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我に叛く
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遽《あわただ》しい

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)段々|逸《そ》れて、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おうち[#「おうち」に傍点]へ帰るのね
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 電報を受取ると同時に、ゆき子は、不思議に遽《あわただ》しい心持になってきた。
 若し彼女が、その朝十時から催される或る職務上責任ある会議に、良人の真木が帰京し得るか否かを、それほど案じていたのなら、当然その報知で安心すべき筈であった。
 電文には、昨夜F市の発信で「アスアサ九ジツク」とある。
 会議の場所は、東京駅からさほど遠くはなかった。従って、九時に列車が到着するとすれば、定刻に充分に間に合うばかりでなく、若し必要なら衣服を換える位の余裕さえもある。ゆき子が、気を揉む理由は何処にもない訳なのである。――が、彼女は落付けなかった。
 今まで森閑と、或はどんよりと鎮っていた心の何処かに、俄の漣《さざなみ》が立ち始め、その絶間ない波動が、やがて体中、心じゅう充満して来るような不安《アンイージネス》が感じられるのである。

        一

 真木は、市内の或る大学に教鞭を採っている文学士であった。
 故郷は、若狭に近い裏日本にある。そこでは、老齢な父親が、長兄の家族と共に、祖先伝来の、殆ど骨董めいた田地を擁して、安穏な余生を送っていた。
 平常は忙しく、ゆっくり手紙を書く気分のゆとりすら持たない彼は、丁度学年の更り目にある僅の休暇を利用して、半年振の帰省をしたのである。
 始めは、勿論ゆき子も同道するつもりでいた。結婚後、二年と経たない彼女は、未だ一度しか良人の故郷を見たことがない。のみならず仏教が非常に熾《さかん》なその地方の生活は、一種独特な興味で、ゆき子の心も牽《ひ》いていた。
 東北の或る地方に生父の故郷を持つ関係から、今まで、田舎といえば曠野の中に散在する開墾地ばかりを見て来た彼女にとって、古風な細道や白壁を持ち、村役場の訓示まで、
「時間を励行すべし、仏智に適う」
などという風に書かれる城下村の日常は、全く、珍しかったのである。
 また、風景の点からいっても、決して悪い場所ではない。白山山脈の鬱蒼とした起伏や、夕方日が沈むと、五位鷺の鳴く群青色の山峡から夢のように白霧が立ち昇って来る景色などは、日本風な優婉さで、特別彼女の心に強い印象を遺していた。
 まして、この度の帰省には、一つの楽しい空想が加っていた。
 長年、都会と田舎とに別れ別れの生活をし、親しく老父を慰むる機会を持たなかった真木は、時候のよい今度、父を誘って、何処か閑静な温泉にでも行って、ゆっくり昔語りでもしたいと云っていたのである。
 三月が終に近づき、旅行が迫ると、ゆき子は物珍らしい亢奮を覚えた。
 毎晩、夕飯を済すと、彼等は一つの灯の下に顔を揃えた。そして、開け放した庭から流れ込む沈丁花の香の漂う柔かな夜気を肌に感じながら、旅程を検べ、土産物の相談をし、留守番のしがくをすることが、共通の愉しみとなったのである。
 それにも拘らず、愈々決定するとなると、ゆき子は心の渋るのを感じた。
 決して、×県に行くのが厭だというのではない。併し、行かなかったら、もっと自分の心に、生活に、直接な悦びが獲られはしないかという逡巡が、段々頭を擡げ始めたのである。ゆき子は、文筆に携る仕事をしていた。丁度、その時分、長い辛い仕事が目前に控えていた。彼女は、もう半年もその一つに掛り切っていたのである。が、僅に緒にほか付かないその仕事は、まるで恐ろしい怪物のように、ゆき子の手に負えなかった。ただ、捗取《はかど》らないというばかりではない。何か、彼女が嘗て経験しなかった精神的無力が、それにかかってから彼女の心を暗くし始めているからである。
 しばしば身も世もあられないような絶望が、ゆき子を襲った。が、恐ろしければ恐ろしいほど、苦しければ苦しいほど、彼女はその仕事に対する執着を捨て兼ねた。彼女にとっても、絶望のままそれを見限ってしまうことは、単に、或る一つの長篇作品を、未完成で放擲したというだけの事実ではなかった。それと同時に、創作に対する自信をも投げ捨ててしまわなければならないことだと、感じられていたのである。
「旅行も悪くないだろう勿論。けれども、余り馴染深くない真木の親族のうちに入って行き、たとい、好意によっても、生活を一層断片的なものにするよりは、静に留守をした方が、結局自分のためになるのではあるまいか?」
 稀にはすがすがしい独居のうちに、何か新しい気分の転換を見出したら、また、仕事もどうにかなりはしまいかという考が、除け難い根をゆき子の心に下したのである。
 けれども、流石に彼女はそれを考えなく軽々と口には出し兼ねた。真木は、彼女が行くと定めたものと思っている。
 彼は、彼女ほど、言葉に出して大騒ぎはしないが、それを楽しみに思い、種々空想を描いているだろうことは、ゆき子にも充分察せられた。それを、むざむざと、
「私は参りません」
と云うには、ゆき子は余り良人の心持を知り過ぎていた。彼が、必ず最後には、
「それなら、そうしたら好いだろう」
