青空文庫アーカイブ

大菩薩峠
禹門三級の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)捺《お》した

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五六騎|轡《くつわ》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と
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         一

 宇治山田の米友は、あれから毎日のように夢を見ます。その夢は、いつもはんで捺《お》したように不動明王の夢であります。夢や新聞は、毎日変ったものを見せられるところにねうちがあるのだが、米友のように、毎夜毎夜同じ夢ばかりを見せられては、驚かなければなりません。
 夢から醒《さ》めたたびに米友の驚き呆《あき》れた面《かお》も、やはりはんで捺したようなものです。米友はついに堪り兼ねて、床の間にかけてあった不動明王の画像を取外しました。この画像があるから、夢を見せられるのである、画像が無ければ、夢も無くなるであろうと思って、その晩は取外して床の間へ捲いておいたけれど、やはり同じように、不動明王の像が夢に現われました。米友は癪《しゃく》にさわってこの画像を、よそへうつしてしまおうと思って、今、かつぎ出したところであります。
 今日は例の手槍を持って出ることの代りに、かなり大きな不動尊の画像を担いで、例によって両国橋を渡りかけました。そこで米友が思うには、これを打捨《うっちゃ》るにしても不動尊である、有難がっても有難がらなくっても、不動明王のお像《すがた》である。芥溜《ごみため》の中へ打捨るわけにはゆかない。さりとて、道の真中へ抛《ほう》り出してもおけない。また米友には、屑屋に売り飛ばすというほどの知恵も浮ばない。売り飛ばしてそれを己《おの》れの巾着銭《きんちゃくぜに》にしようというような知恵は米友には出ない。出て来たところで彼の良心が許さない。この場合、不動尊の殊勝な信心家が現われて、この画像を米友の手から乞い受けて、祀《まつ》りあがめる人が出て来れば米友は一議に及ばず、その画像を譲り渡したものであろうと思われるが、不幸にしてその人を得ることができない。せっかく、不動尊を担ぎ出して来たものの、実際、米友はこれをどう扱っていいかということに迷いきっているのです。この点においては、曾《かつ》て京都へ遊びに行った弥次郎兵衛と喜多八とが、梯子を買ってもてあまして、京都の町を担ぎ歩いたようで、米友のは梯子よりは有難い不動様であるだけに、なおさら捨場に困るのであります。
 ほかのことにはあまり頓着はしない米友が、こういうことになると真面目に苦心するのです。甲州の袖切坂《そできりざか》で鼻緒の切れたお角の下駄を、どう処分しようかと思って、二里も三里も持ち歩いたこともあります。今はその下駄とも違って、不動明王のお像《すがた》だから、担ぎ出しは担ぎ出したものの、その心の中の苦心は容易なものではありません。
 で、両国橋へ来て、フト思案半ばに思いついたのは、やっぱりここから川の中へ投げ込むのがよかろうということでありました。両国橋から物を投げ込んだことは、米友には今までに経験がないではありません。第一には、天誅組《てんちゅうぐみ》の貼紙をした立札を引っこぬいて、この川の中へ抛《ほう》り込みました。第二には、金助から侮辱されて腹立ちまぎれに、頭からかぶって金助を、大川の真中へ抛り込んだこともあります。
 それで米友は、こんどもその伝で不動明王を、ここから川の中へ抛り込もうと考えたものらしい。それで米友は、恐る恐る画像を肩から取り卸して、橋の前後を見渡しました。あいにくのことに往来の人がかなりに多い。それがいちいち変な目つきをして、米友の挙動をジロジロと見るのが癪にさわる。どうも自分ながら盗み物でもするように気がとがめてならない。前に立札を投げ込んだ時のように、また金助を抛り込んだ時のように、端的に、痛快にやっつけてしまうことのできないのが忌々《いまいま》しい。そこで米友は、せっかくの名案も実行が渋って、いったん肩から取下ろした不動尊の画像を、また担ぎ直して、非常な不機嫌な顔色をして、
「ちぇッ」
 舌打ちをして焦《じ》れったそうに、また両国橋を渡り出しました。
 彼は事をなす時には端的にやっつけてしまうが、その端的が外れると、もう底知れずにぐずついてしまいます。一旦、川へ投げ込みそこねてみると、もう駄目です。大川へ投げ込めないものが、神田川へ投げ込めるはずがない。大川へも神田川へも投げ込めないものを、そこらの堀や溝へ投げ込めるものではない。米友は思案に暮れながら不動尊を担いで、どこを歩むともなく歩み歩んで行きました。
 しかしながら、いくら歩いてもこの上いい知恵の出ないことが哀れです。誰かしかるべき人に預けたのがよかろうと、それは幾度も思案にのぼらないではありません。けれども、こうなってみると、預けた先も心配になるし、預けるというそのことも心配になります。たとえば道庵先生とか、盲法師の弁信とかいうような者に、事情を打明けて頼めば、いやとは言うまいけれど、米友の気象では、そう言って頼むのが癪にさわります。なんだか自分が、この一幅の画像に怖れをなして、逃げ隠れでもするように見られるのが癪にさわらない限りもない。それで米友は、しかるべき相談相手を求めようとする気にもならないのであります。自分で自分の心が済むように始末しなければ、男の一分が立たないように思われてなりません。ですから、土にかじりついても、この画像だけは自分で始末をしようとして、煩悶《はんもん》しながら歩いているのです。
 ところが、これほど煩悶している米友の眼の前へ、ちらちらと不動様のお姿が現われます。今までは夢にのみ現われた不動様が、米友がこうして煩悶していると、ありありとその怖い面を向けて米友を睨《にら》みつけるのだから、米友は焦《じ》れるばかりです。いったい、不動尊という奴がなんの恨みがあって、おれにこうして附き廻るのだ。今までに米友は、なにも不動様に恨まれるようなことをした覚えがない。夢になり、うつつになって自分の眼先へちらついて、こうまで俺を苦しめる不動様という奴の了見方《りょうけんかた》がわからねえと、米友は腹が立ってたまりません。
 米友の風采《ふうさい》もかなり奇怪に出来てはいるが、どうも不動様とは太刀打ちができないらしい。ややもすればその不動様に睨みすくめられてしまうのが残念でたまらない。事実あるものならばそれでもよいが、画像はこうしてクルクルと捲き込んでしまってある以上は、この世のいずこを尋ねても、不動様なんていうものがあったらお目にかかる。ありもしないえそらごとの不動様に、夜も昼も睨められて、こっちの睨みが利かなくなるとは、腹が立って腹が立ってたまらない。腹が立つけれども、どうも喧嘩の相手がないには閉口です。相手といえばこの画像だが、さてこの画像を相手に、どう処分していいか、それの思案に思い悩まされているのだから、どうにもこうにも仕方がない。
 いつのまにか米友は、柳原の土手の通りを通り過ぎて、加賀ッ原のところまで来て見ると、加賀ッ原の真中に足軽のような者が、塵芥《じんかい》を集めて焼き捨てていました。多分、貧窮組の捨てて行った米の空俵や、蓙《ござ》や蓆《むしろ》の類《たぐい》であろうと思われる。それをじっと立って見ていた米友が、また一思案を思い浮べました。
「そうだ、焼いてしまえば、元も子もなくなる」
 そこで、ブルブルと身を振わして、自分ながらこの名案を喜んだものらしい。けれども、ここで焼こうとするのではない、どこかしかるべきところを選んで、心静かに焼いてしまいたい。そう感づいたから、急ぎ足で歩き出しました。
 少しは遠くなっても、なるべくは、ずっと江戸の町を離れた人のいないところで、心静かに不動様を焼いてしまいたい。米友は、そう思って、跛者《びっこ》ではあるけれども達者な足を引きずって、昌平橋をずんずんとのぼって行きました。
 足に任せて歩いた米友は、幾時かの後に広々とした野原に出ました。そこは代々木の原であります。米友は、代々木の原とは知らないで、ここいらならばよかろうと思いました。そうして不動尊の画像は、木の枝にかけておき、それから四辺《あたり》の山林へ分け入って、杉の落葉だの、雑木《ぞうき》の枯枝だのというものを盛んに掻《か》き集めて来ては山を築きました。さて、時分はよしと思ったのに、気のつかないことったら仕方がないもので、米友は火道具というものを持っておりませんでした。この人は煙草を喫わない人だから、常に火打道具を携帯しているというわけにはゆきません。途中で、そんなことに考えつきそうなものだが、この場に立至るまでそれと気がつかなかったのは、おぞましいともなんとも言いようがありません。泥棒をつかまえて縄を綯《な》うような、ブマなことをしでかした自分を、米友は歯痒《はがゆ》く思って地団駄《じだんだ》を踏みました。
 四辺《あたり》を見廻したところで、その時分の代々木あたりは、深山幽谷も同じものであります。旅人をつかまえて火種を借りるというわけにもゆかないし、どうしても最寄《もよ》りの百姓家へでも行って、火打道具を無心しなければならない羽目です。
 詮方《せんかた》なく米友は、代々木の原を立ち出でました。林のはずれを見ると、天気がいいものだから丹沢や秩父あたりの山々が見えるし、富士の山は、くっきり姿をあらわしていました。米友も久しく見なかった広い原と、高い山の景色に触れると、胸膈《きょうかく》がすっと開くようにいい心持になりました。原を出ると大根畑があって、その向うに生垣《いけがき》があって、そこでギーッと刎釣瓶《はねつるべ》の音がします。米友は、畑の中の道を突切って行って見ると百姓家です。その百姓家の門口へ立ってみたが、さて何と言って火種を借りていいか、ハタと当惑してしまいました。煙草の火とも言えないし、さりとて不動様を焼くのだからとはなお言えない。なんと言いこしらえて火種を借りようとグッと詰まって、空《むな》しく百姓家の門口に突立っていました。そうすると百姓家の台所から、けたたましい声と羽バタキをして、大きな鶏が一つ飛び出して来て、戸惑いして、米友の頭に乗っかろうとしました。さすがの米友もこれには面喰って、鶏を払いのけると、そのあとから小犬が飛び出して来て、米友に向って頻《しき》りに吠え立てるのです。
 こんなことでは駄目だと、米友は観念しました。まだ頼みもしない先から鶏にばかにされたり、犬に吠えられたりするようでは、頼み込んでみたところで剣突《けんつく》を食うか、そうでなければ泥棒扱いでも受けるぐらいが関の山だろうと思ったから、米友はそのままでスゴスゴとまた畑道を引返したものです。仕方がない、少しく遠くなっても町のあるところまで出かけて、銭を出して、火打道具を買い求めて来るよりほかはないと思いました。
 米友が畑道を引返して来ると、畑の畔《くろ》で、百姓が一人、子供を相手に話しています。
「これ見ろ作十、誰か榛《はん》の木山ん中へ、こんな掛物を置きっぱなしにして行っただあ、ことによると泥棒かも知んねえ」
「爺《ちゃん》、あにが書《け》えてあるだえ」
 百姓の老爺《おやじ》と子供とがその掛物を拡げて見ようとするところだから、米友は眼の色を変えて駈け寄って、横の方から、それをひったくりました。
「おいらの不動様だイッ」
 百姓親子は、眼を円くしました。
 水に入れようとしてやりそこない、火に焼こうとしてまたやりそこなった米友は、ぜひなく不動尊の像をかついで、代々木の林を立ち出でました。
 その途すがら米友は、なお頻《しき》りにこの画像の処分方を考えていました。そうして最後に考えついたのは、前よりはずっと穏健な仕方であります。それは個人に頼むことこそ億劫《おっくう》だが、しかるべき堂宮《どうみや》へ納めてしまえば文句はなかろう。堂宮といううちには、神仏それぞれ持ち分があるのだから、不動様を閻魔様《えんまさま》の許《もと》に頼むわけにはゆくまい。不動様は不動堂に限ると思いました。で、住職か或いは堂守に、事情を言いこしらえて納めてしまえばイヤとは言うまい。イヤと言えば抛《ほう》り込んで逃げてしまおう、とまで決心して、ようやく人通りのあるところへ出た時に、この辺にしかるべき不動堂はないものかと人に尋ねました。その人が、下総の成田山の出張所が、御府内のどこそこにあるということをよく教えて聞かせました。しかし米友は、江戸の市中まで持って帰りたくはないのだから、江戸に近い田舎でしかるべき不動様はないかというようなことを尋ねると、それはまた滝の川の不動様と、目黒の不動様だろうという返事でありました。
 その二つの不動様のうち、どれが近いかと尋ねると、ここからでは目黒の方が、ずっと近いということでしたから米友は、よし、それでは目黒の不動にしようと、その方角を、よくよく聞き取ってそちらに足を向けました。
 米友が不動尊の画像をかついで、目黒不動の境内《けいだい》まで来て見ると、そこが大変に賑やかで、お祭か縁日かであるらしい。あんまり賑やかで、かえってきまりが悪いと思いながら米友は、その人混みの中へずんずんと入って行くと、その日にこの庭で「富《とみ》」があったものです。
 米友には、まだ「富」の観念がよく定まっておらないながらに、札場《ふだば》の中へ入って、人の蔭になって様子をながめていたものです。
 世話人が箱の中から、錐《きり》で本札《もとふだ》を突き出して番号を読むと、みんなが持合せの影札を見比べて、当ったものは嬉しそうに、当らないものは、しおらしい面《かお》をしています。当った番号は紙に書いて、向うの柱へ貼り並べられました。それが大変な人気ですから、札には利害関係のない米友も、つい面白くなって頻りに富札の景気を見ていました。
 面白がって見ているうちに、一の富七十三番の札が落ちました。跳《おど》り上って喜んだのは品川宿の建具屋の平吉という若い男で、この百両が平吉の手に落ちることにきまると、当人も嬉ぶし、誰も彼も羨ましそうに見えました。平さんは札とひきかえにその百両を受取って、いそいそとその場を出かけると、平吉を知っている人が、あぶないものだ、平さんにあれを持たしては帰りがあぶないと言って眉をひそめたのは、その幸運をそねんで言うものとは思われません。また帰りに泥棒や追剥《おいはぎ》につけられるという心配でもなく、それは、平さんという男の人柄を見てもわかることで、持ちつけない大金を持ったため、途中、出来心でどんなところへひっかかってしまうかわからない。それをあぶながっているものらしくあります。
 果せる哉《かな》、この平さんは百両の富が当った嬉しまぎれに、友達を無暗に引っぱって角の店へ上って、景気よく一杯やり出しました。
 これは平さんがあまりよろしくないのです。こういう時は、何を置いてもいったん自宅へ帰って、女房の前へその百両を見せて喜ばせた上に、近所の者を呼んで一杯やるということにしなければ本当ではないのだが、嬉しい時は、なかなかそうは思慮が廻らないもので、ついここで百両の封を切って散財することになりました。
 そうすると、みんなしてこの平さんをチヤホヤした上に、店の女中を初め、見知らぬお客までが、その当り運にあやかりたいというわけで、一杯いただきたがるものだから、平さんは断わりきれないで、つい、うかうかと呑んでいるうちに、腹のしまりがつかなくなりました。どのみち、あてにしない金であるところへ、こうして福の神の生れ代りみたように、あがめ奉られては、平さんに限らず箍《たが》のゆるむのは仕方のないことです。
 ちょうど、この時に、五六騎|轡《くつわ》を並べて通りかかった侍の遠乗りがあったために大事が持ち上りました。いずれもしかるべき身分でもあり、年配でもあって、軽からぬ役目をつとめているものらしい人品です。わざと多くのともをつれないで、微行《しのび》の体《てい》の遠乗りであったが、そのうちの一人が、逞《たくま》しい下郎に槍を立てさせていました。
 その槍は九尺柄の十文字であります。それがちょうど、この店の下へ通りかかった時に、運悪く二階の上からクルクルと舞い下って、この十文字の槍の鞘《さや》にひっかかったのが、鎖紐《くさりひも》の煙草入であります。根付《ねつけ》とかます[#「かます」に傍点]とが、十文字の鞘で支えられたのだから、ちょうどいいあんばいにひっかかったのではあったけれども、それが大事の槍であったから、槍持の奴《やっこ》は嚇《かっ》としました。槍持の奴と面《かお》を見合せた馬上の侍は、むっ[#「むっ」に傍点]として言わん方なき不快の色を示して通り過ぎたけれど、この槍持奴だけは、根の生えたようにそこへ突立って動きません。
 仁王立ちに突立った槍持奴は、槍の鞘にひっかかった煙草入を取ろうともしないで、そのまま大地に突き立てて、頭から湯気を立ててこの家の二階を睨《にら》み上げています。
 さしも騒がしかったこの店が、その時に水を打ったように静かになりました。店の者が一人も残らず面の色を青くしました。往来の人も歩みをとどめてしまいました。
 そこへ店の中から転り出したのが例の平さんでありました。実は平さん自身が飛び出さない方がよかったのだけれども、この男は正直者でもあり、慌《あわ》て者でもあったから、店の者から何か言われると、慌ててここへ飛び出して来たものです。
 そうして槍持奴の前へ土下座をきって申しわけをすると、槍持奴は雷《かみなり》の割れるような声で、
「このかんぶくろ[#「かんぶくろ」に傍点]はてめえのか」
 平吉は縮み上って、
「はいはい、手前のでございます」
「てめえのなら持って行け」
「はいはい」
「早く持って行け、何でえ、何で手なんぞを出しやがるんだい、この槍へ上って自分の手で取って行きやがれ」
 持って行けと言いながら、槍はそこへ突き立てたままです。
 この時に、前の五六騎づれの侍たちについていた仲間《ちゅうげん》たちが、ほとんど残らず取って返して、ズラリと平吉を取巻きました。
 人に揉まれて来た米友が、聞くともなしに聞いていると、事件の要領はこうです。
 百両の富に当った品川宿の平吉という建具屋が、嬉しまぎれに身近の人を招《よ》んで、角の店の二階で飲んだ揚句《あげく》、連れの一人が、平さん大金持になった上は、こんな安っぽい煙草入はよしてしまいねえと言って、冗談にポンと往来へ抛り出す真似をしたのが、どうしたハズミか本気に手が辷《すべ》って、二階から往来へ飛び出してしまいました。飛び出した煙草入が運悪く、通りかかった十文字の槍の鞘へからみついてしまいました。事件の要領はただそれだけです。事柄はただそれだけだけれど、煙草入のからみついた相手が悪かったから、全く始末のいけないことになってしまいました。
「いけねえ、いけねえ、平さんは鈴喜《すずき》の庭へ引張り込まれてしまった。あすこにはお歴々の方がお微行《しのび》で大勢休んでおいでなさるんだ、なんでもお奉行のお方や、与力の方で、いずれも飛ぶ鳥を落す御威勢のお方なんだそうだ。そのお槍へ平さんの煙草入がケチを附けてしまったものだから、納まりがつかねえ、なんでも平さんは、あのお槍で殺《や》られちまうんだそうだ、あのお槍を持った殿様が、平さんを突き殺しておいて、あとで五人の殿様が試し斬りをなさるんだって言ってましたぜ。もう助かりません、何しろ、あっちが飛ぶ鳥を落すお歴々のお揃いだから、誰も口の出せるものがありゃしませんや、こればっかりはお庄屋様だって、不動院の御前《ごぜん》だって、後へ引いておしまいなさる。ああ平さんがかわいそうだ、平さんがかわいそうだ、こんなことだったら早く私たちが連れて帰りさえすればよかったんだが、ついここで飲み出したのが悪かった。平さん、友達甲斐がねえと恨んじゃいけねえよ、全く友達甲斐がねえんだから、恨まれても仕方がねえけれど、災難にしても、災難があんまり大き過ぎらあ。あれで皆さん、平さんには女房もあれば子供も二人まであるんですよ、おかみさんは今日の富を心待ちにして待っているんでございますよ、まさか百両の一番札が落ちようと思いませんが、もしいくらでも当りさえすれば、子供にああしてやろう、こうしてやろうなんて、出がけに算当《さんとう》を組んで笑いながら切火をきってくれたもんです。それがこんなことになったと言って、どうして私はおかみさんに合わす面《かお》がありましょう、金さん、お前が附いてながら、早く連れて帰ってくれさえすればこんなことになりゃしないと言って、おかみさんに泣かれたら、わたしゃ何と言って言いわけをしましょう。私が友達甲斐がねえから平さんを、あんなことにしてしまった、皆さん、わたしゃ平さんに済まない、平さんのおかみさんに済まない、なんとかして下さいよう」
 こう言っておいおいと泣いているのは、同じ品川から平吉と一緒に連れ立って、今日の富へ来た友達の一人であります。多分、煙草入を手から辷《すべ》らしたのがこの男でしょう。いい男が手放しで泣くのだが、この場合に限って同情の至りで、ほとんど貰い泣きをしたがるものばかりです。しかし、こう言って泣きつかれても今更、誰がどうしてやろうと言うこともできません。
 宇治山田の米友が、うなり出したのはこの時です。

