青空文庫アーカイブ

大菩薩峠
椰子林の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)逆《ぎゃく》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)宇治|醍醐《だいご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+卒」、第3水準1-15-7]
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         一

 今日の小春日和、山科の光仙林から、逆《ぎゃく》三位一体《さんみいったい》が宇治|醍醐《だいご》の方に向って、わたましがありました。逆三位一体とは何ぞ。
 信仰と、正義と、懐疑とが、袖をつらねて行くことであります。本来は、まず懐疑があって、次に正義が見出され、最後に信仰に到達するというのが順序でありますけれども、ここではそれが逆になって、懐疑が本体になって、正義と信仰とが脇侍《わきじ》であり、もしくは従者の地位しか与えられていない、というところが逆三位一体と、かりに名づけたもので、三つ一緒に歩いているから三位の観を呈するまでのこと、内心に於ては必ずしも一体でなく、また一体ならんと予期してもいない。
 信仰がまず正義を呼んで言いました、
「ねえ、友さん、しっかりしなくっちゃいけないよ」
「うん」
 ここで、まず、信仰と正義との受け渡しがありました。
 女がまず口を開いて、男がこれに応じたこと古事記の本文と変りはありません。だが、ここでは巻直しにならないで、女の方があくまで押しが強い。
「お前という人は、正直は正直なんだが、信心ごころというものがありません、人間、正直はいいけれども、正直ばかりじゃ世に立てないよ、信心だね、人間のことは神様仏様がお見通しなんだから、神様仏様を御信心をして、それからの話なんですよ、今日はお前、お嬢様が御信心ごころでおいでになるんだから」
 ここまで教訓した信仰の鼓吹者は別人ならず、江戸の両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方、お角さんなのです。お角さんはあれで信心者だから、仮りに三位一体の信仰の一柱《ひとはしら》に見立ててみたたまでのことで、その神妙な指令の受方《うけかた》になっているのが即ち宇治山田の米友なのであります。
 宇治山田の米友は正義の権化《ごんげ》です。そこで、これを三位一体の一柱と見立てたが、信仰の申渡しに反対して、正義はあえて主張を試みないでいると、懐疑が代っておもむろに、それをあしらいかけました。
「わたしは信心者ではありません」
とまず、おごそかに否定をしたのは、逆三位の本体たる懐疑者の声明としては至当の声明であります。
「わたしは、神様も仏様も信じません、では何を信ずるかと言えば、まあ自分を信ずるというほかはないでしょう、だが、その自分も信じきれないのでね、何を信じていいかわからないんですよ」
 覆面をして、背たけのすらりとした美人、姿だけを見て言う、お銀様です。否定された信仰者はあえて動揺もしないで、直々に受取って、
「わからないでする信心が本当の信心で、わかってする信心は本当の信心じゃないって、伝道師さんがおっしゃいました」
「そんなことがあるものですか」
 信仰者が、逆らわずに補綴《ほてい》を加えようとするのを、懐疑者は立ちどころにハネ飛ばして、
「そんなばかなことがあるものですか、わからないで何の信心ができますか、物の道理がわかって、はじめて信心をする気になるのでしょう、わからないものを信ぜよと言って、信ずることができますか」
「いいえ、お嬢様、そこのところが……そこのところが、その何なんです……」
 何か相当の拠《よ》りどころはあるらしいが、口に上せてはっきりと補うことができない、そこに信仰者の悶《もだ》えがありました。ハネ飛ばされてもしょげもしないし、反撥もしないところに、信仰に於ける相当の自信があることはあると受取れるのですが、さて、立ちどころにその反撥に応酬して、相手を取って押えるだけの論鋒が見出せない、その悶えをかえって懐疑者が補ってやるという逆三位。
「いいんですよ、親方のは親方のでいいんですよ、お前さんは信心者なんだから、それでいいのよ、鰯《いわし》の頭も信心から、って言うでしょう、それは軽蔑して言うんじゃありませんよ、鰯の頭をでさえ信じきれる人が結局エライんです、鰯の頭をでさえ信じ得られる人が、人間を信じなくてどうするものですか、人間を信じ得られる人は、神をも、仏をも、信じ得られる人なんです、それは幸福です、偉大でさえあるんです、ところが、わたしときた日には何ものをも信じ得られません、悲惨ですね」
 ここに至って、女軽業の親方はグウの音が出ませんでした。相手から逆十字がらみに抑え込まれたのですから、抗弁の仕様もなく、さりとて納得しきるには頭が足りない。こうして女軽業の親方は、いつもこの暴女王ばっかりが苦手《にがて》なのです。
 なるほど、お角さんという人は、信心者は信心者に相違ないけれども、その信心たるや、あまりに広汎にして色盲に近く、その祈念たるや、あまりに現実的にして取引に近いだけのものです。それは熱田神宮へ参詣して、そっと茶店の女中に耳打ちして、「この神様は何にきく神様なの」とたずねて女中を面喰わしたことでもわかります。ドコの荒神様《こうじんさま》を信心すれば金談がまとまるとか、ドコの聖天様《しょうてんさま》は縁結びにあらたかだということは、江戸府内ならば大抵は暗記していて、おのおのその時と事件に合わせることを心得ての信心ですから、いわば神仏に信心を捧げて置いて、それからお釣を取ろうという信心なのです。そうかといって、その信心を捧げた神様仏様がお釣をくれないからと言って、それを怨《うら》むようなことは微塵《みじん》もなく、それはちょうどこの時分に、神様が御不在であったり、さらずば自分の信心の仕方に足りないところがある。己《おの》れの信心の誠意は自ら疑うことはないが、その作法に何ぞ神様仏様のお気に召さないことがあって、それでお聞入れにならないから信心が届かない、こう信じているのだからかえって己れを直《なお》くすというわけで、この点では、やはり功利以上に超越した信心者の名を許して、さしつかえがないと言わなければなりません。

         二

 かくて、この三位一体は、山科から醍醐《だいご》への道を、小春日をいっぱいに浴びて、悠々閑々《ゆうゆうかんかん》と下るのであります。道は勾配《こうばい》になっているわけではないが、さながら満帆の春風を負うて、長江に柔艫《じゅうろ》をやるような気分の下に、醍醐へ下るのであります。
 お角さんは、称して、お嬢様は御信心のために醍醐へいらっしゃるのだと言う。御当人は、それを排して、わたしが醍醐へ行くのは信心のためではありませんと言いきったが、それでは信仰以外の何の目的を以て行くのか、それは言いません。さりとて、今はその時でないから、醍醐までお花見と言ってもそれは成り立ちません。単純に散歩の気分ならば、なにも特に醍醐を指定する理由もなかろうと思われるけれども、それを問いただすことをしないのが、お角さんの気象でもあり、信心者の大らかさでもあり、且つまた、この暴女王をあしらいの勘所《かんどころ》でもあると思いますから、お角はあえてそれ以上には押すことなく、また押すべき必要もないと口をつぐみます。
 しかし、本来を言えば、お嬢様の醍醐をたずねる目的は、三宝院の庭と絵とを見んがためでありました。
 それをそそのかしたのは不破の関守氏でありまして、関守氏は、つい昨晩、お銀様に向って、こんなことを言いました――
「醍醐の三宝院へ参詣してごらんなさいませ、あそこの庭が名作でございます、しかし、庭よりもなお、その道の人を驚かすのは、国宝の絵画彫刻でございまして、その絵画の数々あるうちに、ことに異彩を極めたのは大元帥明王《だいげんみょうおう》の大画像でございます、大元帥《だいげんすい》と書きましても、帥の字は読まず、ただ大元明王と訓《よ》むのが宗教の方の作法でございますが、あの大画像は、いつの頃、何者によって描かれたものか存じませんが、いずれは一千年以前のものでございましょう、幅面の広大なること、図柄の奇抜なること、彩色のけんらんなること、いずれも眼を驚かさぬはありません。但し、眼を驚かすために描かれたのではなく、密教の秘法を修する一大要具として描かれたものに相違ございませんが、絵そのものが、たしかに素人《しろうと》をも玄人《くろうと》をも驚かさずには置きません、実にめざましいグロテスクを描いたものです。大元帥明王――そのいかにグロテスクであるかは一見しないものにはわかりません、宗教的にはなかなか以て神秘幽玄なる見方もあるに相違ございませんが、これを単に芸術的に見てですな、芸術的に見て、実に筆致と言い、墨色と言い、彩色といい、全体の表現と言い、すばらしいものです。ことにその彩色が――彩色のうち、人目を奪う紅《あか》と朱《しゅ》の色が大したものです。なにしろ千年以上の作というにかかわらず、朱の色が、昨日|硯《けん》を発したばかりの色なんです、今時の代用安絵具とは違います、絵かきが垂涎《すいえん》しておりますよ、こんな朱が欲しいものだ、ドコカラ来た、舶来? 国産? いかなる費用と労力をかけても、それを取寄せてつかってみたいとの心願を致しますけれど、あんな朱はドコで求めることもできません、科学者は研究をはじめましたが、今以て、その原料が何物であるかわからんそうです、動物質か、植物質かさえもわからないのだというのですから――つまり、千年の昔に悠々として使いこなした顔料を、千年後の今日の科学で解釈がつかないというんですから、現代の科学も底の知れたものです。あれはぜひ一見の必要がありますな」
 こう言って説き立てたものですから、お銀様が、その明日という日に、この通り醍醐詣でとなった始末であります。随行に選ばれたのはお角と米友、これは不破の関守氏の当然の見立てでもあり、本人たちも納得したところであります。
 山科から醍醐までは下り易《やす》い道です、歩き易い距離でした。道は平坦《へいたん》だが、前に言う通り、流れに棹《さお》さして下る底の道であります。ほどなく、逆三位一体は、醍醐三宝院の門前に着きました。

         三

 お銀様とお角さんが三宝院のお庭拝見をしている間、米友は門前の石橋の欄《てすり》に腰打ちかけて休んでおりました。そこへ、六地蔵の方から突然に、けったいな男が現われて、
「兄《あに》い、洛北の岩倉村に大賭場《おおとば》があるんだが、ひとつ、かついで行かねえか、いい銭になるぜ」
と、いったい、藪《やぶ》から棒に、誰に向って、こんなことを言いかけたのか、米友としても、ちょっと途方に暮れて、忙がわしく前後左右を見渡したけれども、自分のほかに手持無沙汰《てもちぶさた》でいる人っ子はないから、多分、このおいらという奴を目にかけて呼びかけたんだろうが、それにしちゃあ、人を見損ってるぜ。
「兄い、どうだ、行く気ぁねえか、いい銭になるぜ、洛北の岩倉村に前代未聞《ぜんでえみもん》の大賭場があるんだから行かねえか」
 同じようなことを繰返して、今度は、ひたと自分の眼の前へ足を踏みつけて突立ち止っての直接談判《じかだんぱん》だから、もう思案の問題ではありません。
「おあいにくさまだよ」
と米友が言いました。
「おあいにくさま、いやはや」
と、けったいな男は苦笑いをしたが、それで思い止まるとは見えない、ニヤリニヤリと笑いながら、米友の前におっかぶさるような姿勢になって、
「そんなお愛嬌《あいきょう》のねえことを言わねえもんだ、やびなよ、やびなよ」
「やばねえよ」
「やびなよ」
「やばねえてばなあ、しつこい野郎だなあ」
 ここで、やべ[#「やべ」に傍点]とやばぬ[#「やばぬ」に傍点]の押問答になりましたが、やべ[#「やべ」に傍点]というのは「歩め」或いは「歩べ」という急調な訛《なまり》でありまして、ところにより、俗によって使用されるが、必ずしもこの辺の方言とは思われない。ただ、やびなよ、やびなよ、と言うのは、先方の希望であり、懇願でなければならないし、やぶ[#「やぶ」に傍点]と、やばぬ[#「やばぬ」に傍点]とは、こっちの勝手であり、権能でありますから、断じてそれを強要すべきではありません。しかるに、このけったいな男は、懇願と強要との区別がつかないらしいから、米友は改めて、このけったいな男の面《かお》を見上げてうんと睨《にら》みつけたが、そのとき気がつくと、このけったいな男は、肩にしこたま背負いものを背負っている。袋入りの米ならば五升も入りそうなのに、米ではなくて米より重いもの、袋の角の突っぱりでもわかる、この中には銭という人気物がしこたま[#「しこたま」に傍点]つめてある。そこで、米友も、このけったいのけったいなる所以《ゆえん》を覚らないほどのぼんくらではない。よくある手だと見て取ったのは、渡る世間によくあるやつで、つまり、ばくち打ちの三下《さんした》、相撲で言えば関取のふんどしをかつぐといったやからと同格で、貸元のテラ銭運搬がかりというものがある、そいつだな、そいつが、どうも己《おの》れの責任が重くてやりきれねえ、そこで路傍のしかるべきルンペン子を召集して、自分の下請をさせることはよくある手である。今、おれをその下請のルンペンに見立てやがったのだ、ということを米友が覚ったから一喝《いっかつ》しました。米友から一喝されても、その野郎はなおひるまず、
「二貫やるぜ、二貫――洛北の岩倉村まで二貫はいい日当だろう」
「お気の毒だがな、おいらあ主人持ちだ、こうして、ここで、ひとりぽっちで、つまらねえ面《かお》をしているようなもんだが、職にあぶれてこうしてるわけじゃねえんだぜ、頼まれておともを仰せつかって、御主人がこの寺の中へ入っている、おいらはここで待ってるんだ、だから、誰に何と言って頼まれたからって、御主人をおっぽり出して銭儲《ぜにもう》けをするわけにゃあいかねえ」
 米友として、珍しく理解を言って、おだやかに断わりました。
 これほどまでに理解を言って聞かせたら、いかにしつっこい野郎とても、そのうえ強《し》いることはあるまいと思っていると、そのけったいな男が、突然きょろきょろと四方《あたり》を見廻して、落着かないこと夥《おびただ》しい。今まで米友を見かけて口説《くど》いていた眼と口とが、忙がわしく前方へ活動をして、面の色さしまで変ったのは挙動が甚《はなは》だ不審です。米友も解《げ》せないと思って、その男の落着かなくなる目標の方を見やると、笠をかぶった二三人連れの人がこちらを向いて、徐々に歩んで来るのです。距離としてはまだ一丁の上もあるから、親の敵《かたき》にしたところで、そう今から狼狽するには及ぶまいと思われるのですが、この男の体勢はいよいよ崩れて、ほとんど腰の据えどころがありません。
 先方の動静を見ると、この男を狼狽せしむるような、なんらの体勢を示しているのではない。いわば先方は、こちらに、けったい在《あ》ることも、グロ在ることも一向知らず、平常の足どりで歩んで来るのですが、その姿形だけを見て、このけったいをして身の置きどころなきを感ぜしめるほどの権威が、先方に備わっていると見なければなりません。つまり、あれは十手取縄をあずかるお役人なんだ。その途端、何と思ったか、けったいな野郎は、背中のしこたま重い銭袋を、米友の頭から投げつけて置いて、自分は一散飛びに飛んで横丁の竹藪《たけやぶ》の中へ飛び込んでしまいました。
「危ねえ――」
と叫んだのは、けったいな野郎でなく、米友の声でありました。

         四

「危ねえ――」
 これは米友が叫びました。全くあぶないのです、五升袋へ詰めた銭を、まともに頭からブッつけられた日には、たいていの面はつぶれてしまう。米友なればこそ体《たい》をかわして、銭の袋は後ろへ外したけれど、余人ならば相当の怪我です。だが、出来事は、それっきりの単純なものでありました。
 目標の笠は、ほどなく米友の前へ、ずっしずっしと通りかかりましたけれど、何の騒がぬ面色、足どりで、そのうちの一人が、チラと米友を横目に見ただけで、その前を素通りしてしまったのですから、けったいとも言わず、薬袋《やくたい》とも言わず、何事もなく素通りをしてしまったのですが、その一行は山科方面から来たには来たが、六地蔵の方へ向けて行くかと思うとそうでなく、米友の眼の前を素通りして、すぐに鍵の手に曲ったのは、三位一体の二体がすでに入門したと同じく、三宝院の門に向うのでありました。
 宇治山田の米友は、しばしそれを見送っていたが、二三子の姿は三宝院の境内《けいだい》に消えても、竹藪に飛び込んだ、けったいな野郎は容易に二度と姿を見せません。
 時が経つうちに、米友もようやく退屈を感じ出してきました。退屈を感じはじめると、この男は生来短気なのです。短気が癇癪《かんしゃく》を呼び出して来るのが持前なのですが、ようやく少し焦《じ》れ出すと共に、後ろ捨身に投げられた銭金袋に目がつかないわけにはゆきません。これが米友でなかった日には、何事を措いても、このしこたま[#「しこたま」に傍点]のテラ銭が気になってたまらないはずなのですが、今になって、ようやく草むらの中に、かっぱと伏している袋に気がついたのは、無慾は感心としても、この男の神経としては鈍感に過ぎる。
「やっけえなものを置いて行きやがったな」
 試みに、草むらの中へ分け入って、その袋に諸手《もろて》をかけてみました。重い。幸いにしてこの男は稀代の怪力を持っている。
 かくて、この金袋を抱き起してみたが、さてこれからの処分法が問題です。
 実は問題でもなんでもありようはずはない。およそ、盗難や遺失物は交番へ届けさえすれば、それで済むことなのです。当時まだ交番が出来ていない、出来ているとしても、その近所にないというならば、これに代る一時の手段はいくらもあるべきはずなのです。これを米友が、重大なる問題かの如く悩み出すのも、この男に限って、交番へ届けるという簡単な手続を、極めておっくう[#「おっくう」に傍点]がる理由があるようであります。
 届ける分には何もおっくう[#「おっくう」に傍点]はないが、届けた後には必ず住所姓名を問われるにきまっている、その住所姓名を問われるということが、今日のこの男にとっては苦手なのです。
 彼は、自分で自分を隠さなければならぬ不正直さはどこにも持っていない。また自分で自分を韜晦《とうかい》せねばならぬほどの経国の器量を備えているというわけではない。それなのに、天地の間《かん》に暗いことのない精神を持ちながら、天地を狭められたり、行動を緊縛されたりするというのは、何のわけだか、自分で自分がわからない。ただその度毎に蒙《こうむ》る不便、不快、不満というものは、いかばかりか、ややもすれば生命の危機に追い込まれることも今日まで幾度ぞ。
 そうかといって、一身の危険を回避せんがために、公道の蹂躙《じゅうりん》を敢えてしてはならない。正義の名分をあやまらしめてはならない。届け出て、住所氏名を問われるが、いかに個人的に不利、不益、不快、不満であっても、遺失物に対して相当の責任を取るべきことは、免れ難き人間の義務である。
 かくて、五升袋の銭塊を前にして、米友が、とつおいつと思案に暮れました。

         五

 宇治山田の米友が、門前に於て、かくばかり当惑している時に、お銀様とお角さんとは、三宝院のお庭拝見をしておりました。
 二人の東道役《とうどうやく》をつとめるのが、院に子飼いと覚しい一人の小坊主でありましたが、最初からこの坊主に気を引かれたのは、女軽業の親方だけではありません、お銀様でさえが、玄関に現われたその瞬間から、ハッとした思いです。
 というのは、この小坊主が、別人ならぬ宇治山田の米友に生きうつしなのです。違うところは、米友よりも年まわりが一まわりも違うかと思われるほどの幼年ですから、背丈も、本来高くもあらぬあの男をまた一けた低くしたようなもので、これが友しゅう[#「友しゅう」に傍点]の弟でなかったら、世に米友の弟はないと思われるばかりです。
 そこで、お銀様とお角さんが、思わず眼と眼を見合わせてうなずいたのは、二人ともに、ぴったりと観るところが一致したので――これは一致しないわけにはゆきません、一致もこの程度になると、※[#「口+卒」、第3水準1-15-7]啄同時《そったくどうじ》のようなもので、言句を言わないで眼だけでよくわかる。
「よく肖《に》ていますねえ」
「よく肖ているわねえ」
 言語に発して、しかして後、呼吸を合わせる程度のものではなかったのです。昭和現代の支那事変のつい近ごろ、日本で、ある映画会社がフィルムに製造すべく、かの憎むべき蒋介石《しょうかいせき》のモデルを、一般に向って募集したことがありましたそうです。そうすると、四国かドコかの山中から現われた一人の応募者があったそうです。テストに現われた係員が、まず呆気《あっけ》に取られたのは、この応募者が、蒋介石に肖ていること、肖ていること、そっくりそのまま以上、本人よりもよく肖ていたそうです。斯様《かよう》にして求めさえすれば、日本の中にさえ蒋介石よりも蒋介石によく似たという人間も現われるものなのでありますが、ここでは求めざるに不意に現われたものですから、さすがの暴女王様も、お角親方も、舌頭を坐断されてしまって、うなずき合うよりほかに言語の隙を与えないほどでありました。
 もし、ところがこうしたところでなかったら、お角親方は、啖呵《たんか》を切って叫んだかも知れません――「これは友の舎弟なんですよ、間違いっこはありません、本人よりもよく友に似てるんです、もともとあいつも上方の生れと聞いていました、家もあんまりよくないもんだから、藁《わら》のうちから別れ別れにされて、一匹は関東へ、一匹はこっちへお弟子に貰われたんですよ、友を呼んで見せてやりましょうよ、生別れの兄弟の名乗りをさせてやろうじゃありませんか、ほんとうに当人よりもよく似ていますよ、これがあの男の弟でなかったら、世間に弟というものはありゃしません」
 こう言って、親方まる出しのけたたましい叫び声を立てて、権柄で友を呼び込んで、否も応も言わさず、兄弟名乗りをさせたかも知れません。しかし、ここはところがらですから遠慮をしました。ところがらをわきまえて遠慮のたしなみがあるところが、さすが女親方の取柄で、本来自分が字学が出来ないし、身分に引け目があるところから、場所柄によっては必要以上におびえ込み、謙遜以上に謙遜してしまうことが、この女性の美徳といえば美徳の一つでありますことがまた、ここでけたたましい叫びを立てなかった一つの理由なのであります。
 そこで、二人がうなずき合っただけで、この奇遇的小坊主の案内を受けて、玄関から名刹《めいさつ》の内部の間毎の案内を受けようとする途端、これはまた運命の悪戯《いたずら》! とまでお角さんをおびえさせて、一時《いっとき》、その爪先をたじろがせたほどの奇蹟を見ないわけにはゆきません。
 本人よりもよく米友に肖《に》ているこの小坊主が、先に立って案内に歩き出したところを見ると、どうでしょう、これが跛足《びっこ》なのです。
「まあ、お嬢様!」
と今度は音に立てて、さしもの親方が、オゾケを振って一時立ちすくんだのは無理もありません。暴女王でさえが覆面の間から鋭い眼をして、この小坊主の足許《あしもと》を見定めたほどであります。
 世に遺伝ということはあって、子が親に似ているのは当然中の当然。その子の弟が、兄に似ていることも当然中の当然。親が頭がいいから、子も頭がいいというのも不合理ではない。子の体格のいいのは、親の譲りものというのも無理はないし、悪いのになると、悪疾の遺伝、悪癖の遺伝までも肯定されるが、跛足が遺伝するということは、あまり聞かないことです。
 親が跛足であったから子が跛足、兄貴が跛足だから、弟の跛足に不足はないということは言えないのです。賢愚と、不肖と、性格と、体格には、遺伝があり得るけれども、怪我というものは後天的なものだから、兄貴が負傷して跛足になったからとて、弟まで怪我をして跛足になり得るという遺伝はないのです。
[#ここから2字下げ]
おっちょこちょいと
おっちょこちょいが
夫婦になれば
出来たその子が
また、おっちょこちょい
[#ここで字下げ終わり]
 これは、ふざけたような口合い唄でありますけれども、また一面の真理たるを失わない。
 おっちょこちょいの倅《せがれ》に、おっちょこちょいが生れるということは有り得ることで、王侯将相豈種《おうこうしょうしょうあにしゅ》あらんやというは、それは歴史上を均《なら》して、幾千億万分の一の特例であって、標準とすべくもありません。百姓の子は百姓になり、大工の子は大工になり、町人の子は町人になることに、わけて階級制度のやかましい日本の国では、滔々《とうとう》たる世間並みのおきてになっているが、跛足《びっこ》の子が跛足であり得ること、兄が跛足なるが故に、弟も跛足という常識はありません。
 腕の喜三郎親分(前の政友会総裁鈴木喜三郎氏のことではない)は、兄貴が喧嘩で片腕を失ったから、おれも両腕があっては面白くねえと言って、自分で自分の片腕を切り落して、兄貴と同格になったという特例はあるが、あれは遊侠のする気負いです。これは運命の悪戯《いたずら》! と、さすがの両女傑が、案内の小坊主を見て一時、立ちすくんだのも無理はありません。

         六

 だが、お角さんとても、驚くべきものは驚きもするけれども、驚いてそうして、度を失うお角さんではありません。直ちに平常心を取戻して、案内役の小坊主を、ちょっと杉戸の蔭に小手招きして、耳うちをしました、
「兄さん、御苦労さま、あのね、わたしのお連れのあのお方はね、少しわけがあって、お怪我をしていらっしゃるんだから、あの通りかぶり物を取りません、ね、それを承知してね」
と言って、その途端に、ふところ紙でおひねりを一つこしらえて、この小坊主に持たせようとしました。
 これは、お角さんとしては常識の手法の一つで、悪い意味ではない一つの軽少なる賄賂《わいろ》、あるいは最も好意ある鼻薬! むしろ儀礼の一つであって、お角さんの社会で普通に行われるのみならず、世界的に公認の闇取引――ではない、計算書にまで公然と記入して来られる、記入して来られた方が来られないよりも、むしろ気持のよい世界的の社交関税、通称を「チップ」と呼ばれるところのものの労力に対する報酬、ある場合には敬意を含めたところの意志表示なのでありましたが、この小坊主は、前のかぶり物御免に対しては相当の黙認を与えたけれども、後者の関税闇取引に対しては、断然それを拒絶して、お角親方の好意を無にしてしまいました。つまり、同行の女性が特殊の事情によって、面《かお》に覆面を施しながら間毎を通過するという特権を黙認したのは、これは一種の同情心がさせるわざなのでありました。儀礼を重んずべき女性として、あえてこの無礼を忍ばなければならない事情というものは、他よりは本人が苦痛とするところでなければならぬ。それを押して行こうという事情には、よくよくのものがなければならぬ。そこに小坊主も暗黙の間の同情心が発揮されたと見えるが、白い紙でこしらえた社交関税は、すげなくお角親方の手から拒絶して、押しつけるその手先をかいくぐるようにして、早くも先に立って、お庭先の舞台の方へ逸出してしまいましたから、さすがの親方も、すっかりテラされてしまいました。ぜひなくお角さんは、せっかくこしらえたおひねりをそのまま帯の間へ突込んでしまって、そのあとを追いましたが、この時、もはや女王様は、廊下舞台の欄干に立って、一心に三宝院のお庭をながめているところであります。
 三宝院の庭は、京都に於ける名庭園の一つであります。いや、日本の国宝の一つとして、世界的に名園の一つであります。音に聞いてはじめて見るお銀様には、大なる興味でなければなりません。名園の名園たる所以《ゆえん》の常識は、お銀様の教養の中には、もうとうに出来ている。お銀様が余念なく、自分の眼と頭によって余念なく名園を観賞し、解釈しているところへ、お角さんの社交的儀礼をすげなく、すり抜けて来た小坊主が、早くもそちらに立って滔々《とうとう》と説明をはじめました――
「これなるは有名なる醍醐の枝垂桜《しだれざくら》、こちらは表寝殿、葵《あおい》の間《ま》、襖の絵は石田幽汀《いしだゆうてい》の筆、次は秋草の間、狩野山楽《かのうさんらく》の筆、あれなる唐門《からもん》は勅使門でございます、扉についた菊桐の御紋章、桃山時代の建物、勅使の間――襖の絵は狩野山楽の筆、竹園に鴛鴦《おしどり》、ソテツの間、上げ舞台、板を上げますと、これが直ちにお能舞台になります、中の間、狩野山楽の草花、柳の間――同じく狩野山楽の筆、四季の柳をかかれてございます、こちらの廊下の扉、この通り雨ざらしになっておりますが、これに松竹の絵のあとが、かすかに残ります、同じく狩野山楽と伝えられておりまする、これから奥寝殿、この屏風《びょうぶ》は、醍醐の百羽烏として有名な長谷川等伯の筆、こちら[#「こちら」は底本では「これら」]が門跡《もんぜき》の間でございます、あの違棚が、世に醍醐棚と申しまして、一本足で支えてございます、その道の人が特に感心を致します、あの茶室がこれも名高い『舟入茶室』松月亭と申します、太閤様がお庭の池の方から舟でこの堀をお通りになって、この茶室へお通いになりました、太閤様お好みの茶室、これは桜屏風、山口雪渓の筆、これからが三宝院の本堂、正面が弥勒仏《みろくぶつ》、右が弘法大師、左が理源大師の御木像でございます、これが枕流亭……
 さてこれからがお庭でございます、このお庭は太閤様御自作のお庭でございます、あれが名高い藤戸石、一名を千石石とも申します、錦の袋に入れて二百人でこれへ運びました、天下一の名石でございます。
 これが琴平石、平忠度《たいらのただのり》の腰掛石、水の流れのような皺《しわ》のあるのがなんか石、蝦蟇《がま》石、あの中島の松が前から見れば兜松《かぶとまつ》、後ろから見れば鎧松《よろいまつ》、兜かけ松、鎧かけ松とも申します、向うの小山の林の中に小さく見えます祠《ほこら》が、豊臣太閤をお祀り致してございます、なぜ、あんな小さく隠してあるかと思いますと、徳川家の天下の御威勢に遠慮をしたのでございます、この名園に一つの欠点がございます、それはあの二つの土橋が同じ方面へ向けてかけてあることが一つの欠点でございます」
 名園の名園たる来歴を一通り説明してのけた上に、その欠点をまで附け加える小坊主の口合いは、そういうことをまで附加せよと教えられているのではなく、案内しているうちに、誰かその道の者があって、立話にこんな批評を加えたのを小耳に留めて置いて、その後の説明の補足に用いているものと思われます。
 この滔々《とうとう》たる説明を、小坊主の口から一気に聞かされたことに於てお銀様とお角さんが、再び眼を見合わせたのは、今度は、弁信法師に似ている、今までは宇治山田の兄いに肖過《にす》ぎるほど肖ていたのが、今度は、あのお喋《しゃべ》り坊主のお株をも奪おうとする、重ね重ね、怖るべき運命の悪戯だと思わないわけにはゆかなかったからでしょう。
 しかし、この点は前ほどに、二人をおびやかすに至らなかったことは、この程度の雄弁は、いわゆる門前の小僧の誰もよくするところで、あえて天才の異常のさせることではないのです。口癖にのみ込ませて置きさえすれば子供でもすることで、ここに行われるのみならず、他のいずれでも行われる。また、素材をとっつかまえて来て、もっと誇張した吹込みをして、世人の好奇心の前へ売り物に出すことは、むしろお角親方の本業とすることだから、こういうのには、さのみおびえるには及ばなかったのです。
 つまり、弁信法師の怖るべき舌堤の洪水は、超絶的の脳髄がさせる、千万人の中の天才の仕業ですが、この小坊主のは、そんな手数のかかるものではない。この場合、またよく似ている、あんまりよく似ている、さきに米友で、あれほど人をおびやかしながら、またもお喋り坊主のお株にまで手をのばそうとする、このこましゃくれが面憎くなったからでありましょう。

         七

 お庭拝見が済むと、お銀様だけが改めて、弥勒堂後壁の間へ案内されました。
 弥勒堂後壁の間というのは、建築が極めて高いだけに、光線の取り方が充分でありませんから、室内はなんとなく暗陰たる色が漂うております。けれども、古風な建築としては、相当光線の取入れには注意がしてあるらしく、明るいところから、急にこの一室へ入ったのですから、その当座こそ視覚の惑乱がありますけれども、落着いてみれば、掛物を見て取るに不足な光線ではありません。見上げるところの正面に、とても広大なる画幅がかかっていて、その周囲には、この脇侍《わきじ》をつとめるらしい一尺さがった画像があるのであります。これらの脇侍の画像とても、その一枚一枚を取外して見れば驚くばかり広大な軸物に相違ないが、正面の大画幅の大きさが、すぐれてすばらしいものですから、脇侍が落ちて見えるのは、ちょうど、奈良の大仏の仁王門の仁王が、それだけを持出せば絶倫の大きさのものなのですが、なにしろ大仏の本尊の盧遮那仏《るしゃなぶつ》が、五丈三尺という日本一の大きさを誇っている、その前ですから、仁王としては無双の仁王が、子供ぐらいにしか見えず、ただ、その芸術の優秀なことに於て前後を睥睨《へいげい》しているのと、案内人が遠慮会釈もなく、「これが有名な東大寺大仏殿の仁王、右が運慶《うんけい》、左が湛慶《たんけい》――」と言って、作ということを言わないから、仁王尊そのものの右が運慶尊、左が湛慶尊になりきって、本体と、作者が、見事に習合せしめられている。識者はそれを笑い、愚者はそれに感歎する。案内者自身はまた、右が運慶尊、左が湛慶尊と信じきって、眼中に信仰と芸術の差別なきところが、お愛嬌のようなものであります。
 そこで、お銀様はじっと立って、この特異の大画を上から下へ、下から上へ、見上げ見おろしてじっと立ちました。
 この怪異なる、人ともつかず魔ともつかぬ大画像は、いったい何を意味しているのか、不幸にしてお銀様にはこれがわかりません。
 ただ見るところは、不動尊以上の不動尊の形相《ぎょうそう》を呈しているが、不動のような赤裸のいつわらざる形体を誇っているのではない、身辺はあらゆる紅紫絢爛たる雑物を以て装飾され、彼の如く、しかく単純に剣と縄との威力を誇示するには止まらない。なるほど、不破の関守氏から予備知識を与えられた、これが三十六|臂《ぴ》の形式というものでしょう。一つの形体から三十六の手が出て、それがおのおのの方向に向って、おのおのの武器を持っている。世には千手観音《せんじゅかんのん》という尊像もあるのだから、三十六や七は数に於て問題でないが、その生血の滴る現実感の圧迫にはこたえざるを得ない。
 五体を見ると、逞《たくま》しい黒青色の黒光り、腰には虎豹の皮を巻き、その上に夥《おびただ》しい人間の髑髏《どくろ》を結びつけている。背後は一面の鮮かな火焔で塗りつぶされている。よく見ると、その火焔の中に無数の蛇がいる。おお、蛇ではない、竜だ。夥しい小竜大蛇がうようよと火の中に鎌首をもたげているのみではない、なおよく見ると、あの臂《ひじ》にも、この腕にも、竜と蛇が巻きついている。
 顔面はと見ると、最初は、正面をきった不動明王のようなのばかりが眼についたが、その左右に帝釈天《たいしゃくてん》のような青白い穏かな面《かお》が、かえって物凄い無気味さを以て、三つまで正面首の左右に食《く》っついている。なおよく見ると、その三つの首のいずれもが三眼で、その眼の色がいずれも血のように赤い。その口には、牙をがっきと噛み合わせた大怒形《だいどぎょう》。
 なお、その振りかざした三十六臂のおのおのの持つ得物得物を調べてみると、合掌するもの、輪《りん》をとるもの、槊《さく》を執るもの、索《さく》を執るもの、羅《ら》を握るもの、棒を揮《ふる》うもの、刀を構えるもの、印を結ぶもの、三十六臂三十六般の形を成している。
 再び頭上を見直すと、さきには忿怒瞋恚《ふんぬしんい》の形相のみが眼に入ったが、その頭上は人間的に鬢髪《びんぱつ》が黒く、しかもおごそかな七宝瓔珞《しっぽうようらく》をかけている――
 物に怖《お》じない暴女王の眼も、このまま見上げ見下ろしただけで消化するには混乱しました。その時、お銀様は甲州の家にあった「阿娑縛抄《あさばしょう》」一部を惜しいものだと思い出さないわけにはゆきません。
 甲州の家には文庫が幾蔵もあった。お銀様は、それを逐一風を入れて虫干をしたことがあります。ゆくゆくは残らず、それを頭に入れるつもりでありましたけれども、その時は一通りの風入れでありましたが、「阿娑縛抄」百八冊を手がけてみたのも、その時のことでありまして、この大部の書のあらわすところが何物であるかに歯が立ちませんでした。他日必ず読みこなしてみせるとは、この女王の気象でありましたが、その時は、一種異様な大部な書物である、内容がなかなか食いつけないのは、その中には夥多《かた》異様の彩色絵で充たされている、その彩色絵が一種異様なグロテスクのみを以て充たされていて、いわゆるさしえの常識では全く歯が立たない。何を書いてあるものか知ら、これぞ世間に言う「真言秘密の法」を書いた本に違いない、ということを、その時にお銀様が感じました。
「真言秘密の秘伝書」――これは研究して置かなければならない、と心がハズンだのは秘密そのものの魅惑で、この女王は秘密を好むのです。その時は秘密の法は即ち魔術の一種で、超自然力以上の魔力の秘伝がこの本に書いてある、この本を読んだ人が役《えん》の行者《ぎょうじゃ》になれる――というような世俗的魅力がお銀様をとらえたのですが、その直下《じきげ》にこれをこなすの機会と時間とを与えられなかったから、いつか「阿娑縛抄」を読み解いてみせるとの心がけだけは失われていなかったのですが、それがあの時の火事で、すっかり焼けてしまいました。そのことを今になって、くやむの心がお銀様の胸に動いて来ました。
 お銀様は剛情です。わからないことはわからないとして、知らざるを知らずとして問うことは、この女性のよくするところではありません。また、こんな人おどしの仏像の存在の理由を、己《おの》れを空しうして教えを乞うてみたところで、無用無益なりとの軽蔑さえも起りました。
 画像そのものは、この女性を、昏惑《こんわく》から来る反感へ導いて行くのですが、その表現の色彩だけは、それと引離して、多大の躍動と、快感とを与えずには置かないのであります。のっけに見せられた素人《しろうと》に向っては、何の色が幾つだけ、どの部分に点彩され、使用されているかというような、複合の観察は遂げられませんでしたけれども、まず打たれるのは、その赤と朱との与うる燃ゆるばかり盛んなる威力と、快感でありました。
 これとても、不破の関守氏から、特に力を入れて予備知識を与えられていた点でありますけれども、そういう予備知識が全然与えられていないにしてからが、この盛んなる燃ゆる色には、いかなる素人も魅せられざるを得ないものが確かに有ると信じました。絵は千年を経ているけれども、色彩、ことに赤は、昨日|硯海《けんかい》を飛び出したほどの鮮かさである。そうして、その道の丹青家をして垂涎《すいえん》せしめる。この色を出したい、いかにしてこの色を出せるか、そもそもこの清新なる色彩の原料は何物であって、いずれより将来し来《きた》れる――ということが、古来、専門家の間の疑問であって、今日に至って、なお解釈されていないということに、お銀様は、最初から最も大きな期待を持っていたのです。信仰の上からしても、芸術の上からしても、画像そのものを特に拝するという気分は、そんなに切迫したものではありませんでしたが、古来|未《いま》だ知られず、今人なお発見し難き色彩の秘密が、お銀様の意地を煽《あお》りました。そういうものを見てやりたい、見て見破ってやりたい、というほどの反抗心を、異常なるもの、難解なるもの、威圧なるものに対するごとに起されるこの女性の通有癖であることに過ぎません。だが、その難問に体当りをして行くには、科学が足りないことは省《かえり》みずにはいられない。問うことを好まないこの女性が、ここで僅かにくちばしをきったのは、
「この絵は、いつごろのものですか、時代は」
 ただ、それだけの質問を発しました。質問を受けた当の案内役は、以前のこましゃくれた、肖《に》ている小坊主ではありません、しとやかな学僧の一人で、且つ、極めて無口の若者でありました。
「は、吉野朝時代でございます」
 ただそれだけ答えたのみで、更に知識の先走りをしないのは、知らないのか、知っても言うことを好まないのか、それはわかりません。とにかくに、拝観人から、それだけの質問の口火を切れば、それをきっかけに、学僧によっては、滔々《とうとう》と知識を振蒔《ふりま》いて見せる、諄々《じゅんじゅん》と豪者を啓《みちび》くの態度を取ってみたりする学僧もあるのですが、この学僧には絶えてそういう好意がなく、衒《てら》う気もありませんから、お銀様はそれ以上に知識を要求するの機会を失いました。
 だが、吉野朝時代でございます、という簡単な応答に対して、お銀様をして相当の考証に耽《ふけ》らしめた余地はありました。この点は少々、不破の関守氏の与えた予備知識に不足がある、不足でなければ放漫がある、不破の関守氏は千年以上の作と言ったが、吉野朝ではまだ千年にならない。
 そこでお銀様の、年代記のうろ覚えを頭の中で繰りひろげてみると、徳川氏が二百年、織田、豊臣氏が五十年、足利氏が百有余年と見て、どのみち五六百年の星霜には過ぎまいと思いました。
 もしかして、吉野朝と言ったのが、浄見原《きよみはら》の天皇の御時代とすれば、これは、たしかに千年以上になりましょうが、ここに吉野朝と言ったのは、足利氏以前の南北朝時代の吉野朝時代のことに違いないと思われるから、そうしてみると、どう考えても五六百年以前には溯《さかのぼ》らない、しかし、古い物を称して千年と言うのは、一種の口合いなのですから、それはさのみ咎《とが》めるには及ばないとして、千年を経て、その朱の色が昨日|硯《すずり》を出でたるが如しという色彩感は、さのみ誇張でも、誤算でもないということを、お銀様も認めました。
 本来は、そういう質問や、そういう認識だけで、この画像[#「画像」は底本では「面像」]を卒業してしまおうというのが無理なので、そんなことよりも、まず最初に問わなければならないことは、「大元帥明王《だいげんみょうおう》とは何ぞや」ということなのであります。これが解釈なくして、この画像を、色彩と年代だけで見ようとするのは、縁日の絵看板のあくどい泥絵だけを見て、木戸銭を払うことを忘れたのと同じようなものなのです。
 お銀様がそれをしらないということは、不幸にしてそれを知るだけの素養を与えられていないという意味であります。

         八

 それはそれとして、お銀様が後壁の間に参入した瞬間に、お角さんとしては、これに追従を試むることを遠慮しました。というのは、後壁の間に参入、大元帥明王に見参ということは、お銀様だけの志願であって、お銀様だけに許されたというよりも、お角さんにとっては、よし、もし許されたからといって、猫に小判のようなものなのであります。特別に教養のあるものだけに許される特権でなければならないし、特別に教養の無いものが、それに追従することは、不敬であり、不遜であることを自覚しての、お角さんとしての遠慮なのです。
 そこで、明王に特別謁見の間を、お角さんは、次の間というよりも、奥書院の廊下に立って待受けておりました。そこに立っていると、またも本庭の余水の蜿々《えんえん》たる入江につづく「舟入の茶屋」を見ないわけにはゆきません。お角さんは、太閤様お好みの松月亭の茶室に、じっと見入っている。が、それとても、大元帥明王の画像の前に立つお銀様と同様の、色盲ならぬ色盲をもって、木石の配置だけを深く見入っているような恰好《かっこう》をしているけれども、内容極めて空疎なるは致し方なく、お茶を知らない、寂《さび》を知らない、わびというものを知らないお角さんは、ただ眼の前にあるからそれを見ているだけで所在が無いから、ことにお場所柄であるから、枉《ま》げて、つつましやかにしているだけのものなのです。
 その時、廊下の彼方《かなた》で、高らかに経を読む声が聞えました。多分お経だろうと思われる。お寺へ来て朗々と読まれる文言を聞けば、お経とさとってよろしい。お経は何のお経だかわからないが、その読み上げている主は門前の小僧であることが、お角さんによくわかります。門前の小僧ではない、本当は門内の小僧なのですが、さいぜんから門前の小僧にしてしまっているあの薄気味の悪いほどよく似た、びっこの小僧の読み立てる声に紛れもないと思いました。
 全く、お角さんの思うことに間違いなく、たしかに右の門前の小僧が、廊下の一端に膝小僧を据《す》えて、朗々と音を挙げていることは確実なのですが、それは、正式に机を置き、経文を並べて読んでいるのではない、膝小僧と談合式に、上の空で暗誦を試みているものであります。何を読み上げているのか。注意して聞けば、次のような文章を読み上げているのです。
[#ここから1字下げ]
「鎮護国家ノ法タル大元帥御修法ノ本尊、斯法《しほふ》タルヤ則《すなは》チ如来《によらい》ノ肝心《かんじん》、衆生《しゆじやう》ノ父母《ぶも》、国ニ於テハ城塹《じやうざん》、人ニ於テハ筋脈《きんみやく》ナリ、是ノ大元帥ハ都内ニハ十|供奉《ぐぶ》以外ニ伝ヘズ、諸州節度ノ宅ヲ出ヅルコトナシ、縁ヲ表スルニソノ霊験不可思議|也《なり》」
[#ここで字下げ終わり]
 音をたどればそういうような文言を読み上げているのだが、お角さんには、そのなにかがわからない。ただ、お経を読み上げているとのみ聞えるのですが、わからないのはお角さんばかりではない、読んでいる御当人もわかっているのではないから、ただ音を並べているだけなのが、そこが即ち、お角さんの言う門前の小僧が習わぬ経を読むもので、こうして無関心に繰返しているうちに、説明となり、密語となって巻舒《けんじょ》されることと思われます。
 お角さんは、そのいわゆる、習わぬ経を繰返す門前の小僧の咽喉《のど》が意外にいいことを感づくと同時に、これをひとつもの[#「もの」に傍点]にしてみたら、どんなものであろうという気がむらむらと起りました。
 もの[#「もの」に傍点]にするとは、何かお手のものの商売手に利用してみてやろうじゃないかという謀叛気《むほんぎ》なのであります。このお寺の納所《なっしょ》で、案内係であの小坊主を腐らせてしまうのは惜しい。惜しいと言って、なにも惜しがるほどの器量というわけではないけれど、米友でさえも、利用の道によっては、あのくらい働かして、江戸の見世物の相場を狂わしたことがある。いまさし当り何という利用法はないが、一晩考えれば必ず妙案が湧く。第一、あのお経を読んでいる咽喉がステキじゃないか、咽喉が吹切れている、あれを研《と》いで板にかければ、断じてもの[#「もの」に傍点]になる――とお角さんが鑑定しました。
 発見と、鑑定だけでは、もの[#「もの」に傍点]にするわけにはゆかぬ。人間を買い取るに第一の詮索《せんさく》は親元である。親元を説くことに成功すれば、人間の引抜きは容易《たやす》いことだ。ところで、あの小坊主の親元ということになってみると、存外|埒《らち》が明くかも知れない。というのは、いずれもあの年配の子供を寺にやるくらいのものに於て、出所のなごやかなるは極めて少ない。いずれは孤児であるとか、棄児《すてご》であるとか、そうでなければ、身たとえ名門良家に生れたにしてからが、放たれ、棄てられたと同じ月日の下に置かれた人の子が、こういうところへ送り込まれるのだ。あわよくば名僧智識にもなれようけれど、それは千万人に一人。そういうわけだから、存外、この買出しは楽かも知れない。そんなような謀叛気がお角さんの頭にむらむらと湧いて来たのは、実行の如何《いかん》にかかわらず、商売商売の冥利《みょうり》だから仕方がありません。
 だが、それともう一つ異った人情味に於て、お角親方は、あの小僧をつれ出して、友公と引合わして兄弟名乗りをさせてやりたい、そうすれば二人も喜んで、こっちも功徳になる――なんぞという人情味も大いに湧いているのです。これとても独断千万なことで、似ているからといって、それが兄弟ときまったわけのものではないが、さすがのお角さんの頭も、今日の瞬間には、想像と実際とが混乱していると見える。

         九

 三位一体を醍醐《だいご》へ向けて送り出して後の不破の関守が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を端近く呼んで、こう言いました、
「がん[#「がん」に傍点]ちゃんや、洛北の岩倉村に大バクチがあるが、行ってみる気はねえか」
「そいつは耳寄りですねえ」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、耳から先に、関守氏の膝元へ摺《す》りつけて行きました。
 普通の青年ならば、バクチなどという言葉を聞いてさえ苦々しく思うのですが、そこは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百ちゃんのことですから、それと聞くや、耳よりだと言って身体《からだ》を摺りつけたのは浅ましいものです。それと知りながら、浅ましい心に誘惑をかけた不破氏の挙動も、断じて君子の振舞でないと言わなければなりますまい。
「行ってみな、お前は今まで関東のバクチは相当に功を積んでいるとのことだが、こっちの方の大バクチは見たことがあるまいから、後学のために見て置きなせえ」
「有難い仕合せ」
 ますますよくないたくらみです。後学のためにも、前学のためにも、バクチなどは見学して置かなくてもよろしい。むしろ、そういう見学は避けた方がよろしい、避けしめるのが、先輩のつとめというものだが、ここで嗾《けしか》けるようなことを言う関守氏は、その言葉つきからしてわざと下品に砕けて、
「行くなら行ってみな、資本《もとで》としてはたんと[#「たんと」に傍点]もねえが――ここに二十両ある」
 胴巻ぐるみ、百の前へ投げ出したのは、いよいよ怪しからぬことで、行って見ろと嗾けた上に、資本金までも供給するのですから、シンパ以上の、むしろ共謀に近いほどの不逞《ふてい》なのです。ところががん[#「がん」に傍点]ちゃん、否やに及ばず、早速二十両の胴巻を頂戴に及んで、
「善は急げ、これから早速飛んで参りましょう。ところでその洛北岩倉村てえのはいったい、どっちの方向で、当日のトバの貸元てえのは、どういう顔でござんすかねえ、そこんところをひとつ、伺って置きてえもんでござんさあ」
 ロクでもない片腕で、早くも二十両の胴巻ぐるみ懐ろへ捻込《ねじこ》みながら、中っ腰になって、善は急げと来たが、その善なるものを急ぐにつけても、善戦をしなければならない。善戦をするには、彼を知り、我を知らなければならない。そこで相手方の地の理と、相手方の親分大将の身分について、相当の知識を持たなければならないというのは、この男として相当の心づかいでありましょう。
「うむ――洛北岩倉村というのはな」
 そこは不破の関守氏も抜からぬもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百のために、洛北岩倉村の地理を説くことかなり詳《つまびら》かなものであります。
 その説くところによると、これから、日岡の峠を通って蹴上粟田口《けあげあわたぐち》へ出るが、三条橋は渡らずに、比叡山の方へとずんずん進んで、それ、名代の八瀬大原《はせおおはら》の方へ行く途中のところにその岩倉村というのがある。そこの岩倉村は岩倉中納言の領地で、大バクチはその中納言殿の屋敷の中で行われるのだ――という説明を皆まで聞かずに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、急に白けきった面《かお》をして開き直り、
「へえ、上方じゃあ中納言様がバクチを打つんでげすかエ」
「いや、中納言殿がバクチを打つのではない、その岩倉村の山ふところにある中納言殿のお屋敷の中で、大トバの開帳が行われると言うのだ」
「へへえ、考えやがったな、江戸でも御老中の屋敷の中なんぞで、そいつが、しょっちゅう御開帳になるんですよ、仲間《ちゅうげん》や馬丁《べっとう》が、寄ってたかって御老中のお馬屋の中で、しゃそじょうこ[#「しゃそじょうこ」に傍点]てやつをきめこむんでさあ、御老中でさえその位なんだから、中納言様ときちゃあ豪勢なもんだろう、フリにこっちとらが行ったって歯が立つめえがなあ」
と、いささかゲンナリしたのは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百に、中納言は少し食過《しょくす》ぎる。中納言の方でも、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百などはあまり食いつけまい。そこで、百が、つまり位負けがしてしまった様子を不破氏が見て取って、
「中納言だからって、そんなに慄《ふる》えるこたあねえぞ、百五十石の中納言様だ」
と言って聞かせました。
「百五十石でげすか、位は中納言で、お高が百五十石でげすか、そんなこたあござんすまい、そりゃあ間違いでござんしょう」
「間違いではない、摂家筆頭の近衛家《このえけ》だって、千石そこそこだ」
「セッケはそうかも知れませんが、中納言様が百五十石なんてえな受取れねえ、水戸も中納言でござんしょう、三十五万石でげすぜ、仙台も中納言でござんしょう、六十四万石でげすぜ、百五十石ではお前さん、馬廻りのごくお軽いところじゃがあせんか、そんなはずはございませんよ、おからかいなすっちゃ罪でござんすぜ」
「からかうわけではないが、まあ、そんなことはどうでもいいから、行ってみろよ、そのトバへ。とても面白い面が集まるんだそうだ、全国的にな。全国的にそのトバへ面の変った鼻っぱしの強いバクチ打ちが集まって、ずいぶんタンカを切るそうだ。だから、行ってみな、変った人相を見るだけでもためになるぜ。手前も甲州無宿のがんりき[#「がんりき」に傍点]の百とやら、相当啖呵の切れる男じゃねえか、なにも中納言と聞いて、聞きおじをするような柄でもあるめえ」
 不破氏に、こんなふうに油をかけられて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百がまた躍起となりました。
「ようがす、行きますとも、そう聞いて後ろを見せた日には、甲州無宿が廃《すた》りまさあ、一本だけ不足だががん[#「がん」に傍点]ちゃんの腕のあるところを、その洛北岩倉村というので見せてやりてえ、さあ出かけましょう」
 ここで、張りきって力み返ったのは現金なものです。
「まあ待て、今からでは遅いから、今晩は泊って明日」
 この時、もう日の暮れ方で、関守氏は炉辺の火を取って、座右の行燈《あんどん》に移し入れました。

         十

 逸《はや》るがんりき[#「がんりき」に傍点]を控えさせて置いてから、不破の関守氏は、醍醐から帰ったはずの女王様の御機嫌伺いにと本邸の方へ伺候《しこう》しましたが、ほどなくわが庵《いおり》へ戻って来てから、改めて控えのがんりき[#「がんりき」に傍点]を呼び出して、わが庵の炉辺の向う際へ据《す》えつけ、さて言うよう――
「明日は、しっかりやってくれ、がんりき[#「がんりき」に傍点]名代《なだい》の腕を上方衆に見せてやってくれ、頼むよ。時に、その前戦《まえいくさ》の小手調べに、ひとつそのバクチというやつの本格を、拙者に見せてくれまいか。拙者通俗の概念というはあるが、実際の経験というはない、予行演習をひとつこの場で見せてもらえんものかなあ」
「合点《がってん》でござんす――ずいぶん、がんりき[#「がんりき」に傍点]の腕のあるところをお目にかけやしょう」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、いま一方だけの手を懐ろの中に差し込んだと見ると、ズラリ引き出した自前の胴巻、それを逆さにふると、一つの小箱が飛び出しました。小箱の大きさ全長が一寸五分、幅が一寸足らず、関守氏が拾い上げて見ると、「下方屋」と書いてある。がんりき[#「がんりき」に傍点]が受取って、パチンとその小箱の合せ目を外《はず》すと、コロがり出した賽粒《さいつぶ》というものが大小四個。大小というが、その大なるも三分立方はなく、以下順次四粒、中なると小なるはそれに準じて、小豆《あずき》に似たような代物《しろもの》まであります。
「イヤに、ちっぽけな賽ころだねえ」
と関守氏が言う。百はそれをもとのように小箱に並べながら、
「これは商売人《くろうと》の懐賽《ふところざい》ってやつで、駈出しには持てません、さて早速ながら本文に移りますが、バクチというやつも、その種類を数え立てると千差万別、際限はねえんですが、まず丁半《ちょうはん》、ちょぼ一[#「ちょぼ一」に傍点]というやつがバクチの方では関《せき》なんで、それにつづいて花札、めくり、穴一《あないち》、コマドリ、オイチョカブ……そこで、丁半を心得ていれば即ちバクチを心得てるも同様というわけなんでげす。先以《まずもっ》て、物の数というやつは、たとえ千万無量の数がありましょうとも、これを大別して丁と半とにわける、丁でない数は即ち半、半でない数は即ち丁、世間に数は多しとも、この二つのほかに種はございません。これを人間にたとえて申しますてえと、人間の数は天の星の数、地に砂の数ほど有るにしましてからが、種をわければ男と女、この二つに限ったものでげす。すなわち男でない人間は即ち女、すなわち女でなければ即ち男、というわけで人間の区別には、この二色しかござんせんよ、たまにゃ、ふたなり[#「ふたなり」に傍点]なんていうのがあるが、あれは出来そこないなんで、本来は有るものじゃございません。ところで数というものも、天地の間に、丁と半とこの二つだけに限ったもので、それを当てるのが即ちバクチの極意《ごくい》なんでございますねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が講釈をはじめました。これは驚くべきことで、手の人、足の人であったこの野郎は、今晩は口の人に転向してしまって、まかり間違えば、ここでもお喋り坊主の株をねらう奴が、やくざの中から現われようとは、ところがらとはいえ、ふざけた野郎と言わなければならぬ。これを、
「ふん、ふん」
と聞いているから、この手のふざけた野郎が、いよいよいい気になって、
「さあ、これは数の取引でござんすが、今度は物でござんすよ、この賽っ粒というやつが、バクチの方では干将莫耶《かんしょうばくや》の剣《つるぎ》でござんしてな、この賽粒の表に運否天賦《うんぷてんぷ》という神様が乗移り、その運否天賦の呼吸で黒白《こくびゃく》の端的《たんてき》が現われる」
「大したものだ!」
 関守氏が気合を入れたもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]がいよいよ乗気になり、
「ごらんなせえな、額面が六個あって、一から六まで星が打ってある、一をピンとも言い、六をキリとも申しやす、さてまたこのピンからキリまでに、天地四方を歌い込んで、一|天《てん》、地《ち》六、南《なん》三、北《ほく》四、東《とう》五、西《せい》二とも申しやす、まずこの六つの数を、丁と半との二種類に振分けること前文の通り、丁てえのは丁度ということで、ちょうど割りきれる数がとりも直さず丁、割って割りきれねえ半端《はんぱ》の出るのが半――つまり一《ピン》は割りきれねえから半、二は割りきれるから丁、三が半で、四が丁、五が半ならば六が丁、という段取りなんで、おっと待ったり、このほかに五の数だけはごと言わずにぐと申しやす、五《ぐ》の目《め》というやつで――こうして置いて、この賽ころを左の手にこう取って、右に壺をこう構える、手が足りねえから恰好《かっこう》がつかねえ、旦那、その湯呑を一つお貸しなすっておくんなさい」
と言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]は、炉辺に飲みさしの関守氏の九谷の大湯呑に眼をつけました。
「よし来た」
 関守氏は異議なく、その茶がすを湯こぼしに捨て、がんりき[#「がんりき」に傍点]の前へ提供してやると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、左手に隠した四個の小賽を、左の耳元で、巫女《みこ》が鈴を振るような手つきに構えたが、関守氏は、その構えっぷりを見て感心しました。

