青空文庫アーカイブ

妄想
森鴎外

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)目前《もくぜん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)只|二間《ふたま》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)dun[#この語の「u」はアクサン(^)付き]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)炯々《けい/\》たる目が
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 目前《もくぜん》には広々と海が横はつてゐる。
 その海から打ち上げられた砂が、小山のやうに盛り上がつて、自然の堤防を形づくつてゐる。アイルランドとスコットランドとから起つて、ヨオロッパ一般に行はれるやうになつたdun[#この語の「u」はアクサン(^)付き]《ドユウン》といふ語《ことば》は、かういふ処を斥《さ》して言ふのである。
 その砂山の上に、ひよろひよろした赤松が簇《むら》がつて生えてゐる。余り年を経た松ではない。
 海を眺めてゐる白髪の主人は、此松の幾本かを切つて、松林の中へ嵌《は》め込んだやうに立てた小家《こいへ》の一間《ひとま》に据わつてゐる。
 主人が元《も》と世に立ち交つてゐる頃に、別荘の真似事のやうな心持で立てた此小家は、只|二間《ふたま》と台所とから成り立つてゐる。今据わつてゐるのは、東の方一面に海を見晴らした、六畳の居間である。
 据わつてゐて見れば、砂山の岨《そは》が松の根に縦横に縫はれた、殆ど鉛直な、所々|中窪《なかくぼ》に崩れた断面になつてゐるので、只|果《はて》もない波だけが見えてゐるが、此山と海との間には、一筋の河水と一帯《いつたい》の中洲《なかす》とがある。
 河は迂回《うくわい》して海に灌《そそ》いでゐるので、岨《そは》の下では甘い水と鹹《から》い水とが出合つてゐるのである。
 砂山の背後《うしろ》の低い処には、漁業と農業とを兼ねた民家が疎《まば》らに立つてゐるが、砂山の上には主人の家が只一軒あるばかりである。
 いつやらの暴風に漁船が一艘|跳《は》ね上げられて、松林の松の梢《こずゑ》に引つ懸《かか》つてゐたといふ話のある此砂山には、土地のものは恐れて住まない。
 河は上総《かづさ》の夷※[#「※」は「さんずい+旡+旡+鬲」、331-上段-13]川《いしみがは》である。海は太平洋である。
 秋が近くなつて、薄靄《うすもや》の掛かつてゐる松林の中の、清い砂を踏んで、主人はそこらを一廻《ひとめぐ》りして来て、八十八《やそはち》という老僕の拵《こしら》へた朝餉《あさげ》をしまつて、今自分の居間に据わつた処である。
 あたりはひつそりしてゐて、人の物を言ふ声も、犬の鳴く声も聞えない。只|朝凪《あさなぎ》の浦の静かな、鈍い、重くろしい波の音が、天地の脈搏《みやくはく》のやうに聞えてゐるばかりである。
 丁度|径《わたり》一尺位に見える橙黄色《たうわうしよく》の日輪《にちりん》が、真向うの水と空と接した処から出た。水平線を基線にして見てゐるので、日はずんずん升《のぼ》つて行くやうに感ぜられる。
 それを見て、主人は時間といふことを考へる。生といふことを考へる。死といふ事を考へる。
「死は哲学の為めに真の、気息を嘘《ふ》き込む神である、導きの神(Musagetes)である」とSchopenhauer《シヨオペンハウエル》は云つた。主人は此|語《ことば》を思ひ出して、それはさう云つても好からうと思ふ。併し死といふものは、生といふものを考へずには考へられない。死を考へるといふのは生が無くなると考へるのである。
 これまで種々の人の書いたものを見れば、大抵|老《おい》が迫つて来るのに連れて、死を考へるといふことが段々切実になると云つてゐる。主人は過去の経歴を考へて見るに、どうもさういふ人々とは少し違ふやうに思ふ。

