青空文庫アーカイブ



大菩薩峠
京の夢おう坂の夢の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宵《よい》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)町人|体《てい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53]
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         一

 同じその宵《よい》のこと、大津の浜から八十石の丸船をよそおいして、こっそりと湖中へ向って船出をした甲板の上に、毛氈《もうせん》を敷いて酒肴を置き、上座に構えているその人は、有野村の藤原の伊太夫で、その傍に寄り添うようにして、
「御前様《ごぜんさま》、光悦屋敷とやらのことは、もう一ぺんよくお考えあそばしませ、大谷風呂の方は、どちらへ転びましても結構でございますがねえ」
 それは女軽業の親方のお角でした。
 女軽業の親方お角さんは、今では伊太夫第一のお気に入りになっている。お角が伊太夫を御前様と称えてみたところで、あえてへつらうわけではない。伊太夫は伊太夫としての貫禄から言っても、その系統から言っても、大名以上の実力はあるのだから、おかしいことにはならないのだし、お角もまた、この人を御前様以上の御前様として心からの尊敬を以て言うのだから、それもおかしいことにはならない。伊太夫は軽く頷《うなず》いて、
「それは、どちらでもいい」
と答えました。そうすると、同じ取巻の町人|体《てい》なのが引きついで、
「いや、山科《やましな》の光悦屋敷の方も、ぜひお引取りなさいませ、今の御時世でございませんと、寝かして置きましても、持主がちょと手放す気にはなれません、あれだけの由緒あるお屋敷は、さがし求めた日には、なかなか出物があるわけのものではございませぬ、万一、売主がございましても、買切れる主がございません、買いたいと申しましても、二度と売主は出ますまいかと存じまする、お大尽のお耳に入りましたのが、全く以て千載一遇――売主のためにも、お買取りの方にも、また古《いにし》えの光悦様のためにも、三方への功徳《くどく》になるかと心得ておりまする」
 おたいこを叩いている言葉尻から察すると、この辺に地所の買入れの周旋が相当進んでいるらしい。しかし、今晩は、そういうことの取引を熟談するために、この船をよそおうて湖へ出たのではないらしい。そうかといって、今晩に限って、湖上の月を眺めようとの風流のための一座でないこともわかっている。地所家屋のことが口に上ったのは、当座の口合いだけのもので、この船は別に何か目的あって沖に向って進むものらしい。
 宿へは、月も見がてら、夜をこめて竹生島まで行きつき、泊りの参詣をして帰ると言って出たのですが、その竹生島参詣にしてからが、なにも今晩、この船路を選ばなければならない必要も、理由もないようなものですが、それを伊太夫の発意によって、急にこの船よそおいをさせたというものは、一つは湖中へ向って、陸上から避難の意味でありました。
 避難といえば、今の伊太夫の身辺に、何か急に迫る危険が予想されたのかというに、急にそうあるべき事情もないことはわかっている。そもそも伊太夫、今日の旅路というものが、極めて微行《しのび》の形式で、関西の名所めぐりということになっているが、その実は、やっぱりあの胆吹山《いぶきやま》の麓に根を張っている、やんちゃ娘の女王様の動静が、さすがに親心で気にかかる、それを見届けんがための旅立ちということが、内心の主力を占めているのですから、まだ当分は、胆吹と相望むところのこちらの湖岸を離れることにはなるまいと思われる。お角親方にしたところが、このお大尽に附添うていることの限りに於ては、あえて、そう京阪地方に一日を争わなければならぬ兼合いはないものと見なければならぬ。
 悠揚として迫ることの必要のない伊太夫が、今晩避難の意味を兼ねて湖中に出でたということは、どうも表面見ただけでは、その内情を察するに難い。さては、あのがんりき[#「がんりき」に傍点]の百とやらの小盗人《こぬすっと》めに覘《ねら》われて、つき纏《まと》われる煩わしさからのがれようためか。まさか、藤原の伊太夫ともあるものが、タカの知れたゴマの蠅一匹のために、陸上に身の置きどころがないという解釈も、あまりに浅ましい。実のところ、伊太夫の怖れを成したのは、この前から度々隠見する、湖上湖岸の物騒なる空気の動揺が然《しか》あらしめたもので、これが伊太夫の心持をも少なからず動揺させてしまいました。湖南湖北を通じて、すさまじい百姓一揆勃発の気運が、今やハチ切れんばかりに胎動している、いや胎動ではない、もはや、宿々領々によっては爆発の暴動をあげてしまっている。それが伊太夫の心を常ならず不安にしました。
 持てる人としての伊太夫は、他の何事にも驚かぬことの代りに、持たぬ者共の動静に神経が過敏となる。伊太夫はしかるべき家に生れてしかるべきように今日まで来ているから、あえて力を以て、暴圧と搾取とを、持たぬ者共に加えた覚えはないのだから、モッブの恨みを買うべき事情は少しも備えていないとは言いながら、持たぬ者共が動揺をはじめた時は、その波動が、いつどこにいようとも、誰人にも増して身にこたえるのは、持てる人の身にならなければわからない。
 湖岸暴動の風聞を聞くにつけて、伊太夫はいやな気になって、それで急に、船よそおいをさせて、竹生島詣でを口実の水上避難という次第でありました。

         二

「おやおや、何か変なものが流れて来ますねえ」
 ややあって、お角さんが湖上をながめてこう言いました。
「あれごらんなさい、あれはまだ新しい盃とはんだい――まあ、こちらの方から、女の帯が流れて来ますよう」
 盃とはんだいと言っていた間はまだいいが、女の帯と言われて、一座がゾッとしました。
 杯盤の流れたということは、いささか風流の響きもあるが、女の帯が流れたということに、何か一座の身の毛をよだてるような暗示があったらしい。そうして湖面を見て、その言う通りの酒器が浮び来《きた》ることは誰もそれを見たが、女の帯が流れているということを、舟の上の誰もがまだ気がつかない。酒器は水に浮ぶものだが、女の帯は必ずしも水に浮いて流れるとは限らない。帯によっては水に沈み勝ちでなければならないのをめざとくその一端を見つけて、帯、しかも女の帯と認定してしまったそれは、お角さんの勘と言わなければならない。
 そこで、一座は、お角さんの勘を基調として一同に身の毛をよだてたのですが、帯を帯として認め得た者は、お角さんのほかには一人もありませんでした。
 だが、そう言われて見ると、一筋の女の帯が暢揚《ちょうよう》として丈《たけ》を延ばして、眼前に腹ばって、のして行く。さきに流れた、誰にも認められるべきところの酒器台盤がそれに先行して行く。見ようによると、一匹の大蛇が、その酒器台盤を追うて、これを呑まんとして呑み得ざるままに、追走してのして行く形に見えて、いっそう物すごくなったのです。
 一座は無言で、ゾッとしたままで、その酒器を追う平面毒竜の形を見入ったまま、水を打ったように静寂に返りました。
 そうすると、暫くあって、その毒竜の尾について、間隔は二三間を隔てて濫觴《らんしょう》のような形のものが二つ、あとになり、先になり、前なるは振向いて後ろなるを誘うが如く、後ろなるが先んじて前なるものに戯るるが如く、流れ流れて行くものを認めないわけにはゆきません。
「あれはポックリです――女物の、二十歳《はたち》前の女の子でなければ穿《は》きません」
 噛《か》んで吐き出すようにお角さんが言う。それが一層のまた凄味を物言わぬ一座の上に漂わせたと見えて、ちょっと目をそらす者さえあったが、憑《つ》かれたように、その行手を見据えているものも多かったのです。
 湖上はと見れば、その時、立てこめた一面の霧です。
 行手も霧、返るさも霧、ただその霧が明るいことだけは、霧の上に月がある余徳なのであって、この霧の中を迷わずに進み得るのは、船頭そのものの手練である。ところが、その多年の船頭そのものの手腕が怪しくなったと見えて、
「な、な、なんてだらしのねえ船扱いだ、おいおい、何とかしなければ正面衝突だよ、舟と舟とが、まともにぶっつかるよ、おい、その舟にゃ舟夫《せんどう》がいねえのか」
 こちらの船頭が舟の舳先《へさき》で、あわただしくこう叫んだのが、また一座の沈黙の空気を脅《おびやか》しました。
 今までは静かに漂うものの無気味さに打たれていたのですが、今度は、さし当りこちらにのしかかって来るものがあるらしい。その警戒のためにとて、こちらの船の舟夫が、あわただしいこの警告です。見ればなるほど、一隻の舟がこちらに向って、正面衝突の形で、前面より突き進んで来つつある。こちらの船頭が叫ぶのも無理はない、あのままで来ればまさしく正面衝突です。しかし、正面衝突とすれば、その危険性は我になくして寧《むし》ろ彼にあるのです。何となれば、かの舟はこの船に比べてはるかに小さいから、正面衝突の場合の損傷を論ずるという日になると、まるで比較にならない。そこで、こちらの船頭の警告というものは、むしろ我の危険のためにあらずして、彼の危険のための忠告の好意ある叫喚に過ぎないのだが、その好意を好意と受取らないのが、先方の舟の行き方であって、そういう危険状態が目睫《もくしょう》に迫っているにかかわらず、あえて警告に応じて、舟の針路を転向しようとも、変換させようとも試みないで、霧の中を出て、霧の中を平気で漂うがままに、あえて正面衝突も、木端微塵《こっぱみじん》も辞することなき、無謀千万の行き方でやって来るものですから、こちらの船頭が、火のついたように地団太を踏んで、
「あ、あ、いけねえ、何とか楫《かじ》を取れねえのか――」
 先方は小舟だけに操縦が容易である、こちらは大船だけに運用が自由にならぬ、避けようとすれば先方は、ほんの一挙手の労で済むのだが、それをそうしないために、こちらの船頭は倍級の狼狽をしなければならない。それでも多年の熟練でようやく方向転換ができて、正面衝突だけは避けられたが、その途端に、棹《さお》をやって邪慳《じゃけん》に相手方の小舟を突き放してみると、そこにも手ごたえがなく、すんなりとはなれる。
「なあんだ、空っ舟だ――」
 相手がありさえすればこの場合、舟の衝突は免れても、舟夫同士に相当の口論、腕立てが起るべきところを、相手が人なし舟では喧嘩にならぬ。乗る人がなくて霧の中からさまよい出て来て、突き放さるればまた文句なしに突き放されて行く小舟を、船頭は腕のやり場もなく、しばらく見ていたが、それを見のがしにしなかったのがお角さんです。
「舟夫《せんどう》さん、ちょいと、その舟を留めてみて頂戴、こっちへ引き寄せて見せてもらうわけにはゆかないかねえ」
 お角さんだけが、この人なし舟を、人なし舟として突放しにする気にならなかったのは、何かこの女の勘にさわるものがあったればでしょう。勘というのは、弁信法師に限ったわけではない、脳味噌の働きの利鈍によって、何人にも勘の能力の大小がある。弁信法師の如きは超人的で、それは何者にも比較にならないが、お角さんの如きは、女性として最も勘のすぐれた方の女性なのです。目から鼻へ抜ける勘持ちで、いわゆる、こらえぬ気象なのです。ただ、「勘」という字が、お角さんの場合に於ては、「疳」とか「癇」とかいう字を使った方が適切な場合が多かろうというものです。
 癇走るお角さんの命令によって、船頭は二言ともなく、いったん突き放した小舟を、また自分たちの大船の船べり近く引き寄せて、生かそうと殺そうと御意のまま、という体で、お角さんの眼の前へ突きつけたものです。

         三

 いくつもの提灯《ちょうちん》をさげつつ、この引き寄せられた舟の中へ入り込んで見たのは、お角さんをはじめ、伊太夫周囲の取巻連でありました。お角さんが見ると、この小舟の中が狼藉《ろうぜき》を極めておりました。
 ほかの者が見たのでは、何が何やら気ぜわしいばかりです。
 そこで、お角さんが、
「ちぇッ」
と舌打ちをして、眉根に八の字を寄せながら、舟底をちょっと蹴立ててみたというのは、その狼藉ぶりが例の癇にさわったからでありましょう。
 他の者が見ては特に目立たない場合に、ナゼお角さんだけが、その狼藉ぶりに癇を鳴らしたかと見れば、小舟の中が、あまりに見苦しい取散らかしぶりであったからです。
「なんて、たしなみのないザマなんでしょう」
 お角さんは、小舟の中を見て眼をそむけてしまったが、改めて大船の上を見上げる。燈籠《とうろう》の下の座に席をくずさずに坐っている伊太夫も、なんとなく、こちらが気がかりのように見おろしている様子にぶっつかると、そのままにして置いて、
「さあ、上りましょう、これだけのものなんです、でも、船頭さん、この舟を曳《ひ》いて行ってあげてくださいよ――しかるべきところまでねえ」
 狼藉は狼藉としてのままで、一応、引くところまで引いて行って調べてやろう、というお角さんのはらです。
 その声に応じて、提灯片手の取巻連が、一応もとの席に戻りますと、右の小舟は無雑作に曳舟として扱われて、無意味従順にこの親船のあとに引かれて行く。
「何でした、別にあぶないこともなかったですかね」
 伊太夫からたずねられて、お角さんが少し息をはずませ、
「ちょきが一ぱい流れついただけのことなんですがね、御前様、どうも、その中が穏かでないんでございますよ」
「どう、穏かでないのですか」
「なんぼなんでも、ああまで取乱さなくってもよかりそうなもの」
「ははあ、そんなに見苦しくなっていましたかな」
「見苦しいにもなんにも、いったい、心中でもしようという人間には、もう少したしなみ[#「たしなみ」に傍点]というものがなくてはいけませんね」
「心中? 相対死《あいたいじに》ですか」
「そうでございますよ、さっきのあの盃と、帯と、駒下駄の判じ物でもわかりますよね、あの舟で思いきり楽しんで、それから死出の旅という寸法なんでしょう、行き方は洒落《しゃれ》ていないではありませんけれど、ああ取乱したんじゃお話になりません」
「どうして、そういうことがわかります、ほんとうに心中者があったとすれば、このままでは済まされますまい、迷惑千万なことだが、一応、手を尽してやらなきゃあなるまいが」
と伊太夫が、そこに思いやりをはじめました。小舟の中が取乱してあるか、取乱してないかはこの際、論外なことで、お角さんの見込みの通り、程遠からぬ時間の間に、そういう変事をやり出した人間がありとすれば、その分別と、無分別の如何《いかん》は問うところでない、通り合わせたものの人情として、船同士の普通道徳として、一応も二応も、捜索に取りかかることが当面の急でなければならぬ。
 そこで、船には緊急命令が下されて、さし当りこの小舟のもたらした予感通りに、掃海の作業を試むることになる。
 といっても、事は近くで発見されたにしろ、湖《うみ》は広い。霧というものがその広さを、無限大のものにぼかしている。よし広さに限度が出来たとしても、底は深い。ましてこの竹生島の周囲は、深いことに於て、竹生島そのものが金輪際《こんりんざい》から浮き出でているというのだから、始末の悪いこと夥《おびただ》しい。全く手の下しようもないのだが、手の下しようがないからといって、船舶道徳は守らなければならない。
 伊太夫の大船は、停《とどま》り且つ進みつつ、遠近深浅に届くだけの眼と、尽せるだけの力を尽しつつ掃海作業を続けて進みました。
 その間、伊太夫は動ぜぬ座を占めている。お角さんは居たり立ったり、舟夫《せんどう》に指図をしたり、伊太夫に講釈をしたりして、年増女の落着きを失わずに、その周到ぶりを発揮していたが、事が周囲七十余里の湖水を相手だから、そうヤキモキしただけではいけないと、やがて伊太夫の傍に寄添って、次のような観察を物語りはじめました。

         四

「男も男ですが、女も女です、水にでもハマろうとするくらいなら、ハマるだけのたしなみというものがなけりゃなりませんよ。女の締めくくりは帯なんです、その帯を初手《しょて》に流してしまうなんぞは、お話になりません」
 お角さんが、噛んで捨てるように言ってのけたのは、それは伊太夫の知ったことではないが、お角さん自身に、これと異った趣に於て、充分に体験を持っているわけです。この女は上総房州の海に身を投じて、橘姫命《たちばなひめのみこと》の二の舞を演じたことがある。
 その時は、無論、意気の、心中のというような浮いた沙汰《さた》ではなく、いわば凡俗の迷信と多数の横暴に反抗して、身を以て意地を守った気概のために海中に没入したのですが、それが、ゆくりなく洲崎《すのさき》で、駒井能登守の手に救《たす》けられたことがある。あの時、駒井に発見されなければ、無論、今日のお角さんは有り得ないのです。その時の体験からお角さんが語り出でました。その啖呵《たんか》の要領によると――
 女というものは、水に溺れようとする瞬間に、何事よりも締めくくるべきは帯です、帯をしっかり結ぶことです。帯というものは無論、表の胴体を締めているこの無双や、鯨というだけには止まらない、下帯から、下締から、丸帯の一切、女の身体《からだ》を横に防衛し、同時に装飾を兼ねているそれらのものをいうのであって、これが締っていなければ、女が女にならない。
 水に没入して、息が有っても無くても、いったん人間の住む水際へ浮き出した瞬間に、それを見つけて騒ぎ立てる野郎共の大多数は、女を人間として見ないで、女として見るんですからね、したがって、女は死んだ後までもが、女としての体面を保護して置かなければならない、もし男性として品性の高い、教養の深い人が、それを発見した場合は、真先にその辺を保護して置いてから、改めて人に報告するようにしてやるのが紳士の礼儀である。
 それに、どうでしょう、あの舟の女は、最も保護すべきものを真先に投げ出している、帯を取ってしまったお土左《どざ》などは、おそらく人間艶消しの頂上でしょう。
 子供なんですよ、からっきし子供なんだから、その辺のたしなみを知らない、そこらへポカリ浮き上ってでも来ようものなら、見てごらんなさい、見られたザマじゃない――とお角さんが、あざけり足らない。
 そうでないとしたら、察するところ、意地で見せつけという寸法なんでしょうよ、思いきってだらしのないところを、誰かに見せつけてやろう――たとえばねえ、生きていては仕返しができないから、せめて、死んだ死骸に、思いきり自分で自分に恥を掻《か》かせて、相手の恥に面負けをさせる、つまり、面あてをする、当てつけをして自ら慰めるというやつなんです。いやで添わされた亭主持ち、金で辱《はずか》しめられた女の仕返し、そんな事も有り得ることなんですが、あの舟のは、そんなんでもないようです。娘ですね、無茶な小娘で、死ぬのを伊達《だて》にしているというような行き方です、つまり浮気娘が出来心で、思いきり死んでみてやれ……といった気分に過ぎませんねえ。
 そんな、ませた小娘は、よく大物をくわえたがるものです、石部《いしべ》の宿《やど》のお半さんがいい見せしめです、長右衛門さんという人は、何をどうといったエラ物でも大物でもなかったようですが、年上なんでしょう。いったいどちらにしても、年上と恋をするというのがこの上もなくマセた人種なんですよ、年上にダマされて担《かつ》がれたというんじゃないですね、年上の奴でないと食い足りない助平が、つまり、女にも男にも強いから起ることなんで、だいたい、女は男よりも幾つか年下という世間のお約束を破らないとたんのうができない、まあいわば色気ちがいに近い方なんですから、年増の女に捲かれる男はかえって図々しいんです、年上の男を相手にする小娘こそ、こまっちゃくれて憎らしいもんです。見ていてごらんなさい、この娘っ子のくわえて来たのは相当大物ですからね。大物でなければ、キッと年上の男なんですよ。ことによると、白髪《しらが》まじりの重役なんぞをくわえて来ているかも知れません、そんなのが好きな娘なんですよ、相当大物をつかまえて来て、むりやりに水の中へ引張りこんだんですね。
 ええ、女が働きかけたんですとも。分別盛りの男が、自分から、小娘を相手に心中なんかする気になるものですか、みんな女が知恵をつけるんです、女が誘惑してそうさせるのです。長右衛門だって、長右衛門がお半を口説《くど》いたと思うは大間違い、お半の方で、長右衛門さんに持ちかけてああなったんです、お半の方が、長右衛門に惚《ほ》れきっていたんですよ。
 好者《すきもの》となってみると、お雛様《ひなさま》の飯事《ままごと》のようなことばっかりしていたんでは納まらない、そういう図々しいことをしてみたがるんです。それでお半はお半としてわかっているが、相手の長右衛門という奴の面《かお》が見てやりたい、やいの、やいのと、小娘から首っ玉へかじりつかれて、いい気になって水の中へ引っぱり込まれたおめでたい野郎の面が見てやりたいもんですね――
 お角は、伊太夫に向って、この心中から身投げの一伍一什《いちぶしじゅう》を見て来たように話がはずんで、ひとり昂奮の程度にまで上るのは不思議なくらいでしたが、それにつり込まれでもしたように、座持の一人の取巻――伊太夫に光悦屋敷を買え買えとたいこを叩いていた取巻の一人が、膝を乗出して、おあと交代と差出ました。

         五

「いや、御尤《ごもっと》もでございますよ、太夫元さま、そのお見立ては、さすがに勘所《かんどころ》でございます、実は、わたくしも先年、まざまざと心中者の最期を見届けた覚えがございますんで、いま思い出しても変な気分になりますが、それは、いま太夫元さんのお話とは違いまして、年頃寝頃という頃合いの女夫仲《めおとなか》でござんしてな、ところはやはり大津の浜辺、御存じの吾嬬川《あづまがわ》の石場の浜へ打上げられたのが、しっかりと抱き合った美しい年頃の心中者」
 こう語り出でたのが、幾分か今までの凄味を消して、なんとなく艶《つや》っぽいような、物の哀れを添えることになりました。
「へえ、お前さんも、その心中者を実見したんだね」
「へへ、たしかにこの眼で、まざまざと見せつけられてしまいましたが、ただいま太夫元さんのおっしゃる通り、最初に見つけたのが、たしなみのある人でよかったんです、もう少し事が遅かろうものなら、仲仕の人足たちに見られてしまうところでした。そいつらがドヤドヤと来て、見せろ見せろと言って、死体へ押迫って、いきなり天秤棒で女の裾《すそ》をまくり出しましたから、わたしたちが驚いて差留めたのです。蔵屋敷の衆がまず見つけたからいいようなものの、あの稼《かせ》ぎ屋連に最初見つかった日にゃ、今おっしゃる女の体面のみじめさが思いやられますでな、つくづく太夫元のお言葉が思い当りました。男も勿論そうですが、女子《おなご》というものは、心中の一つもしてみようという女子は、その何をさし置いても帯を大切にすることですね。あとで聞きますと、あの時の女子さんも、その辺には充分のたしなみがありまして、もし、そんなふうに死骸に加えられる狼藉がありましても、立派に保護の用意が出来ていたと聞きましたから、ひとごとでないように安心を致して見ました。いや、思い出しますよ、あの時の男女は惜しい花ざかりでした。聞いてみると、思い詰った事情も、色恋ばかりではないのだそうで、男は京都の者、女は伊勢の亀山――いいなずけ同士の親類仲とかいうことでございました」
 取巻が、別に心中物語をはじめたので、お角さんが楔《くさび》を入れて、
「死にたいものを死ぬなとは言わないが、死ぬんなら死恥をさらさないようにして死なせたい、およそ、心中の死にぞこないぐらい、みじめなものはありませんからね」
「ところが、その時の心中が、あとで聞きますと、その死にぞこないなんだそうでございましてね、変なことになりました」
 取巻がつけ加えて物語ることには、
「二人ともに、そうして、まあ立派に心中を遂げたには遂げたのですが、あとで聞きますと、男の方はそれっきり、女だけが助かりましたのやそうでございます」
「おやおや、運が悪いねえ、心中の生残りは浮ばれない」
「それから後、男の方の菩提《ぼだい》は、この上の長安寺の方で葬って上げていてあるはずなんでございますが、女の方は、早速引取りの親類が大和の岡寺から参りまして、死にたい死にたいというのを、不寝《ねず》の看《み》とりで引取ってしまいましたが、今ではどうなっておりますか。ところだけは大津屋で聞いておきました、大和の岡寺の薬屋源太郎というのが、その女の方の伯父《おじ》さんに当るとやらで、当分そこへ引取られたはずなんですが、わたくしも、もしあちらへ出向く機会がありました節は、ひとつ外からのぞいて見てやりたいと思っているのでございます。いい娘でした、少し淋《さび》しみのある面立《おもだ》ちをしておりましてな。もう五年も前のことですから、今頃はすっかり手創《てきず》が癒《なお》って、しかるべきところへ縁づいて、子供の二人も出来ている時分なのでしょうが、大和の岡寺の薬屋源太郎という名前が妙に気になりましてな、今でも、あの娘さんが、宿の離れに隠れて、世を忍んででもいるような気がしてたまりませんから、一度大和へ行ったら見てやりたいと、よけいな心づかいをしているばっかりで、まだ、あちらへ参る折もございません」
 見たって仕方がないじゃないか、とお角さんが言うと、伊太夫が、何か野心があるのだろうとからかう。取巻も、それでいったんは口をつぐんでしまったが、これによって見ると、大和の国、岡寺の薬屋源太郎と言ったのはこの取巻の聞誤りで、実は同じ国、三輪の里、大明神の門前のことではなかろうか。
 そうして、その心中者の男の方の名を真三郎と言い、女をお豊とは呼ばなかったか。
 しばらくして、また取巻の口が開いて、右の心中話に決着を与える――
 あの時の若い男女は、心中の方式については全く無知識であったこと、入水《じゅすい》をするにしても、どういう方法を取るのが最も安全で、且つ見事であったか、それを知らなかった。かつまた、入水の空間にしてからが、ドノ辺が沈みよくて浮き難く、ドノ辺が遠浅で、浮き易《やす》くして沈み難いかをさえ、てんで地理の理解がなかったことを思いやられる。ただ水に入りさえすれば死ねるものと心得て入ってみたが、さてここが死にどころというのが見当らなかった。浜辺に近いところ、遠浅のあたりを、より広く遠く、二人は抱き合いながら水に浸ってさまよい歩いた形跡があること、そうして、やっと深いところへ、この辺ならば沈むに堪えたところ、死ねるに違いないと思われるところにたどりついてはじめて身を横にして、やっと水の来《きた》り沈めるに任せていたという形跡もあったから、とてもそれは、二人相抱いて、高いところから落ち、一気に生涯を片づけてしまったというあざやかな手際にはいかなかったこと、全く無経験無知識な身の投げ方をしている――心中にそうたびたび経験や知識があってはたまらないけれども、それにしても幼稚極まる身の投げ方をしていたことが、見る人をいじらしがらせた。そうして、心中の仕方に於ては、さほど無経験無知識であったにかかわらず、そのたしなみに至っては、打って変って行届き過ぎるほどに行届いていたというのは、つまり、お角さんが、たったいま癇《かん》にさわったとは全く反対の行き方で、二人の身体こそ、がっちりと水も洩らさず帯で結んでいたけれども、女も男も、いついかようになって人目にさらされようとも、強《し》いて剥奪するのでない限り、ちっとも醜態を現わさないように、裏から表までよそおいを凝らしていたということが、今でも賞《ほ》めものになっている。
 これを取巻が、この際、新発見でもしたもののように、そやし立てて、つまりあの心中は、遺書《かきおき》にも書き残してあった通り、女の一方が一つか二つか年上で、弟をいたわるように、心ならずも引かされて死んでやったと見るべきだから、万端の注意があの女の心一つで行届いていたということになって、女のたしなみの鑑《かがみ》でもあるかのように取巻が並べたので、
「いやに女の方にばかり肩を持ちたがるじゃないか」
と、またしても伊太夫から冷かされたが、それでも取巻は一向にめげず、
「全く、あの女子《おなご》はよい女子でしたねえ、こう、少し淋し味はありますが、それがかえって魅力でございまして……いまだに眼についてはなれません。実際、あれが生き返ったのですから、ただは置けない道理じゃございませんか、その当座はひとごとならず気が揉《も》めました」
 その当座だけではない、今もなお気が揉めているから、こんなことも口へ出るのだろう。そこでお角さんが、
「心中の片割者なんか、女ひでりの世じゃあるまいし」
 お角さんにけし飛ばされても取巻はひるまない。
「ところが、かえって一段と気が揉めましてな、どんなまずい女房も、後家になると色っぽく見えると言いますからなあ、片割となってみますと一層惜しいものでした、あの女子だけはただは置けないと、その当座は正直のところそう思いましたよ。もう、二三人の子供が出来てるんでしょうがねえ、今の御亭主の面が見てやりたいです」
「よけいな心配をしたものです」
 お角さんは深く取合わないが、何か一道の魅力がありそうで妙に気が引かれる。
 男を殺して、自分だけが生き残った女の尽きせぬ業《ごう》というものが、ほんの行きずりのこの取巻屋をさえ、いまだに引きつけている魅力というものを以てして見ると、その女も、必ずそれからまた罪を作り出しているには相違ない。
 さればこそ、三輪の里には業風が吹きそめて、藍玉屋《あいだまや》の金蔵はそれがために生命《いのち》をかけた。そこまでは、この一座の誰でもが知らない。とにかく無事に永らえているとすれば、あの女にも、はや二人三人の子供があってよいはずと、その辺にだけ気を揉んでいる間は無事でしたが、その時に船首の方に当って、急にけたたましい声――
「ござった、ござった、正体が届きましたよ、御推察の通り抱合い心中、それそこに流れついた土左衛門とお土左がそれじゃ」
 湖面を見つづけていた船頭の叫びで、水手《かこ》共が、よってたかって眼を皿のようにする。
 二間ばかり近く、波の間に、ふわりふわりと浮いては沈み、沈みては浮び来《きた》る物体がある。予備知識がもう十二分に出来ているから、誰もそれを見誤るものはない。しかも、浮きつ沈みつして、上になり下になり流れ漂う物塊は、人間の死骸が二つ、からみ合ってたがいに放さない形になったまま、見た眼では、まだたしかに息が通っている、生温かな肉塊とさえ見えるのが重なり合って、船をめがけて、からまって来るのです。
 船頭《せんどう》水夫《かこ》も昂奮したが、船上の一座もすくんだように重くなって、立ち上る元気よりは、怖《こわ》いものを見る心持が鉛のようになる。

         六

 事態は重くるしかったけれども、手数は極めて簡単でした。船をめがけて漂い来った二つの抱合い死体は完全にこの船の内部に助け上げられました。その報告を綜合してみると……案のごとく男女の抱合い死体であったこと。
 ことにお角さんの予言的中して神《しん》の如く、男が年上で、女がズッと年下であったこと。
 さりとてお半と長右衛門ほどの相違ではないが、女はお半だとしても、相手がとうてい長右衛門では有り得ない、黒い衣紋《えもん》のうらぶれの三十いくつの浪人風情であったということ。
 帯のない女の衣裳形が、水手《かこ》たちの口の端《は》に上らないところを以てして見ると、これは早くもお角さんのたしなみが与《あずか》って救われたものです。お角さんは従容《しょうよう》として言いました、
「これは心中じゃありませんよ」
 心中でないとすれば、脅迫か。脅迫とすれば力の問題だから、この小娘がどう間違っても、このおさむらいを脅迫する道理はないから、女の子がこのさむらいに無体な脅迫を受けて、水に逃れようとしたのを、男が追いすがって、我がものにした。
 そう解釈してみると、解釈しきれないのは、では、ナゼ男も死んだ、これだけの男ならば、水練がないはずはなし、どう間違っても、この小娘一人を水上に扱い兼ねる代物《しろもの》ではないはずなのに、おぞくも生死を共にして抱合いの形に落ちてしまった。それがわからない。
 がやがや騒ぐ水手《かこ》楫取《かじとり》どもをおさえた船頭が、またも何か驚異の叫びを立てて、
「おかしい……二人とも、ちっとも水を呑んでいねえぞ」
と言いました。
 水を呑まない溺死人ということは、この際、考うべきことでした。
 抱き合って身を投げたものが、浮きつ沈みつ、ここまで漂い来《きた》ることの間に、水を一滴も飲まないということは有り得べきことでない。もし飲んでいないとすれば、それは飲まないのではなく、飲ましめなかったのだ。満々たる水の世界に身を投じて、ともかく、相当の深さまで究《きわ》めたはずのものが、水を飲んでいないということは、あらかじめ水を飲ましめないようにしてあったのか、そうでなければ、舟を出る時に、のみたくも飲めないような生理状態になっていたのか、ということが疑問になるのです。
 この疑問は、物に慣れた船頭が直ちに解釈してくれました。
「それは、この娘に水を飲ませまいとして、このおさむらいが当てたんですよ、一当て当身《あてみ》をくれて息の根をとめて、それから水に入ったんですから、それで女の子が水を呑んでいない――おさむらいの方は、何か別に仕方があったんでござんしょう、そうでなければ疲れてうっとりと来てしまったんでござんしょう、とにかく、どっちも、まだ脈はあるんですぜ」
 二人の生命《いのち》にまだ見込みのあるということを、物に慣れた船頭が保証しつつお角さんに報告しました。とにかく、そこで二つの生命は引上げられたわけです。まだ生命としては、どっちのものかわからないながら、水中から船の上へ取上げられて、そこで、心得ある人々に介抱されて、専門家こそ乗合わせていなかったが――道庵先生の如き専門家が居合わせなくてかえって幸い――物に慣れた人から完全に生き返ることを保証されて、何はともあれ安静のところに置くことが養生第一として、船の一室に、無事に納められました。伊太夫は、この二人の遭難者を、わざわざ席を立って見に行こうとはしなかったが、かりそめにも自分の主となった船の中で、二個の生命を収得し得たことを満足としないわけではない。お角さんとしては、実際に立会って、つぶさに二人の者を観察したようですが、その報告はまだ纏《まと》まって伊太夫の前に齎《もたら》されず、また齎される遑《いとま》もなく、取巻子は幾度か同じような場所で、同じような情景を見せられることに奇異の感情を加えただけで、何が何やら煙に巻かれているような事体のうちに夜が明けなんとしました。
 夜が明けかかると、今までの霧にこめられた湖面の白さとは性質を異にした、光明を含んだ白さが湖上に流れ出したと見ると、それにつれて、ようよう霧も亡び去って行く。霧の晴れ間を湖水がひたひたと侵略して行って、夜が全く明けた時分に、船がピタリと停った前面を見ると、もう竹生島の全面が行く手にうっすらと、墨絵がにじんだように浮んでおりました。

         七

 朝まだき、伊太夫の大船が、竹生島の前に船がかりしてまだ動かない先に、一隻の早手《はやて》がありまして、これは東の方から真一文字に朝霧を破って走りついて来ました。走りついたというけれども、伊太夫の船に向って走りついたわけでないことは、その来《きた》るところの方向が全然違っていることでもわかる。たとえば、伊太夫の船が大津を出でたとすれば、この早手は、その反対側の長浜方面から走って来たものであることは確かです。そうして朝霧を破って、なお急調で走って行くくらいですから、昨宵の霧も、昨晩の霧も、同様の整調で破って来たと見なければなりません。
 そんならば、同じように、この竹生島めざして舟がかりをするかと見ればそうではなく、霧が破れようが、夜が明けようが、急ピッチは変らない。名にし負う竹生島もよそにして、漕ぎ行くことは矢の如く、その行手は、ちょうど、夜明け前に平面毒竜が盃《さかずき》を追うて流れた方向に向って急ぐのですから、めざすところは湖中の何物でもなく、湖岸のどの地点にかあるのでしょう。
 急ピッチで、竹生島の眼前を乗打ちをしながら、さいぜん船がかりをしたばっかりの、伊太夫の大丸船《おおまるぶね》を朝もやの中から横目に睨《にら》んで、この早手の中の一人が言いました、
「あれが百艘《ひゃくそう》のうちの一つなんです、あの船が、木下藤吉郎の制定した百艘船の一つなんです、今はすたりましたが、一時はあの大丸船でなければ、琵琶湖に船はありませんでした、船はあっても、船の貫禄がなかったものです」
 こう言って、相対した一方の人に向って説明をしますと、その相対していた一方の人というのが無言で頷《うなず》いているのにつけ加えて、
「竹生島が朝霧の間に浮いて、あの大丸船が一つ船がかりをしている、湖面がかくの如く模糊として、時間と空間とをぼかしておりまする間は、我々も太古の人となるのです、太古といわないまでも、近江朝時代の空気にまで、我々を誘引するのですが、夜が明けると、近頃の琵琶湖はさっぱりいけません、沿岸には地主と農民の葛藤《かっとう》があり、湖中にはカムルチがいたり、塩酸が流れたり……この湖水を掘り割って北陸と瀬戸内海を結びつけたら、舟運の便によって、いくらいくらの貿易の利が附着する、また湖水を埋め立てて、何千|頃《けい》の干潟《ひがた》を作ると何万石の増収がある、そういうことばかり聞かせられた日には、人間の存在は株式会社の社員以上の何ものでもありません。人生はすべからく夢を見ることですな、人生から夢を奪うのは、琵琶湖をすっかり干し上げて、田畠《でんぱた》に仕上げるのと同じことです、少なくとも我々は、今のうちに夢を見て置かなければならないでしょう、まだまだ夜と朝とは、我々を誘《いざの》うて古《いにし》えの夢を見せるに足るの琵琶湖であり得ることを、せめてもの幸いとしなければなりません」
 早手は早くも竹生島の前面をかすめ去って、問題の大船も後ろに見るくらいに、急行をつづけているにかかわらず、舟の中の人は、年代を超越した悠長さで、時代と歴史とに向って感想を発しました。これはたしかに不破の関守氏に相違ありません。
 現に胆吹王国の総理であり、参謀総長を兼ねていたはずの不破の関守氏が、急に水上の人となり、早舟の急がせ方はこうも急調なるにかかわらず、語るところのものは頗《すこぶ》る悠長です。しからば、その相手となっているのは何人か。近ごろ近づきの青嵐居士と、不破の関守氏とは、よく話が合う、今日もその人を同行の、釣の脱線かと見るとそうではないのです。関守氏の相手に控えている人間は、決して青嵐居士のような饒舌家《じょうぜつか》ではない、あくまでも関守氏に喋《しゃべ》らせて、自分は、言語と態度を極度に惜しむかの如く、傲然《ごうぜん》として、それに聞きいるだけの姿勢にいる。しかも、不破の関守氏も御免を蒙《こうむ》って、一種風雅な檜笠をかぶっているが、これは日を避けんがための実用として容赦さるべきにかかわらず、前に対して彼の話を受入れているこの人は、最初から覆面の仕通しです。
 苟《いやし》くも人に対して正坐する時に、己《おの》れの覆面を取らずしてこれに対するということは、非常なる無礼であり、傲慢でなくて何であるか、臣下に対してさえも、対坐には相当の礼があるべきもの、それにこの人は、不破の関守氏ほどの人物を前にして、覆面のままで、傲然としてこれに応対し得る強権の人。誰彼と言おうよりも、当時これだけの権式を持ち得る人は、胆吹王国の女王様以外には、その人のあるべきはずがない。
 平明に言ってしまえば、この早手の中の対坐の客は、お銀様に対する不破の関守氏であって、それに従者が一人、神妙に後ろの方に控えていると、蓑笠《みのがさ》をつけた舟夫《せんどう》が一人、勇敢に櫓《ろ》をあやつっているだけのものです。
 早手は急ピッチを変えず、島も大船も見えずなり、それにまたもや一陣の霧が、一むれ襲うて来たものですから、四辺《あたり》は煙波浩渺《えんぱこうびょう》たり、不破の関守氏の懐古癖が充分に昂上を見たと覚えて、
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大船の――
かとりの海に
いかりおろし
いかなる人か
物思《ものも》はざらむ――
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 朗々たる名調子で、一種独得の朗詠が湖上の上に漂いました。

         八

 湖面が再び白殺《はくさつ》されて、夜が明けたのか、月が出戻ったのかわからないような気分のうちに、大船も、早手も、みんな隠れてしまっている。その中から、不破の関守氏のいい心持になった懐古の饒舌が続いている、
「いい歌です、ともかく大湖の面《おもて》に船がかりして、ああして安定しているあの大船を見ると、まずこの歌が心頭に上って来ます、単にいい歌とか悪いとかいう批評を超絶した歌です、大きな鳴動であり、大きな姿勢ではありませんか、古今無双です、まさに天地の間《かん》に並び立つものがありませんな」
 関守氏が自己陶酔的に感歎している。その傍らから、お銀様の傲然たる声音《こわね》で、
「それは、かとりの海――この琵琶湖のことじゃありません、琵琶湖は大きいのなんのと言っても、涯《かぎ》りの知れた湖です、かとりは海ですからね」
「なるほど……そうおっしゃられると、拙者もそこに、かねがねの疑問を持っていたのです、お言葉通り、かとりの海と人麿《ひとまろ》は詠みました、かとりといえば、たれしもが当然、下総《しもうさ》常陸《ひたち》の香取《かとり》鹿島《かしま》を聯想いたします、はるばると夷《えびす》に近い香取鹿島の大海原《おおうなばら》に、大船を浮べて碇泊した大らかな気持、誰もそれを想像しないわけにはいかないのですが、拙者はこの歌を酷愛する一人であるにかかわらず、この歌の持つ空間性に、まだ疑いが解けきれないというのは、第一、柿本人麿《かきのもとのひとまろ》という人が、あの時代に、東《あずま》の涯《はて》なる香取鹿島あたりまで旅をしたことが有るかないかということです。その次には、下総香取の海とすれば、香取のどの地位に船を碇泊せしめたかということです。下総の香取に大船津《おおふなづ》というところがあるにはありますが、仮りにあの辺に船を回漕せしめたとしても、その船は、どういう船の持主によって、ドコの浜から回航されたかということ……一説によりますると、ここのいわゆるかとり[#「かとり」に傍点]の海というのは、下総常陸あたりをあげつらうべきものでない、大津の宮に近い湖岸の一角にかとり[#「かとり」に傍点]の浜、或いはかとり[#「かとり」に傍点]の海と呼ばれた地面、或いは水面が、その当時存在していたのだ、ということを言いますが、或いはそれが正しいかも知れません。そういうことは、池田良斎がよく知っています、我々無関門の鑑賞者は、まずその歌の持った無限に大きな音階と、姿勢に打たれるだけでよろしい、和歌といえども、大きなものになると、誦《しょう》すべくして解すべからずでよろしい。たとえば、他に人麿の歌にしてからがです、
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ともし火の
明石大門《あかしおほと》に
入らむ日や――
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 吟じてごらんなさい、声は千年の深韻を以て響き、調べは千古の心に微妙に沁《し》み渡るです。拙者はこれがまた大好きな歌の一つでしてね、これを吟ずると陶酔するです。ところが、この歌の全体の解釈に至ってみると、人麿が西海から帰る時の歌だか、西国へ向って出て行く時の歌だか、その帰趨《きすう》が甚《はなは》だ不明瞭を極めてくるという次第ですが、そういう解釈の如何《いかん》にかかわらず、その想に驚き、調べに酔わされることは渾心的《こんしんてき》です」
 お銀様を前にして、こういう歌物語をはじめている。広長舌は必ずしも弁信法師の専売ではない、ということはわかるのですが、いったい今時、船をこんなにまで急がせながら、乗り手ときてはこの通りの悠長さ、それに第一、女性の方は女王であり、男性の方はその総参謀長であるべき身が、二人ともに山を出てしまったのでは、留守のことも思われるではないか。
 そもそもこの二人は、何の要あってか、かくも急行船に乗り、いずれの地に向って走り行くものか。沿岸に向って、遠く大津朝廷の故事を偲《しの》び奉り、或いは藤樹先生《とうじゅせんせい》の遺蹟に巡礼するというようなことをするには、他にその人もあり、時もあろうというもの。行きがかり上、風流をこそ談ずるらしいが、少なくともこの二人が舟を急がせて行く以上は、左様に漫然たる遊歴の旅ではないにきまっている。
 そこで、この行程の底を割ってしまえば、実は不破の関守氏のたっての献策で、お銀様を父親伊太夫に会わせにやるのです。
 父といえども、来《きた》り見るなら格別、行いて礼をすべきなんらの心構えを持たないという女王様を、不破の関守氏が説いて、口説《くど》き落して、自分が介添《かいぞえ》となって、いま大津の宿に逗留の日を送っているという父の伊太夫を、これから訪問せしめようとすることに成功して、善は急げと急ピッチを上げさせた、これがこの早手の飛ぶ使命の全部なのです。
 訪ぬべき当の主《ぬし》は、今し問題の大船にあって、竹生の島の前面に船がかりをしているのだから、かくも急ピッチで早手が大津方面へ乗りつけてみたところで、その当座は当然行違いにきまっている。そういうことは知ろう由もない不破の関守氏には、この女王を父に会わせれば会わせるで、そこに相当の秘策がある。この女王様を父と会わせるに就いては、自分が介添となるべきことを最も有利なりと信ずるものがあればこそ、彼は女王を擁して、善は急げで、内外の多事多端なる責任の地位を抛擲《ほうてき》して急行しつつあるものでしたが、その秘策のいかなるものであって、成功すべきや、せざるべきやは未来の疑問としましても、お銀様の黒幕にこの人がいることは、伊太夫の傍らにお角さんが取巻いているよりは、遥かに智嚢《ちのう》が豊かで、舞台が大きいことは申すまでもありますまい。

         九

 西国旅行をかこつけに、そこは親心の甘さで、胆吹王国のやんちゃ娘の行動視察を眼目とする伊太夫が大津にいない時に、お銀様と不破の関守氏の一行は大津へ着きました。
 当座の行違いになってしまったのですが、その際、当座の在と不在の如きは、さのみ問題ではない。関守氏は、目的地に着いたからといって、驀直《ばくじき》に目的に向ってこせつくような軽策を取らない。悠々としてお銀様を押立てて別に宿を取って長期の形を構え、副目的が主目的を牽制しつつ、その帰るを待つことを遅しとしない策戦を取りました。
 この総参謀長不破の関守氏は、女王様を盛り立てて、これに絶対服従の範を示すと共に、一方には女王様を後見して、これを教育するの心がけを忘れない、ただ、その教育ぶりがあくまで六韜三略的《りくとうさんりゃくてき》であることが、この人の特徴になっている。美濃に縁があるだけに、竹中半兵衛式の芝居がついて廻るように思われる。その点に於ては、この人も、お角さん同様の興行師的素質を多分に持ち合わせていると見なければならない。ただしかし、野心満々たる不破の関守氏が、お銀様を動かして父に会わしめようとする魂胆の裏には、やはり、伊太夫の金力があると見なければならないことは確実だが、お角親方の方は、いかに腕によりをかけてみたところで、タカが仕込みとか仕打ちとかの融通の水の手がつなげればよろしい、あえて伊太夫の身上にビクとも響くものではないが、不破の関守氏などにへたをやられると、一国一城を寝かしたり起したりするくらいのことはやり兼ねないから、伊太夫の富といえども必ずしも気は許せない。しかし、いいことにはみな善人です。不破の関守氏は野心家なりといえども、本来、野心そのものを楽しむ、これも一種の芸術家であって、破壊と復讐とを念とする革命家ではないから、この点は充分の御安心を願っておいてよろしいのです。
 とにかくに、この早手は翌日の夕方、無事に大津の石浜に着くと同時に、早くも宵闇《よいやみ》にまぎれて、町のいずれかに姿を消してしまいました。
 大津の町といえども、伊太夫でさえ騒々しさを避けるくらいの時代でしたから、空気がなんとなく動揺している間へ、こっそりと上陸したこの一行は、別段、出迎えるものもなく、目ざされる憂いもなく、ほんとうに尋常な気分で着いて、尋常な気分で散じてしまったのは、一つは不破の関守氏の用意のほどもあることでしょう。
 かくて不破の関守氏は、お銀様を、本陣へも、脇本陣へも、自分もろともに送り込むことをせずに、いつ、何によって、ドコへついたという形跡もないようにして、その翌日になるとお銀様は、もう長安寺山の牛塚の上、小町の庵《いおり》へ、十年住み慣れたもののように納まっておりました。
 昨夜、お銀様をここに納めて置いてからの不破の関守氏は、胆吹から率いて来た一僕を召しつれて、忽《たちま》ち市中郊外のいずれへか姿を消してしまいました。
 ここにお銀様の当座の庵は、関寺小町《せきでらこまち》の遺跡だということですが、それは確《しか》とした考証があるわけではありません、小町の晩年が、関寺にロマンスを残すのは、小町らしい時とところとを得たものであるが、史実としては、どの辺まで真実か、それはわからないが、小町と関寺とは切っても切れない余生の道場として残されているから、しかるべきところへ、しかるべき土を盛りさえすれば、それが小町塚になり、しかるべきところへ、しかるべき庵を結びさえすれば、小町庵となるべきものです。お銀様がいま納まった庵も、小町をいただくにふさわしい形勝の地でないということはありません。
 形勝というよりも、第一、便利なことです。土地柄が町とは離れているが、街道とはさのみ遠くはない。高観音《たかかんのん》の右に当って、当然、地は長良山《ながらやま》の一角で高層を成しているだけに、市中並びに人馬の喧噪からは相当隔離されているし、そうかといって、煙塵を絶ち、米塩に事を欠くほどに浮世離れはしていないのですから、かりそめの閑者を扱うためには甚だ便利がよいのです。それに加うるに、婆やが一人いて、留守番を兼ねて、身の廻りのことは何でもしてくれる、そういう好都合を、あらかじめ抜かりなく打合わせて、女王様の我儘《わがまま》が妨げられない生活が、来着同時に実現されることになったのは、単に不破の関守氏の働きというのみではなく、およそ湖上湖辺のことに関する限りに於て、ドノ辺の淵《ふち》にカムルチが棲《す》み、どの辺の山路にはムラダチが生えているということをまで心得ている、かの知善院寄留の青嵐居士のよそながらの斡旋《あっせん》が、大きに与《あずか》って力あるのでないかと思われることです。すなわち、青嵐居士の添書《てんしょ》で、居士の知人であるところの、この長安寺の住職へあらかじめ諒解が届いていたものですから、万事が極めて素直に運んでいるのだろうと思われることです。
 青嵐居士といえば、あれから早くも、胆吹王国のオブザアバーとなって、今では自分から興味をもって、あの上平館《かみひらやかた》の留守師団長をつとめているのです。あれだけの人物を留守師団長として留め得たればこそ、女王様も、参謀総長も、かく安心して、悠々乎たる、自適然たる旅――というよりも外出の程度なのですが、それができるというものでしょう。事実、留守師団長というよりは、この人の存在は、胆吹王国の女王代理、臨時総理の役目をまで兼務しているのでありました。

