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近代支那の文化生活
内藤湖南

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)だん/\さうなつて
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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     一

 問題は如何にもハイカラに聞こえる問題でありまして、近頃の考へに向きさうでありますけれども、材料は私が考へて居る材料でありますから、至つて古臭いので、一向内容にハイカラな所はありませぬ。
 抑も支那の近代といふことが一體どういふことか、歴史の學問をやりますのに能く時代を上古とか、中世とか、近代とか申して分けますけれども、支那はあゝいふ古い國でありますから、其の各々の時代を朝名の明代とか清代とかいふやうに分けたりすることもあります。大體明代とか清代とかいふ風に分けますのは、眞に便宜上の區別でありまして、それは殆ど學問上からいふと何の意味も成さぬ位のことであります。それからして近代とか古代とか申しました所が、我々が今日存在して居る年から逆に遡つて何年位までが近代であるか、何年位までが中世、何年位までが古代といふ風にはつきりと分けられると結構でありますが、それがどうも國によつて一樣でありませぬ。手近な處で考へました所が、日本の開闢は何年程になりますか、よく我々は紀元二千五百年とか申しますが、專門の歴史家の方からいふと耶蘇紀元と大抵似た位に日本が開けたやうに申します。兎に角二千五百年と致しました所が、支那のやうな、日本より倍でもありませぬけれど、能く一口に四千年などと申します。四千年が三千年であつても日本とは大體年數が違ひます。もしそれで國とか或は民族といふやうなものも、其長い年數の間生活して續いて來て居るものと致しますれば、其の間に開闢から今日まで四千年程齡をとつて居る國もあり、日本のやうに或は二千年位齡をとつて居る國もあるわけであります。さうしますと、同じくその中で古代とか、中世とか、近代とか分けましても、其の各々の年數が違つて來ます。これは單に素人の考へでやりました相違でありますが、その外にも、その國の事情に依つて、色々又その見方を違へなければならぬことが出て來ると思ひます。さうして實は國とか民族とか申しますものは、其の時代を分けるのには、さう簡單に年數などで以て分けらるべきものではなく、根本に其の國、其の民族の…………一人の人間で申せば幼稚な時期と青年の時期と、それから老衰の時期とある如く、國とか民族とかいふものにも、さういふものがあると致しますると、古代といふやうな幼稚な時期がどの位、何年から何年位の間に當る、中世といふのはどの位からどの位に當るといふやうな、各々相違があるわけであります。さうして其の又各々の時代、幼少の時期、それから壯盛な時期、それから老衰の時期といふやうなのは、その各々の國に特別なこともあり、或は各民族に共通した點もありますが、要するに各々時期に依つて有する内容が違ふと思ひます。それを本當に考へぬといふと、單に近代と申しましても、近代といふことが一體どういふ意味か分らない。それで殊に支那は今申す通り、日本などから見ると殆ど倍に近い程も年數が長いのでありますから、一體どれ位の時代から近代か、その支那の近代といふものが有つて居る内容がどういふものかといふことを知らなければならぬと思ふ。どういふ風にしてこれを定めるかといふことは、それは少し歴史の專門の方に渉りまして、今日はそれを一々申上げるわけには參りませぬが、兎に角私共が信じて居る近代といふものゝ内容がどういふものか、それは支那に限りませぬ、日本でも或はヨーロッパあたりでも同樣でありますが、近代といふものゝ内容に是非なければならぬ條件がどういふものか、それを考へぬと、支那の近代と一口に申しましても、近代といふ意味が十分に分らぬと思ふ。

     二

 その事を先づ第一に申したいと思ふのでありますが、その近代の内容の中、一つは平民發展の時代、これはヨーロッパあたりにしますと、斯ういふやうに歴史を考へることは、何でもないことでありますが、支那の近代がどういふわけで一體平民發展時代になつて居るかといふことは、容易に分り易い問題ではありませぬ。支那の平民發展時代と申しましても、平民に參政權が出來たといふわけではありませぬ。今日でもそれが確實にあるわけでありませぬから、況や以前に於て平民が參政權を有つたといふ時代があつたわけではない。それで近代が平民發展時代といふことはどういふわけかといふことを先づ第一に考へて見なければならぬ。しかしながら又よく考へて見ますと、參政權といふやうなこと、即ち參政が權利化して、實際これが法律に纏つて出來上つて居ることが、必ずしも近代に是非なければならぬ條件ではない。參政權がなくても事實平民の發展する時代がある。それは殊に支那の如きがさうであつて、時としては平民發展時代が即ち君主專制時代であります。