 米友が鈴喜の家の裏手の竹藪《たけやぶ》の中をうろついていたのは、それから間もないことでした。
 庄屋様に行っても、竜泉寺の住職を煩《わずら》わしても、お詫《わ》びの叶《かな》わないと言われるのを米友が、救い出そうとするつもりか知らん。
 例の不動尊の画像は刀でも差すように、腰へしっかと挿《はさ》んで、藪の中にある大木へ攀上《よじのぼ》りました。その大木の上から見下ろすと、鈴喜の家の庭から、開け放した間取りまでが手に取るようです。
 庭は思いの外ひっそりとしていたが、その一方の隅の楓《かえで》の木の下に、後ろ手に結《ゆわ》かれているのは建具屋の平吉という人らしい。座敷の上には、お歴々の遠乗りの連中が食事の最中と見えて、誰も平吉を顧みる者がない。槍持の奴《やっこ》の姿も見えなければ、仲間連中も一人としてその番をしている者はありません。ああして木の根へ括《くく》っておけば、あえて番人を附ける必要はなかろうけれど、うっかりしているのは、問題の十文字の九尺柄の槍です。あれほど大事な槍が、ここでは無雑作《むぞうさ》にその楓の木へ、横の方から立てかけられてあるだけです。大木の上から事の体《てい》を一通り見下ろした米友は、その無雑作に立てかけられた十文字の九尺柄の槍を見ると、むらむらと悪戯心《いたずらごころ》が起りました。
 問題の中心はあの男でなくて、あの槍であると思いました。それにからまった鎖紐の煙草入なぞは、もとより物の数ではないが、槍はたしかにあの連中のうちの表道具である。この場合、中へ飛び込んで、あの男を助けて来るのは容易なことではないが、あの槍を取り上げてしまうのは、さしたる難事ではないと気のついたのが、米友の悪戯心をそそったわけです。それをするには、ここから物置の屋根へ飛びうつって、母屋《おもや》の庇《ひさし》を渡り、そこに腹這《はらば》って手を延ばしさえすれば、楽々と槍を捲き上げることができる――と気がついてみると、それは面白い面白い、早く捲き上げて下さいと、槍の方で米友を手招ぎするように見え出したから堪りません。極めて身軽に米友は、大木の上から物置の屋根へ飛び下りてしまいました。
 飛び下りた途端に帯をゆすぶって、腰に差していた不動尊の画像を背中へ廻し、そのままズルズルと走って母屋の庇へ出ました。庭では牡鶏《おんどり》が一羽、小首を傾《かし》げて物珍しそうに、米友の挙動をながめているだけです。
 そこで米友は庇の上へ腹這いになって下をのぞいて見ると、食事を了《おわ》ったお歴々の連中は、しきりに比翼塚《ひよくづか》の噂をしているらしい。結《ゆわ》かれている平吉はと見れば、死人のようになって、すすり泣きをしているのがかわいそうです。
 米友は右の手を差伸べると、楓に立てかけた槍をスルスルと引き上げました。同じ木の根に結かれていた平吉すらもそれを知らないくらいだから、誰あって感づいた者はありません。ただ、屋根の上を歩いていたブチ猫がこの体を見て、急に両足を揃え、背骨を高くして、威嚇《いかく》の姿勢を示したのが、米友を苦笑いさせただけのものでした。
 仕済《しす》ましたりという面をして米友は、その槍を小脇にかい込むや、また以前の物置の上へ舞い戻って、そこから塀を伝わって、屋根の外へ出てしまいました。
 それからいくらも経たない後のこと、いざという時に、楓の木へ立てかけた槍がありません。槍持の奴は青くなり、誰にたずねても要領を得たのはない。平吉は打っても叩かれても知ろうはずがない。どうしても行方不明とあれば盗まれたのだ。盗まれたのは煙草入をからまれたよりは少し痛みが重い。ことに奉行であるか、与力であるか知らないが、そのお歴々が五六騎集まっている眼の前で盗まれたとすれば、いよいよ痛みが重い。
 こうして鈴喜《すずき》の家の内外では、槍の紛失から青くなって騒いでいる時分に、外から一つの報告がありました。
 不動の境内《けいだい》で、見慣れない小男が、しきりに十文字の槍をおもちゃにしているということです。槍をおもちゃにしているという報告は、穏かならぬ知らせです。鈴喜の家の内外を探しあぐねた連中が、ソレと言って我れ先に飛び出しました。
 これより先、槍を荷《にな》った宇治山田の米友は、どういう了見か知らないが、不動の境内の人混みの中へ取って返しました。十文字の槍は肩にしているが、不動の画像は腰にたば[#「たば」に傍点]さんでいます。
 いったい、この時分の米友の了見方というものは、米友自身にもよくわかりません。近来のことは世間にも、米友の周囲にも、あまり変兆《へんちょう》が多いから、この短気な正直者は精神に異状と言わないまでも、多少|自暴気味《やけぎみ》になっているかも知れません。槍を担ぎ出して、人目に触れない方角はいくらもあるのに、好んで人出の多い不動の境内へ取って返して、多くの人の注目に頓着せず、悠々と歩いて行くはあまりといえば非常識です。
「おーい、小僧待て!」
 かの槍持奴《やりもちやっこ》をはじめ仲間ども、そのあとには鈴喜の家の主人雇人までがくっついて、ちょうど三仏堂の前まで来た時、その声を聞いて米友が、屹《きっ》と後ろを振返りました。
 すわ、何事! と思ったのは、前から事のなりゆきを知っているものばかりではありません。
 待っていた! と言わぬばかりに宇治山田の米友は、九尺柄の十文字の槍を地に突き立て、三仏堂の前に蟠《わだかま》りました。その体《てい》を見ると、槍持の奴の癇癪《かんしゃく》が一時に破裂して、
「野郎、その槍はどこから持ってきた」
「鈴喜んちの庭から持って来た」
 米友はあえて驚かない。
「野郎、誰にことわって持って来た」
「屋根の上の猫と、庭にいた鶏にことわって持って来た」
「野郎、野郎」
 槍持の奴は、にぎりこぶしを両方から握り固めました。
「何が野郎だ」
 米友は短い両の足を、程よく踏張《ふんば》りました。
「よこしゃがれ」
 槍持の奴は、米友をけし[#「けし」に傍点]飛ばそうとかかると、
「いやだい!」
 身体をこころもち反《そ》らせて、かかって来た槍持を左の手で、ひょいと横の方へ突きました。そこで槍持の奴が、はずみを食って脆《もろ》くも右の方へゴロゴロと転がったから、見ているものが驚きました。
「おや」
 見ている者が面《かお》の色を変えた時に、宇治山田の米友が地団駄を踏んで、
「ただはやれねえやい、この槍が欲しけりゃ、代りの品を持って来いやい」
 こう言って米友は、三仏堂の縁の前へ飛び上りました。
 驚くべきことには、その途端に十文字の槍の鞘《さや》を払ってしまったものです。それはハズミで鞘が取れたのではなく、米友自身が心得て鞘を払った上に、当人がその鞘を丁寧に懐中《ふところ》へ入れてしまったから、間違いという余地はありません。槍の中身は、さすがによく手入れが届いて明晃々《めいこうこう》たる長剣五寸横手四寸の業物《わざもの》です。
 これは誰も気狂《きちが》いだと思いました。その気狂いが槍の鞘を払って、ともかくも寄らば突かんと構えたのだから、命知らずでも、これはうっかりと近寄れません。
 たとえハズミにしろ、槍持の奴を取って投げた今の早業からして見ると、かりそめに構えた槍の姿勢というものは、無茶に打ってかかるの隙が見出せないことが、不思議といえば不思議です。剣呑《けんのん》といえば剣呑です。
 宇治山田の米友がいま構えている姿勢というのは、心あってかなくてか、「大乱《おおみだ》れ」という形になっていました。これは多数の太刀《たち》を相手に応対する時、十文字槍の人が好んで用ゆる姿勢で、槍を中取《ちゅうど》りに持つのを米友は、もう少し突きつめているだけが違います。この姿勢で充分に使わせると、左右を薙《な》ぎ立てることができます。近寄るのを追払って寄せつけないことができます。また薙刀《なぎなた》をつかうと同じように使って、敵を左右へ刎退《はねの》け、突きのけることもできます。面と、腕と、膝との三段を、透間《すきま》もなく責め立てて敵を悩ますこともできます。太刀を取って向って来るものを上段に突き出して、脇架《わきか》に大きく引き取ることも自在です。米友は心あって宝蔵院流の大乱れの型を用いているのではなかろうけれど、その構えがおのずからそうなっていることは争えません。争えない証拠には、タジタジと後ろへさがる者はあっても、米友の槍先に向って行こうとする者がないのであります。
 米友が大乱れに取っていることが、米友自らの気取りでないくらいだから、立っている者もまた、本式にそれを受取ることのできないのは勿論《もちろん》です。ただ精悍無比《せいかんむひ》……というよりは無茶なその挙動が、すべての人の荒胆《あらぎも》をひしぎました。気狂いの刃物には、うっかり近寄らないがいいという聡明さが、タジタジと、さすがの命知らずをも後しざりさせたものと見えます。
 実際また竜之助に離れて以来、不動の夢を見つづけに見てからの米友というものは、気狂いにこそならないけれども、その心理作用に異常な焦《あせ》りがありました。建具屋の平吉なるものの災難を聞いたところで、一種の義憤を含む例の短気がむらむらと萌《きざ》したことは、この男としては寧《むし》ろ可愛いところであって、いつもいつもそれがために得をしてはいない。その度毎に命の綱渡りのようなことばかりしているのだが、幸いに、危ないところで一命だけはとりとめているのだが、それにしても今日のはあまりに無茶です。
 もし、取巻いている奴等が突っかかって来たら、縦横無尽に突き立てるつもりか知らん。いつか甲州道中の鶴川で、川越し人足を相手にやった二の舞を、そこでもやり出すつもりか知らん。あの時は幸いに、駒井能登守という思いがけない仲裁人が出て来て、頭を坊主にされて納まったけれども、今日はあの伝ではゆくまい。能登守のような物のわかった、押しの利く仲裁人が滅多に出て来ようとも思われないのに、もし一人でも負傷させたということになると、今度は甲州の山の中の川越し人足とは相手が違って、非常な面倒なものになる。その上に、またいくら米友が荒《あば》れてみたところで、楓《かえで》の木に結《ゆわ》いつけられている建具屋の平吉が赦《ゆる》さるべきものでもなく、かえって米友が荒れれば荒れるほど、平吉の罪も重くなるというものでしょう。それですから、ここで米友が力《りき》み出したのは全く無茶です。義憤としては意味をなすかも知れないが、義侠の振舞としては全然|事壊《ことこわ》しであります。
「みんな聞いてくれ、おいらは品川宿の平吉なんて人は知ってやしねえんだ、煙草入が引っかかったのも、おいらの知ったことじゃねえや、ただ、あんまり癪にさわるから、時候のかげんで、この槍を持ち出したくなったんだ、鎌宝蔵院の九尺柄の使いごろの槍だから、虫のいどころで、今日は思う存分に使ってみたくなったんだ、使ってしまったら返してやるから、それまでおいらに貸してくれ」
 そう言ってクルクルとさせた眼中が、気のせいか、今日は殺気を帯びているようです。
 ややあって宇治山田の米友は、九尺柄の十文字の槍を、宙天高くハネ上げました。下まで落ちて来る間に手拍子を丁《ちょう》と一つ打って、その手で受け止めると、右の手で水返しのあたりを掴《つか》んで、十文字を外輪《そとわ》にして、自分の身体を心棒に、独楽《こま》のようにブン廻しをはじめました。これは鎌宝蔵院流七十三手のうちには無い手です。かりに積ってみると槍が九尺、米友の手の長さが一尺五寸として、直径二丈一尺の大独楽が廻りはじめたものです。しかもその独楽の外輪は鎌になっているのだから、当れば肉も骨も切れてしまいます。
 見ている者が肝《きも》を冷して遠退いたのは無理もありません。縁日で歯磨を売る香具師《やし》が、その前芸をやるために、あまり見物を近くへ寄せまいとして地面へ筋を引いて廻るのを、ここでは鞘を払った真槍《しんそう》で、無雑作にブン廻しをはじめたのだから、その乱暴さ加減は格別です。
 こうして見物を程よく追払っておいた米友は、一方の角から一方の角へ向けて、真一文字に走り出しました。
 これには見物は驚かされたが、その走り方が尋常ではありません。さながら鳥が両翼をひろげて、低く飛んで行くような走り方です。眼前にかなり広い沼があって、その沼の上を一文字に飛んではいるが、岸に着くと、はたと翼を納めて休《やす》らわんとする気合の飛び方でありました。これはまさしく鎌宝蔵院でいう「飛乱《ひらん》」の型であります。
 一方の見物が、あっ! と飛び退いた時には、宇治山田の米友はクルリと背を向けて、また前の方角へ真一文字に走り出しました。前には中空を飛ぶ鳥のような姿勢であったが、今度は形を下段《げだん》に沈めて、槍を一尺ほどにつめて走るのが、さながら猛獣の進むが如き勢いであります。
 それで一方の見物がまた、はっと飛び散ったけれども米友は、素早く身を返して元のところに突立って槍を中取りに持ち、前へ突き出しかたと思うと、柄を返してはった[#「はった」に傍点]と物を打つような形をしました。左から打ち込み、右から打ち込み、さながら棒と槍とを併せて使うように、九尺の十文字を両様に使いました。
 それが終ると、十文字の長剣だけは遊ばせて、横手の鎌だけをヒラリヒラリと胡蝶《こちょう》のように舞わしています。十文字を逆手《さかて》に持って、上から突き伏せる形をしてみるのかと思えば、躍り上って空飛ぶ鳥を打って落すように変化しました。穂先を三様に使い分け、槍の柄を二様に使い分けるのみならず、石突を返して無二無三に突いて引くかと見れば、飛び違いざまに敵の小手へ引鎌《ひきがま》をかけて滝落しの形がきまります。
 こうして宇治山田の米友は、たった一人で無茶苦茶に十文字の九尺柄をおもちゃにしています。おもちゃにしているわけではないが、見物の者にはそうとしか見えないのであります。しかし、そのおもちゃの扱いぶりの熟練と軽妙とを極めた捌《さば》きは、無心で見ている見物をも酔わせるほどの働きでありました。
 自棄《やけ》にしても気狂《きちが》いにしても、これは面白い観物《みもの》だと思わないわけにはゆきません。たしかに面白いには面白いが、あぶないこともまたあぶない。だからうっかり、いよいよ近寄ることはできません。怒気紛々として掴みかかろうとしている下郎たちも、どうにもこうにも米友に近寄る隙さえ見出すことができません。ひとりで無茶苦茶に使っている槍が傍へ寄れば、きっと物を言うにちがいない。物を言えば必ず田楽刺《でんがくざ》しに刺されてしまいそうである。思いがけない気狂いだと思いました。誰もまだ、ほんとうに米友が槍を心得ているのだと気のついたものはありません。自棄に振り廻している槍の間から、本格と変則とが米友流に随処にころがり出すその妙処を、見て取ってくれる人のないのが気の毒です。気の毒であるのみならず、この時に、どこからともなく泥草鞋《どろわらじ》が片一方、米友の面上を望んで降って来ました。その泥草鞋は身を沈めて避けたけれども、それを合図に石や、木や、竹切れが、雨霰《あめあられ》と降って来ました。
 それと見るや米友は横っ飛びに飛んで、三仏堂の縁の上へ飛び上ったかと思うと、扉を押して堂の中へ身を隠し、素早く中から扉を閉して閂《かんぬき》を締めました。
 そこで、かの槍持奴をはじめ、仲間どもは扉の前まで押寄せたけれども、さて、それを踏み破って、一歩を堂の中へ踏み入れようということには、躊躇《ちゅうちょ》しなければなりません。踏み込んだが最後、中に待ち構えた気狂いのために、田楽刺しにされることは請合いと思わなければなりません。そのほかの群集は徒《いたず》らに三仏堂のまわりを取巻いて、わいわい噪《さわ》いでいるばかりです。
 ややあって、高い欄間《らんま》の間から面《かお》を現わした宇治山田の米友が、群集を見下ろしてこう言いました。
「おいらは宇治山田の米友といって、生れは伊勢の国の拝田村の者だが、わけがあって江戸へ出て来たには出て来たが、江戸に来ても根っから詰まらねえや、時候のせいかこのごろは、気がいらいらしてたまらねえ、右を向いても、左を向いても、癪《しゃく》にさわる世の中だ、いったい、おいらのような人間は、見るもの、聞くものが癪にさわるように出来てるんだと、このごろつくづくそう思った、だから、死んでしまった方がいいんだろう、命なんぞは惜しかあねえや、この世の中に未練なんぞはありゃしねえんだ、おいらは気が短けえから、いやになると自分の命までがいやになってたまらねえ、親兄弟があるわけじゃなし、女房子供があるわけでもねえから、どうでもなる命だ、命のもてあましだ、そうかと言って、川へ飛んだり、首を縊《くく》ったりするのも気が利《き》かねえからな、ちょうどいいところだ、あの建具屋の若いのに身代りになってやろうと思って、こんな悪戯《いたずら》をやり出したんだ、どうだい、あの若いのにはおかみさんもあれば、子供もあるという話だから、おいらは今いう通り、そんな厄介者は一人もねえ命のもてあまし者なんだから、身代りにしてくれねえか、つまり、あの建具屋の縄を解いてやって、その代りに、おいらをふん縛ってくれ、あの若いのを助けてやってくれさえすりゃあ、素直《すなお》にこの槍を返してやるよ、それが承知ができなけりゃ、当分このお堂の中でお籠《こも》りだ、無茶に踏み込んで来る奴がありゃ、この十文字でいちいちドテッ腹へ穴をあけて、冥途《めいど》へ道連れにしてやるまでのことだよ、断わっておくが、こう見えても、おいらは槍だけは一人前に遣《つか》えるんだぜ、見る人が見たらわかるんだろうが、おいらの槍は天然自然に会得《えとく》しているんだぜ、それに木下流の磨きをかけているんだぜ、槍は身に応じたもので、おいらの身体では二間三間の槍は柄《がら》に合わねえ、九尺の十文字でさえ、ちっとばかり長過ぎるんだが、どうやらこれなら使えねえことはなかろう、本気にこの槍で、おいらが荒《あば》れ出した日には、死人、怪我人が山ほど出来るぜ、危ねえもんだが、おいらはそれをやらねえ、おとなしくこのお堂の中へ隠れているから、誰か確かな人を証人に、あの建具屋の若いのを、おいらの眼の前で許してやってくれ、そうすれば、この槍はちゃんと返してやった上に、おいらが身代りになって、牢ん中へブチ込まれようとも、見ているところで首をちょんぎられようとも不足は言わねえ、誰でもいいから話のわかる人を出して、しっかりと挨拶をしてくれ、それからついでに、お握飯《むすび》に沢庵《たくあん》をつけて三つ四つ差入れてもらいてえ」
 聞いている者がその言い分の不敵なのに呆《あき》れ返りました。呆れ返りながらも、聞いてみると幾分の道理がないでもない。ことに最後に握飯《むすび》を差入れろということは、かなり虫のいい注文だと思いました。しかし腹が減っているだろうから、それも無理のない注文だと同情する者もありました。
 この事件はついに、泰叡山《たいえいざん》の方丈《ほうじょう》を煩わして、解決をつけることになったのは幸いです。
 槍の主も、こうなっては事を好まないらしい。米友の言うような条件で、建具屋の平吉を許してやる代りに、米友が縛られることになりました。その証人は泰叡山の方丈です。十文字の槍は元の主へかえって、米友は縄をかけられて、名主の家へ預けられました。
 それでこの事件の当座の解決は出来たが、後難があるといえばその後難は、一に米友の身にかかって来るはずです。けれども、それは泰叡山の取扱いでどうにかなることでしょう。

         二

「ナニ、水戸の山崎? 山崎がここへやって来たのか」
 さすがの南条力も、何か呆《あき》れ面《がお》でありました。
「さきから、お屋敷の前を行ったり来たりしておいでになりました」
「そうか、訪ねて来たものを会わないわけにもいくまい、ここへ案内してくれ給え」
 案内に立ったお松は、再び玄関へ取って返そうとすると、南条はお松を呼び留めて、
「お松どの、ちょっと待ってくれ、その山崎という男は、直接《じか》に拙者の名を言って尋ねて来たか、それとも、最初にほかの者の名を言うて訪ねて来たのではないか」
「いいえ、ほかにはどなた様のお名前もおっしゃりはなさいません、南条様にお目にかかりたいと申しました」
「そうか、それならばよろしい、間違っても宇津木兵馬を訪ねて来たと言いはしまいな」
「左様なことはおっしゃいません」
「ま、もう少し待ってくれ、いま訪ねて来たその山崎譲という男はな、宇津木兵馬に会わせてはならない人だ、兵馬がこの家にいるということを知らせても悪い人だ、先方がなんと言っても兵馬の名を出してはいけないぜ。それから、兵馬の部屋をよく始末して、山崎に中を見られないようにしておかなくてはいかん、この後とても、その辺はよく心得ておいてくれ給えよ」
 南条は立って行くお松を、わざわざ呼び留めて、これだけの注意を与えました。
 やがて案内を受けた山崎は、南条の部屋へ入ると、
「いつぞやは失礼」
と言って挨拶しました。
「その節は失礼」
 南条もまた同じようなことを言って、礼を返しました。
 してみればこの二人は、もう既にどこかで初対面が済んでいるものと見えます。多分、中仙道筋から相前後して、甲府の城下へ入ってから後、あの辺で相見るの機会があったものと見なければなりません。
「南条殿はいつごろ、こちらへおいでになりましたな」
「左様、あれからまもなく、こっちへやって参りましたよ」
「ははあ、左様でござるか」
「して山崎君、君は」
「拙者は、つい、この二三日前に出て来ました」
「左様でござるか。して、当分はこちらにおいでか、或いはまた甲州筋へお立帰りなさるかな」
「早速、甲府へ帰り、それからまた上方《かみがた》へ出かけるつもりであったが、江戸へ来て見ると、江戸にも存外、いたずら者が多いから、当分は帰らぬことになりましたわい」
「ハハハ、どこへ行っても当節は、いたずら者が多くて困りますな」
「仰せの通り。上方のいたずら者は禁廷のお庭の前でいたずらをする、江戸のいたずら者は将軍の膝元をつついてふざける、なかにはものずきなのがあって、拙者如きの首まで欲しがる奴があるから、全くやりきれたものではない」
 山崎はこう言って自分の首筋を撫でて見せると、南条は抜からぬ面《かお》をして、
「実際、あぶないものさねえ」
と言いました。
「あぶないことこの上なし、今の江戸は将軍家がお留守で、お膝元の警備がゆるんでいるところにつけ込んで、たち[#「たち」に傍点]のよくないいたずら者がウヨウヨしている」
「それとても、たかの知れた浮浪人の仕業《しわざ》ゆえに、大したことは、ようせまい」
「ところが、事体《じたい》は意外に重大で、浮浪人の後ろには、容易ならぬ巨根《おおね》が張っている、その根を断つにあらざれば葉は枯れない。どうです南条君、その巨根をひとつ掘り返してみたいものだが、手を貸して下さるまいか」
「拙者共でお役に立つならば、ずいぶんお手助けを致すまいものでもないが、いったい、その巨根というのは何者だ」
「それは三田の四国町あたりに巣を食っている」
「なるほど」
「つまり、いたずら者の本家本元は薩摩だ、薩摩というやつは実に不埒千万《ふらちせんばん》なやつだ、その薩摩を取って押えて、ふか[#「ふか」に傍点]したり、焼いたりしてしまいたいものだ」
「なるほど」
 南条はなるほどと言って、妙な笑い方をしました。
「薩摩を掘り返して、ふか[#「ふか」に傍点]したり、焼いたりして食ってしまわなければ、江戸の市中は鎮《しず》まらん」
 山崎が、今にもふか[#「ふか」に傍点]したての薯《いも》を食ってしまいそうなことを言うと、南条は皮肉な面をして、
「しかし、七十万石の薩摩薯だから、ふか[#「ふか」に傍点]しても、焼いても、かなり食いでがあるなあ。第一、ずいぶんあっちこっちへ蔓《つる》が張っているだろうから、掘り返すだけでもなかなか骨の折れる仕事じゃ」
「我々の仕業は、ただ蔓を手繰《たぐ》ってみりゃいいのだ、手繰ってみると、思いがけないところへその蔓が張っているから妙だ、本所の相生町あたりまで、その薯蔓が伸びているからなあ」
 山崎は胡坐《あぐら》をかき直して、煙草盆をつるし上げ、鼻の先まで持って来ました。
 そこで話が少し途切れているところへ、廊下を渡って来る人の足音がありました。南条の居間の前で、その足音が止まると、
「南条殿、おいででござりますか」
 障子を颯《さっ》と押開いたものです。
「あ……」
 それで南条も、ややあわてました。障子を押開いた人も面食って、入りもやらず、さりとて立去りもならず、
「お客来《きゃくらい》でしたか、失礼」
 その人はぜひなく障子を締め直して立去ろうとしたが、そのお客と面《かお》を見合せないわけにはゆきません。
「おお……」
 その声と共に障子をたてきって、さながら、見るべからざるものを見たように、あわただしくその場を辞して行きました。ここに来合せたのは不幸にして宇津木兵馬であります。山崎譲は南条に向って、
「南条殿、今のは貴殿のお知合いか」
「うむ、知っている」
 この時の南条の返答ぶりを聞いて山崎は、
「南条君、君、少年をそそのかしちゃいけないぜ」
 こう言って、頗《すこぶ》る冷淡に構えました。
「そりゃどういう意味じゃ」
 南条もそらとぼけているようです。山崎は莞爾《にっこり》と笑いました。
「いったい、九州の人間は、婦人よりも少年を愛する癖がある、君もまた九州人だろう」
「以ての外、拙者が九州人でない証拠は、拙者の音《おん》を聞いたらわかるだろう、婦人や少年のことは与《あずか》り知らんことじゃ」
「ははあ」
 山崎は、なおひとしお思案の体《てい》で、南条の弁解をうっかりと聞き流していたが、また煙草盆を鼻の先へつるし上げて、煙草の火をつけました。屈《こご》んで煙草盆の火をつけないで、火をつけるたびに煙草盆の方を鼻の先までつるし上げるのがこの男の癖と見えます。
 南条が何かしら躍起の体《てい》に見えるのに、山崎はかえって冷淡に落着いて、煙草を一ぷく吹かしてから、
「それはどうでもよろしいことだが、南条殿、今のあの少年は、ちょっとみどころのありそうな少年でござるな」
「山崎君、みどころがあるかないか、君には一見して、そんなことがわかるのか」
「わかる」
と言いながら山崎譲は吹殻をハタくと、またしても煙草盆を持って鼻の先へつるし上げました。
 南条力は横の方を向いて、壁にかけた山水画をながめながめ、しきりに頬ひげを撫でている。山崎は煙草吸いだが、南条は煙草をのまない。
「というのは……」
 山崎は煙草を一ぷくしてから、お茶を取って飲みました。
 こうして、また二人が奥歯に物のはさまったような会談ぶりをつづけようとする時分に、廊下を逃げるように立去った宇津木兵馬は、お松の部屋の前に来て立っています。ここへ立寄るつもりで来たのではないが、ここへ来なければならないようになったらしい。
 相生町の老女の家を辞して出でた山崎譲は、両国橋を渡りながら腕を組んで、独合点《ひとりがてん》をして相生町の方を振返りました。
「ははあ、万事読めたわい、南条の奴が、宇津木兵馬をそそのかしてやらせたんだ、道理で小腕ながら、やに[#「やに」に傍点]っこい斬り方ではないと思った。しかし、宇津木があすこにいたということも意外だが、あの先生が南条に頼まれたからとて、余人ならぬ拙者に斬ってかかるというのはわからない、宇津木もおれも、壬生《みぶ》にいては一つ釜の飯を食った仲じゃないか、それに何を間違っておれに刃《やいば》を向けるのだろう、わからんな。ことによってあの先生、南条あたりに説かれて、我々に裏切りをするつもりでやったとすれば憎むべしだ、生意気な奴だ、打捨《うっちゃ》ってはおけないが、我々を敵とするほどに恨みのあるはずはないし、また敵にすれば損のいくことはわかっている、どういうつもりだろう、ひとつ会って詰問してやろうか、返答次第によっては不憫《ふびん》ながらそのままでは置けん。しかし、あいつの腕は惜しい。むしろ、これは裏を掻《か》いて、こっちがあれを逆に利用して、あの一味の動静を探らせてみようか。それがよかろう。まあ、しかし、この辺まで当りがつけば仕事は面白くなる」
 山崎はこう言って、ほほ笑みをしながら、両国橋を歩いて行きました。
 山崎は、江戸を騒がす総ての巨根《おおね》が薩摩に存することをよく知っております。この南条や五十嵐らは薩摩の者ではないが、薩摩とは密接の脈絡を保って、何か関東において事を起そうとしている野心のほども、よく見抜いていました。甲府城乗取りの陰謀は、これがために一頓挫して、南条らは一時、気を抜くために江戸へ退散したことも、山崎は最初から知っていました。
 江戸へ出て来ては、片手間に彼等の行先をつきとめてやろうと、半ばは好奇心でやって来たのが、大木戸の事件以来、こいつは一番、真剣で突っ込まなくてはならないと思いました。
 それでこの数日間、得意の炯眼《けいがん》を光らして見ると、つきとめたのが本所の相生町の老女の家です。南条や五十嵐がこの家に出入りしていること、時としてそこを住居として逗留していることを知るのは、山崎の手腕ではたいした難事ではありませんでした。
 それで、あらまし老女の家の内外の形勢の予備知識を得ておいてから、その内状を発《あば》きにかかるべく、いかなる手段を取ろうかと考えたが、これは拙《へた》なことをするよりは、いきなり南条にぶっつかって、その度胆《どぎも》を抜いてやるのが面白かろうと、結局、こうして今日、押しかけてみたわけです。押しかけてみると南条以外に珍らしい獲物《えもの》がありました。しかしながら、南条も宇津木も、それはまだ末で、例の巨根はそこから蔓《つる》を張っている薩州屋敷にある。将軍不在に乗じて、江戸を騒がすことの根源はそこにある、ということのみきわめが大事であります。
 山崎はそれを考えながら、両国の見世物小屋のある方へと知らず知らず足を引かれて来ました。
 ところが、そのなかのひときわ大きな見世物小屋に「江戸の花 女軽業」の看板が掛っています。その看板の文字を山崎が眺めていると、筆蹟に見覚えがある。見世物小屋などに掲げるには惜しいほどの字だと思いました。
「そうだ、神尾の字に似ているな、甲府詰めになった神尾主膳の筆によく似ているが、いかに落ちぶれたとて、まさか神尾が看板書きにもなるまい。あの男は、今どこに何をしているかなあ」
 山崎はこう思って看板を見ていると、その次に白い布を長く垂れて、全く変った筆で、「清澄の茂太郎事病気の為、向う三日間相休み申候」と認《したた》めてありました。
 山崎がその小屋の前を通り過ぎると、後ろから肩を叩く者があります。
「山崎先生」
「おお、七兵衛か」
 振返って見ると、自分と同じような装《よそお》いをした七兵衛でありました。
「相生町へおいでになりましたか」
「うん、相生町へ乗り込んで見たところだが、お前はどこにいた」
「私は、この女軽業の親方というのを知っております故、ちょっと立寄って参りました。して、相生町の方の御首尾はいかがでございます」
「なかなか面白かった」
「これから、どちらへおいでになります」
「そうさな、お前と会って相談をしてみたいこともあるんだが……」
「それでは、この女軽業の小屋の中へおいでになりませんか、今も申し上げる通り、この小屋の親方というのが至極|別懇《べっこん》なんでございますから、楽屋で休みながら、お話を伺おうではございませんか」
「なるほど、それもよかろう」
 いったん通り過ぎた女軽業の小屋の前へ、二人は立戻って来て、
「七兵衛、一体こりゃ何だ、この清澄の茂太郎というのは」
「これについては、一通りの魂胆《こんたん》があるんでございます。清澄の茂太郎というのは、房州から仕込んで来たこの小屋の呼び物で、ずいぶん客を呼んでいたものですが、このごろ、その呼び物が逃げ出してしまったんですな。逃げた顛末《てんまつ》は、私がよく存じておりますが、女同士の鞘当《さやあ》てというところがおかしいんで、両方でイガミ合っているうちに、肝腎の当人が、行方知れずになってしまったんでございますよ。当人の茂太郎というのが、二人の女を出し抜いて、近所の馬を引張り出して、どこへ行ってしまったか、いまだに行方がわかりません。何しろ呼び物でございますから、こんなことをして三日の申しわけをしておくんでございます」
 七兵衛は山崎を案内して、路次から楽屋の方へ廻りました。お角は留守でしたけれど、女どもが取持ちをします。
 二人はそこで一杯やりながら、
「さて、七兵衛、これからまた一つ、お前の手を借りたい仕事が出来たのだ、それはほかではない、芝の三田の、俗に四国町というところをお前は知っているか」
「エエ、存じておりますとも、赤羽根橋を渡れば真直ぐに行ったところ、金杉橋を渡ると右へ曲ったところが、それでございましょう。あの辺には薩摩と、阿波と、有馬と、伊予の四カ国のお大名のお邸があるから、それで俗に四国町と申すことまで、ちゃあんと存じておりますよ」
「それだ、その四国町のうちでもいちばん大きな、薩摩の屋敷をお前は知ってるだろうな」
「それもよく存じておりますよ、あのお屋敷の前を俗に御守殿前《ごしゅでんまえ》と申しましてね、門は黒塗りの立派なものでございます、屋根は銅葺の破風作《はふづく》りで、鬼瓦の代りに撞木《しゅもく》のようなものが置いてございます、正面三カ所に轡《くつわ》の紋がありますから、誰が見たって、これが薩州鹿児島で七十七万石の島津のお屋敷だとわかります」
「なるほど」
 そこで山崎譲は懐中から紙入を取り出して、拡げたのは美濃紙大の一枚の絵図面でありました。
「これがその薩摩屋敷だ」
 今更のようにその図面を、しげしげとながめます。
「その薩摩のお屋敷が、どうかなすったのですか」
 七兵衛も傍から覗《のぞ》き込みました。
「お前も知ってるだろう、近頃、江戸の市中を騒がす悪い奴は、大抵ここから出ているのだ」
「なるほど」
「ところで、この薩摩屋敷の中の模様を、すっかり調べ上げてみたいのだが、どうだ、お前によい知恵はないか」
「左様でございますなあ……あのお屋敷が物騒だということは、今に始まったことじゃございませんなあ、大分、眼をつけておいでなさる方がございましたはずですよ。お隣が阿波の屋敷でございましょう、その阿波様の屋敷の火の見櫓の上から、薩州のお屋敷の模様を、こっそりと探っておいでになったお方もありましたっけ」
「おや、どうしてお前は、そんなことまで知っている」
「ちょっとした通りがかりの節に、そんな噂をお聞き申しました。上の山藩の金子とおっしゃるお方なぞは、あれから薩摩の屋敷の中をのぞいて見ては、しきりに絵図を引いておいでになったことがあるそうでございますけれど、本当ですか、嘘ですか」
「ナニ、上の山藩の金子? それでは上の山の金子与三郎のことだろう、あの男ならば、やりそうなことだ」
「それでなんですか、山崎先生、あなたも、あの薩摩のお屋敷の様子を、くわしくお調べになりたいのですか」
「そうだ、それについてお前の知恵を借りたいものだが、何とかしてあの屋敷の中へ入ってみる手段はないものかな」
 こう言われて七兵衛は、篤《とっく》りと考えてみる気になりました。暫く考えていたが、やがて仔細らしく、
「先生が、あの屋敷へ入り込むというのは容易なことじゃござんすまい、私も少々勝手の悪いことがございますのです、ここに一つ思い浮んだのは、ほかじゃございません、甲州の山の中から出て来た勝っ気で勘定高い小倅《こせがれ》が一人、あの近所に住んでいるんでございます、こいつが田作《ごまめ》の歯ぎしりで、ヒドク薩州のおさむらいを恨んでいるんですから、あいつをつっついて、当らしてみたらどうかと思うんでございます……慾こそ深いが、目から鼻へ抜けるような小倅でございますから、つかいようによっては、ずいぶんお役に立ちましょう」
 話半ばのところへ、お角が帰って来ました。
「七兵衛さん、お待たせ申しました」
「どうでした、子供は見つかりましたかね」
「いいえ、見つかりません。何しろ、動物《いきもの》の言葉がよくわかる子供ですから、動物に好かれて仕方がありません、蛇でも鳥でも、あの子を見ると、みんな友達気取りになって傍へ寄って来るし、当人もまた動物が大好きなんですから、あぶなくて仕方がありません、とうとう繋《つな》いでおいた馬を引張ってどこかへ行ってしまいました」
 お角はこう言っているうちにも焦《じれ》ったそうに、
「この間、千住の方から来た人の話に、下総の小金ケ原に近いところで、たった一人の子供が裸馬に乗ったり、馬から下りて手綱《たづな》を引っぱったりして、遊びながら東の方へ歩いて行ったのを見た者があるといいましたから、それではないかと思います。それで、今日は、これから小金ケ原まで人をやってみようかと思っているところでした」
「なるほど」
「ですけれども、それは月夜の晩のことで、それを見た人も遠目のことですから、茂太郎だか、どうだか、わかったものじゃありません、土地のお百姓の草刈子供やなにかであったりしちゃあ、ばかばかしいと思いますけれど、それでも諦めのためですから」
 お角は、ただ茂太郎に逃げられたということのほかに、負けぬ気の業腹《ごうはら》があるようです。けれども、ここでは別段に、お絹のことも恨んでもいないようです。お絹が連れて行ったはずの茂太郎は、七兵衛の知恵で、伯耆の安綱と交換して、無事に取返したものと見えます。今度、その少年が馬を連れて逃げ出したというのは、それから後の事件で、お絹はまるっきりこの事件にはかかわっていないようです。もし、お絹があのままで、いまだに茂太郎を誘拐して返さないようなことがあれば、それこそお角だって、これだけの焦《じ》れ方でいられようはずはない。お絹もまた、命がけで、そんないたずらを試みるほどに目先が見えないはずはありません。
 あれはあれで解決がついて、別に、清澄の茂太郎は感ずるところあって、月明に乗じ、馴《な》れた馬をひきつれて、この見世物小屋を立去ったものと見えます。

