青空文庫アーカイブ

日本文化の獨立
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)神主|度會《わたらひ》氏

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(例)神主|度會《わたらひ》氏

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 私はお話致します前に、お斷はり致して置きたいのは、一體私は日本歴史の專攻者でありませんので、今までお話になつた三人の方のやうに、皆日本のことを專門に研究して居られるのとは一寸別だといふことであります。それでありますからして、今日のお話は前にお話しになつた三人のお方の方が本統のお話で、私のは餘興だと思つて頂き度い(笑聲起る)。自然餘興でありますから、お話の中にいろ/\間違もありませうし、又私は今日遲く參りまして、吉澤博士のお話は承はりましたが前の粟野君のお話も中村君のお話も承りませんので、或は重複することを申上げたり、前のお話と違つた意味のことを申上げたりするかも知れませぬ。尤も前のお話を承はらぬ方が私に取つては都合がいゝのであります、前に專門の方のなさつたのを承はつて居つたら私は全くお話が出來ないやうになつたかも知れませぬ。さういふわけで前の方と違つた事をお話致すやうなことがありましたならば、それは前のお方の方が專門家であり、私の方は素人でありますから、前の方が正しくて私のが間違であると判斷して頂けば確かであります、それだけをお斷り致しておきます。
 それから題が少し突飛な題であります。全體今日の講演會の主意は南朝と大覺寺との關係を申上げるといふにあるやうでありますので、私の演題は一寸かけ離れて居ります。元來私は南朝と大覺寺といふやうな題に就て專門に研究も何も致して居りませぬのです。それでは今日のやうな講演會には出ない方がいゝと云ふ事になるのですが、それには少々譯がありますのです、といふのは學問上には關係はありませんが、此大覺寺が斯ういふことをお企てなさるに就て、詰らない掛り合ひからお骨折りをしなければならぬやうなことになつてゐるのです。それは友人の黒板博士が大覺寺の遠忌に就ていろ/\骨を折て居られるのでありますが、其張本人の黒板君が此の講演會に出席が出來ないといふので、私が名代を申付けられたといふやうなわけになつてゐるのであります。併し私は黒板君のやうに國史の專門家でありませぬから、迚も器用なお話は出來ませぬ、それでやはり私相應の話を致すより外ありませぬのです。
 併し私も日本の文化といふものは、自分の專門の東洋の歴史を研究する上から常に考へて居ります。日本の文化といふものは一體最初はどういふ状態から發達して來て、さうして日本の文化が日本の文化らしいものを作り上げたのはいつ頃からかといふやうなことを考へたこともあります。さうして時々發表も致して居りますが、それに南朝、大覺寺といふものが關係を持つてゐるやうに思ひますので、私の考へてゐる方に都合のいゝ所をお話しようと思ひます。それで突飛ではありますけれども、斯ういふものを持ち出したわけであります、どうか其點をお含みおきを願ひます。
 所で日本文化の由來をお話致しますると、詰らなく長くなりますから、それは凡て省きまして、ともかく日本の文化の形づくられるのに取つて一つの大きな時代、特別な時代、それは丁度この後宇多天皇の頃から南北朝までの間にかけての時代でありますが、この時代はよほど大切な時代であると思ひます。勿論その前からして日本の思想にはすでに色々内部に變化が起つて居つたのであつて、必ずしも此時に始まつたわけではありませぬが、この後宇多天皇から南北朝までの間に變化を起して來た日本の文化といふものは、言はゞ王朝文化の最後の保持者である所の皇室とか公家とかいふやうな一團に文化の變化が及んで來たといふ風に私は考へるのであります。
 御承知の通り、日本ではすでに藤原時代、鎌倉時代の丁度變り目頃からして社會の状態も大變變化して參りまして、今迄勢力がなかつた武家といふものがだん/\頭をあげて來て居ります。それから思想の上にも變化を致したと見えまして、その頃は宗教の方に變化が出來て新しい宗教が日本に出來た。それは全部日本人の考へによつて生じたといふわけではなく、幾らか支那で出來る新らしい宗教を輸入したといふこともありませうけれども、兎に角それが日本の思想の上に著しい關係を持つて來て居るといふ事は間違ないことであります。さういふ思想、それから社會状態がだん/\下の方から上の方へ/\と及んで行つて、最後は皇室並に公家の中にさういふ思想、さういふ社會状態に一致するやうなお方を出すやうになつて來たやうに考へます。それが即ち丁度大覺寺統の龜山、後宇多以下南朝系の天皇の方々の時で、さういふ風な考を持つた人が多かつたやうであります。さういふ人達の間には明らかに革新の機運が漲つて居りましたが、それは一面においては日本内部の社會革新機運となりまして、今迄すべて支那の文化を墨守して居つた日本の文化が、そこに一つの獨立の機運を持ち上げて來たやうに考へられます。さうしてそれは單に自然に社會状態からしてさういふ風になつて來たといふばかりでなく、やはり其時代の有力なる君主、有力なる公家達が居られたために、其機運を促進したのであらうと思ひます。そのことが私に最も興味を惹くことであつて、これが日本全體の文化、思想の獨立に取つて、よほど重大なことであると考へます、そのことを大體お話して見たいのであります。
