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大菩薩峠
女子と小人の巻
中里介山

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)根《こん》がよく

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(例)一|挺《ちょう》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]
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         一

 伊勢から帰った後の道庵先生は別に変ったこともなく、道庵流に暮らしておりました。
 医術にかけてはそれを施すことも親切であるが、それを研究することも根《こん》がよく、ひまがあれば古今の医書を繙《ひもと》いて、細かに調べているのだが、どうしたものか先生の病で、「医者なんという者は当《あて》にならねえ、人の病気なんぞは人間業《にんげんわざ》で癒《なお》せるもので無《ね》え」と言って、自分で自分を軽蔑《けいべつ》したようなことを言うから変り者にされてしまいます。そうかと思うと、「人の命を取ることにかけては新撰組の近藤勇よりも、おれの方がズット上手《うわて》だ、今まで、おれの手にかけて殺した人間が二千人からある」なんというようなことを言い出すから穏かでなくなってしまうのです。どこから手に入れたか、この日は舶来《はくらい》の解剖図《かいぼうず》を拡げて、それと一緒に一|挺《ちょう》のナイフを弄《いじ》りながら独言《ひとりごと》を言っています。
「毛唐《けとう》は面白いものを作る、こうすれば鎌になる」
 ナイフの刃を角《かく》に折り曲げて鎌の形にし、
「それからまた、こうすれば燧《ひうち》に使える、こうして引き出せば庖丁《ほうちょう》にもなり剃刀《かみそり》にもなる」
 たあいないことを言って、ナイフをおもちゃにして解剖図を研究しているところへ、
「先生」
「何だ」
「お客でございます」
「お客? いま勉強しているところだから、大概《たいがい》のお客なら追払っちまえ」
「与八さんが来ました」
「与八が?」
「与八さんが馬を曳《ひ》いて来ました」
「与八が馬を曳いて来た? そいつは面白い、こっちへ通せ」
 与八が沢井から久しぶりで道庵先生を訪れて来ました。
「与八、お前が来たから今日は、おれも久しぶりで江戸見物をやる、どうだ、両国へでも行ってみようか」
「お伴《とも》をしましょう」
 その翌日、道庵は与八をつれて両国へ出かけました。与八の背には郁太郎《いくたろう》が温和《おとな》しく眠っています。
 道庵先生は両国へ行く途中も、例の道庵流を発揮して通りがかりの人を笑わせました。
「あそこが両国だ、大きな川があるだろう、間《あい》を流るる隅田川というのがあれだ。向うは上総《かずさ》の国で、こっちが武蔵の江戸だから、昔し両国橋と言ったものだが、今はあっちもこっちもお江戸のうちだ。どうだい、景気がいいだろう、幟《のぼり》があの通り立ってらあ、橋の向うとこっちに見世物小屋が並んでる、見物人がいつでもあの通り真黒だ、木戸番が声を嗄《か》らしていやがる。与八、うっかりあの前へ行ってポカンと立っていると巾着切《きんちゃくきり》に巾着を切られるから用心しろ、ぐずぐずしていると迷児《まいご》になるから、おれの袖をしっかり捉《つか》めえていろ、自分の足を踏まれぬように、背中の子供を押しつぶされねえように気をつけて」
 こうして二人は両国の人混《ひとご》みへ入り込んで行きました。
「先生、こりゃ何だい」
 与八はいちいち見世物の絵看板の前で立ち止まる。
「こりゃその駱駝《らくだ》の見世物だ」
「駱駝というのは何だろう、馬みたような変てこなものだな」
「そりゃ南蛮《なんばん》の馬だ」
「背中に瘤《こぶ》がある」
「あれが鞍《くら》の代りになる」
「おおきな瘤だな」
「はははは」
「先生、こりゃ何だ」
「これは籠細工《かございく》というものだ、今はやり[#「はやり」に傍点]の籠細工というものだ」
「綺麗《きれい》だなあ」
「その次は竹細工、糸細工、硝子細工《びいどろざいく》、紙細工」
「綺麗だなあ」
「それから駒廻《こままわ》し」
「やあ、駒から水が出ている」
「今度は機関《からくり》」
「やあ、機関まである」
「女盗賊三島のお仙ときたな、こりゃ三座太夫だ、次がおででこ[#「おででこ」に傍点]芝居」
「芝居で歯磨を売るのはおかしい」
「はははは」
「それでも先生、『おあいきやう手踊り御歯磨調合人、岩井|管五郎《くだごろう》』と書いてある」
「いや、こいつらは、もと歯磨売りとしてその筋へ願ってあるのだ、芝居をすると言って始めたのではない、それだから今でも歯磨の看板を出しているのだ」
「ああ、打掛《うちかけ》を着たお姫様が向うを向いている、ありゃ何だ」
「与八、あんなものを見るものではない、ありゃ士君子の見るべからざるものだ」
「みんな中で笑っている」
「因果娘、蛇使い、こんなものの前は眼をつぶって通れ」
「そうですか」
「後ろから見ると、あの通り美しい女に見えるが、前に廻って見れば言語道断《ごんごどうだん》のものだ。さあ与八、ここに軽業《かるわざ》がある」
「なるほど、こりゃあ軽業だ、軽業、足芸、力持。やあ、大した看板だ、この小屋が今までのうちでいちばん大きいね、これなら一万五千人ぐらい、人が入れべえ」
「そんなに入れるものか、千人は入れるだろうな」
「やあ、あんな高いところで、よくあんな芸当ができるものだなあ。あんな綺麗な面《かお》をした娘が逆《さか》さになって、足で盥《たらい》を組み上げて、その上で三味線を弾いてらあ、エライものだなあ。こっちの方は綱渡りか」
 与八は余念なくこの立看板を仰向《あおむ》いて見て行くうちに、
「大評判、印度人槍使い」
 ちょうどまん中のところに掲げられた、わけて大きくした絵看板の前まで来ました。
「先生、この槍使いの面《かお》は、こりゃ何という面だ」
「はははは」
「面も身体も真黒で、眼を光らかして、裸体《はだか》で槍を持って立っているが」
「こりゃ印度人だよ、印度といって天竺《てんじく》のことだ」
「へえ」
「印度から来た槍使いと書いてある」
「なるほど、印度にも槍があるのかねえ、印度の槍というのは、あんなものかねえ」
「そうだ」
「印度の人というのは、みんなあんなに面も身体も黒いのかねえ」
「黒ん坊とさえ言うからな」
「どうしてあんなに黒くなるんだろうな、染めたわけじゃあるまいねえ」
「染めたわけじゃない、印度は熱い国だから日に焼ける、日に焼けると色があんなに黒くなる」
「へえ」
「なんしろ冬というものがなくって、夏ばかりある国だ、その夏がまた日本よりも十層倍も暑いのだから、そこに住むやつらは照りつけられて、あんなに黒くなる」
「ずいぶん黒いなあ」
「さあ評判評判、印度の国はガンジス河の河岸で生れました稀代《きだい》の槍使いはこれでござい、ごらんの通り、身の丈わずか四尺一寸なれども、槍を使うては神妙不可思議、これまでこの男の槍先に斃《たお》されましたところの虎が三十八頭、豹《ひょう》が二十五頭、そのほか猛獣毒蛇をこの一本の槍先で仕留めましたること数知れず、或る時ヒマラヤ山の麓におきまして不意に一頭の猛虎に襲われましたる折に、右の股《もも》を牙《きば》にかけられ、すでにこうよと見えたるところを、取り直して、グサと突込みました一槍で、猛虎の口から尻まで突き通して仕留めましたその働きが、国王殿下のお耳に入り、この通り首にかけたる金銀のメタル、これが印度国王殿下からの賜わり物にござりまあす。それより以来《このかた》、当人は右足の自由を失いまして片足の芸当、高いところは十丈の梁《はり》の上を走り、低いところは水の底をくぐる、馬に乗りましてこの槍を使いますれば馬上の槍、我が朝におきましては宝蔵院の入道、高田又兵衛といえどもこれには及ばず。嘘偽《うそいつわ》りと思召すなら御見物の方々、御持合《おんもちあわ》せの手裏剣《しゅりけん》なり鉄扇なり、または備え置きましたる半弓、石、瓦の類《たぐい》をもって、御遠慮なく当人の四肢五体いずれへなりともお覘《ねら》いをつけ下し置かれ、まんいち当人の身に一つでも当りましょうならば、その場において、ここにござりまする虎の皮三枚、豹の皮二枚、これをお土産《みやげ》までにどなた様にも差上げまする。長い浮世に短い命、こういうものが二度とふたたび、日本の土地へ参りましょうならお目にかかりまする、孫子《まごこ》に至るまでのお話の種、評判の印度人、ガンジス河の槍使いはこれでござい!」
「ははあ、これがこのごろ評判の槍使いだな」
「先生、本当だんべえかね、本当に印度からこんなエライ槍使いが来ているのかね」
「口上言いの言うことは当《あて》にならねえが、それでもこのごろは、この見世物がばかに評判だ、まるっきり嘘を言って評判を立てるわけにもゆくめえから本当かも知れねえよ」
「そうかなあ」
 与八はしきりにその印度人槍使いの大看板をながめていますから道庵が、
「与八、これがそんなに気に入ったか。それでは、こいつをひとつ見せてやろう」
「そうしておくんなさい」
「俺もこいつをひとつ見たいと思っていたのだ」
 二十四文ずつの木戸銭を払って、道庵と与八はこの小屋の中へ入りました。
 小屋の中は摺鉢《すりばち》のようになって、真中のところが興行場になっていて、見物は相撲を見ると同じように、四方から囲んで見ることになっています。
 道庵と与八とは土間の程よいところに陣取って、与八は郁太郎を卸《おろ》して膝にかかえ、物珍らしそうに、この大きな小屋がけの天井から板囲《いたがこい》いっぱいになった見物人の方をながめて、
「たいへん人が入っている」
 この時の前芸は駒廻しで、その次が足芸。
 紋附を着て袴を穿《は》いて襷《たすき》をかけた娘が三人出て来て、台の上へ仰向きに寝て足でいろいろの芸をやる。それから力持、相撲のように太った女、諸肌脱《もろはだぬ》ぎで和藤内《わとうない》のような風をしているその女の腹の上へ臼《うす》を載せて、その上で餅を搗《つ》いたり、その臼をまた手玉に取ったりする。
 道庵はそれを見ながら、与八を相手にあたりかまわず無茶を言っては、鮨《すし》と饅頭《まんじゅう》を山の如く取って与八に食わせ、自分も食いながら、
「今度は、例の印度人の槍使いだな」
 問題の印度人、書入《かきい》れの芸当。長い浮世に短い命、二度とふたたびは日本の土地で見られないと口上が言った。前にも後にも初めての舶来、看板でおどかし、呼込みで景気をつけ、次に中入り前に、ワザワザ時間を置いて勿体《もったい》をつけて、また改めて口上言いが出て、
「さて皆々様、これよりお待兼ねの印度人槍使いの芸当……」
 前のに尾鰭《おひれ》をつけて長々と、槍使い一代の履歴を述べ、さんざん能書《のうがき》を並べて見物に気を持たせておいて、口上が引込むと拍子木カチカチと、東口から現れたのがその印度人であります。
「なるほど、こりゃ黒ん坊だ、看板に偽《いつわ》りは無《ね》え」
 見物はその異様な風采《ふうさい》でまず大満足の意を表します。なるほど背四尺一寸と看板に書いてあった通り。手に持った槍、柄は真赤に塗ってあって、尖《さき》が菱《ひし》のようになっている、それも看板と間違いはない。身体《からだ》は漆《うるし》のように黒く、眼ばかり光って、唇が拵《こしら》えたように厚く、唇の色が塗ったように朱《あか》い、頭の毛は散切《ざんぎり》で縮《ちぢ》れている、腰の周囲《まわり》には更紗《さらさ》のような巾《きれ》を巻いている、首には例の国王殿下から賜わったという金銀のメタルが輪になって輝いている、それもこれもみんな看板と同じこと。それが東口から赤柄《あかえ》の菱槍《ひしやり》を突いて出て来る足許《あしもと》は、一歩は高く一歩は低いものであります。
「なるほど……あの足だな、あれがヒマラヤ山で虎に食われた足なんだ」
 その跛足《びっこ》がまた大喝采《だいかっさい》。
「イヨー、舶来の加藤清正!」
「虎狩りの名人! 日本一! 世界一!」
 見物は喚《わめ》く。
「先生」
「与八」
「看板の通りだね」
「看板の通りだよ」
 やがて真中の土俵まで出て来た印度人、光る眼をギョロつかせて四方を見る。どんな心持でいるのだか、色が黒いから面《かお》の上へは情がうつりません。
「キーキーキー」
 白い歯を剥《む》き出して、猿の啼《な》くような声を出して、左の手を高く挙げました。
「あれが向うの挨拶《あいさつ》なんだね、日本でこんにちはと言うのを、印度ではキーキーと言うんだろう」
「それに違えねえ」
 印度人は、キーキーと言いながら、右の手には槍を持ち、左の手は高く挙げたまま、グルリと見物を一週《ひとまわ》り見廻して正面を切ると、一心に見ていた道庵先生と期せずして面《かお》がピタリ合いました。
 道庵の面をしばらく見詰めていた印度人。他目《よそめ》には誰も何とも気がつかなかったが、印度人はブルブルと慄《ふる》えて、危なく槍を取落すところを、しっかりと持ち直して、わざとらしく横を向きました。
「はて、おかしいぞ」
 道庵先生もまたこの時首を捻《ひね》りましたが、
「何だね、先生」
「どうも、おかしい、あの印度人は見たことのあるような印度人だ」
「先生は印度人にも友達があるのかね」
「どうも、あの時より肉は少し落ちているが、骨組に変りはなし、跛足《びっこ》に申し分もなし、こいつはいよいよおかしい」
 道庵先生は、慈姑《くわい》頭を振り立てて印度人の恰好《かっこう》を横から見、縦から見ていましたが、
「あはははは」
 突然、大きな声で笑い出しました。
 時々変なことを言い出すお医者さんと思って、あたりの見物も気に留めなかったが、この時は笑い方があまり仰山《ぎょうさん》であったから、みんなが道庵の方を振向いて見ました。
「先生、何を笑ってるのだ」
 与八も驚かされました。
「あはははは」
 道庵はやはり大口をあいて笑います。
「何がおかしいだか」
 与八は受取れぬ面《かお》。
「まず前芸と致しまして槍投げの一曲、宙天《ちゅうてん》に投げたる槍を片手に受け留める……」
 口上言いが言う。
 印度人が槍を取り直して、ヒューと上へ投げる。
「うまいぞ! あははは」
 道庵先生が囃《はや》すと、印度人はブルブルと慄えて、落ちて来た槍を危ないところで受け留める。手足にワナワナと顫《ふる》えが見えるのが不思議です。
「黒さん、しっかり頼むよ」
 道庵先生に言葉をかけられるたびに、印度人がドギマギして、ほかの人が見てもおかしいと思うくらいに、槍の扱いがしどろになってしまうから見物が、
「なんだか危なっかしい手つきだ」
 幸いに面の色は真黒だから、表情が更にわからないけれど、どうも黒さんの調子が甚だ変なのであります。それでもやっと数番の槍投げを了《お》えて、
「次は槍飛び!」
 口上がかかると、
「しっかりやれ、道庵がついてるぞ!」
 道庵がまた大きな声。
 槍飛びの芸当にかかるはずの印度人が、この時ふいと舞台から逃げ出しました。
「おい黒さん」
 口上言いが驚いて呼び止める。それを耳にも入れないで、印度人は、槍を突いて跛足《びっこ》を飛ばして楽屋《がくや》の方へ逃げ込みます。
「おや、黒さん、どうしたんだい」
 口上言いや出方《でかた》が飛んで行って、印度人を連れ戻そうとするのを、印度人は頓着《とんちゃく》なしに楽屋に逃げ込んでしまいます。
 いよいよ本芸にかかろうとする前に、肝腎《かんじん》の太夫さんが黙って逃げ出したのだから、
「どうしたんだ」
「怪《おか》しいな」
「急病でも出たのかな」
「ひょいと出て、ひょいと引込んでしまやがった」
「おかしな奴だよ」
「出方が追っかけて行かあ」
「あれ、楽屋へ逃げ込んでしまったぞ」
「どうしたわけなんだ」
「やあい、黒、どうしたんだ」
「黒!」
「黒ん坊!」
「早く出ろ! 黒やあい」
 見物は、ようやく沸き立ってきました。
「東西」
 口上言いが、沸き立つ見物の前へ出て来て、
「ただいま、印度人が急病さし起りまして、暫らく楽屋に休憩とございます、なにぶん熱国より気候の違った日本の土地に初めて参りましたこと故……」
「あはははは」
 口上の申しわけ半ばに道庵が笑う。口上は腰を折られて変な目をして道庵を見たが、また申しわけをつづけて、
「食当り水当りのために頭痛眩暈《ずつうめまい》を致し、なにぶん芸当相勤め兼ねまするにより……」
「その病気なら俺が癒してやる」
 またしても道庵の差出口《さしでぐち》。
「当人病気休息の間、代って手品水芸の一席を御覧に入れまあする」
「馬鹿野郎」
 見物が承知しませんでした。
「手品なんぞは見たくねえ、早く黒を出せやい、黒ん坊を出せ」
「新宿の八丁目から、わざわざ黒ん坊を見に来たんだい」
 半畳《はんじょう》が飛ぶ。