         十

 お銀様を小町塚の庵《いおり》に安定せしめて置いた不破の関守氏は、その夜は引返し大津の本陣の、つまり伊太夫の宿についたようでしたが、翌早朝には、例の一僕を召しつれて、旅装かいがいしく本陣を立ち出でました。
 出がけに、程遠からぬ小町塚の庵へ立寄った不破の関守氏は、縁に腰をかけて、敷居越しにお銀様に向って話しかける様は、
「あいにくのことで、行違いとなりました、御尊父は船で竹生島詣でにおいでになった、そのあとへ我々は乗込んだという次第です。しかし、ホンの外出の程度ですから、直ぐに戻っておいでになる……といっても、今日明日というわけには参りますまい、単純な竹生島見物だけですと、日帰りにもやってやれないことはないですが、なんにしても避難の意味を兼ねての船出なんですから、存外、日数を要するかも知れません。湖辺湖岸は、御承知の通り物騒で、宿々の旅籠《はたご》がかえって体よく客を追い立てるという際ですから、鄭重な客には湖上への避難をおすすめ申してはおるようなものの、それとても限度がござります、長期ならば長期のように、心構えをしてお待ち申すだけのことですが、長期と申しましても、先は見えているのですから」
 そのことの報告を兼ねて、お銀様に長期応戦の秘策を授け、自分は身軽く立って、その裏山から尾蔵寺《びぞうじ》の歓喜天へ出て、それから長等神社《ながらじんじゃ》の境内《けいだい》を抜けて小関《おぜき》越えにかかりましたのです。
 小関はすなわち逢坂《おうさか》の関の裏道であって、本道は名にし負う東海道の要衝であるにかかわらず、この裏道には、なお平安朝の名残《なご》りをとどめて、どうかすると、深山幽谷に入るのではないかと疑われたり、義朝《よしとも》一行が落武者となって、その辺から現われて来るのではないかと疑われるような気分にもなります。
 不破の関守氏は、笠も軽くこの小関越えをなしながら、きこりやまがつに逢うと、おさだまりのように、
「この道を真直ぐに行くと山科《やましな》へ出ることに間違いはありますまいな。時に、この道中には目洗い地蔵というのはございませんか」
 そういうような発問をして、道を誤らずに山科街道まで出てしまいました。
「奴茶屋《やっこぢゃや》はドコになりますか、柳緑花紅の札の辻はどちらですか」
 この質問はナンセンスでした。不破の関守氏らしくもない愚問で、二つの異なった方向を同時に質問したのですから、いわば碁を打つにあたって一度に二石を下ろしたようなもので、徒《いたず》らに相手方を当惑せしむるに過ぎません。それでも、奴茶屋は右へ進み、追分の札の辻へは左へ小戻りをしなければならないことを教えられて、暫く立ちどまって首を傾けていたが、暫くして、次なる旅の人をつかまえ、
「山科の光悦屋敷というのはまだ遠いですか。では大谷の風呂の方は……この地点から、まずどちらへ行くのが順で、どちらへ行くのが近いですか。ああ、そうですか、左様でございましたか、しからば、その大谷風呂の方から先に……何とおっしゃる、そのあいだに有名な走井《はしりい》の泉があって、走餅を売っておりますから御賞翫《ごしょうがん》くださいですって、よろしい、いただきましょう。では、そういうことに」
 途中での道案内を、そのまま素直に受けて、不破の関守氏は街道を小戻りをして、大谷風呂というのを目ざして進んで行きました。
 その間《かん》、東海道に名の高い走井の水、それを飲み、同時に名物の走餅、それを味わう気になって関守氏は、そのあとをたずねてみると、教えられたところあたりに乙女の花売りが一人いる、それに向ってたずねてみると、
「走井の井戸は、この石垣のうちにあるのでおますが、ごらんの通り、今ではもう人様の御別荘に買われてしもうたから、旅の方も気儘《きまま》に見るというわけには参りまへんのや」
「はは、公有の名物が、私人の所有に帰してしまったのですか」
 関守氏は、強《し》いて走井の泉を見なければならぬ使命というほどのものを感じていない、盛名の妓《ぎ》がいつかは知らずしかるべき旦那に身受けをされて、囲われたような気分がして、
「では、割愛しましょう」
 野山の花が名門の苑《その》に移し植えられたからといって、その花にいささかも関心のない者が、あえてさのみ執着を持つべきではない。不破の関守氏はあっさりと、走井見物を思いあきらめて、大谷風呂に向って進もうとすると、花売りの方でかえって残り惜しげに、
「でも、何なら、御別荘にはお留守がいらっしゃいますによって、たずねてごろうじませ、手軽う見せて下さるのやろうと存じますさかい」
「そうですか、たとえ個人の所有に帰したとはいえ、手軽に見せてもらえるならば、見せてもらった方が、見せてもらわないよりはよろしい、ひとつ門を叩いてみましょうかな」
 不破の関守氏も、つい、その気になって、小戻りをして、走井の別荘の門をおとのうてみる。犬が吠《ほ》える、同時に小門の下から夥《おびただ》しい小犬が走り出して来て、関守氏の足もとにまつわる、同時に、中では吠える親犬をしまい込む家人のあわただしい物音が聞えたが、やがて門が内から開かれて、
「お越しやす」
 極めて尋常な女中が一人、現われました。
「有名な走井の水というのは、あなたのお家にあるのですか、旅の者ですが、一見させていただきたい」
「おやすいことでおます、どうぞ、こちらへお入りやして」
 女中に導かれるまでもなく、門からつい一足の右手は、花崗石の高さ三尺、径四尺ぐらいの井筒《いづつ》があって「走井」と彫ってある、そこから滾々《こんこん》と水を吹き上げている。
「ははあ、これが走井の水ですか、一杯頂戴――」
 関守氏は柄杓《ひしゃく》を取って、うがいをして、呑みたくもない水をグッと一口試みてから、
「で、走餅というのは、もうこの辺にございませんか」
「ええ、もう、代《だい》が変りやはりまして」
「そうですか、どうも有難う、お手数をかけました。犬の子が盛んに蕃殖をいたしつつありますな」
「はい」
「いったい、今はどなたの御所有に帰しているのですか、この御別荘と、それからこの井戸は」
「寒雪先生の御別荘になっていやはります」
「寒雪先生とおっしゃるのは、あの樫本寒雪先生《かしもとかんせつせんせい》のことですか」
「はい、左様でござります」
「そうでしたか、寒雪先生、東海道名代の名物を自分の垣根に取込んでしまうなどは心憎い。そうして先生は、時々これへおいでになりますかな」
「はい、月に一度ぐらいはお見えなさりやす」
「絵を描きにおいでになるのですか、ただ休養にだけいらっしゃるのですか」
 不破の関守氏が、よけいなことまで口に出して聞いてみたのは、樫本寒雪といえば当時、聞えたる有名の画家であって、絵の方に於ても一代の名家だが、貨殖も相当なもので、なかなかに豪奢《ごうしゃ》な生活を営んでいるということも聞き及んでいる。到るところに幾つもの別荘を構えていて、この別荘の如きは、ホンの小附《こづけ》の一つに過ぎまいと思われる。関守氏は走井のほかには、家の建前や庭のこしらえなどにはあまり心をひかれなかったものと見えて、そのまま辞して、早くも大谷風呂の前まで到着しました。
 だらだら坂を少し上って行くと、門があり、植込がある。玄関へかかって、
「頼もう、旅のものでござるが、一風呂浴びさせていただきたい」
 しばらくは返答もなかったが、ややあって、
「お越しやす」
 ようよう現われたのは、やはり女で、しかも今度のは丸髷《まるまげ》のすごいような大年増、玄関に現われるや否や、不破の関守氏と面《かお》を合わせて、
「あら――関守の先生でいらっしゃるわ」
「やあ、これはこれはお宮さん、珍しいところでお目にかかりましたな」
 不破の関守氏が、熱海海岸の場の貫一さんのような発言をして、さすがの策士も、ちょっと度胆《どぎも》を抜かれたようでしたが、先方も相当、心臓を動揺させたと見えて、
「どうしてまあ、関守の先生、いつごろ、こんなところへ――何はともあれお上りやして……」
 十二分の面見知《かおみし》りであるらしい相手で、すっかり納まり込んだ関守氏は、玄関に腰うちかけていい気持で草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解く。
 それにしても、今日は関守氏、ことのほか艶福の日と見えて、走井の水をたずねた時は花売りの乙女――寒雪画伯の別荘で名所を見せてくれたのが極めて尋常ながら、これも年に於ては不足のない妙齢の処女、こんどこのところへ来て見ると、現われたお宮さんがすごいような丸髷の大年増ときている。しかも、それも双方相当の前知ということであってみると、穏かでない。だがしかしここに現われたお宮さんは、富山家《とみやまけ》の令夫人としては少々凄味が勝ち過ぎているし、ここを訪うて来た関守氏は、貫一君としては少し白髪が有り過ぎる。まずまあ、これも安心して置いてよろしい。

         十一

 長安寺の小町塚の庵《いおり》に残されたお銀様は、決して、しかく緩慢にして悠長なものではありません。お銀様は憤《いきどお》っている、いかにして何物を憤っているかということは、前巻の終りに次のように記されてあったはずです。

[#ここから1字下げ]
「胆吹の御殿ではお銀様が憤っている。
 お銀様は絶えず憤っている人である。その人が、憤りの上にまた一つの憤りを加えた。
 何を憤っている。
 お雪ちゃんという子が、恩を忘れて裏切りの冒涜《ぼうとく》の行動をしている、それを憤っているのか。そうではない。
 竜之助という男が、無制限の放縦と、貪婪《どんらん》と、虚無に盲進する、それを憤っているのか。そうでもない。そんなことはこの暴女王にとっては、憤慨ではなくて、むしろ興味である。
 そもそも、この暴女王が今日に及んで、かくも深く憤りを発しているという所以《ゆえん》のものは、己《おの》れの夢想する王国が、土台からグラつき出したから、それを見せつけられるがために憤っているのに相違ない。
 人間というやつは度し難いものだ、人間というやつは救うよりは殺した方が慈悲だ、とさえ、ややもすれば観念せしめられることの由を如何《いかん》ともし難い。
 ナゼならば、彼女は己れの強力を傾注して、有象無象をよく生かしてやらんがために事を企てているが、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴はない! いや、ここに来る奴、集まる奴にロクな奴がないのではない、およそ生きんことを欲する人間にロクな奴がない! という断案を得ようとして、それを得させまいがために、自ら苦心、焦慮、憤慨しているのである。
 もし、こういう論理を許すとすれば、自分の王国主義を、甘んじて虚無主義に屈服せしむる結果となる、それでは絶滅の使徒、虚無の盲人に笑われるばかりだ。生の哲学から、死の哲学に降服を余儀なくされるばかりだ。
 彼女は、ここに働く人間共の表裏を見せつけられる。人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために、表面追従するだけで、生の拡大と鞏固《きょうこ》とを欣求《ごんぐ》するような英雄は一人も来やしない。彼等の蔭口を聞いていると、この王国を愚弄《ぐろう》し、わが暴女王の甘きにタカるあぶら虫のような奴等ばかりだ。こんな連中に世話を焼いてやるべきものではない。残らず叩き出して出直させるに越したことはない! とさえ、この女王を思い迫らせる。
 王国の門を鎖《とざ》し、垣を高くして、いま来ている奴等を残らず叩き出して、新たに出直さす――と言ったところで、彼等をどこへ、どう叩き出して、どこから出直させる。所詮、母の胎内へ押戻して、再び産み直させるよりほかに道はない。
 お銀様は、この深い憤りを抑《おさ》えて、御殿の一間から琵琶の湖前をながめている。
 憤っているのは、お銀様ばかりではない。道庵というような出しゃばり者を別にしては、誰も彼もが、みんな憤っている――ように見える。およそ今の時勢に、笑ってなんぞいられる奴はない。
 お銀様が、これを深く憤っている時に、城下――御殿下とか、屋敷下とかいうよりは、ここからは城下といった方がふさわしい、胆吹御殿の城下がにわかに物騒がしくなりました。春照、弥高の里で、早鐘が鳴り出しました。
『一揆《いっき》が来るぞ!』
『百姓一揆が押して来たアー』
 どこからともなく響く号叫」
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 これが大菩薩峠第十八巻「農奴の巻」の終りの一章でありました。
 お銀様はこの一室に納まって見ると、かなり閑雅で、小町の名を冒《おか》して恥かしからぬ古色もあるにはあります。床の間には掛軸があって、長押《なげし》には額面がある。書架があり、経机があって、一通りの調度がととのっている。茶の間には茶道具一式があり、行燈《あんどん》もあり、火鉢もある。お銀様が来ても、そこへ坐りさえすれば、あとはもう召使を呼ぶだけになっている。これはあながちこの女王様を迎えんがために、調度を急いだというわけではなく、前住者がついこの間まで居抜いたものを、そっくり置き据《す》えただけのものであります。
 床の間の掛軸の、懐紙風《かいしふう》に認《したた》められた和歌の一首――
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花のいろは
 うつりにけりな
   いたつらに
  わか身世にふる
    なかめせしまに
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 ここにあるべくしてある文字で、かえって当然過ぎる嫌いはあるが、さりとて、侮るべき筆蹟ではない。筆札《ひっさつ》に志あるお銀様が見ても、心憎いほどの筆づかいであったのは、それは名家の筆蹟を憎むのではない、どうやらこの文字の主《ぬし》が、やっぱり女であると思われることから、お銀様の心を幾分いらだたしめました。
「わたしにも、このくらいに書けるか知ら」
 書いた主は何人《なんぴと》だかわからないが、女の筆のあとと見込んだばっかりに、お銀様が嫉妬心を起したのも、この人としては珍しくありません。ことに行成《こうぜい》を品隲《ひんしつ》し、世尊寺をあげつらうほどの娘ですから、女にしてこれだけの文字が書けるということ、そのことにある嫉《ねた》みを感じ、同時に自分もこのくらいに書けるか知らと僻《ひが》んでみたまでなのです。床の間の傍らに、仏壇とも袋戸棚ともつかない一間があって、そこに一体の古びきった彫刻が控えているということは、この室へ入った最初の印象で受取りきっていましたから、今更どうのというわけではありませんが、あれが小町の本当の姿か知らんとお銀様は、その瞬間に感じていたのです。
 その彫刻は二尺ばかりの木彫の坐像で、一見しょうづかの婆《ばば》とも見える姿をした女性が立膝を構えている。おどろにかぶった白髪と、人を呑みそうな険悪な人相と、露《あら》わにした胸に並んで見える肋骨の併列と、布子《ぬのこ》ともかたびら[#「かたびら」に傍点]ともつかない広袖の一枚を打ちかけた姿と言い、誰が見ても三途《さんず》の川に頑張って、亡者の着物を剥《は》ぐお婆さんとしか見えないのでありますが、辛うじてそれがしょうづかの婆さんでないことから救われているのは、片手には筆を持って、垂直に穂先を下に向けた一方の手は薄い板っぺらのような物を持添えて立膝の上に置いてある。その薄っぺらな板のようなものが短冊《たんざく》というものであることを認めることによって、このお婆さんが亡者の衣服を剥ぐことを商売とする人でなく、短冊に対して優にやさしい水茎のあとを走らせることを知る風流の心を持ち得る人種であるということがわかるだけのものです。
 しかし、それほどに、小町というものの通俗にうたわれた容姿風采とは趣を異にしているけれども、彫刻そのものが凡作でない証拠には、この年になっても、どこやらに人に迫るものがある。古《いにし》えは美で人を悩殺したが、今は鬼気を以て人を襲うという凄味があるのは、小町その人の生霊《いきりょう》が籠《こも》るというよりも、彫刻師その人の非凡がさせる業に相違ない。眼の高いお銀様は、早くもこの彫刻の非凡さを見て取って、しかしてこれが小町であることに大なる共鳴を感じました。美人としての小町なんぞは語るに足らない、鬼女としての小町、小町としての本性格は、これでなければならないと、お銀様は入室の最初からその木像を愛しました。
 ただ、気に入らないのは、床の間の一方に、算木《さんぎ》や、筮竹《ぜいちく》や、天眼鏡《てんがんきょう》といったようなものが置き散らされてあることで、これとても、この室の調子を破るというほどではないが、算木とか筮竹とかいうようなものが、お銀様は嫌いなのです。人間の運命を、人間以外の者に向って伺いを立てるというような不見識が、お銀様の常日頃からのお気に召さないのです。
 ようやく、机によって、間近な書架から書を取って検閲をはじめました。読む気ではない、検閲をしてやるつもりなのです。つまり、今までの前住者が、どれほどの教養があった人か、少なくとも、あの木像を守り、あの歌をかけて置くほどのものが、キングや文芸春秋ばかり読んでもおられまい。古えの小町の名を辱《はずか》しめぬぐらいの読書はあってよかりそうなもの、なくてはならぬはずのものと、お銀様は、前住者の器量を見抜くつもりで、書架の書を取って見ると、第一に手に触れた「三世相」――部厚に於ては群を抜いているけれども、これがお銀様の軽蔑を買うには充分の代物《しろもの》でありました。取って投げ出すように「三世相」を下に置いて、次の大判の唐本仕立てなるを取って見ると「周易経伝《しゅうえきけいでん》」――
 お銀様は「三世相」の余憤を以て、そこにも若干の軽蔑を施しつつ、でも、これは一概に投げ出すようなことをせずして、不承不承に丁《ちょう》を繰りながら読み下してみました。
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「乾 元亨利貞 初九潜竜勿用 九二見竜在田 利見大人」
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 何のことかさっぱりわからない。お銀様の学力を以てすれば、文字だけを読み砕くには何の不足もないが、こればかりは文字あるところに直ちに意味が附着して来るのではない。お銀様は何かしら憤りをこらえて、なお読み進んで行くと、
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「九三君子終日乾乾夕※[#「りっしんべん+易」、第3水準1-84-53]若※[#「厂+萬」、第3水準1-14-84]无咎 九四或躍在淵无咎九五飛竜在天利見大人」
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 いよいよ読み進んで、いよいよ何のことかわからなくなる。
 お銀様は憤りました。

         十二

 易《えき》を読んで、お銀様が腹を立つ、それは立つ方のお銀様が無理です。孔夫子でさえも、五十初めて学ぶという易を、女王様風情で物にしようというのが大ベラボウのもとなんですが、傲慢《ごうまん》と、呪詛《じゅそ》と、増長で持ちきっているこの女には、その分別がつかないのです。
 事実、わかるわからないは別として、現在お銀様には歯が立たないのです。立たないのがあたりまえなのですが、それをそうと素直に受けることのできないことが、この女の持つ重大なる不幸でもあり、生存の根拠でもありましたのです。同時に、この女王はこの書物を征服しなければならないという憤りを発しました。この人は早くから世をすねている、人に面《かお》を合わせることを憎んでいる生活が内面に向って、書を読むことは読みました。おそらく、お銀様ほどの年頃で、お銀様ぐらいの読書家はなく、そうしてその読書の範囲に於ては、曲りなりにも自分の見識の立たなかった書物というものは、まず今までになかったのです。四書五経の如きも一度は目を通したことがあるに相違ないのですが、今日ここで単独につきつけられてみると、ほとんど歯が立たない、というよりも、手も足も出ないのです。文字そのものが異った国の文字であるならばとにかく、文字そのものだけは、立派に読みこなすことができて、意味らしいものが、どうにもこうにも掴《つか》めないことをお銀様は憤激しました。
 この憤激がお銀様を、無二無三に易伝の中へ突入させましたけれども、いよいよ進んで、いよいよ相手にされない。相手にされないだけならまだしも、相手を征服できないことは、同時に自分が征服されるという意地であってみると、もはや我慢ができない。お銀様は易を読みながら創痍満身《そういまんしん》になりました。
「ああ、これは読み直さなければならない、今日まで人間の力で読みこなした人がある以上は、わたしにだって読みこなせないはずはない、もしまた本来、何もわからない出鱈目《でたらめ》が書いてあるものとすれば、これが千年も二千年も世の中に残っているはずはないから、この中にはきっと、人間の中の千人に一人か、万人に一人でなければ理解のできない奥深い真理が籠《こも》っているに相違ない、もしそうだとすれば、自分もその千人に一人か、万人に一人の人になってみなければならない――」
 易《えき》にぶっつかって創痍満身のお銀様が、辛《から》くもここまで反省したことは、さすがでありました。難解には難解に相違ない、いま読んで今わかるという本でないことはわかっている、だが、時日を与えれば、自分もこれをわかってみせる――という持久心を取戻したことが、お銀様のさすがでありました。
 そこで、お銀様は「周易経伝」の巻を伏せて、その一部四冊だけを別にこっちの経机の上に取って置いてから、次へと書棚の検討をつづけました。
 その次に触れたのが「古今集」――これは歯に立つも立たぬもない、自分の家の中庭の花園へ分け入るようなものである。ただ見返しに誌《しる》された、このぬしの墨書《すみがき》が、なかなかに見事で、しかも女の手、そうして、どうやら床の間の「花の色は」の筆蹟と似通っていることだけです。
 どうも女文字ばかり多いが、ことによるとこの庵の前住者というのが、やっぱり女ではなかったのか、そこへお銀様がふと気を廻してみました。そういうふうに気を廻して見れば見るほど、その気分が全体ににじんで来る。そこへちょうど婆やが別棟からお茶を持って参りました。
「婆や、前にここにいらしった方はどんなお方でした」
「はい、あなた様と同じような女子《おなご》のお方でいらせられました」
「ああ、そうですか、で、この御本は皆そのお方がごらんになったのですか」
「左様でございます、書物をごらんになり、お歌をお作りになって、よくこの町の娘衆などにも添削《てんさく》をしておやりになりました」
「そうでしたか、それでは、なかなか学問がお出来になるお方でしたね」
「はい、お身分もすぐれていらしったそうでございますが、学問の方も大したお方で、和歌や文事《ふみごと》のほかに、易をごらんになりました」
「易というのは、あの身の上判断やなにかのことですか」
「はい、易経と申しまするものは、なかなか身の上判断などに使うべきものではない、貴い書物だとおっしゃりながら、それでも、町の人たちが困ってお頼みにおいでになる時などは、あの算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》で易を立てて、噛んで含めるように、ていねいにお諭《さと》しをしておやりになりましたものですから、それがために救われたものも多分にございました」
「易を立てて、身の上判断をして、それで暮しを立てていたのですか」
「いいえ、左様ではございません、お礼物《れいもつ》などは決してお受けになりませんでした、ただ人の気を休めるために筮竹を取るのだとおっしゃいました。お礼などをお受けにならないでも、立派に御身分のあるお方でございまして、大僧正様なども、どうかするとお見えになりましたが、大僧正様と易経のお話をなさいましたことを、わたくしは蔭ながら伺っていたことがございますが、その時におっしゃったお言葉と、身の上判断を頼みに来る人に向ってあそばす易経のお諭《さと》しとは、全く違った見識のもののように承っておりました」
 婆やから、こう言って説明されると、お銀様の心がまた穏かならぬものになりました。
 自分で見ては歯の立たないものを、ここの前住の女庵主は、立派に消化しきっているように思われたのが、お銀様の心を少なからずいらだたしめたもののようです。
 こうして書物の検討をしている間に、夕方から雨が降り出しました。

         十三

 小町塚の雨の第一夜を、お銀様は、しめやかな気分のうちに眠りに就きましたが、お銀様としては、こと珍しい環境のうちに、珍しい夢を見るの一夜であります。
 胆吹御殿の上平館の一室も、静かな一室であることに於ては、ここに譲りません。あるいはここよりも一層、懸絶し、沈静している胆吹御殿の女王の一室ではありましたけれど、女王としての権式を以て寝ね、女王としての支配を以て起きるのですから、放たれたる夢を結ぶということは、まずないことでした。
 しかるに、今晩という今晩は、境《きょう》が変れば心が変るのであって、夢が現実から古昔に向って放たれました。関ヶ原以来、歴史にさかのぼった夢を見ることは稀れでありましたのです。
 まず、夢に入り来るところの人は小町でありました。最初の印象の壇の上の、しょうづかの婆さんに紛らわしい関寺小町《せきでらこまち》が、壇の上から徐《おもむ》ろに下りて来ました。
「どうです、一枚お書きなさいな、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、書いてごらんなさいましな」
 自分の片膝に持添えていた短冊と、右の手に七三に下向きに持っていた筆を取添えて、お銀様の前へ突きつけるのであります。そうして、あなたもあのくらいに書ける手じゃありませんか、とそそのかして、ふいと床の間を振向いたところには、やはり夜前、つくづくと見て、心憎さを感じたところの懐紙風のかけものが、そのまままざまざと浮き出している。
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花のいろは
 うつりにけりな
   いたつらに
  わか身世にふる
    なかめせしまに
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 そう言われると、お銀様にも軽快な競争心といったようなものが動きそめたと見えて、関寺小町のつきつけた筆と色紙《しきし》とに、手をのべて受取ると、いつのまにか受身が受けられるような立場となって、関寺小町の姿は消えたが、「花の色は」の大懐紙の前に、美しい有髪《うはつ》の尼さんが一人、綸子《りんず》の着物に色袈裟《いろげさ》をかけて、経机に向って、いま卒都婆小町《そとばこまち》が授けた短冊に向って歌を案じている。気品も充分だし、尼さんとしては艶色《えんしょく》したたるばかりと見られるばかりであります。
 お銀様は夢のうちにも、その尼さんの姿を、やはり心憎いものだと見ました。どこの何という人か知らないが、その美色はとにかく、気品としては、尼宮様と言っても恥かしからぬ高貴の人のようにも思われるが、短冊を取り上げて、和歌を打吟じ打吟じているかと見ているうちに、その手に持つ筆が、いつしか筮竹と変じ、その膝に当てた短冊が算木となって机の上に置かれてある。
「ああ、前住居の女易者――」
 むらむらと、そんなような気分になると同時に、主観と、客観とが、お銀様の夢の中で混合してしまって、夢を見ているのが自分でなくなって、夢に見られているのが自分でもあるように混化してしまいました。
 お銀様自身が、算木筮竹を持って思案する身になってみると、眼前に現われて、しきりに我を悩ますものは、やはり前夜、これにぶっつかって悩まされた易経の中の卦画《けかく》と、その難解の文章でありました。
 易者としてのお銀様は、算木筮竹をもって吉凶と未来とを占《うらな》っているのではないのです。
 この難解の文字を打砕かんとして苦闘をつづけているのですが、こればっかりは現実で歯が立たなかったように、夢になっても歯が立ちません。
 そうして、現実の時に反抗したと同様の弾力を以て、夢で易経と取組んで、これに悩まされている自分を如何ともすることができません。
 その時、庵外の夜に人のおとなうものがあって、ホトホトと柴折戸《しおりど》を打叩いている。
 はて、深夜にここまで自分を訪ねて来る人はないはずだ、あるにしても、昨晩からここに宿を求め得たということは、自分も予期してはいなかったし、ここへ着いてはじめて不破の関守氏の肝煎《きもい》りの結果なのだから、いずれのところからも、深夜に使者の立つ心当りはないのです。取合わないがよろしいと、お銀様も思案をきめまして、そのまま、また卦面《けめん》に眼を落していると、
「もしもし、女易者様のお住居《すまい》は、こちら様でございましたか、夜分、まことに恐れ入りますが、思案に余りましたことがございまして、お伺い致しました」
 外でするのは、まだ若々しい男の声に相違ないが、その声音《こわね》によって見ると、いかにもしおらしい、死出の旅からでもさまよい出して来たもののような、すさまじさが籠《こも》るので、お銀様の心も妙にめいりました。だが、滅多に返事を与うべきものではない。そこで、返事がないことを、外ではもどかしがっていると見えて、
「もし、後生一生のお頼みでございます、人の魂二つが、生きようか、死のうか、迷い抜いての上のお訪ねでございます、御庵主様にお願いがあって打ちつれて参りました」
 そう言うのは、こんどは、うら若い女の声でしたから、お銀様の胸が安くありません。
 前の声は、まだ若い男の声で、こんどのは同じほどの女の声。その世にも哀れに打叩く声音というものは、全く血を吐くような切羽《せっぱ》のうめきがあることを、聞きのがすわけにはゆきません。
 それでもお銀様は、なおなんらの応対の返事を与えないでおりましたが、お銀様自身よりも、たまり兼ねたものは別室の婆やでありまして、
「どなた様ですか――何の御用でござりましたか知ら」
と言って、起き上った様子です。
 婆やが立ってくれれば、何とか取仕切って帰してしまうだろう。こういう頼みの客に対しては、易者の玄関番としての日頃の商売柄、うまく扱ってなだめて帰すことには慣れているはずだ。お銀様はこちらにあって、そのことを心恃《こころだの》みにしていると、しばらくあって、畳ざわりの音が軽いながら入乱れて、どやどやと、この座敷めがけて続いて来る。
「おや――」
と思っているうちに、隔ての襖がサラリとあいて、次の間に手をつかえているのは案内の婆やと、その後ろの暗がりに白く浮いて見えるのは、たしかに若い男女の者の二人。
 おやおや、たのみ甲斐《がい》もない、うまく扱って帰してしまってくれるとばっかり思っていたのに、その頼みきった婆やが、こちらの一応の内意も聞くことをせずに、先に立って引きつれて来てしまったのでは話にならないではないか。
 だが、つれて来てしまったものは仕方がない、女だてらに声を荒らげて叱り帰すわけにもゆくまいではないか、お銀様も呆《あき》れて襖の向うを見渡していると、白く浮いた二人の男女のうちの一人が、
「お初《はつ》にお目にかかりまする、わたくしが真三郎でござります」
「わたくしは豊と申しまする」
 許されない先に入り来《きた》った男女の者は、問われない先に、自分の名を名乗ってしまいました。

         十四

「こちらへお入りなさい」
 名乗りまでしかけて来られてみると、お銀様もぜひなく、こちらへ招じ入れないわけにはゆきません。招ぜられて二人は、辞することなく、するすると座敷へ通って程よく並んだと見ると、もう案内の婆やの姿は掻《か》き消されてしまって、行燈《あんどん》の下に、しょんぼりと坐っている男女の姿のみを見るのであります。
「夜分、こんなにおそく、恐れ入りましてございますが、七ツの鐘が六つ鳴りまして、あとのもう一つがこの世の聞納めの切ない末期《まつご》に立到りました故に、どうでもお訪ねを致さねば済まないことになりまして」
 二人はこう言って、行燈の下に、お銀様の前に向って、さめざめと泣くのでありました。
「まあ、何はともあれ、心を安めなくてはなりません、わたしで御相談に乗れますことか、どうか、そのことはわかりませんが、せっかくのことに、お話を伺うだけは伺って置きましょう」
 お銀様はこう、二人の気休めに言います。二人は、なげきのうちにもよろこびました。
「御親切のお言葉、何よりの力でございます、そうして、こんなに夜更けて推参を致しましたのは、二人の狭い胸では、どうしても理解の届かないものがございますので、あらたかな御庵主様の御易面《ごえきめん》から見て、御判断を賜わりたいのでございます」
 二人が、また声を合わせてかく言う。そこでお銀様が、ははあ、ではこの男女は、わたしを女易者だと信じてやって来たのだな、若い分別の二人の狭い胸では解釈のしきれない迷路に立って、易者の門を叩くということは有りそうなことだ、だが、戸惑いにも程があるという気位になって、お銀様が夢の中にも笑止の思いを致しました。
「わたしには、易はわかりません、易によって判断などは思いもよらないことで、本来、易というものは、人間の身の上判断をするように出来ている文字ではないのです」
とお銀様の言うことは、理に落ちているんだが、二人はそういう理解を聞きに来たものではないのです。
「お聞き下さいませ、わたくしたち二人の者の身の上と申しまするのは……」
 ここで二人の身の上話を話し出されてはたまらない、というような気分にお銀様が促されまして、
「お身の上をお聞き申すには及びませぬ、現在のあなた方の立場と、本心の暗示とを承ればそれでよろしいのです」
 お銀様にこう言われて、若い男女はたしなめられでもしたように感じたと見えて、
「恐れ入りました、現在のわたしたち二人は、死ぬよりほかに道のない二人でございます、ねえ、豊さん、そうではありませんか」
「あい、わたしは、お前を生かして上げたいけれども、こうなっては、お前の心にまかせるほかはありませぬ」
と女から言われて、男はかえって勇み立ち、
「嬉しい!」
 それを女はまたさしとめて、
「まあ、待って下さい」
「いまさら待てとは」
「ねえ、真さん、死ぬと心がきまったら、心静かに落着いて、もう一ぺん考え直してみようではありませんか」
「ああ、お前は、わたしと一緒に死ぬと誓いを立てながら、その口の下から、もうあんなことを言う」
「いいえ、死ぬのは、いつでも死ねますから、死ぬ前に申し残したいことはないか、それをもう一ぺん、思い返して下さい」
「そういう心の隙間《すきま》が、もうわたしは怨《うら》みです、申し残したいことがあれば、どうなるのですか、わたしはもう、この世に於ての未練は少しもありませぬ、片時《かたとき》も早く死出の旅路に出たい」
「それでも、もし、思い残したことが一つでもあっては、その冥路《よみじ》のさわりとやらになるではありませんか」
「もう知らない、もう頼まない、思い直せの、考え直せのと、ゆとりがあるほど、この世に未練があって、死出のあこがれがないのです、そんな水臭い人、もう頼みませぬ」
「聞きわけのない、真さん、たとえ一つでもわたしが姉、目上の言うことは聞かなければなりませぬ」
「いいえ、年がたった一つ上だとて、夫婦《めおと》の固めをした上は、お前は女房で、夫はわたし、女房というものは、身も心も、みんな夫に任せなければなりませぬ、わしが死ぬというからには、お前も死んでくれるのはあたりまえ」
「真さん、お前と、わたしと、いつ夫婦《ふうふ》の固めをしましたか」
「あれ、まだあんなこと、たった今、お前の命をわしにくれると言うたことを、もう忘れて」
「それは違います、真さん、わたしはお前を好きには好きだけれど、わたしの夫と定めた人は別にあることを、お前の方が忘れている、わたしは、定められた許婚《いいなずけ》の人を嫌って、お前といたずらをしたのです」
「それほどお前、いたずらがいやなら、その定められたお方の方へ行っておしまい、その了見なら、少しも一緒に死んでもらいたくない、一人で死にます、お前の真実心を思うから、死ぬ前に一度会いたいと、ここまで来たのは、わたしの愚痴でした」
「それでも、お前一人が死ぬというものを、わたしが見殺しにできましょうか、昔のことを考えてみて下さい、ねえ、真さん」
「それは、わしの方で言うことです、昔のことを考えれば、いまさらお前が、定まった夫の、許婚のと言われた義理ではありますまい」
「ああ言えばこう言う、お前の片意地――もう聞いて上げませぬ、おたがいにいさかいをするのはもうやめましょうね、こっちへいらっしゃい、黙って死んで上げますから」
「わしも、もう恨みつらみは言い飽きた、黙って死のう、黙って死なして、ね、豊さん、わたしの大好きなお豊さん」
「よう言うてくれました、わたしの大好きな大好きな真さん、さあ、こっちへいらっしゃい、一緒に死んで上げるから」
「わしがお前を先に死なそうか、お前がわしを一思いに殺してたもるか」
「後先を言うのが水臭い、いっしょに死ぬのではありませんか」
「ああ、嬉しい」
「お前、ホンまに嬉しいか」
「離れまいぞ」
「離れまじ」
「未来までも」
「七生までも」
「さあ、お前、これでも生きたいと言わしゃるか」
「ああ、死にたい」
「あれ、真さん、そこは深い」
「深いところがいいの」
「お前ばかり先に深いところへいって、わたしだけが残されるようで、いや、いや」
「そんなら、お前、先にお進みなさい」
「後先を言うのではないはず、後へ引こうにも、先へ行こうにも、二人の身体《からだ》は、この通り結えてあります、動けるなら動いてごらん」
「こうなっても、いやならいやと言うてごらん」
「もう知らない」
「嬉しい、く、く、苦しい」
「わたしも苦しい、水――」
「水――」
「二人は苦しいねえ、真さん」
「二人は嬉しいねえ、豊さん」
 痴態を極めた男女の姿を眼前に見ているお銀様。思案に余って、身の上判断を請うと言って、わざわざ人の寝込みまで襲いながら、人の見る眼の前で、このザマは何だ、相談に来たのではない、心中に来たのだ、しかも、このわたしというものの眼前で、思いきった当てつけぶり、何という愚かな者共。いやいや、わたしが徒然《つれづれ》を慰めんがために、わざわざ芝居をして見せに来たと思えばなんでもない。叱責と嘲《あざけ》りの唇を固く結んで、お銀様が、彼等の為《な》す痴態の限りを為し終るまでながめてやろうと、白い眼に睨《にら》んでおりますと、行燈が消えました。
 闇かと見ると、その行燈の消えた隙間から一面に白い水――みるみる漫々とひろがって、その岸には遠山の影を涵《ひた》し、木立の向うに膳所《ぜぜ》の城がかすかに聳《そび》えている。昼にここから見た打出《うちで》の浜の光景が、畳と襖一面にぶち抜いて、さざなみや志賀の浦曲《うらわ》の水がお銀様の脇息《きょうそく》の下まで、ひたひたと打寄せて来たのでありました。
 その湖のまんなかに、いま見た二つの物影が、浮きつ沈みつもがいている。
 ははあ、今し生命判断を頼んで来た痴態の限りの二人の者、刃《やいば》で死ねずに、水で死ぬ気になったのか、愚かなる命の二人よ、とお銀様は、写し絵にうつるような湖面の一巻の終りを飽くまで見据えて、眉一つ動かそうともしません。
 そのうちに、二人のもがき合った湖面の水が逆まいて、怖ろしく浪立ったのは束《つか》の間《ま》、やがて漫々とまたもとの静かさに返ると、急に闇が迫って――おりからゴーンと三井寺の鐘、あつらえたように、お銀様の夢のうちの耳にまで響き渡りました。

         十五

 だが、夢はそこで破れたのではありません。夢の中なる夢路かなという、人生そのもののうつしのような暗示が、お銀様の枕の上で続いているのです。
 動揺した湖面が平らかになって、三井寺の鐘がゴーンと鳴り響いたことに於て一幕の終りとなったかと言うに、さにあらず、静まり返った湖面の風景は暗転にもならず、引返しにもならないで、そっくりいっぱいの大道具のままに運転をしておりましたのですが、腥《なまぐさ》い風がドコからともなく吹き渡って来て、お銀様の身辺にせまると同時に、湖面湖上いっぱいに黒雲が立ち塞《ふさ》がったものですから、こんなところに長居は無用と、お銀様はそぞろ湖岸を立ち去ろうとすると、突然、湖面の一端が破れて、その穴から、河童《かっぱ》でもあるような、勢いとしては脱兎の如く、浮び出たが早いかかけめぐって、早くもお銀様の行手に立ち塞がったものがあります。
「誰だえ」
「今の、あのわたしでございます」
「おや、お前は、さきほど身の上判断を頼みに来た真三郎さんとやらではないか、お連れのお豊さんはどうしました」
「そのことでございます、あれほどしっかり結びついたものが、とうとう離れてしまいました」
「これはこれは」
「お豊が離れて生きて返ったのか、わたしよりも一層深い底に沈んでしまったのか、それがわかりませぬ」
「やれやれ」
「お豊の行方をつきとめていただきとうございます、そう致しませんと、わたしは死んでも死にきれませぬ」
「それは、わたしの知ったことじゃありません」
 この時、お銀様が厳然として言いました。
「そうおっしゃられると、とりつく島はござりませぬ」
「それも、わたしの知ったことではない、お前さんたちは、あれほど固く結びついていながら、いまさら片方《かたかた》の行方を人に問うなどとは、あんまり虫がよすぎる」
「でも、湖の深い底へ二人が沈んで行きますると、お豊が離れたのです、離れたがったのは本人の意志ではなく、誰か上の方で、あの女の後ろ髪をしきりに引くものがあるので、それでお豊がわたしから離れてしまいました」
「誰が、心中者の後ろ髪なんぞ引くもんですか」
「誰彼と申しましょう、あなた様のほかにはその人がございません」
「何を言います、ではお前さんは、お豊さんとやらの後ろ髪を引いて、この世に引戻したのは、わたしの仕業だとおっしゃるのですか」
「あなたでなくして、ほかに誰がおりましょう」
「ようござんす、では、わたしがそのお節介役《せっかいやく》を引受けたとしましょう、お前さんだけを死なして、あの女子《おなご》を引戻したのがわたしだとしたら、お前さんはどうします」
「恨みます、七生までも」
「恨んで、どうなさいます」
「あなたの身の上にとりついて、一生のうちに必ず、あなたを亡ぼしてお目にかけます」
「おやおや、たいへんな執念ですね、一生のうちに、わたしを亡ぼすとおっしゃるが、一生の後に亡びない生命がどこにありますか」
「いいえ、亡ぼすにもただは亡ぼしませぬ、こうだと思い知らせて上げるだけの亡ぼし方で、亡ぼします」
「なお大変なことになりましたねえ、長い目で見ておりましょう」
「見ておいでなさい、そうら、竜神の森が焼けました、あそこに斬られているのは、ありゃ誰だと思召《おぼしめ》しますか」
「そんなことを、わたしが知るものですか」
「金蔵なんです、金蔵の奴、わたしの恨みで死にました」
「ははあ、では、少し見当違いになりましたね、最初のもくろみでは、わたしの身の上にとりついてやるとおっしゃったようですが、いつのまにか金蔵さんとやらの方へ振替わりましたね、お門違いじゃないかね」
「違いはありません。それから、もっと恨みなのは机竜之助という奴なんです、あれがお豊を自由にしてしまいました、お聞きの通りお豊は、わたしのために死ぬんじゃない、わたしを殺して死ぬんだと、あの時にうわごとのようなことを言いましたが、今ぞ思い当るところがお有りでございましょう、真三郎のために死んでくれたというのは嘘でした、あの人は竜之助の奴のために自由にされたのです、あの男のために死にました、あの男のために死んでやりました、恨みです」
「その机竜之助とやらいう男ならば、かまわないから、うんと取りついておやりなさい」
 お銀様から冷然として言い放されると、水死人は躍起となって、
「それを言われると、わたしの五体が裂けます、お豊もお豊です、わたしを水の底へ追い込んで置いて、自分は立戻って好きな男と勝手な真似《まね》をした女――ですから、あれの末期《まつご》をごらんなさい、鳥は古巣へ帰れども、往きて帰らぬ死出の旅――おっつけ、わたしのあとを追って地獄へ来るあの女の面《かお》が見てやりたい。いいえ、こちらへ来たら、また私は可愛がってやります。お豊、おいで、わたしはお前を憎めない」
「おやおや、たいそう甘いんですね、ですが、その通り、あの人なんぞは本当に哀れむべき人で、憎むべき人ではありませんよ」
「よくおっしゃって下さいました、お豊は憎い女じゃありませんね」
「憎いものですか、あなたのために死んで上げたのも嘘じゃないのです、一人は死に、一人は助かったのも当人の了見じゃありません、運命のいたずらというものです」
「そうかも知れません、人間の力ではどうにもならない――まして、あの気の弱いお豊さんの力などで、この運命の大きな力というものがどうなるものですか、お豊を憎むことは、やめましょう」
「それがよろしいです、あの人は憎める人ではありません、憎むとすれば、憎んでも憎み切れない人が、まだほかにいくらもあるはずです」
「誰を憎んだらいいでしょうね」
「まず運命のいたずらを憎みなさい」
「憎みます」
「その次には、大和の国の三輪の大明神のいたずらを憎みなさい」
「え」
「三輪の大明神の神杉が、お豊さんをあやまりました」
「滅相な、神様を恨むと罰《ばち》が当ります」
「それでは机竜之助を憎んでおやりなさい」
「憎みます、憎んでも憎み足りないと思いますが、残念ながら、今のところは歯が立たないのです」
「植田丹後守を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「薬屋源太郎を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「みそぎの滝の行者を憎んでおやりなさい」
「憎みます」
「竜神八所の人を憎んでおやりなさい」
「憎みます、一人残らず憎みます、まして、あの藍玉屋《あいだまや》の金蔵という奴、室町屋という温泉宿を開いておりましたあいつを最も憎んでやりたい、あいつが、お豊をいいように致しました」
「いいえ、あの男も、それほど憎むべき男じゃないのです、かえって哀れむべき男なのです、最も同情すべき好人物なのですよ。幽霊の戸惑いは落語にもなりませんから、恨むにしろ、憎むにしろ、よく気をつけてしないといけません」
「憎い、憎い、誰もが憎い、お豊の身体《からだ》と魂とを、わたしの手から奪い取って、再び世間のなぶりものにした、すべての人を憎みます、呪《のろ》います、恨みます」
「そう言うお前さんは、真三郎さんという優男《やさおとこ》の本色を失って、どうやら、金蔵さんとやらの不良が乗りうつっているようです」
「そんなはずはございません」
「それでもそうとしか見えません、致されるものが致されてしまいました、人を呪わば穴二つということがそれなんです、あんまり強く人を恨んで人につきたがるものですから、かえって、お前さんが人につかれてしまいました。今のお前さんの狂態痴態というものを見ていると、京の六条でうたわれた大家の坊《ぼん》ち真三郎はんの本色は少しもなく、あの三輪の里の不良少年が、そっくり乗りうつりの形になっておりますよ、お気をおつけなさい」
「左様でございましたか、つい、とりのぼせましたために、見苦しいところをごらんに入れて、まことに相済みません、改めて自省を致します」
「殊勝なことです、そういう和《やわ》らいだ気持になることが自分を救います、同時に人を救うわけになるのですね、憎み、恨み、呪うことによって、決して、自分も、人も、救われるということはありませんからね」
「有難うございます」
「昔の真さんにおかえりなさい」
「そう致しましょう」
「真さん」
「はい」
「京の六条の蔦屋《つたや》の坊《ぼん》ちの色男の真三郎さんは、あなたですか」
「はい」
「人を憎むことをやめて、人を愛しましょうよ」
「はい」
「そんなに、しゃちょこばらないで、こっちへいらっしゃいよ」
「はい」
「わたしも淋《さび》しいんです、秋の夜長でしょう、小町塚でしょう」
「はい」
「卒都婆小町、関寺小町はあんまり寂しいねえ」
「はい」
「少しは察して頂戴な――お前さんのような優男をお伽《とぎ》にして、このながながし夜を一人ならず明かしてみたい、弁慶と小町は馬鹿だと言いました」
「はい」
「まあ、可愛らしいこと、身じまいを直しているところが何という頼もしいんでしょう、そうして身なりをきちんとし、髪を取上げたところは、どう見ても水の垂れる色男――お豊さんとやらが惚《ほ》れるも無理はない」
「はい」
「お豊さんのためには死んで上げたけれども、わたしのためにはどうして下さるの」
「…………」
「そんなに、もじもじしないで、こっちへお入りなさい、誰も取って食おうとは言いませんよ」
「…………」
「そんな気の弱い、それは意気地無しというものです、女が許してお伽を命ずるのに、それを聞かない男がありますか」
「…………」
「どうしたのです、その突っころばしは、あんまり骨がないので歯が痒《かゆ》い」
 焦《じ》れ立ったお銀様は、もう経机の前に経かたびらを装うて、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》を弄《ろう》している女易者の自分でなく、深々と旅寝の夜具に埋もれて所在のない寝姿を、われと我が身に輾転してみるお銀様でありました。
 お銀様から迫られた色男の真三郎は、もじもじして一方に固まっていたが、急にふるえ上って、
「もし……念のために伺いますが、ここはあの吉田御殿とやらではございませぬかいのう」
「何を言っているのです、吉田がどうしました、御殿がどうしました、近江の国は長等山《ながらやま》の麓《ふもと》、長安寺の境内《けいだい》、小町塚の庵《いおり》がここなんですよ」
 それが耳に入らないと見えて、真三郎は立ち上って、
「そうして、あなた様は、その吉田御殿におすまいになる千姫様ではござりますまいか、もしや……」
「まだ何か言っている、千姫がどうしたというのですよ」
 お銀様自身が荒っぽく寝返りを打ったのは、身体《からだ》が熱く溶け出して来たようで、どうにもたまらなくなったからです。
「講釈に承りますると、参州の吉田御殿というお城の上の高い櫓《やぐら》から、千姫様が東海道を通る男という男をごらんになって、お気が向いた男はみんな召上げてお伽《とぎ》になさるということでござんす」
「そんな話もありましたね、そういう事実も、まるっきり跡形なしのことではありますまいよ」
「わたしも、実はあの時、千姫様のお目にとまった一人なんでございまして」
「おやおや、それはお安くない、千姫様のお目に留まって、さだめて、たんまりと可愛がられたことであろうのう」
「御免下さい」
「逃げるのですか」
「怖《こわ》くなりました」
「意気地なし、幽霊のくせに、人間を怖がって逃げる奴があるものですか」
「でも、怖くなりましたから、これで御免を蒙《こうむ》ります」
「逃げるとは卑怯です、逃がしません」
「お豊に申しわけがない」
「何を言っているの、お豊はお前に反《そむ》いた女じゃないか」
「でも、お豊に済みません」
「済むも済まないもあったことじゃない、お前のようないい男は、女に弄《もてあそ》ばれなければならない運命に置かれてあるのですよ」
「なぶり殺しでございますか、もうたくさんでございます、吉田御殿の裏井戸には、千姫様に弄ばれた男の骸骨でいっぱいでございました、わたしは怖い」
「意気地なし」
「逃がして下さい」
「逃がさない」
「罪です」
「罪なんぞ知らない」
 かわいそうに、迷って出るにところを欠き、とりつくに人を欠いて、偶然にも暴女王の前へ出現したばっかりに、可憐《かれん》な色男は逆に取って押えられてしまいました。幽霊が人間の手につかまって、じたばたして悲鳴をあげる醜態、見られたものではありません。一方、傲然として圧服的にのしかかる女王様――閑寂なる秋の夜が、人間性の争闘の血みどろな戦場に変りつつある。あまりの騒々しさに、
「大分お騒がしいことですね、もう夜が明けますよ」
 衝立《ついたて》の後ろから、ぬっと面《おもて》を現わして、にたにたと笑っているのは、しょうづかの婆《ばば》に紛らわしいあの晩年の小野の小町の成れの果ての木像の精が、生きて抜け出して物を言っているのです。

         十六

 お銀様も小町にこうして出られてみると、さすがに面はゆいものがある、大いにテレて力が弛《ゆる》む隙を、得たりと振りもぎって前にのがれようとしたが、真三郎が何に怖れたか、急に方向を転じて、後ろへ逃げて、かえってお銀様の夜具の裾へ隠れるという窮態になってしまいました。
「あんまり弱い者いじめをしないがいいぜ、ことに女が男を脅迫するなんぞは、見て見いい図ではないぜ」
 衝立の後ろから半身を現わして、二度目にこう言ったのは関寺小町ではなくて、顔色の蒼白《そうはく》な、月代《さかやき》の長い机竜之助でありました。小町に向っては悪いところを見られたとテレきったお銀様も、竜之助に対しては少しも引け目を感じません。
「あんまりいい図でないところを見せて、お気の毒さま、あなたこそ、いったい何だって、こんなバツの悪いところへ出しゃばるのですか」
「琵琶湖の舟遊びに行った帰り途、つい何だかここが物騒がしいから、のぞいて見る気になったのだよ」
 竜之助も人を食った返答なのですが、お銀様はやっぱり逆襲的に、
「人のことを気に病むより、自分の脚下《あしもと》にお気をつけなさい、いったい、あなたは誰とどこへ行っていたのです」
「そう来るだろうと思っていた、どうもつい遊び過ぎて申しわけがない」
 竜之助が人を食った調子で、わびごとのような言葉で頭をかくと、不意にその足許から、
「わあっ」
と泣き伏した者があります。お銀様もちょっとこれには驚かされたが、すぐに冷静を取戻して、
「お雪さんだね、泣かなくてもいいでしょう」
「お嬢様、御免下さいませ、先生を連れ出したのは、わたくしでございます」
「そうさ、小娘と小袋は油断がならないと昔からきまっている、そんなこと、疾《と》うから、こっちは感づいているのですよ」
「あんまり月がよかったものですから、鬱屈《うっくつ》してらっしゃる先生に湖上の月をお見せ申して、慰めて上げたいと思ったばっかりに……」
「お雪さんらしくもない、そらぞらしい申しわけ、目の悪い人に月が見せられますか」
「申しわけがございません」
「でも、よく帰って来てくれましたね」
「面目次第もございません」
「面白かったでしょう、相合舟《あいあいぶね》で、夜もすがら湖の月を二人占めにするなんて、王侯もこれを為《な》し難い風流なんですね、わたしなんぞも一生に一度、そんな思いをしてみたい」
 お銀様が針を含んで突っかかるのを、竜之助がとりなして、
「いや味を言うなよ、本来、お雪ちゃんにちっとも罪はないんだ、この人は一種のロマンチストで、自由行動が罪であっても罪にならない無邪気な少女なんだ、もし誤っているとすれば、誤らせた誰かが悪いので、世人は憎むべきじゃない、かんべんしてやってくれ」
「いいです、わたしは、ちっとも人を責める気なんぞはありゃしませんよ、今も二人の心中者が来ましてね、憎むの、恨むのと口説《くど》いているから、わたしが説法をして上げたところなんです。でも、あなた方は湖中で心中をしなくてようござんした、わたしは、あの勢いでは、お前さん方も、前に来た人たちと同じように、湖水の中へ、おっこちるんじゃないかとタカを括《くく》っていましたが、まだ死んでしまいもせず、生恥も曝《さら》さず、どうやらここまで戻って来てくれたことだけでも、わたしは嬉しいと思いますよ。お雪さん、泣かないで、こっちへお入り」
「お嬢様に合わせる面《かお》がございません」
「だって、いつまでも、そうして泣き伏しているわけにはゆきますまい、こっちへお入りなさい、みんなして仲よく秋の夜話をしましょうよ」
「そうおっしゃっていただくと、なおさら面目がございません、わたくしは、このまま消えてなくなります」
「おや、消えてなくなるとは凄《すご》いですね、せっかく、助かって戻ってくれたのを喜んで上げるのに、消えてなくなるなんぞとはえんぎが悪いのねえ」
「御機嫌にさわって重々申しわけがございませんが、消えてなくなると申しましたのは、また死を急いで死にに行くという意味ではございません、わたくしは、このままお許しをいただいて、もうどなたにも面を合わせずに、ひとり大阪の親戚へ帰ってしまうつもりでございます」
「おや、お雪さんには大阪に御親戚がありましたの」
「はい」
「そこで、音なしの先生は、これからどうあそばしますつもり?」
 お銀様から反問的に問いかけられて竜之助が、所在なさそうに、
「拙者は、ついこの近いところの大谷風呂というのへ暫く逗留させられることになったから、そこで当分養生をしようと思っているのだ、近いところだから、話しにおいでなさい、いつでも風呂が沸いているし、お肴《さかな》もあるし、別嬪《べっぴん》もいる」
「有難う、では、近いうちにお伺い致しましょう。おや、もうお帰りなの?」
「夜が明けそうだから」
「夜が明けては悪いのか知ら」
「でも、お雪ちゃんがかわいそうで、なるべく人目にかけないように落してやりたいからな」
「なるほど、その心づかいも悪くありません、人目にかけないようにして、行きたいというところへ行かしておやりなさい」
「お嬢様、有難うございます、それでは、わたくしはこれで失礼をさせていただきます」
「大事にしていらっしゃい」
「御免下さいまし、永々、お世話さまになりました」
「お雪さん、なんぼなんでも、それほどに面目ながらなくてもいいじゃありませんか、せめて面だけは一目見せて行って頂戴な」
「いいえ、わたくしは、このままおゆるしを願いたいのでございます」
 お雪ちゃんは、しおらしくあやまりながら、一方、頑《がん》として泣き伏した面をあげないままで暇乞《いとまご》いをします。
「そんなら、みんなして追分まで送ろうじゃありませんか」
「そうしましょう、それがいいです」
「さあ、皆さん、お雪さんが大阪へ帰るそうですから、みんなして追分まで送るんですよ」
「拙者は御免蒙ろう」
と竜之助が言うと、お銀様が興ざめた面で、
「どうしてですか、あなただけ」
「あの追分はうるさいんだ、薩摩の野郎かなんかが出て来て、喧嘩を売りかけたりなんぞしてうるさいから、刀の手前、今度は遠慮をした方がいいと思っている」
 そこで鶏の鳴く音が聞える。
「ああ、夜が明けます、明けないうちに」
「では、行って参ります」
「お大切に……ですが、お雪さん、わたしが注意をして上げて置きたいことはね」
 お銀様は、言葉を改めてお雪ちゃんに向い、次のような餞別《せんべつ》の言葉を与えました。
「大阪にお帰りなら、一筋に間違いなく大阪へお帰りなさいよ、途中で魔がさすといけませんからね、間違って三輪の里へなんぞ踏み込もうものなら、今度こそ取返しがつきませんよ、それは申して置きます」
「はい、有難うございます」
 その時にまたしても鶏の鳴く音――
 お銀様の夢が本当に破れました。無論、夢中に現われた人の一人もそこにあるはずはなく、衝立《ついたて》はあるが、その後ろから正銘のここの雇い婆さんが現われて、
「お目ざめでございますか。昨晩は、たいそうお疲れのようで、よくお休みになりました。今日は雨もすっかり上りました、お天気は大丈夫でございます。それそれ、昨晩お使がございまして、この上の大谷風呂から、あなた様へこのお手紙でございました」
 一封の書状を取って、お銀様の枕許《まくらもと》に置く。

