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安井夫人
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)仲平《ちゅうへい》さんは

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|郷《ごう》に伝えられている

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)古賀※[#「にんべん」に「同」、136-下6]庵《こがとうあん》
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「仲平《ちゅうへい》さんはえらくなりなさるだろう」という評判と同時に、「仲平さんは不男《ぶおとこ》だ」という蔭言《かげこと》が、清武《きよたけ》一|郷《ごう》に伝えられている。
 仲平の父は日向国《ひゅうがのくに》宮崎郡清武村に二|段《たん》八|畝《せ》ほどの宅地があって、そこに三棟の家を建てて住んでいる。財産としては、宅地を少し離れた所に田畑を持っていて、年来家で漢学を人の子弟に教えるかたわら、耕作をやめずにいたのである。しかし仲平の父は、三十八のとき江戸へ修行に出て、中《なか》一年おいて、四十のとき帰国してから、だんだん飫肥《おび》藩で任用せられるようになったので、今では田畑の大部分を小作人に作らせることにしている。
 仲平は二男である。兄|文治《ぶんじ》が九つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈《せたけ》が伸びてからは、二人とも毎朝書物を懐中して畑打《はたう》ちに出た。そしてよその人が煙草《たばこ》休みをする間、二人は読書に耽《ふけ》った。 
 父がはじめて藩の教授にせられたころのことである。十七八の文治と十四五の仲平とが、例の畑打ちに通うと、道で行き逢《あ》う人が、皆言い合わせたように二人を見較べて、連れがあれば連れに何事をかささやいた。背の高い、色の白い、目鼻立ちの立派な兄文治と、背の低い、色の黒い、片目の弟仲平とが、いかにも不吊合《ふつりあ》いな一対に見えたからである。兄弟同時にした疱瘡《ほうそう》が、兄は軽く、弟は重く、弟は大痘痕《おおあばた》になって、あまつさえ右の目がつぶれた。父も小さいとき疱瘡をして片目になっているのに、また仲平が同じ片羽《かたわ》になったのを思えば、「偶然」というものも残酷なものだと言うほかない。
 仲平は兄と一しょに歩くのをつらく思った。そこで朝は少し早目に食事を済ませて、一足さきに出、晩は少し居残って為事《しごと》をして、一足遅れて帰ってみた。しかし行き逢う人が自分の方を見て、連れとささやくことはやまなかった。そればかりではない。兄と一しょに歩くときよりも、行き逢う人の態度はよほど不遠慮になって、ささやく声も常より高く、中には声をかけるものさえある。
「見い。きょうは猿がひとりで行くぜ」
「猿が本を読むから妙だ」
「なに。猿の方が猿引きよりはよく読むそうな」
「お猿さん。きょうは猿引きはどうしましたな」
 交通の狭い土地で、行き逢う人は大抵識り合った中であった。仲平はひとりで歩いてみて、二つの発明をした。一つは自分がこれまで兄の庇護《ひご》のもとに立っていながら、それを悟らなかったということである。今一つは、驚くべし、兄と自分とに渾名《あだな》がついていて、醜い自分が猿と言われると同時に、兄までが猿引きと言われているということである。仲平はこの発明を胸に蔵《おさ》めて、誰にも話さなかったが、その後は強《し》いて兄と離れ離れに田畑へ往反《おうへん》しようとはしなかった。
