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津下四郎左衛門
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)津下四郎左衛門《つげしらうざゑもん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)当時|外夷《ぐわいい》とせられてゐた

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例) consacres [#「e」にアクサン-テギュaccent aigu(')]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)一つ/″\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 津下四郎左衛門《つげしらうざゑもん》は私の父である。(私とは誰《たれ》かと云ふことは下に見えてゐる。)しかし其名は只《たゞ》聞く人の耳に空虚なる固有名詞として響くのみであらう。それも無理は無い。世に何の貢献もせずに死んだ、艸木《さうもく》と同じく朽《く》ちたと云はれても、私はさうでないと弁ずることが出来ない。
 かうは云ふものの、若《も》し私がここに一言を附け加へたら、人が、「ああ、さうか」とだけは云つてくれるだらう。其《その》一言はかうである。「津下四郎左衛門は横井平四郎《よこゐへいしらう》の首を取つた男である。」
 丁度《ちやうど》世間の人が私の父を知らぬやうに、世間の人は皆横井平四郎を知つてゐる。熊本の小楠《せうなん》先生を知つてゐる。
 私の立場から見れば、横井氏が栄誉あり慶祥《けいしやう》ある家である反対に、津下氏は恥辱あり殃咎《あうきう》ある家であつて、私はそれを歎かずにはゐられない。
 此《この》禍福とそれに伴ふ晦顕《くわいけん》とがどうして生じたか。私はそれを推《お》し窮《きは》めて父の冤《ゑん》を雪《そゝ》ぎたいのである。
 徳川幕府の末造《ばつざう》に当つて、天下の言論は尊王と佐幕とに分かれた。苟《いやしく》も気節を重んずるものは皆尊王に趨《はし》つた。其時尊王には攘夷《じやうい》が附帯し、佐幕には開国が附帯して唱道せられてゐた。どちらも二つ宛《づゝ》のものを一つ/″\に引き離しては考へられなかつたのである。
 私は引き離しては考へられなかつたと云ふ。是《これ》は群集心理の上から云ふのである。
 歴史の大勢から見れば、開国は避くべからざる事であつた。攘夷は不可能の事であつた。智慧《ちゑ》のある者はそれを知つてゐた。知つてゐてそれを秘してゐた。衰運の幕府に最後の打撃を食《くら》はせるには、これに責むるに不可能の攘夷を以てするに若《し》くはないからであつた。此秘密は群集心理の上には少しも滲徹《しんてつ》してゐなかつたのである。
 開国は避くべからざる事であつた。其の避くべからざるは、当時|外夷《ぐわいい》とせられてゐたヨオロツパ諸国やアメリカは、我に優《まさ》つた文化を有してゐたからである。智慧のあるものはそれを知つてゐた。横井平四郎は最も早くそれを知つた一人である。私の父は身を終ふるまでそれを暁《さと》らなかつた一人である。
 弘化四年に横井の兄が病気になつた。横井は福間某《ふくまぼう》と云ふ蘭法医《らんぱふい》に治療を託した。当時|元田永孚《もとだながざね》などと交《まじは》つて、塾を開いて程朱《ていしゆ》の学を教へてゐた横井が、肉身の兄の病を治療してもらふ段になると、ヨオロツパの医術にたよつた。横井が三十九歳の時の事である。
 嘉永五年に池辺啓太《いけべけいた》が熊本で和蘭《おらんだ》の砲術を教へた時、横井は門人を遣《や》つて伝習させた。池辺は長崎の高島秋帆《たかしましうはん》の弟子で、高島が嫌疑を被《かうむ》つて江戸に召し寄せられた時、一しよに拘禁せられた男である。兵器とそれを使ふ技術ともヨオロツパが優つてゐたのを横井は知つてゐた。横井が四十四歳の時の事である。
 翌年横井が四十五歳になつた時、Perry が横浜に来た。横井は早くも開国の必要を感じ始めた。安政元年には四十六歳で、ロシアの使節に逢《あ》はうとして長崎へ往《い》つた。其留守には吉田松陰が尋ねて来て、置手紙をして帰つた。智者と智者との気息《きそく》が漸《やうや》く通ぜられて来た。翌年四十七歳の時、長崎に遣《や》つてゐた門人が、海軍の事を研究しに来た勝義邦《かつよしくに》と識合《しりあひ》になつて、勝と横井とが交通し始めた。これも智者の交《まじはり》である。慶応二年五十八歳の時横井は左平太《さへいた》、太平《たへい》の二人の姪《てつ》を米国に遣つた。海軍の事を学ばせるためであつた。此洋行者は皆横井が兄の子で、後に兄を伊勢太郎《いせたらう》と曰《い》ひ、弟を沼川三郎《ぬまがはさぶらう》と曰つた。横井は初め兄の家を継いだものなので、其家を左平太の伊勢太郎に譲つた。
 智者は尊王家の中にも、佐幕家の中にもあつた。しかし尊王家の智者は其智慧の光を晦《くら》ますことを努めた。晦ますのが、多数を制するには有利であつたからである。開国の必要と云ふことが、群集心理の上に滲徹《しんてつ》しなかつたのは、智慧の秘密が善《よ》く保たれたのである。此|間《かん》の消息を一の drame の如くに、観照的に錬稠《れんちう》して見せたのは、梧陰存稿《ごいんそんかう》の中に、井上毅《ゐのうヘこはし》の書き残した岩倉具視《いはくらともみ》と玉松操《たままつみさを》との物語である。これは教科書にさへ抜き出されてゐるのだから、今更ここに繰り返す必要はあるまい。そんなら其秘密はどうして保たれたか。岩倉村|幽居《いうきよ》の「裏のかくれ戸」は、どうして人の耳目に触れずにゐたか。それは多数が愚《おろか》だからである。
 私は残念ながら父が愚であつたことを承認しなくてはならない。父は愚であつた。しかし私は父を弁護するために、二箇条の事実を提出したい。一つは父が青年であつたと云ふこと、今一つは父の身分が低かつたと云ふことである。
 父が生れた時、智者横井は四十歳であつた。三十一歳で江戸に遊学して三十二歳で熊本に帰つた。当時の江戸帰《えどがへり》は今の洋行帰と同じである。父が横井を刺した時、横井は六十一歳で、参与と云ふ顕要の地位にをつた。父は二十二歳の浮浪の青年であつた。
 智者横井は知行二百石足らずの家とは云ひながら、兎《と》に角《かく》細川家の奉行職《ぶぎやうしよく》の子に生れたのに、父は岡山在の里正《りせい》の子に生れた。伊木若狭《いぎわかさ》が備中越前|鎮撫総督《ちんぶそうとく》になつた時、父は其勇戦隊の卒伍《そつご》に加はらうとするにも、幾多の抗抵に出逢つたのである。
 人の智慧は年齢と共に発展する。父は生れながらの智者ではなかつたにしても、其の僅《わづか》に持つてゐた智慧だに未だ発展するに遑《いとま》あらずして已《や》んだのかも知れない。又人の智慧は遭遇によつて補足せられる。父は縦《よ》しや愚であつたにしても、若し智者に親近することが出来たなら、自ら発明する所があつたのかも知れない。父は縦《よ》しや預言者たる素質を有してゐなかつたにしても、遂《つひ》に consacres [#「e」にアクサン-テギュaccent aigu(')]の群に加はることが出来ずに時勢の秘密を覗《うかゞ》ひ得なかつたのは、単に身分が低かつたためではあるまいか。人は「あが仏尊し」と云ふかも知れぬが、私はかう云ふ思議に渉《わた》ることを禁じ得ない。
 私の家は代々|備前《びぜん》国|上道《じやうたう》郡|浮田《うきた》村の里正を勤めてゐた。浮田村は古く沼《ぬま》村と云つた所で、宇喜多直家《うきたなほいへ》の城址《じやうし》がある。其|城壕《しろぼり》のまだ残つてゐる土地に、津下氏は住んでゐた。岡山からは東へ三里ばかりで、何一つ人の目を惹《ひ》くものもない田舎《ゐなか》である。
 私の祖父を里正|津下市郎左衛門《つげいちらうざゑもん》と云つた。旧家に善くある習《ならひ》で、祖父は分家で同姓の家の娘を娶《めと》つた。祖母の名は千代《ちよ》であつた。千代は備前侯池田家に縁故のあつた人で、駕籠《かご》で岡山の御殿に乗り附ける特権を有してゐたさうである。恐らくは乳母《うば》ではなかつたかと、私は想像する。此夫婦の間に私の父は生れた。
 父は嘉永二年に生れた。幼名は鹿太《しかた》であつた。これも旧家に善くある習で、鹿太は両親の望に任せて小さい時に婚礼をした。塩見氏《しほみうぢ》の丈《たけ》と云ふ娘と盃をしたのである。多分嘉永四年で、鹿太は四歳、丈は一つ上の五歳であつたかと思ふ。