 先程、粟野君が後宇多天皇の御事蹟を委しくお話せられたやうですが、私はそれを承らぬで殘念に思つて居ります。私は粟野君のやうな專門家でありませぬから、材料としては簡單なことで申上げるより外致方ありませぬ。どなたでも國史の研究に志ある人は北畠親房の神皇正統記を御覽になつて居ると思ひますが、正統記で後宇多天皇のことを拜見しますると大變ほめ奉つて居ります。昔から日本で名君と言はれた天皇方は延喜、天暦、寛弘、延久即ち醍醐天皇、村上天皇、一條天皇、後三條天皇といふやうなお方であつて、同時に此のお方々はいづれも宏才博覽に諸道をもしらせられたといふことを言つて居るが、後三條以後には後宇多天皇ほどの御才は聞えさせ給はずと申して居ります、そして後宇多天皇の學問並に佛教の造詣の深く入らせられた事に就て委しく述べて居ります。親房の議論によると、寛平の宇多法皇の御誡にも天皇の學問はひどく深くする必要はない、群書治要といふ本があるがそれで澤山だといふことが言はれてある。これは唐の初めに出來た本で、支那にはなくなつて日本に殘つて居り、却て支那で珍らしがられてゐる本でありますが、其内容は經史諸子等、支那の本の拔き書きで、天子に重要なと思はれる事のみが書かれてある、その群書治要で澤山である、それ程深くせぬでもいゝといふことを宇多法皇が仰せられたが、宇多法皇は勿論その後の天皇で名君と言はれた方は皆宏才博覽な方である、醍醐、村上、一條、後三條でも皆宏才博覽で文學などもよく出來てゐられるが、後宇多天皇も亦非常に宏才博覽で入らせられたといふことを言つて居ります。この親房の正統記に書いてあることは、後宇多天皇の御遺告即ち今日あちらに陳列してある所の天皇御自身の御遺言の中に書かれてあることゝ非常によく一致して居ります。であれを拜見致しますと、後宇多天皇の御學問といふものは、單に天皇として知らせ給ふべきことを一と通り知らせ給ふばかりでなく、むしろそれには御滿足なさらないで、天子でおはせられながら、佛教の學問ならば高僧と同樣、普通の諸道の學問ならば諸道の學者同樣に、深く知らせ給ふべき御決心を以て研究せられたといふことが分ります、是はよほど注意すべきことだと思ひます。
 さういふ風に非常に學問に御熱心な方で入らせられたのですが、斯ういふ風に天子が學問に御熱心であるといふことは、これは其時代の何かの方面に必ず影響を與へずにはおきませぬ。その影響をだんだんに考へて見ますると、一面においてはお子さんで入らせられる後醍醐天皇が、たとひ一時にもせよ兎に角日本の政治上の革新を立派になし遂げられたといふことに感化を及ぼして居るのであります。神皇正統記によると、後醍醐天皇の條に、後醍醐天皇も非常に宏才博覽でいらせられ、佛教の方の學問に就ては最初は父天皇たる後宇多天皇にお教を受け、さうして其上更に專門の高僧から許可まで受け給うたといふことが書いてあります。
 其他にも影響は色々及んで居りますが、それはあとで申上げるとして、とにかくさういふ感化を各方面に與へてゐるのであります。それから一面には後宇多天皇のやうな御學問に御熱心なお方は、今言つた通り單に天子として學問せらるゝのみならず、殆ど御自分が學者同樣な覺悟で學問せられてゐるのでありますから、其學問の御造詣は自然に當時の普通の人々の考へるやうな程度に滿足せられずして、更に學問の根本に遡らうといふ意氣込があらせられたやうに考へられます。それで御遺告を見ましても、後宇多天皇は殊に密教に精通して居られた方ですが、其密教でも御自分におかれても弘法大師以來相傳の嚴重な方法によつて密教を研究され、又密教の正統を相續する僧侶には同樣に嚴重な規則に從はせるやう御遺言遊ばされたので、實に密教のピユリタニズムとも申し奉るべき固い掟を示されました。又御遺告のみならず、今日も陳列してありますが、弘法大師の傳記も御自筆で書かれて居ります、斯ういふことは即ち教法の先祖である所の弘法大師を慕つて居られたので、純粹なる高祖の教規通りの古に復さうといふ御考から出來たのであつて、末世の僧侶の程度に滿足せられず、密教の根本を究め、先祖のしたことを復興しようといふ御考からであるといふことが分ります。是がすでに革新の機運を促す所のものであります。
 昔の社會上の事情といふものは今日と違ひまして、何でも新しい事を開拓しようとするには、是は支那でも日本でも同樣で、改革論者の多くは復古といふことを考へるのが通例であります。復古といふことが即ちいつでも革新論であります。後宇多天皇が教法上の復古といふことを考へられたのは即ち一つの革新であつて、是が當時の現状に滿足せられない天皇の革新思想を持たれた證據になるのであります。さうして是は後醍醐天皇の御學問、御考への上にも大變な關係を持つたであらうと考へます。近く明治維新といふものを御覽になつても分りますが、維新以前から日本に漲つてゐた思想は即ち王政復古といふことであります、そしてその王政復古がいよ/\爲し遂げられたところが、今度は開國進取といふことに變つて來たのであります、いや變つて行つたのではありませぬで、近頃の言葉でいふとやはり王政復古の延長であります。つまり後宇多天皇のお考へになつた學問上の復古思想といふものは、もう一つ進んで行くと、後醍醐天皇のやうに更に進んだ思想になるといふことは是はきまりきつた事であらうと思ひます。後醍醐天皇のことを申上げずに斯ういふ風にばかり申しても分りにくいでせうが、それはあとでだん/\に申上げるとして、この後宇多天皇の復古思想といふのがよほど大事であることを御承知願ひたいのであります。