と云うに違いないから、彼女は、猶それを云わせるに堪えないような心持がしたのである。けれども、或る日、国元へ手紙を書くと云って真木がペンを取あげ、
「それでは、貴女も行くと云ってやっていいね」
と念を押した時、ゆき子は、とっさの決心で、
「さあ……」
と云った。そして、雑誌を読んでいた隣室から、彼の傍に来て坐った。
「――若し、私がおやめにしたら、貴方もおやめになさって?」
 ゆき子は、良人の顔を見ながら、静に訊いた。
「止めようというの?」
「今度だけは、そうして見たらどうかと思うの。――でも、若し、貴方までお止めになさるなら……」
「僕までやめるには及ぶまいが――どうしたんだね、急に」
 ゆき子は、彼女が理由とするところを説明した。
「まだ、いい塩梅にお父さまには云ってあげてないでしょう? だから貴方さえそうしてもいいとお思いになれば、私は遺って見たいわ。……一旦行くと云って、ほんとに悪いけれど」
「そんなことは拘わないが……」思いがけない変更で、稍々《やや》不愉快そうな顔をしていた真木は、ここまで来ると、不意に、苦笑に似た笑を口辺に浮べた。
「それにしてもここに一人でいられるかね」
 良人の眼を見、ゆき子は、我知らず笑を移された。
 真木の質問には、特殊な諷刺が籠っていたのだ。
 彼等の家は、屋根に埋った狭い谷を距てて、小石川台の木立を眺める町なかにあった。周囲には沢山の家があり、木戸一つ開ければ隣家の庭まで手が届いた。けれども、その頃、余り遠くない市外に頻々として、強盗や殺傷事件が続出したため、昼間独りきりになるゆき子は気味を悪がり、やかましく真木に強請《せが》んで、つい先頃水口の錠を換えて貰ったりしたばかりなのである。
「到底一人でなんかいられやしませんわ。――×町へ行ったらどうかと思うの……」
「うむ……」
 今度、明に躊躇の色が、真木の額に現れた。それを見ると予期したことながら、ゆき子は胸の圧せられる心持がした。
 ×町というのは、彼女の生家の別名である。緩くり歩いて、四十分とは掛らない同じ区内にあった。その家に、ゆき子は、普通結婚した娘が、いわゆる実家を懐しがるのとは、また一種趣の異った心の絆を持っていたのである。
 ただ、その庭の面影や部屋部屋の印象が、やや詠歎的に幼年時代、処女時代を思い出させるばかりではない。一度そこを追想すると、ゆき子の胸には、激しく、心も身をも引っくるめてそこで経験した「快適」への渇望が湧上った。
「何処でも得られる心持よさや、親切や、安らかさなどというものではない。何かまるで特殊なもの、あそこにほかないもの、それに触れさえすれば、自分の心は溌剌として、最上の活動を始める、その快よさ」が、磁石のように存在を知らせ、誘いよせるのである。
 この、微妙な心理的の魅力が、両親や弟妹との、断ち難い血縁によるのは明であった。が、ゆき子の場合では、特に母親の感情が、重大な役割を持っていた。
 娘に、殆どデスペレートな愛と希望とをかけている寿賀子は、結婚後も、ゆき子を世間並に良人の手にだけ委ねては置かなかった。彼女が、よく何かにつけて人にも、
「ほんとに、よそのお母さんは羨しいね。どうしてああ安心してしまえるんだろう。私なんかは、到底、嫁に遣ったからって、それなり構わずに安心してなんかはいられないがね。……却って、苦労になるようなものだ……」
と述懐する通り、全く、寿賀子は娘を手離さなければならないことに激しい不安を感じているのだ。
「絶間ない自分の感化や、注意や指導は、もう何といっても、直接には及ぼさなくなる。――それで、ゆき子が真直に、愛すべき発達をなし遂げられるだろうか?」
 従って、彼女が言葉から、素振りから、ゆき子に与える暗示が如何なるものだかは、ほぼ想像し得るものであろう。
 この関係を、他の一面から見ると、そこには明に、真木に対する不信任が認められずにはいない。
 率直にいってしまえば、寿賀子にとって、ゆき子と真木の可愛さなどは、到底比較にもならないものである。ゆき子が、良人として真木を信ずるだけ、どうしても寿賀子にはその男が信頼されない。――真木は、彼女が自らの選択で、ゆき子のために見出してやった「婿」ではなかった。――彼等は自由に互に愛し合い、全く相互の意志だけで結婚したのであった。
 こんな、感情の暗流は、当然真木に、一種の暗い直覚を与えていた。不愉快などという単純な言葉の約束以上の感じが、寿賀子と真木との間には潜在していたのである。
 ゆき子は、決してそれを知らないではなかった。
 が、今、あらわに、不同意の色を示されると、彼女は、それをそのままには肯いかねた。それほど「×町へ行ったらばこそ!」という希望は彼女にとって清新な輝かしいものだったのである。
 ゆき子は、暫く黙って、良人が考をまとめるのを待った。後、
「いけなくって?」
と訊き返した。彼女の声と眼差しとには、何か「いけない」とはいわせない力が籠っている。
 真木は、
「若し貴女が考えて見て、その方がいいと思ったら、勿論そうした方がいいだろう」と云った。
「それで、ここはどうするつもり、矢張り依田君に来て貰う?」
 彼の調子は、クライシスを通り過ぎた平穏さに還って来た。ゆき子も、自ら和らがずにはいられなかった。
「それで好かないでしょうか。どうせ二人行くにしてもそうするつもりだったのですものね。――郵便や何かは、朝×町へ帰る時持って来て貰えばいいわ」
「ふむ――じゃあ、まあ、兎に角そうして御覧。若しそれでうまく行けば結構だ」
「ほんとにそうよ! 何といっても私には生れた処ですものね、きっといい工合だと思うわ、そうお思いにならなくって?」