 鹿太は物騒がしい世の中で、「黒船」の噂《うはさ》の間に成長した。市郎左衛門の所へ来る客の会話を聞けば、其詞《そのことば》の中に何某《なにがし》は「正義」の人、何某は「因循《いんじゆん》」の人と云ふことが必ず出る。正義とは尊王攘夷の事で、因循とは佐幕開国の事である。開国は寧《むし》ろ大胆な、進取的な策であるべき筈《はず》なのに、それが因循と云はれたのは、外夷《ぐわいい》の脅迫を懾《おそ》れて、これに屈従するのだと云ふ意味から、さう云はれたのである。其背後には支那の歴史に夷狄《いてき》に対して和親を議するのは奸臣《かんしん》だと云ふことが書いてあるのが、心理上に reminiscence[#最初の「e」にアクサン-テギュaccent aigu(')] として作用した。現に開国を説く人を憎む情の背後には、秦檜《しんくわい》のやうな歴史上の人物を憎む情が潜《ひそ》んでゐたのである。鹿太は早く大きくなりたいと願ふと同時に、早く大きくなつて正義の人になりたいと願つた。
 文久二年に鹿太は十五歳で元服して、額髪《ひたひがみ》を剃《そ》り落した。骨組の逞《たく》ましい、大柄な子が、大綰総《おほたぶさ》に結つたので天晴《あつぱれ》大人《おとな》のやうに見えた。通称四郎左衛門、名告《なのり》は正義《まさよし》となつた。それを公の帳簿に四郎とばかり書かれたのは、池田家に左衛門と云ふ人があつたので、遠慮したのださうである。祖父の市郎左衛門も、公《おほやけ》には矢張《やはり》市郎で通つてゐた。
 鹿太は元服すると間もなく、これまで姉のやうにして親《したし》んでゐた丈と、真の夫婦になつた。此頃から鹿太は岡山の阿部守衛《あべもりゑ》の内弟子になつて、撃剣を学んだ。阿部は当時剣客を以て関西に鳴つてゐたのである。
 文久三年二月には私が生れた。父四郎左衛門は十六歳、母は十七歳であつた。私は父の幼名を襲《つ》いで鹿太と呼ばれた。
 慶応三年の冬、此年頃|※[#「※」は「さけのとり(酉)+慍のつくり」、読みは「うん」、第3水準1-92-88、136-8]醸《うんぢやう》せられてゐた世変が漸《やうや》く成熟の期に達して、徳川|慶喜《よしのぶ》は大政《たいせい》を奉還し、将軍の職を辞した。岡山には、当時の藩主|池田越前守茂政《いけだゑちぜんのかみもちまさ》の家老に、伊木若狭《いぎわかさ》と云ふ尊王家があつて、兼《かね》て水戸の香川敬三《かがはけいざう》、因幡《いなば》の河田左久馬《かはたさくま》、長門《ながと》の桂小五郎《かつらこごらう》等を泊らせて置いた位であるので、翌年明治元年正月に、此伊木が備中越前《びつちゆうゑちぜん》鎮撫総督《ちんぶそうとく》にせられた。
 伊木の手には卒三百人しか無かつた。それでは不足なので、松本箕之介《まつもとみのすけ》が建策して先づ勇戦隊と云ふものを編成した。岡山藩の士分のものから有志者を募《つの》つたのである。四郎左衛門はすぐにこれに応ぜようとしたが、里正の子で身分が低いので斥《しりぞ》けられた。
 そのうち勇戦隊はもう編成せられて、能呂勝之進《のろかつのしん》がそれを引率して、備中国松山に向つて進発した。隊が岡山を離れて、まだ幾程《いくほど》もない時、能呂がふと前方を見ると、隊の先頭を少し離れて、一人の男が道の真中を闊歩してゐる。隊の先導をするとでも云ふやうに見える。骨組の逞《たくま》しい大男で、頭に烏帽子《ゑぼし》を戴き、身に直垂《ひたゝれ》を著、奴袴《ぬばかま》を穿《は》いて、太刀《たち》を弔《つ》つてゐる。能呂は隊の行進を停めて、其男を呼び寄せさせた。男は阿部守衛の門人津下四郎左衛門と名告《なの》つて、さて能呂にかう云つた。自分は兼てより尊王の志を懐《いだ》いてゐるものである。此度《このたび》勇戦隊が編成せられるに就《つ》いては、是非共其一員に加はりたいので、早速志願したが、一里正の子だと云ふ廉《かど》で御採用にならなかつた。しかし隊の勇ましい門出《かどで》を余所《よそ》に見て、独《ひと》り岡山に留《とゞ》まるに忍びないから、若《も》し戦闘が始まつたら、微力ながら応援いたさうと思つて、同じ街道を進んでゐるのだと云つた。能呂は其風采をも口吻《こうふん》をも面白く思つて、すぐに伊木に請うて、四郎左衛門を隊伍に入れた。四郎左衛門が二十一歳の時である。
 松山の板倉伊賀守勝静《いたくらいがのかみかつきよ》は老中を勤めてゐた身分ではあるが、時勢に背《そむ》き王師《わうし》に抗すると云ふ意志は無かつたので、伊木の隊は血を流さずに鎮撫《ちんぶ》の目的を遂げた。それから隊が六月まで約半年間松山に駐屯して、そこで伊木は第二隊を募集した。備中の藤島政之進《ふぢしままさのしん》が指揮した義戦隊と云ふのがそれである。
 或る日城外の調練場で武芸を試みようと云ふことになつて、備前組と備中組とが分かれて技を競《くら》べた。然《しか》るに撃剣の上手は備中組に多かつたので、備前組が頻《しきり》に敗《まけ》を取つた。其時四郎左衛門が出て、備中組の手剛《てごは》い相手数人に勝つた。伊木は喜んで、自分の乗つて来た馬を四郎左衛門に与へた。競技が済《す》んで帰る時、四郎左衛門が其馬に騎《の》つて行くと、沿道のものが伊木だと思つて敬礼をした。
 六月に伊木は勇戦義戦の両隊を纏《まと》めて岡山に引き上げた。両隊は国富《くにとみ》村|操山《みさをやま》の少林寺《せうりんじ》に舎営することになつた。四郎左衛門は隊の勤務の旁《かたはら》、伊木の分家|伊木木工《いぎもく》の側雇《そばやとひ》と云ふものになつて、撃剣の指南などをしてゐた。
 四郎左衛門は勇戦隊にゐるうちに、義戦隊長藤島政之進の下に参謀のやうな職務を取つてゐた上田立夫《うへだりつぷ》と心安くなつた。二人が会合すれば、いつも尊王攘夷の事を談じて慷慨《かうがい》し、所謂《いはゆる》万機一新の朝廷の措置に、動《やゝ》もすれば因循の形迹《けいせき》が見《あらは》れ、外国人が分外《ぶんぐわい》の尊敬を受けるのを慊《あきたら》ぬことに思つた。それは議定《ぎぢやう》参与の人々の間には、初から開国の下心があつて、それが漸《やうや》く施政の上に発露して来たからである。
 或る日二人は相談して、藩籍を脱して京都に上ることにした。偕《とも》に輦轂《れんこく》の下《もと》に住んで、親しく政府の施設を見ようと云ふのである。二人の心底には、秕政《ひせい》の根本を窮《きは》めて、君側《くんそく》の奸《かん》を発見したら、直《たゞ》ちにこれを除かうと云ふ企図が、早くも此時から萌《きざ》してゐた。
 二人は京都に出た。さて議定参与の中で、誰が洋夷に心を傾けてゐるかと探つて見た。其時二人の目に奸人の巨魁《きよくわい》として映じたのは、三月に徴士《ちようし》となつて熊本から入京し、制度局の判事を経て、参与に進んだ横井平四郎であつた。
 横井は久しく越前侯|松平慶永《まつだひらよしなが》の親任を受けてゐて、公武合体論を唱へ、慶永に開国の策を献じた男である。其外《そのほか》大阪の城代|土屋采女正寅直《つちやうねめのしやうともなほ》の用人|大久保要《おほくぼかなめ》に由つて徳川慶喜に上書し、又藤田誠之進を介して水戸斉昭《みとなりあき》に上書したこともある。世間では其論策の内容を錯《あやま》り伝へて、廃帝を議したなどゝ云つたり、又洋夷と密約して、基督《きりすと》教を公許しようとしてゐるなどゝ云つたりした。
 公武合体論者の横井が、純粋な尊王家の目から視《み》て、灰色に見えたのは当然の事であるが、それが真黒に見えたのは、別に由《よ》つて来たる所がある。横井は当時の智者ではあつたが、其思想は比較的単純で、それを発表するに、世の嫌疑を避けるだけの用心をしなかつた。横井は政治の歴史の上から、共和政の価値を認めて、アテエネに先だつこと数百年、尭舜《げうしゆん》の時に早く共和政が有つたと断じた。「人君何天職《じんくんなんぞてんしよくなる》。代天治百姓《てんにかはりてひやくせいををさむ》。自非天徳人《てんとくのひとにあらざるよりは》。何以※[#「※」は「りっしん偏+(はこ構(匚)+「夾」)」、第3水準1-84-56、140-6]天命《なにをもつてかてんめいにかなはん》。所以尭巽舜《げうのしゆんにゆづりしゆゑん》。是真為大聖《これまことにたいせいたり》。」これは共和政を日本に行はうと云ふ意ではない。横井は又ヨオロツパやアメリカで基督教が、人心を統一する上に於いて、頗《すこぶ》る有力であるのを見て、神儒仏三教の不振を歎いた。「西洋有正教《せいやうにせいけうあり》。其教本上帝《そのをしへはじやうていをもととす》。戒律以導人《かいりつもてひとをみちびき》。勧善懲悪戻《ぜんをすすめてあくれいをこらしむ》。上下信奉之《しやうかこれをしんぽうし》。因教立法制《をしへによりてはふせいをたつ》。治教不相離《ちとけうあひはなれず》。是以人奮励《ここをもつてひとふんれいす》。」これは基督教を日本に弘めようと云ふ意ではない。同じ詩の末解にも、「嗟乎唐虞道《あゝたうぐのみち》、明白如朝霽《めいはくなることあさのはるるがごとし》、捨之不知用《これをすててもちふることをしらず》、甘為西洋隷《あまんじてせいやうのれいとなる》」と云つてある。横井は政治上には尊王家で、思想上には儒者であつた。甘んじて西洋の隷となることを憤つた心は、攘夷家の心と全く同じである。しかし当時の尊王攘夷論者の思想は、横井よりは一層単純であつたので、遂に横井を誤解することになつた。