 それから次の時代になりまするといふと、後宇多天皇のお子さんの後醍醐天皇が出られますが、不思議にも亦さういふ機運が大覺寺統にも、又持明院統にもあつたものと見えまして、どちらにもさういふ思想を持つた方が出て居ります。即ち北朝――持明院の方においても、花園天皇といふやうな方が出られて、後醍醐天皇と同じやうに革新的思想を持たれた樣に考へられるのであります。それがよほど不思議な現象であつて、ともかくも其時代といふものはよほど革新の機運が漲つて居つたといふことが分ります。併しこの革新機運は必ずしも最初から日本の文化の獨立といふやうなことを考へたのではなく、最後にそこへ到着したのであると私は考へます。
 さて此革新機運は一面において後醍醐天皇の時に宋學の輸入となります、是は學問上における一つの非常なる變化であります。即ち漢學の方で申せば從來は日本朝廷の學問は漢唐以來の相傳の學問を皆繼續して來たのですが、此の時分から宋學が入つて來たのです。これは勿論禪宗が入つて禪宗の坊さんが其時流行であつた所の宋學の影響を受けて來たからさういふのが基になつたのではありませうが、とにかく宋學が來たのです。普通宋學といふと程朱の學問に限りますが、私はもう少し意味を廣く考へておきたいと思ひます。程子朱子より以前又は其以外にも、支那では北宋の時分にいろ/\變つた新しい思想が出來て居ります、例へば司馬温公の資治通鑑などは從來の歴史を一變した所の有力なる歴史であつて、是はやはり當時の思想によほど影響して居ります。ともかく支那の從來の學問に對して新しいことを考へる所の思想が禪宗の坊さんたちによつてだん/\日本に間接に入つて來てゐたのが、到頭後醍醐天皇の時分になつてそれを本統に研究する人が出て來たのであります、それは誰かといふと有名な北畠玄惠といふ人であります。この玄惠法印といふ人はもと/\天台の方のことを稽古した人でありませうけれども、この宋學の本を讀んで程子、朱子の學問をされたことが、其當時行はれた所の無禮講といふやうなものに結び付けられて來たのであります。さういふやうな事は太平記に書いてあることで、太平記は小説見たいなものであるから事實は不確かであるといふ風に從來は言ひ傳へられて居つたのですが、近年になり、花園院宸記――御日記を研究するやうになりましてからは、其中にそれに關することが書いてあることが分つたのです。さうして後醍醐天皇は玄惠法印に講釋をさせられます。從來の學問といふものは清家とか菅家とかいふ風に相傳の學問をする人に限られて居つたが、此時に特別に玄惠法印といふやうな人を召されて、さうして講釋をさせられるといふことになつたのです。そして花園院宸記によると、其時銘々の意見によつて勝手な説を作るといふことになつたが、あれは困るといふやうなことを書かれてあります。ですから其時は宋學の影響を受けて古い經書などを自分の頭で新しい解釋をするといふ風が起つて居つたと考へられます。是は鎌倉以來禪學が流行して從來の眞言とか天台とかいふ傳統的佛教に對して新しいことを考へる佛教が流行つた時に、漢學においてもさういふことが起つて來たのであります。後醍醐天皇といふ方は漢學においても宋學をやられ、佛家の學問においても單に從來の傳統的の學問のみならず、新しいことをやつて禪宗をお好みになつた。これは親房の書いてゐる所によつても、從來の眞言とか天台とかいふ相傳の學問の外に、當時新しく入つて來た所の禪宗などもやられたといふことが明かに分るのであります。
 さういふ次第でありますから、後醍醐天皇は學問上において新思想家でいらつしゃるわけで、其點は後宇多天皇と幾らか違つて居ります、即ち後宇多天皇は從來の密教といふやうなものを根本的に研究し、密教の復古的方法まで進まれたのですが、後醍醐天皇はそれより更に新しい思想で解釋した所の佛教及び漢學をやらうといふ所まで進められたのであります。即ち御父子の間に御考の程度の違つた點があつたわけでありますが、併し前の後宇多天皇の如く復古思想によつて革新機運を起す所の篤學なるお方がなかつたならば、この後醍醐天皇のやうな方が俄かに飛び出して來られるわけはないのであります。やはり後宇多天皇の學者であらせられたことが大いに後醍醐天皇の新思想に關係があるのであります。
 尚さういふ風な思想は啻に南朝の方々のみでなく、北朝系の花園天皇などにも同樣あらせられたやうであります、即ち花園天皇はやはり禪宗がよほどお好きであつて、當時の思想上においては持明院統の天子であらせられながら、やはり後醍醐天皇に對してよほどの同情を持つてゐられたやうであります。これが妙なことに現はれて居ります、それは何かといふと書風の上に現はれてゐるのです。この書風に就いては今日もあちらに陳列してありますが、あれを見ると龜山天皇など如何にも從來の平安朝から鎌倉に相傳した所の日本風の柔かいおとなしい書風でありますが、もうすでに後宇多天皇になるとその御消息などを拜見しましても其書風は當時の書風ではない、假名にしても眞名にしてもいかにも豁達で、今までのやうなおとなしい書風に甘んじて居られなかつたといふことが明かに分ります。それが花園天皇になると更に豁達であります。殊に後醍醐天皇の御書風において最もさうであります。