 仲平にさきだって、体の弱い兄の文治は死んだ。仲平が大阪へ修行に出て篠崎小竹《しのざきしょうちく》の塾に通っていたときに死んだのである。仲平は二十一の春、金子《きんす》十両を父の手から受け取って清武村を立った。そして大阪土佐堀三丁目の蔵屋敷に着いて、長屋の一間を借りて自炊をしていた。倹約のために大豆を塩と醤油とで煮ておいて、それを飯の菜にしたのを、蔵屋敷では「仲平豆」と名づけた。同じ長屋に住むものが、あれでは体が続くまいと気づかって、酒を飲むことを勧めると、仲平は素直に聴き納《い》れて、毎日一合ずつ酒を買った。そして晩になると、その一合入りの徳利を紙撚《こより》で縛って、行燈の火の上に吊るしておく。そして燈火《ともしび》に向って、篠崎の塾から借りて来た本を読んでいるうちに、半夜《はんや》人定まったころ、燈火で尻をあぶられた徳利の口から、蓬々《ほうほう》として蒸気が立ちのぼって来る。仲平は巻《まき》をおいて、徳利の酒をうまそうに飲んで寝るのであった。中《なか》一年おいて、二十三になったとき、故郷の兄文治が死んだ。学殖は弟に劣っていても、才気の鋭い若者であったのに、とかく病気で、とうとう二十六歳で死んだのである。仲平は訃音《ふいん》を得て、すぐに大阪を立って帰った。
 その後仲平は二十六で江戸に出て、古賀※[#「にんべん」に「同」、136-下6]庵《こがとうあん》の門下に籍をおいて、昌平黌《しょうへいこう》に入った。後世の註疏《ちゅうそ》によらずに、ただちに経義を窮《きわ》めようとする仲平がためには、古賀より松崎慊堂《まつざきこうどう》の方が懐かしかったが、昌平黌に入るには林か古賀かの門に入らなくてはならなかったのである。痘痕《あばた》があって、片目で、背の低い田舎書生は、ここでも同窓に馬鹿にせられずには済まなかった。それでも仲平は無頓着に黙り込んで、独り読書に耽《ふけ》っていた。坐右《ざゆう》の柱に半折《はんせつ》に何やら書いて貼《は》ってあるのを、からかいに来た友達が読んでみると、「今は音《ね》を忍《しのぶ》が岡《おか》の時鳥《ほととぎす》いつか雲井のよそに名のらむ」と書いてあった。「や、えらい抱負《ほうふ》じゃぞ」と、友達は笑って去ったが、腹の中ではやや気味悪くも思った。これは十九のとき漢学に全力を傾注するまで、国文をも少しばかり研究した名残《なごり》で、わざと流儀違いの和歌の真似をして、同窓の揶揄《やゆ》に酬《むく》いたのである。
 仲平はまだ江戸にいるうちに、二十八で藩主の侍読にせられた。そして翌年藩主が帰国せられるとき、供をして帰った。
 今年の正月から清武村|字《あざ》中野に藩の学問所が立つことになって、工事の最中である。それが落成すると、六十一になる父|滄洲翁《そうしゅうおう》と、去年江戸から藩主の供をして帰った、二十九になる仲平さんとが、父子ともに講壇に立つはずである。そのとき滄洲翁が息子によめを取ろうと言い出した。しかしこれは決して容易な問題ではない。
 江戸がえり、昌平黌じこみと聞いて、「仲平さんはえらくなりなさるだろう」と評判する郷里の人たちも、痘痕《あばた》があって、片目で、背の低い男ぶりを見ては、「仲平さんは不男《ぶおとこ》だ」と蔭言《かげこと》を言わずにはおかぬからである。

 滄洲翁は江戸までも修業に出た苦労人である。倅《せがれ》仲平が学問修行も一通り出来て、来年は三十になろうという年になったので、ぜひよめを取ってやりたいとは思うが、その選択のむずかしいことには十分気がついている。
 背こそ仲平ほど低くないが、自分も痘痕があり、片目であった翁は、異性に対する苦い経験を嘗《な》めている。識らぬ少女と見合いをして縁談を取りきめようなどということは自分にも不可能であったから、自分と同じ欠陥があって、しかも背の低い仲平がために、それが不可能であることは知れている。仲平のよめは早くから気心を識り合った娘の中から選び出すほかない。翁は自分の経験からこんなことをも考えている。それは若くて美しいと思われた人も、しばらく交際していて、智慧《ちえ》の足らぬのが暴露してみると、その美貌《びぼう》はいつか忘れられてしまう。また三十になり、四十になると、智慧の不足が顔にあらわれて、昔美しかった人とは思われぬようになる。これとは反対に、顔貌《かおかたち》には疵《きず》があっても、才人だと、交際しているうちに、その醜さが忘れられる。また年を取るにしたがって、才気が眉目をさえ美しくする。仲平なぞもただ一つの黒い瞳をきらつかせて物を言う顔を見れば、立派な男に見える。これは親の贔屓目《ひいきめ》ばかりではあるまい。どうぞあれが人物を識った女をよめにもらってやりたい。翁はざっとこう考えた。
