらなかった、最初組み出した時は、本郷元町あたりの紙型鉛版屋を探し出して少し取らせはじめて見たのであるが、何をいうにも一人で組んで一人で刷って一人でほごす仕事であるから能率の上らないこと夥《おびただ》しい、折角、勢い込んで自転車で毎日取り集めに来る紙型屋も手を空しゅうして帰ることが多いのでとうとう商売にならぬと諦めて引き下ってしまった、尤《もっと》もこの紙型鉛版屋もその時、大菩薩峠のことは知っていたと見えて、
「あゝ、この本は売れますぜ、ですが先生のような方が貴重な時間を割いて斯ういうことをなさるのは随分御損ではありませんか」
 と云ったのを覚えている。
 とにかくそういうようなわけで紙型屋を失望せしめる能率であるから遂に紙型なしで一冊をやり上げてしまって、それから第二冊目の「鈴鹿山の巻」に取りかかったのである。
 この巻は前の巻よりも紙数は少なかったが、兎に角同様にして一切合切手塩にかけてやり通した事は前と変りがない。
 しかし、もうそれ以上は労力が許さなくなった、そこで第三冊「壬生《みぶ》と島原の巻」からは自由活版所の岡君のところへ持ち込んだのである、そうして初めて本職の手に移し形式は前と同じことに和装日本紙にして第四冊「三輪の神杉の巻」第五冊「竜神の巻」第六冊「間の山の巻」第七冊「東海道の巻」第八冊「白根山の巻」第九冊「女子と小人の巻」第十冊「市中騒動の巻」までを出した、製本体裁すべて手製の第一冊第二冊と同じことだが、第三冊からはルビ付になっている点がちがう、それから第一冊第二冊もまた改めてルビ付にやり直して貰うようにしたと思っているが、兎に角一切合切手塩にかけてやり上げた珍物は第一冊「甲源一刀流の巻」と第二冊「鈴鹿山の巻」のフリ仮名のつかないのがそれである、然もそれは二百四五十部しかない処、大部分は東京市中へ出ている、それがやがて大震災に遭ったのだから、もし残存しているものがありとすれば非常な珍物中の珍物で後世の愛書家などの手に入ると莫大な骨董的評価を呼ばれるようになるだろうと思う、先年東日、大毎に連載する当時に、著者が神楽坂《かぐらざか》の本屋で一冊見つけ城戸元亮君に話をすると直ぐに自動車で一緒に駈けつけたが売れてしまっていた、新版のいいものが沢山出ている時代にあれを買った人は果して珍書であることが分って買ったのかどうか、この和製日本紙刷の玉流堂本にもあとで自由活版所にやらせた分もある、春秋社からも和製日本紙本を出しているから、それ等はさほど珍書とはいえない、著者の手製印刷本は前に云う通りルビが付いていない美濃紙四つ折刷の極めて粗末の印刷で、ところどころ不鮮明で読めないようなところもある。印刷発行の日付第一冊「甲源一刀流の巻」は大正―年―月―日印刷の同―日発行となって居り、第二冊「鈴鹿山の巻」は大正七年四月十日印刷の同二十五日発行となっている。
 それをまた誤って仮名のついた後に自由活版所や春秋社版と間違えて、これがその原本ではないかと余の処へ持ち込んで見せる人もあるが、成るほど和装日本紙ではあるけれどもそれは前にいう純粋な手製本とは全く違うのである、ところが、つい近日田島幽峯君が突然持ち込んで来た「鈴鹿山の巻」の一冊は確かにその手製本にまぎれもないから早速証明文を巻頭へ書きつけてあげた、もし諸君のうちで、それに該当するような書物をお持ちでしたら小生の許《もと》までお届け下さればいつでもその証明自署をしてあげる。
 とにかくそういう風にして第一冊第二冊は手製第三冊以下は自由活版所でたしか第十冊「市中騒動の巻」あたりまで進行させて行った処へ或日のことYMDC君がやって来て、春秋社がトルストイ全集で大いに当てた、更に多方面の出版に乗り出したい、就ては大菩薩峠を出版したいがどうだろうという話であった、自分としては最初は道楽ではじめたことも今となってはなかなか重荷であると思っていたところへこの話であり、又春秋社というのも相当に品位のある出版社であり、社主神田豊穂君という人もなかなかよい人である、どうだ相談に乗らないかという話であったから、それは乗れそうな話だ、よくこちらの心持ちが分って出版して貰えればお任かせ申してもよろしい、では二人で神田君を訪問しようということでその時分、たしか神田辺にあったと思う春秋社の楼上へ神田君を訪ねて話をきめてしまったのである、その時に出版について相当条件も話し合い、それから今までの紙型を神田君に引き渡し、そうして話を決めて帰って来た、神田君が梯子段の下まで送って来て、こちらから伺わなければならないのにお出で下さって恐れ入りますというようなことを云ったと覚えている。