         十一

 こいつ、ロクでもねえ奴だが、さすがにその道で、賽を握らせると、その手つきからして、もう堂に入ったものだ。
 四粒の天地振分けが、その中に隠れているのか、いないのか、外目《はため》で見てはわからない、軽いものです。もとより商売人の賽粒のことだから、軽少を極めて出来たものには相違ないが、それにしても軽過ぎるほど軽い、その手つきのあざやかさに、関守氏がある意味で見惚《みと》れの価値が充分ありました。
 そこで、耳元で振立てると、はっと呼吸が一つあって、振一振、左の小手が動いたかと見えると、天地振分けを四箇《よっつ》まで隠した五本(?)の指がパッと開きました。その瞬間、四粒の天地は、早くも五倫の宇宙から、壺中《こちゅう》の天地に移動している。つまり、はっという間に四つの小粒が、今し関守氏から借り受けた湯呑の中へ整然として落着いているのです。これまたその手つきのあざやかさに、またも関守氏の舌を捲かせ、
「うまいもんだ」
と言って、思わず感歎すると、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、こんなことは小手調べの前芸だよと言わぬばかりの面をして、
「本来は、この壺皿を左の手にもって、右で振込むやつをこう受取るんでげすが、手が足りねえもんですから、置壺《おきつぼ》で間に合せの、まずこういったもので、パッと投げ込む、その時おそし、こいつをその手でこう持って、盆ゴザの上へカッパと伏せるんでげす、眼に見えちゃだめですね、電光石火てやつでやらなくちゃいけません」
 左で為《な》すことを右でやり、右で行うことを、また引抜きで左をつかってやるのだが、一本の手をあざやかに二本に使い分けて見せる芸当に、関守氏が引きつづき感心しながら、膝を組み直し、
「まあ、委細順序を立ててやってみてくれ給え、ズブの初手《しょて》を教育するつもりで、初手の初手からひとつ――いま言ったその盆ゴザというのは、いったいどんなゴザなんだ、バクチ打ち特有のゴザが別製に編ましてあるのか、いや、まだそのさきに、この場では湯呑が代用のその本格の壺というやつの説明も願いたい」
「壺でげすか、壺は、かんぜんより[#「かんぜんより」に傍点]でこしらえた、さし渡し三寸ばかりのお椀《わん》と思えば間違いございません、雁皮《がんぴ》を細く切ってそれを紙撚《こより》にこしらえ、それでキセルの筒を編むと同じように編み上げた品を本格と致しやす、それから盆ゴザと申しやしても、特別別製に編ましたゴザがあるわけではございません、世間並みのゴザ、花ゴザでもなんでもかまいませんよ、それを賭場《とば》へ敷き込んで、その両側へ丁方と半方が並びます、そうすると壺振が、そのまんなかどころへ南向きに坐り込むのが作法でござんさあ」
「まあ、待ち給え、いちいち実物によって……時節柄だから代用品で間に合わせるとして、ここにゴザがある」
と言って関守氏は、つと立って、なげしの上から捲き込んだ一枚のゴザを取り出して、それをがんりき[#「がんりき」に傍点]の前で展開しました。
「結構にござんす、それじゃあひとつ、盆ゴザを張って、本式に稽古をつけてごらんに入れやしょう、いいでござんすか」
「相手に取って不足ではあるが、拙者が君の向うを張るから、本式に、稽古と思わず勝負のつもりで、一つやってみてくれ給え、つまり、君が丁方となり、拙者が半方となる、では、君が半方を張り、拙者が丁と張るから、一番、委細のところを見せてもらいたい」
「ようがす、そのつもりで、手ほどきから御教授を致しましょう」
と言って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、座を立ち上ると、盆ゴザの中央のところへ、前に言った通り南向きにどっかと坐り込みました。

         十二

 盆ゴザの中央へ坐り込んだ途端に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、無けなしの片腕を内懐ろへ逆にくぐらせたと見ると、パッと片肌をぬいでしまい、それと同時に着物の裾《すそ》をひんまくった源氏店《げんやだな》、つまりこれが俗にいう尻をヒンマクる形だと関守氏が、見て取りました。今時は芝居でよく見る形、悪党がかけ合いをする時の常作法、尻をマクルというやり方を舞台では見るが、本場はこれがはじめて、下品極まる伝統的作法ではあるが、下品のうちにも作法は作法、こうしたものかと見ていると、
「まず壺振りの芸当始まり――こうして諸肌《もろはだ》ぬぎの、本式は諸肌なんですが、ここは片肌で御免を蒙《こうむ》りやすよ、こう尻をヒンマクる、これ壺振りの作法でござんして、つまり、こりゃ野郎のみえでするんじゃございません、さあ、この通り潔白、頭のてっぺんから、毛脛《けずね》の穴まで見通しておくんなせえ、イカサマ、インチキは卯《う》の毛ほどもございやせん、という、潔白を証拠立てるヤクザの作法の一つなんでさあ――」
と説明を加えたことによって、関守氏がまた改めて覚りました。
 大肌ぬぎになったり、尻をヒンマクったりすることを、このやからのみえであり、強がりの表示であるとのみ見ているのは誤りで、なるほど、頭のてっぺんから毛脛の穴まで見通してくれという、潔白表明の作法から来ているのかな、一挙一動でも、その出所には名分が存するものだと感じたものです。
 そこで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、代用品拝借の湯呑を取って、それに紙を敷き、最初の形式で置壺に構え、これも最初の形で左の掌で軽小に一振り、眼にも留まらぬ天地振分け、賽《さい》はカラリと壺に落ちたか落ちないか、その瞬間、左の手は早くも壺の縁に飛んで、壺は天地返し――カッパと盆の上へ伏せられたものです。
「さあ、旦那、お張りなせえ、丁方なりと、半方なりと、気の向いた方をお張りなせえ」
「よし、丁と張った」
「勝負!」
と言ったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、その壺皿を引起こすと、関守氏の眼で四つの小粒が行儀よく並んでいるだけ。
「さあ、持っておいで」
と言ってがんりき[#「がんりき」に傍点]は、その粒を消してみました。
 賽を見せられただけで、どっちが勝ったか負けたかわからない。つまり場面には丁と出たのか、半と出たのか、けじめがつかないうちに賽を消され、眩惑された関守氏が、
「いったい、どっちが勝ったんだ」
「はは、そりゃ素人衆《しとろうとしゅう》にゃわからねえ、今のは丁と出たんでげすが、四つじゃあおわかりになりますまい、二つで真剣にやりましょう」
と言って、小粒を握った手を耳もとへ軽くあてがった形で、がんりき[#「がんりき」に傍点]が言いました、
「四粒でやるなあ、玄人《くろうと》に限ったもんで、素人《しろうと》には見わけがつきません、二つでやりましょう、二つで……ごくすろもう[#「すろもう」に傍点]というところで伝授しようじゃございませんか。伝授にしてからが、素手《すで》じゃあ息が合いませんから、何ぞ賭《か》けやしょう、コマを売りやすから、張ってごらんなさい」
「コマというのは何だ」
「コマ札というやつがあって、貸元からそれを買って張るのが定法《じょうほう》なんでげすが、そういうことはこの場では行われませんから、まあ、ようござんす、何ぞおかけなさい」
「よし、何ぞ無いかな」
と言って関守氏は――あたりを見廻す途端に裏小屋で、烈しく吠え出したのは、例の電光石火のデン公に相違ない。

         十三

 犬の吠える声を聞いて、人の近づくことを知り、その人もうろん[#「うろん」に傍点]な人ではない、犬係を志願した米友が、犬小屋の前を通過したことによって、犬が挨拶をしたに過ぎないということを関守氏が知ると、まもなく、ガタピシと裏戸を開いて、米友がそこへ現われました。
「どっこいしょ」
と言って入り込むと同時に、肩にかけた何か特別に重味のある一個の袋を、土間の俵の上へ、ずしんと卸《おろ》してしまいます。
「何だい、めっぽう重そうなものをかついで来たね、南京米《ナンキンまい》じゃあるまいな」
と関守氏がききますと、
「持って来るには持って来たが、置場所に困ってるんだ、お前さん、こいつを預かってくんな」
「何だよ、いったい、品物は。南京米でなけりゃ、じゃがいもか」
「そんなあ、不景気なもんじゃねえんだぜ」
と米友が、汗を拭き加減に、今そこへ取卸した至極重みのかかる袋を、伏目に見ながらの応対です。
「何だか、中身を名乗りなよ」
「当ててみな」
と、米友としては変に気を持たせるような返答ぶりでしたけれど、ワザと言うのでないことは、すぐに自問自答で底を割ってしまったことでわかるのです。
「銭《ぜに》だよ、こん中に、銭がいっぺえ詰ってるんだぜ」
「そいつぁ驚いた」
と、関守氏と、がんりき[#「がんりき」に傍点]と、二人が思わず音《ね》を上げました。
 代用食類似の不景気な品ではなく、銭とあってみると、たとえ鐚《びた》にしてからが、天下御免のお宝である。それを質の如何《いかん》にかかわらず、ともかく、袋にいっぱい包んで、小柄のくせに怪力を持つこの野郎が、汗を拭き拭きかつぎ込むというその重量は大したもので、「お気の毒」(一厘銭の異名)にしてからが莫大の実価である。それを人もあろうに、銭金《ぜにかね》にはあんまり縁の遠かりそうな男が、不意にかつぎ込んで来たのですから、大黒童子が戸惑いをして来たようなものです。
 二人が呆気《あっけ》に取られている間に、米友は素早く、何故に自分が重たい思いをして、この袋をここへ荷《にな》い来《きた》ったかということの因縁を、手短かに物語りました。
 それによると、今日、この男は、暴女王のおともをして醍醐へ赴いたが、その三宝院の門前で、他の二体がお庭拝見をしている間を待合わせている時に、変な奴が来て、このおれを見かけて、袋をかついで洛北岩倉村へ行けと言う。いい銭になるから行けと言う。いい銭になろうとなるまいと、こっちはこっちの果すべき職務がある、人は同時に二人の主に仕えるわけにはいかない、それをいくら説いて聞かせても、このけったいな野郎が、強引においらを誘惑する。それを虫をこらえてあしらっているうちに、観修寺《かんじゅじ》の方から役向と覚しい二三の両刀がやって来ると、何をうろたえたか、このけったいな野郎が、この金袋をおいらに抛《ほう》りつけて一目散に逃げてしまった。役人は素通りをしたが、その野郎はかえって来ない。いつまで経っても取戻しに来ない。
 そこで、米友はさんざん考えさせられたが、本来は、なにも少しも考えることはない、手取早い話が、交番へ届ければいいのである。交番がその辺にまだ設けられてなければ、しかるべき役向へ、土地の人を介して届けてもらいさえすれば、事は簡単明瞭に済むのだが、今日、米友の場合、それがなかなか簡単明瞭には済まない。盗んだ物とすれば盗んだ奴に罪はあるが、拾った者に罪があるはずがない。拾って、しかしてこれを隠せば当然罪になる。拾ってそうして我が物とすれば、これは猫婆《ねこばば》というものであって、泥棒に準じた罪に置かれることは米友もよく知っている。
 ただ、米友の場合、困るのは、拾い主には拾い主としての義務がある、責任もあるというその心配なので、まず第一に、自分の住所氏名から訊《ただ》される、これが苦手であること。領分は変り、国境《くにざかい》は違っているのだけれども、いったん生梟《いきざら》しにまでかけられた自分の古瑕《ふるきず》が、不必要なところであばかれた日には気が利《き》かねえやな。
 いやだなあ! そこで、米友は一気にあきらめてしまって、その金袋を、通行人の隙をうかがって、三宝院の境内の藪《やぶ》の中へ投げ込んでしまったのです。
 そうして置いているうちに、暴女王と女親方[#「親方」は底本では「親分」]の方の宝物拝観も、御庭拝観も済んで、また三位一体となって、この光仙林へ立戻って来たには来たが、またも、あの金袋で苦労する。金で苦労するのは、大抵の場合は、金の欠乏で苦労するということになるが、米友の場合は、金があり過ぎて苦労をする。ああして置けば早晩、誰か発見する、発見された日のお取調べという段になると、結局は、探りさぐって、このおいらが呼出しということになってみると、どうでも事がうるさいよ。
 ちぇッ! いくたび地団太を踏んだことであろう。ここへ戻ったものの、今のさきまでそのことを苦心して落着かなかったのですが、とうとう思いきった決断としては、とにかく、ここまで持って帰って、不破の旦那に相談をして、その知恵を借りるに越したことはない。
 そう思って、夜中に、またまた醍醐まで、びっこ足を引きずり引きずり立戻って、藪の中をさがしてみると、まだあるある、いい気持ですやすや眠っているような形で、袋が藪の中に横たわっている。そいつを、御丁寧に抱き起した米友は、重いやつを、えっちらおっちらとここまでかつぎ込んで、この始末です。
「そういうわけだから、こいつは、おいらの金じゃあねえ、洛北の岩倉村というのへやるのが筋道だ」
「洛北岩倉村」
「うん、そこで賭場《とば》のお開帳がある、そいつの貸元へ納める金らしいぜ」
「そいつは、いよいよ運否天賦《うんぷてんぷ》のめぐり合せだ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]の百も、頭でのの字を書いて、横目に金袋を睨《にら》んで、口にはよだれという体《てい》は、全く以て授かり物、渡りに舟と言おうか、一方の旦那は、嗾《けしか》けて資本《もとで》を貸して洛北岩倉村の賭場へ推《お》しやろうとするのに、一方の野郎は、場銭を一袋かつぎ込んで、おれに使えと言わぬばっかりだ。人間、運のいい時はいいもので、鴨が葱《ねぎ》を背負って、伊丹樽をくわえ込んだようなものだ。
 このところ、がんりき[#「がんりき」に傍点]、すっかり有卦《うけ》に入って、天下の福の神に見込まれた、この分じゃ明日の合戦も百戦百勝疑いなしと、むやみに勇み立ちました。

         十四

 米友は、金の袋を置きっぱなしにして、そのまま出て行ってしまう。
 そのあとを、関守氏は引きつづいて、がんりき[#「がんりき」に傍点]からバクチ術の実地教授を受けて、丁半、ちょぼ一の何物なるかを、ほぼ了解しました。その間にも、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百はしきりに勇みをなして、明日の合戦|幸先《さいさき》よし、上方では初陣《ういじん》、ここでがんりき[#「がんりき」に傍点]の腕を見せて、甲州無宿の腕は、片一方でさえこんなもの、というところを贅六《ぜいろく》に見せてやる。
 そういう心勇みで、しきりに浮き立っていたが、いいかげんにバクチのコーチも切上げて、はなれた控間で一睡を催すと、その翌朝、早くも宇治山田の米友と連れ立って、洛北岩倉村へと遠征に出で立ちました。
 この場合、何のために米友が同行するかというに、それは言わずと知れた金の袋の運搬用のためであります。あえてがんりき[#「がんりき」に傍点]の百の随行というわけではない。
 本来、米友としては、こんないけ好かない野郎との同行を好まないのです。
 暴女王お銀様の尊大倨傲《そんだいきょごう》は快しとしない点もあるが、ドコか意気の合うところもあるし、なんにしても、女王と立ててあるところに寄留をしていれば、主人でないまでも、家主であるから、これに服従、と言わないまでも、頼まれればイヤとは言えない、行ってやるという気分にもなる。女軽業のお角に就いてはどうしたものか、ほとんど唯一と言ってよいほどに米友の苦手で、天下にこの女にばかりは頭が上らない。頭が上らない弱味はないのだが、それに押されて、この女に臨まれると身が竦《すく》むというのは、全くがらにないことで、米友自身にもナゼだかわからない。駒井能登守に対してさえポンポン啖呵《たんか》の切れる米友が、お角さんの一喝を食うと縮み上ってしまう。お角さんには、友公、友公と言って叱り飛ばされるけれども、道庵先生でさえが、友さん、友さんと立てなければ用を弁じないことが多いのに、お角さんばかりには無条件で御《ぎょ》せられる。それほどの米友だから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎を好まないのは勿論《もちろん》です。こんな、いけ好かない野郎のおともなどは以ての外、同行をさえ嫌っているのだが、今日はこの、いけ好かない野郎に同行するのではない、この金袋と同行するのだ。性のいい金か、悪い金か、それは知らないが、この金の行きどころは洛北岩倉村にあるので、山科光仙林に置くべきものではない、在《あ》るべきところへ在らしめるように働くのはおよそ人生の義務であるという建前から、いけ好かない野郎と同行の不快を忍んで、金かつぎの役目に廻った次第です。
 ですから、途中、一言も利《き》きません。いけ好かない野郎が、しきりにおてんたらを言って御機嫌を取ろうとするのを、うるさいとばかり素気《そっけ》なく、一言も口を利いてやらないのであります。
 いけ好かない野郎にしてもまた、このグロテスクの気象を先刻御承知だから、できるだけその御機嫌を取結んで、いけ好くようにしようとつとめるのだが、さっぱり利き目がありません。
「兄さん、団子を買ったが食わねえか、それともお饅頭《まんじゅう》の方がよけりぁ、お饅頭にしな」
と言って、日岡の峠茶屋で甘い物を振舞おうとしたが、米友は根っから受けつけません。
「食いたかねえよ、おいらは食いたけりゃ自分の銭を出して食うよ、お前に買ってもらって食うせきはねえ」
と、この時に米友がはじめて応答したぐらいのものです。かく応答するかと見ると、自分は汚ない巾着《きんちゃく》を出して、手早く鳥目を幾つか並べると共に、茶屋の大福餅を鷲掴《わしづか》みにして、むしゃむしゃと頬張りました。
 そういうわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]もあきらめたのです。こいつは買収もできないし、懐柔も利かない。触らぬ神に祟《たた》り無しだと、神様扱いにして道のりを進め、粟田口から三条橋は渡らず、二条新地をずんずん北に取って、八瀬大原の方へと急ぎます。

         十五

 ほどなく、洛北岩倉村に着きは着いたが、さて賭場《とば》の在所《ありか》がわからない。
 トバはドコだ、トバはドコだと聞いて廻るわけにはゆきません。なあに、広くもあらぬ山ふところの岩倉村だ、やがて嗅ぎつけてみせると、がんりき[#「がんりき」に傍点]はがんりき[#「がんりき」に傍点]の意地で、里人に物をたずねようともせず、そこここと嗅ぎ廻ったが、相当この道に鋭敏なはずのがんりき[#「がんりき」に傍点]の鼻が利かないのは不思議なほどです。
 少々たずねあぐんだ時に、ふと小ぎれいな垣根越しに見ると、庭にうずくまって植木いじりをしている一人の老人を見かけました。
「モシ、お爺さん、ちょっと物をたずねたいんですがね」
と、がんりき[#「がんりき」に傍点]が猫撫声で問いかけると、垣根越しに、
「何だ!」
と言って、頭を上げた途端にこちらを睨《にら》んだ眼つきに、がんりき[#「がんりき」に傍点]が思わず慄《ふる》え上りました。
「これは飛んだ失礼――」
と、やみくもに頭を下げたのは、お爺さんなんぞと呼びかけてみたが、これはまだお爺さんというべきほどの年ではない、四十歳の前後でしょうが、その人相が、今まで見たことのないほどの異相を備えているということが、がんりき[#「がんりき」に傍点]をおびえさせたので、つまり威光に打たれたというような気合負けなのでした。見てみると、色が黒くて頭が人並|外《はず》れて大きい、そうして、その頭の結い方を見ると、武家にも町人にも見られない形。そうかといって、お公卿《くげ》さんのようでもあり、還俗《げんぞく》した出家のようでもあり、どうにもちょっと判断のつけようがない人柄ですが、その眼光の鋭いこと、人品におのずから人を圧する威力というようなものがあって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎などは一睨みで、危うくケシ飛んでしまいそうなところを危なく食いとめたが、食いとめてみると、「おどかしやがんない、やい」といったような反動で、こいつにひとつ、しつこく物をたずね返してやろうという気になったところが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の意地です。そこで、
「ええ、少々ものをおたずね致したいんでございますが、この辺に中納言様のお屋敷てえのがございやしょうかねえ」
「中納言の邸《やしき》、知らん」
「その中納言様には用があるわけじゃございません、中納言のお邸で、何かお慰みが行われるそうでござんすが、それをひとつ御案内を願いたいものでござんす」
と猫撫声を逞《たくま》しうしたが、今度は手ごたえがありません。手ごたえの無いのは軽蔑してやがるんだ、癪《しゃく》なおやじめと、がんりき[#「がんりき」に傍点]はややかさにかかって、
「早い話が、そのお邸の中をお借り申して、関東関西のあんまりお固くねえ兄いたちが集まって、お慰みをやろうてえんでございますが、なんとお心当りはございますまいか」
「…………」
 やっぱり、手ごたえが無い。そこで、がんりき[#「がんりき」に傍点]が意地になってなおも畳みかけて、
「ええ、手取早く申し上げちまえば、つまりその賭場が開けるんだそうで、そういう噂《うわさ》を、道中でふと承ったから、三下冥利《さんしたみょうり》にお尋ねしたようなわけなんで、噂に聞くと大したもので、なんでも北は会津から、東は水戸、南は薩摩の涯《はて》から、赤間ヶ関の親分までが、ズラリと面を並べる凄《すげ》えんだそうですが、来て見ると、見ると聞くとは大きな違い、ドコにそんな大親分がいらっしゃるか、ドコに天下分け目のトバが御開帳になっているか、てんで烟《けむり》も見えやしません。もしやこの山の上か、谷の底か、そんなところに本陣が据えてお有りになるんじぁございませんか。土地のお方に伺えばわかると存じまして、おたずね申し上げるんでございますが、そんなような気分の場所は、この近辺にございませんかなあ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、こう言ってイヤに含み声を鼻にかけたが、相手は全然取合わない。
「外で何ぞ物を言う奴がいる、追い返せ」
と、奥に向って人に命ずる気色ですから、がんりき[#「がんりき」に傍点]がテレもし、狼狽もし、こいつはお歯に合わないと、そのまま、ほうほうの体でその垣根を立ちのいて、次へと移りました。
 こうして、広くもあらぬ岩倉村を、がんりき[#「がんりき」に傍点]と米友とは、次から次へとおとのうて歩きましたけれども、中納言のお邸というのは、見当りもせず、聞き当てもせず、まして丁々発止のトバの気分などは、この男自慢の鋭敏な鼻を以てしても嗅ぎつけることができず、結局、うろうろして再び舞い戻って来たのは、さいぜんの垣根越し、あの癪にさわる、威光のある親爺《おやじ》から追払われた、その垣根から屋敷の周囲をめぐって見ると、とにかく、村中きってこれだけの構えの家はない。なにも驚くほどの宏でも壮でもないけれども、作りに奥行があって、なにか物々しい屋敷といえば、これほどのものはほかにない。
 ということを、がんりき[#「がんりき」に傍点]が再吟味をしてみると、はて、ことによると、今のあの色の黒い、頭のでっかい、眼の光るおやじが、あれが中納言かも知れない。
 してみると、たずねる山は、このお屋敷かな、その気になって見ると、どうやら少々臭いぞ、だが――ここは大トバの開かれるキボでねえと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の鼻は直ちに否定してかかったけれども、それでも念のためと、今度はひとつ、表門から正式は憚《はばか》りがあるとして、裏門の方からこっそり探りを入れてみようじゃないか。
 その気取りで、がんりき[#「がんりき」に傍点]は垣根をグルリと一めぐり、裏門の方へ向ったが、どうも、ややともすると胸がドキついてならない。敵を見て、人見知りをするような兄さんとは兄さんが違うと、自分で力んでいるのだが、なんだか胸がドキつくというのは、考えてみると結局、あの今の頭のでっかい、色の黒い、眼つきの怖ろしく光る、あのおやじの眼つき、面つきが、変に頭に残ってならない。
 どうも、あのおやじは只物でねえ、人《にん》によって威光というやつはあるが、一眼であんなに睨みの利く奴にでくわしたことがねえ、どうもあれが魔をなすんだな。あの眼で、「何だ!」と言って、一睨みされた時から、おこりをわずらった。なんだか、この屋敷は怖《こわ》いよ、見たところ、下屋敷でべつだん用心の構えも厳しいというわけじゃあねえが、ちっとばかり犯し難いな、犯し難え気がするよ。
 こいつは一番、不破さんにからかわれたかな。関守先生、あれでなかなか業師《わざし》だから、何か所存あって、がんりき[#「がんりき」に傍点]めを囮《おとり》に使いたいために、わざわざこんなところへ反間の手を食ったかな。だが、タカの知れたこのヤクザ野郎を、かついでみたところではじまらねえ話さ。よしんば、かつがれたところでおれはいいが、この同行の兄さんに気の毒だ。昨日から重い荷物をかつぎ通し、これが自分のものになるじゃなし、あっちへかつぎ、こっちへかつぎ、いいかげん御苦労さま――という気持で、思わず米友を見返ったが、その途端、それそれ、この金袋が物を言うよ、不破さんがおっしゃるだけじゃねえ、この金袋が物を言う、こいつも洛北岩倉村を目にかけて来たお金だ、すいきょうで大金を餅につく奴もあるめえじゃねえか、事は正真いつわり無し。
 金の袋を見てまた巻直しという心で、この屋敷の裏手へ廻ったが、やっぱり何となしにドキつく。水を汲んでいる姉さんに、そっと物をたずねて――
「姉や、この屋敷はいったい、どなたのお屋敷なんだエ」
 そうすると、大原女《おはらめ》が答えて言うには、
「岩倉三位《いわくらさんみ》さんのお邸《やしき》どすえ」
「岩倉三位――中納言様とは違いますかねえ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百には、三位と中納言のさか[#「さか」に傍点]がわからない。中納言にも、百五十石から六十四万石まであるのだから、たいがい戸惑いしているところへ、三位ときた日にはまたわからなくなった。
 そこで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、狐につままれたような面《かお》をして、岩倉三位の門前を、振返り、振返りながら退却に及ぶと、それと行当りばったりに、一つの団隊と衝突しました。衝突というわけではないが、危なく摺違《すれちが》って、見ると、これは穏やかならぬ同勢でありました。都合十人も一隊をなして、いずれも肩を聳《そび》やかし、一種当るべからざる殺気を漲《みなぎ》らして、粛々と練って来たのでありますが、その風体《ふうてい》を見ると、今の流行の壮士風、大刀を横たえたのが数名、それに随従する無頼漢風のが数名。先頭に立った一人が、恭《うやうや》しく三宝を目八分に捧げて、三宝の上には何物をか載せて、その上を黄色のふくさと覚しいので蔽《かく》している。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が危なく体をかわす途端に、
「コレコレ、岩倉三位の屋敷はドコだ」
 それが、あんまり粗暴で横柄なたずね方ですから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百もいい気持がしない。顎《あご》を突き出して、唇を反《そ》らして、たったいま新知識の岩倉邸の門を、つまり顎で指図して教えてやると、先方は、ちょっと妙な面をしたが、相手にせず、すぐさま立て直って、がんりき[#「がんりき」に傍点]に顎で教えられた通り、門をめざして粛々と繰込んで行きます。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、御大相な奴等だ、いったい何をかつぎ込むのかと、一行の後ろ影を見送っていましたが、はっと気のついたことは、そうだ、そうだ、うっかり釣り込まれて、本職を忘れていたわい。
 こっちは、中納言様、中納言様と下手《したて》にばっかり出て来たが、あいつらは、岩倉三位、岩倉三位と、大きそうに出やがって練込んで行くが、結局、帰《き》するところは一つで、東西きっての大賭場が開けるというその貸元をたずねて行く奴なんだ。こっちの符牒《ふちょう》が間違っているから、グレ通しだが、おいらと同じ目的のため、ああして乗込んだにちげえねえ。こいつぁ、うっかり口をあいて見ているばっかりの場合でねえぞ。あの尻尾をつかまえてやれと、百は早くもそこを合点したものですから、忙がわしく米友に向って、
「兄さん、おいらが、きっと突留めて来るからお前、そこんとこでひとつ待っててくんな、首尾がよければ、あの門の前で手を挙げるから、この手が挙がったら、お前、物言わず門の方へやって来てくんな」
 こう言って、米友を小蔭に休らわせて置いて、自分は抜からぬ面で、いま顎で教えてやった一行の後をくっついて、再び岩倉三位の邸前まで取ってかえしたものです。

         十六

 そうして、動静《ようす》いかにと窺《うかが》っていると、この物々しい一行は、玄関へかかると、恭しく、先手が承って捧げた三宝を式台に置き、おごそかにその錦の覆いを払って、それから、一同はこれより三歩さがって、土下座をきりました。
「岩倉三位殿に献上!」
「岩倉三位殿に献上!」
 こう言って、土下座をきって跪《かしこ》まった一同が、異口同音に呼ばわったかと思うと、そのまま突立ち上り、踵《きびす》を返して、さっさともと来し門外へ取って返すものですから、ここでも、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、すっかり拍子抜けがしてしまいました。
 これは、てっきり、こちとらと目的を同じうした東西のお歴々、壺振、中盆《なかぼん》、用心棒、の一隊と見て取って、直ちに諒解があって、玄関へ通されるか、裏手へ廻されるか、こっちの方もそれに準じてと、固唾《かたず》を呑んでいると、案に相違して、かくの如く、献上物を捧げっぱなしにしたままで、さっさともと来た道へ帰ってしまう。賭場の仁義にこんなことはない。
 そもそも、献上物ならば献上物のように、捧げる方ばっかりの片仁義というのはなく、受ける方にも相当の応接がなければならないのに、置きっぱなしの献上物というのが、どだい礼儀に叶《かな》わねえ、いってえ、何を献上に来やがったのかと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、二つの眼を使いわけて、その玄関の式台に置据えられた三宝の上の錦のふくさと覚しいのを払った献上物というやつの現物を一眼見て、この野郎がまたしても、三斗の酢《す》を飲ませられたような面をしました。
「えッ……」
 何だ、何だ、何だてえんだ、ありゃいってい、人間の片腕じゃあねえか、イヤに当てつけやあがるぜ、人間の生腕《なまうで》が一本、三宝の上に置いてあるんだぜ、いってえ、何のおまじねえだ、当てつけるなら少々お門違いのようなものだが、あいつらの言った今の口上は、「岩倉三位殿に献上!」「岩倉三位殿に献上!」と吐《ぬ》かして、決して、「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百様へ進上!」「がんりき[#「がんりき」に傍点]の百様へ進上!」とは聞えなかった。あの献上物なら、こっちが欲しいくらいなもんだが、さて、また何の由で、岩倉三位ともいわれる御仁《ごじん》が、あんな献上物を持込まれなければならないのか、また何の由であの奴らが、こんな献上物を持込んだのか、何が何やら、煙《けむ》に捲かれ通しで、居ていいか、立っていいかさえわからない。今日は幸先《さいさき》がいいと思って出て来てみると、現場へ来てはカスの食い通し。こんな日にゃ、出る目も出ねえ、ちぇッ面白くもねえと、がんりき[#「がんりき」に傍点]が唾を噛《か》んでやたらに吐き出しました。
 そうすると、後ろ手の方で、またしても喧々囂々《けんけんごうごう》、人の罵《ののし》る声、騒ぐ物音、さあまた事が起ったぞ、喧嘩だな、喧嘩となれば、てっきり今の物々しい奴等、してまた、その相手は、待てよ、ことによると、おいらの御同行のあの気の早い、あんちゃん[#「あんちゃん」に傍点]じゃあねえかな。こいつ事だぞ、あのあんちゃんときた日にゃ、相手かまわずだからなあ、事だぞ!
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は宙を飛んで駈けつけて見ると、果して、宇治山田の米友が、石の上に腰をかけて、大地を指さしながらたんかを切っている。それを取りまいて、いきり立っているのはたった今、岩倉三位へ献上物の一行に相違ありません。
 いったい、何がどうしたと言うんだ。何が行きがかりで、こうなったんだい。つまらねえいさかいをしなさんなよ。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、加勢のつもりではない、取和《とりなだ》めのつもりで、例の馬力で一足飛びにその現場へ戻って見ました。

         十七

 大地を指さした宇治山田の米友が、生腕《なまうで》献上の一行を相手に、何をたんかをきっているかと聞いてみると、
「そんなら証拠を出しな、証拠を出してから物を言いな、なるほどと思う証拠がありさえすりゃあ、この場でおいそれと渡してやるよ、証拠がなけりゃあ、誰が何と言ったって渡さねえよ、たしかにこの袋が、お前《めえ》たちのもんだという証拠を見せてくんな、お釈迦様に見せても承知のできる証拠を出してみねえな、そうすりゃ、この場で文句を言わずに渡してやるよ、証拠がなけりゃ、誰が何と言ったって渡すこっちゃあねえ!」
と啖呵《たんか》をきっている米友。これと正面相対して、青筋を立てているのは、さいぜん、生腕献上の先手を承って、三宝を目八分にささげた若い髯《ひげ》むじゃの浪士風の男であります。
「黙れ、証拠呼ばわりすべき性質のものじゃないぞ、その袋は、我々の仲間が昨日醍醐の三宝院の門前へ預けて置いて来た品じゃ、袋と言い、中味といい、これに相違ないから申すのじゃ、その方は、黙ってこちらへ引渡して行けば、それでよいのだ、仔細ないから置いて参れ、つべこべと物を申すに於ては、眼を見せて遣《つか》わすぞ」
と、右の浪士風の男が、つとめて抑損して、馬鹿をさとすつもりで言ったようですが、相手が宇治山田の米友ですから通じません。
「お前の方は仔細なかろうが、おいらの方はそれじゃ済まねえよ、当然渡すべき人に渡さなけりゃあ、義理が済まねえんだ」
「その当然渡すべき人々が我々なんだ、我々の所有物を、我々が受取ろうというのだから、これより以上の当然はなかろう」
「だから言わねえこっちゃあねえ、お前さんたちが、当然受取るべき本人なら、本人のような証拠を見せてくれと言ってるおいらの理窟がわからねえのかい」
「証拠というて、貴様に受取を出すべき筋はない、どだい、貴様は誰に渡すつもりで、その金袋を持って来たのだ、貴様は、さいぜんから、渡すべき人に渡すと言っているが、その渡すべき人というのは、いったい誰だ」
「うむ、そりゃあな……」
と言って、さしもの米友が、ここで少し口籠《くちごも》ったのは、当然の所有者に渡してやるべきつもりで、ここまで持って来たには相違ないが、その、当然の当然とすべき本人が何者であるかは、御当人にもわかっていないのです。これから、その御当人を探し当てて、返すところへ返してやるというつもりで、目下捜索中なのですから、こればっかりは、さすが米友の正義を以てしても即答がなり兼ねて、不覚にも言葉尻が濁るのを、相手は、ソレ見たことかと鋭く突込んで、
「それ見ろ、それは言えまい、本来、貴様らの持つべき筋合でないから言えないのだ、悪い了簡《りょうけん》を出すもんじゃない、さもしい心を起すもんじゃあないぞ、物が欲しければ、相当の筋道を踏んで持つべきものだ、さあ、素直に我々の手に返せ、戻せ、わかったか」
「わからねえ!」
 米友が決然として言いきったのは、この場合、正道がかえって、わからずやのように受取られるのみならず、拾得物を横領の悪漢のようにも受取れるものですから、堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒を切りました。どっちが堪忍袋の緒を切ったのだか、わからないところがお愛嬌だと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百はせせら笑ったが、笑いごとではない。この時、浪士の右の足が撥《は》ねたかと思うと、米友の胸板《むないた》めがけて、肋《あばら》も砕けよと蹴りが一つ入ったものです。普通ならば、これだけで事は解決してしまうのですが、
「何をしやがる!」
と米友は、蹴りを入れたその足を、両手でがっきと受留めて、こぐら返しに逆にひっくり返したものですから、蹴りはきまらず、浪士の身体が横ざまにひっくり返って、あっぷ、あっぷと言いました。
 その事の体《てい》が、今まで、さげすみ半分に、処分をこの一人に任せて、傍観の体勢でいた献上の一行を、残らず沸騰させてしまい、
「こいつ」
「この野郎」
「この馬鹿野郎」
「この身知らず」
「こいつ、気ちがいだ」
「泥棒だ」
「胡麻《ごま》の蠅だ」
 寄ってたかって袋叩きの乱戦になると、こうなると、宇治山田の米友が本場です。
 こういう喧嘩にかけては、相手の拳《こぶし》を受けて立つような男ではない。相手の一つの拳が来る前に、ぱた、ぱた、ぱたと三つ四つは、こっちから打ちが入っていて、あっ! と言わせる間に素早く飛びのいて、例の金袋を引っかつぐや否や後ろへさがったのは、逃げるつもりではない、足場をつくるつもりらしい。

         十八

 そこで、梨の木を一本、後ろ楯《だて》に取って、袋をかこい、蟠《わだかま》った米友は、例の手練の杖槍を取って、淡路流に魚鱗の構えを見せるかと思うと、そうでなく、後ろにかこった金の袋の結び目へ手をかけて、
「面倒くせえから、それ、欲しけりゃあくれてやらあ、手を出すなら出してみな、面《つら》でも腕でも持って来な、目口から押出すほど食わしてやらあ!」
 袋の結び目を手早く解いて、その両手を袋の中に突込むと、すくえるだけのザク銭《ぜに》をすくい上げ、
「そうれ!」
と言ってバラ蒔《ま》きました。バラ蒔いたその当面は、呆気《あっけ》に取られた献上隊の目と鼻の間です。
「あっ!」
と、これにはまた事実上の面喰いで、予期しなかった目つぶし。相手にこれほどの飛道具が有ろうとは思わなかった。
 さて、それから、花咲爺が灰を取り出して蒔くように、掴《つか》んでは投げ、掴んでは投げる。
 何といっても、盲滅法《めくらめっぽう》に投げるのではない、十分の手練に、二分の怒気を含めて投げるのですから、敵いかに多勢なりとも、面《おもて》を向けることができません。面を向ければ、多武《とう》の峰の十三重の塔と同じく、向いたところが満面銭で刻印されてしまう。
 額へ当れば額、頬っぺたへ当れば頬っぺた、縦に来た時は箆深《のぶか》に肉に食い入ろうというのだから、この矢面には向うべくもない。加うるに、この弾丸はなかなかに豊富で、むやみに掴投げにしてさえこの一袋は相当の使いでがあるのに、これを適度に使用されてはたまらない。左に持った一掴みの中から、右手で一枚を抜き取って、その片面にしめりをくれる。
「総花にフリ撒《ま》いてやるというのに、そう遠慮するなら今度ぁ、狙撃《ねらいうち》だぞ、それその前につん出た三ぴん野郎! こっちへ向け、そうら、手前のお凸《でこ》の真中へ、一つお見舞」
と言って、はっと気合をかけると、予告の通り三ぴん氏の額の真中へ、寛永通宝子がぴったりと吸い着く。
「そうら見ろ、お次ぎはこっちの三下野郎、イヤにふくれた手前の赤っ面の頬っぺたに一つ――こんにちは」
と言う言葉の終らぬ先に、なるほど、三下氏の頬っぺたに吸いついた文久通宝子、まるまっちい蝙蝠安《こうもりやす》が出来上る。
「その昔の、おいらの先祖の鎮西八郎為朝公《ちんぜいはちろうためともこう》じゃあねえが、お望みのところを打って上げるから申し出な、頭痛、目まい、立ちくらみ、齲歯《むしば》の病、膏薬《こうやく》を貼ってもらいてえお立合は、遠慮なく申し出な、そっちの方の大たぶさの兄いが、イヤに物欲しそうな面《つら》あしておいでなさる、ドレ一丁献じやしょうか、そうら!」
 空《くう》を切って飛んだのは、今度は名代の当百《とうひゃく》。以前のよりは少々重味があって、それが物欲しそうな大たぶさの耳の下をかすめて、鬢《びん》つけの中へ、ダムダム弾のようにくぐり込んだのだからたまらない。
「あっ!」
と、自分で自分の髪の毛をかきむしってとび上りました。
「そうら、こちらの方でも御用とおっしゃる」
 今度は一っ掴み、数でこなしてバラ蒔いて、
「あちらの方でも御用とおっしゃる」
 指の股へ四枚はさんで、四枚を同時に振り出すと、それが眼あるもののように飛び出して、相手四人の顔面へ好みによって喰いつこうというのだから、眼も当てられない。
「こちらの方でも御用とおっしゃる」
 恵方《えほう》を向いた年男。
「あちらの方でも御用とおっしゃる」
 蛤《はまぐり》をつまみ上げた長井兵助。
 これを見て、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百の野郎が、手を拍《う》って嬉しがりました。
「寛保二年、閏《うるう》十月の饑饉《ききん》、武州川越、奥貫《おくぬき》五平治、施米《ほどこしまい》の型とござあい――」
 頼まれもしないに寄って来て、袋の結び目から、受けなしの片手をさし込んでの一掴み、口上交りで米友の手伝いをはじめました。
「下総の国、印旛《いんば》の郡《こおり》、成田山ではお手長お手長」
 いい気持になって、人の懐ろで施しをはじめる。友兄いほどにはないが、こいつもまた、相当の曲者で、投げる銭に眼はつけないが、鼻ぐらいはくっつけて飛ばすから、受けきれない。
 さしもの献上組も、これには全く辟易《へきえき》していると、頃を見計らったがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、米友を顧みて、
「あんちゃん、物は切上げ時がかんじん[#「かんじん」に傍点]だぜ、この辺で見切りをつけようじゃねえか、お前《めえ》は跛足《びっこ》で、おいらは足が早いんだから、お前、ひとつおいらの背中へ飛びつきな、猿廻しの与次郎とおいでなさるんだ、お前を背負って、おいらが走る分にゃあ、ドコからも文句の出し手はあるめえぜ」
「合点《がってん》だ」
 その時の米友は、感心に人見知りをしません。投げるだけ投げた手を、ぱたぱたとはたき上げたかと見る間に――
 袋はそのまま杖槍は腰に、猿が猿まわしに取っつくように、がんりき[#「がんりき」に傍点]の背中へ御免とも言わずに飛びつくと、心得たもので、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、そのまま諸《もろ》に肩をゆすり上げて――
「あばよ!」
と言って、献上組を尻目にかけ、足の馬力にエンジンをかけると、その迅《はや》いこと。
「あれよ、あれよ」
と献上組、あとを追わんとする者なし。

         十九

 駒井甚三郎の無名丸が、東経百七十度、北緯三十度の附近にある、ある無名島に漂着したのは、あれから約二十日の後でありました。
 漂着というけれども、むしろこれは到着と言った方がよいかも知れぬ。
 船がある一定の航路を持っている限りに於て、それが誤れば漂着であり、それが正しければ到着であるが、駒井の船は到着すべき目的地を持ちませんでした。
 海上は、天佑《てんゆう》と申すべきほどに無難でありました。
 無難とはいうが、なにしろ、一葉の自製船を以て、世界の太平洋中に約一カ月を遊弋《ゆうよく》したものですから、その苦心と、操縦は、容易なものではないが、運よく、颱風の眼をくぐり、圏をそらして、世の常の漂流者が嘗《な》める九死一生の思いをしたということは一度もなかったのですが、それだけ、駒井船長の隠れたる苦心というものが、尋常でないことがわかります。駒井甚三郎でなければ、頭髪もすでにこの一航海で真白になっていたかも知れません。
 東経百七十度、北緯三十度の辺に一島を見つけて、ようやくこれに漂着したとはいうものの、これはあらかじめ、駒井が測ったところの地点であり、予期したところの一島でありました。
 いずれにしても、この辺に島がなければならぬ。人の住む島か、鬼の棲《す》む島か、ただしは、人も鬼も全く棲むことなき島か、その事はわからないが、この辺に島嶼《とうしょ》が存在することを予想して、そうして、針路をそちらに向けたところ、果してこの島を発見したのですから、極めて好条件の漂着であったことに相違はありません。
「それでも、この辺の海上は至極無事なのです、天候はいずれの海上へ行っても予想はできませんが、地理と人情はたいていわかります、この辺には、人を食う種族の住む島はなく、人の船を襲うて荷を奪う海賊というものも、あまり現われないのです、支那の近海とは違って、亜米利加《アメリカ》へ近づくほど海賊が少ないのです、土地が豊かで、天産物が多く、そうして、人間の数が少なければ、人は人の物を奪わずとも、天与の物資そのものを目的とします。与えられたものが即ち運命なりとすれば、とにかく、あの島が、最初に我々を迎えてくれたのですから、あれに我々の運命をかけてみることも天意かも知れません、全員総上陸の用意を命じていただきたい」
 駒井甚三郎は、遠目鏡を離さず、船橋の上に立ちながら、相並んで島をながめている田山白雲に向ってこう言いました。
 ほどなく、総上陸の用意が整えられた時、駒井甚三郎は、みなに命じて大砲を一発打たせてみました。この航海で大砲を使用したのは、これで二発目です。一発は鯨の群の遊弋《ゆうよく》に向って試みてみました。今度は島へ向って礼砲のつもりです。その、轟然《ごうぜん》たる響きを聞いても、島のいずれの部分からも、人獣の動揺する姿を認めることができなかったものですから、駒井は遠目鏡を外《はず》して、また田山白雲に向って言いました、
「無人島です、人間は住んでおりません、もし相当多数の住民がありとすれば、船がここまで来る間に土人の舟が現われるはずですが、舟がちっとも現われない上に、人も現われて来ない、人間の使用品の類も漂うて来ない、煙も揚らない、人間の住んでいる気配はありませんから、一同|揃《そろ》って、このまま上陸ができることは幸いです。しかし、一方から考えると、人間が住んでいないということは、人間の眼の発見から逃れていたという意味にもとれますが、同時に、人間がすでに見つけたとしても、土地そのものが住むに堪えないから、それで放棄したものとも解釈がつくのです。総員上陸の用意はして置いて、下検分のため一応、先遣隊をやる必要がありますね、誰彼と言わず、わたしとあなたとで、検分を試みてみようじゃありませんか、船夫《せんどう》を二人連れて、バッテイラで漕がせて、もう一枚、ムクを加えて行こうではありませんか」
 駒井からこう言われて、それを拒む白雲ではありません。
「至極妙です――早速手配をしましょう」
 ここで、駒井と白雲とが、二人の船夫《せんどう》をつれて、ムク犬をも乗組に加え、小舟でこの島に上陸を試むることになりました。残された船員一同は、そのいずれにも不安を感ずるということがなかったのは、出で行く人は、自分たちの頭ではわからぬ用意周到の船長であり、それと行を共にする田山白雲は、世に珍しい豪傑の一人ですから……それに、船長は精良なる銃器を持っているし、白雲は有力なる日本刀の二本を差している。船頭二人はこの道の熟達者であるし、ことにムクという奴が、未知未開の蛮地へ入り込んでは、必ずや人間以上の本能を発揮するに相違ない。たとえ鬼が出ようとも、引けは取らない――という信頼が充分だし、また船に残る者も、残された者も、僅かの航海の間に相互の協同精神が熟しきっている。ことに、七兵衛入道の肝煎《きもいり》ぶりというものが無類です。動かす必要のない船を預かる場合に於て、水も洩《も》らさぬ用心が、この入道の胸にあることも、船中の信頼の一つでありました。

         二十

 それから清澄の茂太郎が、逸早《いちはや》くメイン・マストの頂辺《てっぺん》に打ちのぼって、本船を離れて行く船長と白雲の一行を、視覚の及ぶ限り監視の役をつとめている。
 船の甲板では七兵衛入道が、やがて総員上陸すべき人員の点検と、陸揚げすべき資材の整理に大童《おおわらわ》となっている。
 七兵衛のその後のいでたちを見ると、いったん入道した形を決して変えない。あれ以来、絶えず船中で、頭へ剃刀《かみそり》を絶やさないと見えて、入道ぶりがもはや堂に入っているところへ、潮風で磨きがかかって、地頭そのものがいっそう自然の形に見えるようになりつつあります。
 その着物も、またそれに応じて、日本木綿を縫い直して筒袖にし、それに駒井形のだんぶくろをつけて、船員としても板についた形になっている。
 かくて、全員総上陸の点検の上、物資は物資でこれを大別して、船に残すべきものと、陸上に持って上せるべきものとし、とりあえず衣食住を保証すべき物資と、その用具の取揃えにかかりながら、七兵衛が言いました、
「まず第一が水ですね、水の手がなければ人が住めない、井戸を掘るとか、水口を取るとか、鶴嘴《つるはし》と、鍬《くわ》と、鎌と、鉈《なた》、鋸《のこぎり》――そういったような得物を、ここへお出しなせえ。それを束《たば》にして、がっちりとここへ並べて置きなせえ。それから、煮炊《にたき》をする鍋釜、米と塩、鰹節と切干――食料は、よく中身を調べて、この次へこうしてお置きなせえ。とりあえず野陣を張る天幕はいいかね、張縄から槌《つち》、落ちはないかね。それからお医者さんの道具と薬箱、これは潮水に当てねえように、雨にかからねえように、桐油《とうゆ》をかけて、細引にからげて、取扱注意としておくんなさいよ。めいめい足を忘れねえように、蛮地の山坂を歩くには足が大事だよ、足が――沓《くつ》に慣れた者は沓、草鞋《わらじ》草履《ぞうり》の用意、二足でも、三足でも、よけい腰にブラ下げるようにして、水筒には、それぞれ湯ざましを入れて、これも腰から放さねえことだ。陸《おか》へ上ったら、直ぐに飲める水が有るか、ねえか、そこのところの用心だ、時候がわりの土地へ来て、うっかり悪い水を飲んじゃあ、取返しがつかねえぜ」
 さてまた、婦人と小児の周旋は、お松が承って、これを担当する――
 婦人といっても、監督のお松と、それから乳母《ばあや》、七兵衛入道が押しつけられて来た南部の生娘《きむすめ》のお喜代――番外としては、ほとんど監禁同様に船室に留められている兵部の娘、それだけのもので、小児としては登少年たった一人――清澄の茂太郎は、小児扱いをすることはできない。
 男子はすべて、総上陸の用意をしているが、婦人と小児は、必ずしもそうは急がない。というのは、果して、あの島に安全生活の保証が立つか立たないかは、船長と総監(白雲のこと)が帰って来てでなければわからない。よし、人間の生活に堪えることが充分に保証ができたとしても、婦人小児連は当分の間、野営同様の空気に曝《さら》されるよりは、この船の中を当分の住居としていて、陸上に相当の住宅準備が出来て後、本上陸ということにしても遅くはない。よって、これら婦人部隊は、比較的に動揺が穏かです。
 幸いにして、婦人部隊に至るまで、いずれも健康に恵まれている。恵まれているというよりも、船長の周到なる用意と知識とが、船上衛生に抜かりなからしめている。その上に、食糧から医薬に至るまでの準備が潤沢であった――等々の条件が、船員のすべての健康を保証していたので、健康以上に張りきった精力に溢《あふ》れて見えるのさえある。
 してみると、ここまで、世間の漂流記にあるような極度の欠乏や困苦から、この船員はすべて免らされて来ている。天候と言い、健康と言い、珍しいほど好条件に恵まれているもので、ある意味では、世界周遊の遊覧船に乗せられて、たまたまこの地に船がかりをしたような気分をさえ与えられるのでありますが、前途のすべてが、こんな洋々たる気分ばかりではあるまい、ということは誰にも予想されるのです。
 ことに船長の身になってみると、現在の好条件がかえって、未来の多難を暗示するような考慮もないではない。それをまた本当に思いやっているのが、船長についではお松です。白雲は豪放で、それらの点には、さのみ頓着はしていないようです。
 お松は、一通り甲板から各船室を見舞った上に、ひとり船長室へ来て留守をつとめていながら、眼の前に浮ぶ島と、それに向って漕ぎ行く駒井と白雲一行の小舟を、窓の内から見送って、希望と心配とに張りきっておりました。

         二十一

 ここにもう一つ、隠れたる功績をうたわなければならないことがあります。
 それは、メイン・マストの上にいる清澄の茂太郎であります。
 この少年は出鱈目《でたらめ》をうたい、足拍子を取り、また興に乗じて踊り出すことに於て、船中の愛嬌者とはなっていますが、愛嬌者以上の実用の功力《くりき》を認められたこと、今度の航海の如きはありません。それは何人よりもまず、駒井船長に認められました。
 というのは、時に感じては、逸早くメイン・マストへ攀《よ》じ上って、出鱈目の口上を口走るが、その出鱈目のうちに、驚くべき天気予報を感知したのが駒井船長でありまして、今日は無事であること、明日は降るであろうこと、曇るであろうこと、または即今、南の方から低気圧が捲き起ること、北の方の潮の色が変っていること、そういうことが出鱈目の口うらのうちに含まれているのみならず、彼の音声の変化だけでも、気象に合わせて科学的に考慮してみると、経緯度ごとに音節の変調を来たしているやに見える。それを最も早く見て取り、聞き取った駒井船長は、船室のうちから、その研究を統計に取りかかりました。その結果が、その少年の声によって、気象の変化をある程度まで識別し得られる――船の針路が、ある程度まで暗示せられ得る、ということを発見して、有力なる航海指針のうちに加えました。それで、この航海が、漂流に似て漂流にあらず、初心の航海者が当然受くべき苦難から、きわどい潮さきによく逃《のが》るることを得て今日に至ったということと、今日に至ってこの島へ安着したその予感も、この少年の感覚に負うところが多いのであります。
 もちろん、人間のことだから、機械のように固定した正確を得ることはできない点もありますけれども、観察の如何《いかん》によっては、生きた気象台であり、生きた羅針台であり、生きた航路案内者となり得ることを、駒井船長が見て取ったものですから、これを観察し、これを利用することを怠りませんでしたけれども、それが評判に上ることによって、船中の要らぬ好奇心を加え、当人の鋭敏な感覚に無用な刺戟を与えてはいけないから、誰にもそのことを知らせずに、当人にのみほしいままに歌わせ、ほしいままに躍《おど》らせて、その純真性をつとめて保護して置かなければならないと思い、誰にも言わないうちに、ただ一人、お松にだけには、相当の暗示を与えて置きました。
 それですから、船長が島に渡った後のお松は、船長室を守ると共に、マストの上なる茂太郎の言動挙動に、それとなく注意を払っておりますけれども、今日の茂太郎は、歌うべくして歌わないのが不思議です。陸に着いたら真先、サンサルヴァドルの歌を歌うべきはずになっていたのが歌いません。
 茂太郎がこの島を歌わないということが、お松にとっては、この島が人の住むべき島でない、人が住むことに、何ぞ障壁のあるべき島だということの暗示にならないでもありません。
 それよりもなおいけないのは、万々一、そんなことは予想するさえいやで、また予想するほどの必要が微塵《みじん》もないことですけれども、島の検分に赴《おもむ》いた船長さんと田山さんの一行の上に、何かの異変が――というようにまでもお松は念を廻《めぐら》してみるのであります。
 そこで、身は船室に於て、船長なき後の船の一切の機密をあずかると共に、耳は高くメイン・マストの上に働いて、今にも起るべき、予報と、合図を待つことに集中されているのであります。
 幸いにしてやや暫く、歌うべきものの歌う声が起りました。お松は福音《ふくいん》を聞き貪《むさぼ》る如く、その声に執着すると、その歌は――
[#ここから2字下げ]
ダコタの林の中に
小屋を作り
パンを作り
泉を飲み
大地と岩と
五月の花をながめ
星と
雨と
雲とに驚けば
ものまね烏が啼《な》く
山鷹が飛ぶ
わたしは
新世界のために歌う
脚には聖なる土
頭の上には太陽
地球は廻転する
偉大なる哉《かな》、先人
ここに女性と男性の国
魂はとこしえに
海よりも遥《はる》かに偉大に
満ちては退く
退きては満つる
わが魂もて
不滅の詩を歌え
国々に起る
海と陸との
英雄
私は悪を歌おう
悪というものはないもの
現在に不完全なものはない
未来に不可能なものはない
ごらんなさい
大地は決して疲れないから
[#ここで字下げ終わり]
 例によって出鱈目の歌だが、その出鱈目にも相当に根拠はあるのです。
 どう根拠があるということは、当人には無論わからないが、駒井船長や、田山白雲の会話を聞き、また船長から口うつしのお松の筆記の席に侍し、そんなこんなで、うろ覚えが興に乗じて、前後左右、交錯したり、焼直されたりして、飛び出して来るのですが、今の歌もまさしくその反芻《はんすう》に相違ない。お松もその歌詞をそっくり受取ったわけではないが、その音節を聞いていると平和であり、その歌調の表現は、悲観でも失望でもない、むしろ、積極的に、大地と自然とを謳歌《おうか》する歌になっているものですから、お松は、この島が豊かな土地であり、船長はじめ検分の一行も極めて無事満足に探検を進めて、希望に満ちているということを、この歌が暗示すると認めたものですから、ほっと安心しました。