君主專制時代がなぜ平民發展時代かといふことは、これは今日のやうに政治のことは何でも西洋流にして考へる方からいへばをかしなことでありますけれども、支那では平民發展時代が即ち君主專制時代である。それはどういふわけかと申しますと、平民發展時代の前は貴族の時代――貴族の時代と申しますのは、これは君主といふやうな一元の貴族が世の中を横領して居るのではなくして、多數の貴族が政權に參與して居る時代であります。それが近代といふものになりますとそれが無くなります。それで貴族の盛であつた六朝から唐あたりの時代は、平民が貴族の爲に壓迫されたと申しますか、兎に角政治上の權力を貴族に專有されて、平民が何等のそこに權力もなかつたと同樣に、君主も同樣に貴族に對して實際の權力がないのであります。それで君主と平民といふものは同じやうな事情に置かれてあつた。それで貴族時代が崩れて、さうして君主も貴族から解放されます、平民も貴族から解放される。丁度平民が解放された時代が即ち君主も解放されて、さうして君主が政權を專有して居りましたが、それに支配されるものは平民で、その間の貴族といふ階級が取れましたから、それで君主專制時代が即ち平民發展時代になります。これは實は斯う抽象的に言つたばかりではお分りになりにくいと思ひますけれども、極く簡單に申上げますればさう申上げるより仕方がない。その内容を詳しくいふことになりますれば、これは支那の近代史を本當にやらぬと駄目で、僅かの時間では盡す事が出來ませぬ。
 夫に就て極く簡單に、どういふ風に君主專制時代が平民發展時代になつたかといふことを例を擧げて申上げる。それが著しく支那に見えて來ましたのが、宋の時代に王安石といふ人が新法を行ひまして、歴史家の書いた所ではそれが非常に惡法で、その爲に宋の國が弱つたといふやうなことを言つて居りますが、併し今日から王安石が新法を執り行つた時代を見ますと、新法の施行に依つて我々ははつきりと平民が政治上に實際の權利を占めて來る樣子が分ります。それはどういふことかと申しますと、王安石といふ人が青苗錢といふ法を行つた。これは簡單に申しますと、米を植ゑ付ける前、苗の時に人民に金を貸付けて、收入のあつた時に利息を附けて返還させる法であります。これが善い法であつた筈であるのに、結果が惡かつたのでありますが、それが大變面白いと思ひます。平民に金を貸付けて平民が利息を納めるといふのは、平民の土地の所有を認めて居ると同じこと、それによつて政府が平民の土地所有を認めて居つたのであります。それも詳しく申さなければ十分に分りませぬが、先づ簡單にいへばさうであります
 それからその次は勞働の自由であります。これも王安石の時に定まりました。それは唐代の支那の勞働に關する政治といふものは、日本にもありました租庸調の法といふのがあります。租は地租であります、調といふのは織物などを納める税であります。その中に庸といふのが勞役を政府に對して供給する義務であります。即ち一年に幾日か必ず政府の勞役に服さなければならぬ。勞役といふものはつまり人民の義務であつて、政府から命令されると拒むことを得ないものでありましたが、王安石は之を代へて雇役といふものにしました。さうなりますと政府がどれだけの賃銀をやるから勞働の募集に應じないかといふことにしまして、さうしてそれに對して人民は賃銀を貰つて働くまでゞ、人民が勞働したくないものは應じない、勞役したい者が應じて賃金を貰ふのでありますから、これは勞働の義務でなくして勞働が人民の權利になつて自由になつて居ります、即ち勞働の權利を人民に認めて居ります。
 それから商工業の生産品の自由を大體宋代に認めて居ります。それには和買といつて、人民と政府と相談づくで人民の持つて居る物を買ひ上げるといふことがあります。これは王安石以前からある法でありますが、政府から春に錢を人民に貸して置いて、夏秋に至つて其代りに絹を官に出さすのでありますが、これは名義は合意でありますけれども、其後になつては官より無理にやらすことになつて、一種の弊政となつたのは實際であります。けれども制度の立て方は、人民の持つて居る物を政府が合意の上に買上げるといふことでありました。王安石は更に市易といふものを考へた、田地絹物などを抵當として政府から約二割の利で金を借る法であります。それらは皆人民の物品の所有權が確定されたやうなものであります。
 それから又全體の財産の自由をも認めて居る。それは王安石の後に行はれたのでありまして、これも後に弊政だといふことになりましたけれども、手實法といふものを實行しました。それは人民に自分の財産はどれだけの値段がありますといふことを自分で申立てさせる、丁度所得税を取るときにその所得額を申立てるやうであります。さうしてそれに對して二割といふ税を課することにした。これは實際は官吏が横暴で、今日の營業税などの如く、官吏が横暴に額をきめる弊がありまして、官吏が勝手に額を決めて重税を課しましたけれども、制度の精神としてはさうでないので、人民が自分で私の財産は何千圓なら何千圓の値打がありますといふと、その内二割を税に取る。それは一方から考へますと財産といふものゝ自由を認めて、さうしてそれに對する税を課するといふ意味になります。