         三

 三田の薩州邸の附近の、越後屋という店に奉公していた忠作が、その家を辞して、専《もっぱ》ら薩州邸内の模様を探りにかかったのは、それから間もない時のことであります。
 いろいろに変装した忠作の身体《からだ》が、薩州邸を中心に三田のあたりに出没していましたが、ある日、越後屋へ立寄って中庭を通りかかると、一室のうちで声高に話をしているさむらいの言葉を聞きました。そのさむらいは何者であるか一向わからないが、酒を飲みつつ威勢のよい話をしているうちに、薩摩ということが折々出るから、そこで何となく聞捨てにならなくなって――
「左様、なんと言っても薩摩で第一の人物は西郷吉之助だろう、西郷につづく者は……西郷につづく者は、ちょっと誰だか見当がつかない」
「西郷はエライには違いない。土佐の坂本竜馬が、西郷の度量|測《はか》るべからず、これを叩くこと大なれば、おのずから大に、これを叩くこと小なれば、おのずから小なり、と言って舌を捲いているところを見ると、かなりの人物であることがわかる。中岡慎太郎の手紙でも、この人学識あり、胆略あり、常に寡言《かげん》にして、最も思慮雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然|人腸《じんちょう》を貫く、且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難を経て頗《すこぶ》る事に老練と、讃《ほ》め立てているところを見ても、かなりの大豪傑であろうと思われるが、しかし、薩摩において西郷ばかりが人物ではあるまい、小松|帯刀《たてわき》や大久保一蔵は、西郷に優るとも劣ることなき豪傑だという評判じゃ」
「そりゃあ西郷以外にも豪傑がなかろうはずはない、まず殿様の斉彬《せいひん》が非凡の人物でなければ西郷を引立てることができようはずがない、知恵と手腕においては小松帯刀や大久保市蔵が西郷に優るとも、徳の一点に至っては、梯子をかけても及ぶまい、人物が大きくって徳がある、英雄|首《こうべ》をめぐらせばすなわち神仙《しんせん》である、西郷は乱世には英雄になれる、頭の振りよう一つでは聖人にも仙人にもなれるところが豪傑中の豪傑だ、おそらく、薩州だけではなく、今の日本をひっくるめて第一等の大人物だろうと考えられる」
「エラク西郷に惚れ込んだものだな。ところで、その徳というものが問題になるのだ、聖人君子の徳というものは、施《ほどこ》して求むるところなきもので、その徳天地に等しという広大無辺なものになるものだが、英雄豪傑の徳というものは、一種の人心収攬術《じんしんしゅうらんじゅつ》に過ぎんのだからな。西郷のその徳というのも要するに、薩摩一国に限られた徳で、大きいと言ったところで、たいてい底もあれば裏もあるものだから、このごろ、江戸の市中へ壮士を入れて、いたずらをさせているのも、一に西郷の方寸に出でるとのことではないか。あの男がこうして傾きかかった徳川の腹を立たせようとする策略は、なかなか腹黒いものだ。西郷にしたところで、徳川が倒れたら、そのあとを島津に継がせたかろうさ。長州は長州で、またこの次の征夷大将軍は毛利から出さねばならぬと思っているだろう。みんな相当の芝居気《しばいっけ》を持っていない奴はなかろう。しかし、このごろの薩摩屋敷が江戸の町家を荒すのは、芝居の筋書が少し乱暴すぎる」
「ありゃあ、西郷がやっているのではない、益満《ますみつ》がやっているのだ」
「益満というのはなにものだ」
「人によっては、西郷につづく薩摩での人物だと言っている。益満が采配《さいはい》を振《ふる》って、ああして江戸の市中を騒がしているのだから、まだまだ面白い芝居が見られるだろう」
 立聞きをしていた忠作は、この言葉を聞いていたく興味に打たれました。それでは薩摩屋敷の荒《あば》れ者《もの》の采配を振っているのは益満という男か、その益満という男は、どんな男であろうと、忠作は益満という名を、しっかりと頭の中へ刻みつけました。
 そこを出てから忠作は、薩摩屋敷のまわりを一廻りして、芝浜へ向いた用心門のところまで来かかると、ちょうど門内から、忠作よりは二つも三つも年上であろうと思われる少年が出て来ました。少年に似合わず、少しく酒気を帯びているようであります。
 一目見ただけで忠作は、たしかに見覚えのある若ざむらいだと思いました。深く記憶を繰り返してみるまでもなく、目から鼻へ抜けるこの少年の頭には、甲斐の徳間入《とくまいり》の川の中で砂金をすく[#「すく」に傍点]っていた時、あの崖道から下りて来て道をたずねたのが七兵衛で、川を隔てて向うの崖道を七兵衛と共に歩いて行ったのが、今ここへ出て来た若い人であります。
「よろしい、この人のあとをつけてみよう、自分は笠をかぶって、酒屋の御用聞の風《なり》をしているのだから、勝手が悪くはない」
 忠作にあとをつけられているとは知らぬ若い人。ただいま、薩州邸の用心門を立ち出でたのは別人ではない、宇津木兵馬であります。あとをつける者ありとも知らぬ宇津木兵馬は、かなりいい心持になって、
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武蔵野に草はしなじな多かれど
 摘む菜にすればさても少なし……
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と口ずさみながら、芝の山内の方面へ歩いて行きます。
 増上寺の松林へ入り込んだ兵馬は、その中の松の一本の下をグルグルと廻りはじめたが、刀の小柄《こづか》を抜き取りその松の木に、ビシリと突き立てて行ってしまいました。
 兵馬の立去ったあとで、その松の木の傍へ寄って見て、はじめて小柄の突き立てられてあることを知り、忠作はそれを無雑作に引抜いて、松の木には目じるしの疵《きず》をつけ、またも兵馬のあとをつけて行きます。
 兵馬は朴歯《ほおば》の下駄かなにかを穿《は》いている。忠作は草鞋《わらじ》の御用聞。両人ともに歩きも歩いたり、芝の三田から本所の相生町まで、一息に歩いてしまいました。
 さて、相生町へ来ると兵馬が例の老女の家へ入ったのを、忠作はたしかに見届けました。
 ここまで来てみると、いったい、この家は何者の住居であるかということを突き留めて帰らねばなりません。忠作は屋敷の周囲を二三度まわりました。
「こんにちは、まだ御用はございませんか」
 裏口へ廻って、こんな声色《こわいろ》を使ってみると、
「三河屋の小僧さん?」
「はい」
「ちょいとここへ来て手を貸して下さいな」
「へえ、承知致しました」
 呼び込まれたのを幸いに、潜《くぐ》りから長屋へ入り、
「こんにちは」
「小僧さん、後生ですからここへ来て手を貸して下さい」
 薄暗い中でしきりに女の声。
「どちらでございます」
「かまわないから早く来て下さいよ」
「こちらから上ってもよろしうございますか」
「どこからでもよいから、早く来て手を貸して下さい」
 流し元のあたりで頻《しき》りに呼ぶものだから、忠作は大急ぎで行って見ると、一人の女中が桝《ます》を膝の下に組みしいて、天下分け目のような騒ぎをしているところです。桝落しをこしらえて鼠を伏せるには伏せたが、どうしていいか始末に困っているところらしい。
「鼠が捕れましたね」
「小僧さん、早く、どうかして下さいな」
 忠作は上手に桝を明けて鼠をギュウと捉《つか》まえて、地面へ置くと、足をあげてそれを踏み殺してしまいました。女中はホッと息をついて、
「おや、いつもの小僧さんと違いますね」
と言って忠作の面《かお》を見ました。
「どうか御贔屓《ごひいき》を願います」
 忠作は頭を下げました。
 そこへ、廊下を渡って、また一人の女の人が、
「お福さん」
と呼ばれて、鼠を押えた女中が、
「はい」
と答えました。
「後生ですから、これへ汲みたてのお冷水《ひや》をいっぱい頂戴」
 一つの銀瓶《ぎんがめ》を手に捧げています。
「畏《かしこ》まりました、あの大井戸から汲んで参りましょう」
「済みませんね」
 廊下を渡って来た女の人は、手に持っていた銀瓶を、鼠を押えていた女中に手渡しすると、鼠を押えていた女中は、それを持って水汲みに出かけたもののようです。
「毎度有難うございます」
 忠作はいいかげんのことを言って立去ろうとする時に、銀瓶を捧げて来た女の人が、
「もし、小僧さん」
と呼び留めました。
「はい、御用でございますか」
「あの、お前さんは毎日ここへ来るでしょうね」
「はい、毎日伺います」
「それではね、ちょっと、わたしに頼まれて下さいな」
「へえ、よろしうございますとも、できますことならば何なりと」
 忠作を見かけて、何事をか頼もうとするこの女の人は、お松でありました。
 忠作は、その頼まれごとを勿怪《もっけ》の幸いと立戻ると、お松は何か用向を言おうとして忠作の顔を見て、
「小僧さん、お前のお店はどこ」
「三河屋でございます」
 忠作は抜からず返答をしたつもりでいました。
 お松は暫く思案していたが、やがて何を頼むのかと見れば、
「小僧さん、ついでの時でいいから、岩見銀山《いわみぎんざん》の薬を少しばかり買って来て頂戴な」
と言いました。
「はい、承知致しました」
 岩見銀山の薬が買いたければ、特に改まって酒屋の御用聞に頼むまでもあるまいに、先刻も女中が鼠を伏せて頻りに騒いでいたが、今もわざわざ岩見銀山を注文するのは、よくよくこの屋敷では鼠で困らされているのだろうと思いました。そこへ以前の女が銀瓶に水を満たして持って来ると、
「どうも御苦労さま」
 お松はそれを受取って、もとの廊下を帰って行きます。忠作も、お松から岩見銀山を買うべく頼まれた小銭《こぜに》を持って屋敷の外へ出てしまいました。
 兵馬が未《いま》だこの屋敷へ帰らず、忠作がそのまわりをうろつかない以前に、肩臂《かたひじ》いからした多くの豪傑がこの屋敷へ入り込みました。集まるもの十五六名。
 例の南条力が牛耳《ぎゅうじ》を取っていて、このごろ暫く姿を見せなかった五十嵐甲子雄も、その側《わき》に控えています。
「さて、諸君」
 南条が議長の役を承って、
「ここに一つ、諸君の志願を募りたいことがある、それは勿体《もったい》ないような仕事で、その実さまで勿体ないことではなく、子供だましのような仕事で、実は相当の危険がある、やってみることは雑作がなくて、やり了《おお》せた後に祟《たた》りが来ないとは言えない、金銭に積ってはいくらでもないが、ある方面の神経を焦《じら》すにはくっきょうな利目《ききめ》のある仕事だ」
「そりゃいったい何だ」
「実はこういうわけなのだ、上野山内の東照宮へ忍び込んで……じゃない、闖入《ちんにゅう》してだ、神前の幣束《へいそく》を奪って来るのだ、幣束に限ったことはない、東照権現の前にある有難そうなものを、すべてひっくり返して来るのだ、それを、こっそりやってはいけない、面白そうにやって来るのだ、東照権現が有難いものには有難いが、有難くないものにはこの通りだというところを見せて来ればいいのだ、そのお印《しるし》に幣束を持ち帰って来るのだ。事は児戯に類するが、その及ぼすところに魂胆《こんたん》がある」
 南条はこう言いました。何のことかと思えば、徳川幕府の本尊様である東照権現の神前に無礼を加え来《きた》れという注文であります。なるほど、一派の志士には以前から、こういうことをやりたがっている人がありました。頼山陽の息子さんの頼三樹三郎《らいみきさぶろう》なんぞという人も、たしか東照宮の燈籠が憎かったと見えて、それを刀で斬りつけて、ついに捉《つか》まって自分の首を斬られるような羽目になりました。ここでもまた、東照宮の神前の幣束が目の敵《かたき》になってきたようです。なるほど、燈籠や幣束を苛《いじ》めたところで仕方がない、児戯に類する仕事であるが、それをやらせようという者には、相当の魂胆がなければなりません。
 果して、それは面白いからやろうという者が続出しました。
 全体が悉《ことごと》く志願者ですから、指名をすれば不平が出る、よろしい、主人役を除いてその余の同勢が悉く、明夕《みょうせき》押出そうということにきまって会が終りました。宇津木兵馬が帰って来たのは、その散会の後のことであります。
 果してその翌日、上野の東照宮に思いがけない乱暴人が闖入《ちんにゅう》しました。
 内陣の正面、東照公の木像を納めた扉の前に立っている、三本の金の御幣《ごへい》を担ぎ出したものがあります。事のついでに左右の白幣も、拝殿に立てた幣《ぬさ》も引っこ抜いて担ぎ出しました。お石《いし》の間《ま》で散々《さんざん》にお神酒《みき》をいただいて行った形跡もあります。矢大臣の髯を掻きむしって行ったのもこの輩《やから》の仕業と覚しい。獅子頭《ししがしら》もかぶってみたが被りきれないと見えて、投げ出して行ったものと覚しい。
 階段の左右にかけた釣燈籠も外して行きました。それと聞いて寒松院の別当が僧侶や侍をつれて駈けつけた時分には、件《くだん》の乱暴者の影も形も見えません。
 話によると、十数名の浪人|体《てい》の者が怖ろしい勢いで闖入して来て、居り合わせたものの支うる遑《いとま》もなく、瞬く間にこの乱暴を仕了《しおお》せて、鬨《とき》の声を揚げて引上げてしまったとのことであります。
 腕に覚えのある者を択んで、そのあとを追わせたけれど、乱暴人の行方《ゆくえ》はいっこう知れないとのことであります。
 ところが実際は、その乱暴人が大手を振って御成街道《おなりかいどう》を引上げるのを見た者があるということであります。東照宮の御前にあった三本の金の御幣を真中に押立て、これ見よがしに大道の真中を練って歩いて、まだ五軒町までは行くまいと沙汰《さた》をしているものもありました。
 けれどもまた、それは嘘だ、あいつらは風を食《くら》って、もう逃げ去ってしまった、もう一足早かりせば、といって地団駄を踏むものもありました。
「追っかけて行ったけれども、あの勢いに怖れをなして逃げて来たのだ」
と悪口を言うものもある。
 なるほど彼等は、三本の金の御幣を真中に押立てて、大江戸の真中を大手を振って歩いている。
「下にいろ、下にいろ、東照権現様の出開帳《でかいちょう》だ、お開帳が拝みたければ、芝の三田の薩州屋敷へ来るがよい、我々は薩州屋敷に住居致すもので、今日、上野まで東照宮の出開帳をお迎えに参ったものだ、滅多なことを致すと神様の祟《たた》りが怖いぞよ」
 こう言って通行の人々を威嚇《いかく》しながら歩いています。通行の人たちは慄え上って道を避けて通しました。何も知らない老人夫婦は、本当に権現様が薩摩屋敷までお出開帳をなさるのかと思って、路傍に伏し拝む者もありました。
 そうすると一行の連中のうちから、わざと物々しげに拝殿から持ち出した細い紙の幣《ぬさ》で、その善男善女の頭を撫でてやり、
「神妙、神妙、一心に帰命頂礼《きみょうちょうらい》すれば、後生往生《ごしょうおうじょう》うたがいあるべからず」
というようなことを言って、よけいに善男善女を有難がらせたりするものもありました。
「なお御信心がお望みならば、三田の薩州屋敷まで出向いて来るがよい、三田の薩州屋敷」
 しかつめらしく、そんなことを言って二言目には薩州屋敷を引出すのであります。まこと、薩州屋敷のものならば、たとえ何かの恨み、或いは企らみあって、こんなことをやらせたり、やったりしてからが、表向きに薩州の名前を出すようなことはなかりそうなものであるのに、好んで薩州を振廻すところを見れば、薩摩の勢力を看板にする、実は無宿浮浪の徒でもあろうかと思われるにも拘らず、その途中、この冒涜《ぼうとく》極まる浮浪者を取締る機関が届かないのは、よそに見ていても歯痒《はがゆ》いようです。もしや市中取締りの酒井|左衛門尉《さえもんのじょう》の手に属する者にでもでっくわそうものならば、血の雨が降るだろうと、町々の者はヒヤヒヤしているけれど、酒井の手の者も、ついにここまで行き渡らないで、この乱暴者の一隊は金の御幣を守護して、とうとう三田の薩州屋敷へ乗込んでしまいました。

         四

 下総国小金《しもうさのくにこがね》ケ原《はら》では、このごろ妙なことが流行《はや》りました。
 月の出る時分になると、一人の子供が、一月寺《いちげつじ》の門内から一人の坊さんを乗せた一頭の馬を曳《ひ》き出すと、
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やれ見ろ、それ見ろ
筑波《つくば》見ろ
筑波の山から鬼が出た
鬼じゃあるまい白犬だ
一匹吠えれば皆吠える
ワンワン、ワンワン
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というこの地方の俗謡の節を、馬を曳き出した子供が面白く口笛で吹き立てると、小金の宿の者共が、我を争うて彼等の廻りを取巻きます。
 この寺から馬を曳き出して、口笛を吹いているのは、両国の見世物にいた清澄の茂太郎で、その馬にのせられている坊さんというのは、お喋《しゃべ》り坊主の弁信であります。
 彼等はここを立ち出でて、どこへ行こうというのではない、毎晩、夕方になるとこうして馬を引っぱり出して、広い原の方へと出かけます。
 茂太郎に言わせれば、馬に水をつかわせ、不自由な弁信には、散歩の機会を与えるためかも知れないが、土地の人は、それを待ち兼ねた見世物でもあるように、駈け出して集まるのが毎晩のことです。集まったもののうちの子供たちは、地面を叩きながら茂太郎の口笛に合わせて、
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やれ見ろ、それ見ろ
筑波見ろ
筑波の山から鬼が出た
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と歌い出すものだから、娘たちや若い衆が面白くなって、それにあわして、
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鬼じゃあるまい白犬だ
一匹吠えれば皆吠える
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 興に乗って年寄までが、それに合唱して歌い出すと、おのずから足拍子が面白くなり、馬の前後に集まって、盆踊りの身ぶりで踊りながら町から原へと練り出します。
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もしもし
あなたは誰ですか
わたしは盲《めくら》でござります
だれを探しに来たのです
秋ちゃんを探しに来たのです
三べん廻っておいでなさい
おいでなさい、おいでなさい
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 この踊りが噂《うわさ》に広がって、北は相馬、南は葛飾《かつしか》、東は佐倉の方面から、小金の町へ人が集まって来ます。
 噂を聞いて、踊りを見物せんがために来た者が、知らず知らず興に乗って、自らが踊りの人とならないのはありません。その伝染性の速かなことは、電波のようであります。
 一よさ、踊りの味を占めたものは、その翌日の暮るるを待ち兼ねて集まらないということはありません。二里、三里、四里までは物の数ではありません。五里、七里、八里も遠しとせずして来り踊る若い者があります。これは必ずしも、清澄の茂太郎が吹く口笛一つに引寄せられるのではありますまい。多くの人は、人の集まるところが好きです。ことに若い男は、若い女の集まるところを好みます。若い女とてもまた、若い男の踊るのを見ていやがるということはありません。
 多数の人が、興に乗じて集まる時には、老いたるもまた、若きに化せられて、そこには一種の異った心理状態が現われると見えます。
 小金ケ原に集まるほどの者は、みな踊りの人となりました。踊りを知らないものも動かされて、夢中に踊りの人となりました。
 踊らないのはただ馬上のお喋り坊主と、音頭《おんど》を取る清澄の茂太郎だけであります。
「茂ちゃん、これはいったい、どうなるのでしょうね」
 興に乗ずると我を忘れて、家を明けっ放しにして夜もすがら踊り抜こうという連中が、若い者や子供ばかりではありません。町の全体に、ほとんど幾人というほどしか留守番がいないで、声の美《よ》いものは声を自慢に、踊りのうまいものは身ぶりを自慢に、茂太郎の馬の廻りは、忽《たちま》ちの間に何百人という人の輪を作ります。
 その相歌《あいうた》う声は、さしもに広い小金ケ原の隅々に響いて、空にさやけき月の宮居にまでも届こうという有様です。しかしながら、その何百人が声を合わせて歌う声は、いつも茂太郎が口笛一つに支配されている。彼等の声がいかに高くなり、いかに雑多になろうとも、馬を曳いて真中に立つ茂太郎の口笛だけは高々として、すべての声と動揺との中に聳《そび》えています。その口笛によって音頭があり、音頭があって初めて身ぶりがあるのでした。
 単にそれは人間のみではなく、家々に養っている犬という犬がまたこの騒ぎに共鳴して、争って表へ出でて、踊りと踊りの間を面白く狂い廻り、トヤに就いている鶏は、しきりに羽ばたきをして、飛んで下りたがる。いよいよ広いところへ練り出して、馬をとどめて立つと、その周囲を輪になって、人という人が夢中になって踊り狂うのは、冷やかに見ていると、物につかれたとしか思われない振舞です。
 こう騒ぎが高くなっては、馬上に置かれたお喋り坊主の弁信も、そのお喋りを切り出す隙がありません。空しく馬に乗せられて、見えない目で、群集の騒ぎを聞いているだけであります。
 馬上の弁信は、その周囲に耳を聾《ろう》するばかりの踊りの歌と、足拍子を聞きながら、馬の手綱を引っぱっている茂太郎に、馬上から問いかけました。
 その時、茂太郎は、もう口笛をやめておりました。最初は、いつも茂太郎の口笛から音頭が始まるのだが、こう酣《たけな》わになってしまうと、茂太郎は頃を見計らって、口笛をやめて、足踏みだけをして、群集をながめているのです。
「弁信さん、どうなるんだか、わたしにもわからないのよ、最初のうちは、わたしの口笛でみんなが集まったけれど、今となっては、わたしがみんなの踊りに引摺られているようなんだもの。もし、わたしが口笛を吹かなかったり、音頭を取らなかったりすれば、きっとみんなの人が、わたしを殺してしまうだろうと思ってよ」
 茂太郎は足拍子を止めないで、弁信を見上げました。
「毎晩毎晩、倍ぐらいずつ人が殖《ふ》えてきますね、一昨夜の晩五百人あったものなら、昨晩は千人になっていました、明日の晩は三千人の人が集まるかも知れません。小金ケ原は広いから幾ら人が集まってもかまわないけれど、留守居をしている者から、きっと苦情が出ますよ、娘を持っている母親や、息子を踊らせておく父親や、留守を預かっている年寄たちが、長く黙ってはいませんよ、いつかこの踊りを差しとめに来るにきまっている。けれどもお気の毒ながらこうなっては、それらの人の力で差しとめることはできませんね、音頭を取る茂ちゃん、踊り出さないわたしでさえも手がつけられないのに、留守をしている人たちに、どうしてこの踊り狂う人たちの血気を抑えることができましょう。そうなると、きっとお上《かみ》のお声がかりということになるにきまっている、お役人が出向いて来て力ずくで差しとめるということにきまっているよ。その時にお役人から、この踊りの音頭取りとして、茂ちゃんとわたしが捉まったらどうしよう。別にわたしたちが悪いことをしたというわけではないが、わたしたちが音頭を取りさえしなければ、この踊りは鎮《しず》まるという心持で、二人を捉まえ、牢の中へ連れて行かれたらどうしましょう。茂ちゃん、今のうちに何とか考えてお置き、わたしは、それが心配になるのよ」
 弁信は茂太郎と共に相警《あいいまし》める心でこう言いました。
 二人が相警めているにかかわらず、一方にはこの盛んなる人気を利用せんとする者が現われました。誰がしたものか踊っている間へ、八幡様や水天宮のお札をおびただしく撒《ま》き散らしたものがあります。人は天からお札が降ったものと思いました。
 また一方には、こういって言い触らす者もあります。
「世は末になった、近いうちに世界の立直しがある、踊るなら今のうち」
 このふれごとは、短いながら、人の眼前の快楽を嗾《そそ》るにはかなりの力を持っていました。
 当時、人の心はどこへ行ってもさまで穏かだというわけにはゆきません。先覚の人は国家の急を見て奔走しているが、なんにも知らぬ市井《しせい》村落の人たちとても、どこぞ心の底に不安が宿っていないということはありません。近いうちに世間に大変動が起るだろうという暗示は、女子供の心にまで映っていないということはありません。
「踊るなら今のうち」――そこで世の終りがなんとなく近づいて、人が前路《ぜんろ》の短い慾望を貪《むさぼ》り取ろうとする形勢が見え出します。
 小金ケ原のこの踊りが、ついに江戸にまで伝わるに至り、その盛んなる噂を聞いて、江戸から見物に出かける者があります。見物に行った者は必ずその仲間に加わって踊り出さねば止まないことです。
 今は、この踊りの場でうたう歌が、やれ見ろ、それ見ろ、筑波見ろ、というこの地方の民謡だけではありません。相馬流山《そうまながれやま》の節を持ち込むものもあります。潮来出島《いたこでじま》を改作する者もあります。ついに「えいじゃないか」を歌い出すものがあって、その踊りぶりも得手勝手の千差万別なものとなりました。
 その翌日は、お札の降ったところの原の真中に、白木造りの仮宮《かりみや》が出来ました。その晩には仮宮の前へ、誰がするともなく、おびただしい鏡餅の供え物です。紙に包んだ金何疋のお初穂《はつほ》が山のように積まれました。
 多分、江戸から来た物好きがしたことでしょう。白の襦袢《じゅばん》に白の鉢巻の揃いで繰り込んで来た一隊が、鐘や太鼓で盛んに「えいじゃないか」を踊ります。
「一杯飲んでも、えいじゃないか、えいじゃないか」
 神前のお神酒《みき》をかかえ出して、自らも飲み、人にもすすめながら踊りました。
 小金ケ原の真中へ町が立ちます。物を売る店が軒を並べました。
 毎夜、一旦、ここへ集まって踊りの音頭を揃えた連中が、散々《さんざん》に踊り抜いて、おのおのその土地土地へ踊りながら帰る。水戸様街道を東へ踊り行くもの、松戸から千住をかけて江戸方面へ流れ込むもの、北は筑波根へ向って急ぐ者、南は千葉佐倉をめざして崩れて行くもの、それに沿道に残されたものが参加して踊って行くから、大河の流れのように末へ行くほど流れが太くなるのはあたりまえです。
 その中心地、小金ケ原へ一夜のうちに出来た仮宮の宮柱も、みるみる太くなりました。いつ任命されたものか、もうそこに一癖ありげな神主が、烏帽子直垂《えぼしひたたれ》で納まっております。
 なるほど、この神主は一癖も二癖もありげで、ただ宮居の中に納まっているのみでなく、笏《しゃく》を振って手下の者を差図し、奉納の鏡餅は鏡餅、お賽銭はお賽銭で恭《うやうや》しげに処分をさせる。お供え餅は俵へ詰め、お賽銭は叺《かます》へ入れてどこかへ送らせてしまう。
 それからまたこの神主は、清澄の茂太郎と、盲法師の弁信の御機嫌を取ることが気味の悪いほどであります。仮宮は何の神様であるか知らないが、その御本体を大切にするよりは、茂太郎と弁信の御機嫌を取ることが大事であるらしい。
 憐れむべき二人の少年は、今はこの神主が怖ろしいものになりました。
 茂太郎と弁信は、このところを逃げ出そうとします。逃げ出さなければ、もう命が堪らないと思いました。
 けれども、こうなってみると彼等二人は、盲目な群集を利用せんとする連中のためになくてならぬ偶像です。逃げようとしても逃がすまい。強《し》いて出ようとすれば、ここに留まっているよりも危ない。額を突き合せて二人が相談をしたけれども、何を言うにも弁信は盲目であり、茂太郎は子供である。
「では、与次郎に相談してみましょうか」
「ああ、与次郎に相談してみましょうよ」
 二人は与次郎に向ってその苦しい立場を説明して、よい知恵を借りたいということを哀願すると、暫く眼をつぶって思案していた与次郎が……待って下さい、この与次郎というのは、一月寺《いちげつじ》の食堂に留守番をしている七十を越えた老爺《おやじ》のことであります。一月寺の貫主《かんす》は年のうち大抵、江戸の出張所に住んでいる。院代《いんだい》がいるにはいるが、これはほとんど寺のことには無頓着で、短笛《たんてき》を弄《ろう》して遊んでいる。与次郎が寺のことはいちばんよく知っていて、いちばんよく働くから、貫主も一目も二目も置くことがあります。与次郎老人が一月寺の実際上の執事《しつじ》でありました。その与次郎が、弁信と茂太郎に相談をかけられて、暫く眼をつぶって首を捻《ひね》っていたが、やがて、ずかずかと立って戸棚の中から引出して来たのが、竹の網代《あじろ》の笈《おい》であります。
「我、汝が為めに箇《こ》の直綴《じきとつ》を做得了《つくりおわ》れり」
 与次郎老人が味《あじ》なことを言い出しました。弁信はその声を聞いたけれども、その物を見ることができません。茂太郎はその物を見ているけれども、その言葉を悟ることができません。そこで老人は破顔一笑して、諄々《くどくど》と直綴の説明をはじめたようです。
 どんなことに納得《なっとく》させたものか、その日の夕方には、例によって馬に跨《またが》った弁信が、一月寺の門前に現われました。現われたには現われたが、今日はその現われ方がいつものとは違います。いつも前に立って馬を引張って口笛を吹くべきはずの茂太郎が見えないで、その代りでもあるまいが、馬上の弁信法師は、身なりに応じない大きな笈《おい》を背負って、自ら手綱を取っています。それに今までは裸馬であったが、今日は質素ながらも鞍《くら》を置いて手綱をかませています。ただ、弁信の背中に背負っている笈が、いかにも大きいのに、弁信そのものが小兵《こひょう》の法師ですから、弁信が笈を負うのではなく、笈が弁信を背負って馬に乗っているように見えます。
 それと見て集まった人々は、今日の馬上の有様の変ったのに驚き、また前にいるべきはずの茂太郎のいないことを怪しみもしました。それにも拘らず、盲法師の弁信は自ら手綱をかいくって、徐々《しずしず》と馬を進めながら、今日は馬上で得意のお喋りをはじめます。
「皆さん、老少不定《ろうしょうふじょう》と申して、悲しいことでございます、長らく皆様の御贔屓《ごひいき》になっておりました茂太郎が死にました……お驚きなさるのも御尤《ごもっと》もでございます、皆様がお驚きなさるより先に、私が驚きました、無常の風は朝《あした》にも吹き夕《ゆうべ》にも吹くとは申しながら、なんとこれはあんまり情けないことではござりませぬか、昨日までは皆様と一緒に、ああして歌をうたい、踊りを見ておりました茂太郎が、僅か一日病んで、眠るが如くこの世の息を引取りましたと申しますのは、ほんとに私ながら夢のようでございます、これと申しても、みな前世の因縁ずくでございますから、誰を怨《うら》み、何を悲しもうようもございませぬ、それで、私は友達の誼《よし》みに、せめてあの子の後生追善《ごしょうついぜん》を営みたいと思いまして、今夕《こんせき》こうやって出て参りました、私の背中をごらん下さいまし、この大きな笈の中に、この世の息を引取った清澄の茂太郎が、眠るが如くに往生を致しておりますのでございます、私は、これを持って江戸の菩提寺《ぼだいじ》へ安らかに葬ってやりたいと思いまして、そうしてこうやって出かけたのでございます」