 自分の楽屋へ逃げて来た印度人、楽屋にはお玉のお君が胡弓《こきゅう》を合わせていました。
「どうしたの、友さん」
「駄目だ、駄目だ」
 ここへ来ると印度人は楽な日本語です。
「まだお前、引込む時間ではないのだろう」
「いけねえ」
 印度人は、お君の傍へ倒れるように坐って首を振りました。
「どうしたんですよ」
 お君は胡弓をさしおいて心配そう。
「ばれちゃった、ばれちゃった」
「まあ」
 お君も安からぬ色。
「誰か、お前が印度人でないと言う人があったの」
「うん」
「じゃあ何かい、お前が、宇治山田の友さんのお化《ば》けだということを、誰か見物が言ったの」
「そうは言わねえけれど、知っている人に見つかっちゃった」
「知ってる人? それは誰」
「それは、俺《おい》らが世話になったお医者さんだ」
「お医者さん? 伊勢《あちら》のお医者さんかえ」
「いいや、いつかもお前に話したろう、俺らが隠《かくれ》ヶ岡《おか》で突き落されて、一ぺん死んだやつを生かしてくれたお医者さんだ」
「それでは、あの下谷の長者町にいらっしゃるという先生かい」
「そうだ、その道庵先生が見物に来ているのだよ」
「まあ、そりゃ驚いたね。それだってお前、なにも心配することはありゃしないよ、お前の方では道庵先生だとわかっても、先生の方ではお前が友さんだとわかる気遣《きづか》いはないからね。傍にいるわたしだって、そう言われなければわからないのだから、心配しなくてもいいじゃないか」
「ところが駄目なんだ」
「わかっちまったのかい」
「なんしろ、俺の身体は頭の上に毛が幾本あって、足の蹠《うら》に筋がいくつあるということまで、ちゃあんと呑込んでる先生だから、一目で見破られちまった」
「そりゃ困ったね。でもね、先生は悪い方じゃないんだろう、だからここでお前を素破抜《すっぱぬ》いて恥を掻かすようなことはなさりゃすまいから」
「そんなことはしねえ、素破抜きなんぞはやりゃあしねえが、あはははと大きな声で笑う」
「そりゃ、知った人が見りゃおかしいだろうよ」
「そうして、『黒、しっかりやれ、俺が附いてる』なんと言うのだ、あの先生、酔っぱらっているからね」
「何と言ったってかまやしないじゃないか、怖《こわ》いことはないだろう」
「だってお前、俺《おい》らには気恥しくってやっていられねえ」
「困ったねえ」
「俺らはもう印度人は廃業だ、親方にうまく持ちかけられて、お前までがやってみろと言うものだからこんなに黒くなってしまったが、今日という今日は、とてもやりきれねえ」
「困ったねえ」
「印度人は俺らの性《しょう》に合わねえ」
「困ったねえ」
 この時、見物席の方で罵《ののし》り噪《さわ》ぐ声がここまで喧《けたた》ましく響いて来る。
「あれ、あんなにお客が騒いでいるじゃないか、お前が中途で引込んだからなのだろう、お客様はみんなお前を見たがって来るのだからね」
「俺らはここへ寝てしまう」
 この印度人の正体が米友《よねとも》であることは申すまでもないことで、米友は今、刺繍《ぬいとり》の衣裳などが掛けてある帳《とばり》の中へ入って寝込んでしまおうとすると、
「黒さん」
 楽屋へ来たのは洗い髪の中年増《ちゅうどしま》。色が白くて光沢《つや》がある。朱羅宇《しゅらう》の煙管《きせる》と煙草盆とをさげて、弁慶縞の大柄《おおがら》に男帯をグルグル巻きつけて、
「どうしたんだい」
 背後《うしろ》には屈強な若者が三人、控えています。
「親方、済まねえが……」
 米友はこの年増を親方という。そうして済まねえと言って一目《いちもく》置く。
「済まないといったってお前、あの通り、お客がわいてるじゃないか」
「ばれちゃったんだ、親方」
「ばれたって? 誰もそんなことを言やしないよ、あの通り騒いでいるのはみんな、お前を見たがって騒いでるのじゃないか、お前がイカサマだっていうことを、一人も言ってるものはないじゃないか」
「けれども親方、たった一人、知ってる奴があるんだから、何とかしておくんなさい」
「なんと言ったって駄目なんだよ、お前が出て挨拶しなけりゃ、お客は納《おさ》まらないんだよ」
「では親方、病気だと言って休ましておくんなさい、今日一日、休ましておくんなさい、今晩よく考えておきますから」
「困るよ、そんなことを言ったって。あれあの通り、大騒ぎが始まっているじゃないか。それではお前、ちょっと出て挨拶しておくれ、病気で芸ができませんからって、お前の面《かお》で挨拶をしなければお客様は納まらないんだよ」
「俺らは出るのはいやだ」
「いやだとお言いかえ」
 お君はそれと心配して、
「友さん、そんなことを言わずに出ておくれよう、出て、なんとか言っておくれよう」
「うむ」
「さあ、早く出て行っておくれよう」
「うむ」
 米友は、やっぱり進まないで、
「挨拶をしろったって、キーキーキーだけでは済むめえ、なんと言っていいか俺らにはわからねえ」
「なんとでもいいかげんに、印度の言葉らしいことを言っておくれ、そうすれば口上の方でいいかげんにごまかしてしまうから」
「どうも俺らあ、もう気恥しくってキーキーも言えなくなった」
「あれさ、早く出ないと、あれあの通り土瓶や茶碗が降ってるじゃないか」
「弱ったなあ」
「早く出ておくれ、ね」
「親方、それじゃあね、俺らは一寸《ちょっと》ばかり面《かお》を出してね、出鱈目《でたらめ》を言うから、口上の方でごまかしておくんなさい」
「いいよ、呑込んでいるよ」
「それから親方」
「何だね、早くおし、相談なら後でゆっくりしようではないか」
「俺らはここで挨拶したら、もう印度人は廃業《やめ》だよ、黒ん坊は御免を蒙《こうむ》るよ」
「そんなことは後でいいから早く」
「ねえ君ちゃん、イカサマをやって人の目を晦《くら》ますと、こんな思いをしなくっちゃあならねえ、もう印度人には懲々《こりごり》だ」
「そんなことを言わないで早く」
「初めはちょっと出るばかりでいいと言うもんだから、お茶番をするつもりで印度人になってみたら、いつか知らねえうちに大看板を上げてしまって、やれ虎を三十五匹殺したの、印度の王様から勲章を貰ったのと、いいかげんなことを書き立てて事を大きくしてしまやがったから、俺らの引込みがつかねえ、それでとうとうこんな目に会っちまった、ばかばかしい」
「そんな小言《こごと》をいま言ったって仕方がないよ、早く出ておくれ」
 親方の年増《としま》は、だますようにして米友をつれて行きました。

「先生、大へんな騒ぎになっちまったね」
 与八は道庵に向って言う。
「あはははは」
 道庵は笑っている。
「何とも言わずに、黒ん坊が引込んでしまったね」
「あはははは、俺を見たから引込んだのだ、俺の面《かお》に怖れをなして逃げ出したのだ。どうだ与八、おれの豪《えら》いことをいま知ったか、三十五頭の虎を退治した奴が、おれの面を見ただけで逃げてしまった」
「冗談ばかり言ってる」
「冗談じゃねえ、こうして見ろ、黒ん坊が出ないために見物がわき出した、これで黒が出て来ればよし、出なければ小屋がひっくり返る、いよいよ事がむずかしくなった場合には、おれが行って黒を引き出して見せる」
「それじゃ先生、あの黒ん坊とお前さんは知合いなんだね」
「なんでもいいから見ていろ」
「先生、印度の言葉がわかるのかね」
「わかるとも、印度の言葉であれ、和蘭《オランダ》の言葉であれ、ちゃんと心得ている」
「豪いもんだな」
「いよいよ楽屋の方へ押しかけて行ったな、うまく黒を引っぱって来ればいいがな。さあ、黒が来てなんと言うか、よく聞いていろ。このなかに印度の言葉がわかる奴は憚《はばか》りながらこの道庵のほかには無《ね》え、なあに、楽屋のやつらだって印度の言葉がわかるものか。出て来たら、奴の挨拶の仕様によって、おれが一番、通弁をして見物のやつらをあっと言わせてやる、出て来なければ俺が迎えに行って連れて来て見せる、俺が来いと言えば二つ返事で来る、もし病気だといえばお手の物だから俺が診察してやる、日本広しといえども、印度人の病気を見出すにはこの道庵より上手な医者は無《ね》え」
「先生、あんまり大きなことを言うと見物の人に撲《なぐ》られるよ」
「なあに、大丈夫、おれは印度の言葉を心得ている、その上に印度人の病気を見出すことが上手だ」
「先生、出て来ましたぜ」
「やあ来た来た。黒、またやって来たな、しっかりやれ」
「東西――」
 口上言いと出方とが黒を引っぱって、場の真中へ出て来ました。黒は元気のない歩きつきをして道庵の方を見るのが、鼠が猫を見るような態度であります。
 黒が出て来たので見物は、やっと納まりました。
「いよう黒ん坊!」
「御見物の皆々様へ申し上げます、ごらんの通り色が黒うございますから、喜怒哀楽の心持が現われませぬ、どうぞこの足どりの萎《しお》れたところでごらん下さいまし、虎を手取りに致すほどの豪傑も、人間はすこぶる内気でございまして、子供のようなところがございます、ただいま腹痛がさし起りまして、とても芸当が致し兼ねると申して、皆々様にお断わりも申し上げず引込んで駄々を捏《こ》ねまするのを、ようやくのことで引き出して参りました、今日はどうぞ、これにて御免を願い上げまする、その代りと致しまして、明日《あした》は残らず芸当を取揃えて御覧に入れまする……」
 口上言いがぺらぺら喋《しゃべ》ると、聞いていた印度人の米友、その手を後ろからグイグイと引く。
「明日は間違いがございません……」
 また手を引く。
「槍投げ、槍飛び、馬上の槍、水中の槍、綱渡りの槍、飛越えの槍、矢切《やぎり》の槍、鉄砲避《てっぽうよ》けの槍……」
「嘘《うそ》を言うな! 明日はやらねえ」
 怺《こら》え兼ねた印度人の米友、我を忘れて口上言いを力に任せて後ろへ引くと、口上言いは尻餅《しりもち》を搗《つ》く。
「おや!」
 見物は驚く。
「嘘だ!」
 米友が喚《わめ》く。
「おや、あの印度人が日本の言葉を使ったぜ、そうして口上をひっくり返した」
 見物はまた沸く。
「あはははは」
 道庵先生が、また大笑いをする。

 その晩に、お君と米友はこの見世物小屋を追ん出されてしまいました。
「友さん」
 お君は泣き出しそうな面《かお》をして、三味線だけを小脇《こわき》にかかえ、
「お前は、あんまり気が短いからいけないのだよ」
「だって仕方がねえ」
 米友は、この時はもう黒ではない。黒いところはすっかり洗い落されて、昔に変るのは茶筅《ちゃせん》を押立《おった》てた頭が散切《ざんぎり》になっただけのこと。身体《からだ》には盲目縞《めくらじま》の筒袖を着ていました。
「口上さんが申しわけをしている時に、あんなことを言い出さなければよかったに、あれですっかり失敗《しくじ》ってしまったんだよ。それでも聞き咎《とが》めた人は幾人もなかったからよいけれど、本当にばれた時には、それこそ小屋を壊されて、どんな目に会うか知れなかったよ」
「あの時は、ついあんなわけで、口上の言草《いいぐさ》が癪《しゃく》に触るから」
「あたりまえなら、袋叩《ふくろだた》きにされた上に小屋を抛《ほう》り出されるのだけれども、お前が槍が出来るし、それに偽《にせ》の印度人だという評判が立っては悪いから、こうして黙って追い出されたんだというから、まあ仕合せだと思っていますよ」
「うん、俺《おい》らも、もうあんなところにはいてくれといったって一日もいられやしねえ、ちょうどいい幸いだ」
「だけれどあの親方は、そんなに悪い人じゃないよ。なにしろ女の身でもって、あれだけのことを踏まえて行こうというんだから、なかなかしっかりしたところがあるねえ」
「そうだ、あの親方は、あれでなかなかいいところがあるよ」
「第一、侠気《おとこぎ》があるね。ほら、二人が三島まで来て、お金が無くなって困っていた時に、あの親方に助けられたんだろう、わたしの三味線がいいから下座《げざ》に使ってやると言って、中へ入れてくれたから、お関所も無事に通ることができたんだよ」
「そうだ、それからとうとう、おれを印度人に化けさせやがった。はじめの考えでは、俺《おい》らはあの道庵先生を頼って行くつもりであったが、途中で印度人に化けるようなことになっちまった」
「これからどうしようね」
「どうしようと言ったって、まあ今夜はどこか木賃《きちん》へでも泊って、ゆっくり相談するとしよう」
「あの親方が言うのにはね、君ちゃん、お前は一旦ここを出ても、気があったらまた戻っておいで、どんなにも相談に乗って上げるからと、出る時に親切に言ってくれたのよ」
「俺らにはそんなことを言わなかったが、お前にだけそんなことを言ったのかい」
「そうだよ、わたしにだけ内密《ないしょ》に言ってくれたの。江戸に居悪《いにく》ければ旅へ出た時に、まだ仕事はいくらでもあるから、どこへか落着いたら居所《いどころ》を知らせてくれと言ってくれましたよ。そうして今晩も泊るところがなければ、両国橋を渡ると向うに知合いの宿屋があるから、そこへ行って親方の名をいえばいつでも泊めてくれると、その所や宿屋の名前まで、よく教えてくれましたよ」
「はは、それでは親方は俺らには愛想《あいそう》を尽かしたけれども、お前の方にはまだ見込みがあるんだな。お前またあすこへ行ってみる気があるのかい」
「そうですねえ、あの親方さんが親切に言ってくれるものだから」
「そうか……」
 二人は両国橋を渡ります。夜風が吹いて川を渡るのに、見世物場では賑やかな燈火《あかり》。二人はこし方《かた》とゆく末を話し合って、後ろに跟《つ》いて来たムクのことを忘れていました。