    *    *    *

 自分がまだ二十代で、全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内には嘗《かつ》て挫折《ざせつ》したことのない力を蓄へてゐた時の事であつた。自分は伯林《ベルリン》にゐた。列強の均衡を破つて、独逸《ドイツ》といふ野蛮な響の詞《ことば》にどつしりした重みを持たせたヰルヘルム第一世がまだ位にをられた。今のヰルヘルム第二世のやうに、damonisch[#この語の「a」はウムライト(¨)付き]《デモオニシユ》な威力を下《しも》に加へて、抑へて行かれるのではなくて、自然の重みの下に社会民政党は喘《あへ》ぎ悶《もだ》えてゐたのである。劇場ではErnst《エルンスト》 von《フオン》 Wildenbruch《ヰルデンブルツホ》が、あのHohenzollern《ホオヘンツオルレルン》家の祖先を主人公にした脚本を興業させて、学生仲間の青年の心を支配してゐた。
 昼は講堂やLaboratorium《ラボラトリウム》で、生き生きした青年の間に立ち交つて働く。何事にも不器用で、癡重《ちちよう》といふやうな処のある欧羅巴《ヨオロツパ》人を凌《しの》い[#底本ではルビが《しのい》で、「い」がだぶる]で、軽捷《けいせふ》に立ち働いて得意がるやうな心も起る。夜は芝居を見る。舞踏場にゆく。それから珈琲店《コオフイイてん》に時刻を移して、帰り道には街燈|丈《だけ》が寂しい光を放つて、馬車を乗り廻す掃除人足が掃除をし始める頃にぶらぶら帰る。素直に帰らないこともある。
 さて自分の住む宿に帰り着く。宿と云つても、幾竈《いくかまど》もあるおほ家《いへ》の入口の戸を、邪魔になる大鍵で開けて、三階か四階へ、蝋《らふ》マッチを擦《す》り擦《す》り登つて行つて、やうやうchambre《シヤンブル》 garnie《ガルニイ》の前に来るのである。
 高机一つに椅子二つ三つ。寝台に箪笥《たんす》に化粧棚。その外にはなんにもない。火を点《とも》して着物を脱いで、その火を消すと直ぐ、寝台の上に横になる。
 心の寂しさを感ずるのはかういふ時である。それでも神経の平穏な時は故郷の家の様子が俤《おもかげ》に立つて来るに過ぎない。その幻を見ながら寐入る。Nostalgia《ノスタルギア》は人生の苦痛の余り深いものではない。
 それがどうかすると寐附かれない。又起きて火を点して、為事《しごと》をして見る。為事に興が乗つて来れば、余念もなく夜を徹してしまふこともある。明方近く、外に物音がし出してから一寸寐ても、若い時の疲労は直ぐ恢復《くわいふく》することが出来る。
 時としてはその為事が手に附かない。神経が異様に興奮して、心が澄み切つてゐるのに、書物を開けて、他人の思想の跡を辿《たど》つて行くのがもどかしくなる。自分の思想が自由行動を取つて来る。自然科学のうちで最も自然科学らしい医学をしてゐて、exact《エクサクト》な学問といふことを性命《せいめい》にしてゐるのに、なんとなく心の飢を感じて来る。生といふものを考へる。自分のしてゐる事が、その生の内容を充たすに足るかどうだかと思ふ。
 生れてから今日まで、自分は何をしてゐるか。始終何物かに策《むち》うたれ駆られてゐるやうに学問といふことに齷齪《あくせく》してゐる。これは自分に或る働きが出来るやうに、自分を為上《しあ》げるのだと思つてゐる。其目的は幾分か達せられるかも知れない。併し自分のしてゐる事は、役者が舞台へ出て或る役を勤めてゐるに過ぎないやうに感ぜられる。その勤めてゐる役の背後《うしろ》に、別に何物かが存在してゐなくてはならないやうに感ぜられる。策《むち》うたれ駆られてばかりゐる為めに、その何物かが醒覚《せいかく》する暇《ひま》がないやうに感ぜられる。勉強する子供から、勉強する学校生徒、勉強する官吏、勉強する留学生といふのが、皆その役である。赤く黒く塗られてゐる顔をいつか洗つて、一寸舞台から降りて、静かに自分といふものを考へて見たい、背後《うしろ》の何物かの面目を覗《のぞ》いて見たいと思ひ思ひしながら、舞台監督の鞭《むち》を背中に受けて、役から役を勤め続けてゐる。此役が即ち生だとは考へられない。背後《うしろ》にある或る物が真の生ではあるまいかと思はれる。併しその或る物は目を醒《さ》まさう醒《さ》まさうと思ひながら、又してはうとうとして眠つてしまふ。此頃折々切実に感ずる故郷の恋しさなんぞも、浮草が波に揺られて遠い処へ行つて浮いてゐるのに、どうかするとその揺れるのが根に響くやうな感じであるが、これは舞台でしてゐる役の感じではない。併しそんな感じは、一寸頭を挙げるかと思ふと、直ぐに引つ込んでしまふ。