         五

 小金ケ原の珍《ちん》な現象が、江戸の市中までも評判になると、そこに謡言《ようげん》がある。曰《いわ》く、近いうちに江戸の町という町が火になる、その時は江戸の町民は悉《ことごと》く住むところを失うて、一時、小金ケ原へ仮りの都を作らねばならぬ。その時に最も幸福に救われたいものは、今のうち小金ケ原の新しい神様を信心しておくがよろしいと、それはずいぶんばかばかしい謡言であります。多少、心ある者は、一笑に附して顧みざるべきほどの無稽《むけい》の言葉であるにかかわらず、それを信ずるものが少なくなかったということは、今も昔も変ることがありません。踊りに行くものよりは信心に行く者が多くなって、相当の身分あり財産ある者が、続々として詰めかけるようになった時分のことであります。
 例の道庵先生が、このことを洩れ聞くと、小膝を丁と打ちました。
「さあ、また乃公《おれ》の出る幕になった」
 そこで近辺に住む子分たちに触れを廻し、馬鹿囃子《ばかばやし》の一隊を狩集め、なお有志の大連を差加えて小金ケ原へ乗込み、都鄙《とひ》の道俗をアッと言わせようとして、明日あたりはその下検分に、小金ケ原まで出張してみようか知らんと思っていたところへ、宇治山田の米友が訪ねて来ました。
「先生」
「やあ、珍物入来《ちんぶつにゅうらい》」
 さすがの道庵先生が舌を巻いて、額を逆さに撫で上げました。
「どうも暫く御無沙汰をしました」
「いやはや」
 道庵は額を逆さに撫でて米友の面《かお》を見ながら、いやはやと言ったのは、どういう意味だかよくわかりません。
「このごろは先生、おいらは目黒の方に行っていますよ」
「なるほど、お前さん、このごろは目黒の方においでなさるのかね」
「目黒の不動様のお寺に御厄介になってるんだが、先生、近いうち旅立ちをするんで、旅の用意の薬をちっとばかり貰いに来た」
「そうですか、よくおいでなさいましたね」
 道庵は忌《いや》に御丁寧な挨拶をして、米友をながめています。
「この中へひとつ詰めておもらい申したいんだ。なあに、近所に医者もあるにはありますがね、素姓《すじょう》の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主《きちぼうず》にことわって、わざわざ先生のところまで貰いに来ました」
と言いながら米友は、懐ろから黒塗りの四重印籠を二組取り出して、道庵の前へ並べました。
「なるほど、近所に医者もあるにはあるが、素姓の知れた医者の方が安心だから、それで吉坊主にことわって、わざわざこの長者町の道庵先生までお運び下し置かれたというわけだね。それはそれは痛み入ったことだ、有難くお請《う》けをして、早速、薬は調えて上げるが、米友、もう少し前へおいで」
 今日の道庵の猫撫声《ねこなでごえ》が大へんに気味が悪いのです。米友にとっては、女軽業《おんなかるわざ》のお角というものが苦手であるとは違った呼吸で、この道庵もまた苦手であります。道庵に頭からケシ飛ばされる時も、米友は面食《めんくら》ってしまうが、こうして猫撫声で出られる時も、気味が悪くてたまらない。もう少し前へおいでと言われて、米友が妙にハニカンでいると道庵は、
「薬のことは薬で、たしかに承知致したが、お前に少々物の言い方を教えてやるから、もう少し前へ出ておいで」
 なんでもないことですけれども、そういうことが気味が悪いから米友は、あまり道庵の家へ寄りつきません。道庵を恩人だとも思い、医術にかけてはエライところのある先生だと信じてはいながらも、米友が道庵に懐《なつ》かないのは、いつもこうして米友を苦しがらせては喜ぶといったような、人の悪いところがあるからです。
「お前、今、なんと言った、目黒から出て来たが、近所に医者もないではないが、素姓の知れたのがいいから、それでこの道庵まで尋ねて来たと、こう言ったね、お前とおれの仲だからそれでもいいけれども、ほかのお医者様の前へ行って、そんなことを言おうものなら、ハリ倒されるよ」
「そりゃどういうわけだろう」
 米友自身では、誰に向ってもハリ倒されるようなことを言った覚えはないのです。ここの先生に向って言い得べきことは、よその先生に向っても言い得ないはずはないと思いました。また、人によって言を二三にするような米友じゃあねえ、と腹の中は不平でしたが、道庵に向っては、口に出して啖呵《たんか》を切るわけにはゆきません。
「どういうわけということはなかろうじゃねえか、よく考えてみな、お前は目黒から来たと言ったろう、目黒はそれ、筍《たけのこ》の名所だろう、筍はお前、どこへ生えると思う」
「そりゃ先生、筍は竹藪《たけやぶ》の中へ生えるにきまってらあな」
「それ見ろ、つまり目黒は藪の名所だろう、その藪の中から出て来たくせに、近所に医者もあるにはあるがとは、道庵に対して随分失礼な言い分じゃねえか、いやにあてっこする[#「あてっこする」に傍点]じゃねえか、その位なら何も最初から、先生、わたしもこのごろ目黒におりまして、近所に藪もあるにはありますが、同じ藪でも長者町の藪の方が気心が知れて安心だから、それで、わざわざやって参りましたと、ナゼ素直に言わねえのだ、それをいやに、遠廻しに、近所に医者もあるにはあるが、わざわざ来てやったと恩に着せるように言われるのが癪だあな、おたがいにこう言った気性だから、物を言うにも歯に衣《きぬ》を着せねえようにして交際《つきあ》おうじゃねえか」
 実にくだらないこじつけ[#「こじつけ」に傍点]です。あんまりな言いがかりです。それを真面《まとも》に受けるのが米友の米友たる所以《ゆえん》で、
「先生、そ、そんなわけで言ったわけじゃねえんだ、近所に藪があるというような、そんなあてっこすり[#「あてっこすり」に傍点]で言ったわけじゃねえんだ、藪なんぞは、目黒でなくったっていくらもあらあな」
「なおいけねえ!」
 道庵が両手を差し上げたから、米友のあいた口が塞がりません。
 けれども藪争いはそれより以上に根が張らず、道庵はいいかげんにして米友のために、二箇の印籠へ充分に薬を詰めてやりました。そうしていったい、旅へ出かけるというのはどこへ出かけるのだと尋ねると、米友の言うことには、このごろ、下総の国の小金ケ原というところへ山師が出て、目黒の不動様のお札を撒《ま》き散らしたり、荒人神《あらひとがみ》のうつしを持ち出したりするということだから、三仏堂の役僧と、講中の重なるものとが、それを取調べのために小金ケ原へ出張することになり、その帰りには佐倉、成田の方面へ廻るということで、いま目黒の不動様に厄介になっている米友が、その附人《つきびと》の一人に選ばれたという次第です。
 それを聞くと道庵が珍重《ちんちょう》がって、ちょうど、その小金ケ原へは自分もひとつ下検分に行ってみたいと思っていたところだから、お前が行くならば一緒に行こうと、乗り気になってしまいました。
 そこで米友は薬を貰って、一旦目黒の不動院へ立帰る。発足はその翌日未明ということにきまっていて、道庵の一行は、上野の山下で不動院の一行を待ち合わせ、そこで相共に小金ケ原まで乗込もうということに相談がきまりました。
 翌朝、道庵は、いつぞや伊勢参りに連れて行った仙公というのを一人だけ引具《ひきぐ》して、山下に待ち合わせていますと、まもなく不動院の一行がやって来ました。
 この一行が千住の小塚原《こづかっぱら》に着いた時分も、朝未明《あさまだき》でありました。
 なにげなく来て見ると、千住大橋あたりからお仕置場あたりまで、押し返されないほどの人出です。
「えいじゃないか」の踊りがある。木遣《きやり》くずしのような音頭がある。一天四海の太鼓の音らしいのも聞える。思うにこの夥《おびただ》しい人数は昨夜一晩、踊って踊り抜いてまだ足りないで、ここまで練って来たものらしい。出かけた先は、やはり下総の小金ケ原でしょう。小金ケ原から踊り出して、小塚原へ来るまでに夜が明けてしまったと見える。夜が明けても彼等の踊り狂う熱は醒《さ》めない。この分では、江戸の町中を踊り抜いて、また日が暮れて夜が明けるまで、踊り抜くのかも知れません。
 不動堂の一行も、道庵先生の一行も、この人数をどうすることもできません。とても正面から行っては、この人数を押し破って通るというわけにはゆきません。さりとて、行手は千住の大橋で、川を徒渡《かちわた》りでもしない限り、裏道を通り抜けるというわけにもゆきません。やむことを得ずしてお仕置場の中へ避けて、この人数をやり過ごそうとしました。踊り狂って行く連中のほかに、この時分になると夥しい見物人です。
 あとからあとからと続く人数の真中に、馬にのせられた偶像がたった一つある。
 それは偶像ではない、たった一人の小坊主が、この人数にもあまり驚かない温良な黒馬に乗っかって、悲しそうな面《かお》をして、人波に捲かれていることです。
 その小坊主は、誰が見ても盲目《めくら》で、おまけに身体《からだ》よりも大きな笈《おい》を背負っていることがどうにも不釣合いです。この小坊主だけが、どうして馬に乗っているのだろう。馬に乗っているというよりは、見たところ、むりやりに馬へ掻《か》きのせられて、それを取捲く群集が、山車《だし》の人形のように守り立てて、山の上まで持って行こうという勢いですから、小坊主は騎虎の勢いで下りるにも下りられず、言いわけをしても、この騒ぎで聞き入れられず、ぜひなく多数に擁《よう》せられて、行くところまで行こうという気になっているもののようです。
 周囲の人々が熱しきって、気狂《きちが》いじみているにかかわらず、この小坊主だけが、泣くにも泣かれない面色《かおいろ》を遠くから見ると、ちょうど、ところが千住の小塚原であるだけに、さながら屠所《としょ》の歩みのような小坊主の気色《けしき》を見ると、いかにも物哀れで、群集の熱狂がこれから何をやり出すのだか、心配に堪えられないことどもです。
「皆さん、ここはどこでございます、もうこの辺でおろして下さいまし」
 馬上の小坊主は、泣くが如く、訴うるが如く、こう言いますと、
「ここは、まだ江戸のとっつき、千住の小塚原だよ」
と馬側《うまわき》から答える者がありました。
「ええ、小塚原ですって? あ、そんなら皆さん、ここでおろして下さいまし」
 馬上の小坊主は声を振絞《ふりしぼ》りました。
「まだまだ小石川の伝通院までは、なかなかの道のりだ、もう少し乗っておいでなさい、伝通院の御門前までは、ぜひぜひ送って上げますからね」
 馬側から、またこう言って叫ぶ者がありました。
「いいえ、もうここでよろしいのです、ここが小塚原とお聞き申してみますと、わたくしはここを乗打ちができないわけがあるんでございます。もし、もうこの辺がお仕置場でございましょう、わたくしはここで、お地蔵様へお礼をして通らなければならないわけがあるんでございます」
 小坊主は、誰がなんと言っても、ここで下りようとしました。
 やがて、その大きな笈《おい》を背負った小坊主が、馬の背から下りて、小塚原のお仕置場の高さ八尺の石の地蔵尊の前へ、ようよう這《は》いついた時に、それを見た宇治山田の米友が、
「ありゃあ、清澄から来た弁信だ」
 疲れきっているくせに重たそうな笈を背負った弁信は、ようように地蔵尊の前へのたりつくと、そのところへ平伏してしまいました。むしろ、その重い笈のために、つぶされてしまったようです。
 それを見た群集は、あわてて弁信を引起して、またも馬上へ運ぼうとしますと、弁信は力なき声をふり上げて、
「どうぞ、もうお赦《ゆる》し下さいまし、わたくしは疲れきってしまったから、もう馬に乗るのはいやでございます、どこぞへ暫く休ませて下さいまし」
 弁信は、再び馬に乗せられるのを頻《しき》りにいやがるのに、多数の者は、
「もう少しだから、辛抱なさい、お前さんが御本尊だ、御本尊が馬の上にござらないと、踊る人が張合いがない、伝通院まで送って上げるから、ぜひとも辛抱なさい」
 弁信をむりやりに馬の背へ掻き乗せようとする。それを弁信はしきりにいやがっているのです。あれほど疲れてもいるし、いやがりもするのを、なんだって多数《おおぜい》して担ぎ上げようとするのだか、それがいよいよわからないから、米友は人を掻きわけて、ずっと傍へ寄りました。米友が人を掻きわけて行くと、その傍にいた道庵も、こいつはまた変ってると思って、抜からぬ面《かお》をして米友にくっついて行きました。
「おいおい、お前は弁信さんじゃねえか」
 こう言って米友が言葉をかけると、弁信が、
「はいはい、あなたはどなたでございましたか知ら」
「俺《おい》らは米友だよ、友造だよ」
「ああ、友さんでございましたか、その後は御無沙汰を致してしまいました、お前さんもお壮健《たっしゃ》で結構でございます、わたくしもまた、あれから、お前さんと別れましてからは、下総国小金ケ原の一月寺というのへ行っておりましたが、一月寺におりますうちに、わたくしは清澄の茂太郎と一緒になりました、あなたにも一度お消息《たより》をしようと思っているうちに、つい御無沙汰になってしまいました……」
 この場合においても、お喋り坊主の弁信は、一別来の一伍一什《いちぶしじゅう》を喋り出そうとするから、米友も堪り兼ねて、
「弁信さん、御無沙汰どころじゃなかろうぜ、お前は今、弱りきって死にかけてるじゃねえか、いったい、そりゃどうしたんだい、大きなものを背負《しょ》い込んで、死にかけていながら、御無沙汰でもなかろうじゃねえか」
「ええ、その通りでございます、友造さん、わたくしはごらんの通りに弱りきっております、死にかけているんでございます、どうか助けておくんなさいまし」
「どうしたんだ、いったい、わけがわからねえや、どうして助けりゃいいんだ」
「友造さん、わたしはもう、馬に乗りたくないのでございます、わたしを助けて下さろうと思ったら、わたしを馬に乗せないようにしていただきたいのでございます、馬に乗せないで、この笈物《おいぶつ》のお守《もり》をしながら、どこかそこらで、ゆっくり休ませていただきたいんでございます、皆さんがむりやりに、わたしを馬に乗せて、踊っておいでなさろうとするが、私はもういやでございます、このうえ馬に乗せられると、私も死んでしまいます、背中の笈物も死んでしまいます、どうか、お助けなすって、私をこのうえ、馬に乗せないようにして下さいまし、お願いでございます」
 そこで米友が、いよいよわからなくなってしまいました。わからないけれど、さしあたっての急務は、この小坊主を馬に乗せないで、どこかへ静かに休息させてやればよいのだと思いました。
 そこで米友が、大勢を相手にその掛合いをしようという気になっていると、
「なるほど……」
 米友の背後《うしろ》から図抜けて大きな声を出して「なるほど!」と言って、人を驚かしたものがありました。一同がその声に吃驚《びっくり》して見ると、それは別人ならぬ道庵先生です。
「こりゃいけねえ、お前たちは、この盲目《めくら》の坊さんを人身御供《ひとみごくう》として、むりやりに馬に乗せて引張って来たんだろうが、見た通り弱りきって、疲れ果てているのを、この上馬に乗せようとするのは惨酷じゃねえか。昔、神田の祭礼の時に馬鹿な奴があって、素裸《すっぱだか》へ漆《うるし》を塗って、生きた人形になって山車《だし》へ乗っかって、曳かれる者も得意、曳く者も得意でいたところが、いいかげん引っぱってから卸して見ると、その人形が死んでいたという話があらあ。この坊さんだって、もう二三丁も馬に乗せて行こうものなら往生しちまわあ。幸い道庵が通りかかった以上は、商売の手前、見殺しにはできねえ、この小坊主は暫く道庵が預かって、療治を加えてやった上、改めてお前たちに引渡すから、お前たち、暫くの間、ここで踊って待っていろ、この小塚原の亡者《もうじゃ》どもが浮び出すほど、踊って待っていろ……ところでいったい、お前たちは無暗に踊ったり跳ねたりしているようだが、踊りのこつ[#「こつ」に傍点]というものを知っているのか、それとも知らずに踊っているのか、おそらく知っちゃあいめえな。自分からこういうと口幅《くちはば》ったいようだが、日本広しといえども馬鹿囃子にかけちゃあ、当時下谷の長者町の道庵の右に出でる者があったらお目にかかる、この道庵の眼から見れば、お前たちの踊りなんぞは甘《あめ》えもので、からっきし、物になっちゃあいねえ」
 石の地蔵尊の台座の上に突立って、いつぞやの貧窮組の先達気取りで演説をはじめた道庵が、飛んでもないところへ脱線してしまいました。
 実際、馬鹿面踊《ばかめんおど》りの極意《ごくい》に達している道庵の眼から見れば、小金ケ原の場末から起り出した不統一な、雑駁《ざっぱく》な、でたらめな、この輩《やから》の連中の踊りっぷりなんぞは、見ていられないのかも知れません。そうだとすれば、道庵が思わず義憤を発して、この衆愚を啓発してやろうという気になったのも、無理のないところがあります。
「そもそも馬鹿囃子のはじまりは、伊奈半左衛門が、政略のためにやったということになっているが、道庵に言わせるとそうでねえ。ちうこう[#「ちうこう」に傍点]になって雲州松江の松平出羽守、常陸《ひたち》の土浦の土屋相模守、美作《みまさか》勝山の三浦志摩守といったような馬鹿殿様が力を入れて、松江流、土屋流、三浦流という三つの流儀をこしらえたが、馬鹿囃子の本音は、トテモ殿様のお道楽では出て来ねえ。つづいて旗本の次男三男のやくざ[#「やくざ」に傍点]者が、深川囃子というのをこしらえると、本所に住んでいたのらくら[#「のらくら」に傍点]者の御家人が負けない気になって、本所囃子というのをこしらえやがったが、やっぱり馬鹿囃子の本音は、生白《なまじろ》い旗本や御家人の腕では叩き出せねえから、まもなく元へ返ってしまった。ところで、その元というのが、旧来の鍔江流《つばえりゅう》の五囃子だが、道庵に言わせると、こいつもまだ不足がある。ところで……」
 道庵は得意になって、馬鹿囃子の気焔をあげはじめました。この場合においてお喋り坊主以上のお喋りが始まりそうだから、気の短い米友がじっとしてはおられません。
「先生、いい加減にしねえと、この坊さんが死んじまうぜ」
「あ、そうだそうだ、馬鹿囃子より人の命が大事だ、大事だ」
 道庵は、あわてて地蔵の台座の上から飛び下りて、米友と力を合わせて弁信を笈ぐるみ荷《にな》って、近いところの休み茶屋に担ぎ込みました。
 道庵が、お喋り坊主を休み茶屋の中へ連れ込んで療治を加えている間、外に立っている群集は、相変らず踊り狂っていたが、暫くして頻りに、その偶像を返されんことを要求します。
「坊さんかえしてもえいじゃないか、えいじゃないか」
 休み茶屋の周囲を取巻く事の体《てい》が、最初から穏かではありません。ところで、跳《おど》り出した道庵が、公衆の眼の前へ現われて、
「さあ、お前たち、あの小坊主にいろいろと療治を加えてみたが、少なくともなお三日間は安静におらしむべき容態である、いま動かしては命があぶない。といってお前たちも、折角ここまで引出した人形なしにはうまく踊れまい。そこは乃公《おれ》も察しているから相談ずくで、新しい人形を一つお前たちに貸してやる、これは鎌倉の右大将米友公という人形で、形は小さいが出来は丈夫に出来ている、ただいまのお喋り坊主と違って、ちっとやそっといじ[#「いじ」に傍点]くったところで破損をする代物《しろもの》ではない、その代りいじ[#「いじ」に傍点]くり方が悪いとムクれ出す、ムクれ出した日には、ちょっと手がつけられない、そのつもりでこの人形を伝通院まで貸してやるから、これを小坊主の代りに馬の上へ乗っけて踊れ、踊れ」
 お喋り坊主の代りに道庵が提供したのは、鎌倉の右大将米友公と言ったけれども、実は宇治山田の米友のことであります。いつのまにか道庵が米友に因果をふくめて、盲法師の身代りとなるべく納得《なっとく》せしめたと見えて、米友は甘んじて、彼等の偶像となろうとするものらしい。しかし、米友は正《しょう》のままではそこへ現われて来ませんでした。どこにあったか天狗の面をかぶって、頭へは急ごしらえの紙製の兜巾《ときん》を置き、その背中には、前に弁信が背負っていた笈を、やはり頭高《かしらだか》に背負いなして、手には短い丸い杖を持って現われたから、それを金剛杖だと思いました。そうして誰ひとり、米友だと気のつく者はありません。
「大山大聖不動明王《おおやまだいしょうふどうみょうおう》!」
 群集の中から喚《わっ》と鬨《とき》の声を揚げるものがありました。
「南無三十六童子、いけいら童子、うばきや童子、はらはら童子、らだら童子」
と相和《あいわ》するものもありました。
 要するにこの場は、変ったものでありさえすればよいのです。なんとか納まりそうな人形を提供して、馬に乗せさえすればよかったから、天狗の面が図に当りました。
「大山|阿夫利山《あふりさん》大権現、大天狗小天狗、町内の若い者」
 そこで米友が馬に乗ると、彼等は以前に、しおれきった小坊主をむりやりに人形に奉って来た時よりは、一層の人気を加えて、再び踊り熱が火の手を加えて、
「大山大聖不動明王、さんげさんげ六根清浄《ろっこんしょうじょう》、さんげさんげ六根清浄」
 こうして新手《あらて》を加えた踊りの一隊は、小塚原を勢いよく繰出しました。
「鎌倉の右大将米友公の御入《おんい》り」
 声高らかに呼ぶ者があると、
「頼朝公の御入り」
とわけわからずに同ずるものもありました。これが小塚原を繰出すと、ゆくゆく箕輪《みのわ》、山谷《さんや》、金杉《かなすぎ》あたりから聞き伝えた物好き連が、面白半分に潮《うしお》の如く集まって来て踊りました。その唄と踊りの千差万別なることは名状すべくもありません。大山大聖とあがめまつるものもあれば、鎌倉の右大将だというところから鎌倉ぶしを謡うものもある、木遣《きやり》を自慢にうなるものもある、一貫三百を叩き出すものもあろうという景気は、到底人間業とは見えませんでした。
 この噂《うわさ》が程遠からぬ吉原の廓《さと》へ響くと、吉原の有志は、どう考えたものか、ぜひ道を枉《ま》げて、その一隊に吉原へ繰込んでいただきたいという交渉であります。
 ずっと伝通院まで乗込むはずであったのを、吉原遊廓の懇望《こんもう》もだし難く、大山大聖が、しばらくそこへ駕《が》を枉《ま》げることになりました。吉原では、大樽の鏡を抜いてこの一行をもてなします。お賽銭が雨の降るようです。
 ここで暫く休んで、いざ出立という時に、米友の馬側《うまわき》に二人の童子が立ちました。その一人は金伽羅童子《こんがらどうじ》、一人は制陀伽童子《せいたかどうじ》、二人ともに絵に見る通りの仮装をして、これから大聖不動の馬側に添うて、どこまでもおともを仕《つかまつ》ろうという気色です。
 宇治山田の米友が心中の大迷惑は察するに余りあることで、米友としては面白くもなんでもなく、弁信の身代りのために、しばらく犠牲となって馬上に忍び、小石川の伝通院とやらへ、ひとまず送り込まれてしまえば、それで一通りの義務は済むものと思っていたのだから、道草を食わずに早く伝通院へたどりついて、仮面《めん》を取ってしまいたいのだが、まずもって吉原の信心家へ招かれて、退引《のっぴき》のならなくなったのが小面倒の起りです。
 彼等はこの踊りの一行が、世直しの大明神の出現だとでも信じているらしい。ことに一行の本尊様に祭り上げられている馬上の偶像に向っては、正真《しょうしん》の大天狗が天降《あまくだ》ったものとでも思っているのか知らん。そのもてなし方は有難いのが半分、面白がりが半分で、やたらに崇《あが》め奉って、これから到るところ、そのお立寄りを願うことになりそうです。お立寄りを請《こ》われるたびに踊り子の連中には、相当の振舞があるにはあるが、いよいよ大迷惑なのは米友です。
 両側の家から、紙に捻《ひね》ったお賽銭を投げるのが、誰を目的《めあて》であろうはずはない、みんな米友の身体をめがけて投げられるのだから、
「痛エやい」
 米友はムキになって痛がっているところへ、馬の側に立った二人の童子は、ヒューヒューヒャラヒャラと節面白く横笛を吹きはじめました。その笛の調べが実にうまい。踊りの連中は、その笛の音でまたいい心持に踊り出しました。
 その時、一方、吉原の廓内では、思いもかけぬ天上から、ひらひらと落花の舞うが如く、幾多の紙片が落ちて来るから、或る者は欄干《てすり》から手を伸ばし、或る者は屋根へ上り、或る者はまた物干へ駆け上って、その紙片を手に取って見ると、それはいずれも、あらたかな神仏のお札であります。にわかにおしいただいて神棚へ上げるやら、お神酒《みき》を供えるやらの騒ぎとなりました。
 どうしてもこれには、何か黒幕がなければならないことです。
 それから後、かつて貧窮組が起った時と同じ伝染作用が、江戸の市中に起りました。前の時は不得要領な貧民どもが寄り集まって、お粥《かゆ》を食って食い歩いたのだが、今度は無暗に踊って踊り歩くのです。甲の町内で阿夫利山の木太刀を担ぎ出すと、乙の町内では鎮守の獅子頭を振り立てるものがあります。山伏|体《てい》の男を馬に乗せて、法螺《ほら》を吹かせて押出すのもあります。貧窮組が不得要領であった如くに、この踊りの流行も不得要領です。ひとり馬に乗せられた天狗の面は、必ずしも最初の目的通り、伝通院へ送り込まれるものとは限りません。調子に乗ってここを振出しに、江戸八百八街を引き廻されることになるかも知れません。
 金伽羅童子《こんがらどうじ》、制陀伽童子《せいたかどうじ》が笛を吹いて行くと、揃いの単衣《ひとえ》を着た二十余名の若い者が、団扇《うちわ》を以て、馬上の天狗もろともに前後左右から煽《あお》ぎ立てました。
 その煽ぎ立てている揃いの若い者の中を米友が見下ろすと、あっと意外に驚く人物が交っていたから、米友はかぶった天狗の面の中から、その男を見つめました。
 米友が驚いたその揃いの若者の中の男というのは、いつぞや本所の相生町の家で、米友の槍先にかけて、追払った浪人のなかの一人です。