 斯ういふことで人民の所有權を認めて居ります。その前は謂はゞ人民の財産といふものは國家が自由にすることの出來るものだといふことでありまして、人民に本當の所有權が有つたか無かつたかといふことが問題であります。尤も歴史的に言へば、この新制度も王安石の時に一遍に生じたのでなくて、だん/\さうなつて來て居るので、その歴史を話せば長いことでありますが、兎に角斯ういふことが王安石の新法ではつきり致しました。さういふことで、人民の私有といふことの明白になつたのが、私は近代の内容のはつきりした事情の一つと思ふ。
 これが物質的のことばかりでなくして、精神的のことにも及んで來ました。大體漢から唐までの學問といふものは、先生から傳へられたことを守つて、それをだん/\解釋をして演述して行くことは出來るけれども、傳來した師説に背くことの出來ないのが漢から唐までの學問のやり方でありました。それが唐の中頃から自由研究といふものが起つて來たのでありますが、唐の時にはその芽生えが出來た丈けでありまして、宋の時にその自由研究の精神が盛に起りました。それで昔から在る所の經書などに致しましても、傳來の説を守らぬでもよくて、自分の考で新しい解釋をして少しも差支ないことになりました。それが平民時代の平民精神が學問に入つて來たのであります。貴族時代は家系の傳來を重んずると同樣に、學説も傳來を重んじて居りましたが、それが宋の時代になつて自由研究になつた、さういふのが平民時代の特殊な状態であります。
 更に藝術の事に及びますと、此の時代に始めて文人畫といふものが出て來ました。勿論それまでにはだん/″\歴史があるのでありますけれども、世に謂ふ所の南畫の中に文人畫といふやうなものが特に一つの途を開きました。その前からあるといふ説は、支那畫を論ずる人になりますとだん/″\ありますが、私はこの一種の畫の描き方はやはり王安石の時代頃から起つたと思ひます。その文人畫の眞意は、藝術家の專門離れのすることであります。その前は畫は畫工といふ專門家が描くことになつて居りました。所が宋代に新に起つた文人畫といふもので素人が畫を描くといふことが始まつて來た、素人でも藝術に嗜みのある人は畫を描いても差支ないといふことになつて來ました。それが即ち專門家離れをするといふことでありまして、昔唐の初めまでは、畫の題材としては大抵昔から經書とか歴史とかに在る故事來歴に關係したことを畫に描きました。山水は六朝の中頃から發達しましたが、山水でも專門家が特別に研究して描きますから、非常に變つた景色の處を描くことでありましたが、文人畫といふものが、文與可、蘇東坡などによつて起りましてから、唯都から餘り遠くない、誰でも見得る處、誰でも描き得る處の山水を描くことになりました。それが藝術の專門家離れをしたことで、藝術にさういふ精神が入つて來たのであります。
 それから工藝でありますが、工藝といふものは餘程考へやうによつては面白いものであります。文化の要素は色々ありませうが、私は文化の程度のはつきりと分るのは其邦の工藝が一番だと思ふ。これを一々茲で説明するには餘り餘裕がありませぬから、私が考へて居る結論だけを茲に述べます。所が工藝に平民精神といふものが宋の時に入つて來て居ると私は考へます。漢から唐までは工藝といふものは朝廷若くは貴族の需用に應ずる爲に作つたものであります、平民は何にもそれに關係のないものであります。それで其の工藝は多くは經濟といふものを無視して、特に朝廷に職人を雇つて置きまして、さうして其の職人に、日本であつたら禄をやるやうに、食ふだけのものをやつて、幾ら金が掛らうが、日數が掛らうが、そんなことに構はずにやらす所の工藝が、漢あたりから出來て居つたのであります。宋の頃になりまして平民相手の大量生産が始まつて來ました。それは織物、陶器に於いては殊に著しい。大量生産といふものが工藝の平民化であります。これは後でもう少し詳しく申しますが、兎に角斯ういふことで、總て宋以後は政治でも、學問でも、藝術でも、工藝でも、汎ゆるものに平民精神が入つて來て居る。是が近代の一番大事な内容と思ひます。
 それで私は平民時代即ち近代といふものを宋以後として居ります。唐の末から五代までの間は、前の貴族時代から平民時代に入る所の過渡期でありまして、貴族の崩れる時代でありますから、これは貴族時代でもない、平民時代でもない、その中間の時代で、兎に角宋の時代から平民時代といふのであります。其後元代に蒙古が支那を取つた時分などは、多少古代復活といふやうな姿が見えたことがありますが、それは蒙古人のやうな文化の程度の低いものが來て支配權を有つたものでありますから、支那でいへば古代的精神を支那の近代に復活しようとする傾がありますので、幾らか異つた情態になりましたけれども、元は僅か百年位で終り、それから明清となりますが、此に至つて平民精神が又盛になつて、どうしても昔の貴族時代には戻らなくなる。これが即ち近代といふものゝ要素の一番大事なもので、即ち平民發展といふことが其れだと私は考へて居ります。

     三

 それから第二は政治の重要性減衰といふことであります。つまり民族なり國なりの生活要素の中に、政治といふものが昔は相當に重要なものでありましたが、それがだん/″\政治が重要であるといふ性質が減衰して來るといふことで、政治が民族生活の主な條件ではなくなるといふことであります。政治のみが民族の生活の最も主な條件だと考へて居つた時代が過ぎ去つて、さうしてそれが平民時代に變つて來るといふことであります。