 それとは違つて、夜寐られない時、こんな風に舞台で勤めながら生涯を終るのかと思ふことがある。それからその生涯といふものも長いか短いか知れないと思ふ。丁度その頃留学生仲間が一人|窒扶斯《チフス》になつて入院して死んだ。講義のない時間に、Charite[#この語の「e」はアクサン(´)付き]《シヤリテエ》へ見舞に行くと、伝染病室の硝子《ガラス》越《ご》しに、寐てゐるところを見せて貰ふのであつた。熱が四十度を超過するので、毎日冷水浴をさせるといふことであつた。そこで自分は医学生だつたので、どうも日本人には冷水浴は危険だと思つて、外のものにも相談して見たが、病院に人れて置きながら、そこの治療|方鍼《はうしん》に容喙《ようかい》するのは不都合であらうし、よしや言つたところで採用せられはすまいといふので、傍観してゐることになつた。そのうち或る日見舞に行くと昨夜《ゆうべ》死んだといふことであつた。その男の死顔を見たとき、自分はひどく感動して、自分もいつどんな病に感じて、こんな風に死ぬるかも知れないと、ふと思つた。それからは折々此儘|伯林《ベルリン》で死んだらどうだらうと思ふことがある。
 さういふ時は、先づ故郷で待つてゐる二親《ふたおや》がどんなに歎くだらうと思ふ。それから身近い種々の人の事を思ふ。中にも自分にひどく懐《なつ》いてゐた、頭の毛のちぢれた弟の、故郷を立つとき、まだやつと歩いてゐたのが、毎日毎日兄いさんはいつ帰るかと問ふといふことを、手紙で言つてよこされてゐる。その弟が、若《も》し兄いさんはもう帰らないと云はれたら、どんなにか嘆くだらうと思ふ。
 それから留学生になつてゐて、学業が成らずに死んでは済まないと思ふ。併《しか》し抽象的にかう云ふ事を考へてゐるうちは、冷かな義務の感じのみであるが、一人一人具体的に自分の値遇《ちぐう》の跡《あと》を尋ねて見ると、矢張身近い親戚のやうに、自分にNeigung《ナイグング》からの苦痛、情《じやう》の上の感じをさせるやうにもなる。
 かういふやうに広狭《くわうけふ》種々のsocial《ゾチアル》な繋累的《けいるゐてき》思想が、次第もなく簇《むら》がり起つて来るが、それがとうとうindividuell《インヂヰヅエル》な自我《じが》の上に帰着してしまふ。死といふものはあらゆる方角から引つ張つてゐる糸の湊合《そうがふ》してゐる、この自我といふものが無くなつてしまふのだと思ふ。
 自分は小さい時から小説が好きなので、外国語を学んでからも、暇があれば外国の小説を読んでゐる。どれを読んで見てもこの自我が無くなるといふことは最も大いなる最も深い苦痛だと云つてある。ところが自分には単に我が無くなるといふこと丈ならば、苦痛とは思はれない。只刃物で死んだら、其|刹那《せつな》に肉体の痛みを覚えるだらうと思ひ、病や薬で死んだら、それぞれの病症|薬性《やくせい》に相応して、窒息するとか痙攣《けいれん》するとかいふ苦みを覚えるだらうと思ふのである。自我が無くなる為めの苦痛は無い。
 西洋人は死を恐れないのは野蛮人の性質だと云つてゐる。自分は西洋人の謂《い》ふ野蛮人といふものかも知れないと思ふ。さう思ふと同時に、小さい時|二親《ふたおや》が、侍《さむらひ》の家に生れたのだから、切腹といふことが出来なくてはならないと度々|諭《さと》したことを思ひ出す。その時も肉体の痛みがあるだらうと思つて、其痛みを忍ばなくてはなるまいと思つたことを思ひ出す。そしていよいよ所謂《いはゆる》野蛮人かも知れないと思ふ。併しその西洋人の見解が尤もだと承服することは出来ない。
 そんなら自我が無くなるといふことに就いて、平気でゐるかといふに、さうではない。その自我といふものが有る間に、それをどんな物だとはつきり考へても見ずに、知らずに、それを無くしてしまふのが口惜しい。残念である。漢学者の謂《い》ふ酔生夢死《すゐせいむし》といふやうな生涯を送つてしまふのが残念である。それを口惜しい、残念だと思ふと同時に、痛切に心の空虚を感ずる。なんともかとも言はれない寂しさを覚える。
 それが煩悶になる。それが苦痛になる。