         十七

 逢坂山《おうさかやま》の大谷風呂を根拠地とした不破の関守氏は、その翌日はまた飄然《ひょうぜん》として、山科から京洛を歩いて、夕方、宿へ戻りました。
「お帰りやす、どちらを歩いておいでやした」
 お宮さんが迎える。
「行き当りばったりで、古物買いをやって来た」
と言って、不破の関守氏は風呂敷包から、そのいわゆる古物の数々を取り出して、お宮さんに見せました。
 古ぼけた木像だの、巻物の片っぱしだの、短い刀だの、笄《こうがい》、小柄《こづか》といったようなものが出ました。好きな道で、暇に任せて、古物すなわちこっとう[#「こっとう」に傍点]漁《あさ》りをやって来たものらしい。
「この紙きれは、これは確かに奈良朝ものですよ、古手屋の屏風《びょうぶ》の破れにほの見えたのを、そのまま引っぺがさせて持って来たのだ」
「えろう古いもんでおますな」
「それから、この金仏様《かなぶつさま》――これが奈良朝よりもう少し古い、飛鳥時代《あすかじだい》から白鳳《はくほう》という代物《しろもの》なのだ、これは四条の道具店の隅っこで見つけました」
「よろしい人相してまんな」
「こっちを見給え、ずっと新しく、これがそれ大津絵の初版物なんだ」
「大津絵どすか」
「大津絵といえば、藤娘、ひょうたん鯰《なまず》、鬼の念仏、弁慶、やっこ、矢の根、座頭《ざとう》、そんなようなものに限られていると思うのは後世の誤り、初代の大津絵は皆このような仏画なのだ」
「そうどすか」
「それから、ズッと近代に砕けて、これが正銘の珊瑚《さんご》の五分玉、店主はまがい物と心得て十把一《じっぱひと》からげにしてあったのを拙者が見出して来た、欲しかったら、お宮さん、君に上げましょう」
「まあ、有難うございます」
といったようなあんばいで、暇つぶしに彼は、山科から京都くんだりを遊んで来たもののようだが、必ずしも、そうばかりではないらしくもある。
 その翌日もまた宿を出かけて、同じような時刻に帰って来て、またこっとう[#「こっとう」に傍点]物を懐ろから引張り出して、お宮さん相手に説明する。お宮さん、白鳳期がどうの、弘仁がああのと言ってもよくわからないが、そこは商売柄、いいかげんに調子を合わせると、不破の関守氏も、いい気になって、次から次へでくの坊を引っぱり出して悦に入るが、どうかすると、こっとう[#「こっとう」に傍点]以外の珍物を引っぱり出して、よろしかったらこれはお土産《みやげ》として君に上げようと来るものだから、お宮さんは、思いがけない珊瑚の五分玉だの、たいまいの櫛《くし》だのというものにありつけるので嬉しがる。
「そないにこっとう[#「こっとう」に傍点]ばかりあつめて、どないになさいますの、小間物屋さんでもおはじめなさる?」
とお宮さんが呆《あき》れるほど、毎日毎日、がらくたを掻《か》き集めて来る。ある時は脱線して、
「お宮さん、これはダイヤモンドの指輪です、その当時は三百円もしましたよ、よろしかったら君に上げよう」
「まあ、三百円のダイヤモンドだっか」
「今時は、三百円のダイヤなどは誰も振向いても見ないが、その当時はこれが幾つもの人間の運命を左右するほどの魅力があったものだ、今日にすると十倍以上だろうな」
「では、三千円だっか」
「それ以上はするだろう」
「本物だっか」
「はは、それが、お宮さんの魅力となって、貫一の一生を誤らせたというわけなんです、実は……」
 この分だと、貫一の着た高等学校の制服だの、赤樫《あかがし》の持った鰐皮《わにがわ》のカバンまで探して来るかも知れない。閑話休題としても、当人は閑人気分《ひまじんきぶん》が充分で、一人で出かけることもあれば、一僕を召しつれて出て戻って来ることもある。
 こっとう[#「こっとう」に傍点]が飛び出さない時は、地所家屋のこのごろの相場のことなどが口に出るものですから、風呂の者は、この人はこっとう[#「こっとう」に傍点]屋を営み、その掘出しかたがた、地所家屋の売買の周旋もする人だろうぐらいに見ておりました。
 なるほど、外出先を推想してみると、この男はこっとう[#「こっとう」に傍点]あさりばかりではない、相当の地所家屋を見つけながら歩いて来るものらしい。現に問題となっている山科の光悦屋敷の如きは、一僕を指図して縄張りまで張って、半日をその測量に費したような形跡もあります。

         十八

 三日目の午後、今日は早帰りをして、風呂につかっていると、三助が一人やって来て、
「お流し致しましょう」
「済まない」
 手拭を渡して不破の関守氏が、背中を向けると、その三助の流しぶりが変っているのに気がつきます。この三助は、背中を流すに片手をつかっている、左手だけしか使わない、最初のうちは勝手だろうと考えていたが、変ですから、不破の関守氏が気をつけて見ると、手んぼう[#「手んぼう」に傍点]なんです。わざと気取って片手あしらいをして見せるのではない、片手しかないから、そのある方の手だけで働いているのだと認めました。
 しかし、人の不具を認めたからといって、必要なきに注視するのも心なき業だ。片手であろうとも、両手であろうとも、職務そのことだけがつとまりさえすれば何も言うことはない。ところで、その職務が、片手あしらいで両手の持つ働き以上の働きをする器用さに、不破の関守氏が内心舌を捲きました。
「いや、どうも有難う」
 一通りの三助のすることを手際よくやってのけた上に、上り湯を二三ばいたっぷりとかけてくれて、肩をとんとんと三つばかり叩いた気持などというものも、相当にあざやかなもので、なお一杯をなみなみと汲み置きをして、
「ごゆっくり」
と言って、その片手の三助が退却してしまったあと、不破の関守氏は、おあつらえ通り、ゆっくりと湯につかって、さて上りとなって脱衣場へ来て着物を引っかけようとすると胴巻がない。
「やあ――」
と関守氏が、げんなりしたのは、たしかにしてやられたと感じたからです。やられたのは出遊の途中でやられたのか、或いは途中で落してつい知らずここまで来て、いま気がついたのか、その辺に抜かりのある関守氏ではない。たったいま風呂にはいる前に、脱衣ともろともにここへ押し込んで置いた胴巻が今なくなっているのですから、その点に問題はない。しかし、あえて声を高くして盗難を呼ぶ関守氏ではありませんでした。かつまた、かりそめながらこの辺へ、そう貴重品をむやみに持ち込む関守氏でもない。胴巻とは言いながら、小出しの胴巻に過ぎないので、被害は案外軽少であったために音《ね》を上げなかったのかも知れない。
 とにかく、的確にこの場で胴巻が紛失したのだが、関守氏は何食わぬ面《かお》ではない、何盗まれぬ面つきをして、自分の部屋へ戻って来ました。
 部屋へ戻っても、あえて人を呼んで帳場へかけ合うでもなく、全く以て、あきらめてしまっているらしい。
 そこへ、お宮さんが熱いお酒を一本持って来ました。今日も出歩きの道中を少々物語ってから、お宮さんのお酌《しゃく》で一ぱいを傾けながら、不破の関守氏が、
「お宮さん、ここの風呂場の若衆《わかいしゅ》は、ちょっと乙な男だね」
「三蔵はんどすか」
「三蔵というのかね、名前はまだ知らないが、なかなか如才なくて、第一腕が器用だ」
「三蔵はん、このごろおいでやはったが、取廻しがよろしいので、なかなか評判ようおます、腕が器用とおっしゃいますが、あんた、あの片一方でな、米搗《こめつ》きから、風呂焚き、流し、剃刀使いまで細《こま》やかになさりますから、みんな感心しておりますのや」
「ははあ、器用な男もあったもんだ、ありゃあれで、なかなか苦労人だよ」
「はい、それに、なかなか気前がようおまして……」
「だから、女に相当騒がれるだろう、あぶないものだぜ、お宮さん」
 冗談半分に、女中を相手に関守氏が聞き得たところによると、右の手なしの番公は、最近ここへ雇われて来た男ではあるが、早くも女中たちの人気を取っているらしい。相当にこの道で苦労した肌合いが、女中連を騒がせていることをも知りました。
 関守氏は、一応お宮さんをからかった末に、こう言いました、
「あの若衆に一ぱいあげたいから、手隙《てすき》になったらここへ来るように言っておくれ」
 そう言っている口の下に、外の縁側から声がかかって、
「少々御免下さいまし、先刻お風呂の旦那様のお座敷は、こちら様でございましたか、三助でございますが、お忘れ物を持って参上いたしました」
「え、なに、忘れ物を持って来てくれたのかい」
 関守氏がなんだか先手を打たれたような気分で、こちらが少々あわて気味です。

         十九

 その翌日、ここへ来てから第四日目――
 今日は関守氏が、逢坂山の裏手から細道伝いに、大谷風呂の裏口へ下りて来て見ますと、小屋があって、その中で、地がらの米を舂《つ》いているのが例の三助の三蔵でありましたから、言葉をかけました、
「三蔵どん、御精が出るね」
「はい、有難うございます」
 野郎は頬かむりをして、しきりに地がらを踏んでいましたが、本来この小屋の一方には、渓流を利用して小さくとも水車が仕掛けてあって、一本ながら立杵《たてぎね》が備わっている。水力でやりさえすれば足で踏まなくともいいことになっているのに、わざわざ時間と労力を空費しているとしか見られないものですから、不破の関守氏がたずねました、
「どうして水車を利用しないんだね、万力《まんりき》で搗《つ》けば早いだろうに」
「それが、旦那、そういかないわけがあるんでござんしてな」
「車がこわれたのかい」
「そうじゃございません」
「当時流行の渇水というやつかな」
「なぁーにごらんの通り一本杵《いっぽんぎね》を落すだけの水はたっぷりあるんでございますがね」
「じゃ、どうして水車をつかわないんだね」
「まあ、聞いておくんなさいまし、水車があっても、水車を使ってはならない、水車|御法度《ごはっと》というお触れが出たんでござんしてね、それで、利用のできる器械を廃《すた》らせたままで、わざわざこうして足搗《あしづ》きをやらなきぁならねえ世界になったんでございます」
「とは、またどういういきさつで」
「こういうわけなんでございますよ」
 三助の米搗が説明するところによると、以前は、やっぱりこの地方で、米搗きが頼まれて越後の方からやって来たものだが、近頃になってこの藤尾村というのへ、善造と五兵衛という二人の者が水車を仕掛けた、なにぶん、水車が出来ると、人間の労力より安くて早いこと夥《おびただ》しい。そこで善造と五兵衛がはじめた水車が、みるみる繁昌して、ここへ籾《もみ》を持ち込むものが多くなり、その結果、市中の搗米屋《つきごめや》と米踏人《こめふみにん》が恐慌を来たして、我々共の職業が干上るから、水車を禁止してもらいたいと其筋に願い出た。そこで水車が禁止されることになった。せっかくの文明の利器がかえって忌《い》まれて、人間労力の徒費に逆転することになったというわけになるのだが、もう一つ水車禁止の理由には、ここの水車へ持ち込んで米を精《しら》げることの口実で、実は京都へ向けて米の密輸出を企てるものがある。いったい京都の米は近江の一手輸入になっている。一年中この近江から京都へ供給する米が、豊年に於ては七十五万俵、凶年には四十万俵、平均のところ無慮五十万俵の数になっていて、米を京都に入れるにはいちいち上《かみ》の番所の検閲を受けて、切手口銭を納めるということになっている。ところがこの藤尾村に水車が出来てから、前記の如く、ここへ持ち込んで米を精《しら》げてもらうという口実の下に、京都へ米を密輸入して、切手口銭のかすりを取るというやからが出て来た。その取締りのために、水車禁止の別の有力な理由が出て来たのである。その上に俵物はいっさい小関越えをしてはならないということになった――そのとばっちりで、ここでも水車を仕かけるには仕かけたが、それを遊ばして置いて、こうしてわざわざ足踏ロールに逆転しているのだという説明を、三蔵から聞いて、不破の関守氏は、
「なるほど、それは機械文明に反抗する人間労力の逆転というものだ」
とひとり合点をしました。
 それから二人の会話が少し途絶《とだ》えていると、その時、不意に腰障子の外から、
「三ちゃん、いる、お茶うけよ」
 姿は見えないで、窓の外から、そっと言葉をかけると同時に、お盆へ何かのせたものを突き出したので、米を搗《つ》いていた三蔵が、やや狼狽気味《うろたえぎみ》で、
「いけねえ、いけねえ、お客様だよ」
 そうすると、何かのせたお盆を中へ突込んで置いて、姿を見せず、何とも言わずに、あたふたと行ってしまう。残る足音を聞いて、三蔵がテレきったのを、不破の関守氏が、ちょっと苦笑いをして、
「何か、御馳走が来たようだね」
「へえ、どうも」
と米搗きが、また一方ならずテレている。
「御馳走が来たら、ついでに、いただいて行こうじゃないか」
 関守氏は人が悪い、炉辺へ侵入して来て、
「三ちゃん、お茶をいれないか、わしが代って米の方を受持ってやる」
「いや、どうも、恐縮でげす」
「遠慮することはないよ、せっかくお茶うけが来たんだから、お茶をいれな、米はわしが搗いてやるよ」
と関守氏が、臼《うす》の方へちかよって促すものだから三公も、
「じゃ、お茶を一ついれますかな」
「そうしなさい、拙者もこれで米搗きは苦労したものだよ、昔取った杵柄《きねづか》だよ」
と言いながら、三公の踏み捨てた地がらへ乗りかかって踏みかけると、その調子が板についている。
「うまいものですな、旦那」
 三公から賞《ほ》められて、不破の関守氏が、
「君よりうまいだろう、さっきから見ていると、君のはもの[#「もの」に傍点]になっていないよ、わしなんぞは書生時代からこれで勉強したもんだ」
「へえ、そうですかね」
「君ぁ、流しをさせちゃうまい、剃刀を使わせても一人前だが、米搗きはまずいよ、生れは越後じゃあるまいな」
「恐れ入りますねえ――どうも場違いなものでござんして、米搗きの方はさっぱりいけません」
「そうだろう、君は関東もんだろう、へたをすると江戸っ児だ、頼まれても江戸からは米搗きは来ないはずだ」
「冷かしちゃいけません、旦那」
「どうして、お前、こんなところで米搗きなんぞをやるようになったのだ」
「旦那、まあ、お茶を一つおあがんなさい」
 三公が炉の鉄瓶を卸して、番茶をいれてすすめましたから、不破の関守氏も地がらから下りて、ふたり炉辺に物語りをはじめ出しました。

         二十

「三ちゃん、このお茶うけはうまいねえ」
「これが海道名代、走餅《はしりもち》というやつなんでござんして」
「ははあ、これが走餅か。この間、名所の走井《はしりい》を見ようとしてたずねてみたら、もう人の垣根の中に囲われてしまっていたっけ、走餅はないかと聞いてみると、本家は大津浜の方へ引越したということで、とうとう名物の旨《うま》いのを食いそこねたが、ここでめぐり会ったのは有難い」
「どうぞ、たくさんおあがりになって」
「うまいなア」
「自慢でござんしてな」
「自慢はいいが、盗み食いはいけねえぞ、三公」
と不破の関守氏の言うこと、いささか刺《とげ》があったので、三公が仰山らしくあわてて、
「飛んでもねえ、盗み食いなんぞするんじゃございませんよ、ふ、ふ、ふ」
と含み笑いをしました。
「穏かでないぞ」
 関守氏からたしなめられて、三公は、
「だって旦那、据膳《すえぜん》を食べたからといって、盗み食いとは言えますまい、ねえ、先様御持参の御馳走をいただく分には、罪にはならねえと思うんですが、どんなものでしょう、一つ御賞翫《ごしょうがん》なすってみていただきてえ」
と言ってにやにやしながら、関守氏にお盆の走餅をすすめます。
 関守氏は、その走餅の箸を取らずに、いささかくすぐったいような面《かお》をしてながめているだけです。今、お盆をつき出してくれた女の子は、面を見ないから誰それとは言えないが、ここに群がっている丸髷《まるまげ》のうちのどれか一つに相違ない。この野郎、昨日今日ここへ雇われたと言いながら、もうそのうちの一人をもの[#「もの」に傍点]にしている、度すべからざる白徒《しれもの》だという面をして、三公と、お盆の餅とを見比べていたが、この野郎はお先へ御免を蒙《こうむ》ってしまって、走餅を一つ抓《つま》んであんぐりと自分の口中へほうり込み、
「うめえ、うめえ、走餅ぁうめえ、腹のすいた時にゃ何でもござれだ」
 とんちんかんなことを口走り出した。時に関守氏、
「三公、貴様は怪しからん奴だ、餅どころか、人間まで甘く見ている」
「どう致しまして」
「昨日、あの風呂場で拙者の胴巻をちょろまかした上に、それをぬけぬけとまた、お忘れ物だと言っておれの眼の前へ持って来やがった、いけ図々しいにも程のあったものだ、人を食った振舞とはそういうのを言うのだ」
「へ、へ、へ、へ、人を食った覚えなんぞはございません、餅を食っているんでげすよ」
 三公は、今となっては決して悪怯《わるび》れていない。人を食ったのはこっちではない、かえってこの人に臓腑の底まで見破られてしまったから、破れかぶれという気分でもあるようです。関守氏は少々油を絞り加減に、
「なぜ、あんなツマらないことをしたのだ、盗むくらいなら盗み了《おお》せたらいいだろう、わざわざ人の前へ持って来て吐き出して見せるなんぞは、憎い仕業だ」
「いや、そんなわけなんじゃございませんよ、実はねえ、旦那だから申しますがねえ、わっしも本来は箸にも棒にもかからねえやくざ野郎なんでして、事情があってこのところへ閉門を仰せつけられたんでございますが、どうにも動きが取れねえから、こうやって米なんぞを搗《つ》いてるんですが、もうやりきれません、逃げ出しちゃおうと思ったんですが、逆さに振っても血も出ねえ昨日今日、当座のお小遣《こづかい》として、あなた様の胴巻をそっくりお借り申すつもりで、三日前からちゃあんと睨《にら》んでいたんですが、隙がございません、そうこうしているうちに、昨日お風呂にお入りのあの時、この時なんめりと首尾よく頂戴に及んだんですが、当事《あてごと》がすっかり外れちゃいましてな」
「思ったより少なかったか、路用の足しにもならんと、手に入れてみてはじめて呆《あき》れたか」
「そうじゃございません、あれだけあれば当座の路用には充分でござんすが、相手が少々悪いと思いました」
「相手というのは?」
「お風呂からお上りの、早速、紛失物がある、拙者のここへ差置いた胴巻がない、金子が見えぬ――なんぞと大さわぎがおっぱじまると待構えておりましてな、そうおいでなすった時にはザマあ見やがれと、この尻を引っからげて、片手六法かなんかで花道を引っこみの寸法で、仕組んで置いた芝居なんでございますが、相手がそう受けてくれません、本舞台の方でウンともスンとも文句が起らねえから、揚幕の引込みがつかねえ、こいつぁ相手が悪いなあと思いましたよ」
「ふーん、こっちが騒がなかったら、かえって首尾がいいとは思わなかったか」
「ところが違います、いけねえ、こいつは出直しと思いました」
「貴様は、なかなかくろうと[#「くろうと」に傍点]だ」
「へ、へ、へ、どうか先生、お弟子にしておくんなさいまし、わしゃ実は、甲州無宿でござんして、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵とやらいうしがねえやくざ野郎の成れの果て――と言いてえが、まだ果てまではちっと間のある、中ぶらりんのケチな野郎でござんすが、なにぶんお見知り置かれまして」
 変な言いぶりになってきた、漫然お茶らかしているものとも見えない。いったい、不破の関守氏をこの野郎は何と見て、こんなに、上ったり下ったりしているのか、次第によっては下へさがって本式やくざ[#「やくざ」に傍点]附合いの作法によって、親分子分の盃でも受け兼ねまじき真剣さも見て見られようというものです。関守氏はこいつ只の鼠ではないと、しょてから睨んでいたに相違ないが、さりとて大鼠と怖れてもいないらしい。

         二十一

 その翌日になって、米搗きが急に昇格して、関守氏附きの直参《じきさん》となりました。
 不破の関守氏は、この新たに得た鶏鳴狗盗《けいめいくとう》を引きつれて早朝に宿を出たが、どこをどううろついて来たか、午後になって立戻ると早々、また風呂へ飛び込んで、こんどは水入らずにこの男に流させもし、同浴もしながら、主従仲のいい問答をはじめました。
「がん[#「がん」に傍点]ちゃん――」
 不破の関守氏は、三公とも、百どんとも言わず、改めてがん[#「がん」に傍点]ちゃんの名を与えて、この従者を呼ぶのです。
「何ですか、旦那様」
と、がん[#「がん」に傍点]ちゃんが抜からぬ面《かお》で答える。
「貴様は手の方も長いが、足の速いにも驚いたよ」
「御冗談を……手なんぞは長いにもなんにも有りませんよ、とうの昔にブチ切られちまったんですから」
「でも、胴巻を見ると長くなる」
「旦那、皮肉をおっしゃっちゃいけません」
「それから、女を見るとまた長くなる」
「旦那、そう、いつまでもいじめるもんじゃございませんよ、全く、旦那にかかっちゃ、手も足も出ねえ」
「それはそうと、がん[#「がん」に傍点]公、お前の手の長い方はもう御免だが、足の速い方を見込んで一つ頼みがあるんだが」
「水臭いことをおっしゃっちゃいけません、頼みがあるのなんの、こうなってみりゃ、主従の間柄じゃございませんか、旦那がやれとおっしゃれば、火水の中へでも飛び込んでお目にかけますよ」
とがんりき[#「がんりき」に傍点]の百が、相変らず人を食った面で答えました。返事をしながらも、その一本の腕をもって、不破の関守氏の背中を流すことは器用を極めている。
「そう言ってくれるのが頼もしい、では、一つ命令を下すぞよ。但し、ここでは下せないから、風呂から上って、ゆっくり下すから、ひとつ、この命令によって、お前、その足に馬力をかけてやってみてくれ」
「合点《がってん》でございます、がん[#「がん」に傍点]ちゃんの足を見込んでお頼みとありゃ、後へは引きません」
「よし、では上ろう、御苦労御苦労」
 かくてこの主従は風呂から上って、自分の部屋へ帰りました。
 不破の関守氏は、部屋へどっかと安坐すると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を前に坐らせて、自分は床の間から行李《こうり》を引寄せながら、
「時にがんりき[#「がんりき」に傍点]――」
 どうも、呼び名がまちまちで困る。がん[#「がん」に傍点]ちゃんと和《やわ》らげてみたり、がん[#「がん」に傍点]公と角《かど》ばったり、またがんりき[#「がんりき」に傍点]と本格に呼びかけたりするので、かなりめまぐろしいが、
「旦那、御用向のほどを承りましょう」
 しかるに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の方の尊称は旦那で統制されている。この男が、関守氏を先生とも呼ばず、親分とも言わず、旦那で立てていることが、かえって空々しいくらいのものだが、この際、この人柄では、旦那呼ばわりが、まず適当というところであろう。そこで関守氏も旦那らしく砕けて、
「実は、がん[#「がん」に傍点]ちゃん、君にひとつ、湖水めぐりをやってもらいたいのだ」
「湖水めぐりですか、洒落《しゃれ》てますね、どうも、がん[#「がん」に傍点]ちゃん儀、めまぐろしい旅ばかりやりつけているものですから、つい八景めぐりなんぞというゆとりがございませんでした、それを旦那が目をかけて、がんりき[#「がんりき」に傍点]を遊ばせて下さる寸法なんですか、有難い仕合せ、持つべきものは親分でございますよ」
「そんな暢気《のんき》な話ではない、君もこのごろの、湖上湖辺の物騒さ加減を知っているだろう」
「百姓一揆《ひゃくしょういっき》とか、検地騒動とかで、えらく騒いでいるようすじゃございませんか」
「だいぶ民衆が騒いで、一帯に不穏を極めているが、ひとつその空気の中をその足で突破してみてもらいたいんだ」
「トッパヒヒヤロでござんすか、この騒ぎの中で、何か踊りをおどれとおっしゃるんでございますか」
「いや、あの中を突破して、向う岸の胆吹山まで行ってもらえばいいのだ、今、絵図面を見せるから」
と言って、不破の関守氏は行李の中から一枚の滋賀県地図――ではない、近江一国の絵図面を取り出してひろげ、それをがんりき[#「がんりき」に傍点]の眼の前に置いて見せました。
「それ、これを見な、ここが逢坂山の大谷で、ここが大津だ、大津から粟津、瀬田の唐橋《からはし》を渡って草津、守山、野洲《やす》、近江八幡から安土、能登川、彦根、磨針《すりはり》峠を越えて、番場、醒《さめ》ヶ井《い》、柏原――それから左へ、海道筋をそれて見上げたところの、そらこの大きな山が胆吹山だ、つまり、これからこれまでの間を、お前に突破してみてもらいたいんだ」
「そう致しますと、つまりこの逢坂山から出立して、湖水の南の岸をめぐって、胆吹山まで歩いてみろ、とおっしゃるんでございますな」
「そうだ」
 不破の関守氏は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵に向って胆吹マラソンのコースをまず説明して置いて、それから使命の内容をおもむろに次の如く述べました。
「いいか、君のその早足で、この間を突き抜けて通りさえすればいいようなものだが、通りがけに、できるだけ沿岸の観察をしてもらいたい。観察といっても風景や人情を見ろというのではない、昨今の民衆の暴動がドノ程度までに立至っているか、百姓一揆共が、ドノ方面に向って行動し、ドノ方向に向って合流しているか、また主力はドノ地点に根拠を置いて群がっているか、その辺を見届けられる限り見届けて、深入りをする必要はないぞ、通りいっぺんでよろしいからそれを偵察しながら胆吹山まで行ってもらうのだ。その他、何に限らず、途中で眼の届く限りは見届けるがよろしい、たとえば、一揆《いっき》の首を振っているのはどんな人物で、役人たちが一揆の食止めの手配、そんなこともわかればわかるだけ見て置いて、そうして胆吹山まで、なるべく早く到着してもらいたい。見るには、いくら細かに見てもいいが、深入りは断じていけない」
「合点でございます、つっ走るだけの御用なら、当時、がん[#「がん」に傍点]ちゃんに限りますよ」
と、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、いささか鼻を白《しら》ませてせせら笑いました。
 字を書けの、歌を詠《よ》めのと言われては、がん[#「がん」に傍点]ちゃんもいささか凹《へこ》むだろうが、歩けと言われる分には本職です。それを特に鼻にかけてせせら笑ったのは、せっかくがん[#「がん」に傍点]ちゃんを見立てた御用としてはおやすきに過ぐると軽蔑したわけではないので、実はこの使命の中には、相当危険状態が含まれていることを、がんりき[#「がんりき」に傍点]はいささか予想したものですから、それで、われと我が身をせせら笑ってみたもので、不破の関守氏にはどうもその内容がよくわからないから、
「何事にせよ、事を侮《あなど》ってかかってはいかん、この時節だから用心はドコまでも用心をして……」
 関守氏から本格的に戒められて、がんりき[#「がんりき」に傍点]がまたテレました。がんりき[#「がんりき」に傍点]がたった今、危険状態を予想してせせら笑ったというのは、それは、自分が兇状持ちだという思い入れがあったからです。しかし、この野郎の兇状持ちは今に始まったことでない、海道という海道を食い詰めている金箔附きなので、いまさら、無宿を鼻にかけてみたってはじまらないのであるが、ごく最近に於て、このコースで生新しい負傷をしている、指のことは問題外としても、草津の宿で、轟《とどろき》の源松《げんまつ》という腕利《うでき》きの岡っ引に少々|胆《きも》を冷やされているところがある。お角さんの厠《かわや》まで逃げ込み、なおまた大谷風呂の風呂番にまで窮命させられているのは、つまりその祟《たた》りである。そのことを思い出してみると、自分ながらくすぐったいから、それで、おのずから鼻が白まざるを得ない。これから再び取って返して、あのコースを行くのは、轟の源松の縄張中へ、わざわざ、からかいに出直すようなものであってみると、「なあに、タカの知れた田舎岡っ引に、がんりき[#「がんりき」に傍点]の年貢を納めるにゃ、まだちっとばかり早えやい」というつまらない鼻っぱりが出て、それでいささかむず痒《がゆ》くなって、せせら笑ってみたまでのことです。
 そんなことを知らない不破の関守氏から、まともに戒められて、がんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「時に旦那、御注意万端ありがたいことでござんすが、突走れ、突走れとばかりおっしゃって、かんじん[#「かんじん」に傍点]の御用向のほどが、まだ承ってございませんでしたね。いったい、胆吹山へ行って、誰に会って何をするんでござんすか、ただ湖岸《うみぎし》を突走って、胆吹山へ行きつきばったりに、艾《もぐさ》でも取ってけえりゃいいんでござんすか」
「そこだ」
と不破の関守氏が少しはずんで、
「いいか、胆吹山へ着いたら上平館《かみひらやかた》というのをたずねて行くんだ、そこに青嵐《あおあらし》という親分がいる」
「ははあ――青嵐、山嵐じゃないんですね」
「よけいなことを言うな。青嵐と言えばわかる、その青嵐という親分にお目にかかって、この手紙を渡すのだ、委細はこれに書いてある、そうして、その親分に向って、君が途中見聞したことの一切を報告するんだ、いま言ったような百姓一揆の動静だの、役人方の鎮圧ぶりだの、見たままの人気をすっかり青嵐親分に話して聞かせろ、つまり、それだけの役目なのだ」
「わかりました、よくわかりました」
「わかった以上は、事はなるべく急なるを要するから、これから直ぐに出立してもらいたい」
「合点でござんす」
「さあ、これを持って行き給え、己《おの》れに出で、己れに帰るというやつだ」
と言って、不破の関守氏は、因縁つきの胴巻を引きずり出して、そっくりがんりき[#「がんりき」に傍点]に授けたものですから、またしてもがんりき[#「がんりき」に傍点]をテレさせてしまいました。
「恐縮でげす」
「それから、旅の装いとしては、拙者のものをそっくり着用して行ったらいいだろう、この脚絆《きゃはん》なんぞも銭屋で新調したばっかりのものだ、ソレ、手甲、それ、わらじがけ、それ、笠の台――ソレ、風呂敷、ソレ、手形、こいつを大切に持って行きな」
 こうして不破の関守氏は、その夜にまぎれて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を胆吹山に向って追い立ててしまいました。

         二十二

 がんりき[#「がんりき」に傍点]を追い立てたその翌日、不破の関守氏は、明日、客をするからと言って、大谷風呂の奥の一棟をその用意にかからせたのです。不破の関守氏が肝煎《きもいり》となって、何か相当の客をこの一棟へ招くらしい。しかも、その前準備の忙がしいにかかわらず、たいした団体の客を迎えるというわけではなく、ほんの少数の客で、しかも密談――という申入れなのでありました。
 それでも、奥の一棟を借りきって、しかも、なおさら宿の者をてんてこまいさせたというものは、明日乗込んで来るといったその客が、その晩おそくなって、ここに御入来ということになったからです。
 その晩、お客は到着したに相違ない。けれども、そのお客の何ものであったかということは、誰もほとんど気がついたものはありません。その客にはお供が二三ついて来たけれど、本客というのは、もう相当の年配で、しかるべき大家《たいけ》の大旦那の風格を備えたお人であったということは、女中たちも言うのです。
 問題の、奥の間の床柱に座を占めた招待の客というものを見ると、さまで怪しむべきものではない、これぞお銀様の父、すなわち藤原の伊太夫でありました。附いて来たのは、番頭の藤七たった一人でした。
 だが、ほどなく、これに追いついてやって来た人は、宿の者皆の注意を引かずには置きません――それは、お角さんが至極めかし込んで、上方風の長衣裳で、駕籠《かご》から出て、いささか上気した意気込みで、
「あの、不破の関守さんとおっしゃるお方を訪ねて参りました」
「はい、お待兼ねでいらっしゃいます、どうぞ、こちらへ」
 お角さんは、案内につれて、おめず臆《おく》せず送り込まれたのは、伊太夫の座敷でなく、不破の関守氏の部屋なのでした。
 多分、不破の関守氏とお角さんとは、初対面のはずです。
 すべての事態を総合して見ますと、伊太夫お角さんの一行は、昨日あたり竹生島から帰りついたに相違ない。昨日の外出で、不破の関守氏は本陣をたずねて、伊太夫が立帰ったことをたしかめた上で、改めて来意を述べたものらしい。
 その結果として、お銀様が本陣を訪問するのも人目に立ち過ぎるし、かつまた、本人そのものが容易なところでは承引《うけひ》くまいし、そうかといって、父伊太夫が、小町庵の娘をたずねるのも順序が間違っている。関守氏とお角さんとが談合の上、幸い、物静かなこの逢坂山の大谷風呂の奥の間が、親子会見の席にふさわしかろうと、そういう取計らいで、会見の場がここときまったものらしい。
 それで、一通りの役者はここへ揃《そろ》ったわけなのですが、かんじんの女王様が見えた様子がないけれど、これも案ずるほどのことはあるまい、すでに御納得があって、胆吹山からここまで動座をされているくらいだから、ここらで異変の起る憂えはない。まず伊太夫を座に招いて置いて、しかるべきバツを合わせて、お銀様をここへ迎える、これは多分、明日のことになるだろうと思います。
 その間は、関守氏と、お角さんとが、まずまあ腕比べまたは舞台廻しというようなわけで、二人は夜の更くるも知らず、何かひそひそと話し合っておりましたが、伊太夫主従は、着早々、一風呂浴びると共に寝《しん》に就いてしまいました。
 それにも拘らず、関守氏の座敷ではまだ燈火《あかり》がして、お角さんが、寝ようとも休もうとも言わない、やっぱり、ひそひそと話し合っている様子でしたが、
「では」
と言って、お角さんが立ち上って、その隣の間の薄暗い座敷を怖る怖るあけた隙間《すきま》から見ると、その隣の間の正座に、意外にも覆面の人が一人、端坐していました。
 正面の覆面の客というのは、まごう方なきお銀様でありました。してみると問題のお銀様はいつのまにか、ここに安着していたのです。父に先んじて来たか、後《おく》れたか、いずれにしても、ここに安坐して二人の謀議を聞いている。事がここまで運んだ以上は、絶えて久しい父子の対面は無事に実現するにきまっているが、問題は、会見そのことよりは、会見して以後にあるのです。
 これからが関守氏とお角さんの、本当の腕の見せどころと言わなければなりません。

         二十三

 女王と総理とが出動した後の胆吹王国に、留守師団長をつとめたところの人は、前に申す通り青嵐居士《せいらんこじ》でありました。
 この人は、不破の関守氏とは話は合うが、その性格に至って大いに相違した点があると見なければなりません。
 すなわち、不破の関守氏は、一種の詩人でもあり、空想家でもあり、また相当の野心家でもあり、策士でもあるのですが、青嵐居士に至っては、もっとずっと着実家なのであります。
 釣に隠れているところを見ると、一個の風流人でもあり、ひとかどの曲者が世に韜晦《とうかい》しているようでもあるけれども、事実、この人は風流によって釣をしているのではない、好きだから釣に出るまでで、それに浪人をしていると暇が自由に取れるから、自然、好きな釣の道に出遊する機会が多いというだけのものです。ことに湖辺に住むと、地理に於て最も釣に恵まれているという条件もあります。かつまた、非常に話好きではあるけれども、その語るところをよく聞いていると、不破の関守氏のように空想的にあらずして、民生そのものに密接した点がある。野心家、或いは策士としての性格を多分に持ち合わせている不破の関守氏と比べると、一方は釣して網せず、一方は網して釣せずの性格の相違があるのであります。今、胆吹王国の留守師団長を引受けたからといって、創造者連の理想や野心に共鳴して然《しか》るのではなく、最近ちかづきになったよしみで、頼まれてみると、自分も相当の興味を以て、快く当分の留守を引受けてみたまでです。
 着任すると匆々《そうそう》、この人はまず胆吹王国の全体の人を見渡しました。
 規模と目的はすでに前人によって定められてあるのですから、それをいまさら検討して、革新の、改善のということは自分の権内ではない。その辺には少しも触れないで、現状を最もよく管理することが自分の任務だと思いました。
 そこで、自分として主力を置くべきものは、領土でなく、経営でなく、専《もっぱ》ら人事であるとの見地から、この王国に集まるところの人間の研究から取りかかりました。研究はどうしても科学的でなければならぬ、ローマン的であってはいけないという出立から、まずこの王国に現在集まっているところの人種を、次のように大別してみました。
[#ここから1字下げ]
甲種―胆吹王国の主義理想に共鳴して、これと終始を共にせんとする真剣の同志
乙種―現在は、まだ充分の理解者とは言い難いが、やがてその可能性ある、いわば準同志
丙種―主義理想には無頓着、ただ開墾労働者として日給をもらって働いている人
丁種―食い詰めて、ころがり込んで、働かせられている人
戊種《ぼしゅ》―好奇で腰をかけている人
[#ここで字下げ終わり]
 だいたい、この五種に分けてみました。頭数はすべてで約五十名ある。それをこの五つの中に部分けをして編入を試みようと、しきりにその性格や、労働の研究を進めておりました。
 そうしてみると、甲種と乙種に編入すべき人種の極めて少ないこと、全部でどうしても十名以上を数えることはできない。丙種、すなわち日給をもらってただ単に働く人は二十人以上あって、これは比較的最も多数だが、最も無色なのもこのやからであることを知りました。すなわち、近在の百姓連が、農事の暇を見ては賃銭稼ぎに来るだけのもので、なんらの熱情はないが、平明忠実によく働くことは働きます。
 丁種、すなわち食詰め者に至っては、頭数に於て右の丙種に次ぐものであって、十数名はたしかにいるが、これが最も王国民の中の難物だと思いました。監督している間は働きぶりを見せるけれども、眼が離れると、油を売り、蔭口を叩くのはこの連中であって、これを見のがしていると、その風が、他の人種に伝染するおそれがあることを青嵐居士が見てとって、どうしても監督の中心は、この丁種へ置かなければならないことに着眼しました。
 戊種に至っては、これは十名足らずの最も僅少な人数に過ぎないし、若年者が多く、本来は無邪気で、好意で参加しているだけに、教育すれば大いに収穫ともなるが、失望すると翻すやからである。その流動性を誘導して、本物に鍛錬してやることが任務だと青嵐居士が見て取りました。
 だいたい、胆吹王国に身を寄せる人種は右のような人別《にんべつ》になりますけれども、右の人別のいずれへも入らない存在を、炯眼《けいがん》なる青嵐居士が早くも見て取りました。たいていは以上の五種類の中へ編入してできないという人種はないが、ただ二人だけ、どうも青嵐居士の頭をひねった人種が存在するのです。青嵐居士は早くも、この二人はスパイだなと見て取ってしまいました。
 スパイというのは、つまり、このところに変てこな団体が巣を食いはじめた、表面は開墾だが、何か特別の危険思想なり、行動なりの卵ではないか、或いはまた大本教や、ひとのみちの二の舞ではない――一の舞ではないかというような懸念から、藤沼正兵衛あたりによってさし廻された偵察者である。それが同志、或いは労働者をよそおって、この王国中へ潜入しているのが、たしかに二人はあると睨《にら》んだのが、さすがに青嵐居士の炯眼です。不破の関守氏は、そういう科学的分析も、人種的検討もしませんでした。
 もとより当初は、来《きた》る者拒まず、という解放主義でなければ人が集まらないという理由の下に、人を入れに入れたものですから、そういう検討をする遑《いとま》がなかった。雑多な人が来て、雑多な性格をぶちまけることを、大まかに容認していたのですから、不破の関守氏は大体をおさめるに急で、個々の分析には及ばなかったのも道理です。
 さて、そういうふうに青嵐居士は、胆吹王国の人種を分類してみましたけれども、その分類によって、処分に手をつけようというのではないのです。それはそのまま単に研究とし、参考の資料として扱いながら、その範囲に於て監督もし、働かせもしているのです。
 そうしてこれらの人種に対して、淡々として一視同仁に眼をかけるものだから、特にこの人を崇拝するという信者も出ない代り、不服や反抗の色を現わすものは一人もありませんでした。
 かくて青嵐居士は、毎朝毎日、王国内を巡視しては、極めて心やすく国民に向って呼びかける、評判はなかなか悪くないのです。

         二十四

 ある日、青嵐居士が、炭焼の釜出し勤務を見廻っていると、一人の青年がたいへん丁寧に挨拶をする途端に、ふところから転がり出して地上に落ちたものがありました。
「何か落ちたぜ、君」
 青嵐居士から注意を受けて、
「はい、どうも済みません」
 この青年は、あわただしく、落ちたものを拾い取って、またふところへ捻《ね》じ込んで仕事にかかるのを、青嵐居士が見のがさず、
「そりゃ、何の本だい、君」
と言ってたずねますと、
「いいえ、なあに、何でもありません」
「見せ給え」
 そう言われて青年も、拒むわけにはゆかないで、いったんふところへ捻じ込んだ小冊子を、また取り出して、青嵐居士の前へ提出しました。
「ははあ、君は蘭学をやってるんだな、感心だね」
「相済みません」
と言って、青年が頭を掻《か》きました。蘭学をやることが別に相済まぬことになるはずはないが、これはこの青年の口癖でしょう。青嵐居士は、それ以上にはなんらの追究することもなく、右の冊子を青年のふところに押戻してやりながら、
「今晩、話しに来給え、上平館の時習室へ話しに来給え」
と言い捨てて、次の職場の方に巡視にまわりました。
 この青年は、かねて青嵐居士が分類に於て、戊種の方へ編入して置いた一人でありました。戊種というのは、つまり、好奇でここへ参加して来ている人種をいうのです。好奇性もあり、煩悶性《はんもんせい》もあって、一燈園なり、大本教へなりへ走って行ってみる、そこで教育もされたり、失望もしたりして帰って来る、一種の流行性を帯びた人種である。居つけば一躍して甲種へ昇格するが、水に合わないと早速飛び出して、悪評を世間にふり蒔《ま》いて歩きがちなのがこの人種である。
 その晩になると、果して、この青年が青嵐居士の許《もと》へ話しに来ました。彼は、特に師団長のお目に留まったことを光栄ともし、よろこびともして、晩飯が済むと逸早《いちはや》く押しかけて来たものです。
「君は蘭学をやっているのかね」
 昼のつづきで、青嵐居士が会話のきっかけを作って青年に与えると、青年は、
「いや、あれは蘭学ではないのです、英学なんです。蘭学はもう古い、将来は英学をやらなければならないと言われたものですから……」
と申しわけをしました。
「そうか、英学だったかね、見せ給え、もう一ぺん、あの本を」
 青嵐居士が、青年のふところを見込んでこう言いますと、青年が、
「これでございますか」
 またしても、青年はふところから、日中ころがり出たところの部厚な小冊子を再び取り出して、青嵐居士の前へ提出しました。
 してみると、この青年は、昼夜離さず、右の小冊子をふところにしているらしい。青嵐居士もそう気取《けど》ったから、そこで、再提出を求めたものに相違ない。つまり、蘭学か、英学か、そこまでは見究めなかったけれども、たしかに外国語の辞書であることは、青嵐居士が最初から認めたところのものでありました。
 辞書というものは、語学生はふところから放さないものである。今晩、来訪して来たのを見た時も、この青年のふところがふくらんでいることに於て、青嵐居士は早くも、この青年が辞書をふところにして来ているなと見て取ったものですから、この提出を求めたのです。
 青嵐居士は果して外国語の素養があるかどうかは知らないが、青年の提出した冊子を受取って、一応調べてみました。辞書といったところで、当時スタンダードもコンサイスも有るべきはずはない、有るべきはずがあったにしたところが、この青年などの手に渡るべき品ではない、そこで、青嵐居士が取り上げた辞書も、筆記物の辞書でありました。誰か、しかるべき人が所持している日本に数冊という極めて貴重の外国本の、又写しの又写しの、そのまた又写しの何代かの孫に当るべき薄葉《うすよう》の肉筆写本を、この青年が持っているのであります。
 筆写本だからといって、本人が読めて、そうして筆写するならまだいいが、読めないで形によって写すのだから、難渋なことは言わん方がない。だから、蘭文学だか、英文学だか、一見しただけでは誰だって判別がつき兼ねる。まず、横文字の辞書と見て取って、蘭学をやるのかと詰問した青嵐居士に、蘭学と英学の区別がつかなかったというわけではない。蘭字といえば蘭字、英字といえば英字、ずいぶん怪しげな辞書ですが、辞書は辞書に相違ないし、それをふところにしていることによって、相当好学の新しい青年であることを認めて、青嵐居士が会話を進めました――
「君はドコで英学をやりました」
「越前の福井で……ホンのちっとばかり、いろはだけなんです」
「越前の福井――君は福井の人なんですか」
「エエ、福井が僕の郷里なんです」
「福井に英学の先生がいましたか」
「エエ、その、なんです……」
 青年は、少々ドモリながら質朴に受け答える。なかなかいい気の青年だと、青嵐居士が見て取って、秋の夜の当座の話し相手とすることになりました。

         二十五

「福井でも、一部の青年の中には、語学熱が相当盛んでございます」
「そうだろう、福井はあれでなかなか進取の気象に富んだところだ」
「我々の先輩に橋本景岳という人がございまして」
「なるほど――あれは天下の人材でしたね、惜しいことをしたものです」
「それから、熊本から横井小楠《よこいしょうなん》などいう先生も見えまして……」
「その事、その事、いったい春岳侯が非凡な殿様だから、人材の吸収につとめられる」
「そういうような感化で、一部の青年には、なかなか新知識の吸収慾が強いのでして、僕もそれにかぶれた末輩の一人なんですが、どうも思うようにいきません」
「まあ、よろしい、青年時代には、好奇にしろ、流行にしろ、新しい方面へ向いてみることも悪くない」
 青嵐居士が、新しい青年に理解を持っていてくれることが、この青年の意気を鼓舞するらしい。青年は知己を得たりというような勇みをなして、
「そういうわけで、僕は英学をやりたいんです、けれども、先生がありません、本がありません、人から借りて、ようやくこの字引を写して、これと朝晩、首っぴきをしているだけなんですが、こんなことではなかなか追いつかないんで困っています」
「なかなか、語学なんていうものは一通りの根気で仕あがるものじゃない、やり出した以上は、失望せず、中絶せずにおやりなさい」
「有難うございます――先生も語学の方をおやりなんですか」
 青年は、青嵐居士の理解と激励を有難いことに感謝してみると、我々に対してこれだけの理解と同情を持っている人は、勢い、語学に対して相当の理解と同情を持っている人、あるいは相当以上にその実際の知識を持っている人ではないか、それを持ち合わせているとしたら、早速受けて学びたい、という好学的便乗心が早くも青年の胸に兆《きざ》したと見え、透かさずその言葉尻をとらえてみたのですが、
「いいや、僕は無精者で、語学なんぞはようやりません、それに晩学ではね」
と突放されたが、まだ相当脈はあるように、青年には思いきれないものがあると見えて、ひとり言のように、
「ドコか、英学を教えてくれるよい先生はありますまいかね」
「英学のよい先生を求めようとすれば、都会へ出るよりほかはない、長崎とか、大阪とか、江戸とかへ行かなければ、大家はいない」
「大家でなくてもいいんです、ホンの手ほどきだけしてくれる人があれば助かるんです、それから後は、どんなことをしても自分で漕ぎつけてみる決心をしています、先生、あなたは、わたくしに手引をして下さらんでしょうか、お願いです」
 青年は、もはや見込んで歎願のところまで来てしまっている。青嵐居士が相当語学に素養のあるものときめてしまって――独断できめてしまって、熱心な就学志願の方へ燃え出して来たので、青嵐居士が迷惑がり、
「飛んでもないことだ、君は我輩を英学者と誤認しているのかね」
「いや、国で承りました、胆吹山へ不思議な人物が集まって、新しい思想の下《もと》に、開墾をはじめているから行ってみろ、君の学びたい外国語なんぞは、さらさら読める学者が、世を拗《す》ねて鍬《くわ》を取って働いているから、語学が学びたければあそこへ行って学ぶべしと言われたから、僕は、わざわざ福井を飛び出して来たんです、どうか僕の熱心に免じて、御教授を願います、今日から一倍の仕事をしろとおっしゃればやります、毎晩でおさしつかえがお有りでしたら、隔晩でもよろしいですから、ぜひとも御教授を願います」
 そうせがまれて青嵐居士が、ははあ、なるほどこの青年は、そういう示唆《じさ》を受けて、ここへやって来たのだなと思いました。胆吹王国の主義目的に参加するためではなく、自分の好学の一念から、狭い郷里では求められない、広い日本であっても、当時では容易に求められない語学の先生を、この胆吹王国に於て発見し得るという希望の下に、越前の福井からやって来たのだなと知ることができました。
 同時に、そういう心がけを以てここへ参加して来ることは心得違いである、胆吹王国は、そういう志願の人を収容すべきところではない、同志としては異端者である、王国の職員の一人としては叱って諭《さと》すべきではあるが、青嵐居士は、この青年の好学に大きな同情を持ち得られる人でありました。
「いや、無理もない、我輩も若い時分に、そういう語学熱が燃えたですよ、どうかして語学を究《きわ》めたいと熱中してみたが、師がない、本がない、それがために、心ならずも中絶してしまってもの[#「もの」に傍点]にならないで今日に及んでいるが、当時、もし適当の師と書物とが与えられていたならば、今ではひとかどの語学者になっていたかも知れない、その語学熱高潮の当時を顧みてみると、ちょうど今の君と同様に、あらゆるものから学びたがった、ちょっと語学のうつしがあるとか、語学の出来る人があるという噂《うわさ》を聞くと、これがみんないっぱしの大学者のように見えて、走りついて教えを受けようとあせったものだが、さて、本当に出来るというのはなかったねえ、本当に語学の出来たという人は、日本中で五本の指まで行かなかったんだ」
「先生が、そういう語学熱の時代は幾つ頃の時代でした」
「左様、やっぱり君ぐらいの年頃さ――当時、これでも江戸に遊学していたんだ」
「江戸で、その時分の英学者は、どなたでしたかね」
「左様――蘭学で箕作阮甫《みつくりげんぽ》、佐久間象山《さくまぞうざん》などというところが大家だったね、それから黒田の永井青崖《ながいせいがい》というのがなかなか出来た、大阪には緒方洪庵《おがたこうあん》という先生がいたが、それらはみんな蘭学が主で、英学などやろうという者はほとんどなかったが、ただ一人、長崎の幕府の通訳で、森山という人が英語が出来るという評判であった。そういう門戸を張った学者ではなかったけれど、偶然にも我輩は、英学の勝《すぐ》れた友人を一人持っていたね」
「あ、そうですか、その人を御紹介していただけないでしょうか」
「あせってはいけない、それはもう二十年も昔のことだよ」
「二十年ですか……でも、かまいません、御紹介を願いたいものです、今の時節では、紹介を得なければ、よき師に就けません」
「いや、拙者のいま話したのは、門戸を張った学者ではない、しかも、れっきとした幕府の直参《じきさん》なんだから、紹介があったとて、人に教授などの余裕はない人なんだが、あの男は、たしかに英語が出来た、あのくらい出来たのは、当時でも、今日でも、まずあるまい」
「大家ですね、御紹介が願えなければ、お名前だけでもお聞かせ下さい、大家のお名前を承って置くだけでも後学の力になりますよ」
「駒井能登守といってな、幕府の旗本で、なかなか大した家柄なんだが、学生となると我輩などと同格で勉強したものなんだ、その後、甲州勤番支配にまでなったという話は聞いたが、その後の消息が一向わからん」
 ここで意外の人から、意外の人の噂《うわさ》を聞いたものだが、この青年にとっては、意外にも、意外でないにも、駒井能登などいう名は全く初耳でありました。