 横井が志士の間に奸人として視られてゐたのは、此時に始まつたことでは無い。六年前、文久元年に江戸で留守居になつてゐた時も、都筑《つづき》四郎、吉田平之助と一しよに、呉服町の料理屋で酒を飲んでゐるところへ、刺客《せきかく》が踏み込んで殺さうとしたことがある。吉田は刺客に立ち向つて、肩先を深く切られて、創《きず》のために命を隕《おと》したが、横井は刺客の袖の下を潜《くゞ》つて、都筑と共に其場を逃げた。吉田の子|巳熊《みくま》は仇討《あだうち》に出て、豊後国鶴崎で刺客の一人を討ち取つた。横井は呉服町での挙動が、いかにも卑怯《ひけふ》であつたと云ふので、熊本に帰つてから禄を褫《うば》はれた。
 上田立夫と四郎左衛門とは、時機を覗《うかゞ》つて横井を斬らうと決心した。しかし当時の横井はもう六年前の一藩士では無い。朝廷の大官で、駕籠《かご》に乗つて出入する。身辺には門人や従者がゐる。若し二人で襲撃して為損《しそん》じてはならない。そこで内密に京都に出てゐた処士の間に物色して、四人の同志を得た。一人は郡山《こほりやま》藩の柳田徳蔵、今一人は尾州藩の鹿島復之丞《かしままたのじよう》、跡《あと》の二人は皆|十津川《とつがは》の人で、前岡|力雄《りきを》、中井|刀禰雄《とねを》と云つた。
 四郎左衛門は土屋信雄と変名して、京都|粟田《あはた》白川橋南に入る堤町の三宅典膳と云ふものゝ家に潜伏してゐた。そして時々七人の同志と会合して、所謂|斬奸《ざんかん》の手筈《てはず》を相談した。然るに生憎《あいにく》横井は腸を傷《いた》めて、久しく出勤しなかつた。邸宅の辺を徘徊《はいくわい》して窺《うかゞ》ふに、大きい文箱《ふばこ》を持つた太政官《だじやうくわん》の使が頻《しきり》に往反《わうへん》するばかりである。
 同志の人々はいつそ邸内に踏み込んで撃たうかとも思つた。しかし此秘密結社の牛耳を執《と》つてゐた上田が聴かなかつた。なぜと云ふに、横井は処士に忌まれてゐることを好く知つてゐて、邸宅には十分に警戒をしてゐた。そこへ踏み込んでは、六人の力を以てしても必ず成功するとは云はれなかつたからである。
 歳暮に迫つて、横井は全快して日々出勤するやうになつた。同志の人々は会合して、来年早々事を挙げようと議決した。さて約束が極《き》まつた時、四郎左衛門は訣別《けつべつ》のために故郷へ立つた。
 四郎左衛門が京都に上つてからも、浮田村の家からは市郎左衛門が終始密使を遣《や》つて金を送つてゐた。同志の会合は人の耳目を欺くためにわざと祇園《ぎをん》新地の揚屋《あげや》で催されたが、其費用を払ふのは大抵四郎左衛門であつた。色が白く、柔和に落ち著いてゐて、酒を飲んでも行儀を崩さぬ四郎左衛門は、芸者や仲居にもてはやされたさうである。或る時同志の中の誰やらがかう云つた。かうして津下にばかり金を遣《つか》はせては気の毒だ。軍資を募るには手段がある。我々も人真似に守銭奴を脅《おど》して見ようではないかと云つた。其時四郎左衛門がきつと居直つて、一座を見廻してかう云つた。我々の交《まじはり》は正義の交である。君国に捧《さゝ》ぐべき身を以て、盗賊にまぎらはしい振舞は出来ない。仮に死んでしまふ自分は瑕瑾《かきん》を顧みぬとしても、父祖の名を汚し、恥を子孫に遺《のこ》してはならない。自分だけは同意が出来ないと云つた。
 大晦日《おおみそか》の雪の夜であつた。津下氏の親類で、同じ浮田村に住んでゐた杉本某の所から、津下の留守宅へ使が来た。急用があるから、在宅の人達は皆|揃《そろ》つて、こつそり来て貰ひたいと云ふことであつた。市郎左衛門夫婦は何事かと不審に思つたが、よめの丈《たけ》には、兎《と》に角《かく》急いで支度をせいと言ひ附けた。若しや夫の身の上に掛かつた事ではあるまいかと心配しつゝも、祖父母の跡に附いて、当時二十二歳の母は、六歳になつた私を連れて往つた。
 杉本方に待つてゐたのは父四郎左衛門であつた。私は幼かつたので、父がどんな容貌をしてゐたか、はつきりと思ひ浮べることだに出来ない。只《たゞ》「坊主|好《よ》く来た」と云つて、微笑《ほゝゑ》みつゝ頭を撫《な》でゝくれたことだけを、微《かす》かに記憶してゐる。両親と母とには、余り逗留《とうりう》が長くなるので、一寸《ちよつと》逢ひに帰つたと云つたさうである。父は夜の明けぬうちに浮田村を立つて、急いで京都へ引き返した。
 明治二年正月五日の午後である。太政官を退出した横井平四郎の駕籠が、寺町を御霊社《ごりやうしや》の南まで来掛かつた。駕籠の両脇には門人横山|助之丞《すけのじよう》と下津鹿之介とが引き添つてゐる。若党上野友次郎、松村金三郎の二人に、草履取《ざうりとり》が附いて供をしてゐる。忽《たちま》ち一発の銃声が薄曇の日の重い空気を震動させて、とある町家の廂間《ひあはひ》から、五六人の士が刀を抜き連れて出た。上田等の同志のものである。短銃は駕籠舁《かごかき》や家来を威嚇《ゐかく》するために、中井がわざと空に向つて放つたのである。
 駕籠舁は駕籠を棄てゝ逃げた。横井の門人横山、下津は、兼《かね》て途中の異変を慮《おもんばか》つて、武芸の心得のあるものを選んで附けたのであるから、刀を抜き合せて立ち向つた。横山は鹿島と渡り合ひ、下津は柳田と渡り合ふ。前岡、中井は従者等を支へて寄せ附けぬやうにする。
 上田と四郎左衛門とは一歩後に控へて見てゐると、駕籠の戸を開いて横井が出た。列藩徴士中の高齢者で、少し疎《まばら》になつた白髪を髻《もとゞり》に束ねてゐる。当年六十一歳である。少しも驚き慌《あわ》てた様子はなく、抜き放つた短刀を右手に握つて、冷かに同志の人々を見遣つた。横井は撃剣を好んでゐた。七年前に品川で刺客に背を見せたのは、逃げる余裕があつたから逃げたのである。今日は逃げられぬと見定めて、飽くまで闘はうと思つてゐる。
 上田が「それ」と、四郎左衛門に目くばせして云つた。四郎左衛門は只一打にと切つて掛かつた。しかし横井は容易《たやす》く手元に附け入らせずに、剣術自慢の四郎左衛門を相手にして、十四五合打ち合つた。此短刀は今も横井家に伝はつてゐるが、刃がこぼれて簓《さゝら》のやうになつてゐる。
 横井が四郎左衛門の刀を防いでゐるうちに、横山は鹿島の額を一刀切つた。鹿島は血が目に流れ込むので、二三歩飛びしざつた。横山が附け入つて討ち果さうとするのを、上田が見て、横合から切つて掛かつた。其勢が余り烈《はげ》しかつたので、横山は上田の腕に微傷《かすりきず》を負はせたにも拘《かゝは》らず、刃《やいば》を引いて逃げ出した。上田は追ひ縋《すが》つて、横山の後頭を一刀切つて引き返した。
 四郎左衛門が意外の抗抵に逢つて怒を発し、勢鋭く打ち込む刀に、横井は遂に短刀を打ち落された。四郎左衛門は素早く附け入つて、横井を押し伏せ、髻を掴《つか》んで首を斬つた。
 四郎左衛門は「引上げ」と一声叫んで、左手に横井の首を提《さ》げて駆け出した。寺町通の町人や往来の人は、打ち合ふ一群を恐る/\取り巻いて見てゐたが、四郎左衛門が血刀《ちがたな》と生首《なまくび》とを持つて来るのを見て、さつと道を開いた。
 此時横井の門人下津は、初め柳田に前額を一刀切られたのに屈せず、奮闘した末、柳田の肩尖《かたさき》を一刀深く切り下げた。柳田は痛痍《いたで》にたまらず、ばたりと地に倒れた。下津は四郎左衛門が師匠の首を取つて逃げるのを見て、柳田を棄てゝ、四郎左衛門の跡を追ひ掛けた。
 下津が四郎左衛門を追ひ掛けると同時に、前岡、中井に支へられてゐた従者の中から、上野が一人引きはづして、下津と共に駆け出した。