 世の中の人は今日でも政治に熱中するのでありまして、何を措いても政治といふものに就てはやかましいことでありますが、私は政治といふものは人間の生活の中では原始的の下等な事だと思つて居ります。政治といふものは人間にばかりある譯でない。政治の主なるものは支配といふことでありますが、支配といふことを理解して居るのは決して人間ばかりでありませぬ。蜂とか蟻とかいふものは立派な支配權を持つて居り、牛や犬なども大なる支配權を持つて居ります。支配といふものは一體動物生活の、近頃の言葉で申すと延長です。それで人間の生活の中で政治といふものは必ずしも最も重要なものでないのみならず、これは動物時代から續いて來て居るので、たとへば人間に尾※[#「※」は「低」の「にんべん」に変えて「ほねへん」、読みは「てい」、第3水準1-94-21、128-1]骨がある位のものと私は考へて居る。昔の貴族は政治の外にいろ/\高尚な生活をして居りました。貴族には學問もあり、藝術もあり、工藝もあり、いろ/\な生活要素を持て居りましたが、平民といふものは支配される一方であつて、さうして君主といふものは謂はゞ支配する一方であつて、共に至つて簡單な生活を營ませられて居つた。それで平民が哀れなものであると同時に、君主も隨分哀れなものであつた。君主はいろ/\な道徳を強ひつけられて、人間なみの欲望を遂げる機會が至つて少い程に強ひつけられまして、さうして纔かに生活をして居つたので、それで君主と人民とは生活が至つて貧弱になつて居たのであります。
 それが平民時代になつて來ますと、だん/″\平民の生活の要素が豐富になつて來ます。平民が人に服從する爲の必要でなく、自分の生活の爲に道徳を必要とするやうになり、平民が知識を持つやうになり、平民が趣味を持つやうになつて來ました。斯ういふことは貴族時代には平民には大して必要がなかつたのみならず、又持ち得なかつたものであります。貴族時代には平民は唯税を搾り取らるゝ道具みたやうなものであつたのでありますが、それがだん/″\銘々に貴族が持つて居つたものを持つやうになつて來た。こんなに私が申しましても、極めて簡單な説明では納得しない人があるかも知れぬのみならず、それは歴史をやらない人ばかりでなしに、歴史家の中でも、此の政治の重要性減衰に就ては、特に支那歴史家に隨分反對論があり得るのであります。併し反對する人は政治を人間生活の重要な要素だと考へて居る人でありまして、さういふ人は政治が動物生活の延長だと考へて居らぬのであらうと思ひます。それを分り易く申さうと致しますには、民政の意義が古代と近代とに於て相違して居ることを明らかにせぬばなりませぬ。漢あたりの民政といふものは、純粹に人民を正當に治める爲の仕事で、善き民政官即ち循吏といふものが、史記とか漢書に特別の傳を作られてありますが、さういふ人達がどういふことをして居つたかといふと、丁度大岡裁判などのやうなことをやつた人が多いので、先づ良い裁判をやつた事、それから地方の人民の中で暴威を揮つて威張る者を抑へ付ける事、又人民の租税などを寛大に公平に取る事といふ位なものでありまして、官吏といふものゝ仕事が至つて簡單であります。古い時代の循吏といふやうなものはそれだけの要素があれば宜い。それで地方官などをしてさういふことに秀でた人を、成績が擧つて居るから、宰相にしたら宜からうといふので、中央政府に引張つて來て宰相にすると、さつぱり役に立たなかつた人などがあります。所がその後唐宋以後になりますと、官吏の生活といふものが餘程變つて來ます。單にさういふ名裁判をやつたり、富豪や無頼漢を押へ付けたりするだけのことではいかぬやうになつた。殊に近代になつては、日本でも官海游泳術といふ言葉がありますが、官海游泳をするのにはいろ/\な技巧を要するやうになりまして、生活が大變複雜になつて來ました。それで支那には妙な官海游泳の技巧の教科書がある、宋あたりからそれがあります。それで宋以後の官海游泳といふものが如何に技巧を要するものになつて來たかといふことが分ります。清朝になつて出來たもので、日本の古本屋にいくらでも轉がつて居る福惠全書といふものがあります。日本でも徳川時代にはあゝいふ本に感服しなければならぬ事情があつたと見えて、之を訓讀して出版した人は、態々長崎まで行つて、支那人にいろ/\聞いて假名を附けて出版をして居る。今では殆んど實際上必要がないものでありますが、それを見ますと、官海游泳術の祕訣が鄭寧親切に書いてある。さういふやうに、近代になると官吏生活といふものが大分複雜になつて來ました。
 その外に近代の官吏といふものが、官吏生活に滿足して居るかといふことが問題になります。昔は循吏などゝいつて、成績の良い人は宰相に擧げられ、宰相に擧げられて成績の上がらない人もあつたが、兎に角さういふ途があつた、それで一生懸命になつて官吏をやつたのであります。近來でもたまには特別の性質を持つて居つて、官吏で仕事をすることが面白くて死に物狂ひで官吏をする人がある。李鴻章などはさういふ人でありました。李鴻章の先輩曾國藩は、死に物狂ひで官吏をやつて居るものは李鴻章だといつて居ります。事實曾國藩ほどの人でも、李鴻章の如く死に物狂ひで役人をして居らなかつたのでありませう。それは官吏生活に併せて外の興味を持つて居るのが近代官吏の常であるからである。