 自分は伯林《ベルリン》のgarcon[#この語の「c」はセディーユ付き]《ガルソン》 logis《ロジイ》の寐られない夜なかに、幾度も此苦痛を嘗《な》めた。さういふ時は自分の生れてから今までした事が、上辺《うはべ》の徒《いたづ》ら事《ごと》のやうに思はれる。舞台の上の役を勤めてゐるに過ぎなかつたといふことが、切実に感ぜられる。さういふ時にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教《キリストけう》の思想の断片が、次第もなく心に浮んで来ては、直ぐに消えてしまふ。なんの慰藉《ゐしや》をも与へずに消えてしまふ。さういふ時にこれまで学んだ自然科学のあらゆる事実やあらゆる推理を繰り返して見て、どこかに慰藉になるやうな物はないかと捜《さが》す。併しこれも徒労であつた。
 或るかういふ夜の事であつた。哲学の本を読んで見ようと思ひ立つて、夜の明けるのを待ち兼ねて、Hartmann《ハルトマン》の無意識哲学を買ひに行つた。これが哲学といふものを覗いて見た初で、なぜハルトマンにしたかといふと、その頃十九世紀は鉄道とハルトマンの哲学とを齎《もたら》したと云つた位、最新の大系統として賛否《さんぴ》の声が喧《かまびす》しかつたからである。
 自分に哲学の難有《ありがた》みを感ぜさせたのは錯迷《さくめい》の三期であつた。ハルトマンは幸福を人生の目的だとすることの不可能なのを証する為めに、錯迷の三期を立ててゐる。第一期では人間が現世で福《さいはひ》を得ようと思ふ。少壮、健康、友誼《いうぎ》、恋愛、名誉といふやうに数へて、一々その錯迷《さくめい》を破つてゐる。恋なんぞも主に苦である。福《さいはひ》は性欲の根《ね》を断つに在る。人間は此|福《さいはひ》を犠牲にして、纔《わづ》かに世界の進化を翼成《よくせい》してゐる。第二期では福を死後に求める。それには個人としての不滅を前提にしなくてはならない。ところが個人の意識は死と共に滅する。神経の幹《みき》はここに絶たれてしまふ。第三期では福を世界過程の未来に求める。これは世界の発展進化を前提とする。ところが世界はどんなに進化しても、老病困厄は絶えない。神経が鋭敏になるから、それを一層切実に感ずる。苦は進化と共に長ずる。初中後《しよちゆうご》の三期を閲《けみ》し尽しても、幸福は永遠に得られないのである。
 ハルトマンの形而上学《けいじじやうがく》では、此世界は出来る丈《だけ》善く造られてゐる。併し有るが好いか無いが好いかと云へば、無いが好い。それを有らせる根元《こんげん》を無意識と名付ける。それだからと云つて、生を否定したつて、世界は依然としてゐるから駄目だ。現にある人類が首尾好く滅びても、又或る機会には次の人類が出来て、同じ事を繰り返すだらう。それよりか人間は生を肯定して、己を世界の過程に委《ゆだ》ねて、甘んじて苦を受けて、世界の救抜《きうばつ》を待つが好いと云ふのである。
 自分は此結論を見て頭を掉《ふ》つたが、錯迷打破《さくめいだは》には強く引き附けられた。Disillusion《ヂスイリユウジヨン》にはひどく同情した。そしてハルトマン自身が錯迷の三期を書いたのは、Max《マツクス》 Stirner《スチルネル》を読んで考へた上の事であると自白してゐるのを見て、スチルネルを読んだ。それから無意識哲学全体の淵源《えんげん》だといふので、遡《さかのぼ》つてSchopenhauer《シヨオペンハウエル》を読んだ。
 スチルネルを読んで見ると、ハルトマンが紳士の態度で言つてゐる事を、無頼漢《ぶらいかん》の態度で言つてゐるやうに感ずる。そしてあらゆる錯迷《さくめい》を破つた跡に自我を残してゐる。世界に恃《たの》むに足るものは自我の外には無い。それを先きから先きへと考へると、無政府主義に帰着しなくては已《や》まない。
 自分はぞつとした。
 ショオペンハウエルを読んで見れば、ハルトマン・ミヌス・進化論であつた。世界は有るよりは無い方が好いばかりではない。出来る丈《だけ》悪く造られてゐる。世界の出来たのは失錯《しつさく》である。無《む》の安さが誤まつて攪乱《かうらん》せられたに過ざない。世界は認識によつて無の安さに帰るより外はない。一人一人の人は一箇一箇の失錯で、有るよりは無いが好いのである。個人の不滅を欲するのは失錯を無窮にしようとするのである。個人は滅びて人間といふ種類が残る。この滅びないで残るものを、滅びる写象《しやしやう》の反対に、広義に、意志と名付ける。意志が有るから、無は絶待の無でなくて、相待の無である。意志がKant《カント》の物その物である。個人が無に帰るには、自殺をすれば好いかといふに、自殺をしたつて種類が残る。物その物が残る。そこで死ぬるまで生きてゐなくてはならないといふのである。ハルトマンの無意識といふものは、この意志が一変して出来たのであつた。
 自分はいよいよ頭を掉《ふ》つた。