 上野は足が下津より早いので、殆《ほとん》ど四郎左衛門に追ひ附きさうになつた。四郎左衛門は振り返りしなに、首を上野に投げ附けた。首は上野の右の腕に強く中《あた》つた。上野がたじろく隙《すき》に、四郎左衛門は逃げ伸びた。
 上野が四郎左衛門を追ひ掛けて行つた跡で、従者等は前岡、中井に切りまくられて、跡へ跡へと引いた。前岡、中井は四郎左衛門が横井を討つたのを見たので、方角を換へて逃げた。横山に額を切られた鹿島も、上田も、隙《すき》を覗《うかゞ》つて逃げた。同志のうちで其場に残つたのは深痍《ふかで》を負つた柳田一人であつた。
 四郎左衛門の投げ附けた首を拾つた上野と一しよに、下津が師匠の骸《むくろ》の傍《かたはら》へ引き返す所へ、横山も戻つて来た。取り巻いてゐた群集の中から、其外の従者が出て来て、下津等に手伝つて、身首|所《ところ》を異にしてゐる骸を駕籠の内に収めた。市中の警戒をしてゐた警吏が大勢来て、柳田を捕へて往つたのは、此時の事であつた。
 四郎左衛門は市中を一走りに駈《か》け抜けて、田圃道《たんぼみち》に出ると、刀の血を道傍《みちばた》の小河で洗つて鞘《さや》に納め、それから道を転じて嵯峨《さが》の三宅左近の家をさして行つた。左近は四郎左衛門が三宅典膳の家で相識《さうしき》になつた剣客である。左近方の裏には小さい酒屋があつた。四郎左衛門はそこで酒を一升買つて、其徳利を手に提げて、竹藪の中にある裏門から這入《はひ》つた。左近方には四郎左衛門が捕はれて死んだ後に、此徳利が紫縮緬《むらさきちりめん》の袱紗《ふくさ》に包んで、大切に蔵《しま》つてあつたさうである。
 捕へられた柳田は一言も物を言はず、又取調を命ぜられた裁判官等も、強《し》ひて問ひ窮《きは》めようともせぬので、同志の名は暫く知られずにゐた。しかし柳田と往来したことのある人達が次第に召喚せられて中には牢屋に繋《つな》がれたものがある。
 四郎左衛門は毎日市中に出て、捕へられた柳田の生死を知らうと思ひ、又どんな人が逮捕せられたか知らうと思つて、諸方で問ひ合せた。柳田は深痍《ふかで》に悩んでゐて、まだ死なぬと云ふこと、同志の名を明さぬと云ふことなどは、市中の評判になつてゐた。召喚せられて役所に留め置かれたり、又捕縛せられて牢屋に入れられたりしたのは、多くは尊王攘夷を唱へて世に名を知られた人々である。中にも名高いのは和泉《いづみ》の中瑞雲斎《なかずゐうんさい》で、これは長男克己、二男鼎、三男建と共に入牢した。出雲の金本顕蔵、十津川の増田二郎、下総の子安利平治、越後の大隈熊二なども入牢《にふらう》した。四郎左衛門の同郷人では、海間《かいま》十郎左衛門が召喚せられたが、これは一応尋問を受けて、すぐに帰された。海間は岡山紙屋町に吉田屋と云ふ旅人宿を出してゐた男で、志士を援助すると云ふ評判のあつたものである。
 市中の評判は大抵同志に同情して、却《かへ》つて殺された横井の罪を責めると云ふ傾向を示した。柳田の沈黙が称《たゝ》へられる。同志の善《よ》く秘密を守つて、形跡を晦《くら》ましたのが驚歎せられる。それには横井の殺された二三日後に、辻々《つじ/\》に貼り出された文書などが、影響を与へてゐるのであつた。此文書は何者の手に出でたか、同志の干《あづか》り知らぬものであつたが、其文章を推するに、例の落首などの如き悪戯《いたづら》ではなく、全く同志を庇護《ひご》しようとしたものと見えた。貼札は間もなく警吏が剥《は》いで廻つたが、市中には写し伝へたものが少く無かつた。其文はかうである。
「去んぬる五日、徴士横井平四郎を、寺町に於いて、白日斬殺に及びし者あり。一人は縛《ばく》に就《つき》、余党は厳しく追捕せられると云《いふ》。右|斬奸之徒《ざんかんのと》、吾|未《いま》だ其人を雖不知《しらずといへども》、全く憂国之至誠より出でたる事と察せらる。夫《そ》れ平四郎が奸邪、天下|所皆知也《みなしるところなり》。初め旧幕に阿諛《あゆ》し、恐多《おそれおほ》くも廃帝之説を唱ヘ、万古一統の天日嗣《あまつひつぎ》を危《あやう》うせんとす。且《かつ》憂国之正士を構陥讒戮《こうかんざんりく》し、此頃|外夷《ぐわいい》に内通し、耶蘇《やそ》教を皇国に蔓布《まんぷ》することを約す。又朝廷の急務とする所の兵機を屏棄《へいき》せんとす。其余之罪悪、不遑枚挙《まいきよにいとまあらず》。今王政一新、四海|属目《しよくもく》之時に当りて、如此《かくのごとき》大奸要路に横《よこたは》り、朝典を敗壊し、朝権を毀損《きそん》し、朝土を惑乱し、堂々たる我神州をして犬羊に斉《ひと》しき醜夷の属国たらしめんとす。彼徒《かのと》は之《これ》を寛仮すること能《あた》はず、不得已《やむをえず》斬殺に及びしものなり。其壮烈果敢、桜田の挙にも可比較《ひかくすべし》。是《この》故《ゆゑ》に苟《いやしくも》有義気《ぎきある》者、愉快と称せざるはなし。抑如此《そも/\かくのごとき》事変は、下情の壅塞《ようそく》せるより起る。前には言路洞開を令せらると雖《いへど》も、空名のみにして其|実《じつ》なし。忠誠|※[#「※」は「さかな偏+更」、第3水準1-94-42、読みは「こう」、149-11]直《かうちやく》之者は固陋《ころう》なりとして擯斥《ひんせき》せられ、平四郎の如き朝廷を誣罔《ぶまう》する大奸賊|登庸《とうよう》せられ、類を以て集り、政体を頽壊《たいくわい》し、外夷|愈《いよ/\》跋扈《ばつこ》せり。有志之士、不堪杞憂《きいうにたへず》、屡《しば/\》正論|※[#「※」は「ごん偏+黨」、第4水準2-88-84、読みは「とう」、150-2]議《たうぎ》すと雖、雲霧|濛々《もう/\》、毫《がう》も採用せられず。乃《すなは》ち断然|奸魁《かんくわい》を斃《たふ》して、朝廷の反省を促す。下情|壅塞《ようそく》せるより起ると云ふは即是也《すなはちこれなり》。切に願ふ、朝廷此情実を諒《りやう》とし給ひ、詔《みことのり》を下して朝野の直言を求め、奸佞《かんねい》を駆逐し、忠正を登庸し、邪説を破り、大体を明《あきらか》にし給はむことを。若夫《もしそれ》斬奸之徒は、其情を嘉《よみ》し、其実を不論《あげつらはず》、其実を推し、其名を不問《とはず》、速《すみやか》に放赦《はうしや》せられよ。果して然らば、啻《たゞ》に国体を維持し、外夷の軽侮を絶つのみならず、天下之士、朝廷改過の速《すみやか》なるに悦服し、斬奸の挙も亦|迹《あと》を絶たむ。然らずんば奸臣|朝《てう》に満ち、乾綱《けんかう》紐《ひも》を解き、内憂外患|交《こも/″\》至り、彼《かの》衰亡の幕府と択《えら》ぶなきに至らむ。於是乎《こゝにおいてか》、憂国之士、奮然|蹶起《けつき》して、奸邪を芟夷《さんい》し、孑遺《げつゐ》なきを期すべし。是れ朝廷の威信を繋《つな》ぐ所以《ゆゑん》の道に非ず。皇祖天神照鑒在上。吾説の是非、豈《あに》論ずるを須《もち》ゐんや。吾に左袒《さたん》する者は、檄《げき》の至るを待ち、叡山《えいざん》に来会せよ。共に回天の大策を可議者也《ぎすべきものなり》。明治二年春王正月、大日本憂世子。」
 此貼札に更に紙片を貼り附けて、「右三日之間|令掲示《けいじせしめ》候間、猥《みだり》に取除候者あらば斬捨可申《きりすてまうすべく》候事」と書いてあつた。これは後に弾正台《だんじやうだい》に勤めてゐた、四郎左衛門の剣術の師阿部守衛が、公文書の中から写し取つて置いたものである。
 横井を殺してから九日目の正月十四日に、四郎左衛門が当時官吏になつてゐた信州の知人近藤十兵衛の所に往つて、官辺での取沙汰を尋ねてゐると、そこへ警吏が踏み込んで、主人と客とを拘引した。これは上田が鹿島と一しよに高野山の麓《ふもと》で捕へられたために、上田の親友であつた四郎左衛門が逮捕せられることになつたのである。初め海間が喚《よ》ばれた時、裁判官は備前の志士の事を糺問《きうもん》したが、海間は言を左右に託して、嫌疑の上田等の上に及ぶことを避けた。しかし腕に切創《きりきず》のある上田が捕へられて見れば、海間の心づくしも徒事《とじ》になつた。
 四郎左衛門が捕へられてから中一日置いて、十六日に柳田は創のために死んだ。牢屋にはまだ旧幕の遺風が行はれてゐたので、其|屍《しかばね》は塩漬にせられた。上田と四郎左衛門とが捕へられた後に、備前で勇戦隊を編成した松本|箕之介《みのすけ》は入牢《にふらう》し、これに与《あづか》つた家老戸倉左膳の臣斎藤直彦も取調を受けた。