         二

「君ちゃん、俺らもようやく奉公口がきまったよ」
 米友が言って来たのは、それからいくらもたたない後のことでありました。
「そうかい、それはよかったねえ、どんなところなの」
 着物を畳んでいたお君が莞爾《にっこり》しました。
「金貸しの家だよ、このごろ金貸しを始めた家なんだよ」
「金貸し? お金を貸して利息を取る商売なの」
「そうだよ」
「金貸しは貧乏人泣かせで、罪な商売だというじゃないか」
「罪な商売かも知れねえが、俺らがそれをやるわけじゃない、俺らはただ奉公人なんだから」
「そりゃそうさ。まあ、何でもよく勤めさえすりゃいいんだろう」
「家の留守番をして、庭でも掃いていりゃいいんだとさ。俺らは片足が不自由だけれども力があるから、泥棒の用心にいいからって、それで雇われることになったんだ」
「そうだろうねえ、金貸しの家なんぞは泥棒に覘《ねら》われるだろうねえ。家の用心もしなくちゃあいけないけれど、自分の身も用心しなくちゃいけないよ」
「大丈夫だ」
「それで家の人数は多いのかい、雇人はお前のほかにたくさんいるだろうねえ」
「うんにゃ、俺らのほかには飯焚《めしたき》が一人、そのほかによそから来ている人はいねえ」
「大へんにこぢんまりした金貸しさんだねえ、それでは家の者が多いのでしょう、息子さんだとか、娘さんだとか」
「それもずいぶん少ないのだよ、よく考えてみると、おかしな家だよ」
「おかしな家とは?」
「でも、主人というのは子供なんだからね、子供といっても十四か五ぐらいだ、それが主人で、そのお母さんともつかず姉さんともつかない女が一人、その子は、おばさんおばさんと言っているが、その二人きりなんだ」
「その女の人と子供と二人で金貸しをしているの」
「うむ、そうだよ、代々やっているのかと思えばそうでもなく、ほんの近頃はじめたらしいんだから」
「では、そのおばさんというのが、先《せん》の御亭主か何かが残しておいたお金をもって、それを寝かしておくのも惜しいから、金貸しをして暮らそうとでもいうんだろう」
「そんなことだろうと思うよ。その子供がまた、ばかにマセた子供でね、主人気取りで、俺らを使い廻す気になっていて、うっかり坊ちゃんなんと言おうものなら、怖い眼をして睨むんだからおかしいや」
「その子供さんが番頭をするんだろうから、お前は番頭さんといえばいいじゃないか」
「番頭さんでも気に入らないんだ、旦那様と言わないと納まらないんだからおかしいやな」
「旦那様というのは少しおかしいね、十四や十五の子供をつかまえて」
「けれども旦那様と言うことになったんだ。そうしてみると、俺らはあの、おばさんという人の方をなんと言っていいか、それをいま考えているんだ」
「その子供が旦那様では、まさか奥様とも言えないしね」
「そうかと言って、まだお婆さんという年でもないんだ、やっぱり奥様と言っているより仕方があるめえ」
「なんでもよいからその時の都合のいいようにお言い。それからお前、短気を出さないでよく奉公をしなくてはいけないよ」
「うまく勤まるかどうだか。それにしても君ちゃん、お前の方はどうなるのだい、お前はあの軽業《かるわざ》と一緒に旅に出る気なのかい」
「ああ、少しの間だから行ってみようと思うの、いつまでこうしていたって仕方がないから、わたしもあの人たちのお伴《とも》をして旅に出てみることにしようと思うの」
「もう返事をしてしまったのかい」
「ええ」
「旅に出るのは危ないぜ」
「でも永いことじゃないから」
「どっちの方へ行くんだい」
「甲州とやらへ」
「甲州へ?」
「すぐ帰って来ますよ」
 お君は畳みかけていた着物を、また畳みはじめます。
「君ちゃん」
 米友は、燈下に着物を畳むお君の姿を横の方から暫く眺めていて、思い出したように名を呼びました。
「何だえ」
 お君は着物を畳みながら返事。
「お前は旅へ行く、俺らは奉公に行く、そうすると、また暫く会えないね」
「何だい友さん、そんなに心細いようなことを言ってさ」
「でも、暫く会えないじゃないか」
「暫く会えないには違いないけれど、お前の言うのはなんだか一生会えないような心細い言い方をするから」
「一生会えないかも知れないからさ」
「縁起《えんぎ》でもないことを言っておくれでない、一生会えないなんて」
「それでも、なんだかそんな気持がする、これっきり一生会えないような気持がする」
「またそんなことを」
「お前、その畳んでいる着物は、そりゃあの親方さんから貰ったんだね」
「そうだよ、ちょうどわたしの身体に合っているから持っておいでと言って、あの親方さんがくれたの、まだ一度ぐらいしきゃ手を通したことがないんだよ」
「綺麗な着物だね」
「それからお前、櫛《くし》だの簪《かんざし》だの、足袋から下駄まで、そっくり拵《こしら》えてくれたのだよ。なかなか金目《かねめ》のもので、わたしたちが二年と三年|稼《かせ》いだからって、これだけのものは出来やしない」
「お前、そんなにたくさん貰って嬉しいかい、有難いと思ってるのかい」
「そりゃ誰だって、こんなに結構なものを貰えば嬉しいと思いますわ、嬉しいと思えばお礼の言葉も出るじゃありませんか」
「そうだろうなあ」
「ほんとうに、あの親方さんは親切な人ですよ、自分の妹のように、わたしの面倒を見てくれますから」
「けれどもね、君ちゃん」
「ええ」
「あれは本当の親切ですると、お前は思っているのかね」
「本当の親切?……本当も嘘もありゃしない、このせちからい世の中に、こんなにして下さる人が二人とありましょうか」
「君ちゃん、お前は正直だから、なんでも人のすることを、する通りに受けてしまうんだが、伊勢の拝田村にいた時はそれでいいけれど、江戸というところはそれでは通らないことがあるんだから」
「ホホホ、お前はおかしなことをいう、どこの国へ行ったって、人情に変りというものがあるはずはないじゃないか」
「ところがなかなか、そんなわけにばかりはいかないのだよ、俺らの身にしたって、あんな約束ではなかったのだけれど、江戸へ来てみると、直ぐに真黒く塗られたのは、この通り洗えば落ちるけれども、君ちゃん、お前がもし真黒く塗られると、洗ったってどうしたって落ちやしないよ」
 米友はいまさらのように自分の腕を撫でてみて、それから散切《ざんぎり》になった頭の毛をコキ上げる。
「ホホホ、友さん、お前は今日はどうかしているね」
 お君は無邪気に笑います。
「まさかわたしを真黒にして、印度人に仕立てるようなこともないでしょう、そんなことをしたって、わたしでは見物が納まりませんからね」
「真黒にするというのは、そのことじゃねえんだ、お前の身体を真黒にしようと言うんじゃねえのだ」
「どこが黒くなるの」
「はは、まだお前はそれが気が附かねえんだ、心が黒くなるといけねえんだ」
「心が黒くなる? ばかなことをお言いでない、心なんていうものには色はありゃしない」
「それはないさ、今のところお前の心には色がないんだから、それで大事にしなくちゃいけねえ」
「友さん、お前は学者だから、心がどうだなんて言うんだろうけれど、わたしは学問がないからそんなことは知らないよ、黒くなったら洗えばいいじゃないか」
「洗っても落ちねえ」
「なんだか、お前の言うことはわからない」
「わからねえから、それで俺らは心配なんだ、黒くなると二度と洗い落すことはできないんだから」
「まだあんなことを言っている」
 それで暫らく二人の無邪気な会話は途切《とぎ》れたが、着物を畳んでいるお君の手は休まない。米友は両手で顋《あご》を押えて下を向いていたが、
「君ちゃん、どうだい、旅へ出ることをよしにしてしまったら」
「ええ? わたしに旅へ出るのを止めにしろって?」
 お君は畳みかけた手を休めて、米友の方を向いて眼を円くする。
「そうしてくれると、いつまでも一緒にいられるんだ」
「そんなことを言ったってお前、もう二三日でここに泊っている宿賃もなくなってしまうのに、お前は奉公に行くんだろう、とても二人一緒に過ごして行けることはできないじゃないか。それにお前、今になって急に行けないなんて、あれほど恩になった親方さんの前へ、そんなことが言えるものかね」
「それはそうだろう。それじゃあどうも仕方がねえから、行っておいで」
「情けない言い方をするねえ、もっと威勢よく力を附けて言ってくれなくちゃ」
 お君はどこまでも、米友の言うことを気にしないで、いつもの通り軽くあしらって、着物を畳んでいるが、米友はやっぱり浮かない面《かお》をしていると、破《や》れ障子《しょうじ》の裏で、ワン!
「ああ、忘れていた、ムクにまだ夕飯をやらなかった」
 米友は、あわて気味に頭を上げると、
「ああ、そうそう、かわいそうに、ムクにまだ夕飯をやらなかったのね」
 お君も面《かお》を上げる。米友は立って障子をあけると、縁側に首をのせて、ムクが尾を振って鼻を鳴らしています。
「ムクや」
 米友は直ぐに台所から食物を持って来て、ムクに食べさせました。
「ムクや」
 尾を軽く振って夕飯を食っているムク。それを見ながら米友が、
「ムク、俺《おい》らは明日から奉公に行くんだぞ、君ちゃんは近いうち旅へ出るんだぞ、俺らはお前をつれて行くことはできねえが……そうだ、お前は君ちゃんに附いて行け、俺らの代りに君ちゃんに附いて行け」
 こう言って米友の面が急に明るくなって、
「君ちゃん、君ちゃん」
「なに」
「旅へ出るにもムクはつれて行くんだろうな、ムクをつれて行っても親方は叱言《こごと》を言やしないんだろうね」
 お君は頷《うなず》いて、
「ああ、それはいいんだよ、ムクにはこれから芸を仕込むなんて、親方も大へん可愛がってるから」
「それで安心した、行っておいで、行っておいで」
 米友はホッと息をつきました。

         三

 米友が庭を掃いていると、木戸口をガラリとあけて入って来たのは十四五の少年であります。子供のくせに気取った容姿《なり》をして、小風呂敷を抱えた様子が、いかにもこまっちゃくれているが、よく見るとそれは甲州の山の中で金《きん》を探していた忠作でした。
「友造、誰も来なかったか」
「へえ、誰も参りませんよ」
「ああ、そうか」
 顋《あご》をしゃくって忠作は家の中へ入ってしまうと、米友はそのあとを見送って、
「ばかにしてやがら」
 相変らず跛足《びっこ》を引きながら庭を掃いていると、
「友造、友造」
 奥の方で呼ぶ声がします。
「ばかにしてやがら、友造、友造と噛んで吐き出すように言やがる」
「友造、友造」
「自暴《やけ》になって呼んでやがる、返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
「はははのはだ、友造がどうしたんだ、友造で悪けりゃ勝手にしろ」
「友造、友造」
「やあ、こっちへやって来るな、怒ってやがる、小餓鬼《こがき》のくせに金貸しなんぞをしやがって、生意気な野郎だから返事をしてやらねえ」
「友造、友造」
 キンキンした声で怒鳴りながら奥から飛んで来る様子。
「隠れろ、隠れろ」
 友造の米友は縁の下へそっと隠れました。
「おや、ここにもいない、友造、どこへ行ったんだ、友造」
「はははのはだ」
 米友が縁の下で舌を出すと、忠作はその上で床板《ゆかいた》を踏み鳴らします。
「友造、友造」
「はーい」
 縁の下から返事。
「縁の下にいやがる。何をしているんだ、さっきからあれほど呼んだのが聞えないのか」
「聞えませんでした」
「嘘をつくな」
「嘘じゃありませんよ」
「嘘でなけりゃ貴様は聾《つんぼ》だ、跛足《びっこ》の上に聾ときては形《かた》なしだ」
「何だと」
「ナニ! 主人に向って貴様は口答えをするか、主人に向って」
 いつもの米友ならばなかなか黙ってはいないのだが、今日は奉公人の友造、短気をしてはいけないということが、お君からのくれぐれもの餞別《せんべつ》の言葉でもあり、せっかく仲人に立ってくれた道庵先生への義理でもあると、感心に辛抱しました。
「どうも仕方がねえ、なるほどお前さんは主人だ」
 米友――ここへ来てからは友造という名に改められたが、面《つら》を膨《ふく》らかして、御主人様のいうことを黙って聞いていると、
「馬鹿、日済《ひなし》を集めに行って来い」
「へい」
「さっさと掃いてしまってこっちへ廻れ、よく呑込めるようにしてやるから」
 忠作は障子を荒々しく締め切って奥へ行ってしまいました。
「ちぇッ」
 友造は舌打ちをして、
「いやになっちまうな、また日済集めにやられるんだ。日済集めは俺らは大嫌《だいきら》いだ、ナゼだと言えば、あの申しわけを聞くのがいやなんだ、そうかと言って思うように集まらねえと、あの小僧ッ子の御主人様がガミガミ言やがる、いやだなあ、いやだなあ」
 友造は口小言を言って庭を廻りました。
 米友の友造が貸金を集めに行ったあとでも、忠作はなお一生懸命に算盤《そろばん》と首っ引きをしているところへ入り込んで来たのが、丸髷《まるまげ》の町家風《ちょうかふう》の年増でありました。いつのまに変ったか、これは妻恋坂《つまこいざか》のお絹であります。
「七軒町の小間物屋さんが申しわけに来たから、そんならそれでよいと言って帰してしまいましたよ」
「帰してしまったって?」
 忠作は渋面《じゅうめん》をつくって後ろを見返り、
「帰してしまっては困るじゃありませんか、あの口は十五両一分で貸してあるんですよ、今時《いまどき》、ああいう走りの金を、十五両一分で融通するなんというのは格別の計らいなんですよ、それを有難いとも思わずに、待ってくれ待ってくれで、今日で三日目だろう、いいわ、いいわで帰してもらっちゃ困りますね」
「でも、あの人は気前のいい人だから、ありさえすりゃあ返すんだろうけれども、無いから返せないのだろう、性《しょう》の知れた人だから少しぐらい待って上げたっていいだろう」
「これは驚いた、そんな了簡《りょうけん》で金貸しができるものか。今度来たら私のところへ取次いで下さい、私が掛合うから。いや、そんな間緩《まぬる》いことをいってはおられん、今晩にも私が出向いて行って取って来ますから」
「いいじゃあないかね、二日や三日は」
「いけません、そんな了簡では金貸しはできません」
「金貸しという商売も思ったより忙《せわ》しい商売だねえ」
「忙しくって結構、忙しくないようでは上ったりですよ。おかげさまで、これごらんなさい、帳面尻《ちょうめんじり》が鼠算《ねずみざん》のように殖《ふ》えてゆく。どうです、おばさん、元金が利息を生み、利息がまた子を産むんですからね、その子がまた孫を産むんですから、ほうっておいてもメキメキと殖えてゆくんですよ。おばさんも少し算盤《そろばん》の勘定を覚えて下さい、利息の見積りなんぞを呑込んでおいてくれないと困る、私一人で朝から晩までやっているのも面白いけれど、おばさんにも少し覚えておいてもらわないと困ることがあるでしょう」
「使う方ならいくらでも引受けるが、儲《もう》ける方は面倒《めんどう》くさい」
「そうではありませんよ、その道へ入ってみるとこんな面白いことはない、なにしろ二十五両一分というのが利息の通り相場で、二十五両貸して月に一分の利息を上げる、それより上を取ってはならないことにお上《かみ》できめてあるんだが、どうしてどうして、裏はそんなものではない、十五両一分から十両一分、五両一分なんというのも珍らしくはないのですからね。それで向うが折入って御無心《ごむしん》に来る、こっちが高くとまって、それでいやならおよしなさいという腹でいると、背に腹は換えられないから向うが往生してしまうんでさあ、向うに働かしてこっちは懐手《ふところで》をしていて、うまい汁はみんな吸い上げてしまう、こんな面白い商売はまたとあるもんじゃない。これから追々|大尽金《だいじんがね》というのを、はじめてみようと思っていますよ。大尽金というのは大身《たいしん》や金持の若旦那なんぞが、親や家来に内緒《ないしょ》で遊ぶ金を貸すんですね、これは思い切って高い利息を取って、そうして取りはずれのない仕事、ナニ、証文面《しょうもんづら》は御規則通り二十五両一分にしておくから、まかり間違って表沙汰になったところで、それだけの金は取れるんだ。そんな心配はありませんよ、こっちが表沙汰にしようと思っても、向うで折入って来るから……」
 忠作は帳面と算盤を見比べながら、ひとり悦《えつ》に入《い》るのを、お絹は面白くもない面《かお》をして、
「わたしの知ってる人が証人に立つから、百両融通してもらいたいと言って来たがどうだろう、借主は両国で景気のいい見世物師だという話だが、証人が確かだから……」
「見世物師?」
「ええ、両国に出ていたのが今度、旅を打って廻ろうというのに、仕込みや何かで金がかかるから、少しばかり借りておきたいと言うんですよ」
「なるほど、見世物師なんというものは、あれで当るとなかなか儲《もう》かるものだから都合して上げてもいいが……」
「今晩、また相談に来ると言っていたよ、よくその時に聞いてみたらいいでしょう」
「向うの話ばかり聞いていても駄目、実地に行って様子を見て、それから抵当《かた》になりそうなものの目利《めきき》をした上で……」
「そんなら行ってごらん」
「ほかにも廻るところがあるから、夕飯が済んだら出かけましょう。両国はなんと言いましたかね」
「何と言ったか、わたしもよく知らない、名札《なふだ》が置いてあったはずだから見て上げよう」
 お絹は気のないように、これだけのことを言いぱなしにして、自分の居間へ帰ってしまいました。居間へ帰ってからお絹は、机に凭《もた》れてホッと息をついて、
「ほんとに厭《いや》になってしまう、あんな子供のくせに朝から晩までお金のこと、元金《もときん》がいくらで利息がいくら、それよりほかに言うことはありゃしない。あっちから来るときは賢そうな子だから、見処《みどころ》がありそうに思って、つれて来てなにかと世話をしてやろうと来て見れば、殿様は甲州|勤番《きんばん》、わたしもこれからどうして世渡りをしようかと戸惑《とまど》いをしていたところへ、どうしてあの子が聞き出して来たか、金貸しをすると儲《もう》かると言い出して、その利息勘定などを、わたしの目の前へ持って来て見せるものだから、わたしも眼から鼻へ抜けるようなあの子の賢いのに感心して、それではまあ、やってごらんと言って、それからあの子の持っていた金の塊《かたまり》と、わたしの使い残りのお金を資本《もと》にして、はじめさせてみると、調子はいいにはいいが、ああ細かくなって元金と利息のほかには眼がないようになってしまったのでは、末のことが思われる。このごろでは、コマシャクれた厭な餓鬼《がき》だ、見るのも厭になってしまった。なんとかして、わたしはわたしだけのお金を持って勝手に暮してゆきたい、そうしなくちゃ、ばかばかしくて仕方がない」
 お絹は続いてこんなことを考えていました。
「今晩はどこへか出かけてやろう。それにしても困ったのはお金、いちいちあの子が勘定して封印をして、ほかの人には手もつけさせないようにしてあるんだが、ひとつ探してみてやろうか。あとで文句を言うだろう。なるほどこうして置けば、お金はズンズン利に利を産んで殖《ふ》えてゆくだろうけれど、遣《つか》えないお金では全くつまらない。よし、帰って来たら、相談をして、わたしの取るだけのものは取って別れてしまおう、わたしはその金で、一軒を立てて、お花のお師匠……もうそんなことをしてもいられない、いいかげんの相手があれば……と言って、好いたらしいのは頼みにならないし、頼みになりそうなのは碌《ろく》でもなし、どうしていいかわからない」
 お絹は忠作をうまく使って、番頭も小僧も兼ねた仕事をさせ、自分は蔭で好きなことをして面白おかしく暮そうという目算であったのが、その事業はどうやら思うようにゆくが、お絹の目算は外《はず》れ、肝腎《かんじん》の金銭の出納《すいとう》、収支の自由は忠作が一手に握ってしまって、一分一朱も帳面が固く、お絹がかえって虚器を擁《よう》するようになってしまったから、厭気《いやき》がさしてたまらないのです。