それについてその頃有名な青蓮院の尊圓法親王即ち持明院統の伏見院の御子で後伏見院、花園院と御兄弟で入らせられる尊圓法親王が書に關する入木抄といふ著述をして當時の書風の批評をして居りますが、その批評を拜見すると、大覺寺統即ち南朝派の書風を幾らか攻撃する樣な態度でお書きになつて居ります。近頃宋朝風の書風が書かれるがそれは自分らの取らぬ所である、さうしてさういふものがだん/\皇室の御書風に入つて來て後醍醐天皇もこれをお書きになつてゐると、幾らか攻撃する意味で言つて居ります。これによつて見ても大覺寺統即ち後醍醐天皇の書風が當時新たに入つて來た所の宋風の書風であつたといふことが分ります。所が其尊圓法親王其人の書風がどうかといふと、此人がすでに從來の書風に甘んぜられない。つまり從來は日本の書風を統一して居つた家がありました、丁度吉澤博士のお話にもあつた通り二條家といふものが和歌の風を統一した如く、書道においても書風を統一して居つた家があつたのです、それは世尊寺といふ家でそれが書風を統一して居つたのであります。そこで伏見院も後伏見院も世尊寺風の書をお書きになつて居つたが、尊圓法親王のは別派で全く新しい書風を書かれた。勿論尊圓法親王は宋朝の書風を採られたのではないけれども、とにかく後宇多天皇の復古の學問におけると同樣に復古的書風といふものをやらうといふお考があつたといふことが分ります。尊圓法親王の書風は世尊寺の流派の元祖である行成卿の書風を飛び越えて道風の書風を目的として居つたやうであります。その尊圓法親王は南朝の書風を幾らか攻撃してゐるやうであるが、御自身がすでにその書風において一變化をして居ります。それで花園天皇の書風も宋朝の書風を加味して居つて、南朝の方の書風と類似して居ります。これは思想においても同樣であるが、書風においてもやはり同樣でありまして御兄弟でありながらすでにさういふ違ひが生じて居つたのであります。
 斯ういふのが凡て當時の學問、藝術に關係して居る所の有ゆる革新の機運でありますが、これはよほど面白い事であつて、内部においてすでに昔から有り來つた傳統的のものに安んぜずして、何でも革命的にやらうといふ機運があつたといふことが分ります。その他最も著しい政治上に於いても同樣の事がありまして、あの北畠親房といふやうな人は其點において非常に偉い考を持つて居つたやうであります。神皇正統記も唯國史の教科書として位に讀んで居れば何でもありませんが、實はあれはあの人の政治に對する革新意見書であります。あれを見ると單に昔からの記録をもとにしてあり來りの歴史を書かうとしたものでないことが分ります。勿論皇室の正統が南朝にあることを表明するつもりもあつたに相違ありませんが、單にそれのみでなく、非常な經綸を以て書いた堂々たる當時の日本の政治に對する革新の意見書と言つていゝのです。其根本は勿論親房が司馬温公の資治通鑑即ち君主の政治の參考になるやうに書いた所の資治通鑑を讀んだ所にあるでありませうが、この正統記は單に昔からの歴史を天子にお教へ申上るといふだけでなしに、昔の變化を述べて新しい時代の天子は如何なる覺悟でゐられ、如何なる方法でなさるがいゝかといふことに對する自分の意見を悉く現はした處の著述であります。だから日本第一の歴史家と言つたら此北畠親房をあげていゝと思ひます。日本の歴史の内で自分で立派な經綸的の意見を以てそれを根本として書いたものは少い、其内で親房の神皇正統記は實に見上げた堂々たる歴史であり、同時に當時の革新意見書であります。殊にその正統論を擔ぎ出すところを見ると、これは單に司馬温公の資治通鑑のみならず、宋元時代支那に行はれた正統論を承知して居つただらうと思ひます。たとへば朱子學派の本である通鑑綱目といふやうなものは、當時支那でどれ程流行したか分りませんから、それが日本に來て親房が見られたかどうかといふことは疑問ですが、兎に角宋の時代に朱子學が發達すると同時に正統論といふものが歴史の上においてよほど大事な事になつたのは確かであります。それを承知して居つたので本の名前も神皇正統記といふ風にしたのであらうと思ひます。是は決して想像ばかりではなく、兩方の時代を比較し、内容を較べて見ると、さうあるべき筈だと思ひます。
 さういふ次第でありまして、凡ての事が革新の機運を持つて居つたのでありますが、天子としてはすでに大覺寺統の後醍醐天皇のみならず、持明院統の花園天皇なども入らせられ、それに仕へた所の有力なる公家達にも亦さういふ風な氣分を持つた人が相當あつたやうであります。私はあの時分の人物としては日野資朝といふ人が大變好きです、尤もこれは若い時分好きだつたのですから、老人の今となつて若手の偉い人が好きだと言つても少し年寄の冷水のやうな嫌がありますが、とにかく日本であれ位痛快な人物はないと思ふ位であります。是が其の當時玄惠法印に新しい學問を受け、又禪學をもした人で、のみならず革新の氣分に於て非常に著しかつた點があります。資朝の痛快な事は、徒然草に爲兼大納言入道が北條方からめしとられて、六波羅へつれ行かれるのを一條邊で見て、資朝は「あな羨し、世にあらんおもひ出、かくこそあらまほしけれ」と言つたといふことが載せてあります、却々面白い。それから西園寺内大臣實衡といふ人と禁中に宿直した時に、西大寺靜然上人が腰かゞまり、眉白く、まことに徳たけたるありさまにて、内裏へ參られたりけるを、實衡「あなたふとのけしきや」とて、信仰の氣色であつたので、それを見た資朝は「年のよりたるにて候」と言つた、其後年老つて毛のはげたむく犬を實衡に送つて、「この氣色たふとく見えて候」と言つてやつたといふことですが、さういふ風な痛快な人です。それで後醍醐天皇は言はゞさういふ謀反氣の滿ち/\た人物で取り圍まれてゐたわけであつて、是が後醍醐天皇をしてあの北條氏を亡ぼさしめ、さうしてたとへ一時なりとも建武中興といふやうな大改革をなさしめた所以であります。