 当時の法廷の摸様は、信憑《しんぴよう》すべき記載もなく、又其事に与《あづか》つた人も亡くなつたので、私は精《くは》しく知らぬが、裁判官の中にも同志の人たちに同情するものがあつたので、苛酷な処置には出《い》でなかつたさうである。私は又|薫子《にほこ》と云ふ女があつて、四郎左衛門を放免して貰はうとして周旋したと云ふことを聞いた。幼年の私は、天子様のために働いて入牢した父を、救はうとした女だと云ふので、下髪《さげがみ》に緋《ひ》の袴《はかま》を穿《は》いた官女のやうに思つてゐた。しかし実はどう云ふ身分の女であつたかわからない。後明治十一二年の頃、薫子は岡山に来て、人を集めて敬神尊王の話をしたり、人に歌を書いて遣《や》つたりしたさうであるが、私は其頃もう岡山にゐなかつた。
 父四郎左衛門は明治三年十月十日に斬られたと云ふことである。官辺への遠慮があるので、墓は立てずにしまつた。私には香花《かうげ》を手向《たむ》くべき父の墓と云ふものが無いのである。私は今は記《おぼ》えてゐぬが、父の訃音《ふいん》が聞えた時、私はどうして死んだのかと尋ねたさうである。母が私に斬られて死んだと答へた。私は斬られたなら敵《かたき》があらう、其敵は私がかうして討つと云つて、庭に飛び降りて、木刀で山梔《くちなし》の枝を敲《たゝ》き折つた。母はそれに驚いて、其後は私の聴く所で父の噂をしなくなつたさうである。
 父が亡くなつてから、祖父は力を落して、田畑を預けた小作人の監督をもしなくなつた。収穫は次第に耗《へ》つて、家が貧しくなつて、跡には母と私とが殆ど無財産の寡婦《くわふ》孤児として残つた。啻《ただ》に寡婦孤児だといふのみではない。私共は刑余《けいよ》の人の妻子である。日蔭ものである。
 母は私を養育し、又段々と成長する私を学校へ遣るために、身を粉に砕くやうな苦労をした。
 私は母のお蔭で、東京大学に籍を置くまでになつたが、種々の障礙《しやうがい》のために半途で退学した。私は今其障礙を数へて、めめしい分疏《いひわけ》をしたくは無い。しかし只一つ言ひたいのは、私が幼い時から、刑死した父の冤《ゑん》を雪《そゝ》がうと思ふ熱烈な情に駆られて、専念に学問を研究することが出来なかつたといふ事実である。
 人は或は云ふかも知れない。学問を勉強して、名を成し家を興すのが、即ち父の冤を雪ぐ所以《ゆゑん》ではないかといふかも知れない。しかしそれは理窟である。私は亡父のために日夜憂悶して、学問に思を潜《ひそ》めることが出来なかつた。燃えるやうな私の情を押し鎮《しづ》めるには冷かな理性の力が余りに微弱であつた。
 父は人を殺した。それは悪事である。しかし其の殺された人が悪人であつたら、又末代まで悪人と認められる人であつたら、殺したのが当然の事になるだらう。生憎《あいにく》其の殺された人は悪人ではなかつた。今から顧みて、それを悪人だといふ人は無い。そんなら父は善人を殺したのか。否、父は自ら認めて悪人となした人を殺したのである。それは父が一人さう認めたのでは無い。当時の世間が一般に悪人だと認めたのだといつても好い。善悪の標準は時と所とに従つて変化する。当時の父は当時の悪人を殺したのだ。其父がなぜ刑死しなくてはならなかつたか。其父の妻子がなぜ日蔭ものにならなくてはならぬか。かう云ふ取留《とりとめ》のない、tautologie に類し、circulus vitiosus に類した思想の連鎖が、蜘蛛《くも》の糸のやうに私の精神に絡み附いて、私の読みさした巻を閉ぢさせ、書き掛けた筆を抛《なげう》たせたのである。
 私は学問を廃してから、下級の官公吏の間に伍して、母子の口を糊《のり》するだけの俸給を得た。それからは私の執る職務が、器械的の精神上労作に限られたので、私は父の冤を雪ぐと云ふことに、全力を用ゐようとした。しかしそれは譬《たと》へやうのない困難な事であつた。
 私は先づ父の行状を出来るだけ精《くは》しく知らうとした。それは父が善良な人であつたと云ふことを、私は固く信じてゐるので、父の行状が精しく知れれば知れる程、父の名誉を大きくすることになると思つたからである。私は休暇を得る毎《ごと》に旅行して、父の足跡を印した土地を悉《こと/″\》く踏破した。私は父を知つてゐた人、又は父の事を聞いたことのある人があると、遠近を問はず訪問して話を聞いた。しかし父が亡くなつてから、もう五十年立つてゐる。山河は依然として在つても、旧道が絶え、新道が開け、田畑が変じて邸宅市街になつてゐる。人も亦《また》さうである。父を知つてゐた人は勿論、父の事を聞いたことのある人は絶無僅有で、其の僅《わづか》に存してゐる人も、記憶のおぼろげになり、耳の遠くなつたのをかこつばかりである。
 私の前に話したのは、此《かく》の如くにして集めた片々たる事実を、任意に湊合《そうがふ》したものである。伝へ誤りもあらう、聞き誤りもあらう。又|識《し》らず知《し》らずの間に、私の想像力が威《ゐ》を逞《たくまし》うして、無中《むちゆう》に有《いう》を生じた処も無いには限らない。しかし大体の上から、私はかう云ふことが出来ると信ずる。私の予想は私を欺かなかつた。私の予想は成心《せいしん》ではなかつた。私の父は善人である。気節を重んじた人である。勤王家である。愛国者である。生命財産より貴きものを有してゐた入である。理想家である。
 私はかう信ずると共に、聊《いさゝか》自ら慰めた。然しながら其反面に於いて、私は父が時勢を洞察することの出来ぬ昧者《まいしや》であつた、愚《おろか》であつたと云ふことをも認めずにはゐられない。父の天分の不足を惜み、父を啓発してくれる人のなかつたのを歎かずにはゐられない。これが私の断案である。父の伝記に添へる論讃《ろんさん》である。
 私は父の上を私に語つてくれた人々に、ここに感謝する。主な一人は未亡人海間の刀自《とじ》である。婦人の持前として、繊小な神経が微細な刺戟に感応して、人の記憶してゐぬことを記憶してゐてくれたので、私は未亡人に、父の経歴中の幾多の details を提供して貰つた。今一人は父を流離|瑣尾《さび》の間に認識して、久しく家に蔵匿《ざうとく》せしめて置いた三宅氏の後たる武彦君である。私は次に父を弁護してくれた二人の名を挙げる。丹羽寛夫君と鈴木無隠君とである。丹羽君は備前の重臣で、三千石取つてゐた人である。それがかう云つた。四郎左衛門を昧者《まいしや》だと云つて責めるのは酷である。当時の日本は鎖国で、備前は又鎖国中の鎖国であつた。岡山の人は足を藩の領域の外に踏み出すことが出来なかつた。青年共は女が恋しくなると、岡山の西一里ばかりの宮内《みやうち》へ往つた。しかし人に無礼をせられても咎《とが》めることが出来なかつた。咎めると、自分が備中界に入つたことが露顕するからである。其青年共に世界の大勢に通じてゐなかつたのを責めるのは無理である。己も京都にゐた時、或る人を刺さうとしたことがある。しかし事に阻《さまた》げられて果さずに岡山に帰つた。そのうち比較的に身分が好いので、少属《せうさくわん》に採用せられた。それから当路者と交際して、やう/\外国の事情を聞いた。己《おのれ》は智者を以て自ら居るわけではないが、己と四郎左衛門との間には軒輊《けんち》する所は無い筈だと云つた。鈴木君は内外典《ないげてん》に通じた学者で、荒尾精《あらをせい》君等と国事を謀《はか》つてゐた人である。それが私にかう云ふ伝言をした。己は四郎左衛門を知つて居た。四郎左衛門は昧者ではなかつた。横井を刺したには相応の理由があると云ふのであつた。しかし私の面会せぬうちに、鈴木君は亡くなつた。どんな説を持つてゐたか知らぬが、残惜《のこりを》しいやうな気がする。
 私は父の事蹟を探つただけで満足したのではない。顔に塗られた泥を洗ふやうに、積極的に父の冤《ゑん》を雪《そゝ》ぎたいと云ふのが、私の幼い時からの欲望である。幼い時にはかう思つた。父は天子様のために働いた。それを人が殺した。私は其の殺した人を殺さなくてはならぬと思つた。稍《やや》成長してから、私は父を殺したのは人ではない、法律だと云ふことを知つた。其時私はねらつてゐた的《まと》を失つたやうに思つた。自分の生活が無意味になつたやうに思つた。私は此発見が長い月日の間私を苦めたことを記憶してゐる。
 私は此内面の争闘を閲《けみ》した後に、暫《しばら》くは惘然《ばうぜん》としてゐたが、思量の均衡がやうやう恢復《くわいふく》せられると共に、従来回抱してゐた雪冤《せつゑん》の積極手段が、全く面目を改めて意識に上つて来た。私はどうにかして亡き父を朝廷の恩典に浴させたいと思ひ立つた。父は王政復古の時に当つて、人に先んじて起《た》つて王事に勤めたのである。其の人を殺したのは、政治上の意見が相《あひ》容《い》れなかつたためである。殺されたものは政争の犠牲である。さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讎《おんしう》両《ふた》つながら滅した今になつて、枯骨《ここつ》が朝恩《てうおん》に沾《うるほ》つたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩に謀《はか》り、当路の大官に愬《うつた》へた。それは私が学問を廃することになつた後の事である。