         二十二

 上陸して島内の最寄りを一応視察した駒井甚三郎は、同行の田山白雲に向ってこう言いました、
「水も掘れば出て来る見込みは充分だし、土地も開けば耕作の可能性がたしかです。ただ川がないから、水田は覚束《おぼつか》ないと思うが、陸稲及び麦、しからずば蕎麦《そば》などは出来ましょう。そのほかに、この地特有の食糧を供する植物があると思います。ともかくもここへ我々の根を卸してみましょう、相当生活してみて見込みがなければないで、また手段方法を講ずる余地が有りそうなものです。それにこの島は、周囲せいぜい二三里のものでしょうが、必ずや遠からぬ附近に、これに類似した大小幾つかの島が存在すべき見込みがあります。ひとまずここを足がかりとして、近き海洋を視察している間には、我々に与えられた最も適当な楽土を発見するかも知れない、約束せられたる土地というようなものがないとは限らない――左様、東経は百七十度、北緯は三十何度の間、ハワイ群島はミッドウェイ諸島に近いところ、或いはその中の一部に属しているかも知れません。これらの島々は、まだ名あって主のなき島と謂《い》うべきだから、我々に先取権が帰着すべき希望も充分あります。では、船へ帰って、この旨、一同に申し告げて、総上陸ということを決行しようではありませんか」
 白雲がこれを聞いて頷《うなず》き、
「結構ですね、そうして、いよいよ総上陸ということになりますと、まず第一に住居地の選定をして、上陸早々、住宅の建設に取りかからねばなりません、図面を一つ引いて行きましょうかね」
「そうして下さい、とりあえず海に近いところ、あの辺か、或いはこの辺がいいでしょう、材料は、近辺の、成長するあらゆる植物を、利用のできるだけ利用することですね」
「設計図は任せて下さい、拙者が、原始的で、そうして気候風土に叶《かな》う様式を創案してみますから」
「そう願いましょう。それから特に注意しなければならんことは、気候はこの通り温かいのですから、霜雪の難はありません、大河湖沼が乏しいから、洪水の憂いというものからも救われましょう、唯一の心配は風ですね、海洋の中の一孤島ですから、風当りは相当強いものと見なければなりません。しかし、波は岸を洗うとも、島をうずめるようなことはありません、海嘯《つなみ》だけは用心しなければなるまいから、単に海岸の舟つきの部分だけを念頭に置かず、半ば岩穴づくりにして、堅固に掘立てを構えることですね、風の当りさわりを本位にして」
「そうでしょう、強風暴風に堪えると共に、この通り暑いところですから、風通しをも考えなければなりませんな」
「それともう一つ、大家族主義で行くか、分散主義で行くか、それも重要な構図のうちです、つまり、海の生活を直ちに陸にうつしたような方式で行くか、或いは陸は陸のように、おのずから個性を尊重する建前で行くか、その建築方式を、あらかじめきめて置いてかからねばなりますまい」
「それもありますな。しかし、あれだけの人数が、いちいち一戸を持つなんぞということは、今日直ちにできることではありませんから、当分は大家族主義を取るほかないでしょう」
「しかし、物は最初がかんじんです、最初にその様式を整えて置かないと、後日改良をすると言っても、容易なものじゃないです」
「いったい人類生活は、大家族主義が本当ですか、個々分立主義が正しいですか。日本でも、飛騨《ひだ》の山中へ行きますと、一棟に四十家族も包容する大家族主義が現に行われていますが、我々の将来も、あれで行けるものか、或いはまた一人一家、少なくとも一夫一婦毎に一棟を分つという近代の行き方に則《のっと》らねばならないか、我々の植民第一に、その方針を決定してかかる必要はたしかにあります。あなたの趣味は、いったいどちらですか」
と田山白雲から尋ねられて、駒井が相当|確乎《かっこ》たる所信を以て、次のように答えました。
「私は一人一家主義です、ここに一人が独立の生計を与えられれば、必ず独立した一家を持たなければならぬという論者です、いわんや結婚生活者に於てをやです。かりに我々の仲間で、結婚以外に行き道がないものは、大家族主義を捨てて、独自の生活を営ましめるようにありたい、飛騨の大家族主義の如きは、自然生活にはかなっているかも知れませんが、私は個人の確立のためにそれを取りません、結婚者は当然独立した一家庭を持つべきは勿論、結婚した後に於ても、男女ともに別々に一家を成してさしつかえないと考えているのです、そうする方が合理的になるのじゃないかと考えているのです」
 白雲には、駒井のこの論旨が、よく呑込めませんでした。結婚生活者にはぜひ一家庭を持たしめよということは聞えるが、結婚した後に於ても、おのおの別々に生活するがよろしいという論理は、そのままでは甚《はなは》だ不透明だと思いました。

         二十三

 しかし、この場合、そういうことに議論を逞《たくま》しうしているべきでない。白雲はそれを追究せず、そのうちに乗って来た小舟のあるところに到着すると、一行がこれに取乗って、本船さして漕ぎ戻る極めて無事な光景であります。
 船へ帰ると駒井甚三郎が、船員全体を上甲板に集めて、次のような申渡しをしました。
「さて、我々はこの島へ上陸して、今後、この島の主となると共に、この島に骨を埋める覚悟で働かねばなりません。ここは我々だけの国であり、おたがいだけの社会でありますから、今までの世界の習慣に従う必要もなければ、反《そむ》くおそれもありません。もしこの島の生活を好まぬ時は、いつでも退いてよろしい。生活を共にしている間は、相互の約束をそむいてはなりません。ここには法律というものを設けますまい、命令というものを行いますまい、法律を定める人と、それを守る人との区別を置かないように、命令を発する人と、命令を受くる人との差別を認めますまい。仮りに私が先達《せんだつ》でありとしましても、それは諸君を治めるという意味の立場でなく、諸君に物を相談するという立場でありたい。この故に、我々だけの国とはいうものの、我々の国には王者がありません、治める人と、治めらるる人とがありません、従ってこの国には賞というものがなく、罰というものがないことになります。賞という以上は、それを賞する者がなければならず、賞するというのは、一段高いところに立って、そのことのぜひ善悪を鑑別して後にこれを推《お》す者になるのですから、批判の地位になります、批判が正しい時はそれでよろしいが、もし批判が間違っている時は、賞にその権威がなくて、軽蔑が起るのですから、人世と人とを推進せんがため、賞というものがかえって世道人心を紊《みだ》るの結果ともなるのであります。罰もその通りでありまして、社会が罰というものを設けるのは、これによって善をすすめ、悪を抑《おさ》えんためでありますが、それもやはり罰する人が正しければよろしいが、罰する人が誤っていた日には、罰を与えていよいよ人心を危うくするばかりです。よって、ここの国では賞も行わず、罰も行わずという建前にしたい。では、善いことはせんでもよい、悪いことは仕放題で罪がないかと申しますと、それは大いに有ります、おたがい同士仲よく生きて行くために害を為《な》すことは悪い、それを滑《なめら》かにするものは善い、とこう定めて置きましょう、そうすれば、おのずからこの島に於て為さねばならぬことと、為して悪いこととがわかるはずです。まず第一に、生きて行くには食物がなければなりません、空気と水は天地が与えてくれますから、これは人間の骨折りはいらない、その他の食物は、一切人間の手で、人間が作らなければなりませんから、人間の活《い》きて行く善事のまず第一のものは、食物を作ることです。これとても人間の力だけで出来るものではありません、米を蒔《ま》くにも、田畑というものがなければなりません、幸いに、私共がただいま実地検分して参りました結果によりますと、この島には、食物を生産すべき可能性が充分にあるのであります、人力を加えさえすれば、立派な耕地となる面積があるのであります、種子物の類は、豊富に船の中に貯えて持参してありますから、上陸早々、まず雨露を凌《しの》ぐところをこしらえて、それから耕地のこなしに取りかかりましょう、これが私たちの最初の善事でありますから、皆さん、応分の力をこれに添えて働いて下さい。みな働くと申しても、皆さんの力が平均しているわけではありませんから、誰も彼も鍬《くわ》を取り、鎌を振《ふる》って、荒仕事ができるものではありません、女子供はましてそうですが、力の足らぬもの、経験の乏しいものは、見よう見まねに、仕事の成績には関係せず、努めてやってみようという心がけが大切です。また、労力相当の軽い仕事から始めて、助けて行くのもよろしいです。そうすれば、これだけの人数で、五町や十町の開墾は苦もなくできます、それに種子をおろせば、まだ土が珍しいから、肥料なくして大抵の作物は出来るはずです。種子をまいて半年なり一年なりすれば、この人数を養うだけの収穫は必ずあります。故に、皆さんは、まず食物を作ることを第一の善事だと心得て下さい。それを妨げるもの、妨げないまでも、その助力を惜しむものが第一の悪事だと心得て下さい。それからです、我々は決しておたがいに過大の労力を課することを慎みましょう、出来ないものに無理に仕事をさせることのないように、出来る者にも、なるべく多くの余裕を与えて、人間というものは食って行くだけの世ではない、食って行くのは、つまり、皆々の持合わせた天分を、最上に発揮するためだということを心得て、おたがいの修養と、発表とを、怠らぬように致したい。そこで当分は、半日働いて、半日はおのおのの思うままのことをしてよろしい、本を読みたいものは本を読む、絵をかきたいものは絵を描く、歌をうたいたいものは歌をうたう、大工をしたい、細工をしたい、というおのおのの好み好みのことを、存分におやりなさい。半日は食物のために働き、半日は趣味のために生くるということ、これをこの島のおきてと致しましょう。それから、万々一、おたがいの中に我儘《わがまま》気儘《きまま》が昂じて、他の害悪をなす場合には、他の世界では、直ちにつかまえて牢へ入れたり、首を斬ったりするのですが、ここでは一切、そういう刑罰は用いますまい、刑罰の代りに遠慮を申し渡しましょう。我々の生活がわかってさえもらえば、好んで周囲を悪くするものはないはずですから、万々一、そういう人は、この社会を離れてさえもらえばよろしい。と言ってもここは大洋の中の孤島ですから、めいめい勝手に離れて行きたいところへ行くというわけにはいきませんから、この島のうちで別世界をこしらえて、そちらへ移ってもらう、そうして、そちらで自分の好きなような生活ぶりをやってみるがよい、当分の間、食うべきものは、こちらから分けて上げることにして、それ以後は勝手な生き方で生きてみるようにする。なおこの新しい生活を共にして行く間には、今までの世界で起らなかった問題も相当起るかも知れませんが、その時は、おたがいに相談の上で善処することと致し、とりあえず右のような意味で、食物を作ることに全力を注ぐということを、天地に誓いましょう、これには御異存はござるまいと思います」
 駒井甚三郎が、諄々《じゅんじゅん》として、かく申し渡した時に、誰も異議異存のあろうはずはありません。一同無条件に同意して、略式を以て天地に誓うの形式を取りました。
 ここに駒井甚三郎が、その理想の王国を作るの第一歩に踏み入ったわけですが、これは胆吹の山で、暴女王が行わんとしたところのものと、期せずして異曲同工なのであります。
 暴女王は専制の王国を打立て、力を以て、思い通りの小社会を作ろうとして失敗しました。
 駒井甚三郎は、力を以てせずして、自由を以て、人間生活を最善に伸ばそうとするところに相違がある。
 彼女の気象が烈しかったと反対に、これの行動は極めておだやかでありますけれども、その徹底を求めてやまざる意志の強烈にはあえて甲乙なしというべきでしょう。
 果して、治者なく、被治者なき社会の存立があり得るや。命令と、法律と、その後に強力がなくして多数を統御し得るや。これは、これだけの少数同志ならばとにかく、この形式を、何千何万倍の人数に及ぼし得る可能が有り得るや否や。駒井甚三郎は身を以て、これが実験にとりかかり得たものと見なければなりますまい。
 総員はみな無条件に聴従したけれども、この中の誰が、駒井の本心に共鳴し得るや。田山白雲すらが、その深い洞察はできない。聴従はするが、共鳴はないのです。そこに駒井としては、無上の希望があると共に、無限の淋《さび》しさがあるというものです。

         二十四

 かくて、田山白雲の設計図により、附近の木石を利用し、船中からも相当の資材を持ち出し、かなりの新館が、忽《たちま》ちに出来上りました。
 船は島蔭の程よき所に廻航して、そこに据附けの形となり、多くは小舟によって往来しつつ、そこを宿所として工事に働きに出ましたが、ほどよく新館が出来てみると、船に留って守るものと、新館に移動する者と、交代に手分けをしなければなりません。
 それから、附近を詮索《せんさく》して水道の工事があり、やがて開墾にとりかかって、草木を焼き、或いは伐《き》り、開くあとから種を蒔《ま》きはじめました。幸い、農事にかけては七兵衛入道が万事本職で、熟練した指導ぶりを見せていますから、仕事の捗《はかど》ること目ざましきばかりです。
 そのうちにも、休息と、慰安の時間は多分に与えられて、仕事の余暇は、おのおのその楽しむところを発揮するの自由を与えられましたから、ほんとうにすべてがトントン拍子で、幸先は決して悪いものではありません。
 駒井甚三郎は新館の一室を書斎とし、一室を寝室とし、食事は多勢と共に食堂兼用の広間ですることもあれば、書斎に取寄せて済ますこともある。駒井の次の一間は、秘書役のお松の部屋です。
 お松は、駒井の秘書と、内政と、その事務の助手のすべてを兼ねて、なくてならぬ人です。
 駒井が研究に没頭して事務に遠ざかる時は、お松でなければ駒井に代って取りしきる人がありません。田山白雲は豪放|磊落《らいらく》を以て鳴り、このごろは、その附近の異風景の写生に専《もっぱ》らで、義務として開墾に応分の力を出すほかには、細務に当るの余暇がない。時としては、島めぐりに日を重ねて帰ることさえある。
 いちいち、駒井船長の指揮を仰ぐことの代りに、お松さんに相談すれば、大抵の用は足りる、というところから、お松の地位が、責任と繁忙を加えて来るのはぜひがありません。
 駒井は、お松の才能を見て、得難き人を与えられたることを心ひそかに感謝している。この娘には万事を任せて間違いがないと信じていることは、いつも変らない。異常なる興味と、熱心と、忠実とを以て、自分の身のまわり一切の処理をしてくれる、その勉強ぶりをじっと見ている駒井の眼に、いつか涙のにじむことさえある。
「ああ、この子も娘ざかりなのに、考えてみれば自分は、この娘の未来を無視しているのではないか、自分は自分で趣味に生き、理想に生きて行くのだから、どんな山海万里の涯《はて》に果てようとも厭《いと》うところはないが、考えてみると、それだけの趣味も理想も持たぬ人たちを、強《し》いてこっちの趣味と、理想に引張り込んで、世間並みの希望と快楽を、すべて奪ってしまうにひとしいことになりはしないか、ことに娘ざかりのこの子たちを、今はこうして、自分というものに引きずられて、無我に働いてくれるようなものの、いつか眼がさめて、幻滅の悲しみに泣かすことはないか、眼がさめた時は、もう盛りが過ぎた時で、女の一生が色のあせたものになってしまって、一生を老嬢の淋《さび》しさに泣かすようになった日には、その罪は誰が負う、本来ならば、年頃になったような娘は、早くしかるべき相手を求めて、とにかく一人前に納めてやることが先輩の義務であろうのに、自分はただいい秘書を求め、助手を求め当てたことだけに満足していて、それで済むか、今の忠実を見るにつけ、後の心配をしてやるべき責任は自分にあるが、こうなってみると、世間並みの家庭に納めて、世間並みの肩身を広くさせてやることができない、体《てい》よく、こちらの犠牲として一生を廃《すた》らせてしまうことになるのだ、その点は気の毒に堪えない」
 駒井は、お松の仕事ぶりを見ながら、つくづくそれを感じて、つい、深い感慨に陥ってといきをつくことさえある。今日も、朝のうちから、皆の者は開墾に出て、駒井は研究室で、地図と海図をひろげて調べている、その机の一方で、一心に記録をうつしているお松を、横からながめて、またも、うっとりとその感謝と、悔恨に似た心で満たされて、思わずホッと息をついた時に、ペンを置いて、インキの壺を満たしかかったお松の眼とぴったり合いました。
 駒井もハッとしましたが、お松も思わず胸を轟《とどろ》かせました。
 地図を見つめて研究に耽《ふけ》っておいでになるとばっかり信じきっていた主人が、今までじっとわたしの方を見つめておいでになった。しかも、その眼の中には、解釈のできない深い思いが籠《こも》っていて、ただ研究に疲れたお眼をそらすために、あらぬ方を向いておいでになったものとは思われない。たしかに自分というものに視点を注がれて、じっと思い込んでおいでになったそのお心持は、不意にわたしの眼とかち合ったあの瞬間の狼狽《ろうばい》ぶりでよくわかる。
 お松はその時に、思わず面が真赤になりました。
 今まで、尊敬すべき主人として、二心なく働いていたし、また、こういう御主人の下に働き得ることに、精一杯の満足を捧げていたのですから、いかに接近して、いかに立入ったお仕事の相手をしようとも、自分としては、ちっとも心の動揺を感じたことはなし、また殿様も、女性として、人間として、わたしをごらんなさるほどに人情に近い方ではないから、単に、この中で最も役立つ女という実用一方のお取扱いとのみ信じていたから、そこになんらの隔意というものはありませんでしたが、この時は違いました。
 お松は何の故に、駒井の殿様が、今更あんなにわたしを御注視なすっていらしったか、その心のうちを知るに苦しみました。そうして、その瞬間に、使われ人としての自分でなく、女性としての己《おの》れを発見したものですから、我知らず狼狽して、ホッと上気してしまったこの心持が、自分ながらわからない。恥かしいとは思いましたが、ただ恥かしいでは隠しきれないバツがあって、そこは賢い女ですから、取紛《とりまぎ》らすように心を立て直し、言葉を改めて駒井に向って言いました。
「殿様、御気分でもお悪いのでございますか」
 さし止められている殿様という言葉が、この時、思わず口を突いて出てしまったことは、その心が、昔の思い出に占められていたからです。秘書としてのお松ではなく、処女としてのお松でありました。
「いや、別に気分が悪いことはないが、少し考えさせられることがあってね」
「まあ、お考えあそばすことは、あなた様の始終のお仕事ではございませんか、いまさら考えごとをあそばすと、おっしゃるのがおかしいわ」
と、お松はつい語尾を砕けて言いきって、自分でなんとなく胸を躍《おど》らせる心持を加えたのが、自分でわかりません。
「いや、研究の考えごとと、人情の考えごととは、同じ考えごとでも性質が違うからな」
「考えごとにそんなに幾つもあるものでございますか、人情とは何でございます」
「人情というのは、人間の情合いのことなのだ。学問というのは、情合いをはなれた理性というものです。学問の考えは、深ければ深いほど落着くが、人情の考えというものは、深ければ深いほど乱れてくるものだ」
「では、殿様には、何かお心を乱すような人情の思い出が、お有りあそばしますか」
「有るとも、大有りだ」

「伺いとうございますね」
「言わん方がいいだろう、言えばいや増す思いというものだからな」
「では、わたくしが代って申し上げてみましょうか、お君様のことを、お思い出しになったのでございましょう……」
「うむ……いや、違う、あれはもう忌明《いみあけ》だ、思い出せば不憫《ふびん》と思いやられぬことはないが、いつまでも愛惜《あいじゃく》を追うのは、それ、冥路《よみじ》のさわりというものでな、今では、さっぱりとあきらめている、いまさら思い出して、心を傷《いた》ましむるということもないのだ」
「では、奥方様のことを……」
「いや、あれは愛情がない、権式があるばかりだ、正直に言うと、結婚以前から冷たいもので、今もその通り」
「では、どなたのことを思い出しておいでになったのでございますか」
「実はな、お松どの、君のことを考えて、つい思いに沈んでしまったのだ」
「まあ、勿体《もったい》ない」
と言って、お松がまたも真紅になって、うろたえる心を抑《おさ》えることができないほどです。

         二十五

 ただ単に自分のことを考えていてくれたということは、感謝すべきことであっても、狼狽すべき事柄ではありません。それなのに、お松の狼狽ぶりのあわただしさ。自分ながら、今日に限って、何でこんなにあわてなければならないか、その理由がわかりません。
「お松さん、私は、つくづく君に済まないという考えが、このごろ漸《ようや》く起りました、遅いことでした」
「何をいまさら改まって、そのように仰せられますか、わたくしにはわかりませぬ」
「あなたが忠実に働いてくれればくれるほど済まない、思えば、私は、あなたを忠実な秘書であり、助手であるとしか認めていませんでした、お松どのという存在は、ただ駒井の研究を助けてくれる得難き道具として――道具というのは少し言いすぎかも知れませんが、最も善い意味で、そういう取扱いが当然だという心得のみで、それ以上には考えることもしませんでしたが、今、考えてみると、あなたも女でした」
「何とでも仰せあそばせ」
 お松は、駒井の率直な言いぶりに、挨拶の言葉を見出せなかったのです。駒井は、言葉をつづけて言いました。
「あなたも女です、今ここに女性として、私の親近の一人を見ていますと、その女性は、娘盛りという、人生に二度とない花の時代でした、ああ、それを自分は、ただ自分の助手としてのみ、便利有用なる道具としてのみ認めて、女性として、娘ざかりとしての、あなたというものを見て上げることができなかった、むしろ、その余裕を今日まで持ち得なかったということに、大きな慚愧《ざんき》を感じました、己《おの》れというものに熱中している間に、知らず識《し》らず人を犠牲にしていた大きな罪を、覚らずにはいられません、それを、今という今、痛切に責められたものですから、思わず歎息となりましたのです」
「何をおっしゃいますか、わたくしには聞えませぬ」
とお松も、つとめて冷静を保つ心で駒井の言い分に応対をして、
「女としての私が、お傍に働いてお気に召さぬならば、いつでも引下らせていただきます、微塵お怨《うら》み申し上げる心などはござりませぬ、幸い、わたくし、子供の時から骨折仕事にも慣れておりますから、明日からでも開墾の皆様と御一緒に、草も刈りましょう、水も運びましょう、その方が、わたくしの身にも相応しているに違いありません」
 駒井は、それを押しなだめて申しました、
「そういう意味に取ってもらっては迷惑します、今ここから君に離れられては、君に代るべき人がない、人がないから、やむを得ず君に働いていてもらうのではない、たとえ幾人の適任者がありましょうとも、君を措《お》いて、助けてもらえる人は現在の駒井にはないのです、拙者が済まないと思うのは別の意味ではありません、女性の一人を、女性として扱うことをせずに、単に便利なる使用人として一生を廃《すた》らせてしまうその責任が、この駒井にありはしないか、世が世ならば、そなたのために、よき連合いを求めて、立派な家庭の人として仲立《なかだち》して上げるべきはずなのに、それをせずに、こうして、いい気になって、娘ざかりをあだに過させ、今後とても、そういう希望を以て、君を世に出して上げることが覚束ない、それを思うと、自分の罪に戦《おのの》かずにはいられないのです。人というものは、己《おの》れの理想に熱中していると、知らず識《し》らずその家庭に大きな犠牲を作るものだということを、今ごろ、つくづくと考えさせられた次第なのです。そこで、そなたの身が不憫《ふびん》でならなくなりました、今までは、物としての人を見たのですが、今は人としての女を見たのです、自分の心の弱き部分が綻《ほころ》びて、血を出したようなものなのです、深く気に留めないで下さい」
 物やさしく言う駒井の言葉が、今日はナゼかお松の心を動かすことが深く、いつも、はきはきと答える言葉が、今日はまとまらず、この深甚《しんじん》な、異例の言葉に対して、何と挨拶すべきか、お松はぽっとしてしまいましたが、やがて、卓の上に泣き伏してしまいました。声を揚げて泣いてしまいました。

         二十六

 その時から、駒井甚三郎とお松との間の感情が、平静を失いました。
 お松は、駒井にとって唯一の秘書であり、助手であることは変りはありませんけれども、今までの虚心であることができません。この人に近づくことに、心を置かなければならなくなりました。駒井としては、あの時、言い過ぎたとも思う様子はなく、更に言い足そうとする気配もなく、依然として、威と恩とを備えた主人とし、船長としての態度を保つことに変りはありませんでしたけれど[#「ど」は底本では「で」]も、ひそかに見やるお松の眼には、痛々しいものの映ることを止めることができません。
 威厳の人としてのこの主人に、お松は物の哀れをはじめて見出しました。それは甲州以来の昔の思い出が、今までは人の身の上のようにしか思われなかったものが、今は、わが身の上のような気がしてなりません。
 そうしてみると、あの朋輩《ほうばい》としての不幸薄命なお君さんという女性の運命の絵巻を、ここに再び繰りひろげて、それを哀れなりと思う心が、泉のように甦《よみがえ》って来ました。本当に自分としては、お君さんを気の毒だと思い、できる限りのお世話はしたつもり。またお君さんの方でも、わたしというものを、本当に唯一無二の、心の底までの打明け相手として許しておりました。
 その時分のお松は、駒井の殿様は、殿様として尊敬はしていたけれど、それは有っても無くてもよい存在のようなもので、お君さんだけがなければならない人で、その人のために、身を尽し心を尽して尽したつもりですけれども、ついにその効《かい》がありませんでした。自分の無力を歎くと共に、お君さんの不幸な一生を、歎いても歎き足りない気でいます。その時の自分の心には、宇津木兵馬というものだけがあって、そのほかの男性のことはありません。この世で、いちばん縁のありそうな人で、その実、いちばん縁のないのが兵馬様であります。紙一重《かみひとえ》の違いが、いつでも千里の外にそれる、それをお松は、運命というものは、いつもこうしたものだと、雄々しくもその時に思いあきらめて、更に新しい仕事を、新しい勇気を見つけては、ここまで進んで来ました。
 海上の生活から、今の役目が重くしていそがしいために、このごろは思い出すこともなく、お君と、兵馬のために、心の痛手を病むことが少なくなって来ていました。それを、このごろ再び、物思う身となりました。昔は人の身、今はわが身というような、言い知らぬ心の痛みが、お松を悩ますもののようです。
 ある時は、お君さんに済まない! というような夢心地になって、ハッと我にかえることさえありました。お君さんの運命が、今日となって、わが身に降りかかろうとは、それは夢の外の夢のような思いに堪えられません。
 それから、お松はなるべく、主人の室に遠ざかって仕事をしようとしました。わざと次の間に持ち出してみたり、今まで心置なく物をたずねたり教えを受けたりすることも、この頃からなるべく口を利《き》かぬように、物を言わぬように、できるならば、ひとりだけ離れて船の中にいたいというような気分に迫られて来たのが、自分でもわかりません。
 駒井もまた、気のせいか、態度に変りはないとは言いながら、お松に向ってする口の利き方が鈍くなって、少なくなったように思われます。お松は、この心の間の裂け目を悲しいと思いましたけれども、その悲しさのうちに、何か甘いものが、重い心の躍動というものがあるのを感ぜずにはいられません。
 それから幾日の間、こんなようにして、二人は、外見は少しも変らずに、助けつ助けられつして過しましたが、その間にも、先日のような突っこんだ話は少しも出ませんでした。
 駒井は冷静な科学者の立場で研究をつづけている、その変らぬ面の、すずしい中のきびしさを見ると、あの時の、あの言葉が、通り魔のように、何ものかのいたずらがさせたことではないかと感ずるばかりです。
 それから一週間ばかり経って後のある日、開墾の方が予定よりもずっと速《すみ》やかに進んだことのお祝いを兼ねて、慰労の催しをすることがありました。その主唱者は七兵衛で、また委員長も七兵衛であります。取って置きの食糧を整理して、赤の御飯を炊《た》く、手づくりの諸味《もろみ》の口を切る、海でとった生きのいい魚、陸で集めた自然の野菜、バナナ、パイナップル、それから信天翁《あほうどり》を料理した肴《さかな》、そういったような山海の珍味を用意して、折柄、その晩は大空に皎々《きょうきょう》たる月がかかり、海上千里、月明の色に覆われて、会場は椰子《やし》の葉の茂る木の間に開かれてありました。
 勇ましき開墾の凱歌を唱えて、一同が飽くまで、この月に酔い、海に躍るの興は、世界に二つとない、ここまでの苦を慰めるに余りあるもので、全員がみな十二分に歓を尽し、歌うもの、踊るもの、吟ずるもの、語るもの、さまざまに発揮して、島一つ浮き上るような景気でした。
 七兵衛は、自ら楽しむと共に、司会者としての用心に抜かりなく、白雲は酒を呑んで、ひとり嘯《うそぶ》いて豪吟をはじめる、それについて清澄の茂太郎が、身振りあやしく踊って倦《あ》きないものですから、田山も歌って疲るるということを知りません。茂太郎の踊りは一座の花であると共に、他の船頭たちもまた、これにそそられて芸づくしがはじまります。白雲は興に乗じて、それらのお国芸をいちいち審査審判して廻りました。
 ウスノロのマドロスまでが、大はしゃぎでハーモニカを持ち出すと、それがまた一座の人気を呼ぼうというものです。
 そこで興がいよいよ亢《こう》じて、尽くるということを知りません。

         二十七

 駒井甚三郎は酒を飲むことをせず、また唄うことも、踊ることも、いずれも興味を持ち得ていないけれども、ただ、衆がたわいなく喜び興ずること、そのことを興なりとして、やがて、自分ひとりこっそりと椰子《やし》の葉蔭から海岸の方へと歩みを運んで、上気した頬を海風に嬲《なぶ》らせ、かがやく汀《みぎわ》の波に足許を洗わせながら、歩むともなく歩んで行きました。
 お松も同じ思いです。皆の楽しむことは嬉しいけれども、茂太郎のように踊ることもできず、白雲のように唸《うな》ることもできない。今日は七兵衛入道が、船夫《せんどう》を指揮して万端の座持をしてくれますから、自分が立入って働かなくてもよい。駒井の殿様と同じように、客分のような地位に置かれましたが、やがて、椰子の葉蔭から高く月を仰いで、むらむらと、場外の夜気に打たれてみたくなりますと、地上に楽しむ人も面白いけれども、この大海原《おおうなばら》の月の夜――何というすばらしいながめでしょう。つい一足二足と歩いて、海岸に出てみます。海はいよいよ遠く、月はいよいよ高く上って、千万里の波につらなる、大洋の面のかがやかしさは、今日まで海には見飽きた眼を以てしても、すばらしいと思わないわけにはゆきません。
 甲州の山で泣いた月、松島の浜の悩ましい月も思い出の月ではあるけれど、この豪壮で、そうして奥に限りのない広さから来る言いようのない淋しさに似た心地、それが何とも言えない。
 お松は、漸く海と月とに酔うては進みつつ行くと、ふと行手に人影を認めました。
 それはたった一つ、自分と同じように、この海岸を歩んで行く人影。この島に、ほかにその人が有ろうはずはないから、あれもわたしたちの仲間の一人、わたしと同じように席を外《はず》して海の風に吹かれに出た人。誰でしょう――とお松は、それを訝《いぶか》るより先に、自分の胸が轟《とどろ》きました。
 誰と言うまでもない、あの席を外して、ああして、ひとりお歩きなさるのは、駒井船長様のほかにはない。いつのまに殿様は、お外しになったのか、気がつかなかった、とお松はそれに胸を轟かすと共に、重い鉛を飲まされたように心がわくわくして、踏む足もとが、しどろに狂う風情です。ぜひなく、そこに立ち尽して彼方《かなた》の人影を、じっと見つめたままでおりました。その時には天上に月もなく、海上に波もなく、お松の心がたった一つの人影にとらわれて、進んでいいか、退いていいかさえわからなくなりました。
 彼方の人影もまた、汀《なぎさ》のほとりを、あちらへ向いて進んでいるのか、こちらを向いて引返しておいでになるか、それもわかりません。絵のような海岸に、ぽっちりと一滴の墨を流したように、人ひとりが立ち尽しているのを見るばかりです。
 しばらくして、お松は月を避けるもののように海岸の砂をたどると、道はいつしか椰子の林の中に入っていました。お松は、まともに月を浴びることが心苦しくなって、木蔭に忍ぶ身となったらしい。けれども、その足もとは、夢を追うように、海に立つ彼方の墨絵のような一つの人影を追うているのです。
 彼方の人影も、もはや、それより先へは、行って行けないことはないけれども、あとに会場を控える身にとっては、単独の行過ぎになることを虞《おそ》れて、とある着点からおもむろに、踵《きびす》を返して戻るもののようです。その時には、もうはっきりと、その進退の歩調がわかりました。そうして、こちらがじっとしていさえすれば、あちらの戻りを迎えることになるという進退がはっきりとわかりました。お松は椰子の木蔭に息をこらして、人を待つの姿勢となりました。
 それとも知らぬ駒井甚三郎が、当然そこを折返して来たのは、久しく待つ間のことではありませんでした。
「誰、そこにいるのは」
と言葉をかけたのは、待機の女性ではなくして、そぞろ心で月に歩んでいる独歩の客でありました。
「はい、わたくしでございます」
とお松は、きっぱりと言いながら、存外わるびれずに、木蔭から身を現わして駒井の方へ近づいて来ました。
「ああ、お松どの、そなたも月に浮かれて来ましたか」
「はい、ちょっと、海へ出て見ますと、あんまりすばらしいお月夜でございますものですから」
「まだ、みんな騒いでいますか」
「ええ、皆さん、大よろこびで、あの分では夜明しも厭《いと》いますまい」
「そうですか、それは本望です、そういう楽しみをしばしば与えてやりたいものだ、我々がいると、かえって興を殺《そ》ぐこともあるかと、実はそれを兼ねて少々席を外してみたが、外へ出ると、またこのすばらしい光景だものだから、つい、うっかり遠走りをやり過ぎて、いま、戻り道に向ったところです」
と駒井は、いつもの通り沈重《ちんちょう》に釈明を試みました。その時にお松は、この場の悪くとらわれたような羞恥の心が、自分ながら驚くほど綺麗に拭い去られて、ずっと駒井の傍へ寄ることを懼《おそ》れようとしませんでした。
 そうして、駒井の後ろに従うような気分でなく、それと相並んで歩きたいような気持に駆《か》られました。
「殿様、どうして、わたくしがあの木蔭にいることがおわかりになりまして?」
「ははあ、それはわかるよ、こうして月に浮かれてそぞろ歩いているとは言いながら、なにしろ、はじめての無人島だ、環境の事情からも、自衛の本能からもだな、前後左右に敏感に神経が働くからな、注意すまいと思うても、物影の有る方に注意は向くよ、植物と人間とを見誤るほどに、わしは酔うてはいないのだ」
 その返答を聞いて、なるほど、夢のように、そぞろ歩きをしながらも、人をあずかる身になると、油断というものはあり得ない、という心のたしなみをお松がさとりました。男子は外へ出れば七人の敵がある、という諺《ことわざ》なども思い当るし、何の苦もなかりげに見える人に、かえって断えざるの苦があるというような同情を思い出でました。
「あまり夜露に打たれてはお毒でございましょうから、お館《やかた》へお帰りあそばせ、あの人たちは、あのまま、あの人たちにお任せになった方が功徳にもなるでございましょうから、このままお帰りあそばしてはいかがでござります、わたくしがお供を致します」
とお松が言い出でたのを、駒井は素直に受入れました。
「なるほど、それもそうですね、夜露が毒とも思わんけれども、帰って、仕残しの仕事もある、そなたの言う通り、だまってこのまま引上げた方が、多数の興をさまたげないで済むというものだ。では、一緒に帰るとしましょう」
「そうあそばしませ」
 駒井はお松を伴うて、椰子の林の木蔭を、新館への帰途につきました。
 その時に、お松は、なんとも精一杯に自分の胸が躍動するような心持になりました。
 この主人を、送り迎えに立ったことはこれまで幾度、室を共にし、事を共にし、職務以外には何の雑念もなかった身が、今宵は躍《おど》る心が怪しくも狂います。
 お松としては、今までにほとんど感じたところのないほどの、強い充実味にぐんぐんと引きしめられる。ただ何とはなしに生甲斐《いきがい》があるというような心持、女としての充実した喜びが海の潮のように迫るを感ぜずにはいられません。今までは、いつも神妙に、後ろに従って主従の謙遜を忘れなかった身が、今晩はぐんぐん押しきって、この人と並んで語りたい、押並んで歩きながら、思う存分に話したい、という気分に満ち溢《あふ》れていました。
 駒井甚三郎もまた、踏む足がおだやかではありません。思いなしか、その白い頬の色が、木《こ》の間《ま》の月に輝いて、この人としては滅多に見ることのできない血の気を湧かせているやに見えないこともありません。お松の思い上った、不遜に近い歩みぶりを、決して不快なりとはしていないようです。
 かくて、二人は椰子の木蔭を、かの新館なりと覚ゆる方面に向って、無言で歩きました。それは主従相伴うて歩むのでなく、二個の人間が相携えて行くもののようです。
 椰子の林をわけて行くといっても、それは熟地に見るような簡単なものではないのです。蛮地ではないけれども、多年の無人島ですから、たとえ隣から隣へ行くにしても、道というものはないところなのです。そこへ、心あたりだけの道をつけて進むというよりほかに、進む道はないのです。自分たちの住む新館は、たしかあちらの方と、漫然とした道方角を選んで歩いても、それがそのままに通り抜けられるかどうかはわかりません。
 で、二人は、方向の目的はきまっているが、その径路のことは忘れているようでありました。
 無言で、ずんずん歩み行くこと、そのことだけに気が張りきって、到着の時と、ところと、そんなことは忘れてしまったのではないか。

         二十八

「お松さん、わたしはここで、一つ、あなたを驚かすことを言ってみたい」
と、ある地点へ来て、駒井は足をとどめて、椰子の大木の一つに身を釘附けにしたようによりかかって、こう言いかけられたお松は、全身の鼓動を覚えたけれども、それでも度を失うようなことはなく、むしろ、待っていましたというような大胆な心をもって、駒井の前に立ちはだかりました。立ちはだかったというのは、不作法千万な振舞でありますけれど、お松としては、それほど大胆になり得た気分を、自分ながら誇りたい心持で、
「何を仰せられましても、驚きは致しませぬ」
「本来は、驚かすつもりもなく、驚くべき何事もないのですが、少しもわたしを知らない人は、狂気の沙汰《さた》と思うかも知れません」
「殿様、あなたはわたしの唯一の御主人様でござります、御主人から仰せを蒙《こうむ》って、それで驚く家来はございません、この場で命を取るぞと仰せられましても、それに驚くような家来は、家来でございません」
「いいえ、そなたは、わたしの家来ではない、わたしはもう疾《と》うの昔に、人の主人たる地位をのがれた、同時にただ一人の人をも家来とし、奴隷とするような僭上《せんじょう》を捨てた、わたしを殿様呼ばわりするは、それは昔からの口癖が、習慣上から廃《すた》らないのだから、急に咎《とが》めようとも思わないが、本来、わたしはもう疾うに昔の殿様を廃業している、こうして涯《かぎ》り知られぬ海上をうろつく、これが本当の浪人じゃ、浪人という字は浪という字を書く、陸上にさまようているのは、あれは浪人ではなく、牢人と、人を囚《とら》える牢という字を書いたものもあるが、海上から見ると、陸にいる人は牢にいる人と同じかも知れない、陸にいてはいくら自儘《わがまま》だといっても窮屈じゃ、限度という格子に必ず突き当るが、そこへ行くと、海上は無制限だ、海上には、海上の自由があるな、たしかに。だから海上に漂う身になってみないと、真の浪人の味はわからぬものだ、つらいことも無制限だが、楽しいことも無制限だ。人間として、人間の制限を受けるのはいやなものだな、お松さん、そうは思いませんか」
「それはおっしゃる通りでございます、陸にいると、海にいるとでは、人間の気象が自然に違って参ります」
「制限のなき世界、制限なくしておのずから節度のある世界、節度を人から強《し》いられず、自ら楽しんで傲《おご》ることなき、そういう世界が望みで、わたしはこの船の旅に出ました、わたしはもう人の上に立つことはしない、人の下に忍ぶこともしない、お松さん、君が、もしまた、このわたしを主人と思い、己《おの》れの立場を家来と思っているとしたら、それはおたがいの誤解であるばかりでなく、おたがいの不幸です、この道理が、あなたにはよくおわかりのはずです」
「毎々《つねづね》、そのように承っておりますが、それは道理だけのものでございます、誰ひとり、あなた様を、自分の同輩だと思うものがございましょう、思おうとしても思われません、それだけに備わるものがございますから。それだけ企て及ばないものがあるのでございますから」
「おたがいに身を以て解釈しなければならない、昔のままの頭を以て、今の生活をしようというは無理ですよ、わたしたちが千辛万苦をしてなりとも、異境の土になりたいというのは、今までの生活がいやだからです、その生活を土台から築き直すためには、歴史と、習慣と、恩義というようなものを負うている国では、それができないから、わざわざこうして、天涯に土を求めているのに、昔のような頭で、昔のような生活に帰るつもりなら、おおよそそれは無意義なのです、その様式をすっかり打ち直すと共に、その心持を全く入れ替えなければならない。船のうちでは、そうしようとしても許されないものがありました、こうして自由なる国土の形式が、とにもかくにも出来上った上は、その実行にうつらなければならないのです――それを、わたしは、ここへ来ると同時に、ひそかに決心しました、考えるだけは考え尽して、もはや決心の時代も過ぎて、実行の時代に入りました、その実行の第一として、誰よりも先に、お松さん、お前を驚かさなければならない。実を言うと今日まで、その機会を冷静に見つめていましたが、今晩という今晩が、その与えられた機会だと思わないわけにはいかない、もう、これ以上に論議を費す必要はないのです、物を言って説明《ときあか》す必要はないのです、わたしは極めて平静の心を以て、これを言いますが、お松さん、あなたはわたしと結婚しなければなりません、駒井甚三郎は改めて、お松どのに結婚を申し込むのです、秘書として、助手としてではない、妻として、あらゆるものを駒井に許すのです、それをわたしは今ここで、あなたに要求したい」
 駒井甚三郎は、つとめて平静をよそおい、また平静の心を以てこれを言わなければ、言う意味をなさないことを感ずるかの如く、こう言いきって、そうして、お松の表情を、月に照らして、爪の先までも見落すまじと見入ったのです。

         二十九

 しばらくの間、たぎり流るるような烈しい沈黙が、無人島の、今は無人でない処女嶋の、椰子の林の木の間につづきました。
 駒井のかくまで、技巧ならぬ技巧をこらして打ち出でた応対に、お松としては返事がありません。返事ができないのです。できないのは、あり余って、そうして、その言葉を見出すに苦しむのでありましょう。
 全くこれは、この純良忠実なる処女を驚かすに充分なる申し出でありました。尋常の場合、当然の立場でいてさえ、女性として、この申し出に触れた時は人生の最高潮であって、これに動揺しない婦人は一人もあるべきはずでない。驚くなと言っても、驚かずにはいられないはずのものです。お松の心の激動と、その激動を持ちこたえるものごしは、駒井に正面から見下ろされてのがるる由がありません。生憎《あいにく》にも、木蔭を洩《も》るる月の光が、また直下にこの処女に射向いて、絶体絶命の手づめを見せているのです。
 こうなった時に、お松は、これこそ驚くべき勇気を以て、少しもたじろがずに駒井の面《かお》を見上げて、それに劣らぬ平静を以て答え得られたことが意外です。何か力あって、この女性を後ろから嗾《けしか》けるもののように、
「承知いたしました、わたくしは、あなた様のお申出でを、このまま素直にお受入れ致します」
「うむ――」
と言って、駒井甚三郎が、その足を大地に踏みこたえるように立て直して、
「有難い――よく承知をしてくれました、今晩から、あなたは、わたしの妻です」
「かような、これより以上の大事はないお申出でを、そのまま、この場でお受けする気持になった、わたくしというものの我儘《わがまま》をおゆるし下さい、わたくしは自分で、もう自分のことがわかりませぬ、無条件で、なんでもかでもあなた様のお申出でに従うよりほかに道がないことを犇《ひし》と身にこたえました、本来ならば、充分に考えさせていただいて、せめて今夜一晩なりとも、静かに考えさせていただいてから、最後の御返事をしなければならないのに、それをしないで、この場で、こんなに手軽く仰せに従う、わたくしというものの軽佻《かるはずみ》を定めてお心の中ではおさげすみになっていらっしゃるかと存じますが、わたくしは、もうさげすまれようが、賤《いや》しまれようが、左様なことを考えている余裕はないのでございます、今晩一晩考えさせていただいたに致しましても、明晩、明後日、一生涯考えてみましたとても、このお返事は考えてはできません、それ故に、この場で、あなたのお心に従います――それが、僭上であるか、男女の道に外れているか、いないか、世間態のために、あるべきことか、なかるべきことか、そんなことも、以前のわたくしならば、充分に考えている余裕がありましたでしょうが、今のわたくしにはそれがありません、あなた様が、当然のこととして、それをお申し出でになったように、わたくしも当然のこととして、それをお受入れ致します、誰が何と言っても、もはや怖れません、誰に対して済まないことになるか、済むことになるか、そんなことも一切はここで忘れ去ってしまっております、この、はしたない、慎しみのない女を、お憐《あわれ》み下さいませ」
 畢生《ひっせい》の力を振《ふる》って、こう言ったお松の舌は雄弁でした。平静に、平静にとつとめながら、その間から迸《ほとばし》る熱情が、火花のように散るのを、駒井は壮《さか》んなものをながめるかの如くに見つめて、
「有難い、わたしは今まで、いかなる女性からもそういう強い愛情を受けたことがありません、女性が男性の要求を受ける場合に、抵抗がなくして、それに成功のあることは絶無です、積極にか、消極にか、抵抗を受けてその後に征服があるのです、結婚というものの原始の形式はそれでした、それが進歩して、その間に、あや[#「あや」に傍点]というものだけが残っている、一旦は拒むものです、許す気持を以て争うものです、よい意味の芝居をしないで、男の要求を受入れる女というものはありません、それをお松さんだけがしない、これは偉大なる強さです、この抵抗のない抵抗の何という強さ、今晩、駒井甚三郎は、生きているという喜びを感じました」
「わたくしも、初めて、女として生れ甲斐があったということを、今こそ欺《あざむ》かずに申し上げることができるのでございます。駒井甚三郎様、男として、あなた以上に依頼のできる人が、あなたのほかにはございません、あなた様もまた、女として、友として、同志として、わたくし以上に信用のできる相手を見出し得ようということは、もはや、わたくしが許しませぬ、許したとても、それは見出すことが不能でございましょう、どんな海の果て、陸の末までも、わたくしは、あなたと運命を共にする唯一人の女でなければならないと、それは、ただ張りきった一時の感情で申し上げるのではございません、あの時から、運命がそうさせたのでございます。この大きな力をごらんください、もはや、わたしの身であって、わたしの身ではございません、この大きな力に押され、大きな力に引きずられているわたしを、お憐み下さい、わたくしは、もう自分の力で自分をささえることができませぬ、自分で今何を言っているかさえわからなくなりました」
 この時に、お松は身を以て駒井の上に倒れかかりました。
 全く、自分で自分を支えることができない。今まで堪《こら》えに堪えていたけれども、もう持ちきれないこの重味を、持ちかけられるのはそこよりほかにはありません。その怖るべき力を、真面《まとも》に受けた駒井甚三郎は、よろよろと、それを受留めながら、これも自分の力で自分の足もとを支えることができず、最初から楯《たて》に取っていた椰子の大木に支えられて、そこで、烈しい泣き声が、駒井の胸の中にすっかりかき埋められて、それでも井堰《いせき》を溢るる出水のように、四方にたぎるのを如何《いかん》ともすることができません。
 身を以て泣く女の力、駒井はその力が、雷電の如く火花を散らす強さを知りました。

         三十

 この時以来、二人の身心に大革命が行われたということを、誰も知ったものはありません。
 聡明にして叡智なるこの二人は、その秘密を誰にも知らせようとはせず、また知らせてはならないことだと感じました。
 二人の間が、今までと変って、二つのものでなく、完全に溶け合ってしまって、しかも、その情熱は白熱の情熱で、土をも、金をも、あらゆるものを溶かし尽す盛大なる力を、秘密の中に生かし置く二人の人間としての慎みが、また強大なりと言えるかも知れません。
 それが、二人を偽善に導かず、壮快なる活動力となり、人に疑惑を持たせずして、信頼を加えるように嶋の人からもてなされていることは、今日が昨日に優ろうとも劣ることはありません。
 それだのに、二人は、この秘密の知らるることを怖れました。相戒めて、よそよそしく振舞わなければならないことを申し合わせたのは、それは、こういう疑惑が人心を迷わすことのいかに大きいかを、二人ともに、経験の上からよく心得ているのです。
 人心を得るも、失うも、その機微に存することを、飽くまで味わって来た駒井甚三郎、世間の苦労をしつくして、人心の反覆を知り過ぎるほど知っているお松は、二人の評判が、この僅かな同志の間にでも異様に立ちのぼった時は、それは二人同士の身心の革命が、血を流さずして行われたことのように容易なものでないことを、熟知しているからであります。
 人心が離れる、離れないということは、男女の間の疑惑から起って、予想だもしない危険があるということに、相戒め、節制をつとめる二人の間は、偽善ではなくして、誠意でありました。
 二人の間を、異様な眼を以て見るものは一人もありません。船にある時、優良なる船長であった主人と、その最も忠良なる侍女、或いは秘書としてのお松を、虚心平気で見る以外の眼を以て見るものは一人もありませんでした。
 二人の革命は、無事に二人だけの破壊と組立てを完了している。その勝利というような甘い感じが、ややもすれば、この聡明にして警戒深い二人の世界を、動かそうとすることもないとも言えないが、二人の世界は、二人だけの世界で、何者といえども、これに触るるを許さないところのものでありました。
 その甘きに酔うべき秘密を、二人は、厳粛に、犯されざる垣の内に保ち得たりとする、そこに、誠意もあり、警戒もあるが、また、免るべからざる弱さもありました。その弱味が、蓋《ふた》を取って物を見るように見られていることを感づかない二人の心に、充分の隙間《すきま》があり、愚さがあるということを気づかないでいるところに、また二人の善良さもあるというものです。
 事実、秘密は保たれている――と信じきったところに過《あやま》ちはなかったもので、今も現に、一人として異様な眼で見るものはないのは、まさに相違ないのですが、たった一人の者に、その秘密を見破られてしまっている――ということに、二人が気がつかなかったというのは運の尽き――いや、それが結局、喜ぶべきことかも知れません。この同志の中のたった一人が、早くも二人の秘密をうかがい知ってしまいました。
 その一人とは誰。神秘に属する官能を与えられた無邪気な清澄の茂太郎か。いいや、そうではない。茂太郎は鋭敏な天才に似ているけれども、まだその世界を知るまでには、年齢の力が許していない。つまり、それを最初に見破ったのは別人ならず、七兵衛入道なのであります。
 七兵衛は、もう翌日の朝、二人の間を見破ってしまいました。
 朝の御機嫌伺いを兼ねて、事業の進境の相談をするために、真先におとずれ[#「おとずれ」に傍点]た時に、平静を極めた二人の、常と少しも変らない態度とあいさつのうちに、どこをどう見つけたか、心のうちに肯《うなず》くものがあって、そこはやっぱり狸ですから、二人がなにくわぬ表情をしている以上に、この男は尋常な面つきで、いんぎんに聞くべきを聞き、述ぶべきを述べて、天幕の中へ引下って来たが、まだ働き手は誰も出動していないテントの炉の前で、煙管《きせる》を一つポンとはたきながら、七兵衛入道は変な面をして、思わずこう言いました、
「お松も、いよいよ女になったなあ」
 駒井甚三郎も、お松も、この人に会っては、皮をかぶることはできないのです。
 だが、そういった七兵衛入道の面には、いささかも意地の悪い表情はなく、それが結局、二人の喜びに勝《まさ》るとも劣ることなき、躍動を抑えて、ほほえむかの如き含蓄の深い色を漂わせて、
「縁は異なものとはよく言ったものだ、あの子が駒井の殿様のものになろうとは思わなかった、駒井能登守を、こっそりと独占《ひとりじめ》にする凄腕《すごうで》を持っていようとは思わなかった、さて、おれが仕込んで、おれ以上の腕になったというものか、全く以て小娘は油断ができない」
と、こう独《ひと》り言《ごと》を言いながら、ほくそ笑みをつづけましたが、その笑顔は、我が子の手柄を親としての自慢と誇りに堪えないような笑顔でないと誰が言います。事実上、七兵衛は、わがこと成れりというほどに、そのことを喜んでいるのは確かです。
 お松についても、駒井についても、知るだけを知りつくしている七兵衛入道は、今さら、「縁は異なものとはよく言ったものだなあ」と、ひたすら、その縁という異常なることに感じて、それの正しいか、正しからざるかは考えていないらしい。考える暇もないらしい。もし、少々でもその余裕があったとしたならば、彼は第一に、このことが宇津木兵馬というものにとって、いいことか、悪いことか、そのことだけでも一応は考えなければならないはずなのです。
 七兵衛としては、一日も早く兵馬に本望を遂げさせて、そのあと二人を一緒にしてやる、これが一生の願いで、これまで陰に陽にそのことに力を入れて来たのですが、ここで、そういう結構が、すっかり打ちこわされてしまっていることを知った以上は、お松に対して苦言を言わなければならず、駒井に対して直諫《ちょっかん》もしなければならないところなのですが、これがすっかり消滅して、
「お松もいよいよ女になった、これで、おれも安心だ」
という安心と満足でいっぱいなのは、どうしたものでしょう。こうして七兵衛が、大安心と満足で満ちきっているところへ、天幕の外から、
「おじさん、来ているの?」
 これも、うら若い女の声でありました。紛《まご》う方《かた》なき奥州の南部で、七兵衛入道がむりやりに押しつけられて来た、お喜代という村主の娘の声に相違ありません。