    *    *    *

 兎角する内に留学三年の期間が過ぎた。自分はまだ均勢を得ない物体の動揺を心の内に感じてゐながら、何の師匠を求めるにも便《たよ》りの好い、文化の国を去らなくてはならないことになつた。生きた師匠ばかりではない。相談相手になる書物も、遠く足を運ばずに大学の図書館に行けば大抵間に合ふ。又買つて見るにも注文してから何箇月目に来るなどといふ面倒は無い。さういふ便利な国を去らなくてはならないことになつた。
 故郷は恋しい。美しい、懐かしい夢の国として故郷は恋しい。併し自分の研究しなくてはならないことになつてゐる学術を真に研究するには、その学術の新しい田地《でんぢ》を開墾して行くには、まだ種々《いろいろ》の要約の闕《か》けてゐる国に帰るのは残惜《のこりを》しい。敢《あへ》て「まだ」と云ふ。日本に長くゐて日本を底から知り抜いたと云はれてゐる独逸《ドイツ》人某は、此要約は今|闕《か》けてゐるばかりでなくて、永遠に東洋の天地には生じて来ないと宜告した。東洋には自然科学を育てて行く雰囲気《ふんゐき》は無いのだと宣告した。果してさうなら、帝国大学も、伝染病研究所も、永遠に欧羅巴《ヨオロツパ》の学術の結論丈を取り続《つ》ぐ場所たるに過ぎない筈である。かう云ふ判断は、ロシアとの戦争の後に、欧羅巴の当り狂言になつてゐたTaifun《タイフン》なんぞに現れてゐる。併し自分は日本人を、さう絶望しなくてはならない程、無能な種族だとも思はないから、敢て「まだ」と云ふ。自分は日本で結んだ学術の果実を欧羅巴へ輸出する時もいつかは来るだらうと、其時から思つてゐたのである。
 自分はこの自然科学を育てる雰囲気のある、便利な国を跡に見て、夢の故郷へ旅立つた。それは勿論立たなくてはならなかつたのではあるが、立たなくてはならないといふ義務の為めに立つたのでは無い。自分の願望《ぐわんまう》の秤《はかり》も、一方の皿に便利な国を載せて、一方の皿に夢の故郷を載せたとき、便利の皿を弔《つ》つた緒《を》をそつと引く、白い、優しい手があつたにも拘《かかは》らず、慥《たし》かに夢の方へ傾いたのである。
 シベリア鉄道はまだ全通してゐなかつたので、印度《インド》洋を経て帰るのであつた。一日行程の道を往復しても、往きは長く、復《かへ》りは短く思はれるものであるが、四五十日の旅行をしても、さういふ感じがある。未知の世界へ希望を懐《いだ》いて旅立つた昔に比べて寂しく又早く思はれた航海中、籐《とう》の寝椅子に身を横へながら、自分は行李《かうり》にどんなお土産《みやげ》を持つて帰るかといふことを考へた。
 自然科学の分科の上では、自分は結論丈を持つて帰るのではない。将来発展すべき萌芽《はうが》をも持つてゐる積りである。併し帰つて行く故郷には、その萌芽を育てる雰囲気が無い。少くも「まだ」無い。その萌芽も徒《いたづ》らに枯れてしまひはすまいかと気遣はれる。そして自分はfatalistisch《フアタリスチツシユ》な、鈍い、陰気な感じに襲はれた。
 そしてこの陰気な闇を照破《せうは》する光明のある哲学は、我行李の中には無かつた。その中に有るのは、ショオペンハウエル、ハルトマン系の厭世哲学である。現象世界を有るよりは無い方が好いとしてゐる哲学である。進化を認めないではない。併しそれは無に醒覚せんが為めの進化である。
 自分は錫蘭《セイロン》で、赤い格子縞《かうしじま》の布を、頭と腰とに巻き附けた男に、美しい、青い翼の鳥を買はせられた。籠を提《さ》げて舟に帰ると、フランス舟の乗組貝が妙な手附きをして、「Il《イル》 ne《ヌ》 vivra《ヰウラ》 pas《パア》 !」と云つた。美しい、青い鳥は、果して舟の横浜に着くまでに死んでしまつた。それも果敢《はか》ない土産であつた。