 明治十九年から二十年に掛けて、津下四郎左衛門に贈位する可否と云ふことは、一時其筋の問題になつてゐたさうである。しかし結局、特赦を蒙《かうむ》らずして刑死したものに、贈位を奏請することは出来ぬと云ふことになつた。私は落胆して、再び自分の生活が無意味になつたやうに思つた。尤《もつと》も此時の苦悶は、昔復讎の対象物を失つた時に比べて、余程軽く又短かつた。私が老成人になつてゐたためかも知れぬが或は私の神経が鈍くなつたためだとも思へば思はれる。
 私はもうあきらめた。譲歩に譲歩を重ねて、次第に小さくなつた私の望は、今では只此話を誰かに書いて貰つて、後世に残したいと云ふ位のものである。
       ――――――――――――――――――――
 聞書《きゝがき》はここに終る。文中に「私」と云つてあるのは、津下四郎左衛門正義の子で、名を鹿太と云つた人である。それだけの事は既に文中に見えてゐる。それのみでは無い。読者は、鹿太がどんな性質の人で、どんな境遇にゐて、どんな閲歴を有してゐると云ふことも、おほよそは窺《うかゞ》ふことが出来たであらう。
 私は此聞書の editeur [#最初の「e」にアクサン-テギュaccent aigu(')]として、多くの事を書き添へる必要を感ぜない。只これが私の手で公にせられることになつた来歴を言つて置きたい。私は既に大学を出て、父の許《もと》にゐて、弟|篤次郎《とくじらう》がまだ大学にゐた時の事である。私は篤次郎に、「どうだ、学生仲間にえらい人があるか」と云つた。弟はすぐに二人の同級生の名を挙げた。一人はKと云つて、豪放な人物、今一人は津下正高といつて、狷介《けんかい》な人物だといふことであつた。弟は後に才子を理想とするやうになつたが、当時はまだ豪傑を理想としてゐたのである。Kも津下君も弟が私に紹介した。Kは力士のやうに肥満した男で、柔術が好《すき》であつた。気の毒な事には、酒興に任せて強盗にまぎらはしい事をして、学生の籍を削られた。津下君は即鹿太で、此聞書の auteur である。
 津下君は色の蒼白《あをじろ》い細面《ほそおもて》の青年で、いつも眉根《まゆね》に皺《しわ》を寄せてゐた。私は君の一家の否運が Kain のしるしのやうに、君の相貌の上に見《あら》はれてゐたかと思ふ。君は寡言《くわげん》の人で、私も当時余り饒舌《しやべ》らなかつたので、此会見は殆《ほとん》ど睨合《にらみあひ》を以て終つたらしい。しかしそれから後三十年の今に至るまで、津下君は私に通信することを怠らない。私が不精《ぶしやう》で返事をせぬのを、君は意に介せない。津下君は私に面会してから、間もなく大学を去つて、所々に流寓《りうぐう》した。其手紙は北海道から来たこともある。朝鮮から来たこともある。兎に角私は始終君を視野の外に失はずにゐた。
 大正二年十月十三日に、津下君は突然私の家を尋ねて、父四郎左衛門の事を話した。聞書は話の殆《ほとんど》其|儘《まゝ》である。君は私に書き直させようとしたが、私は君の肺腑《はいふ》から流れ出た語の権威を尊重して、殆其儘これを公にする。只物語の時と所とに就いて、杉孫七郎、青木梅三郎、中岡|黙《もく》、徳富猪一郎、志水小一郎、山辺丈夫《やまのべたけを》の諸君に質《たゞ》して、二三の補正を加へただけである。津下君は久しく見ぬ間に、体格の巌畳《がんでふ》な、顔色の晴々した人になつてゐて、昔の憂愁の影はもう痕《あと》だになかつた。私は「書後」の筆を投ずるに臨《のぞ》んで敬《つゝし》んで君の健康を祝する。
      ――――――――――――――――――――――
 上の中央公論に載せた初稿は媒《なかだち》となつて、わたくしに数多《あまた》の人を識らしめた。中には当時四郎左衛門と親善であつた人さへある。此等の人々の談話、書牘《しよとく》、その所蔵の文書等に由つて、わたくしは上の一篇の中なる人名等に多少の改刪《かいさん》を加へた。比較的正確だと認めたものを取つたのである。わたくしは猶《なほ》下の数事を知ることを得た。
 津下四郎左衛門の容貌が彼《か》の正高さんに似てゐたことは本文でも察せられる。しかし四郎左衛門は躯幹《くかん》が稍《やゝ》長大で、顔が稍|円《まる》かつたさうである。
 京都で四郎左衛門の潜伏してゐた三宅典膳の家の土蔵は、其後母屋は改築せられたのに、猶旧形を存してゐて、道路より望見することが出来るさうである。当時食を土蔵に運びなどした女が現存して、白山《はくさん》御殿町に住んでゐるが、氏名を公にすることを欲せぬと云ふことである。
 本文にわたくしは上田立夫と四郎左衛門とが故郷を出でゝ京都に入る時、早く斬奸《ざんかん》の謀《はかりごと》を定めてゐたと書いた。しかし是《これ》は必ずしもさうではなかつたであらう。二人は京都に入つてから、一時|所謂《いはゆる》御親兵問題にたづさはつて奔走してゐた。堂上家の某が家を脱して、浪人等を募集し、皇室を守護せむことを謀《はか》つた。その浪人を以て員《かず》に充《あ》てむと欲したのは、諸藩の士には各其主のために謀る虞《おそれ》があると慮《おもんばか》つたが故である。わたくしは此《こゝ》に堂上家の名を書せずに置く。しかし他日維新史料が公にせられたなら、此問題は復《また》秘することを須《もち》ゐぬものとなるかも知れない。
 浪人には十津川産の士が多かつた。其他は諸国より出てゐた。知名の士にして親兵の籍に入つたものには、先づ中瑞雲斎《なかずゐうんさい》がある。
 中氏は昔|瓜上《うりかみ》と称し、河内《かはち》の名族であつた。承応二年|和泉国《いづみのくに》熊取村五門に徙《うつ》つて、世郷士《よゝがうし》を以て聞えてゐた。此中氏の分家に江戸本所住の三千六百石の旗本|根来《ねごろ》氏があつた。瑞雲斎は根来氏の三男に生れて宗家《そうけ》を襲《つ》ぎ、三子を生んだ。伯は克己、仲は鼎、季は建である。別に養子薫がある。瑞雲斎は早く家を克己に譲つて、京都に入り、志士に交つた。四郎左衛門等の獄起るに及んで、三子と共に拘引せられ、瑞雲斎は青森県に護送せられる途中で死し、克己、建は京都の獄舎に死し、鼎は幽囚十年の後|赦《ゆる》された。此間《このかん》故郷熊取村には三女があつた。支配人某が世話をして、小谷村原文平の二男辰之助を迎へて、長女すみの壻《むこ》にした。鼎は出獄後、辰之助等に善遇せられぬので、名を謙一郎と改め、堺市に遷《うつ》つて商業を営み、資本を耗尽《かうじん》し、後に大阪府下南河内郡|古市《ふるいち》村の誉田《こんだ》神社の社司となつた。謙一郎の子は香苗、武夫、幸男で、香苗は税務|属《さかん》、武夫は台湾総督府技手、幸男は学生で史学に従事してゐる。一女は三宅典膳の孫徹男に嫁した。わたくしは幸男さんに由つて此世系を聞くことを得た。
 瑞雲斎と事を与《とも》にした人に十津川産の宮太柱《みやたちゆう》がある。当時大木|主水《もんど》と称してゐた。太柱は和漢洋の三学に通ずるを以て聞えてゐた。四郎左衛門等の獄に連坐せられて、三宅島に流され、赦《しや》に遭《あ》うて帰ることを得た。太柱の子大茂さんは四谷区北伊賀町十九番地に住んでゐる。
 同じく連坐せられた十津川の士|上平《うへひら》(一に錯《あやま》つて下平に作る)主税《ちから》は新島に流され、これも還ることを得た。
 一瀬|主殿《とのも》も亦十津川の士で連坐せられ、八丈島に流され、後|赦《ゆる》されて帰つた。
 中《なか》等の親兵団は成らむと欲して成らなかつた。是は神田孝平、中井浩、横井平四郎等に阻《はゞ》まれたのである。
 此時に当つて天道革命論と云ふ一篇の文章が志士の間に伝へられた。当時の風説に従へば、文は横井平四郎の作る所で、阿蘇神社の社司の手より出で、古賀十郎を経て流伝したと云ふことである。其文に曰く。