 それから、春秋社の手にかかって洋装本と和装本と二通り出すことにした、洋装本の方は四六型で背中の処へ赤い絹がかかった紙板表紙であり、和装の方は大菩薩峠の文字を紙に木版で彫って張りつけたのである、それから出版が本式に玄人《くろうと》の手にかかったのである。
 その発売の時にカフェープランタンでYMDC君が司会者になって出版記念会が開かれた、色々の方面の面振れをYMDC君が集めてくれた、YMDC君はブローカーであり、同時に産婆役のような役目を勤めたのである。
 そのうちに、一時中休みをした都新聞紙上へ松岡俊三君の斡旋でまた書き出したように覚えている、それはもっと前であったか、どうか時と日のところは後から考証して埋め合せる、そのうちに前の赤い裏衿のかかった四六版型ではどうも調子が変だから、これを組み替えてもいいからもっと気の利《き》いたものに改装して出したいという相談の揚句にフト調べて見ると組み版が前に云ったように美濃紙の手引へ四頁組み込んだのが原型になっているから、普通四六版組よりはずっと小さくなっている、そこでそのままそっくり菊半截型《きくはんさいがた》の書物の中に納まるのである、それを発見して神田君がこれは妙々菊半截へおさまるおさまるといってよろこんだ、そこで版をわざわざ組み直さないで、その紙型のままで縮刷本が出来ることになった、最初に出来たのは朱の羽二重に金で縮冊大菩薩峠と打ち出し、倶梨迦羅《くりから》剣や、独鈷《とっこ》の模様を写し出したものと覚えている、そこで、その縮冊で四冊今までの分が完結して発行され、引続きなかなかよく売れたものである、その四冊は第二十の「禹門三級の巻」で終っている、つまり、あの縮冊本の紙数にして四冊全体で二千頁から三千頁の間であり、ここまでがつまり都新聞紙上に掲載したものである、念の為にその巻々の名を挙げて見ると、
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一甲源一刀流の巻、二鈴鹿山の巻、三壬生と島原の巻、四三輪の神杉の巻、五竜神の巻、六間の山の巻、七東海道の巻、八白根山の巻、九女子と小人の巻、十市中騒動の巻、十一駒井能登守の巻、十二|伯耆《ほうき》安綱の巻、十三如法闇夜の巻、十四お銀様の巻、十五慢心和尚の巻、十六道庵と鰡八の巻、十七黒業白業の巻、十八安房の国の巻、十九小名路の巻、二〇禹門三級の巻。
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 この巻々の名は書物にする時につけたので、新聞に掲げている時は斯《こ》ういう名前の無かったことは前に云った通りである、この四冊が絶えず売れていたもので、小生もこの印税が生活のうちの大部を維持していた、春秋社としても相当の金箱であったろうと思う。
 そうしているうちに、例の大震災で東京は殆んど全滅的の光景を現出した、市中の書物は固《もと》より紙型類等も殆んど全部焼き亡ぼされてしまったが、この大菩薩峠の紙型だけが焼けないで残されたのは殆んど浅草の観音様が焼け残ったと同じような奇蹟的の恵みであったのだ、神田君は勇気をふるい起して震災版を拵えた、それは赤く太い線をひいた紙表紙版を応急的に拵えて売り出したのだが、当時災害に遭って物質的にも精神的にも飢え切っていた市民は競うてこの震災版を求めること渇者の水に於ける如くで、この震災版が売れたことも震災直後の出版物としては第一等であったろうと思われるが、然し、ああいう際にこの読み物の与えた市民への慰藉はまた確かに著者としても出版者としても一つの偶然な功徳といってよいと思う。
 その事が終ってから、こんどは大毎、東日へ誘われて続きを書くことになったのである、そこでまた宣伝力が大いに拡大して来た、両紙へ書き出したのが「無明の巻」で、こんどは最初から巻の名をつけることにした、それをまた、この両紙へ執筆したのが七〇〇回ばかりに及んで、それを次々にまとめて、五冊、六冊、七冊の三冊各定価三円位ずつ Ocean の巻までを出した、引続き前のと共に盛んに売れたものである、しかし、大毎東日との関係はそこで絶たれてしまって第八冊の「年魚市《あいち》の巻」は全く新聞雑誌に公表せず書き下しのまままとめて出版したのである、それから第九冊「畜生谷の巻」と「勿来《なこそ》の巻」とは国民新聞に連載したのをまた改めて一冊とし、第十冊「弁信の巻」第十一冊「不破の関の巻」は全く書き下ろしの処女出版、第十二冊「白雲の巻」「胆吹の巻」は隣人之友誌上へ、第十三冊「新月の巻」は大部分隣人之友一部分は新たに書き足して今日に至っているのであるが、その間に円本時代というのがある。