         三十一

「お喜代坊か」
と七兵衛が言ったので、
「おじさん、一人?」
と答えて天幕の中へ現われたのは、湯の谷の温泉で、きわどい時に拾い当てた山方の娘のお喜代であります。
 お喜代は、紺飛白《こんがすり》のさっぱりした着物をつけて、赤い帯をしめ、手拭を髪の上に垂らして、手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のかいがいしいいでたちで入って来ました。その張りきった体格と、娘でありながら、まだ子供のような無邪気な初々《ういうい》しさが、思わず七兵衛を見惚《みと》れさすものがあります。
「ああ、わしは今、駒井様へ行ってお指図を受けて来たところなんだが、もう、みんな働きに来るだろう、喜代ちゃん、そこへ火を焚《た》きつけておくれよ、お湯をわかしといてもらいてえ」
「はい、承知しました」
 極めて柔順に、この子は、七兵衛の言いつけを聞いて、急ごしらえの築立竈《つきたてかまど》の下へ、薪《たきぎ》を折りくべて火をたきつけ、やや遠いところの水汲場へ行って、バケツへ水を満たして来て、釜に入れたりなど、まめまめしく働く。その働くさまを、七兵衛は、こちらから煙草をのみながら、じっとながめておりましたが、
「ああ、ここにも娘盛りがいる」
と言って、何か深く考えさせられたものがあるようです。
 お喜代は、あんなにして七兵衛が貰い受けて来たというよりも、変った意味の前世の約束で、無理に背負わせられて来たのだが、こうなってみると、有力な拾いものであります。有力どころではない、求めても得られない、珍重な拾い物をしたと思わずにはいられません。
 その当座こそ、この娘は、さんざんに泣きもしたし、故郷を恋しがったりして手がつけられなかったけれども、今は慣れきってしまいました。これが与えられた生活であるという希望が、ようやく芽を出して来たのは、上陸して後にはじまったのではありません、船の中が好きになりました。海上生活が好きになったというよりは、この中の同志が物珍しくて、そうして、いずれも内容があって、親切であることが、単純な山の中の人と共に生きているよりは、なんとなしに豊かなものであることを知って、この人たちと共に暮すならば、海の涯《はて》、山の奥、どこまでもと言いたい気分になっているのでした。それから、この植民地が出来るにつけても、女としては唯一無二の働き手です。お松も働き手ではあるが、それは上局の部分に属して、主として船長附きになっているから、開墾そのものと、その生活の世話に、手を下して助力するということはできません。その不足を、お喜代ひとりが補って余りあるのです。この娘は山方でも、家柄のいいところへ生れたのですが、労働を厭《いと》わないのみならず、労働に慣れておりましたから、ほんとうにここでは三面六臂《さんめんろっぴ》の働きをします。口数が少なくて、働くことは三人前もしますから、この点に於ても申し分はありません。そうして、張りきって何不足なく働くものですから、体力もみるみる実が入って、はちきれそうな肉体の豊かさを、紺飛白の着物の下から、唐ちりめんの赤い襷帯締《たすきおびしめ》の色から、甲掛脚絆の外れから、惜しげもなくはみ出して見せるところに、七兵衛が思わず見とれて、そうしてまた思いました、
「ここにも娘盛りがいる、今はまだいいけれども、そのうちに、と言っているのでは遅くなる、何とかしなければならない、何とかしてやらなければならない、何とかするといっても、もう世界は限られているようなものだから、いずれは、この組の中の誰かに合わせてやらなければならない、そのうちに当人が誰を好くとか、誰ぞがぜひにとか望んで来るものがあるに相違ない、打ち出してそう言えないうちに、それを見てやらなければならないのは年寄の役だ、だが、危ないものだなあ」
と七兵衛が、年寄心で、それからそれと取越し苦労に耽《ふけ》って行く。
「危ないというのはほかではねえ、この国には男が多くて女が少ない、少ないというよりは、まだ男の数は、そうと、十三人を数えるけれども、約束済以外の女といっては、まあこの娘と乳母《ばあや》――は、これはもう一度卒業したんだから、明いているといえば明いているが、初物《はつもの》とは言えねえのだ、してみると、取引のできる女というのは、お喜代坊ひとりだけなんだ、十三人の男に一人の女、しかもそれが、はち切れそうな娘盛りと来ていちゃあ、これは只事じゃあ済まねえなあ、こいつ、この国での一番の考えごとだぜ」
 七兵衛の苦労は、そこまで及びましたけれども、それはただに取越し苦労ではない、火がそこまで燃えさかって来ているようで、おっつけ、この女の持主というものを確定してやらないことには、その暗黙の競争者で火花が散る。苦労人の七兵衛は、この問題を、島に於ける最初の、しかも最大の難問題のように思われ出してきました。
 競争者が出来た時に、一方に与えて一方に与えなければ、すぐに生命《いのち》がけの問題になる、ということを、苦労人の七兵衛が考えないわけにはゆきません。そうしてみると、今のうちに、すっかりこの娘の持主をきめてやって、他の者は手が出せないものだという観念を、みんなに持たせてしまわなければ事が遅い。これは考えている時じゃない、眉《まゆ》に火のついた問題だと、七兵衛はせき[#「せき」に傍点]立ちました。
 お松の方は、あれで大安心。いいか、悪いか、それは知らないが、もうあの女の運命はきまったから、あれは、これ以上に心配してやるがものはない。これからはこの娘だ、今夜は一晩、寝ずに考えてやるぞ、と七兵衛が、じっと思い入れあった時に、どやどやと皆が出動して来ました。

         三十二

 その晩、七兵衛は、無名丸の方へ廻って船番がてら、船で一夜を明かすことになりました。
 広い船室の中に、たった一人で、思う存分考えてやろうとしたのは、今朝、天幕の中でじっと見据《みす》えた、あの体力のハチきれそうな、おぼこの娘の身の上のことでした。
 それを考えると、自分というもののこし方も、おのずから考えられるので――
「ああ、おれも考えてみると、女房では苦労をさせられたんだなア、苦労をさせられたというより、女房のために一生を誤られたと言ってもいいかも知れねえ。なあに、そんなことがあるものか、自分というやつの手癖足癖が悪いから、こうなったに相違ないが、嬶《かかあ》が良かったらこうならずに済んだかと思われるのも、まんざら愚痴じゃあるめえ。あいつお土産つきでおれのところへ来やがったんだが、そいつはおろしてしまって、次のやつが出来ようという時に、男と逃げた、それから、おれがグレ出したというようなもんだが、女というやつは、どっちへ廻っても油断がならねえなあ。その後、おりゃ、女という方にはさっぱり綺麗に、よくもここまで通して来たもんだ、悪い事ぁするが、その悪いことも性分でやってるので、意地でやるわけじゃねえんだ、因果なことに、盗むのが面白くって面白くって、世間が隙《すき》だらけで隙だらけで、だまって見ていられねえから、ついちょっと手が出る、手が出ると、足が物を言うので、ツイツイここまで盗みを商売にしては来たものの、その上り高で、道楽を一つするじゃなし、お妾《めかけ》を一人置こうじゃなし、時たま旨《うめ》え酒を飲んで、旨え物を食ってみるくれえが関の山なんだ。女房のほかには、女てやつにさっぱり慾がなかったなあ、今日までそれで通して来たんだ。考えてみると、おれは盗人《ぬすっと》さえしなければ、聖人のようなものだ、盗人にならなけりゃ、相州の二宮金次郎になっていたかも知れねえ。だが、おれの初手《しょて》の嬶は、あいつは今どうなっていやがるかなあ、嫁入前に男をこしらえて、お土産つきで来るような奴だから、娘時分には、男も一人や二人じゃなかったろう、どうせ、水呑百姓のおれんとこへ、まあ、鄙《ひな》には珍しいというくらい、渋皮のむけた奴で、おれのところへ来るのだから、何か仕くれえ[#「仕くれえ」に傍点]があったに違えねえ。おれも面白くねえから、あんまり大事にしてやらなかったが、やっぱり前の男と切れなかったのか、また別のをこしれえやがったのか、ああして追出《おんで》てしまやがって、その後は、さっぱり消息《たより》を聞かねえ、聞きてえとも思わねえし、聞きたくもねえのだが、ロクなことはあるめえよ、本木《もとき》にまさる末木《うらき》なしでなあ、人間、一ぺん夫婦となった以上は、どっちにどういう間違いがあっても、離していけず、離れていけねえ、間男《まおとこ》をしようとも、やくざをしようとも、そりゃ亭主の器量が足りねえんだとあきらめて、嬶は免《ゆる》してやることだ、一生可愛がってやることだ、おれはそう思うよ。あの時に、おりゃ、もう少し嬶を可愛がってやるんだっけ。苛《いじ》めもしなかったがな、面白くねえから、いい顔を見せなかった、朝晩いい面を見せられなけりゃ、女房は辛いよ、女房だけが悪いたあ言えねえ、亭主にそれだけの徳がねえから、女房が悪いこともするということになるんだ。だから、若い娘にはいい亭主を持たせてやりてえ、なるべく早く、なるべくいいところへ、物心のつかねえうちにかたづけてやるのが、年寄役のつとめなんだ、いい御亭主になれなかった罪滅ぼしに、おれは、せめていい世話人にだけはなってやりてえ。さあ、その手詰めの試験台があの娘だ、あの娘を罪滅ぼしの試験台に、おれは仲間での出雲の神様になりてえ、そうでなければ浅草の粂《くめ》の平内《へいない》だ、おれをふみつけ[#「ふみつけ」に傍点]さえすれば、男女の縁は結んでやる、とこういう功徳の神様になって、罪滅ぼしをやりてえもんだが、さて、その小手調べが、どうなるものかなあ」
 七兵衛は、こういうことに思い耽《ふけ》って、早速明日から、この島のうちで、誰にあの娘を授けてやったらいいか、その品定めにとりかかろう、物好きな品定めではない、当りがついたら、いやおうなしに縁を結ばせて、あの娘の持主をはっきりきめてしまうのだ。
 こういう心持で、船の中の乗組、船頭、水手《かこ》、楫取《かんどり》のすべての面を頭に浮べたが、どうも考えてみただけでは、これはと思わしい相手が思いつかない。あれは実直だが、老人だし、二十、三十の若い者があるのに、四十がらみの船頭にも持って行けないし、若いのをへたに選んだ日には、一方に恨みの種を蒔《ま》くようなものだし、はてさて、一同のうちに誰を見立てたものか、ほとほと七兵衛の頭が乱れます。
 冗談じゃない、ではいっそ、七兵衛おじさん、お前の物にしちまったら……もともと、お前に授かったのじゃないか――全く冗談は言ってもらいますまい、第一、この坊主頭にてえして、そんなことができますかい、それに、今日まで男後家を立て通して来たといえば二本棒だが、聖人の道を守って来たこのおやじを、今となって人間道に引卸すなんては罪だよ、考えてもいけねえ、そういうことは口走るもんじゃねえよ、と七兵衛は自問自答して、厳粛に打消してしまったりしていましたが、一晩考えてみても、なんら目当てはつきません。
 物事はそう取越し苦労ばっかりするもんじゃねえ、神仏がいいようにして下さらあ、縁は異なもの味なもので、人間業に行って行かねえやつなんだ、早い話が、甲府勤番支配駒井能登守が、この大海原の真中の離れ島の椰子の木の下で、おれの娘分のお松と出来合うなんていうことが、仏様だってあらかじめ御存じのある事じゃあるめえ、それと同じことに、あの娘だって、どうしようの、こうしようのと、おれがここでやきもき思ったからとて、どうなるものか、冗談は言いっこなし、いい年をして、そんなことができるかい、そんなことをしようものなら、みんなの示しがつくと思うかい、なに、駒井の親玉でさえもあれじゃないか、お前のはそれよりもっと素姓がいいんだぜ、村方総出で許されて来たんだぜ、あの時、村方の者が何と言った。
 あの村のならわしで、いったん男に肌を見られた女は、もうよそへお嫁に行くことはできない。
 村の昔からの習わしでございまして、娘のうちに、男に肌を見られたものは、どんなに身分が違いましょうとも、年合いが違いましょうとも、その男よりほかへは行ってはならねえことになっているのでございます、見たもの因果、見られたもの因果でございまして。
 そういう習慣でございます、そうしてその娘は、あの場で、こちら様に、すっかり見られてしまったんでございますから、もう嫁にやるところもございません、婿《むこ》を取るところもございません。
 それのみじゃございません、怪我にでも一人の女の肌を見てしまったものは、否が応でも、その女を自分のものにして、面倒を見なけりゃならねえおきて[#「おきて」に傍点]になっているのでございます、それをしなけりゃ村八分、いや、荒神様の怖ろしい祟《たた》りがあるのでございまして。
 わしらが方では、名主様のお嬢様がお湯に入っているところを、雇人の作男が、ふと見てしまったばっかりに、そのお嬢様は、隣村への縁談が破談になり、その作男を夫に持たなければならなくなってしまったことなんぞもございます。
 何を申しましても、村の昔からのおきて[#「おきて」に傍点]なんでございまして、このおきて[#「おきて」に傍点]を破ると、孫子の代まで恐ろしい祟りがございます、そうして、現在この子は、あなた様のために、あの通りの目に会いました、善い悪いは別に致しまして、これがこの子の運でございます、もうこの娘は、あなた様よりほかに面倒を見ていただく人はございませんから、御迷惑さまながら、どちらへでもこの娘をお連れなすっていただきたいものでございます。
 もし、あなた様が、この娘の面倒を見て下さらなければ、この娘は死ぬよりほかは行き場所のない子なんでございます。
 そういうわけで、押しつけられたのだ。
 そりゃ、それに違えねえけれど、それは土地の迷信というものだ。土地の信仰を無にはできねえから、一時、おれはそれに随って来たが、船つきの都合で、暫く方向をかえて、疫落《やくおと》しをやってから、娘をまた里方へ帰すつもりで引受けて来たんだぜ、それをそのままいい気になって、わがものにしてしまおうなんて、考えても考えられねえことだ、縁というやつは、なるようにしかならねえものだ、神仏にお任せ申して置きあ、いいようにして下さらあ、人間、人のためを思うのはいいが、思い過すと、かえってためにならねえ、人間の運というものは、人間にはわからねえんだ、縁は異なもの味なものさ……いい人はいいようにして下さらあ、納まるべきものは納まるところへ納まるさ、そう、くよくよしたもんじゃあねえよ……

         三十三

 こういう意味で七兵衛は、この問題に未解決の解決を与えて、それでひとまず打切りとしました。
 朝起きて見ると、兵部の娘が、思いの外にきちんとした身だしなみで、パンとお茶とを持って来て、七兵衛のために朝飯をととのえてくれました。マドロスはと見ると、一心に船の掃除をつとめている。この二人は、ほとんど常住の船の番人です。上陸してその部署につかないこともないではないが、船を守ることを本業として、陸に来ることは、ただ自分としての割当ての縄張を見て置くだけといったようなものです。
 見るに、気のせいか、マドロスも、ウスノロぶりがだいぶ引きしまってきたようです。兵部の娘の何となく甲斐甲斐しく見え出したのと同じ見えですが、見損いでない限り、二人の気分の改まりは、環境のもたらす一つの好感化かも知れません。というのは、今や他の船員はことごとく陸上に安定の地を求めて一生懸命です。が、この二人だけは船に置かれて、これまた、船を安定の地として残されている。周囲の嫉妬もないし、憎悪《ぞうお》も遠のいたし、そこで心の僻《ひが》みが取れたせいもありましょう。それともう一つは、この一組の仲は、あらゆる船員の憎悪の的でありましたが、七兵衛だけは異った同情を持っていたのです。マドロスが検束なきふしだらで、この娘一人を独占し、女も女で、人もあろうに、あの眼の碧《あお》いウスノロのどこがいいのだと、さげすまない者は無いが、さて、これほど侮られ、にくまれながら、この二人の存在を如何ともすることができない所以《ゆえん》は、船の舵《かじ》をこの男が握っているからで、この男無き限り、他の船員に、まだ知らぬ大洋を安全に行き得る自信がない。他のあらゆる事情に於ては否定すべき存在であるのに、そのことのただ一つの技術のために、彼の不検束が許されている。それが許されている間は、女のふしだらもまた許されている。こういった唯一の条件の下にのみ、二人の存在は許されているのですから、その以外には、あらゆる冷たい眼を向けられているのに、ひとり七兵衛だけは、二人の間を、一種の同情を以てゆるしておりました。
 出来ないうちはともあれ、出来た以上は仕方がない、出来たにしても、どちらか一方に不満がある時は、またそれはどうにか手段があろうけれど、毛唐であれ、ウスノロであれ、出来てしまっている上に、二人とも、憎くない、好き合っているということになってみては、もう、文句の無いところだ、許してやるさ、明るく二人を扱ってやることさ、少なくとも、冷たい扱いをしないで可愛がってやるがいいさ……こういうように、同情心を以て対するものですから、二人も、七兵衛の温かい心に非常な感謝の念を持っているのです。
 この感謝の心が、かくも行動となって現われて、七兵衛に対する限り、もてなしぶりが違うのです。そこで二人も七兵衛の来ることを喜ぶし、七兵衛もまた、二人以外の船の目附《めつけ》としては、その老巧から言っても当然その人ですから、ほとんど隔晩には船へ泊りに来て、船は、今やこの三人だけの世界のようになっているのです。
 時たま、田山白雲が、船を見舞に来ることもあるが、これはウスノロにとっては最も苦手で、この人が来るとウスノロは、船室の中にすくんで扉を閉して出て来ません。兵部の娘の姿が見えると、白雲が何かとからかうものだから、娘も恥かしがって、なるべく姿を見せないようにしている。それだから船も白《しら》けて、さすがの白雲も、ここへやって来ることに気が向かない。画の資料を取寄せる際の極めて必要の場合でない限り、船へ来ることは稀れです。
 駒井甚三郎も、最初のうちは、ちょくちょく来て見たけれども、これは、二人を叱りも、からかいもしないけれども、二人の方で気が置けて、やっぱり姿を見せないことにつとめているし、駒井もまた、二人の存在を無視して、仕事を片づけては行くものですから、ほとんど没交渉のようなものです。それさえ、この数日間は姿を見せない。毎日一度は来た駒井船長が、船へ姿を見せないことによって、陸の方の事務がそれだけ忙しいことがわかります。忙しいというよりは、それは、あの晩の事あって以来のことですから、お松を必要とする限りに於て、駒井はその新館の一室から、助手を手放すことを好まない。ほとんど終日を二人は、一室のうちに扉をおろし、カーテンを卸して研究に耽《ふけ》ることさえあるのです。このごろは、開墾地の見舞をさえも怠りがちになることすらあります。
「船の中でも、そうでしたが、よくまあ、あれだけ根《こん》がつづくものですねえ、朝から晩まで本を読んで、調べものをなさって、それでお飽きになるということがない、お手助けをなさるお松さまも、学問がお好きの道なればこそで、ほかの者ではつとまることではございません、殿様もよく勉強をなさるが、お松さまの仕事も、ほかの人でつとまりっこはない、お好きの道とは言いながら、よくもあんなに精がつづくものでございますね」
と、無邪気なお喜代が、同情のあまり、七兵衛に向って感歎して言いましたが、七兵衛は、
「人間、好きな道には命さえ投げ出すよ、仕事というものは、外《はた》で人の見るほど苦になるものじゃない」
 駒井がここへ来て、新しい研究に熱中の度を加えたとの評判は、お喜代の眼にばかりではない、誰の眼にも、舌を捲いて感歎するものがありましたけれども、それを何でもないことに解釈するのは、七兵衛入道ひとりだけに過ぎません。

         三十四

 神尾主膳は、上野へ行って輪王寺の門跡について、覚王院の義観僧都《ぎかんそうず》を訪ねましたけれど、その日は面会ができませんでした。
 それでも、ひるまずに竜王院の執当をたずねてみたが、それもおりから不在とのことです。
 そこで、憤然として山を蹴って出づべきだが、今日の主膳は、左様な侮辱にひるまないで、更に、輪王寺の重役、鈴木安芸守《すずきあきのかみ》をたずねて、ここでは意外の珍客としてもてなされたものだから、いくらか溜飲を下げて、そこで、久しぶりに安芸守信博と対面をしました。
 本来、今の神尾の身で、供もつれずに、覚王院や竜王院を突然に訪ねてみたところで、猊下《げいか》へ通すまでもなく、玄関子がよろしく取計らってしまうことは、わかりきったことで、神尾主膳としても、その辺の常識は無ければならないのですが、いささか覚悟の前であったのでしょう、そこで山に於ては、前二者に次ぐ役人としての有力者、鈴木安芸守にぶっつかると、直ちに諒解《りょうかい》されたのみか、意外の珍客としてもてなされる気色さえあったものですから、神尾も、こうなければならないと、昔の自尊をいささか取戻したらしい。それも、一つは安芸守自身が居合わせて、取次から、珍しくも神尾の名のりを聞いたものですから、それでこの良会があったもので、さもなくば、やはり玄関子の取計らいを蒙《こうむ》ったに違いないと思われる。
 今の神尾は、人に訪ねられる身分でなく、ましてや人を訪ぬる身でない。悪友以外にまじめに訪問を試みたということは、甲府勤番の役向を別としては、何年にも絶無のことでありました。
 それでも覚王院に於ても、竜王院に於ても、あえて癇癪《かんしゃく》を破裂させなかったというものは、本来、今日は私心あっての訪問ではない、いささか誠意あっての義勇心(?)といったものから出でたのですから、私の侮辱に平然として屈せぬ面の皮がありました。
 役の出先、裃《かみしも》をつけたままで鈴木安芸守が、神尾主膳に対面して、
「これはこれは神尾主膳殿、珍しいことではござらぬか」
「いや、津の国の、何を申すもお恥かしい次第だが、今日、かくの通りにぶしつけに推参いたしたのは」
 先以《まずもっ》て、財物の無心に参ったのではござらぬという安心を、先方に与えなければならないほど、神尾の立場は気が引ける。
「その後、お噂《うわさ》を承るのみで、一向に御消息を存ぜぬことでしたが、御無事で何よりめでたい、どちらにお住いでござるか」
 安芸守の言うところには温か味がある、それが何かしら神尾を和《やわ》らかにするものがありました。この安芸守は年配に於て、十も主膳の先輩ではあるが、旗本としての門地は、今は知らないが、以前は遥かに神尾より下でした。今の神尾としては、誰ひとり振向くものもなし、振向くものの面《かお》は冷たいと思って、僻《ひが》むところを、こういうふうに温かに取扱われると、悪い気持はしない。まして、たった今、覚王院や竜王院で、お取計らいを食って出て来たその余勢ですから、神尾もここで、故旧になぐさめられるような温かな味、近来受けたことのないものを受けました。
「いや、ドコにいると名乗るほどの安定はない、刑余の亡命者でござるがな、今日は、どういうものか、虫の居所が少し違っていると見えて、じゃんじゃんの鐘を聞くと、急に上野の地が恋しくなったようなわけで、山へ登ってみましたよ。とりあえず、竜王院と覚王院をたずねてみたが、見事な門前払い、なるほど、今の神尾ではかくもあらんかと腹も立たなかった、今日という日は、妙に虫の居所が辛抱強い、それにも屈せずして御門を叩いてみると、ここの御門前は極めてすべりがよろしい、かくばかり滑《なめ》らかに通されて、温かいお言葉に接することは、神尾の身にとって、近ごろ絶えて無いこと、よろこばしう存ずる。ただし、好意に甘えて、御多用の時間を長くおさまたげすべきではないから、手っとり早く申し述べたいが、いったい、今の徳川の天下は、どうなっているのでござる、これから先々、どうなるというのでござる、それを、一言、お洩《もら》しが願いたいのじゃ」
 神尾としては、今日はまた舌も存外滑らかで、情理明晰《じょうりめいせき》にすらすらと述べました。
「何かと思えば、改まった御質問、さもありなん御心底もお察し申すが、なにしろ、そのことは重にして大、なかなかここで寸秒の座談に尽すというわけには参らぬ、拙者も門跡へ出仕の身でござるによって、ただいま打寛《うちくつろ》いで物語りを致す時間を持ち合わさぬ故に――それではこう致そう、貴殿の、その発心を、拙者はここで冷ますことを致したくない、よって、明晩と言わず、今晩、いささか二三子の会合もあるによって、苦しからずばその席へ、貴殿の再出馬を願いたいものだが、いかがでござるな」
「よろしい、承知仕った、すでに会うまじき昔の人に、会わんとして会うた以上は、尽すところを果さなけりゃならぬ、今晩なりと、明日なりと、貴殿のお引廻しにあずかりたい」
「いさぎよいお言葉、では、今夕七ツをお約束仕ろう、再度、これまで御足労を煩わしたい――参集の二三子とても、いずれも心置きなきものばかりでござる」
 鈴木安芸守の砕けた応対、ちっとも我を侮らぬ扱いがいよいよ頼もしい。それというのは、この人も幕府の一人には相違ないが、城下にいること少なくて、山に住むことが多いものだから、世間のことにうとく、従って、昔の神尾あるを知って、その後の神尾を知らない。さしも持崩して千瘡万穴の、この神尾の醜骸を、まだ取りどころのあるものとして、手を触れてみてくれるだけでも頼もしいと、神尾が一応、不覚の涙を催したというのも無理はないでしょう。

         三十五

 その夜、再び鈴木安芸守をたずねると、鈴木は、客間に杯盤を設けて、打ちくつろいで神尾を迎えたが、その座上に連なる二三子というのも、意外に皆、打砕けた気風で、御家人もあるが、いささか伝法な肌合いもあるが、幸いに神尾を見知っている者は無く、鈴木もまた、神尾の何者であるかを説明せずして、同じく待遇したものですから、場所がらと役目に似合わず、打解けた会合ぶりでありました。
 その座上も、かなり和やかで、主客の間に、ずいぶん忌憚《きたん》のない時代評も行われましたが、大局の帰するところは同じようなもので、どのみち、徳川家の末路の傾いて来たのは、時の勢いでぜひがない。東の衰える時は、即ち西に勢いの附く時である。それは、少なくとも関ヶ原以来のバランスだ。西の方で中心となるは、大藩のうちでも、薩摩、長州が動かなければ本当の幕府の脅威とはならない、それが現に動いている。動き過ぎるほど動いているが、ただ、薩長の勢力が動いたからとて、それだけではいかに動いても、天下の大勢をひっくり返すわけにはいかない。朝廷というものが中央においでになる、その朝廷の御稜威《みいつ》を借りて事をなさなければ、為すべき名分も、手段も立たぬ。よって薩長あたりが躍起となって策動している……
 ここまでは誰も見る通りの時勢なのであるが、これからの観察と、解釈とが、この一座のものとして聞くのと、巷《ちまた》で聞くのとは大きな相違がある。鈴木安芸守はこういうように言うのです、
「策動はしているが、結局はモノになるまい、蛤門《はまぐりもん》の失敗を、再三繰返すのみに過ぎまい、過激の壮士共や、変を好む浪人共と違い、朝廷におかれても、心ある堂上公卿は、内心みな徳川贔屓《とくがわびいき》じゃ、徳川家の悪いところは悪いで改めて行き、やっぱり三百年の重しのかかった勢いでないことには、この内外の多難は救われない、たとえ、建武の中興が成ったとしても、帰するところは、やはり武家の世だ、かりに、徳川家に代って、薩摩あたりが勢力を張ろうとしても、長州が許すまい、幕府がある間は薩長相提携もしようが、徳川退くならば彼等の間に当然の同志討ち、いずれの勢力も、徳川家の多年の威望には及ばない、とすれば、彼等の為すところは、朝廷を擁して、その御稜威の下に権柄をわが手に占めて行こうとする策略があるのみだが、そうなってみると、堂上公卿が得たりとばかり手を拱《きょう》してはいないのだ、位倒れで実力の無い公卿勢力を、左様に見くびってはならない、力は無くとも、歴史を持っている彼等の情実というものは、なかなか侮り難いものでな、武家の力だけでは如何とも致し難いものがある、そこで、四方八方の因縁がからみつくから、たとえ、徳川衰えたりといえども、一朝一夕で、天下の形勢が変るということはまずあるまい」
というのが、鈴木安芸守の結論らしい。
 これは関東方としては、しかるべき見方であり、また事実その通りに信じているのであるけれども、以て、天下の輿論《よろん》の帰向とは言われまい。さりとて、神尾主膳にはそれに異議を試むるほどの見識が出来ていない、黙して聞いているよりほかはない。また、今晩は黙して意見を聞くためにここへ来たので、己《おの》れの所見を述べに来たのではない。そこで神尾は神妙に沈黙していたが、鈴木のこの大体観を中心にして、集まる二三子が、かなり思いきった反駁《はんばく》を試みたり、同意を表したりすることが、また大いに学問になりました。
 しかし、この座では大体に於て、鈴木の意見に一致するので、それ以上に、徳川の余力を買いかぶって、薩長共の蠢動《しゅんどう》が結局、徒労に終ることを冷笑する空気が圧倒的でありましたが、最後に、最悪の場合を覚悟するとして、関西の勢力が朝廷を擁し、関東と相対峙《あいたいじ》するような形勢となると、輪王寺門跡のおわすこの上野の山が関東の王座となって、江戸城は、その衛城であること京都の二条城にひとしい。この意味から上野は守らなければならぬ、上野が関東の最後の、かつまた江戸での最上の本地となるのだという意見には、誰も異議はない。
 それから、朝幕と、各藩各勢力の有する人物評判などに及んで、こういう時勢に於ては、おのおのその有する各藩の人物の如何《いかん》によって、興廃の運命が決するというものだ。ところで、鈴木安芸守が人物論について、次のような傾聴すべきことを言いました。
「京都に於て、公卿で第一に怖るべき人物はというと、それは岩倉三位だ、あれが容易ならぬ曲者で、薩長といえども、まかり間違えば、岩倉のために手玉に取られない限りもない、あれは睨《にら》みが利《き》く、薩長の何人といえども、岩倉三位に対してだけは、正面から押しの利く奴が無い」
と、きっぱり言いました。岩倉三位に対して、ともかくもこれだけの認識を持っているというのは、鈴木安芸守が、やんごとなき御方の、おつきの養育係を命ぜられて四年間、京都に留まったその経験がさせることと思われますから、いずれも耳を傾けました。今の関東では、やれ長州に高杉があるの、薩摩に西郷がいるのと言っても、てんで取上げはしない。旗本たちにとっては、薩摩や長州の藩主そのものでさえが、己れと同格以下に心得ている伝統的の自尊心があるから、そのまた下の軽輩共などが眼中にあろうはずはない。それは浮浪人同様のもので、月旦《げったん》の席へは上せられない。かりに上せられても、一刷毛《ひとはけ》で片づいてしまう。しかし朝廷を擁する公卿となると、実力は問題にならないとしても、その門地の物言う勢力が、彼等をして軽視を許さない。そこで、公卿の人物観に於ては、存外、身を入れて聞くのでありますが、鈴木の岩倉観には、是非共に一言をさしはさむことができない。その代りに、
「では、関東方で、その岩倉に匹敵する人物は誰じゃ、西の岩倉と組んで、引けを取らぬ東の関は何の誰だろう」
 岩倉にケチをつけてみたいが、つける知識の持合せが無い、その反動として、東でこれに対抗する人物ありや、と伝法の一人が質問を発したのは、将を射んとして馬を射るの戦法に似たものがあります。そうすると、鈴木安芸守がこれに答えて次のように言いました、
「京都の朝廷に岩倉三位があるように、輪王寺の門跡に覚王院義観僧都がある、京都に於ける岩倉三位を向うに廻して、これと相撲の取れるのは、覚王院義観僧都あるのみだろう」
 これは意外な見立てと言わなければならぬ。会津とか、桑名とか、譜代の誰々、旗本に於て少なくとも小栗とか、勝というものが、口の端《は》に上らなければならない場合に、意外にも、一人の出家僧を以てこれに答えた鈴木安芸守も、山におればこそ、わが田に水を引くのではない、わが山に水を上せるものだ。今日の天下に、朝廷を擁し、大藩を向うに廻して、覚王院とやらの坊主一人で、どうして相撲が取れるものか、と言わば言うべきであるが、ここの人には、それほどの反感が無い、というのは、覚王院の威望が隠然として大きいのと、西の比叡《ひえい》に対する東の東叡山の存在が、ある意味に於ては、柳営以上の位にいるという頭があるからです。
 神尾主膳は、とにもかくにも、今日会わんとして会えなかった覚王院の義観なるものが、それほどの傑物であるかという印象の下に、更に鈴木に向って、ぜひ一度、その覚王院に面会したいから紹介してくれと頼みました。

         三十六

 そこまでは無事でしたが、その会談が七ツ下りの時分に、二三子のほかに、もう二人、新面《しんがお》の客がはせ加わったことが、神尾主膳にとって運の尽きでありました。
「これは、これは」
と言って、双方ともにテレたのは、こっちは神尾主膳だが、相手は土肥庄次郎であったからです。
「珍しや、神尾主膳殿、御壮健で」
「これは土肥庄次郎、その後はどうした」
 この男だけが、初対面でなかったのです。いずれは神尾に近づきのあるくらいだから、相当のシロモノではあろうけれども、昔の悪友という因縁ではない。実はこの男の祖父は、一橋の槍の指南役で、この男も祖父に就いて槍を学び、槍に就いての交りもある上に、その当時、悪友としてのよしみ[#「よしみ」に傍点]も浅からぬ方であった。
 土肥庄次郎の父を半蔵と言い、祖父を新十郎と言い、これは御旗奉行格大坪流の槍の指南役であった。その仕込みを受けて、あっぱれ免許皆伝の腕となり、槍を取っては、神尾のいい稽古相手であり、同時に悪所通いにかけても、負けず劣らずの腕を振《ふる》っていたものだが、土肥は遊ぶことに於ては、神尾に引けをとらないが、神尾ほどアクドイことはやらない、いわばお人好しの方であった。
 そのうちに土肥庄次郎は、長崎へ行くようになってから、二人の交りはパッタリと絶えて幾久しい間、ここでめぐり会ったというものだから、相当|入魂《じゅっこん》であるべきだが、実は土肥はその後の神尾をよく知らず、神尾もまたその後の土肥のことはあんまり知らずにいて、ここへ来たものだから、再会のようで、実は生面《せいめん》にひとしい。
 しかし、ともかく、蛇《じゃ》の道を心得た昔の悪友が来た日には、この帰りはただでは納まらない。土肥庄次郎と、もう一人のために、神尾は誘惑を受けて、まず広小路の松源へ引っぱり込まれ、そこで飲みはじめました。
 土肥庄次郎が同行の一人というのは、ずんぐりと肥った伝法な男で、これは大師堂五郎魔であります。庄次郎と五郎魔とは、後《おく》ればせに、ちょっと来て、主人鈴木安芸守を呼び出して、ちょっと耳打ちをしたかと思うと、立ち際の一座と共に、慌《あわただ》しく帰りましたから、勢い神尾と門前で挨拶をし合わなければならぬ、その機会が松源への誘惑となったのですが、それを辞退する神尾でなかったのは、相手が相手だからでしょう。
 松源の二階で、神尾主膳と、土肥庄次郎と、大師堂五郎魔とが、三人で飲み合いました。
 酒を飲み出すと、興にのって、土肥庄次郎らがこういうことを口走りました。これは極々の秘密事項だから、断じて口外はならんが、拙者と五郎魔が、今晩、鈴木重役へ相談に行ったのは、当時流行のスパイ一件のためであるということで、それはこのごろ、上方から間諜《かんちょう》がこの上野の境内へ入り込んでいる、ドコにどういう奴が幾人入り込んでいるか、そのことはわからないが、その目的だけは、はっきりわかっている、それは輪王寺宮御所蔵の錦の御旗を盗み出さんがためである、無論、盗まんがための盗みではなく、西国方の廻し者であって、宮のお手元に錦の御旗を置くことは、何かにとって危険極まりがないから、それを盗み取って、善処しなければならないという、そのたくらみの目的だけは、庄次郎が聞き込んでいる、それを警戒のために鈴木安芸守に耳打ちに来たのだが、今度、我々に於ても抜かりなく、そこへ眼をつけて、やはり、間者を取って押えなければならぬということです。
 これは土肥庄次郎の打明け話で、次は大師堂五郎魔の実験談――
 つい昨晩のこと、五郎魔が、お茶の水の首縊松《くびくくりまつ》の下を通ると、若い奴が一人、今にもブラ下がろうとしているから、五郎魔が直ちに抱き留めた。
 ところが、その若い奴が、死なねばならぬわけがあるから、どうかこのまま死なせて下さいと、泣いて頼む故《ゆえ》、それほど死にたいとは、よくよくのことだろう、では、快く死ねと言って、縄を松の枝へかけてやって、そのまま塾へ帰って来たという。
 塾というのは伊庭《いば》の塾のことで、塾へ帰ると同門の岡野誠一郎をとっつかまえて、今、首くくりを助けて来てやった、とその由を語ると、正直な岡野が面の色を変えて、それは助けたんじゃない、殺したんだ、事情は何とあろうとも、生命《いのち》より大事なものは無い、そういうのは生かして助けなければならん、話の具合では、まだ息がありそうだ、行って見よう、二人で見届けに行こうと、岡野が焦《じ》れているものだから、おれも案内して、以前のところへ来て見ると、その若いのはブラ下がっている、もう駄目だ、息がたえている。
 誠一郎が、大息してなげいて言うには、この首縊松というやつが名代になっている、この松で今まで幾人首をくくったかわかりゃせぬ、いわば人殺しの松だ、憎い松だ、手は下さないけれども、人命を奪う奴、所詮この松があればこそ人が死にたがるのだ、ことにこの枝ぶりが気に食わぬ、こいつがにゅうとこっちの方へ出しゃばって、いかにも首をくくりいいように手招きをしていやがる、こいつが無ければ人は死ぬ気にならんのだ、怪しからん奴、憎い奴、と言って、岡野は君子人だが、その君子人が刀を抜いて、首くくり松の首くくり松たる所以《ゆえん》の、そのくくりよく出ている松の枝を切りかけたんだ。
 そこで、おれが、あわてて、これこれ岡野、松はういもの辛《つら》いものというから、松を憎がるのはいいが、その松は世間並みの松と違って、公儀御堀の松だぜ、一枝《いっし》を伐《き》らば一指《いっし》を切るというようなことになるぜ、めっそう重い処刑に会うんだぜ、それがいやだから、みんな松は憎いけれども、伐るのが怖い、よって今まで、こうして人命殺傷をほしいままにしつつのさばっているのだ、君にしてからが、めっそうなことをすると、前途有為の身体《からだ》に縄がかかるぜ、と言って聞かせると、岡野が、
「なあに、お咎《とが》めがあるならばあれ、いやしくも人命を奪う植物をそのままには差置けぬ、罪はおれが着るから、貴様も手伝え」
と言うから、よし来た! と刀を抜いて、枝をブチ切ってしまったよ。もう、首が括《くく》れない、あれへ来て死神に招かれる奴もあるまい、いい人助けをしてやったぜ。
 だが、岡野には感心したよ、おれが助けた奴を、またわざわざ助けに来る義心がエライ上に、あの君子人のくせに、刑罰を覚悟で悪魔払いをしようてんだから見上げたもんだ――五郎魔は五郎魔らしい身の上話をして、座興が湧いたから、第三次としてこれから吉原へ行こうと言い出したのを、無論、それを断わる神尾ではあるまいと見ていると、案外にも、今宵はこれで御免を蒙《こうむ》る、ほかに待っているのがあるからと言って、首を横に振ったのには、土肥庄次郎も、大師堂五郎魔も呆気《あっけ》に取られました。

         三十七

 ほかに待っているのがあると言って、吉原行きをことわって引返して来た根岸の侘住居《わびずまい》。
 これでは神尾もすでに老いたりだ、だが、他に待っている者があるとの口実が、いささか気がかりではある。
 いったい、誰が、この化物屋敷に神尾を待っている?
 待っていると言うたとて、ほかの者が待っているはずはない、先代ゆずりの、お絹という肌ざわりの相当練り上げられたのが、縮緬皺《ちりめんじわ》をのばして待っているくらいのもの。これが待っているからとて、附合いを外してまで戻ってやらねばならぬほどの、姉《ねえ》や思いの神尾ではないはずだ。姉やの方でもまた、一晩や二晩よりつかなかったからとて、おいたをしてはいけません、という程度のもの、きついお叱りがあろうはずはない。
 それでも神尾は、夜のおそきを厭《いと》わず、御行《おぎょう》の松の下屋敷へかえって来て、戸を叩くと、まだ寝ていなかったらしいお絹が、直ぐに戸をあけてくれたのを見ると、今日は、でかでかと大丸髷《おおまるまげ》のしどけない姿。毛唐の真似《まね》をして、束髪、女洋服ですましてみたかと思うと、もうがらり変って、おやじをあやなした時分の大時代の姿で納まり込んでいる。気まぐれな奴だと、神尾は横目で、じろじろと丸髷をながめながら通ると、お絹は自分の部屋で、ひとりギヤマンを研《みが》いていたらしい。
 幾つものギヤマンをそこへ並べて、その傍らには中形の壜《びん》がある。ちゃぶ台の上へそれを置いて、
「よくお帰りになりましたね」
「ああ、感心に帰って来たよ、ほめてもらわなくちゃ」
「賞《ほ》めて上げますとも、坊やはこのごろお行儀がよくなりました」
「全くその通り、実は鈴木安芸守をたずねたまでは至極無事だったが、あれから計らず悪友に逢ってな……」
「悪友――でも、あなたに善友というのもありましたか知ら」
「ばかにするな、今日は善友も善友、輪王寺の執当を二人までたずねた上に、重役の鈴木安芸守と真剣な話をして来たのだ、正真正銘の精進日《しょうじんび》なのだ、ところがきわどい時に昔の悪友、土肥庄次郎というのにつかまって、松源で一杯飲まされた」
「それから?」
「それからお定まりの吉原へ誘惑を受けたが、待ってる人があると言って、きっぱり断わってここへ帰って来たのだ、どうだ、有難い心意気だろう」
「それはまあ、全く珍しいお心がけでした、ほんとに賞めて上げる価値《ねうち》が多分にありますね。でも、待っている人って、そりゃ誰でしょう、それが気がかりだわ」
「は、は、は、お婆さんが一人で淋《さび》しがってるとは、言えなかったよ」
「お気の毒でしたねえ、姉さんとでも、おっしゃればよかったのに」
「奴等、変な面《つら》をしやがったよ」
「あなた、御病気になるといけませんよ、あなたはあなたらしくなさらないと、かえって病気になりますわ、敵に後ろを見せるようになっては、神尾主膳も廃《すた》りじゃありませんか」
「そんなこたあないよ、今日は精進日だから、そういうところへ行きたくなかったんだ、それに姉さんが、ひとりで、根岸の里にお留守居だから、お淋しかろうと思いやったばかりじゃない、当節柄、女一人を置いては、全く危険だからな、心が落着かないよ」
「嘘にも、そうおっしゃっていただくことが嬉しいわ」
「うんと賞めてもらいたい」
「御褒美《ごほうび》に上げようと思って、この通り研いておりました、さあ、坊や、一つお上り」
「何だ、それは」
「ギヤマン」
「ギヤマンはわかっているが、この油のようなのは何だ」
「これはね、ブランと申しましてね、西洋《あちら》のきついお酒なのです、あなたに一口上げたいと思って待構えておりましたの」
「そうか」
と言った神尾主膳は、じっとそのギヤマンの小コップに盛られた黄金色を見つめたまま、手に取ろうとしませんでした。
 いつもならば、こちらから催促して、キュッとひっかけるはずのところを、今日は妙に手を出さないものだから、お絹が、
「どうあそばしたの、イヤに御遠慮をなさるのねえ」
「うむ」
「何をそんなに考えていらっしゃるの」
「今日は精進日だ」
「そんなに精進というものは附いて廻るものですか知ら、わたし、気になりますわ、そんなに精進精進とおっしゃられると、わたしまで気が滅入《めい》ってしまいます」
「いや、悪く取るなよ、実は飲みたいんだ、咽喉《のど》から手が出るほど飲みたいんだが――これを一杯飲むとあとを引く」
「たんとお引きなさいな、そんなに幾つもいただけるお酒ではありません」
「一杯あとを引けばまた一杯――しまいにはお前を夜通し寝かさない」
「そんなこと、苦になりませんよ」
「それだけならいいが、拙者の病が出る、久しく酒乱の見せ場を出さなかったが、こいつは急に自分を誘惑する、手つかず人を酒乱に落しそうな酒だ、今晩は我慢しよう」
「そうおっしゃるなら、免《ゆる》して上げましょう、今晩はあなたの精進をさまたげないで上げましょう、では、わたしが代って」
と言いながら、小さなギヤマンについだブランと称する黄金水をとって、お絹がグッと呷《あお》ってしまいました。そうして、仰山に眉根を寄せて、火の玉でも呑み込んだ思い入れで、胸を揉《も》む形が可愛らしいお婆さんだと言って、神尾をよろこばせました。
 そうして、精進にはじまって精進に終った神尾が、その夜は無事に閨《ねや》に入りました。

         三十八

 寝についたが、妙にかん[#「かん」に傍点]が高ぶる。今晩の鈴木邸の会談が骨となって、それにさまざまの想像の肉が附こうというものです。
 それでも暁方《あけがた》になると神経が鎮《しず》まって、それから熟睡に落ちて、朝日の三竿《さんかん》に上る頃にやっと眼をさましました。こんなことは、いつもの習いですが、昨晩の昂奮は内容が日頃と違ったまでのことです。
 不承不承に起き上って見ると、お絹が台所で何かと小まめに働いているらしい。こんなことも珍しいもので、起きて見ると、おめかしの最中であってみたり、どうかすると置いてけぼりを食って、一日を焦《じ》らされてしまうこともおきまりのようなのに、今日はお台所で甲斐甲斐しく立働いている物音が、なんだかくすぐったいような気持がさせられて、それでも、一軒の家で主婦がまめまめしく台所で働く物音は、悪い感じは与えないものだと思いました。
 それから、茶の間へ入って見ると、どうでしょう、夥《おびただ》しい御馳走が、ちゃぶ台の上狭きまでに立てならべられて、膳椀も、調度も、取って置きのを特に持ち出したような体《てい》たらくですから、神尾が、いよいよくすぐったいような気持です。
 まもなく二人がお膳についた時に、大丸髷のお絹が、きちんと身じまい薄化粧にまで及んで、たいへんな澄まし方でお給仕に立つのが、あんまり現金で痛み入るくらいのものでした。
「何もございませんが、今日はお婆さんの手料理ですから、たくさん召上っていただきます」
「お手料理かなあ、それは痛み入ったよ」
「お酒は差上げません、精進を妨げるとお悪いから、お酒は差上げません、その代り、お気に召しましたら何なりと」
「どうしてまあ、今日はこんなにもてなされるのかなあ、あとが怖いようだぜ」
「あとの怖いものは、今日はすっかり取上げましたから御安心くださいませ」
と言って、お絹がお鉢を取ってお給仕に当りました。
 神尾としては、この女のもてなしで、こんな晴れやかな気分に置かれたことはない。
 どういう了見で、今日に限って、こんなにまでしてくれるか、わからない。自分の誕生日でもなければ、父母の命日でもないのにと、うす気味が悪いほどだが、それでも悪い気持はしないのです。
「あなたが昨夕《ゆうべ》、どこへも行かずに、おとなしく帰って下すったから、そのお礼心なのですよ」
と言ったから、神尾がははあと感づきました。なるほど、ゆうべ、お世辞にも、待ってる人があるからと言って、吉原附合いを断わって戻って来た、それがこの女は嬉しいのだよ。一人で置いて留守が心配だから、夜更けを押して帰って来た、その心意気を買ってるんだ。買われたこっちはくすぐったいものだが、買った当人の心意気は殊勝でないとは言わない。
 女というものはこういうものなんだ。したい三昧《ざんまい》をしつくしていても、べつだん悪い面はしなかったが、そのしたい三昧をあきらめて、お前のために帰って来た、と言われると、女は嬉しいのだ。何よりも嬉しいと見える。だからこの海千山千の代物《しろもの》が、貰いたての女房のような心意気を見せて、この不精者が、おしろいの手を水仕《みずし》に換えて、輸入のテン屋を排撃して、国産を提供して、おれに味わわせようというのだな。
 女というものはこれだ。あんまり現金過ぎて、くすぐったいけれども、可愛いところがあるよ。なるほど、女は喜ばすべきものだ、女を喜ばすには、金をやることもいいし、品物をやることもいいが、一番いいのは、お前に限ると言ってやることだ。言ってやるだけではない、実行に現わして見せることだ。昨夜おれが吉原行きを断わって戻って来たのを、放蕩者《ほうとうもの》に似合わない、敵に後ろを見せるは名折れだとひやかしたが、本心はやっぱり、おれが吉原を断わって、待たせてある人のために帰って来てくれた、それがこんなに嬉しいのだ。
 そう思うと、この女も存外、女だ、女というものは憎めないものだと、神尾も身に沁《し》みる一種の愛情といったようなものが、油のように滲《にじ》み出して来ました。

         三十九

 こうして睦《むつ》まじく、食事を終ると、神尾主膳が、
「また今日も上野へ出かけて、坊主に面会して来る、話が長くなるかも知れんが、たとえどんなに遅くなっても帰って来るから、お前も、なるべくよそへ出ないでうちにいてくれ」
「ええ、よろしうございますとも、あなたさえ帰って下されば、どんなに遅くまでもお待ち申しておりますよ、悪友がおすすめになりましても、昨晩のように待っている人があるからと言って、御免蒙っていらっしゃい」
「今日のは悪友じゃない、坊主に会って来るのだから、いよいよ安心なものだ、その坊主も只者《ただもの》ではない、エライ豪傑坊主だということだから、こっちが望みで会いたいのだ」
「何でもいいから、エライお方にはお目にかかってお置きなさい、つまらない人にはなるべく会わないように、己《おの》れに如《し》かざる者を友とする勿《なか》れって言いますから」
「いやはや、世界は変るぞい、お前から論語を聞くようになった。じゃ、行って来るぞ」
「行っていらっしゃい、お早くお帰りなさいよ」
 こうして、すっかり身なりをととのえてやり、ポンと一つ背中を叩いて、出してやりました。
 神尾主膳の行く先のエライ坊主に会いに行くというのは、覚王院の義観のことでしょう。覚王院も、竜王院も、その昔から知らぬ間柄ではない。世の常の坊主と思っていたら、このごろになって、その評判がばかに高い。ことに昨夜の鈴木安芸守の見立てによると、京都の公卿の岩倉三位というのと匹敵する人物だという。岩倉がどのくらいの人物か知らんが、朝廷にいて、薩摩や長州の首根っ子を取って押えるというのだから、相当なものに相違あるまい。それが西で事を挙げると、こっちは東にいて相撲が取れる相手は覚王院の義観だという見立ては、当るにしても、当らぬにしても、後学のために会って置いていい坊主だ、そういうような気分で神尾主膳は、程遠からぬ、根岸からつい一足上りの上野の山へ今日も出かけて行きました。
 その留守には、お絹がおとなしく待っている。
 誰も来ないとなると、閑の閑たる根岸の里。お絹は大丸髷《おおまるまげ》に手拭を着せて、主膳の居間の掃除をはじめました。
 神尾主膳の居間は、らんみゃくです。王羲之《おうぎし》もいれば、※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1-91-82]遂良《ちょすいりょう》もいる、佐理《さり》、道風《とうふう》もいるし、夢酔道人も管《くだ》を捲いている。自叙伝のようなものと、このごろ書きさしたその原稿も散らばっているし、そこらあたりは、さんざんの体でありますが、これは主膳が、ことわって、うっかり手をつけさせなかったという理由もあるけれど、二人ともに無精《ぶしょう》ぞろいのさせる業でもありましたが、今日は、すっかりそれを掃除して、一点の塵もとどめぬようにこの一間を清算してしまいました。
 掃除ということに、こんなに身を入れたことは、お絹としては、生れてはじめてのようなもので、掃除をきれいにしてみると、室がきれいになるばかりではない、身心も何だかさっぱりして、若々しい気分に満ちて、まだ本当の意味では味わったことのない新所帯の気持、どうやら新婚の気分といったようなものに浮き立つのも、いまさら気恥かしい。
 夕方になると、約束よりも早く立戻った神尾主膳。
 お絹に賞《ほ》められること、そうして、その日の晩餐も、睦《むつ》まじく、お絹の待構えた手料理とお給仕で快く済ましてから、食卓の談《はなし》がはずむ。
「聞きしにまさるエライ坊主だよ、あれだけの見識とは思わなかった、実際会ってみると談論風発、当代の人豪顔色無しだ、なるほど、あれなら輪王寺を背負って立って、関東のために気を吐くこと請合い、ちょっと、あれだけの大物は無いなあ、坊主にして置くは惜しい、政治家にしても、軍人にしても、大仕事のできる奴だ」
と言って感歎の声を惜しまない。お絹も煙にまかれて、
「そんなにエライ坊さんが、今時、上野にいらっしゃるのですか」
「いるとも、いるとも、あの坊主の説を聞いて、おれの頭の中は一変したよ、勝や小栗のことは知らないが、まあ、あいつらに勝るとも劣るものではあるまい、あれだけの奴がこっちにいれば、よし江戸の城は明け渡しても、上野の山で持ちこたえる、あいつが軍師で、輪王寺の錦の御旗を押立てて起《た》てば、徳川の旗下が挙《こぞ》って上野へ集まる、本来、ここまで来ないうちに、もっと早く、こちらから積極的に上方へ乗出したかったんだ、あんな坊主を上方へ向けて置いて、あっちで策戦をすれば、今時、こんなに後手《ごて》を食わずに済んだものだろう、そこは、あの坊主も、内心残念がっているようだが、なんにしても、あの坊主を坊主で置くは惜しい」
「そんなにエライお方を、坊主坊主と呼捨てになさって罰《ばち》が当りはしませんか、何という御出家様でございましたかねえ」
「輪王寺の執当職で覚王院義観というのだ、学問があって、胆力があって、気象が天下を呑んでいる、会ってみなけりゃあ、あいつのエラさはわからん、山岡鉄太郎や、松岡万あたりも、あれの前へ出ると子供のようなものだそうだ」
「お山にも、そんなエライ坊さんがいらっしっては頼もしいことでございますね」
「そうだ、義観のほかに、竜王院の堯忍、竹林坊の光映などというところは、覚王院とは異った長所を持つエラ物《ぶつ》だという噂だが、とにかく、覚王院一人に逢っただけでも意を強うするに足るものだ」
 神尾主膳は、よほど覚王院義観に参らされて来たようで、口を極めて感歎の舌を捲くが、お絹はバツを合わせるだけで、人物論などには興味を持ちません。そこで、神尾は覚王院礼讃はいいかげんに切上げて、さて声を落して言うことには――

         四十

「時に、話は別になるが、ここに、ちょっと耳寄りな、聞いて甘いような辛いような口が一つあるのだが、お前、乗ってみる気はないか、お前が乗れば、わしも乗る」
と調子が変ったものですから、お絹も人物論よりは乗り気になり、
「甘い口なら、いつでも乗りましょう、おっしゃってごらんあそばせ、あなたが甘いとお思いになっても、わたしには辛いかも知れません」
「話は至極甘いのだ、いわば葱《ねぎ》に鴨という調子に出て来ているのだが、さて、それに乗るということになると、相当の決心が要るよ」
「まあ、おっしゃってみてごらんあそばせ」
「実はな、ひとつ、京都へ行く気にならないか、お前が行く気なら、おれも行くよ」
「京都へ?」
「うむ、上方だ、今は江戸の舞台が、あっちへ移っているのだから景気は素敵だ、それに江戸と違って、千年の都だからなあ、見るもの聞くもの花の都だ」
「上方見物――ようござんすねえ、お恥かしながら、わたし、この年になって、まだ京都を存じません」
「そうだったかなあ、親爺《おやじ》の代に行って置けばよかった、惜しいことをしたねえ」
「行くつもりなら、いつでも行けると思って安心しているうちに――年をとってしまいましたのよ」
「いや、これから一花《ひとはな》と言いたいところだろう、どうだい、思いきって、花の都住居をしてみる気はないか」
「ないどころじゃありません、大有り名古屋のもっと先なんでしょう。いったい、何でそんなに急に京都風が吹き出して来たんでしょうね」
「まあ聞け、こういうわけなんだ、どの方面と名は言わないが、このおれにひとつ京都へ出張《でば》ってみないかという話が持ちかけられたんだよ。気の早い話だ、今日という今日の日に、人もあろうにこの神尾を見込んで、ひとつ京都へ乗込んで、一遊び遊んで来ちゃどうだという、甘い口がかかったんだ」
「まあ、それはどうした御縁なんでしょうねえ、また悪友にそそのかされておいでになったんじゃなくって?」
「いいや、これも悪友ではない、第一、悪友どもにこの神尾を見立てて京都へ行けというほどの実力ある奴がいるか。京都へ行けば、当分、遊びたいだけの遊びをしていいという軍費が出る、何一つ不足をさせない、その上に、仕事といってはただ遊んでいさえすればいいというのだから、神尾主膳あたりには打ってつけの役廻りだ」
「今時、そんな茶人があるものですかねえ、ほかならぬあなたをお見立てして、京都で思うさま遊ばせて上げようなんて、そんな有り余るお宝の持主がありますかねえ」
「それが有るのだ、有るべき道理あって有るのだから、やましいことがなく、しかも遊んでさえいれば、それが立派な御奉公になろうというのだから、まず近ごろ、これ以上の耳よりな話はないさ」
「そんなら、あなた、お考えになるまでもなく、早速お受けになればよいに」
「いや、それも一人じゃいやだよ、誰か面倒を見てくれる人が附いていてくれなくちゃあな、神尾もそうそう、若い時の神尾じゃないから、花の都へ上ったからとて、そう無茶な遊びもやれない、誰かついて行ってくれればいいがと考えたから、お受けもせずに戻って来た、家に待っている人があるとは言わないが、心当りへ当ってみてから挨拶をする、と言って帰って来たのは別儀ではない、私の姉さん、お前、一緒に京都へ行ってくれるかね、お前が行ってくれれば、これも一期《いちご》の奉公だと心得て、おれは京都へ乗込むよ」
「参りましょう、あなたのおともをして、京都へ参りましょう」
「いいかい、ただの京都見物じゃないよ、次第によると永住の形式になるかも知れないぜ、よく考えて返事をしてくれ」
「考えれば、条件も出て参りましょうから、考えないでお返事を致しましょう、あなたが、わたしのために家へ帰って来て下さるようになったお礼心で、わたしはあなたのいらっしゃるところならば、海の中でも、山の奥でも」
「本気かい、本気でそれを言ってくれるのかい」
「あなた、このわたしの心意気がおわかりになりませんの」
「わかる、わかる、では、おれは明日にもまた折返して、京都行きを承知して来るよ、いいかい?」
「御念には及びませぬ、今日からでも、おともを致します」
「よし、話はきまった」
と言って神尾主膳は、出陣の前ぶれのように勇み立ちました。