         二十六

 胆吹王国の留守師団長|青嵐居士《せいらんこじ》は、何と思ったかその翌朝、馬に乗れる三人の青年を庭先近く召集しました。
 その中の二人は甲組から、一人は昨日の福井青年であります。この三人を乗馬もろともに庭先へ呼びよせて、次のような命令を下したものです。
「君たち、ひとつこれから春照へ下って、一致するなり、分離するなり、おのおの臨機の処置を取って、山麓いったいを偵察して来てくれ給え、目的は一揆暴動連の行動の如何《いかん》を見ることにあるのだ――彼等の群衆がドノ辺から来て、ドチラの方向へなだれ込むか、だいたいその方向を視察して来てもらいたい。万一、大勢が当方面をめざして進んで来るという形勢が見えた時には、誰でもが、単独でよろしい、早刻にここまで注進をしてもらいたいのだ。もしまた、それほど差迫った形勢が見えない、他方面へ向って進行しつつあるような場合には、報告を急がずともよろしい、だいたい六ツ時頃までに、轡《くつわ》を並べてここへ帰って来るように」
 こういう命令を下しているのは、この師団長は、一揆暴動の形勢が他方面へ流出する分には敢《あ》えて意としないが、万一、こちらへ向ってなだれ込んで来る形勢には極力警戒をしなければならない。事実上また、胆吹を目ざしてなだれ込んで来るというような形勢が、最も有り得る形勢であると見られる理由もある。それが、この斥候《せっこう》を放つ所以《ゆえん》なのでありました。
 この命令を下しているところへ、急に伝令が一人、本館の方からはせつけて来まして、
「先生、不破様からのお使者が参りました」
「なに、関守氏から使者が来た、早速ここへ通すように」
 案内につれて、そこへ風を切ってやって来たのは、ほかならぬがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵です。
 すっかり旅の装いが出来ている。しかもその装いは、不破の関守氏がここで用意して行った装束そっくりですから、何物よりもそのいでたちが、まず門鑑として物を言いました。
「ごらん下さいまし、不破様からお手紙をお届け致すようにとの御沙汰で持って参じました」
「それはそれは、御苦労さま」
と言って青嵐居士は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が差出す手紙をとって、封を切りながら、三騎の斥候に向って言いました、
「諸君、少し待ち給え、今、この手紙を読み了《おわ》って、それからこの使者の文言《もんごん》を聞いてからの上で」
 こう言って乗馬を控えさせて置いて、不破の関守氏からの手紙を、立ちながら読み下しているのを待ちきれず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が口走って言いました、
「もし、あんたが青嵐《あおあらし》の親分さんでござんすか」
 変なことを口走り出したので、さすがの青嵐居士《せいらんこじ》が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の面《かお》を見直しました。そうするとがんりき[#「がんりき」に傍点]が、
「不破の旦那からお頼み申されて参りました、わっしはがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というしがねえ野郎でござんす、こんた青嵐の親分さんでござんすか……」
 お控《ひけ》え下さいましと、本式のやくざ挨拶に居直り兼ねまじき気勢を見て、青嵐居士も全く面くらいましたが、直ちに合点して、
「ははあ、青嵐は拙者に違いないが、親分ではないよ、君は何か間違いをして来たんだろう、親分でも蜂の頭でもない拙者に向って、改まった口上などは無用だ、それよりは早速、君に聞きたいことは、君が逢坂山からここまで突破して来たその途中の雲行きをひとつ、見たまま詳しく話してもらいたい、湖辺湖岸の物騒な大衆がドノ辺まで騒いで、どんな動き方をしていたか、君の見て来たままを、ここで話してもらいたい」
「そいつを話して上げたいんでしてねえ、先以《まずもっ》て磨針峠《すりはりとうげ》からこの山の下三里がところまで押しかけて、そこでかたまっている一まきが、こいつが剣呑《けんのん》だということを御承知願えてえんでございます、そいつがみんな胆吹へ、胆吹へと言っていましたぜ、あの勢いじゃ、明日が日にもこちらへ押しかけて来ると見なくちゃなりませんぜ――そうですなあ、人数はざっと三千人、胆吹へ籠《こも》って旗揚げでもする意気組みで、なんでも胆吹山へ籠れ籠れと、口々に言っているのを聞いて参りましたよ、なるほど、不破の旦那がおっしゃったのはここだなと思いましたよ、あの同勢に、ここへまともに押しかけられた日にゃ、王国も御殿もあったもんじゃあござんせんぜ、それが心配になるから、不破の旦那が、青嵐の親分へ注進をするように、こちとらを見立てた眼は高いと、がんりき[#「がんりき」に傍点]がはじめて感心を致しましたが、青嵐の親分と言ったのは悪うござんしたかね」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の注進を聞きながら、眼は三人の青年の方を見て青嵐居士は、
「それを聞いて安心した、では、事情がわかったから、諸君は出馬を見合わせてよろしい、持場へ戻ってくれ給え、別にまた仕様があるから、それまで平常通りに仕事をして、待機していてくれ給え。がん[#「がん」に傍点]君とやら、お使ご苦労――まあ、こっちへ来て足を洗って、飯でも食い給え」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は勝手が少し違うように思われてならない。青嵐の親分と言われたから、でっぷり肥った、長半纏《ながばんてん》を引っかけて、胴金入《どうがねい》りの凄いやつでも引提げながら悠々《ゆうゆう》と立ち出でるかと思うと、これは寺子屋の師匠そっくりの長身温和な浪人風――気分から、応対まで、すっかり当てが違って、がんりき[#「がんりき」に傍点]は、またしてもテレ加減を隠すことができない。案内されるままに足を洗って、客座敷へ通されて、本膳で飯を食わされた時に、存外|贅沢《ぜいたく》だなあと思いました。
 一方、本館《ほんやかた》へ現われた青嵐居士は、自分も羽織袴で両刀を帯している上に、直ちに王国中に向って触れを下して、総動員を命じました。

         二十七

 総動員をしたからといって、自分が留守師団を指揮して、これだけの手勢を以て、一揆《いっき》の大軍に当ろうとするものでないことはよくわかっています。
 いかに胆吹王国といえども、これだけの実力を以て大軍に向うなどは、暴虎馮河《ぼうこひょうが》の至りです。よし、それに相当る大軍を保持していたからにしても、この人は戦をしかける人ではない、むしろ緩和に当ることを得意とする人であることは、姉川の時の水合戦の裁きぶりでもよくわかっている。
 五十名の胆吹王国の総動員をしたのは、戦わんがためでなくして、和せんがためであるに相違ない。和するというのは、つまり、こちらへ向って無遠慮に侵入の気配にある一揆暴動の逆流を、緩和転向せしめるためでなければならぬ。あの勢いを真正面からこの山へ引受けてしまった日には、独逸軍《ドイツぐん》の白耳義《ベルギー》に於けるように、損害と犠牲のほどは目も当てられないことはよくわかっている。群集共の間には、まだ、胆吹山あるを知って、この王国あるを知らないものが大部分に相違ないが、来てそうしてこれを知った日にはたまらない。せっかくここまでの経営が、瞬く間に掠奪と、犠牲の壇上に捧げられてしまい、そうしてこの本館も、御殿も、彼等暴民共の一炬《いっきょ》に附されるか、或いは山寨《さんさい》の用に住み荒されることは火を見るように明らかである。
 留守師団長としての自分の重責はそこにある。この際、いかにしてこの王国を守るかということは、いかにして一揆の大勢《たいせい》をそらすかということでなければならぬ。
 そうでなくても、胆吹は古来、山賊の類《たぐい》に目ざされる山なのである。ややもすれば、胆吹へ籠《こも》るぞと言いたがられる山なのである。こう大勢が傾いて来て、まず先陣がこの山の一角を占拠したということになると、風を聞いて、あとからもあとからも、近江一円の一揆共には限らない、遠近の国々から不逞《ふてい》の徒がみんなこの山に集まって来て根城に仕兼ねない。事は重大で、そうして、焦眉の急に迫っている。留守師団長として、ここで策をめぐらさなければ、めぐらす時がない――青嵐居士が正装をして両刀を提げて立ったのも故なしとはしないのであります。
「君たち、一手は手を揃《そろ》えてできるだけのたきだしをしてくれ給え、それから、有らん限りの米を積下ろしてくれ給え、庫《くら》には三日分ほどの量を残して置けばよろしい、それから最近、長浜で両替をしてきた銭の全部を出して庭へ積んでくれ給え、その数量は拙者が行って読むから、それが済んだら、直ちにそれを馬と車とに積めるだけ積んで、麓へ下って、春照の火の見の下に待機しているんだ。一手は留守を守ってくれ給え、留守といっても僅かの間だ。そのほかは、馬と車を以てできるだけの米と銭とを麓へ運ぶことに全力を尽すのだ、無論、拙者も同行する」
 青嵐居士は、五十人の手勢を日頃の訓練通りに部隊分けをして、一手は第一線に、一手は留守、しかして出動軍の第一線に自分が立つというのです。しかし、戦争をするつもりの出動でないことは、一同の胸によく納得されている。うちの大将は智将であるから、徒《いたず》らに戦争をしない。人数の総動員も、物資の総動員も、みな緩和の目的のために費されるのだということを、王国の民が皆、納得しながら勇み立つ。その勇み立ち方が、平和に向っての希望ある勇み方で、戦争に対する捨身的な勇気でないことは、臨時留守総理の器量に向っての無言の信任でもありました。青嵐居士は留守師団長、留守師団長と言い慣らされてはいるが、事実、この王国に於ける現在の地位は、師団長たるにとどまらない、むしろ臨時総理であり、女王代理であり、胆吹一国の興廃はその肩にかかっていると見るべきであります。
 かくて、この一行が繰出されました。青嵐居士は正装はしているが、決して武装しないことを以て見ても、この出動の目的が平和にあって、戦争にあらざることがよくわかる。それがまた味方の民心を、安静鎮定せしむること偉大なる効果もよくわかる。
 だが、しかし、この通り物資の総動員をして山を繰出す以上には、この物資をどう扱うのだか、それは味方の誰にもわからない。この人員と物資とを以て、一揆に参加するのだとは誰も考えない。また、一揆の不安から、人間と物資の避難のために繰出したのだとも考える余地がない。逃げるために、隠すための出動ならば、後へ留守を残して置くはずもなし、また、こんなに派手に正面を切って逃げ出すという手はない。
 策戦の方針は、臨時総理の胸一つにあって、王国民は測ることができない。測ることはできないけれども、全幅の信任はある。青嵐居士は徒歩《かち》で、一行について、かなり寛《くつろ》いだ気分で、山を下りつつあります。その途中も、国民を相手に平気で談笑をしているし、車の動きが悪い時は、後へ廻って後押しの腕貸しをするかとみれば、少し疲れた、馬へ乗らせてくれと、引かせた副馬《そえうま》に跨《また》がって少し歩ませてみては、いいかげんで馬上から飛び下りて、一行と共に談笑しながら徒歩立《かちだ》ちになるという行進ぶりです。
 やがて、相当の時を費しての後に、春照村の火の見のところまで一行が到着すると、その程よきところへ、約二百俵ばかりの米を積み上げさせ、別に盤台にのせて夥《おびただ》しい緡銭《さしぜに》を積み上げさせました。金額としてはそう驚くほどではないにしても、銭に換えてこうして積み上げると、田舎《いなか》の者の眼を驚かすに足るほどの夥しさでした。
「さあ、これでよろしい、あとに残るものは五人だけでよろしい、他の一同はこのまま山へ引上げたり。そうして、平常通りに持場持場で仕事をしていること」
 青嵐居士はこう言って、一行の大部分を館《やかた》へ帰らせてしまい、右の銭と米とは、五人の若い者を選抜して張番をさせ、自分はそのまま馬に乗って、いずれの方向へか打たせて行きました。

         二十八

 ゆくりなくも、青嵐居士から駒井甚三郎のことが口に出たのを機会として、あの人及びその周囲の一行の消息に向って筆を転ずることに致します。
 読者の便宜のためというよりは、書く人の記憶の集中のために、まず地点を陸中の国、釜石の港に置きましょう。人間のことを語るには、まず地理を調べてかかるのが本格です。陸中の釜石の港に、今、駒井甚三郎の無名丸が碇泊している。この船が陸前の松島湾の月ノ浦を出てから四日目、とにかく、船は安全に北上して、釜石の港まで到着することができました。
 駒井甚三郎の無名丸は八十|噸《トン》、六十馬力の、駒井独創の和洋折衷形なのであります。人間で言えば五十人の人を乗せるに適している。無論、機関の設備はあるが、それは港を出る時と、港に入る時の少し以前だけに石炭を使用することにして、大海に出てからは、帆前の風力を利用することになっている。大砲も一門あって、その他の武器も護船用だけのものは備えている。農具工具も着陸早々の実用だけのものは備えている。
 さてその次には、この船の中に現在乗込の船員と船客の全部についてなのですが、無論この船に於ては、船員すなわち船客なのでありますから、人と名のつくものの全体を言えば、すなわちこの全船の人別がわかるのです。これは、いつぞや清澄の茂太郎が、出鱈目《でたらめ》の歌にうたわれ出たことがある。よって便宜のために、あのでたらめ[#「でたらめ」に傍点]をここに転載して、反芻《はんすう》を試みてみると――
[#ここから2字下げ]
さて皆さん
これを現在
わたしたちが
一王国となして
乗込んでいる
この無名丸の社会と
引きくらべてみたら
どうでしょう
実際問題ですよ
御承知の通り
この船には
男が多くて女が少ないです
男は美男子の駒井船長をはじめ
豪傑の田山白雲先生
豪傑の卵の柳田平治君
だらしのないマドロス君
房州から来た船頭の松吉さん
同じく清八さん
同じく九一さん
月ノ浦から乗込んだ平太郎大工さん
同じく松兵衛さん
漁師の徳蔵さん
それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの
何の商売だかわからない七兵衛おやじ
それに、若君の登さん
つんぼの金椎君《キンツイくん》
さて、しんがりに
かく申す清澄の茂太郎も
これで男の端くれなんです
かく数えてみますると
この無名丸の中には
男と名のつく者が
都合十三人
それなのに女というものは
登さんのばあやさん
お松さん
それからもゆるさん
その三人きりなんです
十三人の男に
三人の女――
もし駒井船長が
理想の、人のいない島を求めて
そこに一王国を作るとしたら
いま申す
世界のドコかの国と同じような
女が不足の国になります
…………
…………
[#ここで字下げ終わり]
 右の茂太郎の即興歌は、船が回航の途上、まだ釜石の港に入らない以前の出鱈目なのですから、船が安着してみると、ここに多少の人員の増減が考えられなければならない。増減と言い条、これ以上の減は、船の操縦の必要上、許されないと言うべきだから、増が有り得れば有るのです。果して、この釜石の港で、この船に更に二人の人を加えることになりました。
 二人の人といっても、その一人は、すでに茂太郎の口頭に上っている人で、すなわち右の出鱈目の第二十三句から第二十四句までに表現されている――それから、今はいないが、いつかこの船に帰って来るはずの、何の商売だかわからない七兵衛おやじ――その人であります。七兵衛が無事に、この港でこの船へ戻って来ました。清澄の茂公をはじめ、この老練家の怪おやじを船に迎え得たことの喜びは申すまでもありません。おそらく無事では帰れまいかとの予想で心配しきっていたその人が、無事で帰って来たのだから、家出をした親爺が無事で帰って来てくれたように、船中一同が喜ぶのは無理はありません。
 しかし、無事で帰って来たとは言い条、無事なのはその身体《からだ》の健康だけで、外面は絶大なる異変を以て、見る人の目を驚かさずには置きませんでした。船へついて、はじめて笠を取った七兵衛の頭を見ると丸坊主でした。それに、袈裟《けさ》こそかけていないが、首に大きな一連の数珠《じゅず》をかけておりましたことが、誰をしも、七兵衛らしくない七兵衛だと驚異がらせずには置きません。
 それと、もう一つは、この不可解な新しい老発意《ろうぼち》が、張りきった若盛りの田舎娘《いなかむすめ》を一人携帯して来ていることです。七兵衛おやじだってまだ五十にはならないのだから、男やもめに花が咲いて、長い道中の間、艶種の一つも作るということは、或いはお愛嬌みたようなものかも知れないが、いい年をして人前へ若いのを引っぱり込んで来たと言えば、七兵衛らしくもないだらし[#「だらし」に傍点]なさを感ずるけれども、とにかく、頭を丸めてしまって、そうして数珠をかけながら、そうして、若いのを引っぱって来たものですから、まるで判じ物のようでありました。
 そこで、清澄の茂の野郎の遠慮のないすっぱ抜きが、誰でもの人の驚異と疑惑とを代表して発表されました――
[#ここから2字下げ]
帰った
帰った
七兵衛おやじが帰った
嬉しい
嬉しい
七兵衛おやじが
やっとこさと戻った
戻ったと思ったら
やっとこさと丸坊主
丸坊主
丸坊主
七兵衛おやじが丸坊主
やっとこさと丸坊主
[#ここで字下げ終わり]
 七兵衛が、船へ上って、乗組の者に挨拶《あいさつ》をするために笠を取った、その途端にこの歌が飛び出たものですから、一同がドッと笑い、七兵衛が思わず苦笑しましたが、その苦笑のうちには、言い知れぬ苦闘の含蓄があって、笑いかけた一同のものを笑えないものにしました。だが、茂公の即興はひるまない。
[#ここから2字下げ]
皆さん
七兵衛おやじが
坊主になって
若い女の
手を引いて戻って来ましたよ
これには
仔細のあることでしょう
[#ここで字下げ終わり]
 なんてませた言い方だろう、もう慣《なれ》っ子《こ》になっているから、船中同士はさのみ驚かないけれど、七兵衛につれられて来た若い女その人は、真赤になりました。ただでさえ、もう上気しきって、わくわくしているところへ、無遠慮にこんな歌を浴びせられたものだから、真赤になるのも無理はありません。
[#ここから2字下げ]
その仔細というのは
追って
七兵衛おやじの口から
皆さんのお聞きに入れるでしょう
五十路《いそじ》に近いおやじが
まだはたち[#「はたち」に傍点]に足らぬ女の
手を引いて
戻って来たのは
皆さんの前に申しわけがないことがあるから
それで頭を丸めて
お詫《わ》びをする
といったような浮気の沙汰《さた》ではありません
同じ女を連れて来るにしても
マドロス君と
七兵衛おやじとは
性質が違いますよ――
ウスノロのマドロス君と
老練家の七兵衛おやじと
同じに見ちゃあいけません
すなわち
マドロス君が
女をつれて逃げてまた戻ったのは
つまり、だらしのない駈落《かけおち》なのさ
七兵衛おやじのは
まさか
掠奪でも
誘惑でも
駈落でも
ありますまい
くわしくは本人に聞いていただきたい
[#ここで字下げ終わり]
 ここまでは、内容に於てほぼ無事でしたが、ここで完全にバレてしまって、
[#ここから2字下げ]
坊主
間男《まおとこ》して
縛られた
頭がまるくて許された
[#ここで字下げ終わり]
 この時、船中の警視総監たる田山白雲のために、
「コレ……」
と一喝《いっかつ》を食いました。白雲の一喝に怖れをなした茂公は、調子をかえてテレ隠し、
[#ここから2字下げ]
土佐の高知の
播磨屋橋で
坊さんかんざし買うを見た
坊さんかんざし何するの
頭が丸くてさせないよ
頭が丸くてさせないよ
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 しかし、聞きようによっては、この歌が七兵衛の帰着を歓迎する音楽隊の吹奏のようにも聞えて、船中の人気をなんとなくなごやかなものにした効果はたしかにありました。

         二十九

 七兵衛のつれて来た若い娘は、お喜代さんという村の娘でありました。
 この娘と、七兵衛との間には、言うに言われぬ複雑微妙なものがある。ただ単に、長の旅の途中で娘を一人拾って来たというだけの、単純な受渡しにはなっていないことは、前の巻にくわしく物語られているはずです。
 いずれにしても、女の少ないこの海上王国に、ただ一人の、しかも、張りきった健康と年齢とを持った、生気満々の若い娘を一人拾って来たということは、特に一つの大きな収穫と見るべき理由もあるのです。それはそれとして、これで船の全員が揃《そろ》いました。当然|来《きた》るべき人と、充たさるべき人が全部集まりました。人が集まってみると、その次は物です。ここで、今後の長期航海に堪えるあらゆる物資を集めて、或いは新たに積入れ、或いは極度の補充をして行かなければならない。その物の補充に於ては、あらかじめ駒井船長が多大の心配を持っておりました。
 何となれば、船籍の不明瞭なこの船へ、人が恐れて物資を供給しないことになるかも知れない。よし供給してくれたにしても、その限度というものがある。釜石は悪い港ではないけれども、何を言うにも中央から遠い、ここで補給すべくして、出来ない品がありはしないか。
 そういうものは、今後どこで補充するか、というような先から先までを、駒井が頭に置いて、補給の準備を命ずると、案外にも非常に迅速に且つ多量に、ほとんど立ちどころに補給の道がつきました。代金も相当、或いは相当以上にしはらったには相違ないが、さりとて、この迅速豊富なる供給ぶりは、ただ金銭だけには換算し難い好意というものが含まれていることを、駒井船長が認識せざるを得なかったけれども、しかし、自分の船が、知らぬ他国の人から疑惑を蒙《こうむ》ろうとも、好意を寄せらるべき因縁《いんねん》は持たない。それを、こんなに土地の人が好意を以てしてくれることは、おそらくこの土地柄なんだろう。この土地の気風が、おのずから他国の客を愛するように出来ている、その人気の致すところかも知れない。駒井はその辺に疑惑を持ったけれども、これは悪い方の疑惑ではない、極めて素質のよい疑惑でありました。
 こうなった以上は、この港に久しく留るべき理由はない。万端がととのうて、即時出帆ということになりました。
 船が動き出した時に、陸上に、意外にも多数の見送りの人が現われました。ズラリと海岸に並んで、こっちへ向って笠を振り振り、さらば、さらばをしている。そこで、駒井をはじめ、船の者がまた不審がりました。あの人たちは、たしかに人を送るの情を現わしているようだが、さて送られる人は誰だ。我々は、ここに仮りの碇泊こそしたけれども、送らるべき知己を持たない。他に船出する人があってそれを送るべく、あそこに立っている。この船が大きく、あの人たちの送る舟が小さいがために、こちらが好意を独占するような形式におちているのではないかと、港の周囲を見渡したが、自分たちの船のほかに、それと覚しい舟の出帆は一ツも見えない。そこで、こちらは戸惑いをしました。我々を送ってくれるならばその好意を受けて、これに答えなければならぬ。こちらもハンケチを振るとか、テープを投げるとかしなければならない。ところが我々において送らるべき好意の所在を知ることができないから、
「あの人たちは、あれは何です、誰を送るためにああして集まって、笠を振り、さらばさらばをしているんですかな」
 田山白雲が、駒井船長に向って問いかけたのは、船長も最初から同じ思いで迷っているところの理由でした。
「分らないです、あの連中は果して誰を送っているのですか、我々を送っているとすれば、我々の中の誰がその人に当るのか」
 その上に、改めてまた甲板の上を見渡すと、こちらでたった一人、七兵衛が笠を振っている。
「やあ、七兵衛|親爺《おやじ》だ」
と船長も、白雲も、こちらで笠を振る七兵衛の方へ振向くと、船上の一同もそのようにして、それからあらためて陸上の送り手と、送らるる七兵衛とを見比べていると、彼方《あちら》の人数の真中に囲まれたデップリした頭領らしい男が、最後に笠を取って打振りました。事の光景が、船中一同に呑込めない、追って後刻、七兵衛から説明されたらわかることに相違ないが、それだけでは、いかにも合点がなり難いことに思っていると、早くもマストの頂上に登りつめていた清澄の茂太郎が、高らかに歌い出しました。
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坊主
坊主
向うにも坊主がいる
七兵衛おやじも坊主になったが
あちらにも一人、坊主首がいる
七兵衛おやじが
数珠をかけているように
あちらのおやじも
坊主首に数珠をかけている
坊主と
坊主が
笠を振り振り
チイチイ
パアパア
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 その歌におしえられて、岸に見送りの人数の真中の頭領株を見ると、なるほど、同じような新発意《しんぼち》の坊主頭で、衣装足ごしらえ、長脇差、すべて俗体であるのに、頭だけを丸めて、これは茂太郎の眼で見なければわからないが、そう言われて見ると、首になにやら数珠《じゅず》のようなものを掛けている。
 そこで、送られる人は七兵衛入道であり、見送る人の何だかは分らないにしても、同じく俗体入道を主とする一行であることだけは分りましたけれども、さて、それがいかなる人で、何故に七兵衛が見送られ、七兵衛を見送らなければならないか、そのことはまだ船中の誰にも分っていません。
 しかし、その見送りの中央の頭領株の入道が、仏兵助親分であり、それを取巻くのが、その界隈の顔役であることは、底を割っておいてもいいでしょう。従って、これから推察してみると、船の物資の補給が、駒井船長を驚惑せしむるほどに迅速且つ豊かであったという理由もほぼ読めるのです。
 すなわち、仏兵助親分の顔を以てして、附近の顔役の総動員によっての、隠れたる任侠であったということが、その時は分らなくても、後刻に至って分らないはずはありますまい。

         三十

 怱忙《そうぼう》のうちにも無名丸は、船出としての喜びと希望とを以て、釜石の港から出帆して、再び大海原に現われました。
 船長としての駒井には、遠大なる理想もあれば、同時に重大なる責任もあるのであります。その理想と責任とは、船の中で、自分のみが知る希望であり、自分のみが味わう恵みである。辛《かろ》うじてお松だけが、ややその胸中を知るのみで、田山白雲といえども、駒井の心事はよくわからない。
 船の乗組は、船の針路に対して、盲従というよりは無知識でありまして、一にも二にも駒井船長を信頼しているのですが、その絶対的信頼を置かれる駒井船長そのものが、船の前途に於て、いまだに迷うているものがあるのです。実際、北せんか、南せんかという最も基本的な羅針の標準に、船長その人が迷っているのだから不思議です。
 大海原へ出て見れば、東西南北という観念はおのずから消滅してしまうようなものの、駒井の心の悩みは解消しない。他の乗組のすべては、地理と航海に無知識であるが故に、安心している。駒井に至っては、知識が有り過ぎるために不安がある。他の乗組のすべては、船と船長に絶対信任を置いているが故に安泰だが、駒井自身は、船と人との将来に責任を感ずること大なるだけに休養がない。
 今晩も駒井は、衆の熟眠を見すまして、ただ一人、甲板の上をそぞろ歩きをして夜気に打たれつつ、深き思いに耽《ふけ》っているのであります。
 世が世ならば、この船を自分の思うままに大手を振って、いずれのところへでも廻航するが、今は世を忍ぶ身の上で、公然たる通航の自由を持っていない。船の籍を直轄に置くことがいけなければ、せめて、仙台その他の有力な藩の持船としてでも置けば、そこには若干の便宜も有り得たに相違ないが、自分の船は、ドコまでも自分の船だという駒井の自信が、いかなる功利を以てしても、他の隷属とすることを許さない。無名丸は、同時に無籍丸であって、その登録すべき国籍と船籍を有せぬ限り、大洋の上に出づれば、それでまた一個の絶対なる王国なのであります。
 これを前にしては、お銀様が山に拠《よ》って己《おの》れの王国を築かんとしている。駒井は海に於て、己れの王国を持っているのであります。小さくとも、これは絶対の一王国に相違ないのです。お銀様の胆吹に於けるものは、当人だけに於ては自尊傲岸《じそんごうがん》に孤立しているが、周囲の事情に於ては、かえって世上一般に優るとも劣らぬ係累を絶つことが容易でないのに、駒井の王国は、いつ何時でも、世間の係累から切り離して、自分たちの王権を占有することができる、という長所は、同時に、お銀様と駒井との性格をも説明するに足るものでありました。
 将来はともあれ、駒井が月ノ浦碇泊前後、胸に秘めたところのものは北進政策でありました。蝦夷《えぞ》の地、すなわち北海道の一角に、しばらく船をつけて、あすこの一角に開墾の最初の鍬《くわ》を打込むということでありました。北海道は開けない、当時の人の心では日本内地だか、外国だかわからないような蒙昧《もうまい》さがある。その一角を求めて移り住むということは、ほとんど無人島に占拠すると同様の自由があることを確信して、駒井は、月ノ浦を出る時、まず蝦夷ということに腹をきめて出帆し、釜石と宮古の港に寄港して、それから函館という方針でしたが、その後の研究と思索の結果は、それが必ずしも唯一最良の案ではないということです。
 なんにしても北海道は、日本の幕府の支配内のところに相違ない。そこへ鍬を卸すことは、何かの故障も予想されるし、自主独立の精神にさわるところがある。それに気候が寒い――物見遊山の目的の船出ではないから、気候風土の良否の如きを念頭に置くことは贅沢《ぜいたく》のようなものだが、さりとて同じ拓《ひら》くならば、気候風土の険悪なところよりは、中和なところがよろしい。寒いところよりは、温かいに越したことはない。
 それらの思索が、ここに至っても駒井をして、まだ北せんか南せんかに迷わしめている。しからば北進策を捨てて、南進策を取るとしてみると、この船をいずれの方に向け、いずれの地点に向わしむべきか。今となって、そういうことを考えるのは薄志弱行に似て、駒井の場合、必ずしもそうではなかったのです。事をここまで運び得たにしてからが、尋常の人には及びもつかぬ堅心強行の結果というべきだが、船を航海せしむることだけが駒井の目的の全部ではない。むしろ船は便宜の道具であって、求むるところは、何人にも掣肘《せいちゅう》せられざる、無人の処女地なのです。無人の処女地を求め得て、そこに新しい生活の根拠を創造することにあるのですから、航海も大切だが、それは途中のことに過ぎない。永遠にして根本的なのは植民である。少なくともこれらの人を、子孫までも安居楽業せしむる土地を選定しなければならぬ。そこに念に念を入れての研究と、研究から来る変化や転向が生じても、それは薄志弱行ということにはならないでしょう。
 北進を捨てて南進を取るとすれば、駒井の念頭に起る最初のものは、亜米利加《アメリカ》方面ということになるのは、当然の帰結でもあり、同時に当時の常識でもありました。
 ここには、北に対するつり合い上、南進という語を用うるけれども、亜米利加は必ずしも南とは言えない。むしろ東というべきが至当ではあるけれども、それは今の駒井の立場に於て、東でも、南でも、乃至《ないし》は西であっても、それはかまわない。船の現在の針路が北にあるのだから、それを翻して転換するとすれば、いったんは南へ向けるのが順序である。そうしてこの針路を南へ向けた以上は、亜米利加よりほかには至りつくべき陸地はないということが、その当時の常識ではありました。
 亜米利加というものに対する駒井甚三郎の知識は、浅薄なものではありませんでした。当時のあらゆる識者以上の認識を持っていたと見做《みな》さるべきであります。
 且つまた、この亜米利加行きについては、最近、最も参考すべき、日本人主催の航海経験があるというのは、安政六年に、幕府の咸臨丸《かんりんまる》が、僅か百馬力の船で、軍艦奉行木村摂津守を頭に、勝麟太郎《かつりんたろう》を指揮として、日本開けて以来はじめての外国航海を遂行したことがあるのでありまして、その経験の認識を、駒井は誰よりも深く、聞きもし、調べもして持っている。北進を取ったのは、駒井としては寧《むし》ろ、よんどころなき避難の急のためであって、駒井の最初の頭は、右の意味での南進に傾いていたのです。それは、今のような自主的の植民地を求めようとする計画からではなく、右の安政年間の、日本人の手によって日本の船を亜米利加まで航海せしめるに成功して、内外人をアッと言わせた、アッと言うことを好まない外人にまで、内心日本人怖るべしとの感を抱かしめた、その前後から起っているのであります。
 駒井甚三郎は、右の安政の航海に参加する機会を得なかったけれども、その事あって、彼の自尊心は著しく刺戟された。日本の船で、日本人の手で、はじめて太平洋を横断したという記録は偉なるものでないとは言わない。だが、咸臨丸という船だけは、本来|和蘭《オランダ》から買入れた船なのだ。もう一歩進んで、その船をも日本人の手で造りたいものではないか。外国から買入れたものを改装し、改名した船でなく、船そのものをも一切国産を以て創造して、その船を全然、日本人の力でもって欧羅巴《ヨーロッパ》までも乗切ることはできないか。駒井はこれをやりたかったのです。もし、駒井の在官当時にこの船が出来たならば、駒井は当時、あの時の木村摂津守の役目となり、自家創造の船によって、幕府を代表しての使節として、まず亜米利加を訪問して、次に欧羅巴までも航海を試みたことであろうと思われる。しかるに彼の失脚が公けの使節となることを妨げたけれども、その志だけは立派にこの無名丸によって遂げられている。公使として行くべきものを、浪人として行き得るの実力を持ち得たには持ち得たが、輪郭を作っただけで、内容が完備したとは決して言い得られない悲哀はある。
 知識があればあるだけに、無謀が許されない。今のところ、駒井をして南進策を抛棄《ほうき》せしめているのは、この船で太平洋を横ぎるだけの自信が持ち得られないためであって、決してその初志を断念しているわけではないのです。船に自信が置けないのではない、経験に於て、準備に於て、未《いま》だ多大の不満を有しているからです。しかし、今となってみると、出立が最後の運命を決定する日になっていますから、その方針に再吟味を加えて、少なくとも今晩一晩の間に、右の南進か北進かに、最後の決断を下さなければならぬという衝動に迫られて、ひとり思案に耽《ふけ》っているのであります。船は、もう疾《と》うに石炭を焚くことをやめて、夜風に帆走っている。当番のほかは、誰もみんな熟睡の時間で、さしもの茂公もさわがない。
 駒井甚三郎は甲板の上を、行きつ、戻りつ、とつ、おいつ、思索に耽っていたが、ふと、船首に向って歩みをとどめて、ギョッとして瞳を定めたものがありましたが、闇を通して見定めれば、驚くまでのことはない、船首に於て金椎少年が、例によって例の如く祈りつつあるのです。
 イエス・キリストを信ずることに於て、清澄の茂太郎の揶揄《やゆ》の的となっている金椎少年が、一心に行手の海に向って祈っている。他の者ならば、人の気配を感じて退避すべき場合も、この少年には響かない。駒井もまた、茂太郎の出鱈目《でたらめ》の歌と、金椎の沈黙の祈りとは、この船中の年中行事の一対として、とがめないことになっている。
「祈っているな」
 ただそれだけで駒井はまた、行きつ、戻りつ、思索の人に返りました。

         三十一

 祈りつつある金椎の姿に、一時《いっとき》驚かされた駒井甚三郎は、また本然の瞑想にかえって、ひとり甲板上を行きつ戻りつしました。
 知識があればあるほど、考えが複雑になって、最後の決断の鈍るのを、自分ながらどうすることもできません。
 こういう時には、天啓ということを、科学者なる駒井甚三郎も考えないということはありません。また卜占《ぼくせん》ということに思い及ばないではありません。何か天のおつげがあって、南へ行けとか、北がよろしいとかの示教があるとしたら妙だろう。また、卜占というものにある程度までの信が持てると、それに着手しないという限りもなかったのですが、駒井甚三郎は、そのいずれをも信ずることができない人です。人間以上に、神だの、仏だのというものがあって、人間の都合によってそれが指図をしてくれるなんぞということは、ナンセンスで、取上げたくても取上げられない。
 易《えき》だの卜《うらない》などということは、それこそ薄志弱行の凡俗のすることで、人間に頭脳と理性が備わっていることを信ずるものにとっては、ばかばかしくて取上げられるものではない。だが、この時は、知識と、認識と、自分の思考だけでは、さすがの駒井にも適切な判断は下せない。いっそ、ばかばかしければばかばかしいなりに、梅花心易《ばいかしんえき》というようなものにたよって、当座の暗示を試してみるも一興である。岐路に迷い、迷い抜いたものが、ステッキを押立てて、その倒れた方を是が非でも自分の行路と定めようということなどは、賢明な人の旅行中にもないことではない。この際、そういったような梅花心易はないか――つまり、時にとっての辻占《つじうら》はないかというところまで、駒井甚三郎の頭が動揺してきたのも無理のないところがあります。
 駒井は天上の星を見て、あの星が一つ南へ流れたら、南へ行くと断然心をきめてしまおう、北へ落ちたら、北の進路をつづけることに決定してしまおう、そうまで思って、天上をじっと見つめましたが、一昼夜に地球の全表面に現われる流星現象の総数は、一千万|乃至《ないし》二千万個であろうと言われる流星も、この時に限って、いずれの方向にも、その飛ぶ光を見ることができません。
 やむなく船上を行きつ戻りつして、駒井甚三郎は、またも舳先《へさき》へ来てから、ハッとさせられたのは、事新しいのではない、金椎がやっぱり、まだその場所で祈りを続けている。唖《おし》の如くというけれども、本来唖なのですから、沈黙に加うるに不動の姿勢がまだ続いているのです。
「まだ、祈っている」
 駒井は、今更のように呆《あき》れました。
「こうまで一心に、いったい何を祈っているのだ」
と自問自答してみましたが、何を祈る金椎であろう。この少年は、イエス・キリストのほかのどの神をも拝まないことはよくわかっている。しからば、そのイエス・キリストに向って、この少年は何事を祈り、且つ求めているのか。
 駒井も、祈る人をこれまで多く見ているが、在来の日本人の神仏に祈る人は、こんな祈り方をしない。神道にも、仏教にも、祈祷などになると心血を濺《そそ》ぎ、五体をわななかしめて祈っている。その祈りの力によって、安らかに子を産むこともできる、勝敗を左右することもできるような祈り方をしているが、この少年の祈り方の、それらと全く趣を異にしていることを、駒井も白雲同様にかねてよく認めている。
 金椎の祈りは、祈りでなくて禅に近い、と駒井が評したことがある。無論、その内容に於て言うのでなく、その形体の静坐寂寞の姿が、禅定《ぜんじょう》に入るもののように静かなのを見て評した言葉なのです。しかして今日今晩の祈りは、特にそれらしい静かなものです。
 そうして、今夜に限って、駒井も改めて金椎の祈祷の相《すがた》を後ろから注視しているうちに……
「待て待て、イギリスから最初にアメリカへ渡った船の人も、絶えず祈っていたということだ、なるほど、西洋の人間共は、みんなイエス・キリストを信じていたのだな、日本には八百万《やおよろず》の神があり、仏教には八宗百派があるけれども、あちらではイエス・キリスト一つで統一されていたはずだ、本で読んだ時は、人間が神を拝もうと拝むまいと、こっちの知ったことではないと見過して来たが、今晩になると考えさせられる――最初に欧羅巴《ヨーロッパ》からアメリカに渡った人々の経験に聞いて見ようではないか」
 そこで、駒井の頭の中に甦《よみがえ》って来た過去の読書のうちのある部分が、ゆくりなくも複写の形となって現われて来たのは、亜米利加《アメリカ》植民史の上代の一部――五月丸と名づけられた船の物語でした。
 亜米利加の歴史を読んだ人で、五月丸の船のことを知らぬ者はない。駒井もそれは先刻承知のことでありました。
 五月丸とは、ここで仮りに駒井がつけた呼び名で、五月が May であり、その下に Flower という字がついているから、直訳してみれば「五月花丸」というのが至当だけれども、日本語としては不熟の嫌いがある。「五月雨丸《さみだれまる》」とでもすれば、ぴったりと日本語に納まりもするが、名によって体をかえることはできない。花はどうしても雨とするわけにはゆかない。そこで駒井は、語呂の調子の上から「五月丸」と呼んでみたが、本来は五月花でなければならないなどと、語学上から考えているうちに、そうだ、今日の門出に、あの五月丸の出立こそは、無二の参考史料ではないか。
 そこまで思い来《きた》ると、駒井はむらむらとして、よし! わが当座の梅花心易として、天上に星は飛ばなかった、船中に杖は倒れなかったが、わが前途の方向の暗示は別のところから求められる。船中図書室の中には新大陸の植民史もある。従って、五月丸の物語も出ている。今晩これから図書室へ参入して、その五月丸物語を、もう一応再吟味することによって、この行の決定的断定の資料とするわけにはゆかないか――
 駒井甚三郎は、散漫な頭脳をそこへ統一して、驀然《まっしぐら》に船の図書室へ向って参入してしまいました。
 左様なことを知ろう由もない金椎は、まだ舳《みよし》によって祈っている。

         三十二

 駒井甚三郎は図書館へ入って、さし当り手近な辞書を取って目的のところを繰って見ると、次の如くあるのを発見しました。
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 May Flower, the small ship (180 ton) which brought the Pilgrim Fathers from Sauthampton England to Plymouth, Mass., December 22, 1620, after voyage of 63 days.
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 そこで駒井甚三郎は、最初の亜米利加《アメリカ》訪問の五月丸が、僅か百八十|噸《トン》の小船で、欧羅巴から亜米利加へ来るまでに六十三日を費したという概念をたしかめました。それから次に、Wakamiya, American History という一書を取り出して繙《ひもと》いて行くと、改めて翻訳するまでもなく、能文を以て次のように書いてありましたから、そっくりそのまま転読しました。
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「女王ゑりざべすノ治世ニ於テ、英国教会ノ制度礼儀ニ一大改革ヲ施スベキヲ主張スル一宗派起リ、教会ヲ清ムルヲ旨義トスルヨリ、コノ宗徒ハ自ラ称シテ『清教徒《ピユーリタン》』トイヘリ。彼等ハ始ヨリ一宗派ヲ組成スル意志ヲ有セザリキ。彼等ガ牧師ノ一人タルろばとぶらおんノ勧メニ従ヒ、英国教会ヲ離レテソノ同志者トナリケレバ、人呼ンデ、彼等ヲ『分離派』若《もし》クハ『ぶらおん派』トナセリ。教会規定ノ儀礼|如何《いかん》ニ拘ラズ、彼等ハ自ラ欲スルママニ信仰ノ事ヲ実行シタルヨリ、猛烈ナル反対起リタレバ、彼等ノ一隊ハ、ぶるうすたあ及ビろびんそんガ指導ノ下ニ、千六百〇八年、英国北部ノ一寒村タルくろすぴーヨリ逃レテ和蘭《オランダ》ノあむすてるだむニ到リ、直チニらいでんニ転ジテ十一年ヲココニ送リタリキ。
彼等ノ和蘭ニ在《あ》ルヤ、一個ノ別天地ヲ造リテ、総テ英国ノ風俗習慣ヲ保チタレドモ、カクノ如キハ一時ノ寄留者トシテノミ之《これ》ヲ能《よ》クスベクシテ、子孫万世ニハ及ボスベカラズ、彼等ニシテ久シク留ラントセバ、勢ヒ彼等ノ別天地ヲ離レ、本国ヲ忘レ、本国ノ語ヲ忘レ、本国ノ伝説ヲ忘レテ、ソノ子孫ヲ純粋ノ和蘭人ト為サザルベカラズ、コレ彼等ノ耐ヘザル所ナリキ。於是乎《ここにおいてか》千六百十一年、彼等ハ相図リテ移住ノ儀ヲ定メ、永ク英人タルヲ得、且ツ基督《キリスト》教団ノ基礎ヲ据ヱ得ル処ヲ求メタリケルニ、あめりかハ洵《まこと》ニ能ク此等ノ目的ニ副《そ》フモノナリキ。彼等ハカクシテ『倫敦《ロンドン》商会』ヨリ、今ノにうじやしい沿岸ニ殖民地ヲ得タリ。
已《すで》ニシテ千六百二十年七月、ぶるうすたあ、ぶらうどふおーど、及ビまいるす・すたんでつしゆノ三名ハ先発隊トナリテ和蘭ヲ去リ、英国さうざんぷとん港ニ到リ、倫敦ヨリ来《きた》レル一味ノ人ヲ併セテ、八月五日『五月花』号ニ搭ジテあめりかヘト出帆シタリ。天候|悪《あ》シクシテ風波ノ険甚シク、九週間ノ後漸クかつど岬ヘ達スルヲ得タレド、彼等ハコノ地ニ殖民ノ権利ヲ有セザリケレバ、更ニ南ニ航シテ進マントセリ。コノ時暴風進路ヲ遮《さへぎ》リテ船危ク、乃《すなは》チかつど岬ニ還リテソノ付近ノぷろゐんすたんニ難ヲ避ケヌ――今ヤ殖民地ノ位置ヲ選択スルコト何ヨリモ急ニ、探険隊ノ相分レテソノ捜索ニ従事スルコト五週間、或日ノ事数人ヲ載セタルすたんでつしゆノ小艇ハ、じよん・すみすガぷりまうすト命名セシ港ニ入レリ。コレ即チ清教徒ガ新世界上陸ノ基点ニシテ、世界殖民ノ歴史ニ異彩ヲ放テルぷりまうすノ事業モまた茲《ここ》ニ始ル」
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 駒井甚三郎は直参失脚の後に於て、その爵位財産の一切を返還してしまったが、蔵書だけは、ほとんどその全部をこの船に搬入して来ています。それは、この人にとっては、食物以上の食物であるから、まずこれを蓄蔵しなければならぬと共に、いったん読み去ったものも参考として、常に座右に置くの便利且つ必要なるを感じたからです。且つまた、これは売り払うとしても、処分するとしても、誰も引受け手がない。いや、引受け手は大いにあるにしても、読める人がない。駒井の蔵書を読みこなすほどの人は、今の日本には絶対にないと言ってもよいくらいです。非常な高価と苦心とを以て集め来《きた》った駒井の書物も、これを手放すとなると二束三文である。看貫《かんかん》で紙屑に売られる程度を最後の落ちとしなければならぬ。
 たとえ祖先伝来の爵位と家産を失うとも、この書物を失うには忍びないというのが駒井の愛惜《あいじゃく》でした。そうして、それをこの船まで持込んだことに於ては、今でも悔いてはいないのです。
 かくて、この多くの書物を、それからそれと漁《あさ》り読み行くうちに、今までに全く閑却していた方面に、新たに多くの興味を見出して、一度消化されたはずの書物が、再び燦然《さんぜん》たる希望を以ての新たなる頁を自分に展開してくれるもののように見え出して、書物に対する眼が火のように燃え出してきました。
 この間に得た駒井の知識は、Pilgrim Fathers の物語が中心となりました。その書物の中の一つの挿絵を見ると、遥か彼方《かなた》に一艘《いっそう》の船がある。大きさは駒井の鑑識を以てして百噸内外の帆船に過ぎないが、それが、彼方の沖合に碇泊している。その親船に向って、雑多な人が、小舟に乗込んで岸を離れようとする光景が、一種の写真画となって、その書物のうちにはさまれている。船が手頃の船だし、岸を離れ、国を離れて海洋へ乗り出さんとする刹那が、じっくりと駒井の心をとらえたために、その前後の記事物語を熱心に読み出すことになりました。駒井が多くの蔵書家であり、同時にそれが単なる死蔵書ではなく、充分に読みこなす人であり、読みこなすのみではない、これを実地に活用する稀人《まれびと》であることは、ここに申すまでもないが、駒井その人が、読書というものには裏も表もある、裏と思ったのが、表であって、読みつくし、味わいつくしたと信じて投げ出して置いた書物から、新たに多大なる半面の内容を贏《か》ち得たということは、このたびの著しい経験でありました。
 さて、この船出の写真絵を見ると、諸人《もろびと》が皆、祈っている。日頃、金椎《キンツイ》がするように、小舟の中に行く人も、岸に立って送る人も、みな祈っている。
 彼処《かしこ》にかかっている親船こそ、例の五月号に相違ないのであります。そうしてこれらの諸人は、五月号に乗込んで、まさに海洋に乗り出さんとする人と、これを送るの人であることも争われません。いったい、船というものは、五月号にあれ、無名丸にあれ、今まで駒井の見た眼では、単に一つの構造物だけのものでありました。船の図を見ると、この船は何式で、何|噸《トン》ぐらいで、どの時代、どの国の建造にかかっているかということのみが主となりました。従って、船の航海力にしても、これが石炭を焚《た》いた場合、どのくらい走り、帆をあげてからどの程度走るというような計数ばかり考えさせられていましたが、今晩は船というものが、大きな人格として、脈を打ち、肉をつけ、血を湛《たた》えている存在物のように見え出してきました。
 駒井が読み耽《ふけ》ったこの物語は、前の米国史の頁を、もう少し細かく、温かく、滋味豊かに敷衍《ふえん》してくれたといってもよい物語でありました。

