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佐橋甚五郎《さはしじんごろう》
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)佐橋甚五郎《さはしじんごろう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)徳川|家康《いえやす》

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   (数字は、底本のページと行数)
(例)李※[#「日+(鉛のつくり)」、102-12]
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 豊太閤《ほうたいこう》が朝鮮《ちょうせん》を攻めてから、朝鮮と日本との間には往来が全く絶えていたのに、宗対馬守義智《そうつしまのかみよしとし》が徳川《とくがわ》家の旨《むね》を承《う》けて肝《きも》いりをして、慶長《けいちょう》九年の暮《く》れに、松雲孫《しょううんそん》、文※[#「或」の「ノ」の部分が三本、102-2]《ぶんいく》、金考舜《きんこうしゅん》という三人の僧が朝鮮から様子を見に来た。徳川|家康《いえやす》は三人を紫野《むらさきの》の大徳寺《だいとくじ》に泊《と》まらせておいて、翌年の春|秀忠《ひでただ》といっしょに上洛《じょうらく》した時に目見《めみ》えをさせた。
 中一年置いて慶長十二年四月に、朝鮮から始めての使が来た。もう家康は駿府《すんぷ》に隠居《いんきょ》していたので、京都《きょうと》に着いた使は、最初に江戸《えど》へ往けという指図《さしず》を受けた。使は閏《うるう》四月二十四日に江戸の本誓寺《ほんせいじ》に着いた。五月六日に将軍に謁見《えっけん》した。十四日に江戸を立って、十九日に興津《おきつ》の清見寺《せいけんじ》に着いた。家康は翌二十日の午《うま》の刻に使を駿府の城に召《め》した。使は一応老中|本多上野介正純《ほんだこうずけのすけまさずみ》の邸《やしき》に入って、そこで衣服を改めて登城《とじょう》することになった。
 このたびの使は通政大夫呂祐吉《つうせいたゆうりょゆうきつ》、通訓大夫慶暹《つうくんたゆうけいせん》、同|丁好寛《ていこうかん》の三人である。本国から乗物を三つ吊《つ》らせて来た。呂祐吉の乗物には造花を持たせた人形が座の右に据《す》えてあった。捧《ささ》げて来た朝鮮王|李※[#「日+(鉛のつくり)」、102-12]《りえん》の国書は江戸へ差し出した。次は上々官|金僉知《きんせんち》、朴僉知《ぼくせんち》、喬僉知《きょうせんち》の三人で、これは長崎《ながさき》で造らせた白木の乗物に乗っていた。次は上官二十六人、中官八十四人、下官百五十四人、総人数二百六十九人であった。道中の駅々では鞍置馬《くらおきうま》百五十|疋《ぴき》、小荷駄馬《こにだうま》二百余疋、人足三百余人を続《つ》ぎ立てた。
 駿府の城ではお目見えをする前に、まず献上物が広縁《ひろえん》に並《なら》べられた。人参《にんじん》六十|斤《きん》、白苧布《しろあさぬの》三十疋、蜜《みつ》百斤、蜜蝋《みつろう》百斤の四色《よいろ》である。江戸の将軍家への進物《しんもつ》十一色に比べるとはるかに略儀《りゃくぎ》になっている。もとより江戸と駿府とに分けて進上するという初めからのしくみではなかったので、急に抜差《ぬきさ》しをしてととのえたものであろう。江戸で出した国書の別幅《べっぷく》に十一色の目録があったが、本書とは墨色が相違《そうい》していたそうである。
 この日に家康は翠色《みどりいろ》の装束《しょうぞく》をして、上壇《じょうだん》に畳《たたみ》を二|帖敷《じょうし》かせた上に、暈繝《うんげん》の錦の茵《しとね》を重ねて着座した。使は下段に進んで、二度半の拝をして、右から左へ三人|並《なら》んだ。上々官|金僉知《きんせんち》、朴僉知《ぼくせんち》、喬僉知《きょうせんち》の三人はいずれも広縁に並んで拝をした。ここでは別に書類を捧呈《ほうてい》することなどはない。茶も酒も出されない。しばらくして上《かみ》の使三人がまた二度半の拝をすると、上々官三人も縁でまた拝をした。上々官の拝がすんでから、上の使の三人は上々官をしたがえて退出した。