「そうあるべき筈だね。――」真木は、疑わしそうに云った。「が、とにかく一人で行くと定めていたってしようがないから、一寸×町へ行って都合を伺ってきたらいいだろう――僕は父親へ手紙を書いてしまうから……」
「そう?」ゆき子は、すぐ立ち上って「それじゃあ、すまないけれど、お父うさまに、訳を云ってあげて頂戴ね。そう出来れば、私ほんとに嬉しいわ」
 ゆき子は、いそいそとして×町へ出かけて行った。
 そして、まだ電気の来ない、夕暮のざわめきの通う小部屋で、母に、自分の世話になりたいことと、夜だけ書生に来て貰いたいこととを頼んだ。
 寿賀子は、殆ど予想以上に欣《よろこ》んでそのことに賛成した。
「結構だとも! いつからでもいらっしゃい。――だが、まあよく来る気になったものね」
 彼女は、夕闇の中で、裁ち物を片よせながら、嬉しさから罪のない陽気で、娘を揶揄《からか》った。
「それで……どの位行っているの?」
「大抵十日位でしょう。学校が直き始るから、どうせ長くは行っていられないのよ」
「短くてお仕合せ!」
「いやなおかあさま!」
 二人は声を合せて笑った。
「とにかく――ほんとにおいで。歓迎してあげるよ。久し振りだものねえ……いつだったか、一晩泊って行ったきりだったろう?」
 住居が近所なので、顔を合せる機会はあっても、共に心置きなく寝起する楽しさを久しく取上げられている寿賀子は、気の毒なほど悦んだ。彼女は、思わずゆき子が、溢れ出す愛を感じたほど、暖い心と眼で、迎えてくれたのである。
 ゆき子は、万事が上々吉の喜びで、飛ぶようにして、家へ帰って来た。
「大丈夫! きっとうまく行くことよ。随分かあさまも嬉しがっていらしったわ。有難う、ほんとに。若しうまく行けば、お礼なんか云い足りないわね」

 真木の立ったのは、麗らかな四月の第一日であった。爽やかな白っぽい朝日が、やや取散らした八畳の座敷に微風と共に流れ込んだ。ゆき子は、軽装で沓脱石の上に立った真木に頬を差出しながら、
「行っていらっしゃいまし。どっちもおうち[#「おうち」に傍点]へ帰るのね」
と云って笑った。
 数刻の後、彼女は家を片づけ戸締りをし、極く必要なものだけを小さいスーツ・ケースに入れて、晴々と希望に満ちて×町へ来たのである。

        二

 ×町での歓待は、何だかゆき子に、漠然と極り悪さを感じさせたほど、深甚なものであった。
 七つになる妹のみよ子などは、朝幼稚園に出て行がけに、定って靴を穿きながら、
「ゆきちゃま、今日もいるの?」
と姉に問《たず》ねた。
「ええいることよ、何故?」
 ゆき子は、式台の上で蹲《うずくま》り、笑いながら、妹の小さい肩や手の運動を眺める。
「幼稚園から帰るまで帰らないでいらっしゃる?」
「大丈夫! きっと帰らなくてよ」
「いるのよ! ねえ、ねえ」
となおなお念を押しながら、書生に伴をされ、おかっぱの頭で振り返り振り返り植込みを曲って行く姿は、ゆき子に、訳の分らない涙さえ浮ばせた。
 献立には、特に彼女の好きなものが取入れられた。風呂さえ毎晩、ゆき子のために、火を入れられた。そして、影の形に添うように、母は、飽きない話の無尽蔵で、娘を賑わした。ゆき子はこの時になって、始めて、家中の者が、どれほど自分を愛し、一緒に暮すのを悦んでくれるか思い知ったといっても過言ではないのである。
 彼女は、またもとの自分の部屋である六畳に机を据えた。結婚するまで六七年の間、あらゆる場合の伴侶であった古びた狭い前栽が、また、閑寂な陽春の美に充ち満ちて目の前に還って来た。
 土庇に遮られて柔かい日光を受け、朝夕は、しめった土の匂を感じ、嘗て知ったあの落付と集注とは疑いもなく再び彼女の心に甦って来ると思われたのである。
 昼間は、どうしても、弟や妹や母が、彼女を独りにさせてはおかない。快活な父親を芯にして、まるで咲きこぼれたような夕餐がすむと、ゆき子は、絡みつくような多くの視線から、強いて自分を引離して、書斎に帰って来た。
 そして、すがすがしい夜気の中に燈火をてらし、ひやりと冷たい机の前に坐り、さて、心を鎮めて紙に向う。――が、一夜二夜経つうちに、ゆき子は思いも懸けない新しい事実を発見した。
 それは、この六畳さえも、今はもうただ、静寂な一室、というだけの影響しか、自分の心に持っていないということなのである。
 先、ゆき子は、陽気な食堂や客間からここに引取って、一旦、静に光を吸う茶色の砂壁に囲まれさえすれば、もうそれだけで完全に、集注した心を取戻せた。暗い曲りくねった廊下と、低い襖に画られた一重こちらは、さながら、いつも見えない感激に満ちた霊魂の仕事場であったのである。
 それが、今、ここに坐ると、ゆき子は、極くなみなみの静けさのみを感じた。先ず、ほっとする。そして、机の上に頬杖を突き、濃い庭の闇からぼんやりと浮上っている紫陽花の若芽を見守っているうち、心は仕事に集結するどころか却って模糊として来る。そして、その放心の奥から次第に真木の存在が、はっきり俤《おもかげ》に立って来るのである。
 特別、彼が恋しいのではない。また慕わしさに気もそぞろになるというのでもない。併し、日中は、まるで見えない腕で確かりと抱き竦めたように、直面《ひためん》に、唯、彼女と彼等との交渉ほか意識に休ませない周囲の状況が、自らほんとに独りになると、彼女に良人を思い偲ばせるのであろうか。
 香の煙が立昇り、見えない空気にゆらぐように、「彼」に心が漂い寄ると、暫く、ゆき子は、云い難い親密さと、寂しさとを同時に感じた。