         三十三

 読み且つ解して行くと、駒井の読んでいる物語には、次のような要点がある。
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「コレ等ノ信神渡航者ハ一人モ往復ノ旅券ヲ求ムルモノナシ、彼等ハ他ノ旅客ノ如ク往ケバ必ズ帰リ来ルモノト予定スルコトヲセザルナリ、到リ着クトコロヲ以テ、ソノ骨ヲ埋ムルトコロト為《な》ス。彼等ハ本国いぎりすノ国家ノ強ヒル宗教ヲ信ズルコトヲ肯《がへ》ンゼザルナリ、制度ハ国ノ制度ヲ遵奉《じゆんぽう》セザル可《べ》カラズトイヘドモ、信仰ハ自由也、国家ヨリ賦課セラルベキモノニアラズ。
然《しか》ルニ、コノ信念ハ外ニ於テハ国家ニ不忠、内ニ於テハ国教ニ不信ナリトノ理由ヲ以テ、彼等ハ自国ニ住ムコトヲ極度ニ圧迫セラレタルヲ以テ、故国ヲ逃レテ和蘭《オランダ》ノ地ニ来リ、更ニ北米ノ天地ヲ求メタルモノナリ。彼等ノ欲スルトコロハ領土ニアラズ、物資ニアラズ、己《おの》レノ良心ト信仰トノ活路ヲ見出サンガタメニ新天地ニ出デタルモノ也。
閤竜《コロンブス》ノ求ムルトコロハ領土ナリキ。黄金ナリキ。サレバ、彼ニ従フトコロノモノモ、屈強ナル壮年男子ニ限リタレドモ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、オヨソ信仰ヲ共ニスル限リ、老幼男女ノアラユルモノヲ抱容スルコトヲ許サレタリ。コノ図ヲ見ヨ、彼等ノ一人モ、祈ラザルハナク、彼等ノ半個モ、武装シタルハナシ。彼等ハ皆、祈ルコトヲ知リタレドモ、祈ルコトヲ職業トスルモノハ一人モコレ有ラザリキ。即チ、コノ信神渡航者一行百二名ノウチニハ、僧侶ト名ノルモノ一人モコレ有ラザリキ。蓋《けだ》シ、僧侶ハ祈祷ヲ商ヒ、権力ニ媚《こ》ブルコトヲ職トスル階級ニシテ、彼等ノ信仰自由ニ同情ヲ持ツコトヲ知ラズ、コレヲ圧迫スルヲノミ職トスルモノナリケレバナラン。軍人ノ経歴アルモノハ、只一人ノミコレ有リキ。
コレニ反シテ、閤竜《コロンブス》ヲ先頭トスルすぺいん流ノ渡航者ハ、僧侶ト軍人ヲ以テホトンド全部ヲ占メヰタルガ、コノ信神渡航者ニハ、僧侶ナク、軍人ナシ。而《しか》シテ猶《な》ホ、コノ信神渡航者ノ一行ニハ、一人ノ貴族モナク、イハユル英雄モ豪傑モ、一人モ有ルコトナシ。
彼等ハ皆、小農夫、或ハ小商人ニ過ギザリキ。
然《しか》レドモ、コレ等ノ小農夫及小商人ハ、皆天ヲ敬シ、人ヲ愛スルコトヲ知ルモノナリキ。彼等ハ教育アリ、訓練アリ、特ニ自治ノ能力ニ於テハ優レタル天分素質ヲ有セルモノナリキ。
カクテ西航六十有余日。
信神渡航者ガぷりもすニ到リ着セル時ハ、北米ノ天ハ寒威猛烈ナル極月ノ、シカモ三十日ナリキ。彼等ノ胸臆ハ火ノ如ク燃エシカド、周囲ノ天地ハ満目荒涼タル未開ノ厳冬也。シカモコノ寒キ天地ノ中ニ、掘立小屋ヲ作リテ、辛ウジテ彼等ノ肉体ヲ入レテ、而シテ、生活ノ第一歩ヨリ踏ミ出サザルベカラズ、ソノ艱苦経営知ルベキナリ。サレバ、ソノ三ヶ月ノ間ニ、コノ一行ノ死セルモノ約半数ニ及ビタリ、一日ニ死スルモノ二三人、百二名ヲ以テ上陸シタル一行ハ三ヶ月ニシテ五十名ヲ余スノミ。
内ニ信仰ノ火燃ユルガ如ク、外ニ国民性ノ堅実|不撓《ふたう》ナルニアラザレバ、イカデカコノ悲惨ニ堪ヘ得ンヤ。絶望シ、悲観シ、空シク絶滅スルカ、然ラズンバ辱《はじ》ヲ忍ンデ逃ゲテ故国ノ空ニ帰ランカ。シカモ、彼等ノ一人モ意気精神ノ阻喪《そさう》スルモノヲ見ザリキ。
彼等ハ、先ヅ荒土ヲ拓《ひら》イテ種ヲ蒔《ま》キタリ。熟土ヲ耕ストハ事変リ、前人未開ノ地ニ、原始ノ鍬ヲ用フルノ困難ハ知ル人ゾ知ラン。彼等ガ農法ハ新陸ノ土地ニ適セザルカ、彼等ノ携ヘ来レル種子ハ新地ニ合セザルカ、苦心経営ノ初期ノ収納ハ遂ニ皆無ナリキ、而シテ土人ヨリ分与受ケタル玉蜀黍《たうもろこし》ノミガ成功シ、コレニヨツテ僅カニ主食ヲ備ヘ、漁猟ヲ以テコレヲ補ヒツツ、辛ウジテソノ年ヲ送ルヲ得タル也」
[#ここで字下げ終わり]
 こういったような史実は、駒井甚三郎にとっては、今まで全く門外のことでありました。亜米利加建国初期の開拓者が、こんなような苦難を嘗《な》めて来たということは、今日までの駒井はほとんど無関心であって、ただ彼は開明の国、人智と機械力とで日本を高圧したり、開国に導こうとしたりしている国、その物と力の発明には、何と言っても一日も一月もの長所があることを、駒井の如きは最も強く認めた一人でありまして、人から西洋心酔者とうたわれるまでに、西洋特に亜米利加の文物の研究のことに熱心であった駒井は、その原始に遡《さかのぼ》って、今日の開明人にもかくの如き苦心惨憺の経営時代があったということを、今日はじめて身にしみじみと味わうことができました。
「おれは今まで苦労をしないで学問をした、その罪だ」
というようなことを、同時に駒井が自覚したというのは、過去の自分は先祖の功業によって、天下の直参の誇りの中に生き、豊かな経費を持って、欲しいものを購《あがな》い得られた。その順境に於て学問をして来たのである。だから、順境そのものが天然に与えられた当然の地位だ、と慣《なれ》っ子《こ》になって事をなしつつあったのだが、自分の昨日の安定を与えたものは、徳川初期の先祖の血の賜物であったに過ぎないということを、今しみじみと自覚せしめられました。
 そうして、今日は全く赤裸にかえって、先祖のなした創業の第一歩を踏むの心持で進まなければならぬことがよくわかってきました。その心境にいて見ると、右の如く自由の天地を求めて船出をした異郷の先人の行路に、無限の教訓と、同情を起さざるを得ない――といって、この書の教うる「信神渡航者」の船出と、現在自分が試みつつある無名丸の出発は、性質に於ても、経験に於ても、全然性質を異にしていることを覚らざるを得ないという次第でした。
 無名丸はまだ無名丸である、しかとした船の名目すらが出来ていない。名は体をあらわすものとすれば、無名丸そのものの内容が無目的なのであって、形は出来て、歩行はつづけられるけれども、頭もなければ肚《はら》もないのだということを、駒井はつくづくと考えさせられてきました。
 さりとて、自分はイエス・キリストを信ずるものではない、イエス・キリストを信ずるどころではない、日本の宗教のいずれにも信仰者とは断じて言えない。この点に於て、無名丸は無信丸である、五月丸とは天地の相違がある――我等の無名丸の中には、金椎《キンツイ》を除いて祈る人などは一人もいない。五月丸の中には、僧侶、軍人、英雄、豪傑といったようなものは一人もいなかったそうだが、それが今日の亜米利加《アメリカ》の強大の礎石となったということは、絶大なる驚異だ。
 それに反して我が無名丸の中には、少なくとも貴族がいる。自分から言うのは烏滸《おこ》がましいが、現在自分の身柄がすでに貴族でないと誰が言う。日本に於て、殿様の階級に属して天下の直参を誇っていた身だ。それに田山白雲はまた一種の豪傑である。七兵衛は異常な怪物である。茂太郎は変則の天才であり、柳田平治は豪傑の卵である。お松は堅実なる女性である。金椎は聖者に似ている。普通平凡なのは、農夫、漁師、大工、乳母だけにとどまる。上は天才聖者に似たのがいるかと見ると――下は性の開放者までいる。数こそ少ないが、この船の中の人間と、その性格に至っては、紛然雑然として帰一するということを知らない。
 五月丸の乗組は、その信仰と結合に於ては一糸も紊《みだ》れない、おのずからなる統一を保って、生死を共にして厭《いと》わない温かさに終始していたが、自分の船に至っては、なんらのまとまった信仰がなく、なんらの性格的帰一がない。これでいいのか、と駒井甚三郎が、この点に於ても深くも考えさせられたものがあるようでした。
 しかし、夜が明けると、船の針路がおのずから南に向っておりました。
 駒井甚三郎は、北進策を捨てて、南進を目標とする決心が昨夜のうちに定まったと見えます。
 駒井甚三郎が、北進を捨てて南進策を取ったからといって、信神渡航者のことは亜米利加に於ても、すでに二百年の昔のことです。今の亜米利加は昔の亜米利加でない、富み栄えて張りきっている。いまさら駒井がその後塵を拝して、前人のすでに功を成したその余沢にありつこうなどの依頼心はないにきまっている。いわばこれを一時の梅花心易《ばいかしんえき》に求めて、当座の行動の辻占に供したに過ぎまいと言うべきですから、従って、針路こそ南に転向ときまったけれども、目的がきまったわけではない。内外共に未《いま》だ解決せざる問題が充ち満ちている。
 前途に倍加する多事多難を予想せずにはいられますまい。

         三十四

 すべての人が、その領土に於て、その事を為している。たとえば、お銀様は山に拠《よ》り、駒井甚三郎は海により、竜之助は夢の国に生きている。その他の者は、多くはみな現実の国に於て生き、おのおのその能によって働いている。自ら自覚するとせざるとにかかわらず、おのおのの生きる立場に於て生かされているというわけで、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵の如きでさえも、足の使命によって、まだ捨てられないものがあるのに、ひとり道庵先生だけが、この頃に至って、甚《はなはだ》しく生活の空虚を感じて、悲観に落ちていると言えば、知らないものは嘘だと言うかも知れないが、事実それに相違ないのは不思議です。
 何故に道庵が生活に空虚を感じ、人生の悲観に落ちかかっているかといえば、その内容は複雑怪奇で、一概には言えないけれども、連合いを亡くしたということも、その有力な原因の一つには相違ないのです。
 連合いといっても、俗に枕添《まくらぞい》のことではない。吾人は道庵先生に親炙《しんしゃ》すること多年、まだ先生に糟糠《そうこう》の妻あることを知らない。よってこの先生が、枕添の有無《うむ》によって、生活観念に動揺を将来したというべきは有るべきことでない。連合いということは、この場合に於ては、同行者の意味に過ぎないのであって、彼はこの木曾道中の長い間、ドンキホーテ氏のサンチョー氏に於けるが如く、栃面屋《とちめんや》氏の北八氏に於けるが如く、影の形に於けるが如く、相添うて来たところの、いわゆる鎌倉の右大将米友公を失っている。失ったのは亡くなったのではない。あの男を胆吹山へ取られてしまっているが、その後の死生のほどもわからない。米友公を捨て、悍馬《かんば》の女将軍女軽業興行師のパリパリに乗替えたが、こいつが意外に道草を食いはじめて、自分よりは藤原の伊太夫なにがしという財閥へ附きっきりで、てんで道庵の方などへは見向きもしない今日この頃の形勢である。道庵先生としては、それをひが[#「ひが」に傍点]んでいるわけではない。誰にしても、十八文の貧乏医者を取持つよりは、当時きっての分限《ぶげん》の御機嫌を取ることの有利なるに走るのは人情だから、いまさら道庵が、そんなことにひがみ[#「ひがみ」に傍点]を起しているほどの野暮《やぼ》ではないはずだから、特にそれを悲観しているとも思われません。
 道庵先生が、生活の空虚を感じて、人生を悲観している最大なる理由としては、現在の自分が、徒手遊食の徒に堕しきっているという点にあるらしいのです。前途の旅を急ぐなら急ぐでいいけれど、こうして途中へひっかかって、京都がもう眼の先に控えているのに、進みもならず、退きもならずしているうちに、本来そうあり余るという身代《しんだい》ではないから、懐中が少しずつ寒くなる。懐ろが寒くなると同時に心細くなる。その経済上の理由も一つはあるのです。しかし、その辺は、まかり間違えば金策の大家なるお角さんが附いており、お角さんの背後には、一大財閥が控えているのだから、ずいぶん心丈夫であってしかるべきだが、そこは痩《や》せても枯れても道庵である、財閥にすがるというような卑劣心が兆《きざ》してはならない。御粗末ながら自分の旅は、自分の財布でまかなうよと、意地を張っている。その意地が怪しくなった時は、すなわち心弱くなった時で、これでは旨《うま》い酒も飲めねえが、なんどと感じて来た時に、いささか悲観するかも知れないが、そんなことは今に始まったことではない。いまさら物質的の貧乏を以て生活の空虚なりと、この先生が考えるわけがない。何となれば、貧乏が即ち道庵、道庵が即ち貧乏と、それを一枚看板に今日まで生きて来た先生ですもの。
 江戸にいれば、押しも押されもしない医術本業の公民だが、現在の自分は、徒手遊食の民である、人生に貢献する何事もしていないで、そうして人生から食物を貪《むさぼ》っている。食だけではない、酒まで貪って飲んでいる。これでいいだろうかと深刻(?)に自省を発し出したことが、この先生の生活の空虚を感じ出した最大の理由なのです。
 長者町の本業を、高弟の道六に引渡して、身軽に旅に出て今日まで来たのはいいが、旅そのものを味わっていれば、日々の心がおのずから緊張もするが、こんなふうにして、進みもならず、退きもならず遊食していることは、この先生の良心に於て甚だやましいものがあるのです。日頃の主義主張としても、一日|作《な》さざれば一日食せずという気概の下に働いて来たこの先生が、このごろでは一日中、何も作さずに、のんべんだらりと、食ったり飲んだりしている日が多い。こんなはずではなかったのだ。
 そこで道庵先生は、こう毎日、のんべんだらりとして宿屋の飯を食っていることに生活の空虚を感じ、これでは天道様に対して相済まないと自省してから、こういう無意識空虚な生活から一日も早く脱却向上しなければならぬと義憤を発したのです。
 しかし、そのくらいならば、一日も早く京都へ立ったらいいだろう。こうして幾日も宿屋飯を食って大津界隈にぶらついていないで、京へなり、大阪へなり出立したらいいだろうというに、なかなかそうもいかない事情があるのです。
 というのは、道庵先生には敵が多いということがその理由の一つなのです。丁馬、安直、デモ倉、プロ亀、どぶ川、金茶、大根おろし、かき下ろし、よた頓、それらの輩《やから》は眼中に置かずとしても、河太郎の一派が大阪で手ぐすね引いて待構えている。これにはさすが江戸ッ児のキチャキチャ(チャキチャキの誤り)弥次郎兵衛、喜多八でさえも荒胆《あらぎも》をひしがれたので、この一派は江戸者に対して常に一種の敵愾心《てきがいしん》を蓄えている。一くせ[#「くせ」に傍点]ある江戸者が来たと聞くと、早速奇正の術を弄《ろう》してそのドテっ腹をえぐり、これに一泡吹かせて快なりとする悪い癖がある。その一味が、道庵来れりという内報を早くも受取って、用意おさおさ怠りがないらしいから、うっかり乗込もうものなら、忽《たちま》ちわなにかかって、十八文の金看板に泥を塗られるにきまっている。
 それからまた大阪には、緒方洪庵塾《おがたこうあんじゅく》などの無頼書生、翻訳書生が、これもまた道庵西上ということを伝え聞いて、手ぐすね引いている。この派の者共は、河太郎式の草双紙本と違って、みんな蘭学の方のペラペラである。皇漢主義の、江戸でも知る人は知る、知らぬ人は知らないつむじ曲りの町医者道庵なるものが、こんど京大阪へ乗込んで来るそうだ。来たら袋叩き――と待ちかまえているという風聞が、かねて道庵の耳に伝わっている。
 その中へ一人では乗込めない――内心を聞くと、道庵も鼻っぱりに似合わず弱気なもので、そういう理由から危うきに近よるには、近よるようにして近寄らなければならないのだが、用心棒としての精悍無比なグロテスクは行方不明だし――女流興行師の大御所は、財閥に胡麻《ごま》をすることに急にして、自分の方はかまってくれない、頼む味方というものがない――それを心細がっている道庵は、我《が》を折って、お角さんの用のすむのを待ちわびて、これが同行を離れまいとしているところは、女にすがる意気地なしの骨頂のようでもあり、道庵の風上へも置けない醜態のようでもあるが、実のところは、あのたんか[#「たんか」に傍点]の切れる江戸前の鉄火者《てっかもの》を陣頭へ押っ立て、自分は蔭にいて、ちびりちびりとやりながら、女弟子でさえあの通り――うっかり親分にさわるまいぞ、という威力を見せて鴨振《カモフラ》しようというズルい考えがあるのです。つまり、面倒臭いことはお角にぽんぽんとやらせて、ごまかしてしまい、自分は隠れて一杯もよけいに飲みたいという腹なのですからズルいです。しかし、また一方、お角さんの方から言うと、自分もこれから京大阪の本場へ乗込むについて、この先生から離れたくない、この先生を手放したくない、という浅からぬ底意もあるのです。
 というのは、お角さんは、啖呵《たんか》は切れて、鼻っぱしの強いことは無類であって、この点では贅六《ぜいろく》人種などに引けを取る女ではないが、悲しいことには字学の方がいけない。熱田神宮の門前の茶屋でも、小娘に向って、「姉さん、ここの神様は何の御信心に利《き》くの」とたずねてテレてしまったことがある。ある時の如きは、皆々がよってたかって、舶来物が出来がよくて、和製はいけない、いけない、なんどとケナすのを聞いて、ムカッ腹を立て、「どうして、日本じゃ舶来が出来ないものかねえ」と口走って、一座の顔の色を変らせたことなんぞもある。そういう時に、お角さんの威勢に怖れて、明らかには笑ったり、そしったりしないけれども、この気色を見て取って、お角さん自身が、こいつは少し恥を掻《か》いたかなと、なおやきもきする。人の掛合いや兼合いでは、京大阪へ出ようと、唐《から》天竺《てんじく》へ出ようと、引けは取らないお角さんだが、字学の方にかけると、気が引けてどうにもならない。そこのところを埋合わせるには究竟《くっきょう》な道庵先生である。この先生こそは江戸で名代の先生であって、酒を飲んでふざけてこそいるが、字学の出来ることは底が知れない。こういう先生を後楯《うしろだて》に控えて行けば、ドコへ行こうと鬼に金棒だという観念がお角さんにはあるので、つまり、インテリ用心棒としての道庵先生を手放したくないのです。
 おたがいに、そこのところを利用し合って、うまく立廻ろうというズルい了見なのだが、それは双方とも甲羅を経ているから、勝負に優り劣りはありますまい。
 そういうわけで、道庵先生は、ここはどうしても、女親方の方の埒《らち》があくまで待つことを以て策の得たるものとする。それも、そう永い時日を要せずして埒があくに相違ないと思っているが、たとえ二日三日の間にしてからが、何か仕事をしたい、何か利用厚生の仕事にたずさわらなければ、自分の生存が徒手遊食ということになり、なおむつかしく言えば、尸位素餐《しいそさん》ということになる。徒手遊食だの、尸位素餐だのということは本来、貴族社会のすることで、道庵の極力排斥し来《きた》ったことであるから、たとえ二日でも三日でも、その生活をやっているということは、多年の敵の軍門に降るようなものである。何か仕事をしなくちゃあならねえ、何か稼《かせ》ぎをして飯を食わなくっちゃあ天道様《てんとうさま》に申しわけがない、と言って退屈して、生活の空虚を感じているところへ、話があったのは、
「どうです、先生、旅籠生活《はたごせいかつ》も御退屈でございましょうし、太夫元さんの方も、ここのところ、乗りかかった船で、なお二三日は引くに引けないんだそうでございますから、どうか、もうあと二三日の御辛抱が願いたいのです、何でしたら、この上の小町塚の閑静な庵《いおり》に、ついこの間まで女のお方が御逗留でいらっしゃいましたが、そのお方が大谷風呂の方におうつりになって空きましたそうで、関寺小町の跡でございまして閑静でもございますし、ながめが至極よろしうございます、それに、便もまたよろしうございまして、お酒の通いなども、ちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]とございます、何でしたら、あちらの方へ御転宿をなさいましたら……」
 伊太夫の家来と、お角さんのおつきとが、こう言って御機嫌を取ったものですから、道庵先生もいささか悲観を立て直し、
「そいつは面白い、小町なんぞは、わしには縁がねえが――何か、生活に変化を与えてもらいてえと考えていたところさ、宿屋の飯は悪くて高いからなあ――(この時、障子の外を宿屋の番頭が通る、二人の者が首をすくめるこなし、道庵は平気)何もしねえで、悪くて高い宿屋の飯を食っていることは天道様に済まねえ、何か生活に変化を与えて、充実した仕事をやりてえと思っているところだ、そういう空家があるなら、早速世話をしてもらいてえ。実はね、いろいろ考えたこともあるんだ、そういう閑静なところで一仕事やって、この退屈時間を有利に使用してえと考えていたところなんだ、そういう空家があると聞いちゃあ耳よりだね」
「それはもう至極閑静な、ながめもよろしいところでございます」
「実は、こうしている間に、そこで本草《ほんぞう》の研究をやりてえんだよ、胆吹山で、しこたま薬草の標本を取って来ているが、それも押しっぱなしで、風入れもしてなけりゃ、分類もしていねえんだから、ひとつそれを一心不乱に片づけてみてえと思っているところさ」
「そういう研究をなさるには、至極結構なところでございまして、その上に便も至極よろしく、石段を下りますともう町屋でございますから……酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]」
「その便のいいところが、老人には何よりさ、お酒の通いもちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]というやつがばかに気に入ったねえ、お前さんも洒落者《しゃれもの》でうれしいよ」
「あ、は、は、はっ、はっ」
 そういうわけで、この先生が旅籠屋から移動せしめられたところは、つい一昨日までのお銀様のかりの住居《すまい》――小町塚の庵なのでありました。

         三十五

 道庵先生がこの庵へ移った時の庵と、お銀様が寓居《ぐうきょ》していた時の庵と、庵に変りはありませんが、中の意匠調度は一変しておりました。変らないのは、かのしょうづかの婆さんの木像のみで、書棚もしまいこまれてしまったし、算木《さんぎ》筮竹《ぜいちく》も取りのけられて見えない。「花の色は」の掛物も取外されて、別に何か墨蹟がつっかかって、その下には、松が一枝活けてあるばっかり。
 床の間へ摺《す》り寄って見た道庵先生は、このかけ替えられた軸物を、皮肉らしい面《かお》をしてつくづくと見つめると、
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鼠入|銭※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2-83-48]《せんとう》伎已窮
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と、いけぞんざいに書きなぐってある。その下の落款《らっかん》を見ると、「一休純」と読める。そこで道庵先生が、
「一休め、皮肉な文句を書きやがったな」
と一謔《いちぎゃく》を発しただけで座につきました。座につくと、座蒲団《ざぶとん》も、机も、煙草盆も、普通一通りのものが備わっていて、お銀様の時のとは品は変るが、万端抜かりないことは同じで、ただ坐り込んで召使を呼びさえすれば事が足るように出来ている。
 そこで、一ぷくしてから、先生が御自慢の本草学にとりかかりました。
 つまり、宿からここへ送らせた旅嚢《りょのう》を、すっかり座敷へブチまけて、植物と押葉の分類をはじめたのです。それをはじめ出すと熱心なもので、さすがに心がけある先生だけに、つとめるところは、きっとつとめる。或るものはそれを改めて押葉とし、すでに押しのきいたものは取り出して台紙にはる。旅中では扱い兼ねる代物《しろもの》は写生にとって、図解と註釈とを記入する。牧野富太郎はだしの熱心を以て、道中、ことに胆吹の薬草の整理に取りかかっているのであります。
 こういうことをさせて置けば、生活の空虚なんぞは決して寄せつけない。仕事に対する興味そのものもあるが、それが道庵先生の主義主張に合して、利用厚生の道に叶うと信ずればこそなのであります。すなわち、薬草を整理することは、本業の医学に忠実なる所以《ゆえん》であって、医学こそは自分の生存の使命である。直接には病人の脈こそ取らないが、この薬草を整理することに於て、間接には救世済民の業にたずさわっているのである、徒手遊食しているのではない、尸位素餐《しいそさん》に生を貪《むさぼ》っているのではないという自信を道庵先生に持たせることが、つまり、その生活を空虚から救って充実せしめる所以でありました。
「こうして、一日|作《な》している以上は、一日食う権利があるんだぜ、大口をあいて、この世の穀《ごく》を食いつぶしても恥かしくねえ」
と力みました。
 実際、人は一心になると怖ろしいもので、道庵先生に於てすら、今日は朝の迎え酒だけで、それからはわきめもふらず本草学に熱中している。昼になっても、夕方になっても、飯の一つも食おうということを言わないし、酒の通いのちょこちょこ[#「ちょこちょこ」に傍点]などはおくびにも出ないで、一心不乱になっている。この体《てい》を見ると真に寝食を忘れている。まず、この分なら安心である。この人が生活の空虚を感じて、人生の悲観に暮れるということになったら、もう天下はおしまいです。
 かくして一日が暮れる。一日作した後の、一日の充実せる疲労を以て、ぐっすりとこの庵室に快眠を貪ることによって、天下泰平の兆《きざし》があります。
 無論、その夜の夢に、小町も出て来なければ、お豊真三郎も出て来ない。第一、出て来る方でも、道庵先生のところへ出て来たって、出て来栄えがしない、張合いがないと思って、それで出て来ないのです。翌朝、眼がさめると、おきまりの迎え酒|一献《いっこん》、それからまた側目《わきめ》もふらず昨日のつづき、本草学の研究に一心不乱なる道庵先生を見出しました。

         三十六

 その翌日も、異常な興味を以て本草学の研究と整理に熱中していた道庵先生が、お正午《ひる》頃になると、急に大きなあくび[#「あくび」に傍点]とのび[#「のび」に傍点]を一緒にして、カラリと筆を投げ捨てるが早いか、座右の一瓢《いっぴょう》を取り上げて、そそくさと下駄をつっかけてしまいました。どこへ行くかと見ると、早くも長安寺の石段をカタリカタリと上りつめて、それから尾蔵寺の方へ抜ける細い山道を、松の根方をわけながら、ゆらりゆらりと登って行くのです。
 ほどなく山腹の平らなところへ出て見ると、ここに、一風変った十三重の塔みたようなのがある。高さ一丈ばかり、とても十三重はないけれども、その塔の様式が少し変っているものですから、道庵先生は立ちよって、ためつ、すがめつ、石ぶりをながめていましたが、石刻の文字が磨滅してよく読み抜けないでいました。
 すると、少し離れたところに、落葉を掃いている中年僧が一人おりましたが、道庵先生が、特別に注意を払って、右の十三重まがいの塔をなでたりさすったりしているのを見て、我が意を得たりとばかり、右の中年僧が箒《ほうき》を引きずりながら近寄って来まして、
「よいお天気ですな」
と言いました。
「よいお天気でがすよ。時に、この塔はこりゃ、いったい何でござんす」
と道庵先生がたずねますと、右の中年僧がニコニコして、
「あねさん[#「あねさん」に傍点]塚でござんすよ」
「あねさん[#「あねさん」に傍点]塚?」
「ええ、これが有名なあねさん[#「あねさん」に傍点]塚でござんすが、尋ねて下さるお方は甚《はなは》だ少ないでごわしてな」
 その甚だ少ない中の、自分が一人であると見立てられると、道庵先生いささか得意にならざるを得ない。
「いや、それほどでもないですがね、あねさん[#「あねさん」に傍点]とは申しながら、これほどのものを無縁塔にして置くのは惜しいと思いましてな」
 あんまり要領を得ない返事をします。右の中年僧が、改めて道庵先生のために説明の労を取りました。
「いや、無縁ではございませんが、まあ、一種の悪縁とも言うべきでしょうか、これほどのお方の遺蹟が、すっかり世間から冷遇されることになりましたのは、遺憾千万なことでござんすよ」
「あねさん[#「あねさん」に傍点]も、世間からそう冷遇されるようになっちゃあおしまいだ。いったい、あねさん[#「あねさん」に傍点]、あねさん[#「あねさん」に傍点]と言わっしゃるが、ドコの何というあねさん[#「あねさん」に傍点]なんですね、まさか本所のあねさん[#「あねさん」に傍点]でもござるまいがなあ」
と道庵が言いますと、中年僧は、
「あねさん[#「あねさん」に傍点]というのは俗称でござんしてな――実は五大院の安然《あんねん》大和尚のこれがその爪髪塔《そうはつとう》なんでござんすよ」
「ははあ、安然大和尚、一名あねさん[#「あねさん」に傍点]――」
「その通りでござんす、これが安然大和尚の爪髪塔なることは、歴然として考証も成り立つし、第一、磨滅こそしているようですが、よくごらんになりますと、ここにこれ、もったいなくも『勅伝法――五大院先徳安然大和尚』と銘がはっきり出ております」
「ははあ、なるほど」
 道庵がまだ注意しなかった石の側面に、なるほど立派に右の如く読める文字が刻してある。そこで、中年僧(実は長安寺の住職平田諦善師)は安然和尚に就いて、その来歴を次の如く道庵先生に語って聞かせました。

         三十七

 五大院の安然に就いては、「本朝高僧伝」には次の如くに記してあります。
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「初め慈覚大師に随つて学び、後、辺昭僧正に就いて受く、叡山に五大院を構へ屏居《へいきよ》して出でず、著述を事とす、元慶八年勅して元慶寺の座主《ざす》たらしめ、伝法|阿闍梨《あじやり》に任ず、終る所を記せず、世に五大院の先徳と称し、又阿覚大師と称す、著、悉曇蔵《しつたんぞう》八巻あり」
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 また「元亨釈書《げんこうしゃくしょ》」と「東国高僧伝」とには次の如く要領が記されてあるのであります。
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「安然は伝教大師の系族なり、長ずるに及び、聡敏《そうびん》人に邁《すぐ》れ、早く叡山に上り、慈覚大師に就いて顕密の二教を学びてその秘奥《ひあう》を極む、又、花山の辺昭に就いて胎蔵法を受く、博《ひろ》く経論に渉猟《せふれふ》し、百家に馳聘《ちへい》して、その述作する所、大教を補弼《ほひつ》す、所謂《いはゆる》『教時問答』『菩提心義』『悉曇蔵』『大悉曇草』等なり、その『教時問答』は一仏一処一教を立て、三世十方一切仏教を判摂す、顕密を錯綜《さくそう》し、諸宗を泛淙《はんそう》す、台密の者、法を之に取る、その『悉曇草』は深く梵学《ぼんがく》の奥旨《あうし》を得たり。時人|曰《いは》く、安然は東岳の唇舌を以て西天の音韻に通ず、才|宏劉《くわうりう》なるかなと。都率超曰く、然《しか》り、師は顕密の博士なりと。又曰く、公|若《も》し我が門に入らざれば秘教地に墜つ可しと。その英賢の為に旌《あらは》さるること此《かく》の如く、元慶八年勅して元慶寺伝法阿闍梨と為す」
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 これほどの大善智識でありながら、死後すでに一千年、誰もその徳を慕う者がないばかりか、その記念の塔ですらが、世間から冷遇されるとは何と不幸な聖《ひじり》ではないか。
 住職和尚から、この一通りの来歴を説明されて道庵先生が、
「なるほど、五大院の安然大和尚が、教界古今の大学者だということは、拙者も兼ねて承らないでもありませんがね、それが、あねさん[#「あねさん」に傍点]呼ばわりは、語呂の共通転訛の致すところで、やむを得ないとしてからが、それほどの大徳が、今日に至って、さほど世間から冷遇されるというのは、どうしたものでござるか、明智光秀の塔が壊されるとか、足利尊氏《あしかがたかうじ》の木像が梟《さら》されるとかいうなら、筋は通るが、しかし、碩学《せきがく》高僧である大和尚が、死後まで、俗人冷遇の目の敵《かたき》にされるというのがわからねえでがす」
 道庵は遠慮のないところの疑問を、平田師に向ってブチかけると、諦善師は、悪い面《かお》をしないで、かえってその疑問、我が意を得たりと言わぬばかりに、
「その事でござるてな、いや、このあねさん[#「あねさん」に傍点]塚の世間俗間から冷遇されることは非常なものでござってな、貧乏神中の貧乏神として、あしらわれていますのじゃ」
「貧乏神」と聞いて、道庵が足もとを払われたように感じました。身に引け目があるからです。ただし、道庵先生のは、世間から貧乏神扱いにされるのではない、自分から貧乏神を売り物にしているだけの相違ですが、それでも、突然、人から貧乏神と言われると、正直いい心持はしないらしい。それにかまいなく、住職は重ねて註釈の労を厭《いと》いませんでした。
「このあねさん[#「あねさん」に傍点]塚が俗間では、貧乏神中の貧乏神として嫌われておりましてな、この下の町でも、ちょっとこのあねさん[#「あねさん」に傍点]の塔の方を仰いだだけでもその日は商売がない、それから、街道を通りながらも、思わず知らず、このあねさん[#「あねさん」に傍点]塚の方へ振向いたその日は、もううだつが上らない、というようなわけで、とうとうこの塔をごらんの通り後向きにしてしまいました。そのくらいですから、俗人が皆おぞけをふるうばかりで、お参りなどをするものは誰一人もあるじゃございません。それにあなたばかりが珍しく……」
「おやおや、ヒドクまた嫌われたもんですね、しかし、人生にはまた意外の知己もあるものでね、あながち悲観するにも及びませぬわい」
 ひとり、この道庵に於ては大いに同情するところがある、という気前を見せたつもりなんでしょうが、住職はそれを好意に受取って、
「全く御奇特なことでございます」
「わしなんぞは、その日の商売が繁昌しようとすまいと、そういうことを石塔にかこつけて、義理人情を無視するようなことはしない、だがしかし、少なくも貧乏に於ては、安然大和尚に譲らねえつもりだが、自分の口から言うのは少し恥かしいくらいなもんだが、これで江戸の下谷の長者町へ行ってごろうじろ、一部には、なかなか大した人望があるんでね」
 そういう自慢がはじまるのを、住職は、やっぱり軽くあしらって、
「それは結構なことでございます」
「貧乏はしても、人望はあるんだよ。それにつけても、安然大和尚ともあるべき人物が、それほど人望を失っているというのは、よくよくのことなんだろう、いったい、どうした因縁なんですかね、不審の至りですなあ」
「その因縁でございます、その因縁には、実はこういう物語があるんでございます、まあお聞き下さい」
 平田住職は非常に親切に道庵に応対をする。道庵もまた、なんでもかでも聞いて置きたい方だから、神妙に傾聴している。
 小高い山の、赤土に長い赤松が生えて、青い空から晴れた軽い嵐がその梢《こずえ》に送られる。松の間から見る琵琶湖の景色のなごやかさ、湖上湖辺に騒ぎがあるなどとは夢にも思われない。かくて長安寺の裏山で、この変体な寒山と拾得とが、貧乏物語をはじめました。

         三十八

 諦善師が、道庵先生に語るところの因縁物語は、次の如きものでありました――
 安然大師、現世では左様に古今独歩の大学者であったけれども、その前世は甚《はなは》だ薄徳なる一個の六部でありました。そうして、人から受くることばかりで、与えるということを更にしなかった。その報いによって、学徳は左様に高かったけれども、財縁というものが甚だ薄く、修行時代には赤貧洗うが如く、朝夕の煙もたえがちで、ほとんど餓死に迫ってしまった。そこで、安然法師は歎息し、程近き「投げ足の弁天」へ参籠《さんろう》して泣訴することには、
「愚僧は貧困骨に徹して、もはや餓死になんなんとしている、わしは若いですから餓死するとも我慢は致しますが、老いたる母が不憫《ふびん》でなりませぬ、何とかよい工夫はないものでございましょうか」
 そうすると、投げ足の弁天様は、名前通り足を投げ出したままで、これに答えるようは、
「それはお気の毒千万なことだが、お前さんの人相を見ますと、お前さんの前世は六十六部でした、そうして貪慾で、貰うことばかり一生懸命で、人に施しということをしたことがありません、その報いで、お前さん母子《おやこ》が今のように貧乏に苦しむのですから、いわば因果応報で、如何《いかん》とも致し方がないのです。しかし、お前さんは勉強家で且つ親孝行だから、一つわたしが手段方法を教えて上げましょう。それというのは、お前さんが前世で六部の時代に、それほど貪慾の罪を造っていたが、ただ一度だけ施しをしたことがある、それはお前さんが、心あって施しをしたのではない、ある時、前世のお前さんは樹上の梨を取って食べた、そうして甘いところの実は、すっかり自分で食べてしまって、食べ残りのしん[#「しん」に傍点]を路傍《みちばた》へ抛《ほう》り出したが、そのしん[#「しん」に傍点]を地上で餓えた蟻が這《は》いよって食べて、それで蟻の命が救われた、お前さんには、たった一つのその功徳がある。その蟻が今の世で人間となって京都へ生れ、木屋町で豆腐屋を開いて、相当に繁昌している、よって、お前さん、母御をつれて、その豆腐屋へ行って相談してごらんなさい」
 投げ足の弁天から、これだけのことを教えられて、安然法師も、当座の急を救われる喜びには打たれたけれども、それにしても、弁天の応対ぶりが不愉快であった。弁天様とは言いながら、女の身で、人に挨拶するのに足を投げ出してするとは何だ。かりにも前世や後生のことを語るのに、いくら私が貧鈍で薄徳だからといって、足を投げ出して話をする作法はない――と安然法師はそのことを憤って、お祈りをして弁天様の足を封じたところが、それっきり弁天様の足が動かなくなった。それで、あの弁天様は、永久に足を投げ出したままの不作法をさらしている。投げ足弁天の由来はこうである、というのです。
 それはそれとして、安然法師は、言われた通りに京都の木屋町まで来て見ると、言われた通りの豆腐屋がある。それをたずねて委細を物語ってみると、その豆腐屋が立ちどころに同情して、母は豆腐屋が養ってくれることになり、安然は豆腐のカラを恵まれて、それを食べつつ修行して、ついに大智識になった――という因縁物語を聞き終ると、道庵がまた大いに感動させられてしまいました。
「いや、それで貧乏神の由来がわかりました、大いに教訓のある話です、貧乏の方では拙者もかなり先達《せんだつ》の方ですが、あねさん[#「あねさん」に傍点]にはかないません、これは大先輩でした。ひとつ、どうでしょう、これも御縁ですから、安然大師のために、ひとつ拙者が発起人となって大供養を致したい、そうして一方、お角親方をでも焚《た》きつけて、盛んに景気をつけて、縁起直しをやりてえもんだねえ、貧乏神のあねさん[#「あねさん」に傍点]を、ひとつ福々の神様に祭り直して上げたいものですねえ」
 こんなことを口走ったのを、住職は多分お座なりのお世辞だろうぐらいに聞き流していましたが、道庵にとっては真剣でした。
 道庵は得てこういう芝居気がある。関ヶ原ではまんまと大御所を気取りそこねたが、一向ひるまない。今日はまた、ここでこんな因縁話を聞いてみると、ほんとうに身につまされる。ことに自分と同じ宗旨の大先達であってみると、今日このお墓参りをしたということが、何かのお引合せである。今いう前世というやつのお節介に相違ない。ことに世間の奴等がこれほどの大先達を冷遇して、死んだあとの塔をまで、あちら向きにしてしまうなどとは、不人情と言おうか、冷酷非道と言おうか、言語道断のふるまいである。今日、その流れを汲む道庵がここへ来たからには百人力。
 ことに、芝居道の大策士たる女将軍が後ろに控えていて、そのまた後ろには、それは貧乏神とは全く対蹠的《たいせきてき》な大財閥が一人控えている。二人を脅迫して、うんと金を出させて、死せる不遇なる大先輩のために大々的な追善供養をするんだ――と道庵の心中はいきり立っているのを、住職はそこまでは見破ることができません。

         三十九

 道庵先生は、不日この地に於て盛大なる「貧乏祭」を催し、亡き安然大徳に追善供養すると同時に、この地方の有志をアッと言わせてやろうという野心に駆《か》られつつ、裏山をあてどもなく散歩し、程よきところで一瓢《いっぴょう》を傾けつつ、いいかげんに遊んで、やがてまた小町塚の庵《いおり》へ戻って来ました。
 道庵が、小町塚の庵へいい機嫌で立戻って見ると、意外にも来客が一人あって、留守の間に座に通って、すまし込んで控えておりました。
「やあ」
「やあ」
 相見て、おたがいに呆《あき》れたのは、これはたしかに相当熟した旧知の間柄であることがわかる。留守中の来客というのは、年配もほぼ道庵先生とおっつかっつであって、道庵より少し背は低いが、よく肥って、人品も悪くない一人の老紳士でありました。
「健斎君」
「道庵君」
「いや、どうも暫く」
「全く思いがけないよ」
「こんにちは」
「こんにちは」
 二人とも意外意外で、立ったなり、坐ったなりで、珍妙な挨拶を取交しました。
 これだけの名乗りによると、一方が道庵君であることは先刻わかっているが、留守中の来客というのが健斎君であることが同時にわかりました。しかし健斎君といっても、道庵にはわかっているが、他の者にはわからない。この作中に於ては初見参の名前ですから……だが、戸籍を洗ってみると、少しも怪しい者ではない。このあたり、あまり遠くないところに住んでいる、やはり道庵の同業者の一人であることが、名前から言っても、言語挙動から言っても、充分に受取れる。
「健斎君、君のところは、この近辺だったかいねえ」
「山城の田辺《たなべ》だよ」
「山城の田辺というと、どっちに当るかなあ」
「伏見の先の方なんだ」
「そうか。そうしてまた、どうして道庵がここにとぐろを捲いているということがわかったのだい」
「いや、それは、思わぬところで耳に入れたものだから、とりあえずやって来て見ると、君は留守だとのことだが、座敷の模様を見ると、あまり遠出をしたようでもないから、そのうち戻るだろうと、こうして待っていたところだ」
「よく待っていてくれた、なんにしても、聖堂以来の思いがけない対面で嬉しい、早速いっぱいやろう」
「ははあ、君は相変らず飲むな、僕はあれ以来、禁酒だよ」
「そいつは惜しいな、玉の盃《さかずき》、底なきが如しだあ。まあ、なんでもいいや、くつろぎ給え、聖堂以来の旧知、遠方より来《きた》る、またたのしからずや」
「遠方より来るは、こっちの言い分だ、君が遥々《はるばる》江戸から来てくれたんだから、これから僕が大いに飲ませるよ」
「有難え――持つべきものは友人だ」
 二人ともに、非常に砕けている。その交際ぶりを見ると、昨日や今日の間柄ではない。いい年をした二人が、全く若やいだ書生気分になってはしゃぎ出したのは、つまり、二人は書生時代に、江戸に於ける学問友達であったのです。江戸在学の間、二人は盛んに交際したものであるが、一方は江戸に留まって十八文の名、天下(?)に遍《あまね》く、一方は郷里なる山城田辺に引込んで、先祖代々の医業を継承している。その間は音信不通であったのだが、会ってみると、急に時代が三四十年も逆戻りをして、牛肉を突っついた昔に返ってしまうのも道理です。
「へえ、どうして君は、僕がここにわだかまっているということがわかったんだね」
 道庵が、どっかりと坐り込んで、再び念を押すと、健斎が、
「不思議なところで聞いて来たよ、この上の大谷風呂で、君がここへ来ているということを、はからずも耳に入れたものだから、早速かけつけて来たのだ」
「大谷風呂で聞いたって、大谷風呂の誰に聞いたんだい」
「それが妙な因縁でな、順序を話すと、こうなんだよ――大谷風呂に、甲州の有名な財閥で、藤原の伊太夫というのがいる」
「知ってる、僕も名前だけは大いに聞いている、それから最近、お角という奴が、妙に胡麻《ごま》をすっていることも知っている」
 お角という奴が、胡麻をするかすらないか、そんなことはよけいなことだが、とにかく、藤原の伊太夫には相当|知音《ちいん》の間柄と見える。その点を健斎が説明して言うには、
「その藤原の伊太夫というのは、親父《おやじ》の代からの懇意で、出府の前にはよく往来したものだが、その伊太夫が今度、上方へやって来て、大谷風呂に逗留しているのだ」
「そこへ、君がまた胡麻すりに来たのか」
「よせやい、おれはこう見えたって、財閥に胡麻をするひまはないんだ、ただ、その旧知の縁によって、伊太夫から招かれたんだ。ただ招かれたんでは、そう安々と出て来るわけにはいかないが、旅中、同行の中に急病者が出来たから、枉《ま》げて都合して来て見てくれないかという急の使だから、早速やって来てみたところなのだ」
 健斎が、こう言ったところを以て見ると、ますます同業者ということがわかる。同時に健斎の家は、田辺でも代々旧家の方で、相当の貫禄があるのだから、伊太夫に招かれたからと言って、そう安々とは出て来られないはずだが、病人ありと聞いては、職業柄、猶予はできないで、駈けつけて来たというのは、聞える道理だが、そのくらいなら、ナゼ道庵に頼まない! という不服が、道庵の胸三寸に、ちょっと、つむじを捲かせました。そうして不服を包んでいる道庵でないから、忽《たちま》ちにムキ出してしまって、
「なに、伊太夫に急病人が出来たから、わざわざ田辺まで君を招きに行ったのか。人をばかにしていやがら、つい端近《はしぢか》に、この道庵というものが控えているのを知りながら、ほかへ使をやるなんて、胡麻すりのお角もお角じゃねえか」
とこう言いました。道庵の気象を呑込んでいる健斎だから、そんな不服は深くは取上げない。
「いや、それには何か特別の事情があるらしいのでね、近所の医者では都合が悪かったのだろう、実は普通の病人ではないのだ、水死人なのだ、水に溺《おぼ》れた人を、伊太夫殿が湖水から掬《すく》い上げて来て、それを一室に匿《かく》まい、治療をさせようという次第で、急に僕のことを思い出して使を立てたものらしい」
「ははあ、あいつら、竹生島へ参詣をかこつけて、デモの避難を試みたそうだが、では、その途中、水死人を拾い上げでもして来たものだろう」
「心中者らしいのだ」
「心中者――今時、洒落《しゃれ》てやがるな」
「でもまあ、助かったから功徳《くどく》というものさ」
 二人、会話をしているうちに、婆やが酒を運ぶ、茶菓を運ぶ。
 それが話のきっかけになって、健斎は、どうしても道庵を田辺へ引っぱって行くと言ってきかない。
「田辺なんてところに、何かいいものがあるのかい」
「有るとも、大有りさ、一休和尚の寺がある」
「一休! 一休と聞いちゃ、聞きのがせねえよ」
と道庵が、いささかはずみました。山城の国、綴喜郡《つづきごおり》、田辺の里に、一休和尚の旧蹟|酬恩庵《しゅうおんあん》があることの説明を、健斎老が道庵先生に説いて聞かせた上、どうしても、これから道庵先生を引っぱって行って、大いに上方酒《かみがたざけ》を飲ませなければならぬ、と言い出したものですから、暫く思案した道庵が、忽ち同意してしまいました。
 先に言うが如く、道庵が空虚を感じながら、ここを動けない理由の一つとしては、孤立無援で、味方のない敵地へ乗込むということの危険を予想したからである。ところが、山城生れの生粋《きっすい》の土地っ子で根の生えたやつが、自分の味方についた。これは切っても切れない書生時代からの同学だから、どう間違っても裏切りのおそれはない。のみならず、家も旧家で、相当豊かな暮らしをしていることがわかる。道庵に一月や二月、呑ませたからといって身上にさわる家でないこともよくわかる。且つまた、職務の暇々には、自分も興味を以て畿内の名所旧蹟を歴遊してもよいということだから、こうなってみると、あえて米友やお角をたよりにする必要はない。そういうのを頼りにして出かけるよりは、この方が一層、利《き》き目《め》があると思いました。
 道庵がそう鑑定したものですから、一も二もなく健斎の招待に応ずることになりました。もうこうなってみると、本草学の研究も、貧乏祭の計画も打忘れてしまって、いざ出直しの用意にとりかかるという気早さです。

         四十

 大谷風呂の別の一間には、屏風《びょうぶ》が立て廻されて、この外に、一人のお医者さんと、女の人とがいろいろと会談をしています。
 そのお医者さんというのは、さきほどのあの中川健斎老で、もう一人の女の人というのは、ほかならぬお角さんであります。
 屏風の中で、すやすやと眠っていたらしい病人が、やっと眼がさめた様子を見計らって、外からお角さんが言葉をかけました、
「お目ざめになりましたか」
「はい」
 お角さんが、屏風をちょっと押しやると、そこで枕についていたのは、やっぱり女の人であります。枕にかかる洗い髪は、まだ若い緑の黒髪がたっぷりしていました。
 そうすると健斎老が、これは無言で膝行《いざ》り寄り、患者の枕許へ手を入れて、しずかに取り上げた小腕を見ると細くて白い。
「ねえ、お雪様」
と、お医者さんに脈を見せて置いて、これも一膝進ませたお角さん。
 枕に親しんでいるのはお雪ちゃんであります。お角さんは、お雪ちゃんを呼ぶに、お雪ちゃんともお雪さんとも言わない、お雪様と本格扱いです。
「はい」
「先生が、わざわざ田辺からおいで下さいまして、もうすっかり、こっちのものだと太鼓判をお捺《お》しになりましたから、御安心なさいませよ」
「はい」
「そうしてね、お雪様、ここは閑静で、いつまで保養をなさっていてもかまいませんが、何を言うにも宿屋のことですから、行届き兼ねます、あなた様は、大阪へ帰りたい帰りたいとおっしゃいますが、いっそ、暫くこの先生のお宅に御厄介になって、それから充分おたっしゃになってから、大阪の方へお帰りになるようになさってはどうですか」
「はい」
 何を言っても、はいはいと逆らわない。逆らわないだけたより[#「たより」に傍点]のないような心持もする。その時、脈を取り終った健斎老が、
「もうほとんど平脈、危険のおそれ更になし、どうです、今このおかみさんがおっしゃる通り、僕のところへおいでなさい、綴喜郡の田辺というところだ、京都から見るとずっと田舎《いなか》だが、空気もいいですよ、小高い山の上に別荘がある、そこで充分に保養なさい、健康が全く回復してから大阪へ送って上げますよ」
「はい、有難うございます」
 素直に納得するのを、お角さんがまた傍らから力をつけて、
「そうなさいませよ、万事、少しも心配はいりません、あとのことも、先のことも、すっかりいいようにして上げてありますから」
「有難うございます」
「それから、もう一つ心強いことはね、お雪様、あなたも御承知のあの長者町の道庵先生が御一緒に参りますから、安心の上にも安心でございますよ」
「あの、道庵先生が――」
 ここで、お雪ちゃんがはじめて、「はい」と「有難う」との単語のほかに、些少《さしょう》ながら感激の力のある言葉を発しました。これに力を得たお角さんは、
「ええ、あの先生がね、こちらへ参っていまして、こちらの先生と昔からのお友達なんだそうでございますよ、二人のエライ先生がお附きだから、全く親船に乗ったようなもので、あなた様もお仕合せです」
と励みをつけました。事実、この二人の国手《こくしゅ》がついていれば、大丈夫保険附きのようなものですから、お角さんの口前とばかりは言えません。しかし喜ぶべきはずのお雪ちゃんは、まだ思う存分に意志の発表ができるほど、気力が回復していないと見えて、いったんは道庵先生と聞いて、いささかながら昂奮の気色が見えましたが、お角さんがはずむほど、それほどはずまないようです。
 そうして、少し身動きをして言いました、
「それは御親切に有難いことでございますが、どうもわたくしは、知っているお方にはお目にかかりたくない心持が致しまして、このままずっと大阪へ行ってしまいたいと存じます、いいえ、こちらの先生の田辺とやらへ御厄介になって、それから大阪へ参るなら参るように致したいと思います」
と、やっとお雪ちゃんがこう言いました。
 それにお雪ちゃんは、道庵先生とは至極心安い。胆吹の王国で、この先生といっしょにハイキングをやったこともあれば、人生問題を論じ合ったこともある。至極イキの合う先生ではあるが、今となっては、自分を知っている人のすべてに会うことを、悪意でなく、避けたがっている。その気分をお角さんも認めたものですから、
「それもそうですね、ではあなたは道庵先生とは別の心持でいらっしゃい、お雪様だか誰だかわからないようにしてお送りしますから、蔭にはいつも両先生がついていると、心強く思っていらっしゃい」
 そこはお角さんも心得ている。道庵という先生は、至極出来のいい先生ではあるけれども、何をいうにも、あのがさつ[#「がさつ」に傍点]な気象である。むやみにいい機嫌で、病人の傍でさわがれた日には、病人のためにならないこともある。且つまた、この病人は、全く素直であるだけ、それだけ油断がならない。いつまた昂奮して、再び死を急ぐような気分にならないとも限らない。心中者には特にそういう気分は有りがちで、まあよかった、人間一人を取戻したと思ってホッと安心している、その隙《すき》をねらって飛び出して本望を遂げてしまうという例もずいぶんあることですから、その辺は健斎先生にもよく依頼してある。なんにしても、当分は、絹糸にさわるように本人の気分をやわらかにして置かなければならない。この際に道庵先生のようなざっかけ[#「ざっかけ」に傍点]を、病人の意志に反して、傍に置くことは相当考えなければならないと、お角さんが思いました。
 そこへ、取次の女中が出て来まして、
「ちょじゃまち[#「ちょじゃまち」に傍点]の先生とかおっしゃるお方が、おいでになりました」
 早くも道庵が進入して来たらしい。

         四十一

 さて、その翌日になりますと、大谷風呂から三箇の乗物が前後して出立しました。
 まんなかのは普通の四ツ手ですが、前後のは、お医者さんだけが乗るべきあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]です。
 それに附添が三人――
 これによって見ても、まんなかのお駕籠《かご》がお雪ちゃんで、前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]に、健斎、道庵の両国手が乗込んでいることと想像ができる。
 駕籠附の一人は、山城田辺から健斎国手がつれて来たおともで、他の二人は伊太夫の従者の若い者でした。
 この三乗三従の一行に加うるに、お角さんが庄公を召しつれて、追分まで送ろうというのです。
 やがて程遠からぬ追分まで来ると、例の「柳緑花紅」の道しるべの前で、前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]だけが乗物をとどめ、まんなかの四ツ手は先をきって、静かに打たせて行きます。前後のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]が停ったかと思うと、両方から一時にころがり出したのは、前なるは健斎国手、あとのは道庵先生でありました。
「やれやれ、御苦労さま」
 道庵が額の汗を拭きますと(汗は出ていないのだが、手加減で汗を拭く真似《まね》をする)お角さんが、
「先生、御窮屈でございましょうね」
「わしゃ、どうも、駕籠乗物よりは、事情の許す限り徒歩主義でしてね」
 そう言うと健斎国手も、
「いや、わしも歩くのが好きなんだ、では、これからずうっと歩くことにしようじゃないか、時に随って、或いは歩み、或いは乗るということにして行こう」
「賛成」
 二人はそういうことに同意をしました。お雪ちゃんの乗物は、一町ばかり先に休んでいる。こういう行き方にも、またお角さんの気の利《き》いた細かな勘が働いているものと思われます。
「では親方」
と道庵が改めて、お角の方へ向き直り、
「京都でゆっくり再会という段取りに致そう、たよりをくれ給えよ、綴喜郡の田辺のこれこれへ、京へ着いたら忘れないように早々便りをくれ給えよ」
「先刻心得ておりますよ」
「財閥へうまく胡麻をすって、大儲《おおもう》けに儲けなさいよ」
 これはよけいなことでした。こういうことは、この際、口走らない方がよかったのですが、どうも、御人体《ごにんてい》で如何《いかん》ともし難いと見える。
「ようござんすとも、どっさり儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよ、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよ」
とお角さんが応酬しました。前口上の、御意の通り大いに儲けて、上方のお酒の相場を狂わすほどに飲ませて上げますよはいいとしても、あとの、もうたくさんとおっしゃっても、口を割って飲ませて上げますよは、よけいなことです。道庵も、口を割ってまで飲ませられてはたまるまい。
「なにぶん頼む」
 それを道庵が素直に受けますと、お角さんが今度は健斎老の方へ向き直り、これは道庵先生に対するとは打って変った慇懃《いんぎん》ぶりで、
「では健斎先生、これでお暇《いとま》を申し上げます、この上とも、万事よろしくお願い申し上げます、そういう次第でございますから、病人の方には、道庵先生が御同行していることを当分はお話し申さない方がよろしいかと存じます、それから、こちらの大きな方の御厄介者、これが病人よりは一層の難物かと存じますが、この方も万事よろしく」
「ばかにしなさんな」
「ではなにぶん」
「失礼」
「お大切に」
「あばよ」
 これがこの場の最後の挨拶。
 右へ道をとれば山城の国、山科――左は伏見から大阪へ。
 二人の医者は、わざとあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]を空にして、駕籠《かご》わきにつき添って歩いて行く。乗物と人物の見えなくなるまでお角さんは、追分の札の辻に立って見送っている。両国手は、時々振返って、一瓢をささげ上げて、さらばの継足し、その度毎に、お角さんも手を挙げてあいさつを返す。さきに待兼ねていた先発のお雪ちゃんの駕籠のところまで来ると、二人の国手も乗物の中へ隠れて、かくて三乗三従の一行は、追分道を左に綴喜郡田辺の里へ向って急ぐ。
 お角さんは、それを見送って、改めて庄公を引き立て、以前の通り大谷風呂をさして戻りにつく。