 勿論さういふのが當時の一般氣風であつたでありませうが、それは單に公家の人物のみならず、其外の學説思想などにおいても、同樣に其氣分が現はれて居るのであります。こゝに一つ其例を擧げて見ますと、昔から日本には相傳の學説ともなり、一種の信仰ともなつた事に妙なことがあります。それは改元する――年號を改めるに就て、一つの重大なる事柄としてある革命といふことであります。字は今日の革命思想などいふ革命でありますが、意味は一寸違つて居ります。天地間の運數を考へてどういふ時には革命の氣運が來るといふ學説で、これは漢以來行はれてゐる緯書の説から出たものであります、殊に易緯といふものから出たので、すべて天地間のことを周易の革卦から割り出し、五行の運數、干支などで判斷した考であります。それを日本で應用し始めたのは菅公時代の三善清行といふ人で辛酉革命、甲子革令といふことを申したのであります。その辛酉の年といふのは六十年目毎に廻つてくるわけですが、その時は天地革命の運數に當つてゐるのであるから、年號を改めて、天子とか大臣とか言ふ者は非常に注意しなければならぬといふので、此の六十年の二十二倍の年數を一蔀といふのである、それで神武天皇即位紀元の辛酉から齊明天皇の六年庚申までを一蔀完終として居る。辛酉から三年經つと甲子の年が來る、甲子は革令と言ひ又革政ともいふ、或は戊午の年を革運といひ、それから辛酉に革命があり、甲子に革政があるとして辛酉を蔀首とする説、戊午を蔀首とする説と、いろ/\ありますが、其後甲子にも必ず改元することになりました。清行は丁度醍醐天皇の延喜元年が辛酉に當つて居りましたので、そこで今年は辛酉革命の時に當つてゐるから御用心なさいといふことを菅公に言つたのです、それで昌泰といふ年號が延喜に改元されたのですが、其説が非常に有力なものとなりまして遂にそれが代々行はれるやうになつたのです。この辛酉といふ年は六十年目毎に廻つて來て、それから三年經つと甲子といふ年が來る、その時は必ず改元が行はれます。それはずつとのちまで續いて、近代まで行はれてゐましたが、最近では文久元年が辛酉でありまして、元治元年が甲子であります、其の度毎に改元して居ります、勿論戰國時代あたりの朝廷でさういふやうな儀式の出來なかつた時には多少異例もありますが、其他は延喜以來、辛酉革命、甲子革令には必ず改元して居ります。ですから私共は日本の年號を記憶するのに、その事を知つて置くと大變都合がよく覺えよいのです、私は國史家でありませんので年號を宙に覺えて居るのは困難でありますから、この革命革令をたよりにして徳川時代位の年號年數は殘らず記憶するやうに致して居ります。
 さういふわけで此辛酉革命、甲子革令といふことが大變有力な説になつてゐたのでありますが、後醍醐天皇の時になつて是に反對説を出した人があるのです、といふのは後醍醐天皇の元亨元年が丁度辛酉だつたのですが、其時に算博士の三善朝衡と小槻言春とが例の如く革命勘文といふものを上りましたが、大外記中原師緒といふ人が此辛酉革命、甲子革令の説に反對説を出したのです。その理由とする所は、清行の説は緯書に依つたものであるが、神武以來、何の書にも革命といふ説はなかつた、支那にしても經典には載つて居らない。清行が據つた所の緯書の文といふものは今はない、今はなくても全くなかつたといふ譯ではないが、要するに緯書は鄙近で、聖人の書でないといふことを學者が疑つてゐる程である、術數の學といふものも聖人の鄙しむ所である。たとひ又運數は禍に當つて居つても天子に徳さへあらばそれは消えるべき筈のものである、天子の徳によつて目出たい事が出てくるものである。だから緯書の説はあつても、革命は畏るゝに足らない、又信ずるに足らない、今日より群疑を決して、法を將來に垂れんことを請ふと申して、辛酉革命の改元廢止論を唱へました。これは當時としては非常に突飛な議論で新しい考へであつたらうと思ひます、勿論これも宋學の思想が入つて居ります。併し當時即ち後醍醐天皇の時には其説が行はれないで、衆議に從はれてやはり改元になりました。それから甲子の時にも亦改元となり、其後も依然として辛酉革命、甲子革令は日本の歴史において行はれて居りましたが、ともかくも當時において斯ういふ新らしい學説を立てゝそれを言ひ出すといふことはよほど偉いことであります。實際まかり間違へば其當時の考へでは改元しなかつたために地震があつたとか、雨が多かつたとか、騷亂が起つたとか言ふやうな色々な苦情が起る、革命説を採らなかつたから斯ういふことが起つたのだといふ風に文句を言はれようといふやうな際において、ともかくもそんな迷信は役に立たんものだといふ説を出したといふことは、よほど面白いことであります。これは詰り當時後醍醐天皇が宋學、禪學をやられたといふ事の外に、一般の學問上においても革新の機運があつたといふことの一つの有力なる證據だと思ひます、私はこのことをよほど面白い現象だと思ひます。