 近代の官吏をする人、殊に地方官などは、普通三年位で罷めるものでありますが、それから續いてやる人もありますけれども、先づ支那では三年間も地方官をすれば、其の間に一生食へることを考へます。支那人が一生食ふことになつて、それから先何を要求するかといふと、學問とか文學とかで名を遺すことであります。古代より近代ほど官吏の作つた詩文集が非常に多い。漢の時代に名宦であつた人に詩文集などは殆んどないのでありますが、宋以後の人で苟くも有名な官吏をして居つた人に詩文集のない人は少ない。その中にはつまらない者もありますけれども、今日傳つて居る詩文集で、官吏をして居ない人の詩文集は至つて少ない。さういふことで、支那人は官吏をするが爲めに官吏をして居るのでなくて、それは生活を保證する丈けにして、餘暇を得て何か世に殘る著述をしようといふ、それが官吏の目的なのであります。それだから隨分惡官吏でありまして、むやみに租税に附けかけをしたり、懷を肥す者もありますが、それで立派な著述をしようといふ心掛の人がある。我々の尊敬して居る學者でありますが、王鳴盛といふ人が清朝の時代にありまして、その人は官吏をして居るときは餘程取り込みの盛んな人であつた。この人は何でも金を貯めなければならぬと考へて、金持の家に行くと、何か門口で物を取込む手つきをする。是は金持の氣といふものがあるので、それを自分に取込むと金が出來るといふことを信じて頻りにそれをやつたといふ。その人が言ふのには、官吏で以て善い官吏とか、惡い官吏とかいふやうなことは一時の事である、末代に殘る善い著述をすれば、官吏で惡いことをしたのも帳消しになると言つた。それが近代の支那人の官吏根性であります。
 さういふ風で、實際政治に携はる官吏が既に官吏を以て終生の目的として居らぬ。それで官吏自身が政治といふものを重要のものと思つて居らぬ。其の外にも例がありますが、それだけでも近代の政治の重要性が減衰して居ることが分ります。
 先づ此の二つが近代といふことの内容といつても宜いかと思ひます。

     四

 それでは愈々近代の生活要素といふものは、どういふものから出來て居るかといふことを申します。
 第一 は平民時代の生活の新しい樣式の發生に就て申します。その平民時代の平民の生活新樣式の主なるものはどうかといふと、大衆に共通する生活であります。大衆に共通する生活をする爲に、天性のある者、特殊性のある者が壓迫されることが著しくなります。それが大衆の向上する所からだん/″\出て來るわけであります。これが平民時代の新しい樣式の出て來る所以でありますが、さう申した丈けでは、餘り説明が簡單で分りにくいだらうと思ひますから、先程申した一つの例を擧げて、その心持がお分りになるかどうかといふ材料に供して見ませう。
 先程近代的織物が貴族的織物と異つて大衆本位になつて來たといふことを申しました。これははつきりと證據がいへます。近代元明以後、最も支那で良い織物として、最も多量に出來ます織物は緞子であります。この緞子といふ名前を見て、織物が大量生産になり、大衆向になつたといふことが分ります。緞子は實は段子と書いて宜いので、その段子といふことは織物の一反二反といふ反のことであります。近代支那で天子の御用の織物をしまつて置く庫があります。そのことを段匹庫と申します。それは織物をしまつて置く庫といふことであります。日本でも織物のことを反物と申しますのは、これと同じ意味で付けた言葉であります。つまり段子といふのは、日本に飜譯して反物といふと同じ意味、即ちこれは反で出來るといふことでありますが、反で出來るといふことは大量生産といふ意味です。貴族時代のやうに、一寸が必要であれば一寸の織物を作る、一尺必要であれば一尺の織物を作るといふことでない。兎に角大量生産をするので、織物には反にすることの必要が出て來る、それが段子といふことの起源であります。その段子といふことが支那の織物の善いものといふ意味になりましたのは、善い織物を多量に生産して來た、大衆生活が向上して、織物の需要の多くなつて來て居ることを現して居る。さういふことで、自然に又特殊性のものが壓迫されまして、漢の時などのやうに、天子に御用だけの特別の必要の織物を造るといふことはなくなりまして、近代では織物生産の地方に官吏を派遣して、織物の生産地から官用の織物を拔取つて都に送ることになつて居りますので、詰り織物の大量生産の中から、朝廷でもそれを拔取るだけの話でありまして、天子が入用だけ、一寸いれば一寸、一尺いれば一尺造るといふ特殊性がなくなつて來た。これが平民生活の新しい樣式といつても宜いかと思ひます。