         四十一

 それから、神尾が突込んだ打明け話をして言うことには――
 今度の京都行きの話は、どこから出たかその出所はわからない。またわかっても、それは誰にも言えないが、だいたいに於て、こういうことになっている――
 相当の体面を保つだけの手当は、それはもとより充分に出る、その上に交際費はつかい放題とは言わないが、機密によってはかなり潤沢に許される、誰が今時、何のためにそんな無用な金を出して、無用な人を遊ばせるかと言えば、遊んでいながら、京都の内外の様子をすっかり偵察して、それを時に応じて、こっちへ知らせる役目だ、表面の辞令をいただかないお目附《めつけ》だ、悪く言えば間諜《かんちょう》、ペロで言えばスパイというやつかも知れないが、決して下等な仕事じゃない、柳生但馬もやれば、石川丈山もやった仕事なんだ、徳川家のために、公卿と西国の大名どもの監視をしていようというのだ、その役廻りにこの神尾を見立てたのは、誰とは言えないが、見立てた奴も、見立てられた奴も、まず相当なもんだろう、そこで、話はいよいよ早い、なんでも京都の北の方に鷹ヶ峰というところがある、そこに「光悦寺」という小さな山寺があって、その昔、本阿弥光悦という物ずきが住んでいた、その寺があいているから、そこへ入って坊主になれというのではない、閑居の体《てい》にしていて、気が向いたら、京都なり、大阪なり、好きなところへ泳ぎ出して、好きなように遊んでよろしい、出仕の場所の指図は受けないし、時間というのも制限がない、およそ、この神尾の勤め口としては絶好だろう、今もちょっと口に出たが、板倉周防の仕事をしろというのではない、柳生但馬とか、石川丈山とか――あれの仕事を当世で行くんだ。石川丈山と言えば、お前は名を聞いていないかも知れないが、戦場の行賞の不平をたねに、知行を抛《なげう》って京都の詩仙堂というのへ隠れたのは表面の口実、実は徳川のために、京都の隠目附《かくしめつけ》をつとめていたのだ。おれは但馬守ほどに剣術は使えないし、丈山ほどに漢詩をひねくる力はないが、遊ぶ方にかけちゃあ、ドコへ行ってもヒケは取るまい、近頃は、遊ぶに軍費というやつが涸渇《こかつ》しているから、遊びらしい遊びは出来ないが、今度のはれっきとした兵糧方がついている、なんと面白かりそうではないか――行って落着く住居までが、もう出来ているのだ、身一つではない、身二つを持って行きさえすれば、ここの生活が、直ちにそこへ移せるのじゃ、その上に、昔のようには及びもないが、再び神尾は神尾としての体面が保てる、お前にも苦労はさせないだけの保証があるのだ、異人館の方に未練もあるだろうが、京都での一苦労も古風でたんのうの味はあるに相違ない、同意ならば、善は急げということにしようじゃないか。
 その晩のうちに、二人の腹がきまってしまいました。お絹としては、まだ見ぬ花の都を見飽きるほど見て帰れるし、それは、れっきとした後ろだてがあって、体面が保てて、生活が安定するのだから、ほんとうにこの辺で納まるのが何よりという里心にもなったのでしょう。
 こっちに未練といえば、ずいぶん未練もあるし、異人館の方だって、大味もこれから出て来ない限りもないが、それも、本当を言えば、こんな生活から逃《のが》れて、老後が食って行けるように何かのみいりが欲しいから、引眉毛で出てみたようなもので、そんな仕事をせずとも、安心して暮せるようになりさえすれば、もうこの辺で年貢の納め時、と言ったような満たされた心があるものですから、お絹は一切の未練や、たくらみも、かなぐり捨てて、無条件で神尾に捧げてしまおうというのです。もう、これからは浮気もすっかり納めて、いちずにこの若主人を守り通そうという心が、昨夜あたりからこっそり水も漏《もら》さない仕組みになりきってしまっているのです。
 そこで神尾主膳主従は、京都行きの腹を固めて、今までにない新しい勇気に酔わされて、心地よい一夜を明かしたというものです。
 翌日になると、そのお受けのためにと言って、神尾が悠々として出かけました。
 お絹は、身だしなみをする、取片附けをする、それが直ちに出立の身ごしらえ、荷ごしらえにもなるので、お嫁入でもするような若々しい気分に浮かされて、障子にはゆる[#「はゆる」に傍点]小春日和、庭にかおる木犀《もくせい》の花の香までが、この思いがけない鹿島立ちを、やいのやいのとことほぐかのようににおいます。

         四十二

 宇津木兵馬は北国街道を下って、越前と近江の境を越えるまでは何事もなかったけれども、長浜へ来ると、ふと、路傍で思いがけないものを見つけました。
 それは、長浜の市中を横に走るところの、素敵に足の早い旅人を、遠目に見かけると、それが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百という見知越しのやくざでない限り、ああいう気取り方と、ああいった走り道具を持ったものはないということでありました。
 果して、あいつが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百である限り、あいつの通過するところに、草の生えたためしがない。転んでもただでは起きて行かない奴である。本街道を外れて、わざわざ長浜の町を突切るくらいだから、何かこの土地にからまるべき因縁があるに相違ないと感づいたのです。
 そこで、逸早《いちはや》く彼を取っつかまえて、泥を吐かせようと、かけ出してみたのですが、足に物を言わせることにかけては、こいつに敵《かな》いっこはない。見る間に、その後ろ影を町並の角に見失ってしまいました。兵馬は歯がみをしたけれど追っ附きません。空しくその走りくらましたあとについて急いでみると、琵琶の湖畔に出てしまいました。いわゆる臨湖の渡しであります。そこまで来た上は、この先はもう、湖であります。左へそれたか、右へ走ったか、そのことはわからないが、あいつの目ざすところが、北でも、東でもなく、西に向っていることに於て、当然、彦根、大津、京都の本街道を飛んで行くものに相違ないと思いました。
 そうでなければ、この地にとどまって、何か、あいつ相当の謀叛《むほん》を企てる、もうこの上は長追いは無益である、あのやくざがこの界隈に出没しているということを基調として調べてみれば、存外、獲物があるかもしれない、そう思ったものですから、兵馬は臨湖の岸まで来て、急がず、湖上遥かに見渡して、その風景に見恍《みと》れて彳《たたず》んだが、それからおもむろに湖畔を逍遥の体で歩んで行くと、ふと岸の一角に、まだ新しい木柱の一つ立つのを認めました。
[#ここから1字下げ]
「為有縁無縁衆生施餓鬼供養塔」
[#ここで字下げ終わり]
 墨色もまだあざやかに、立てたのは昨日今日の特志家の善業であること申すまでもありません。
 その大きな供養塔の木柱が立っている、その下の、波の寄せては返す岸辺を見ると、そこに雛卒都婆《ひなそとば》が流れている、その卒都婆もまだ新しい。波になぶられて、行きもならず、戻りもならずに漂うている、その墨の文字さえが、供養塔の文字とほぼ同時同筆を以て書かれたように、あざやかに読めるものですから、兵馬がそれを見やると、
[#ここから1字下げ]
「無明道人俗名机竜之助帰元」
[#ここで字下げ終わり]
と書いてあるので、蛇を踏んだようにハネ返ってその卒都婆を拾い上げました。
 見事な筆蹟である上に、これはまさしく女の手筆《しゅひつ》だと見ないわけにはゆきません。しかも、その女の手筆というものが、たしかにどこぞで見たことのある筆蹟のように思われてならないのですが、その筆先しらべはあとのこと、「無明道人俗名机竜之助」の文字が兵馬の腹にグザと突込みました。
 誰がこういうことをした、眼のあやまちではないかと、篤《とく》と見直したけれども、そのほかのなんらの文字でもない。
 兵馬は、これを取り上げると、もう一つ、それと上になり下になって漂うていたもう一つの同形のものを取り上げて読むと、
[#ここから1字下げ]
「淡雪信女亡霊供養」
[#ここで字下げ終わり]
と、同じ手筆で、同じ筆格に認《したた》められてある。
 この二つが供養塔の下に並んで、波に戯れているのは、謎とは思われない。何人か心あってしたこと、心なくてはできない手向《たむ》け草《ぐさ》、念が入り過ぎている。ことに人力ではなく、運命の悪戯《いたずら》というものがからまって、この波が今も二つをなぶるように、二つの魂がなぶられている。それをまた後の、いたずらの心から、さる人によって、この供養が営まれた。いずれをいずれにしても、倒逆の葛藤《かっとう》を免るることはできません。
 だが、ここにこれがある以上――もはや、戯れの底も見えた、と兵馬は小躍《こおど》りしつつ、汀《みぎわ》の砂地を踏み締めて、人やあるとあたりを見渡すと、漁師の老人が一人、櫂《かい》を手にして、とぼとぼと歩んで来る、それをこの柱の下で待受けて問を発しました。
「その供養塔は誰が立てたのですか、何のために、何という人がこれを、いつの日ころにたてたものですかね」
「はい、それはなあ、ついこの間で、こちらから舟を乗り出して、この湖の真中のどこかで、情死《しんじゅう》を遂げた男と女がござりましてな、男の方は三十幾つかの年配、女子《おなご》の方はまだ十七八でござんしょうかな、月夜の晩に、お月見だといって、浜屋の裏堀から舟を乗り出しましてな、この湖の中で、どんぶりと情死を遂げてしまいましたとかでござんす、舟だけが浮び流れ流れて、こっちの岸につきましたが、中には主がござりませぬ、遺書《かきおき》のようなものもござりませなんだ。舟が漂いついたので、こっちではじめて騒ぎまして、いろいろたずねてみましたが、さっぱり当りがつきません、なんしろ竹生島の方に参りますると、金輪際まで突通しの水の深さ、周囲を申しますと日本一の大湖でございますから、手のつけようもございませんでしたが、二人はとうに腹を合わせて心中の覚悟が出来ていたんでございますな、毛氈《もうせん》も、お重《じゅう》も、酒器も、盤も、宿からの品は一品も失いません、二人の身体だけが、水に沈んでしまいましたげな。お歳が少し違い過ぎて、男の方が上過ぎたのに、女子がまだ娘ざかりでございました、かわいそうに、そそのかされたわけではござんすまい、心を一つにした相対死《あいたいじに》に相違ござんすまいが、今様お半長右衛門だなんて、悪口を言っていたものがありました。ですが男の方は町人ではございません、苦《にが》み走《ばし》った、芝居ですると定九郎といったような人相で、あれよりずっと痩《や》せた人柄、病み上りのように蒼白《あおじろ》い、なんでも人の言うところによると、眼が不自由であったと申しますが、どんなものでござんすか」
 そこまで聞けば、もう充分以上のものではあるが、兵馬は、ただただ不安で、聞き済ましてはいられない。
「そうして、この二人は、それっきり浮き上らないのですか――今日まで、後日物語はありませんか」
「全くお聞き申しませぬ、あれっきり浮いて来ないのでございましょう、まあ、いっそ、心中でもしようというには、その方がよろしうござんすな、なまじい浮き上って来ない方が、功徳でございます――」
「では、この供養塔と卒都婆《そとば》、これは誰がしたのですか、縁もゆかりもない人がしたとしては、いささか念が入り過ぎている」
「それは、胆吹山《いぶきやま》の上平館《かみひらやかた》の女王様とやらの、なされた法事でございます」
「胆吹山の女王――」
 兵馬は、それからそれと、眼がまわり舌がもつれるほどの思いですが、臨湖の老人は、おだやかに、
「くわしいことは、浜屋へ行ってお聞きなさいませ、あそこのお内儀《かみ》さんが、委細を御存じのはずでございます」
「浜屋というのは、二人の泊った旅籠屋《はたごや》ですか」
「左様でございます、あの通りを上へ真直ぐに廻り、少し左へ鍵の手に折れますと、太閤様時代に加藤屋敷といわれた広い地面で、二階壁には蛇《じゃ》の目《め》の紋が打ってありますから直ぐにわかります、そこの若いお内儀さんが、委細を御存じのはずで――」

         四十三

 浜屋へ投宿して、一室に通された宇津木兵馬。その一室が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が小指を落された一室であるということは知りません。
 少し、土地柄のことについてお聞き致したいことがあるが、御亭主にお目にかかりたいと申し入れると、亭主でなく、若いおかみさんが御挨拶に来ました。
 湖岸の供養塔のことを話題としての宇津木兵馬の質問に答える、若いおかみさんの返答は、親切にして且つ詳細なものでありました。第十一の巻に現われた通りを裏から見たおかみさんの返答であります。その見るところに見足りないところはあっても、その答えるところに駈引はありません。兵馬にはいちいち納得のゆくことばかりであります。
 そうして、お内儀さんの最後の断案も、浜辺の老漁師の下したと同じことで――
 今様お半長右衛門のような二人の心中は、完全に遂げられて、その亡骸《なきがら》は絶対に浮んで来ないことを信じている。けれども、その善後策に就いては、まだ人の知らない新しい事実を教えてくれました。
 それは、二人が完全に、湖中に入水《じゅすい》を遂げたと知ったその日に、二人の供養があの臨湖の湖畔で営まれたこと、そうして、この供養の施主《せしゅ》というのが、疑問の一人の女性であったということです。
 兵馬は、それを訝《いぶか》しいことにも思い、また、なるほどと合点することにも思いました。というのは、湖畔で拾った卒都婆の文字が、たしかに女文字と睨《にら》んだからであります。その点は符合するが、そんならば、何の縁あって、右の女人が出しゃばって、この二人の亡霊の供養をしなければならないか、その女性は何者か、心当りはないか、という押しての疑問に答える浜屋のおかみさんの返答は、極めて要領を得て、そうしてまた要領を得ないものでありました。
 その女の方は、やはり、手前共に暫く御逗留《ごとうりゅう》をなさいました。胆吹山からおいでになりましたそうでございます。なおよく承りますると、胆吹の山に住む女豪傑の大将だそうでございます。
 なに、女豪傑の大将――それは、けったいなことだわい、してまた、その女豪傑の大将が、何の縁あって、男女二人の心中の供養をしなければならないのか、その因縁については、お内儀《かみ》さんの返事は漠として夢を掴《つか》むようで、ほとんど要領を得られません。
 だが、噂《うわさ》に聞くと、その女豪傑の大将はステキな女丈夫で、むろん女豪傑といわれるのだから、女丈夫の一人には相違あるまいが、多くの手下をつれて胆吹山に籠《こも》っていたが、この心中の二人も、その胆吹山の山寨《さんさい》に居候をしていたのだそうです。そういう縁故から出向いて来て、あの供養をして上げましたのだそうです。
 なるほど、何か胆吹にからむ因縁があるのだな。して、その女豪傑の大将といわれる婦人の方を、あなたは見ましたか。ええ、ようこそそれをお尋ねになりました、どのような風采《ふうさい》を致しておりましたか、はい、ちょっと一目うかがっただけでは、世の常の女の方に少しも違ったところはございません、せいはすらりとして、品のよい大家のお嬢様、そうでなければ若奥様といったようなお方で、芝居で致しまする鬼神のお松のような、金糸銀糸の縫取を着た女賊のようにはさらさら思われません。あれで女豪傑の大将で、たくさんの手下を自由自在に扱い、このほど起りました百姓一揆《ひゃくしょういっき》の大勢ですらが怖れて近よらなかったと申します、そんな威勢はドコにも見えませんでした。全く人は見かけによらぬものと申し上げるよりほかはござりませぬ。
 ただ、たった一つ――そのお方が世の常の女の方と違っておいでになったのは、入るから出るまで、昼も、夜も、しょっちゅう頭巾《ずきん》を被《かぶ》っておいでになりました。いついかなる場合にでも、あのお方が頭巾をお外しになったのをお見かけしたことがございません。でございますから、お面《かお》つきや、御縹緻《ごきりょう》のほどは少しもわからないのでございます――なに、しょっちゅう頭巾のかぶり通し――はてな、兵馬が気ぜわしいうちにも頭を捻《ひね》って、考えさせられたのは、誰と思い当ったわけではなく、その点に、右の女性の性格の重点があると感じたのでしょう。
 では、ひとつ、わしは少し心当りのことがあるから、明朝早速、胆吹へ上って、その女賊の大将にお目にかかって、お聞き申してみましょう。
 それはおよしあそばせ、ちょっと見ては、左様なおしとやかなお方でございますけれども、その悪党は底が知れぬ。気に入らぬものはみんな縊《くび》り殺して、穴蔵《あなぐら》の底に投げ落してしまうのだそうでございます。現に、幾人かの人の屍《しかばね》が、胆吹の奥の山の洞穴の底に埋もれて、夜、青火が燃えさかるという話。構えてお近づきにならぬがよろしうござんす――何をばかな、今の世にそんなばかばかしいことがあるものか、ぜひ、ひとつ、明日はその胆吹の御殿をたずねてみにゃならん。
 お言葉ではございますが、よし、鬼などのことは嘘と致しまして、これから胆吹へおいでのことはお見合せになった方がよろしかろうと存じます。そのわけは、その女のお方は、もう胆吹にはおりませぬ、胆吹を飛んで、大江山の方へお出ましになってしまったそうでござります。
 なに、大江山へ――いよいよ話が大時代《おおじだい》になった。でも、鬼のいない胆吹へひとつ乗込んでみよう、その棲所《すみか》のあとを調べてみるだけでも無用ではない。
 こう覚悟をして、それから話題を改めて、浜屋のおかみさんに向ってこれから胆吹へ上る筋をくわしくたずねました。

         四十四

 主婦の諫《いさ》めを用いず宇津木兵馬は、その翌早朝に出立して胆吹へ上りました。
 長浜から僅かに三里、上りとはいえども、程度の知れた道、まもなく胆吹の麓について、よく聞きただした上平館《かみひらやかた》の一角を探し当てたのは容易《たやす》いことです。
 いたりついて見ると、案外にも門は閉されて、全く人の気配がありません。
 推《お》せど、叩けど、おとなえども、応と答えるこだまはなく、全く無人の境と思いましたから、兵馬は、身軽く塀《へい》を乗越えて、上平館の境内へと侵入してみましたけれど、誰とて咎《とが》めるものはありません。
 はて、この分で見ると、ここははや解散したあとだ。つい近頃までは人の出入りの相当繁かった気配は充分ですけれど、現在は全く引払って、さらに人跡をとどめていないことは、小径に生ずる草、立てこめる気分の荒涼さでもよくわかります。およそ人の住むべき家に、人の住まないほど、すさまじい光景はないものの一つです。本来、未開の地には未開の処女性があって、人の官能を潔《いさぎよ》くするものですけれども、一旦、人が住んで、そのまま住まずとなって打棄てられた光景ほど、うたた物の荒涼と悲哀とを漂わせるものはありません。
 その気分に打たれた宇津木兵馬は、ははあ、もうこの一味は解散したのだな、人は解散したけれども、家屋敷はもとのまま、足を踏み入れるに従って、あちらに一棟、こちらに幾軒というほどに、建築の生《なま》なのに較べて、宏壮な規模が徒《いたず》らに住み残されてしまっている。さながら大本教と、ひとのみちの廃殿の中に入るようなものです。これほどの結構をし、これほどの屋敷を構えながら、かくも無惨に住み捨てるというのは冥利《みょうり》を知らぬ業だ、逆らって入るものは逆って出でる道理、大きく言えば、城春にして草青む、といったすさまじさが兵馬の胸を打つ。とにも、かくにも、行き尽すところまで侵入を企てよう、もし、その中に人臭いにおいでもあれば見つけ物、引っとらえて物を言わせてみようと、右に左に足を踏み入れたが、いよいよ深く行くにつれて、いよいよ荒涼なものです。絶対無人の境だということを確認しました。
 浜屋の若いお内儀《かみ》さんは、胆吹の女大将の話をして、まだこの館に一味が留まっているということを保証し、決して退却したとも、解散したとも言わなかったが、案外に来て見ればこの始末。
 してみると、あのお内儀さんは、一味が解散したことをまだ知らないのだ。あの辺の人まで伝達されないうちに散じてしまったとすれば、それはかなり最近でなければならぬのに、この荒れ方は、太古の昔のような面影がある。
 ほんとうに、人間の住むべき家に人間の住まないほど、荒れ方の早いものはない。人間の家には、人間が住むべきものだということを、兵馬は繰返してつくづくと感じました。
 さて一応見めぐり見きわめてみると、もう夕日が湖上の彼方《かなた》、比良、比叡の方と覚しきに落ちている。さて、今宵、兵馬は思いきって、この境内の内の一棟へ参入して、そこに宿を求めようとしました。そうしてこの幾棟かの家屋のうちの、最大の、最良の、御殿屋敷風なのを選んで、戸を排してみると厳しく釘づけになっているが、それを合点《がてん》の上で兵馬は、無理に押破って、御殿の中へ参入しました。
 相馬の古御所――といったような気分です。御簾《みす》がかかっており、蜘蛛《くも》の巣が張られてあり、畳は、ちゃんと高麗縁《こうらいべり》がしきつめたままだが、はや一種の廃気が湧いて、このまま置けばフケてしまう。
 兵馬はこの御殿の最も奥の間へ参入して、旅の荷物をそこに打ちおろし、その中から小提灯《こぢょうちん》、火打よろしく取り出して、早くも提灯に火を入れて、それをかざして間毎間毎を調べてみました。
 調度を取払ったというだけで、畳建具は依然として人の住める時のそのままで、取残された形跡は一つもありません。それに戸棚という戸棚、押入という押入のたぐい、いずれをも押してみても、がっちり錠《じょう》が下りている、そうでなければ釘附けです。
 そこで、兵馬が思うには、これは必ずしも解散とは言えないわい。いずれ家主は、そのうちここへ来て住むつもりか、そうでなければ出直して引取りに来るつもりなのだ。戸棚という戸棚、押入という押入が、この通りがっちりしているのは、いずれこの中が何物かで充実している証拠なのだ。してみると、これは空家とはいえない。人がいないだけで、まだ完全に住宅権が存在している。そこへ無断侵入を試みた自分というものは、家宅侵入の罪に問われる資格は充分ある。しかし、この場合、そういう遠慮は無用である。よろしく、覚悟の前、この戸棚のうちの一つ、最もめぼしいようなのを一つ押破ってみてやろうではないか。一つでたんのうできなければ、全部をいちいち破壊してみてやろうではないか。さし当り、今晩これに旅籠《はたご》を取るからには、夜の物が欲しい、なければないで済ませるが、すでにこの通り多数の物入があって、それをそのまま死蔵せしめて置くは、宝の山に手を空しうするも同じこと。誰を憚《はばか》る、要らぬ遠慮――
 と兵馬は決心して、その戸棚の中のめぼしい一つを、力を極めて押破ってみました。
 別に一ツ目小僧も出ては来なかった、これは確かに夜のもの、夜具《やぐ》蒲団《ふとん》の一団と認定のできた大包み、それを引出して解いて見ると、果してその通り、絹紬《きぬつむぎ》のまだ新しい夜具が現われる。
 とこうして、兵馬はついに、その新しい夜具を豊富に打着て、就眠の人となりました。
 働いているから眠りに落つることも早い。

         四十五

 肉体は疲れているから、眠りに落つることははやかったけれども、神《しん》は納まっていないから、睡眠が必ずしも安眠というわけにはゆかない。夜半、兵馬の胸を推《お》すものがある、うつつにながむれば、
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「無明道人俗名机竜之助之墓」
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 それは湖畔の木標ではなく、まだ切立ての一基の石塔であります。一方を見ると、同じような石塔が比翼の形に並んで、それに、[#「それに、」は底本では「それに」]
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「同行淡雪未開信女之墓」
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とある。
 この二つの石塔が、どことは知らぬ荒草離々たる裾野の中に、まだ石鑿《いしのみ》のあとあざやかに並んでいる。近づいて見ると、その後ろに墓守が二人、しきりに穴掘りをしている。傍らには布で巻いた二個の棺を据えて、しきりに墓穴を掘っている。それを覗《のぞ》き込もうとすると、墓と墓との間の丈なす尾花《おばな》苅萱《かるかや》の間から、一人の女性が現われて、その覆面の中から、凄い目をして、吃《きっ》と兵馬を睨《にら》みつけて、
「ここへ来てはいけません、あなた方の来るところではありません」
 その睨む眼の険しいこと、兵馬は、たしかに胆吹山の女賊の張本に相違ないと思いました。
 夢うつつは、その程度、それ以上、深刻にも精細にもなりませんでしたけれども、醒《さ》めた宇津木兵馬は、怖ろしいよりも、その暗示性の容易ならぬことに心が乱れました。
 かくて、いったん、破れた夢が、またあけ方まで無事に結び直されましたが、日の光、鶏の声が戸の隙から洩《も》るるを見て、兵馬は立って、一枚の雨戸を繰ると、満山の雪と見たのは僻目《ひがめ》、白いというよりは痛いほどの月の光で、まだあけたのではありません。
 それから、兵馬の頭に来た、何の拠《よ》るところとてはないけれど、ひしひしと迫る暗示は……
 机竜之助はもう死んでいるのではないか、死んでいるとすれば、確かに殺されて、この世に亡き人の数に入っている、彼を殺した人は何者、それは右の覆面の女賊のほかのものでありようはずはない、少なくともこの胆吹山まで来て、ここで竜之助は殺されてしまっているのだ。
 という暗示が兵馬の胸に食い入りました。湖中で心中というのは嘘だ、こしらえごとだ、でなければその女賊が、なんでわざわざ、まだ死骸も、水の物か陸の物かわからない先に、先走って供養塔などを立てるものか、それは世を欺く手管だ、本来は、竜之助はここで殺されている、その死を装わんがためにわざと湖上で死んだようにもてなしているのは、女賊の張本の芝居である。
 机竜之助は、すでに殺されているのだ、胆吹の山の女賊の手にかかって亡き人の数に入っている、それに相違ない、そう思われてならない、そうだとすれば哀れな話だ、彼に憐れみを加える余地は微塵《みじん》もないが、あれがこんなところで、女の手にかかって一命を果す、それも無惨や縊《くび》り殺された、なぶりものになって縊り殺されたとは何という悲惨な、そうして、何という醜態だ。
 そうだ、してみると、これより後の自分は、彼の亡骸《なきがら》をたずねて歩くより道がない。
 兵馬は、どうも、こんな暗示が胸いっぱいになって、竜之助ははや完全にこの世の人ではない、今後存在するとすれば、それは亡骸であり、亡霊である、これから自分の魂がそれを追いかけて歩くだけのものだ、力が抜けた、張合いが抜けた、というような気分で、兵馬の心が底知れず滅入《めい》って行くのであります。
 そうなると、夜が明けるや、一刻もここに留まっている気がなくなって、長浜まで一気に走り帰って、例の蛇《じゃ》の目《め》の浜屋へつくと、若いお内儀《かみ》さんが、なつかしそうな色を面にたたえて、よくまあ戻ってくれたという好意に溢《あふ》れて迎えてくれて、前夜と同じ部屋へ案内を受けました。
「いや、胆吹の女傑のあとをたずねて見ましたが、館《やかた》はあるが、人がいませんでした、人っ子ひとりおりませんでしたよ、解散したのでしょう。解散したとすれば、あの一味はドコへ行ったものでしょうか」
「多分、大江山でしょうと思いますが」
 またしても大時代――胆吹山でなければ大江山、兵馬はこれにも、げんなりせざるを得ません。
 さりとて、これから突留めなければならぬのは、机竜之助の身柄よりも、むしろ問題の女賊そのものの身性《みじょう》である。これは物が物だけに、存外早く手がかりがつくだろう。大江山というは、この女性のロマンがかりで、もっと近いところに、別生活に入りつつある。そういうことが想像されるものですから、更にここでその手がかりを求めなければならぬ、けれども、この若いお内儀さんにこれ以上を求むるのは無理だ、ということをさとり、さて、翌日は結束して再び昨日の臨湖の汀《みぎわ》に来て見ると、昨日ありしところのかの木標はなく、卒都婆もありません。砂の上には供養塔を立てたその痕跡さえなく、汀の波には卒都婆を弄《もてあそ》ぶ波の群れのみ昨日に変りありません。
 何者か抜き取って、木標は湖中に捨ててその行方《ゆくえ》を知らず、卒都婆は流れ流れて人の拾うものもなし。昨日まざまざと見た臨湖の景色が夢で、胆吹の夢に見たまぼろしに、かえって真実なりと欺かれる。兵馬はたよりなき感覚の幻滅を歎くことに堪えられない思いです。

         四十六

 机竜之助は胆吹の女王のために殺されたり、という宇津木兵馬の幻覚は、幻覚に似たる真実でないということはありません。
 ある意味では、竜之助が、女王の手に殺されているのは胆吹に始まったことではない。
 殺すということは、生命を奪うことで、生命を奪うということは、生命を亡くすることではないのです。単に生命の置きどころを変えたというにとどまるもので、かりに竜之助が暴女王の手にかかって殺されたりとすれば、それは女王が竜之助の生命を取って、自身の生命の中に置き換えたということの変名であって、竜之助そのものは、お銀様の中に生きている、お銀様は彼の肉体が無用になって、その生命の置場所になやんでいるのを見てとって、彼の生命を掴《つか》み取って、自分の体内に置き換えてやったという意味になるのですから、斯様《かよう》な殺し方は慈悲心の一種でさえある。形骸としての机竜之助が、柳は緑、花は紅の里を、いかなる形式でさまよい歩こうとも、それは夢遊病者の行動を、映し絵としてながめるだけのもので、彼の真の生命は、他のところに置き換えられて生きている。今後のお銀様は即ち竜之助であり、竜之助の更生が更にお銀様でないとは誰がいう。
 今や、お銀様の存在は一つの恐怖です。この女王は、剣を以て人を殺すということをしない、血を見て飽くという手数を尽さない、けれども、人を殺して血を見るという性癖は一つです。その一念がようやく増長しつつあるように見受けられる。
 この女王様の第一の利刃《りじん》は軽蔑です。この女王は、ほとんどあらゆる現象に対して、この女王が発する最初の挨拶は軽蔑であって、最後の辞令も軽蔑でないということはない。いかなる種類の人でも、この女王の軽蔑に価しない人はなく、いかなる種類の物象でも、この女王の軽蔑を蒙《こうむ》らぬ物象はない。
 胆吹の山寨《さんさい》は、今や彼女の軽蔑のために吹き飛ばされてしまいました。自ら築いたものを、自ら軽蔑するのだから、これは手の附けようがありません。
 今や、第二の光仙林を造ってはや、これをも軽蔑せんとしている。国宝級、重美系の芸術も、ようやく彼女の軽蔑から逃れ難く、光悦を集めながら、はや光悦を軽蔑しきっている。
 物を見に行くというのは、彼女にあっては、物を軽蔑しに行くのです。意志と感情を発散せぬものに対してすらそれですから、悪呼悪吸、もしくは愚呼愚吸のほかの何ものでもない人間共の存在に対する軽蔑が、骨髄を埋めているのも、まさにその道理でしょう。
 今日この頃は「易」を軽蔑せんとして未《いま》だ成らず、「密教」を軽蔑せんとして、新たに発足をはじめたようなものです。
 醍醐《だいご》三宝院の庭を見て、この女は豊太閤を軽蔑せんとしました。
 甲州の人は、徳川家康を恐れない、我が信玄に十に九ツも勝味《かちみ》のなかった家康を軽蔑せんとする、家康を恐れない人は、秀吉の重んずべきを知ることも極めて浅いのであります。徳川家康という人が、武田信玄に十に九ツまで勝味のなかった人であることを知っている甲州人は、その秀吉の唯一の勝利者としての、徳川家康を見ている。家康に勝味のない秀吉は、それに圧倒的な信玄より遥《はる》かに強きことを得ない。且つまた、信長という人は、武田を亡ぼした人であるけれども、信玄存する限り、その武を用うることができなかったのみならず、その部下としての秀吉は、未だ曾《かつ》て甲州陣の心胆を寒からしめんにも、熱からしめんにも、甲州というものに対して、その武を用いた経験がないではないか。故に甲州の人は家康を恐れない以上に秀吉を恐れない、最初からこれらの軽蔑すべき所以《ゆえん》を知っている。さてまた、この暴女王に限って甲州そのものを軽蔑すべき所以を知っている。父祖伝統の甲斐の国、武田よりも古い家柄を軽蔑して、その富ともろともに振捨てて悔ゆることを知らない暴女王は、豊太閤そのものを怖れずして、まずこれが趣味を軽蔑せんとして、醍醐の庭を見に来たかのようにさえ疑われる。
 ただ一つこの暴女王が、容易《たやす》く軽蔑しかねているのが、現にいま住む山科の安朱《あんしゅ》の地点なのであります。
 この暴女王も山科の地形だけは、憎まんとして憎み得ないものがあるらしい。軽んぜんとして軽んじ難い愛着を残しているものか。これは或る意味では当然過ぎるほど当然で、人というものは、過去に対してと、未来に対しては、かなり強硬にあり得るもので、過去というものは、再び現在を追っかけては来ない、過去は、いかに苦しかったことも過去となれば、すなわち現在への強迫区域を離れている、これを追懐しようとも、これを軽蔑しようとも、その脅威のおそれはないのであります。未来は当然|来《きた》るべきものにしてからが、来らざる間は痛痒《つうよう》の感覚から離脱している。ただ現在だけは怖るべきです。人がもし現在の政治に反抗した日には、逆賊の取扱いを受けなければならないように、現在の住ましめられている地点を軽蔑しては、所払いの刑罰を受くることを覚悟しなければならぬ。いかに暴ならんがために暴を趣味とする女王といえども、現在の立脚点をだけは軽蔑し得られないという約束に縛られて、しかして山科という輪郭に暫し追従を試みているかというに、必ずしもそうではないのです。
 山科の地形が、甲州に似ている。山河襟帯《さんがきんたい》の中間に盆地を成すの形勢が、何となしに甲州一国を髣髴《ほうふつ》させるのが山科の風景である。山科を大きくして、その盆のくりがたをさらに深くしたのが即ち甲州であるとは言えるかも知れないが、すでに故郷の地形にあこがれを持たないこの女性が、改めてその雛形を珍なりとすべき理由はない。
「山科」という地が、おのずから一天地を成している。その整ったただずまいが、この女王のお気に召したらしい。山科十六郷はよく整った一国の形成を成している。京都の郊外の山科ではなく、京都に附属した山科でもなく、たとえ小規模ながらも、一天地を成しているところに山科の妙味がある。山科は小さき甲斐の国というよりも、小京都といった方が当るかも知れない。山河の形成が、僅かに十六郷を含めたなりで独立している。そうして、その独立が、お銀様の住むのにちょうど手頃である。胆吹は気象が少々荒びていた、ここの空気は淘《よな》げられている。できるならばこの山科全部をソックリ買いたい、これをソックリ買取って我が屋敷として住みたいと望み得るほど、この地形全体が少なくともこの女王にとって、手頃の地形を成していたからです。
 胆吹の女王となるよりも、山科の地主でありたい、そんなような愛着を、お銀様が山科そのものの地相に持ち得られたということが、即ち山科を軽蔑し易《やす》からずとする所以なのでありましょう。

         四十七

 胆吹の女王が、今や、山科の地主にまで脱皮しつつあるということを突きとめたのは、宇津木兵馬として、骨の折れることではありませんでした。
 自然、宇津木兵馬は、長浜から、この山科まで道を急ぎました。近江から山城は地つづき、山城の内にあって、山城以外に立つというべき山科は、近江の国からの取っつきであります。長浜から直行にして十余里の道、この間に、なんらの瘴煙蛮地《しょうえんばんち》はありません。
 兵馬が山科に来て、まず草鞋《わらじ》をぬいだのは、同じく大谷風呂でありました。
 それとなく探りを入れてみたが、案ずるがほどのものはなく、さらさらと解答が与えられます。
 あれは、三井さんのお嬢さんで、今度、この山科の安朱《あんしゅ》の光悦屋敷というのをお求めになりました。あれを地面、家屋敷ぐるみ、そっくり居抜きでお引取りになって、御家来方と一緒にお住いでございます、と明瞭に答えてくれる。三井さんのお嬢様、それは少し変だ、長浜では女賊の張本でもあるように言い、ここへ来ては三井さんのお嬢様呼ばわり。前のが誇張であったように、ここのは仮定であると、兵馬がさとります。つまり、三井さんのお嬢様と言ったのは、三井家にも匹敵するような大金持のお嬢様ということなので、この場合、三井家というのは大金持という代名詞に使用されているまでのこと、戸籍の如何《いかん》は問うところでないと、兵馬がさとりました。
 さて、その三井家のお嬢様の本当の戸籍であるが、それが知りたい、それを知るにはこの女中づれではダメだ、すでに金持のお嬢様だから、三井の名で呼びかけるほどの女だ、重ねて問いかえせば、では鴻池《こうのいけ》さんのお嬢様だっしゃろ、と答えるくらいが落ちであるから、ここでそれを糾明《きゅうめい》するわけにはいかないが、ナンとその三井家のお嬢様に、ちょっとでもいいからお目にかかってお話ができまいものか。
 そういうところからさぐりを入れてみると、それはダメでござります、とても気位の高いお嬢様で、めったな人とはお会いになりませぬ、極々《ごくごく》親しい間の御家来衆でなければ、決して人をお近づけになりませぬ、宿におりましても、御主人様でさえお顔を見たものはござりませぬ、朝も、晩も、頭巾を召してはずさないほどのお方でござりますから。
 なるほど、気むずかしいには気むずかしいらしいが、朝に晩に頭巾を被《かぶ》ってはずすという時がないということは、長浜の見方と相一致する。
 さて、それではぶしつけにおしかけてもダメだ、さりとてしかるべき紹介を求めるよすがなどが、この際あろうはずがない、どうしたものかと兵馬も迷いましたけれども、いずれにしても、相手は妖怪変化《ようかいへんげ》ではない、胆吹から大江山へ飛んだ女賊童子の一味でもないし、正体も居所もすっかりわかったのだからと、この上は手段を尽して、面と相向ってぶっつかるばかりだ、相手が人間であってみれば、難事であっても不可能事ではない、ということに確信を持たしめられたことは喜ばしい。
 なんの、暴女王の暴女王たる正体を知りさえすれば、兵馬には昔なじみの人、まして兵馬に対してはすくなからぬ同情者の一人であり、兵馬の行動に同情者であると共に、その行動に、好意の妨害を試みていたほどの強情もの。甲州の有野村の女王であることに、何の不思議もないのですが、人というものは迷う時は方寸も千里の闇に似て、闇の中で摸索すればするほど正体を暗いところに押しやってしまう。この分で、正面から押せば押すほど遠くへ押しやるにきまっているが、どう考えてもこの際、押しの一手よりほかはないと兵馬の苦心焦慮した行き方も、また無理のないものがあります。光仙林の門のところまで来て、さて、これから堂々と門を叩いていいか、悪いかに惑いました。正面からぶっつかって、かえって後日のことこわしに落ちはしないか、ということも思案してみました。
 そこで、二の足を踏みながら、万一その女王が、外出でもする機会はないか、女王でないまでも、つかまえて物を尋ねるキッカケをつくってくれる御用聞のたぐいでもと、暫く、行きつ戻りつしてみたが、あいにく、人の出入りはほとんど打絶えた門、ほとんど開《あ》かずの門かと疑われるほどでしたが、「光仙林」とものした表札の、目立たぬけれども新しいことによって見ても、最近に人が住みつつあるということは、疑うべくもありません。胆吹は完全に人の住み捨てたところ、ここは人が有るべきところで、人のなきは、なきにあらずして留守なのだ。
 それも道理、この日、宇治山田の米友はがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、洛北岩倉村へ出向いて不在。
 不破の関守氏は、その隠宅でしきりに小物の表具を扱っている。もとより素人経師《しろうときょうじ》だが手際が凡ならず、しきりにかきあつめた小美術品の補綴《ほてい》修理を、自分の手にかけて、あれよこれよと繕いに余念がない。
 女王は、安朱谷《あんしゅだに》の雲深きところに鎮座ましまして、人をしてその片鱗をうかがわしめることをゆるさない。臨時かしずきの役を承っているお角さんは、供待部屋を己《おの》れが本拠として、すやすやと昼寝の夢をむさぼっているというていたらくですから、さしも広大な光悦屋敷が、さながら人あってなきが如くなるも道理です。
 兵馬は、それがために、あぐね果てて空しく門前を行きつ戻りつしているが、無人境の一得には、いくら行きつ戻りつしたからとて、べつだん怪しげな目を向ける人もない。それが有ってくれる方が、かえって所望だと言いたいくらい、取合われないのが物足らぬこと夥《おびただ》し。ここで思いきって門内に進入し、過日、胆吹山の廃墟で試みた手段をとろうかと決心して、さすがに思い煩う途端、初めて表門の四辺がザワついて、ひゅうと風を切って走り出したもののあることに目をみはり、
「あ!」
と兵馬も驚いたのは、熊にあらず、羆《ひぐま》にあらず、この国ではめったに見ることができない、というよりも、太古以来絶えて存在を許されていない種類の動物、唐国《からくに》の虎という獣に似たやつが一頭、まっしぐらに門の中からおどり出したからであります。
「虎!」
と叫んでみたが、虎でない。
「彪《ひょう》!」
と呼び直してみたが、彪でもない。全身|斑《まだら》にして、その身体は虎彪に匹敵して、しかもそれよりも勇んでいる。
 兵馬はそれに警戒を加えざるを得ません。心得は有り余るけれども、相手に覚えがない。一時はどうあしらっていいかに迷いましたけれども、虎はおろか、象でも鬼でも一ひしぎと、和藤内《わとうない》の勇気を取戻し、身構えをして見ると、それはやっぱり犬の一種だということがわかりました。
 犬ならば、いかに猛犬なりといえども、猛獣ではない。しかもその豪犬の首には、太やかな縄を引きまとい、それを引摺《ひきず》り、こっちへまっしぐらにやって来るのを、兵馬はやり過して簡単にその縄を引止めると、同時に犬は猛然として兵馬に飛びかかって来たけれど、それは、危害を加える意味の抵抗ではなくして、人間に対する挨拶としてもたれかかって来たということが、直ぐにその気合でわかります。これはいい授かりものが迎えに来てくれた、一番これを囮《おとり》にして、門内へ入り込もう、逸走した邸《やしき》の番犬を繋留して連れ戻って来てやるということになれば、家宅侵入の罪名に触れること決してこれなく、且つまた、感謝をもって受入れらるること、これも相違なし。
 そこで、兵馬は、その大犬の轡《くつわ》を取りつつ、徐々《そろそろ》と光仙林の門内に進入して、林にわけ入り、道なきかと思われる跡をたどって、ついに草にうずもれた不破の関守氏の隠宅の前へ来て、改めて柴折戸《しおりど》を叩くと、直ぐに内から声があって、
「お角さんかね」
「旅の者でござりまするが」
「旅の衆!」
と言って、不審がって小窓から面《かお》を現わしたのは、不破の関守氏であります。それを見て兵馬が、
「御当家の御飼養と覚しき見事な畜犬が、路傍に去来しておりましたから、引連れて参りましたが」
「それは、それは」
と言って、不破の関守氏に諒解があって、急ぎ庭下駄を突っかけて、カラリコロリとやって来る音が聞えます。

         四十八

 その翌日、駒井甚三郎は、鉄砲を肩にして、従者とては船乗の清八ひとりだけを伴い、島めぐりのためと言って、早朝から出かけました。田山白雲も、毎日、島めぐりのために出発しますけれども、これは島めぐりというよりも、写景を目的として、任意に出て任意に帰るのです。
 駒井のは、この島の地理学的研究のための実地踏査の第一歩です。
 広くもあらぬ島でもあるし、気候風土ともに、危険のおそれなきことを確認しての上の出立ですから、特にそれらの準備というようなものも必要なしと見て、日一ぱいに行って戻れるだけに、充分のゆとりを見て、一人で行き一人で帰る、いわば散歩気分の外出に過ぎません。
 開墾地の留守の支配は、七兵衛入道ひとりを以て足れりとします。このぐらい適当な管理者というものはなく、自ら働くことに於て模範の腕を持つのみならず、人を働かせる上に於て非凡な人情味を持ち、その上に、睨《にら》みを利《き》かせる威力というものが相当に備わっている。まだ、手を下して、人を懲《こら》したということはないけれども、まかり間違って、この入道の怒りを買った日には、なんだか底の知れないような刑罰が下りそうだ。刑罰というよりも、復讐が行われそうだというような凄味がドコかにあると見えて、これが人を威圧、というよりも、圧迫、或いは脅迫する圧力がある。そういうわけで、ニヤリニヤリと脂下《やにさが》る好人物としての入道には幾分の親しみもあるが、人を狎《な》れしめない圧迫感もある。それに、ムク犬というものが、お松の命令と意志を分身のようによく守る。曾《かつ》て敵視した七兵衛に向っても、牙を向けるというような気色が衰えました。
 お松は、駒井の不在中の官房をあずかること、その在舎中と変りはありません。田山白雲は、白雲の去来するように、自由な行動を許すよりほかはない。そこで、駒井は、もはや留守には何の心配もなく、外出が自由であります。
 駒井は東南の海岸線から跋渉をはじめました。今日は、この海岸線を行き得られるだけ行き、内側方面の踏査は、いずれ相当の人数を伴うて、測量式に行う時があるべしとして、今日はまず海岸の瀬踏みのようなものです。
 行くことおよそ二里と覚しい頃に、この島が予想したよりは奥行のある島だということに気がつきました。二里にして行手に一つの岩山を認めます。海岸に沿って北に走り、この島の分水嶺というほどではないが、テーブルランドを成しているらしいという地勢に駒井が興味を持ち、あの最も高い地点に立つと、他のどこよりも展望の自由が利くことを認め、そこで望遠鏡をほしいままにしようと思いついて、それに向って行くこと約半里、いたりついて見ると、予想ほどに高くはなく、高いと思って来て見たところに、凸凹があって、最高地点を求めている間に、また勾配が均《なら》されてしまう、その間に一つの入江がある、入江ではない、相当の湾入があって、自分たちの着いた海を北湾入とすれば、これは東湾入ともいうべき形勢であって、駒井甚三郎は、この地勢を見ると、どうやら人間臭いと思わないわけにはゆきません。
 そこで、駒井甚三郎は望遠鏡を取り上げて、上下四方をほしいままに見てみました。それから湾入の海岸線には特に心をとめて望見したけれど、人臭いという感触のほかに、現に人が住んでいるという形跡は更に認められないのです。しかしながら、この島に船がかりを求める人があるとすれば、自分たちのついた湾入か、そうでなければ、この地点を選ぶに相違ないと思わないわけにはゆきません。
 一応、望遠鏡の力によって、観察をほしいままにした後、駒井は清八を促して、その湾入の海岸へと下って行きました。すでに海岸に立って、駒井は、いよいよ以て人臭いという感じを禁ずることができないのです。どうも、人が住んでいる、現に住んでいなければ、遠からぬ昔に人が住んでいたに相違ない。住んでいたといえば土人か。土人ならば、相当部落を成して住んでいるに相違ないが、その形跡はない。僅かの小舟でここに漂着したとか、或いは、やや沖合で船の難破に遭《あ》い、そのうちの幾人かがこの辺に泳ぎついて、ここで暫く生活をしていた、といったような思いがするのです。太古以来、人間の息のかからぬ地点と、一度でも人間が通過した土地とは、痕跡は消しても、空気が残る。駒井甚三郎は直覚的に、それを感じている時に、清八が突然、
「船長様、熊がおりますぜ、熊が――」

         四十九

 駒井が、人間臭を感じていた時に、清八は異様な動物を認めました。
 熊が――と言ったのは、果して、日本人が認める熊であるか、何物であるかを確認したのではなく、何かの動物を、この男が見出したものですから、一概に、「熊が――」と呼んでみたのだ。駒井は直ちに否定しました。熊のいるべき風土ではないということを、反応的に受取ったから、熊が、ということは信じなかったけれども、この男が、たしかになんらかの動物を発見したという信用は失うことがありません。
「あ、熊が、あそこの岩かげから、コソコソと出て、また隠れてしまいました、御用心なさいませ」
 駒井の手にせる鉄砲を目八分に見て、報告と警戒とを加える。駒井は、その言うところを否定もせず、肯定もせずに、
「では、行って見よう」
 その方面に向って自分が先に立ちました。
「人間だよ、熊ではない」
「人がおりますか、人間が、土人でございますか、土人」
 熊であるよりも、人という方がかえって無気味なる感じです。土人、と繰返したのは、土人の中には人を食う種族がある、鬼に近い人種がいる、或いは鬼よりも獰猛《どうもう》な人類がいることが、空想的な頭にあるものですから、兇暴なる土人の襲撃の怖るべきことは猛獣以上である。猛獣は嚇《おど》しさえすれば、人間を積極的に襲うことはまずないと見られるが、土人ときては、若干の数があって、何をするかわからない。
「見給え、あそこに小舟がある」
「舟でございますか、ははあ、なるほど」
 それは小舟です。しかもその小舟が、半分ほど砂にうずもれながら波に洗われつつある。最初は岩の突出かと思いましたが、なるほど、舟だ、その舟も、どうやらバッテイラ形で、土人の用うるような刳舟《くりぶね》でないことを、かすかに認めると安心しました。
 この捨小舟《すておぶね》をめざして急いでみると、それから程遠からぬ小さな池の傍の低地に小屋を営んで、その小屋の前に人間が一人、真向きに太陽の光を浴びて本を読んでいる。黒い洋服をいっぱいに着込んでいるから、それで最初に清八が熊と認めたそれなのでしょう。こちらが驚いたほどに先方が驚かないのです。駒井主従が近寄って来ても、あえて驚異の挙動も示さず、出て迎えようともしないし、来ることを怖れようともしていないのが、少し勝手がおかしいとは思いながらも、危険性は少しも予想されないから、そのまま近づいて見ると、先方は鬚《ひげ》だらけの面をこっちに向けて、じっと見つめていることは確かだが、さて、なんらの敵意もなければ、害心も認められない。
 いよいよ近づいて見ると、原始に近い姿をしているが、その実、甚《はなは》だ開けた国の漂流者と見える。駒井がまず、英語を以て挨拶を試みてみました、
「お早う」
 先方がまた同じような返事、
「お早う」
 駒井の英語が、本土の英語でないように、先方の発音もまた借りの発音らしいから、英語を操るには操るが、英語の国民ではないという認識が直ちに駒井の胸にありました。
 けれども、英語を話す以上は、その国籍はともあれ、時代に於ては開明の人であり、或いは開明の空気に触れたことのある人でないということはありません。英国は海賊国なりとの外定義はあるにしても、その個人としては、直接に人を取って食う土人でないことは確定と思うから、ここで三個の人間が落合って、平和な挨拶を交し、これからが駒井とこの異人氏との極めて平和なる問答になるのです。

         五十

 駒井甚三郎は、まず、初発音に於て、この異人氏が英語は話すけれども英人でないことを知り、話してみると、この土地に孤島生活をしているけれども漂流人ではないということも知りました。誰も予想する如く、船が難破したために、この島へ漂いついて、心ならずも原始生活に慣らされている、早く言えば、ロビンソン漂流記の二の舞、三の舞である、とは一見、誰もそのように信ずるところだが、少し話してみると、やむことを得ざる漂流者ではなくて、自ら好んで単身この島へ渡って来て、また好んでこういう原始生活を営んでいる生活者であるということを、駒井甚三郎が知りました。
 これが駒井にとって、一つの興味でもあり、好奇心を刺戟すると共に、研究心をも刺戟して、これに会話の興を求めると共に、この異風の生活の白人を研究してみなければ置かぬ気持にもさせたのです。今日の開明生活を抛《なげう》って、何しに斯様《かよう》な野蛮生活に復帰したがっているか、それも、やむを得ずしてしかせしめられているなら格別、好んでこういう生活に入り、しかも、一時の好奇ではなく、もはや、あの小舟が朽ち果てる以前から来ており、今後、この島にこの生活のままで生涯をうずめる覚悟ということが、驚異でなければなりません。
 駒井甚三郎と異人氏の、覚束《おぼつか》ないなりの英語のやりとりで、しかも、相当要領を得たところの知識は、だいたい次のようなものでありました。
 この白人は、果して英国人ではない、本人は、しかと郷貫《きょうかん》を名乗らないけれども、フランス人ではないかと駒井が推定をしたこと。
 年齢は、こういう生活をしているから、一見しては老人の如くに見ゆるが、実はまだ三十代の若さであること。
 学問の豊かなことは、ちょっと叩いてみても、駒井をして瞠目《どうもく》せしむるものが存在していたということ。
 そこで、つまりこの青年は、三十代と見ればまだ青年といってもよかろう、一見したのでは五十にも六十にも見えるが――この青年は、何か特別の学問か、思想かに偏することがあって、その周囲の文明を厭《いと》うて、そうして、わざとこの孤島を選んで移り住んでいる者に相違ないということが、はっきりと判断がつきました。
 そういう類例は、むしろ東洋に於ても珍しいことはない。日本に於ても各時代時代に存在する特殊の性格である。こういう隠者生活というものは、東洋がその本家であるかと見ると、西洋にもあるのだ。いわゆる文明国にも、現にこういう人が存在する、ということを駒井がさとりました。
 異人氏の方でもまた、この珍客が、教養ある異邦人で、自分の思想生活を紊《みだ》す者でないことがわかったらしい。特に興味を以て、駒井との会話を辞さないようです。
 そこで、駒井甚三郎は、清八をして持参の弁当を取り出させ、その小屋の庭前の自然木の卓子《テーブル》の上に並べさせ、そのうち好むものを、異人氏にも勧め、且つ食い、且つ談ずるの機会に我を忘れ、また今日の任務をも忘れんとします。
 ここに於て、駒井はこの島に、自分たちよりも先住者が少なくも一人はいたことを知り、島の面積、風土のなお知らざるところをも聞き知り、もはや、これ以上には人類は住んでいないことなどをも知りましたが、個人として、この異人氏の身辺経歴等を知りたいとつとめたが、容易にそれを語りません。
「あなたは、この島に猟に来たのですか」
と異人氏がたずねるものですから、駒井が、
「いいえ、猟に来たのではないのです、あなたと御同様に、この島へ永住に来たのです」
「エ?」
と言って、異人氏がその沈んだ眼をクルクルとさせ、
「永く、この島にお住まいになるのですか」
「そのつもりで、仲間を引きつれて来て、これから三里先に開墾を始めています、以後、おたがいに往来して、お心安く願いたいものです、これを御縁に、たびたび、わたくしも、こちらをお訪ねしたい、どうぞ、我々の方も訪ねていただきたい」
 駒井がこう言いますと、異人氏は感謝するかと思いの外、みるみる失望の色が現われて、
「そうですか、あなた方二人だけではないのですか」
「二十余人の同勢で来ています」
「男ばかりですか」
「女もおりますよ」
「そうですか」
と言った異人氏には、失望のほかに、不快な色さえ現われて、それからは駒井の問いにはかばかしい返事をしませんでしたが、急に立ち上って、
「わたくし、あの小舟を修繕しなければなりません」
 つと立って行ってしまったものだから、駒井も引留めようがありませんでした。
 ぜひなく、清八と二人だけで食事を済まし、しばらく待ってみたが、容易に再び姿を現わしません。立って四方をさがしてみたけれども、どうもその当座の行方がわからない。ぜひなく二人はそのままに取りかたづけて、ここを出て前進にかかりましたが、途中、心にかけたけれども、この異人氏の姿が再び眼に触れるということはありませんでした。
 駒井は、それを本意なく思ったが、なんにしても、最初のうちは極めて好意を以て会話に答えた異人氏が、終り頃、急に失望不快の色を現わしたことと、そのまま席を立って、再び姿を見せなかったことに、何か、感情の相違があるものだとみないわけにはゆきません。では明日改めて、単身、ここまで出向いて来て、この遺憾《いかん》の部分の埋合せをしようと思い定めました。その日は、その程度の観察、往復の途中、地質と植物の標本を集めたくらいのところで、開墾地へ立帰りました。
 お松に向って、その日のあらましを物語り、明日はひとつあの異人氏の訪問を主目的として、また出かけてみるつもりだということを物語ります。
 七兵衛の報告を聞いて、開墾事業が着々として進んでいることを知り、多くの希望と愉快のうちにその夜を眠ります。