         四

 貸金を集めに一廻りして来た米友。
 神田の柳原河岸《やなぎわらがし》を通りかかったのは、今で言えば夜の八時頃でした。懐中《ふところ》には十両余の金があって、跛足《びっこ》を引き引きやって来ると闇の中から、
「ちょいと、旦那」
 呼ばれて足をとどめた米友の友造が、
「誰だ」
「様子のよい旦那」
 闇《くら》いところから呼んでいるのは女の声。ちょうどその時分、他に往来がとだえていたから、友造を見かけて呼んだものに違いないと思われます。
「俺《おい》らに何か用があるのかい」
「こっちへいらっしゃいよ」
「お前はそこで何をしてるんだ」
「そんなことを言わずに、こっちへいらっしゃいよ、ほんとうに様子のいいお方」
「ばかにしてやがら」
「小作りで華奢《きゃしゃ》なお方」
「ばかにしてやがら、小作りだろうと大作りだろうとお前の世話にゃならねえ」
「ねえ旦那」
「用があるなら早く言いねえな」
「何を言ってるんですよ、用があるから呼んだんじゃないか」
「そんなら早く言ってしまいねえ、俺らはこれでも主人のお使先だ」
「まあ、ゆっくりしておいでなさいよ」
「大事の金を懐中に持ってるんだ、主人の金だから大事だ」
「お金? 頼もしいわ、そんなに大事なお金なら暫らく預かって上げようじゃありませんか」
「お前は俺らを調戯《からか》うつもりなんだな。女のくせに、この暗いところで、男をつかまえて調戯うとは呆《あき》れたもんだ、俺らだからいいけれども、ほかの男だと飛んだ目に逢《あ》うぞ」
「あははだ、お前さんこの柳原の土手を初めて通るんだね」
「初めてなもんかい、これで三度目だい」
「三度目? それでも夜になって通るのは初めてだろう」
「そりゃそうよ」
「そうだろうと思った、この柳原は昼間通るのと、夜通るのとは規則が違うんですからね。夜になってからこの通りを通るに、税金がかかることを知らないんだろう」
「税金がかかる?」
「税金をわたしに納めてからでなければ、通れない規則なんですからね」
「馬鹿野郎」
 女がからみついて来るから、友造は面倒がって逃げ出しました。逃げ出すといっても足の不自由な友造だから、早速には逃げられないで家鴨《あひる》のような恰好《かっこう》をして駈け出しました。女はそれきり追いもしないで、
「ホホホ、小柄《こがら》で華奢《きゃしゃ》で、そうして歩《あん》よのお上手な旦那、またいらっしゃいよ」
 友造の逃げっぷりを立って見て笑っていました。息せききって逃げて来た友造、
「ばかにしやがら、女でなければ、打ちのめしてくれるんだが」
 ようやくにして長者町の奉公先へ帰った友造は、御主人の居間へ行って見ましたが、どこへか出て行ったらしく、暫らく待ってみても帰る様子がないから、自分の部屋へ帰って一息ついている間に、疲れが出て、ついうとうとと寝込んでしまいました。翌朝になって、忠作の前へ呼び出された友造が、
「困ったなア」
「馬鹿」
 忠作のために頭ごなしに叱られました。
「だから財布《さいふ》は、首へ掛けなくちゃならんと言っておいたじゃないか、グルグル捲《ま》きにして懐中へ突っ込んでおくから、こんなことになるんだ」
「エエと、柳原の土手だ、たしかにあの時に落したに違えねえ」
「柳原の土手でどうしたんだ」
「あの土手で女の追剥《おいはぎ》が出やがったから、そいつを追払って逃げた時」
「馬鹿、女の追剥というやつがあるか」
 忠作は苦《にが》りきって、
「ありゃ夜鷹《よたか》というものだ」
「なるほど」
「何がなるほどだ、その夜鷹に捲き上げられたんだろう」
「どうも仕方がねえ、もう一ぺん行って探して来る」
「うむ、探して来い、出なけりゃ道庵さんに話して、せっかくだがお前に暇を出すから、そのつもりでしっかり探して来い」
 昨晩、十両余りの金をいつどこへ落したとも知らずに落してしまったが、その晩は疲れて寝込んだから、今朝まで気がつきませんでした。いざ御主人忠作の前へ並べようとしてみるとその金が無いので、米友も色を変えてしまった、というわけで、思い当るのは昨晩の柳原へ出た奇怪な女の振舞《ふるまい》であります。その辺に少し出入りをしたものは、誰でも知っているはずの夜鷹です。それを米友はまだ夜鷹と知らないでいるのに、忠作はまた、友造が夜鷹にひっかかって捲き上げられたとばかり邪推して、金が出なければ米友を追い出すことに了簡《りょうけん》をきめているらしい。
「弱ったな」
 跛足を引き引き柳原の方を差して行く。柳原へ行ってみたところで、あの女が取ったものならば、出て来るはずはないし、落したものならもはや拾われてしまっているはず、こうと知ったらあの女の面《かお》をよく見ておけばよかったものをと、米友はいまさらに悔《くや》みます。悔んだところで、暗いところから出て来たものだから面の見様もなかったし、ただ声に聞覚えがあるといえばあるのだが、それだって別段、耳に立つほどの声でもなかったから、声だけでは、いま眼の前へその女が現われて来たところでわかろうはずはありません。
「小作りで華奢で、歩《あん》よのお上手な旦那と言やがった、ばかにしてやがら」
 米友は昨晩の女の言草《いいぐさ》を思い出して腹を立てました。そんなに冷かされては米友だって腹の立つのは無理もないようなものだが、それよりも、人の懐中物を奪おうとするような性質《たち》のわるい女が江戸の市中に徘徊《はいかい》しているかと思えば、それが憤慨に堪えないのです。
「向うでは知ってるだろう、向うでは、俺《おい》らの歩きつきまで見ているんだから、俺らが柳原を通れば、もしあの女が正直な女でありさえすりゃ、拾った金を返してくれるにきまっているが、夜鷹でもするくらいの奴だから、拾ったところで知らん面《かお》をしているにきまってる、そうなると、俺らはまたあの家を追出《おんだ》されるんだ、どっちへ行ってもホントに詰《つま》らねえ」
 米友は且《か》つ憤慨し、且つ悲観してしまって、柳原の昨晩騒ぎのあったところまで来て見たけれども、河岸《かし》に材木が転がっていたり葭簀張《よしずばり》がしてあったりするくらいのもので、別段そこに人が住んでいる様子もないし、「ちょいと、様子のよい旦那」と言って呼びかけるような女の気配も見えないから、ポカンとして立ち尽していました。
 十両と少しの金を尋ね出さなければ、米友は御主人の家へ帰ることができないのです。
 神田と浅草の方面をあてもなく歩き廻っていたが、当《あて》のないことはどこまで行っても当がないから、一ぜん飯を食べて腹をこしらえて、再び柳原通りの和泉橋《いずみばし》の袂《たもと》へ戻って来ました。
「詰らねえ」
 この時、後ろの方から蓙《ござ》のような巻いたものを抱えて、三人連れの女がやって来ました。その三人の女をよく見ると、その一人は手拭を被《かぶ》らないで、頭の上へ御幣《ごへい》のような白紙を結んでいます。その白紙がひらひらと河岸の夕風で踊っているところが、なんとなく目につきました。
「ちょいと旦那」
 呼びかけられて米友は、眼をパチパチしました。
「もし、小柄で華奢なお方」
「ナニ」
 米友は、たしかに聞いた声だと思いました。
「何をそこで考えているんですよ」
「少し探し物があるんだ」
「おや、探し物?」
と言った女は、ズカズカと米友の傍に寄って来ました。
「そこに突立っていたって、探し物は出て来やしませんよ、歩いてごらんなさい、小柄で華奢で歩《あん》よのお上手なお方」
「おや、お前は……」
「探し物というのはお金でしょう、鬱金《うこん》の財布に入れたお金のことでしょう、それをお前さんは探しておいでなさるんでしょう」
「それ、それだ」
「そんなら御心配なさいますな、ちゃあんとわたしが預かってありますから」
「あ、そうか、それはよかった」
 米友はホッと安心の胸を撫で下ろすのを、女は笑って、
「意気地のない人だねえ、女を見て、あんなに逃げなくってもいいじゃないか」
「うむ」
「お前さんの逃げっぷりがあんまりおかしいから、あとを暫く見送っていましたのよ、そうすると、足許《あしもと》に落ちていたのが財布、手に取って見た時分には、もうお前さんの姿が見えなかったから、少しばかり追いかけてみたけれど、どちらへおいでなすったか分らなかったから預かっておきました」
「有難う、あれは俺らの金じゃないんだ、主人の金なんだから」
「念のために、わたしは中をよく調べておきました、そうしてすぐにお係りへ届けようと思ったけれど、そうすると面倒になるし、仲間の者に見せれば、すぐに使われてしまいますから、見てごらんなさい、こんな細工《さいく》をしましたのよ、わたしの頭の上の仕掛《しかけ》を」
 女は御幣のような白い紙の片《きれ》がひらひらしている頭を、米友の前へ突き出して、
「お前さん、この白い紙を取って頂戴、お前さんに取らせようと思って、わたしがワザワザこんなことをしたんだから。わたしがこんなことをしておいたのは、もしやお前さんが、お金を失くして探しに来やしないかと思って、その時の目印なんですよ。暗いところだからお互いに面付《かおつき》がわかるんじゃなし、わたしの方では、お前さんの小柄なのと、歩きつきのお上手なのに覚えがあるんだけれども、お前さんの方ではわたしがわかるまいと思って、その目印にこの紙を頭に附けたんだから、この紙をお前さんに取ってもらえば本望《ほんもう》というものだよ」
「ああ、そうか、俺らはさっきから、何のためにお前がそんな紙きれを頭へ結《ゆわ》いつけているのかわからなかった」
「こちらへおいでなさい。今いう通り、人に知れると面倒になるから誰にも知れないように、わたしがよいところへそっと隠しておいて上げたのだから」
 女は米友を土蔵の裏へ引っぱって行って、河岸の水際《みずぎわ》まで米友をつれて来た時に、
「その石を転《ころ》がしてごらんなさい」
「あ、これだ、これだ」
 石を転がすとその下にあったのは、まさに自分の持っていた財布。
「早く持っておかえりなさい、それがために御主人を失敗《しくじ》るようなことがあると、お前さんもまだお若い人だからためにならないから。そうして、これを御縁にまた遊びにおいでなさいよ」
「お前さんの家はどこで、名前はなんというんだ、改めてお礼に上らなくちゃならねえ」
「わたしの家? そんなことはどうでもようござんすよ、お礼なんぞはいけません――名前だけは言いましょう、お蝶というんですよ。ここへ来て、今時分、お蝶お蝶といえば、大概お目にかかれますわ」

         五

 落した金をお蝶という夜鷹《よたか》の女から受取った米友は、不思議な感じに打たれます。
 売女《ばいじょ》のうちでもいちばん卑《いや》しい夜鷹、二十文か三十文の金で、女のいちばん大切な操《みさお》を切売りする女、この女は十両の金が欲しくはないのだろうか、取っても隠しても罪にはならない十両の金は大事に預かって、返しても返さなくても知れるはずのない人へ返してやる、そうして掛替《かけが》えのない大事な操は二十文三十文の金に替えて惜気《おしげ》がないということが、とにもかくにも不思議です。
 不思議に思いながら長者町へ帰って来て、主人忠作の家へ来るには来たが、厭《いや》な厭な気持に打たれてしまいました。もう一足もこの家へ足を入れる気にはなりませんでした。なんらの理窟もなしにこの家が厭で厭でたまらなくなりました。
「金は持って来たぞ、そうら、たしかにお返し申すぞ!」
 米友は大音を揚げて財布ぐるみそっくり[#「そっくり」に傍点]と格子戸《こうしど》の中へ投げ込むや否や、物に逐《お》われるように一目散《いちもくさん》に逃げ出して来ました。跛足《びっこ》の足で逃げ出しました。
 またも忠作の家を追ん出てしまった米友は、どこをどうブラブラ歩いて来たか、やがて下谷の山崎町の太郎稲荷《たろういなり》のところまで来てしまいました。そこへ来ると、門前に黒山のように人がたか[#「たか」に傍点]っています。
「貧窮組《ひんきゅうぐみ》が出来たんだ、貧窮組」
 米友が社前をのぞいて見ると、大釜《おおがま》が据《す》えてあってそれでお粥《かゆ》を煮ています。世話人のような威勢のいいのが五六人で、そのお粥の給仕をしてやると、群がり集まった連中がうまそうに食っています。切溜《きりだめ》の中には沢庵《たくあん》や煮染《にしめ》や、さまざまのお菜《かず》が入れてあります。
「有難え、貧窮組が出来た」
 その大釜からお粥を貰って食べている人を見ると、貧乏人ばかりではないようです。乞食非人の体《てい》の者などは一人もいないで、小さくともみんな一家を持っているような人間ばかりですから、米友も変に思って見ていると、しまいには給仕をしていた世話人らしいのが、そのお粥《かゆ》を食いはじめます。そうすると、今まで食べさしてもらった貧窮人が、今度はかわりあってお給仕をしてやっているから、米友はいよいよ変に思って、
「施《ほどこ》しをするんだか、されるんだかわからねえ」
と言ってる口許《くちもと》へ世話人が、お粥の椀を持って来て、
「さあ食いねえ、貧窮組」
 米友は煙《けむ》に捲かれてそのお椀を手に取りました。あとからあとからとやって来る連中、見れば必ずしも食うに困るような貧乏人のみではないと見えるのが、
「貧窮組が出来たそうで、どうかお仲間にしていただきとうございます」
 お粥を貰っては食べ、食べてしまうと給仕方に廻る。誰も少しも遠慮をするでもなければ、お礼を申し述べるでもないから、米友も調子に乗ってそのお粥を食べてしまいました。腹のすいている時だから、うまい。ペロリと一杯を平らげた時、またお代りを世話人が鼻先へ持って来てくれたから、それもペロリと平らげてしまいました。とうとう四杯まで、米友がそのお粥を平らげてしまって沢庵をかじっていると、
「さあ、これから広小路へ押し出すんだ」
 この連中が雪崩《なだれ》を打って太郎稲荷を押し出したから、米友もそれと一緒になって跛足《びっこ》を引きます。
「貧窮組」というのもおかしなもので、誰がもくろんで、誰が煽動《おだて》たともないうちにこうして大勢が集まって、町内から町内へと繰込んで行くのです。物持の家へ行っては、米とお菜と金を貰って、それでお粥をこしらえて食います。それを食ってしまうと、また鬨《とき》の声を上げて次の町内へ繰込みます。こちらに一組出来ると、あちらに一組出来ます。けれどもおかしなことには、別にそれが乱暴を働くというのではありません。ただこうして町内から町内を食って歩くだけのことらしいのです。それに江戸名物の弥次馬《やじうま》が面白がってくっついて飛び出す。出ないと幅《はば》が利《き》かなくなったり憎まれたりするから、表通りの商人までがこの貧窮組へ飛び込んでお粥の施しを受け、いっぱしの貧窮人らしい面《かお》をします。
 この連中が、昌平橋のところへ来て、町角へ大釜を据えました。誰がどこから持って来たか荷車が二三台、米とお菜がたくさんに積んであります。そうすると川の向うとこちらから、貧窮人が真黒くなって押し出して来ました。
 しかしながら昌平橋で貧窮組と別れた米友は、ひとり柳原河岸へやって来ました。
「お蝶さん」
「だあれ」
 米友に呼ばれた夜鷹のお蝶は、土蔵の裏から出て来ました。
「あら、お前さんはお金を落した人」
「お蝶さん、俺《おい》らはお礼に来たんだ」
「お礼なんぞ……」
「お礼といったところで、何も土産《みやげ》を持って来やしないよ、俺らは主人の家を追《お》ん出《で》ちまったんだから」
「まあ、追い出されたの」
「追ん出されたんじゃない、追ん出たんだ」
「どうして追ん出たの」
「自分から出ちまったんだ、あんまり癪《しゃく》にさわるから出ちまったんだ、お前さんに拾ってもらった財布を家の中へ叩き込んで、それっきりで家を追ん出ちまったんだ。それだから、今の俺らは一文無しで宿なしよ。お前さんにはお礼をしなくちゃ済まねえのだが、そういうわけで、せっかくお金を拾ってもらったが、お礼をすることができねえんだ。けれどもね、黙っていちゃ悪いから、口だけで、お礼を言いに来たんだ。また俺らがどこか奉公口が見つかって、小遣《こづかい》でも出来たら改めてお礼に来るから、悪くなく思ってもらいてえ」
「まあ、お前さんはなかなか感心な人ね、その心持だけでたくさんよ。けれども、旦那の家をムカッ腹で飛び出すなんて、それはお前さんが若いからよ、思い直して、お詫《わ》びをしてお帰りよ」
「いやなことだ、いやなことだ」
「一国《いっこく》な人だねえ。そうして、これからどこへ行くつもりなの」
「どこへ行くといって当《あて》はないんだ」
「どうもお前さんは、口の利きっぷりやなにかがおかしな人だよ、心持に毒のなかりそうな人だよ。ほんとに行くところがなければ、わたしの家へおいでなさいな、親方に話して上げるから。わたしの親方の家は本所の鐘撞堂新道《かねつきどうしんみち》にあるのよ」

         六

 福士川から徳間《とくま》入りをした宇津木兵馬と七兵衛は、机竜之助を発見することなくして、かえってがんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を発見してしまいました。
「兄い、気をしっかり持たなくちゃいけねえ」
「あッ、抜いちゃいけません、先生、お抜きなすっちゃいけません、抜いてしまっちゃ納まりがつきません」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は引続いて囈言《うわごと》ばかり言っています。
 この山入りでは、僅かにがんりき[#「がんりき」に傍点]を得ただけで、山道をもとの通りに下って、一行はまた富士川の岸に出ました。
 富士川をのぼる舟は追風《おいて》を孕《はら》んだ時はかえって、下る船よりも速いことがあります。福士からこの船に乗った兵馬と七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]と三人は、早くも甲府に着きました。
 机竜之助のいるところはかの白根《しらね》の麓。こうしているうちに秋も闌《た》けてしまって、雪にでもなっては道の難儀が思いやられる。兵馬は心急がれていたけれども、名にし負う山また山、相当の用意なくては入ることのできないところであります。