 第二 として、民族生活の永續より來る結果。これが又一つの重要な事柄であります。先程も申しました如く、民族といふものが、幼少の時代から壯んな時代を經て、老衰した時代に、個人の如く來るものとしますれば、平民時代といふものは大體民族生活の衰頽期に近いて居る。我々が近來頻りに民主々義とか何とかいふものをひどく謳歌しますが、併し實は民族の生活からいふと、民主々義といふやうな時は衰頽期であつて、その衰頽期といふことは又一種の特殊性を持つて居ります。人間一個人にしましても、子供の時には食物なども淡泊なものを要求します、それから自分がやる事柄でも簡單な事を要求しますが、中年の壯な時は濃厚な食物を食べたがつたり、複雜な仕事を喜ぶやうになります。老衰期になりますとそれがだん/″\又簡單な食物を要求し、若し單純なものを食べなかつたら中毒します。民族とか國家とかいふものもさういふものでありまして、それでだん/″\平民時代になりますと、人工を極度に進めた結果として、人工から天工と申しますか、天然に還る有樣になつて來ます。それは支那の歴史からいふと、唐までは人工的にだん/″\進んで來たと申して宜いでせう。朝鮮の樂浪などの發掘物を見ますと、漢の時に已に織物などがよく進みまして、それ以來唐あたりまでは、樣式が變化するだけで格別進歩するといふことはないかとも思ひますが、兎に角大體唐まではだん/″\向上して進んで行く時代であつたといふことが出來ます。さういふ時代には、歴史を書く人も幾らかさういふ意氣込を以て書きまして、其の作られた歴史も進歩の觀念を持て居ます。唐の時に有名な通典といふ本がありますが、その通典を見ますと、通典の著者即ち唐の宰相の杜佑といふ人は世態の進歩を認めて居る。つまり社會がさういふ風な状態であつたから、歴史家もさういふ風な考が起つたのであらうと思ふ。それが宋以後になりますと引くりかへつて來る、何でも總て古代に復へる傾を持つて來ます。それを極く簡單に項目を擧げて申しますと、道徳といふものがだん/″\平民本位になつて來まして、天子の生活さへも平民道徳でこれを縛るやうになつて來ます。宋代の名臣殊に諫官などが天子に對して要求する道徳的生活は平民と同じやうな原則で要求して居る。それから趣味などもだん/″\復古的の傾を持つて來て居る。唐までは庭園を造るとか、樓閣を造るとかいふやうなことは、人工的の物を造ることが盛でありました。然るに宋の時になると、最も奢侈を極め、亂暴な贅澤をした天子は徽宗皇帝でありますが、其徽宗皇帝の趣味さへも、原始的な野趣を求むるやうになつた。都の中に大きな庭園といふよりも森林を造つて猛獸毒蛇を入れて、さうして天然と同じやうな景色を作つて生活を樂しまうとしたことがあります。さういふことは趣味の復古的傾向でありますが、之と同時に其趣味を反映して居る所の畫なども同樣であります。樓閣山水といふことを支那で申しますが、樓閣を主とした山水は五代で終りました。繪畫で以て寫眞のやうに複雜な微細な技巧を現はすやうなことは、宋以後はしなくなりまして、さうしてその以後は自然の山水畫が盛になつて來た。それから不思議なのは醫者とか養生に關する方法さへも同樣であります。唐までの養生法は、何でも外部から藥で以て攻めつける養生法で、天子や貴族などが長生をしたいといふ、長生をしたいといふことは老人に至るまで女でも樂みたいといふやうなことでありますが、さういふことは皆藥を以てやらうとした。それで非常に刺戟の強い鑛物性の藥などを飮んで、それに中てられて死んだ天子などがよくあるのであります。宋以後はさういふことを止めまして、さうして内部の養生をして行かうといふ傾になりました。それで道教の方では養生の爲の藥を丹と申しますが、丹は長生不死の藥であります。宋以前は外丹の法でありましたが、宋以後は内丹の法といふものになつた。それは獨り按摩をするとか、體操みたやうなことをして養生をして、自分の身體の力で藥の力を假らずにやることを考へるやうになつた。それですから古い養生の書などに對する解釋が變つて來ました。昔の藥のことを書いた本でも、元來が外丹の意味であつたものを内丹の意味で解釋するやうになりました。宋の朱子が參同契考異といふ本を書いて居りますが、それは外丹を内丹で解釋した一つの著しい例であります。醫者の治療法でも變りまして、從來は對症療法で、病氣の在る所を藥で攻めて治すといふことでありましたが、宋以來の治療は温補と申しまして、病氣が起つた時は、一定の期間體力を補充して置くといふことを考へました。さうすると自然に體内で病氣に反對する抵抗力が増して來ますから、自然と病氣が治つて行く、さういふことを醫者の方で考へるやうになりました。斯ういふことが總て支那の民族生活があまり長く續いた爲に、反動的に古代生活に還らうとする傾が出來たのであります。
 第三 には、又支那の特別の事情で、外の民族の侵入を受けて、一時金や元に支配された時代が出來て來ましたが、それが不思議に支那の民族の内部から出た所の復古的精神と偶然に出合ふ時代が來て、徽宗皇帝が庭園の中に禽獸を放し飼した時に、斯んなことをすると國が亡びると誰かゞいつたが、果して金に亡ぼされて一時野原になつたのでありますが、それと同じに、金とか元とかいふ民族の、野原に育つて來た生活が支那に注ぎ込まれて來た。その生活はその連中からいへば原始生活の森林の中から出て來るものでありますから、何でもないのでありまして、自分等は自分等の生活をその儘支那に持つて來てやるのであります。近代の清朝も同じことであります。併しながらそれは支那人から見れば復古的に原始生活に還ることになつて來て居ります。それで其生活の要素として、天然保存といふことに就て、動物の保存が出て來る、或は藥物など土地の名物の保存が出て來ます。