         六

 それとは別に、小塚原のお仕置場の前の休み茶屋に収容されたお喋《しゃべ》り坊主の弁信の枕許《まくらもと》には、道庵もいれば、清澄の茂太郎もいます。道庵のいることは不思議ではないが、茂太郎は、弁信が背負って来た笈《おい》の中から出たものです。
 疲労しきった弁信は、そこで前後も知らぬ熟睡に耽《ふけ》っているが、さて道庵の身になってみると、小金ケ原の踊りは、今やああして江戸の市中へ移って来てみると、これから小金ケ原まで視察に行くほどの必要もなく、またかえってこの江戸の市中のこれからの騒ぎを見のがすわけにゆかないから、そこで弁信、茂太郎の徒をつれて引返すことにきめました。不動院の一行は、ともかく米友は道庵に托しておいて、小金ケ原へ出かけて一応の視察を試むることになりました。
 弁信と茂太郎とを駕籠《かご》に乗せて、長者町の屋敷へ帰って来た道庵、外《はず》しておいた門札をかけ返すと間もなく、病家の迎えを受けたから早速でかけます。
 弁信は一間のうちに死んだもののようになって眠っている。茂太郎はその枕許についていながら、退屈まぎれに庭を見ると、一叢《ひとむら》の竹が密生していました。その竹を見ると茂太郎は、笛が作ってみたくて作ってみたくて堪らなくなりました。笛を作るには作りごろの竹であると思いました。
 欲しくなるとじっとしてはおられないのがこの少年の癖で、とうとう庭へ下りて、丁々《ちょうちょう》とその一本の竹を切って取り、手際よくこしらえ上げたのが一管の、一節切《ひとよぎり》に似たものです。
 それを唇に当てて、ひとり微笑《ほほえ》んで、思うままにそれを吹き鳴らして楽しもうとしたが、それではせっかく寝ている弁信を驚かすことを怖るるもののように、弁信の寝顔をながめました。
 実際よく寝ることであると思わないわけにはゆきません。自分は、あの狭い笈の中へ押込められて、馬の背に揺られ通して来たけれど、さして眠いとも思わず、またさして疲労も感じないのに、弁信さんの眠たいことと、疲れっぷりは随分ひどいと、今更のようにながめました。しかし、自分は、海へもぐっても覚えのあることで人並よりはズンと息が長いのだし、一晩二晩寝なかったところが何ともないように生れているが、世間の人がみんなそうではない。そこで、いささかでも弁信の安眠を妨げないように、自分も心置きなく、暫くでもこの笛を吹き試みて遊びたいという心から、また廊下へ出てみました。廊下へ出てみたところで、やっぱりその響きが、弁信を驚かそうという心配は同じことです。
 笛を携えて庭へ下りて、軒に立てかけた梯子《はしご》を見上げると、屋根の上高く櫓《やぐら》が組んであるのを認めました。
 物干にしては高過ぎる、と思いながら、あそこなら誰憚らず笛を吹いてみるに恰好《かっこう》だと思いました。
 この櫓というのは、道庵先生が鰡八大尽《ぼらはちだいじん》に対抗して、馬鹿囃子《ばかばやし》を興行するために特に組み上げた櫓の名残りであります。
 茂太郎が屋根の上の櫓で、誰憚らず笛を吹こうと上ってみたところが、大尽の御殿の広間に多数の人が集まっているのが、そこから手に取るように見下ろすことができます。
 見れば、それは、やはり踊っているのであります。しかも踊っているのは、いずれも綺羅《きら》びやかな人ばかりであります。
 さても踊ることの好きな国民かなと、笛を携えた茂太郎が呆《あき》れて、その広間の中をながめていました。
 小金ケ原から踊り抜いて来た連中は民衆の階級であります。彼等はのぼ[#「のぼ」に傍点]せ上ってところ嫌わず踊るから、ついにはふん[#「ふん」に傍点]縛られたりするようなことになる。ここの中で踊っている連中は、どんなに間違っても縛られることはないから、男と女とが抱き合ったりなんかして、盛んに踊っているのであります。
 われら笛吹けども踊らず、と昔の人は言いましたが、笛を吹かないでも、このくらい内と外とで踊れば充分だろうと思われます。茂太郎はそれを見ていると、みんな立派な人たちが、いい年をして、どうしてまた、あんなに食いついたり、抱き合ったりして、臆面《おくめん》もなく踊れるのだろうと思いました。けれども、この人たちは、かの民衆階級のするように、決して無暗に馬鹿踊りをするわけではありません。こうして出来た入場料を、みんな慈善事業に寄附しようという、非常に高尚な目的でやっているのですから、食いついたり、抱き合ったりして踊ったりしたところが、その性質がおのずから違っていることを茂太郎は知らないから、ただ笛を携えて、しきりにながめているばかりです。
 さて、ここでひとつ笛を吹いたら、たしかにあの人たちを驚かすことはできると思いました。人を驚かすために吹きに来たのではなく、人を避けんがために吹きに来たのだけれども、こうなってみると茂太郎は、踊っている大尽の家の綺羅を尽した紳士淑女のために、吹いてやりたい心を起しました。とりあえず何を吹いてやろうと、歌口をしめしながら、暫く小首を傾けておりました。
 何を吹き出そうかと思案している茂太郎の目の前を、二羽の鳩が飛んで行きます。それを見ると茂太郎は、急に笛を取り直して、ヒューヒョロロと吹きました。
 その笛の音につれて、不思議なことに、飛んで行こうとした二羽の鳩が、急に翼を翻して櫓《やぐら》の上へ戻って来ました。
 続いて茂太郎が笛を吹くと、どこにいたともない多数の鳩が、土蔵の鉢巻の裏や、屋根の瓦の下や、軒の間から姿を現わして、茂太郎の立っている櫓の上へと集まって来るのが、いよいよ不思議です。
 茂太郎は、足拍子面白く、なお吹きつづけていると、集まった鳩が、左右に飛び惑うて、さながら踊りをおどるが如き形が妙です。そうして或る者は茂太郎の肩につかまって、また離れ、或る者は茂太郎の周囲をめぐりめぐって、戯れ遊ぶもののようです。
 いよいよ吹いている間に、雀も集まります。烏もやって来ます。茂太郎の傍にあって舞い踊るのは鳩だけであって、そのほかの鳥は屋根の鬼瓦や、棟の上に集まって、首を揃えてそれを見物するかの如き形が、またすこぶる妙なものであります。
 と、また、庭に餌を拾っていた鶏がしきりに羽バタキをしました。高く櫓の上まで飛び上ろうとして、翼の力の足らぬことをもどかしがるように、居たり立ったりしている鶏もおかしいが、ついには例の梯子《はしご》を一歩一歩と鶏が上って来る有様です。見ている間に櫓の上は無数の鳥で一パイになりました。
 表を通る人は足をとどめて、この家の屋根の上を見物します。裏の大尽の家の庭でも、広間でも、このことの体《てい》を認めないわけにはゆきません。
「茂ちゃん、お前また笛を吹くと人騒がせだよ」
 眠っていたと思った弁信が、下の庭から言葉をかけました。

 話が前に戻って、小金ケ原から繰出して来た人数を、浅草広小路の、とある茶屋でながめているのが山崎譲と七兵衛とであります。
「えらい景気だな」
「えらい景気でございます、けれども、上方《かみがた》のえいじゃないか[#「えいじゃないか」に傍点]はこれどころではございませんな」
「左様、あれに比べると、まだこっちの方が穏かだな」
「いったい、近頃は関東よりも、上方の方が人気が荒くなりました」
「そうかも知れない、いったい、あのえいじゃないか[#「えいじゃないか」に傍点]騒ぎはどこから起ったものだ」
「どこから起ったか存じませんが、神様のお札が、天から降って来たのが始まりだそうでござんすよ、それで忽《たちま》ちあんなことになってしまいました、盆踊りのように、時を定めて踊るんならようございますが、朝であろうが、昼であろうが、稼業《かぎょう》が忙しかろうが、忙しかるまいが、踊り出したが最後、気ちがいのようになってしまうのですから手がつけられません。私はあれを、伊勢から伊賀越えをする時に見物致しました、男だけならまだしも、女が大変なものですからな、女が白昼、裸で踊って歩くんですから、沙汰の限りでございます。どうも人間てやつは、ああして集まって人気が立つと、逆上《のぼ》せあがって人間が別になってしまうんですね。江戸へは、あんなものを流行《はや》らせたくないものでございます」
「そうだ、流行りものとなると、人気がまるっきり別になってしまうんだ。今時《いまどき》の攘夷《じょうい》というやつもそれと同じで、そのことができようとできまいと、それを言わなければ人間でないように心得ている。流行りものというやつは全く厄介物だな」
「上方ばかりじゃございません、先生のお国の常陸《ひたち》の筑波山あたりでも、昔はずいぶんああいったものが流行ったということでございますね」
「古いことを担ぎ出したものだな、あれは歌垣《うたがき》といって、やっぱり男女入り乱れて踊るんだ、ずいぶんいかがわしい[#「いかがわしい」に傍点]話もあるが、今の流行《はや》りものよりは幾分か風流だろう」
「伊勢の国には、またつと[#「つと」に傍点]入りというのがありましてね、大勢して踊り歩いて、日頃、大事なものを隠して置く家の前へ来ると、つつと入りこんで、その大事なものを取り出して見るのですが、大事にしている娘や、お妾さんを見られて弱る者があるそうです」
「武州の府中の六所明神の提灯祭りは、一定の時になると、町という町の燈火《あかり》を残らず消して、集まったものが入り乱れて踊るのだそうだが、お前、行って見たか」
「ええ、行って見たこともございます」
「人間は踊りたがるように出来てるんだ、それが男だけでは熱が出て来ないんだ、女が出て踊るようになるから熱が出て、逆上《のぼ》せあがってしまうのだな」
「そうですとも。上方で見ました時に、女が裸で踊る有様といったら、とても見られたものじゃありませんでした。女はあまり人中へ出て踊らない方がようござんすな。もっとも、踊りも優美な品のいい踊りならずいぶん結構でござんすけれど、えいじゃないか[#「えいじゃないか」に傍点]の踊りばかりは感心しません。西洋の国では、エライ身分の人たちまでが夜会ということをして、男と女と夜っぴて踊るんだそうですが、日本の土地にもその真似が流行《はや》ったんでございましょう、世が末になるとロクなことは流行りません」
「誰か裏にいて、煽《おだ》てる奴があるんだよ」
 七兵衛と山崎とが、こんな話をしているところへ、人混みの真中に揉《も》まれて、馬に乗った天狗の面が現われて来ました。
「あれだ、ああいう木偶《でく》の坊《ぼう》を祭り上げて、いい気になって騒いでいる」
 二人は馬上の人身御供を苦々《にがにが》しげに、また笑止千万な面《かお》をしてながめています。

         七

「左様でございますね、何ともおっしゃっておいでにはなりませんが、多分、本所の相生町の方へおいでになったものと心得ておりまする。実は私もこの間、こちらへ御厄介になりました居候《いそうろう》でございまして、まだ、先生の御気象もよく呑込んでいるわけではございませんが、うちの先生は、なかなかちょく[#「ちょく」に傍点]なお方でございまして、あれでまた、なかなか物に憐れみがございます。わたくしと、もう一人の茂太郎というのが居候をしているのでございますが、まあ命の親と言ってもよろしいのでございます。始終、お酒を飲んで冗談ばかり言っておいでになりますけれども、お医者の方はたしかにお上手でございます、癒《なお》るものは癒る、癒らないものは癒らないと、ハッキリおっしゃるのが何よりの証拠でございます。人間業で癒るものと、神仏の御力でなければ、どうにもならないものとの区別を先生は、あれでちゃんと心得ておいでになるところがエライものと、わたくしは感心を致しておりますのでございます。本当のことを申しますと、人間というものは、決して病気で命を落すものでございません、みんな寿命でございます、前世の宿業《しゅくごう》というものでございます。それでございますから世間に、お医者さんを信用し過ぎるものは、まるきりお医者さんを信用しないものと同じことに、間違っているのでございます。また、うちの先生は薬礼を十八文ずつときめてお置きになります、これが、ケチのようですけれども、できないことでございます。もともとお医者さんという商売は、そんなにお金の出来る商売ではございません、お医者さんで、一代のうちに百万円ものお金をこしらえたりすると、その子供に良いのが出来ません、お医者さんや坊主というものは、人の命を扱うものでございますから、できるだけ綺麗《きれい》に致していなければ、人の思いというものがたか[#「たか」に傍点]るのでございます。こんなことを申し上げると、迷信だなんぞとお笑いになるかも知れませんが、それが本当のところでございます。ただ、うちの先生に惜しいことは、お酒を召上ることでございます、梵網経《ぼんもうきょう》の中にも飲酒戒《おんじゅかい》第二とございまして、酒は過失を生ずること無量なり、もし自身の手より酒の器を過ごして、人に与えて酒を飲ましめば五百世までも手無からん、況《いわ》んや自ら飲まんをや、とございます。そのことを先生に申しますと、先生は、べらぼうめ、道庵が酒を飲んでいるから天下が泰平なんだ、道庵が酒をやめたら天下が乱れるから、それで人助けのために酒を飲んでいるのだと、こうおっしゃいますから、わたくしも二の矢がつげないのでございます。まあ、もう少しこちらでお待ち下さいまし、わたくしどもも実は茂太郎と二人で、まだ夕飯もいただかないでお待ち申しているところでございます。ナニ、もう御膳《ごぜん》は出来ておりますのですけれども、先生より先にいただいては済むまいと思いますから、二人ともにまだ夕飯を食べないでお待ち申しているところでございますが、いつお帰りになるかわかりませんから、これから、ちょっと用足しに出かけて参ろうとするところでございます、なにぶんよろしく」
 お喋り坊主の弁信は、一息にこれだけのことを喋って、杖をついて道庵の屋敷を出かけました。

 本所の相生町の老女の屋敷の中から、琵琶の音が洩れ聞えたのはその夕べのことです。
 道を通る人は、わざわざ立ち止まってその音に耳を傾けるものもあります。聞き流して通り過ぎる人もあります。屋敷のうちにいる娘たちも、思いがけなくその音を聞いて、珍しがって耳を傾けました。その琵琶の音は、正銘の薩摩琵琶の音でありますけれども、聞く人は、何だかわからないと言っている人が多いようです。
 外に立って聞いている人の評判を聞くと、はじめは三味線だろうと言いました。やがて三味線ではない、琴だと言い出すものもありました。琴でもないと打消す者もありました。琴の曲弾《きょくひ》きをしているのではないかと附け加えるものもあったけれども、これが琵琶だと断言したものは一人もありません。
「皆さん、御存じでもございましょうが、あれは薩摩の国で流行《はや》ります地神盲僧《ちじんもうそう》の琵琶のうちの、横琵琶というものでございます。どうして私がそれを知っているかと申しますと、私は平家琵琶を少しばかり心得ているのでございます。御承知の通り琵琶にもいろいろございまして、妙音の琵琶、平家の琵琶、荒神の琵琶、地神盲僧の琵琶……名はいろいろでございましても、源《もと》は一つでございます」
 寄ってたかって聞いている連中は、思いがけないところから一人の小坊主が飛び出して、問われもしない説明をやり出したのに驚かされました。
 お喋り坊主はひきつづき、海の中に漂う海月《くらげ》のように、小路《こうじ》の暗いところで法然頭《ほうねんあたま》を振り立てて、
「わたくしが琵琶を習いはじめにお師匠さんが、薩摩の琵琶はこうだと弾《ひ》いて聞かせてくれました、あの国では、おさむらいたちのうちに専ら琵琶が流行しまして、二本差して琵琶を背負って歩く人が多いそうでございます、それで薩摩の国の琵琶は、おさむらい風の勇ましいものでございます、私共が習いました平家琵琶とは、なかなか趣が異《ちが》ったものでございます、けれども源《もと》はみんな一つでございまして、やはり、薩摩の琵琶も地神盲僧から出たものでございますから、わたくしがこうして耳を傾けて聞いておりますると、なるほどと思い合わせることが多いのでございます。エ、地神盲僧とは何だとおっしゃるのですか、地神の地の字は、天地の地の字を書くのでございます、神は神様の神という字、盲僧の盲は盲目でございまして、僧は出家の僧でございます、地神というのは地の神様、盲僧というのは、私共みたような目の見えない坊主のことでございます」
 お喋《しゃべ》り坊主がこう言った時に、人々ははじめて、この坊主は盲目《めくら》であったのかと思って、その面《おもて》を篤《とく》とのぞき込みました。のぞかれてもそれと知る由もない弁信法師は、聴衆が静まっていると見て、なおそのお喋りをつづけました。
「そもそもこの琵琶というものを始めましたのが、天竺《てんじく》の妙音天でございます。妙音天が琵琶をお始めになったのでございますが、この妙音天というお方も盲目であったそうでございます。それでございますから、この妙音天様が地神盲僧の守り本尊になっているのでございまして、私共も琵琶を弾《ひ》きまする時は、その妙音天様を本尊と致します。また一説と致しましては、お釈迦様のお弟子のなかに巌窟尊者《がんくつそんじゃ》という方がございました、この方が、やはり盲目でいらっしゃいました、ところで、お釈迦様がかわいそうに思召されて、お前は目が見えないでかわいそうである、その代り心眼を開くがよろしい、心眼を開いて悟りに入れば、なまじい眼の見えるために、五欲の煩悩《ぼんのう》に迷わされる人たちよりは遥かに幸福であるとお教えになりました、そこで巌窟尊者が一心に修行を致されまして、ついに心の眼を開くようになりましたのでございます。いよいよ尊者が心眼をお開きになりました時に、妙音弁才天が十五童子をひきつれて、お釈迦様の御前で、琵琶の妙音曲を巌窟尊者にお授けになりました。その頃、中天竺に阿育大王《あいくだいおう》とおっしゃる王様がございまして、そのお世継《よつぎ》が倶奈羅太子《ぐならたいし》と仰せられました、一国の太子とお生れになりましたけれども、何の因果か、このお方がふとお眼をおわずらいになって、私共同様の盲目《めくら》の身となっておしまいになりました。四海を治め給う御方でも、私共のような漂泊《さすらい》の小坊主でも、眼が見えなくなりましては世間は闇でございます……」
「おやおや、雨が降って来ましたぜ」
 さきほどから怪しかった空がバラバラと雨を落して来たので、集まっていたものがどよめき渡りました。そこで盲目法師のお喋りも一段落になって、濡れるを厭《いと》う人たちは、右往左往に馳せ出しました。