 円本時代というのは改造社の創案で日本の出版界に大洪水を起さしめたものである、大菩薩峠もその潮流に乗じて大いに売り出した、出版者としての神田君も素晴らしい活躍をした、そこで印税としても未曾有《みぞう》の収入を見たという次第である、その後引続いての円本形式をもとの形に引き直そうとしたが、どうしてもそれが出来ずとうとうあの体裁が定本となるようになってしまった。
 然しこの円本時代というものは出版者及び文学者に大きな投機心と成金とを与えたけれども、その功過というものはまだ解決しきれない問題として今日に残されている。
 然し、円本時代が去ったとはいえ大菩薩峠の威力はなかなか衰えなかった、他の出版物は下火になってもこれのみは衰えないのである、そうして春秋社と著者との関係も時々何か小さなこだわりはあったけれども、大体に於て順調であって最近まで来たのであるが、遺憾ながら最近に至って非常に不本意なる事態を惹《ひ》き起すに立ち至ってしまったのは遺憾千万のことと云わねばならぬ。
 その原因は出版社としての春秋社が営業不振に陥ったということが原因で、春秋社の営業不振は一つはまた一般出版界の不振の為で、その出版界の不振というのも遡《さかのぼ》れば円本時代の全盛が遠因を孕《はら》んでいると見られないことはない、小生としては春秋社が振わなくなったからというて、それを疎んずるという理由は少しもないのだし、また栄枯盛衰は世の常だから良い時に共に良ければ悪い時にも共に助け合う位の人情を解せぬ男でもないのである、然し春秋社の営業難の為に自分の著作が犠牲になるということは忍び難いことである、春秋社の窮状は風聞には聞いていたけれども自分は敢《あえ》て立ち入ってそれを慰問するほどのことはないと思い、神田君もまた我輩のところへ窮を訴えて来るようなことは少しもなかったけれども、風聞によると容易ならぬ危険状態であると知ったものだから、そこで春秋社の経営とは別個に大菩薩峠刊行会なるものを起し、両人協同の内容で一年半ばかり進行して行ったがそのうちに小生はどうしても、これは協同ではいけない、自分一個の手に収めることでなければ折角集中した著作物が散々の犠牲になるということを見て取らざるを得なくなったものだから、そこで神田君の手から一切の権利を買収して専《もっぱ》ら自家の手にまとめるの方法をとった、これは実に小生としては予期しないことであり、これが為に余の受けた煩労と出費は多大のものであったけれども、兎も角弟に出資して全部の権利を神田側の手から買い取ってしまったのである、斯うして置かなければ前途の危険測るべからずと見て取ったからである、然しそうはしたものの最後の瞬間までも小生としてはこれは今は春秋社と切っても切れぬ関係にある神田氏の手に於てはいけないけれど、すべて明白にこちらで引受けてしまった後に春秋社及神田家の整理がつけばまた神田君を営業主として守り立って行ける時が来るだろう、そうすれば充分の保証を立てて神田君に引き渡し自分はまた専ら読書創作の人に帰る――と考えていた、こちらには誠意を持ってした仕事なのだが、先方の譲り渡しに大きなワナが仕かけられていたのである、我々は生一本《きいっぽん》に引受けてしまってから、そのワナに引懸ったのである、それが為に事業は最大級に悪化してしまった、先方は本来譲り渡す気はなかったのである、一時の急の為に表面上譲り渡すことにしていたが、譲り渡しはしても譲り渡された素人《しろうと》の吾々が当然進退に窮するような仕組みのワナが拵えられていたのだ、吾々としてはそこまで神田君側が窮迫したり計画したりするほどならば、何故もっと端的にその事情を打ち明けてくれなかったのか、その事情を打ち明けてくれさえすれば、我々と雖《いえど》も貧弱ながら一肌でも二肌でも脱げない筈はなかったろうと思う、それをそうしないで一時譲り渡して忽《たちま》ちばったり引っかかるワナを設けて置き反間苦肉の策がこしらえてあろうとは全く思いもかけなかった、普通の場合ならばこのワナに引っかかって忽ち参ってしまったかも知れないが、然し吾々はそのワナに引っかかりつつ今強引にそのワナを振り切って進みつつある、我々は最初から生一本だから策も