 翁は五節句や年忌に、互いに顔を見合う親戚の中で、未婚の娘をあれかこれかと思い浮べてみた。一番|華《はな》やかで人の目につくのは、十九になる八重という娘で、これは父が定府《じょうふ》を勤めていて、江戸の女を妻に持って生ませたのである。江戸風の化粧をして、江戸|詞《ことば》をつかって、母に踊りをしこまれている。これはもらおうとしたところで来そうにもなく、また好ましくもない。形が地味《じみ》で、心の気高い、本も少しは読むという娘はないかと思ってみても、あいにくそういう向きの女子は一人もない。どれもどれも平凡きわまった女子ばかりである。
 あちこち迷った末に、翁の選択はとうとう手近い川添《かわぞえ》の娘に落ちた。川添家は同じ清武村の大字《おおあざ》今泉、小字《こあざ》岡にある翁の夫人の里方で、そこに仲平の従妹《いとこ》が二人ある。妹娘の佐代《さよ》は十六で、三十男の仲平がよめとしては若過ぎる。それに器量《きりょう》よしという評判の子で、若者どもの間では「岡の小町」と呼んでいるそうである。どうも仲平とは不吊合いなように思われる。姉娘の豊《とよ》なら、もう二十《はたち》で、遅く取るよめとしては、年齢の懸隔もはなはだしいというほどではない。豊の器量は十人並みである。性質にはこれといって立ち優《まさ》ったところはないが、女にめずらしく快活で、心に思うままを口に出して言う。その思うままがいかにも素直で、なんのわだかまりもない。母親は「臆面なしで困る」と言うが、それが翁の気に入っている。
 翁はこう思い定めたが、さてこの話を持ち込む手続きに窮した。いつも翁に何か言われると、謹んで承るという風になっている少女らに、直接に言うことはもちろん出来ない。外舅外姑《しゅうとしゅうとめ》が亡くなってからは、川添の家には卑属しかいないから、翁がうかと言い出しては、先方で当惑するかも知れない。他人同士では、こういう話を持ち出して、それが不調に終ったあとは、少くもしばらくの間交際がこれまで通りに行かぬことが多い。親戚間であってみれば、その辺に一層心を用いなくてはならない。
 ここに仲平の姉で、長倉《ながくら》のご新造《しんぞ》と言われている人がある。翁はこれに意中を打ち明けた。「亡くなった兄いさんのおよめになら、一も二もなく来たのでございましょうが」と言いかけて、ご新造は少しためらった。ご新造はそういう方角からはお豊さんを見ていなかったのである。しかしお父うさまに頼まれた上で考えてみれば、ほかに弟のよめに相応した娘も思い当らず、またお豊さんが不承知を言うにきまっているとも思われぬので、ご新造はとうとう使者の役目を引き受けた。

 川添の家では雛祭《ひなまつり》の支度をしていた。奥の間《ま》へいろいろな書附けをした箱を一ぱい出し散らかして、その中からお豊さんが、内裏様《だいりさま》やら五人囃《ごにんばや》しやら、一つびとつ取り出して、綿や吉野紙を除《の》けて置き並べていると、妹のお佐代さんがちょいちょい手を出す。「いいからわたしに任せておおき」と、お豊さんは妹を叱《しか》っていた。
 そこの障子をあけて、長倉のご新造が顔を出した。手にはみやげに切らせて来た緋桃《ひもも》の枝を持っている。「まあ、お忙しい最中でございますね」