「もし、先生、長者町の道庵先生は、まだお屋敷にいらっしゃいますか、それとももはやお帰りになりましたか」
 弁信の姿が表の門のところに現われて、案内を頼みましたのは、それより後のことでしたけれど、やや暫くというものは返答がありません。返答がありませんでしたけれど、自分の訪れは奥へ届いたものと信じて弁信は、それ以上には念を押さずに待っておりました。果してバタバタと廊下を渡って迎えに来た者があります。
「おお、あなたは弁信さんとおっしゃるお方でしたか、あなたも琵琶をお弾きになるそうですね、ただいま、こちらにも琵琶のお上手な方がおいでになりました、道庵先生もそれをお聞きになっていらっしゃいます、ぜひ、あなたもその席へおいで下さるようにと、先生も、皆様も、そう申しておいでなさいます、さあ、お上りくださいまし」
 こう言って、わざわざ奥から弁信を迎えに来たのはお松であります。
「左様でございましたか、実は私もただいま外でお聞き申していたところでございました、それを聞かせていただきますれば、私と致しましても願ったり叶ったりでございます。そういうことでございますなら、好きな道でございますから、遠慮なしに上らせていただきますでございます」
 弁信は杖をさしおいて、はや玄関へのぼってしまいました。
 やがて弁信が広間へ案内されて見ると――弁信は盲目《めくら》だから見るわけにはゆきません、推量してみると、かなりの広間に、かなりの人が集まって、琵琶を弾いている人は、その広間の真中にいることはわかります。だから自然、聞く人は皆その周囲に端坐したり、柱にもたれたり、障子や唐紙《からかみ》をうしろにしたりしているということがわかります。
 弁信が招ぜられたのは、例の道庵先生が控えているその次で、この際先生は謹聴しているのだか、それとも居眠りをしているのだか、ともかく、もっともらしく下を向いて控えていました。
 静かに道庵の次へ坐った弁信は、やはり前と同じように歌のない琵琶だけが、老練な人の手によって弾きこなされているのを耳にします。それを聞いていると、弾いている人の年頃もほぼ想像されます。決して若い人ではない、年齢においてもかなりの老練家であり、それで琵琶を弾く人であって、歌わない人だということもわかります。歌えないのではなく、歌う必要のない琵琶を弾くことを心得ているもののようです。弁信はそれをいっそう面白く思って、いよいよ席を構えて、ほんとうに身を入れて、しんみりと聞こうとした時に、室の中程から立ちのぼる異様な臭気に打たれました。
 勘の鋭いように、嗅覚《きゅうかく》もまた鋭敏であった弁信は、それほど好きな琵琶の音をさえ打忘れて、その立ちのぼる異様な臭気に心を取られました。
「おや」
 その時に琵琶の主《ぬし》が代りました。琵琶ばかり弾いて、あえて歌わなかった一曲はそれで終って、新たに代った人が同じところへ坐って、徐《おもむろ》に歌い出したのが「木崎原」の一段であります。席はいよいよ静粛なものになりました。
 薩摩の島津家にとっては「木崎原」の歌は大切な歌であります。藩主もこの木崎原を聞く時には端坐して、両手を膝の上へ置いて謹んで聞くのだそうです。それですから弾ずる人は無論のこと、ここに集まるすべての人が、みな相当の敬意を表して、いよいよ席が静粛なものになったのでしょう。
 ひとり、道庵先生のみは相も変らず、謹聴しているのか、居眠りをしているのか、わからない形で、尤もらしく下を向いて控えていることは前と同じです。見ようによっては、下を向いて時々|欠伸《あくび》を噛み殺しているようにも見えるところが、この先生の持って生れた人柄です。
 木崎原の琵琶歌は、島津家先祖の功業をうとうたもので、その初段の歌い出しはこういう文句であります。
[#ここから1字下げ]
「つらつら世間の現象を観ずるに、積善の家には余慶あり、積悪の家には余殃《よおう》あり、尤《もっと》も慎むべきは此道也、ここに薩隅日三州の太守、島津|修理太夫《しゅりだいふ》義久と申し奉るは、うやうやしくも清和天皇の御苗裔《ごびょうえい》、鎌倉右大将征夷大将軍源頼朝公の御子、左衛門尉《さえもんのじょう》忠久公より十六代目の御嫡孫也、文武二道の名将にて、上を敬ひ下を撫で、仁義正しくましませば、靡《なび》かん草木はなかりけり、御舎弟には兵庫頭《ひょうごのかみ》忠平公、左衛門尉歳久公、中務大輔《なかつかさたいふ》家久公とて、何れも文武の名将なり、其の外、家の子|郎等《ろうとう》に至るまで、皆忠勤を励ませば、古今稀なる御果報、近国他国の者までも、羨まざらんはなかりけり……」
[#ここで字下げ終わり]
 こんなふうに、薩摩の国主の讃美歌になっているのだから、苟《いやし》くも薩摩に縁のあるものがこの歌を聞く時、多くの敬意を表さなければならないのは当然であります。
 こうして一座が水を打ったようになり、歌う人の意気が、いよいよ昂《あが》って、
[#ここから1字下げ]
「彼《か》の島津殿と申すは、かたじけなくも清和天皇の御末、多田満仲《ただのみつなか》よりこのかた、弓箭《ゆみや》の家に誉を取り、政道を賢くし給へば……」
[#ここで字下げ終わり]
という大干《たいかん》にかかった時に、最初から鼻をひこつかせていた盲法師《めくらほうし》の弁信が、いよいよ法然頭を前後左右に振り立てて、さながら見えぬ眼に、何かを探そうとするらしき振舞のみが甚だ目ざわりです。
 この弁信もまた、自ら名乗るところの如く、上手か下手かは知らないが、かりそめにもその道に心得のあるものだから、礼儀から言っても、趣味から言っても、もっと温和《おとな》しくしていなければならないはずのが、ついに堪り兼ねると見えて、
「あ、もし、皆様、せっかくの弾曲の間を大変に失礼でございますけれども、皆様に申し上げなければならないことが出来ました」
 琵琶歌の半ばに、席の隅っこにいた見慣れぬ小坊主が叫び出したから、
「叱《し》ッ」
 叱りつけた者がありましたけれど、弁信はそれを耳にも入れないで、
「もし、皆様、火薬の臭《にお》いが致しまする、このお部屋の中に烟硝《えんしょう》の臭いが致しまする」
 言いも終らぬ時に、轟然《ごうぜん》たる響きと共にこの一室が、裂けて飛んだかと思われる家鳴《やなり》震動です。
 静粛な弾曲の半ばに思い設けぬこの出来事は、一座のすべてを驚かさないわけにはゆきません。少なくとも三十余人は集まっていた勇士豪傑の驚きぶりが、またそれぞれ個性を発揮しているところが面白いと言えば面白いものです。或る者は二三間飛び退いて太刀を抜かんと構えました。或る者は下へつくばる[#「つくばる」に傍点]ようにして、身を沈めながら敵の呼吸を見るような形であります。或る者はまた、列座のうちの少年をかこうて、身を以て降りかかる災難に当ろうとするもあります。
 けれども、誰ひとり、この思い設けぬ出来事の原因を知ったものはありません。謀叛人《むほんにん》がこの屋敷へきりこんだというわけでもなく、また謀叛が発覚して御用の手が混み入ったというわけでもなく、ただ一発の弾丸が――それも無論、大砲の丸《たま》ではなく小銃の弾丸が、つまり火鉢にかけた薬鑵《やかん》の下から爆発して、この場の空気をかくの如く破りました。
 さりとて人命には露ほどの怪我はなく、犠牲になったものと言えば火鉢の薬鑵があるのみです。けれどもたとえ、小銃の弾丸一発といえども、在るべからざるところに在り、発すべからざるところに発したのは、どうしても由々《ゆゆ》しき出来事といわねばならぬ。
 この出来事のために、集まっている人々の日頃の嗜《たしな》みというものが、露骨に現わされたことは、一種の試験といえば試験のようなものです。前に言ったような余裕を見せたのは、さすがに見苦しくもありませんでしたが、中には正銘に狼狽《ろうばい》して四つん這《ば》いの形になった者もないではありません。殊に道庵先生の如きは、たしかにそれまで居眠りをしていたものと見えて、その響きが起るや否や脆《もろ》くもひっくり返り、それも一つで済むのを、三ツ四ツ一度に宙返りをして、廊下の隅へころがり出して腰を抜かした形などは醜態です。最初に警告を与えた弁信法師は、爆発起ると見るや衣の袖に頭を包んで、その場に突伏してしまいました。
 見上げたのは、木崎原の一曲を弾じている琵琶の老手で、この不時の出来事のために、撥《ばち》の捌《さば》きが少しも狂わず、歌いかけた歌の詞《ことば》に滞りがあるでもありません。大風の吹き去ったあとの枯野に端坐している心持で、従容《しょうよう》としてその一曲を弾じつづけている形は、見事というべきものです。
 そこで、一座の連中は忽《たちま》ち、以前の通りに席に戻って、身にふりかかる灰神楽《はいかぐら》を払おうともせずに、再び座を正して、相変らず弾じつづけている木崎原の一曲に耳を傾けはじめました。
 それですから爆発も、その爆発から起った狼狽も、ほんの瞬時の光景で、席は以前と同じことの静粛なものに返り、琵琶の弾者は一層の勇気を以て、首尾よく木崎原の初段を語り済ましました。
 その曲が終った後に一同が初めて、ホッと息をついて、さて、いま起った不意の椿事の原因いかにと眼を光らした時に、犠牲となった薬鑵をつるし上げて、莞爾《かんじ》として火鉢の灰を掻きならしているのが益満《ますみつ》です。
 一座の者の荒胆《あらぎも》を挫《ひし》いで興がるために、火鉢の中へ弾丸をうずめておいたものがある。それが刎《は》ね出した時に、一座の狼狽ぶりを見て笑ってやろうという悪戯者《いたずらもの》があったのだと思いました。して、その悪戯者は誰であろう、多分、薬鑵をつるしてほほ笑んでいる益満の仕業ではなかろうかと思いました。
 その場は、これだけの悪戯《いたずら》で済んだけれども、その翌日あたりから、この種類の悪戯を江戸の真中に向って試みて、市中の狼狽ぶりを見物しようという評議が、この物騒な屋敷の中で行われるようになると穏かではありません。
 穏かでないのはこの屋敷に限ったことはありません。この頃、一体の世間がそうであります。いつも暢気《のんき》であるべきはずの長者町の道庵先生の屋敷までが、この穏かならぬ雲行きに襲われているというのは嘘のような真実《まこと》であります。先生は相変らずだが、その子分たちが枕を高くして寝られないことがたった一つあります。それはほかでもない、洋行に出かけた鰡八大尽《ぼらはちだいじん》がいつ帰って来ないものともわかりません。帰って来れば必ず、これ見よがしのお祝いが、この隣りの御殿で行われるにきまっています。その際において、指を啣《くわ》えて見物していなければならないことの残念さを思うと、子分の者が躍起になるのも無理はありません。そこで、今のうちから、それに対抗する方針を考えておかなければならないと、道庵の子分たちが、夜の目も寝ずに苦心していることの体《てい》は、よその見る目も哀れであります。

         八

 染井の化物屋敷はまた化物屋敷で、神尾主膳はあの時の井戸釣瓶《いどつるべ》の怪我からまだ枕が上らないで、横になりながら焦《じ》れきっています。眉間《みけん》につけられた牡丹餅大《ぼたもちだい》の傷は癒着《ゆちゃく》したけれども、その見苦しい痕跡《こんせき》ばかりは、拭っても、削っても取れません。
 そうして時々思い出しては歯噛みをして、
「あいつ、お喋り坊主はどこへ失《う》せおったかなあ」
 取捉《とっつか》まえて八つ裂きにしてやりたいほどの口惜《くや》しがり方です。弁信の方にこそ怨みはあれ、神尾のこのていたらくは言わば自業自得に過ぎないのに、その逆さ怨みが、因縁《いんねん》ずくと思われるほどに骨身に食い入っていて、明暮《あけくれ》、弁信を憎み憤っていたが、さてその後、弁信は再び彼《か》の土蔵へは帰って来ませんでした。弁信が帰らないのみならず、それと一緒に出た竜之助も、あれからまた再び戻っては来ません。お銀様は、土蔵の中に引籠《ひきこも》って、針で血を刺してはお経を写すことを、以前のように繰返しているらしい。
 或る夜、神尾主膳は囈言《うわごと》のように、枕許にいた福村を呼んでこう言いました、
「福村、このごろ、毎夜のように、この屋敷へ狸が入り込むな」
「狸? そんなことはござるまい」
「夜中に眼が醒《さ》めると、狸の足音がする、耳を澄まして聞いていると、離れの方へ忍んで行くようだ、おれは、二晩までその足音を聞いた、この調子だと今夜あたりもやって来るぜ、取捉まえてやろうと思うが、足音だけが聞えて、身体が利《き》かぬ」
「それは穏かでない、いったい、狸の足音というのを、どうして大将は聞き分けた、狸なら狸のように、もし人間であったら人間のように、ずいぶん打捨《うっちゃ》っちゃおけねえ」
と言って福村は、今更のように離れの方を見ました。離れには例のお絹がいます。
 福村は気をつけていたけれども、その晩は狸の足音は聞えない代りに、遠からぬところで狸囃子《たぬきばやし》の音が起るのを聞きました。
 その翌日の晩もまた、お囃子の音が賑やかに宵のうちから響き出しました。この屋敷の界隈《かいわい》でも、例の踊りが流行《はや》り出したものです。
「うるさい百姓共だ、誰か行ってあれをさしとめて来い」
 神尾主膳は病床のうちで、そのお囃子を焦《じ》れったがったけれども、ほかの連中はかえってそのお囃子で浮き立ちました。
 踊りの同勢がこの化物屋敷の前へ来て、そこでまた盛んに踊り出している時に、
「喧《やかま》しいやい」
 神尾だけが焦れているけれども、そのほかの連中は面白がって出て見ます。
 離れにいたお絹もまた、じっとしてはいられません。女中を連れて垣根からしきりに踊りを見物していたが、つい面白さに釣り込まれて、門の前へ出てしまいました。
「このお屋敷の中には、たしか八幡《やわた》のお稲荷様がありましたぜ、お稲荷様の前で踊らせてもらいましょう」
「そういうことに願いましょう」
 同勢は踊りの威勢で、化物屋敷の中へ混み入ってしまいました。もとより形の如き荒れ屋敷ですから、門と垣根の締りも厳重というわけにはゆきません。屋敷の中へ混み入った同勢は、庭の方へと踊って行き、提灯《ちょうちん》をブラ下げて、えいや、えいや、と踊りはじめました。
 迷惑がった連中も、実はそれが面白いので、大いにおだてて踊らせたいくらいであるが、神尾主膳はその物騒がしさを聞くと赫《かっ》と逆上しました。
「誰にことわってこの屋敷へ入った、追い返せ」
 ひとりで喚《わめ》いているけれども、誰も相手にする者がありません。
 繰込んできた同勢は手を取り組んで、ここの木蔭や、かしこの築山《つきやま》の蔭で散々《さんざん》に踊ります。はじめのうちは頬冠《ほおかぶ》りをしている者も多かったが、いつか知らずそれも脱《ぬ》けて落ちて、果ては自分の帯の解けて落ちたのを知らないで、踊り狂う女もありました。
「お屋敷のお方も踊りなさい、皆さん一緒に踊りましょう」
 踊りの同勢は見物のすべてを踊りに巻き込まずにはおきません。それを巻き込んで行くから、おのずと同勢が殖えてゆくのです。
「どうも御苦労さまでした、また明晩も来て踊って下さい、待っていますから」
 夜明け近くになって、踊りがいよいよハネようとした時に、お絹の挨拶がこうです。だから、いやでもその翌晩、この踊りの同勢が繰込まないという限りはありません。
 果して翌晩、また同勢が押寄せて来たには押寄せて来たが、驚かされたことには、その多数の人が悉《ことごと》く、紙製の狐の面をかぶって来たことです。
「これから王子の衣裳榎《いしょうえのき》へ行って踊ります、皆さん、後からいらっしゃい」
 こう言って狐の面をかぶった者共が、この化物屋敷の前で、あっさり踊ると、今晩は屋敷の中へは入らないで行ってしまいます。多分これから王子の稲荷の衣裳榎とやらへ行って散々《さんざん》に踊るのでしょう。
 その翌日になってみると大きな評判が立ちました。王子の稲荷の衣裳榎の下へ、関八州の狐が悉く集まるという噂であります。それで十里四方から狐火が炬火《たいまつ》のように続くという噂であります。それを見物せんがために、江戸の市中をはじめ近在から集まる人が雲の如しという噂であります。ついには人と狐が一緒になって踊り出し、人が狐だか、狐が人だかわからないで踊り出すという噂がいっぱいに拡がりました。
 これによって見ると、今年はたしかに豊年である。こうして衣裳榎へ多数の狐が集まるのは、それぞれの狐がみな官位を欲しがるからで、それと人間と一緒になって踊るのは、人間も狐も共に有卦《うけ》に入ったのだという縁喜のよい解釈であります。今夜はまた昨晩よりは一層盛んで、これから毎夜の如く、人と狐の踊りがあるだろうという評判です。
 化物屋敷の離れにいたお絹はその評判を聞くと、昨晩貰い受けた狐の面を取り上げて、女中を相手にその話をしていたが、今晩は王子の稲荷まで出かけてみようとの相談です。
 お絹が王子稲荷の踊りへ出かけるという話を聞くと、べつだん誘いをかけたわけでもないが、化物屋敷に居合わせた御家人崩れの連中が、我も我もとお伴《とも》を志願することになった。ここから繰り出しただけでも十人余りです。
 してみると、屋敷に残されたのは、神尾主膳ひとりであります。彼等は主膳に酒を飲ませておいて――ではない、主膳が昨晩から酒浸《さけびた》りになって、今は熟睡しているのをよいことにして、体《てい》のいい置いてけぼり[#「置いてけぼり」に傍点]を食わせて、みんな出払ってしまいました。こうなると、これらの連中はかなり薄情なものであります。
 眼が醒《さ》めて神尾主膳は、しきりに水を呼びました。けれども、水を持って来るものはありません。返事をする者もありません。
 神尾は病床でしきりに怒鳴りました。いくら怒鳴っても、今宵に限ってこの化物屋敷には人間一人いないのですから、神尾の怒鳴りも空雷《くうらい》に過ぎないのです。酒を多く飲めば酒乱の萌《きざ》しがあり、今も飲んだ酒が醒めたというわけではないのですから、主膳は赫《かっ》と怒り、一時に逆上《のぼ》せあがりました。病床からよろよろと這《は》い出して、あぶない足を踏みしめると、長押《なげし》にかけた槍を取卸しました。逆上すると槍を取るのが神尾の癖であります。
「騒々しいわい、者共、何が面白くって踊るのだ」
 槍をしごいて縁側から庭へ飛んで下りました。けれども、今宵《こよい》に限って誰もお危のうございますと言って止める者はありません。荒《あば》れ出した神尾主膳は、この手槍で真一文字に庭の石燈籠へ突っかけて行きました。それが真面《まとも》に石燈籠へ当ったら、槍の穂先もポッキリと折れるのでしょうが、燈籠の屋根の上を掠《かす》めて流れたから、そのハズミで主膳は石燈籠へブッつかって、※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と後ろへ倒れました。
 神尾主膳は、起き上って手近な植木を滅茶滅茶に突き立てます。主膳の眼には石燈籠も立木もみんな人間に見えて、当るを幸い、それを突き伏せていることに、少なからず痛快を貪《むさぼ》っているようなあんばいです。幸か不幸か、いくら荒れ狂っても相手が石燈籠であり、植木であるから、手答えはあっても手向いはありません。それに、一家を挙げての留守と来ているから、荒れたい放題に荒れたところで、それを取押えようとする者がないから、神尾主膳は思うままにその酒乱と逆上とを発揮することができました。さりとて、先方が全然無抵抗であるとはいえ、もと、人間の暴力には限りがあるものであります。放っておけばおのずから疲れて、暴力そのものが無抵抗の中へ沈没してしまうにきまっております。神尾はついに綿の如く疲労してしまいました。それでも、水が飲みたくなると共に、井戸までのたって行くの本能だけは残っておりました。
 例の井戸のところまでのたりついて行って、無暗に水を汲み上げて、釣瓶《つるべ》に口をつけてガブガブと飲んでいたが、いい加減飲むと共に、その残った水を頭からザブリと被《かぶ》り、
「ああ、いい心持だ」
 つづいて釣瓶を繰り卸して汲み上げると共に、水をまた頭からザブリと被って、
「なんといういい心持なことだ」
 釣瓶を卸して二杯三杯汲み上げては、それを頭から被り、頭から被っては、また汲み上げるのが、やはり正気の沙汰ではありません。五杯も十杯も十五杯も汲んでは被り、被っては汲み、その度毎に、車井戸の車がけたたましい音を立てて火の発するほどに軋《きし》ります。程遠からぬ庭の土蔵の二階には、この車井戸の音が大嫌いなお銀様が、もしいるならば、今頃もたしかに、血を刺して、お経を書いていなければならないはずです。
 その水を汲むたびに井戸をのぞき込むと、神尾主膳は血管が裂けるほどに憤《おこ》り出して、
「お喋り坊主、出て来い」
と怒号します。主膳の眼には、たしかにこの井戸の底にお喋り坊主がいて、減らず口を叩いて自分を、おひゃらかしでもするものと見ているらしい。
「お喋り坊主、貴様の言い草が、いまだに耳に残って不愉快千万でたまらぬわい、おそらく一生のうちに、貴様ほど不愉快な奴はなかろう、貴様のことを思い出すと、骨から肉が浮び出すほど忌《いや》になるわい、つべこべと尋ねられもしないお喋りを、井戸へ投げ込まれてまで喋りつづけている声が、地獄の底から迷うて来たもののように耳に残っている、思い出しても癇《かん》にさわってたまらぬ、貴様を引き出して、骨も身も一度に擦りつぶしてくれぬ上は、この癇が納まらぬわい」
 神尾主膳はこう言って地団駄を踏みながら、しきりに水を汲み上げては被ります。その度毎に、弁信に対する恨みは骨髄に徹するもののように、身を戦《わなな》かせるのであります。
 果してお銀様はその時、たった一人で土蔵の中でお経を写しておりました。針で自分の肉体を刺して、その血で丹念に一字一字の法華経を写して「我此土《がしど》安穏、天人《てんじん》常充満」というところに至った時に、車井戸がキリキリと鳴り出したから、お銀様はゾッと身ぶるいをして筆を下へ置きます。
「お喋り坊主」
 神尾の世にも口惜《くや》しそうな声が、そのいやな深夜の車井戸の響きと共に、お銀様の耳朶《じだ》に触れると共に、お銀様の眼前に現われたのは、そのお喋り坊主の弁信の姿ではなく、甲州でむごたらしい虐殺に遇って、訴うるところなき恨みを呑んで横死を遂げた愛人の幸内が姿であります。
「お嬢様、あなたは幸内がかわいそうだと思召《おぼしめ》しになりませんか、もし幸内がかわいそうだと思召すなら、なぜ、あなたは神尾主膳を殺して下さらない、神尾を討って幸内の仇を酬《むく》いて下さらないのがお恨みでございます、倶《とも》に天を戴かずと申しますのに、私をなぶり殺しにした神尾主膳と、そうして同じ屋敷に住んでいていいのですか、それでこの世に残した幸内の恨みが消えると思召しますか、今も神尾主膳は、ああして私を苦しめています、あの車井戸の音がキリキリと軋《きし》るたびに、私の骨と肉がそれだけ擦り減らされて参りますのです、死んだ後までも、私がかわいそうだと思召すなら、どうか、あの車井戸の音だけでも差止めて下さい、ああ、苦しい、私は神尾主膳のために、鉄《くろがね》の熊手で骨と肉とを掻きむしられながら、地獄の底へ落ちて行くのでございます」
 お銀様の耳には、車井戸の音も、神尾の怒号も、一つになって幸内が恨みとなって響いて来るのです。
「わたしは、あの車井戸の音がいやだ、夜更けにあの音を聞くのはいやだ」
 お銀様は目を閉じて幸内の面影《おもかげ》を見まいとし、耳をふさいで車井戸の音を聞くまいとしました。けれども車井戸は一倍けたたましく軋り、神尾の怒号は、耳をふさいでいるお銀様の両手をもぎ離すほどに烈しく鳴りはためいて、
「寝ても醒めても、貴様のお喋りが癇にさわってたまらない、井戸の中から出て来い、それとも土蔵の中に隠れているのか、土蔵の中に隠れているならば、土蔵の戸を押破って、この槍で突き殺してくれよう」
 散々《さんざん》に井戸へ当り散らした神尾主膳は、投げ捨てた槍を拾い取って、この土蔵をめがけて突進して来ました。
 神尾主膳は土蔵の引戸を手荒く引っぱったけれども、それは内から錠《じょう》が卸してあって、引いても押しても容易にあくものではありません。
 そのたびに激昂する主膳は、ドシンドシンと戸前にぶっつかりはじめます。果ては槍の石突で戸の隙をコジにかかります。けれども尋常の雨戸と違って、いったん、内から錠を卸した以上は、兇暴な力を以てしても外から打ちこわすわけにはゆきません。
 自分の力いっぱいの暴力を利用したけれども、ビクともしないので神尾は、いよいよ激昂しているが、その激昂はいたずらごとで、この時分にはお銀様も、神尾の無駄骨折りを冷笑するくらいの余裕を持っておりました。破れるものなら破ってごらん、という驕《おご》れる態度を以て、お銀様は戸前で狂っている神尾主膳を笑止《しょうし》がっていました。
 さりとて、お銀様のこの驕慢心が永く続くものではありません。常識を失っているとはいえ、兇暴の時には兇暴の知恵が働くものであります。
「坊主、お喋り坊主、中で押えてるな、小癪な奴だ、しっかりと押えてあかないようにしているな、よし覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるからな」
 神尾主膳はこう言って、暫く暴力を中止しましたから、中でお銀様は、それ見ろと言わぬばかりの心持です。それは力の尽きた神尾主膳が、負惜みから言った捨台詞《すてぜりふ》と思ったからです。この捨台詞で引上げて、母屋《おもや》へ帰って寝込んでしまうのが落ちだろうと思ったからです。
 果せる哉《かな》、それから後は扉へ突当る音もしなければ、押したり引いたりしてみることもなく、槍を隙間へ突込んでコジあけようとするような無茶な物音も聞えません。しかし、左様な物音が聞えないからといって、それは決して神尾主膳がこの場を去って、母屋へ引揚げたのではありません。神尾主膳は今もなお土蔵の周囲をうろうろしながら、よろめく足を踏み締めては酔眼を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]《みは》って、槍は片手に、そこらあたりから頻《しき》りに物を掻き集めています。その掻き集めている物というのは、荒れた庭内に落ちている杉の枯葉だの、木の枝だの、竹の折れだのという物を、手に任せて掻き集めているのであります。危なっかしい手つきで、それを掻き集めては例の土蔵の戸前へ持って来て、無暗に積むものだから、忽ち小山のように盛り上げてしまいました。
「占《し》めた!」
 最後に神尾主膳が、槍を投げ出して両手で抱え込んだのは一束《ひとたば》の薪です。その土蔵の廂《ひさし》に高く積み上げてあった薪の束を発見したからのことで、それを発見すると神尾は占めたとばかり、槍を投げ出して、一束ずつ抱え出して、前に積み上げた枯葉や、木の枝の上へ、左右から立てかけたものです。
 時分はよしと見た頃合に、主膳は、やはり本性《ほんしょう》たがわず、投げ出しておいた槍を手さぐりに拾い取って、
「坊主、覚えていろ、今、あくようにしてあけて見せるから後悔するな」
 こう言って、今度は、たしかにこの土蔵の前を立去って、母屋の方へ行く足音がします。
 お銀様は神尾の挙動がわからないから、この時も負惜みの捨台詞《すてぜりふ》だろうと思って、やはり七分の冷笑気味でおりましたが、暫くして、また足音が聞え出したので、オヤと思いました。さても執念深い、力が尽きて、テレ隠しの捨台詞で、母屋へ逃げ帰って寝込んだものだろうと思っていたところが、たしかにまた、やって来た。
「さあ、どうだ、お喋り坊主、この蝋燭《ろうそく》で焼き殺してくれるぞ」
 その声を聞いたお銀様がたちあがらないわけにはゆきません。事実神尾主膳は、母屋へ行って蝋燭へ火をつけて来ました。さいぜんのガサガサは、実にこの土蔵の戸前を焼こうとする材料を集めていたのだと気のついた時には、決して好い心持はしません。
 神尾主膳はたしか、提灯へ入れて持って来た蝋燭を裸にして、それを積み上げた枯葉と木の枝と薪の中へ突込んで、火をつけはじめたものです。それと覚《さと》ったお銀様がじっとしておられないのはその道理です。
 主膳のやりそうなことであると思いました。酒に乱れて惨忍性を発揮せられた時の神尾は、たしかにそのくらいのことはやり兼ねません。また、そういう場合に限って、惨忍性を煽《あお》るには都合のよい知恵だけが働くように出来た神尾の性格を知っているだけに、お銀様の怖れが一層深くないということはありません。
 この土蔵は一方口である。前に火をつけられると後ろへ逃げることができない。横にも縦にも、蹴破って走るというわけにもゆかない。二階に窓があるにはあるけれども、それは筋鉄《すじがね》が入って鉄の網が張ってある。逃げるのならば今のうちである。火の手のまだ揚らない先に内から戸を押開いて、そこを突破するよりほかは手段も方法も無いことです。聡明なお銀様がそこに気のつかないはずはありません。同時にまた走り出せば当然、神尾の網にひっかかることを覚悟しなければならないのを知らないはずはありません。神尾の憎んでいるのは盲法師の弁信にあるらしいけれど、さりとてこうなった時には、獲物《えもの》の見さかいがあるべしとは思われない。土蔵の戸前を突破し得た時は、神尾の槍先が待っている。最後までここに踏みとどまって焼け死ぬか、それとも一刻を争うて突破を試むるか。お銀様は手早く身づくろいしました。同時に神尾の声高く笑うのが聞えます。
「アハハハハ、火水《ひみず》の苦しみとはこれだ、水の中へ投げ込まれて往生のしきれぬ奴が、火の中で焼け死ぬのだ、お喋り坊主、これでも出て来ないか」
 パチパチと火の燃える音が聞えます。プスプスと枯葉のいぶる音も聞えます。土蔵の戸前は非常に厚味のある板を二重に張って、中には筋鉄《すじがね》が入って、上の部分がやっと日の目の透るほどの格子になっているから、そう容易《たやす》く焼け抜けるとも思われないが、相手は火であるから、相当の時間と力が加われば何物をも燃やしてしまいます。それが燃える時分には、土蔵の中は煙でいっぱいになって、火で焼け死ぬ前に、人は煙のために窒息してしまわねばならないことは明らかです。
 身仕度したお銀様は、この際に何を持って出ようとの分別はありませんでした。手に触れた一本の脇差を持って、土蔵の二階の梯子段を転がるように走せ下りました。
「お喋り坊主、何か文句があるならここで一番、喋ってみろ、久しく乾いているから、メラメラと赤い舌を出して小気味よく燃える、井戸の底へ投げ込まれて往生をしそこなうのと、火の中で苦しがるのとどちらがよい、貴様のために、この面体《めんてい》に生れもつかぬ大傷が出来た、それが憎いからこうしてくれるのだ、よく焼かれて往生しろ」
 神尾主膳は濡れみづくになった身体で、燃えさかる火を望んでは喜び狂い、手に持った槍の石突を火の中へ突込んでは薪を浮かせて、火勢を煽《あお》ろうとしています。
 頭から掻巻《かいまき》を被《かぶ》ったお銀様が、内から戸を押開いて、脱兎《だっと》の勢いで、その燃えさかる火の中へ飛び出したのはこの時であります。
「熱《あつ》、熱、熱」
 お銀様は火を踏んで、掻巻もろともにその中を転がり出しました。
「熱、熱、熱」
 同じように叫んで火の外に転がったのは、神尾主膳であります。
「熱、熱、熱、出たな坊主、熱」
 お銀様も転がる、主膳も転がって起き上れない。勢いのようやく加わった火は炎々と燃え上ります。
 頭から掻巻を被ったお銀様が、俵を転がしたように火の中を転がり出ると、それに驚いた神尾主膳が、同じように槍を持ったまま転がりました。
「出たな坊主」
 それでも神尾の転がったのは、それと見定めてから転がったものらしく、転がっても槍は手放さないで、二三度もがいてから起き直った時に、その槍をとりのべて、眼前に転がり出した掻巻の俵を伸突《のべつ》きに突きました。
 ところが慌《あわ》てているから、槍の石突で突いてしまっているから、また槍を取り直す時にお銀様は、ようやく掻巻の中から脱け出すと、その鼻先に神尾の槍の穂の稲妻《いなずま》です。危うくその槍の穂先を避けましたけれども、神尾の足許も手先も狂いきって、繰りのべる槍も、手許へ引く槍も、すこぶる怪しいものとは言いながら、たしかにめざすものを見かけて突く槍です。ことに相当に鍛錬を積んでいる槍ですから、一つ逃れてまた一つです。それを逃れると、ひょろひょろしながらも、よろよろしながらも、ほとんど透間《すきま》もなく、やっと掻巻《かいまき》から抜け出したばかりのお銀様の腰を立て直す隙もあらせず、神尾が突っかけて来る槍は凄いばかりです。
「誰か来て下さい」
 さすがにお銀様は女ですから、こうなってみると我知らず叫びを立てました。
 この叫びはかえって神尾にとっては、よい目標を与えたようなもので、得たりと畳みかけて突っかけるのを、幸いに梅の木があったから、それを廻り込んでお銀様は、またしても暫しの息をつきました。
 その梅の木の前から諸突《もろづ》きにしてみたけれども、それが外れたと見え、神尾は左からねらって突きました。それも手答えがなかったために、右から覘《ねら》って突いたけれども、お銀様の身には当りません。こうなると神尾は再び激昂を始めました。
 お銀様と神尾とは、槎※[#「木+牙」、第4水準2-14-40]《さが》たる梅の大木を七たび廻って、追いつ追われつしています。
「誰か来て下さい」
 ふたたびお銀様が叫びを立てた時分には、神尾とても、これが目的のお喋り坊主ではなく、日頃|苦手《にがて》のお銀様であったことに気がついたのでしょう。しかしながら、今となってはかえってそれが面白そうです。当の敵は変っても、苦しむことに変りはない。苦しめて興の多いことにも変りはないのだから、神尾は一層の惨忍なる好奇を振い起して、お銀様に槍を突掛け突掛けて、更に萎《ひる》む色がありません。
 梅の木の周囲をグルグル廻って必死に逃げているけれど、前に言う通り狂っているとは言い条、神尾の槍は相当の覚えのある槍であって、それに油を差した兇暴性が加わっているのだから、槍の筋は存外狂わず、その精力も容易には衰えません。お銀様は命からがら逃げ廻っているうちに、帯がほどけました。ほどけた帯を踏んで危うく倒れようとして帯に手をやった時、覚えずその手に触れたのが、土蔵の二階から駆け下りる時に手に触れた脇差であります。お銀様は帯をかいこむと一緒に、その脇差を抜き放ちました。片手では帯をからみながら、片手でその脇差を構えたのは多分、神尾の槍をあしらうつもりでありましょう。
 こうして見るとお銀様には、どうも多少、武術の心得があるようです。女軽業の親方のお角ほどの女が、お銀様を怖れるのは、一つはお銀様の傍には大抵の時には脇差がひきつけてあって、話の調子によっては、いつそれが鞘走《さやばし》るか知れないような心持がすると話したことがあります。神尾主膳もその後、お銀様に対してはうっかり冗談もいえないと言ったのは、たしかにその用心があるらしいからです。
 女だてらに脇差を抜いて、一方に槍を防ぎながらお銀様は、ようやく梅の木を離れて樫《かし》の木の後ろへ避けることができました。覚束《おぼつか》ないうちに本性がいよいよ冴《さ》えて、神尾主膳は透《す》かさずそれを追いかけました。
 樫の木を移ってお銀様が、石燈籠《いしどうろう》の蔭へ避けた時に、神尾主膳はさながら絵に見る悪鬼の形相《ぎょうそう》です。いかなるところへ逃げ隠れようとも、この怨敵《おんてき》を突き伏せずしては置かずという意気込みで、燈籠の屋根の上や、台石の横から無二無三に突き立てました。
 形ばかりに脇差を構えたお銀様は、それを振閃《ふりひらめ》かしては槍の穂先を逃れようとする。槍はしばしば流れ、手元はしばしば狂うけれども、その狂暴はいよいよ衰うることあるべしとも覚えません。ついに石燈籠もろともに、お銀様を縫いつけるのかと思われるばかりです。
 お銀様は石燈籠の蔭から追いつめられたのが池の端《はた》です。池の汀《みぎわ》を伝って逃げると巌石がある。後ろへすされば一歩にして水です。進退|谷《きわ》まったお銀様は、ついに脇差を振り上げて、勢い込んで追いかけて来た神尾主膳の面《かお》をのぞんで、その脇差を投げつけました。
 その覘《ねら》いは過《あやま》たず、神尾の面上へ飛んで来たから、狂乱の神尾も落ちかかる刃を払わずにはおられません。それを槍の柄で払おうとして、あぶない足許が一層あぶなくなって、ついに堪らず※[#「てへん+堂」、第4水準2-13-41]《どう》と尻餅をついたのが、お銀様にとっては命の親でありました。
 この僅かの間を利用してお銀様は、池の端《はた》を通って、橋を飛び越えて、一息に本邸の縁側へ飛び上って、障子を蹴開いて奥へ逃げ込みました。
 つづいて起き上った神尾主膳は、同じように池を飛び越えて縁の上へはね上ったが、ここではお銀様が広い母屋のいずれの部屋へ逃げ込んで、いずれの方角から抜け出したかということは更にわかりません。
 主膳がただ何事をか、しきりに怒号して間毎間毎を荒し廻っている音声が、外で聞くとものすごいばかりです。いつまでたっても例の槍ははなさず、間毎間毎を荒し廻りながら、襖《ふすま》といわず天井といわず、その槍の石突と穂先との両方でブスブスと突き立てたものです。
 幸か不幸か、日頃は少なくも十人以上も、ごろごろしているはずのこの屋敷に、この晩に限って一人もおりません。今頃、彼等は王子稲荷の衣裳榎《いしょうえのき》とやらで狐の面をかぶって、夢中になって化かしつ化かされつしているところでしょう。
 こうして間毎間毎を存分に荒し廻った神尾主膳は、やや暫くあって、再び縁側から池のほとりへ身を現わしました。その吐く息は大風のように、身体の疲れきっているのは綿のようであろうとも、さいぜんからの主膳を物狂わしく働かせているのは、たしかに別に天魔波旬《てんまはじゅん》の力が加わっているのだから、絶え入らないところが不思議です。
 再び池のほとりへ立っていた主膳は、やはり槍は持っていたけれども、獲物《えもの》はありません。お銀様はついにいずれかの方角へ取逃がしてしまいました。
 残念で、無念で、腹が立って、業が煮えてたまらない神尾主膳は、火のように燃える眼を瞋《いか》らして四方をながめる。その池の中がまた火のように燃えているのを認めました。池が燃えているのではない、この時分に、さいぜん焼き残しておいた土蔵の戸前の火が本物になって、炎々と燃え上り、その炎の色が、この池の水を真赤に染めているのです。
 それと気がついて主膳が土蔵の方を見やると、植込の間から猛烈なその火勢がうずまきのぼる。火は土蔵の中へ侵入すると共に、その附近の木小屋へ燃えうつったものらしい。いよいよ本物の火事です。
 その火炎の勢いを見て神尾がはじめて、やや溜飲《りゅういん》を下げました。
 暫くして手製の大炬火《おおたいまつ》を持った神尾主膳は、土蔵に燃えている火を持って来て、本宅の戸と、障子と、襖《ふすま》と、唐紙《からかみ》へうつしはじめました。
 そこで土蔵と本宅とが相呼応して燃え上ります。いかに燃え出しても、この家にはそれを消そうとするものがありません。附近の人々も大方は狐の踊りに出かけているところであります。ようやく人が騒ぎ出して火消が駈けつけた時分には、土蔵も、本宅も、大半は焼けて手のつけようがありません。暁方《あけがた》近くなって、お絹をはじめ踊りに出た連中が帰って見た時分には、土蔵も、本宅も、物置の類《たぐい》も、すっかり焼け落ちていました。