         四十二

 お雪ちゃんを追分から南へ送った日のその晩のこと。
 これは大谷風呂ではない、関の清水の鳥居の下から、ふらりと現われた一人の武士がありました。笠をかぶって、馬乗袴のマチの高いのを穿《は》いて手甲《てっこう》脚絆《きゃはん》のいでたち、たった一人、神社の石段を下りて、鳥居をくぐって、街道へ歩み出しました。
 その時分、もう、さしもの街道にも人通りは絶えていたのです。右は比良、比叡の余脈、左は金剛、葛城《かつらぎ》まで呼びかける逢坂山《おうさかやま》の夜の峠路を、この人は夢の国からでも出て来たように、ゆらりゆらりと歩いていました。
 どうも、この骨格から、肩越し、足もとに見覚えがある。笠のうちこそ見物《みもの》だと思って心配するがものはない、前半の一文字笠が、その瞬間、紗《うすもの》のように透きとおって、面《かお》が蛍の光のように蒼白《あおじろ》く夜の色を破って透いて見えるのです。さては思いなしの通り、この人は机竜之助でありました。
 絶えて久しい、この人の姿を逢坂山の上で見る。いつのまに健康を取戻したか、姿勢はしゃんとして、しかも、足許がきまっている。杖の力を借りないで、百里も突破する体勢になっている。眼は癒《なお》ったのだろう。その証拠に、今、紗のように透き通った笠の前半を見ると、切れの長い眼が、真珠の水底に沈んだような光を見せていた。関の明神の下で、草鞋《わらじ》の紐を結び直したあの手もとを見てもわかる。眼の不自由な者に、あんな手に入った扱いはできない。
 街道へ出て、人なき大道をこの人は、真直ぐに京山科方面へ向って、のっしのっしと歩んで行くのです。
 その足どりは甚だ軽く、腰に帯びた大小の蝋色《ろういろ》もおだやかで、重きに煩う色はない。
 行き行きて追分の札の辻まで来る。ここは朝のうち、伏見街道を行くお雪ちゃんと、両国手とをお角さんが送って来て、さらばさらばをしたところ。
「柳は緑、花は紅」の石標に腰打ちかけた机竜之助、前途を見渡すと夜色が京洛に立ちこめている。昼間に見たところでは、追分の辻から左右ともに、人家が櫛《くし》の歯のように並んでいたと覚えていたが、真夜中というものは、時代を一世紀も二世紀も逆転して見せるもので、風景もおのずからその時代の風景ではない。右手にながめる比良、比叡の山つづき、左にわたる大和、河内への山つづき、この間は一帯の盆地、京洛の天地はいずれのところにあるや、山科、宇治も見渡す限り茫々《ぼうぼう》たる薄野原《すすきのはら》でありました。
 机竜之助は、「柳緑花紅」の石に腰打ちかけて、腰なる煙草入を取り出して、燧石《ひうちいし》をカチカチ、一ぷくの煙草をのみ出しました。今日まで机竜之助が杯《はい》を傾けたということは見えているが、未だ煙草をのんだという記録はなかったように思う。ここへ来てはじめて悠々と煙草をのみ出している。
 煙草をのみながら、透綾《すきや》のように透き通る笠の、前半面から、悠然として、目に余るすすき野原をながめているのであります。
 そうすると、暫くして、行手の右の方の蜿蜒《えんえん》たる一筋路は伏見街道――やはり、すすき野原を分けて、見えつ隠れつ、一《ひ》い、二《ふ》う、三《み》い、三梃の乗物が、三人の従者に附添われながら大和路へ向って行くのを見る。
「おーい」
と机竜之助が、これを見かけて、片手をあげて呼ぶと、あちらでも、
「おーい」
 答えはあったが、人が見えない。
 机竜之助は、あわただしく火打道具を腰にはさんで、笠の紐をとって、それを片手に高く打振りました。
「おーい」
 あちらでも、
「おーい」
 すすき野原の中から、こだまを返して、返事はあるが、あちらでは手を振る人もなければ、ひらめかす笠もあるではない。乗物はずんずんと離れて進んで、すすき野原の中へ、見えつ、隠れつ、行く手は大和、河内の山、そこへ没入してしまうげに見える。
「おーい」
 竜之助は何と思ってか、突然に腰かけの石を立って、二三歩進み出し、また笠を手強く振って、
「おーい」
 こんどは返事がありません。返事のないことは、もはや、さいぜんの乗物がすすき野原を打過ぎて、大和、河内の山の中へ没入してしまった証拠です。
 それと知りつつ竜之助は、またも二歩と三歩と進んでみましたが、もうおとなうものは、谷川のせせらぎのほかは何もない。
 茫然として、そこに立ちつくしていると、
「おーい」
 今は人を呼びかけた身、今度は後ろから人に呼びかけられるらしい声がする。
「何だ」
「おーい」
「おーい」
 相呼び、相答うる双方の声はまだ遠いのに、不意に竜之助の肩に後ろから手をかけた者がある。その手は軟らかい白い手でありました。
「あなた」
「誰だ」
「どちらへいらっしゃるの」
「どこへ行こうと……」
 手だけは肩にかかって、声はするが姿は見えない。あまりにけったいなる物のたずね方なので、竜之助、怒気を含んで見返ろうとしたが、この背後が磐石《ばんじゃく》のように重い。
「島原へいらっしゃいよ」
「島原へ――」
 一方の白い軟らかい手が、自分の左の肩にかかっていたかと思うと、今度は、右の方の眼の前へ一つの白い軟らかい手が現われました。そうして、しかもその軟らかい手が、五体にくっついていないのです。手首から下はありやなしや、その指先だけが、
「島原へ――」
と言って、一方の空を指している。この指したところを見ると、ぼうっと、一隅だけ酸漿《ほおずき》のように赤い。
「あれが島原か」
「もう一ぺん、あなたを島原で遊ばせて上げたい」
「…………」
「皆さん、相変らずお盛んでございますよ、芹沢《せりざわ》さんは殺されましたが」
「近藤勇は無事か……」
「無事どころか、飛ぶ鳥落す勢いだよ、わは、は、は、は、は」
 それは軟らかく白い手首の女の声ではない、豪傑的なすさまじい高笑いでありました。
「誰だ」
と振り切った時は、竜之助の身が軽くなりました。島原へ――指したその手は細く柔らかい手でしたが、高笑いは、決してその手に相応する声ではありませんでした。このすさまじい高笑いが起ると共に、左の肩に置かれた細いしなやかな手も、右で指さされた島原の白い手首も、すっと、霞を引いたように消え失せてしまって、竜之助が振返った背後には、雲を衝《つ》く大男が一人、大手を振ってのっしのっしと歩み来るのを見受けます。
「は、は、は」
 先方は、すさまじい豪傑笑いを以て、竜之助の背後に迫り来《きた》ったのです。その時に、発止と思い当った竜之助は、二三歩すさって身構えざるを得なかったものです。
「喫驚《びっくり》したかな、田中新兵衛だよ、示現流《じげんりゅう》の、主水正正清《もんどのしょうまさきよ》の田中新兵衛だ」
「うむ――また出たか」
「今度は果し合いの申込みなんて、そんな野暮《やぼ》な真似《まね》はせぬから安心し給え、おいも、久しぶりで京都へ入るのだ、いい道連れを欲しいと思っていたところへ君が来たので嬉しいよ、昔のことは忘れて、旅は道連れの情けを以て、つき合ってくれ給え」
 いかにも、そういう声は田中新兵衛である。その昔、この道を通った時に、不意に背後から呼び留めて、白昼、真剣の果し合いを申込んだあの白徒《しれもの》である。だが、今宵は、あの時と打って変ったあけっぱなしの、隔てのないものの言いぶりで、豪傑肌こそ昔に変らないが、殺気などというものは微塵《みじん》もない、真に己《おの》れも淋しいことあって、友を呼ぶ魂のように聞えるから、竜之助も極めて安心をしつつ、その追いつくのを待っていると、ほどなく近づいた右の豪傑は、竜之助を見て莞爾《かんじ》として笑ったかと思うと、竜之助の腕をとって、親しみの態度を現わしました。竜之助も手をさしのべてさわってみたが、その手は荒いけれども、そのさわりは極めてつめたい。
「いやに冷たい手をしているな」
「は、は、は」
「どこへ行っての帰りだ、そうしてこれからどこへ行こうというのだ」
「美濃の関ヶ原から来たんだが、これからまた京都へ行くのだ、京都はどこという当てもないが、せっかく君と同行のことだ、君の行くところへ僕も行こうではないか」
 田中新兵衛は極めて親しみを以て、こう言いました。思えば自分も一人旅、逢坂山の関の清水を立ち出でて、足はこうして京洛の地に向いているけれども、さて、今度の都入り、誰を当てに、ドコへ落ちつこうという目的があるではないのだ。田中新兵衛から、こう持ちかけられてみると、竜之助はいまさら自分の行手を思案する気にもなる。
「拙者は島原へ行こうと思っているのだ」
「島原――結構」
と田中新兵衛が言下に応じました。竜之助が島原と言ったのは出まかせである。最初からそこへ目的を置いたわけではなし、そこになんらの知己ある人がいるわけではないが、今の先、島原へと誘引した白い手首があった、そのことが眼先にちらついていたものだから、つい口頭に現われたものだが、この際は自分ながらよく言ったと思った。
 今の竜之助としては、会津へ行くとも言えまい。壬生《みぶ》へ参るとも言えまい。京洛の天地に彼が名乗りかけて、草鞋を脱ごうという心当りは一つもない。ただ、島原だけは万人の家である。あすこには、いかなる人をも許して拒まない女性がいる。
 そこで二人は、無言に轡《くつわ》を並べて、薄野原《すすきのはら》を歩み出しました。行けども行けども薄野原で、京伏見への追分路が、こんなに野原続きのはずはないのに、ほとんど無限の野原つづき。しかもその前面には、たえず「柳緑花紅」の石ぶみが並び進んで離れない。ただ安心なのは、この不意打ちの旅客に、今宵はドコまで行っても殺気というものが湧いて来ないことである。昔のように、警戒も、残心も、さらに必要がなくて、ややもすれば同行同向のなつかしみがにじみ出でて来る。竜之助は全く打ちとけた心になって、かえってこちらから隔てなく話しかけるような気分になりました。
「その後、拙者は身世《しんせい》の数奇《さっき》というやつで、有為転変《ういてんぺん》の行路を極めたが、天下の大勢というものにはトンと暗い、京都はどうなっている、江戸はどうだ、それから、君の故郷の薩摩や、長州の近頃の雲行きはどうなっている、知っているなら話してくれないか」
「うむ、僕もよくは知らんが、君よりは一日の長があるか知れん、知っているだけ物語って聞かそう。まず、君にも何かと縁故の深い壬生《みぶ》の新撰組だな」
「うむ――どうだい、あれは」
「近藤勇がこれを率いて、土方《ひじかた》がそれを助けている、今の新撰組はことごとく近藤によって統制されている、新撰組の近藤ではない、近藤の新撰組だ、いや新撰組の近藤というよりも京都の近藤だ、京都の近藤というよりも、近藤あっての京都の町だ、近藤の威力は飛ぶ鳥を落し、泣く児もだまる」
「近藤勇――それほどの勢力となりおったかな」
「市中の威力は町奉行以上、守護職以上、脱走の大藩浪人共も、かれの前には猫のようで、彼を怖るること虎の如し、全くエライ勢いだよ」
「彼もたいした英雄でもなかろうが、時の勢いで、威がついたのだな」
「たいした英雄ではないかも知らんが、たいした勇敢だ、是非名分はトニカクとして、あれだけの勇気ある奴はない、あれだけの決断のある奴はない、勢いの帰するところ、必ずしも偶然とのみは言えないのだ。そもそも彼が今日の威力を得たことも、必ずしも蛮勇と僥倖《ぎょうこう》とのみは言えない――ドコかに一片の至誠の人を打つものがあり、多少ともに人を御する頭梁《とうりょう》の器《うつわ》があればのことだ。彼の今日に至るまでには、血の歴史がある。血の歴史と言ったところで、人を斬って見るその血のことのみを言うのではない、自分の精神的にだ。精神的に、血涙を呑むの苦闘を嘗《な》め来《きた》った、それを言うのだ。近藤を蛮勇一辺の男とのみ見る人は、その胸臆をよく知らないものだよ、彼は珍しく純なところのある血性の男児で、憎むことを知る男だよ。彼にこの血性の有する限り、血の歴史はまだまだ続くよ」
 斯様《かよう》に語り来った新兵衛の言葉には、幾分なりと近藤に対する同情がほの見える。いわゆる勤王方の中心勢力たる薩摩のうちに、かえって近藤を諒解する男がいるということを、竜之助も不思議なりとして、
「あれはあれだけの男だろう、あれの器量として、今の地位は過ぎたるものか、及ばざるものか、その辺は拙者は知らない、だが、あれもいい死にようはしないだろうが、死場所を与えてやりたいものだ」
 何とつかず竜之助が、斯様に挨拶したのを、田中新兵衛はまた高笑して、
「は、は、は、その点は御同様、君も、僕も、いい死にようはできなかった」
 できなかったがおかしい。できなかったでは過去になる。過去に解決を告げてしまった語法文法になる。文法や語格には注意を払わない竜之助は、
「そうなると、近藤に万一のことがあるとなった暁は、今後の新撰組は誰に率いられるのだ」
「そこだ――路傍の噂《うわさ》では、伊東甲子太郎《いとうきねたろう》が最も有望だということだが、くわしいことはよくわからんが」
 ここまで語り合った時に、不意にまた路傍から声がかかって来た。
「その話なら、僕がくわしいよ」
 二人は驚いて、その声のする方を見やると――
 闇中《あんちゅう》からのそりと出て来た、旅すがたは平民的……いつかは奴茶屋《やっこぢゃや》の前まで来ておりました。その奴茶屋の縁台に腰打ちかけ休んでいた一人の発言でした。
「やあ、山崎君ではないか」
 これはこれ、新撰組の一人、香取流の棒の名手、変装の上手、山崎譲でありました。

         四十三

 なるほど、山崎ならば、新撰組の近状を知ることに於て田中以上だろう。奴茶屋に休んでいた山崎は、闇中から不意にしゃしゃり出たと見ると、二人に押並んで歩調を合わせながら、
「では、僕が代って、その後の新撰組の状態と、今後の予想とをくわしく話して聞かせようではないか――」
と言って、懐中から何か一ひらの紙切れを取り出して二人に示し、
「まず、これを一覧し給え」
 暗いところではあり、かつ、会話はしながらも、これは無性に進行している途中ではあり、そこで急に紙片をつきつけられたからとて、本来読めるはずのものではないが、そこは不思議にも、
「どれどれ」
と言って受取った二人の前へ、笠から透きとおって、その巻紙の文字がありありとわかるのであります。読んでみますと、それは次のような人名表でありました。
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見廻組組頭格 隊長  近藤勇
同  肝煎格 副長  土方歳三
見廻組  格     沖田総司
右   同断     永倉新八
同          原田左之助
見廻組        井上新太郎
同          山崎木一
同          緒形俊太郎
見廻組  並     茨木司
同          村上清
同          吉村貫一郎
同          安藤主計
同          大石鍬次郎
同          近藤周平
惣組残らず見廻御抱御雇入仰せつけられ候
 卯六月
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 これを二人が、すらすらと読んでしまって、田中が、
「なるほど、こうなってみると、新撰組は残らず幕府の方へ、お抱え、お雇入れ、仰せつけられ、ということになったのだな、金箔附きの御用党となったわけじゃな」
「そこだよ」
「よく、これで納まったな」
「納まらないのだ、これで近藤は御目見得格《おめみえかく》以上の役人となり、大久保なにがしという名をも下され、土方は内藤隼之助《ないとうはやとのすけ》と改名まで仰せつけられたというわけだが――納まるはずがない、本人たちは一応納まったが、納まらぬのは多年の同志の間柄だ」
「そうだろう、一議論あるべきところだ」
「本来、新撰組というのが、幕府の爪牙《そうが》となって働く放漫有志の鎮圧を専門としているが、もともとかれらは生え抜きの幕臣でもなんでもないから、その御すべからざるところに価値《ねうち》があったのだ、彼等は事情やみ難く幕府のために働くとは言い条、彼等の中には勤王攘夷の熱血漢もあれば、立身の梯子として組を利用しているものもある、天下の壬生浪人として大手を振っていたものが、公然幕府の御用壮士と極印《ごくいん》を捺《お》されることを本意なりとせざるものがある」
「それはそうありそうなことだ、で、右のように彼等が役附いたとなると、当然それに帰服せざるやからの出処進退というものが見ものだな」
「そこで、一部のものに不平が勃発し、その不平組の牛耳が、今いう伊東甲子太郎なのだ」
「また新撰組が二分したか」
「いや、すんなりと二分ができれば問題はないのだが、新撰組の組織というものが決して脱退を許さぬことになっている、脱退は即ち死なりと血誓がしてあるのだ、近藤に平らかならざるものも、隊としての進退が決した以上、それに不服が許されない、脱退も許されない、進退きわまったのだが、そこは伊東の頭がよい、誰にも文句の言えない名分によって辞職をして、新たに別の方面へ分立することができたのだ」
「ははあ、伊東という男、そんなに頭がよかったかな、そうして、その分立を近藤が素直に許したのも不思議じゃないか」
「しかし、そこが伊東の頭のよいところで、近藤といえどもこれには文句のつけられない名分を選んだのだ」
「どういう名分なんだ」
 これらの問答は主として、山崎譲と田中新兵衛との間に取りかわされている。机竜之助はただ黙って聞き役である。だが、語ると黙するとにかかわらず、三人の足は歩調を揃《そろ》えて絶えず京洛の方へ向って進んでいるのだが、行けども行けども捗《はかど》らないこと夥《おびただ》しい。やっぱり荒涼たる荒野原で、行けば行くほど「柳緑花紅」がついて廻る。

         四十四

 山崎譲は、相変らず能弁に新撰組後日物語を語りながら歩いている。
「もともと伊東は頭もよし、才もあるから、天下の形勢を近藤よりは一層広く見ている、近藤のように幕府一点張りの猪武者《いのししむしゃ》ではない、これは勤王攘夷で行かなければ事は為《な》せないと見たものだろう、その意見の相違から分立の勢いとなったが、今いう通り、新撰組そのものの組織が分立を許さない、そこで伊東が大義名分に立脚し、近藤といえども文句のつけようのない名分を発見して、それで分離の実を挙げたというのは、彼は策をめぐらして、泉涌寺《せんようじ》の皇家御陵墓の衛士を拝命することになったのだ。他のなんらの目的、理由、事情を以てするとも許されない新撰組の脱退も、皇室の御用勤務ということになると歯が立たない、さしもの近藤もその点に屈服して、ついに伊東甲子太郎を首領とする一派の新撰組脱退を許したのだ。彼等は喜んで一味と共に新撰組を去り、別に東山の高台寺へ屯所《とんしょ》を設けたのだ。そこで彼等は新撰組隊士でなく、御陵衛士という新しい肩書がついた、そうして、屯所が右の高台寺月心院に置かれたところから、人呼んでこれを高台寺組という、まず、この面《かお》ぶれを見給え」
と言って、山崎譲は、またふところから別の紙切れを取り出して示すと、二人は前と同様にして見ると、次のような文字がありありとうつる。
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御陵衛士 伊東甲子太郎
同    篠原泰之進
同    新井忠雄
同    加納※[#「周+鳥」、第3水準1-94-62]雄
同    橋本皆助
同    毛内監物
同    服部武雄
同    中西昇
同    鈴木三樹三郎
同    藤堂平助
同    内海二郎
同    阿部十郎
同    富山弥兵衛
同    清原清
岡    佐原太郎
同    斎藤一
[#ここで字下げ終わり]
 右の人名表を二人は、一通り眼を通してしまうと、紙切れを山崎の手に戻す。それを指頭でひねりながら、山崎が語りつづける――
「事の順序として、伊東甲子太郎という男はどういう男であったか、それを説明して置こう。伊東はもと鈴木大蔵といって常陸《ひたち》の本堂の家来なのだ、水戸の金子健四郎に剣を学んでいる、芹沢と同様、無念流だ、江戸へ出て深川の北辰一刀流、伊東精一に就いて学んでいるうちに、師匠に見込まれて伊東の後をついだのだが、腕もあるし、頭もよい、学問も出来る、なかなか今の時勢に雌伏して町道場を守っていられる人間でない、髀肉《ひにく》の歎に堪えられずにいるところへ、近藤が京都から隊士を募集に来た。近藤は、兵は東国に限るという見地から、わざわざ関東まで出向いて募集に来たのだ。その時に伊東が一味同志を率いて、これに参加することになったのだ。その一味同志というのが、この表にもある名前の大部分で、鈴木三樹三郎は彼の弟である、中西昇と、内海二郎はその代稽古をしていた、これに服部三郎兵衛、加納直之助、佐野七五三之助、篠原泰之進ら八人が打連れて、近藤ともろともに京都へ上って行った、それがそもそも縁のはじまり。その伊東以下がここに至って、前に言う通りの事情と名分とを以て、首尾よく新撰組と分離を遂げてしまった上に、新たに『御陵衛士』の名目を得て、立派に一隊を組織して盛んに同志を募りはじめた」
「それを黙って見ている近藤でもあるまい」
「その通り――伊東が芹沢と同じような運命に送られるか、或いは新勢力が旧組を圧倒して立つかの切羽《せっぱ》になった。そこへ持って来て、伊東が分離した時に、同時に分離して御陵衛士に入るべくして入らなかった一団がまだ新撰組のうちに残っている、その面《かお》ぶれを挙げてみると、佐野七五三之助、茨木司、岡田克己、中村三弥、湯川十郎、木幡勝之助、松本俊蔵、高野長右衛門、松本主税といったところで、これがどうかして脱退したいと、ひそかにその機を狙《ねら》っていたところへ、右の待遇問題が起って来た。近藤らは甘んじて幕府の金箔附きの御用党となる建前である、近藤としては、一土民から直参になり、あわよくば国主大名にも出世し兼ねまじき路が開かれたのだろうが、最初の同志浪人の面目は台なしだと、不平分子がこの機会にいきり出したのも無理のないところがある」
「そうだろう、浪人として集まったものの中には、浪人なることを本懐として、役人たることはいさぎよしとしないものが多々あったはずだ」
「その通り、我等は浪人として勤王攘夷を実行せんために、新撰隊に加盟したのだ、いまさら徳川の禄《ろく》を食《は》んで、その爪牙《そうが》となるわけにはいかぬ、新撰隊そのものが、そういうふうに変化した以上は、我々の隊に留まるべき大義名分は消滅したのだから、脱退して新たなる出処につくことが士の本分である、至急、我々の脱退を認めろ、というのが、これらの者の主張であって、これを右の直参待遇問題を機会にして、彼等が正面から近藤にぶっつかって行ったのだ」
「それを素直に聞くようなら、近藤も近藤でないし、新撰組も事実上の消滅だ。してその成行きはどうなった」
「右の十名のものは、右の意見を発表すると共に、袖をつらねて高台寺の伊東のところへ走ったが、それをそのまま受入れたのでは、高台寺組と新撰組が正面衝突になる、いや、高台寺組が新撰組へ公然宣戦布告ということになるから、さすがに伊東もそれは受入れない――投じて来た十名の者を諭《さと》して、諸君がそういう意志なら、僕のところへかけ込んで来るよりは、会津侯へ行ったらよかろう、何と言っても新撰組は会津が監督していることになるのだ、会津侯に向って、大義名分の理由により進退を決めるということを公明正大に申し述べて、立派に分離の手続を取るのがよろしい――こういうように伊東から諭されたので、それに従って会津侯へ請願書を出したが、会津でも扱いきれない。本来、新撰組は会津の監督とはいうものの、会津といえども、譜代といえども、新撰組に対しては監督というも名ばかりで、一目も二目も置いている、今の新撰組は厳然たる一大諸侯以上の存在である。そこで右の請願書を受取った会津の公用人は困ってしまって、これは当方の独断では取計らい兼ねるによって、一応近藤の方へも照会して、追って返事をするという挨拶であった――」
「そうだろうとも。会津といえども、宗家といえども、新撰組は扱いきれない、譜代なら譜代のように、大藩といえども処分のしようはあるけれども、新撰組は本来、骨からの浪人だ」
「そこで、会津から改めて近藤の方に旨を通ずると、近藤の返事がこうだ、さようなお取上げは一切御無用に願いたい、これと申すも、伊東あたりが背後にいて糸を引いてのことと思うが、こういうことが続発した日には、新撰組の致命傷だ、何はともあれ、一同の者はひとまず隊へ立ちかえるようによくおさとしが願いたいと。そこで会津からこの旨を脱退組に申し伝えると、彼等はまたそういうことをいまさら承知するはずがない――では明日改めてということになって、十人が打揃《うちそろ》ってまた会津屋敷まで出かけることになって、その前に伊東に会って打合せをすると、伊東が言うことには、まあ今日は会津屋敷へ行くのは止せ、相手が一筋縄ではいかない奴だから、どんな計略をしてないともわからぬ、それにひっかかりに行くのは危険千万だ、と言って留めてみたが、十人組はきかない、なあに、向うは会津屋敷だ、そう無茶なこともすまい、と十人のうち茨木司を先に立てて、佐野、富田、中村の都合四人が代表ということで会津屋敷へ歩いて行った。ところが仲介役、会津の公用人がなかなか出て来ない、主用で外出と言って容易に戻って来ないで、とうとう朝から夕方まで会津屋敷で待たされた。その時の代表の今の四人が奥室に進み、あとの六人は別室に控えていたが、いよいよ夕方まで待たされて、退屈を極めている途端を、不意にその四人の代表の後ろの襖からの電光の如く槍が突き出されて、四人とも芋刺し。思い設けぬ狼藉《ろうぜき》に、四人のものは深傷《ふかで》を負いながらも、刀を抜いてかかってみたけれどもすでに遅かった、僅かに相手を傷つけたのみで、四人もろともに田楽刺しになってその場に相果てたが、残る六人の者は主謀にあらず、罪状軽しとあって、新撰組へ連れ戻して追放の刑に処した――これがその近藤の取った復讐手段の序幕……」
 山崎譲が能弁に任せて、滔々《とうとう》として、ここまで語り去り語り来《きた》った時分にも、三人の足並みは更に変らないで、さっさと京洛をめざして進んでいたのだが、いつか知らぬうちに、茫々たる薄野原は早くも尽きてしまって、いつのまにか両側は櫛比《しっぴ》した町家になっている。そのまた町家が、いずれも熟睡時間だから、戸を閉しきって人っ子ひとり通るのではないから、みようによっては、薄野原の無人境よりはいっそう荒涼たるものに見える。清少納言は、火のなき火鉢というものをすさまじきものの一つに数えたが、もともと人家のないところに人家がないのは荒涼とはいえ、そこにまた自然の趣もあるというものだが、人家があって人がいない光景は、かえってすさまじいものがあると見られる。それに、これも今となって気がついたものだが、いつのまにか、闇の空は破れて皎々《きょうきょう》たる月がかがやいていようというものである。そこで、死の沈黙のような町並がいっそう荒涼たるものに見える。そのくせ、人家は行けども行けども無数に櫛比していることであり、その数の夥《おびただ》しいこと無数無限といってもよい。その中を三人が、例の歩調を揃《そろ》えて、さっさと歩み入るのでありましたが、前途に蒲団《ふとん》を着て寝ているような山があって、その山の真中に大文字の火が燃えている。どうしたものか、その辺で、山崎の能弁がぱったりと止まって、三人は無言で、その月下無人の市街路を、さっさと進んで行くのであります。
 路は早くも京洛の町並へ入っているのだ。当時の京都の夜はそれがあたりまえである。どんな勇者でも、京都の町を、深夜と言わず、宵《よい》のうちでさえも、独《ひと》り歩きなどをするものはないのだから、足は王城の下に入ったとはいえ、町は死の沈黙が当然なのであるにはあるが、それにしても、また一層のすさまじさで、歩調を揃えて行く三人の足どりが、どうも地についていない、いずれも宙に乗って走っているかと思われるくらいです。そのくらいだから、雲の飛ぶように、風の行くように、迅《はや》いことは迅いのだが、このまた町並というものも、どこまで行って、ドコで終るか知れないほど続けば続くものです。
 彼等三人は、さっさっと風を切って進みましたが、しばらく行って、山崎譲がようやく沈黙を破って、
「さて――田楽ざしの四人の者の死骸が……」
 その時に、道ばたの町並の町家の一角から人の声があって、きわめて低い声を発して、
「しばらく、しばらく、お控え下さい」
 六尺棒を持って、両刀をたばさんだ足軽|体《てい》のが一人現われて、
「しっ! しばらく、お控え下さい、殺陣があります」
 叱するが如く、警するが如く、低く、そうして力ある声。
 ほかに通行の人はないのだから、その低声の警告は、まさしく、この三人の歩調の旅人のために発せられたものに相違ない。
 それと聞いてみると、ともかくも一応は歩調を止めないわけにはゆかない。
 竜之助と、新兵衛と、譲とは、ぴたりと路中のある地点に歩みをとどめて突立ちました。六尺棒の軽格がそれに向って、足音を重くして静かに近よって来る。

         四十五

 六尺棒を携えた軽格の士が、行手を遮《さえぎ》って、
「しばし、お控え下さい、この先で、たった今、凄愴《せいそう》たる殺陣が行われつつありますから……」
「ナニ、殺陣が」
「して、何者と何者とが相闘っておりますか」
 田中と山崎の二人が、踏みとどまって反問すると軽格が、
「いや、だまってお控え下さい、近よるは危険千万だからおとどめ申すのだ」
「何を」
 田中新兵衛がいきり立って進んだと見ると、やにわに一拳を振り上げて、したたかに軽格の眉間《みけん》をナグリつけました。
「うーん」
と言った軽格は、のけ反《ぞ》ったかと思うと、もう姿が見えません。
 これはあまりに乱暴です。ではあるけれども、口よりも手の早い田中新兵衛ではやむを得ない。一拳の下に軽格を打ち倒して置いて、三人がまた歩調を同じうしてこの非常線を突破してしまいました。
 行手に殺陣があろうと、剣山があろうと、そんなことで踏みとどまるこの三人でないことは、わかる人にはわかっているが、軽格にはわかっていなかったらしい。むしろ、そういうところへ好んで行きたがる人格であることを知らなかったのは、六尺棒の不運であったと見えるが、それにしても一拳の打擲《ちょうちゃく》だけで、声も姿も消滅してしまったのはどうしたものか。
 かくて、三人が踏み破って行くと、背後から一隊の人がバラバラと走って来る物音、振返ってそれを見ると、月光かがやく抜身の槍をかざして、身を結束した壮士が四十余名――こなたを指して乗込んで来るのです。
「それ、来たぞ」
 何が来たのだかわからないが、三人はそれを避けて通すと、すれすれに通行したが、鞘当《さやあ》てを演ずることもなく、しばらくすると、これも前の軽格と同様、音も姿も夜霧の中に消えてしまいます。
 またしばらくすると、右手の小高いところに山門があって、そこばかりは特に明るい。見れば大きな高張提灯《たかはりぢょうちん》が門の両側に出ている。しかもそのいずれもの提灯が、菊桐の御紋章である。そうしてその光で見ると、門の下にかかっている一方の表札は、
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「高台寺月心院」
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 他の一方のは、まだ木の香も新しい表札で、
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「御陵衛士屯所」
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とありありと読める。これを山崎譲が指して、
「あれ見給え、あれが高台寺の月心院、伊東が牛耳をとって、御陵衛士隊の本部として固めているところだ」
「なるほど」
「あの菊桐の御紋章が物を言うのだ、あれにはさすがの近藤勇も歯が立たない」
「伊東の得意とするところだ――事ある毎に菊桐御紋章の提灯を持ち出すことが伊東の得意で、その提灯を見て切歯するのが近藤勇」
 高台寺はそのまま過ぎて、なお同じ歩調で進んで行くと、ようやく一つの橋のたもとへ出ました。どこまで続くと思った町並の単調が、ようやく高台寺の提灯で破られると、今度は、橋にかかって来ました。橋は京都の名物の一つ、ただし、何という橋かその名はわからない。
 木津橋とも読めれば、木屋橋と読めないこともない。また読みようによっては大津屋橋とも読めそうだ。その橋の南側のところが板囲いになっている。多分、近い幾日かの間に火事が起って、その焼跡だろうと思われる。

         四十六

「向うから人が来るよ」
 なるほど提灯をつけて橋を渡って、こちらへやって来るものがある。何者が来ようとも、遅疑するこちらではない。
 しかし、相当の距離もあるとおもったそのうち、だんだん近よるに従って、その提灯の紋所がいよいよはっきりして来る。それを見ると、菊桐の御紋章です。
 菊桐の御紋章は、たったいま山崎から説明を聞いたところのもの、さいぜん見たのは高張提灯、これは弓張のさげ提灯です。
 二人連れで、いずれも両刀を帯びた壮士である。前のが提灯を持って先導し、うしろのが、少しほろ酔い機嫌で、微吟をしながら歩いて来るのです。
 こちらの三人と、ぱったり行会った途端、山崎譲がまたしても、その御紋章の提灯をたずさえた先導の壮士に向って呼びかけました、
「おいおい、斎藤一《さいとうはじめ》ではないか」
「拙者は斎藤だが、そういう貴殿は誰だ」
「山崎だよ、山崎譲だよ」
「ああ、山崎か」
「斎藤、君はこんな夜中にドコへ行くんだ、しかも、もったいない御提灯などを提《さ》げこんで……」
「は、は、は、ドコへ行くものか、この御紋章の示す通りだ」
「高台寺の屯所《とんしょ》へ帰るのか」
「そうだ、そうだ」
「そうして、今頃まで、どこで何をしていた」
と山崎から推問されると、斎藤と呼ばれた壮士は、提灯を持ったまま橋の真中に踏みとどまり、
「七条の醒《さめ》ヶ井《い》の近藤勇のところへ招かれて行ったのだ」
「近藤のところへか――そうして、連れは誰だ」
 連れはだれだと山崎から問いかけられて、思い出したように振返って見ると、もうその先導して来た一人は橋の上にいない。
「おや」
と思って見直すと、提灯持をそこに置きはなして、自分はもう前へ進んで、橋の詰の方へ酔歩蹣跚《すいほまんさん》として行く姿が見える。その主《ぬし》も酔っているが、提灯の斎藤も少なからず酔っている。同行のものを遣《や》り過ごしてしまっても、自分はまだいい気で橋上に踏みとどまって山崎と話し込んでいる。山崎もまた、いい気で問いをかけている。
「連れのあれは誰だ」
 その後ろ影を見やって、斎藤にたずねると、斎藤が高く笑って、
「君も知ってるだろう、伊東だよ、伊東甲子太郎だよ」
「ははあ、あれが伊東だったか」
「今は、伊東は大将なんだぜ、御陵衛士隊長と出格して、新撰組の近藤と対立の勢いになったのだ」
「そうか、そうして君はいったい、どっちに属するのだ、新撰組か、御陵衛士隊か」
 山崎から訊問《じんもん》のように言われて、斎藤は、
「拙者か――拙者はもとより新撰組、だが目下は、都合があって御陵衛士隊に寓《ぐう》している」
「二股者《ふたまたもの》――」
と山崎から一喝《いっかつ》されたが斎藤、なかなかひるまない。
「いいや、二股ではない、昨日は新撰組にいたが、今日は御陵組だ、昨日は昨日、今日は今日、朝《あした》には佐幕となり、夕《ゆうべ》には勤王となる、紛々たる軽薄、何の数うることを須《もち》いん――」
 斎藤の語尾が吟声になったが、直ちに真面目に返って、山崎の耳に口を寄せると、
「近藤隊長の命で、御陵衛士隊へ間者に入ってるんだよ、僕が――伊東をはじめ高台寺の現状を、味方と見せて偵察し、巧みに近藤方に通知するのが拙者の任務だ」
「そうか」
 山崎も納得したらしい。この斎藤というのは名を一《はじめ》と言い、藤堂平助と共に、江戸以来、近藤方の腹心であったが、今度は藤堂と相携えて御陵隊へ馳《は》せ加わってしまった。藤堂の方は新撰組に何か不平があってしたのだから、それが本心であろうけれども、斎藤はあらかじめ近藤の旨を受けて、間者として高台寺へ入り込ませてあるのだという。その内状を山崎が聞いてなるほどと思う――
「して、こんなに遅く、伊東を案内してドコへ行ったのだ」
「それを話すと長いが、まあ聞いてくれ」
 これもいい気なもので、御紋章の提灯を橋の一角に安置して置いて、もっぱら山崎を話敵《はなしがたき》に取ろうというものです。

         四十七

 斎藤一の語るところによると、今晩この男が、御陵衛士隊長伊東甲子太郎を送って、ここのところを通りかかった事情は次の如くでありました。
 上述の如く、近藤の新撰組と、伊東を盟主とする御陵衛士隊とは、相対峙《あいたいじ》して形勢風雲を孕《はら》んだ。どのみち、血の雨を降らさないことには両立のできない体勢になっている。土方歳三が、ついに火蓋《ひぶた》を切って、
「高台寺の裏山へ大砲を仕かけて、彼等の陣営を木端微塵に砕き、逃げ出して来る奴を一人残らず銃殺すべし」
 それを近藤が抑えて、
「何と言ってもお場所柄、それは穏かでないから、まあ、おれに任せろ」
というわけで、なるべく周囲の天地を驚かさないようにして、なるべく最少の動揺を以て彼等|鏖殺《おうさつ》の秘計を胸に秘めつつ、事もなげに伊東へ使をやって、
「君等の隊と我々の隊との間に、戦場が開かれようとして、またしても京の天地に戦慄《せんりつ》が一つ加わった、そうでなくてさえ、人心極度におびえているところへ、また我々の同志討ちがはじまったとなっては、この上の人心動揺はかり難い、君等の奉仕する朝廷へ対しても恐れ多い次第だし、我等のつとむる幕府のためにも不利不益だ、おたがいの間のわだかまりは、先日切腹の茨木ら四人の犠牲で結論がついている、この上は笑って滞りを一掃しようではないか、それには、君と僕とが相和することが第一だ、君と僕とが相和して往来するようになれば、京中の上下は全く安心する、よってこの際、旧交を温めて、快く一夕を語り明かしたい」
 こういう意味で伊東へ交渉すると、伊東はそれを承諾した。伊東自身にも、その配下にも、あぶないという予感は充分にあったと思うが、近藤も男、おれも男である、こうまで言ってきているのに、行かないというは卑怯である、というわけで、近藤の招きに応じて今日、昼のうちから七条醒ヶ井の近藤の妾宅《しょうたく》へ出かけたのだ、吾輩がともをして。近藤は非常な喜び方で接待をする。先方には土方もいる。原田左之助もいる。会ってみれば皆、剣に生きる同志で、死生を誓った仲間だ。興は十二分に湧いて、款《かん》を尽して飲むほどに、酔うほどに、ついつい夜更けに及んでしまって、今こうして立ちかえるところなのだ。案ずるほどのことはない、極めて無事にこれから、高台寺月心院の屯所へ帰って快く、ぐっすりと寝込むばかりだ――
 こういうような事情を、斎藤一が山崎譲に向って、橋上で、自分も一杯機嫌に任せていい心持で語るのは、もはや、帰ることも忘れているような様子です。
 ところが一方、斎藤をここへ置き放して、一歩先に進んだ伊東甲子太郎は、これはまた斎藤よりも一層いい心持で、ぶらりぶらりと橋の袂《たもと》まで来ると、そこに一人の人間が立っているのを認めて、
「おい、誰だ、そこにいるのは」
 酔眼をみはって誰何《すいか》したが、返事がない。よって、わざわざ摺《す》りよるように近づいて、
「なんだ、机竜之助氏ではないか」
 竜之助と呼ばれた立像は、無言でうなずいているのを伊東が、
「何しに、こんな夜更けに、こんなところにいるのだ、芹沢の来るのを待っているのか、ははあ、山崎と同行か、山崎は今、あの通り、橋の上で斎藤と話している」
 伊東も振返って、再び橋上を見ると、立話に夢中な斎藤も、山崎も、てんでこちらのことは忘れてしまっているようです。
「して、貴殿はドコへ行かれる、先年、島原から行方不明になったとは聞いたが、どうして今ごろ、こんなところに何をしておられる」
 伊東甲子太郎は、こう言って、橋詰に立つ竜之助に向って問いかけたのは、酔い心地に旧知のことを思い出したのです。
 だが、竜之助は相も変らず柳の下に、立像のように突立っているだけで返事がない。酔っている伊東は、返事のないことにも頓着せずに、畳みかけて物を言う、
「今時、貴殿ほどに腕の出来るものを遊ばして置くという手はない、いったい、君は佐幕派かい、勤王派かい」
 駄目を押しても相手がいよいよ返事がない。伊東も木像を相手にする気にもなれず、
「そんなことは、ドチラでもかまわん、進退が自由だとすれば、僕のところへ来給え、ついこの上の高台寺月心院に、御陵衛士隊屯所というのがそれだ、貴殿が来てくれれば、死んだ芹沢も喜ぶに相違ない」
と言って誘いかけてみました。
 それでも、相手がウンともスンとも言わないので、伊東もあぐねて、もう相手にせず、そのまま橋詰を歩き出して、南側の、以前見た焼跡の板囲いのあたりまで来てしまいました。
 そうすると、ようやく長い立話を終った斎藤一が、菊桐御紋章の提灯をたずさえて、ここへ近づいて来て、
「いやどうも、旧友に出逢ったので、つい話が入り組んで……」
 申しわけたらたら近づいて来たのですが、山崎はついて来ない。橋上にも、橋詰にも、その姿を見ることができない。ドコへか消えてなくなったようなものです。

         四十八

 伊東と斎藤とは、そこでまた一緒になって、斎藤が御紋章の提灯をさげて先に立つと、伊東が、
「今そこで、拙者も変な人間に出会ったよ、一時は幽霊かと思ったがな」
「誰にですか」
「全く意外な男だ、それ吉田竜太郎――本名は机竜之助という、先年島原から行方不明になったあの男が、今、ひょっこりと、その橋詰の柳の木の下に立っている」
「机竜之助が――」
「あんまり不思議だから、話しかけてみたが、いっこう返答がない、音無しの構えだ」
「そうですか、それは珍しい人物に逢ったものですな、あの先生、島原であんな物狂いを起してから、トンと行方不明、人の噂《うわさ》では十津川筋で戦死したとも言われていたが、それではまだ生きていたのかな」
「たしかに、あの男だったよ、それから僕がいろいろ話しかけて、遊んでいるなら我々の屯所へ来いと言ったが、やっぱりウンだともツブれたとも言わぬ」
「はーて、それは珍しい、珍しいばかりじゃない、近ごろの掘出し物だ。本来、あの男は芹沢とよく、近藤とはよくない方だから、渡りをつければ、当然こっちへ来るべき男だ。惜しいことをした、今時こんなところにうろついているとすれば、きっと道に迷っているのです。道に迷っているとすれば、我々の屯所へ引こうではありませんか、あれを近藤方へ廻しては一敵国だ」
「僕もそう思って、しきりに誘いをかけてみたのだが、いっこう返事がない――しいてすると、ああいう性格の男だから、かえって事こわしと思って引上げたのだ」
「それは惜しいことです、ああいう人間をこの際、見落すという手はない、もう一ぺん引返して、さがしてみましょう、そうして僕からもひとつ説得を試みてみようではありませんか」
「それもそうだ、では、もう一ぺん引返してみよう、ついそこの橋詰の柳の木の下だよ」
 二人は、二三歩あとへ引返した。ほんの踵《きびす》をめぐらさずに、振り返れば済むだけの距離でしたが、振り返って見ると、もう、それらしい人はいずれにも見えない。いつのまにか消えてなくなっている。これより先、田中新兵衛の姿はもはや消えてなくなってしまっている。消えてなくなったのは、山崎譲と、田中新兵衛と、机竜之助だけではない、斎藤一もいつしか、橋上橋畔から姿を消してしまって、橋の真中から再び歩を踏み直しているのは伊東甲子太郎ひとりだけです。この男だけが例の酔歩蹣跚《すいほまんさん》として、全く、いい心持で、踊るが如くに踏んでいるその足許《あしもと》だけは変らない。

         四十九

 こうして、橋上を闊歩して戻る伊東甲子太郎の胸中は得意を以て満ちておりました。
 まず第一は、新撰組との絶縁が円満に通過したことです。新撰組を脱するには死を以てしなければならないのが、無事に解決したということに彼は大きな満足を感じていました。
 第二には、これによって幕府方と縁を断って、勤王方の一枚看板を掲げることができたというものである。もはや、眼のある人の目から見れば徳川幕府の時代ではない、勤王或いは別種の新勢力が取って代るべき時代が到来している。その新時代の新勢力の中へ、自分が一方の長として大手を振って合流することができる。勤王は自分の本来の持論であるのだ。
 第三には、右の意味に於て、自分には有力なる大藩や公卿のバックがある。それというのは、新撰組の兇暴に辟易《へきえき》しきっているこれらの諸藩閥が、一つには彼の勢力を殺《そ》ぎ、一つにはそれに対抗するために、別に一勢力を欲しがっている。自分がその適任と認められている。すなわち幕府方に近藤あるが如く、勤王方は自分を盛り立てようとする有力者が多い。
 それから、今日――から今晩にかけての会見についても、隊の者は不安がったが、自分はタカを括《くく》っていた。近藤といえども、もはや、おれの御機嫌を取らぬことには地位が不利益だということに気がついたのだ。いったい、近藤という男を、世間は兇暴一点張りの男とのみ見る奴が多いが、どうして、彼はなかなか眼さきも利《き》いているし、機を見るに敏な奴だ。不幸にして彼は有力な藩に生れなかったから、独力で今日の地位に驀進《ばくしん》しただけのもので、彼を西南の大藩にでも置けば、勤王方の有力なる一城壁をなす人物なのだ。だから、話せば話もわかる男で、存外、御《ぎょ》し易《やす》いのだ。なにも彼を強《し》いて敵に取るには及ばない。相当に追従して置いて、適当の時機に利用するもまた妙ではないか。
 伊東甲子太郎は、こんなことを胸中に考えて、ほくそ笑みつつ、ふと手を掲げて、己《おの》れの持った提灯をかざして見ると、また一段と肩身の広いことを感ずる。
 畏《かしこ》くもこの御紋章が物を言うのだ。こうして深夜、大手を振って、昨今の京洛を闊歩できるというのも、一つはこの御紋章が物を言うのだ。おれを快しとしない近藤一味といえども、この提灯に仇《あだ》をなすことはできない。
 かくて伊東は、満ちきった気分を以て橋を渡りきって、いよいよ再三問題の、南側の火事場あとの板囲いのところへさしかかったのであります。
 これより先、この板囲いの中には都合五人の黒いのが隠れておりました。
 抜身の槍の穂先が、尖々《せんせん》と月光にかがやいている。刀の白刃が、鞘《さや》の中で戞々《かつかつ》と走っている。五人十本の腕が、むずむずと手ぐすねで鳴っている。
 その間へ、別の方面の板囲いの透間を押分けて、また一つの黒いのが這《は》い込んで来ました。見ると、それが、さきほどの斎藤一です。忍び寄った斎藤は、この五人の鞘走りの一団へ近づいて、
「大石――」
「誰だ、斎藤か」
「来たぞ、来たぞ、いよいよ来たぞ」
と腹這いながら斎藤が言いました。
「来たか」
「それそれ、あの通り、得意満々たる千鳥足、御自慢の御紋章の提灯が何よりの目じるしだ、そらそら、今、そこをその板囲いの前を通る」
「御参《ござん》なれ!」
「やっ!」
と、大石鍬次郎が突き出した手練の槍、板囲いの間からズブリと出て、
「あっ!」
と、たしかに手答えがあった。表から見ると、無惨や伊東甲子太郎が、肩から首筋を貫かれて無念の形相《ぎょうそう》――血が泉のように迸《ほとばし》る。
「それ辰公――やっつけろ」
 首を突き貫かれて、よろめく伊東甲子太郎に向って、真先に板囲いの中から跳《おど》り出して斬ってかかったのは、元の伊東が手飼いの馬丁《べっとう》。
「隊長、済まねえが、わっしに首をおくんなさい」
「貴様は辰だな!」
 槍を掴《つか》んだ伊東の眥《まなじり》が裂ける。こいつは、先頃まで、自分が引立てて馬丁をさせて置いた辰公だ――八ツ裂きにすべき裏切者。
 痛手に屈せぬ伊東は、刀を抜いて、一刀の下にこの卑怯なる裏切者を斬って捨てたが、この時、板囲いの中から一斉に跳り出した五人の新撰組が、抜きつれて、手負いの伊東を取囲んで斬ってかかる。五人に囲まれて、走り且つ戦い、よろよろと御前通りの法華寺門前までよろけかかって来た伊東甲子太郎。そこに「一天四海」の石碑がある、その台石の上へ、よろけかかって腰を落しながら、
「奸賊《かんぞく》、新撰組! 呪《のろ》われろ」
と叫んで、槍創《やりきず》から吹き出す血汐《ちしお》を押え、うつぶしになったが、もうその時、息が絶えてしまっていた。
「存外、脆《もろ》かったなあ」
 五人のものもホッと一息つく。脆いのではない、この手でやられては、誰でも免《まぬが》れる由はあるまい。この運命を免れんとするには、最初、招きに応じて出なければよかったのだ。
 五人の者は、倒れ伏した御陵衛士隊長に近づいて、更におのおのこれに一刀ずつを加えて、更にその屍体《したい》を引摺り出して、そうして、程遠からぬ七条油小路の四辻へ引張り出して、大道へ置捨てにしました。
 しかも、その屍体には、念入りに御紋章入りの提灯を握り持たせてある。そうして置いて、一方には程近き町役人を叩き起して、
「御陵衛士の隊長が斬られている、伊東甲子太郎が殺されていると、高台寺へ向って知らせてやれ」
 町役人は慄《ふる》え上った。殺したのはこのやからであるにきまっている。そうして、このやからは新撰組のほかの者でありようはずがない。
 右の如くにして、伊東甲子太郎がせっかくの得意、これからという時、この途中にして殪《たお》れてしまいました。