 甲府の南の郊外にある一蓮寺《いちれんじ》というのは遊行念仏《ゆぎょうねんぶつ》の道場で聞えた寺。
 おりからそこの鎮守《ちんじゅ》にお祭礼《まつり》がありました。
「江戸名物、女軽業大一座《おんなかるわざおおいちざ》」――本堂の屋根よりも高く幕張《まくば》りをした小屋。泥絵具《どろえのぐ》で描いた看板の強い色彩。高いところへ登って片足を撞木《しゅもく》にかけて逆さにぶらさがっているところ、裃《かみしも》を着て高足駄を穿いて、三宝《さんぽう》を積み重ねた上に立っている娘の頭から水が吹き出す、力持の女の便々《べんべん》たる腹の上で大の男が立臼《たちうす》を据えて餅を搗く、そんなような絵が幾枚も幾枚も並べられてある真中のところに、
「所作事《しょさごと》、道成寺入相鐘《どうじょうじいりあいのかね》」――怪しげな勘亭流《かんていりゅう》、それを思い切って筆太に書いた下には、鱗《うろこ》の衣裳《いしょう》を振り乱した美しい姫、大鐘と撞木と、坊主が数十人、絵具が、ベトベトとして生《なま》な色。
 そのあたりは押し返されないほどの人混みの中へ、一人の身扮《みなり》卑しからぬ武士が伴《とも》をつれて割込んで来ました。
 頭巾《ずきん》こそ被っているけれども、これは紛《まぎ》れもなく神尾主膳の微行姿《しのびすがた》であります。
「ははあ、江戸名物女軽業大一座」
 神尾主膳もまたこの絵看板を打仰ぐと、
「評判でござりまする、女というので評判なのでござりまする、太夫から下座《げざ》に至るまでみんな年頃の女、それが評判で、ごらんの通り大入りを占めておりまする」
 草履取《ぞうりとり》が説明を申し上げると、
「なるほど、ともかく江戸から出て来たものに違いはなかろう、見物して参ろう、跟《つ》いて来い」
 木戸口に立つと、
「どうやら御重役のお微行《しのび》らしい」
 木戸番が頭取《とうどり》に耳打ちをしました。
 この軽業の一行は両国に出ていた一行。米友を黒ん坊に仕立てた一座。女の軽業《かるわざ》足芸《あしげい》の類《たぐい》は多くは前の通りで、新たに加わったお君が「道成寺」を出すということが人気でありました。

「君ちゃん、御贔屓《ごひいき》があるよ」
 楽屋ではお角《かく》が長い煙管《きせる》から煙を吹いて、
「着物を着替えて面《かお》を直したら、ちょっと御挨拶に行っておいで。正面の桟敷《さじき》に頭巾を被って、お伴《とも》の衆と一緒に見物しておいでなすったあのお方さ、お前さんでなければならないとおっしゃるんだよ、早く行って御機嫌を取結んでおいで。ザラにあるお侍さんとは違って、ことによったら御城代様か御支配様あたりのお微行《しのび》かも知れないよ。早く行っておいで、柳屋に待っていらっしゃると御家来衆がお沙汰に来て下すったんだから」
「お伺いしなくては悪いでしょうか、誰か代りに行ってもらいとうござんすねえ」
「そんなことはできません、お前をお名指しなんだから」
「それでも親方さん、お酒を飲めの、泊って行けのと御冗談をおっしゃると、わたしにはお取持ちができませんからね」
「いい時分にはこっちから迎えにやりますから、安心して行っておいでなさい」
「お鶴さんか、お富さんが一緒に行って下さるといいけれど」
「あの人たちは、まだこれから芸にかかるんだから身体があいてないよ」
「このまんまでは失礼でございますね」
「男衆の手もすいていないし、わたしが、ちょっと島田に纏《まと》めて上げよう」
「済みません」
「どうせ碌《ろく》なことはできやしないけれど、手っ取り早いのでは若い時から自慢なのよ」
 鏡台の前でお角は、お君の真黒な髪を梳《す》きながら、
「君ちゃん、お前の毛はよい毛だねえ、こうして掴《つか》んでいると指が染まりそうだよ。そうしてお前さんには島田がいちばんよく似合ってよ、もう二三年すると丸髷《まるまげ》が似合うようになるだろう。わたしもお前さんを、いつまでもこんなところへ置くのは惜しいと思ってるんだよ、だから早くなんとかして上げたいと思っているんだから、そのつもりで稼《かせ》いで下さいよ。そのうちに容貌望《きりょうのぞ》みで玉《たま》の輿《こし》というようなこともないとは限らないから、くだらないものにひっかからないように。口上言いや折助《おりすけ》なんぞが、いくら色目を使っても、白い歯は見せちゃいけないよ。その代り、身分と身上《しんじょう》の確かな人であったら、年の違いや男ぶりなどはどうでもよいから……」
 こんなことを言いながら親方の女は、見ているまにお君の島田を結《ゆ》い上げてしまいました。
「それでは行って参ります」
「ああ、行っておいで」
 親方の女は、また煙草を吹かしながら、自分が結んでやった島田髷の手際《てぎわ》を、自分ながら惚々《ほれぼれ》と見ています。
「なんだか一人ではきまりが悪い、親方さん、あのムクを連れて行ってもようござんしょう、わたしはムクを連れて行きたい」
「ムクを連れて行く? ムクはこれから梯子登《はしごのぼ》りをするんじゃないか」
「それでも、ムクを連れて行きとうございますわ」
「子供のようなことをお言いでないよ、ムクの梯子登りと火の輪くぐりは呼び物になっていて、あれで一枚看板の役者なんだから、抜くことはできませんね」
「それでは、ムクの芸が済みましたらば、ムクをわたしの迎えに柳屋までよこして下さいな、ほかの方が来て下さるのもよいけれど、ムクをよこして下されば、なおわたしは有難いと思いますわ」
「それは芸が済みさえすればムクを迎えに出してやりますよ。それから、三味線を忘れずに持っておいで、お客様にお好みがなければそれまでだけれど、持って行っても邪魔《じゃま》にはなるまいから」
 そう言われてお君は、手慣れた三味を抱えて小屋の裏を出ました。ちょうど、空が澄んで月が出ていました。
 時は秋の末でも、小屋の中の蒸暑い空気から外へ出てみると、ひやりと身に沁《し》みる寂しい心。三味を抱えて客に招かれて行くわが身の影を見ると、間《あい》の山《やま》の過ぎし昔が思われます。故郷を出でて身はいま甲州の山の夜の露。わずか三月とはたたぬ間に変れば変るものかな。それにつけてもムクを連れないのが、なんとも言われず心細くてたまりません。古市《ふるいち》の大楼へ招かれては、夕べあしたの鐘の声を古調で歌って聞かせる時、追っても叱ってもムクばかりは離れることもなかったのに、今宵《こよい》他郷で久しぶりに、三味を抱えて月にうつるわが影が、たった一つであることが悲しくなってハラリと涙をこぼします……ムクは死んだわけでも殺されたのでもなんでもなし、つい呼べば来るところにいるのだけれど、お君は昔を思い出したからつい泣いてしまいました。

         七

「役割《やくわり》、今日は一蓮寺のお開帳に行ってみようじゃござんせんか」
 金助といって小才《こさい》の利く折助。
「そうよな、たびたび呼出しを受けてるんだから行ってみてもいい」
 役割の市五郎は、金助から誘われて一蓮寺へ出かけてみようという気になったのは、一蓮寺の祭の夜は大きな賭場《とば》が開けているからです。
「お伴《とも》を致しやしょう、お伴を致しやしょう」
 二人は相携えて城内から一蓮寺をさして出かけました。
「神尾の殿様にも困りものでございますな、ああなると手が附けられませんからな」
 金助がいう。
「むむ、まったく困りものだ、甲府勝手へ廻されたのを自暴《やけ》で、ああしておいでなさるんだから、何をするか知れたものじゃねえ。金公、お前ぬからず目附《めつけ》をしていてくれねえと困る」
「へえ、承知でございます、お頼まれ申した通り、神尾の殿様のなさることは一から十まで、わっしが方へ筒抜けになっていますから、今日なんぞも一蓮寺の和歌《うた》の会へお出かけなさって、まだお帰《けえ》りのねえことまで、ちゃんと心得ているのでございます」
「そうか、大将もう一蓮寺へ出かけているのか。では向うへ行って、変なところでぶつかるかも知れねえ。金公、ここいらで一杯飲んで行こう、中へ入ると落着かねえから」
 市五郎が先に立って、金助を柳屋というのへ引っぱり込みました。
 この別室には、問題の神尾主膳がお君の来るのを待っているとは知らないで、二人はそこで一杯飲むことになりました。
「どうもおかしいぞ、あすこに供待《ともま》ちをしているのは、ありゃたしかに神尾の草履取《ぞうりとり》」
 金助は手を洗いに行ってから、席へ戻ってこう言いました。
「それじゃ神尾がここへ来ているのだろう、どこにいるか当ってみねえ」
「よろしうございますとも」
 金助は得意の腕を見せるのはこの時だと思って、
「それでは役割、ここは拙者が引受けますから、お開帳の方へは一人でお出かけなすっておくんなさいまし」

 それとは知らず別の座敷で神尾主膳は、
「苦しうない、お君、初対面ではあるまいし馴染《なじみ》の上の其方《そのほう》、遠慮は要らぬ」
 馴染と言われてお君は思わず面《かお》を上げました。しかし、どう思い返しても、こんなお侍に馴染と呼ばれるほど、贔屓《ひいき》にされた覚えはありません。
「お前の方で見覚えのないのも無理はない、こちらではよく覚えている。伊勢の古市の備前屋でお前の面を見て、よく覚えている。珍らしいところで会ったからそれで昔馴染のような気がしてツイ、そちをここへ呼んでみる気になったのじゃわい」
「まあ左様でございましたか、伊勢の古市で……」
 そこでお君も思い当る。思い当ったけれども、古市で呼ばれた客の数は多数であります、このお侍がそのうちのドノお客であったかということは、お君の記憶に残っていませんでしたけれども、あの時分に贔屓を受けたことのあるお客とすれば、やっぱりそれでも昔馴染。
「それとは存じませず失礼を致しました、お忘れなく御贔屓下されまして、かさねがさね有難う存じまする」
「それでよろしい、ここへ来て盃《さかずき》を受けてくれ、そして久しぶりであの間《あい》の山節《やまぶし》をまた一曲聞かせてもらいたい」
「恐れ多うございますからこちらで」
「なぜそのように遠慮をする」
 敷居より内へは入らないお君、それをもどかしがって神尾主膳は畳を叩く。
「あの、お座敷では恐れ多うございますから、お庭先で御機嫌を伺った方が、手前の勝手にござりまする、あの古市で致しました通り、このお庭で御挨拶を申し上げましょう」
「なるほど、古市では座敷へ上らずに、庭へ莚《むしろ》を敷いて聞かせてくれたな。しかしそれはあの土地の慣例《しきたり》であろう、ここへ来てまでその慣例を守ろうとは愚《おろ》かな遠慮」
 その時に、この庭の石灯籠の蔭で人の気配《けはい》がするのを、神尾主膳は早くも見咎《みとが》めました。

