青空文庫アーカイブ

土淵村にての日記
水野葉舟

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)、雪《ゆき》の平《たいら》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「ぽっ」に傍点]
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     一

 S君の家に着いた時には、もう夜がすっかり更けていた。
 途中で寄り道をして、そこですっかり話し込んでしまったので、一里余りの道は闇の中をたどって来た。闇の中にひろびろと開けた、雪《ゆき》の平《たいら》を通って来た。闇と言ってもぽっ[#「ぽっ」に傍点]とどこか白々として、その広い平がかすかに見透かされる。そして寒い風が正面から吹きつける中を歩いて来たのだ。
 歩いて来た道は、川に沿っていた。雪の中に黒く見える流れだった。水の音がただ絶えず気疎《けうと》く耳についた。雪の中をオヴァシューズでS君の家の裏口の方から庭にまわった時にゴム底が凍った凸凹になっている雪の上を歩くたびに、ギュッ、ギユッと音をしてすべる。そして疲れた足には、それが言いようもなく重く思われた。
 で、雪のあるうち、近道だと言って、畑の中を直線にふみ付けた、道から、家の裏口に出た。家に着いたと言われた時には、ほっとした。自分は雪明りで、時計を見ようとしたが見えなかった。S君が傍《そば》からマッチをすってくれたので、もう十一時四十幾分になっているのを知った。
「もう遅いから、寝ているだろう。はいって起こさねばなるまい。」とS君は言う。
「着く早々、君の家を騒がすわけだね。」
「ナーニ」
と言って、二人はそのまま裏口から庭にまわった。すると、戸の端が少し開いていて、そこから火が漏れて見える。S君は丈の高いからだを先に立てて、穿いた草履のままで、縁に上って行った。自分もつづいて上った。
 その戸を開けると、そこは広い座敷で、隈に炬燵《こたつ》がある。中にはいって、二人は襟巻をはずしたり外套を脱いだり[#「脱いだり」は底本では「脱いたり」]した。寒い寒いと思って歩いて来たが、からだは汗でぬらぬらしている。
 そこへ、
「帰ったか?」と聞き馴れない言葉で言って、次の室から人が出て来た。五十を越した老女で、頭を布で巻いている。
 S君が途中で遅くなったことを二言三言言う。と、私と対《むか》い合った。で、自分はこの人がS君のマザーだと思ったので、
「はじめまして、しばらくのうちいろいろ御厄介になります。」と、自分は窮屈なズボンの膝を折って、そこへ手をついた。汗でからだがニチャ、ニチャするのが気になる。
「……」と、その老女も何か言ったが、自分にはその言葉の意味が分らなかった。それで、工合いの悪い顔をして、その人の顔を見ると、むこうでも、何かふに落ちぬようで自分の顔を見た。
 自分はまた言葉がよく通じない、と思って、口を噤《つぐ》んだ。そして、その儘立って、カバンから着物を出した。
 こんどの旅では、花巻に泊った晩から、幾度も、この言葉が通じないので困らされた。
 着物を着換えてしまって、S君と向い合って炬燵にはいった。次第に落ちついてくると、何と言いようのない夜更けのしずけさが感じられる。室の中が見廻わされる。寒さが襟元からひしひしと沁み込んでくる。
 広い室に、小さいランプがともされているので、すみずみが薄暗い。障子も、柱も黒く、天井がばかに高い。寺の中にでもはいったような心持ちがする。
 炬燵の傍には古風な棚が置いてある。それに四五冊、S君の手馴れた本が立ててあった。その傍に自分に当てて来た、手紙や雑誌も十五六置いてあった。自分が、所々《しょしょ》を歩るいて[#「歩るいて」はママ]いるうちに、この三月も半ば経《た》ってしまったが。
 さて、いよいよここに着いて見ると、種々の人から自分に宛てた手紙が今更たくさんたまっていた。
 自分はそれを貪《むさぼ》るようにして読んだ。自分はこの半月、まったくその前の生活と関係の絶えた時を過ごした。そしていままた、その前に帰り接したような心持ちになった。こうなって見ると、すべてに向って一種変った心持ちが起こる。今までその中にはいっていた社会を遠くから眺めるような心持ちだ。

     二

 前夜の夜更しのために、目が覚めたのは十二時近くであった。
 目を覚して外に出ると、空はよく晴れていた。昨夜歩きながら道の行手に黒い山がしだいに迫ってくるように見えたのは、いま見ると、村が緩《ゆる》く上りになって、山に続いているのだった。縁に立って見ると、正面に小さい山が幾つも重なっている奥に、まるい、落葉した木立ちが立ち続いた大きい山の頭が見える。どこを見ても雪が一帯に積っている。日の光がそれに当って、キラキラと光る。自分は庭から外に出た。日は高く頭の上にあった。
 雪の上をそっと歩いて――広い畑の中に立った。昨夜歩いて来た方を見ると、高い山が重なり重なり、自分の立っている、右手の方に続いている。自分の今立っているところはその山でかこまれた雪の平だ。
 自分が全身に日光を浴びてまぶしい雪の反射の中に立っていると、S君が出て来た。顔がはれぼったくなっている。
「昨日、来たのは、彼方《むこう》だね。」と自分は今見ていた方を指して聞いた。
「そうそう。あすこにあるちょっと光った低い山の向うに当たる。」
「東かい?」
「いいえ、……(S君は以っての外と言ったように首を振った)西。東はうしろですよ。」
と、くるっと振り返った。
「ヘェ、どうもそうは思われない。」と、自分も振り返った。すると、
「あれがよく話した六角牛《ろっこし》ですよ。」と縁から正面に見えた、まるい大きい山を指して、
「あの上がちょうど真東に当たる。」
「あれが六角牛か、なるほど、じゃ早池峰《はやちね》は?」
「早池峰は来た方ですよ。とてもここから見えない。」
 この二つの山は、兼てS君が郷里の話をするたびに幾度か聞いて、耳に馴れた名である。