 さういふ風に有ゆる方面に革新の機運があつて、從來の説を故なく信ずるといふ事はなくなつて來て居つたのであります。要するにこれは内部における革新の機運でありますが、内部にさういふ考があるとやはり外部に對しても自然さういふ考が起つて來るといふのは當然だらうと思ひます。所が丁度其頃に不思議にも外部においては蒙古襲來といふ一大事件が起つて居るのであります。蒙古襲來といふことは當時では非常な事でありまして、一國の存亡に關するやうな大變なことでありました。さうして龜山上皇が親から國家人民に代はられると言うて御祈願を遊ばされたやうな事もある位であります。近頃國史家の説では、此の御祈願は後宇多天皇がなされたのではないかといふことであるが、勿論それは後宇多天皇の御時代でありましたが、後宇多天皇は八歳で天子の位に即かれて、十二三年その位に居られたのですが、其間龜山上皇が實際の政治をやつて居られたのですから、御祈願の張本はやはり龜山上皇で入らせられたかも知れぬと思ひます。開闢以來の大事件たる蒙古襲來を防禦しようといふのですから、有ゆる神佛を信仰して何んでも國難を免れようといふので、伊勢とか石清水の八幡其他に御祈願遊ばされたのです。當時の記録によると、何か大變奇瑞があつて、その奇瑞のあつた時刻が丁度九州に大風が起つて蒙古の船が散々になつた時だつたといふやうな事がありましたが、此等の事が外部に對する文化上の獨立の考が出來るのに大變關係があつたものと思はれます。
 此の石清水八幡で尊勝陀羅尼法を修せらるゝ時、その最も主なる人は奈良の西大寺興正菩薩といふ方であつたやうでありますが、其時の啓白にも、蒙古は是れ犬の子孫、日本は即ち神の末葉(笑聲起る)、神と犬と何ぞ對揚に及ばん、縱ひ皇運末になり政道誠なく、神祇非禮をとがめ、佛天虚妄を惡みたまふとも、他國よりは我國、他人よりは吾人、爭でか捨てさせ給ふべきといふので、いやでも應でも助けて貰はんければならぬといふにあつたやうであります、さういふ祈願は非常に面白い思想だと思ひます。勿論これは蒙古に對する敵愾心からではありますが、こゝに面白い現象が起つてゐるのであります、といふのは今迄日本は支那を以て日本文化の師匠であると仰いで居つた所が、其師匠と仰いで居つた支那が、犬の子孫である所の蒙古のために亡ぼされてしまつて、其蒙古は更に日本にまで襲來し、さうして日本の前には國難が横つて居つたわけであるが、とにかく伊勢の大神宮や石清水八幡、三千餘座の神々に祈願して神の子孫が犬の子孫に勝つたわけであります。そんなわけで今迄貴いと思つて居つた支那も、犬の子孫に統一されるやうではさう大したこともないといふので、遂に支那といふものが日本人に取つてあまり有難くなくなつた、そして其支那を亡ぼした所の蒙古をも日本が神の力で退けたのですから、日本はよほど偉いのだといふので、其神の保護を受けるといふことはよほど偉い事に思はれただらうと思ひます。殊に後宇多天皇は日本は密教相應の國である、密教が盛んになれば日本も盛んになり、密教が衰へれば日本も衰へるといふことを御遺告の中にも書かれて居る位で、密教が國體に一致して出來上つた國であると考へられて居りました、今日の言葉で申せば、つまり最上の文化と最上の國家といふものは一致して居るものだといふ考を持つて居られたのです。それが果して當りまして今の通り神風の效驗があつたのでありますから、當時の人には非常にさういふ思想が強く響いたのであらうと思ひます。
 是が又他の事情といろ/\關係しまして、こゝに『日本は神國なり』といふ考を起させるに至つたのです。當時伊勢の方に一種の神道が出來て居りました、これは外宮の神主|度會《わたらひ》氏から新に出て來た所の神道でありますが、これが北畠親房の學問に影響してゐるのであります。親房は佛教にも深い人でありますが、神道においては新しく起つた所の度會家の神道を採用したのであつて、自分でも神道に關する著述をして居ります。だから神皇正統記の一番眞先の書き出しには、『大日本は神國なり』と書いて居ります。これが神皇正統記の第一句であります。さうして日本は神國だから尊いといふことを言つて居ります。あの天竺が天神の子孫から成立つて居るといふ事は日本と類似して居るが、後に道に變化があつて、勢力あれば下劣の種も國主となり、五天竺を統領するもあり、又支那も殊更亂りがはしい國で、始終天子の系統が變り、力を以て國を爭ひ、民間より出でゝ位に居たるもあり、戎狄より起つて國を奪へるもあり、累世の臣として君をしのぎ讓を得たるもある、日本だけは全く違つて萬世一系であるといふことを論じて、さういふ神の御末であるから今日の皇統も正統の天子でなければならぬといふことを結論にして、そこで南朝が正統であるといふことを明かにして居るのでありますが、親房には實にそれが信仰であつたらうと思ひます。此人の政治上の經綸は皆新しいことであるが、其信仰は非常に固い信仰であります。これは古い思想ではなく、當時我國に起つた所の新らしい思想だらうと思ひます。