 彼方の黒い植込みからは、チラチラと陽気な燈火が洩れる。「あの、面白そうな笑声! けれども、自分は、ここで、独りで、始めて、感情の全部を恢復し得るのだ。」――全く、家中の者は、悲しいほど、彼女ひとりにたんのう[#「たんのう」に傍点]してくれた。誰も、彼女と共に真木の存在や気分を勘定には入れてくれない。若し、自分が、このまま一生居据ると云っても、恐らく誰一人それを真木のために愕きかなしむ者はなかろうと思うほどの皆の雰囲気が、却てゆき子をしんから悲しくするのである。
 床に就くまで部屋に籠っても、ゆき子は仕事に関して、一行の纏った収穫も得なかった。
 真木から来た絵葉書をまた丁寧に繰返して見なおしたり、思うともなく×県の、倉座敷で、蘭や夾竹桃の生えた家を思い出したり……、彼女の目の前には、何か云って笑いながら頭を振る良人の顔つきが、身動きをすると胸の痛むほど鮮に甦って来る。
 ゆき子は、余り心がさしせまると、そっと雨戸をあけてとめどもなく、月のない庭を歩き廻った。
 大きな青桐のかげ、耳を澄すと微に葉ずれの音のする椿や槇のこんもりした繁み。――雨戸を閉め切った大きな家は、星の燦く空の下で、悲しく眠り傾いたように見えた。
 ――丁度、×町へ来てから五日目の朝であった。
 ゆき子は、珍らしくその日は起き抜けから創作欲の亢奮を覚えていた。前夜、晩くまで読み耽った或る科学者の伝記が、持病になりかけた彼女の感傷を追払った。二三日来とかく頭を曇らしていた陰鬱は去り、朗らかな愛と勇気とが、曇のない朝の光線と共に、爽やかに身内に感じられるのである。
 健康な熟睡から醒め、体を洗い、彼女の肉体の潔らかさと共に魂の貞潔まで感じるような心持がした。息は深く、四肢に人間らしい力が漲り、自分の精神によってこの世に産れ出ようとする愛すべき無形の何ものかに、全心が本能の慕わしさで牽きよせられる気がするのである。
 ゆき子は、早めに朝飯を終り、出勤する父親を見送ると、そのまま自分の部屋に引取った。そして、下見窓から流れ入るほどよい朝かぜにかこまれ机に向うと、彼女は、嬉しさで心がときめきを感ぜずにはいられなかった。
「これでこそ来た甲斐がある!」
 ほんとにこの間じゅうのようでは、来ない方がよかったとさえいえる状態であった、あれほど固執して×町へ来た価値が何処にある。が「今日こそは!」ゆき子は、若い雌馬が勇み立って、その鬣《たてがみ》を振るように、肩と頭とを揺りあげた。そして、改めて坐りなおし、気を鎮め今まで書き溜めた頁を読みかえしているうちに、眼の前には、これから描くべき情景《シーン》が、ありありと見え始めた。
 そこは、日本ではなかった。鮮やかな楡の若葉が、ちらちらと日を漉く草の上に、軽らかな夏著をまとった若い女が、肱をついて長々と臥《ね》ころがっている。傍には、栗鼠《りす》が尾に波うたせながら遊んでいる。静けさ……涼しい風。不意と、人影に驚いて立上る拍子に、きらりと光った金の小金盆《ロケット》や飾帯《サッシ》の揺れを、四辺の透明な初夏の緑色を背景として、目のあたり見るような心持がした。熱した想像の中に自他の境が消えうせる。――彼女は筆を下した。次第に高潮して来る感興を根気よく支えながら、彼女は、一字一字と書き進めて行ったのである。――
 若し、そのまま続いて行ったら、ゆき子は狂喜して、四月五日というその日に感謝を捧げたであろう。けれども、或る処まで行くと、彼女は、突然、我にもない力の喪失を感じ始めた。文字と心とが、次第に鈍い抑揚《めりはり》になって来る。如何に心に鞭を打ち、居住いを正して気を引緊めても、一旦緩んだ亢奮はただもう弛緩するばかりである。ゆき子は、足がかりもない砂山の中途から、ずるずるずるずると不可抗力で谷底までずり落ちるような恐怖に打たれた。捉まろうにも物がない。縋り付く者もいない! 彼女は恐ろしさに堪りかねて、泣きそうになりながらペンを捨ててしまった。
「!……」
 今日まで半年の間、ゆき子はこの恐ろしい失望に面して来たのだ。「精神が稀薄なのか。持ち越す精力が足りないのか? 結婚するまでは、なかったことだ。自分は真木を得ると一緒に、この致命的な悪癖とまで婚姻してしまったのだろうか」特に、その朝は、前触れの気持が素晴らしかっただけ、希望が大きかっただけ、彼女の顛落は堪え難いものであった。
 苦しさに充血したような彼女の眼前には、最も無表情な瞬間の真木の顔が、この上ない煩しさで浮んで、消えた。隣からは、ふざけ散した女の笑声がする――ゆき子は、今にも体がブスッ! と煙を立ててはち切れそうな自暴を感じた。
 瞳には漠然と、昼近い何処やら厨房の匂のする日向の外景を見つめながら、彼女の暗くなった頭のうちでは嵐のように自分の結婚生活に対する疑が渦を巻いた。どの位、時間が過ぎたろう……。
 不意に、背後で襖の開く音がした。ゆき子は、思わずはっとして我に還り、いそいで顔を振向けた。
 彼女は、こんな気分の時、誰の声も聞きたくなかった。若し、妹か女中だったら、何より「後にして頂戴」と云おうとしたのであった。が、短い視線に写ったのは、その中の誰でもなかった。母が、結いたての束髪の頭を下げて、ゆっくりと低い鴨居を潜《くぐ》って来る。――ゆき子は、云い表せない困惑と圧迫とを感じた。彼女は、母が自分の気分に対してどんなに敏感であるかを知り抜いていた。「これほどの陰鬱は到底隠せない。一目で見てとっておしまいなさるだろう」そして。――ゆき子は、振向けたままの顔に、強いて和らぎを添えながら、
「なんなの?」
と云った。