         九

 王子稲荷の衣裳榎《いしょうえのき》から、狐の踊りが流行《はや》り出したということに刺戟されて、上州の茂林寺《もりんじ》から狸の踊りを繰出して、その向うを張ろうというのはばかばかしい凝《こ》り方です。
 人間はそれぞれ負けない根性に支配されて、負けない根性のために、滑稽なる競争と、無用の濫費がつづけられてゆくのが人間の歴史の大部分です。
 茂林寺の狸踊りは、土地の若い者から始まったということだが、おそらくそうではあるまい。江戸のものずきが行って、あらかじめお膳立てをしておいて、それを上州名物の名で、江戸へ繰込ませようという寸法であるとは受取れる。これは茂林寺名物の分福茶釜《ぶんぶくちゃがま》をかたどったもので、それに毛が生えて、絵本通りの狸に化けたところを、大きな張物にこしらえて、それを真中に舁《かつ》ぎ上げて、日ならず江戸の市中へ乗込もうというのは、まだ噂《うわさ》だけであって事実に現われたわけではないが、その噂は早くもこちらに響いて喧《かまびす》しいものです。
 王子から狐、上州から狸の挟撃《はさみうち》にあって、それを江戸ッ児が黙って見ているつもりかどうか、と余計なところに気を揉《も》む者もあります。
「近いうちに、お狸様がおいでなさるそうですね」
「左様でございます、お近いうちに、お狸様のお通りがあるそうでございます、どこらをお通りになるか、それはまだわかりませんそうでございます」
 水戸様街道といわれる松戸の方面や、奥州仙台|陸奥守《むつのかみ》がお通りになるという千住《せんじゅ》の方面から、中仙道の板橋あたりでも、お爺さんやお婆さんが、真面《まがお》になってその噂をしているほどに評判になりました。街道の商人らは、それでももし、お狸様がお通りになるならば、なるべく自分たちの方の街道を通っていただきたいものだと、ひそかに願っていないものはありません。
「お狸様のお通りは一体、いつ頃なんでございましょう」
「まだそのお日取りがきまりませんそうで」
 商人たちが心配するのは、そのお通りの日と、お道筋とによって、商品の仕込みをしなければならないのであります。
 すでにお狐様があり、またお鷲様《とりさま》があり、ここにお狸様が崇拝されることも当然であります。明治の世になって、東京と横浜の間に一つの穴が発見せられました。それが忽《たちま》ち大穴様となって、京浜の人士を無数にひきよせ、それがために臨時|停車場《ステーション》が出来たことを思えば、お穴様よりはいっそう由緒《ゆいしょ》があり、来歴がある茂林寺のお狸様のために人間が狂奔するのは、決して笑うべきことではありません。
 ところが、そのお狸様は噂ばかりで、まだ御通行の模様が見えないのに、その前後に、各街道からゾロゾロと町の立ったように多数の乞食が、江戸の市中をめがけて繰込んで行くのが目につきます。鼻の欠けたのや、目のクシャクシャや、跛足《びっこ》や、膝行《いざり》や、膏薬貼《こうやくはり》が、おのおの盛装を凝《こ》らして持つべきものを持ち、哀れっぽい声を振絞って、江戸へ向って繰込むことの体《てい》が世の常ではありません。
「今度、お情け深い江戸の公方様《くぼうさま》が、哀れな俺たちにお救い米を下さる、だからこうしてそのお救い米をいただきに上るんだ」
 かくて毎日、江戸の市中へ繰込む乞食の数が少ないものではありません。
 沿道の商人たちがこぼすまいことか、水戸の中納言様、奥州仙台の陸奥守様、さてこのたび評判の館林《たてばやし》のお狸様、それとは変って、箸も持たぬお菰様《こもさま》のお通りでは、どうも商売がうるおいっこはありません。
 こんな碌《ろく》でもないお通りは、追払ってしまいたいものだと思いました。
 この際、南条力の東漂西泊ぶりもまた、かなり忙がしいものと言わなければなりません。
 甲州街道筋を出かけるから、やはりこれはお馴染《なじみ》の甲州入りをするものだろうと見ていると、八王子から急に南へ折れました。
 ここを南へ行けば、甲州へは行かないで相模《さがみ》へ出るのです。このとき南条の身なりは、ちょっとした無宿の長脇差といったふうをしていることも、いつもとは趣が少し違います。そうして八王子を南へ相原道《あいはらみち》を出かけると、路傍の松の木の蔭から、
「先生」
 ぬっと現われたのは、たしかに待伏せをしていたものらしい。これも一癖ありそうな旅の無宿者の風体《ふうてい》です。
「やあ」
「ずいぶんお待ち申しました」
「相変らず早い奴だなあ」
 こう言ってうちとけた話ぶりで、穏かならぬ雲行きは、すっかり取去られたものです。
「時に先生、御案内でもございましょうが、あれが相模の大山の阿夫利山《あふりさん》でございますよ、こっちのが丹沢で、相模川があそこを流れているんでございます、甲州では例のそれ猿橋のありまする桂川で、それがここいらへ来ては相模川になります、これからずっと下《しも》へさがると馬入川《ばにゅうがわ》で、東海道は平塚のこっちの方へ流れ出すのがそれでございますな、秋になると鱗《うろこ》の細かい鮎が漁《と》れて、ギョデンで食うと、ちょっと乙でございますよ」
 待伏せていたのが案内ぶりに、こんなことを言いながら先に立って歩き出したのを見ると、なんの珍しくもない、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵でありました。
「そうか。そうして荻野山中《おぎのやまなか》はどの辺に当るんだ」
「山中はここですよ、向うの林に柿の木が見えましょう、あれと尖《とんが》った山の間あたりになりますな、あの山は鳶尾山《とびおざん》というんで、あれに抱かれてこうなったところに荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下があろうというもんです、たとえ一万石でも、あんな山の中に御城下があろうというのは、ちょっと素人《しろうと》が驚きます」
「なるほど」
「なーに、ほんの一足です、真直ぐに引張れば五里といったところでしょうけれども、いったん厚木へ出て戻るのが順ですから、延べにして八里と見積れば、たっぷりです」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の案内ぶりによって見れば、南条は、右の荻野山中、大久保長門守一万三千石の城下なるものへ志して行こうとするものらしい。無論がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、案内を兼ねてそこまで同道するものと思われる。
 こうして二人は相模野《さがみの》を歩き出しているうちに、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵が、
「さて南条様、つかんこと[#「つかんこと」に傍点]を承るようでございますが……」
 事改まって、仔細らしい物の尋ねぶりであります。
「何だ」
「ほかではございませんが、あの相生町のお屋敷というものも、ずいぶん変てこなお屋敷でございますな」
「うむ」
「先頃まで、御老女様という大へんにけんしきの高いお年寄が采配《さいはい》を振っておいでになりましたが、近頃では、すっかり浪人者で固めておしまいになりましたね」
「うむ」
「ところが南条様、相手かわれど主《ぬし》かわらずというんでもございましょう、かわらないのは、やっぱりかわりませんな」
「何を言っているのだ」
「御老女様だけが抜けて奥向の方は、すっかりかわらないじゃございませんか」
「あの屋敷には、奥も表もありはせん」
「御冗談でしょう、奥方はおいでにならずとも、奥向の女中たちの綺麗《きれい》なところが、うようよといるはずでございます」
「そりゃあ、いかなる屋敷でも、女手をなくするというわけにはゆくまい」
「先生、ところで一つお聞き申したいのは、あの別嬪《べっぴん》は、ありゃあ今じゃあどなたの持物になっているんでございます」
「あの別嬪とは誰のことだ」
「お恍《とぼ》けなすっちゃいけませんね、多分あなた方が甲州から連れておいでになったんだろうと思いますが、ただ、ああして預かりっぱなしにしてお置きなさるのか、それともほかにもう定まる主がおありなさるのか、その辺が気になってたまらないから、いつか、あなたにお聞き申してみたいみたいと思っていたところです」
「ふん、早い奴だな、もう、あれを知ってるのか」
「先生、余人ならぬがんりき[#「がんりき」に傍点]の百をみくびりっこなし、人の物でもわが物でも、一旦もの[#「もの」に傍点]にしようと思ったら、逃《のが》したことのねえがんりき[#「がんりき」に傍点]の百でございます」
「それで貴様、あの女をもの[#「もの」に傍点]にしてみるつもりでもあるのか」
「ははは、先生、あればっかりはいけませんよ」
「ふーん」
「先生、いやな嘲笑《あざわら》いをなすっちゃいけません。なるほど、たったいま申し上げた通り、もの[#「もの」に傍点]にしようと思えば、どんな物でもきっともの[#「もの」に傍点]にして見せるがんりき[#「がんりき」に傍点]ではございますけれど、あれだけがもの[#「もの」に傍点]にならないというのは、失礼ながら、あのお屋敷にああしてたくさんの豪傑が詰めておいでになるから、それにがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの者がすくんで手を引いているなと、こう思召しになっては違いますよ、どなたが幾人おいでになろうとも、それを怖がって、もの[#「もの」に傍点]になるものをみすみすそのままで置いては、がんりき[#「がんりき」に傍点]の沽券《こけん》にかかわります。正直のところ、覘《ねら》いをつけてみたことも無いではございませんが、怖いですよ、このがんりき[#「がんりき」に傍点]ほどの男が慄《ふる》え上ってしまいました」
「意気地のない奴だな」
「全く意気地がございません」
「何がそれほど怖いのだ」
「は、は、は、がんりき[#「がんりき」に傍点]の目には、あなた方は怖くはございません、江戸の町奉行や市中の金持は、あなた方を怖がって慄え上るかも知れませんが、私共はそれほど怖いとは思いませんよ。ただ、怖いのはあの犬です、あの黒犬だけには、がんりき[#「がんりき」に傍点]も怖毛《おぞけ》をふるいますよ、あの犬がついている以上は、もの[#「もの」に傍点]になるべきものももの[#「もの」に傍点]になりません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]がここで怖ろしがる犬というのは、ムク犬のことです。ムク犬に護られているから、お君というものに、いかなる意味においても一指を加えることのできないのを、南条の前でこぼしているのは、この男相当の愚痴であります。
 南条は充分の揶揄気分《からかいきぶん》を以て、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]」
「はい」
「貴様、それほどに男自慢なら、左様に怖い思いをせず、もっと面白い獲物《えもの》があるのだが、相談に乗ってみる気はないか」
「ずいぶんやりやしょう」
「器量はなんとも言えないが、格式はあれよりズット上だ」
「なるほど」
「あれは貴様も知っている通り、駒井甚三郎の寵物《かこいもの》だ、駒井は甲州勤番支配で三千石の芙蓉間詰《ふようのまづ》めの直参《じきさん》だが、ここへ持ち出したのは大諸侯だ」
「お大名なんですね……」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]の百が咽喉《のど》から手の出るような返事をする。
「そうだ、それを一番、貴様がもの[#「もの」に傍点]にしてみる気なら、尻押しをしてやるまいものでもない」
「御冗談をおっしゃっちゃいけません、あなた方に尻押しをしていただかないからって一人でやりますよ、昔の鼠小僧なんぞは一人でお大名の奥向を、どの位荒したか知れたもんじゃありません、そういう仕事は一人に限りますよ」
「よろしい、それでは貴様に知恵をつけてやろう、ほかでもないが相手は出羽の庄内で十四万石の酒井左衛門尉だ。今、江戸市中の取締りをしているのが酒井の手であることは貴様も知っているだろう、我々にとってその酒井が苦手であることも貴様は知っているだろう、酒井は我々の根を断ち、葉を枯らそうとしている、我々はまたそこにつけ込んで酒井を焦《じ》らそうとしている、その辺の魂胆《こんたん》はまだ貴様にはわかるまい、わかって貰う必要もないのだが、貴様の今に始めぬ色師自慢から思いついたのは、酒井左衛門尉の御寵愛を蒙《こうむ》った尤物《ゆうぶつ》が、いま宿下りをして遊んでいることだ。それは佐内町《さないちょう》の伊豆甚という質屋の娘で、酒井家に屋敷奉公をしているうち殿に思われて、お手がついてお部屋様に出世をして当時は、ある事情のもとに宿下りの身分であるという一件だ。その名はお柳《りゅう》という。これだけのことを聞かせてやるから、あとは貴様の思うようにしてみろ」
 南条は平気な面《かお》で、これだけのことを言いました。いったい、この南条という男は、ある時は慨世の国士のようにも見え、ある時は、てんで桁《けた》に合わないことを言い出して、掠奪や誘拐を朝飯前の仕事のように言ってのけもする。
 ここにはまた勧めるのにことを欠いて、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵というやくざ[#「やくざ」に傍点]者に向って、こんなことをも勧めたのは、油紙へ火をつけてやるようなものです。ただでさえも、そういうことをやりたくって、やりたくって、むずむずしている男に向って、こう言って筋を引いては堪ったものではありません。つまり、いま江戸市中の取締りに当っている出羽の庄内の藩主、酒井左衛門尉の愛妾を盗み出せとけしかけたものです。
「先生、がんりき[#「がんりき」に傍点]を見込んでそうおっしゃって下さるのが有難え」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、額を打って恐悦しました。

         十

 多分、厚木へ一晩泊り、荻野山中《おぎのやまなか》へ南条を送りつけて一晩泊ったのであろうと思われるがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、前と同じ道を逆に八王子方面へ向けて帰り道です。
 南条は多分荻野山中に逗留《とうりゅう》していることだろうが、あの先生、あんな山の中の城下に逗留して何事を為さんとするのか、へたなことをして、また甲府の二の舞を踏んで牢屋へ叩き込まれるようなことをしなければよいが。
 南条を残して、独《ひと》り帰るがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵は、ほくそ笑みして、何とやら包みきれぬ嬉しさが面《かお》にいっぱいです。これもまた相当の謀叛気があって、当りがついたことから嬉しさが包みきれないものと思われる。
「もし、あなた様はがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様ではございませんか」
 これには、さすがのがんりき[#「がんりき」に傍点]が少し吃驚《びっくり》させられました。と言うのは、以前、来る時に自分が立って待伏せしていた路傍《みちばた》の松の木の下に立って、同じような形をして自分を待受けていたのが、思出し笑いをしながら歩いているがんりき[#「がんりき」に傍点]の横合いから不意に浴びせかけたものですから、そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]が吃驚《びっくり》して踏みとどまると、
「エ、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、斯様《かよう》、土足《どそく》裾取《すそと》りまして、御挨拶失礼さんでござんすが、御免なさんせ、向いまして上《うえ》さんと、今度はじめてのお目通りでござんす、自分は相州足柄|上秦野《かみはたの》の仁造《にぞう》の一家、唐駒《からこま》の若い者市助と発し……」
 ともかく相当の心得ある博徒と見えて、切口上で賭博打《ばくちうち》の言葉手形を本文通り振出したから、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵もいよいよ面食《めんくら》いました。百蔵とても、こうして無宿渡世のならず[#「ならず」に傍点]者だから、その道の挨拶ぐらいを心得ていないはずはないが、この畑道の真中で、だしぬけにこんな挨拶を受けようとは思いもよらないことです。
「まあ、待っておくんなさい」
 ことがあんまり突然だから、がんりき[#「がんりき」に傍点]も改まって同様の挨拶で返答をすることができません。
「御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]ない者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います。承りますれば親分様には……」
 こちらは面食っているのに、先方はいよいよ澄まし返って、賭博打の言葉手形を正式に振出して来るのだから堪らない。第一、自分が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵なるものだということを、この遊び人がどこから聞いて来たろう。様子ありげにここに待伏せて、わざわざ名乗りかけようとするのが、気味が悪いと言えば甚だ悪い。ところがその遊び人は遠慮なく喋り立て、
「親分様には、これより江戸表へおいでなさんして、お仕事をなさるそうに承りましたが、手前、しが[#「しが」に傍点]なき者でござんすが、お手下にお使い下さいますれば有難い仕合せにござんす。手前、生国《しょうごく》と申しまするは、出羽は庄内、酒井左衛門尉の城下十四万石、伊豆屋甚兵衛の娘お柳と発しまして……」
「ばかにしてやがる」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]がここに至って吹き出しました。吹き出したけれども剣呑《けんのん》は剣呑です。誰かこんな奴を使って、碌《ろく》でもない文句を吹き込んで、おれの度胆《どぎも》を抜こうとした奴がある。誰というまでもなく、それは南条先生のいたずらに違いないと思うから、ばかばかしくなってその遊び人の面《おもて》をじっとながめました。
 じっとながめられてもこの先生、あまりお感じがないようです。
「兄い、お前《めえ》は男だと思ったら女なのかい、酒井様の御城下でお柳さんというのはお前のことかい」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は呆《あき》れてこう言いましたけれども、その男はがんりき[#「がんりき」に傍点]が呆れたほどに呆れはしません。あっけらかんとしているところは、どうしても誰かに知恵をつけられて、一夜づくりの言葉手形を濫発したものに違いないのです。
 その男が、あっけらかんとしている途端に、四辺《あたり》の稲叢《いなむら》のかげから、同じような程度の遊び人|体《てい》の(旅装の)男がのこのこと出て来ました。
「エ、これは、がんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、斯様、土足裾取りまして御挨拶失礼さんでござんすが、御免なさんせ、向いまして上《うえ》さんと、今度はじめてのお目通りでござんす、自分、武州は青梅宿、裏宿の七兵衛の一家、若い者八助と発し……」
「ふざけるない、ふざけるない」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が腹を立てると、また一方の稲叢から、のこのこと出て来た同じようなのが、
「エ、これはがんりき[#「がんりき」に傍点]の親分様でございましたか、御免なさんせ、御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]なき者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います。承るところによりますと親分様には……」
「やい、何を言ってやがるんだい、冗談もいいかげんにしねえと撲《なぐ》るぜ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]が、ぽんぽん言っているのに頓着なく、ひきつづいて稲叢の後ろから二人三人と出て来ては、入り替り立ち替り同じような挨拶を述べるのだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]もやりきれない。その言うことを聞いていると挨拶の末には、親分はこれから江戸へ出て面白い仕事をなさるのだそうだが、どうか自分たちを子分にして、その仕事に一口《ひとくち》乗せて下さいというのであります。その面白い仕事というのは、南条力からそそのかされた一件であることを、その連中はよく承知の上で、こういうことを言いかけるものだということがよくわかります。同時にこの連中をつっついて、こんな悪戯《いたずら》をさせたのはほかでもない、南条力のいたずらであることがよくわかります。
 そこでがんりき[#「がんりき」に傍点]は、南条の人の悪いのに苦笑いをしていると、取巻いて来た連中の口説《くど》き立てることが、いよいようるさいので閉口です。
「クドいやい、この胡麻《ごま》の蠅《はい》め」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、この連中を振切って通り過ぎようとすると、その袖に縋《すが》って、
「御免なさんせ、御賢察の通りしが[#「しが」に傍点]なき者でござんす、後日にお見知り置かれ、行末万端ごじゅっこんに願います、このたびは親分様のお引立てにより、江戸表へお召連れ下さんして……」
 追いかけて来るのだから、どうにも困ったものです。
「わかった、わかった、お前たちは、いやに切口上で遊び人づきあいをしたがるけれど、あとの半分が物になっちゃいねえ、誰かに教えられた附焼刃《つけやきば》だ、いいから、そうしていねえ、一人前に二分ずつやる」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は金で追払おうとすると、遊び人どもは、
「御免なさんし、手前、金銭に望みはござんせん、親分様のお手先になって、江戸表へお伴《とも》が致しとうござんす」
「勝手にしやがれ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は出しかけた財布をひっこめたが、手早く手近な奴の横面を一つ撲り飛ばしておいて、一散に八王子の方面へと走り出しました。
「御免なさんし、親分様、お江戸までお伴《とも》が致しとうござんす」
 これらの遊び人どもが、がんりき[#「がんりき」に傍点]のあとを慕ってどこまでも追いかけるのは、かなりしつこい[#「しつこい」に傍点]ものです。