 家康は六人の朝鮮人の後影《うしろかげ》を見送って、すぐに左右を顧《かえり》みて言った。
「あの縁にいた三人目の男を見知ったものはないか」
 側には本多正純を始めとして、十余人の近臣がいた。案内して来た宗もまだ残っていた。しかし意味ありげな大御所のことばを聞いて、皆《みな》しばらくことばを出さずにいた。ややあって宗が危ぶみながら口を開いた。
「三人目は喬僉知《きょうせんち》と申しまするもので」
家康は冷やかに一目見たきりで、目を転じて一座を見渡《みわた》した。
「誰も覚えてはおらぬか。わしは六十六になるが、まだめったに目くらがしは食わぬ。あれは天正《てんしょう》十一年に浜松《はままつ》を逐電《ちくてん》した時二十三|歳《さい》であったから、今年は四十七になっておる。太い奴《やつ》、ようも朝鮮人になりすましおった。あれは佐橋甚五郎《さはしじんごろう》じゃぞ」
 一座は互いに目を合わせたが、今度はしばらくの間誰一人ことばを出すものがなかった。本多は何か問いたげに大御所の気色《けしき》を伺《うかが》っていた。
 家康は本多を顧みて、「もうよい、振舞《ふるま》いの事を頼《たの》むぞ」と言った。これは家康がこの府中の城に住むことにきめて沙汰《さた》をしたのが今年の正月二十五日で、城はまだ普請中《ふしんちゅう》であるので、朝鮮の使の饗応《きょうおう》を本多が邸《やしき》ですることに言いつけておいたからである。
「一応とりただしてみることにいたしましょうか」と、本多はやはり気色を伺いながら言った。
「いや。それは知らぬと言うじゃろう。上役《うわやく》のものは全く知らぬかも知れぬ。とにかくあの者どもは早くここを立たせるがよい。土地のものと文通などをいたさせぬようにせい」
「はっ」といって本多は忙《いそ》がしげに退出した。
 饗応の用意はかねてととのえてあった。使は本多の邸へ引き取って常の衣服に着換《きが》えた上で、振舞いを受けることになっていたのである。城内から帰った本多は、ちょうど着換えが済んで休息している呂祐吉《りょゆうきつ》に、宗をもってそれとなく問わせた。きょうお目見《めみ》えをした者の中に大御所のお見知りになっている人はなかったかと問わせたのである。通事《つうじ》の取り次いだ返答は、いっこうに存ぜぬということであった。しかもそういった呂祐吉の顔は、いかにも思いがけぬ事を問われたらしく、どうも物を包み隠《かく》しているものとは見えなかった。
 饗応に相判などはなかった。膳部《ぜんぶ》を引く頃《ころ》に、大沢侍従《おおさわじじゅう》、永井右近進《ながいうこんのしん》、城織部《じょうおりべ》の三人が、大御所のお使として出向いて来て、上《かみ》の三人に具足三領、太刀三振《たちみふり》、白銀三百枚、次の三人|金僉知《きんせんち》らに刀三腰《とうみこし》、白銀百五十枚、上官二十六人に白銀二百枚、中官以下に鳥目《ちょうもく》五百貫を引物《ひきもの》として贈《おく》った。
 本多の指図で、使の一行はその日のうちに立って、藤枝《ふじえだ》まで上った。京都紫野に着いたのが五月二十九日、大阪へ出たのが六月八日で、大阪で舟に乗り込んだのが六月十一日である。朝鮮|征伐《せいばつ》の時の俘虜《ふりょ》の男女千三百四十余人も、江戸からの沙汰《さた》で、いっしょに舟に乗せて還《かえ》された。

 浜松の城ができて、当時|三河守《みかわのかみ》と名のった家康はそれにはいって、嫡子信康《ちゃくしのぶやす》を自分のこれまでいた岡崎《おかざき》の城に住まわせた。そこで信康は岡崎|二郎三郎《じろうさぶろう》と名のることになった。この岡崎|殿《どの》が十八|歳《さい》ばかりの時、主人より年の二つほど若い小姓《こしょう》に佐橋甚五郎というものがあった。口に出して言いつけられぬうちに、何の用事でも果たすような、敏捷《びんしょう》な若者で、武芸は同じ年頃《としごろ》の同輩《どうはい》に、傍《そば》へ寄りつく者もないほどであった。それに遊芸が巧者で、ことに笛《ふえ》を上手《じょうず》に吹《ふ》いた。