「別になんでもないんだけれどね」寿賀子は、女らしい黒い瞳を動かしてあちこちと部屋の様子を見廻した。
「どう?」
 勿論仕事はどうかと云うのである。ゆき子は、覚えず、声が窒《つま》るような心持がした。
「さあ……」
 彼女は、座布団の上で一廻りし、机に背を向けて母と向い合った。
「お坐りにならない?」
「ああ」
 問をかけて置きながら、寿賀子は、格別確かな返答を求めるらしくもなく、庭を眺めた。
「相変らずここはいいね、静で。――それに、一寸御覧、不思議にあの楓だけは虫がささないじゃないの」
 ゆき子は、窮屈に首を廻して外を見た。なるほど、庭にある大抵の紅葉は鉄砲虫に髄を食われて一年増しに貧弱な枝振りになっている中に、その樹ばかりは、つややかな槇の葉がくれに、さながら、臙脂茶の絹色をかけたような若芽を美しく輝やかせている。しかし、それを眺め愉しむには、彼女の心持は、余りに切迫したものであった。
 正直にいえば、彼女には、母のそこに来た訳が推察し兼ねた。何か用があるなら、それだけを早くすませて、一刻も早く独りになりたい気持が、激しくゆき子をせき立てた。彼女は、母の気を害うのを虞《おそ》れながらも、
「何か御用だったの?」
と反問した。
「用じゃあないがね、どうしているかと思ってさ。――」
 寿賀子は、娘の顔を見た。そして、忽ち娘の焦燥に照返されたように、微に表情を換えながら先に続けた。
「それに、昨夜も寝られないでつい種々考えたんだが、若し、ここにいる方が気分が纏まるようなら、当分いるのもよかろうと思ったのでね。――出来そうかい?」
 ゆき子は、声を出すより先に、自分でも心付くほど陰気な笑顔になった。
「あんまりうまくも行かないわ。――でもね」母の心持を思いやって、ゆき子は強いても張のある声を出そうとした。
「余り心配なさらないで頂戴よ。今によくなるから……あんまり傍で気を揉まれると、却ってまごついてしまうわ」
「それはそうだとも――気なんか揉みはしないがね」
 そう云っても、ゆき子は、母の沈んで行く表情を見逃すことが出来なかった。
「どうせ落付いて一年も経たなければ、仕事なんか到底纏まるまいとは思っていますよ。ゆきちゃんは、私なんかより余程男らしいようでいて、また、しんから、女のところがあるものね」
「それはそうかもしれないわね」
「そうだとも……とにかく、何だね、今のような調子で行ったんじゃあ、一年経とうが二年経とうが、到底仕事なんかはおぼつかないね」
 寿賀子の顔には、急に何ともいわれない自棄的な色が現れた。何が原因となったのかは分らないが、彼女は、これ等の言葉をまるで昨夜一晩じゅう思いつづけていたに違いないような確かさと、冷かさとで云い切ったのである。
 思わず母の顔を見、ゆき子は、胸を貫かれる思いがした。
 今の今まで、彼女は自分ではその怖ろしい想像に怯え抜いていたのではないか。それを、さながら裏書するように、面と向ってしかも母に、こう云われることは堪らなく辛い。恐ろしければ恐ろしいほど、彼女はそれを平然ときき流すことが出来なかった。
「何故そうお思いになるの?」
 ゆき子は、我を忘れて詰るように問い返した。
「だって事実だもの」母は、さも当然だという風に落付いて見えた。
「気持が二半では、どんなことだって出来っこないよ。……全く、お前のように何か遣ろうとする者に、結婚は大問題だね。まるで気分でも何でも違ってしまうんだもの――」
 その悔恨めいた数言を聞くと、ゆき子は、はっきり母の衷心にある気分を知ったような心持がした。
 それと同時に、何処まで行っても抜け切れない暗闇の洞穴に向ったような気がした。底流では話の中心が、もうすっかり異った点に移ってしまったのだ。が、ゆき子は努めて、会話を穏やかに進行させようとした。
「男の人に比べれば、どうしてもそうらしいわね」彼女は考え考え答えた。
「けれども、一方から考えれば、それだけ、結婚は女の人にとって本質的に重要だし、大切な発達の一段になるのじゃあないかしらん――少くとも、私は、自分にとってそうだと思うわ」
「勿論そうさ。よく変って行きさえすればね」
「よく変る、悪く変る、は、各自の態度によるのじゃあないの? それに向って行く――」ゆき子は母の顔を眺めた。
「それはそうだろう。併し、或る人は」寿賀子も、真直に娘の眼を見た。
「自分でだけいいと信じて、実際は間違った方へ行きながら、一向人の云うことなんか耳にもかけないような者があるからね、恐ろしい」
 ゆき子も母の諷刺には感付かずにいられなかった。それと分りながら遠廻しな話を続けるのは一層心苦しい。先刻からの気分の続きで彼女は母との間の見えない薄膜を一突に突破るような激しい気持になった。
「おかあさま、はっきり話そうじゃあないの。――おかあさまは、私が真木と結婚してから、すっかり悪くなったとお思いになるんでしょう?」
「ああ、変ったね」寿賀子は、その激しさを、きっかりと受止めて、殆ど憾みのこもった眼でゆき子を見た。
「第一、考えて御覧な。結婚してから仕事の出来ないことだけを見たって、いいとは云われないじゃあないか」
「こんなことは決して何時までも続くもんじゃなくってよ」ゆき子は、これだけはどんなことがあっても確かだ、と云うように断言した。
「きっと通りすぎることよ。今までの生活とはまるで境遇が異ってしまったんですものね。そうお思いにならなくって? おかあさまだって、結婚なすったばかりの時を考えて御覧遊ばせよ。きっとそうだったに違いないと思うわ」
 彼女の声の調子には、しんから優しい一種の響がこもっていた。が、寿賀子は、まるで侮辱されたように、激越した言葉でそれを否定した。