    *    *    *

 自分は失望を以て故郷の人に迎へられた。それは無埋もない。自分のやうな洋行帰りはこれまで例の無い事であつたからである。これまでの洋行帰りは、希望に輝《かがや》く顔をして、行李の中から道具を出して、何か新しい手品を取り立てて御覧に入れることになつてゐた。自分は丁度その反対の事をしたのである。
 東京では都会改造の議論が盛んになつてゐて、アメリカのAとかBとかの何号町《なんがうまち》かにある、独逸人の謂ふWolkenkratzer《ヲルケンクラツツエル》のやうな家を建てたいと、ハイカラア連《れん》が云つてゐた。その時自分は「都会といふものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死《ひとじに》が多い、殊に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでゐた家を、竪《たて》に積み畳《かさ》ねるよりは、上水《じょうすゐ》や下水《げすゐ》でも改良するが好からう」と云つた。又建築に制裁を加へようとする委員が出来てゐて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成さうと云つてゐた。その時自分は「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、強《し》ひて西洋風にしたいなら、寧《むし》ろ反対に軒の高さどころか、あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、ヱネチアの町のやうに参差錯落《しんしさくらく》たる美観を造るやうにでも心掛けたら好からう」と云つた。
 食物改良の議論もあつた。米を食ふことを廃《や》めて、沢山牛肉を食はせたいと云ふのであつた。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好からう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるやうにするのは勝手だ」と云つた。
 仮名遣《かなづかひ》改良の議論もあつて、コイスチヨーワガナワといふやうな事を書かせようとしてゐると、「いやいや、Orthographie《オルトグラフイイ》はどこの国にもある、矢張コヒステフワガナハの方が宜《よろ》しからう」と云つた。
 そんな風に、人の改良しようとしてゐる、あらゆる方面に向つて、自分は本《もと》の杢阿弥説《もくあみせつ》を唱へた。そして保守党の仲間に逐《お》ひ込まれた。洋行帰りの保守主義者は、後には別な動機で流行し出したが、元祖は自分であつたかも知れない。
 そこで学んで来た自然科学はどうしたか。帰つた当座一年か二年はLaboratorium《ラボラトリウム》に這人つてゐて、ごつごつと馬鹿正直に働いて、本《もと》の杢阿弥説《もくあみせつ》に根拠を与へてゐた。正直に試験して見れば、何千年といふ間満足に発展して来た日本人が、そんなに反理性的生活をしてゐよう筈はない。初から知れ切つた事である。
 さてそれから一歩進んで、新しい地盤の上に新しいForschung《フオルシユング》を企てようといふ段になると、地位と境遇とが自分を為事場《しごとば》から撥《は》ね出した。自然科学よ、さらばである。
 勿論自然科学の方面では、自分なんぞより有力な友達が大勢あつて、跡に残つて奮闘してゐてくれるから、自分の撥ね出されたのは、国家の為めにも、人類の為めにもなんの損失にもならない。
 只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気《ふんゐき》の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘《あへ》ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだForschung《フオルシユング》といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽《すゐばん》」とか云ふやうな造語《ざうご》を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだForschung《フオルシユング》といふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした語《ことば》は、実際役に立たない。載籍調《さいせきしら》べも研究ではないか。

    *    *    *

 かう云ふ閲歴をして来ても、未来の幻影を逐《お》うて、現在の事実を蔑《ないがしろ》にする自分の心は、まだ元の儘《まま》である。人の生涯はもう下り坂になつて行くのに、逐うてゐるのはなんの影やら。
「奈何《いか》にして人は己を知ることを得べきか。省察《せいさつ》を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能《よ》くせむ。汝《なんぢ》の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日《ひ》の要求なり。」これはGoethe《ギヨオテ》の詞《ことば》である。
 日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑《ないがしろ》にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。
 日の要求に応じて能事《のうじ》畢《をは》るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。
 併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに従つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。
 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎《なぞ》を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。
 この頃自分はPhilipp《フイリツプ》 Mainlaender《マインレンデル》が事を聞いて、その男の書いた救抜《きうばつ》の哲学を読んで見た。
 此男はHartmann《ハルトマン》の迷《まよひ》の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷《さくめい》を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面《おもて》を背《そむ》ける。次いで死の廻りに大きい圏《けん》を画《ゑが》いて、震慄《しんりつ》しながら歩いてゐる。その圏が漸《やうや》く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項《うなじ》に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬《しようけい》」も無い。
 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