 ある時信康は物詣《ものもう》でに往った帰りに、城下のはずれを通った。ちょうど春の初めで、水のぬるみ初《そ》めた頃《ころ》である。とある広い沼《ぬま》のはるか向うに、鷺《さぎ》が一羽おりていた。銀色に光る水が一筋うねっている側の黒ずんだ土の上に、鷺は綿を一つまみ投げたように見えている。ふと小姓の一人が、あれが撃《う》てるだろうかと言い出したが、衆議は所詮《しょせん》打てぬということにきまった。甚五郎は最初|黙《だま》って聞いていたが、皆《みな》が撃てぬと言い切ったあとで、独語《ひとりごと》のように「なに撃てぬにも限らぬ」とつぶやいた。それを蜂谷《はちや》という小姓《こしょう》が聞き咎《とが》めて、「おぬし一人がそう思うなら、撃ってみるがよい」と言った。「随分《ずいぶん》撃ってみてもよいが、何か賭《か》けるか」と甚五郎が言うと、蜂谷が「今ここに持っている物をなんでも賭きょう」と言った。「よし、そんなら撃《う》ってみる」と言って、甚五郎は信康の前に出て許しを請《こ》うた。信康は興ある事と思って、足軽《あしがる》に持たせていた鉄砲《てっぽう》を取り寄せて甚五郎に渡《わた》した。
「あたるもあたらぬも運じゃ。はずれたら笑うまいぞ」甚五郎はこう言っておいて、少しもためらわずに撃ち放した。上下こぞって息をつめて見ていた鷺《さぎ》は、羽を広げて飛び立ちそうに見えたが、そのまま黒ずんだ土の上に、綿一つまみほどの白い形をして残った。信康を始めとして、一同覚えず声をあげてほめた。田舟《たぶね》を借りて鷺を取りに行く足軽をあとに残して、一同は館《やかた》へ帰った。
 翌日の朝思いがけぬ出来事が城内の人々を驚《おどろ》かした。それは小姓蜂谷が、体じゅうに疵《きず》もないのに死んでいて、甚五郎は行方《ゆくえ》がしれなくなったのである。小姓一人は鷺を撃ったあとで、お供をして帰る時、甚五郎が蜂谷に「約束の事はあとで談合するぞ」と言うのを聞いた。死んだ蜂谷の身のまわりを調べた役人は、かねて見知っている蜂谷の金熨斗《きんのし》付きの大小の代りに、甚五郎の物らしい大小の置いてあるのに気がついた。そのほかにはこの奇怪《きかい》な出来事を判断する種になりそうな事は格別ない。ただ小姓たちの言うのを聞けば、蜂谷は今度紛失した大小を平生由緒《へいぜいゆいしょ》のある品だと言って、大切にしていたそうである。またその大小を甚五郎がふだんほめていたそうである。
 甚五郎の行方は久しく知れずにて、とうとう蜂谷の一週忌《いっしゅうき》も過ぎた。ある日甚五郎の従兄《じゅうけい》佐橋|源太夫《げんだゆう》が浜松の館《やかた》に出頭して嘆願《たんがん》した。それは遠くもない田舎《いなか》に、甚五郎が隠《かく》れているのが知れたので、助命を願いに出たのである。源太夫はこういう話をした。甚五郎は鷺《さぎ》を撃つとき蜂谷と賭《かけ》をした。蜂谷は身につけているものを何なりとも賭けようと言った。甚五郎は運よく鷺を撃《う》ったので、ふだん望みをかけていた蜂谷の大小をもらおうと言った。それもただもらうのではない。代りに自分の大小をやろうというのである。しかし蜂谷は、この金熨斗《きんのし》付きの大小は蜂谷家で由緒《ゆいしょ》のある品だからやらぬと言った。甚五郎はきかなんだ。「武士は誓言《せいごん》をしたからは、一命をもすてる。よしや由緒があろうとも、おぬしの身に着けている物の中で、わしが望むのは大小ばかりじゃ。ぜひくれい」と言った。「いや、そうはならぬ。命ならいかにも棄《す》ちょう。家の重宝は命にも換《か》えられぬ」と蜂谷は言った。「誓言を反古《ほご》にする犬侍《いぬざむらい》め」と甚五郎がののしると、蜂谷は怒って刀を抜《ぬ》こうとした。甚五郎は当身《あてみ》を食わせた。それきり蜂谷は息を吹《ふ》き返さなかった。平生何事か言い出すとあとへ引かぬ甚五郎は、とうとう蜂谷の大小を取って、自分の大小を代りに残して立ち退いたというのである。源太夫は家康にこの話をして、何を言うにも年若の甚五郎であるから、上《かみ》の思召《おぼしめ》しで助命していただければよし、もしかなわぬ事なら、人手にかけず打ち果たしてお詫《わ》びをしたいと言った。
 家康はこれを聞いて、しばらく考えて言った。「そちが話を聞けば、甚五郎の申し分や所行《しょぎょう》も一応道理らしく聞こえるが、所詮《しょせん》は間違《まちご》うておるぞよ。しかしそちも言うとおり、弱年の者じゃから、何かひとかどの奉公《ほうこう》をいたしたら、それをしおに助命いたしてつかわそう」