         五十

 ところで、その晩のこと、月心院の屯所《とんしょ》の大きな火鉢を囲んで、伊東配下、御陵衛士隊の錚々《そうそう》たるもの、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、藤堂平助、毛内《もうない》有之助、富山弥兵衛、加納道之助の面々が詰めきって、宵のうちから芸術談に花が咲いている。
 話題に夢中になったこの時間、この連中にも、殺気が消えて、芸術心というものが集中する。
 いったい、これらの人々には、勤王と言い、佐幕というようなイデオロギーよりは、芸術という魅力によって生き、これによって死んで悔いないというのが持味《もちあじ》なのです。
「芸術」というのは、徳川期に於ては「武術」に限ることであって、明治後期以後に慣用されたようなキザな生ぬるいものではない。
 勤王と言わず、佐幕と言わず、これが中心に活躍した壮士はすべて芸術の士である。芸術に於て彼等は必ずしも大家ではなかったけれども、それを生命とすることに於て、大家以上の精進力を持っていた。たとえば長州に於ては、桂小五郎もこの芸術家であった。薩摩に於て、西郷は芸術家たるべくして、負傷と体質から、その主流には外《はず》れたが、桐野は異彩ある芸術家の一人である。幕府に於て、近藤勇以下はまたその芸術家である。
 明治維新の推進力は、この種の芸術家の手にあった。暗殺はその一部分の演出表現に過ぎない。
 従って、当時の本物の志士で、談ひとたび芸術に亘《わた》ると神飛魂走せぬものはない。その点にはおのずから一種の見識があって、断じて一歩も譲らない剣刃上の覚悟があると共に、他の長を認めてこれを公平に鑑別するの雅量をも相当に持っていたらしい。ドコの藩で、誰がいかなる剣を使うかということの詮索《せんさく》は、彼等の間では、専門学者の研究慾と同じような熱を持っている。
 これらの連中の長夜の談義は、はしなくその芸術のことに燃えて、諸国、諸流、諸大家、諸末流の批評、検討、偶語、漫言雑出、やがて江戸の講武所の道場のことに帰一合流したような形になって、自然、男谷《おたに》の剣術のことに及ばんとした時でありました。
 これをこのほど、将軍上洛の時の人名表によって見ると、
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  講武所 頭取
御使番次席   松平仲
御徒頭次席   一色仁左衛門
  同 砲術師範役
西丸御留守居格 下曾根甲斐守
        榊原鐘次郎
  同 剣術師範役
御先手格    男谷下総守
  同 槍術師範役
二丸御留守居格 平岩次郎太夫
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ということになっている。つまり武家の表芸術、剣と、槍とを代表して、この二人だけが将軍について京都へ来ている。以て天下の芸術の代表の大家たることを知るべしと言わなければならぬ。
 何と言っても、江戸が武将の幕府である限り、芸術の秀粋も江戸に鍾《あつ》まることは当然である。その江戸芸術の粋たるものは当時、講武所にあるということも、避け難い結論となっている。その講武所の剣術に於て、男谷が押えていたということも、一同に異論のないことになっている。芸術の士の常として、屈下するをいさぎよしとしない。独創を尚《とうと》ぶが故に、模倣と追従とを卑しみ悪《にく》むことは変りはないが、自然、乱調子の中にも、長を長とし、優を優とする公論の帰するところも現われようというものです。
 男谷の剣術に就いては、これらの壮士といえども、多くの異論を起し易《やす》くない。男谷と言えば、その次には、今時の今堀、榊原、三橋、伊庭、近藤というあたりに及ぶべきところだが、会談が溯《さかのぼ》って島田虎之助が出る。島田を言う次に、勝麟《かつりん》の噂《うわさ》が出るような風向きになりました。
 勝麟太郎の名は、剣術としての名ではない、当時は幕府有数の人材の一人として、何人《なんぴと》の口頭にも上るところの名でありました。単に芸術の士だけではない、これからの天下の舞台を背負って立つ幕府方の最も有力なる人材の一人として、誰人にも嘱望されている名前でしたが、ここでは単に芸術の引合いとしての勝麟の名が呼び出される。
「いったい、勝は剣術は出来るのかいなア」
「勝の剣術は見たことないよ」
「だが、勝に言わせると、おれは学問としても、修行としても、ロクなことは一つもしていないが、剣術だけは本当の修行したと言っているぜ」
「口幅《くちはば》ったい言い分だな、ドレだけ修行して、ドレだけ出来るのか、勝に限って、まだ人を一人斬ったという話も聞かない」
「若い時は、あれで盛んに道場荒しをやったそうだ」
「いったい、彼は何の流儀で、誰に就いて剣術を学んだのだ」
「師匠は島田虎之助だが、剣術にかけては島田より家筋が確かなんだ、勝はあれで男谷の甥《おい》に当るんで、勝の父なるものが、男谷の弟なんだ、それが勝家へ養子に来たのだから、れっきとした武術の家柄なのさ――いやはや、その勝の父なるものが、箸《はし》にも棒にもかかった代物《しろもの》ではない」
と一座の中の物識《ものし》りが、勝麟太郎の家柄を洗い立てにかかったのが、ようやく話題の中心に移ろうとする時でありました。
 そこへ、ひょっこりと姿を現わして、
「やあ諸君、おそろいだな」
と、抜からぬ面《かお》で言いかけたのが、斎藤一でありました。

         五十一

「斎藤が帰って来たぞ」
「一人で帰って来たぞ」
「隊長はどうした」
 その詰問に斎藤が騒がぬ体《てい》で答える、
「隊長は今そこまで来ている、僕は別に人を一人つれて、一足先に帰って来たよ」
「別な人とは誰だ」
「そこにいるよ」
「どこに」
「そこに」
「誰もいないではないか」
「いるよ、たった一人、そこに立っているのが見えないか」
「見えない――」
「幽霊ではないか」
「戯談《じょうだん》を言うな、机竜之助だぞ」
「机竜之助がどうしたというのだ」
 そこで、一同が水をかけられたような気分になったが、それもホンの通り魔、我にかえって見ると、斎藤一もいなければ、机竜之助なるものもいない。
 二人は簡単なあいさつ[#「あいさつ」に傍点]だけで、早くも奥の間に向って消えてなくなったものでしょう。
 これに芸術談の腰を折られた一同は、思い出したように、
「隊長の帰りが遅いではないか」
 これが、彼等の本来の不安であったが、その不安な気分を紛らわす間に、話の興が副産の芸術談に咲いてしまったのを、また取戻したという形です。
 そこへ、今度は、表門から、極度の狼狽《ろうばい》と動顛《どうてん》とを以て、発音もかすれかすれに、
「た、た、た、大変でござりまする、御陵衛士隊長様が殺されました、伊東甲子太郎先生が斬られて、七条油小路の四辻に、横たわっておいでになります、急ぎこの由を高台寺の屯所へお知らせ申せとのこと故に、町役一同、馳《は》せつけて参りました」
 これは、通り魔の叫びではない、まさしく現実の声で、屯所の壮士一同の不安の的を射抜いた驚報でしたから、
「スワ……」
と一度に色めき立って、押取刀《おっとりがたな》で駈け出そうとしたが、
「諸君、そのまま駈け出しては危険だ、裏には裏がある」
「もっともだ」
と、逸《はや》る心を押鎮めて、
「さてこそ新撰組の術中に陥ったのだ、これは隊長を殺した上に我々を誘《おび》き出そうとする手段か、しからずば隊長を殺したと称して、我々を乱す計略に相違ない、使者の者を留めて置いて、再応仔細を糾問《きゅうもん》すべし」
 使者というのは七条油小路の町役人であって、その申告は、目のあたり見て来ているのだから間違いはない。
「たしかに御陵衛士隊長伊東甲子太郎様が、何者にか殺害せられ、御紋章の提灯をお持ちになったままで、私共かかりの七条油小路四辻に無惨の御横死でござりまする」
「して、それを誰が見届けた」
「市中巡邏《しちゅうじゅんら》のおかかりからの仰せつけでござります」
「巡邏というのは新撰組のことだろう」
「左様でござります」
「して、誰が死体の傍らに見張りをしているか」
「はい、新撰組の方が、我々が張番をしているから、其方たち行って知らせて来いとの仰せでござります」
「よくわかった」
 新撰組が殺して、新撰組が張番をしているのである。隊長がその術中に落ちたのみではない、その手で、我々を誘き寄せようとの手段であることは、もう明らかだ。彼等の怒髪は天を衝《つ》き、闘争の血は湧き上った。
「諸君、これは尋常ではいけない、戦場に臨む覚悟を以て行かないと違う、甲冑着用に及ぶべし」
との動議を提出したのは、この組の中で、最も年少にして、最も剣道に優れた服部三郎兵衛でありました。
 誰もそれを卑怯だとも、大仰《おおぎょう》に過ぐるとも笑う者がない。
 事実、新撰組の京都に於ける勢力は、厳たる一諸侯の勢力であって、彼等には刀槍の表武器のほかに、鉄砲弾薬の用意も備わっているのである。その新撰組が計画しているところへ飛び込むには、戦場に赴《おもむ》くの覚悟があって至当なのであります。
 甲冑着用を申し出でた服部の提言を笑う者はなかったけれども、それに同じようとする者もない。それについて憮然《ぶぜん》たる態度で、そうして老巧――といってもみな三十前後ですが、比較的年長の輿論《よろん》は次のようなものです。
「いずれにしても、新撰組全体を相手に取るとすれば、我々同志の少数を以てこれに当ること、勝敗の数はあらかじめわかっている、十死あって一生がないのだ、要するに死後に於てとかくのそしりを残さぬようにする用意が第一――甲冑用意も卑怯なりとは言わないが、一同素肌で斬死《きりじに》の潔《いさぎよ》きには及ぶまい。彼等が隊長を殺し、彼等が張番をし、彼等が注進をよこして来た、言語道断の白々しさではあるが、表面一通りの体裁を立てて来たので、戦闘行為を仕掛けて来たというわけではないから、これに応ずるにひとまず礼を以て受け、しかして後に従容《しょうよう》として斬死の手段がよかろうではないか」
 一同が、この言に従って、素肌を以てこれに臨み、素肌を以て決死の応戦に覚悟をきめてしまいましたのです。
 ひとり主張者の服部三郎兵衛だけは、ひそかに、一室に於て、身に鎖をつけ、その上に真綿の縫刺しの胴着を着たのは、覚悟の上に覚悟のあることに相違ない。
 かくて以上七人が、打揃うて、別に一人の小者を従え、隊長の屍骸を収容して帰るべき一台の駕籠《かご》を二人の駕丁《かごや》に釣らせて、粛々として七条油小路の現場に出動したのは、慶応三年十一月十一日の夜は深く、月光《げっこう》晧々《こうこう》として昼を欺くばかりの空でありました。

         五十二

 神尾主膳が閑居してなす善か不善か知らないが、その楽しむところのものに書道がある、とは前に書きました。また、彼が何の発心《ほっしん》か、近ごろになって著述の筆をとりはじめて、自叙伝めいたものを書き出したということも前に書きました。
 それは、ほんの筆のすさびに過ぎなかったのを、この数日、非常なる熱心を以て、机に向って筆を走らせ出しました。今までは道楽としての著述であるが、最近は少なくとも生命を打込んでの筆の精進です。書きつつあるところに、何かしら憂憤の情を発して、我ながら激昂することもあれば、長歎息することもあるし、それほど丹精を打込んで書くからは、彼はこの書を名残《なご》りとし、生前の遺稿として、記念にとどめたいほどの意気組みが、ありありと見るべきものです。
 主膳のこのごろは、たしかに激するところがあるのです。著述の興味が進むということも、半ばその激情にかられて筆を進めるからです。かくて、ともかくも、神尾主膳が殿様芸ではなく、不朽――というほどでなくとも、著作の真意義に触れるような心の行き方に進みつつあるのも、不思議の一つでないということはありません。
 根岸の三ツ眼屋敷で、今日も、その著述の筆に耽《ふけ》っている。彼の著作は一種の生立ちの記ですが、書出しは祖先の三河時代の功業から起っている。そこに多くの自負があり、懐古が現われて来るのですが、同時に自らの現状との比較心が起って来ると、いよいよ平らかならざるものがある。それが激し来《きた》って、ついつい筆端に油の乗るようになる。さらさらと筆を走らせて、雁皮薄葉《がんぴうすよう》の何枚かを書きすまして、ホッと一息入れているところへ訪《おとな》うものがありました。
 シルクのお絹でもなく、芸娼院の鐚《びた》でもないが、神尾のところへ来るくらいのもので、左様に賢人君子ばかりは来ない。いずれも先日の悪食会《あくじきかい》の同人でした。
「何を書いているのだ」
「出鱈目《でたらめ》の思い出日記を書いているのだ」
「つれづれなるままに、日ぐらし硯《すずり》というわけかな」
「いや、閑《ひま》にまかせて自分の一代記を書いてみているところだ、今は先祖の巻を書き終えて、次は父の巻にうつろうとしているところだ、第三冊が母の巻、それから自分の放蕩三昧《ほうとうざんまい》の巻――自慢にもなるまいが、まあ一種の懺悔《ざんげ》かね」
「せっかく大いにやり給え」
「懺悔にはまだ早かろうがな、善悪ともに書き残して置いてみることは悪くない――閑のある時分に、興の乗った時に限ってやって置くことさ、書いているうちに興味が出てくるよ。自分も早く学者になって置けばよかった、学問をして置けば、新井君美《あらいきみよし》ぐらいにはなれたろう、戯作《げさく》をやらせれば馬琴はトニカク、柳亭ぐらいはやれる筆を持っていたのを、今まで自覚していなかった、我ながら惜しいものだ。時に……」
 神尾主膳は、筆を筆架に置いて、投げ出すように、悪食家に向って言いました。
「徳川の天下も、いよいよ駄目だそうだな」
「は、は、は、おかしくもない、今ごろそんなたわごとを言い出すのは、君ぐらいなものだろう」
「徳川の天下が亡びた時は、日本の政治はどうなるのだ」
「そんなことはわからん、そういうことは永井玄蕃《ながいげんば》のところへでも行って聞き給え」
「まあ、君たちの見るところを正直に話して見給え」
「十目の見るところ――言わぬが花だなあ、力めば時勢を知らないと言われるし、くさ[#「くさ」に傍点]せば主家を誹《そし》るに似たり」
「いよいよ駄目かい」
「匙《さじ》を投げるのはまだ早かろう」
「いや、実はおれも、徳川の禄を食《は》んで三百年来の家に生れた身であってみると、それを対岸の火事のようには見ていられない、今日まで自分本位で生きて来たが、とにかく、一朝主家興亡の秋《とき》ということになってみると、別に考えなけりゃならん」
「考えてどうなるのだ」
「どうかしなけりゃなるまい」
「どうしようがあるのだ、要するに徳川をこんなに弱くしたのも、君のような――君一人に背負わせるのも気の毒の至り、おたがいのような享楽主義者が続々と出たその結果と見なけりゃなるまい」
「それを言われると、おれも真剣に考えたくなる――人物がないなあ」
「人物がないよ――今の徳川には人物がないのに、西南のやつらにはウンとある、足軽小者の方面にまで、切れる奴がウンといる」
「旗本八万騎あって、人物が一人もないのかなあ」
「ないことはない、有る――必ず、隠れたるところには人物がある。あるには相違ないが、出頭の機会がない」
「今のところ誰々だ、旗本で目ざされている人らしい人は。人物らしい臭いのする奴は。少なくとも落日の徳川家を背負って立とうと、人も許し、自らも許すような奴が、一人や二人はありそうなものだなあ」
 神尾は投げ出したように、自暴的に言うけれども、今日のは自暴《やけ》の裏に、強烈な意地のようなものがひらめくを感ずる。
 こういう問いをかけられて、押しかけて来た二人の悪食家《あくじきか》も、おのずから切迫の真剣味につりこまれて、
「そうさなあ――今の旗本で、同じ徳川でも譜代大名は別物として、直参のうちで、人らしい人、人も許し、我も許そうというほどのものは――この時勢を重くとも軽くとも背負って立とうというほどの人物は――まあ、小栗又一《おぐりまたいち》か勝麟太郎、この二人あたりがそれだろうなあ」
「ナニ、小栗又一と、勝麟太郎、二人とも、それほどの人物か――」
「まあ、世間の評判はもっぱらそこにあるな。ところでこの二人がまた背中合せだから、やりきれないよ」
「どう背中合せだ」
「小栗は勝を好まず、勝は小栗に服しない、小栗は保守で、勝は進取――性格と主義がまるっきり違っている」
「そいつは困る、せっかく、なけなしの人材が二人ともに背中合せでは、さし引きマイナスになってしまう」
「悪い時には悪いもので、困ったものさ」
「で、小栗と、勝と、どっちが上だ、器量の恵まれた方に勢力を統制させずば、大事は托し難かろう」
「さあ、器量という点になってみると、我等には何とも言えない――おのおの、一長一短があってな」
「小栗はだいたい心得ているよ、あれは家柄がいい、ああいう家に生れた奴に、性質の悪い奴はないが、勝というのはいったい何だい、よく勝麟勝麟の名を聞くが、そんな名前は我々には何とも響かん――どんな家に生れた、どんな男なのだい」
「そりゃ、家柄で言えば小栗とは比較にならん、小栗は東照権現以来の名家だが、勝などは四十俵の小身、我々仲間に於ても存在さえ認められなかったのだが――近頃めきめきと頭角を上げて来た、事実、稀代の才物ではあるらしい」
「知りたいね、勝という男の素姓来歴を」
「待ち給え」
 悪食家の一人が、この時、首を傾けて、
「勝は四十俵の小普請《こぶしん》、石川右近の組下だが、勝の父は男谷《おたに》から養子に来たのだ」
「男谷の……講武所の剣術方の男谷精一郎(下総守)か」
「左様――彼、勝麟の父が、精一郎の弟になる。その親父《おやじ》について思い当ったよ、ほんとうに、それこそ箸にも棒にもかからぬ代物《しろもの》でな、それが晩年、何か発心して、いま君がやっているように、自叙伝を書いた、その写しを僕が持っているが、これはまた稀代な読物だ、こんな面白い本を今まで読んだことがない。面白いものを小説の稗史《はいし》のと人が言うけれど、あれは本来こしらえもの、大人君子の興味に値するほどのものではないが、勝のおやじの自叙伝に至ると、真実を素裸《すっぱだか》に書いて、そうして、あらゆる小説稗史よりも面白い、あの父にして、この子有りかな、古今無類、天下不思議の書物だ、参考のために君に貸すから読んで見給え、家に帰って、すぐに届けるよ、『夢酔独言』というのだ、実に何とも名状すべからざる奇書だ、あれを読むと、勝麟その人もわかる」
 悪食が口を極めて、推賞か示唆かを試むるものだから、神尾も、
「では、読ましてくれ」
と言わざるを得ませんでした。

         五十三

 その翌日、珍しくもよく約束を踏んで、悪食が、昨日約束の書物を届けてくれました。
 これが、当時評判の勝麟太郎の父親の自叙伝であるそうな。
 徳川の末世を背負って立つ男は、小栗か勝だろうと、かりそめにまでうたわれるくらいの人間と聞いて、これも珍しく神尾が勝のことを注意する気になりました。
 受けて見ると、その書の標題は前出の如く「夢酔独言」という。
 巻頭に書き添えた勝家の系図というのを見ると、神尾が軽蔑の気持になって、
「なあんだ、勝の先祖、元は江州坂田郡勝村の人、今川家に仕えて塩見坂に戦死、市郎左衛門に至り徳川氏に仕えて天正三年岡崎に移る――十八年江戸に移る、家禄知行蔵米合わせて四十一石、か」
 家禄知行蔵米合わせて四十一石、というところに神尾が憫笑《びんしょう》を浮べました。
 特に軽蔑したわけではあるまいが、そういう時に、冷笑が思わず鼻の先へ出るのがこの男の癖です。
 神尾の家柄は三千石でした。
「万治三庚子十二月卒百五歳――ふーむ」
 四十一石の高は軽きに過ぎるが、百五歳は多きに過ぎる。四十一石の小身は稀なりとはしないが、百五歳の長生はザラにあるものではない、と感心しました。
 その市郎左衛門時直から七代目で、左衛門太郎|惟寅《これとら》というのが即ち、今いう勝麟太郎の父になる。隠居してから夢酔と号した。この書の標題の「夢酔独言」の名のよって起るところである。なお仔細に系図書の割注を読んでみると、
「惟寅は男谷平蔵の三男、聟養子《むこようし》となって、先代元良の女信子に配す、嘉永三庚戍年九月四日卒四十九歳」とある。
 存外|夭死《わかじに》だが、実家の男谷というのはどんな家柄だ、四十一石の身上へ養子に来るくらいだから大した家柄ではあるまい、とやっぱり軽蔑を鼻の先に浮べて、神尾が男谷の系図書の方を読んでみて、
「ははあ、こいつはまた先祖は士分ではない、検校《けんぎょう》だ――検校が金を蓄《た》めて小旗本の株でも買ったんだろう」
 その男谷の初代、検校廉操院というのに、三人の男の子がある。その三男の平蔵にまた三人の男の子がある。なるほど、長男が彦四郎、次男が信友――ははあ、これが講武所の下総守だな、こいつの剣術はすばらしい、なんでも話に聞くと、上泉伊勢守《かみいずみいせのかみ》以来の剣術ということだ。して三番目が初名小吉――即ち左衛門太郎夢酔入道、今の評判の麟太郎の父なんだな。してみると男谷下総は麟太郎の伯父《おじ》になる、剣術の家柄というのも無理はない……と神尾がうなずきました。
 神尾の眼で見ては、四十石の家柄だの、検校出の士族だのというものは冷笑以外の何物でもないが、その一門に男谷下総守信友を有することが、侮り易《やす》からずと感じたのです。いかに不感性の神尾といえども、男谷の剣術だけは推服のほかなきことを観念しているところに、この男もまた、その道に相当の覚えがあるものと見なければなりません。
 そんなような前置で、神尾は「夢酔独言」の序文を読みはじめました。
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「鶯谷庵独言
おれがこの一両年始めて外出を止められたが毎日毎日|諸々《もろもろ》の著述物の本軍談また御当家の事実いろいろと見たが昔より皆々名大将勇猛の諸士に至るまで事々に天理を知らず諸士を扱うこと又は世を治めるの術治世によらずして或は強勇にし或はほう悪く或はおこり女色におぼれし人々一時は功を立てるといえども久しからずして天下国家をうしない又は智勇の士も聖人の大法に背く輩《やから》は始終の功を立てずして其身の亡びし例をあげてかぞえがたし――」
[#ここで字下げ終わり]
 読み出して神尾がうんざりせざるを得ません。文章がまずい上に、句読の段落も、主客の文法も、乱暴なものだ。だが、まずいうちに文字に頓着しない豪放の気象が現われないでもないから、神尾は辛抱して、
「文武を以て農事と思うべし」などと聖人のようなことを言い、「庭へは諸木を植えず、畑をこしらえ農事をもすべし、百姓の情を知る、世間の人情に通達して、心に納めて外へ出さず守るべし」などと教訓し、おれも支配から押しこめに会って、はじめは人を怨《うら》んだが、よく考えてみると、みんな火元は自分だと観念し、罪ほろぼしに毎晩法華経を読んで、人善かれと祈っているから、そのせいか、このごろは身体《からだ》も丈夫になって、家内も円満無事、一言のいさかいもなく、毎日笑って暮らしている、というようなことで――読んで行くと、自分は箸にも棒にもかからぬ放埒者《ほうらつもの》だが、これでも、人を助けたり、金銀を散じたりしたこともある、その報いか、子供たちがよくしてくれる、ことに義邦《よしくに》(麟太郎)は出来がよくて、孝心が深く、苦学力行しているから、おれは楽隠居でいられる、おれがような子供が出来た日には両親は災難だが、子孫みな義邦のように心がけるがいいぜ、と親心を現わしたところもあるし、女の子は幾つ幾つになったら、何を学べ彼《か》を習えと、たんねんに教えてみたり、そうかと思えば、序文は一つの懺悔になっていて、その結びが、
[#ここから1字下げ]
「子々孫々ともかたくおれがいうことを用ゆべし先にもいう通りなれば之《これ》までもなんにも文字のむずかしい事は読めぬからここにかくにもかなのちがいも多くあるからよくよく考えてよむべし天保十四年寅年の初冬於鶯谷庵かきつづりぬ
[#地から6字上げ]左衛門太郎入道
[#地から1字上げ]夢酔老」
[#ここで字下げ終わり]

         五十四

 さて、それから本文にうつると、冒頭に何か道歌のようなものを二三首、書きつけたばかりで、端的に自叙伝にうつっているから、文章はまずく、文字は間違いだらけだが、率直に人を引きつけるものがある。
 その、まずい文章と、読みがたい文字、句読も段落もない書流しにくぎりくぎりをつけて、神尾はともかくに独流に読みつづけて行きました。
 これはもちろん、夢酔老というなまぐさ隠居の筆として読まないで、不良青年|男谷小吉《おたにこきち》の行状記として読んだ方が面白い、と神尾が思いました。

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「おれほどの馬鹿な者は、世の中にもあんまり有るまいと思う故《ゆえ》に、孫やひこのために話して聞かせるが、よく不法者、馬鹿者のいましめにするがいいぜ。
おれは妾《めかけ》の子で、それを本当のおふくろが引取って育ててくれたが、餓鬼の時分よりわるさばかりして、おふくろも困ったということだ。
それと親父が日勤のつとめ故に、うちにはいないから、毎日毎日わがままばかり言うて強情ゆえ、みんながもてあつか[#「もてあつか」に傍点]ったと、用人の利平治という爺《じい》が話した」
[#ここで字下げ終わり]

 神尾は自分の事を書かれたように共鳴する点もある。

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「その時は深川の油堀というところにいたが、庭に汐入《しおい》りの池があって、夏は毎日毎日池にばかり入っていた。八ツに、おやじがお役所より帰るから、その前に池より上り、知らぬ顔で遊んでいたが、いつもおやじが池の濁りているを、利平爺に聞かれると、爺があいさつに困ったそうだ。おふくろは中風《ちゅうぶ》という病で、立居が自由にならぬ、あとはみんな女ばかりだから、バカにしていたずらのしたいだけをして、日を送った。兄貴は別宅していたから何も知らなんだ。

おれが五つの年、前町の仕事師の子の長吉という奴と凧喧嘩《たこげんか》をしたが、向うは年もおれより三つばかり大きい故、おれが凧を取って破り、糸も取りおった故、胸ぐらを取って切石で長吉の面《かお》をぶった故、唇をブチこわして血がたいそう流れ泣きおった。その時、おれが親父が庭の垣根から見ておって、侍を使によこしたから、うちへ帰ったら、親父がおこって、人の子に傷をつけて済むか済まぬか、おのれのような奴は捨て置かれずとて、縁の柱におれを括《くく》らして、庭下駄で頭をぶち破《わ》られた。今に、その傷が禿《は》げて凹《くぼ》んでいるが、月代《さかやき》を剃《そ》る時は、いつにても剃刀がひっかかって血が出る、そのたび、長吉のことを思い出す。
おふくろが、方々より来た菓子をしまって置くと、盗み出して食ってしまう故、方々へ隠して置くを、いつも盗む故、親父には言われず困った。いったいは、おふくろがおれを連れて来た故、親父にはみんな、おれが悪いいたずらは隠してくれた。あとの家来はおふくろを怖れて、おやじに、おれがことは少しも言うことはならぬ故、あばれ放題に育った。五月あやめを葺《ふ》きしが、一日に五度まで取って菖蒲打《しょうぶう》ちをした。利平おやじがあんまりだと言って、親父に言いつけたが、親父が言うには、子供は元気でなければ医者にかかる、病人になるわ、幾度も葺き直し、菖蒲をたくさん買入れよと言った故、利平も菖蒲がなくて困ったと、おれが十六七歳のとき話した。

このおやじも久しくつとめて兄の代には信濃の国までも供して行きおったが、兄貴が使った侍はみんな中間《ちゅうげん》より取立て、信州五年詰の後、江戸にて残らず御家人《ごけにん》の株を買ってやられたが、利平は隠居して株の金を貰って、身よりのところへかかりて、金を残らずそやつに取られてしまった。兄貴の家へ来たが、朋輩《ほうばい》が邪魔にしてかわいそうだから、おれが世話をして坊主にし、干ヶ寺に立たしてやったが、まもなくまた来たから、谷中の感応寺の堂番に入れて置いたが、ほどなく死におったよ、おれが三十ばかりの時だ。

おれ七つの時、今の家(勝)へ養子に来たが、その時、十七歳と言って、芥子坊主《けしぼうず》の前髪を落して、養子の方で、小普請支配|石川右近将監《いしかわうこんしょうげん》と、組頭の小屋大七郎に、初めて判元《はんもと》の時に会ったが、その時は小吉といったが、頭《かしら》が『歳は幾つ、名は何という』と聞きおった故、名は小吉、年は当年十七歳と言ったら、石川が大きな口をあいて、『十七には老《ふ》けた』とて笑いおった。その時は青木甚兵衛という大御番、養父の兄きが取持ちをしたよ。

おれが名は亀松という、養子に行って小吉となった。それから養家には祖母がひとり、孫娘がひとり、両親は死んだあとで、残らず深川へ引取り、祖父が世話をしたが、おれはなんにも知らずに遊んでばかりいた。

この年に、凧にて、前町と大喧嘩をして、先は二三十人ばかり、おれは一人で叩き合い、打ち合いせしが、ついにかなわず、干魚場《ほしかば》の石の上に追い上げられて、長竿でしたたか叩かれて散らし髪になったが、泣きながら脇差を抜いて切り散らし、所詮《しょせん》かなわなく思ったから、腹を切らんと思い、肌をぬいで石の上に坐ったら、その脇にいた白子屋という米屋が、留めて家へ送ってくれた。それよりして近所の子供が、みんなおれが手下になったよ、おれが七ツの時だ。

深川の屋敷も、度々《たびたび》の津浪《つなみ》ゆえ、本所へ屋敷替えを親父がして、普請の出来るまで、駿河台の太田姫稲荷の向う、若林の屋敷を当分借りていたが、その屋敷は広くって、庭も大そうにて、隣に五六百坪の原があったが、化物屋敷とみんなが話した。おれが八ツばかりの時に、親父がうちじゅうのものを呼んで、その原に人の形をこしらえて、百ものがたりをしろと言った故、夜みんなが、その隣の屋敷へ一人ずつ行った、あの化け物の形の袖へ名を書いた札を結えつけて来るのだが、みんなが怖《こわ》がった。オカしかった。いちばんしまいにおれが行く番であったが、四文銭を磨いて人の形の顔へ貼りつけるのだが、それがおれが番に当って、夜の九ツ半ぐらいだと思ったが、その晩は真暗で困ったがとうとう目を附けて来たよ、みんなに賞《ほ》められた。

おれが養家(勝家)の母どのは、若い時から意地が悪くて、両親もいじめられて、それ故に若死をしおったが、おれを毎日毎日いじめおったが、おれもいまいましいから、出放題に悪態をついたが、その時、親父が聞きつけて憤《おこ》って、年も行かぬに母親に向って、おのれのような過言を言う奴はない、始終が見届けられないとて、脇差を抜いておれに打ちつけたが、清《きよ》という妻はあやまってくれたっけ。

翌年、ようよう本所の普請が出来て、引越したが、おれがいるところは表の方だが、はじめて母どのといっしょになった、そうすると毎日やかましいことばかり言いおったから、おれも困ったよ、ふだんの食物も、おれにはまずいものばかり食わして、憎い婆あだと思っていた。おれは毎日毎日、外へばかり出て、遊んで喧嘩ばかりしていたが、ある時、亀沢町の犬が、おれの飼って置いた犬と食い合って、大喧嘩になった。その時は、おれが方は隣の安西養次という十四ばかりのが頭《かしら》で、近所の黒部金太郎、同兼吉、篠木大次郎、青木七五三之助と、高浜彦三郎に、おれが弟の鉄朔というのと八人にて、おれの門の前で、町の野郎たちと叩き合いをした。亀沢町は緑町の子供を頼んで、四五十人ばかりだが、竹槍を持って来た、こちらは六尺棒、木刀、しないにてまくり合いしが、とうとう町の奴等を追い返した。二度目には向うには大人が交って、またまた叩き合いしが、おれが方が負けて――八人ながら隣の滝川の門の内へはいり、息をついたが、町方では勝ちに乗って、門を丸太にて叩きおる故、またまた八人が一生懸命になって、今度はなまくら脇差を抜いて、門をあけて残らずきり立てしが、その勢いに怖れて、大勢が逃げおった。こちらは勝ちに乗ってきり立てしも、おれが弟は七ツばかりだが強かった、一番に追いかけたが、前町の仕立屋の餓鬼に弁治というやつが引返して来て、弟の手を竹槍にて突きおった、その時、おれが駈けつけて、弁治の眉間《みけん》を切ったが、弁治めが尻餅をつき、溝《どぶ》の中へ落ちおった故、つづけ打ちに面《つら》を切ってやった。前町より子供の親父らが出て来るやら大騒ぎ、それから八人がかちどきを揚げて引返し、滝川のうちへはいりたがいによろこんだ。その騒ぎを親父が長屋の窓より見ていて、おこって、おれは三十日ばかり目通り止められ押込めに逢った、弟は蔵の中へ五六日おしこめられた」
[#ここで字下げ終わり]

 神尾主膳は読んで行くうちに、自分の幼年時を、鏡で見せつけられるようなところがないではない。おれは、これらの子供らより驕《おご》った家庭に育ったが、やっぱり気分に於ては、これに譲らないようだ。よし、それではひとつ、おれもこの伝によって、幼年時代のいたずら物語を書いてみてやろう、という気分にまでなりましたが、読みかけたこの書物を、さし置く気にもなれません。全く面白い読物だと心を引かれたのでしょう。

         五十五

 神尾主膳は、なお同じ書物を読み進んで行くと、今までは夢酔老の幼年時代、これからが修業時代の思い出になる。

[#ここから1字下げ]
「九ツの時、養家の親類に鈴木清兵衛という御細工所頭《おさいくどころがしら》を勤める仁《じん》、柔術の先生にて、一橋殿、田安殿はじめ、諾大名大勢弟子を持っている先生が、横網町というところにいる故、弟子になりに行くべしと親父が言う故、行ったが、二五八十の稽古日にて、はじめて稽古場へ出てみた。はじめは遠慮をしたが、だんだんいたずらを仕出し、内弟子に憎まれ、不断えらき目に逢った。ある日稽古場に行くと、はんの木馬場というところにて、前町の子供らの親共が大勢集まって、おれが通るを待っている、一向に知らずして、その前を通りしが、それ男谷のいたずら子が来た、ぶち殺せと罵《ののし》りおって、竹槍棒ちぎりにて取巻きしが、直ちに刀を抜き、振払い振払い馬場の土手へ駈け上り、御竹蔵《おたけぐら》の二間ばかりの沼堀へはいり、ようやく逃げ込みしが、その時羽織袴が泥だらけになりおった。それから御竹蔵番の門番はふだん遊びに行く故に、いちいち世話をしてくれたが、うちへ帰るきがいがある故、頼んで送ってもらった。大きな目に逢った。その後は二月ばかり亀沢町は通らなんだが、同町の縫箔屋《ぬいはくや》の長というやつが、門の前を通りおったから、なまくら脇差にて叩きちらしてやったが、うちの中間《ちゅうげん》がようようとめて、長のうちへ連れて行って、はんの木馬場の仕返しの由をその野郎の親によく言ったとさ。それよりは亀沢町にて、おれに無礼をする者はなくなったよ。

柔術の稽古場で、みんながおれを憎がって、寒稽古の夜つぶしということをする日、師匠から許しが出て、出席の者が食い物をてんでんに持寄って食うが、おれも重箱へ饅頭《まんじゅう》を入れて行ったが、夜の九ツ時分になると、稽古を休み、皆々、持参のものを出して食うが、おれも旨《うま》いものを食ってやろうと思っていると、みんなが寄って、おれを帯にて縛って、天井へくくし上げおった、その下で残らず寄りおって、おれが饅頭まで食いおる故、上よりしたたかおれが小便をしてやったが、取りちらした食いものへ小便がはねおった故、残らず捨ててしまいおったが、その時はいいきびだと思ったよ。

十の年の夏、馬の稽古をはじめたが、先生は深川菊川町両番を勤める一色幾次郎という師匠だが、馬場は伊予殿橋の、六千石取る神保磯三郎という人の屋敷で稽古をするのだ。おれは馬が好きだから、毎日毎日門前乗りをしたが、二月目に遠乗りに行ったら、道で先生に逢って困ったゆえ横町へ逃げ込んだ、そうすると先生が、次の稽古に行ったら叱言《こごと》を言いおった、まだ鞍《くら》も据《すわ》らぬくせに、以来は固く遠乗りはよせと言いおった故、大久保勤次郎という先生へ行って、責め馬の弟子入りしたが、この師匠はいい先生で、毎日木馬に乗れとて、よくいろいろ教えてくれたよ。毎日五十鞍乗りをすべしとて、借馬引にそう言って、藤助、伝蔵、市五郎という奴の馬を借り、毎日毎日、馬にばかりかかっていたが、しまいには馬を買って藤助に預けて置いたが、火事には不断出た。一度、馬喰町の火事の時、馬にて火事場へ乗込みしが、今井帯刀という御使番にとがめられて一散に逃げたが、本所の津軽の前まで追いかけおった、馬が足が達者ゆえ、とうとう逃げ了《おお》せた。あとで聞けば、火事場は三町手前よりは火元へ行くものではないということだよ。
一度、隅田川へ乗り行きしが、その時は伝蔵という借馬引の馬を借り乗ったが、土手にて一散に追い散らしたが、どこのハズミか力皮が切れて、鐙《あぶみ》を片っぽ、川へ落した、そのまま片鐙で帰ったことがある。

十一の年、駿河台に鵜殿甚左衛門《うどのじんざえもん》という剣術の先生がある、御簾中様《ごれんじゅうさま》の御用人を勤め、忠也派一刀流にて銘人とて、友達がはなしおった故、門弟になったが、木刀の型ばかりを教えおる故、いいことに思ってせいを出しいたが、左右とかいう伝受をくれたよ。その稽古場へ、おれが頭《かしら》の石川右近将監の息子が通いしが、おれの高やなにかをよく知っている故、大勢の中で、おれが高はいくらだ、四十俵では小給者だと言って笑いおるが不断の事ゆえ、おれも頭の息子ゆえ内輪にして置いたが、いろいろ馬鹿にしおる故、ある時木刀にて思うさま叩き散らし悪態をついて泣かしてやった。師匠にヒドク叱られた。今は石川太郎右衛門とて御徒頭《おかちがしら》をつとめているが、古狸にて今に何にもならぬ、女をみたような馬鹿野郎だ。

十二の年、兄貴が世話をして学問をはじめたが、林大学頭《はやしだいがくのかみ》のところへ連れて行きおったが、それより聖堂の寄宿部や、保木巳之吉と佐野郡衛門という肝煎《きもいり》のところへ行って、大学を教えてもらったが、学問は嫌い故、毎日毎日、桜の馬場へ垣根をくぐりて行って、馬ばかり乗っていた。大学五六枚も覚えしや、両人より断わりしゆえ嬉しかった」
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 先生から見放されて、嬉しかったという奴もなかろう。こういう出来の悪い奴の子に、麟太郎のような学問好きが出来たのも不思議と、神尾が思って読みました。

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「馬にばかり乗りし故、しまいには銭がなくって困ったから、おふくろの小遣《こづかい》またはたくわえの金を盗んで使った。(そろそろ盗みがはじまったよと神尾がザマを見ろという面《かお》をする。)

兄貴がお代官を勤めたが、信州へ五カ年詰めきりをしたが、三カ年目に御機嫌伺いに江戸へ出たが、その時おれが馬にばかりかかっていて、銭金を使う故、馬の稽古をやめろとて、先生へ断わりの手紙をやった、その上にておれをヒドク叱って、禁足をしろと言いおった、それから当分うちにいたが困ったよ。

十三の年の秋、兄が信州へ行ったからまたまた諸方へ出あるき、おれのばばあどのがやかましくて(神尾|曰《いわ》く、なにばばあがやかましいものか、これで可愛がられるか)おれが面《かお》さえ見ると叱言《こごと》を言いおる故、おれも困って、しまいには兄嫁に話して知恵を借りたが、兄嫁も気の毒に思って、親父へ話してくれたが、そこである日親父がばばあどのへ言うには、小吉もだんだん年をとる故、小身者は煮焚《にた》きまで自分で出来ぬと身上をば持てぬものだから、以来は小吉が食物などは、当人へ自身にするようにさっしゃるがよいと言ってくれる故、なおなおおれがことはかまわず、毎日毎日自身に煮焚きをしたが、醤油には水を入れて置くやら、さまざまのことをするから、心もちが悪くてならなかった。よそより菓子何にてももらえば、おれには隠してくれずして、おれが着物は一つこしらえると、世間へ吹聴《ふいちょう》して、悪くばかり言い散らし、肝《きも》が煎《い》れてならなかった。祖父に言うとおればかり叱るし、こんな困ったことはなかった」
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         五十六

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「十四の年、おれが思うには、男は何としても一生食われるから、上方あたりへ駈落《かけおち》をして一生いようと思って、五月二十八日に股引《ももひき》をはきてうちを出たが、世間の中は一向知らず、金も七八両盗み出して、腹に巻き附けて、まず品川まで道を聞き聞きして来たが、なんだか心細かった。それからむやみに歩いて、その日には藤沢へ泊ったが、翌朝早く起きて宿を出たが、どうしたらよかろうとぶらぶら行くと、町人の二人連れの男があとから来て、おれにドコへ行くと聞くから、当てはないが上方へ行くと言ったら、わしも上方まで行くから一所に行けと言いおった故、おれも力を得て、一所に行って小田原へ泊った。その時あしたは関所だが手形は持っているかと言う故、そんなものは知らぬと言ったら、銭を三百文出せ、手形は宿でもらってやると言うから、そいつが言う通りにして関所も越えたが、油断はしなかったが、浜松へとまった時は、二人が道々よく世話してくれたから、少し心がゆるんで、裸で寝たがその晩に、着物も、大小も、腹にくくしつけた金も、みんな取られた。朝眼がさめた故、枕元を見たらなんにもないから肝がつぶれた。宿屋の亭主に聞いたら、二人は尾張の津島祭に間に合わないから先へ行くからあとより来いと言って立ちおったと言うから、おれも途方にくれて泣いていたら、亭主が言うには、それは道中の胡麻《ごま》の蠅というものだ、わたしは江戸からのお連れと思ったが、なんしろ気の毒なことだ、ドコを志して行かしゃるとて真実に世話をしてくれたが、言うには、ドコという当てはないが上方へ行くのだと言ったら、なんしろ襦袢《じゅばん》ばかりにては仕方がない、どうしたらよかろうととほうにくれたが、亭主がひしゃく[#「ひしゃく」に傍点]一本くれて、これまで江戸っ児がこの街道にては、ままそんなのがあるから、お前もこのひしゃく[#「ひしゃく」に傍点]を持って浜松の御城下在とも、一文ズツ貰《もら》って来いと教えたから、ようよう思い直して、一日方々もらって歩いたが、米や麦五升ばかりに、銭百二三十文もらって帰った。亭主はいいものにてその晩は泊めてくれた。翌日まず伊勢へ行って身の上を祈って来たがよかろうと言う故、貰った米と麦とを三升ばかりに銭五十文ほど亭主に礼心にやって、それから毎日毎日乞食をして伊勢大神宮へ参ったが、夜は松原または川原、或いは辻堂へ寝たが、蚊にせめられてロクに寝ることもできず、つまらぬざまだっけ。
伊勢の相生の坂にて、同じ乞食に心やすくなり、そいつが言うには、竜太夫という御師《おし》のところへ行って、江戸品川宿の青物屋大阪屋のうちより抜参りに来たが、かくの次第ゆえ泊めてくれろと言うがいい、そうすると向うで帳面を繰りて見て泊めると教えてくれた故、竜太夫のうちへ行って、中の口にてその通りに言ったら、袴《はかま》など着たやつが出て来て、帳面を持って来て繰り返し繰り返し見おって、奥へ通れと言うから、こわごわ通ったら、六畳敷へおれを入れて、少したってその男が来て、湯へはいれと言うから、久しぶりにて風呂へはいった。あがると粗末だが御膳を食えとて、いろいろうまい物を出したが、これも久しく食わないから、腹いっぱいやらかした。少し過ぎて竜太夫は狩衣《かりぎぬ》にて来おった。ようこそ御参詣なされたとて、明日は御ふだを上げましょうと言う故、おれはただはいはいと言って、おじぎばかりしていた。それから夜具かやなど出して、お休みなされと言うから寝たが、心持がよかった。翌日はまた御馳走をして御礼をくれた。そこでおれが思うには、とてものことに金を借りてやろうと、世話人へそのことを言ったが、先の取次をした男が出て来て、御用でござりますかと言うから、道中にて胡麻の蠅のことを言い出して、路銀を二両ばかり貸してくれるように頼むと言ったら、竜太夫へ申し聞かすとて引込んだ。少し間が過ぎて、おれに言うには、太夫方も御覧の通り大勢様の御逗留《ごとうりゅう》ゆえ、なかなか手廻り申さぬ故、あまり軽少だがこれを御持参下さるようとて一貫文くれた。それをもらって早々逃げ出した。それから方々へ参ったが銭はあるし、うまいものを食い通したから、元《もと》の木阿弥《もくあみ》になった。竜太夫を教えてくれた男は江戸神田黒門町の村田という紙屋の息子だ。それから、ここで貰い、あそこで貰い、とうとう空に駿河の府中まで帰った……」
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 野郎とうとう、胡麻の蠅にしてやられ、乞食から、食い逃げ、借倒しまで功が積んだな、と神尾が、甘酸っぱい面《かお》をして読み進みました。

         五十七

 しかし、天性図々しいところがなければこうはいかぬ、向うが折入ったところを図に乗るのは一つの手だ、あんまり賞《ほ》めた話ではないが、まあ、一つの自業自得さ、と、いい気持で神尾が読み進む「夢酔独言」――
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「何を言うにも襦袢《じゅばん》一枚、帯は縄を締め、草鞋《わらじ》をいつにも穿《は》いたこともねえから、ざまの悪い乞食さ。
府中の宿《しゅく》のまん中ころに、観音かなにかの堂があったが、毎晩、夜はその堂の縁の下へ寝た。或る日、府中の城の脇の、御紋附を門の扉につけた寺があるが、その寺の門の脇は、竹藪《たけやぶ》ばかりのところだが、その脇に馬場の入口に、石がたんと積んであるからそこへ一夜寝たが、翌日朝早く、侍が十四五人来て、借馬のけいこをしていたが、どいつもどいつも下手だが、夢中になって乗っておるから、おれが目を覚して起き上ったら、馬引どもが見おって、ここに乞食が寝ておった、ふてえ奴だ、なぜ囲いの内へへえりおったとてさんざん叱りおったが、いろいろわび言してその内へかがんでいて馬乗りを見たが、あんまり下手が多いから笑ったら、馬喰《ばくろう》どもが三四人で、したたか[#「したたか」に傍点]おれをブチのめして、外へ引きずり出しおった。おれが言うには、みんな下手だから下手だと言ったが悪いか、と大声でどなったらば、四十ばかりの侍が出おって、これ乞食、手前はドコの奴だ、こぞうのくせに、侍の馬乗りをさっきからいろいろと言う、国はドコだ言え言えというから、おれが国は江戸だ、それに元から乞食ではないと言ったら、馬は好きかという故、好きだと言ったら、一鞍《ひとくら》乗れと言いおる故、襦袢一枚で乗って見せたら、みんな言いおるには、このこぞうめはさむらいの子だろうと言いおって、せんの四十ばかりの男が、おれの家へ一しょに来い、飯をやろうと言うから、けいこをしまい、帰る時、その侍のあとについて行ったら、町奉行屋敷の横町の冠木門《かぶきもん》の屋敷へはいり、おれを呼んで、台所の上り段で、したたか飯と汁とを振舞ったが、旨《うま》かった。その侍も奥の方で、飯を食ってしまって、また台所へ出て来て、おれの名、また親の名を聞きおるから、いいかげんに嘘を言ったら、なんにしろ、ふびんだからおれが所へいろとて、単物《ひとえもの》をくれた、そこの女房もおれが髪を結ってくれた、行水をつかえとて湯を汲んでくれるやら、いろいろと可愛がった。いま考えると与力《よりき》と思うよ。その侍は肩衣《かたぎぬ》をかけてドコへ行ったか夕方うちへ帰った、夜もおれを居間へ呼んで、いろいろ身の上のことを聞いたから、町人の子だと言って隠していたら、いまに大小と袴《はかま》をこしらえてやるから、ここにて辛抱しろと言いおる。六七日もいたが、子のようにしてくれた。おれが腹の中で思うには、こんな家に辛抱していてもなんにもならぬから、上方へ行きて公家《くげ》の侍にでもなる方がよかろうと思いて、或る晩、単物、帯も畳んで寝所に置いて、襦袢を着て、そのうちを逃げ出し、安倍川の向うの地蔵堂にその晩は寝たが、翌日夜の明けないうちに起きて、むやみに上方の方へ逃げたが、銭はなし、食物はなし、三日計りはひどく困ったが、その夜五ツ時分に、堂の縁がわに、どんと音がする故、その音に夢がさめたが、人がいる様子ゆえ、咳《せき》ばらいをしたら、その人が、そこに寝ているは何だと言いおるから、伊勢参りだと言ったら、おれはこの先の宿へばくち[#「ばくち」に傍点]に行くが、この銭を手前かついで行け、お伊勢様へお賽銭《さいせん》を上げるからと言いおる故、起き出でてその銭をかついで行くと、たしか鞠子《まりこ》の入口かと思った、普請小屋へはいりしが、おれもつづいて入りしが、三十人ばかり車座になりおって、おれを見て、その乞食めは、なぜここへはいったと親方らしい者が言うと、連れの人が言う、こいつは伊勢参りだから、おれが連れて来たという、そんなら手前は飯でも食って待ってろ、いまにお伊勢様へ御初穂《おはつほ》を上げるからとて、飯酒をたくさんにふるまった。少し過ぎると連れて来た人が銭を三百文ばかり紙に巻いてくれた、ほかのものも、五十、百、二十四文、十二文てんでんにくれたが、九百ばかり貰った。みんなが言いおるには、はやく地蔵様へ行って寝ろと言う故、礼を言うて、この小屋を出ると、ひとりが呼び留めて、大きな握飯《むすび》を三ツくれた。嬉しくってまた半道ばかりのところを戻って、地蔵へ賽銭上げて寝たが、それより、ぶらぶら一文ずつ貰い、四日市まで行くと、先ごろ竜太夫を教えた男に逢った。その時の礼を言って、百文ばかり礼にやったらば、その男は嬉しがって、久しく飯を腹いっぱい食わぬから、飯を食おうとて、二人で飯を買って、松原に寝ころんで食った。別れてよりたがいにいろいろの目に逢った咄《はなし》をして、その日は一所に松原に寝たり、乞食の交りは別なものだ。それから二人言い合って、またまた伊勢へ行った。
この男は四国の金比羅《こんぴら》へ参るとて山田にて別れ、おれは伊勢に十日ばかりぶらぶらしていたり、だんだん四日市の方へ帰って来たが、白子の松原へ寝た晩に、頭痛強くして、熱が出て苦しみしが、翌日には何事も知らずして松原に寝ていたが、二日ばかりたって漸く人ごころが出て、往来の人に一文ずつ貰い、そこに倒れて七日ばかり水を飲んで、ようよう腹をこやしていたが、その脇に半町ばかり引込んだ寺があったが、そこの坊主が見つけて、毎日毎日、麦の粥《かゆ》をくれた故、ようよう力がついた。二十二三日ばかり松原に寝ていたが、坊主が菰《こも》二枚くれて、一枚は下へ敷き、一枚はかけて寝ろと言った故、その通りにしてぶらぶらして日を送ったが、二十三日目ごろから足が立った故、大きに嬉しく、竹きれ杖にして、少しずつ歩いたが、それから三日ばかりして、寺へ行って礼を言ったら、大事にしろとて、坊主の古い笠と、草鞋《わらじ》とをくれた故、一日に一里ぐらいずつ歩いたが、伊勢路では火で焚いたものは一向食わぬ、生米をかじりて歩きたり、病後ゆえに腹がなおらぬから、またまた気分が悪くって、ところを忘れたが、ある河原の土橋の下に、大きな穴が横に明いているから、そこへ入って五六日寝ていた。或る晩、若い乞食が二人来て、おれに言うには、その穴は先日まで神田の者が寝所にしていたところだが、どこへか行きおった故に、おらが毎晩寝るところだ、三四日|稼《かせ》ぎに出た故、手前に取られて困ると言う故、病気の由を言ったら、そんなら三人にて寝ようとぬかして、六七日一緒にいたが、食い物には困り、どうしようと二人へ言ったら、伊勢にては、火の物は大神宮様が外へ出すを嫌いだからくれぬ故、在郷へ行ってみろと言うから、杖にすがって、そこより十七八町わきの村方へはいったら、番太郎が六尺棒を持って出て、なぜ村へ来た、そのために入口に札が立ててある、このべらぼうめがとぬかして、棒でブチおったが、病気ゆえに、気が遠くなって倒れた、そうすると、足にて村の外へ飛ばしおった故、腹這《はらば》うようにして漸く橋の下へ帰って来たら、二人がどうしたと言うから、そのしだいを言ったら、手前は米はあるかと言うから、麦と、米と、三四合もらいだめを出して見せたら、そんならおれが粥子《かゆこ》を煮てやろうと言って、徳利のかけを出して、土手のわきへ穴を掘って、徳利へ麦と米と入れて、水を入れ、木の枝を燃して、粥を拵《こしら》えてくれたから、少し食ったあとは礼に二人に振舞った。それよりおれも古徳利を見つけ、毎日毎日、もらった米、麦、引割をその徳利にて煮て食ったから、困らないようになったが、それまではまことに食物には困った。だんだん気分がよくなったから、そろそろとそこを出かけて、府中まで行ったが、とかく銭がなくって困るから、七月ちょうど盆だから、毎夜毎夜、町を貰って歩いたが、伝馬町というところの米屋で、ちいさい小皿に引割を入れて施行《せぎょう》に庭へ並べて置くから、一つ取ったが、一つのさしに銭が一文あるから、そっとまた一つ取った、そうすると米を搗《つ》いていた男が見つけおって、腹を立て、二度取りをしおるとて握《にぎ》り拳《こぶし》でおれをしたたかぶちおったが、病後ゆえ、道ばたに倒れた。ようよう気がついた故、観音堂へ行って寝たが、その時はようやく二本杖で歩く時ゆえか、翌日は一日腰が痛くって、ドコへも出なんだ。それから或る日の晩方、飯が食いたいから二丁町へはいったが、麦や米ばかりくれて、飯をくれぬから、だんだん貰って行ったら、曲り角の女郎屋で客が騒いでいたが、おれに言うには、手前はこぞうのくせに、なぜそんなに二本杖で歩く、悪くわずらったかと言う、左様でござりますと言ったら、そうであろう、よく死ななかった、どれ飯をやろうとて、飯や、肴《さかな》や、いろいろのさい[#「さい」に傍点]を竹の皮に包ませ、銭を三百文つかんでくれた、おれは地獄で地蔵に逢ったようだと思って、土へ手をついて礼を言ったら、その客が手前は江戸のようだが、ほんとの乞食ではあるまい、どこか侍の子だろうとて、女郎にいろいろ話しおるが、緋縮緬《ひぢりめん》の袖のついた白地の浴衣《ゆかた》と、紺縮緬のふんどしをくれたが、嬉しかった。その晩は木賃宿へ泊って、畳の上へ寝るがいいと言った故、厚く礼を言って、それから伝馬町の横町の木賃宿へ夜になると泊ったが、しまいには宿銭から食物代がたまって、払いに仕方がないから、単物《ひとえもの》を六百文の質に入れてもらって、早々そこのうちを立って、残りの銭をもって、上方へまた志して行くに、石部《いしべ》まで行って或る日、宿の外れ茶屋のわきに寝ていたら、九州の秋月という大名の長持が二棹《ふたさお》来たが、その茶屋へ休んでいると、長持の親方が二人来て、同じく床几《しょうぎ》に腰をかけて酒を飲んでいたが、おれに言うには、手前はわずらったな、ドコへ行くと言うから、上方へ行くと言ったら、当てがあるのかと言うから、あてはないが行くと言ったら、それはよせ、上方はいかぬところだ、それより江戸へ帰るがいい、おれがついて行ってやるから、まず髪月代《かみさかやき》をしろとて、向うの髪結床へ連れて行ってさせて、そのなりでは外聞が悪いとて、きれいな浴衣をくれて、三尺手拭をくれた、しかして杖をついては埒《らち》が明かぬから、駕籠《かご》へ乗れとて、駕籠をやといて載せて、毎日毎日よく世話をしてくれた。江戸へ行ったら送ってやろうとて、府中まで連れて来たが、その晩、親方がばくちの喧嘩で大騒ぎが出来て、おれを連れた親方は国へ帰るとて、くれた単物を取り返して、木綿の古襦袢をくれて直ぐに出て行きおったから、いま一人の親方が言うには、手前はこれまで連れて来てもらったを徳にして、あしたは一人で江戸へ行くがいいとて、銭五十文ばかりくれおったが、仕方がないから、また乞食をして、ぶらぶら来て、ところは忘れたが、あるがけのところにその晩は寝たが、どういうわけか崖より下へ落ち、岩の角にきんたまを打ったが、気絶をしていたと見えて、翌日ようよう人らしくなったが、きんたまが痛んで歩くことがならなんだ。二三日過ぎると少しずつよかったから、そろそろ歩きながら貰って行ったが、箱根へかかって、きんたまが腫《は》れて膿《うみ》がしたたか出たが、がまんをして、その翌日、二子山まで歩いたが、日が暮れるからそこにその晩は寝ていたが、夜の明け方、飛脚が三度通りて、おれに言うには、手前ゆうべはここに寝たかと言う故、あい、と言ったら、強い奴だ、よく狼に食われなんだ、こんどから山へは寝るなと言って銭を百文ばかりくれた。三枚橋へ来て茶屋のわきに寝ていたら、人足が五六人来て、こぞうなぜ寝ていると言いおるから、腹が減ってならぬから寝ていると言ったら、飯を一ぱいくれた。その中に四十ぐらいの男が言うには、おれのところへ来て奉公しやれ、飯はたくさん食われるからと言う故に、一緒に行ったら小田原の城下の外の横町にて、漁師町にて喜平次という男だ。おれを内へ入れて、女房や娘に、奉公につれて来たから、可愛がってやれと言った、女房娘もやれこれと言って、飯を食えと言うから、飯を食ったらきらず[#「きらず」に傍点]飯だ、魚はたくさんあってくれた、あすよりは海へ行って船を漕《こ》げと言うから、江戸にて海へは度々《たびたび》行った故、はいはいと言っていたら、こぞうの名は何というかと聞くから、亀というと言ったら、お鉢の小さいのを渡して、これに弁当をつめて朝七つより毎日毎日行け、手前は江戸っ児だから、二三日は海にて飯は食えまいから持って行くなと喜平が言いおる、おれは江戸にて毎日海で船に乗ったから怖《こわ》くないと言ったら、いやいや江戸の海とは違うと言うから、それでもきかずに弁当を持って行った。それから同船のやつが、うちへおれを連れて行って頼んだから、翌朝より早く来いと言う、それから毎朝毎朝、船へ行ったが、みんなが言うには、亀が歩くなりはおかしいと言いおる、そのはずだ、きんたまの腫れが引かずにいて水がぽたぽた垂れて困ったが、とうとう隠し通してしまったが困ったよ。毎日朝四ツ時分には沖より帰って、船をおかへ三四町引き上げ、網を干して、少しずつ魚を貰って小田原の町へ売りに行った。それからうちへ帰って、きらず[#「きらず」に傍点]を買って来て四人の飯を焚《た》くし、近所の使をして、二文三文ずつ貰った。うちの娘は三十ばかり気のいいやつで、時々|水瓜《すいか》などを買ってくれた。女房はやかましくてよくこき使った。喜平は人足ゆえ、うちには夜ばかりいたが、これはやさしいおやじで、時に菓子など持って来てくれた。十四五日ばかりいると子のようにしおった。おれに江戸のことを聞いて、おらがところの子になれと言いおる故、そこで考えてみたが、なんしろおれも武士だが、うちを出て四カ月になる、こんなことをして一生いてもつまらねえから、江戸へ帰って、祖父の了簡次第《りょうけんしだい》になるがよかろうと思い、娘へ機嫌をとり、もも引と、きもののつぎだらけなのを一つ貰って、閏《うるう》八月の二日、銭三百文、戸棚にあるを盗んで、飯をたくさん弁当へつめて、浜へ行くと言って夜八ツ時分起きて、喜平がうちを逃げ出して、江戸へその日の晩の八ツ頃に来たが、あいにく空は暗し、鈴ヶ森にて、犬が出て取巻いて、一生懸命大声を揚げてわめくと、番人乞食が犬を追い散らしてくれた故、高輪《たかなわ》の漁師町のうらにはいりて、海苔取船《のりとりぶね》があったから、それをひっくり返して、その下に寝たが、あんまり草臥《くたび》れたせいか、翌日は、日が上っても寝ていたから、所の者が三四人出て見つけて叱りおった。わび言をしてそこを出て飯を食いなどして、愛宕山《あたごやま》でまた一日寝ていて、その晩は坂を下るふりをして、山の木の茂みへ寝た。三日ばかり人目を忍んで、五日目には夜両国橋へ来て、翌日|回向院《えこういん》の墓場へ隠れていて、少しずつ食物買って食っていたが、しまいには銭がなくなったから、毎晩|度々《たびたび》、垣根をむぐり出て、貰っていたが、夜はくれ手が少ないから、ひもじい思いをした。回向院奥の墓所に乞食の頭《かしら》があるが、おれに仲間に入れとぬかしおったから、そやつのところへ行って、したたか飯を食った」
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 野郎、土性骨まで乞食になりおったな、しかしまあ、ここまで乞食になりきれりゃあ、人間もねうちものだと、神尾が感心しながら、野郎どんな面《かお》をして養家の閾《しきい》をまたぐのかと、調べてみました――
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「そして、裏から亀沢町へ来て見たが、なんだか閾が高いようだから(でも閾の高低がわかるだけの感は残っていたのが不思議)引返して二ツ目の向うの材木問屋の蔭へ行って寝た。三日目に朝早く起きてうちへ帰ったが、うちじゅう、小吉が帰ったとて大騒ぎをし、おれが部屋へ入って寝たが、十日ばかりは寝通しをした。おれがいないうちは加持祈祷いろいろとして、いとこの恵山というびくは、上方まで尋ねて上ったとて話した。それから医者が来て、腰下に何か仔細があろうとていろいろ言ったが、その時はまだ、きんたまが崩れていたが、強情にないと言って帰してしまった。三月ばかりたつと、しつ[#「しつ」に傍点]が出来てだんだん大相《たいそう》になった、起居《たちい》もできぬようになって、二年ばかりは外へも行かずうちずまいをしたよ。それから親父が、おれの頭《かしら》、石川右近将監に、帰りし由を言って、いかにも恐れ入ること故、小吉は隠居させ、ほかに養子いたすべきと言ったら、石川殿が、今日帰らぬと月切れゆえ家は断絶するが、まずまず帰って目出たい、それには及ばぬ、年とって改心すればお役にも立つべし、よくよく手当して遣《つか》わすべしと言われた、それから一同安心したと皆が咄《はな》した」
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         五十八