 お豊さんは尉姥《じょううば》の人形を出して、箒《ほうき》と熊手《くまで》とを人形の手に挿《さ》していたが、その手を停めて桃の花を見た。「おうちの桃はもうそんなに咲きましたか。こちらのはまだ莟《つぼみ》がずっと小そうございます」
「出かけに急いだもんですから、ほんの少しばかり切らせて来ました。たくさんお活《い》けになるなら、いくらでも取りにおよこしなさいよ」こう言ってご新造は桃の枝をわたした。
 お豊さんはそれを受け取って、妹に「ここはこのままそっくりしておくのだよ」と言っておいて、桃の枝を持って勝手へ立った。
 ご新造はあとからついて来た。
 お豊さんは台所の棚《たな》から手桶《ておけ》をおろして、それを持ってそばの井戸端に出て、水を一釣瓶汲《ひとつるべく》み込んで、それに桃の枝を投げ入れた。すべての動作がいかにもかいがいしい。使命を含んで来たご新造は、これならば弟のよめにしても早速役に立つだろうと思って、微笑を禁じ得なかった。下駄を脱ぎすてて台所にあがったお豊さんは、壁に吊ってある竿の手拭いで手をふいている。そのそばへご新造が摩《す》り寄った。
「安井では仲平におよめを取ることになりました」劈頭《へきとう》に御新造は主題を道破《どうは》した。
「まあ、どこから」
「およめさんですか」
「ええ」
「そのおよめさんは」と言いさして、じっとお豊さんの顔を見つつ、「あなた」
 お豊さんは驚きあきれた顔をして黙っていたが、しばらくすると、その顔に笑《え》みがたたえられた。「※[#「嘘」の「くちへん」が「ごんべん」、139-下2]《うそ》でしょう」
「本当です。わたしそのお話をしに来ました。これからお母あさまに申し上げようと思っています」
 お豊さんは手拭いを放して、両手をだらりと垂《た》れて、ご新造と向き合って立った。顔からは笑みが消え失せた。「わたし仲平さんはえらい方だと思っていますが、ご亭主にするのはいやでございます」冷然として言い放った。

 お豊さんの拒絶があまり簡明に発表せられたので、長倉のご新造は話のあとを継ぐ余地を見いだすことが出来なかった。しかしこれほどの用事を帯びて来て、それを二人の娘の母親に話さずにも帰られぬと思って、直談判《じきだんぱん》をして失敗した顛末《てんまつ》を、川添のご新造にざっと言っておいて、ギヤマンのコップに注いで出された白酒を飲んで、暇乞《いとまご》いをした。 
 川添のご新造は仲平|贔屓《びいき》だったので、ひどくこの縁談の不調を惜しんで、お豊にしっかり言って聞かせてみたいから、安井家へは当人の軽率な返事を打ち明けずにおいてくれと頼んだ。そこでお豊さんの返事をもって復命することだけは、一時見合わせようと、長倉のご新造が受け合ったが、どうもお豊さんが意を翻《ひるがえ》そうとは信ぜられないので、「どうぞ無理にお勧めにならぬように」と言い残して起って出た。
 長倉のご新造が川添の門を出て、道の二三丁も来たかと思うとき、あとから川添に使われている下男の音吉が駆けて来た。急に話したいことがあるから、ご苦労ながら引き返してもらいたいという口上を持って来たのである。
 長倉のご新造は意外の思いをした。どうもお豊さんがそう急に意を翻したとは信ぜられない。何の話であろうか。こう思いながら音吉と一しょに川添へ戻って来た。
「お帰りがけをわざわざお呼び戻しいたして済みません。実は存じ寄らぬことが出来まして」待ち構えていた川添のご新造が、戻って来た客の座に着かぬうちに言った。
「はい」長倉のご新造は女主人の顔をまもっている。
「あの仲平さんのご縁談のことでございますね。わたくしは願うてもないよい先だと存じますので、お豊を呼んで話をいたしてみましたが、やはりまいられぬと申します。そういたすとお佐代が姉にその話を聞きまして、わたくしのところへまいって、何か申しそうにいたして申さずにおりますのでございます。なんだえと、わたくしが尋ねますと、安井さんへわたくしが参ることは出来ますまいかと申します。およめに往くということはどういうわけのものか、ろくにわからずに申すかと存じまして、いろいろ聞いてみましたが、あちらでもろうてさえ下さるなら自分は往きたいと、きっぱり申すのでございます。いかにも差出がましいことでございまして、あちらの思わくもいかがとは存じますが、とにかくあなたにご相談申し上げたいと存じまして」さも言いにくそうな口吻《くちぶり》である。