         八

 金助と離れた役割の市五郎は、ひとりで、例の女軽業の見世物小屋の前までやって来ました。
「なるほど、これが評判の女軽業か、ひとつ見てやろう」
 懐手《ふところで》をしてヌッと、木戸番の前を通り抜けようとして木戸を突かれました。木戸番も役割とは知らなかったものか、それとも知っていながら面《つら》が憎かったものか、とにかく、市五郎がヌッと懐手で中へ入ろうとするのを押えてしまって、
「旦那、お銭《あし》をいただきます、木戸銭をお払い下さいまし」
と言ったから市五郎納まらないで、
「やい、面《つら》を見て物を言え」
 ウンと木戸番を睨みつけましたが、木戸番とはいえ、多少江戸ッ児の気風を持っていたものと見え、肝腎《かんじん》の市五郎の面《かお》を見てかえってフフンと笑ってしまいました。
 市五郎にとっては容易ならぬ侮辱《ぶじょく》ですから、ムカッと怒って、ポカリと一つ木戸番の横面《よこつら》を撲《なぐ》りつけました。
「この木偶《でく》の坊《ぼう》、ふざけた真似をしやがる」
 木戸番は飛び下りて、市五郎の横面を撲り返しました。
「この野郎、俺を見損《みそこ》なったな、俺は役割だ、城内の役割だぞ」
「役割だか薪割《まきわり》だか知らねえが、あんまりふざけた野郎だ」
 木戸番と役割とがここで組打ちを始めてしまうと、最初からこの近いところにいた口上言いや出方《でかた》や世話役の連中、これもあんまり市五郎が横柄《おうへい》で乱暴だから飛んで来て、
「おい、役割さんだというじゃないか、役割さんを撲ってはいけねえ」
 仲裁するふりをしてポカリと撲ります。
「役割さんに失礼をしては済まねえ、八公、謝罪《あやま》ってしまいな」
と言ってまたポカリ、ポカリと撲ります。
「薪割ならばいくら撲ってもいいけれど、役割さんを撲るようなことがあっては、後で申しわけがないから早く手を放したり」
と言ってはポカリ、ポカリ、ポカリと撲ります。
「役割を撲るのはよくねえ、役割を十八も撲るなんてそんなことがあるものか、せめて十三ぐらいにしておけ」
 続けざまにポカポカと撲りました。木戸の前にいた見物も、どちらかといえば見世物側に同情があって、市五郎の大面《おおづら》を憎がっていたのですから、そうなると面白がって、
「お前方は役割を撲るなんて、飛んでもないことをする、まあ俺たちに任してくれ」
と言っては市五郎をポカポカと撲る。気の毒なのは市五郎で、ポカポカと八方から拳《こぶし》の雨を蒙って、半死半生《はんしはんしょう》の体《てい》にまで袋叩《ふくろだた》きにされてしまいました。
「覚えていやがれ、役割の市五郎に、よくも恥をかかせやがったな」
 役割が撲られたという噂《うわさ》が八方へ散ると、ちょうどその辺の賭場《とば》やなにかに集まっていた多数の折助が、それを聞きつけたからソレと言って飛び出して来ました、それで事が大きくなりました。
 折助連中といえども、そう役割ばかりを有難がっているものはない。なかには市五郎がテラを取ったり頭を刎《は》ねたり、自分ばかり甘い汁を吸って、こちとらにはケチで、そのくせ、いやに大物《おおもの》ぶっているのを面憎《つらにく》がっているのもあるのですから、市五郎がここで撲られたことをかえって面白がって、都合によっては自分も大勢と一緒に袋叩きの方へ廻ろうという連中もないではないのですから。事情を聞けば、騒ぎはそんなに大きくならなかったかも知れませんが、なにしろ役割も市五郎ばかりではなく、なかには人望のある役割もあるのだから、そのいずれの役割が撲られたのか、次第によっては折助|一統《いっとう》の面《かお》にかかわると思って博奕《ばくち》半ばで飛び出すと、かねて折助と懇意にしている遊び人連中がその加勢にと飛び出して、哄《どっ》と女軽業の前へ押寄せて来ました。
 こうなると、この女軽業一軒ではなく、すべての見世物小屋がパッタリと商売を止めて、女芸人や年寄は避難させ、丈夫そうなやつだけが合戦の用意をはじめます。長井兵助などは、長い刀をしきりに振り廻しました。
 けれども騒動の中心になったのはやはり娘軽業。木戸も看板も滅茶滅茶《めちゃめちゃ》に叩きこわされて、木戸前で組んずほぐれつしていた群集は、ドッとばかりに場内へ乱入してしまいました。そこで、また敵味方、弥次馬もろともに、入り乱れて撲り合い噛み合いになりました。
 見物の中で血の気の多いのは、頼まれもしないに弥次馬の中へ飛び込んで、喰い合い噛み合います。幸いに見物の中に気の利いたのは、菰張《こもば》りや板囲《いたがこ》いを切りほどいて女子供をそこから逃がしたから、怪我人は大分あったけれども、見物から死人は出さないで一通りは逃がしたけれど、かわいそうに軽業をする美人連は、逃げ場を失うて、櫓《やぐら》の高みや軽業の台の上にかたまって、高みから泣き声をあげていました。
「まあどうしようねえ、お国さん、おやまさん、あれ、うちの男衆がみんな殺されちまうじゃないか、わたしたちはどうなるんでしょうねえ、親方さん、どうしましょう、助けて下さい、助けて下さい」
「そんなに騒がないで静かにしておいで、そのうちにお役人が来て鎮《しず》めて下さるから。何だね、お前たちはそんな意気地のない。日頃危ない芸当をして命の綱を渡っているくせに、もう少ししっかりおし、いよいよの時には梁《はり》を伝わっても逃げられるじゃないか」
「それでも親方さん、危ない、どうしましょうねえ、力持のおせいさん、お前は力持だからわたしを負《おぶ》って逃げて下さいな、わたしはお前さんの蔭に隠れているわ」
 平常《ふだん》は危ない芸当を平気でやっている軽業の美人連も、実地の修羅場《しゅらば》では、どうしていいかわからないで一かたまりになって慄《ふる》えていると、そこへ一手《ひとて》の折助と遊び人とが、梯子伝《はしごづた》いにわっと集まって来ました。
「あれ、下へ来ましたよ、怖《こわ》い、親方さん、力持のおせいさん」
 美人連は号泣する。折助どもは先を争うて梯子からこの美人国へ乱入しようとして、わーっと喚《わめ》いて折重なって梯子から落ちました。
 それは力持のおせいさんが、いま必死の場合に、商売物の立臼《たちうす》を目よりも高く差上げて投げて落すと、臼に打たれた折助十余人が一度に転び落ちたものです。
 立臼の一撃で、折助どもも少し怯《ひる》んだが、直ぐに盛り返して梯子や小屋掛の丸太を足場にして、続々と登りはじめました。上からはあり合すもの、衣裳葛籠《いしょうつづら》、煙草盆《たばこぼん》、煙管《きせる》、茶碗、湯呑、香箱《こうばこ》の類、太鼓、鼓、笛や三味線までも投げ尽したが、もう立臼のような投げて投げ甲斐のあるものがありませんでした。力持のおせいさんは、鉄の棒を舞台に置いて来たことを歯噛《はが》みをして口惜《くや》しがるけれども、ここにはもはや莚《むしろ》よりほかに得物《えもの》がなくなってしまったから、やむを得ず莚をクルクルと捲いて、それを打振り打振って、登り来る奴輩《やつばら》を悩ましています。
 下では、折助と遊び人と木戸番と口上言いと出方と弥次馬とが、組んずほぐれつ揉《も》み合っていると、近所の小屋からまたまた加勢が来る、弥次馬が来る、それをよそにして、この美人連の隠《かく》れ家《が》を見つけ出した連中はいい気になってこの一角を占領して、美人連を分取《ぶんど》ろうとの興味から、蟻《あり》の甘きに附くが如く、投げられようと払われようと離れることではありません。
 それと見て親方のお角は歯咬《はが》みをしながら、
「さあ、みんな、何でもいいから刃物をお持ち、剃刀《かみそり》もここに五挺ばかりあるから分けて上げるよ、舞台で使う脇差《わきざし》、刃引《はびき》がしてあるけれども、これでもないにはマシだよ、傍へ寄ったらその剃刀で、面《かお》でも腕でもどこでもかまわないから、無茶苦茶に切っておやり、その脇差は切れないんだからつっついておやり、眼玉でも鼻でもなんでも遠慮することはないから突いておやり、なんにも持たない人は簪《かんざし》をしっかりと持っていて、いよいよ傍へ来た時に、面の真中へ突き通してやるんだよ、もし刃物を取られたら喰いついておやり、どこでもかまわず喰いついて引っ掻いておやり。おせいさん、お前は力持だから、お前をみんなが恃《たの》みにしているよ、しっかり頼みますよ、お前さん一人で十人も二十人も手玉に取っておやり、お前さんは刃物を持たない方がいいよ。なに、わたしだって五人や十人は相手にして見せるからね、たかの知れた折助なんぞに、この身体へ指でもさされてたまるものか」
 お角は剃刀一挺を手に持って、しきりと一座の美人連を励まして、自分も城を枕に討死の覚悟。
 力持のおせいさんはこれに励まされて、持っていた莚を抛《ほう》り出し、素手《すで》になって、登り来る折助|輩《ばら》の鼻向《はなむき》、眉間《みけん》、真向《まっこう》を突き落し撲り落す。その他の連中も、剃刀、脇差、簪の類、得物得物をしっかりと持って必死の覚悟。
「あれ――火がついた」
 吊られてあった篝火《かがりび》が、誰が切ったか地に落ちて、それが小屋の一角に燃えうつる。誰も消す人はない。
「あれ親方さん、火が。この小屋が焼けてしまいますよ」
 火を見た美人連は、せっかく励まされた勇気が一時に沮喪《そそう》しました。莚張《むしろば》りと幕と板囲いの小屋、火の手は附木《つけぎ》を焼くよりも早い、メラメラと天井まで揚る赤い舌。
「そうれ火事だ」
 組んずほぐれつしていた命知らず、さすがに火には驚いて、組打ちをしながら逃げようとして一層の大混乱。美人連を取囲んだ一隊は、早く攻め落して分取りをほしいままにしてから火を避けようと、強襲また強襲。
 火の威勢が、いよいよ天井を這《は》い上って、黒い煙と白い煙が場内に濛々《もうもう》と湧き出したその中から、
「うわーう」
 旺然《おうぜん》として物の吼《ほ》ゆる声が起りました。これは獣の吼ゆる声。この場の人間どもの怒号、叫喚、愚劣、迷乱を叱咤《しった》するようにも聞きなされて、思わず身の毛をよだてるほどの一声でありました。
 ムクは強いけれど、かわいそうに鎖《くさり》につながれていました。こんな騒ぎになる前に誰か気を利かして鎖を解いてやればよかったものを、その方には誰も気がつく者がなかったから、鎖につながれたままでいるうちに、火がその背後から燃え出しました。
「ああムクが繋がれている、ムクは強い犬だ、誰か行って鎖を解いてやらなくては焼け死んでしまう、かわいそうに、誰かムクの鎖を切っておやりよう」
 お角は気がついて高いところから叫んだけれども、組み合い押し合いで、誰もそれに応ずるものがありません。
 猛犬ムク! お角もよくその猛犬であることは知っています。ムクが吼えると、牛や馬までが竦《すく》んでしまったこともこの道中で実見しました。
 ムクが通ると、街道のいずれの犬も尾を捲いて軒の下へ隠れてしまったことも知っていました。桂川筋《かつらがわすじ》で一座の女が一人、橋を渡るとて誤って川へ落ちて押流された時、あれよあれよと騒ぐ人を駈け抜いて、ムクは水中へ飛び入り、着物の襟をくわえて難なく岸へ飛び上ったことも実見しています。旅芸人に因縁《いんねん》をつけたがる雲助や破落戸《ごろつき》の類が、強《こわ》い面《かお》をしてやって来た時にムクがいて、じっとその面を見ながら傍へ寄って行くと、雲助や破落漢《ならずもの》の啖呵《たんか》が慄《ふる》えてものにならなかったことも再三あるのを心得ていました。猛犬ムクは、第一にお君にとって忠実な家来であると共に、この一行にとっては、二つとなき勇敢なる護衛者であったことを、お角は今この場合において思い出さないわけにはゆきません。
「ムクを解いてやりさえすれば、ここにいる折助どもなんぞ幾人来たって怖くはない、ナゼ早くそこに気がつかなかったろう、力持のおせいを恃《たの》みにするよりは、あのムクの方がどのくらい強いか。ああ、早く鎖を解いて、このやつらに嗾《け》しかけて噛み散らかさしてやりたい、誰かムクの鎖を解いてやるものはないか」
 お角は自衛の剃刀を逆手《さかて》に持って、一方には寄せ来る折助の強襲に備えて味方を励まし、一方には繋がれたムクの方を見て焦《じ》れに焦れたが、
「ええ、仕方がない、ああしておけばムクは焼け死んでしまう、おせいさん、力持のおせいちゃん、お前はわたしに代ってここを守って、みんなの指図をしておくれ、わたしは今ムクを助けて来るから、ムクの鎖を解いて来るから」
「親方さん、危ない」
「ナニ、大丈夫だよ」
 お角は剃刀を口にくわえて、着物の裾をキリキリと捲《まく》る。
 今でこそ一座の親方になって自分は舞台へ立たないけれども、お角もこの道で叩き上げた女、高いところから舞台の方を見下ろして、人の頭の薄いところを見定めてヒラリと躍らして飛び下りた身の軽さ。
 お角が下へ飛び下りたのを見ると、
「それ、美《い》い女が飛び下りた」
 登りあぐねていた折助が、折重なってお角の方へ抱きついて来る。
「何をしやがるんだい、折助め」
 剃刀を振ると、鼻梁《はなばしら》を横に切られた折助の一人が、呀《あ》ッと言って面《かお》を押える、紅殻《べにがら》のような血が玉になって飛ぶ。
「この阿魔《あま》、太え阿魔だ」
 大勢の折助が、お角ひとりに折重なり折重なってとりつく。
「何をしやがるんだい、お前たちの手に合うような軽業師とは軽業師が違うんだ、ざまあ見やがれ」
 お角は血に染《し》みた剃刀を打振って、群がり来る折助の面を望んでは縦一文字、横一文字に斬って廻る。けれども、多勢《たぜい》を恃む折助、賭博打《ばくちうち》、後から後からと押して来る。揉《も》まれ揉まれてお角の帯は解けた、上着は辷《すべ》り落ちる、それを引っぱる、引きちぎる。真白な肉《ししむら》。お角はその覚悟で、下には軽業の娘の着る刺繍《ぬいとり》の半股引《はんももひき》を着けていた。剃刀一挺を得物の死物狂《しにものぐる》い、髪が乱れ逆立って、半裸体で荒れ狂う有様、物凄《ものすご》いばかり。しかし、いくら気が焦《あせ》っても多勢の男に一人の女。お角の剃刀はいつか打ち落されてしまうと、忽ちに手取り足取り。
「口惜しイッ」
 お角は歯噛みをしたがもはや如何《いかん》ともすることはできません。こうしてお角を取って押えた折助どもは、忽ち胴上げにして鬨《とき》の声を揚げて表の方へ担ぎ出す。高いところでそれと見た力持のおせいさん、
「あれ親方が捉《つか》まってしまった、この野郎ども、覚えていろ」
 城を守ることの任務を忘れて、お角を折助どもの手から取り戻すべく、やっと声をかけて力持のおせいは、高いところから飛び下りるには飛び下りたが――これは軽業が本芸ではない力持専門であるから、ヒラリと身を跳《おど》らしてというわけにはゆきませんでした。ただお角の危急を見て夢中でドシンと飛び下りたのは、臼を転がしたと同じことだから、下へ落ちても暫く起き上ることはできないのを、それと言って大勢が寄ってたかって押える。いくら荒《あば》れても、俯向《うつむ》きに落ちたところを上から押しつぶされたのだから動きが取れないでいるうちに、演芸用の綱渡りの綱を持って来てグルグルと縛って難なくこれも生捕《いけどり》。主将、副将ともに捕われた後の美人連は、惨憺《みじめ》なものであります。羊の中へ狼が乱入したように、ひとたまりもなく引っ抱えられて引っ担がれる、泣き叫ぶ、狂う。
 真先に大勢に担がれて行くお角は、歯を食いしばって、
「口惜しイッ、ムクはどうしたろう、なんだってムクに気がつかなかったんだろう、早く気がついてムクの鎖さえ解いてやっておけば、こんなことはなかったんだ、こうと知ったら君ちゃんにムクを附けてやればよかったものを、今となっては仕方がない、誰かムクを助けてやって下さい、ムクの鎖を解いてやって下さい。そうすればこんな折助なんぞ幾人来たって、こんな口惜しい目に会やしないのに。ムクを、ムクを、ムクの鎖を解いてやって下さいよう」
 声を限りに叫びました。

         九

 お君が神尾主膳に柳屋へ呼ばれて、三味線を取り直した時にこの騒ぎが起りました。
 お君は三味の糸を捲く手をとめて、
「何でございましょう、あの音は」
 廊下をバタバタと駈けて来た女中が、
「喧嘩でございます、あの女軽業の小屋の内へお仲間衆《ちゅうげんしゅ》が押しかけて、いま大騒ぎが持ち上ったのでございます、人死《ひとじに》が出来ました、火事になりました」
「あの女軽業の小屋へ、城内のお方が押しかけてあの騒ぎ? それは大変、こうしてはおられませぬ」
 お君は三味線を投げ出して立ちかける。その袖を神尾主膳は押えて、
「あの騒ぎの中へ一人で行っては危ない」
「危なくてもよろしうございます、こうしてはおられませぬ、どうぞお暇を下さいまし」
 神尾主膳の袖を振り切ったお君は、三味線も撥《ばち》も投げ出して跣足《はだし》で飛んで帰りました。
「ああ、大変なこと、火がついてしまった、こんなことならモット早く来ればよかった」
 お君の来て見た時分には、小屋の裏手へ一面に火が廻っています。表へ廻ると、小屋の中から雪崩《なだれ》を打って押し出す群集。
「あれまあ、親方さんが担がれて。力持のおせいさんまでがああして。まあまあ、みんな娘たちが連れて行かれてしまう、なんという乱暴な人たちでしょう。これはまあどうしたんでしょう、誰も助けて上げる人はいないのかしら。どうしたものでしょうね。あれあれ、どこへ連れて行かれるんでしょう。わたしはまあ、どうしたらいいでしょう」
 その時に、猛然として火の中より起るムクの声。
「ああ、そうだ、ムクだ。ムクは何をしているんだろう、みんながあんな目に会っているのに、ムクは何をしているんだろう。おおそうそう、ムクは芸が済むと、いつもあの鉄の棒につながれていたから、ことによると、あのまんまで誰も気がつかないで、ムクを鎖で繋ぎ放しにしておくんじゃないかしら。それだといくらムクだって動けやしない、みんながあんな目に遭っても助けてやりたくても助けられやしない。きっとそうだ、ムクは繋ぎ放しにされてあるに違いない。そんならムクは人を助けるどころではない、自分がこの中で焼き殺されてしまうじゃないか、かわいそうに。ムクがかわいそうだ、ムクや、ムクや」
 お君はムクの名を連呼して、驀然《まっしぐら》にこの火の中へ飛び込んでしまいました。煙に捲かれることも、火に煽《あお》られることも考える余裕はなくて、お君は火の中へ飛び込んでしまい、
「ああ、ムク、怪我をしないでいておくれかい、鎖につながれているだろうね、今解いて上げるから待っておいで」
 袖で面《かお》を隠して烟の中に駈け込んだお君の手が鎖にかかると、ムクは五体が張り裂けるばかりの身震いをしました。
「ああ、早く逃げよう、逃げておくれ」
 難なく鎖が外《はず》されるとお君とムクとは、丸くなってこの小屋の火と煙の中から逃げ出しました。お君には、もう逃げ場がわからなかったがムクはよく知っている。犬と人とは辛《かろ》うじて火の外へ逃げ出して、
「わたしはいいから、早く親方さんや、娘たちを助けておやり、わたしはもはや大丈夫だから早く、お前、みんなの娘たちを助けて上げておくれ、悪い奴に担がれて向うの方へ連れて行かれたんだから、早く……」

         十

 女軽業の連中を引っ担いで来た折助どもは、闇に紛《まぎ》れて荒川の土手、葭《よし》や篠《しの》の生えたところまで来てしまいました。
 土手の蔭へ女軽業の連中を珠数《じゅず》つなぎにして置いて、
「さあ、大変な騒ぎになってしまった、これから先をどうするのだ、まさか焼いて喰うわけにもいくめえ、そうかと言って、ここまで持って来たものを、ほうりっぱなしにして逃げて行くと、娘たちが蚊に食われてしまう、縄を解いてやれば、さいぜんのように荒《あば》れ出して始末にいかねえ、なんとか面白い工夫はないか」
「なるほど、こうしておいて蚊に食わせてしまうのも残念なわけだ、縄を解いてやれば荒れ出す、そのうちにもこの力持と来た日には、三人や五人では手に負えねえ、また身の軽い方は商売柄だから、ここらの田圃《たんぼ》へ突《つ》ん逃げたら、蝗《いなご》を捕まえるような手数がかかる、どうしたものだ」
「いいことがあるわい、一度に縄を解いてやると物騒だから、一人ずつ縄を解いてやろうじゃねえか、ここにいるおれたち仲間と、女の仲間と数を読み合わせておいて、籤引《くじびき》とやろうじゃねえか、籤を引き当てた順で、この女たちを片っ端から一人ずつ連れて、どこへでも勝手なところへ届けてやることにしたら面白かろうじゃねえか」
「そいつはいいところへ気がついた、籤引にしよう。籤引はいいけれど、この力持なんぞを引き当てたら災難だ、下手なことをやればこっちがかえってギュウと潰《つぶ》されてしまうんだから、あんまりジタバタさせねえように、ものやわらかに道行《みちゆき》という寸法に行きてえものだ」
「ものやわらかに道行という寸法に行けばそれに越したことはねえが、おたがいに和事師《わごとし》という面《つら》でもねえし、とにかく、籤としてみよう、籤を引いてみた上で、また何とか面白い趣向があるだろうよ」
「籤を引く前にこういう趣向はどうだ、手荒いことをしなくても、女を逃さねえようにする法がある、それは裸《はだか》にして置くことだ、裸にしておけば、女は恥かしがってどこへも逃げやしねえ、そうしておいてから籤を引いた方がよかろう」
「なるほど、おれたちの仲間には智恵者が多い、裸にしておけば女は暗いところにいたがって、明るい方へ出るのをいやがる、それはいいところへ気がついた、それはいい心がけだ」
 折助はとうとう、こういう決議をしてしまいました。
「そうきまったら、ゆっくりするがいい、誰か火種を持っていねえか、一ぷくやってから仕事にかかりてえ」
 この時、一蓮寺の境内で盛んに燃えている見世物小屋の火の手を快《こころよ》げに折助どもが見返って、それから悠々仕事にかかろうと言っている途端に、
「あっ、何だ、どうしたんだ、えっ、どうしたと言うんだ、痛い!」
 暗中摸索《あんちゅうもさく》、折助どもがひっくり返り且《か》つひっくり返り、何をどうしたのか一時に混乱して騒ぎ出しました。
「やっ、狼だ、狼だ、狼が出て来やがったぞ、ソレ大変だ」
 山国にいると狼の怖るべきことを誇張して聞かされます。その狼の来襲と聞いて、さしもの折助どもが総崩れに崩れ立ったのは無理もないことです。鳥の羽音でさえ大軍を走らすのだから、狼の一声が折助を走らすのはまことに無理もないことでした。
 事実また、この真暗な中へたしかに真黒な怪物が音も立てずに飛び込んで来て、ヒラリヒラリと飛び違えながら、当るを幸いに折助を噛《か》みつぶし噛みつぶして廻る早業《はやわざ》は、たしかに類を呼ぶ千疋狼の類《たぐい》が、よき獲物ござんなれと、一挙に襲いかかったものとしか思われません。
 それ狼! と言って総崩れに崩れて逃げ出したから、まだ幸いでした。もしぐずぐずしていて、それは狼ではない、犬だ、なんぞと正体を見届けたつもりで踏み止まろうものならば、挙げて一人も残さず折助が噛み伏せられてしまったに違いない。それでも一人か二人の死人を残し、多数の怪我人を出して、逸早《いちはや》くこの場を逃れ得たのが幸いでありました。
 しかし、かわいそうに軽業の女たち、折助は逃げ去ったが今度はいっそう怖ろしい骨までしゃぶる獣、それの襲撃と聞いて歯の根が合わなくなりました。けれどもその怖ろしい獣は、存外、女たちにはおとなしくありました。
 縛られて歯の根の合わない女たちの傍へ寄って、クフンクフンと鼻を鳴らして狎《な》れて来るのが不思議であります。
「おや、ムクだよ、ムクが来てくれたんだよ、ムクが助けに来てくれたのだよ」
 親方のお角がまずこう言って叫び出した時に、女たち一同の恐怖の念が歓喜の声と変りました。
 真先にお角の身にかけられた縄に牙《きば》を当ててグイと引くと、お角の縄は無造作《むぞうさ》に外《はず》されました。
「まあ、ムク、よく助けに来てくれたねえ、ほんとにお前はわたしたちの命の親だよ」
 お角はムクの首を抱えてしまって、さすが気丈な女が声を揚げて泣きました。一人の身が自由になれば、あとはみんな楽に解放されてしまいます。
 こうして美人連は、ムクに助けられて再び一蓮寺の境内へ帰って来た時に火事は鎮まったけれども、余炎はまだ盛んなものでした。火消も来たり役人も来たりして騒動はスッカリ納まってしまいましたが、お君の姿をどこへ行ったか見出すことができません。