    *    *    *

 謎は解けないと知つて、解かうとしてあせらないやうにはなつたが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはゐられない。宴会嫌ひで世に謂《い》ふ道楽といふものがなく、碁も打たず、象棋《しやうぎ》も差さず、球《たま》も撞《つ》かない自分は、自然科学の為事場《しごとば》を出て、手に試験管を持たなくなつてから、稀《まれ》に画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与へる日《ひ》の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。
 ハルトマンは人間のあらゆる福《さいはひ》を錯迷《さくめい》として打破して行く間に、こんな意味の事を言つてゐた。大抵人の福《さいはひ》と思つてゐる物に、酒の二日酔をさせるやうに跡腹《あとばら》の病《や》めないものは無い。それの無いのは、只芸術と学問との二つ丈だと云ふのである。自分は丁度此二つの外にはする事がなくなつた。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福《さいはひ》を生得《しやうとく》好かないのである。
 本は随分読んだ。そしてその読む本の種類は、為事場を出てから、必然の結果でがらりと変つた。
 西洋にゐた時から、Archive《アルヒイヱ》とかJahresberichte《ヤアレスベヒリテ》とか云ふやうな、専門の学術雑誌を初巻から揃《そろ》へて十五六種も取つてゐたところが、為事場に出ないことになつて見れば、実験の細《こま》かい記録なんぞを調べる必要がなくなつた。元来かう云ふ雑誌は学校や図書館で買ふもので、個人の買ふものではなかつたのを、政府がどれ丈雑誌に金を出してくれるやら分からないと思ふのと、自分がどこで為事をするやうになるやら分からないと思ふのとで、数千巻買つて持つてゐたが、自分は其中で専門学科の沿革《えんかく》と進歩とを見るに最も便利な年報二三種を残して置いて、跡は悉《ことごと》く官《くわん》の学校に寄附してしまつた。
 そしてその代りに哲学や文学の書物を買ふことにした。それを時間の得られる限り読んだのである。
 只その読み方が、初めハルトマンを読んだ時のやうに、饑《う》ゑて食を貪《むさぼ》るやうな読み方ではなくなつた。昔《むかし》世にもてはやされてゐた人、今《いま》世にもてはやされてゐる人は、どんな事を言つてゐるかと、譬《たと》へば道を行く人の顔を辻に立つて冷澹《れいたん》に見るやうに見たのである。
 冷澹には見てゐたが、自分は辻に立つてゐて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あつたのである。
 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた。多くの師には逢つたが、一人の主《しゆ》には逢はなかつたのである。
 自分は度々此脱帽によつて誤解せられた。自然科学を修《をさ》めて帰つた当座、食物の議論が出たので、当時の権威者たるVoit《フオイト》の標準で駁撃《はくげき》した時も、或る先輩が「そんならフォイトを信仰してゐるか」と云ふと、自分はそれに答へて、「必ずしもさうでは無い、姑《しばら》くフォイトの塁《るゐ》に拠《よ》つて敵に当るのだ」と云つて、ひどく先輩に冷かされた。自分は一時の権威者としてフォイトに脱帽したに過ぎないのである。それと丁度同じ事で、一頃《ひところ》芸術の批評に口を出して、ハルトマンの美学を根拠にして論じてゐると、或る後進の英雄が云つた。「ハルトマンの美学はハルトマンの無意識哲学から出てゐる。あの美学を根拠にして論ずるには、先づ無意識哲学を信仰してゐなくてはならない」と云つた。なる程ハルトマンは自家の美学を自家の世界観に結び附けてはゐたが、姑《しばら》くその連鎖を断《た》つてしまつたとして見ても、彼の美学は当時最も完備したものであつて、而も創見に富んでゐた。自分は美学の上で、矢張一時の権威者としてハルトマンに脱帽したに過ぎないのである。ずつと後になつてから、ハルトマンの世界観を離れて、彼の美学の存立してゐられる、立派な証拠が提供せられた。ハルトマン以後に出た美学者の本をどれでも開けて見るが好い。きつと美のModification《モヂフイカチオン》と云ふものを説いてゐる。あれはハルトマンが剏《はじ》めたのでハルトマンの前には無かつた。それを誰も彼も説いてゐて、ハルトマンのハの字も言はずにゐる。黙殺してゐるのである。
 それは兎に角、辻に立つ人は多くの師に逢つて、一人の主にも逢はなかつた。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学《けいじじやうがく》でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云ふことを知つた。

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 形而上学と云ふ、和蘭《オランダ》寺院楽《じゐんがく》の諧律《かいりつ》のやうな組立てに倦《う》んだ自分の耳に、或時ちぎれちぎれのAphorismen《アフオリスメン》の旋律が聞えて来た。
 生の意志を挫《くじ》いて無に入らせようとする、ショオペンハウエルのQuietive《クヰエチイフ》に服従し兼ねてゐた自分の意識は、或時|懶眠《らんみん》の中から鞭《むち》うち起された。
 それはNietzsche《ニイチエ》の超人《てうじん》哲学であつた。
 併しこれも自分を養つてくれる食餌ではなくて、自分を酔はせる酒であつた。
 過去の消極的な、利他的な道徳を家畜の群《むれ》の道徳としたのは痛快である。同時に社会主義者の四海同胞観《しかいどうはうくわん》を、あらゆる特権を排斥する、愚な、とんまな群の道徳としたのも、無政府主義者の跋扈《ばつこ》を、欧羅巴《ヨオロツパ》の街に犬が吠えてゐると罵つたのも面白い。併し理性の約束を棄てて、権威に向ふ意志を文化の根本に置いて、門閥《もんばつ》の為め、自我の為めに、毒薬と匕首《ひしゆ》とを用ゐることを憚《はばか》らないCesare《チエザレ》 Borgia《ボルジア》を、君主の道徳の典型としたのなんぞを、真面目に受け取るわけには行かない。その上ハルトマンの細かい倫理説を見た目には、所謂《いはゆる》評価の革新さへ幾分の新しみを殺《そ》がれてしまつたのである。
 そこで死はどうであるか。「永遠なる再来」は慰藉《ゐしや》にはならない。Zarathustra《ツアラツストラ》の末期《まつご》に筆を下《おろ》し兼ねた作者の情を、自分は憐んだ。
 それから後にもPaulsen《パウルゼン》の流行などと云ふことも閲《けみ》して来たが、自分は一切の折衷主義《せつちゆうしゆぎ》に同情を有せないので、そんな思潮には触れずにしまつた。