「私の結婚したてなんか、泣いてばっかりいましたよ。――それにしても、何故お前は、何だというとそう一々弁解したり、説明したりしようとするんだろう! 私ばかり云い伏せようとしたって駄目だよ。現在、仕事は出来そうにないじゃあないか。種々人に訊かれたり厭味を並べられたりしても、凝っと堪えて、いつか出来るかと思って待っているのに――」母は、ふるえて来る声をぐっと堪えた。「境遇だ、境遇のせいだ、と云っているけれど、一体それは、何時どうなるの? 放って置いて、ひとりでにどうにかなるのかえ? お前は境遇境遇と何か一つの動物見たいに云うけれども、境遇といったって、詰り対手じゃあないか? 相手の人格じゃないか」
「――だけれどもね、おかあさま」
 ゆき子は、思わず熱心を面にあらわした。
「私の仕事の出来ないのを、若し、真木の故だとばかり思っていらしったら、大変な間違いよ。勿論、若し、あの人が私の仕事なんかどうでもいい、止めてしまえと思っているんなら、悪いわ。だけれども、そうじゃあないんですもの、あの人だって、随分心配しているんですもの。――また」ゆき子は、涙ぐんだ。「若し、私の仕事なんかどうにでもなれ、と思うような人なら、始めっから結婚なんか、しやしない筈じゃあないの」
「――それは、真木さんは、お前なんかとは比べものにならないよ」
「まあ、どうして?」ゆき子は、愕いて母を見た。
「どうしてって――あの人はお前より、役者が上だよ」
「ごまかしているとおっしゃるの?」
 ゆき子は、たとい相手は母ながらも、必死な力が衝上げて来るのを感じた。
「まさか、それほどではあるまいが、少くとも、お前をすっかり、把握しているのさ」
「お互に影響し合うのは、勿論あたりまえのことじゃあないの?」
「お互なら云うことはないさね。けれども、私の目が間違っているかは知れないが、あのひとは、事実お前を支配しているよ。上手にお前だけを反省させておくね」
「…………」
 ゆき子は、今更ながら母の真木に対する隔意を感じずにはいられなかった。彼女が自分の為を思い、仕事の纏まらないのを心から憂いていてくれることは疑もないのだ。けれども、その気持を言葉に出して云おうとすると、或は、総括した考えとしての筋をたてるとなると、彼女は、先ず真木という名に当って行かずにはいられないのだ。ゆき子は、母の衷心は明に察せられた。然し、真木に無節操な批評が加えられるとなると、ついに我慢がならなかった。彼女は、殆ど本能的な抗弁の衝動に駆られるのである。麗らかな庭の春景色に比べては、余り凄じい暫くの沈黙の後、ゆき子は、辛うじてこれだけを云った。
「おかあさまが、私を愛し、心配して下さるのは、ほんとに有難く思いますわ、ほんとに! だけれども、その気分の反動でだけ、真木を批評しては戴きたくないわ。私も何か云わずにはいられなくなるんですもの。それは、真木は偉大な人格者でもないし、素晴らしい天才でもないけれども、少くとも、自分の愛する者に対しての真心位は持っている人です」
「――お前は、そう思っているのさ」
「――夢中になっているとおっしゃるかもしれないけれども、とにかく、私は、おかあさまよりは真木がどういう人間だか知っていることだけは信じますわ」ゆき子は、心が燃え上るのを感じた。
「おかあさまは、御自分で選んで下さった人のことを、若しこういう場合になったら、そういうふうにおっしゃること?」
 寿賀子は、全く、この言葉に打れたように見えた。
「真木さんのことになると、お前は気違いだよ。どうせ……どうせ」急に声が力なくふるえた。「自分で好きこのんで結婚なんかして、それっきり仕事も出来ないような女なら……どうせ、それだけに生れついているんだから……」
 唇の色が変り、涙が流れ出すのを見ると、ゆき子は、堪らない気持になった。
「おかあさま!」
「いいよ、いいよ、放っておいておくれ」
 寿賀子は娘の手をよけて横を向きながら袂を顔にあてた。
「どうせ……私が親馬鹿で……わたしが、ばかだったんだろうよ!」
 激しい歔欷に見かねてゆき子は母の肩を抱いた。
「ね、おかあさま、聞いて頂戴。おかあさまはね、私が、一生懸命に仕事をする気にもならないで、のんべんだらりと真木にこびり付いているとお思いになるから、そんな風にお思いになるのよ。私だって決して平気じゃあなくってよ。どうにかしてやりたいと思っているんじゃないの」
 ゆき子は、涙がせき上るのを感じた。
「私だって、仕事も出来ずに生きていようとは思わなくってよ。ね。おかあさま、信じて頂戴よ。何か遣れる人間だということを信じて頂戴よ。ね、おかあさまに、絶望されるのは、一番堪らないわ、全く……」
 自分も涙に濡れながら、ゆき子は、そっと湿った後れ毛を母の頬から掻きのけた。

        三

 ××大学から、真木宛の「速達」が廻送されて来たのは、丁度それから間もない午後のことであった。
 亢奮の後の疲労と深い憂愁とで、ゆき子は、ぼんやり畳廊下の柱に凭《もた》れながら、考えに沈んでいた。
 彼方では小さい妹が、首を振り振り力を入れてオルガンを踏みながら、あどけない歌を唱っている。素絹《すずし》のような少女の声と、楽器の単音が、傾いた金緑色の外景とともに、微かな寂寥を漂わせる。
 彼女は、今更のように、複雑な人間の愛を思っていた。
 そこへ、女中が来た。そして思いがけない「速達」が手渡しされたのであった。
 葉書は、始め彼等の家の方へ配達されたのを、隣家の好意で、また×町まで廻されたのだそうだ。何か、新入学生資格詮衡のことに就て、委員である真木が、明朝十時から、是非とも出席を要する会議の通知なのである。