 長倉のご新造はいよいよ意外の思いをした。父はこの話をするとき、「お佐代は若過ぎる」と言った。また「あまり別品でなあ」とも言った。しかしお佐代さんを嫌《きら》っているのでないことは、平生からわかっている。多分父は吊合いを考えて、年がいっていて、器量の十人並みなお豊さんをと望んだのであろう。それに若くて美しいお佐代さんが来れば、不足はあるまい。それにしても控え目で無口なお佐代さんがよくそんなことを母親に言ったものだ。これはとにかく父にも弟にも話してみて、出来ることなら、お佐代さんの望み通りにしたいものだと、長倉のご新造は思案してこう言った。「まあ、そうでございますか。父はお豊さんをと申したのでございますが、わたくしがちょっと考えてみますに、お佐代さんでは悪いとは申さぬだろうと存じます。早速あちらへまいって申してみることにいたしましょう。でもあの内気《うちき》なお佐代さんが、よくあなたにおっしゃったものでございますね」
「それでございます。わたくしも本当にびっくりいたしました。子供の思っていることは何から何までわかっているように存じていましても、大違いでございます。お父うさまにお話し下さいますなら、当人を呼びまして、ここで一応聞いてみることにいたしましょう」こう言って母親は妹娘を呼んだ。
 お佐代はおそるおそる障子をあけてはいった。
 母親は言った。「あの、さっきお前の言ったことだがね、仲平さんがお前のようなものでももらって下さることになったら、お前きっと往くのだね」
 お佐代さんは耳まで赤くして、「はい」と言って、下げていた頭を一層低く下げた。

 長倉のご新造が意外だと思ったように、滄洲《そうしゅう》翁も意外だと思った。しかし一番意外だと思ったのは壻殿《むこどの》の仲平であった。それは皆|怪訝《かいが》するとともに喜んだ人たちであるが、近所の若い男たちは怪訝するとともに嫉《そね》んだ。そして口々に「岡の小町が猿のところへ往く」と噂した。そのうち噂は清武一郷に伝播《でんぱ》して、誰一人怪訝せぬものはなかった。これは喜びや嫉《そね》みの交じらぬただの怪訝であった。
 婚礼は長倉夫婦の媒妁《ばいしゃく》で、まだ桃の花の散らぬうちに済んだ。そしてこれまでただ美しいとばかり言われて、人形同様に思われていたお佐代さんは、繭《まゆ》を破って出た蛾《が》のように、その控え目な、内気な態度を脱却して、多勢《おおぜい》の若い書生たちの出入りする家で、天晴《あっぱ》れ地歩を占めた夫人になりおおせた。
 十月に学問所の明教堂が落成して、安井家の祝筵《しゅくえん》に親戚故旧が寄り集まったときには、美しくて、しかもきっぱりした若夫人の前に、客の頭が自然に下がった。人にからかわれる世間のよめさんとは全く趣をことにしていたのである。

 翌年仲平が三十、お佐代さんが十七で、長女|須磨子《すまこ》が生まれた。中一年おいた年の七月には、藩の学校が飫肥《おび》に遷《うつ》されることになった。そのつぎの年に、六十五になる滄洲翁は飫肥の振徳堂《しんとくどう》の総裁にせられて、三十三になる仲平がその下で助教を勤めた。清武の家は隣にいた弓削《ゆげ》という人が住まうことになって、安井家は飫肥の加茂《かも》に代地をもらった。
 仲平は三十五のとき、藩主の供をして再び江戸に出て、翌年帰った。これがお佐代さんがやや長い留守に空閨《くうけい》を守ったはじめである。
 滄洲翁は中風で、六十九のとき亡くなった。仲平が二度目に江戸から帰った翌年である。