 午すこし過ぎた頃になると、空は見る間に灰色の雲が閉《とざ》してしまった。やがて雪が降りはじめた。日の暮れるころから、風が少し出た。
 夜、この村で操人形《あやつりにんぎょう》があると言うので、二人で見に行くことにした。晩餐《ばんさん》がすむと、S君の襟巻を借りて、それで頭からスッポリと包んで目ばかり出した。用意ができると、提灯に火をつけて、昨夜はいって来た裏口の方から出た。二人とも、草履を穿《は》いて、ギシギシと、今日降った雪を踏みつけて行く。
 畑も、道も一帯に区別がなくなっている雪の中を一條、踏みつけた道ができている。それを歩るいて[#「歩るいて」はママ]行くのである。寒い風の吹きつけてくるなかを行く。自分には方角がわからないが、足もとばかり気にしてまだかまだかと、思いながら行くと、やっと、人の声ががやがや聞こえる。雪の中に三人五人と一団になって立っている。
 そこは、やはり百姓屋の一軒で、ずっと軒のところにはいって行くと、真暗な縁にも人が集まっている気配がする。
 家の中にはいると、湿った臭《におい》の沁みたような気が顔を打つ。S君はそこにいる若い男に頻りと挨拶をして、室の中にはいった。
 室の中には、女や子供が二十人ばかりいた。自分達がはいって行くと、一時に振り返ったが、不思議そうな顔をして、じっと見ている。思いがけないような、物珍らしそうな、恐れているような、目だ。……そして目でじっと見ながら何か小声で話している。
 室は板敷の上に筵《むしろ》が敷いてある。正面の舞台には毒々しい更紗《さらさ》模様《もよう》の幕が下りている。
 自分達ははいると、雪でぬれた足袋や、靴下をぬいでいると、前の方に火鉢を取り廻わしていた女達が火鉢の傍《わき》を退《の》いて、S君に座をすすめた。そこに女達の中に交って座を占めた。
 九時近くなる頃まで、舞台の幕は下りたままだった。自分はひそかに退屈してしまった。
 そのうちに見物が次第に一杯になって来た。牛のような頑丈なからだをした男達がうしろの方にずっと並んだ。
 長々と、今夜の人形、新しく改良したものであると言う前口上があって、やがて幕が明いた。人形はやはり古く汚れている。土の上に塗った胡粉《ごふん》の色が冷く白い。それに死んだ人のような指をした人形が目を一つところに据えて踊り出した。自分はこれが子供の時から恐ろしく思われるものの一つだ。久しぶりでまたそれを見たのだ。
 それで、目をそらして見物の方を見ると、傍にいる女達が小さな可愛いい目を見はって、一心に舞台に見入っている。うしろの方からも折々「今度のは余程うまい」と言うような賞讃の辞が聞こえる。
 やがて、一幕すんだ。方々で話がはじまる。女達は目をキョロキョロさせて、四辺《あたり》を見廻わしている。この女も同じように、綺麗な鳥のような目をしている。色の黒い、垢のついた、しかし、肉付きのいい、まるみのある顔をして、その鳥のような目でキョロキョロしながら、女らしい透る可愛いい声で物を言うのを見ていると、自分はこの田舎の女が、家に飼われている、猫か鳩かのように思われた。
 どんなにか、弄《おもちゃ》にして、可愛がって見たらば面白かろうかと思った。それに連れて、或る時に読んだ文明人が野蛮人の女を、野獣をおもちゃにするようにして、可愛がっている話を思い浮かべた。
 二幕目がすんだ時に帰って来た。もう夜がかなり更けていた。自分は今夜、村の人の集まっているところに一緒になって坐っていたのが、非常に物珍らしく思った。

     三

 雪があがるかと思うとすぐ降ってくる。一雪降ると、六角牛《ろっこし》の峰にはほかの山よりも、一層深く積る。やがて空が晴れる。と、それが日に輝やいて見える。
 この室は自分にとっては、重くるしく感じられてたまらぬ。日のうちには終始頭の上を押えられているようだ。送られた雑誌を次第々々に読んで見た。文壇の騒がしい声が、遠くの方でするような気がする。そして、存外自分の胸まで響いてこぬ。
 と、思われたが、自分はただ、炬燵の中に足を入れて、寝たままぼんやりしていたい。S君と話すのもいやだ。昨日も三日こうして暮してしまったのだ。今日もこんな心持ちでいるうちに夜になってしまった。
 ふと、時を見ようと思って、机の上に置いた時計を取ると、巻くのを忘れていたので、すっかり止まっている。
 花巻で汽車から降りた時に、田舎に入るからと思って殊更らに時を合わせて来たのに、つい止めてしまった。それででたらめの時にした。
 夜が更けて行くが、はたして何時《なんどき》か分からぬ。
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土淵村は、陸中国上閉伊郡にある。自分はこんど東北地方を旅行しているうち、ここに約二十日間滞在していた。この日記はそのうちより抄したものである。ついでに、自分の居たところは土淵村でもずっと奥の(東に入った方の)字山口というところであった。
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底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
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