それから動物の保存の爲に森林を保存することが出て來ます。これは餘程面白いと思ふ。動物の保存といふことはどういふことかと申しますと、昔は支那人は孔子樣なども裘即ち皮衣を着ましたが、漢代以後織物の發達から皮衣の用途がだん/″\薄らいで來て居つたのであります。それが野蠻民族の這入つて來た爲に、皮衣を着ることが大變高貴な生活といふことになりました。近代の清朝などもさうでありまして、官服として貂の皮を着ることがある。貂の皮が官服といふことになると貂を保存しなければならぬ。貂の保存をする爲に滿洲邊りの森林を保存しなければならぬ。蒙古とか滿洲人などは野蠻民族で、弓矢が長所であります。それが爲に矢が必要、矢には羽根が必要、それで鷹の羽根が大變必要であつた。その鷹の羽根を保存する爲にも亦滿洲邊りの森林を保存しなければならぬ。それで森林保存といふことが出來た。それから植物でありますが、昔から支那に人參といふ藥がありますが、今の山西地方には上黨人參といふ野生の人參が出たのでありますが、今ではだん/″\滿洲の奧の方に行かなければ野生人參はなくなつた。この天然人參を保存する爲に滿洲では森林を保存しなければならぬ。さういふいろ/\のことで森林を保存することになりました。これは滿洲人とか蒙古人といへば野蠻であるやうでありますが、支那人からいへば、一旦支那の國では人工を盡してしまつたので、反動的に天然生活の必要を感じて、或地方に天然を保存することを考へなければならぬやうになつて來たのでありますから、これは一遍極端な人工的のことをした上の保存であつて、復古的の天然保存の必要といふことを支那人が考へるやうになつた。ヨーロッパ人はまだそこに至つて居らぬと思ひます。ヨーロッパ人は隨分以前は方々の新發見地を漁つて歩いた時代は、毛皮にする動物などを獲て、大變珍重もし、又よい收入でありましたが、皆毛皮をそこら中の地方の森林から取り盡して、一向保存するといふことを考へる遑がなかつた。それで近頃では仕方がないから、緬羊といふやうな家畜を養つて、家畜から取つた毛で拵へた着物を着て、それで毛皮の眞似事をしたのでありますが、どつちかといふと人間が織つた毛織物よりも遙に立派な毛皮を着る生活を、もう一遍やらうといふことを考へて居らぬ。支那人はそれを考へて居つた。近頃は支那人も滿洲の森林を伐倒して、もう何年か經つたら滿洲に森林がなくなつてしまう、斯ういふ天然の貴重な植物も動物も絶えてしまう。日本人はさういふことは一向御存じないから、この新しい支那人の方鍼を手傳ふことを文化の開發と心得て居る。文化の淺い國は天然保存は考へない。そこは從來の支那人は古い文化を有つて居ただけに、天然保存をよく考へて居つた。これが支那の近代生活の一つの重要なことであります。
 第四 は歴史の方から來たことであります。歴史の方から來て古代の物を愛翫するといふ傾が出て來ました。支那でも唐以前は、古代の發掘品といふものを生活要素に取入れることをあまりしなかつた。漢時代には、發掘物の中から銅器が出て來ると、それが符瑞即ち目出度いことであるといふ意味に解釋しました。學問上の參考には多少しましたが、發掘してきた物を趣味の對象として考へることは先づなかつたといつて宜い。それがだん/″\隋唐の頃から學問的に發掘物を利用することになりました。これも證據がありまして、隋の時に出て來た秦の始皇が使つた衡の分銅、即ち權が出て來た時に、その中に刻つてある文字で歴史の文字の誤を正すといふことをやつたことがあつた。これは顏之推といふ人の顏氏家訓といふ書に見えて居ります。これを宋代以後には趣味的に應用することになる。考古圖、博古圖といふやうな本が皆古銅器の發掘品を編纂したものでありますが、それは學問的の意味もありますが、趣味の意味が非常に進んで居りまして、その時分は學問と趣味と兩方から古代の器を見るやうになつた。その後明朝時代になると、だん/″\古器物が生活要素になります。さうして書籍などでも、古い時代の寫本とか板本とかに、教養のある人が大變魅惑されるやうになつて來た。明末に錢謙益といふ人がありまして、學問詩文とも一代に秀でた人でありましたが、自分の藏書の場所を絳雲樓と申しまして、そこに古銅器などをも澤山列べてあつて、其の閑雅な趣味多い生活を助けるものは、詩文の能く出來る有名な妾、柳如是といふ者でありました。その中に明が滅びた時に、妾は氣の勝つた女で、お前は明に仕へたものであるから、この際は明國に殉じて死んだらよからうと言ひました所が、よく考へさしてくれといふので、考へて見るとどうしても死なれないと妾にあやまつた。妾は怒つておれが死んでやらうといふので池に飛込んだといふ話がある。勿論妾も死にはしませんが、近代の支那の生活要素にはかういふへんなものがありまして、讀書人の好みを魅惑する。支那人はその魅惑に克たれない。克たれない程支那の生活には、肉欲的なものと同樣に、非常に古代趣味が出來て來て居る。日本では金持が時々古銅器を何萬圓で買つたとかいふやうなことを言ひますが、これは金の代りに持つて居るやうなもので、本當に古器物に魅惑されて持つて居る人はありませぬ。日本でも趣味に魅惑される人間はありませうけれども、支那が餘程著しい。その生活は餘程一種特別なものであります。