 ゆき子は、その場合、特別な懐しさを感じながら、手にとって、表記の真木潤一という宛名をながめた。それから、また改めて裏を返した。文句は肉筆で書かれているのみならず、「是非とも」の四字には、特に朱で二重圏点さえ打ってある。
 ゆき子は暫く考えた。
「ただ、留守です、ぎりでいいかしらん……」
 彼女の頭には、閃くように、電報を打とうという考がうかんだ。
「若し、帰った方がいいと思えば、便宜の汽車を見出して間に合うように戻るだろう。若し、必要がなかったら――勿論、予定の十日をいて来るだろう……」が、後の場合は、彼女に十が一も無さそうに思われた。
 ゆき子は、やがて葉書を持って母の居間へ行った。彼女は、裁つもりものをしている母の傍で、相談をしいしい電文を作ろうと思ったのである。
 六畳の、平床に花鳥の淡彩をかけた部屋の中は、静に落付いている。母は、懸け鏡に綺麗な耳の辺から髷の辺を照返しながら、ひっそりと地味な絹物をいじっていた。ゆき子は、入って行きながら、
「おかあさま……」
と呼んだ。
 母は、やや沈んだ、併しすっかり平静に戻った顔を振向けた。
「なあに?」
「あのね、今、こんなものが来たのよ」拡がった布をよけて、傍に坐りながら、ゆき子は葉書を見せた。「云ってやらなければいけないわね。どう?」
「そうさね、何か、相当な用らしいね」
「ただ、いませんだけでは済まないわね? 私電報を打とうかと思うの? その方がいいでしょう?」
「何て?」母は、再び布地に物指しをあて始めた。
「何てって……」ゆき子は、母の無感興を感じ、困った気持になった。
「こうこう云って来たが、帰るかって訊いてやるんじゃあないの?」
「――いいだろう……」
「じゃあそうするわね。……何て書いたら好いかしらん」
 ゆき子は、針箱の傍に頼信紙を展べ、その上に窮屈そうに屈みながら、頻りに指を折って、要領のよい電文を拵えようとした。けれども、彼女の心を冷したことは、母が一向親身になって、相談に乗ってくれないことである。ゆき子が、一生懸命に、
「ね、おかあさま、これですっかり意味が通じるでしょうか?」
と問ねても、「もっと好い云い方を教えて下さらない?」と頼んでも、彼女は、糸じるしをつけながら、ただ義務的に、「そうだね」とか、「さあ……」とか呟くばかりなのである。そればかりか、余り幾度も、娘が同じ文句を繰返し繰返し考えているのを見ると、彼女は殆ど怒ったような調子でつぶやいた。
「子供にやるんじゃあなし、いい加減で好いじゃあないか。そうそう甘やかしてどうするつもりなんだろう!」
 ゆき子は、母の不快に圧せられた。彼女は、云いようない淋しい気持がしたけれども、この上再び、不愉快な亢奮を醸すことを危ぶんだ。ゆき子は、言葉少く電文を纏め書生に頼んで、最寄りの局から返信付で、×県の真木に送ったのであった。
 寿賀子の不機嫌は、決してそれ限りで消えたのではなかった。
 父が帰宅し、風呂がすみ、夕飯が始って皆が卓子に就くと間もなく、寿賀子は、誰に云うともなく、正面の席から、
「明日の朝、真木さんが帰って来るんですってさ」
と云った。言葉は、何でもない。が、そのうちには、今まで、賑やかにわやわやしていた口々の雑談を、ぴったり沈黙させるような一種の調子が籠っていた。
 父の隣席に坐り、箸を採っていたゆき子は、思わず胸が強るような刺戟を感じた。彼女は見えない力に押されて、
「まだわかりゃあしないのよ!」
と、力強く否定した。
「どうしたんだね」
 傍から、父が穏やかに振返った。
 ゆき子は、沈んだ短い言葉で、午後「速達」の来たことや真木に電報を打ったこと等を説明した。が、彼方側から、凝っと自分を見守っている小さい者たちの瞳が、云い難い苦しさを与えた。彼等は、母の語調から、何かただならぬ気勢《けはい》を感じたのだ。そして驚きと知りたさとで、箸を持っている手を止め、眼を瞠《みは》って、姉の素振りに注目しているのである。
「そうか、必要なら帰って来るだろう、まあいいさ」
 訳が分ると、父は淡白に葡萄酒の杯を挙げた。けれども、弟妹、とくにみよ子は、決してそうさっぱりとはすませてくれなかった。
 姉の云うことに耳を欹《そばだ》てていた彼女は、やがて母と姉とを等分に見ながら、疑しそうに、
「ゆきちゃま、帰るの?」
と質問した。そして、傍から、ゆき子が何と云う間もなく、
「ああ、お帰りになるのよ」
と母の返答を受けると、いきなり貫くような大声で、
「ゆきちゃま帰っちゃいやあ」と叫んだ。そして、箸も何も持ったまま姉の傍に馳けつけて、半分体を凭《よ》りかからせながら、手をぐいぐい引張って、「帰らないのよう、よ、ゆきちゃま帰らないのよ」と、強請み始めた。
 半分、母の顔色を眺めているような妹の態度から、ゆき子は、純粋に、その引止めを嬉しく感じ得なかった。彼女は、力のある小さい手を押えながら、
「静にするのよ、静にして頂戴」
と云った。
「まだ分らないんだから、そんなに騒がないのね、いい子だから。――帰ったって、いいじゃあないの、またみよちゃんが来れば『今日は』って――」
 ゆき子は強いて笑顔になった。
「そうだそうだ、兄さんと行って、沢山御馳走をしてお貰い。それにしても、御飯を食べない子なんかは厭だとおっしゃるぞ」
 父も傍から、面白半分にゆき子を助けた。稍々陰気になった一座の気分は、それやこれやで、何時とはなく転換された。
 偶然か、或は意識してか、平常よりは一層気軽な父と、釣込まれた妹との懸け合いで、とにかく晩餐は、笑のうちに終ったのである。