略も無いが、この禍根は今後も相当にうるさく残るだろう、いろいろに形式を変えて我々の事業を妨害し大菩薩峠の今後の出版史に陰に陽に動揺を与えることと思う、神田君が、たとえ窮余とは云いながら、貧すれば鈍するという行き方に出でず、誠意を打ち割ってさえ呉れたなら斯ういう結果にはなるまいと怨むより外は無いが、併し今となっては神田君の誠意をどうしても買うことが出来ない、争うだけ争わねば納るまい事態に落ち込んでしまったが、二十年来提携した間柄として何という荒涼悲惨な事実だろう、併し信仰によらないで利による以上は合うも離れるも争うも闘うも是非なき浮世かも知れない、大菩薩峠の信仰を知らずして、その利益得分をのみ思う時には、当然行き詰まり叩き合うの結果が予想される、今後とても、我々は、幾多のワナや落し穴や流れ矢を受け流しつつ大乗菩薩道の為に進んで行かなければならない悲壮の行程は充分覚悟して居らねばなるまい。
 とは云え、この悲壮なる我々の健闘が決して悲愴なる結果をのみ生むものでは無く、前人の未だ曾《かつ》て夢想しなかったほどの大果報もおのずからその間に生れて来ないとも限らないのである。
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中里生|曰《いわ》く
この「生前身後」のことは最初から小生の心覚えを忙がしい中で走り書をしていて貰うのだから、中には事実に相当訂正すべきところもあり、月日に多少の錯誤もあり不明なところもあるだろうと思う、いずれは書物にまとめて出版する時に十分訂正して責任ある書物にしたいと思うが、但し故意に事実を誤ったり誣《し》いたりすることは決してない、その辺を御承知の上で御一読を願いたい。(後略)
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     大菩薩峠新聞掲載史

 時節柄、大菩薩峠と新聞掲載の歴史に就いて思い出話を語って見よう。
 大菩薩峠の胚芽《はいが》は余が幼少時代から存していた処であるが、その構想は明治の末であり、そのはじめて発表されたのは大正―年―月―日の都新聞に始まるのである。
 当時余は都新聞の一社員であった、都新聞へ入社したのは当時の主筆田川大吉郎氏に拾われたので、新聞の持主は楠本正敏|男《だん》であり、余が二十二歳の時であった。
 田川氏が余輩を拾ったのは、小説家として採用するつもりではなく、寧《むし》ろ同氏の政治的社会的方面に助力の出来るように、養成されるつもりであったかも知れないが、頑鈍な小生は甚だ融通が利かなくってその方へ向かなかった、今ならば田川さんを助けて政治界へも進出するような余裕もあったかもしれないが、其の当時は、生活と精進とに一杯で、あたら田川さんの期待に背《そむ》いてしまったらしい。
 そうして偶然にも予想外の小説の方面に進出し、まあ、相当の成功を見るようになったのは、社中の誰も彼もが皆んな一奇とするところであったが、その辺のことも書けば長いから略するとして、さて、大菩薩峠を右のような年月に於て始めて発表したのであるが、作の著手といえばもっと古いのだが発表は右の通り、余が二十九歳の時である、当時余は都新聞の一記者として働いていて傍ら小説を書いたのである、小説を書くと多少の特別の手当があり、小説の著作権から来るところの興行の収入、それから※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵木版付で地方新聞へ転載掲載料等の別収入もあったものである、併し余は演劇映画の上演はその頃から絶対謝絶していたから小説を書いたからといって特に目醒《めざま》しい収入というのは無かったのである。
 その書き出しの間もない頃に、伊原青々園君の紹介で、或る本屋から一回一円ずつで買いたいがという交渉があったことを覚えている、当時としては一回一円は却々《なかなか》よい相場であったらしい、大抵新聞小説などは赤本式に売り飛ばしてしまったらしい、黒岩涙香氏の如きもその探偵小説の版権は無料で何か情誼のある本屋に呉れてしまったというような有様であった。
 併し余は別に考うるところがあったから、興行物も絶対に謝絶し版権も売るようなことをせず、またみだりに出版を焦《あせ》るようなことをしなかった。