         五十一

 その翌日、駒井甚三郎は、三里の道を遠しとせずして、今日はたった一人で、昨日来た異人氏の草庵を訪ねてやって来ました。
 来て見ると、その有様、昨日に異ならず、戸は別に塞《ふさ》いでもないが、人はありません。二度、三度、呼びかけてみたが返答もありません。その様子では、昨日立って行ったままに、立戻らないようにも見えるが、いったん戻って、また出かけたものとも察せられる。
 あけ放された室内へ、駒井が入り込んで見廻すと、数多くの書籍がある。卓の上には、書きさした紙片が堆《うずたか》く散乱している。駒井は一わたり書棚の書物を検閲したが、英語と覚しいものは極めて乏しい。一二冊をとって披《ひら》いて見ると、文字は横には印刷されているが読めない――
 そこで、駒井はまた一旦、室外へ出て待ってみたが、到底|埒《らち》が明かないと見て、ともかくも近いところを歩いてみようと、小径をそぞろ歩きすると、まもなく海岸へ出ました。海岸へ出て見ると、何のことに、探索に苦心するまでのことはなかった、つい眼のさきに、尋ねる人がいるのです。海岸へ乗捨てられた小舟をコツコツと修理していたのは、昨日見た異人氏以外の人でありようはない。
 そうだ、昨日も立ち上りざま、舟を修理をしなければならないと言って出た。最初から、こっちを探せば何のことはなかったものをと、駒井はその心構えで、ツカツカと近寄って来て、
「昨日は失礼――また尋ねて来ました」
「はい」
「舟をなおすのですか」
「はい、舟を修繕しています」
「だいぶ古くなっていますね」
「なにしろ、三年前に乗捨てた舟ですからね。もう二度使おうとは思わなかったですが、また手入れをしなければならないです」
「新たに漁でもおはじめなさるのですか」
「いや、漁ではありません、沖へ出なくても魚は捕れます」
「では、急に何の必要あって」
「海へ乗り出すのです、新たなる征服者が来たから、先住民族は逃げ出さなければならないです」
「待って下さいよ、新たなる征服者というのは我々のことですか、先住民族というのは君のことですか」
「そうです、あなた方は侵入者であり、征服者であります、新たなる征服者が来た時は、先住民族は逃げなければなりません、逃げなければ血を流します」
「これは奇怪なお説です、誰が君を殺すと言いましたか、誰が君の血を見たいと言いましたか」
「当然です、誰も言わないが、それが移住者の約束です」
「そういう約束をした覚えもない」
「人間同士の約束ではない、天則です、でなければ歴史です、人類相愛せよということは、猶太《ユダヤ》の大工さんの子だけが絶叫する一つの高尚なる音楽ですね、相闘え、相殺せ、征伐せよ、異民族を駆逐せよ、しからずばこれを殲滅《せんめつ》せよ――これは、歴史だから如何《いかん》とも致し難い、そこで、わたくしは殺されないさきに逃げます」
「驚くべき誤解ですねえ、我々も、まず平和と自由とを求めて、この地に来たのですよ、歴史の侵略者とは違います、海賊ではありません、紳士です」
「歴史の原則の前には、海賊も紳士もないです、あなた方は、平和を求めるつもりでこの島へ来ても、それがために、わたくしの平和が奪われます」
「奪いません、おたがいに和衷協同して、相護って行き得られるはずです」
「そんなことができるものか、現に、わたくしの平和が、こんなに乱されていることが論よりの証拠――やがて、わたくしが殺される運命は必然です」
「左様な独断に対しては、もはや議論の限りではない、ただ、東洋人ということが、野蛮と好戦の代名詞のように心得ている君等白人の謬見《びゅうけん》からただしてかからなければならんのだが、それには相当の時間を要する、少なくともその理解の届くまで、君の出発を延期してはどうだ、果して、君が憂うるところの如く、我々は君を殺さずには置かぬ人類であるか、或いは存外、君と平和に交り得る人種であるか、その辺の見当がつくまで、出発を保留して置いてはどうか、そうして、いよいよ危険と結論が出来たその時でも、立退きは遅くはあるまい、その担保として――これをひとつ君に預けて置こうじゃないか、これは我輩の唯一の護身武器だ、安全の保証だ」
と言って駒井甚三郎は、肩にかけていた鉄砲を取って、彼の前に提出し、同時にその帯革の弾薬莢《だんやっきょう》を取外しにかかると、
「いや、違います、違います、あなたの観察が違います、わたくしは、あなた方を怖れるのではないです、歴史を怖れるのです、東洋の人を、野蛮だの、好戦だのと軽蔑するほど、西洋の人は文明を持ってはおりません、大きな宗教、大きな哲学、大きな科学、みな東洋から出ました、今、西洋だけが文明開化のように見えるのは、それは表面だけです、西洋の文明開化は短い間の虹です、やがて亡びますよ、わたくしは、欧羅巴《ヨーロッパ》に生れたけれど、欧羅巴が嫌いです、それで、国々を廻ってこの島へ来たです、が、これから、ここを逃げ出して、またどこか自分のくらしいい土地を求めて行きます」

         五十二

 吃々《きつきつ》として、こういう釈明をする間にも、異人氏は小舟の修繕の手を休めない。銃器を取外した駒井は、そのやり場に苦しむような手つきで、ふたたびそれを持扱いながら、これと対した石の上に腰を卸して、異人氏の言うところを言いつくさしめようと構えている。異人氏は、ここまで来ると、必然の論理を通さねばならぬかの如くに、ねちりねちりと問わざるに答えるのである。
「欧羅巴《ヨーロッパ》の文明というものは間違っているです、蒸気が走り、電気が飛び、石炭が出る、機械がどよめく、それで、人が文明開化だといって騒いでいるだけのものです、蘊蓄《うんちく》ということを知らないで、曝露《ばくろ》するのが文明だと心得違いをしているです、陰徳というものを知らないで、宣伝をするのが即ち文明だと心得違いをしているです、ごらんなさい、今に亡びますよ、今に欧羅巴人同士、血で血を洗う大戦争をはじめて共倒れになりますから、わたくしは、そういうところに住むのが嫌いですから、もっと広い世界へ出ました」
「君は文明開化を否定している、人類の進歩というものを呪《のろ》っているらしい、それが欧羅巴の文明というものを究《きわ》め尽しての結論だと面白いが、ただ偏窟な哲学者の独断では困る」
「わたくしは偏窟人です、世間並みの風俗思想には堪えられません、それだからといって、わたくしの見た欧羅巴文明観が間違っているとは言えますまい、そもそも、欧羅巴が今日のように堕落したのは……彼等は堕落と言わず、立派な進歩だと思い上って世界に臨んでいるようですが、わたくしに言わせると、彼等より甚《はなはだ》しい堕落はありません、何がかくまで欧羅巴を堕落させたかと言えば、それは鉄と石炭です」
「ははあ、妙な論断ですね、羅馬《ローマ》の亡びたのは人心が堕落したからだということは、よく聞きますが、鉄と石炭が欧羅巴を堕落させたという説はまだ聞きません」
「学説ではなくて事実です、まず欧羅巴というところが、世界の中でどうして特別に早く開けたかといえば、それは食物を耕作する良地に富んでいたからです、土地が肥えていて、人間が食物を収穫するのに、最も都合がよかった、というのが第一条件であります、これは勿論《もちろん》であります。欧羅巴でなくても、穀物をよく生産する土地に人間が第一に寄りつきます、欧羅巴が開けたのは、その第一の条件に恵まれていたその上に、第二の条件が最もよろしかったからです、その第二の条件というのは、鉄が豊富であったからです、鉄を掘り出して使用することの便利が、他の多くの国土よりも恵まれておりました。人類は、最初にその鉄で鍬《くわ》を作りました、鋤《すき》を作りました、そうして耕作力に大きな能率を加えました、そこで、人間に余裕も出来て、人間の数も殖《ふ》えました、それまではよかったです。ところが、人に余裕が出来、その数が殖えてくると、争いが起りました、そこで、鍬を作る鉄で武器を作りはじめました、欧羅巴の堕落はそこからはじまりました」
「それは堕落ではない、当然の進歩というものだ、人類が進歩し、社会が複雑になればなるほど、おのおのの防備を堅固にしなければならない、大きく言えば、国防というものがいよいよ切実となる、弓と矢を用いる代りに、鉄を利用して国防の要具を作ることは、当然の進歩ではないか」
「進歩とか、複雑とか言いますけれども、その進歩と複雑が、人間に何を与えましたか、眩惑《げんわく》以上のものを与えましたか、眩惑から逃れて真実の生活を営みたいものは、欧羅巴文明から離れなければならない、そういうわけで欧羅巴を堕落させたもの、第一は鉄であります、いや、人が鉄の使用を誤らせたことから堕落が起りました、その次に、欧羅巴文明を堕落せしめたものは、石炭です、なぜ、石炭が欧羅巴を堕落せしめたかと言えば、そのもとは蒸気の発明から起ったです、蒸気が発明されると、大船が大洋の中を乗りきって、世界のいずれの涯《はて》へも自由自在に往来ができるようになりました、人間はそれを称して、人力が海洋を征服したというけれども、実は人間が自制心を失って我慾に征服されたです、従って、この蒸気船に乗って世界を行く国人が海賊となりました、海賊とならざるを得ないです。たとえ未開野蛮の地というとも、先住民のいない国土はない、新入者と先住民との争いが当然起ります、先住者のないところには、新入者同士の争いが起ります。石炭が大きな船を動かさなければ、なかなかそういうことは起らなかったです。いまに、ごらんなさい、世界中がみな海賊の争いになりますよ、鉄と石炭を多量に持っている国家が、海賊の親方になります、そうすると、それを羨《うらや》む他の国家が、割前を欲しがって、その海賊の大将を亡ぼそうとします、そこで、海賊の大将へ総がかりという大戦争が起りますから、見ていてごらんなさい、鉄と石炭が欧羅巴を進歩せしめたというのは、近眼の見ている虹です、やがて、これがために亡びますよ、いったい、土地に埋蔵してある天与の物質を掘り出して、それを人間同士|殺戮《さつりく》の道具に造るなんていうことが、罰が当らないで済むものですか、やがて、欧羅巴がいい見せしめです、東洋の方々よ、東洋は欧羅巴に比べると、遥かに偉大なる宗教、深遠なる哲学を持っています、この産物は、鉄と石炭の産物とは比較にならない、東洋人はその偉大なる宗教と哲学に従って行けば、安全なのです、決して、鉄と石炭の文明に眩惑されてはなりませんよ」
 こう言われて、駒井甚三郎は、何か自分の弱味に籠手《こて》を当てられたように感じました。この立論が偏窟であるないにかかわらず、ただ何かしら、自分の弱点を突かれでもしたように感じました。

         五十三

 こういう頭から出て、とどまると言い、出ると言う以上は、力を以て引留めることの限りではないと、駒井甚三郎もややにさとりました。
 そうして、暫く沈黙して考えさせられざるを得ないものがありましたが、
「君が欧羅巴文明を否定するのは、君一個の意見として聞いて置き、拙者もいずれ考えてみたいと思いますが、東洋に、より優れたる偉大なる宗教があり、深遠なる哲学があるというのは、それは買いかぶりではないか、ドコの国も同じように似たり寄ったりなもので、人間というやつは、みんな、眼前だけを標準としてしか行動ができない動物なんじゃないか、世界の人類一様に、みんな、やがて消ゆべき虹を見て騒いでいるんじゃないかな」
「そうでないです、西洋の人は虹をだけしか見ることができないです、たまにそれ以上を見る人は、ただ、虹は何で出来ている、虹は水蒸気である、七色は光線の分解であるというだけを見るのが頂上です、ところが東洋人は、水蒸気を見ない、七色を見ないで、空《くう》を見ます、空というのは虚無ではないです、つまり、色《しき》を見ないで空《くう》を見るです、西洋人には、色を見ることだけしかできないで、空を見ることができません」
 ここに至ると駒井甚三郎は、もはや、自分の領分外だということをさとりました。もはや自分の力では、こなしきれないということを自覚せざるを得ませんでした。
 そこで、また暫く沈黙の後、次のように言いました、
「考えさせられます、トモカク、我々の方で、君を引留める何物の力もないということがわかり出したようです、この上は、君の自由の行動と、意志の行動に干渉すべき限りではない。では、一日、我々の新開墾地に客に来て見て下さらぬか、我々が食人種でないことがおわかりならば、一日の来訪は危険を伴わないし、また君の将来の行動のさまたげとなるべきはずもないから、新入者が先住民に敬意を表わすの機会と、先住民が新入者を迎うるの機会と、それから新入者が先住者を送るの礼と、その三つの機会を同時に、我々の新開地で作ってみることは許されないか」
「そういうわけならば、一日の暇を作りましょう、明日にも、あなたの植民地へ行きましょう」
「それは有難いです――では」
 駒井甚三郎は、明日の約束を以て、この場の会見と会話とを打切りました。順路をよくこの異人氏に教えて、自分はもと来し路へ引返します。出立の時は、今日は、もう一足でも先へ前進してみるつもりでしたが、ここで会見の時を過ごしてみると、もう進む気が起りませんでした。
 来た路を引返しながら駒井甚三郎が思う様、この孤島へ来て、さかさまに、白い異人から東洋哲学を聞かせられようとは思わなかった、ドコの国、いずれの時代にも、その時代を厭《いと》う人間はあるものだ、称して厭世家という。そういうことは、いずれの時代にもあるが、いつも世間には通用しない。当人も無論、通用されないことを本望とする。世間の滔々《とうとう》たる潮流から見れば、一種例外の変人たるに過ぎない。一人や二人そういう変人が出たからとて、天下の大勢をどうすることもできるものではない。また当人も、一人や二人で天下の大勢をどうしようの、こうしようのと考えているのではないから、別段、問題にするには当らないが、どうかすると、そういう変人の中に、驚くべき予言が語られたり、達観が行われたりするもので、あらかじめ、そういう声を聞くと聞かないでは、国の興亡が定まることさえあるものだ。言う者に罪なし、聞く者以て警《いまし》むるに足る。
 だが、それはそれとして、こんなところで、こんな人種から、東洋哲学を聞かせられて、これに充分の応答ができない、まして、逆に彼等にこれを説き教える素養を欠いている己《おの》れというものを、駒井甚三郎が反省せざるを得ませんでした。
 日本に於ては、おこがましいが、自分は当時での最新知識であり、有数の学者と我も人も許していたのだ。それが、ややもすれば金椎《キンツイ》に虚を突かれたり――孤島の哲学者に逆説法を食ったりするのは、事が自分の研究の職域以外としても、光栄ある無識ではないのである。自分の究《きわ》めているのは、今の哲学者の見るところによると、欧羅巴文明の糟粕《そうはく》かも知れない。かの糟粕を究めつつ、自家の醍醐味《だいごみ》も知らないということになると、いい笑い物だ。
 学問、研究、知識は、いよいよ広く、いよいよ大きい、この海洋のようなものだ、というような反省が駒井の心に波立ちました。

         五十四

 その翌日、約束の通り、異人氏は駒井の植民地へやって来ました。これを迎えた駒井は、一応植民地を見せた上で、己れの舎宅へ案内して、ここで、椅子をすすめて相対坐しての会談です。この時に異人氏は次のように言いました、
「駒井さん、あなたの理想はよくわかります、地上に理想郷を作ろうという企ては、今に始まったことではないです、昔からよくあることです、欧羅巴では、哲学者プラトーなども、その理想の先達《せんだつ》の一人です、実行はしませんでしたけれど、プラトーは、その理想を持っていました、最近では、ロバート・オーエンという人が、それを実行しました、あなたと同じように同志を集めて、全く新しい一つの社会を作りました。プラトー氏は、ただ理想家だけでしたが、ロバート・オーエンは、徹底的に実行しました」
「そういう人が、最近、西洋にありましたか」
「ありました、ロバート・オーエンは、英吉利《イギリス》のウエールという所の山の中に生れた人です、子供の時は呉服屋の小僧などをして、それから成功して大きな紡績工場を持つようになりました、幼少から艱難《かんなん》をして、世の中を見たりして、どうしてもこれではいけない、ひとつ、模範の世界を作ってみるといって、自分の大工場を中心にして立派な模範の村を作り、一時、非常な評判になって、見に行く人が多くありましたが、上流の人、資本家の人が、オーエンの理想を好みませぬ、せっかくの理想が妨げられる、そこで、オーエンは、これは上流社会や資本家を相手にしていては駄目だ、働く人だけで自由な社会を作らなければならぬと言って、それには周囲のうるさい土地ではいけない、新しい天地で、さしさわりなく腕の揮《ふる》えるところでなければいけないといって、イギリスの自分の土地や工場を、すっかり売払って、アメリカへ渡りました、アメリカの、インデアナ州というところへ土地を買い、思いきって理想の社会を作ってみましたが、失敗してしまいました」
「もう少しくわしく、その人のことを話してみて下さい」
「いや、話せば長くなるです、およそ自分の理想の新社会を作ろうとして、その実行に取りかかって、失敗しなかったものは一人もありません、みな失敗です、駒井さん、あなたの理想も、事業も、その轍《てつ》を踏むにきまっています、失敗しますよ」
 異人氏は、駒井の事業慾に対して、三斗の冷水を注ぐようなことを言いました。せっかくのことに成功を祈るとは言わず、失敗が当然だということを言いました。聞きようによれば、不吉千万の言い分でありますけれど、駒井は深く気にかけません。
「失敗とか、成功とかいうことは、ただ仕事の成績だけ見て言うことじゃありませんよ、成功と信じても、ねっからツマらないこともあり、失敗だ、失敗だと言われることが、かえって大きな時代の推進力をつとめることもあるものだ、今のそのオーエンという人が、どういう失敗に終ったか知らないが、そういう勇気と実行力を持ち得る人は、尊敬すべきものだ、信ずることを、ドコまでもやってみようという勇気を私は取ります。オーエンは失敗したけれども、イギリスからアメリカに渡って、このアメリカの土台を築き上げた人は失敗ではないだろう、成敗を以て事を論ずるのは末だ」
「そうです、何が成功で、何が失敗かということは、見る人の批判だけではわかりません」
 異人氏は、深く議論をする気はなく、その辺で辞退しましたから、駒井甚三郎も、それを送って外へ出ました。
 過ぐる夜に、月影を踏んで歩いた砂浜のあたりを、異人氏を送りながら歩いて行く駒井甚三郎は、異人氏が、どうしてもこの島を立退かなければならないならば、古舟を修理なさらずとも、こちらのバッテイラを貸して上げようと言いますと、異人氏は、それを辞退して、それには及びません、舟は手慣れたのがよろしい、いかに小舟で大洋へ乗り出しても、決して覆ることはないものだ、舟には心配はない、心配がありとすれば、食糧と気候の変化だけのものだが、それは天に任せるより仕方がない、というようなことを言う。
 異人氏を程よきところまで見送ってから、駒井甚三郎は、また海岸を戻りながら、いろいろと考えさせられました。
 事実に於ては、自分たちが来たために、あの異人氏を追い出したことになるのだが、異人氏は追い出されると思ってはいない。新人|来《きた》れば旧人去るのは当然の理法だと考えている。またそれが自分の自由だと考えている。こちらは気の毒千万とも思うけれども、先方は現在の旅から次の旅に移るとしか考えていない。満足から満足に向ってあさり進むとしか考えていないようだ。
 のみならず、去り行く己《おの》れの影を哀《かな》しまずして、盛んなる我等の新植民をむしろ哀れなりとしている。斯様《かよう》な事業は必ず失敗なりと断言して憚《はばか》らないところも、また一見識だと思いました。
 その一例として挙げてくれた、何といったかな、イギリスの、ロバート・オーエンと言ったかな、そういう人間の最近の失敗を述べたようだったが、くわしいことは聞きもらしたが、では、これからひとつそのオーエンなるものの伝記を研究してみよう。失敗とか、成功とかは論ぜず、トニカク空想を実行に移して、百折屈せざるの先例を見出すことは愉快と言わねばならぬ。イギリスという国が大きくなるのも、そういう人間を持ち得られるからだろうなどと、駒井がその時に考えました。

         五十五

 ここで、話が少し後戻りをして洛北岩倉村へ帰るのでありますが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵、宇治山田の米友、首《くび》っ枷《かせ》の一幕を見せられた献上隊は、呆気《あっけ》に取られて、これを追及することも忘れたのでありますが、その首っ枷の早いこと、軽便蒸汽もはだしの有様なので、みるみる姿を見失った後に、我を取戻したという有様です。
 しかし、怪我もこのくらいの程度ならばまず安心、やがて彼等は、苦笑と哄笑《こうしょう》とを禁ずることができません。そうして苦笑と哄笑の間に、銭拾いをはじめました。
 すなわち、宇治山田の米友公が、粒蒔《つぶまき》、散蒔《ばらまき》の曲芸を演じた名残《なご》りを、或いは道草の間より、樹木の枝の股より、石の地蔵のお水凹《みずくぼ》の蔭より掻《か》き集め、或いは三ぴん氏や、三下氏の額、頬、顋《あご》、たぶさの間から引っぺがし、抜き取り、それから最後に、優に半分は投げ残された袋に納めきるのが一仕事であります。
 この場だけの事情に於ては、この一行に相当の道理があるらしく、あえて米友の手から強奪を試みようとしたのにあるではなく、当然自分の隊に属すべきものを、不思議な男の手に発見したものですから、当然の要求のつもりで掛合ったのが原因でありましょう。ですから、献上隊の一行が暴行を働いたというわけではなく、かえって、事情を呑込まぬ米友の頑強が、非に落つる嫌いもあるにはあったのであります。しかしまた、献上隊の方でも、もう少し事を穏かに掛合って、少なくとも米友を首肯せしむるだけの理解を尽さなかったという落度《おちど》もあるにはあるでしょう。だが、こうなってみると、どちらも市が栄えたというもので、彼等は僅少の犠牲で原価を取戻し、こちらは少々の手わざ足芸でうまく要領を外したという取柄があるのであります。しかし献上隊の奴等は、今のあの小冠者のタンカがおかしかったり、その手練に舌を捲いたり、その口小言が絶えないのでありますが、なんにしても、銭を拾い集めるのが一仕事です。たとえ一枚でも天下の通宝を土に委《い》してはならないという護惜《ごしゃく》も手つだって、草の根をわけ、石の塊りを起して、収拾にかかっているところへ、戞々《かつかつ》と馬の蹄《ひづめ》の音をひびかせてこの場へ通りかかったものがあります。
 前のは、年の頃三十七八歳の威風ある偉丈夫、後ろのはまだ二十四五の一青年、二人ともに浪士ではなく、本格の、いずれかの藩の相当以上の利《き》け者らしいのが、馬上で颯爽《さっそう》としてここへ現われて来ましたが、献上隊の一行が路傍草間に銭を拾っているのを見て、
「何だ、何をしているのだ」
「なに、天下の宝を路傍に拾っているのか」
「ほほう、銭が降ったと見えるな、近ごろはエエじゃないかで天下にお札《ふだ》が降っている、ここばかり銭が降ったか」
 こんなことを言って、二人が英気凜々《えいきりんりん》として過ぎ行く後ろ姿を見ると、二人ともに、黒のゴロウの羽織に菅《すげ》の笠、いずれも丸に十の紋がついている。
 献上隊の一行が、いずれも銭拾いの手を休めて、いま過ぎ去った二人の武士の後ろ影を、つくづくとながめ、
「薩摩だな」
「うむ、あれは誰だか知ってるか」
「どうも、前のは薩摩の大久保市蔵らしいぜ」
「拙者も、そう思う、そうして、あとは長州の品川弥二ではないか」
「そうだ、たしかにそれに違いないぞ、薩長の注意人物が相携えて、岩倉三位訪問と出かけるからには、一嵐ありそうだ」
「だなあ、一番、様子を見てやろうじゃないか」
「見届けて土産物《みやげもの》にしようかなア」
 こう二人が言い合わせて、また腰をかがめて銭拾いの続演。
 これと引違いに、いま問題になった馬上の二人の武士。
 やっぱり、めざすところは岩倉三位邸の門でありました。
 そうして玄関にかかって言うことには、
「薩州の大久保でございます、岩倉三位は御在邸でございますか」
 その時に、玄関は開かず、中庭の枝折《しおり》が内からあいて、
「大久保君、よく来てくれた、まあこっちからお入り――」
と面《かお》を現わしたのは、さきつ頃、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が垣根越しに一眼見て、危なくこの威光にカッ飛ばされようとした御本人――即ち岩倉三位その人でありましょう。綾の小袖の着流しで、手に手頃な鍬《くわ》を持って現われたのは引続いての庭いじり、いまだに鍬が離せないものと見えます。
「今日は品川君を連れて参りました」
「あ、それは、それは」
と岩倉三位は改めて、ジロリと同行の品川弥二郎を見ました。この空気によって見ると、岩倉と大久保の間は入魂《じっこん》になっているが、品川は初対面であるらしい。特に大久保が今日、品川を帯同して、岩倉に紹介がてら推参したものと思われます。
 岩倉三位は鍬を杖にしたままで、まだ庭先に立っている。

         五十六

「天下の風雲をよそにして、菊を南山《なんざん》に採《と》るという趣があります、お羨《うらや》ましい境涯です」
と大久保が、岩倉三位の手ずから丹精の小庭と、その手にせる鍬を見て、こう言ってお世辞を申しますと、岩倉が、
「必ずしも左様な風流沙汰ではないよ、この鍬で、今その風雲のとばしりを少しばかり鎮《しず》めたところだ、あの小山を見給え」
と指しますから、庭の一隅を二人が見ると、そこにまだ土の香の新しい土饅頭《どまんじゅう》が一つ築かれてあるのであります。
「何ぞお囲いになりましたか」
「たった今、ここの玄関へ怪しげな壮士|体《てい》の者共が押しかけて、わしに献上と言って、玄関へ何か置きはなして行った、取調べてみると、人間の片腕が一本、まだ生々しいのが、三宝に載せて置いてある、不潔千万だから、今、それをここのところへ埋めたばっかりだ」
「何ですか、人間の片腕を三位のお玄関へ、それは物騒な奴があったものです」
「生首でなくてまだ幸い――ここへ埋めて念仏をしてやったところだ」
「何者の生腕《なまうで》でございますか」
「千種家《ちぐさけ》の賀川肇の生腕と、三宝の下に書いてあった」
「賀川の――ともかく、時勢とは言いながら、この山里の御閑居へまで、そういうことをする奴があるのだからなあ」
 大久保も感慨に耽《ふけ》ったが、品川の弥二が、ここで、また改めて岩倉三位の横顔をじっと見つめました。
 かくて二人は岩倉三位の案内を受けて、その居間に通されるのでありますが、品川弥二郎は、大久保と岩倉の後ろ影を見ながら大いに考えさせられているようです。
 やがて三人、奥の居間で密談となりました。まず、大久保から岩倉への品川の紹介があったことでしょう。それから、長州の人傑の近況が一くさり噂《うわさ》に上ったことでしょう。やがて順序を得て、今日の来訪の理由の眼目に進んで密談が酣《たけな》わになるほど、外間の窺知《きち》を許さないものがある。
 三人の対話は極めてひそかに、また長時間に亘《わた》って、容易に果つるとは思われません。洛北岩倉の秋日の昼は、閑の閑たるものであります。
 この小閑を利用して、少しく時代の知識の註釈のために、慶応三年という年に、この篇に関係ある当時の相当の人物のめぼしいところの年齢調べを行ってみたいのでありますが、順序の不同と、一両歳の出入りは御免|蒙《こうむ》って、次に少々列挙してみますと、
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勝安房    四十四歳
大村益次郎  四十五歳
岩倉具視   四十二歳
西郷隆盛   三十九歳
大久保利通  三十七歳
木戸孝允   三十三歳
三条実美   三十歳
高杉晋作   二十九歳
伊藤俊輔   二十六歳
品川弥二郎  二十五歳
坂本竜馬   三十三歳
山内容堂   四十歳
徳川慶喜   三十歳
島津久光   五十歳
毛利元徳   二十八歳
鍋島閑叟   五十四歳
小栗上野   四十一歳
近藤勇    三十四歳
土方歳三   三十三歳
松平容保   三十二歳
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等々。

         五十七

 こうして、三傑が額を鳩《あつ》めて密談いよよ酣《たけな》わにして、いつ果つべしとも見えない時分、次の間から、恐る恐る三太夫の声として、
「申し上げます、只今、山科の骨董商《こっとうしょう》が参上仕りましたが、いかが取計らいましょうや」
「ははあ、来たそうだ、これへ通せ」
 岩倉も、大久保も、諒解して、いま来訪して来たという山科の骨董商なるものを、この密談の席へ入れるらしい。してみると、その骨董商なるものも、只者ではないことがわかります。只者であった日には、この密談の席へ通されるはずはないと思われるが、しかし、事実はかえって天下の志士でなく、郊外の骨董商であるから許されるのかも知れない。この時分、もはや密談は終って、おのおの好むところの書画骨董の余談にうつり、その潮時に出入りの骨董屋が来たというので、無雑作《むぞうさ》にお目通りを許されたものとも見える。まもなく、三太夫に導かれてこの席へ姿を現わした山科の骨董屋なるものを見ると、これが意外にも光仙林の不破の関守氏であろうとは……
 不破の関守氏というのは、前身が相当の曲者であってみると、さては、お銀様を説き立てて、名画名蹟の蒐集ぐらいでは芝居が仕足りない。洛北岩倉村へ集まる、この辺の役者を板にかけて、脚本の製作をたくらんでいるとすれば、こいつも大伴《おおとも》の黒主《くろぬし》に近いが、果して、さほどの大望を抱いて来たのか、或いは、山科の骨董商になりきって、このお邸《やしき》のお出入り商人たるを以て甘んじて御用伺いに来たものか、その辺はわからない。
 わからないと言えば、がんりき[#「がんりき」に傍点]のようなのぼせ者を煽《おだ》てて、この岩倉村に東西きっての大バクチがあるから行ってみろと、貸元までつとめて、がん[#「がん」に傍点]ちゃんが勢い込んでかけつけてみはみたが、事は以上示すところの如く、馬鹿をみたようなものであった。自身、ここまで出向いて来るくらいなら、何を苦しんで、がんりき[#「がんりき」に傍点]をああまでかついだのか、はなはだ解《げ》せないことです。
 いずれにしても、不破氏は、この席へ入ると同時に、平身低頭して、出入り御贔屓《ごひいき》の骨董屋たる腰の低いところを充分に表現いたしました。
 主人側の三人の会釈《えしゃく》を見ても、これは尊王憂国の志士の変形として受取っていない。ここまで引見の特権を与えた過分の町人としての待遇に過ぎないところを見ると、それで安心した。不破氏は大伴の黒主ではない。
「骨董屋、手順はどうだ、首尾よく進行しているか」
 岩倉三位からお言葉が下ると、不破氏は、頓首膝行《とんしゅしっこう》の形をもう一つ低くして、
「は、御意にござります、万事お申しつけ通りに、極めて内々《ないない》に取計らい仕りました、今日、現品を御持参と存じましたけれども、慎重の上にも慎重と存じまして、お見本だけ、これへ持参仕りました」
「では、これへ出して見せ給え」
「はい――」
 また後ろを顧みて膝行頓首をして、次の間に置据えた風呂敷を抱えて、また膝行頓首して、これを恭《うやうや》しく岩倉三位の前にさし置き、恐る恐る、結び目を解きにかかりました。
 岩倉も、大久保も、品川も、共にその風呂敷の中を無言で見入っている。
 風呂敷を解くと、中から出たものは、さのみ意外なものではありません。ただ、眼もきらびやかな大和錦《やまとにしき》、それから紅白の緞子《どんす》。一巻ずつそれを御丁寧に取揃《とりそろ》えて、いよいよ恭しく三位の前に推《お》し進めると、三位は座右から、あらかじめ備えられた一つの彩色図を出して、大久保に示し、
「玉松《たままつ》が作ってくれたこれが図面じゃ、よく引合わせ御覧になるがよろしい、寸法、式、模様、色合、誤りがあらば申し附けて訂正させるように」
 そこで、大久保は大和錦を取り上げて、二三尺ずつ引きほごしては、下なる彩色の図面と見比べる。そこへ品川弥二郎が首を突き出して、大久保の調べのあとを追うて仔細に吟味をして見る。
 不破氏は最初の姿勢で、ほとんど膝行頓首の体制のままですから、いま大久保が大和錦と引合わせている彩色の図面が何物だかわかりません。わかろうとすることが重大なる失礼ででもあるかのように、恐れ慎んで面を上げないのでありますが、品川弥二郎は甚《はなは》だ無遠慮で、果ては彩色の絵図面を横手に持って、大久保の繰りひろげた大和錦を片手で引張って、押しつけるようにして較《くら》べて見るものですから、側面から見ると、その彩色の絵図面が何物であるかがよくわかるのであります。
 つまり、それは錦の御旗《みはた》を描いたもので、大和錦はこの御旗の地模様をつくり、ただ、図面と異なるのは、それに金銀の日月が打ってあるのと、ないのとの差であります。
「いや、これでよろしい、寸分相違がない、見事な出来でござります」
と大久保が保証すると、品川も頷《うなず》く。三位も満足の体《てい》。その時に大久保が改めて、
「では商人、この方式によってしかるべく頼むぞ、恐れ多き事ゆえに他言は固く無用、万一、外間に洩《も》るる時は、その方の命はなきものと覚悟せよ。この絵図面もその方を信じて手渡す、これによって、日月章の錦旗|四旒《しりゅう》、菊花章の紅白の旗おのおの十旒を製して薩州屋敷に納めるよう――世間へは、薩州家の重役が国への土産《みやげ》の女帯地を求めるのだと申して置け」
「委細、心得ました、必ずともに御信用に反《そむ》きませぬ、万一、手ぬかりを生じましたその節は、この痩首はなきものと、疾《と》うに覚悟をきめておりまする」
「町人にしては惜しい度胸、昔の天野屋に優るとも劣らず、では、しかと申しつけたぞ」
「有難き仕合せにござりまする」
 ここで、不破の関守氏はまたも頓首膝行の形で、三傑の御前を辞して、次の間に辷《すべ》り出て、三太夫にまで鞠躬如《きっきゅうじょ》としてまかりさがってしまいました。

         五十八

 不破氏が、ここまで食い入って、ここまで信用を掴《つか》み得たという手腕のほどは甚《はなは》だ驚歎すべきことでありますが、ここに於て、東西に二つの錦旗の問題が隠見して来たことは、この小説の作意ではありません。
 すなわち、上野の東叡山輪王寺御所蔵の錦旗を盗まんとする不逞《ふてい》の徒が存在するらしいことと、ここでは岩倉三位合意の下に、玉松操《たままつみさお》に製作せしめた錦旗の図面によって、薩摩と長州の傑物が二人、町人にその製作を命ぜんとしていることであります。これは作意ではなく、史実であり、明白なる記録でありますが、錦旗そのものも、いまだ名分を備えざる間は、ただ一個の織物に過ぎませんから、誰がどう扱おうとも、さして問題にならない分のことです。
 さても、件《くだん》の密談が終って、洛北岩倉村から、またも馬で帰る両士の馬上ながらの会話を聞いていると、次のようなものであります。まず品川弥二郎が言いました、
「岩倉三位には恐れ入ったねえ。実を言うと、わたしは日頃あなたから、岩倉三位はエライエライと言われるものだから、よっぽどの人物と思っていましたがねえ、今日はじめて、あの中庭の柴戸から、ひょっこり姿を現わしたその人を見て、非常な幻滅を感じましたよ、あの通り、背は低いし、色は黒い――背は低く、色は黒くても、人品とか、男ぶりとか立勝《たちまさ》ったものがあればまだしもだが、ひょっこり着流しで、鍬《くわ》を下げて面《かお》を出したところを見て、非常な失望を感じましたよ、こんな風采の揚らない男に、いったいどれだけのエラさが隠れているのか、こんな人物を、エライエライと担ぎ上げ、持ち上げるのは、大久保さんにも似合わないことだ、お公卿《くげ》さんに免じてのお追従《ついしょう》だろう、本来、お公卿さんなぞに、そんなにエライ人物が有りようはずはない、位が高い、伝統が物を言うから、人があんまり持ち上げ過ぎる、というよりは、天下の志士とかなんとか威張ってみても、所詮|地下《じげ》の軽輩の眼には位負けがする、そうでなければ、仕事の都合上、持ち上げて置いて利用する程度のものにしか考えられなかった、岩倉とて何ほどのことがあろうと、あの瞬間に、わしは一種の軽蔑の念をさえ持ちましたがな、あのそれ、庭に手ずから築いた土饅頭《どまんじゅう》を指して、今ここへ人間の生腕を埋めたところだ、誰かいたずら者めが、賀川肇の腕を切って来て、三宝にのせて玄関へ置きばなしにして行ったから、それを今ここへ埋めたところだと、平然として談《かた》っているあの度胸には、実際驚きましたなあ、当時、豪傑といわれる武家の大名のうちにも、あれだけの度胸を持った奴はありますまい、刺客を前にしてあの底の知れない図々しさを持った者は、血の雨をくぐって来た浪士のうちにも、あんまり多くはない、お公卿さんにも、あれだけの度胸があるものかと、僕はまずそれで参ったよ。さて、通されて密談ということになって、三位から討幕の秘計を諄々《じゅんじゅん》と聞かされてみると、今度はその内容に於て、実際恐れ入った、我々の考えている以上の周密と、思っている以上の大胆と、百折不撓《ひゃくせつふとう》の決心を持っておられるには驚いた。日本はじまって以来の政治上の大改革を行う、この精神と、方法と、手段と、順序を、大所から細微に至るまで、ああも大胆に、且つ周到に包蔵しているあの頭は大したもので、そう思って、僕はあの人の頭の形をつくづくと見直すと、どうもその形からして尋常人の頭ではない、あれは大したものですぜ、お公卿さんの冠を取った方がかえって頭が大きくなる、あれだけの頭は今日の日本にありませんなあ。先頃《せんころ》まで三奸《さんかん》の随一に数えられたが、賢の賢たる所以《ゆえん》も備わるが、奸の奸たる毒素も持たざるなし、朝《あした》には公武の合体を策し、夕《ゆうべ》には薩長の志士と交るといえども、表裏反覆の娼婦の態を学ぶものではない、幕府をも、薩長をも呑んでかかっている腹がありますぜ。古来のお公卿さんは、位ばっかり高くて実力がないから、時の日和《ひより》で、あっちへべったり、こっちへべったり、木曾が出頭すれば木曾に、義経が迫れば義経に、頼朝が怒れば頼朝に依存して、而《しこう》して、その間の鞘《さや》を取って小策を弄《ろう》するのが即ち公卿の身上と見てかかると、岩倉三位に於て失敗する、当時、堂上お公卿さんにも出色の人物は多いが、岩倉三位に比べると同日の談ではない、江戸に依存せずとも、薩長を操縦せずとも、立派に大業を成せる人だと僕は思いました。大久保さん、おたがいにしっかりしないと、薩摩も、長州も、岩倉三位に食われてしまいますぜ」
 品川弥二郎は、はじめて会った岩倉三位に就いての印象を、大久保市蔵に向って右のように物語りつつ、やがて京の町に入り、薩州邸へと帰着するかと思うと、上京寺町通り裏、石薬師門外のあたりで二人の姿が消えました。これより先、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵と、宇治山田の米友も、件《くだん》の如き首《くび》っ枷《かせ》の芸当を以て京の町外れまで一散に走りましたが、そこで、米友は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の肩から下り、がんりき[#「がんりき」に傍点]は脚絆《きゃはん》の紐《ひも》を結び直したけれども、二人の口頭には別になんらの人物論も起りません。
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、あんまりばかばかしいから、ドコぞで一杯飲んで行くと言って、米友と立別れ、米友は蹴上《けあげ》、日岡と来た通りの道を辿《たど》って山科へ帰りました。

         五十九

 その夜のこと、昼さえも静かな岩倉谷の夜もいたく更け渡る頃、たった一人の白衣《びゃくえ》の行者が、覆面をして両刀を落し差し、杖を携えて、飄々浪々《ひょうひょうろうろう》としてこの岩倉谷に入り込みました。
 こう書き出してくると、夜前、ああいう光景を描き出した場所柄、またもや一層の妖気魔気が影を追うて来なければならないのですが、事がらはそれに反対で、妖気魔気どころか、気の利《き》いた化け物は、面をそむけて引込むが当然なのです。
 昭和十六年五月十日の東京朝日新聞の映画欄の記者でさえも、こういうことを書いている――
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「が、元来、かういふ虚無的なやうな、感傷的のやうな嫌味ツたらしい浪人は、日本映画の昔から好物とするもので、現代人の心理を詰めこんだつもりで、深刻がつてゐるものの、実は、すこぶる浅薄陳腐といふべし……」
[#ここで字下げ終わり]
といったようなわけで、この浅薄陳腐なる嫌味ったらしい好みが、恥を知らない日本のうつし絵の食い物となっているも久しいものだ。今から三十年前、武州多摩川の上流から颯爽《さっそう》と現われた、これが原生動物と覚しき存在は、こんな無恥低劣な姿ではなかったはず。
 何の因果か、この原生動物と覚しきが、三十年の昔、姿を現わして以来、この形のうつしが一代の流行を極めて、出るわ、出るわ、頭巾をかぶせたり、五分月代《ごぶさかやき》を生やさせたり、黒の紋附を着流させたり、朝日映画子のいわゆる浅薄陳腐な嫌味ったらしい化け物が、これでもか、これでもかと、凄くもない目をむき出し、切れもしない刀を振り廻して見得《みえ》を切った、その嫌味ったらしい浅薄陳腐な化け物が、三十年の今日、箱根以東の大江戸の巷《ちまた》から完全に姿を消してはいない。朝日のきらきらする市上にまで戸惑いをしている。
 こいつらは、人の感情を保護するということを知らない、いわんや向上せしむることをや。模倣が程度のものであることも知らない、剽窃《ひょうせつ》が盗賊の親類であることも知らない。どだい、こういう恥を知らぬ化け物国に、大きな精霊の生れた例《ためし》があるか。
 伝うるところによると、机竜之助なるものは、もはや疾《と》うの昔に死んでいるそうだ。その生命は亡き者の数に入っているのだそうだ。彼の生命を奪ったものとしての最も有力なる嫌疑者は、暴女王のお銀様が第一に数えられる。少なくとも胆吹御殿のあの地下、無間《むけん》の底につづく密室の中で、病後の竜之助なるものを完全に絞殺して、その地下底深く投げ落して秘密に葬ったという説を、まことしやかに言い触らして歩く者もある。
 それにもかかわらず、その以後の活躍に、長浜の浜屋の一間の暗転もあれば、大通寺友の松の下の犬の殺陣もあるし、琵琶の湖上の一夕ぬれ場もある。それら、次から次へ展開さるるは、それはセント・エルモの戯れであって、サブスタンスの存在ではないということを言う者もある。しかし、御当人は、左様な噂を一切見えぬ後目《しりめ》にかけて、山科谷から、島原の色里にまで、影を追うて往年の紅燈緑酒の夢を見て帰ったという消息をもまことしやかに伝える者もある。或いはまた月光霜に氷る夜半、霜よりも寒く、薄《すすき》よりも穂の多い剣の林の中を、名にし負う新撰組、御陵隊が、屍《しかばね》の山、血の河築くその中を、腥《なまぐさ》い風の上を悠々閑々として、白衣の着流しで、ぶらついていたという噂を、見て来たように話す者もある。それが今晩、またも、岩倉谷に現われたといったからとて、誰も本当にする者もない代り、嘘だという者もない。
 前にも言う通り、気の利いたお化けならば、とうに引込むべきはずのところを、かくも性懲《しょうこ》りなくふらつき出すのは、他の好むと好まざるとにかかわらず、白業黒業《びゃくごうこくごう》が三世にわたって糸を引く限り、消さんとしても消ゆるものではあるまい。大久保市蔵が岩倉谷に入ると、事実上、日本の枢軸は震動するのだが、この幽霊がここに姿を現わしたとて、もはや、草間にすだく虫けらも驚かない。

         六十

 夢遊病者としてもまた、虫けらを驚かすことを好まない。さりとて、岩倉三位をたずねて錦旗の製法を検究しようではなし、賀川肇の生腕をそっと掘り返して食おうというのでもなし。
 岩倉三位にも、中御門中納言にも、いっこう用向きのない人、せっかくこの岩倉谷に入って、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百や、米友のあとを受けて、夜興行の一芝居を見せるかと思えば、何の、岩倉村はホンの素通り。
 一見はやめる者のような疲れで、身を杖に持たせてホッと息をきってみたが、未練気もなく思いきって、すっくすっくと歩み出し、八瀬《やせ》大原《おおはら》の奥まで、まっしぐらに、或いはふらりふらりと侵入して行くもののようであります。
 今晩はドチラへ、はい、大原の寂光院《じゃっこういん》に美しい尼さんがいると聞いたから、それを訪ねてみたいのです。そうか、その美しい尼さんがいたらどうする、いなかったらどうする、どうもこうもありはしない、ただ六道輪廻《ろくどうりんね》の道筋をたずねてみたいばっかりだ、と答えれば、まず上出来の方である。
 ともかくも、こうして、あっけなく岩倉村を素通りした机竜之助は、敦賀街道を北に向って進み行くと、行手の山の峡《かい》から、人が一個出て来ました。万籟《ばんらい》静まり返った比叡と鞍馬の山ふところ、いずこからともなく、人が一個出て来た、その物音で、足をとどめてその気配に耳を傾けました。眼を以て見るのではない、耳によって見ると、左の方、瓢箪崩れの方の谷からやって来たものと覚しきが、近づくに従って、その足どりの重いことと、息をせいせいきっている調子を嗅ぐと、何やら重荷を負いつつ、歩み来《きた》るもののようです。しかも、重き荷を負うて遠き道を来りしこの旅客は、年もはなはだ老いたる人のようであります。
 竜之助は、杖にもたれて、それを待伏せしておりますと、現われたのは察しの通り、息せききって、背に余る大きな荷物、これは八升炊きの大釜でした、この大釜を縄でからげて、背中へ背負い込んで、屈《かが》んで歩いて来たところは、釜を負うて来るのではない、釜に押しつぶされながら、その下を這《は》い出して来るような形であります。しかも、案《あん》の定《じょう》、その当人は、老いぼれの痩《や》せこけた、肋《あばら》の骨が一本一本透いて見える、髪の毛の真白なのを振りかぶり、腰巻の真紅《まっか》なのを一腰しめただけで、そのほかは、しなびきった裸体のまま、さながら餓鬼草紙の中から抜け出したそのままの姿で、よろめいて来るのでありました。
「はい、御免下さりませよ」
 ここに人ありと見て、老婆は竜之助の前を通る時に、言葉をかけたものですから、竜之助が、
「この夜更けにドコへお行きなさる」
 これは、こちらから尋ねてしかるべき言葉なのですが、重い荷物に押しつぶされている老婆は、咎《とが》むべき人に咎められても否やは言えない。
「やれやれ、お腹がすきました」
 もう我慢がしきれないもののように、竜之助の前で前のめりに、のめってしまいました。
「お気をつけなさい」
「どうも有難うございます、もうもう、お腹がすいて、トテも歩けませぬ」
 この老婆は、荷物が重いということを言わないで、お腹がすいたことばっかり言っている。八升炊きの釜の重さは、どうつぶしにかけても八貫目はあるでありましょう。この老いぼれの身で、八貫目の釜を背負い歩くということは、事そのことだけで、圧倒的の重みであろうのに、重いことは言わないで、お腹がすいたことだけを言う。そこで前のめりにのめって、老婆は、己《おの》れを圧しつぶした八升炊きの釜の下から這《は》い出したと見ると、その釜を立て直したが、ちょうど、そこに頃合いの大石が二つ三つ並んでいたものですから、その上へ、件《くだん》の大釜を仕掛けて、やがて近いところの樋《とい》の水を引いて、釜の中へ適度に流しかけたかと思うと、今度は、近いところの落葉枯枝をかき集めて、その釜の下へ火を焚きつけました。
「婆さん、お前、これから飯を炊《た》こうというのかい」
「はい、お腹がすいて、どうにもこうにもやりきれませんから、御飯を焚いて腹ごしらえをして、それから、また出かけようと思います」
「そうか、では、ゆっくりおやりなさい、火が焚きついたら、拙者もあたらしてもらいましょう」
「さあさあ、どうぞ」
 竜之助は、この婆さんの側に立って、釜の下に手をかざしながら、つまり、アメリカの大統領と同じような炉辺閑話の形式で、問答をはじめました。

         六十一

「婆さん、お前ドコから来た」
「はい、大原の寂光院から出て参りました」
「なに、大原の寂光院?」
 寂光院と聞けば、美しい尼さんがいるとのことだが、いやはや、見ると聞くとは大きな相違、見るわけにはいかないが、気分でちゃんと受取れる、老いさらばえた上に、お腹がすいているんでは問題にならない、と竜之助が手持無沙汰になっていると、老婆は頓着なしに、
「寂光院の水仕《みずし》をつとめておりましたが、なにしろ、お腹がすきましてねえ、あなた」
 ねえ、あなたもないものだ、お前のお腹がすいたかすかないか、こっちの知ったことではない。この老婆は、最初から最後までお腹がすいたことばっかり言っている。まるでお腹をすかせるためにこの世に生れて来たような婆さんだと竜之助が思いました。それにもかかわらず、老婆は繰返して、
「なにしろお腹がすいてたまらないものでございますから、そんなに食べられては困ると言って、追い出されてしまいました、よんどころなく、こうしてお釜を背負って出て参りましたが、寂光院に限ったことではございません、ドチラへつとめましても、お腹がすくものでございますから」
「食べるぐらい結構だよ、年寄でそのくらいお腹がすくのは、つまり身体《からだ》が健康な証拠だね」
 竜之助も詮方なしに、慰め気分で言うと、老婆は、
「はい、はい、そう思って、あきらめるよりほかはございませんが、なにぶんにも、食べるとは食べるとは直ぐにお腹がすいてしまいますので、ドコにも永く勤めることができません、よんどころなく、こうしてお釜を背負っては、旅に出るのでございます」
「なんにしても、エラく大釜らしいが、いったい何升炊きだい」
「はい、八升炊きでございますよ」
「八升炊き! 驚いたなあ、その釜で飯を焚いて食べて、まだお腹がすくのかい」
「はい、はい、それでも直ぐにお腹がすいてしまいますが、意地にも我慢ができないのでございますよ」
 斯様《かよう》に話をしている間に、釜の中がフツフツと沸騰をはじめて参りました。この時、竜之助がフト考えるよう、
「婆さん、釜が沸いてきたようだが、米はどうなんだい、釜ばかり仕掛けても、中へ入れるお米というものがあるのかい」
「はい、はい、お釜一つでさえ、この通り重いものでござんすから、とても、この中へ入れて炊くお米まで持って歩くわけには参りませぬ」
「冗談を言ってはいけない、食べるためには、釜よりは米がさきだぜ、米が有っても釜がないという時には、何とか遣繰《やりく》りはつくだろうが、釜がこの通りグラグラ沸き出しているのに、米がないでは、食べて行けないじゃないか」
「いえいえ、お米ばかりが食物ではございません、肉というものがございます」
「肉! 贅沢《ぜいたく》だなあ、米のない里はないが、肉はそう簡単には求められまいぜ。だが、婆さん、肉ならばお前、持合せがあるというのかい」
「はい、それはもう不自由は致しませぬ、肥え太った美肉というわけには参りませんが……」
と言ったかと見ると、婆さんはやにわに、腰に巻いた真紅のゆもじを引脱いで、真裸になったと覚えたが、身を躍《おど》らしてグラグラと沸騰する大釜の中へ、われとわが身を投げ込んでしまいました。この早業には、さすがの竜之助も、
「あっ!」
と言って見えない眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》ったが、見えないはずの眼がありありと見える。釜の中では老婆の肉が盛んに煮えつつあるのです。なるほど、これは肥え太った美肉とは言えないが、骨附きの痩肉《やせにく》ではあるが、肉は肉に相違ない。肉の持合せに不自由はないと言ったが、なるほど、これはお手の物だから、携帯洩れのあろうはずはない。これ以外、別段、野菜の附合せ物を入れたりするわけでもなし、砂糖、醤油、味噌、割下《わりした》といったような調味料は、いささかも加入されないが、肉そのものは、骨ごとよく煮上っている。竜之助を、あっ! と言わしめた瞬間、また以前に変らぬ老婆の声があって、
「いかがでございます、よく煮えました、あなた様も、一片《ひときれ》召上れ」
 いったい、ドコで物を言うのかと、見えないはずの眼をみはって、そこらを見廻すと、婆さん、以前と同じような澄ました面《かお》で、釜前に火をくべていて、片手には大串《おおぐし》を持って、それで釜の中の肉を突きさしては頻《しき》りに食べている。
「一片召上ってごらんなさいませ、とても若い肉のように肥え太ってあぶらみはございませんが、噛みしめると、少しは味も出て参ります、一ついかが」
と言って、釜の中へまたも大串を突込んで、一片の肉をつつき出して竜之助の手に持たせつつ、自分はほかの串へさしては食い、食ってはさし、その貪《むさぼ》り食うこと、全く餓鬼そのものの形相であります。老婆から授けられた一本の串を、さすがの竜之助も食い兼ねて、持扱っている間に、飢えたる老婆は早くも一釜の肉を平げてしまいました。
 それと同時に、大釜の下に焚かれた焚火も、ばったりと消えてしまいますと、すっくと立ち上った老婆の腹は、脹満のように膨《ふく》れ上っておりましたが、
「やれやれ、これで当分お腹が持ちましょう、飛んだお邪魔を致しました」
と言いながら、大釜の一端に口をつけると、釜の中に残った汁を、鯨のように吸い込んでしまい、それから以前のように大釜には縄をからげて、われとわが背中へ背負い込み、そのまま、以前の通り、押しつぶされるように前屈みの姿勢で、えっちら、おっちらと歩み出し、岩倉村を経て東山の方へ姿を消してしまいました。

         六十二

 ここは、三千院とは対岸的の存在。三千院の大伽藍《だいがらん》に比べると、極めてみすぼらしい存在ではあるが、その名声を以てすると三千院にもまさる寂光院。
 寂光院の塔頭《たっちゅう》に新たなる庵《いおり》を結んだ、一人の由緒《ゆいしょ》ある尼法師、人は称して、阿波《あわ》の局《つぼね》の後身だとも言うし、島原の太夫の身のなる果てだと言う者もあります。
 この尼法師、年はもはや五十路《いそじ》を越えているが、その容貌はつやつやしい。机に向って写すは経文かと見ると、そうではなく、平家物語の校合《きょうごう》をしているのであります。
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「文治元年|九月《ながつき》の末に、かの寂光院へ入らせおはします。道すがらも四方《よも》の梢《こずゑ》の色々なるを、御覧じ過ごさせ給ふ程に、山陰《やまかげ》なればにや、日もやうやう暮れかかりぬ。野寺の鐘の入相《いりあひ》の声すごく、分くる草葉の露しげみ、いとど御袖濡れまさり、嵐烈しく、木の葉みだりがはし。空|掻《か》きくもり、いつしか打ちしぐれつつ、鹿の音かすかに音づれて、虫のうらみも絶え絶えなり。とにかくに取集めたる御心細さ、譬《たと》へ遣《や》るべき方もなし。浦伝ひ、島伝ひせしかども、さすがかくはなかりしものをと、思召《おぼしめ》すこそ悲しけれ。岩に苔《こけ》むしてさびたるところなれば、住ままほしくぞ思召す。露むすぶ庭の荻原霜枯れて、籬《まがき》の菊の枯れ枯れに、うつろふ色を御覧じても、御身の上とや思しけむ、仏のおん前へ参らせ給ひて、『天子しやうりやう、じやうとうしやうがく、一門亡魂、とんしよう菩提』と祈り申させ給ひけり。
いつの世にも忘れ難きは先帝の御面影、ひしと御身に添ひて、いかならむ世にも忘るべしとも思召さず。さて寂光院の傍らに、方丈なる御庵室を結んで、一間をば仏所に定め、一間をば御寝所にしつらひ、昼夜朝夕の御勤め、長時不断の御念仏、怠ることなくして月日を送らせ給ひけり」
[#ここで字下げ終わり]
 右の文章、平家物語|灌頂《かんじょう》の巻のうちの一節、天子しょうりょう以下の仮名文字に漢字をあてはめんとして、校合の筆を進めておりましたが、ふと、参考の書を求めんと、書棚に立った時から、この若々しい老尼の頭に魔がさしました。
 というのは、参考書として、仏典の字引を求めて来るつもりのを、ついして、机の上に持ち来たしたところを見ると「古今著聞集《ここんちょもんじゅう》」。
 しかも、手に当った丁附《ちょうづけ》のかえしが巻の第八とありましたことから起ったのです。
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「ある人、大原の辺《ほとり》を見ありきけるに心にくき庵ありけり、立入つて見れば、あるじとおぼしき尼ただ独《ひと》りあり、すまひよりはじめて事におきて優にはづかしきけしきたり、しかるべきさきの世のちぎりやありけん、又此人をたぶらかさんとて魔や心に入りかはりけん、いかにもこのあるじを見すぐして立ちかへるべき心地せざりければ……」
[#ここで字下げ終わり]
 これから平家物語が、著聞集に乗換えられてしまったのは、魔の為《な》すことというよりほかはありますまい。かくて心が乱れそめて、
[#ここから1字下げ]
「ちかくよりてあひしらふに、この人思はずげに想ひて、ひきしのぶを、しひて取りとどめてけり、あさましう心うげに思ひたるさま、いとことわりなり、何とすとも只今は人もなし、あたりちかく聞きおどろくべき庵もなければ、いかにすまふとてもむなしからじと思ひて、ねんごろにいひて、つひにほいとげてけり、力及ばで只したがひゐたるけしき、ひとへにわがあやまりなれば、かたはらいたき事かぎりなかりけり、したしくなつて後、いよいよ心地まさりて、すべきかたなかりければ、さてしも、やがてここにとどまるべきものならねば、よくよく拵《こしら》へ置きて男帰りにけり、さてまた二三日ありて尋ね来てみれば、かのすみかもかはらであるじはなし、かくれたるにやとあなぐりもとむれども、つひに見えず、さきにあひたりしところに歌をなんかきつけたりける、
 世をいとふつひのすみかと思ひしに
   なほうき事はおほはらのさと」
[#ここで字下げ終わり]
 それから物ぐるわしくなったこの若々しい老尼は、六道も灌頂も打忘れて著聞集に引かれて行くことが浅ましい。
[#ここから1字下げ]
「山に慶澄註記といふ僧有りけり、件《くだん》の僧の伯母《をば》にて侍《はべ》りける女は、心すきすきしくて好色はなはだしかりけり、年比《としごろ》のをとこにも少しも打ちとけたるかたちをみせず、事におきて、色ふかく情ありければ、心うごかす人多かりけり、病を受けて命をはりける時、念仏すすめければ申すに及ばず、枕なるさほにかけたる物をとらんとするさまにて手をあばきけるが、やがて息たえにけり、法性寺辺に土葬にしてけり、其後、二十余年経て建長五年の比《ころ》、改葬せんとて墓をほりたりけるに、すべて物なし、なほふかくほるに、黄色なる水のあぶらの如くにきらめきたるが涌出《わきいで》けるを、汲みほせどもひざりけり、その油の水を五尺ばかりほりたるになほ物なし、底に棺ならんと覚ゆる物、鋤《すき》にあたりければ、掘出さんとすれども、いかにもかなはざりければ、そのあたりを手を入れてさぐるに、頭の骨わづかに一寸ばかりわれ残つてありける、好色の道、罪ふかきことなれば、後までもかくぞありける、その女の母も同じ時に改葬しけるに、遥かに先だち死にたりける者なれども、この体かはらでつづきながらにありける」
[#ここで字下げ終わり]
 そこへ、また一つの魔がさして来ました。今までのは、偶然がもたらした内からの魔でありましたが、今度は外からさした魔であります。
「あれ、何かさし入りました」
 書巻の眼は鞠《まり》のように飛んで、戸締りの桟《さん》に向ったのは、その戸の外で、縁の近くに忍び寄った、外からの何者かの気配があるからです。
 昨晩、花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだのも、ちょうどこの時刻でありました。