「はっ」と言って源太夫はしばらく畳《たたみ》に顔を押《お》し当てていた。ややあって涙《なみだ》ぐんだ目をあげて家康を見て、「甚五郎めにいたさせまする御奉公は」と問うた。
「甚五郎は怜悧《れいり》な若者で、武芸にも長《た》けているそうな。手に合うなら、甘利《あまり》を討たせい」こう言い放ったまま、家康は座を起《た》った。

 望月《もちづき》の夜《よ》である。甲斐《かい》の武田勝頼《たけだかつより》が甘利|四郎三郎《しろさぶろう》を城番《じょうばん》に籠《こ》めた遠江国榛原郡小山《とおとうみのくにはいばらごおりこやま》の城で、月見の宴《えん》が催《もよお》されている。大兵肥満《たいひょうひまん》の甘利は大盃《たいはい》を続けざまに干して、若侍《わかざむらい》どもにさまざまの芸をさせている。
「三河の水の勢いも
小山が堰《せ》けばつい折れる。
凄《すさま》じいのは音ばかり」
こんな歌を歌って一座はどよめく。そのうち夜がふけたので、甘利は大勢に暇《いとま》をやって、あとには新参の若衆《わかしゅ》一人を留めておいた。
「ああ。騒《さわ》がしい奴《やつ》らであったぞ。月のおもしろさはこれからじゃ。また笛《ふえ》でも吹《ふ》いて聞かせい」こう言って、甘利は若衆の膝《ひざ》を枕《まくら》にして横になった。
 若衆は笛を吹く。いつも不意に所望《しょもう》せられるので、身を放さずに持っている笛である。夜はしだいにふけて行く。燃え下がった蝋燭《ろうそく》の長く延びた心《しん》が、上の端《はし》は白くなり、その下は朱色《しゅいろ》になって、氷柱《つらら》のように垂れた蝋が下にはうずたかく盛《も》り上がっている。澄《す》み切った月が、暗く濁《にご》った燭《しょく》の火に打ち勝って、座敷《ざしき》はいちめんに青みがかった光りを浴びている。どこか近くで鳴く蟋蟀《こおろぎ》の声が、笛の音《ね》にまじって聞こえる。甘利は瞼《まぶた》が重くなった。
 たちまち笛の音がとぎれた。「申《もう》し。お寒うはござりませぬか」笛を置いた若衆の左の手が、仰向《あおむ》けになっている甘利の左の胸を軽く押《おさ》えた。ちょうど浅葱色《あさぎいろ》の袷《あわせ》に紋《もん》の染め抜《ぬ》いてある辺である。
 甘利は夢現《ゆめうつつ》の境《さかい》に、くつろいだ襟《えり》を直してくれるのだなと思った。それと同時に氷のように冷たい物が、たった今平手がさわったと思うところから、胸の底深く染み込《こ》んだ。何とも知れぬ温い物が逆に胸から咽《のど》へのぼった。甘利は気が遠くなった。

 三河勢《みかわぜい》の手に余った甘利をたやすく討ち果たして、髻《もとどり》をしるしに切り取った甚五郎は、※[#「鼠+吾」、第4水準2-94-68]鼠《むささび》のように身軽に、小山城を脱《ぬ》けて出て、従兄源太夫が浜松の邸《やしき》に帰った。家康は約束《やくそく》どおり甚五郎を召《め》し出したが、目見えの時一言も甘利の事を言わなんだ。蜂谷の一族は甚五郎の帰参を快くは思わぬが、大殿《おおとの》の思召《おぼしめ》しをかれこれ言うことはできなかった。
 甘利は死んでも小山の城はまだ落ちずにいた。そのうち世間には種々の事があった。先に武田信玄《たけだしんげん》が死んでから七年目に、上杉謙信《うえすぎけんしん》が死んだ。三十六|歳《さい》で右近衛権少将《うこんえごんしょうしょう》にせられた家康の一門はますます栄えて、嫡子《ちゃくし》二郎三郎信康が二十一歳になり、二男|於義丸《おぎまる》(秀康《ひでやす》)が五歳になった時、世にいう築山殿《つきやまどの》事件が起こって、信康はむざんにも信長の嫌疑《けんぎ》のために生害《しょうがい》した。後に将軍職を承《う》け継いだ三男|長丸《おさまる》(秀忠《ひでただ》)はちょうどこの年に生まれ、四男|福松丸《ふくまつまる》(忠吉《ただよし》)はその翌年に生まれた。それから中一年置いて、家康が多年目の上の瘤《こぶ》のように思った小山の城が落ちたが、それはもう勝頼の滅《ほろ》びる悲壮劇《ひそうげき》の序幕であった。