 仲平は三十八のとき三たび江戸に出て、二十五のお佐代さんが二度目の留守をした。翌年仲平は昌平黌の斎長《さいちょう》になった。ついで外桜田の藩邸の方でも、仲平に大番所番頭《おおばんしょばんがしら》という役を命じた。そのつぎの年に、仲平は一旦帰国して、まもなく江戸へ移住することになった。今度はいずれ江戸に居所《いどころ》がきまったら、お佐代さんをも呼び迎えるという約束をした。藩の役をやめて、塾を開いて人に教える決心をしていたのである。
 このころ仲平の学殖はようやく世間に認められて、親友にも塩谷宕陰《しおのやとういん》のような立派な人が出来た。二人一しょに散歩をすると、男ぶりはどちらも悪くても、とにかく背の高い塩谷が立派なので、「塩谷一丈雲腰に横たわる、安井三尺草|頭《かしら》を埋む」などと冷やかされた。
 江戸に出ていても、質素な仲平は極端な簡易生活をしていた。帰り新参で、昌平黌の塾に入る前には、千駄谷にある藩の下邸《しもやしき》にいて、その後外桜田の上邸にいたり、増上寺境内の金地院《こんじいん》にいたりしたが、いつも自炊である。さていよいよ移住と決心して出てからも、一時は千駄谷にいたが、下邸に火事があってから、はじめて五番町の売居《うりすえ》を二十九枚で買った。
 お佐代さんを呼び迎えたのは、五番町から上二番町の借家に引き越していたときである。いわゆる三|計塾《けいじゅく》で、階下に三畳やら四畳半やらの間が二つ三つあって、階上が斑竹山房《はんちくさんぼう》の※[#「はこがまえ」に「扁」、142-下2]額《へんがく》を掛けた書斎である。斑竹山房とは江戸へ移住するとき、本国田野村字|仮屋《かりや》の虎斑竹《こはんちく》を根こじにして来たからの名である。仲平は今年四十一、お佐代さんは二十八である。長女須磨子についで、二女美保子、三女|登梅子《とめこ》と、女の子ばかり三人出来たが、かりそめの病のために、美保子が早く亡くなったので、お佐代さんは十一になる須磨子と、五つになる登梅子とを連れて、三計塾にやって来た。
 仲平夫婦は当時女中一人も使っていない。お佐代さんが飯炊《ままた》きをして、須磨子が買物に出る。須磨子の日向訛《ひゅうがなま》りが商人に通ぜぬので、用が弁ぜずにすごすご帰ることが多い。
 お佐代さんは形《なり》ふりに構わず働いている。それでも「岡の小町」と言われた昔の俤《おもかげ》はどこやらにある。このころ黒木孫右衛門というものが仲平に逢いに来た。もと飫肥外浦《おびそとうら》の漁師であったが、物産学にくわしいため、わざわざ召し出されて徒士《かち》になった男である。お佐代さんが茶を酌《く》んで出しておいて、勝手へ下がったのを見て狡獪《こうかい》なような、滑稽なような顔をして、孫右衛門が仲平に尋ねた。
「先生。只今のはご新造さまでござりますか」
「さよう。妻で」恬然《てんぜん》として仲平は答えた。
「はあ。ご新造さまは学問をなさりましたか」
「いいや。学問というほどのことはしておりませぬ」
「してみますと、ご新造さまの方が先生の学問以上のご見識でござりますな」
「なぜ」
「でもあれほどの美人でおいでになって、先生の夫人におなりなされたところを見ますと」
 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋《ざるご》の相手をさせて帰した。

 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附《うしごめみつけ》外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻《まわ》り縁《えん》とがついていて、ほかに四畳半が一間、二畳が一間、それから板の間が少々ある。仲平は八畳の間に机を据えて、周囲に書物を山のように積んで読んでいる。このころは霊岸島の鹿島屋清兵衛が蔵書を借り出して来るのである。一体仲平は博渉家《はくしょうか》でありながら、蔵書癖《ぞうしょへき》はない。質素で濫費をせぬから、生計に困るようなことはないが、十分に書物を買うだけの金はない。書物は借りて覧《み》て、書き抜いては返してしまう。大阪で篠崎の塾に通ったのも、篠崎に物を学ぶためではなくて、書物を借るためであった。芝の金地院に下宿したのも、書庫をあさるためであった。この年に三女登梅子が急病で死んで、四女歌子が生まれた。