 さういふわけで、此日本が世界中一番尊いのだといふ思想は當時において新思想と言つてよからうと思ひます。詰り前には支那を崇んで居つたが、支那は詰らない、印度も亦詰らない、日本くらゐ尊い國はないといふのが當時の新思想であつて、それが根本になつて其頃文化の獨立といふものが出來たのだと思ひます。親房の經綸が新しいと申しましても、根本から其當時の社會を打ちこはして低い者が上に立つて勢力を揮ふのを善いとしたのではありませぬ。即ち親房の議論といふのはよほど面白いもので、今日に應用してもいゝと思ふ點があります、例へば勳功があつたからと言つて勳功のために官位は進めらるべきものではない、勳功は勳功として別に賞すべきものである、昔の日本の制度には勳位が十二等あつて勳功のあるものに勳階をやる、官職は官職として、學問もあり、地位もあり、才徳もあるものに授けてゐたのである、それが中古以來代々の家柄にやるやうになつたが、其家柄の内でも其才があり、其學問のあるものにやるのが正しき政道である、勳功があるからと言つて政治の事を知らない武人などに政治をやらせるのは大いなる間違である、つまり今日で言へば軍閥反對です(笑聲起る)。さう云ふ立派な見識を持つて居つたが、一面又却々新らしい運動もやつたものであります。勿論是は後醍醐天皇の思召でもありましたが、一體官職といふものは文武の道二なるべからず、公家が武職にも任ずるのが昔の法だとあつて、親房の子は多く武事に從ひ、自分も東國に在つて、戰爭をもした人でありました、さういふ風な却々面白い經綸を持つて居りました。併し日本全體の事では日本國家の根本は動かすべからざるものだとして、而も其動かない所が日本の尊い所だ、そこに日本といふものは天竺とか、支那とかいふものと異つた日本獨立の經綸もあり、日本獨立の社會組織もあり、日本獨立の學問思想もあるのだと斯う考へたのであつて、親房は殆ど當時の代表的の人物と言つていゝ、又一人で其當時の思想を代表して居つたと言つてもいゝのです。況んや後醍醐天皇其他の人々が皆さういふやうな考を持て居られたのですから猶更のことです。それで支那の學問の中で、それに適當した宋學を輸入したのであります、そして銘々の頭で古い本を解釋して從來の傳統的の學問には滿足しないといふ所から宋學が入つたのであります。この根本は單に宋學といふやうな支那のものに感服したのではなく、すでに日本の思想といふものを獨立的に打ち立てよう、文化的獨立をしようといふ考が暗々裡に動いて居つたので、それでさういふことが大いに用ゐられるやうになつたのであらうと思ひます。これが日本の文化に重大なる關係を持つて居るのであります。
 併しすべて平和で來た時代のみが文化の盛んになる時ではありませぬ。引續き足利時代となり、其中頃から戰國となつて、文化の上においても殆ど暗黒時代を現はしたが、其間に自然に獨立思想がだん/\行亙つて、さうして日本は神國であつて日本は特別な國體だといふことが、この暗黒時代において一般に浸みわたるやうになつて來たのであります。此事は私が應仁の亂のお話をした際に、皇室が衰微して其の極に達して居る時、皇室中心の思想が足利の末半分ばかりの時において一般に行亙つたといふ事を申しましたが、龜山、後宇多天皇頃から南北朝の始めに起つた所の新思想は、足利時代の暗黒時代を經ても其思想は決して消滅しなかつたやうであります。古い文化は足利時代に滅亡しましたが、新たに起つた所の思想はどこまでも一貫して、それが到頭徳川時代まで來たのであります。徳川時代になるといふと、外國の學問をする人でも、日本を中心に考へる思想が非常に盛んでありまして、それが詰り明治維新、今日の日本を形造る根本になつたのであります。是が非常に重大なることで、しかも大覺寺統の後宇多天皇、後醍醐天皇と密接なる關係を持つて居るのであります。それで南朝が正統とか大覺寺の興隆とかいふことを別としても、私共の考へる所では、ともかくさういふ機運が動き、さういふ機運に相當する龜山、後宇多、後醍醐三代の天皇、或は北朝の花園院の如き名君がだん/″\世の中に出られたので、自然公家の中にもさういふ人が出たのだと思ひます。さうしてその以前から武家といふやうな下層から頭を持ち上げて來たものが、自然に日本の社會組織を改革して行つたのであり、詰り極く官職の低い者が日本の權力を執るといふやうな時代が出來てあつたのでありますが、最後に殘つて居つた皇室とか公家とかにも革新機運が行亙つて來たのが、丁度此時代であります。さうして是は不思議にも大覺寺統即ち南朝といふやうなものと關係を持ちまして、後宇多天皇の復古思想から、次には其延長である所の日本中心思想といふものになつて、さうして日本文化獨立の根本をこゝに築き上げたのであります。このことは私の國史に對する淺い智識で考へましても、多少の材料を以て證據立てることが出來るのであります、それで此の機會において斯ういふお話をしたのであります。
 所が面白いことはこゝに一つの著しい事件を生じて來たのです、丁度南北朝の中ごろ以後南朝はよほど衰微して居つたが、兎に角皇子方が東西にお働きになつて、東には宗良親王、西には懷良親王が征西將軍として九州にお出でになつた。其時代に支那では元明の革命があつて、蒙古が亡びて明が起つた。その時に明の使者が九州に到着したが、支那人の書いたものによると、其時征西將軍は自分が日本の國王だと言つて支那の使節に應對した、處が支那の使者は京都に又持明院統の天子があることを聞いて、そこへも使者をやつたといふ事が書いてありますが、とにかく其時支那では日本國王の不恭を責めて征伐せんと欲するの意を示した處、其時に懷良親王からやつたといふ返事、支那ではこれを日本の上表と言つてゐますが、それが支那の本の殊域周咨録とか、使職文獻通編とか、明史などにも出て居ります。