 武田の滅《ほろ》びた天正十年ほど、徳川家の運命の秤《はかり》が乱高下《らんこうげ》した年はあるまい。明智光秀《あけちみつひで》が不意に起って信長を討ち取る。羽柴秀吉《はしばひでよし》が毛利《もうり》家と和睦《わぼく》して弔合戦《とむらいがっせん》に取って返す。旅中の家康は茶屋四郎次郎《ちゃやしろじろう》の金と本多平八郎《ほんだへいはちろう》の鑓《やり》との力をかりて、わずかに免れて岡崎《おかざき》へ帰った。さて軍勢を催促《さいそく》して鳴海《なるみ》まで出ると、秀吉の使が来て、光秀の死を告げた。
 家康が武田の旧臣を身方に招き寄せている最中に、小田原《おだわら》の北条新九郎氏直《ほうじょうしんうろううじなお》が甲斐《かい》の一揆《いっき》をかたらって攻めて来た。家康は古府《こふ》まで出張って、八千足らずの勢《せい》をもって北条《ほうじょう》の五万の兵と対陣《たいじん》した。この時佐橋甚五郎は若武者仲間《わかむしゃなかま》の水野藤十郎勝成《みずのとうじゅうろうかつなり》といっしょに若御子《わかみこ》で働いて手を負った。年の暮《く》れに軍功のあった侍《さむらい》に加増があって、甚五郎もその数に漏《も》れなんだが、藤十郎と甚五郎との二人には賞美のことばがなかった。
 天正十一年になって、遠からず小田原《おだわら》へ二女|督姫君《とくひめぎみ》の輿入《こしい》れがあるために、浜松の館《やかた》の忙《いそ》がしい中で、大阪に遷《うつ》った羽柴家へ祝いの使が行くことになった。近習の甚五郎がお居間の次で聞いていると、石川与七郎数正《いしかわよしちろうかずまさ》が御前に出て、大阪への使を承っている。
「誰《たれ》か心の利《き》いた若い者を連れてまいれ」と家康が言う。
「さようなら佐橋でも」と石川が言う。
 やや久しい間家康の声が聞こえない。甚五郎はどうした事かと思っていると、やっと家康の声がする。「あれは手放しては使いとうない。この頃《ごろ》身方についた甲州方《こうしゅうがた》の者に聞けば、甘利はあれをわが子のように可哀《かわい》がっておったげな。それにむごい奴《やつ》が寝首を掻《か》きおった」
 甚五郎はこのことばを聞いて、ふんと鼻から息をもらして軽くうなずいた。そしてつと座を起って退出したが、かねて同居していた源太夫の邸《やしき》へも立ち寄らずに、それきり行方《ゆくえ》が知れなくなった。源太夫が家内の者の話に、甚五郎はふだん小判百両を入れた胴巻《どうまき》を肌《はだ》に着けていたそうである。

 天正十一年に浜松を立ち退《の》いた甚五郎が、はたして慶長十二年に朝鮮から喬僉知《きょうせんち》と名のって来たか。それともそう見えたのは家康の僻目《ひがめ》であったか。確かな事は誰にもわからなんだ。佐橋家のものは人に問われても、いっこう知らぬと言い張った。しかし佐橋家で、根が人形のように育った人参《にんじん》の上品《じょうひん》を、非常に多く貯えていることが後に知れて、あれはどうして手に入れたものか、といぶかしがるものがあった。

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この話は「続武家閑話《ぞくぶけかんわ》」に拠《よ》ったものである。佐橋家の家譜《かふ》等では、甚五郎ははやく永禄《えいろく》六年一向宗徒に与《くみ》して討死している。「甲子夜話《かっしやわ》」には、慶長《けいちょう》十二年の朝鮮の使にまじっていた徳川家の旧臣を、筧又蔵《かけいまたぞう》だとしてある。林春斎の「韓使来聘記《かんしらいへいき》」等には、家康に謁《えっ》した上々官を金《きん》、朴《ぼく》の二人だけにしてある。もし佐橋甚五郎が事に就《つ》いて異説を知っている人があるなら、その出典と事蹟《じせき》の大要とを書いて著者の許《もと》に投寄してもらいたい。大正二年三月記。
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底本:「山椒大夫・高瀬舟・阿部一族」角川文庫、角川書店
   1967(昭和42)年2月28日初版発行
   1993(平成5)年7月10日52版発行
入力:薦田佳子
校正:湯地光弘
1999年10月1日公開
2003年6月22日修正
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