 そのつぎの年に藩主が奏者になられて、仲平に押合方《おしあいかた》という役を命ぜられたが、目が悪いと言ってことわった。薄暗い明りで本ばかり読んでいたので実際目がよくなかったのである。
 そのまたつぎの年に、仲平は麻布長坂《あざぶながさか》裏通りに移った。牛込から古家を持って来て建てさせたのである。それへ引き越すとすぐに仲平は松島まで観風旅行をした。浅葱織色木綿《あさぎおりいろもめん》の打裂羽織《ぶっさきばおり》に裁附袴《たっつけばかま》で、腰に銀拵《ぎんごしら》えの大小を挿し、菅笠《すげがさ》をかむり草鞋《わらじ》をはくという支度である。旅から帰ると、三十一になるお佐代さんがはじめて男子を生んだ。のちに「岡の小町」そっくりの美男になって、今文尚書《きんぶんしょうしょ》二十九篇で天下を治めようと言った才子の棟蔵《とうぞう》である。惜しいことには、二十二になった年の夏、暴瀉《ぼうしゃ》で亡くなった。
 中一年おいて、仲平夫婦は一時上邸の長屋に入っていて、番町袖振坂《ばんちょうそでふりざか》に転居した。その冬お佐代さんが三十三で二人目の男子謙助を生んだ。しかし乳が少いので、それを雑司谷《ぞうしがや》の名主方《なぬしかた》へ里子にやった。謙介は成長してから父に似た異相の男になったが、後日安東益斎と名のって、東金、千葉の二箇所で医業をして、かたわら漢学を教えているうちに、持ち前の肝積《かんしゃく》のために、千葉で自殺した。年は二十八であった。墓は千葉町大日寺にある。

 浦賀へ米艦が来て、天下多事の秋となったのは、仲平が四十八、お佐代さんが三十五のときである。大儒息軒《たいじゅそっけん》先生として天下に名を知られた仲平は、ともすれば時勢の旋渦《せんか》中に巻き込まれようとしてわずかに免れていた。
 飫肥藩では仲平を相談中《そうだんちゅう》という役にした。仲平は海防策を献じた。これは四十九のときである。五十四のとき藤田東湖と交わって、水戸景山公に知られた。五十五のときペルリが浦賀に来たために、攘夷封港論《じょういほうこうろん》をした。この年藩政が気に入らぬので辞職した。しかし相談中をやめられて、用人格というものになっただけで、勤め向きは前の通りであった。五十七のとき蝦夷開拓論《えぞかいたくろん》をした。六十三のとき藩主に願って隠居した。井伊閣老が桜田見附で遭難せられ、景山公が亡くなられた年である。
 家は五十一のとき隼町《はやぶさちょう》に移り、翌年火災に遭って、焼け残りの土蔵や建具を売り払って番町に移り、五十九のとき麹町善国寺谷に移った。辺務《へんむ》を談ぜないということを書いて二階に張り出したのは、番町にいたときである。

 お佐代さんは四十五のときにやや重い病気をして直ったが、五十の歳暮からまた床について、五十一になった年の正月四日に亡くなった。夫仲平が六十四になった年である。あとには男子に、短い運命を持った棟蔵と謙助との二人、女子に、秋元家の用人の倅《せがれ》田中鉄之助に嫁して不縁になり、ついで塩谷の媒介で、肥前国島原産の志士中村|貞太郎《ていたろう》、仮名北有馬太郎《けみょうきたありまたろう》に嫁した須磨子と、病身な四女歌子との二人が残った。須磨子は後の夫に獄中で死なれてから、お糸、小太郎の二人の子を連れて安井家に帰った。歌子は母が亡くなってから七箇月目に、二十三歳であとを追って亡くなった。
 お佐代さんはどういう女であったか。美しい肌に粗服をまとって、質素な仲平に仕えつつ一生を終った。飫肥吾田村字星倉《おびあがたむらあざほしくら》から二里ばかりの小布瀬《こふせ》に、同宗の安井林平という人があって、その妻のお品さんが、お佐代さんの記念だと言って、木綿縞《もめんじま》の袷《あわせ》を一枚持っている。おそらくはお佐代さんはめったに絹物などは着なかったのだろう。