         六十三

 今までは、内からさした魔であるのに、こんどのは、まさしく外からさした魔でなければならない。
「あっ!」
と、総身《そうみ》に水をかけられたように、立ち上った途端に、硯《すずり》の水をひっくり返してしまいました。机の上に書きさしの紙がべっとり、せっかく六道能化《ろくどうのうげ》まで来た校合の上に、硯の海が覆《くつがえ》って、黒漆の崑崙《こんろん》が跳《おど》り出します。
 あわててそれを拭き、それを取りのけ、それをあしらい、しているうちに、また机の前へ坐り直しはしたが、ぞくぞくとして寒気《さむけ》がこうじ、肌がこんなに粟になる。
 おぞけをふるうという心持。誰ぞ外へ人が来たらしい。
 見廻すこの室の内、僅かに八畳の間、周囲の襖《ふすま》は名ある絵師に描かせた花野原。
 絵に見る花野原をかきわけて、いまにも人が出そうでならぬ。
 これではいけない、多年の平家物語の校合《きょうごう》も、せっかくこの六道能化まで来たのに、あとはめちゃめちゃ、ここでブリ返して、こんなに魔がさすようではならない。
 老尼は、われと気を鎮めてみたが、魔障わが精進をさまたぐるか、と言って躍起となる意気もないようであります。というのは、この老尼は修行のために、ここに静処を求めたのではなく、狂言綺語《きょうげんきご》の閑居を楽しまんとする人であったからでしょう。様こそ法体にこしらえてはいるが、これも仏道精進のためというよりは、世間体をのがるるには、この様が最も許されやすいという身勝手から出でたもので、要するに趣味の人であって、修道の人でないからでしょう。五十路《いそじ》を越えて、まだこんなに水々しいところが何よりの証拠で、都にあって祇園精舎《ぎおんしょうじゃ》の鐘の声を聞くよりは、ここに閑居して沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の色の衰えざるを見ていたい。
 そういう未練な仇《あだ》し心が、この場で、内外から魔の乗ずる隙を与えた、いわば自分の造りおけるわなに、自分がかかっておびえるようなものです。
 でも、外からさした魔は、それっきりで、あとは音沙汰《おとさた》がありません。周囲を見廻す。秋草の中に何者かがおりそうな気持は変らないが、そうかといって、外からねらわれる心配さえ解ければ、内からさして来る魔の手は、いくらでも取消しの道はつくというものです。なんにしても、今晩はめちゃめちゃ、いやいや、昨晩もあの時間からめちゃめちゃでした。花尻の森から人魂《ひとだま》が飛んだというあの噂を聞いて、それからいい心持はしなかった、あれを、知らず識《し》らず今晩まで持越したもの、こんな晩には早寝に限ると気がついたが、いま寝についても早寝にはならぬ。とにかく、さんざんの体で、この場の校合はあきらめ、あとの補修は明日のこと――
 そう思って、書斎の次の間は寝間、そこにしつらえてある夜のものに埋もれて、今日の厄落《やくおと》しを終ろうと、すらりと立って、片手には丸形の行燈《あんどん》を携え、秋草の襖へ手をかけると、なんとなく心が戦《おのの》く、その気持を取直して、これもスラリと襖をひらき、誰に憚《はばか》ることもない己《おの》が独自の世界の中に、一足踏み入れると……
「おや」
と言って、その取落そうとした行燈を投げ込むようにつきつけると、侵入すべからざるところに侵入者があって、自分の寝間の中に、しかも、こちらが宵の間にほどよく敷いて置いた夜具の中に、誰かが寝ている。
 枕許には大小が置いて、その上に黒い頭巾が投げ出してある。そこで若い老尼は全く立ちすくみました。もう、あっという言葉も出ません。
 ところが、この奇怪きわまる侵入者は、苦しそうな声を出して、
「御免下さい、あんまり疲れましたから、それに恥かしながら飢えに堪え兼ねて……」
と言いました。
「え、何でございますか」
 無意識に若い老尼が言葉を返しますと、
「お腹がすいたのです」
 こいつ、あの餓鬼草紙の二の舞をやっている。餓鬼草紙から脱け出した老婆は、大釜を背負い込んでいたが、この餓鬼は釜の代りに大小を持っている。
「それは、お困りでございましょうがなあ」
「疲れはしたし、お腹はすいたし」
 どうも、さもしい。お腹がすいた、お腹がすいたと、あまり繰返さないがよろしい。武士は食わねど高楊枝とも言い、腹がへってもひもじうないと言う。それだのに……
 この物騒な侵入者は、物騒なわりに気が弱過ぎる。
 作り声ではない、ほんとうに疲れきってもいるし、飢えきってもいるし、或いは疲労以上の、飢餓以上の、瀕死《ひんし》の境にいるのではないかとさえ見られるのですから、老尼にも一点、憐憫《れんびん》の心が起ってみると、恐怖心の大半が逃げました。その逃げたあとへ、若干の勇気というものが取戻されたものですから、やや本心にも返ったし、本来、こうして、この年で、水気《みずけ》たっぷりな侘住居《わびずまい》をしているくらいですから、心臓の方も、さのみ老いてはいなかったのでしょう。
「それはお気の毒な、まあ、ちょっとお起きあそばせ、おぶ漬を一つ差上げましょう、何ぞ粗末な有合せで」
「そうですか、それはかたじけないです、では、御免を蒙って」
と、寝ていた弱気の侵入者は起き直りましたが、ほんとうにこれはこの世の人ではない、病みほうけ、疲れきって、その様、全く哀れげに見えるものですから、老尼はいよいよ気になりました。
 侵入者は、起き直ったとはいうものの、立って挨拶をしようではありません。蒲団《ふとん》の上に突伏《つっぷ》すように坐り込んだなりで、物を考えているよりは、哀れみを乞うているに似たこの姿がいじらしい。
 侵入者をいじらしがるわけもないものだが、老尼は、もうこっちのものだと思いました。傷ついた虎は吠える犬にもかなわない、という見極めがすっかりつきました。

         六十四

 それからしばらく、侵入者は、さっぱりとした取合せのよいお膳について、箸《はし》を与えられました。その傍らにお給仕役をつとめながらの若い老尼が、あやなすように話しかける。
「あなたは、どちらからおいでになりましたの」
「関の大谷風呂に暫く逗留しておりました」
「お国はドチラですの」
「東国の方ですがね、諸所方々をフラつきましたよ」
「お目がお悪い御様子ですが」
「はい、目がつぶれてしまいましてね、つまり天罰というやつなんですよ」
「どうして、そういう目におあいになりましたの」
「十津川の騒動の時にやられました」
「ああ、あの天誅組《てんちゅうぐみ》の騒動に、あなたもお出になりましたか」
「はい、十津川では天誅組の方へ加わりました、中山卿だの、それから松本奎堂《まつもとけいどう》、藤本鉄石なんていう方へ加わりました」
「まあ、それは頼もしい、天朝方でございますね」
「なあに、頼もしく入ったんじゃありませんよ、頼まれたもんですからツイね、つまり、人生意気に感ずというわけなんでしょう」
「その前は、どちらに」
「その前は壬生《みぶ》におりました」
「まあ、壬生浪《みぶろう》……」
「恐れるには当りませんよ、これもふとした縁でしてね、好んで新撰組に加わったわけじゃありません」
「では、あなたはずいぶん、お手が利《き》いていらっしゃるのね」
「剣術が少し出来るんでね、まあ、それで身を持崩したようなものです」
「よくまあ、でも、その御不自由なお身体《からだ》でねえ」
「こんな不自由な身で生きているというのが不思議なんです、いいや、不思議なんて、そんな洒落《しゃれ》たことではないです、恥さらしなんです、業さらしなんです、まあ普通の良心を持っている奴なら、とっくに、どうかしてるんですがね、こんな奴は、天がなかなか殺さないんです、つまり、なぶり殺しなんですね、あっさりと殺してしまうには、あんまり罪が深い」
「そんなことはありませんよ、自暴《やけ》におなりになってはいけません、あなたなんぞは、お若いに、これからが花ですよ」
「ふーん、これから花が咲くかなあ」
「咲かなくって、あなた、どうするもんですか、わたしなんぞごらんなさい、ことし、幾つだと思召《おぼしめ》す」
「左様、女の年というものは、若く言って叱られる、老《ふ》けて言うと恨まれる、当らんものだなア」
「当ててごらんなさいよ、あなたはお目が見えないから、皺《しわ》がわからないので、それで有難いのよ」
「ふん、当ててみましょうか」
「当ててごらんなさいましよ、御遠慮なく、お世辞でなく、正直な判断を聞かせて頂戴」
「ふーん、鬼頭天王のおばさんと、ほぼ同格かな、あれより少し若いかな」
「鬼頭天王のおばさんというのは、どなた?」
「うん、いや――拙者の伯母《おば》なんだが」
「その伯母さん、お幾つ?」
「そうさなあ、四十……」
「それで、わたしは?」
「それより、若いかなあ」
「有難う」
「何でお礼を言います」
「有難う」
「年を言って、お礼を言われるはずはないのだが」
「言ってみましょうか、わたしの本当の年を」
「おっしゃってみて下さい」
「酉《とり》の五十三――七月生れよ」
「ははあ、五十三」
「いいお婆さんでしょう、四十幾つかに見られて嬉しい、ついでに、わたしの人柄を言ってごらん下さい」
「人柄とは?」
「どんな衣裳をつけて、そうして、何を商売にしていますか、それを当ててみてごらんなさい」
「拙者は卜《うらない》を稽古して置かなかった。だが、お一人暮しですか、こんな淋《さび》しいところに」
「それでお察しなさいよ――わたしは尼さんなのよ」
「ははあ、尼さんですか、寂光院には美しい尼さんがいるという話だが、それが、あなたなのでしたか」
「美しいかどうか、そこは保証ができません、昔は美しかったかも知れません、なにしろ五十三ではねえ」
「尼さんにしては、粋《いき》な尼さんですね、砕けた尼さん」
「今は尼さんですけれど、前身は何だと思召すの」
「また、はじまったな、八卦人相見《はっけにんそうみ》に頼まれて来たようだ」
「では、そういう話はやめて、あなたの一代記を伺いましょう」
「長いからなあ」
「夜が明けてもかまいません」
「後刻、ゆっくりお聞かせ致しましょう、今晩は疲れておりますから、寝《やす》ませて下さい」
「そうそう、わたしとしたことが、自分ばかりいい気になって、では、お寝みなさい」
「いいですか、泊めてもらっても、あなたのお迷惑にはなりませんか」
「なりませんとも。なるくらいならばお泊め申しは致しません」
「あなた御自身はいいとしても、周囲がうるさいようなことはありませんか」
「ありませんとも。ありましたとても、そこが世捨人の強味というものでしょう、周囲などには驚きませんが、内から魔がさすのがいちばん怖いことです。あなたは、魔だと思いましたが、本当は思い違い、かわいそうなさすらい人ですから、それで大切にして上げますのよ。それはそうと、ごゆっくりお寝み下さい」
「では御免蒙りまして。飢えが満たされると睡眠の慾が昂上して来ました、もう、意地も遠慮もありません、休ませていただきます」
「さあ、どうぞ」
 そこで、侵入者は、以前の蒲団《ふとん》の中へ案内されると、忽《たちま》ちに、死せるもののように眠りに落ちてしまいました。

         六十五

 その翌朝、昨夜の侵入者と、この庵《いおり》の主《あるじ》なる若い老尼とは、お取膳で御飯を食べました。
 初茸《はつたけ》の四寸、鮭《さけ》のはらら子、生椎茸《なましいたけ》、茄子《なす》、胡麻味噌などを取りそろえて、老尼がお給仕に立つと、侵入者が言いました、
「何から何までのおもてなし、恐縮千万に存じます、それに、今になって気がつくと、昨晩、あなたはお寝みになりませんようで」
 尼さんが答えて、
「はい、寝みませんでした」
「どうも、重ね重ねお気の毒なことをしたと感じています。実は昨晩、寝ませていただく時に、それと覚らないでもありませんでしたがね、一人が寝めば一人が寝めない清浄な庵室住居を犯して、お気の毒千万とは思いましたけれども、意地にも、我慢にも、眠いものでしたから、御遠慮を申し上げる礼儀のなかったことを、お詫《わ》び申し上げます」
「いやにお固いのね、一晩ぐらいあなた、寝まなくったって何ですか、おかげで昨夜はすっかり、為《な》すべき仕事を為し終えて、気がせいせいしているところです」
「ははあ、為すべき仕事とは何ですか、隠遁生活にも内職があるものですかねえ」
「ありますとも、長い間の書物の校合を、昨晩すっかり済ませてしまいました」
「書物の校合――では、あなたは女学者なのですね」
「女学者はいいわね」
「でも、書物の校合などは、相当の学力がなければ出来ることではないでしょう。いったい、何の書物ですか」
「平家物語」
「平家物語をね――平家物語の校合を、ここで一人でなすっていらっしゃるのですか」
「はい、静かでよろしうござんすからね、それにところがところでしょう、気が乗りましてね、どうかすると自分までが書物の中の人となってしまいます」
「それは風流な御生活ですな、世を捨てたとは言い条、文字を弄《もてあそ》ぶようでは、まだ本物ではありませんね」
「おなぶりになってはいけません。本来、わたしは出家する気でこの姿になったのではございませんから、あなたのおっしゃる文字を弄ぶ方が本職で、お勤めは附けたりのようなものなのです」
「そうですか、いや、それはどちらでも拙者の利害にはなりませんよ。いやどうも、御馳走さまになりました、おかげさまで飢えを満たし、雨露をしのぎ、温かな一夜を恵まれ、これで生き返った心持です、この感謝の心の消えないうちに、お暇《いとま》いたしましょう」
「まあ、お待ち下さいませ、左様にお急ぎにならずともよろしいでしょう。そうして、あなたは、これからドチラへお帰りになりますの」
「左様、関の清水か――山科谷へ」
「そこへお帰りにならねばならぬ義理がおありなのですか」
「義理で帰るというわけではないのです、その辺へ落着くより仕方がないじゃありませんか、いまさら壬生《みぶ》へは行けないし、そうかといって十津川入りもできまいから」
「帰らなければならない義理がおありにならないならば、そうして、ドコにおいでになっても、お宅で皆様が御心配にならない限り、ここにおいでになってはいかがでございますか」
「それはまことに御念の入った御親切です、拙者のような浮浪人に、いつまでもここにおれとおっしゃるのですか」
「あなたの方でおさしつかえのない限り」
「夢ではないでしょうかなあ、こんな静かなところに、しばしなりとも、このうらぶれの身を休ませていただき得れば、夢にもまさる幸福なんですが、それで、あなたは後悔をなさるようなことはございませんか」
「懺悔《ざんげ》をしきった者には、後悔はないはずでございます、どうかお心置なく」
「はてな」
「何を考えていらっしゃいます、あなたは、夜具が一組しかないところへ居候《いそうろう》に来ては気の毒だと、そんなことを考えていらっしゃるのでしょう、それは御心配御無用よ――ちゃあんと融通の道はありますから」
「でも、危ないですよ」
「何があぶないものですか、あなたこそ、目も見えないくせに、足元があぶないとは、こっちから言って上げたいことなのです」
「では、お言葉に甘えましょうかな」
「そうして下さい、あなたに不自由をおさせ申しは致しません、その代り、わたしの仕事もお手つだいをして下さい」
「拙者の身で叶《かな》うことならば何なりとも」
「まあ、雨が降り出してきましたよ、これこそ本当にやらずの雨、今日は一日、あなたのお身の上話を承りましょう、お望みならば、わたしの前身……鬼でも蛇でもございませんが、お話し申し上げれば西鶴の種本になるかも知れません」
「しからば――」
 侵入者は、ついに客人としてもて扱われることになりました。無制限の逗留と、無条件の寄食を許されて……

         六十六

 神尾主膳は、このたびの新しい使命の下に、いよいよ京都へ行くことにきめて、その暫時の名残《なご》りのような意味で、江戸の市中を一通り見て置こうと思いました。
 そもそも、主膳がこのたびの使命というのは、前にしるしたように、全く無任所として、京都の鷹ヶ峰に住っておればいいということだけです。そうして遊びたいだけ遊んで、その見たところと、聞いたところと、感じたままを、江戸のある方面へ知らせればいいというだけの役目であります。つまり情報部とか、隠目附《かくしめつけ》とかいうような意味、悪く言えば一種の高等スパイのようなものらしいが、当人はそうは思いません。
 まあ、昔の石川丈山という男の役どころをつとめると思えばいい。それに主膳はいささか気をよくしているのですが、この丈山は詩は作れない、歌は詠《よ》めないけれど、風流の道は心得ている、この風流というのが、御承知の通りの悪風流である分のことです。この男の使命を、なぜ石川丈山にたとえたかということは、当人にもまだよくはわからず、これに嘱する人もくわしくは説明しませんでした。スパイである、諜者である、という名よりは、詩仙堂の隠者になぞらえる方が聞きよくもあるし、当人の気持もいいというものです。
 そういう意味で、しばらくはまた江戸の地を離れなければならない。長州征伐に行く軍人と違って、これは必ずしも生還を期せずという出征ではないから、これが江戸の見納めという意味にはならないが、それでも風向きの都合上、しばらくは帰れないと思わなければならない。よって神尾は、江戸の市中を一通り見学して置きたいという気になったものでしょう。
 江戸に生れて、江戸を見ない人はいくらもあるものです。江戸も、本場を知って場末を知らない人もあれば、場末にいて盛り場を知らない人も、いくらもあるものであります。
 神尾主膳も、祖先以来の江戸っ子でありながら、江戸というものの地理の多分を知りません。あるところは知り過ぎているが、知らないところは、他国の人の知らないよりも知らない、そういう意味に於て、江戸の市中の再吟味ということが大切だと思いました。たとえば今日、洋行する人が、あわてて日本の内地の名所見物をして置いて出かけるというのと、同じような筋合いになるでありましょう。
 このたびの就職から、新しく雇い入れた渡り者の年寄の仲間《ちゅうげん》を一人従えて、市中見物の門出に、根岸から、広小路の方へ出て見ると、食傷新道《しょくしょうしんみち》に夥《おびただ》しい人の行列がありました。無数の人が長蛇の列をなして、町並の軒下に立って、三丁も五丁もつながっている。
「何だい、あれは」
「どんどん焼を買いに出たのでございます」
「どんどん焼?」
 神尾が立ちどまって注視しました。どんどん焼を買うべく、この早朝から、この人出。タカがどんどん焼ではないか、神尾には何の意味だかわからない。それを渡り者の老仲間に心得があると覚えて、語り聞かせることには、
「近ごろは、ああして、どんどん焼が御大相に売れるんでございます、朝早く行きませんと売切れになっちまうんでございまして、それであの通り行列がつづきます」
「ここのどんどん焼はそれほど名物なのか、特別に旨《うま》いのか」
「いいえ、べつだん旨いというわけでもございませんし、近頃の新店《しんみせ》で、べつだん名物というわけでもございませんが、変な風説が起りまして、近ごろは、ああやって飲食の前へ人立ちをするのが流行《はや》り出しました」
「変な風説というのは、いったい何だ」
「なあに、つかまえどころがあるわけではございませんが、つまり、関東と、関西と、近いうちに大合戦がはじまる、いつ、薩摩や長州が、江戸へ攻め込んで来ないものでもない、そう致しますと、食糧がひっぱくになる、軍の方の兵糧には困りませんが、一般市民が食うに困る、米も出廻らなくなるし、麦も来なくなる、そういうわけで、どんどん焼が急に売れ出すようになりました」
「ふーむ」
と神尾主膳は、まだその行列をながめて突立っている。
 神尾が動かないから、渡り者の老仲間も動くわけにはゆかない。テレきってお傍についていたが、やがて、
「一つ買って参りましょうか」
「馬鹿!」
と、眼の玉の飛び出すほど、渡り者の老仲間が叱り飛ばされました。
 渡り者の老仲間は、せっかく親切ごころで言ったのに、頭ごなしにやられたので、何がお気に召さなかったのか、それがわかりません。見れば神尾は三ツ眼で、行列を睨《にら》んだまま、怒気と、軽蔑を満面に漲《みなぎ》らせている。
 馬鹿! 時勢が険悪だと言ったところで、天から矢玉が一つ降って来たわけではないぞ、地から薩長が湧いて来たわけではないぞ、それに今から食糧の心配をして、どんどん焼を食いたさに、こうして早朝に時間をつぶし、仕事をつぶして、行列を作るとは何たる醜態だ! これが江戸っ子の仕業か! 武士は食わねど高楊枝も古いものだが、およそ江戸っ子の全部が武士でないまでも、江戸っ子は江戸っ子としての恥を知らなければなるまい。こいつら、江戸っ子の皮をかぶった江戸っ子ではあるまい、他所《よそ》から流れ込んだ江戸っ子の居候共だろう。山猿や、百姓共が、ガツガツしてこのザマなんだ、少なくとも、二代、三代、江戸の水を飲んだ奴に、こんな恥を知らぬ奴はないはずだ。面《つら》を見てくれよう、面を見ればわかる、江戸っ子の面よごしめ!
 神尾主膳は、こう思うと、ズカズカ近寄って、その行列の面《つら》を二つ三つ、つかまえて調べてみましたが、
「御安直な面ぁしてやがる、大方、四国猿か、篠熊《ささぐま》の親類筋だろう」
 こう言って、悪態をつき、唾を吐いて歩き出したものですから、渡り者の老仲間《ろうちゅうげん》も、これに続きました。
 歩きながらも、怒気忿々《どきふんぷん》たる神尾は、繰返して胸の中で、
「江戸っ子も下落したもんだなあ、だが、この恥知らずは、江戸っ子ばかりの罪じゃねえぞ、政治が悪いんだ、まだ、天から矢玉が降って来たわけじゃアなし、西国の又者が攻め込んで来たわけでもなし、天保の飢饉がブリ返して来たというわけでもないのに、もう食物でガツガツしてこのザマだ、一つには江戸っ子の下落、一つには政治向の堕落、江戸の台閣には人間がいねえのかなあ」

         六十七

 こういう余憤に駆《か》られながら、神尾主膳主従は、昌平橋高札場のところまで来て見ると、橋のたもとから引廻し蕎麦《そば》に至るまで、また、人だかり、人騒ぎが穏かでありません。
 今度は、広小路の時のように一列は作らないが、無数の人がかたまって、押し合い、へし合い、後なるは前なるを引戻し、横から来るのは突きのけ押し倒し、襟髪を引っぱるもの、足もとをさらおうとする者、前なるは必死で、しがみついて放すまいとする、その事の体《てい》が平常ではありませんから、神尾が立ちどまって、篤と見定めると、彼等が押し合い、へし合いしている中央に、一台の馬車があるのであります。
 その一台の馬車を中心にして、これらの群集が、押し合い、へし合い、なぐり合いをしているのだということがわかりました。つまり我勝ちにあの馬車に乗ろうとして、押し合い、へし合い、もみ立てているのだということがわかりました。
 馬車といっても、バスといっても、その頃はまだ珍しいものでありました。その当時に於ては、まだ、バスというものも、馬車というものもなかったから、神尾主膳には、バスも馬車もわからない。なんでみんなが、あれを取りまいてこんなに騒いでいるのか、それがわからない。ことに、さいぜん食傷新道で見た行列は、おさんどんや、山猿連のようだが、これは見ていると、しかるべき身上の奴が多い。町人では大尽株《だいじんかぶ》、一党の頭株といったような連中までが、あの通り、血眼《ちまなこ》になって取っつき引っついている、見られた図ではない。
 それをまた、世間知りの渡り仲間が説明してくれました。
 つまり、このごろ「馬車」というものを流行《はや》らせた奴がある、やっぱり毛唐かぶれで、あっちから見て来たやつの猿真似なんでがんしょうが、ごらんの通り、大八車の上へ四本柱を押立て、ズックで屋根を仕かけ、中へ桟敷を立て込んで、早く言ってみればそれ、船に屋形船というのがありまさあ、あの伝を馬で行っただけのもので、屋形車といったもんでがんしょう、それを馬で引かせてトット、トットと走らせ、一人前おいくら、先様《せんさま》お代りという仕組みで席料を取る、それが面白いと言って、流行物《はやりもの》になり、われ乗り遅れじと、あの通りの大繁昌。
 ちぇッ! これは食い物とは違うが、先を争ってガツガツの醜態は甲乙なし!
 かく正面から、乗り遅れまじの血眼の大手のほかに、ひそかに裏へ廻って、御者に袖の下をつかって、早くも席に納まり返っている奴がある、あいつらの得意げな面《つら》を見ろ、ふんぞり返って幅を取って、親類の奴や、おべっかの奴を引立てて、納まり込んでいるあいつらの面を見ろ、どんどん焼の場合と違って、こいつらが、みな相当身分のありげな奴だけに一層あさましい、こいつら、やっぱり場違いの江戸っ子だろう、いかに下落したからといって、本場の江戸っ子に、あんな奴がありっこはない。
 時勢は、どうか知らないが、お膝元のこの醜態はどうだ。
 神尾主膳の面は、赤怒から白怒に変って行くもののようであります。

         六十八

 昌平橋を渡って姫稲荷《ひめいなり》のところへ来ると、そこにまた人だかりがあります。見ると願人坊主《がんにんぼうず》がチョボクレをうたっている。
 本来、願人坊主はチョボクレを語るべきものではない。これは東叡山の配下で、寒い朝でも赤裸で、とうとうと言って人の門《かど》に立って銭貰《ぜにもら》いをするのだが、無芸と無頼とを以て聞えている。どうかすると謎々《なぞなぞ》のようなものを持って来るのもある。一文人形を並べて、これはこれでも王子の稲荷の大明神、色は白くも黒助稲荷なぞと出鱈目《でたらめ》を言って、一文人形を二三十も並べて、いちいち名前をくっつけて銭貰いをすることなんぞは、芸ある方のうちだが、この願人坊主は、能弁にチョボクレを唱えているところを見ると、願人坊主としては知能のある方だと思って、暫く耳を傾けていたが、その文句に何ぞ思い当ることがあると覚しく、一くさり終ると、渡り仲間を使にやって、そのチョボクレの願人坊主を附近の縄のれんに招き寄せました。
 神尾主膳は、件《くだん》の願人坊主を縄のれんへ連れ込んで、これに一杯飲ませ、
「さて、只今、その方が姫稲荷で唄ったチョボクレを、もう一遍ここで唄ってくれ、いくら長くてもかまわん、初端《しょっぱな》から終りまで唄って聞かせてくれ」
「お耳ざわりで恐れ入りました、どうか悪《あ》しからず御勘弁なすっていただきてえもんでござんす」
「勘弁はあるまい、その方も商売で唄っているのだろう、それが商売で、つまり食うと食わぬの境だから、それで唄っているのだろう」
「御意《ぎょい》の通りにございます、しがねえ商売でございますが、これも意気地なしの身過ぎ世過ぎ、致し方ぁございません」
「お前を叱っているのじゃないぞ、後学のために一つ聞いて置きたいのだ、さいぜんの立聞きで、よっぽど面白いと思ったが、忙がしくて追いかけきれない、ここで改めてゆっくり一つ聞かせてもらいたいのだ」
「唄えとおっしゃられると、これが商売でござんすから、唄わねえとは申し上げませんが、なにぶん作が作でございますから」
「誰の作だ」
「ええ、その作者てえのがわからねえんでげすよ、奥坊主のうちに作者があるんだそうでげすが、その奥坊主の中の誰の作でござんすか、わっしどもにゃ、ちっともわからねえんでげす、ただ、当時、こういうのが流行《はや》っているから唄え、受けるぜ、儲《もう》かるぜ、と仲間が伝えてくれるもんでげすから、その口真似をやっているだけのもんでげす、文句がよく出来ておりましたからって賞《ほ》めていただかなくてようがすが、もしまた誤って穏かならねえところがございましても、わしの罪ではございません」
「それはわかっている、なにも貴様の口占《くちうら》を引いて、罪に落そうなんぞというのじゃない、ただ、そういう唄を聞いていると、最も正直な時代の声が聞えるというわけだ、おべっかや、おてんたらと違って、言わんとするところを忌憚《きたん》なく正直に言っているから、それで時代の風向きもわかるし、政治向の参考にもなるというものだ、ただ、一つの学問として聞いて置きたいのだから、正直に唄え」
「左様な思召《おぼしめ》しでござんすなら、一番、腮《あご》に撚《より》をかけてお聞きに入れやしょうかな」
 願人坊主はようやく酔いも廻って、いい気になり、ことにこの殿様は、話がわかってらっしゃる、気前もよろしくてらっしゃる、お聞咎《ききとが》めでお調べの筋と来るんじゃなし、学問のために聞いて置きてえとおっしゃるんだから、ここは一番、願人坊主の腮の見せどころ、いや咽喉の聞かせどころと舌なめずり、咳払いよろしくあって、樽床几《たるしょうぎ》を宙に浮かせて――

 お聞きに入れます「当世よくばり武士」チョボクレ始まりさよ……
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そもそもこのたび
京都の騒動
聞いてもくんねえ
長州征伐|咽喉元《のどもと》過ぎれば
熱さを忘れたたわけの青公家《あおくげ》
歌舞伎芝居のとったりめかして
攘夷攘夷とお先まっくら
おのが身を焼く火攻めの辛苦も
とんぼの鉢巻、向うが見えない
山気《やまき》でやらかす王政復古も
天下の諸侯に綸旨《りんじ》のなンのと
勿体ないぞえ
神にひとしき尊いお方の
勅書を名にして
言いたい三昧《ざんまい》
我が田へ水引く阿曲《あきょく》の小人
トドの詰りは首がないぞえ
それに諂《へつら》う末社の奴原《やつばら》
得手《えて》に帆揚げる四藩の奸物《かんぶつ》
隅の方からソロソロ這《は》い出し
濡手で粟取るあわてた根性
眉に八の字、青筋|出《いだ》して
向う鉢巻、すりこ木かかえて
威張ったとッても
天下の諸侯はなかなか服さぬ
足元あかるいうちこそ幸い
お国土産の芋でもくらって
屁《へ》でもこき出しひッたらよかろう
おらが親分お気が好過ぎる
自分の政事を一から十まで
取り上げられても黙っているのか
おめえはそれでもいいかは知らぬが
冥途《めいど》にいなさる神祖に対して
なンと言いわけしなさるつもりだ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

二百余年の社稷《しゃしょく》の大業
人手に渡して済むか済まぬか
わからぬながらも積ってみなさい
一朝一夕、骨も折らずに
取ッたか見たかの天下じゃないぞえ
七ツの歳から駿河《するが》の人質
数年の辛苦も臣下の忠義に
ようようお家にお帰りなさると
門徒の争乱
大高城内、兵糧運びの
三方《みかた》ヶ原《はら》には一騎の脱走
武田北条、左右に引受け
孤立の接戦、数ヶ度の敗軍
つくづく思えば涙がこぼれる
小牧山なり、関ヶ原なり
大阪御陣も、眉に火のつく火急の接戦
夏は炎天
兜《かぶと》の上から照りつけられても
水も呑めない
冬は寒気が肌《はだえ》を通して
霜をいただき兜の緒を締め
昼夜を分たぬ艱難辛苦と
共に積ッた七十有余の歳になっても
肉さえ食《くら》わず
麁食《そしい》に水呑み
昔を忘れず
肱《ひじ》を枕に山野に起き臥《ふ》し
それに従う臣下も同様
こんな憂目をなされた天下を
いかに気楽なお人だとッても
熨斗《のし》をはりつけ進上申すと
渡す間抜けが唐《から》にもあろうか
これも奸賊四藩の為すこと
腕を捲《まく》ッてやっきと気を張り
ピシピシやらかせ、しっかりしなせえ
馬に鞍置き、鞭を加えて
ノンノン出かけろ
譜代恩顧の諸侯もあるぞえ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

安芸《あき》のおじさん、どうしたものだよ
お前は当家のお聟《むこ》じゃないかえ
いわば一門同様なお方が
長州なんどのお先に使われ
狐になるとは呆《あき》れたものだよ
四十二万のお高はどうした
妾《めかけ》にばっかり入れあげたのか
譜代恩顧の郎党励まし
一手に引受け長州討ったら
少しは先祖へ言いわけ立つベイ
加賀さん、どうした
お前もやっぱりお聟じゃないかえ
今は息子のお代といえども
しッかりしなさい
百万以上の大きなお高を掌握しながら
豆でも食《くら》った鳩ではあるまい
隅にばっかりかがんでおっては
根ッから詰らぬ
大名の頭《かしら》か、芋の頭か
なんだかかんだか少しもわからぬ
今度は天下の安危に関《かか》わる
肝心かなめの大事のところだ
腕を捲ってふんぱつしなさい
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

仙台、南部や津軽の爺さん
ムクムクしないで何とか言いねえ
たとえお国は山の中でも
これまで度々《たびたび》お江戸へ参覲《さんきん》
少しは世間が知れたであるベイ
天下の大事は御家の大事だ
それとも西国奸徒の野郎に
頭を叩かれあやまる所存か
グニャグニャ、グニャつく蒟蒻野郎《こんにゃくやろう》だ
ことに仙台
お前のお家の先祖は高名
二百余年の静かに治まる
天下泰平の先祖は政宗
天下の諸侯を一手に引受け
いくさを致すといわれた度胸に
皆々屈服したではないかえ
それに何ぞや今の始末は
あんまり手ぬるい
万石以上の四十八館《しじゅうはったて》
槍先|揃《そろ》えて中国征伐
一手に引受けふんぱつしなさい
金はなくとも米はたくさん
蒸汽でどんどん積出すものなら
国は忽《たちま》ち天下有福
これからふんぱつ、一旗揚げれば
天下に敵する諸侯はあるまい
徳川中古の回復諸侯と
あっぱれ言われろ
しッかりしなさい
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

次には会津の蝋燭親方《ろうそくおやかた》
お前はほんとに忠義なお人だ
四五年このかたふんぱつ勉強
二十余万の僅かなお高で
かくまでするのは感心感心
今に奸徒が鎮静したらば
百万石には請合いなるぞえ
なおなおこの上しッかりやらかせ
因備《いんび》の腰抜け、呆《あき》れたものだよ
お前は眼前、今の君にはまことの兄弟
それに何ぞや、奸徒に一味と世間の風聞
不忠不義のお人であるぞえ
家来不足で処置ができぬか
僅か一国、二国に過ぎない
国の政事が行き届かぬとは
生きて甲斐《かい》なき間抜けの親玉
いッそ、死んだが何よりましだよ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

阿波の野呂麻《のろま》も、やっぱりそうだよ
土佐の奸徒にブルブルふるえて
ヘイヘイあやまり
奴同様《やっこどうよ》にさるるはなにごと
お前のお家は立派な生え抜き
尻をはしょって、やっきとやらかせ
福井の坊ちゃん、何していなさる
ことに一旦、政事を執ったる
肩書御所持の御身じゃないかえ
今の騒動はお前がベラボウ
諸侯の奥方、国もと住居《すまい》と
やらせたことから起ったことだよ
お前は元来立派な御家門
何はさて置き出でずばなるまい
向う鉢巻、七ツ道具をしっかり背負って
腕も砕ける奮撃突戦
矢玉を冒《おか》して進まにゃなるまい
それができぬは、やっぱり腰抜け
グズグズなさると首が飛びます
天下の人民、挙《こぞ》ってにくむぞ
肥前の御隠居、昼寝をなさるか
天下は累卵《るいらん》、危うくなったよ
出かけて騒動鎮めて下さい
今まで尽した忠義の廉々《かどかど》
ここでたゆむと水の泡だよ
会津に劣らぬ文武のお人だ
なにぶんお頼み申すとあるぞえ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

肥後の親玉、これも同様
惜しいことだが砲術開けぬ
しかし日和《ひより》を見ていちゃいけない
今度の争議を治めて下さい
黒田の親方、グズグズしないで
早く出ないか、五十二万の高禄|貪《むさぼ》り
何していなさる
まごまごなさると
腰抜け仲間と人が言います
長崎警固も厳しくしなさい
薩摩に渡すと笑われ草だよ
雲州と姫路は何しておいでだ
お二人さんとも立派な御家門
中国山陰、押えの大名
しっかりしないと切腹ものだよ
中国西海平定したらば
何とか御処置をせねばなるまい
まことに気の毒、笑止の限りだ
松山ふんぱつ、感心感心
早くに加勢にやるのがよかろう
福山どうした、銘酒を飲み過ぎ
酔ってはならない
砲術開いて先手を勤めろ
井伊や高田は先にも懲《こ》りずに
少しは鉄砲開くもよかろう
戦地に臨んで青菜に塩では困ったものだよ
先祖の武功も水の泡だよ
錆《さ》びた刀や、へら弓ばかりじゃ叶わぬ世の中
主家の大変、何と思うぞ
ばかげた野郎だ
こいつも、やっぱり死んだがよかろう
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

藤堂《とうど》の爺《おっ》さん、早く出ないか
慶長頃まで五万の小禄
当家に仕えて三十余万の
国主といえども御譜代同様
国の異名《いみょう》にひとしき親方
貰うばかりが能でもあるまい
関西諸侯の旗の頭《かしら》が
聞いて呆《あき》れて物が言えねえ
讃岐《さぬき》の高松、大和の甲斐さん
枝も鳴らさぬ泰平の浮世に
十万余石の高禄貪り
家来に文武の世話もなさずに
飲み食いばかりに世の中送るは
虫けら同然
高を差出す仲間の頭だ
そんな心じゃ腹も切れまい
縄をたよりに首でも縊《くく》って
死んだがよかろう
上杉親方、お前は感心
譜代恩顧の人とは違って
大きなお高を取られたお前が
先年以来の忠義はなかなか
諸人の及ばぬところでござるぞ
佐竹の親方、お前もやっぱり
高を取られた仲間の者だが
今度の大変、非常の場合だ
恨みをさし置き勤めて下さい
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

尾張の太郎さん
大きなベラボウ
神祖以来の三家の頭と
言われるおん身が
先年以来の御処置はなにごと
宮のおやまの瘡毒《そうどく》身に染《し》み
癩病病《らいびょうや》みとはなんともかんとも
たとえ様なき家来の奴ばら
塒《ねぐら》に離れた烏じゃあるまい
うろうろまごつき
カアカア言っても仕方がないぞえ
寝惚《ねぼ》けなさんすな
お附の御家老
紀伊さんなんぞは感服者だよ
一同|挙《こぞ》って兵隊こさえて
天下に忠義を尽していなさる
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

水戸の甚六《じんろく》、困ったものだよ
副将軍と言われるお人が
一国さて置き
半国ばかりの政事ができぬか
家来は不服で四方に分散
お前もまことに摺古木野郎《すりこぎやろう》だ
高を差出し
十万余りの賄《まかな》い貰って
引込み思案が相当だんベエ
  チャカポコ チャカポコ
    チャカポコ チャカポコ

それはさて置きゾロゾロいなさる
閣老参政その他の役人
分別ついたか
因循姑息《いんじゅんこそく》も時によります
歌舞伎芝居の上使の壱岐さん
田舎《いなか》ざむらい、役には立たねえ
ちんぷんかんぷん、お臍《へそ》で茶が沸く
先年、長州先手の総督
九州大名指揮するなんぞと
出かけたところはべら棒によけれど
知恵がなくって了簡《りょうけん》なくって
お尻が早くて長崎なんぞへ
かけおちなどとはまことに呆れる
江南小児の遼来遼来《れろれろ》どころか
それとはかわッてあかん弁慶
屁《へ》でも景清、外道《げどう》の大将
天下の人民、挙って笑うぞ
唐《から》の真卿《しんけい》、杲卿《こうげ》が忠勇
画像を拝した張巡《ちょうじゅん》見なせえ
皆これ天下の英傑だんベエ
これこそ天下の将帥《しょうすい》と言われる
それに何ぞや賊の旗の手
見るか見えぬにブルブルふるえて
兵士を振り捨て一人で欠落《かけおち》
馬鹿と言おうか臆病と言おうか
文盲滅法《めくらめっぽう》、河童《かっぱ》の屁のよな
腐った根性、譬《たと》え様なき
摺古木野郎だ、首でも縊《くく》って
死んだがよかろう
  スチャラカ チャカポコ
    スチャラカ チャカポコ

困る佐賀さん、呆《あき》れた縫《ぬい》ちゃん
下から経上《へのぼ》る平山図書さん
浅野の御隠居川勝先生
これらもやっぱり学者の生酔い
漢語交りの言葉を用いて
書附なンぞはよしてもくんねえ
机に向うて詩文の研究
山ほど書いても役には立たない
あっぱれ立派な物識《ものし》りめかして
事務策なンぞも無暗にやらかし
一《ひと》ッ廉《かど》天下の議論を述べても
社稷《しゃしょく》を助ける知恵がなければ
腐れ儒者だと孔明が言わずや
春秋左伝に通鑑綱目《つがんこうもく》
史記や漢書や元明史略《げんみんしりゃく》を
百たび見たとて千たび見たとて
生れついての馬鹿は直らぬ
鉄砲かついでピイピイドンドン
やったがましだろ
武侯の中流|呉起《ごき》が立策
七十余城を一時に落した楽毅《がっき》が行い
よくよく目をつけ考えみなせえ
野呂間《のろま》じゃ天下の助けはできない
ナポレオンでもワシントンでも
天下を治める技倆は格別
なかなか及ばぬ、勉強しなせえ
  スチャラカ チャカポコ
    チャカポコ スチャラカ

稲葉の兵六《ひょうろく》どうしたもンだよ
腰抜け仲間のよぼよぼ親爺《おやじい》
海軍総督、聞いて呆れる
敗軍相当な臆病だましい
船に乗ったら嘔吐《へど》でもするより
ほかにはなンにも働き出来まい
まだある、淀さん、川越親方
グズグズしてるとお江戸が危ねえ
四五年かかって、ようよう仕上げた
歩兵はお暇《いとま》
倹約なンぞとお為ごかしに
旗本苦しめ金納なんぞと
でかした揚句に半高《はんだか》取上げ
融通にしたるは何のためだエ
今が今まで兵士も出来ねえ
金が有っても兵士がなければ
軍《いくさ》は偖置《さてお》きなンにもできまい
かくの如くの斗※[#「霄」の「雨かんむり」に代えて「竹かんむり」、第3水準1-89-66]《としょう》の小人
集まり挙《こぞ》って政治を執る奴
内憂外患一時に起ッて
今にも知れねえ天下の累卵
これから俄《にわ》かにガヤガヤ騒いで
太鼓が廻って触《ふれ》が廻って
兵士がはいって小隊前へと
号令かけても何が何やら
わからぬ歩兵を催し散らして
出かける騒動、馬鹿と言おうか
たわけと言おうか、耳はあっても木耳《きくらげ》同様
まなこはあッても節穴《ふしあな》同然
木偶《でく》の坊《ぼう》とはこれらのことだよ
いまに見なせえ
中国西国激浪|漲《みなぎ》る天下の騒動
お江戸は灰燼《かいじん》、その時どうする
ガラガラ崩れて地べたへ転げて
鼻血と涎《よだれ》を流したとッても
六日の菖蒲《あやめ》に十日の菊酒《きくざけ》
あとの祭りでおさまり附かない
  チャカポコ チャカポコ
  スチャラカ チャカポコ
  スチャスチャ チャカチャカ
  スチャチャカ ポコポコ

譜代恩顧の小禄大名
やっぱり間抜けで仕方もなけれど
これらは天下の米喰虫にて
論に足らない度外の奴原
何はともあれ肝腎《かんじん》かなめの
天下の権老、こんなことではまことに困った
神祖以来の尊き大業
賊徒の馬蹄にかけるは歎息
数も知らない旗本御家人
多くの中には一人や半分
忠義なお人が有りそなものだよ
三千以上のお高を貪《むさぼ》り
惰弱な奴原、役には立たない
かかる危急の場合にのぞんで
やっぱり寝惚《ねぼ》けて
半高なんぞと
己《おの》れに水引き小言を言いおる
主家が亡びて己れが俸禄
万々年まで保つの所存か
お先真暗、足許見えぬも程があります
間抜けで腑抜けで奥詰銃隊
藁人形《わらにんぎょう》にも劣った人物
遊撃隊にも困ったものだよ
槍術剣術、役には立たない
これこれ旗本、しっかりしなせえ
今の時節はなんと思うぞ
一同|挙《こぞ》って京都へ詰め寄せ
愁訴と出かける覚悟はないかえ
さりとは困った腰抜け揃《ぞろ》いだ
鳶《とび》の人足、土方といえども
頭《かしら》がやられりゃ皆々出かける
中間《ちゅうげん》小者《こもの》に劣った了簡《りょうけん》
引っこみ思案は泰平な時だよ
これほど励まし、わけがわからにゃ
虫ともなんとも言い様がござらぬ
残らず揃って両国橋から
身でも投げるか
豆腐で天窓《あたま》を叩き壊して
いッそ死んだが何よりましだろ
  スチャラカ チャカポコ
    スチャラカ チャカポコ

大関兄さん、お前が頼みだ
ピンピンやらかせ
あとの奴等は頼むに足らない
玄蕃《げんば》の水汲み読書が足らない
漢字ばかりじゃ叶《かな》わぬ世の中
翻訳本でも見たらばよかろう
平岡丹州、石川、京極、立花
なンぞは蛆虫《うじむし》同様
外夷に笑われ京都はしくじる
金がなくなる、世の中乱れる
お口はすくなる
ここらで一ト口、湯でも呑むベイ
  スチャラカ チャカポコ
  チャカポコ スチャラカ
  スチャスチャ チャカチャカ
  チャカポコ チャカポコ
    スチャラカ チャカポコ
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 チョボクレとなり、チョンガレとなり、阿房陀羅経《あほだらきょう》となって、あいの手には木魚をあしらい、願人坊主即ち浮かれ坊主となって、この長物を唄い済ました方も済ましたものだが、聞く方もよく聞いたものだ。聞き終ってから主膳は妙に気が滅入《めい》りました。
 それは、チョボクレとして文句が練れない、言葉が野卑に過ぐる、そのくせ、学者ぶったところが鼻につくものがある、天下の諸侯に八ツ当り、罵詈讒謗《ばりざんぼう》を極めたそれを不快に思うのではありません。痛快に罵倒を試みたことに、無限の哀愁がある。それはこのざれ歌を作った奴が、罵《ののし》らんがために罵ったのではない、火のつくような徳川の天下の危急を見て、救いの手を絶叫している、その声だとしか聞かれなかったからであります。そうして、かような罵倒の声に事寄せて、祖先の恩顧人心の義侠に訴えて、この時局の火消し勢に加勢を求むる悲鳴絶叫だとしか聞けないからであります。皆さん、お蔵《くら》に火がついて焼死にますから早く来て助けて下さいようと、哀鳴号泣することの代りに、こんな歌が飛び出したものであると、それを感じたから不快になり、もう、今日はこれまで、江戸見学の第一日程はこれで終る、今日は立帰って、明日また出直しということで、願人坊主には若干の祝儀を取らせて、その日の帰路に就きました。

         六十九

 さてその翌日、改めて出直した神尾主膳の江戸再吟味日程第二日。今日は、芝の増上寺へ参詣を志しました。
 御成門まで来ると、一隊の練兵が粛々《しゅくしゅく》と練って来る。主膳も勢い、道を避けて通さなければならぬ。
「菜っぱ隊にしては出来がいい方だ」
 いずれも見上げるような体格。幕府もエライものだ、いつのまに、こんな立派な歩兵をこしらえた――感心して見ていると、渡り仲間《ちゅうげん》が言う、
「あれが名代の六尺豊かの歩兵さんでござんすよ」
 なるほど、六尺豊かの歩兵さんとはよく言った、名実相叶うている、よくもこう大兵《だいひょう》ばかり揃《そろ》えたものだ、この点、また少々感心ものだと見ていると、
「もとはみんなお陸尺《ろくしゃく》のがえん[#「がえん」に傍点]者なんですが、ああして見ると立派な兵隊さんでござんすねえ、馬子にも衣裳とはよく言ったもので――」
 言わないことか、六尺と陸尺との混線だ、すなわちこれは、このごろ江戸の市中に溢れていた諸国諸大名の陸尺、即ち籠舁《かごかき》の人足の転向だ。
 諸大名お抱えの陸尺は、体格抜群のものを選《え》りに選り、各大名屋敷が自慢で養って置いたが、このごろ、諸大名の参覲交代《さんきんこうたい》が御免になって、奥方を初め、江戸住居を引上げて国へ帰れるようになってから、この陸尺が失業した、アブれてみるとロクなことはしない、盛り場をユスったり、見世物をコワしたり、良家へ因縁をつけてみたり、手に負えないところを幕府の陸軍頭が買込んで、浜から千人、こちらから千人、それに洋服を着せて団袋《だんぶくろ》をはかせてみると、見かけはこの通り堂々たる国家の干城《かんじょう》、これを称して六尺豊かの兵隊さんとは誰が洒落《しゃれ》た。
 それを見送った神尾は、なるほど、見かけだけは立派に六尺豊かの兵隊さんだが、渡り者の寄集め、いざという時、役に立てばいいが、と冷笑して、さて、増上寺の参詣も無事に済ませて、山門を出て見ると、今度は赤羽橋の方から息を切って飛んで来る裸男。褌《ふんどし》一つで木刀を一本、その真中に状箱を結《ゆわ》いつけたのを肩にかついでいる。そのせかせかとする息の合間に、時々大声でわめいて来る。主膳とすれ違った時に、耳を澄ましてみると、
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ここから江戸まで三百里、裸で道中がなるものか、なるかならぬか、やって来た、一貫占めたか、セイゴどん、しゃか、しゃか
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 何のことだかわからない。すれちがってしまってから、また振返ると、
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ここから江戸まで三百里、裸で道中がなるものか、なるかならぬか、やってきた、一貫占めたか、セイゴどん、しゃか、しゃか
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「何だい、あれは」
「薩摩飛脚でござんしょう」
 ナニ、薩摩、その薩摩がどうした、憎い奴だ。
 このごろ、江戸の市中の火附強盗の帳元は、皆その薩摩の為《な》す業だと言っている。この増上寺に近いところに、その市中の山賊強盗の巣、薩摩屋敷があるはずだ、よし、ひとつ、その巣を見届けてくれよう。
 神尾は、直ちに爪先を四国町の方へと向けました。なにかと面憎《つらにく》い薩摩屋敷へ、仕返しに行くのではない、見届けに行くのだ。
 まもなく、その三田の四国町、薩州邸の表門を横目で睨《にら》んで神尾主膳――
「薯《いも》の奴め、蔓《つる》を延ばしたものだ、もとこの屋敷のこっち側は土佐の屋敷だったんだが、それを薩摩が併合しちまやがった、そうして、今やこの邸が江戸|攪乱《こうらん》の策源地となっている、退治しなけりゃいかん、公然たる強盗の巣窟を将軍の膝元で見過して置く法はない」
 こう思って睨みつけてはみたが、神尾の力で、今どうしようというわけにもいかない。いまに見ろ、眼に物見せてやる時が来るぞ。
 薩摩という奴、怪しからぬ奴だ。松平薩摩守で、徳川御一家待遇にあるのみならず、将軍とは切っても切れぬ縁組みの間柄であるのに、幕府を軽蔑しきっている。薩摩が増長しているというよりも、幕府の役人共に意気地がないからだ。幕府の上役共、何か大事が起ると、自分の力で決断し兼ねて、薩摩へ持込む。薩摩守がこうだと言えば、大抵はその方に事がきまる。歯痒《はがゆ》い。というのは、老中共が三家あたりへ押しが利《き》かない、そういう時は、薩摩守も同意でござる、と言うと、三家も屈伏するというていたらく。だからいよいよ薩摩を増長させる。このごろの増長ぶりでは、どうやら徳川家を倒して、次の天下を乗取ろうとは言語道断。いずれはこの邸からブッつぶしてかからぬことには、天下の見せしめにならぬわい。
 そういうことを、神尾が心肝にこたえつつ、そこを引返して品川へ出ると、海岸の茶屋で、蛤《はまぐり》を焼かせて一杯飲みながら、海を見ると、さすがに気がせいせいするが、お台場を見ると、また癪《しゃく》だ。いったい、このお台場を外様《とざま》の大名に任せたということが、すでに徳川の名折れだ。痩《や》せたりとも、枯れたりとも、徳川の手で造り、直参の旗で固めなけりゃならん、と我々も若い時にがんばったものだが、幕府の力が足りない。この台場なんぞも、薩摩の力を借りてやり上げたものだ。
 これが出来上った時に、薩摩守が、ぜひひとつ、老中の阿部伊勢守に見てもらいたいとのことで、伊勢守が大目附あたりをしかるべく召しつれて見に来た時には、薩摩の太守が門の表まで出迎えて、ていねいな挨拶だが、伊勢守は頭を下げない、ただ会釈ばかりで玄関へ通った。何といっても、まだ天下の徳川の老中だ。世間では、薩摩の太守、薩摩の太守とあがめ奉るが、見受けるところ、老中に対してはあの通りだ。老中もまたあれだけの権式を保ち得られたものだが、僅かの間にそれもガタ落ち、薩摩の藩邸が江戸荒しの山賊の策源地と公認されながら、それに一指を加うることができないとは……
 神尾は憤《いきどお》りを含みつつ、小酌を傾けました。