 第五 は、支那といふものが非常に土地が大きく、それからどつちかといふと交通が非常に便利、近頃支那に行く人は、支那には汽車は少し汽船も少し、非常に交通が困難だといひますけれども、その汽車も汽船もなかつた日本の徳川時代と比べて見たら、支那の方が遙に交通が便利であります。北京から杭州までの間に大きな運河が通つて居りまして、船が通つて何百里といふ道、日本だと青森から下關位まで行く道を、小さい舟に乘つて行けます。さういふ便利な交通は日本にはない。日本人は京都から東京までの間の旅行でも、昔は箱根の山を越さなければならぬ、中仙道を行くと碓氷峠を越さなければならぬ。尤もさういふ不便を奇貨として發展した江州商人といふものがありまして、京都と東京の間を歩行して金を儲けて居りましたが、もう二つも箱根があつてくれたら、もつと儲かるといふやうなことを言つたといふことであります。兎に角さういふことで、支那は餘程便利であります。ヨーロッパでも、其中に高い山があつて、何處に行くにも山を越えなければならぬが、支那は境域が廣く、交通が便利で、その爲に特別の生産事情があつた。日本の徳川時代には、各藩で國産獎勵をやりましたが、さういふことは日本のやうな交通不便な國は出來るが、支那のやうな交通便利の國はそれが出來にくい。生産上、地方の最も便利な處、最も特別な重要な特産物を持つて居る地方にはかなはない。それで支那には地方によつて特産物が盛に起りました。織物でいふと蘇州、杭州とか、南京とかいふものに、何處の織物が競爭しても勝つ事が出來ない。交通が便利であると、商談が發達する爲に、僅少の運賃で特産物を各地に送ることが出來ますから、遠方の地方などで織物を獎勵しようとしても、迚もその特産地と競爭して獎勵しきれぬ。さういふやうに、支那では地方の特産物が發達しました。それから又一方には、さういふ便利がある爲に、食物でも、着物でも、建築材料でも、何でも近いものを尚ばずに、遠方のものを尚ぶといふことが出來て來ました。支那人がよく申します遠物を貴ぶといふことになりました。それは支那は國が廣いのと、交通の便利なのと、海外交通まで便利な結果出來るのであります。それが五であります。

     五

 この五つの要素がつまり近代の支那の文化生活の要素であります。極くあらく申しましたからお分りにくいでありませうけれども、これで衣食住より、政治、道徳、趣味等の社會的事情にも及ぼして、大體支那人の近代的生活は如何なるものかといふことを申したつもりであります。それで支那人はこれ等の事情に共通する所のものから、自分の生活に對してどういふことを最も要求するかと申しますと、生活の安定して居ること、それから生活にいろ/\な複雜な趣味があつて魅惑的であるといふことを要求します。それから自分の生活が外の國より優越して居ることも要求します。さういふことが支那の近代生活の特色といつて宜いのであります。
 さういふ風に申しますと、直ぐ日本の少し學問などを研究した人は、それが支那の國民性かと直ぐいはれます。それは私は保證しませぬ。國民性といふことゝ、それから時代相といふことを區別するのは大變困難です。日本は今の所、支那と大分生活の方式が違つて居りますが、日本も四千年になつたら支那と同じやうになるかも知れない。さうして見ると、支那の國民性と思つて居つたことは何百年、何千年の後になると日本にも出來る。そんなことは今日から容易に定められない。近頃の研究家は、動もすれば支那の國民性といふことを言ひたがりますが、私はその方は安請合をしないつもりであります。でありますが、どうかすると世界の民族生活といふものゝ將來の暗示を、支那の状態によつて得らるゝといふことは有り得ると思ひます。併し國情が現在のやうに混亂して居るといふと、又今までの歴史や事情で考へたことが屡々引くり返つて、近代の支那を研究して居る人は皆閉口して居る。今までいろ/\材料を揃へて結論を付けて見ると皆引くり返つてしまふ、こんな筈はなかつたと思ふが皆引くりかへる。これで屡々支那通のいふことはちつとも當てにならぬなどゝ世間から言はれますが、それは實は學問をしない人の淺はかさで、もう二十年か三十年待つて見ると、一定した近代生活の事相が出て來る。結局は支那人といふものは、自分の優越性を大變認めて居る國民でありますから、ロシアの眞似をして見たり、その前は日本の國會政治を學ばうとしたりしましたが、結局支那人は自己の優越性を認めて、やはり從來の支那式にする方が宜いといふことになりはしないかと思ふ。それが支那の近代生活から支那の運命に對して考へた極く貧弱な結論であります。
(昭和三年七月東亞同文會講演會講演)[#地付き]



底本:「内藤湖南全集 第八巻」筑摩書房
   1969(昭和44)年8月20日発行
   1976(昭和51)年10月10日第2刷
底本の親本:「東洋文化史研究」弘文堂
   1936(昭和11)年4月発行
初出:東亜同文会講演会講演
   1928(昭和3)年7月
入力:はまなかひとし
校正:菅野朋子
2001年8月7日公開
2003年5月25日修正
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