         十一

「それじゃ何かい、どうしても江戸へ出かけるのかい」
 宿で七兵衛とがんりき[#「がんりき」に傍点]の会話。
「兄貴、いろいろとお世話になったが、江戸へ出て一旗《ひとはた》揚げるつもりだ。がんりき[#「がんりき」に傍点]もここらが年貢の納め時だから、小商売《こあきない》の一つも始め、飯盛上《めしもりあが》りの女でも連合《つれあい》にして、これからは温和《おとな》しく暮して行きてえものだと思わねえこともねえが、天道様《てんとうさま》がそうは卸《おろ》してくれめえから、とてものことにまた逆戻りで、畳の上の往生は覚束《おぼつか》ねえだろう。どっちが早いか知れねえが、なにぶんお頼み申すよ」
「なるほど、お前も腕一本取られたのがあきらめ時だ、江戸へ落着いたら、そんなことで畳の上の往生を専一に心がけてくんねえ。もしまた、自分はそのつもりでも、世間が承知しねえ時はまたその時の了簡《りょうけん》だ」
「俺もその了簡で、これから生れ変るつもりだ」
「餞別《せんべつ》というほどでもねえが、裏街道を通って萩原入《はぎわらい》りから大菩薩峠を越す時に、峠の上の妙見堂から丑寅《うしとら》の方に大きな栗の木があるから、その洞《うつろ》の下を五寸ばかり掘ってみてくれ、小商売《こあきない》の資本《もとで》ぐらいはそこから出て来るだろう」
「せっかくだが、そいつはよそう、悪銭《あくせん》身に着かずということになると幸先《さいさき》がよくねえからな」
「悪銭というのもおかしなものだが、それじゃお前は性質《たち》のいい資本《もとで》を持っているのかい」
「一文なしだ、江戸へ出る小遣《こづかい》もねえくらいのものだ」
「腕もなし、資本もなし、それで真人間《まにんげん》になろうというのはちっと無理だ、いま奉公に出ればと言って、その腕じゃあ誰も使い手はあるめえ」
「なんとかなるだろうよ、運だめしだから、一文なしで出かけて行ってみよう、途中でのたれ死をしたらそれまでよ」
「その了簡ならそれでいい、自分はそれでいいけれど、もし人のかかわり合いで金がなければ男が立たねえというような時節があったら、遠慮なく俺の土蔵から出して使ってくんねえ」
「兄貴、大層なことを言うが、お前の土蔵というのはどこにあるんだ」
「それはいま言う裏街道では大菩薩峠の上、青梅宿《おうめじゅく》の坂下、江戸街道の丸山台、表の方では小仏峠《こぼとけとうげ》の二軒茶屋の裏の林の中と、府中のお六所様《ろくしょさま》の森の後ろと日野の渡し場に近いところ。まあこの絵図面を見ておくがいい、江戸から持って来た金は裏の方へ蔵《しま》っておく、甲州で稼《かせ》いだのは表の方へ預けておくんだ、幾らになっているか自分でもその額はわからねえが、ああしておいても利息がつくわけではねえから、入用《いりよう》の時はいつでも出して遣って貰いてえものだ」
「なるほど、兄貴の仕事はなかなか手堅いや、こうして娘をあっちこっちへかたづけておけば、いざという時どこへ飛んでも居候が利く。だが、この絵図面は見ねえ方がよかったな、これを見たために、せっかくの娑婆気《しゃばけ》が立ちおくれをして、どうやらもとのがんりき[#「がんりき」に傍点]に戻ってしまいそうだ」
「俺はそんなつもりじゃねえんだ、手前にこの金を器用に使ってもらえば金の冥利《みょうり》にもなるし、罪ほろぼしにもなるんだから、それで手一杯に地道《じみち》な商売をして、世間に融通をしてもらいてえんだ」
「それじゃ、どのみちこの絵図面は貰っておこう。しかし、これに手をつけるようじゃあ、がんりき[#「がんりき」に傍点]もやっぱり畳の上では死ねねえ。それじゃ兄貴、これから出かけるから、壮健《たっしゃ》でいてくれ」
「そうか、そうきまったら引留めもしねえが、途中ずいぶん気をつけて、猪や狼に食われねえように」
「裏街道を行くつもりでいたが、夜道は表の方が無事だから、やっぱり表を突っ切ってやろう、今から出りゃ夜明けまでに江戸へ入るのは楽なものだ。そのつもりで、さっき、握飯《むすび》を三つ四つ拵《こしら》えてもらってあるから、あれを噛《かじ》って江戸まで行けば、それから先はお膝元だ。どっちへころげるかがんりき[#「がんりき」に傍点]の運試し、兄貴、またあっちで会おう」
「江戸へ行って居所が知れたら、神田の明神様へ額を納めておいてくれ、め[#「め」に傍点]の字を書いた絵馬《えま》を一枚、そのうらへ処番地を書いて、お堂の隅っこへ抛り込んでおいてくれ、訪ねて行くから」
「合点《がってん》だ」
「おや、表がなんだか騒々しいな」
 二人は言い合せたように耳を傾けて、
「半鐘《はんしょう》が鳴るぜ」
「火事だ火事だと言ってるよ。姉さん、火事はどこだい」
「一蓮寺でございますよ」
「一蓮寺? おや、喧嘩だ喧嘩だと言ってるぜ」
「なるほど、喧嘩らしい、火事と喧嘩とお祭祀《まつり》と一緒に来たんじゃあ事だ」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は片一方の手で脚絆《きゃはん》をひねくる、それを七兵衛ははたから穿《は》かせてやって、身軽な扮装《いでたち》が出来上りました。
 二人が外へ首を出してみると、火の子はこの家の上を撩乱《りょうらん》と飛んでいます。

 それとはまた違ったところでその翌日、最初にあの騒ぎの口火を切った役割の市五郎が寝ているところへ見舞に来た金助、
「役割、どうでござんす、痛みますかね」
「うん」
「飛んだ御災難で」
「いまいましいやつらだ」
「役割を見損なって木戸を突くなんて、盲蛇《めくらへび》物に怖《お》じずとはこのことだ。その代り、さんざん、敵《かたき》を取って、やつらを空裸《からはだか》にしてやりましたから、それで胸を晴らしておくんなさいまし。身から出た錆《さび》とは言いながら、あいつらこそ、小屋は焼かれる衣裳道具は台なし、路頭に迷うような騒ぎでてんてこ[#「てんてこ」に傍点]舞をしていやがる、ざまア見ろ」
「狼が出て、ひどい目に遭《あ》ったてえじゃあねえか」
「狼には弱りましたね、怪我あしたやつらは大部屋でいちいち手当をしていますが、片輪者《かたわもの》がだいぶ出来上りそうで、面《かお》を噛み潰されていかにも始末にいかねえのが五六人ありますよ。あんなのこそほんとに、面目玉《めんもくだま》を踏み潰されたとか噛み潰されたとかいうんだろう。それに比べりゃ役割、こちとらは災難が軽い方でござんすよ」
「まあ俺の方は俺の方でいいが、金公、手前こそ命拾いをした上に、俺の命を拾ってくれたんだから、廻《めぐ》り合せがよく出来ている」
「役割から言いつけられて、神尾の殿様の様子を見ようと石灯籠の蔭で隙見《すきみ》をしているところを取捉《とっつか》まって、すんでのことに息の根を止められようとするところを不意にあの騒ぎで、神尾の殿様も、こちとらをかまっちゃいられず、急にお立ちとなってしまったから、命拾いをしたつもりで騒ぎの方へ飛んで行ってみた時分には、人間の騒ぎは済んだけれども、火の威勢がばかに強くて、通り抜けられねえから、うろうろしていると役割の死骸……じゃあなかった、役割が打倒《ぶったお》れてウンウン言っておいでなさるから、こいつは大変だと肩に掛けて引っぱって逃げると、拾い運のいい日はいいもので、役割の命を拾った上に、もう一つの拾い物。それはこういうわけなんですよ、わっしが役割を肩に引っ掛けて、煙に追蒐《おっか》けられながらあの椎《しい》の大木のところまで来ますとね、そこにまた人間が一つ倒れているんです。尤《もっと》も今度の人間は役割の前だが、前に拾ったのよりもずっと綺麗《きれい》なんですから、それこそホントウの拾い物で、その時、わっしはどうしようかと考えましたね。椎の大木の下に倒れていたのは綺麗な女の子、女軽業の中でお君といって道成寺を踊る評判者、それがやはり役割と同じこと、死んだようになって倒れているのを見つけたものですから、わっしはそこで考えたんで。いっそのこと、役割を抛《ほう》り出してこの娘に乗り換えた方が得用《とくよう》だと、すんでのことに役割の方を諦《あきら》めてしまおうかと思いましたよ。まあ怒っちゃいけません、一時はそう思いましたけれど、本来わっしどもも善人ですから、そんな薄情なことはできません、と言って一人で一度に二人の人を助けるわけにはいきませんから、役割を大急ぎで稲荷《いなり》のところまで担《かつ》ぎ出しておいて、それから取って返して、その女の子を首尾よく担ぎ出しました。が、この方がよっぽど担《かつ》ぎ栄《ばえ》がしました。まあまあお聞き下さいまし、その女の子はわっしの働きでいいところへ隠しておきますよ。あいつはね、人質《ひとじち》になるんですから、大事な代物《しろもの》ですよ。役割がよくなりなすったら、御相談をするつもりでわっしがいいところへ隠しておきますがね、役割、これが癒《なお》ったら、あいつを妾にしておしまいなさいまし」

         十二

 宇津木兵馬が単身で、白根の山ふところを指して甲府の宿を出かけたのは、一蓮寺のあの騒ぎの翌日のことでありました。
 秋もすでに晩《おそ》く、国をめぐる四周《まわり》の山々は雪を被《かぶ》っています。風物と人の身の上を考えると兵馬にも多少の感慨があります。このたびこそはと思うて、いつも心は勇むけれども、旅から旅を歩く間にはずいぶん果敢《はか》ない思いをするのです。
 兵馬はこの頃になってようやく、七兵衛の挙動に不審の点を発見してきました。片腕を落されたがんりき[#「がんりき」に傍点]という男との話しぶり、その調子が自分らと話をするのとはだいぶ違ったところがある。七兵衛の挙動に合点《がてん》のゆかぬ節々《ふしぶし》を感づいてみると、そこにもまた多少の心淋しさが湧いて来ないわけにはゆきません。
 そこで、このたびの山入りも七兵衛には置手紙をしただけで出かけてしまって、白根の山めぐりをしてから後は、また次第によっては東海道筋へ廻るのだなと思いつつ歩いて行きました。
 一蓮寺の境内を通りかかって見ると、どうでしょう、昨日あれほど賑《にぎお》うた見世物小屋のあたりは、すっかり焼けてしまって、祭礼も臨時休業のような姿で、焼跡のまわりには、消口《けしぐち》を取った仕事師の連中が立ち働いている有様を見て、昨夜の火事はこんな大きなことになったのかなと、舌を捲きながら通り過ぎてしまいました。それから荒川の土手のところを歩いて行くと、土手の上の雑草が踏み躪《にじ》られて、血痕《けっこん》があちらこちらに飛んでいます。
 兵馬は、それがまさしく人間の血であるらしいから少しく驚かされました。人間の血であってみると、四辺《あたり》の草木の荒された模様から見て、よほどの人数が入り乱れて争ったものとしか見えません。祭礼で気が立ったあまり、ここで血気の連中が大格闘をやったものだろうと、兵馬は心の中で推察しました。
 これは昨夜の折助《おりすけ》の狼藉《ろうぜき》と女軽業の美人連の遭難、その血の痕《あと》というのはムク犬の勇猛なる働きの名残《なごり》であることは申すまでもありませんが、その風聞《ふうぶん》は兵馬の耳へはまだ入っていませんでした。
 その土手のところも通り過ぎ、竜王村というところへ出ようとする広い畑の中道で、
「頼むよう、助けてくれ!」
 白昼とはいえ、人通りのあまりないところで助けを叫ぶ人の声、
「頼む! 頼む! 助けてくれ」
 足を留めて見ると、およそ二町ばかりを距《へだ》てた道の傍らの柿の木と覚《おぼ》しい大きな木の上で、しきりに助けを呼んでいる者がある。
 これはおかしい、木の上で、ひとりで呼んでいる。気狂《きちが》いではあるまいかと兵馬は思いました。木の上に登って助けてくれというのは、たいてい大水の場合に限るようです。下を見れば水も何もありはしない、尋常平凡な畑道の中で、木の上から助けを呼ぶのはおかしいと思いながら、宇津木兵馬はその方へ急いで行って見ると、木の下に真黒な動物。
 なるほど、犬に逐《お》われたな、狂犬《やまいぬ》だろう、大きな犬だ、あれに逐いつめられて木の上へ登って、そこから助けを呼んでいるというのは笑止《しょうし》なことだ、その声を聞けば子供でもないようだが、大の男が犬に逐われて助けてくれは、いよいよ以て笑止なことだと、兵馬は微笑しながら木の下へ近づくと、
「どうか助けて下さい、その犬を追い払って下さい、狂犬《やまいぬ》でございます。この通り向脛《むこうずね》を掻払《かっぱら》われて、着物なんぞもズタズタでございます、すんでのことに命を取られるところを、やっとここへ逃げ上ったんでございます、そこに附いていられちゃあ逃げることができません、どうか犬を追い払っておくんなさいまし、助けておくんなさいまし」
 木の上にいた男は半狂乱で叫んでいます。
「叱《しっ》!」
 兵馬が犬を叱《しか》ると、犬は首を振向けてブルッと身を慄《ふる》わせました。
 その時、
「見たような犬だ」
 兵馬は一見してその非常なる猛犬であることを知り、同時にまたどこかで見たことのあるような犬だとも思いましたけれど、咄嗟《とっさ》にはそれと思い当ることもありません。
「叱!」
 兵馬は小石を拾って覘《ねら》いをつけると、犬はまた後退《あとずさ》りして、兵馬の面《かお》を睨《にら》みながら唸《うな》る。
「叱!」
 兵馬は石を振り上げて追う。犬は少しずつ後退り。
「どうかその犬をお斬りなすって下さい、お腰の物で二つにぶった斬ってやっておくんなさいまし、とてもとても、石なんぞで驚く犬じゃございません、斬ってしまわなけりゃ駄目でございます、どうかお斬りなすっておくんなさいまし」
 木の上では男が喚《わめ》く。
「エイ」
 兵馬が打った石礫《いしつぶて》、猛犬の額に発矢《はっし》と当る。犬は一声高く吠えて飛び退き、爛々《らんらん》たる眼《まなこ》を以て遠くから兵馬を睨む。二つ目の石を兵馬が振り上げた時に、何と思うたか犬はクルリと廻《めぐ》って、兵馬の面《かお》を睨みながら鷹揚《おうよう》に後ろへ引いて行く。犬は兵馬の面とその手中の石とを見比べながら、徐々《しずしず》と引上げて行く態度、ちょうど、名将が戦い利あらずと見て、味方を繰引《くりび》きに引上げる兵法がこの態度であろうと、兵馬は敵ながら獣ながら、その退却ぶりの雄大にして痛快なのに感心せずにはおられませんでした。上杉謙信が退却する時にはこんな陣立《じんだて》であろうかとさえ思わせられました。
「石なんぞで驚く犬じゃございません、ぶった切っておくんなさいまし」
 木の上でガムシャラに叫んでいるにかかわらず、兵馬はこの石で犬を逐い、犬はついに兵馬に逐われてどこへか行ってしまいました。
「どこの畜生だか知らねえが、人を脅《おどか》しやがる畜生だ、この近所ではついぞ見かけたことのねえ畜生だが、いやはや、馬鹿と狂犬《やまいぬ》ほど怖いものはないと太閤様が申しました」
 木の上から下りて来た男を何者かと見れば、これはさきほど、役割の市五郎を見舞った折助の金公でありました。さすがきまりの悪い面《かお》をして、それでも兵馬に礼を述べるより先に犬の悪口をはじめます。
「なんだって旦那、わっしがこの村へちっとばかり用事があって甲府から出かけて来ると、そこの森の中から、のそりと飛び出して来やがったのがあの犬でございます。なんだか気味の悪い眼つきをして、わっしの面《かお》を見つめながら後をくっついて来るでしょう、癪《しゃく》に触るから、いま旦那がなすったように、石を振り上げて追い払おうとしますと、あいつが凄い声で唸りましたね。その声でブルブルと、わっしは慄え上ってしまいましたよ。旦那のように睨みが利きませんから逃げ出しました。とうとうここまで追い詰められてこんな怪我をした上に、ごらんなさい、着物の裾なんぞはこの通りズタズタでございます。ほんとに忌々《いまいま》しい畜生ったら」
 金助は兵馬に礼を言うことを忘れて、犬の悪口ばかり言います。
「いったい、この村のやつらが悪い、あんな性質《たち》の悪い狂犬《やまいぬ》を放し飼いにしておくのがよろしくねえ、叩き殺してしまやがりゃいいんだ」
 今度は村の人へ飛沫《とばっちり》。
 この男はしきりに狂犬呼ばわりをするけれど、兵馬は決してあの犬を狂犬とは思っておりません。
「さて、お前さんはこれからどこへ行かれるな」
「ついそこの竜王村というところまで参りますんで」
「帰りに、また犬が出たらなんとなさる」
「脅《おどか》しちゃいけません、もう懲々《こりごり》でございます」
「しかし帰りには必ず出て来る」
「冗談《じょうだん》じゃありません、こんど出やがったら、村の若い衆を大勢たのんで叩き殺してしまいます」
「そんなことをするとかえってよろしくない。察するのにお前は、何かあの犬に怨《うら》みを受けるようなことをした覚えがありそうじゃ」
「驚きましたね、いくら人間が下等に出来上っていたからと申しまして、まだ犬に恨みを受けるようなことをした覚えはございません」
「犬というものは、三日養わるれば生涯その恩を忘れぬ代り、ひとたび受けた恨みもまた死ぬまで覚えているということだ。どうかするとお前は、あの犬に対して意地の悪いことをした、その祟《たた》りを受けて見込まれたものと、どうもそうしか思われぬ」
「そんなことは決してございませんよ、第一、あんな大きな黒犬を見るのは今日が初めてなんでございますから。初めて見たものに恨みを受けるはずがないじゃございませんか、狂犬《やまいぬ》の人食《ひとくら》いに違いございませんよ」
「とにかく、わしもあちらへ行く者、竜王村まで一緒に行きましょう」
 兵馬は金助を連れて竜王村へ入ります。この時分から時雨《しぐれ》の空模様が怪しくなってきました。
「降らなけりゃようございますね」