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 昔別荘の真似事に立てた、膝を容《い》れるばかりの小家《こいへ》には、仏者《ぶつしや》の百一物《ひやくいちもつ》のやうになんの道具も只一つしか無い。
 それに主人の翁《おきな》は壁といふ壁を皆棚にして、棚といふ棚を皆書物にしてゐる。
 そして世間と一切の交通を絶つてゐるらしい主人の許《もと》に、西洋から書物の小包が来る。彼が生きてゐる間は、小さいながら財産の全部を保菅してゐるNotar《ノタアル》の手で、利足《りそく》の大部分が西洋の某|書肆《しよし》へ送られるのである。
 主人は老いても黒人種《こくじんしゆ》のやうな視力を持つてゐて、世間の人が懐かしくなつた故人《こじん》を訪ふやうに、古い本を読む。世間の人が市《いち》に出て、新しい人を見るやうに新しい本を読む。
 倦《う》めば砂の山を歩いて松の木立を見る。砂の浜に下りて海の波瀾《はらん》を見る。
 僕《ぼく》八十八《やそはち》の薦《すす》める野菜の膳に向つて、飢を凌《しの》ぐ。
 書物の外で、主人の翁の翫《もてあそ》んでゐるのは、小さいLoupe《ルウペ》である。砂の山から摘んで来た小さい草の花などを見る。その外Zeiss《ツアイス》の顕微鏡がある。海の雫《しづく》の中にゐる小さい動物などを見るMerz《メルツ》の望遠鏡がある。晴れた夜の空の星を見る。これは翁が自然科学の記憶を呼び返す、折々のすさびである。
 主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追ふやうな昔の心持を無くしてしまふことは出来ない。そして既往《きわう》を回顧してこんな事を思ふ。日《ひ》の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云ふ境地に立つたら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかつた。それでかう云ふ心持が附き纏《まと》つてゐるのだらうと思ふのである。
 少壮時代に心の田地《でんぢ》に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。冷眼《れいがん》に哲学や文学の上の動揺を見てゐる主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み畳《かさ》ねて行くやうな科学者の労作にも、余所《よそ》ながら目を附けてゐるのである。
 Revue《ルヰユウ》 des《デ》 Deux《ドユウ》 Mondes《モオンド》の主筆をしてゐた旧教徒Brunetiere[#この語の2つ目の「e」はアクサン(´)付き]《ブリユンチエエル》が、科学の破産を説いてから、幾多の歳月を閲《けみ》しても、科学はなかなか破産しない。凡《すべ》ての人為《じんゐ》のものの無常の中で、最も大きい未来を有してゐるものの一つは、矢張科学であらう。
 主人の翁《おきな》はそこで又こんな事を思ふ。人間の大厄難になつてゐる病《やまひ》は、科学の力で予防もし治療もすることが出来る様になつて来た。種痘で疱瘡《はうさう》を防ぐ。人工で培養《ばいやう》した細菌やそれを種《う》ゑた動物の血清《けつせい》で、窒扶斯《チフス》を防ぎ実扶的里《ジフテリ》を直すことが出来る。Pest《ペスト》のやうな猛烈な病も、病原菌が発見せられたばかりで、予防の見当は附いてゐる。癩病も病原菌だけは知られてゐる。結核もTuberculin《ツベルクリン》が予期せられた功を奏せないでも、防ぐ手掛りが無いこともない。癌《がん》のやうな悪性|腫瘍《しゆやう》も、もう動物に移し植ゑることが出来て見れば、早晩予防の手掛りを見出すかも知れない。近くは梅毒がSalvarsan《サルワルサン》で直るやうになつた。Elias《エリアス》 Metschnikaff《メチユニコツフ》の楽天哲学が、未来に属《しよく》してゐる希望のやうに、人間の命をずつと延べることも、或は出来ないには限らないと思ふ。
 かくして最早|幾何《いくばく》もなくなつてゐる生涯の残余《ざんよ》を、見果てぬ夢の心持で、死を怖れず、死にあこがれずに、主人の翁《おきな》は送つてゐる。
 その翁の過去の記憶が、稀に長い鎖のやうに、刹那の間に何十年かの跡を見渡させることがある。さう云ふ時は翁の炯々《けい/\》たる目が大きく※[#「※」は「目+爭」、343-下段-9]《みは》られて、遠い遠い海と空とに注がれてゐる。
 これはそんな時ふと書き捨てた反古《ほご》である。
(明治四十四年三月―四月)



底本:「日本文学全集4 森鴎外集」筑摩書房
   1970(昭和45)年11月1日初版発行
入力:伊藤弘道
校正:伊藤時也
2000年5月16日公開
2001年7月10日修正
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