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臣聞三王立極。五帝禪宗。惟中華而有主。豈夷狄而無君。乾坤浩蕩。非一主之獨權。宇宙寛洪。作諸邦以分守。蓋天下者乃天下之天下。非一人之天下也。臣居遠弱之倭。偏小之國。城池不滿六十。封疆不足三千。尚存知足之心。故知足者常足也。今陛下作中華之主。爲萬乘之君。城池數千餘座。封疆百萬餘里。猶有不足之心。常起滅絶之意。天發殺機。移星換宿。地發殺機。龍蛇起陸。人發殺機。天地反覆。堯舜有徳。四海來賓。湯武施仁。八方奉貢。臣聞陛下有興戰之策。小邦有禦敵之圖。論文有孔孟道徳之文章。論武有孫呉韜略之兵法。又聞陛下選股肱之將。起竭力之兵。來侵臣境。水澤之地。山海之州。是以水來土掩。將至兵迎。豈肯跪塗而奉之乎。順之未必其生。逆之未必其死。相逢賀蘭山前。聊以博戲。有何懼哉。※[#「にんべん+尚」、第3水準1-14-30、128-2]若君勝臣輸。且滿上國之意。設若臣勝君輸。反作小邦之恥。自古講和爲上。罷戰爲強。免生靈之塗炭。救黎庶之艱辛。年年進奉於上國。歳歳稱臣爲弱倭。今遣使臣答黒麻。敬詣丹※[#「土へん+犀」、読みは「ち」、128-4]。臣誠惶誠恐稽首頓首。謹具表以聞。
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此書信にはもとより支那人の手入れがありませうから、どこまで信用して善いかは疑問であるが、大意は變つて居りますまい。即ち日本はあなたの國に較べると國が小さい、あなたは中華の主となつて大きな國に居られる、併しもし戰爭でもしようといふならば決して辭するものではない、あなたの方から兵を遣はして我國を侵すといふことがあつても、其兵隊が來たからと言つて跪いてこれを受けるといふことはしない、あなたの國に從つた所で生きると決つては居らぬ、逆らつた所で死ぬと決まつたものでもない、いつその事賀蘭山の前に行つて一と博奕打つて見ようではないか、何ぞ恐るゝに足らんやなんて言つて、そのあとへ、併しこちらが勝つてあなたの方が敗けたら自分の國の恥ではあると、ずゐぶん大きなことを言つてやつたものです(笑聲起る)。それで支那でも全く驚いたのです。尤もこれは蒙古襲來の時の我邦のやり方に驚いて居つたからでもありませうが、とにかく從來支那のぐるりにあつた諸外國は、何れも支那に對しては中國の君主として尊敬して居つたものであるのに、蒙古の時に使者を拒んだりしたので向ふが驚いた。支那では海外は皆自分の臣下扱ひにして皇帝何々の國に諭すといふ風に手紙なども書いて居つたもので、それが當り前だつたのです。併し日本に對してはよほど考へたものと見えてさうはしなかつた、即ち大蒙古皇帝書を日本國王に奉ずといふ對等の體裁であります、さうしておしまひの所に不宣白と書いてあつた。そこで其時の記録にも臣とせざることを示すなりと書してあります。是位に優遇したならば日本でも喜んで來るだらう、體裁上日本に使者をやりさへすれば朝貢するだらうと思つた。所が日本では返事をしない、度々來るといふので到頭使者を斬つてしまつた。そこで是は途方もない奴だと思つて遂にあの大きな騷動を起すやうになつたのですが、それも失敗した。その時にすでに蒙古の天子は驚いて居つたわけです。
 所で今度は明の太祖が自分は蒙古の天子を追出して中國を囘復したのだから、日本へ使者をやつて日本から又朝貢をさしてさうして體裁を作らうと考へた。そしてもし來なければと言つて幾らか威しの文句を言つてよこしたのです。さうするとそれを懷良親王が見られて、戰爭をするならしようといふ手紙をやつたのです。此時の手紙は日本で言へば、蒙古襲來の時に取つた態度よりも、よほど激しい態度であります、蒙古の時には喧嘩を買つたやうな手紙を出したのではなく唯返事を出さなかつたのです、それを度々來るからうるさいといふので使者を斬つたのです。所が今度のは勢ひがよかつたと言つても九州全體を統治して居つたといふわけではなく、僅かな土地城池を守つて居つたに過ぎない所の南朝の懷良親王が、斯ういふエライ手紙をやつたのです。而も始めから喧嘩を買つた手紙をやつたのだから驚きました。しかし明の太祖も悧巧で、忽必烈のやうな失敗をするのは詰らぬと考へて、自分が死ぬ時に遺訓といふものを書いた、それにはいろ/\な事を書いてあるが、其の中に海外で征伐をしないといふ國が書いてあります、その中に日本が眞先きにある(笑聲起る)。
 斯ういふことで日本が支那に對して氣焔を吐くことが蒙古襲來以來流行つて來たのであります、これは詰り日本の根本の文化の獨立が出來上つたからだと言つてもよいと思ひます。これは丁度蒙古襲來といふ時が後宇多天皇の始めでありまして、そして此の懷良親王の手紙が後龜山天皇の時でありますから、ともかく外國に對する思想の獨立、文化の獨立といふものが大覺寺統を一貫して終始して居ると言つてもよいのであります。これだけのことを申しておきます。(拍手)
(大正十一年五月講演)[#地より1字上げ]



底本:「内藤湖南全集 第九巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年4月10日発行
   1976(昭和51)年10月10日第3刷
底本の親本:「増訂日本文化史研究」弘文堂
   1930(昭和5)年11月発行
初出:講演
   1922(大正11)年5月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年11月28日公開
2003年5月25日修正
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