青空文庫アーカイブ

めくらぶどうと虹《にじ》
宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)めくらぶどうと虹《にじ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)三|秒《びょう》
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 城《しろ》あとのおおばこの実《み》は結《むす》び、赤つめ草の花は枯《か》れて焦茶色《こげちゃいろ》になり、畑《はたけ》の粟《あわ》は刈《か》られました。
 「刈《か》られたぞ」と言《い》いながら一ぺんちょっと顔《かお》を出した野鼠《のねずみ》がまた急《いそ》いで穴《あな》へひっこみました。
 崖《がけ》やほりには、まばゆい銀《ぎん》のすすきの穂《ほ》が、いちめん風に波立《なみだ》っています。
 その城《しろ》あとのまん中に、小さな四《し》っ角山《かくやま》があって、上のやぶには、めくらぶどうの実《み》が虹《にじ》のように熟《う》れていました。
 さて、かすかなかすかな日照《ひで》り雨が降《ふ》りましたので、草はきらきら光り、向《む》こうの山は暗《くら》くなりました。
 そのかすかなかすかな日照《ひで》り雨が霽《は》れましたので、草はきらきら光り、向《む》こうの山は明るくなって、たいへんまぶしそうに笑《わら》っています。
 そっちの方から、もずが、まるで音譜《おんぷ》をばらばらにしてふりまいたように飛《と》んで来て、みんな一度《いちど》に、銀《ぎん》のすすきの穂《ほ》にとまりました。
 めくらぶどうは感激《かんげき》して、すきとおった深《ふか》い息《いき》をつき、葉《は》から雫《しずく》をぽたぽたこぼしました。
 東の灰色《はいいろ》の山脈《さんみゃく》の上を、つめたい風がふっと通って、大きな虹《にじ》が、明るい夢《ゆめ》の橋《はし》のようにやさしく空にあらわれました。
 そこでめくらぶどうの青じろい樹液《じゅえき》は、はげしくはげしく波《なみ》うちました。
 そうです。今日《きょう》こそただの一言《ひとこと》でも、虹《にじ》とことばをかわしたい、丘《おか》の上の小さなめくらぶどうの木が、よるのそらに燃《も》える青いほのおよりも、もっと強い、もっとかなしいおもいを、はるかの美《うつく》しい虹《にじ》にささげると、ただこれだけを伝《つた》えたい、ああ、それからならば、それからならば、実《み》や葉《は》が風にちぎられて、あの明るいつめたいまっ白の冬の眠《ねむ》りにはいっても、あるいはそのまま枯《か》れてしまってもいいのでした。
 「虹《にじ》さん。どうか、ちょっとこっちを見てください」めくらぶどうは、ふだんの透《す》きとおる声もどこかへ行って、しわがれた声を風に半分《はんぶん》とられながら叫《さけ》びました。
 やさしい虹《にじ》は、うっとり西の碧《あお》いそらをながめていた大きな碧《あお》い瞳《ひとみ》を、めくらぶどうに向《む》けました。
 「何かご用でいらっしゃいますか。あなたはめくらぶどうさんでしょう」
 めくらぶどうは、まるでぶなの木の葉《は》のようにプリプリふるえて輝《かがや》いて、いきがせわしくて思うように物《もの》が言《い》えませんでした。
 「どうか私のうやまいを受《う》けとってください」
 虹《にじ》は大きくといきをつきましたので、黄や菫《すみれ》は一つずつ声をあげるように輝《かがや》きました。そして言《い》いました。
 「うやまいを受《う》けることは、あなたもおなじです。なぜそんなに陰気《いんき》な顔をなさるのですか」
 「私はもう死《し》んでもいいのです」
 「どうしてそんなことを、おっしゃるのです。あなたはまだお若《わか》いではありませんか。それに雪が降《ふ》るまでには、まだ二か月あるではありませんか」
 「いいえ。私の命《いのち》なんか、なんでもないんです。あなたが、もし、もっと立派《りっぱ》におなりになるためなら、私なんか、百ぺんでも死《し》にます」