         十一

 この時分、高尾山薬王院の奥の院に堂守をしていた一人の老人がありました。
 以前、不動堂がまだ麓《ふもと》の登り口にあった時分は麓にいたが、不動堂が頂上の奥の院へ遷《うつ》されると共に、この老人もまた頂上へ移りました。
 この老人の前生を聞くと、やはり一個の武芸者であったようです。少壮の頃より諸国を修行し、年老いてここの堂守となりました。齢《よわい》はもう七十を越しているから、武芸の話は問う人でもなければ滅多にすることはないが、発句《ほっく》を好んで自らも作り、人を集めては教えておりました。麓にいる時分にはこの老人を中心として、よく運座が催されたものですけれども、頂上へうつってはそのことがありません。発句の代りに一陶《いっとう》の酒を楽しんで、ありし昔の夢に耽《ふけ》りながら、多年の間、山上でひとり夜を明かすことを苦なりとはしていません。
 ある晩――ちょうど、十六日の月が東から登って、満山ことごとくその月光を浴びた夜半のことであります。この奥の院近くに人の足音を聞きましたから、老人は坐ったまま居間の扉を押開いて、傍《かたわ》らにあった瓶子《へいし》を取って逆《さか》しまにし、その水を外へこぼすと、その傍らを風のように通り抜けた人があります。
 瓶子を片手に、長い白髯《はくぜん》を撫でながら堂守の老人は、その後ろをじっとながめました。奥の院から大見晴らしへ通る木の根の高い細道へ、その人は早くも隠れ去って影だに残してはいません。そこにはおもに樺木科《かばのきか》の植物が多いから、あるところは、ほとんど月の光をも漏らさぬ密林です。
 老人は後ろを見送ったままで小首を捻《ひね》りました。今は、たしかに丑三時《うしみつどき》、麓の若い人から頼まれた発句の点をして、今まで夜更かしをしていたが、ようやくそれを終ったから瓶子を洗って、また一陶の酒を汲もうとしている時に、この人影でしたから、老人が沈吟をはじめたのも無理はありません。時は既望《きぼう》の夜で、珍らしいほどに霽《は》れた空の興に浮かれて月を観る人が無かろうはずはないが、月といっても今宵に限ったことはない。未だ曾《かつ》てこの夜更けに、一人でこの頂上までさまよい来る風流人はありませんでした。
 しかしながら、年をとっては無精《ぶしょう》ですから、わざわざそれを追蒐《おいか》けてみようとの好奇心も動かず、やがてハタと戸を締めきってしまいました。このあたりでは鳴かない怪禽《かいきん》が、やや下ったところの飯綱権現の境内の杉の大木の梢では、しきりに鳴きます。奥の院から山脊《さんせき》を走るところの樺木科の多い大見晴らしへの道は、筑波の男体から女体に通う道とよく似ております。月の光も漏らさないほどの密樹を分けて、やはり大見晴らしへ通う人があります。堂守の老人の見たのが僻目《ひがめ》ではなく、或る時は、さやけき月の光を白衣に受けて、それが銀のようにかがやき、或る時は、木の下暗に葉影を宿してそれが鱗のようにうつります。道の程、八丁ばかりのところを、よれつもつれつ走って行く人の形が、時とすると白蛇ののた[#「のた」に傍点]って行くやと疑われます。
 高尾の本山から右へ落つる水が妙音の琵琶の滝となって、左へ落つるのが神変の蛇滝《じゃだき》となるのであります。琵琶の滝には天人が常住琵琶を弾じ、蛇瀑《じゃばく》の上には倶利迦羅《くりから》の剣を抱いた青銅の蛇《じゃ》が外道降伏《げどうごうぶく》の相を表わしている。その青銅の蛇が時あってか、竜と化して天上に遊ぶことがあるそうです。禹門三級《うもんさんきゅう》の水は高くして、魚が竜と化するということだから、蛇滝の蛇が竜となって天上に遊ぶのは当り前です。けれどもこれは左様なものではありません。人界の竜か、みみずか、行者の着る白衣を着ている机竜之助が、密林の細径を出でて薄原《すすきばら》の大見晴らしの真中に立っています。

 高尾の山の大見晴らしは、誇張することなくして関東一の大見晴らしということができるでしょう。この大見晴らしを絶頂とする高尾の山は、名の示す通りに山というよりは山の尾であります。二千尺を越ゆることのない地点ではありながら、その見晴らしの雄大広闊な趣が無類です。
 その地点だけは、樹木といっては更にない一面の薄原で――薄原といっても薄だけが生えているというわけではなく、薄も、尾花も、苅萱《かるかや》も、萩も、桔梗も、藤袴も、女郎花《おみなえし》もあって、その下にはさまざまの虫が鳴いています。
 ここに立って東を望むと、高尾の本山の頂をかすめて、遠く武蔵野の平野であります。東に向ってやや右へ寄ると、武蔵野の平野から相模野がつづいて、相模川の岸から徐々として丹沢の山脈が起りはじめます。それをなおずっと右へとって行けば甲州に連なる山また山で、その山々の上には富士の根が高くのぞいているのを、晴れた時は鮮かに見ることができます。それを元へ返して丹沢の山つづきを見ると、その尽くるところに突兀《とっこつ》として高きが大山《おおやま》の阿夫利山《あふりさん》です。更に相模野を遠く雲煙|縹渺《ひょうびょう》の間《かん》にながめる時には、海上|微《かす》かに江の島が黒く浮んでいるのを見ることができます。
 この時に、素人は、どうかすると相模川を多摩川と見誤ることがあります。ややあって多摩川を発見して、あれは利根か知らんと訝《いぶか》る者もありますけれど、少しく頭を冷やかにして地理を案ずれば、その区別は苦にするほどのことではありません。
 人跡《じんせき》の容易に到らない道志谷《どうしだに》を上って行くと、丹沢から焼山を経て赤石連山になって、その裏に鳥も通わぬ白根《しらね》の峰つづきが見える。富士の現われるのは、その赤石連山と焼山岳の間であります。空気のかげんによっては、道志谷の山のひだが驚くばかりハッキリして、そこを這《は》う蟻の群までが見えるような心持がする。
 やはり東を向いたままで、関東の平野を左の方にながめてゆくと、筑波と日光の山を見ることができます。月の出るてう武蔵野の西の涯《はて》に山があって、そこがすなわち秩父根《ちちぶね》であります。秩父の山と上毛の山とは切っても切れない脈を引いている。妙義も、榛名《はるな》も、秩父を除いては見ることも答えることもできないほど微かに、信濃なる浅間の山に立つ煙がのぼるのを眺めた時に、心ある人は碓氷峠《うすいとうげ》の風車を思い出して泣きます。
[#ここから2字下げ]
碓氷峠のあの風車
誰を待つやらクルクルと
[#ここで字下げ終わり]
 その碓氷峠は想望するのみで、ここから見ることはできないが、小仏峠はすぐ眼前に聳《そび》えているのがそれです。東へ向っていたのをグルリと西へ向き返って見ると、高原の鼻の先にお内裏雛《だいりびな》のお后《きさき》にそっくりの衣紋《えもん》正しい形をしたのが小仏山で、駒木野の関所から通る小仏峠道はその上を通ります。
 小仏の背後に高いのが景信山《かげのぶやま》で、小仏と景信の間に、遠くその額を現わしているのが大菩薩峠の嶺《みね》であります。転じて景信の背後には金刀羅山《こんぴらやま》、大岳山《おおたけさん》、御岳山《みたけさん》の山々が続きます。それから山は再び武蔵野の平野へと崩れて行くのだが、小仏の肩を辷《すべ》って真一文字に甲州路をながめると、またしても山また山で、街道第一の難所、笹子の嶺《みね》を貫いて、その奥に甲信の境なる八ケ岳の雄姿を認める。富士をのぞいてすべての山がまだ黒い時分に、まず雪をかぶるのは八ケ岳です。
 こうして見ると高山があり、峻嶺があり、丘陵があり、平野があり、河川が流れ、海島が漂い、人跡の到らざるところと、人間の最も多く住むところとを、すべてこの高尾の大見晴らしの一眸《いちぼう》のうちに包むことができる。大見晴らしの大きさは、その接触点に立つの大きさであります。

 それはさておいて、今、月明を仰いでこの高原の薄原《すすきばら》の中に、ひとり立つ机竜之助はこの時、もう眼があいていました。いな、少なくとも月の微光をながめ得るほどには、眼が開いていなければならないはずです。
 すすき尾花の中に西を向いている、たったひとりの人影に、ちょうど、天心に到る十六日の月が隈《くま》なく照しています。
 もし、煙霧がなければ白根山の峰つづきが見ゆるあたりに、竜之助はいつまでか立ち尽しているが、風はそよとも吹かず、ただ高原の夜気が水のように流れているだけです。
[#ここから2字下げ]
鳥も通わぬ白根の山に
月の光りがさすわいな
[#ここで字下げ終わり]
 多分、その白根の山ふところに心残りがあるのでしょう。
 白根の山ふところの奈良田の温泉で、似而非《にせ》の役人を一槍の下に縫いつけたのは、さのみ恨みの残るべきことではありません。
 徳間峠で倒れた時に介抱を受けた山の娘の頭《かしら》のお徳のことが、思い出になるとすれば、思い出にはなります。
 お徳は親切な女でした。温和なうちに、かいがいしいところがあって、世話女房としての無類の情味があったことを、今こうして白根の方をながめるにつけて、思い出さないという限りはありません。眼に見えない面影《おもかげ》ながら、それを思い浮べると、肉附のよい、血色の麗《うる》わしい、細い眼に無限の優しみを持った、年増盛りであったことを思いやらないわけにはゆきません。
 お徳の面影が思われると、同じような月夜の晩に、月見草の多い庭で砧《きぬた》を打ちながら、
[#ここから2字下げ]
甲州出がけの吸附煙草《すいつけたばこ》
涙じめりで火がつかぬ
[#ここで字下げ終わり]
と得意の俚謡《りよう》をうたったことが耳に残ります。眼の見えた以前の人は暫く措《お》き、眼が見えなくなってから後の人の面影が知りたい。少しでも眼が見えるようになったとしたら、今までの絶望がまた新たなる希望として現われない限りはあるまい。
 その時分は荒れ果てて狐狸の棲処《すみか》となっていた蛇滝の参籠堂に、行者が籠りはじめたと麓の人が噂《うわさ》をはじめたのは、もはや百日ほど以前のことです。その後、夜な夜な女の姿をした人がこの参籠堂へ物を運んで、忍びやかに来ては、忍びやかに帰るということも人の噂《うわさ》に上りました。
 人の噂とは言いながら、この山麓であるから、それが拡がったところで大した範囲ではありません。噂は噂だけにとどまって、誰しもその真相をたしかめようとの暇を作るものはありません。その時分こそ廃《すた》ったけれども、その以前は、この滝にかかってかなりの荒行《あらぎょう》をしたものさえあるとのことだから、隠れて行をする信心の行者を妨げるのを恐れ多いとして、やはり噂を噂だけにして、里人はあえて近寄ろうともしません。
 百日の間に、参籠堂に籠《こも》って、夜な夜な霊ある滝に打たれてみた時には、信心のなきものもまた、冷気の骨に徹《とお》るものがありましょう。心頭が冷却して、心眼が微かに開くと共に、肉眼に光を呼び起してくることはありそうなことです。
 巣鴨、庚申塚《こうしんづか》のあたりの一夜の出来事が縁となって、机竜之助は夢のように導かれて甲州街道を辿《たど》りました。夢で見た時に、自分の眼が明らかにあいて、以前、東海道を上って行った時の旅のすがたで、女を守る駕籠に引添うて河原の宿、小名路の花屋まで来たが、現実はそれと反対に女に誘われて、駕籠に揺られて小名路まで来ました。
 そこはこの女の土地で、その好意によって蛇滝の参籠堂に隠れて、ついに今日に到りました。蛇滝の水に霊があるならば、この男の眼を癒《なお》さないという限りもあるまいが、事実、こうして夜歩きをすることは、この高原に来た時とのみ限ったことではありません。全く見えない時ですら、江戸の市中を自在に潜行して人を斬りました。
 その時、小仏峠の一点に火が起りました。
 大見晴らしから小仏峠へ出る細径《こみち》があります。火はその一点、小仏山の頂上に近いところで起りました。野火というほどのものではありません、まさしく焚火でありましょう。そうでなければ松明《たいまつ》であります。焚火としても松明としても、それが時ならぬ火であることが、怪しいといえば怪しい火です。
 尾花の中から、その怪しい火に頭を向けて眼を注いでいるらしい竜之助は、たしかに眼が見えるものです。その手には僧侶の持つ如意《にょい》のような尺余の鉄棒を、後ろにして携えていることも、その時にわかりました。
 野分《のわき》の風が颯《さっ》と吹き渡ると、薄尾花《すすきおばな》が揺れます。薄尾花が揺れて高原が海のように動くと、その波の間を泳いで、白衣の鮮かなのが月に背を向けて、山の頂上に近いところから中腹へ下りて来ることは来るが、果してそれがこの高尾の山へ来るのか、それとも右へ廻って与瀬、上野原の方へ下りて行くのか、そのことはまだわかりません。見ているうちにその火が消えました。消えたのではない、隠れたのでしょう。
 大見晴らしからながめた小仏の全山は、坊主山とは言いながら、それを与瀬へ下りようとする中腹には林があります。多分、火の光はその林へ紛《まぎ》れ込んだものでしょう。
 果してその松林の中を人が通ります。怪しい火と見たのは、その人の手に持っていた提灯《ちょうちん》でありました。その提灯とても、二《ふた》つ引両《ひきりょう》の紋をつけた世間並みの弓張提灯で、後ろには「加」という字が一字記してあるだけです。その提灯を携えて小仏山から下りて、この松林に入って、多分この松林を抜けたらば、また薄尾花《すすきおばな》の野原を、高尾の大見晴らしへ出て山上に詣《もう》でるか、或いは山下の村へ行くものでしょう。
 月夜に提灯は、ふさわしくないけれど、これとてもおそらくは、自分の足許を照すためではなく、悪獣や怪鳥の害を避ける要心のためと見れば、さのみ怪しむべきこともありません。怪しいのは、いかに旅慣れたとは言いながら、深夜、この間道を一人で通るという豪胆と、それから、しかく豪胆であらしめた用向そのものであります。
 ところが、この豪胆なる旅人は女でありました。笠に、てっこう、きゃはんのかいがいしい身なりをしているけれども、女は女です。しかも背に男の子を一人背負うて、ほかに全く連れとてもなく、この山道を急ぐのであります。

 竜之助がもと来た道とは全く別な方面、つまり小仏峠へ出る細径《こみち》のことであります。蛇滝へ帰らないで、この路を行くとすれば、右の怪しい火に心がうつって、それを突き留めてみたくなったのかも知れません。突き留めれば斬ってしまうつもりでしょう。たとえ眼があいても、心の悟りが開けきれない限り、彼のいたずら心は遽《にわ》かに止むべしとは思われません。
 来た時の路とは違って、これから小仏へ出るまでは坊主山です。小仏そのものの全体が坊主山ですから、樺木科《かばのきか》の密林も無ければ、松杉科の喬木もあるのではない。ただ薄尾花が一面の原野をなしているのだから、月に乗じて行く白衣の人の影は、そのまま銀のようにかがやいて、野分《のわき》に吹かれて漂うて行くばかりです。けれども、それとても長い間のことでありません。最初は膝のあたりに戯れていた薄尾花も、ようやく胸に達し、ついには人丈《ひとたけ》よりも高くなって、いつしか人影を没してしまいました。月は相変らず天心を西へ少し傾いたところに冴《さ》えてはいるけれども、高原の上は、今や人の影というものはありません。
 しかしながら、あちらの小仏山の頂上に近いところに見えた一点の火は、消えたということはありません。極めて小さい火ではあるけれども、火のあるところには人間のあることは確かです。人間が無ければ、それは野火の卵ですけれども、その小さな火が、少しずつ山を下りて来ることによって、人間の手に操《あやつ》られているということは疑うべくもありません。
 その女は、徳間峠《とくまとうげ》から縁を引いた山の娘の頭《かしら》のお徳であります。どうしてこの女が、真夜中にここを通るのか。蛇滝の参籠堂にその人がいると知って、わざわざこの難路を訪れるのか。もし、そうであったなら、今宵に始まったことではあるまい。与瀬か上野原あたりに宿を取っていて、夜な夜な参籠堂に物を運ぶというのは、この女の仕事かも知れません。
 大見晴らしに立って認め得た一点の火を、それと知ればこそ、竜之助は迎えのために薄尾花の海へ身を隠したのでしょう。蛇滝へ参籠して既に百日にもなるとすれば、その間に、篠井山《しののいざん》の下の月夜段《つきよだん》の里まで消息を通ずることは、あえて難事ではありません。ともかくも峠一つ越えての甲州国内のことですから、女の身でも真心さえあれば、訪ねて来られない道ではないのです。ましてお徳は旅に慣れた女であります。奈良田の湯まで看病に行った時の熱が冷めないでいるならば、遥々《はるばる》かけた呼出しに応じないというはずはありません。お徳の目的はわかりました。たしかに蛇滝の参籠堂をめがけて小仏の裏道を急いだのであります。背に負うている男の子は先夫――というても今も夫があるのではないが、亡くなった夫の子の蔵太郎であることも疑いはありません。
 しかしながら、竜之助の気は知れない。遠く白根の山ふところから、かりそめの縁《ゆかり》の女を呼び寄せてどうする気だ。彼には近き現在に於てお銀様があるはずだ。また庚申塚の辱《はずか》しめの時から、夢のようにここまで導いて、蛇滝の参籠に骨を折ってくれた小名路《こなじ》の宿の女も、たしかに宿に隠れているはずだ。理想のない人には、人生が色と慾とよりほかにはない。生きていることが真暗であった竜之助に、人を斬るの慾と、女に接するの慾と、その二つよりほかになかったものか知らん。今、幸いに、何かの恩恵によって、朧《おぼろ》げながら再び人の世の光明を取返しかけたという時に、もう女無しではいられないというのはあまりに浅ましい。呼び迎える男も男だが、それに応じて来る女も女だ。愚かなのは人間のみではありません、虫のうちの最も愚かなのを火取虫と申します。気になるのはこの女の携えている提灯の、後になり先になり二羽の蝶が狂うていることです。あまり気になるから、追ってみたけれども離れません。叱ってみたけれども驚かないで、提灯の上へとまり、後ろへ舞い、その志はひたすら中なる火を取らんとして、焦《あせ》るもののようです。
 二つの蝶のうちの一つは白くして小さく、他の一つは黒くして大きなものです。白くして小さきは多分白蝶と呼ぶもので、黒くして大きなるは烏羽揚羽《からすはあげは》でありましょう。この二つだけが提灯のまわりで狂います。
「叱《しっ》、いやな蝶々だこと」
 女は気になるから片手で打つ真似をしました。その手をくぐって白いのは後ろへ、黒いのは前へ隠れて、また二つが一緒になって提灯の上へ現われるのは、人をからかっているような仕打ちであります。
 猛獣毒蛇も怖ろしいけれども、それは火を見ると逃げます。弱々しい蝶に限って火を見ると、かえってそれを慕い寄るのが怖ろしい。避けるものは身を惜しむことを知っているけれども、寄るものは身を殺すことを惜しみません。火に焦《こが》れて来て、身の程を知らぬ望みのために、身を焼かれることを知らないものは、憐れむべくもまた怖ろしいものです。
「叱《しっ》、あちらへ行っておいで」
 この時の蝶は、たしかに戯《たわむ》れているのではなく、噛み合っているのでした。いずれが早く火に触れようかとして、先を争うて噛み合っているのに違いない。
 その時、提灯の火がパッと消えました。二つの蝶がその火を消してしまいました。
 再び火をつける必要はありますまい。月の光が明るいのに、そこらあたりには大文字草《だいもんじそう》と見える花がいっぱいに咲いております。
「もし」
 消えた提灯を持って空しく立っていたお徳は、人を呼びかけました。やや離れたすすき尾花の中に朦朧《もうろう》と人の影があります。
「あなたは、どちらからおいでになりました」
「蛇滝から」
というのがその返事です。
「ここまで、わたくしを迎えに来て下さいましたか」
 お徳は息をはずませて、問いかけました。
「月が好いから、つい」
「ああ、よくおいで下さいました」
 二人はまだ離れて立っています。
「まあ、わたくしは、どんなにあなた様のことを心配しておりましたでしょう、甲府へおいでになってから後も、それとなくお尋ねしてみましたけれど、一向わかりませんでした、お消息《たより》をいただくと、取るものも取りあえずにこうして急いで参りました。お目はいかがでございます、もう、お見えになるようになりましたようでございます、それが何よりでございます」
 お徳は、やはり息をはずませて言う言葉です。それでも、二人は、すすき尾花の中に、やや距離を置いたのみで、相ちかよることを致しません。
「眼が少し見えるようになりました、薄月《うすづき》の光で物を見るほどになりましたわい」
「それは何よりでございます、どうしてそれまでにおなりなさいました」
「この下の蛇滝というのに、百カ日ほど打たれているうちに、おのずから光がさして来ました」
「それで、もうこんなに山道をお歩きになって毒ではございませんか、お疲れにはなりませんか」
「一向、疲れはせぬが、久しぶりでそなたに会ったこと故に、あの松原で暫く休息して、ゆっくり物語をしたいものじゃ」
「それもよろしうございますが、蛇滝のお堂とやらまでお伴《とも》を致しましょうか」
「参籠堂へは、やっぱり女人は近づかぬがよい、行って見たところで何の風情《ふぜい》もない、それよりか、あの松原の月の光の洩れるところが休みごろ、話しごろと思われる」
「では、あれへお伴を致しましょう」
「後へ少し戻ってもらいたい」
「どうぞ、あなた様からお先へ」
 高尾と小仏の中のすすき尾花の高原の中に立った二人は、たがいにその細い道を譲りました。けれども二人の中に、距離のへだたりがあることが変りません。
 一方は、火の消えた提灯を持って、懐しさに息をはずませておりながら、その人に近寄ろうとはせず、一方も、わざわざ迎えに来たと言いながら、むしろ、人には背《そびら》を見せて月に心を寄せるように、すすき尾花の中に立っていました。
「細い道だから、遠慮をしていては際限がない、一足お先に」
 こう言いながら、お徳の前を通り抜けた竜之助の白衣が透きとおりました。その腰から裾へ朧染《おぼろぞめ》のように、すすき尾花が透いてうつりました。そうしてなんらの音もなく、風の過ぎ去るようにお徳の前を通ると、二三間の距離を置いて松原さして歩んで行きます。
 この時にまた提灯の光がパッとさしました。気を利かせたお徳が早くも提灯に火を入れたものか、そうでなければ、いったん、消えたと見えたのが、消えたのでなく、また燃え出したのでしょう。
 提灯の光が再び松林の中へ入ったのは、久しい後のことではありませんでした。
 竜之助は松林の、夜露のかからないようなところへゴロリと横になりました。いたいけな藤袴《ふじばかま》が、それに押しつぶされ、かよわい女郎花《おみなえし》が、危なくそれを避けています。
 疲れのせいか横になって、うつらうつらと眼を閉じていると、暫くして紛《ぷん》と鼻を撲《う》つ酒の香りがしました。それはあまりに芳烈な清酒の香りであります。
 思いがけなく眼をあいて見ると、いくらも離れないところの松の木蔭で、お徳が火を焚いていました。手頃の木の枝を三本組み合わせて、それに土瓶をつるして、下に枯葉を置いて程よく火を焚いているのは、その土瓶をあたためているのです。いつのまに用意して来たか、それとも前の日あたりにこの林へ隠してでもおいたのか、土瓶の中には黄金色の清酒《すましざけ》が溢れるほど満ちていることは、その香りでわかります。その焚火と向い合わせに、背中から下ろした蔵太郎を坐らせて、余念なく火を焚いていたが、こちらを向いて、
「もし、お目ざめならば、一口召上って下さいまし」
 こう言われてみると、秋の日に晴れて松茸狩《まつたけがり》に来たもののような気分です。
「どうしてまたこんなところまで、酒を持ち込んで来たのだろう」
 竜之助はそれを訝《いぶか》りながら、懶《ものう》げに起き直ろうとする鼻の先へ、例の土瓶と小さな茶碗をもって来ました。
「さだめし御不自由でしょうと思って、昨日のうちに、お酒とお米を少しばかりここへ持って来ておきました、山を通る時に松茸もありましたから、これも取って参りました、これを召上ってお待ち下さいませ、ただいま御飯を炊《た》いて差上げますから、松茸の即席料理を、わたくしの手でこしらえて上げようと存じます、温かい御酒と、温かい御飯を差上げたいと思いまして」
 酒を手に取らないうちに、竜之助は酔わされた心持です。口をつけると上燗《じょうかん》に出来上っている酒の香りが、五臓六腑に沁《し》み渡ります。
「ああ」
と言って咽喉《のど》を鳴らしました。温かい酒と、温かい飯の誘惑が、己《おの》れを物狂わしくするのを制することができません。
 土瓶の中を立てつづけに飲みました。義理も人情もなく飲みつくしてしまいました。
 その間にお徳は、更に温かい飯と、新しい松茸の料理にかかるべく焚火を加えて、その火加減をながめています。それによって見ると、飯を焚いているのではなく蒸しているものらしい。よく山の旅に慣れているものがするように、湿気のある土地に穴を掘って木の葉を敷き、それに米を入れてまた木の葉と土とかぶせて、上で焚火するという仕組みでやっているものらしい。松茸の料理というのも、多分そうしてこしらえるのでしょう。
 温かい酒と、温かい飯とに瞑眩《めいげん》した竜之助は、久しく潜んでいた腥《なまぐさ》い血が、すっと脳天へ上って行くのを覚えます。この時に、むらむらと人が斬りたくなりました。眼に触るる人を虐《しいた》げて、その血を貪《むさぼ》ってやりたい心持が、ようやく首を持ち上げてみると、刀のないことが、もどかしくてたまりません。腰をさぐってみたけれど刀がありません。
 ぜひなくその心をじっと抑えて、また弱々しい女郎花《おみなえし》を虐げて横になって、かすかに眼を開くと、焚火にかがやくお徳の血色というものが、張り切れるほどに豊満な肉を包んでいました。
 百カ日の参籠ということによって、辛《かろ》うじて恵まれた肉眼の微光は、その間、やむことを得ずしてさせられた精進潔斎《しょうじんけっさい》の賜物《たまもの》であるとわかっているならば、再び人間の肉と血を見ることによって、もとの無明《むみょう》の闇に帰りたくはなかろう。肉と血を見ないことによって光が恵まれ、肉と血を見ることによって光が奪われるということなら、人間というものの生涯も、厄介至極なものではありませんか。



底本:「大菩薩峠6」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 四」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「小金ケ原」「八ケ岳」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年11月10日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
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