         七十

 さてその次の夜は、またおぼろ月の大原の里。
 おぼろ月というのは、春に限ったものだが、ここ大原の里には、秋も月がおぼろに出ると、それに浮かれて二つの蝶が寂光院の塔頭《たっちゅう》から舞い出でました。
 蝶というには少しとう[#「とう」に傍点]が立ち過ぎている嫌いはあるが、雌蝶であり、雄蝶であり、それが月に浮かれて庵《いおり》を立ち出でたことは間違いがありません。
「大原へ来たら、美しい尼さんでも出て来るか、そうでなければ、阿波《あわ》の局《つぼね》の後身にでも見参ができるかと、それを楽しみにして来たら、餓鬼草紙から抜け出したような婆さんが出て、因果経のおさらいをして見せたには、一時《いっとき》うんざりしましたが、こうして、苦労人の昔の美しい人と一緒に歩いてみると、悪い心持は致しません」
と言ったのは、とうの立った雄蝶でありまして、昨夜以来、無条件の逗留を許された盲目のさすらい人の声であります。
 見れば、今までのように、コケ嚇《おど》しの覆面や、白衣《びゃくえ》はかなぐり捨てて、さっぱりした竪縞《たてじま》の袷《あわせ》の筋目も正しいのを一着に及んで、帯も博多の角なのをキュッと締め込み、刀もなく、脇差もない代りに、手には時ならぬ団扇《うちわ》を携えて、はたはたと路傍の草花を薙伏《なぎふ》せながら先に立って、そぞろ歩きをしています。
 若々しい老尼もまた、いい気なもので、すらりとした尼さんの姿ではあるが、この尼さんは、袈裟《けさ》もなく、法衣《ころも》もなく、数珠《ずず》さえも手にしていない代り、前の人と対《つい》な団扇を持って、はたはたと路傍の花を撫でながら、
「花尻の森へ行きましょうよ、忍踊《しのびおど》りを見に行きましょうよ」
「何ですか、そこは……花尻の森というのは」
「源太夫の屋敷あとなのです」
「その源太夫と申しますのは?」
「松田源太夫のことでございますよ」
「松田源太夫――あんまり聞いたことのない名じゃ」
「源頼朝公から、建礼門院様お目附のために差しつかわされた鎌倉の御家人《ごけにん》の名でございます、それがあの森に屋敷を構えていて、建礼門院様のお目附をしていました」
「それは古い昔のことだなあ、そこに今晩お祭りがあるのですか」
「森の中に竜王明神の祠《ほこら》がございましてね、今晩はそこで忍踊りがございます」
「なるほど、唄が聞えますな」
「さあ、しばらく、そのままで、あの唄を聞いていらっしゃい」
「節《ふし》は聞えるが、詞《ことば》はわかりません」
「森へ着くまでの間に、唄のおさらいをして上げますから、お聞き下さい、あちらの調子に合わせて、わたくしが唄って上げますから」
 森の中で起る節を伴奏にして、水々しい尼さんは、こちらの耳にもはっきりわかるように、忍踊りの歌詞《うた》を唄い出しました。
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わが恋は、小倉《おぐら》の里のひる霞
つもりつもりて、はれやらぬ
忍踊りを一踊り
われが身は、君を思うて浮かるるも
行くもかえるもうつつなや
忍踊りを一踊り
忍び行く、のべの川瀬は浅かれよ
君の契《ちぎ》りは深かれよ
忍踊りを一踊り
君様に、ここに一つのたとえあり
清滝川も濁りそろ
なにとて君様つれなさよ
忍踊りを一踊り
君様を、思いかけたる庭の花
うらの妻戸を忍び入る
忍踊りを一踊り
忍び入り、君の枕に手をかけて
ここでこの夜を明かせかや
忍踊りを一踊り
今ははや、思いし恋いしがかの[#「かの」に傍点]てそろ
枕屏風《まくらびょうぶ》にかたよけて
物語りは限りなや
忍踊りを一踊り
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 若々しい老尼は、忍踊りの声を逐一《ちくいち》、遠音の伴奏に合わせてうたい出したが、やがて手をさし、足をのべて、おのれも踊りながら歩いて行く。
「手ぶりなら、こちらへきてござんせえな、トトさんも、カカさんも、ニイも、ネエも、ボーも、マーも、みんな踊ってござんすわいなあ」
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やれやれよういな
声が欲しいわいな
「ちょいとこなあ」
よう立つ声が
声で人をや、迷わすは
しょんがいな
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 これや名代《なだい》の大原女《おはらめ》、木綿小紋に黒掛襟の着物、昔ゆかしい御所染の細帯、物を載せた頭に房手拭、かいがいしくからげた裾の下から白腰巻、黒の手甲に前合せ脛巾《はばき》も賤《いや》しからず、
「薪《たきぎ》、買わしゃんせんかいな」
の姿は、以前の時によく見かけた。姿よりはその健康な肉体に魅せられたものだが、その踊りというのはまだ見参しない。早くそれを見たいものだ。
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年はよれども
まだ気がわこて
若いあねごのそばがよい
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 水々しい老尼は、自分を唄っているのかひとごとか、手ぶり、足ぶり、歌の声までも浮き立って、さして行方は花の大原、花尻の森の忍びの踊り。
 森の中には、踊り疲れる人ばかりではない。竜王明神のほこらには、烈しい嫉妬の神が待っていることを知るや、知らずや。この年老いて、そうして省《かえり》みることを知らぬ水々しい雌蝶と、老いたりというにはあらねど、生きたりというにはあまりに痩《や》せた雄蝶とは、年甲斐もなく、浮かれ浮かれて、花尻の森、源太夫の屋敷あと、且つは嫉妬の神の隠れた竜王明神の祭りの庭の赤い火に向って行くのが危ない。

         七十一

 その夜、大原三千院の来迎院《らいごういん》の一室で、声明学《しょうみょうがく》の博士が、季麿秀才《すえまろしゅうさい》を前に置いて物語りをしておりましたが、
「こんな話をすると、君たちは、なにを子供だましのと思うか知らんが、だまされる子供が幸いで、だまされない現代人が不幸であることを思わなければなりませんよ」
 この秀才は、子供のように素直なところのある青年でありましたから、博士の言う意味がよく呑込めました。且つまた、この季麿秀才は、年に似合わぬ博学多才で、能文達識で、品行が方正で、ことに人の悪口などを言うことが最も嫌いな好学の青年でありましたから、それに張合いのある博士は言葉をつづけて言う様は、
「この世界は一つの寓話《ぐうわ》に過ぎないのですよ、釈尊は最も譬喩《ひゆ》をよく用いました、おそらく釈尊ほど卓越した修辞家はありますまい、また、古来のあらゆる作家よりも優れた作家は即ち釈迦です、ドコの国に、あれほど優秀な譬喩の創作者と、使用者とがありましたか。譬喩は即ち寓話です、寓話は即ち子供だましです、およそ四諦十二因縁《したいじゅうにいんねん》のわからぬものにも譬喩はわかります、阿含《あごん》華厳《けごん》の哲学に盲目なものも、寓話の手裏剣には胸を貫かれるのです。今まで私が話した話、これから私が語り出でようとする長物語を、君たちが空《くう》に聞き流さないことを望みます」
と言いますと、季麿秀才は、それに敬意ある諒解を以てつけ加えました、
「左様でございます、哲学者が訴え得られる範囲は、少数の特志家の頭脳だけにしか過ぎませんが、詩人というものは、大多数の人にも、後代の人にも、了解される特権がございます、それをことさらに縄張りをして、大衆の文学だの、少数の芸術だのと、差別なきところに差別を設ける彼等の術策を憫《あわれ》まなければなりません、また、左様な術策にひっかかるおめでたき民衆を憫まなければなりません。世に優れたる詩人の空想ほど確実性を持つものはございません、科学などはそれに比べると全くお伽噺《とぎばなし》のようなものです。アミエルは、ミゼラブルの雄大なる構想を支配する中心思想を知ろうと思って、三千五百頁のあの大冊を幾度も繰返して読んだ後に、こういうことを言いました、ヴィクトル・ユーゴーは、効果を以てその美学論の中心としているから、作がこれによって煩わされている、然《しか》しヴィクトル・ユーゴーは何という驚くべき言語学的・文学的能力の所有者か――地上及び地下に於ける驚異すべきものを彼は悉《ことごと》く知っている、知っているだけではない、それと親密になっている、たとえば巴里《パリ》の都のことに就いても、あの町々を幾度も幾度も、裏返し、表返して、ちょうど人が自分のポケットの中身をよく知っているように巴里を知っている、彼は夢みる人であると同時に、その夢を支配することを知っている、彼は巧《たく》みに阿片や硫酸から生ずる魔力をよび出しはするが、それの術中に陥ったためしがない彼は発狂をも自分のならした獣の一匹として取扱うことを知っている、ペガサスでも、夢魔でも、ヒポクリッフでも、キミイラでも、同じような冷静な手綱《たづな》を以て乗り廻している、一種の心理的現象としても彼ほど興味ある存在はあまりない、ヴィクトル・ユーゴーは硫酸を以て絵画を描き、電光を以てこれを照らしている、彼は読者を魅惑し、説得するというよりは、これを聾《ろう》せしめ、これを盲せしめ、そうして幻惑せしめている、力もここまで進んで来れば、これは一種の魔力である、要するに彼の嗜好《しこう》は壮大ということにあり、彼の瑕瑾《かきん》は過度ということにある――アミエルはこういうようなことを言っているのでありますが、私は、大菩薩峠の著者に就いてはなお以上のことが言えると思うのです」
「それは私の知らないことだ、わたしは大菩薩峠なるものを読んでいない」
 声明学《しょうみょうがく》の博士は、季麿秀才の感情に走るを制するかのように、その論鋒をおさえて、
「私にこういう経験があるのです、私が若い頃、宮中に勤める身でありまして、ここの上人《しょうにん》に就いて声明学を研究しようと思って、京都の今出川から、毎日毎夜、ここへ通いました。声明に就いて、私は絶大なる趣味と研究心を持っていたのですから、ことに若い時分の情熱も加わって、ほとんど隙《ひま》さえ見出せば老師のお邪魔をしたものです。ある時のこと、これへ参向して、上人のおいでになる扉の外で、こういうことを考えたです、こうして、うるさく上人におつきまといして研究はいいが、自分も宮中に微職を奉ずる身を以て、かく大原の僧院まで毎日参学することは、職務に対しての聞えもいかがであり、且つまた上人に対して、かくばかりうるさくおつきまとうことのお煩わしさを考えると、一本調子ではいけない、少しは遠慮というものがないことには、自他のために重大な迷惑となる、では明日から断念して参学を控えよう、今後は、上人をお訪ね申すことをやめよう、こう思って、上人の前へ出ますと、私が何も言わない先に、上人が、これ秀才、お前の考えていることは人情だが、わしの方はかまわない、その道のために、いくらお前がわしに附きまとっても苦しくない、かように亡き上人が仰せられましたので、はっとしました。扉一つを隔てて、私の思うところ、これから述べようとする意志が、すっかり上人に予知されてしまったのです。私がいよいよ真剣に声明の学に精進することになったのは、それからのことで、同時に声明は即ち無声なり、無声の声を聞かざれば、声明の神《しん》に通ずること能《あた》わずと悟ったのもそれからのことです。それまでは、趣味としての声明、科学としての音律の研究にうき身をやつしたのでありますが、それではいけないことをさとりました」
「無声の声は、禅家《ぜんけ》のいわゆる隻手《せきしゅ》の音声《おんじょう》といったようなものでございますか」
「いや、それとは少しく違います、声明家は禅家のような独断論法を嫌います、信仰者でなければならないが、同時に、科学者でなければならないのは一つの資格といえるでしょう。人間の声にも、有位有声と、有位無声とがありますが、前者を十一位に分つと後者が四位、これを宮商角徴羽《きゅうしょうかくちう》に分けてすべての音声を十五位に分類する、これを律呂《りつりょ》という、十五位は十五声にして一声、一声にして全声なるものです。御承知でしょう、この外を流れる川に、呂の川と、律の川とがあります、この律と呂の川を溯《さかのぼ》って行きますと、そこに音なしの滝というのがあるのです、百声万音は律呂に帰し、律呂は即ち音なしに帰するというのが声明の極意なのです、そうして日本に於ける声明の総本山は即ちこの寺なのです、大日本の魚山《ぎょさん》はこの大原のほかにありません」
「ギョサンですか、ギョサンとは、どういう字を書きますか」
「魚という字です、サカナという字です、魚の山と書きまして、天竺《てんじく》、即ち印度《インド》では霊鷲山《りょうじゅせん》の乾《いぬい》の方《かた》にあり、支那では天台山の乾の方、日本ではこの比叡山の乾、即ち当山、大原来迎院を即ち魚山というのです、慈覚大師|直伝《じきでん》、智証大師|相承《そうじょう》の日本の声明の総本山なのです」
 声明の博士が、季麿青年を相手に諄々《じゅんじゅん》として、こういうことを語り聞かせ、おたがいに夜の更くるを知らない時分に、不意に戸を叩く音がありました。
「御免下さりませ」
「どなたですか」
「はい、わたくしは、東国|安房《あわ》の清澄山から出て参りました、弁信と申す小坊主でございます」
 博士と、秀才と、二人の談論|酣《たけな》わにして倦《う》むことを知らないこの場へ、さしもの広長舌のお喋《しゃべ》り坊主が一枚加わったのでは、その舌端を迸《ほとばし》る滝津瀬《たきつせ》の奔流が、律呂の相場を狂わすに相違あるまいと、知る人は色を変えるだろうが、幸いに内なる二人は、弁信の何者であるかをまだ知りませんでした。

         七十二

 魚山の来迎院に、声明の博士と、季麿秀才とを驚かした弁信法師は、座に招ぜられると、案外に慎しみ深く、簡単に来意を述べました。
 ごらんの通りの盲目の身、東夷東条の安房の国、清澄の山を出でてより幾年月、世を渡るたつきとしては一面の琵琶、覚束ない音締《ねじめ》に今日まで通して来たが、琵琶は最後の思い出に竹生島の明神へ奉納し、わが身は山科の光仙林にしばらく杖をとどめていたが、山科よりは程遠からぬところ、ここは大日本の魚山として聞えたる大原の来迎院こそは声明の根本道場と聞くからに、ここで修行をさせていただきたい、奥義《おうぎ》というもおこがましいが、見えぬ世界を見んとする不具者の欣求心《ごんぐしん》に御憐憫《ごれんびん》を下されたい、入門の儀、ひたすらに御紹介を頼み入ると、これは例のほしいままなる広長舌を弄《ろう》することなく、極めて簡単明瞭に来意の要領を、まず声明《しょうみょう》の博士に向って披瀝《ひれき》しますと、博士はその志を諒なりとして、院主上人に向ってその希望を通じましたところ、院主上人は、また弁信の志を憐んで、これに対面して次のように申しました。
「金剛語菩薩《こんごうごぼさつ》即ち無言語菩薩《むごんごぼさつ》、声明の奥義を極めんとならば、まず声なきの声を聞くべし、幸いにこの律呂《りつりょ》の川の上に音なしの滝がある、音なしの滝に籠《こも》って、無音底の音を聞く気はないか」
 かように申されました時、弁信は、一議に及ばず、これこそ望むところとあって、直ちに翌日の明星をいただいて坊を出で、音なしの滝に詣《まい》りました。
 その日より、滝のほとりに、ささやかな安居《あんご》の地を求めて、そこへ飛花落葉を積み重ね、正身《しょうじん》の座を構えると共に、心神をすまして音なしの音を聞かんとすることが、この法師の早天暁の欠かさぬつとめ、世間は暫く彼の広長舌から免れるの自由を得ました。

         七十三

 有野村の与八が、この春から勧化《かんげ》をして歩いたことの一つに、荒地の開拓と、ハト麦の栽培、ジャガタラ薯《いも》の増産等があります。
 与八は、その時、こう言って村々に勧誘をして廻りました――
 皆さん、何が怖ろしいといって、戦争と饑饉ほど怖ろしいものはこの世にございません。地震だの、雷だの、火事だのというものも怖ろしいには違いありませんけれど、その災難の程度を比べると、戦争や饑饉と比べものにはなりませんよ。戦争はどうかすると一国の人を殺してしまい、一つの国を亡ぼしてしまうことがございます。饑饉もまた国中の人が、のたれ死をしてしまうこともございます。戦争のことは人間のすることですから、わしらにはわからねえですが、饑饉は天道様《てんとさま》のお仕置だから、わしも少しは知っています。なんしろ、人間が食えないで死ぬんでございますから、こんな悲惨なことはあるもんじゃあございません。でも、人間の力で、日頃の心がけがよければ、逃れられないはずはねえとこう思うんですが、それに就いて皆さん、なるべく荒地を開いて、それに、ハト麦と、ジャガタラ薯とをお植えなさいまし。ハト麦は、世間並みの大麦や小麦と違って、肥料《こやし》がいりません。そうして、蒔《ま》いて僅かの間に取入れができます。その上に取穀《とりこく》が多いし、味がよろしいし、食べて薬用にもなるものでございます。種子はわしのところにたくさんございますから、分けてお上げ致しますよ。
 与八は、電剣先生から聞き覚えたハト麦の栽培法を、村人に伝授を致しました。それから、ジャガタラ薯も、まだ作り方を知らない人に教えてやりました。村人のうちには、ハイハイと聞いてはいるが、実行しない人も多くありましたが、与八は、それに頓着なしに、ハト麦の効能を説きながら、その種子を配り歩いています。
 饑饉というものは怖ろしいものですよ。わしらも子供の時に見ました。野原にちっとも青いものがありませんでな。みんな人間が摘《つ》んで食べてしまうからです。それでも足りないで飢《かつ》え死ぬ人が多くありまして、わしらが見ても、街道筋にゴロゴロ行倒れが毎日のように倒れました。わしの大先生《おおせんせい》は心がけのいい人ですから、そういう時の用心がちゃあんと出来てましたから、わしらはいくら饑饉でも、ちっともひもじい思いをしたことはございませんでしたが、世間には、明日食うものがない、今日食うものがない、二三日食わない、なんていう人がザラにありました。
 天保の年は、四年と七年と二度も続いて饑饉がございましたが、七年の方が殊《こと》にひどうござんした。その年は春の初めから引続いて、季候が不順でございまして、梅雨《つゆ》から土用まで降りつづいた上に、時候がたいそう寒うございまして、日々毎日、陰気に曇ってばっかり、晴れたかと思えば曇り、曇ったかと思えば雨が降る、といったような陰気な年でございました。その時のことです、相模の国の二宮金次郎という先生が、その年の季候をたいそう心配しておいでなさいましたが、土用にさしかかると、もう空の気色がなんとなく秋めいて来て、草木に当る風あたりが、気味の悪いほどヒヤヒヤしていましたが、ある時|新茄子《しんなす》をよそから持って来てくれたものですから、その茄子を糠味噌《ぬかみそ》へつけさせて食べてみますと、どうしても秋茄子の味でございますから、これは只事ではねえぞ、さあ村の人たちよ、饑饉年が来るから用心しなさいと言って、その晩、夜どおし触書《ふれがき》をつくって諸方へ廻して、皆の者に勧めることには、明地《あきち》や空地《くうち》は勿論のこと、木棉《わた》を植えた畑をつぶしてもいいから、作《さく》をつくりなさい、蕎麦《そば》、大根、蕪菁《かぶら》、にんじんなどをたくさんお作りなさい、粟《あわ》、稗《ひえ》、大豆などは勿論のこと、すべて食料になるものは念を入れてお作りなさいとすすめ、御自分では、穀物の売物があると聞くと、なんでもかまわず、ドシドシ買入れ、お金が尽きた時は、貸金の証文までも抵当に入れてお金を借入れ、それで穀物を買い、人にもそのようにおすすめになりましたが、なにをそんなに二宮様がおあわてなさる、と本気にしなかったものもあるでございましたが、先生を信仰する人は、おっしゃる通りにやって、大助かりに助かったそうでございます。
 なかには二宮先生の、そのお触書を見て、直ぐに馬に乗って先生をおたずねして、その仕方を丹念に聞き取ってから、村々をお諭《さと》しになって、木棉畑をつぶし、お堂やお寺の庭までも、蕎麦や大根をお作らせなさいましたお奉行様もありましたが、下野《しもつけ》の国の真岡《もうか》近在は、真岡木綿の出るところですから、木棉畑がうんとある、せっかくのその畑をつぶして、ほかの作物を作ることをイヤがる人が多いには、先生も困ったそうでございますが、その時に先生が、それではあきらめのために、木棉畑のいいところを少し残して置いてみなと、所々へ一反ぐらいずつ木棉畑を残させてみますと、秋になって棉実《わたのみ》が一つも結ばないのでなるほどと、はじめて感心したそうでございます。
 すべて、大偉人の言うことは、聞いて置かなけりゃなりません。わしらは、二宮先生のような大偉人ではございませんが、用心をしてしそこないということはございませんから、皆さん、何をさし置いても饑饉の御用心をしてお置きなさいませよ。
 それには、ハト麦なんぞは至極よろしいでございます。種子が入用ならば、わしんところへ言っておよこしなさい。蒔《ま》き方がわからなければ、わしが教えて上げますよ。もし人手が足りなければ、わしが行って手助けをして上げますからね。
 それからもう一つ、ジャガタラ薯《いも》というのがござんすが、あれは近ごろ南蛮から来たのだそうですが、結構たくさん取れて穀類の代りになります、あれをお植えなさい。
 そうして、用心をして置いて、いざ饑饉という時には、その貯えを大切に、控え目にして食べるです。そうすれば、悪食《あくじき》をしないでも次の実りまで、きっと凌《しの》げるものでござんすよ。でござんすから二宮先生は、饑饉の年でも決して、草の根や木の皮を食えとはおっしゃいませんでした。心がけさえして置けば、どんな饑饉にでも五穀を食いのばして行けるものでございます。饑饉の時は、なんでも食べられます、食べなければならない場合もあるでございますが、少しの間はいいが、長くなると病気になります。
 こういう説教を与八が試みました時に、慢心和尚が来合わせて、次のようなあいづちを打ちました。
 そうとも、そうとも、与八の言うことと、二宮尊徳の言うことは間違いはないぞ、饑饉は怖いぞ、用心して五穀を貯えろよ、草根木皮は食うなよ。天保の饑饉の時、わしは江戸で見たがな、なにしろ作の本場の百姓でさえ、食う物がなくて餓え死ぬ世の中だから、町家ときては目も当てられなかったよ。その時の窮策でな、赤土一升を水一升で溶いてな、それを布の上に厚く敷いて、天日《てんぴ》に曝《さら》して乾かしてから生麩《なまふ》の粉などを入れてな、それで団子を作って食ったものもあったぞ、それから松の枝を剥いで鯣《するめ》のようにして食い出した者もあったぞ。わしも食ってみたよ。わしなんぞは腹が出来ているから、何を食っても、あんまり当りさわりということはないが、普通の人間は、たんと食えば黄疸《おうだん》のような顔色になって、やがて病気だ。この間も「救荒草木」という本を、わしがところへ持って来て見せた人がある。その本には、野生の草木で食えるものの種類を三十種も挙げて、その料理方などを書いてあったが、わしはああいうことはあんまり賛成をせんのだ。わしなんぞは腹が出来ている上に、口がこの通り大きいから、なにを投げ込んでもたいていは当りさわりなく消化するようなものだが、人間並みの人間は、人間並みの食物を食うがよい。なんにせよ、天照大神、神農帝以来、人間が選りに選り出して来た今日の五穀蔬菜というものは、人間の養いには最上無類のものさ。野草雑草も食って食えないことはないが、食わずに済めば食わずに済ますことだよ。誰も食いたくて食うわけではないが、そこだ、日頃の心がけというやつがそこにあるのだ。丹精して人間らしい作をつくり、それを丹念して囲穀《かこいこく》にして置くことだ。それが最上唯一の饑饉救済策というものだ。よくよく与八大明神の御託宣を聞いて置くがいいぞ。
 それから、若い者は天保の饑饉は知っているが、天明の饑饉時代を知る者は少なかろう、おれはそれを実地に見せられてよく知っているぞ。この村で食えなくなったものが、隊を成して次の村へと流れ込んだ、流れ込んでみたところで、次の村にだって、他村に食わす貯穀があるはずはない。そこで、流れ流れて毎日毎日、千人、二千人というものが、かたまって、飢死している、そうすると、先に飢えて死んだものの肉を、あとのが切り取って食ったものもあったぞ。食うや食わぬの境になると、人間が鬼になる浅ましさ、おれはこの眼でよく見て来たぞ。そのくらいだから、盗賊が横行する、いや、人間という人間がみんな盗賊になってしまう、浅ましいものじゃ。大名の米でさえも、警護が薄いと途中で飢えたる民が襲いかかって奪ってしまう、それだから、一台か二台の車に積んで運ぶ扶持米《ふちまい》でさえ、さむらい共が四五十人して守って引かせたものだ。村々町々でめぼしい家屋敷はブチこわしがはじまる、ブチこわされる方も、はじめのうちは辛抱していたが、今度はその方で組合を作って、竹槍を構えて待ちかけ、皆殺しにしてくれるという有様だから、全く、餓鬼道修羅地獄さ。食い物がなくなると、政治も奉行もあったものではないじゃ。
 だから、百姓は、平生丹精してよく作り、丹念してそれを貯えて置くことじゃ。近ごろ、節食節食と言って、なるべく少し食えということを言って歩く奴もあるが、わしらがようなものは、小食でもさしつかえないじゃ。わしらがような坊主とか、役人とか、学者とかいうやからは、そう大した体力の骨折り仕事というのはせんでも済むじゃから、そういうやからは、いわばお百姓様の食客《いそうろう》同様なものだから、なるべく遠慮して、少なく食ってもらいたい。ことにわしらがような坊主は、少々の間は、食わず飲まずでも平気でいられるくらいに慣らして置かなけりゃならぬじゃ。それで決して身体のさわりになるものじゃないのじゃ。一日一食で済まして、それで達者で長寿をした坊主もいくらもあるじゃ。東叡山寛永寺の天海和尚というのは、百三十三歳まで生きたが、これも一日一食じゃ。播州の書写山の性空上人《しょうくうしょうにん》というのが、これも一日一食で九十八まで生きたじゃ。真宗の親鸞上人《しんらんしょうにん》は九十まで生きたが、これも一日一食。伊勢の月僊和尚《げっせんおしょう》というのが八十九、鳥羽僧正が八十八、一休和尚が同年というようなわけで、こういう坊主は、いずれも一日一食同然の節食をして、それで達者で長寿をしたものだが、それは坊主だからできるので、やっぱりお百姓さんの居候であることには変りはない。お百姓というやつは、節食をしてはならない、節食をしては働けないから、うんと食うがよい。大きな口をあいて飯を食う権利のあるのは、百姓だけの役徳だと思うがいい。うんと食って、うんと働き、うんと生産をして、坊主をはじめ、役人だの、学者だの、この世の寄生虫に食わしてやってもらわなけりゃならぬ。饑饉の時は、今も言う通り、悪食《あくじき》をせず、その時は節食をして、一日にお粥《かゆ》一ぱいだけでも食って、静かに寝て体力を養っているがいい、死なない程度に生きているがいい、そのうちには凶年という年ばかりではないからな。
 こういうようなことを言って慢心和尚が、与八の勧誘に補足をして村人を説得しているところへ、一人の風来人がやって来ました。
 その風来人というのは、五十がらみ、小肥りに太った、笠をかぶって、もんぺを穿《は》いた旅の者らしい一人の男であります。
「わしは、武州|刎村《はねむら》というところの百姓弥之助と申しますが、諸国廻歴の途中、はからずもこのところへ立寄りまして、只今のお話を聞かせていただき、まことに結構に存じて、いたく共鳴を仕《つかまつ》りました。わしが諸国廻歴の目的も、只今の、お若衆さんと御出家さんのおっしゃったと同じ趣意の下に出発いたしたんでござりますが、なにぶん、徳が足りないものでござんすから、せっかくの志が通らず、わしが本心が通らぬのみか、到るところでばかにされて、どうもなりませぬ。ところで、只今のお話を伺ってみますと、世間にはまだ同じ志の者がある、捨てたものではない、と頼もしさ限りがございません。まあお笑い下さい、わしどもはこういう帳面を拵《こしら》えて諸国廻歴を致しております」
と言って、腰にブラ下げていた一冊の部厚の帳簿を解いて、慢心和尚と与八の前へ差出しましたから、
「それはそれは、御奇特なことで」
と答えながら慢心和尚が、その帳面を手に取って見ますと、
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「百姓大腹帳」
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と書いてあります。二つ折|長綴《ながとじ》の部厚の帳面で、俗に「大福帳」型の帳面でありましたが、大福帳をここには「大腹帳」と書いたところに趣意がありそうなのです。果して武州刎村の百姓弥之助と名乗る男は、その「大腹」の字面を指してから次のように語りました。
「只今もおっしゃる通り、近ごろは戦争や饑饉の心配から、ドコへ行っても食を控えろ、食物を食べ過ぎるな、節食をしろ、節米をしろと、専《もっぱ》らこのように申し触らされておりますが、わしはそれと違いまして、百姓は物をうんと食え、そうして腹を充分にこしらえろ、非常の災難が来る時こそ、腹をこしらえて、度胸を据えなければならない、腹が減っては戦《いくさ》ができない道理、ですから、ウンと食べて、ウンと働きなさいと、こういう勧化《かんげ》のために、この通り百姓大腹帳というのをこしらえて、宣伝を致して歩くのでございますが、相手にされないで困っているんでございます。つまりが、わしが百姓だから、ばかにする者が多いというわけなんでしてね。わしが、こんなぶっきらぼうの百姓でなく、黄門様のお微行《しのび》であるとか、お大名の名代《みょうだい》、聖堂の先生とでもいった経歴がありますと、みんな感心して聞くんでございますが、なあに、あいつは百姓だ、百姓が何を言うと、頭から取合ってくれません。そこで、わしは考えました、百姓に百姓の心得を説いて聞かすには、まず『百姓』という文字の意義から説いて聞かせなければならないと。このごろでは、もっぱら、百姓の名の起りから説いて聞かせているというような次第なんですが、これをまあひとつお読み下さいまし」
と言って、武州刎村の百姓弥之助と名乗る男が、大腹帳の開巻第一を開いて、慢心和尚の前に示しました。
 和尚が受取って、それを読んでみると、
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「そもそも『百姓』といふは、支那四千年の古典『書経』並びに『詩経』等に見ゆるを最初とすべし。『百姓』とは、あまねく『人民』といふ意味にして、これを農耕者に限りたる約束は更になし。されば天子以外のものは皆百姓なり。
日本に於ても、古代はこれと典故を同じうしたれば、歴代の天皇、皆直接[#「直接」は底本では「直後」]に人民を呼ぶに『百姓』の語を以てし給ふ。愚、ひそかに数へ上げ奉るに、日本書紀三十巻の中に於て、天子おんみづから『百姓』の語を以て呼びかけ給へるところ七十四ヶ所に及ぶ。殊に、第十六代仁徳天皇に於かれては、
『君ハ百姓ヲ以テ本トナス』
『百姓貧シキハ則《すなは》チ朕《ちん》ノ貧シキナリ、百姓ノ富メルハ則チ朕ノ富メルナリ』
とまで仰せらる。
まことに、日本は天皇の国にして百姓の国|也《なり》。天皇は親にして百姓は子也。関白、将軍、国主、郡司、諸々《もろもろ》の門閥は皆後世この百姓の間より出でて、或は国家に功あり、或は国家に害を為《な》す。功あるは即ち天皇と百姓の間を助くるなり。害あるは則ち天皇と百姓の間を紊《みだ》すなり。
中世以後に漸く『百姓』の名を農耕者に限るやうになり行くと共に、これに下賤軽蔑の色を附与したるは、まさしく中間勢力の横暴の致すところなれば、日本の政治の革新は、天皇と百姓の間を、古《いにしへ》の美風に帰すことなり。
かく、百姓は即ち万民の意味にして、農耕業者に限りたる約束は更になしといへども、百姓の基本業が則ち農耕に存すること、万世|渝《かは》ることあるべからざる也。
それ、如何《いか》に世態変化するとも、人は衣食住なくして生くること能《あた》はざるなり。而《しか》して衣食住の生産は農業を待ち、これを為すより外にその道あるべからず。政治は即ちこの生産を助長するの道にして、商工は即ちこの生産を融通するの道也。根幹を侮りて、枝葉のみを繁茂せしむる国は危し。
されば日本の百姓たるものは、自らが天皇の大御宝《おほみたから》たることを畏《かしこ》み、専《もつぱ》らこの道をつとめ、国に三年の蓄へあり、人に三年の糧《かて》あり、而して後に四方経営を隆《さか》んにすべきなり。而して後に通商貿易を盛んになすべきなり。本を忘れて末に走ることあるべからず。
近代は国難内外に起りて、志士東西に奔走すといへども、国本培養に心を注ぐの士、極めて乏しきは慨すべく歎ずべし。故に良き百姓は、世上の空言虚語に惑はされず、大いに食ひて大いに働き、自ら三年の糧を貯ふると共に、国に三年の糧を捧ぐることを本意と心得べきなり。百姓大腹なれば国富みて兵強く、百姓空腹ならば国貧にして兵弱し。つとめざる可《べ》けんや」
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 これを読み了《おわ》った慢心和尚は大いに感心して、
「なるほど、なるほど――その通り、これに違いない、百姓の本分を知らせるには、『百姓』の文字から説いて聞かすが本筋じゃ、自分が百姓のくせに、百姓百姓と人を軽蔑する奴から退治せにゃいかん、天皇様と百姓の間をさまたげる、もろもろの寄生害虫から退治せにゃ、国は治まるものではござらぬ、百姓大腹ナレバ国富ミテ兵強ク、百姓空腹ナラバ国貧ニシテ兵弱シ、ツトメザル可ケンヤ――大賛成!」
 慢心和尚が双手《もろて》を挙げて賛成したものですから、百姓弥之助も大いによろこびました。

         七十四

 その前後、京都の二条城で勝麟太郎の受爵の式が行われました。
 夢酔道人の丹精むなしからず、あっぱれ幕府旗下の麒麟児《きりんじ》として、徳川の興亡を肩にかけて起つ人となり、ここに、受爵の恩命が伝わること偶然ならずと言わなければなりません。これより先、受爵の内命が伝わった時、勝は考えました、
「さて、受爵には何の国を所望したものか、願わくば日本一の小国を願いたい」
 そこで、安房守《あわのかみ》が選まれました。大国を名乗ったところで大国の主となるわけではなく、小国を冒したからとて器量が小さくなるわけではないのだが、勝がさらに小国を所望したのは、この人特有の皮肉がさせる業らしい。この人は、後年、功成り名遂げて、維新の功臣の中に加えられ、ここに再び明治政府の下に受爵の恩命が行われるの際、子爵に叙せらるるの風聞を伝え聞いて、
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今までは人並なりと思ひしに
  五尺に足らぬ四尺なりけり
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と歌をよんで、さてこそ伯爵に叙せられたという伝説のあるくらいの人ですから、そういう人を食った性癖が、おのずから小国を好んで所望することになったらしい。
 それはさて置き、当時、叙爵の儀が済んでから、控室に於て、諸士を相手の気焔の中に次のようなのがありました、
「政治家の秘訣《ひけつ》はなにもないよ、ただ誠心誠意の四字ばかりだよ――内政のことにしろ、この秘訣を知らないから、どうも杓子定規《しゃくしじょうぎ》で、さっぱり妙味というものがない。徳川氏のやり方は、いま言った四字の秘訣を体認して、よく民を親しんで、実地に適応する政治をやったものだ、その重んずるところは人にあって、法にあるのではない、八代将軍の時に諸法度《しょはっと》の類もやっと出来上ったくらいだが、それにしても北条時代の式目が土台になっている、あの貞永式目《じょうえいしきもく》というのが深く人心に染《し》み込んでいるものであり、なにもわざわざアクドイ新体制を作って民を惑わすがものはない、この辺をよく注意したものさ」
「東照宮の如きも、駿府に隠居をされた後でも、ただ、じーっとして城内に引籠《ひきこも》っていられたわけではない、駿府の近傍の庄屋とか、古老とかいうのを集めては、碁の会を催して、輪番にそれらの人々の家へ碁を打ちに行かれたものだ。あの辺の旧家には、東照宮が来て碁を打たれた座敷だというのがいまだに残っているよ。道楽で碁を打つんじゃない、ああしているうちに、偽らざる民情が聞けるからだ」
「日本国中で民政のよく行届いたところは、まず甲州と、尾州と、小田原の三カ所だろうよ、信玄や、信長や、早雲の遺徳はまだこの三カ所の人民に慕われているらしい」
「信長という男は、さすがに天下に大望を持っていただけあって、民政のことには深く意を用いて、租税を軽くし、民力を養い、大いに武を天下に用うるの実力を蓄えたと見える、今日、尾州に行ってよく吟味してみなさい、当時の善政良法が、今なお歴々として残っているから」
「信玄がただの武将でなかったことは、ひとたび甲州に行けばわかる、見なさい、彼地の人は信玄を神様として信仰しているのだ、これは当時民政がよく行届いて、人民がよく心服していた証拠ではないか。その兵法の如きも、規律あり、節制ある当今の西洋流と少しも違わない、近頃まで八王子に、信玄当時の槍法が残っていて、毎年二度、その槍法の調練をすることになっていたが、その槍を使うのを見ると、近頃のように、お面お胴というふうな、個人的の勝負ではなくて、大勢の人が一様に槍先を揃えて、えい、えい、えい、と声をかけながら、初めは緩《ゆる》やかに、次第次第に急になり、漸く敵に近づくと、一斉に槍先を揃えて敵陣へ突貫するのだ、ちょっと見たところでは甚だ迂闊《うかつ》のようだが、おれは後で西洋の操練を習ってから、はじめてこの法のすこぶる実用に叶《かな》っていることを知った」
「北条早雲という男も、なかなかの傑物であったに相違ない、赤手空拳でもって、関八州を横領し、うまく人心を収攬《しゅうらん》したのはなかなかの手腕家だ。当時、関八州は管領の所領であって、万事京都風で、小むずかしいことばかりであった、ちょうど今時はやりの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》であったのだ、そこへ早雲が来て、この繁文縟礼の弊風を一掃してしまい、また苛税を免じて民力の休養をはかった、つまりこれで、うまく治めたのだ。徳川時代には、小田原附近から関八州へかけてが、全国中でいちばん地租の安いところであったが、これは全くの早雲の余沢《よたく》だ」
「それで、北条の亡んだ後に、徳川氏が駿遠参の故土から、この関八州へ移封されたのだが、もともと租税の安いところであったから、徳川氏の方では非常に迷惑だったのだ。太閤という男は、なかなかの狡猾者《こうかつもの》で、よくこの事情を承知しておりながら、いわゆる、その名を与えてその実を奪うの政策に出でたのだ。しかし、そこはさすがに徳川氏だ、少しも早雲の遺法を崩《くず》さず、従来の仕来《しきた》りに従って、これを治めたのだ」
「天下の富を以てして、天下の経済に困るという理窟はないはずだ、いにしえの英雄はみな経済のために苦心したよ。織田信長は経済上の着眼が周密であったから、六雄八将に頭《かしら》となり得たのさ。南朝の政治も、北朝の細川頼之の経済のために倒れたのだ」
「おれがはじめてアメリカへ行って帰った時に、御老中から、『其方《そのほう》は一種の眼光を具《そな》えた人物であるから、さだめて異国へ渡ってから、何か眼をつけたことがあるだろう、それを詳《つまび》らかに申し述べよ』とのことであったから、おれは、『人間のすることは、ドコへ行ったって、そう変るものじゃありません、アメリカだって御同様ですよ』と言ったが、再三再四、問われるから、『左様、アメリカでは、政府でも、民間でも、すべて人の上に立つ者は、みんな相当りこう[#「りこう」に傍点]でございます、この点ばっかりが、日本と反対のように心得ます』と言ったら御老中が眼を円くして、『この無礼者め、控えおろう』と叱ったっけ、ハハハハハハ……」
「支那人は、いったい気分が大きい、支那人は、天子が代ろうが、戦争に負けようが、ほとんど馬耳東風で、はあ、天子が代ったのか、はあ、ドコが勝ったのか、など言って平気である。ソレもそのはずさ、一つ帝室が亡んで、他の皇帝が代ろうが、国が亡んで他の領分になろうが、全体の社会は依然として旧態を存しているのだからノー」

         七十五

 かように天下有事、幕政維持か、王政復古かの瀬戸際――それに外国の難題が、攘夷《じょうい》か開国かで、怪奇ではないが、複雑を極めた間にあって、一歩あやまれば、社稷《しゃしょく》が取返しのつかないことになる。志士仁人が往来し、一般人心がおびえているうちに、広い世間には極めて暢気千万《のんきせんばん》な奴もあればあるもので、道庵十八文の如きその一人。
 且つまた、媚態百出、風向きのいい方へ便乗《びんじょう》しようと、色目の使い通しな不都合な奴もあればあるもので、鐚公《びたこう》の如きがその一人。
 さても、山城の国、綴喜《つづき》の郡、田辺《たなべ》の里に逗留の道庵先生は、健斎老の取持ちで、何もございませんがと言って、上方名物のよき酒に、薪納豆《たきぎなっとう》を添えて振舞われたものですから、大いによろこびました。これは酬恩庵名物の一休禅師伝来、薪納豆というものだと聞かされて、道庵がなっとう[#「なっとう」に傍点]しました。
 道庵は、この機会に、一休禅師の研究をはじめることになりました。道庵は、一休は話せる男だと思い、一休の方では、道庵は知らないと言っている。いずれにしても、酔眼に人なき道庵も、一休禅師には一目《いちもく》ぐらいは置いているらしい。これから大阪へ行って、ひとつ親類のお墓参りもしてやらずばなるまいと、酒の間に口走ったところを見ると、大阪あたりに親類などはなかるべきはずの道庵が、変なことを言うと思って、問いただしてみると、大阪に永富独嘯庵《ながとみどくしょうあん》の墓があるから、それをひとつ訪ねてやろうと思ってるんだよ、と言う。してみると、永富独嘯庵なるものは、道庵の親類筋に当るのかも知れない。
 それはトニカクとして、この機会に道庵は酬恩庵をおとずれて、古蹟をたずね、筆蹟を見て、しきりに慈姑頭《くわいあたま》を振り立てました。山陽の書を見てくれの、崋山《かざん》の画を鑑定しろのと申込んで来る茶人もいたが、そんなのは一切、道庵の眼中になく、一休禅師の筆蹟だけは相当丹念に見ました。一休自筆の「狂雲集」というやつも見て、しきりに首をひねったり、その末期《まつご》の書だというのをひろげると、
[#ここから2字下げ]
須弥南畔
誰会我禅
虚堂来也
不直半銭
    東海純一休
[#ここで字下げ終わり]
と書いてある。同行の者がちょっと読みなやんでいるのを、道庵はスラスラと読んでしまいました、
[#ここから2字下げ]
須弥南畔《しゆみなんはん》
誰カ我ガ禅ヲ会《ゑ》スヤ
虚堂来也《きどうらいや》
半銭ニ直《あたひ》セズ
    東海純一休
[#ここで字下げ終わり]
 スラスラと読んでしまってから、慈姑頭を更に一倍振り立てて、
「諸方に一休の書と称せられるものが相当あるにはあるがね、あんまり感心しないよう。ところで、こいつはいいぜ、こりゃ、たしかに一休の書だよ。一休という奴ぁ、こういう字を書かなけりゃならねえ奴なんだ。これゃいいよ、句もなかなかいいよ。ただ、虚堂来也――素人《しろうと》はこれをキョドウと読みたがるが、いけねえよ、キドウと読まなくちゃいけねえ、ただこの虚堂来也がねえ、ちっとばかり小せえよ、道庵に言わせると、仏祖来也といきてえところなんだが、それはそれとして、この辞世の文句にもはじめてお目にかかるよ、一休名所図会(一休諸国物語の誤りならん)にも、辞世の句というのがいくつも出ているが、この文句は無《ね》え、名所図会のがニセ物で、これがホン物だ」
と言いました。道庵が多少ともに物を賞《ほ》めるということは、極めて少ない中のこれもその一つでございました。
 そうしているうちにも、お雪ちゃんの容体を見てやる親切は変りません。脈をとることになると忠実なもので、商売柄、健斎老を啓発することも少なくはありません。それから、健斎老が道庵に感心していることの一つは、そのふざけた中に、まじめな研究心が少しも衰えていないということです。見るもの、聞くもの、みんな箸《はし》をつけずには置かない、箸をつければ、みんな食ってしまわなければ置かない、という知識の貪食《どんしょく》ぶりには、遠近四方、敬服せざるを得ませんでした。
 しかし、うっかり敬服ばかりしていると、その次があぶない。一夕《いっせき》、道庵の声名を聞いて、京から名酒を取寄せて贈り越したものがあって、
「この地は、お茶にかけては日本一ですが、お酒の方はそうはゆきませんが、ここらあたりは少し飲めるかも知れません」
 道庵がその尾について、
「なるほど、お茶は、この界隈が宇治茶の本場だが、酒もどうして、なかなかばかにできねえ、いったい、上方は酒がよろしい、日本一のお茶も結構だが、日本一の酒は飲みてえな」
 それを言うと、土地の人が、
「では、近いうち、その日本一の酒というのを飲ませて進ぜましょう」
「そいつは耳よりだぜ、いったい、池田、伊丹《いたみ》なんぞと、大ざっぱに名乗りは聞くが、さあ、どれが日本一だと聞かれたら上方でも困るだろう、道庵も人に聞かれて、その点、常にいささかテレている、今度という今度は、ひとつ、京大阪の酒という酒を飲み抜いて、道庵先生御推賞、日本一という極《きわめ》をつけて帰りてえものだ」
「いや、それは先生を煩わすことなく、もう出来ておりますよ、日本一の酒という極めつきは……」
「おやおや、道庵の承認なしに酒の日本一をきめるなんて、不届な話だ、万一、道庵が不服を唱えたら、どうするつもりだろう、一番そいつの再検討をしてみてえ、その日本一の極めつきの酒というのは、いったい、なんという酒で、ドコから出ますねえ」
「これより少々南の方、河内の国の天野酒、これが日本一という定評《きわめ》になっております」
「うむ――河内の国の天野酒、聞いたことのある名だ、これはひとつ、道庵が再吟味をする必要がある」
と言って、その翌日、飄々《ひょうひょう》として出かけて帰らないところを見ると、河内の国までのしたのかも知れません。

         七十六

 さて、江戸の方面に於ける軟派、鐚《びた》は鐚で、このごろ少し憂鬱《ゆううつ》になっている。
 鐚としては、せっかくのヒットたる芸娼院の方も、開店休業の姿だから、なんとかせねばなるまいが、いやはや、手をつけてみると、そのややこしいこと、それで少々気を腐らせているという次第です。
 芸娼の芸娼たる所以《ゆえん》のものを説いて聞かせても、世間はなかなかわかってくれない。とりあえず鐚の方へ持ちこまれた苦情のうちの一つに――
 いやしくも芸と名のつく以上、ナゼ役者を入れない、芸人の王たる役者を入れないとはなにごとだ――と力んで来た!
 それから、芸事の芸事たるめききというものは、その道のものがしなければならない、金茶や木口の輩《やから》が、御右筆《ごゆうひつ》の下っぱのおっちょこちょいを相手に、人選をするとは怪しからん。
 と言って、膝詰めで来たものもあれば、ビタちゃんのお袖にすがって、ぜっぴ、お刺身のツマになりともありつきたい、と歎願に及んで来た奴もある。
 その辺は、ビタちゃんだって心得たものなんだが、何を言うにもそれ、役者の方から言ってみるてえと、愚左衛門を入れれば、轟四郎《ごうしろう》が納まらないし、毒五郎をのけて戸団次に戸惑いをさせるわけにもいかねえ、そうなるとまた、土右衛門《つちえもん》や貉之助《むじなのすけ》の方のひいきが承知しない。トカク、これは難物だから、後廻し、後廻し。
 絵かきの方は、昔から相場附けがほぼきまっているから、これはわりあいに手なずけ易《やす》いが、文書《ぶんか》きの方はトカク店が新しいだけに、品《しな》がややこしくていけねえ。
 絵かきが五十八人もいるのに、文書きが十人じゃああたじけ[#「あたじけ」に傍点]ねえ、とムクれる奴には、刺身のツマとしてお下《さが》りをあてがって置いたが、このごろ、木口勘兵衛尉源丁馬と、金茶金十郎とを入れろ、ぜっぴと言って推薦して来た奴があるが、こいつは鐚も買えねえよ。
 金茶や木口は、武芸もやっぱり芸のうちだから芸娼院へ入れろ、刺身のツマでもいいから入れろ、と捻《ね》じ込んで来ているのだが、どうも、さしも悪食《あくじき》のビタにも、こいつはちっと買えねえよ。
 なるほど、武芸も芸には違いないが、あいつらの芸は下町の芸で、デモ倉流盛んな時はデモ倉流、プロ亀派が景気のいい時はプロ亀派、勤王がよければ勤王、佐幕がよければ佐幕で、風向き次第、どっちでも御用をつとめる大道武芸者だから、本当の芸人の中へは加えられねえ、大道芸人の方では、あいつらが大御所面で納まっているけれども、公儀には柳生流というお留流儀《とめりゅうぎ》もあれば、実力第一小野派一刀流という、れっき[#「れっき」に傍点]としたのがある、木口や金茶の大御所流を入れることは、三下奴《さんしたやっこ》ならば知らぬこと、ビタちゃんとしてはいささか気がさすねえ、なあに、御祐筆《ごゆうひつ》の方へ申し込めば、御祐筆はみんなお人よしぞろいだから、ビタちゃんの言うなりにはなるがね、ビタちゃんの眼鏡の貫禄として、そう安売りはできねえ。
 鐚《びた》は、とつ、おいつ、こんなことを言って、自宅にくすぶって気を腐らせていると、溝板《どぶいた》を荒々しく蹴鳴らして、
「鐚公、いるか」
 その声は、まさしく木口勘兵衛尉源丁馬。
「来たな」
と鐚は思いました。
 ガラリと腰高障子を引きあけた木口勘兵衛尉源丁馬は、朱鞘《しゅざや》の大小の、ことにイカついのを差しおろし、高山彦九郎もどきの大きな包を背負い込んで、割鍋を叩くような大昔を振立て、
「鐚、いたな、今日はひとつ、てめえに膝詰談判に来たんだが、このお爺《とっ》さんをひとつ、芸娼院の人別に入れてくんな、これは木曾の藤兄《ふじあに》いといって、姪《めい》を孕《はら》ませて子まで産ませて追ん出した上に、それを板下《はんした》に書いて売出した当代の甘いおやじさんだ、文書きの方では古顔なんだが、近ごろ拙者の子分同様になりやんした、よろしく頼む」
 高飛車に出られたので、鐚もあっけに取られていると、
「さあ、お爺《とっ》さん、こっちへ来て、芸娼院の人別に入れてもらいねえよ、これがお安いところの鐚公というおっちょこちょいだ、お見知り置きなせえ」
と言うから、鐚が木口の後ろを見ると、いかにも人のよさそうな老爺《おやじ》が一人、なべーんとした面《かお》をして、しょんぼりと控えている。その姿を見て、鐚が、なるほど姪を孕まして、板下に書いて売出しそうなおやじだ、至極お人よしだなと思いました。だが、いい年をして、木口あたりの手下になって、頭を下げに来る、老爺の人のよい姿を見ると、鐚も物の哀れを感じないわけにはゆきません。
 木口の後ろには、まだ、これを親分と頼むイカモノが多分に控えている。これらを押並べて、
「さあ、面《つら》が揃《そろ》ったら、ひとつここでパチリとやってくんな」
 当時、舶来の珍しいはやどり機械を据えた三下奴――
「爺《とっ》つぁん、お前《めえ》も下っぱの方へ坐りな」
 信州から来た木曾の藤爺《ふじじい》さんを、下っぱに押据えて、木口勘兵衛尉源丁馬が傲然《ごうぜん》として正座に構えたところを見ると、さすがの鐚も悲鳴をあげ、
「トテモ受けきれねえ」
と言って、逃げ出してしまいました。
 下駄をひっ提《さ》げて、溝板のところをほうほうの体《てい》で逃げ出した鐚助――
「どうもはや、木口勘兵衛ときては、さしもの鐚も受けきれねえよ、あいつ、イカモノ作りの四国猿のくせに、いやにアブク銭の銭廻りがいいもんだから、トカク銭の力で、八方|袖《そで》の下撫斬流《したなでぎりりゅう》と来るから受けきれねえ」

         七十七

 勝安房守が二条城で任官して後のこと、近藤勇と、土方歳三の二人が、慷慨淋漓《こうがいりんり》として、二条城の天主台の上に立って、洛中洛外の大観を見澄ましておりましたが、やがて近藤が言うことには、
「どうだ、土方、おれに十万石を与えれば、ここにいて天下を定めてしまうが、あったら城に主がないなあ」
 そうすると、土方がこれに答えて、
「あえて十万石とは言わない、五千の兵を与うれば、イヤ、五千とも望むまい、二千の精兵を与うれば、天下のことを定めて見せるがなあ」
と言って、両士は相顧みて憮然《ぶぜん》たるものがありました。
 今、京中に於て、近藤勇の名は鬼の名と等しい。その実力はほぼ諸侯と等しいものがあるが、何を言うにも、二人は武州の一塊の土民の出であって、譜代があるわけではない、羽翼があるわけではない、会津を背景にして、その配下僅かに二百人足らず、やがて会津が百万石になれば、近藤も十万石だ、などとのし上げるのは、取るに足らぬ沙《すな》の上の功名話で、会津どころか、徳川宗家そのものがあぶない今日、彼等とても、百万石や十万石の夢を見ながら請負仕事をしているわけではない。近藤勇としても、功名利禄以外に、やむにやまれぬ慷慨を感じているものがあるのです。
「織田信長もいけないよ、これほどの城を信忠に預けて、市中の本能寺あたりへ手ぶらで泊るということがあるものか、この城へ納まってさえいれば、明智如きに歯が立つものではない、名将といえども運の尽くる時はぜひのないものだ、まして、名将に非《あら》ざる凡将に於てをや」
 近藤がこう言いますと、土方がそれを受けついで、
「慶喜公も、ドッシリとここに納まって動かなければいいに、ややもすれば動きたがって腰が据らない、悲しいかな、今の徳川に、この二条城へ坐りきれる人がいないのだ」
 かくて二人は、しきりに天主台の上から、飽かずに洛中洛外の風景と、二条城の規模を見渡しておりましたが、
「京都に於ける二条の城と、江戸に於ける東叡山とは、形式が違って立場は同じだ、この二条城を守りきれるや否やで、京都に於ける徳川の勢力が決する、東に於ては、よし江戸の城が落つるとも、東叡山に於て徳川旗下の意気の死活が示されるのだ」
と言いました。二人の慷慨の語気で察すると、この城を二人に任せる限り、幕府の社稷を死守してみせる意気込みは充分だけれども、その貫禄の備わらざることにじだんだ[#「じだんだ」に傍点]を踏んでいるようにも見られます。且つまた、これだけの備えがあって、人がないことを、三百年の徳川のためにも大息しているかのようにも見られます。

 無名島に上陸した無名丸の乗組のうちに、書き漏《も》らされた存在として、柳田平治と、金椎《キンツイ》とがあります。
 柳田は、最初から駒井船長が、虫の好かない唯一の存在でありましたから、つとめてこれに近づこうとしない。そのくらいだから船中の誰もに親しみを持たないし、船中の誰もがまたどうも山出しのブッキラボウな青年で、且つ好んで長い刀をひねくり廻したりなどするものですから、気味を悪がってのけ者あつかいにしている。ただ一人田山白雲にだけは親しみを持つものですから、田山と二人が、別棟をこしらえて、植民地に住むというような有様です。しかし、柳田は田山ほどに世界を知らないし、また超世間の美術に没頭するという術《すべ》を持たないから、田山のために写生旅行の助手をつとめようという気にもならず、黙々として働くだけを働き、その合間には、長い刀を振り廻して、居合の独《ひと》り稽古をしているだけのものです。
 柳田がすっぱ抜きをしているところへ、白雲が通りかかると、それに引き入れられて、同じように居合を試みてみたり、それが嵩《こう》ずると、真剣で型を使ってみたりするのでありますが、また時としては真剣や白刃を取らずに、素手でやわらの乱取《らんど》りを試むることなどがあります。ちょうどその場へ七兵衛が来合わせた時などは、非常な興味を以てながめていることもありますが、武術にかけてはさしもの田山白雲も、この青年をあしらい兼ねているのであります。
 そこで、七兵衛が思いつきました。今後、一週に二三回ぐらいずつ、この青年を指南役として、島の人のすべてに武芸を仕込んで置けば、なにかの役に立つ。そう思って、そのことを田山白雲に相談すると、白雲は直ちに同意し、柳田平治も、好きな道であり、自分も練習になるから、異議なくこれを引受けて、早くもこの島に、一箇の武術道場が出来上るということになりました。
 今日は大へん暑いものですから、田山白雲と、柳田平治は、一番、泳ごうではないかと言って、海へ飛び込みました。二人とも、水練は達者です。さんざんに泳いで陸へ上り、裸のままで砂ッパに寝ころんで話をはじめました。
「田山先生、日本はこれからどうなるのです」
「そうさなあ、今頃はどうなってるかなあ、西と東にわかれて、戦争でもおっぱじめていはしないかなあ、わからんなあ」
「日本で東西が争うとなると、どっちが勝つのですかねえ」
「それもわからんなあ、日本にいるとそういうことにすてきに気がもめたが、こうして大海へ乗り出して来てみると、そんな気持がカラリとしてしまうのは不思議だね」
「田山先生、あなたはもう日本へ帰らないのですか、帰りたく思いませんか」
「帰らないと断言はできないねえ。しかし、ここまで乗り出して来た以上は、こっちで相当成功して、向うの妻子をこっちへ呼び寄せたいという希望の方が先だねえ。だから、この無人島が永住の地だとも思っていないよ、ここへ足がかりが出来たら、この先の方には大陸があって、そこには日本よりも何倍も開けた国があるのだから、そっちへ行って、第二の山田長政となることも愉快だと思っている」
「僕も、そういうことを考えています、僕はそんな開けた国よりも野蛮人のウンといるところへ行って、そいつらをみんな征服して、王になりたいです、こんな無人島では物足りないです」
 こんな話をしていたが、やがて、むっくりと跳び起き、裸のままで二人は椰子林の中を歩き、己《おの》れの小屋へと帰りに向ったが、椰子の林の中のとある木蔭に、小さな人影が一つ、うずくまっているのを見ました。
「ああ、金椎だ」
と言って、二人は遠のいて避けて通るようにしましたけれども、避けなかったところで、相手は気がつくはずもなかったのです。
「相変らず、イエス・キリストを信じているよ」
と田山白雲が言いますと、柳田平治が、
「ちぇッ、キリシタン!」
と、噛《か》んで吐き出すように言いました。



底本:「大菩薩峠20」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年9月24日第1刷発行
   2002(平成14)年2月20日第2刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十二」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※疑問点の確認にあたっては、「中里介山全集第十二巻」1971(昭和46)年7月30日発行を参照しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年5月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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