「夫《そ》れ宇宙の間、山川草木人類鳥獣の属ある、猶《なほ》人の身体の四支|百骸《ひやくがい》あるがごとし。故《ゆゑ》に宇宙の理を知らざる者は、身に手足の具あるを知らざるに異なることなし。然れば宇宙有る所の諸国皆是れ一身体にして、人なく我なし。宜《よろ》しく親疎の理を明《あきらか》にし、内外同一なることを審《つまびらか》にすべし。古《いにしへ》より英明の主、威徳宇宙に溥《あまね》く、万国の帰嚮《ききやう》するに至る者は、其|胸襟《きやうきん》闊達《くわつたつ》、物として相容《あひい》れざることなく、事として取らざることなく、其仁慈化育の心、天下と異なることなきなり。此《かく》の如くにして世界の主、蒼生《さうせい》の君と云ふべきなり。若《も》し夫《そ》れ其見《そのけん》小にして、一体一物の理を知らざるは、猶全身|痿《ゐ》して疾痛|※[#「※」は「やまいだれ+可」、163-11]痒《あやう》を覚えざるごとし。百世身を終るまで開悟すること能《あた》はず。亦|憐《あはれ》むべからずや。(中略)今日の如き、実に天地|開闢《かいびやく》以来興治の機運なるが故に、海外の諸国、天理の自然に基き、開悟発明、文化の域に至らむとする者少からず。唯日本、※[#「※」は、「くさ冠+最」、第4水準2-86-82、164-2]爾《さいじ》たる孤島に拠《よつ》て、(中略)行ふこと能はず。其の亡滅を取ること必せり。速《すみやか》に固陋積弊《ころうせきへい》の大害を攘除《じやうぢよ》し、天地無窮の大意に基き、偏見を看破し、宇宙第一の国とならむことを欲せずんばあるべからず。此の如き理を推窮せば、遂に大活眼《だいくわつがん》の域に至らしむる者|乎《か》。丁卯《ひのとう》三月南窓下偶書、小楠。」
 わたくしは忌憚《きたん》なき文字二三百言を刪《けづ》つて此に写し出した。しかし其|体裁《ていさい》措辞《そじ》は大概|窺知《きち》せられるであらう。丁卯は慶応三年である。大意は「人君何天職」の五古を敷衍《ふえん》したものである。そしてこれを横井の手に成れりとせむには、余りに拙《せつ》である。
 四郎左衛門等はこれを読んで、その横井の文なることを疑はなかつた。そして事体容易ならずと思惟し、親兵団の事を抛《なげう》つて、横井を刺すことを謀つたのださうである。
 四郎左衛門等の横井を刺した地は丸太町と寺町との交叉点を南に下り、既に御霊社の前を過ぎて、未だ光堂《くわうだう》の前に至らざる間であつたと云ふ。此考証は南純一の風聞録に拠《よ》る。純一は後に久時と称した。
 事変は明治二年正月五日であつた。翌六日行政官布告が出た。「徴士横井平四郎を殺害に及候儀、朝憲を不憚《はゞからず》、以之外之《もつてのほかの》事《こと》に候。元来暗殺等之所業、全以《すべてもつて》府藩県正籍に列《れつし》候者には不可有事《あるべからざること》に候。万一|壅閉之筋《ようへいのすぢ》を以て右等之儀に及候|哉《や》。御一新後言語洞開、府藩県不可達の地は無之筈《これなきはず》に候。若《もし》脱藩之徒、暗に天下の是非を制し、朝廷の典刑を乱候様にては、何を以て綱紀を張り、皇国を維持し得むやと、深く宸怒被為在《しんどあらせられ》候。京地は勿論、府藩県に於て厳重探索を遂げ、且平常無油断取締方|屹度可相立旨《きつとあひたつべきのむね》被仰出《おほせいだされ》候事。」此文は尾佐竹|猛《たけき》さんの録存する所である。尾佐竹氏は今四谷区霞丘町に住んでゐる。
 四郎左衛門が事変の前に潜《ひそ》んでゐた家の主人三宅典膳も、事変の後に訪《と》うた家の主人三宅左近も、皆備中国|連島《つらじま》の人である。典膳、号は瓦全《ぐわぜん》の嗣子武彦さんの左近の事を言ふ書は下の如くである。「御先考様の記事中、酒屋|云々《うんぬん》、徳利云々は、勘考するに、其頃矢張連島人にて、嵯峨《さが》御所の御家来に、三宅左近と申す老人有之、此人は無妻無子の壮士風の老人にて、京都在の嵯峨に住せり。成程《なるほど》其家の裏に藪《やぶ》あり、酒屋ありき。此三宅左近が拙宅(典膳宅)にて御先考様と出会し、剣術自慢なる故、遂に仕合ひいたし、立派に打負け、夫《それ》より敬服して弟子の如くなり居り候。御先考様は其左近の宅に酒を持ち行かれし者と想像致候。左近は本名佐平と申候。」中氏が武彦さんの姻戚なることは上に云つた。武彦さんは麹町《かうぢまち》区土手三番町四番地に住んでゐる。
 本文に四郎左衛門を回護したと云ふ女子薫子は伏見宮諸大夫若江|修理大夫《しゆりのだいぶ》の女《むすめ》ださうである。薫子の尾州藩徴士荒川甚作に与へた書は下の如くである。「当月五日横井平四郎を殺害致し候者御処置之儀、如何之御儀《いかゞのおんぎ》に被為在候哉《あらせられそろや》。是は御役辺之儀故、決而可伺儀《けつしてうかゞふべきぎ》に而者無之候《てはこれなくさふら》へ共、右殺害に及候者より差出し候書附にも、天主教を天下に蔓延《まんえん》せしめんとする奸謀之由申立《かんぼうのよしまうしたて》有之、尤《もつとも》、此書附|而已《のみ》に候へば、公議を借て私怨を価(一本作憤《いつぽんはふんにつくる》、恐並非《おそらくはならびにひならん》)候哉共被疑《そろやともうたがはれ》候へ共、横井奸謀之事は天下衆人皆存知候所に御座候間、公議を借候とは難申《まうしがたく》、朝廷之参与を殺害仕候は不容易、勿論厳刑に可被処《しよせらるべく》候へ共、右様天下衆人之|能存候《よくぞんじそろ》罪状有之者を誅戮《ちゆうりく》仕候事、実に報国赤心之者に御座候間、非常之御処置を以《もつて》手を下し候者も死一等を被減候様仕度《げんぜられそろやうつかまつりたく》、如斯《かくのごとく》申上候へば、先般天誅之儀に付|彼此《かれこれ》申上候と齟齬《そご》仕、御不審|可被為在《あらせらるべく》候へ共、方今之時勢|彼之者共《かのものども》厳科に被行候《おこなはれさふら》へ者《ば》、忽《たちまち》人心離叛|仕《つかまつり》、他の変を激生|仕事《つかまつること》鏡に掛て見る如くと奉存候。且又手を下候者に無之同志之由を申自訴仕候者《まうしじそつかまつりそろもの》多分御座候由伝聞仕候。右自訴之人共|何《いづ》れも純粋正義之名ある者之由承候。是等の者は別而《べつして》寛典を以《もつて》御赦免|被為在可然御儀《あらせられてしかるべきおんぎ》と奉存候。実に正義之人|者《は》国之元気に御座候間、一人に而《て》も戮《りく》せられ候へば、自ら元気を※[#「※」は「爿」+「戈」、第4水準2-12-83、167-2]《そこなひ》候。自ら元気を※[#「※」は「爿」+「戈」、第4水準2-12-83、167-2]候へ者《ば》、性命も随而《したがつて》滅絶仕候。此理を能々《よく/\》御考|被為在《あらせられ》候而、何卒《なにとぞ》非常回天之御処置を以《もつて》、魁《くわい》たる者も死一等を免《ゆる》され、同志と申自訴者は一概に御赦免に相成候様と奉存候。尤《もつとも》大罪に候へ共、朝敵に比例仕候へ者《ば》、軽浅之罪と奉存候。如此申上候へ者《ば》、私も其事に関係仕候者に而《て》右様申上候|哉《や》と御疑も可被為《あらせらるべく》在奉存候《ぞんじたてまつりそろ》。若《もし》私にも御嫌疑被為在候へば、何等の弁解も不仕候間、速《すみやか》に私|御召捕《おめしとり》に相成、私一人|誅戮《ちゆうりく》被為遊《あそばされ》、他之者は不残《のこらず》御赦免之御処置|相願度《あひねがひたく》奉存候。若《もし》魁《くわい》たる者も同志之者も御差別なく厳刑に相成候へ者《ば》、天下正義之者|忽《たちまち》朝廷を憤怨《ふんゑん》し、人心瓦解し、収拾すべからざる御場合と奉存候。旧臘《きうらふ》幕府暴政之節|被戮《りくされ》候者祭祀迄|被仰出《おほせいだされ》候由、既に死候者は被為祭、生きたる者は被戮候|而者《ては》、御政体|不相立御儀《あひたゝざるおんぎ》と奉存候。此辺之処閣下御洞察に而、御病中ながら何卒《なにとぞ》御処置被遊候御儀、単《ひとへ》に奉願候也。正月二十一日薫子。」此書を得た荒川甚作は、明治元年三月病を以て参与の職を辞し、氏名を改めて尾崎|良知《よしとも》と云ひ、名古屋に住んでゐたさうである。
 薫子の書は田中不二麿若くは丹羽淳太郎、後の名賢の手より出で、前海相|八代《やしろ》氏の実兄尾藩|磅※[#「※」は「いし偏(石)+薄」、第3水準1-89-18、168-1]《はうはく》隊士松山|義根《よしね》を経て、尾張小牧郵便局倉知伊右衛門さんの有に帰し、倉知氏はわたくしを介してこれを津下氏に贈与した。倉知氏はその薫子の自筆なることを信じてゐる。一説に薫子の書の正本は丹波国船井郡|新荘《しんしやう》村船枝の船枝神社の神職西田次郎と云ふ人が蔵してゐると云ふ。是は三宅武彦さんの語る所である。
 薫子の書は既に印行せられたことがある。それは「開成学校御構内辻(新次)後藤(謙吉)両氏蔵版遠近新聞第五号、明治二年四月十日|発兌《はつだ》」の冊中にある。新聞は尾佐竹氏が蔵してゐる。上に載する所は倉知本を底本とし、遠近新聞の謄本を以て対校した。二本には多少の出入がある。倉知本の自筆なることは稍《やゝ》疑はしい。