 神尾主膳は、読み去り読み来《きた》る間にも、さげすんでみたり、存外やると思ってみたり、ばかばかしいと思ってみたり、おれは何が何でもここまでは落ちられないと歎息してみたりする、その間にも、四十俵高の小身者《しょうしんもの》と、自分の生れと比較して、優越感にひたらざるを得ないのも、この人の性根であります。
「根が小身者だからな」
とさげすみながらも、甚《はなは》だ共鳴させられる節が多くて、これはおれを書いているのではないか、自分の姿を鏡で見せられてでもいるような心持に、うっかりと捉われてしまうのは、つまり、高に大小こそあれ、やっぱり生え抜きの江戸人である。勝の家も小身ながら開府以来の江戸人である、男谷《おたに》の方は越後から来た検校出《けんぎょうで》ということだが、それも何代か江戸に居ついて、江戸人になりきっている。江戸人に共通したところのものが、この一巻のうちに流れている。しかるが故に、神尾主膳が、このまずい文章と、格法を無視した記録に、足許をさらわれそうにしている。読み出した以上は読み了《おわ》らなければならない。東海道をうろついて、乞食をして歩いただけで納まったのでは、勝の父らしくない。この性根が一生涯附いて廻らなければ本物とは言えないと、神尾は変なところへ同情を置いて、次へと読み進みました。
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「十六の年には、ようやくしつ[#「しつ」に傍点]もよくなったから出勤するがいいと言うから、あいたいをつとめたが、頭《かしら》の宅で帳面が出ているにめいめい名を書くのだが、おれは手前の名が書けなくて困った。
人に頼んで書いてもらった。石川があいたいの後で、乞食をした咄《はなし》を隠さずしろと言ったから、初めからのことを言ったら、よく修業した、いまに番入りをさせてやるから、しんぼう[#「しんぼう」に傍点]をしろと言われた。
またうちでは、ばばアどのがなおなおやかましくなって、おのれは勝の家をつぶそうとしたな、といろいろ言いおって困った故、毎日毎日うちにはいなんだ。
兄貴の役所詰に久保島可六という男があったが、そいつがおれをだまか[#「だまか」に傍点]して連れて行きおったが、面白かったから毎晩毎晩行ったが、金がなくって困っていると、信州の御料所から御年貢《おねんぐ》の金が七千両来た、役所へ預けて改めて御金蔵へ納めるのだ、その時おれに番人を兄貴が言いつけたから番をしていると、可六が言うには、金がなくては吉原は面白くないから、百両ばかり盗めと教えたが、(神尾|曰《いわ》く、悪いことを教える奴だ)おれもそうだと言って(そうだと言う奴があるか)千両箱をあけて二百両取ったが(そらこそだ)あとがガタガタするゆえ困ったら、久保島が石ころを紙に包んで入れてくれた故、知らぬ顔でいたが、二三月たつと知れて、兄きがおこったが(おこるのがあたりまえ)いろいろ論議をしたら、おれが出したと役所の小使めが白状しおった故、おれに金を出せとて兄きが責めたが、知らぬとて強情をはり通したが、兄が親父へそのわけを話したら、親父が言うには、手前も、年の若いうちに度々そんなことはあったっけ、僅かの金で小吉を瑕物《きずもの》にはできぬ故、何とか了簡《りょうけん》してみてやれと言った。そこで、いよいよおれが取ったに違いない故それきりにして、誰も知らぬ顔で納まった。おれはその金を吉原へ持って行って一月半ばかりに使ってしまったが、それから蔵宿《くらやど》やほうぼうを頼んで金をつかった」
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 いったい、その親共なり、支配頭なりが、厳しいのか甘いのかわからぬ。自分もやっぱり、この厳しいような、甘いような江戸の家風に育った一人だ。勝のおやじのためには、たしかにそれが子孫への教訓にもなるようなものだが、おれのはなんにも残らぬ、と神尾がやや自覚しました。それから読みついで行くと、いよいよ大変なもので……
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「ある日、おれの従弟《いとこ》のところへ行ったら、その子の新太郎と忠次郎という兄弟があるが、一日、いろいろ咄《はなし》をしたが、そこの用人に源兵衛というのがいたが、剣術遣いだということだが、おれに向って言うには、
『お前さんは、いろいろとあばれなさいますが、喧嘩はなさいましたか』
と言うから、おれが、
『喧嘩は大好きだが、小さいうちから度々《たびたび》したが面白いものだ』(こういう野郎だ)
と言った。
『左様でござりますか、あさって蔵前の祭りでありますが、一喧嘩やりましょうから、一緒にござらっしゃいまして、一勝負なさいまし』(火事場へ油をさしに行けという奴がある、いやはや)
と言ったから、約束をして帰った。
その日になりて、夕方より番場の男谷《おたに》へ行ったら、先の兄弟も待っていて、
『よく来た、今、源兵衛が湯へ行ったから、帰ったら出かけよう』
と支度をしていると、まもなく源兵衛が帰った。それより道に手筈《てはず》を言い合わせて、八幡へ行ったが、みんなつまらぬ奴ばかりで、相手がなかったが、八幡へ入ると、向うより、きいたふうの奴が二三人で、鼻歌をうたって来る故、一ばんに忠次郎が、そいつへ唾を顔へしっかけたが、その野郎が腹を立て、下駄でぶってかかりおった、そうすると、おれが握り拳で横つらをナグってやると、あとのやつらが総がかりになってかかりおるから、めくらなぐりにしたら、みんな逃げおった故、八幡へ行ってぶらぶらしていると、二十人ばかりなが鳶《とび》を持って来おった、何だと思っていると、一人が、
『あの野郎だ』
とぬかして、四人を取りまきおった。それから刀を抜いて切り払ったら、源兵衛が言うには、
『早く門の外へ出るがいい、門を締めるととりこ[#「とりこ」に傍点]になる』
と大声に言うから、四人が並んできり立て、門の外へ出たら、そいつらの加勢と見えてまた三十人ばかり、鳶口を持って出よったから、並木の入口の砂蕎麦《すなそば》の格子を後ろにして五十人ばかりを相手にして叩き合ったが、一生懸命になって、四五人ばかり傷を負わしたら、少し先が弱くなった故、むやみにきり散らし、鳶口を十本ほども叩き落した、そうするとまたまた加勢が来たが、梯子《はしご》を持って来た、その時、源兵衛が言うには、もはやかなわぬから三人は吉原へ逃げろ、あとは私が斬り払い帰るからと、早く行けと言ったが、三人ながら、源兵衛ひとりを置くを不便《ふびん》に思い、一緒に追いまくって一緒に逃げようと言ったら、
『お前さん方は怪我があっては悪いから、ぜひぜひ早く逃げろ』
とひたすらに言う故、おれが、源兵衛の刀が短いから、おれの刀を源兵衛に渡して、直ちに四人が大勢の中へ飛び込んだら、先の奴は、ばらばらと少しあとへ引っこんだはずみに、逃げ出して、ようよう浅草の雷門で三人一しょになり、吉原へ行ったが源兵衛が気遣《きづか》いだから、引戻して番場へ行って、飯を食おうと思って行ったら、源兵衛は、うちへ先へ帰って、玄関で酒を飲んでいたため三人は安心した。
それから源兵衛と、またまた一緒に八幡の前へ行って見たらば、たこ町の自身番へ大勢人が立っているから、そこへ行って聞いたら、八幡で大喧嘩があって、小揚《こあげ》の者をぶったが始まりで、小あげの者が二三十人、蔵前の仕事師が三十人で、相手を捕えんとして騒いだが、とうとう一人も押えずに逃がした、その上に、こちらは十八人ばかり手負いが出来た、今、外科が傷を縫っているというから、四人ながらうちへ帰って、おれは亀沢町へ帰ったが、あんなヒドいことはなかったよ。

刀は侍の大切のものだから、よく気をつけるものだが、刀は関の兼平《かねひら》だが、源兵衛へ貸した時、鍔元《つばもと》より三寸上って折れた、それから刀の目ききを稽古した。
この年、兄きと信州へ行ったが、十一月末には江戸へ帰った。源兵衛を師匠にして、喧嘩のけいこを毎日毎日したが、しまいには上手になった。
暮の十七日、浅草市へ例の連れで行ったが、その時、忠次郎が肩を斬られたが、衣類を厚く着た故、身へは少しも創《きず》がつかなかったが、着物は襦袢《じゅばん》まで切れた、その晩は知らずに寝たが、翌朝女が着物を炬燵《こたつ》へかけるとて見つけて、忠次郎の親父へそう言った故、おれも呼びによこしたから、番場へ行ったら忠之丞が、三人並べて、いろいろ意見を言ってくれた、以来は喧嘩をしまいという書附を取られた。この忠之丞という人は、至っていい人で、親類が、聖人のようだと皆々こわがった仁だ。

翌年正月、番場へ遊びに行ったら、新太郎が忠次郎と庭で剣術を遣《つか》っていたが、おれにも遣えと言う故、忠次郎とやったが、ひどく出合頭に胴を切られた、その時は気が遠くなった。それより二三度やったが、一本もぶつことができぬから口惜《くや》しかった。それから忠次郎に聞いて、団野へ弟子入りに行った。先の師匠からやかましく言ったが、かまわず置いた。
それから精を出して、早く上手になろうと思ってほかのことはかまわず稽古をしたが、翌年より伝受も二つもらった。それから、あんまり叩かれぬようになってからは、同流の稽古場へ毎日行ったが、大勢がよって来て、小吉、小吉と言うようになった。
他流へむやみと遣いに行ったら、その時分はまた剣術が今のようにはやらぬから、師匠が他流試合をやかましく言った。他流は勝負をめったにはしないから、みな下手が多くあった故、おのれが十八の歳、浅草の馬道、生政左衛門という一刀流の師匠がいたが、或る時、新太郎と忠次郎とおれと三人で行って、試合を言い入れたが、早速に承知した故、稽古場へ行って、その弟子とおれとやったが、初めてのこと故、一生懸命になってやったが、向うが下手でおれが勝った。それからだんだんやって、師匠と忠次郎に、政左衛門が体当りをされて、後ろの戸へ突き当てられて、雨戸が外れて仰のけに倒れたが、起きるところを続けて腹を打たれた。この日はそれきりで仕舞ったが、はじめに師匠が高慢をぬかしたが憎いから、帰りにはおれが玄関の名前の札を抜打ちにして持って帰った。それから方々へ行きあばれた。馬喰町の山口宗馬がところへ、神尾、深津、高浜、おれ四人で行って試合を言いこんだら、上へ通して、宗馬が高慢をぬかした故、試合をしようと言ったら、今晩は御免下され、重ねて来いと言った故、帰りがけに入口ののれん[#「のれん」に傍点]を高浜が刀で切裂いて、室へ抛《ほう》りこんで帰った。それから同流の下谷あたり、浅草本所ともに他流試合をするものは、みんなおれがさしずを受けたから、二尺九寸の刀をさして先生づらをしていたが、だんだんと井上伝兵衛先生が、その頃は門人多く、重立った奴等、皆おれが配下同然になり、藤川鴨八郎門人赤石郡司兵衛が弟子団野は言うに及ばず切従い、諸方へ他流に行ったが、運よく皆よかった。他流は中興まずおれがはじめだ。

十八の歳、また信州へ行った。

それからけん見[#「けん見」に傍点]に諸所へ行った。そのうち、江戸でおふくろが死んだと知らせて来たから、御用を仕舞って、江戸へ来る道で、信州の追分で、夕方、五分月代《ごぶさかやき》の野郎が、馬方の蔭にはいって下にいたが、兄貴が見つけておれに捕れと言うから、この脇から十手を抜いて駈け出したら、その野郎は一散に浅間の方へ逃げおったから、とうとう追いかけて近寄ったら、二尺九寸の一本脇差を反り返して、
『お役人様、お見のがし下されませ』
と言ったから、
『うぬ、なに見のがすものだ』
とそばへ行くと、その刀を抜きおったが、引廻しを着ていたが、そのすそへ小尻[#「小尻」に傍点]がひっかかりて一尺ばかり抜きおったが、おれが直ぐに飛び込んで、柄を持ってちゅうがえりをしたら、野郎も一緒にころんで、おれの上になったが、後ろから平賀村の喜藤次という取締が来て、野郎の頭をもってひっくり返した故、おれも起き上りて十手にてつつき散らした、それから縄を打って、追分の旅宿へ引いて来た。上田|小諸《こもろ》より追々代官郡奉行が出て来て、野郎を貰いに来た。こいつは小諸の牢に二百日ばかりいたが、或る晩牢抜けをして、追分宿へ来て、女郎屋へ金をねだり、一両取って帰る道だと言った。音吉とて子分が百人もおるばくち[#「ばくち」に傍点]打だと役人が話した。それから大名へ渡すと首がないから、中の条の陣へやった。その後、そいつの刀を兄がくれたが、池田鬼神丸国重という刀だっけ、二尺九寸五分あった、おれが差料にした。
それから、碓氷峠《うすいとうげ》で小諸の家老の若い者らが休息所へ来て無礼をしたから、塩沢円蔵という手代とおれと、その野郎をとらえて、向うの家老の駕籠《かご》へぶつけてやった。
上州の安中でも、所の剣術遣いだと言ったが、常蔵という中間《ちゅうげん》の足を、白鞘《しらざや》を抜いてふいにきりかかったから、その時も、おれと二人で打ちのめして縛ってやった。宿役人に引渡して聞いたら酒乱だと言った。

十一月初めに江戸へ帰った。それからまたまた他流へ歩きまわったが、本所の割下水《わりげすい》に近藤弥之助という剣術の師匠がいたが、それが内弟子に小林隼太という奴があったが、大のあばれ者で本所ではみんながこわがった。或る時、小林が知恵を借って、津軽の家中に小野兼吉というあばれ者がおれのところへ他流を言い込んだ。
その時はうちにいた故、呼び入れて兼吉に逢ったが、中西忠兵衛が弟子で、そのはなしをしていると、兼めが大そうなことばかりぬかし、手前の刀を見せて、長いのを高慢に言いおるから、聞いていたら、十万石のうちにてこのくらいの刀をさすものがない、私ばかりだと言うから、刀を取って見たら、相州物にて二尺九寸。そこでおれの差料を見せたが、平山先生より貰った三尺二寸の刀ゆえ、兼吉め大いにひるみおったから、つけこんで高慢を言い返してやった。それから試合をしようと言ったら何と思ったか、今日は御免とぬかしおる故、日限を約束して、兼吉のところへ行くつもりにして、下谷連へ言ってやったら、四五十ばかり集まった故、兼吉へ手紙を持たせてやったら、ただいま屋敷へ来るとて、返事はよこさず、待っていたら、近藤の弟子の小林めが肩衣《かたぎぬ》なんど着おって、おれのところへ来て、いろいろあつかいを入れて、兼吉にわびをさせるから了簡しろという故、急度《きっと》念をしたら、こののち兼吉がお前様をかれこれ言ったら、私が首を献じますと言うからゆるしてやった故、本所はたいがい、おれの地になった。

この年、芝の片山前にいる湯屋が、向うの町へ転宅をすることにて仲間もめがして、山内の坊主が町奉行の榊原へ頼んであると言って、金弐十両とったが、もとよりウソ故に、その湯屋がほんとうにして、右の趣を奉行所へ願出にして出したら、奉行所で言うには、湯屋は樽屋三右衛門のかかりだから差越願だとて取上げぬ故大いに困った。中野清次郎というものがおれに頼んだから、幸いおれが従妹《いとこ》の女が樽屋へ嫁に入っているから、その親父の正阿弥というものは心安いから、頼んでやろうと言ったら、悦びその坊主をつれて来たから、おれが正阿弥のところへ行ってわけをだんだん話して、それより樽屋へいってやったら、樽屋が承知して、奉行所より願出を下げて、そうほう利害を言って、その湯屋が向うへ引越したが、嬉しがった。その礼に、樽屋へ三十両、正阿弥へ二十両、おれに四十両くれた。それからは酒井左衛門の用人の妾《めかけ》が持っていると言いおった。湯屋は向うへ普請をすると八十両株が高くなると清次郎が話した。

この年、またまた、兄と越後蒲原郡水原の陣屋へ行った。四方八方巡見したが面白かった。越後には支配所のうちには大百姓がいる故、いろいろ珍しき物も見た、反物金《たんものきん》をもたんと貰って帰った。

それから江戸へ帰ったが、近藤弥之助の内弟子小林隼太が男谷の方へ替え流して力んだが、あばれ者ゆえに、みんなが怖《こわ》がっているから、相弟子どもをばかにしおる故に、おれにも咄《はなし》があった故、隼太めを目に物見せんと思っていたが、久しくかぜを引いて寝ているから、それなりにして置いた。或る日少し気分がいいから、寒稽古に出たら、小林も来ていて、勝様一本願いたいとぬかすから、見る通り久しく不快で、今に月代《さかやき》も剃らずいるくらいだが、せっかくのことだから一ぽん遣《つか》いましょうと言って遣ったが、まず二本つづけて勝ったら、小林が組みついたから腰車にかけて投げてやると、仰のけに倒れたから、腰を足にておさえて咽喉《のど》を突いてやった。その時、小林が起き上り、面《めん》を取って、おれに言いおるには、侍を土足にかけて済むか済まぬかとぬかすから、これは貴公の言葉にも似ぬ言い事かな、最初のたちあいに、未熟ゆえ指図してくれろと御申し故、侍の組打ちは勝つと斯様《かよう》のものだと仕形をして見せたのだ、言い分はあるまいと言ったが、御尤《ごもっと》も、一声もござりませぬと言いおった。それから、おれを暗討《やみう》ちにするとて、つけおったが、時々油断を見ては、夜道にてすっぱ[#「すっぱ」に傍点]抜きをしてきりおったが、時々、羽織など少しずつ切ったが、傷は附けられたことはなかった。それからいろいろしおったが、おれも気をつけていた故に、或る時、暮に親類に金を借りに行った時に、道の横町より小林が酒をくらった勢いで、おれが通ると、いきなり、出ばなの先へ刀を抜いてつき出した、昼だから往来の人も見ている故、その時おれが、わざとふところ手をしていて、白昼になまくらを抜いてどうすると言ったら、小林がこの刀を買いましたが、切れるか切れぬか見てくれろと言うからよく見て骨ぐらいは切れるだろうと言ったら、鞘《さや》へ納めて別れたが、人が大勢立ちどまって見ていた。古今のめっぽうけい[#「めっぽうけい」に傍点]者だ。

十八の歳に身代を持って兄の庭の内へ普請をして引移った。その時、兄から三百両ばかりの証文と家作代を家見にくれた、親父よりは家財の道具を一通り貰ったから、無借になって嬉しかった。それからいろいろの居候者が多く来おったから、いくらも置いたから借金が出来たよ。

十九の年、正月稽古始に、男谷道場で、東間陣助と平川右金吾と大喧嘩をして、たがいに刀を持って稽古場へ出てさわいだが、その時もおれが引分けて、ようよう和睦させた。

この年より諸方の剣術遣いを大勢、子分のようにして諸国へ出したが、みんなおれが弟子だと言って歩く故、名が広くなってきた。それから本所中の、いい頭をしているのらくら[#「のらくら」に傍点]者を残らず置いて、みんなおれが差図に従えた故、こわいものはなくなったが、それには金もいるし、附合いが張ったから、たいそう借金が出来た。

また他流試合を商売のようにして、毎晩、喧嘩にみんなを連れて歩いた。ある時、平山孝蔵という先生へも行って、いつもいつも和漢の英雄の咄《はなし》を聞いては、みんなをしこなしていた。それから、いろいろ馬鹿ばかりしていたから、身上が悪くなってきて、借金がふえるばかり、仕方がないから、出来ない相談に、むやみに借金をしていたが、二十一の年には、一文もなくなって仕様がなかったから、差料の刀は、おわりや久米右衛門という道具屋より買った盛光の刀、四十一両で買った故、それを売ろうかと思ったが、それも惜しいからよしたが、あいたいに行くにも着たままになったから、気休めに吉原へ行って、翌日、車坂の井上の稽古場へ行き、剣術の道具を一組借りて、直ちに東海道へかけ出した」
[#ここで字下げ終わり]

 またしても駈落《かけおち》かと、読んで神尾が苦笑しました。
「なるほど、乞食は三日すれば忘れないというが、性《しょう》についたな」

         五十九

 さてこれからが、勝小吉再度の駈落物語となる。
[#ここから1字下げ]
「その日は、むこくに歩いて、藤沢へ泊って、朝七ツ前に立って、小田原へ行って、先年世話になっていたうちの喜平次を尋ねて行ったが、喜平次も、乞食がさむらいに化けて来たものだから初めは不審した。喜平次のうちを出た亀と言ったら、ようやく思い出して、いろいろ酒など振舞ったが三百文盗んだことを言い出して、金を二分二朱やったほかに酒代《さかて》を二朱出して、以前、船へ一しょに乗った野郎共を呼んで酒を呑まして、今は剣術遣いになったことをはなして笑ったら、みんなが肝をつぶしていた。今晩はぜひとも泊れと言ったが、江戸より追手が来るだろうと思ったから、早々別れてそこを立って箱根へかかった。
喜平次とほか三人ばかり三枚橋まで送って来たが、そこよりかえして、ようよう関所へかかったが、手形がないから、関所の縁側へ行って、剣術修行に出でし由申して、お関所を通して下さいと言ったら、手形を見せろというから、そこでおれが言うには、御覧の通り江戸を歩行通りのなりゆえ、手形は心づかず、稽古先より計らず思いついて、上方へ修行に上り候《そうろう》、雪踏《せった》を穿《は》き候まま、旅支度も致さず参りしこと故、相なるべくはお通し下され候様に、と言ったら、番頭《ばんがしら》らしきが言うには、御大法にて手形なき者は通さず、しかしお手前の仰せの如く、御修行とあれば余儀なき故、お通し申すべし、以来はお心得なさるべしと言った故、かたじけないとて、それから関所を越して休んでいたら、後より来た商人が言いおるには、いま私が関所を通りましたが、おまえ様の噂《うわさ》をしてござったが、いま通った侍は飛脚でもないが、藩中でもなし、何だろうとて噂をしていましたと言うから、そのはずだわ、おれは殿様だからと言ってやった。

[#底本では1字あき]山中で日が暮れて宿引女が泊れとてぬかしたが、とうとうがまんで三島まで着いたら、四里が間、二十九日の日だから、まっくらがりで難儀した。雪踏を脱いで腰へはさみ、ようよう、夜九ツ時分、三島へ来て、宿へかかって戸を叩き、泊めてくれろと言ったら、
『当宿は韮山様《にらやまさま》がお触れで、ひとり旅は泊めぬ』
と言うから、問屋場へ寄って、起して宿を頼んだら、そいつが言いおるには、
『問屋が公儀のお触れは破れぬ、差図はできぬ』
ときめるまま、そこで、おれが言うには、
『海道筋三島宿にては、水戸の播磨守《はりまのかみ》が家来は泊めぬか、おれは御用の儀が有り、遠州雨の宮へ御きかんの便りに行くのだが、仕方がないから、これより引返して、道中奉行へ屋敷より掛合う故、それまでは御用物は問屋へ預け参るから大切にしろ』
とて、稽古道具を障子越しに投げ込んだ。そうすると、役人共が肝をつぶし、起きて出おって、土に手をつきおった。
『播磨様とは存ぜず不調法、恐れ入った』
といろいろあやまるから、図に乗って、
『荷物は預けるから、急度《きっと》、受取をよこせ』
と言ったら、困りおって、ほかに二三人も出て這《は》いつくばり、いかようにも致しますから、まずまず宿屋へ行って少しのうち休足してろと言うから、ようよう案内と言ったら、脇本陣へ上げおって、だんだん不調法のわけをわびおり、飯を出したら、役人が重ねて、当宿の宿役人が残らずしくじるから、なにぶんにも勘弁しろと言うから、腹が癒《い》えたゆえゆるしてやった。そうすると酒肴を出して、馳走をしおった。その時、書附をよこせと言ったら、それによってそれも出すまいと言った故、またまたひっくり返してやったら、金を一両二分出して、またまたあやまりおった故、金が思いよらず取れる故、済ましてやった。そのうちに夜が明けかかったから、寝ずに三島を立ったら、道中籠を出したから、先の宿まで寝て行った。そのはずだ、稽古道具へ、箱根を越し、水戸という小札を書いて差して置いたものだから、うまくいったのだ。
おれが思うには、これからは日本国を歩いて何ぞあったらきりじにをしようと覚悟して出たから何も怖いことはなかった――」
[#ここで字下げ終わり]

 ここまで読んで神尾主膳が感じたことは、個人的の興味ではなく、この破格な行状記の後ろに動いている時代の空気というものでありました。
 江戸徳川氏の末期の、空気のどろどろになって、どうにも動きの取れない停滞が、この勝の親父を産んだのだ。いや、勝の親父だけではない、自分の如きは、まさしく、そのどろどろの沼の中の産物の指折りでないとは言えない、そういうことを神尾主膳が自覚せしめられました。
 江戸末期の停滞が産んだ、我々旗本浪人のうちの不良に二種類がある、それは硬派の不良と、軟派の不良だ。
 その勝の親父の如きは、当然、硬派の不良に属してるが、自分の如きは、これに比べれば、いくらか軟派に傾いているかも知れないが、自分より以下の軟派はまだまだある。いわば、硬軟両面を兼ねた自分ではある、ということに神尾が分類をしてみました。
 自分の放埒《ほうらつ》を時代になすりつけるわけではないが、まあ、この徳川末期の時代というものを一渡り見てみるがいい、おれは三千石だし、勝のおやじは四十俵だ。格式に於ては天地ほどの差があるけれども、時代を同じうした徳川幕下の士ということに於ては少しも変った存在ではない。
 泰平二百何十年、もう、この江戸文化も熟しに熟しきってしまっている。三千石の家に生れたおれも、四十俵の高をついだ勝のおやじも、行きつまっているということに於ては全く選ぶところはない。もう、徳川の天下では、三千石は三千石より生きようはない、四十俵は四十俵のほかに動きがとれないことになっている。三千石が立行かなければ、四十俵も立行かない。おれは三千石の自暴《やけ》、勝は四十俵の自暴だ、自暴に於ては優《まさ》り劣りはないのだ。
 およそこの時代に於ては、身分の高下、禄高の大小を問わず、飛躍ということがどの方面にも許されない。飛躍が許されないところに、清新があり得ようはずがない。意気|溌溂《はつらつ》たる青年は、その意気の溌溂を、どこに行ってもハケ口を見出すことができないから、滔々《とうとう》として不良に堕《お》ちるよりほかに行く道がない。その硬なるは喧嘩と遊侠に鬱屈を洩《も》らし、その軟なるは花柳に放蕩《ほうとう》するよりほかに行き場所がないではないか。
 うんで、つぶれて、腐りかかっている徳川末期の泰平の空気――なるほど、西南で又者が騒いでいるというも無理はない。事実、これは何とかしなければ仕方がない。この時代を何とかしなければ仕方がない。この自分を何とかしなければ仕方がない。
 それでも、勝のおやじは、息子という傑作を残したけれども、おれのしたことは放蕩が放蕩を産んだだけだ。
 何とかしなければならない。
 神尾主膳は今更、身に火がついたように身ぶるいをしました。
 神尾主膳には、特に尊王佐幕のイデオロギーがあるわけではなく、世道人心に激するところがあるというわけではないが、何ぞ知らん、やっぱり時代の潮流の圧迫というものを身に受けているのでありました。持って生れた、なにがしかの血性というものが、磁石に吸い寄せられるように、物理的にその大きな潮流に吸い寄せられていると見れば見られるのでありました。そうして、意識せずに、考えが深刻に進みつつある時であります、次の間から、およそ時代とはかけ離れたおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]の声として、
「今日は、よいお天気で……殿には、御機嫌いかがにあらせられまするや、かねての大望、意志と教養の御著作――さだめて見事に御進行のことと拝察――鐚《びた》儀、芸娼院を代表してお見舞に罷《まか》り出でました」
「鐚か――」
 こういう奴が来たので、神尾がうんざりしました。

         六十

 事を意識せずして深刻に考えたり、絶望に傾いたりする時、このおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]が来ると、とにかく、気分が発散したりする。善友も、悪友も、このところでは、おたがいにあんまり近づかないことになっているが、こいつばかりは臆面なくやって来るものですから、神尾も気紛れに相手になっている。なんらの理窟があるのではない、こいつの面を見て、およそ時代離れのした恥知らずをながめると、気分が発散しないという限りもない。
「鐚か――まあ、入れ」
「まず御健勝、金主、一万両――宝の入船――鐚の計画、ことごとく成就《じょうじゅ》、近来のヒット――」
 何か続けざまに口走って、懐ろは手一ぱいにふくらまして、てんてこ舞をはじめた眼の色が穏かでない。穏かでないと言って、こいつのことだから、寸毫《すんごう》も危険性はないことはわかっているが、何かよくよくの喜びが出来たに相違ないと思いました。
「どうした、気でも狂ったか、シルクの売込みでも、もの[#「もの」に傍点]になったか」
「どう致して、そんなんじゃあござんせん、かねて鐚《びた》が計画の芸娼院――そいつがいよいよ成立を致しましてな、さるお大尽から大枚金一万両というもの補助がつきました、金主一万両、鐚一代の大望成就《たいもうじょうじゅ》!」
 ははあ、そのことでかくもてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞をしているのか、帝国芸娼院というのは、洋妾《ラシャメン》立国論と共に、こいつの二大名案であって、先日来て、べらべらと能書をしゃべり立てて行った。それでは誰か本気に取上げる旦那があって、たとえ一万両でも、この時節に金を出そうという好奇《ものずき》が出たのだな、時勢は時勢だというが、まだ世間は広いものだ、鐚に口説き落されていくらか出そうという金主が出たのだな。
 帝国芸娼院というのは、前巻の終りの方(第十八巻、農奴の巻九十回)に見えていたこのおっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]独流の名案で、この趣旨とするところは、
「拙の案ずるには、近い将来に於て『帝国芸娼院』てえのを一つでっち上げて、世間をあっ! と言わせてみてえんでございます。そもそも、設立の趣旨てやつを申し上げてみまするてえと、毛唐というやつがまだ本当の日本を認識していねえんでげす、日本人ナカナカキツイあります、刀を使う上手アリマス、人を斬る達者アリマス、勇武の国アリマス、芸事できない、芸事できない国野蛮アリマス、こう吐《ぬか》しやがるのが癪《しゃく》なんでげして、異人館なんぞへまいりまするてえとテブルの上で、毛唐の奴がよくこんな噂を吐しやがるんでげす。その度に拙は発憤を致しましてね、ばかにしなさんな、日本にもこのくらいの芸事がある――てえところをひとつ見せてやりてえんでげして――そこで、その帝国芸娼院てやつを大々的にもくろみの……日本には芸娼妓でさえ、これこれの芸術がある、遊女でさえ、高尾、薄雲なんてところになると、これこれの文学がある、というところを、毛唐に見せてやりてえんでげすが、いかがなもんで……」
「そうするとつまり、日本中の芸者と女郎を集めて毛唐に見せてやりてえと、こういう目論見《もくろみ》か」
「いえ、どう致しまして、そんな浅はかなお安いんじゃござんせん、日本のあらゆる芸事という芸事の粋を集めて、これこの通りと言って、毛唐に見せてやりてえんで、芸娼院という名前は仮りに鐚がつけてみただけのものなんで――もっとしかるべき名前がありさえ致せば御変更のこと、苦しくがあせん。仕掛が大きいだけに、人選てやつが難儀でげして、まずあらゆる芸人という芸人の粋の粋なるもの百人を限って選り抜きの――なにも芸娼院と申したところで、芸妓と娼妓ばっかりを集めるという趣意ではがあせん、とりあえず、美術でげす、日本は古来、美を尚《たっと》ぶ国柄でげして、絵の方にはなかなか名人が出ました、御承知の通り……ところで、とりあえず狩野家の各派の家元を残らずメムバーに差加えます、それから、四条、丸山、南画、北画、浮世絵、町絵師の方のめぼしいところを引っこぬいて、これに加えます、拙が見たところでは、絵かきの方から都合五十八名ばかり、えりぬきの……それから戯作《げさく》の方なんでげす、これは刺身のツマとして……八名ばかり差加えようてんで……絵かきが五十八名もいて、文書《ぶんか》きが八名では比較が取れまいとおっしゃる――そこでげす、文書きの方は、どうしようかと考えてみたんでげすが、拙がひそかにこの計画を洩《も》らしやすてえと、ぜひ幾人でもいいから差加えていただきてえ、絵かきの下っ端で結構、刺身のツマとして、ぜひ差加えていただきてえと、先方から売り込んで来るんでげすから、のけるわけにいかねえんでげす、そこで、刺身のツマとして文書きを八名ばかりがところ、差加えてやることに致しやした――それから書道の方でがす、次は役者――この役者てえやつが、おのおの家柄があったり、贔屓《ひいき》があったりして、いちばん事めんどうなんでげして、鐚もこれが人選には困難を極めやした――それから長唄、清元、常磐津、新内、芸者の方からは誰々、お女郎はこれこれ――和歌と、発句と、ちんぷんかんぷん――委細のわりふりと、面ぶれはこの一札をごらん下し置かれましょう、これが、拙の苦心惨憺たる帝国芸娼院の面ぶれなんでげして……」
 だいたい右のような趣意で、このおっちょこちょいの野郎がもくろんだ、そのたわけへ、今度、一万両出す金主がついた――この野郎が有頂天《うちょうてん》でよろこぶのも無理はない。それを神尾が納得したと見て取って、この野郎が、立てつづけに並べることには、
「有難い仕合せで――え、へ、へ、へ。ところで、せっかくありついた、この大枚一万両の使用方法についてでげす、今度また新たに鐚が産みの親心てやつで、苦心惨憺を致さなけりゃ相成らん、なんしろ絵かきが五十八人もいて、文書きの方はたった八名、一万両がとこを、その方に割りふるてえと、また分前でもんちゃく[#「もんちゃく」に傍点]が起るに相違ねえ、そうなると、鐚がせっかく創立の功も玉なし、よって、これが分前に就いて、慎重なる考慮を払わなくちゃならねえんでげして、何か殿様、よいお知恵がございましたら拝借――お願い……」
「馬鹿――そんな要らねえ金があるなら、時節柄、大砲の一つもこしらえて、品川のお台場へ献納しろ」
「いや、そう物事を現実にばかりお取りになっては、人生に潤いというものがございませんな。せっかくのことに、鐚が思案を致しましたところによりますと、この一万両の公平なる分配に就きましては、大盤振舞《おおばんぶるまい》――つまり、惣花主義で会員一同に恨み越えなく行き渡るように公平なる分配を致したいと存じまして、その一万両で、そっくり、河岸《かし》へまいりましてお刺身を買い占めたいとこう思うんでげすが、いかがなもんでがんしょう」
「ナニ、河岸へ行って、一万両の刺身を買い占める――そうして、それをどうするのだ」
 一万両は多くはないが、それでも一万両の刺身を買い占めた者は江戸開府以来いまだあるまい。紀文、奈良茂《ならも》の馬鹿共といえどもよくせざるところ、鐚の計画の奇抜なるには、さすがの神尾も、ちょっと面負けの形で眼をみはると、鐚はいよいよ乗気になって、
「一万両がとこ、お刺身を買い求めましてな、それで、赤いところを絵かきに食わせ――青いところを文書きに食わせる、そういう御馳走の配膳に致しましたならば、一同否やはござんすまい」
「ふーん」
 こいつ、どうやら、正気でこれを言っているらしい。こういう奴に御勘定奉行をさせれば、公儀の金を掴《つか》み出して、女郎買いをもやり兼ねないと、神尾も底の知れない馬鹿さ加減に、口あんぐりとその面《かお》を見直していると、鐚《びた》はいよいよいい気になり、
「このお刺身の大盤振舞がスミますてえと、その次には、もう一つ、あっ! と言わせる趣向が秘めてあるんでがんして……」
 それを大得意に弁じ立てましたのを聞いていると――
「なんしろ、こういう険悪な時代でげすから、つとめて人心を和《やわ》らげるように、和らげるようにと楫《かじ》を取って行かなければならないんでげして、強いばかりが取柄ではがあせん、つまり毛唐に対しても、日本にはこのくらいの芸術があるてえところを、見せてやりてえのが芸娼院の本意でげすよって、この次には日本の文学をひとつ、海外進出てえ方面にウンと馬力をかけてみようてえんでげすが、万葉古今となりますてえと、なかなか調べが古うござんして、毛唐の頭には入りにくいんでげすから、まず小説の方からはじめるてのが、わかりがよくてよろしかろうと思うんでげすが、いかがなもので」
「まあ、何でもいいようにやってみろ」
「まず御承認の、その小説という段になりますると、まず長篇大作というところから見廻しまするてえと……日本に於きまして、上古に紫式部の源氏物語――近代に及んで曲亭馬琴の南総里見八犬伝――未来に至りまして中里介山居士の大菩薩峠――」
 大菩薩峠も、鐚の口頭に上ったことを光栄としなければなるまいが、御当人はしゃあしゃあ[#「しゃあしゃあ」に傍点]としたもので、
「まず日本有数の長篇大作を、ペロに書き改めましてな、それを毛唐に読ませるように仕向けるんでげす。長篇大作が必ずしも優れたりという儀ではがあせん、中篇小篇に優れたものが多くこれ有るんでげすが、とりあえず、長篇大作をペロに(ペロとは外国語ということ)書き改めて、毛唐に見せてやる。ところで、その選択てえことになりまするてえと――」
 鐚は咳を一つして、一膝押進ませ、
「上代に於て源氏物語、近代に於て八犬伝、この二つは日本に於て、名立たる長篇大作でげして、世界にも類のないものだと承りました。尤《もっと》も未来に於きましては、大菩薩峠などというやつが出て参りまして、これは八犬伝に源氏物語を加え、これに何倍をしてもまだ足りない代物《しろもの》と聞きましたが、こんなのは化け物のようなもので、人間の仲間へは入りません、よろしく敬遠黙殺の――とりあえず、源氏物語と、八犬伝と、この二つの中から選定を致しますんでげすが、鐚はいったい馬琴が嫌いでげしてね――第一、あの忠孝仁義おれ一人といったような高慢ぶり、それから学者めかして作中で長々と談議講釈、これが鐚の虫に合いません。なお作風と致しましてからが、作意を支那の小説から、すっかり取入れましてな、例の換骨奪胎というやつで……」
 鐚が口から泡を飛ばして、また一膝乗出し、
「換骨奪胎というやつは、まあ、体《てい》のいい剽窃《ひょうせつ》なんでげしてね、向うの趣向をとって、こちらのものにする、なかなか考えたものなんでげすが、独創家のいさぎよしとするところじゃあがあせん、いやしくも創作を致す以上は、趣向も、作風も、みんな国産にしたらいいじゃあがあせんか、そうでないと、本当の日本の誇りになりません、支那人に読ませると、これはおれの国からの借物だと忽《たちま》ち笑われてしまいますからな。そこへ行きますると、紫式部の源氏物語――こいつは純国産で、スフなどは一本も入っておりません」
 鐚は、また一膝進ませ、
「これはあの優麗典雅な古今無比の名文を以て、趣向も、作風も純国産、日本人の生活そのものを描写したものでげして、尤もその生活というのが、上《うえ》つ方《かた》の生活でございまして、我等風情とは全くかけ離れた生活なんでございますが、なんしろ、一千年も昔にああいった名作が、日本人の手、しかもかよわい女子の手で出来上ったということが、断然世界に誇るべき日本の名誉ということ疑いががあせんが、何に致せ、あの通りの古雅な文章でげすから、日本人でさえ本文を読みこなしにくい。よって、あれを一応六代目の為永春水に、やわらかく書き改めさせた上で、ペロにして毛唐に見せる、こういう段取りが、すべて、岩津波の茂さんだの、島中の忠助さんというような問屋の旦那衆のお肝煎《きもいり》で、遠からず、鳴物入りで市場をあっ! と言わせようてんでげすが、どんなもので」
 今日は、神尾が頭から排斥もせず、半畳も入れず、フンフン聞き流しているのを、鐚の野郎は我が意を得たりとばかり、いよいよ図に乗って、
「殿様、御勉強あそばしませよ、殿のよき精神をこめてらっしゃる御著作なんぞも、いずれ、不肖ながら鐚が一肌ぬぎの、芸娼院へ推薦の、特別一等賞てなことで――鐚、極力運動――」
「何を言ってやがる」
 今まで黙って聞いていた神尾主膳が、この時、平手を以て、ピシャリと、無警告で、鐚の横《よこ》っ面《つら》をひっぱたきましたから、不意を食った鐚が驚いたの驚かないの――
「ああ、痛! 暴力、これは乱暴!」
 歪《ゆが》んだ頬っぺたを押えながら、三尺ばかり飛び上りました。

         六十一

 上来、この「京の夢、おう坂の夢」の巻に、書き現わし得たところと、書き現わそうとして現わし得なかったところを、ここに個人別に収束してみますと――
 藤原の伊太夫と、女興行師お角は、旅中の旅で、近江の国の大津から竹生島へ詣《もう》でて立帰り、逢坂山の大谷風呂で、お銀様及び不破《ふわ》の関守氏と会見することになっている。琵琶の湖水に溺れた竜之助とお雪ちゃんとは、伊太夫の船に救われたが、お雪ちゃんは山城田辺の中川健斎方へ引取られることになる。竜之助は大谷風呂にいて、夢魂夜な夜な京に通う。
 道庵先生は相変らず泰平楽を並べて、酒に隠れているが、安然塔の発見から、旧友健斎老と会見、これもお雪ちゃんと前後して、山城田辺へひとまず身を寄せることになる。青嵐居士《せいらんこじ》は胆吹王国の留守師団長ということに納まる。がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は大津と胆吹の間の飛脚をつとめる。
 一方、駒井甚三郎は無名丸を擁して、陸中の釜石から再び太平洋上へ浮び出でる。船中には田山白雲、茂太郎、金椎《キンツイ》、柳田平治、お松その他の乗組は月ノ浦を出でた通りだが、釜石から新たに七兵衛が若い娘をつれて乗込む。しかもその七兵衛は、俗体入道の変った姿になっている。洋上に出た駒井船長は、北上せんか、南進せんかに迷う。この巻に、最も多く写そうとして[#「写そうとして」は底本では「写そうして」]写し得なかった京洛天地の夢は、僅かに近藤勇、伊東甲子太郎一派抗争の血雨の一段にとどまり、時代は幕末から維新に向って大きく枢軸が移ろうとする。その時代の横波を食った神尾主膳の体勢までが動揺する。時代に閑却の鐚めが芸娼論を振廻すも一興。
 それから、この巻には全く影を見せなかったものに、兵馬と福松――その道行《みちゆき》も白山に到り着かんとして着かず。横浜方面では異人館とシルクとの取引もそのままになっている――美しき銀杏加藤《ぎんなんかとう》の奥方と、梶川少年と、伊都丸少年とが、一は名古屋城下に戻り、一は阿蘇山麓に向う一条は余派の如くして、しかも従来の伏線の如く、未解決のままで農奴の巻に留まっている。
 南条力、五十嵐甲子雄の壮士は風雲の間に埋没して、これも久しく姿を見せない。
 弁信法師も広長舌を弄《ろう》することなく、宇治山田の米友も啖呵《たんか》を切る遑《いとま》が与えられない。
 これを大約すると、一山に拠《よ》るものと、海に漂うものと、現実に生きるものと、夢に遊ぶものと、高く霊界に標致せんとするものと、漢は漢、胡は胡、上求《じょうぐ》は上求、塵労は塵労、これを東隅に得て桑楡《そうゆ》に失わんとしつつあるものもあるようです。

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かくして明治の末に起稿し、大正の初頭に発表し、昭和十四年の年も暮れなんとする。わが「大菩薩峠」も通巻無慮九千三百二頁、四百七十万字、悪金子の口吻によりてこれを前人に比較すれば、すでに源氏物語の六倍、八犬伝の約三倍強の紙筆を費してなお且つ未完。量を以てすれば哀史、和戦史も物の数ではないということになる。
起稿の時、著者青年二十有余歳、今年すでに春秋五十五――霜鬢《そうひん》ようやく白を加えんとするが、業縁なかなかに衰えず――来年はこれ、皇紀の二千六百年、西暦千九百四十年、全世界は挙げて未曾有《みぞう》の戦国状態に突入しつつある――頑鈍一事の世に奉ずるに足るものなきを憾《うら》みつつも、自ら奮うの心を以てここにこの巻の筆を置く次第になん。時|恰《あたか》も臘八《ろうはち》の日。
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底本:「大菩薩峠19」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年9月24日第1刷発行
   2002(平成14)年2月20日第2刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 十一」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
   「大菩薩峠 十二」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2004年4月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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