 お佐代さんは夫に仕えて労苦を辞せなかった。そしてその報酬には何物をも要求しなかった。ただに服飾の粗に甘んじたばかりではない。立派な第宅《ていたく》におりたいとも言わず、結構な調度を使いたいとも言わず、うまい物を食べたがりも、面白い物を見たがりもしなかった。
 お佐代さんが奢侈《しゃし》を解せぬほどおろかであったとは、誰も信ずることが出来ない。また物質的にも、精神的にも、何物をも希求せぬほど恬澹《てんたん》であったとは、誰も信ずることが出来ない。お佐代さんにはたしかに尋常でない望みがあって、その望みの前には一切の物が塵芥《ちりあくた》のごとく卑しくなっていたのであろう。
 お佐代さんは何を望んだか。世間の賢い人は夫の栄達を望んだのだと言ってしまうだろう。これを書くわたくしもそれを否定することは出来ない。しかしもし商人が資本をおろし財利を謀《はか》るように、お佐代さんが労苦と忍耐とを夫に提供して、まだ報酬を得ぬうちに亡くなったのだと言うなら、わたくしは不敏にしてそれに同意することが出来ない。
 お佐代さんは必ずや未来に何物をか望んでいただろう。そして瞑目《めいもく》するまで、美しい目の視線は遠い、遠い所に注がれていて、あるいは自分の死を不幸だと感ずる余裕をも有せなかったのではあるまいか。その望みの対象をば、あるいは何物ともしかと弁識していなかったのではあるまいか。

 お佐代さんが亡くなってから六箇月目に、仲平は六十四で江戸城に召された。また二箇月目に徳川将軍に謁見《えっけん》して、用人席にせられ、翌年両番上席にせられた。仲平が直参《じきさん》になったので、藩では謙助を召し出した。ついで謙助も昌平黌出役になったので、藩の名跡は安政四年に中村が須磨子に生ませた長女糸に、高橋|圭三郎《けいざぶろう》という壻《むこ》を取って立てた。しかしこの夫婦は早く亡くなった。のちに須磨子の生んだ小太郎が継いだのはこの家である。仲平は六十六で陸奥塙《むつはなわ》六万三千九百石の代官にせられたが、病気を申し立てて赴任せずに、小普請入《こぶしんい》りをした。
 住いは六十五のとき下谷徒士町《したやかちまち》に移り、六十七のとき一時藩の上邸に入っていて、麹町一丁目半蔵門外の壕端《ほりばた》の家を買って移った。策士|雲井龍雄《くもいたつお》と月見をした海嶽楼《かいがくろう》は、この家の二階である。

 幕府滅亡の余波で、江戸の騒がしかった年に、仲平は七十で表向き隠居した。まもなく海嶽楼は類焼したので、しばらく藩の上邸や下邸に入っていて、市中の騒がしい最中に、王子在|領家村《りょうけむら》の農高橋善兵衛が弟政吉の家にひそんだ。須磨子は三年前に飫肥《おび》へ往ったので、仲平の隠家へは天野家から来た謙助の妻|淑子《よしこ》と、前年八月に淑子の生んだ千菊《せんぎく》とがついて来た。産後体の悪かった淑子は、隠家に来てから六箇月目に、十九で亡くなった。下総《しもうさ》にいた夫には逢わずに死んだのである。
 仲平は隠家に冬までいて、彦根藩の代々木邸に移った。これは左伝輯釈《さでんしゅうしゃく》を彦根藩で出版してくれた縁故からである。翌年七十一で旧藩の桜田邸に移り、七十三のときまた土手《どて》三番町に移った。
 仲平の亡くなったのは、七十八の年の九月二十三日である。謙助と淑子との間に出来た、十歳の孫千菊が家を継いだ。千菊の夭折《ようせつ》したあとは小太郎の二男三郎が立てた。
大正三年四月



底本:「日本の文学3 森鴎外(二)」中央公論社
   1972(昭和47)年10月20日発行
入力:真先芳秋
校正:日隈美代子
1998年8月6日公開
2001年6月29日修正
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