 御牧《みまき》基賢さんの云ふを聞くに、薫子は容貌が醜くかつたが、女丈夫《ぢよぢやうふ》であつた。昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講した事がある。又自分も薫子の講書を聴いた事がある。国事を言つたために謹慎を命ぜられ、伏見宮|家職《かしよく》田中氏にあづけられた。後に失行があつたために士林の歯《よはひ》せざる所となり、須磨明石《すまあかし》辺に屏居《へいきよ》して歿したらしいと云ふことである。
 薫子の詩歌は往々世間に伝はつてゐる。三宅武彦さんは短冊を蔵してゐる。大正四年六月明治記念博覧会が名古屋の万松寺に開かれた。其出品中に薫子の詩幅があつた。「幽居日日易凄涼《いうきよ ひびせいりやうたりやすく》。兀坐愁吟送夕陽《こつざ しうぎん せきやうをおくる》。午枕清風知暑退《ごちん せいふう しよのしりぞくをしり》。暁窓残雨覚更長《げうさう ざんう かうのながきをおぼゆ》。人間褒貶事千古《じんかんのほうへん ことせんこ》。身世浮沈夢一場《しんせいのふちん ゆめいちぢやう》。設使幾回遭挫折《たとひいくくわいかざせつにあふも》。依然不変旧疎狂《いぜんかはらずきうそきやう》。早秋囚居《さうしうしうきよにて》。薫子。」印《いん》一|顆《くわ》があつて、文に「菅氏」と曰《い》つてあつた。若江氏は菅原姓であつたと見える。是は倉知氏の写して寄せたものである。又薫子が「神州男子幾千万《しんしうだんしいくせんまん》、歎慨有誰与我同《たんがいす たれかわれとおなじきものあらんやと》」の句を書したのを看《み》たと云ふ人がある。
       ―――――――――――――――――――――
 若江修理大夫の女《むすめ》薫子の事は、既に一たび上に補説したが、わたくしは其後本多辰次郎さんに由つて、修理大夫の名を量長《かずなが》と云ひ、曾《かつ》て諸陵頭《しよりようのかみ》たりしことを聞いた。それゆゑ芝葛盛さんに乞うて此等の事を記してもらつた。下の文が即《すなはち》此である。
 女子薫子の父若江量長は伏見宮家職の筆頭で、殿上人《てんじやうびと》の家格のあつた人である。この若江氏はもと菅原氏で、その先は式部《しきぶ》権大輔《ごんのたいふ》菅原公輔の男《だん》在公から出てゐる。初め壬生坊城と号し、後に中御門といひ、更に改めて若江と称した。在公より十代目に当る長近の時、初めて伏見宮に候することになつた。長近は寛文四年三月廿九日に生れ、享保五年七月九日五十七歳で卒した人である。量長は長近より五代目に当る公義の子で、文化九年十二月十三日誕生、文政八年三月廿八日十四歳を以て元服、越後|権介《ごんのすけ》に任じ、同日院昇殿を聴《ゆる》され、その後|弾正少弼《だんじやうせうひつ》を経て修理大夫に至り、位は天保十三年十二月廿二日従四位上に叙せられたことまでは、地下家伝《ぢげかでん》によつて知ることが出来る。更に又|野宮定功《のゝみやさだいさ》の日記によるに、元治元年二月二十四日に諸陵寮再興の事が仰出されたがその時諸陵頭に任ぜられたものはこの量長であつた。併し量長は山陵の事に就て格別知識があつた訳ではないらしい。山陵の事に関しては専らその下僚たる大和介《やまとのすけ》谷森種松と筑前守《ちくぜんのかみ》鈴鹿勝芸との両人に打ち委《まか》したやうである。さてその娘薫子については面白い事がある。薫子が女丈夫であつて、学和漢に亘《わた》り、とりわけ漢学を能《よ》くした所から、昭憲皇太后の一条家におはしました時、経書を進講したといふ事は御牧基賢さんの話にも見えて居るが、戸田忠至履歴といふものに次の如き記事がある。「皇后陛下御|入輿《じゆよ》の儀に付ては、維新前年より二条殿、中山殿等|特《こと》の外《ほか》心配致され、両卿より忠至に心懸御依頼に付奔走の折柄、兼て山陵の事に付懇意たりし若江修理大夫娘薫儀、一条殿姫君御姉妹へ和歌其外の御教授申上居事を心付き、同人へ皇后宮の御事相談に及び候処、一条殿御次女の方は特別の御方に渡らせられ候由薫申聞候に付、右の段二条、中山両卿へ内申に及び候処忠至参殿の上|篤《とく》と御様子見上げ参るべき様にとの御内《おんうち》沙汰《ざた》を蒙《かうむ》り、右薫と申談じ、同人同道一条殿へ参殿の上御姉妹へ拝謁、御次女の御方御様子復命に及びたり。此場合に二条殿には御嫌疑の為め御役御免に相成、御婚姻御用係を命ぜらる、万事御用向担当|滞《とゞこほ》り無く御婚儀|相済《あひすま》せられたり云々。」此によつて見れば、昭憲皇太后の御入内《ごじゆだい》には、薫子の口入が与《あづか》つて力があつたらしく見える。慶応三年六月昭憲皇太后の入内治定《じゆだいぢぢやう》の事が発表せられ、次《つい》で御召抱《おめしかゝへ》上※[#「※」は「臈」の「くさかんむり」が「月」の上に掛かる字、第3水準1-91-26、171-10]《じやうらふ》、中※[#「※」は「臈」の「くさかんむり」が「月」の上に掛かる字、第3水準1-91-26、171-10]等の人選があつたが、その際この薫子にも改めて御稽古の為参殿の事を申付けられた。橋本|実麗《さねあきら》卿記|是年《このとし》八月九日の条に、「又若江修理大夫妹年来|学問有志《がくもんにこゝろざしあり》、於今天晴《いまにおいてあつぱれ》宏才之|聞《きこえ》有之候間、女御《にようご》為御稽古参上|可然哉否《しかるべきやいなや》、於左大将殿|可宜御沙汰《よろしかるべきごさた》に付|被談由《だんぜられしよし》、於予|可然《しかるべく》存候間|其旨申答了《そのむねまうしこたへをはんぬ》」と見えて居るが、一条家の書類御入用御用記を見ると、九月三日の条に、「伏見宮御使則賢出会之処、過日御相談被進候若江修理大夫女お文《ふみ》女御様御|素読《そどく》御頼に被召候而も御差支無之旨御返答也」とあつて、その十日には、「女御御方、此御方御同居中御本御講釈之儀、お文殿に御依頼被成度候事」と見えて、十五日には御稽古の為|局口《つぼねぐち》御玄関より参殿、孝経を御教授申上げたことが見えて居る。是は蓋《けだ》し女御御治定に付き改めてこの御沙汰があつたもので、この時初めて御稽古申上げたものではあるまい。但し実麗卿記に修理大夫の妹とせるは如何なる訳であらうか。又その名のお文といへるは薫子の前名であつたのであらうか。昭憲皇太后御入内後薫子の宮中に出入した事に就ては、その徴証を見出さない。恐くは国事に奔走した事などの為め、御召出しの運《はこび》に行かなかつたものであらう。後《のち》失行があつて終をよくしなかつたのも惜しむべきである。上田景二君の昭憲皇太后史には、「皇太后御入内後も薫子は特別の御優遇を賜つたが、明治十四年に讃岐《さぬき》の丸亀において安らかに歿し、その遺蹟は今も尚《なほ》残つてゐる」と書かれて居るが、その拠る処を明《あきらか》にしがたい。
 私(芝氏)は量長が一時諸陵頭であつた関係から、其の寮官であつた故谷森種松(後に善臣)翁の次男建男さんに就いて何か見聞して居ることはないかを聞かうと試みた。(善臣翁は私の外祖父、建男さんは叔父に当るのである。)その言はるゝ所はかうである。京都の出水《でみづ》辺に若江の天神といふ小祠があつて、その側に若江氏は住んで居た。十歳位の時でもあつたか、或日父につれられて若江氏の宅を訪うた事があつた。その時量長の娘であるといふ二人の女子にも会つた。妹の方は普通の婦女で、髪もすべらかしにして公卿の娘らしい風をしてゐたが、姉の方は変つた女で、色も黒く、御化粧もせず、髪も無造作に一束につかねて居つた。男まさりの女で、頻《しきり》に父に向つて論議を挑《いど》んで居つたことを記憶する。父もかういふ女には辟易《へきえき》すると云つてゐた。これが即ち薫子であつただらう。後に不行跡のあつた事も聞いてゐるが、何分家の生計も豊かでなかつたから、誘惑を受けたについては、むしろ同情に値するものがあつたであらう。讃岐辺で死んだ事も事実であらうが、普通の死ではなかつたかと思ふ。自分はこの婦人が量長の妹であつたとは思はない。娘として引きあはされたやうに記憶するといふことであつた。



底本:「鴎外歴史文學集 第三巻」岩波書店
   1999(平成11)年11月25日発行
※漢詩に添えられた訓読文は略し、代えてルビ形式で書き下しを添えた。書き下しに当たっては、底本の訓読文を参考とした。
入力:kompass
校正:浅原庸子
2001年8月28日公開
2001年8月31日修正
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