 宇津木兵馬は一緒に竜王村の方へ入る途《みち》すがら話して行くと、この金公という折助がいかにもくだらない人間であることを知りました。下手《へた》に優しく話してゆくと、直ぐ附け上ってしまう、そうして今の先、木の上で助けてくれ助けてくれと叫んだことなどは打忘れて、自分の得意げなことをベラベラ喋《しゃべ》る。兵馬はなるほどくだらない人間だと思って、いいかげんに話していると、自分が川柳《せんりゅう》をやることだの雑俳《ざっぱい》の自慢だのを、新しそうな言葉で歯の浮くように吹聴《ふいちょう》する。兵馬はいよいよくだらない折助だと思ったが、ただくだらないばかりではなく、兵馬の話しぶりを見ては折々ひっかけるようなことをする。これでは犬に逐われるのも無理はないと、胸に不快な思いをしながら、ともかくも竜王村へ入って来ました。
 竜王村へ入って村を横切ると釜無川《かまなしがわ》の河原へ出ます。信玄の時代に築かれたという長さ千間の一の堤防《だし》。その上には大きな並木が鬱蒼《うっそう》と茂っている。右手には高く竜王の赤岩が聳《そび》えている。金公が先に立ってその堤防の並木の中へ分けて行く時分に、さきほどから怪しかった時雨《しぐれ》の空がザーッと雨を落してきました。
 金助は、兵馬の先に走って、同じ堤防の並木の中の、とある神社の庭へ走り込んで、
「こんにちは、こんにちは」
 戸を叩いたのは三社明神の堂守《どうもり》の家。
「金公かい」
 破れ障子から面を出したのは腰衣《こしごろも》をつけた人相のよくない大入道。
「木莵入《ずくにゅう》いたか」
 ここは神社であるはずなのに、この堂守は怪しげな僧体をしているから、兵馬は変に思っていると金公が、
「さあ、どうかお入りなすっておくんなさいまし、これはわっしどもが大の仲よしで木莵入と申しまする、見たところは気味の悪い入道でございますが、附合ってみると気の置けないおひとよしの坊主でございます」
 金公は金公で、この坊主を捉《つか》まえて木莵入木莵入と言い、坊主は坊主で金公を捉まえて金公金公と呼捨てにしているところを見れば、なかなか懇意な間柄らしいが、兵馬はここで雨宿りをするつもりで中へ入って見ると、炉の中には釜無川で取れる川魚が盛んに焼かれてあるし、貧乏徳利がいくつも転がっています。
 雨はなかなかやみそうもないから、兵馬もつい勧められるままに草鞋《わらじ》を取って上へあがりました。
 そうしているうちに、坊主と金公が碁を打ちはじめました。見ていると金公もかなりに打てる、坊主はなかなか強い、金公に三目置かして打っているがまだ坊主の方がずっと強い。金助はしきりにキザな面《かお》をして例の歯の浮くような文句と一緒に石を並べて、時々キュウキュウ言わせられていると、坊主はそのたびごとに高笑いをして金公を頭ごなしにばかにする。
「どうだ金公、こいつが負けたら四つ置くか、それとも一升買うか。キュウキュウ言ったところで碁になっておらんわ、投げた方がよかろうぜ」
 実際、金公は弱らせられているらしく、キュウキュウ言って盤面を見つめていたが、やがて窮余の一石をパチリと置く。
「おやおや、自暴《やけ》とおいでなすったね、自暴と気狂いほど怖《こわ》いものはないと権現様がおっしゃった。自暴もまた侮るべからず、こうして継いでおけば問題はござるまい」
「なるほど、うーん」
 金公が唸《うな》り出してやがて降参してしまうと大入道大得意、カランカランと打笑う。兵馬はそれに興を催して、
「御出家、一石お願い致しましょうか」
「おやおや、お前様も碁をお打ちなさるか。それはそれは、お若いに頼もしいことじゃ。金公では下拙《げせつ》いささか喰い足りずと思うていたところ、さあ遠慮なくいらっしゃい」
「しからばこの人と同じこと、三目でお相手を致してみよう」
「よろしい、三目、さあいらっしゃい」
「パチリ」
「パチリ」
「これは感心、定石《じょうせき》を心得ておいでなさるところが感心、とかく初心のうちは、そう打っておいでになるがよろしい、其許《そこもと》はなかなか筋がようござるな、見込みのあるお手筋《てすじ》じゃ、そうして定石から素直《すなお》に打ち上げてゆかぬと悪い癖が出て物にならぬ。物の譬《たと》えがここにござる、金公などを御覧《ごろう》じろ、器用一辺で、あっちへ遣繰《やりく》り、こっちへ遣繰り、キュウキュウひど工面《くめん》をしながら打っている、それで年中ピーピー苦しみ通しで、おしまいの果てが投げと来るから目も当てられない。そこへゆくと下拙《げせつ》の如く定石から打ち込んだものには、悠揚として迫らぬところがある、よし勝負には負けても碁には勝つというものじゃ。ここにござる金公の如きは勝負にはむろん負け、碁においてはもとより問題にならず」
 引合いに出された金公が苦《にが》い面をする。
「パチリ」
「パチリ」
「ええ、これはうまい手を打ったな、これはやられたわい、なかなか油断のならぬ手筋じゃ、金公を相手にする了簡《りょうけん》ではチトむずかしい、金公の如きを相手にしている故、下拙もつい見落しが出来て困るて。仕方がない、そこはそれ若い者に花、しかしこれはどうも金公とは違う」
 一口上げに金公金公と、よい方へは引合いに出さないから、金助はいよいよ不平な面をします。
「いや、なかなかやるやる、お前様はよい師匠に就いて稽古をなされたな、ことに上手《うわて》のものとのみ手合せをしておいでと見えて、下手《したて》より上手へ強いお手筋じゃ。いや、頼もしうござる。ハテこの一手、これがわからぬ、いやこれはどうも」
 木莵入《ずくにゅう》は頭の上へ手を置いてしまったが、大分こたえたと見えて、金公の棚下《たなおろ》しも出なくなって唸り出すと、今度は金公が首を突き出して、
「入道、少し困ったな」
「うーん」
「なるほど、定石から打ち込んだものには違ったところがあるな」
「うーん」
「入道、投げた方がおためになりそうだぜ、碁になっておらん、投げて一升買うか、そうでなければ白をお渡し申して出直すんだ」
「うーん」
 やっとのことで入道が一石、千貫の石を置くような手附《てつき》。
 兵馬は番町の伯父の家にいる時、伯父から手ほどきの定石を習い始め、余技とは言いながら相当に心得たものでありました。この坊主なかなか弱くはないけれど、自分に対して白を持つほどの腕ではないと見て取ったのに、三目置いているから、兵馬にとっては楽なもの、入道はなかば頃からさんざんに苦しんで、とうとう降参してしまって苦《にが》い面をすると、金公が大よろこびで復讐の意味を兼ねた駄句を作ったりなどして嘲弄します。入道甚だ安からず思ってまた一石、戦いを挑《いど》む。こんな閑《ひま》つぶしをやっていたが雨はやまないのに、入道は負ければ負けるほど躍起《やっき》になって、兵馬に畳みかけて戦いを挑む。兵馬もその相手になって、とうとうその晩は金公と一緒にこの堂守の家へ一泊することになりました。
 兵馬はその晩、勧められるままに、この堂守の家へ泊り込んでしまいました。
 兵馬を一室に寝かしておいて、かの木莵入と金公とは、酒を飲み出します。金公が薄っぺらな口先でしきりにキザを言っては入道に愚弄されるのが、兵馬の寝間へよく聞える。愚弄されても金公は一向お感じがなくベラベラ喋る。さきに柿の木の上で助けてくれ助けてくれと泣き声を出したことなどは※[#「口+愛」、第3水準1-15-23]《おくび》にも出さず、鬼の三匹も退治して来たようなことを言っているから、兵馬はイヤな奴だと思います。
 この二人はベチャクチャと喋った揚句《あげく》に、打連れてこの堂を出かけて行きました。あとにひとり残された兵馬。大方あいつらはここだけでは飲み足りないで近所の居酒屋へでも飲みに行ったものだろうと思いました。それで兵馬は落着いて眠ることができました。
 その夜中に俄然《がぜん》として兵馬の夢が破られたのは、凄《すさま》じく吠える犬の声からであります。
 兵馬はその犬の声で夢を破られると同時に、外で、
「痛ッ」
と絶叫する人の声。ガバと刎《は》ね起きて雨戸を推《お》し、燭台を取って外の闇を照して見ると、二人とも打倒れてウンウンと唸っているのは金助と木莵入《ずくにゅう》であるらしい。その傍に立っている人の影が一つ。
「もし、あなたは宇津木様ではございませんか」
「エエ?」
 外から呼ばれたわが名。それは女の姿であり女の声であることだけはたしかです。
「もし、わたしは君でございます、伊勢の大湊《おおみなと》を出る時に船でお世話になりました、あの君と申す女でございます」
「ああ、お君どのか」
「そんなら宇津木様でございましたか、よいところでお目にかかりました」
「不思議なところでお目にかかる、ともかくもこれへお入りなさい」
「御免下さいませ。ムクや、このお方はわたしの御恩になったお方ですから吠えてはいけません」
「ああ、その犬は、お前さんの犬であったか、昼のうちにこの先の原の道で見かけた犬。そこに怪我《けが》しているのは誰じゃ。おお、ここの堂守と途中から一緒に来た男、さてこそ何か仔細《しさい》のありそうな」
「これには長いお話がござりまする。この人たちは、わたしに向ってよくないことをしましたから、それでムクが怒ってこんな目に会わせたのでございます、お気の毒でございますけれど、こうしなければわたしが助からないのでございますから、どうかムクの罪を許して下さいまし、ムクが悪いのでございませんから」
「なんにしてもこのままにはすて置けぬ」
 兵馬とお君とは、力を合せて木莵入と金公とを家の中へ担《かつ》ぎ込んで、ムクに噛まれた傷を介抱《かいほう》してやりました。

         十三

 兵馬とお君とは思いがけない対面でありました。お君の語るところによれば、一蓮寺の火事の時、椎《しい》の木の下に昏倒している間に、自分は誰にか助けられて見知らぬところへつれて来られたが、その助けたというのはここにいる金助で、連れて来られたのはこの堂守の家であります。
 堂守はこの明神の御輿倉《みこしぐら》の中へ自分を隠しておいたということ、それは金助の頼みで、今宵は入道と二人、酔っぱらって来て、自分をまたつれだして妾にするとか女郎に売るとかいっているところへ、突然にムクが現われてこの有様となったということです。
 お君はまた、兵馬と別れて舟から上って以来のことを落ちもなく語ると、兵馬は飽かずに聞いていて、お君の身の上に波瀾の多いこと、そのたびごとにムクの手柄の大きなことに感嘆せずにはおられませんでした。
「ああ、それで思い当った。この犬がどうも尋常の犬でないと思ったら、いつぞや伊勢の古市の町で、槍をよく使う小さな人、あまりに不思議の働き故、頼まれもせぬに槍を合せてみたところ、その傍にいた一匹の黒い犬、その面魂《つらだましい》、ちっとも油断がならなかった。さてはこの犬であったか」
 二人の話はそれからそれと続きました。その時、不意にけたたましい警板《けいばん》の音。
 警板はこの堂のすぐ背後《うしろ》、杉の大木に掛けてあったのを、いつのまに抜け出したか、そこへ上って堂守の入道が力任せに叩いているのです。
「あの音は?」
 兵馬もお君も驚きました。
 二人がその音に驚くと、ムクも首を上げて尾を振ります。
 そうすると、わーという人声。早くもそれと覚《さと》った宇津木兵馬は、
「お君どの、こりゃ大事|出来《しゅつらい》、早く逃げにゃならぬ」
「何でございましょう、あの音は」
「ここの堂守が抜け出してあれを打った、それで村の人を集めている」
「わたしたちは何も悪いことは致しませぬ」
「もとより悪いことはしないけれども、何をいうにもこっちは旅の身、向うは土地馴染のある人、悪い名を着せられても急には明《あか》りが立たぬ、そのうち血気に逸《はや》る土地の人、どのような乱暴をすまいものでもない、今のうちに早く逃げなければならぬ」
 戸の外では人の声が噪《さわ》がしい。
「泥棒が入ったぞ、俺もこの通り傷を負ったが、甲府から来た金助は殺された、お堂の本尊様も明神の御宝蔵も荒された、賊はまだ若い、若い前髪の侍と、女が一人に犬が一疋、その犬が強いから噛《か》まれないように用心さっしゃい」
 警板の木の上で入道がおおいに叫ぶ。
 兵馬はお君を促《うなが》して一目散に逃げ出しました。
 大並木をくぐり抜けて、堤を駈け下りると釜無河原。
 兵馬はついに堪《こら》え兼ねて、お君を背に負って河原を走りました。提灯《ちょうちん》や松明《たいまつ》で追いかけて来る大勢の人。
「それ河原へ下りたぞ、向うの岸へ合図をしろ」
 ようやく川の流れへ来て宇津木兵馬、浅瀬を計り兼ねて暫らく思案に暮れていたが、そのうちに乗り捨てられた川船の一隻を、ムク犬が見つけて飛び込むと、兵馬はこれ幸いと同じくその舟へ飛び乗って、お君を下ろすとともに、竹の竿を取って岸を突きました。
 舟は難なく釜無川の闇を下って行きます。
 ほど経て舟を着けたのは高田村というところ、そこで陸《おか》へ上りました。
 高田村で舟を捨てた時分には、もう夜が明けていました。鰍沢《かじかざわ》まではいくらもない道程《みちのり》、兵馬はお君のために道を枉《ま》げて鰍沢まで来て宿を取りました。
 それから兵馬は、甲府へ沙汰してお君をもとの軽業の一座へ送り返そうとしているうちに、困ったことにはお君が病気になってしまいました。
 行手に心の急ぐ兵馬も已《や》むことを得ず、それを介抱せねばならなくなりました。
 幸いにお君の病気は大したことはなく、四日ばかりするうちにすっかりなおってしまい、お君はやっと愁眉《しゅうび》を開いていると、そこへ甲府から便りがありました。その便りはまたも兵馬とお君の二人を当惑させるものでありました。
 お君が入って来た軽業の一座は、あれから散々《ちりぢり》になってしまって、またも旅廻りをしているか、江戸へ帰ったか、それさえ消息《たより》がないということで、お君は落胆《がっかり》しました。兵馬も困りました。
 お君は、仕方がないから、わたしはムクを連れて江戸へ帰ってみようと言い出しましたけれど、それはずいぶん危険なことと言わねばならぬ。けっきょく兵馬はお君を当分の間この宿へよく頼んで預けておいて、自分だけが山入りをすることにきめ、お君は兵馬に気の毒でたまらないけれども、その好意に従って、暫らく鰍沢の町に逗留することになりました。
 今朝、お君を残して山入りをした兵馬。
 ムクを連れて兵馬を送って行って別れた最勝寺前、お君には兵馬の面影《おもかげ》が胸を掻《か》きむしるほどに迫って来て、一人では居ても立ってもいられなくなりました。



底本:「大菩薩峠3」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年1月24日第1刷発行
   1996(平成8)年3月1日第3刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年10月3日公開
2004年3月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。





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