 そうしているうちに百回前後で一きりに切り上げるのを例とした、最初の時に与八がお浜の遺髪を携えて故郷へ帰るあたりで切った時分には読者から愛惜の声が耳に響くほど聞えたようである、しかし新聞は自分の持ちものではなし、いろいろ後を書く人の兼合も考えなければならないから、或る適度で止めるのが賢こい仕方であったのである、そうしているうちにまた次の小説が出たり引込んだりする合間を見ては続稿の筆を執ったのだが、あんまりすんなりとは行かなかった、社中でも奨励するものもあり、内心嫌がっているものもあり、どうもそれは已《や》むを得ないことだと思った、それに我輩が誰れが何といって来ても芝居や映画等に同意しなかったものだから、新聞社の景気の為にもその自我を相当に煙たがっていた者もあったようだが、小生はこの小説は長く続く、或は古今|未曾有《みぞう》の長篇になるだろうという腹はその当時から決めていた。
 当時の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵は第一回から通じて井川洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君の筆であった、甚だ稀に数える程洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君が入営するとか、病気とかいう時に門下の人が筆を執ることもあった、洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君も社員の一員として専ら小説の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵を担当し、第一回三回とも毎日二つ描いていた、当時新聞の小説は都でなければならないように思われ、また新聞の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵は洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]でなければならぬように世間向きにはもてはやされたものだ、前に云う通り、小生は小説家出身でないから、最初の時などは大いに洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君の絵に引立てられたものだ、追々洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君の絵とは釣合わないものがあるという事を批評する人があり、寧ろ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]絵なしで行ったらどうかというような意見を述べてくれた人もあったが、兎に角都に於ける十年間ほど洗※[#「厂+圭」、第3水準1-14-82]君と終始して少しも問題は起らなかった。
 それから程経て余輩は都新聞を去らねばならぬ時が来た、それは何でも大正八九年の頃であったと思う、前社長楠本正敏男は新たに下野《しもつけ》の実業家福田英助君に社を譲り渡してしまった、これは主筆田川大吉郎氏が洋行中のことであった。
 この変遷によって、田川氏は無論都新聞を退社した、小生も退社した。
 楠本男がさ様に早急に新聞社を手離したというのは、社運が振わないという意味ではなかった、余が在社時代を通じての都新聞は経済状態に於ては東京の新聞中屈指のものであって、「時事」か「都」かと云われたものであるが、「都」はその読者の大部分が東京市中にあって、収入が確実で、経営の安定していることは他の新聞の羨望の的であった、その新聞を楠本男が急に手離すようになったのは、年漸く老い社務も倦《う》んで来たせいであろうと思われる、福田氏に譲り渡しの間を周旋したものは松岡俊三君であった。
 松岡君は今は山形県選出の政友会の代議士となっているが都へ入社したのは余と同時であった、当時余は二十二歳、松岡君は二十八歳小生はくすぶった小学校教員上り、松岡君は紅顔の美男子であった、そのうち松岡君は市政方面から政治界へ進出する機会を作ったが、小生は不相変《あいかわらず》都新聞の第一面の編輯でくすぶっていたのだ、そのうち松岡君は政友会へ入り込んだ、これは市政記者として出入している間に森久保系や何かと懇意なものが出来たせいもあるだろう、余輩もまた同君の政界進出を推奨して、とてもやる以上は寧ろ政友会へ入ったらよかろうと薦めたこともある、しかし、都新聞という新聞はその歴史に於て決して政友系ではあり得ない、先代