 「あら、あなたこそそんなにお立派《りっぱ》ではありませんか。あなたは、たとえば、消《き》えることのない虹《にじ》です。変《か》わらない私です。私などはそれはまことにたよりないのです。ほんの十分か十五分のいのちです。ただ三|秒《びょう》のときさえあります。ところがあなたにかがやく七色はいつまでも変《か》わりません」
 「いいえ、変《か》わります。変《か》わります。私の実《み》の光なんか、もうすぐ風に持《も》って行かれます。雪《ゆき》にうずまって白くなってしまいます。枯《か》れ草《くさ》の中で腐《くさ》ってしまいます」
 虹《にじ》は思わず微笑《わら》いました。
 「ええ、そうです。本とうはどんなものでも変《か》わらないものはないのです。ごらんなさい。向《む》こうのそらはまっさおでしょう。まるでいい孔雀石《くじゃくせき》のようです。けれどもまもなくお日さまがあすこをお通りになって、山へおはいりになりますと、あすこは月見草《つきみそう》の花びらのようになります。それもまもなくしぼんで、やがてたそがれ前の銀色《ぎんいろ》と、それから星をちりばめた夜とが来ます。
 そのころ、私は、どこへ行き、どこに生まれているでしょう。また、この眼《め》の前の、美《うつく》しい丘《おか》や野原《のはら》も、みな一|秒《びょう》ずつけずられたりくずれたりしています。けれども、もしも、まことのちからが、これらの中にあらわれるときは、すべてのおとろえるもの、しわむもの、さだめないもの、はかないもの、みなかぎりないいのちです。わたくしでさえ、ただ三|秒《びょう》ひらめくときも、半時《はんとき》空にかかるときもいつもおんなじよろこびです」
 「けれども、あなたは、高く光のそらにかかります。すべて草や花や鳥は、みなあなたをほめて歌います」
 「それはあなたも同じです。すべて私に来て、私をかがやかすものは、あなたをもきらめかします。私に与えられたすべてのほめことばは、そのままあなたに贈《おく》られます。ごらんなさい。まことの瞳《ひとみ》でものを見る人は、人の王のさかえの極《きわ》みをも、野の百合《ゆり》の一つにくらべようとはしませんでした。それは、人のさかえをば、人のたくらむように、しばらくまことのちから、かぎりないいのちからはなしてみたのです。もしそのひかりの中でならば、人のおごりからあやしい雲と湧《わ》きのぼる、塵《ちり》の中のただ一抹《いちまつ》も、神《かみ》の子のほめたもうた、聖《せい》なる百合《ゆり》に劣《おと》るものではありません」
 「私を教えてください。私を連《つ》れて行ってください。私はどんなことでもいたします」
 「いいえ私はどこへも行きません。いつでもあなたのことを考えています。すべてまことのひかりのなかに、いっしょにすむ人は、いつでもいっしょに行くのです。いつまでもほろびるということはありません。けれども、あなたは、もう私を見ないでしょう。お日様《ひさま》があまり遠くなりました。もずが飛《と》び立ちます。私はあなたにお別《わか》れしなければなりません」
 停車場《ていしゃじょう》の方で、鋭《するど》い笛《ふえ》がピーと鳴りました。
 もずはみな、一ぺんに飛《と》び立って、気違《きちが》いになったばらばらの楽譜《がくふ》のように、やかましく鳴きながら、東の方へ飛《と》んで行きました。
 めくらぶどうは高く叫《さけ》びました。
 「虹《にじ》さん。私をつれて行ってください。どこへも行かないでください」
 虹《にじ》はかすかにわらったようでしたが、もうよほどうすくなって、はっきりわかりませんでした。
 そして、今はもう、すっかり消《き》えました。
 空は銀色《ぎんいろ》の光を増《ま》し、あまり、もずがやかましいので、ひばりもしかたなく、その空へのぼって、少しばかり調子《ちょうし》はずれの歌をうたいました。



底本:「銀河鉄道の夜」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年7月20日改版初版発行
   1993(平成5)年6月20日改版71版発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:薦田佳子
校正:平野彩子
2000年8月25日公開
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