楠本正敏男が改進系であり、その後の社長も蘆高朗氏も三菱と縁戚関係があり、今の主筆田川氏は大隈系の秀才であり、田川主筆の次席大谷誠夫君は一時円城寺天山あたりと改進党党報の記者をしていたこともあり、編輯氏の山本移山君また四国に於て進歩系の有力家の家に生れた人であったと記憶する、そこを松岡君が政友会の人となり、星亨《ほしとおる》の追弔文などを書き出したものだから、大谷君が激怒したことがあったように記憶する、つまり松岡君は大谷君が紹介して入社させ、自分が影日向《かげひなた》になって育てたのに、怨《うら》み重なる政友系の方へ寝返りを打たれたので憤激したものであろうと思っている。
 松岡君はそういう才物であったし、それに男っぷりがいいものだから、先輩に可愛がられる特徴をもっていて、随分金を融通することに妙を得ていた、その松岡君が周旋して都新聞を足利の実業家福田英助氏に買わせた。
 そうして福田君を社長にして自分が先輩を乗り越えて副社長の地位に坐り込んで、その勢で選挙に出馬して首尾よく代議士の議席を齎《か》ち得た、無論政友系として下野の鹿沼あたりから出馬したが、その背景には横田千之助がいたと思われる、松岡と横田との交渉は何処から始まったか知れないが、松岡は大いに横田をつかまえていたらしかった、それと同時に都新聞の背後にも横田系即ち政友系が大いに進出して来た模様であった、しかし社中は従来の歴史を重んじて都新聞を政友系とすることには極力反対していたようであった、これには横田の勢力も松岡の才気も施す術《すべ》が無かったようだ、しかし小生としては此度の社の変遷にも何か重大な責任の一部分がありそうな気がしてたまらないからその何れにも関せず、ここで清算しなければならぬと考えたから、当時松岡君がわざわざやって来て是非若いものだけであの新聞をやりたいから踏み止まってくれと説得して来たのは必ずしも儀礼ばかりではない事実上、若いものを主として主力を政友系に置いて大いに発展して見るつもりであったろうと思う、しかし余は全く辞退して前社長楠本男、前主筆田川氏に殉じたとは云わないが、その時代で一時期を画して後任者の経営のもとには全く関係のない身となった、松岡君も我輩の意を諒してその清算に同意してくれた。
 そこでたぶん十一年間ばかりの間であったろうと思うが、都新聞と余輩との縁は全く断たれてしまったのだ。
 そこで大菩薩峠の続稿の進退に就いても当然独立したことになった、その前後に福岡日日新聞で是非あれの続稿を欲しいという交渉が同社の営業部主任たる原田徳次郎君からあったのである、福岡日日へはその前後二三の連載小説を書いたことがあった、そこで原田君の懇望があった時に我輩も考えた、福岡日日新聞という新聞は地方新聞ではあるがなかなか立派な新聞である、新聞格に於ては当時の東京の一流新聞に比べても劣らない、新聞格としては都新聞などよりも上だといってもよろしい、その位の新聞だから、新聞に不足はないけれども、どうも都下の読者でまた後を読みたいという読者が多分にあるのである、どうか東京の読者に読ませるようにしたいものだと思わないことはなかったし、その当時東京朝日新聞などは大いに我輩に目星をつけていたのであるが、妙なことから行き違いになってしまった(この顛末はあとで委しく書く)、しかし、福日が向うからそういう懇望であって見ると、こちらも漸く決心して遂に原田君と約束だけはしてしまって一回の原稿料その時分は八円(これもその当時としてはなかなかいい値であった)ということまで先方の申出で決まってしまったと覚えている。
 そうしているうちに、どういう処から聞きつけたのか、どうして知れたのか、その事は今記憶に無い、或いは小生から出所進退を明かにする為に一応その旨を通告したのかとも考えられるが、兎に角それが松岡君の耳に入ると、松岡君が小生の処へ飛んで来た、ここは松岡君のいいところで、その時分余輩は本郷の根津にいたが、そこへ松岡君が飛んで来て、
「大菩薩峠が他新聞に連載されるとのことだが、これは以ての外のことだ、第一あれほどの作物をあちらこちらへ移動させることは作物に対する礼儀ではないし、色々の事情は兎も角も、発祥地としての都新聞が存在している、殊に友人としての自分が、新聞経営の責任ある地位に在《あ》り、貴君としても他へ身売りをするような調子になっても困る、都新聞としても他へやることは不面目である、どうか君と我との友人としての意気に於て他新聞へ掲載することは見合せて貰いたい、そうしてやる以上は我が都新聞で自分が責任を持つから同一条件の下に引続いてやってくれ、頼む」
 というようなわけであった、松岡君も斯ういう処はなかなかいい肌合があるので、我輩もその意気には泣かされるものがあった、しかし福日との契約が最早や厳として成立しているのである、それを飜すことは出来ない、いや、それは何とでも、若《も》し貴君の方から云い難《に》くければこちらから言葉を尽して掛合ってもよろしい、というようなわけで、到頭我輩も松岡君の意気に動かされて、では小生からも一つ福日へ申訳をして見ようということになった、そこで福日でも原田君が他の新聞なら兎に角最初の発祥地である都新聞からの希望では已《や》むを得ないというようなことで、福日も存外分ってくれて話が纏《まとま》って、それからまた社外にあって都新聞の為に書き出すことになった。
 それは今の何の巻のどの辺からであったか記憶しないが、相当に続けて行く、松岡君も自分の責任上福日と同一条件で無限に続けてもよろしい、という意気組であったのだが、扨《さ》て進んで行くうちに社中でまた問題が起ったらしい、原稿料が高いとか安いとかいうこともあったろうし、また、無限に続くというようなものを背負い込んでも仕方がないではないかというような苦情もあったろうし、また内容その他に就いても随分批難か中傷かも出て来たらしい、余輩は出社しないからその辺の空気には直接触れなかったが、かなり社中の荷厄介にはなっていたらしく、さりとて松岡君は面目としてどうも社中の空気が困るから見合せてくれとは云ってこられなかろうと思われる、そこは我輩もよき汐合《しおあい》を見てと思っているうち新聞の方でとうとう堪え切れず、編輯氏の山本移山君が直接に余輩の処へやって来た、山本君は我々や松岡君より先輩で今も都新聞の編輯総長として重きをなしている人だが、同氏も何か堪え切れないものがあったと見えて、当時余輩は早稲田鶴巻町の瑞穂館という下宿屋(これは小生が買い受けて普請をして親戚に貸して置いたもの)の隅っこにいたのであるが、そこへ山本移山君がやって来て、どうか一つ止めて貰いたいという膝詰談判だ。
 そこで余輩は云った、それは松岡君との約束もあるが、小生はそんな約束を楯にとって、ゴテようとは思わないが、何しろプツリと切ることは読んでいてくれる人の為に不忠実である、何でもたしか年の暮まで僅かの一月以内かの日数であったと思うが、ではそれまで書きましょう、そうして中止するにしても相当のくくりをつけて読者にうっちゃりを食わせるような行き方でないように仕末をつけて止めようではないかもう二三十回の処でたしかその年が終える、一月早々別の小説を載せるということは都新聞で幾らも例のあったことであるから、そうしたらどうかという提案を持ち出したが、山本君は、それはどうも困る、自分の立場としては今直ぐに止めて貰いたいという云い分であった、山本君も決して分らない人ではないが、詰り社中の空気が如何に大菩薩峠連載に好感を持っていなかったかという、その力に余儀なくされたものであろうと思う。
 そこで余輩は直ちに答えた、そういうわけならば決して私は要求しません、即時に止めましょう、斯ういう話合で山本君は帰ったのだが、その時に帰り間際に山本君も、しかしまた他の新聞から交渉でもあった時は、都新聞の方へ知らせて貰いたいという希望を一言云われたが、その時小生は、それはお約束は出来ますまい、と云った。
 右のような次第で、こんどは本当に都新聞と絶縁をしてしまったのだ、その時までは都新聞の方でも絶えず新聞も送っていてくれたが、それが済むと新聞の寄贈も無くなり、こちらも辞退した、つまり松岡君との交渉を山本君が代って清算してくれたのだ、小生としては松岡君の面《かお》も立て、都新聞への情誼も尽したつもりでいる、この上他の新聞から交渉がありましたが如何ですかあなたの方はというようなことを云ってやることの出来る筈のものではない、そこで都新聞と大菩薩峠との交渉は一切清算されてしまったのである。
 さてそれから幾程を経て、東京日日と大阪毎日新聞との交渉になるのである。



底本:「中里介山全集第二十巻」筑摩書房
   1972(昭和47)年7月30日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2004年6月15日作成
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