 併し、ゆき子は、その時ばかりは×町へ来て始めて味のない食事をした。
 団欒のうちを、そっと部屋に引取って来ると、彼女は泣き出したいほど△町の家の恋しさに攻められた。うるさいと思ったり、つまらないと感じたりした自分達二人きりの家、その家の日々の暮しが、まるで、魂を吸い取るように懐かしく思い出されて来たのである。
 あれほど希望に燃え、意気込んで来たことを思えば×町での万事は失敗だと云える気がした。
 第一、仕事は相変らずちっとも出来ない、より深い憂鬱を感じる。――母と、感情の縺《もつ》れを起したことだけでも、全く予期には反していた。母も、勿論そうしようとは思わなかっただろう。自分とても、意企して惹起したことではない。けれども事実は、被い隠せない。真木が、彼の表情のかげに漠然と漂わせた危惧がすっかりそのまま、象《かたち》を具えて現れたと云っても好いのである。
 然しゆき子は、自分の計画が失敗したことを、些も良人の前に自尊心を傷けられることとして、愧《はじ》る気にはなれなかった。意地を張って、何とか、彼とかよかった点を見付け出して説明しようとする気もなかった。しんから折れて、自分の心が安らかに棲むべき処は、矢張り「私共の家」ほかなかったことを、承認せずにはいられない心持がするのである。
 自分が頑張って良人に譲歩をさせたことが、ゆき子には、今になって苦しいような心持がした。
 自分達の、慎ましい簡素な日常を、更に新しい愛で思い返すと、女らしい献身《デボーション》がゆき子の渾心を熱くした。つぶった眼の奥では、ありありと、何故か冬の夜らしく閉め切った八畳の部屋が浮上った。明るい燈火、こもった空気の暖かさ。そこに、机に肱をかけてこちらを向いている良人と向い合って、何か云い云い笑っている自分の姿が、あらゆる楽しさを聚めたように、輝く卵色の一点に、小さくはっきりと見えるのである。
「…………」
 ゆき子は、身ぶるいを感じた。ほんとに、良人の帰るのが待たれた。これほど、△町での生活をいとしく思ったことは今までただの一度でもあっただろうか。
 翌朝、ゆき子は、例にない時刻に床を離れた。
 そして、真先に顔を合わせた者に、
「電報は来なかって?」
と訊いた。が、返事は失望であった。
 顔を洗いながらも、あまり早くて自分の一人の食堂で新聞を拡げても、ゆき子には、そればかりが気にかかった。
 若し、出席の必要なし、とでも云って来たらどうだろう! 昨夜から、真剣に良人の帰京を待ち侘びるゆき子は、思っただけでも慄《ぞ》っとした。
 廊下に通じる扉が開く度に、ゆき子は恥しいほど、はっとして、何をしていても、素早く頭を持上げた。ただ、待っているのは猶辛いので、おちおち味も分らず、とにかく、皆と、朝の紅茶を啜っていると、いきなり、書生がひどい音をさせて、入って来た。手には、電報らしいものがある。
「来たの?」
 彼女は、手を延してそれを受取ると、
「有難う」
と云う間もあらせず封を切った。おきまりの読み難い片仮名ながら、はっきりと、
「アスアサ九ジツク」
と書いてある。――
 ゆき子は、我知らず次第に微笑み赧くなりながら、激しい鼓動と共に、深い溜息をついた。

「ね、おかあさま」
 やがてゆき子は、強いて溢れ出るうれしさを抑えつけた明るい顔で、母に振向いた。一夜過ぎた今朝、彼女は信じられないほど、「よい母」になっていた。まるで、反動のように優しく落付いて、同時に、
「さあ、大変! 旦那様のお帰りだ」
とゆき子を揶揄《からか》ったほどの快活さまで取返していたのである。
 母の好機嫌で、一層の歓びを感じながら、ゆき子は問ねた。
「おかあさま、真木が真直にこちらへ来るとお思いになって? それとも△町へ行くでしょうか?」
「分らないね。――電車の都合は△町のほうがいいんだろう?」
「それはそうよ。だけれどもあのひとは鍵を持っていないんだから、若し、あちらへ行ったら入れないわ」
「馬鹿な人!」母は笑った。「それなら、一旦こちらへ来てから、△町へ帰るに定まってるじゃあないか、確かりおしよ!」
 ゆき子も、おかしそうに笑った。
「でも、若しか、私が帰って行っていると思いやしなくって?」
「そう思うなら、お帰りな。――いずれ、××大学の方が済むのは、二時か三時頃なんだろうからそれまでに、ゆっくりあわてずにきめたらいいじゃあないか、――どれ」
 母は時計を見て立上った。
「もう直き先生がいらっしゃるから、一寸習っておかなければ……」
 彼女の習字の先生が、その日は十時から来ることになっていたのである。
「二階へ来るかい?」
「さあ……」ゆき子は、ぼんやりと母について立上った。
「どっちみち、お昼をすまして行くだろう?」
「――分らないわ私」
 昼を済して行ったらと云われると、ゆき子は、急に、真木の会議が十二時頃までに仕舞いそうに思われて来た。
 若し、正午に終るとすれば、確に荷物を停車場へ一時預けにしている彼は、それを取って、一番順路である△町へ来るだろう。一時過だし、電報は打ってあることだと思って戻った彼が、自分の家の前で立往生するのを想うと、ゆき子は放っておけない心持がした。どうしたらいいだろう? 考えながら、ゆき子は階子口に立ったまま、見るともなく、重そうに階子を昇って行く母の後姿を下から眺めた。段々上り切って、角を廻って見えなくなりかけると、彼女はあわてて、
「おかあさま」
と大きな声で呼んだ。彼女は、帰ろうと、とっさに思ったのであった。が、
「なんだえ」
と云って母の顔が覗くと、彼女は、また言葉につまった。そして、間の悪い、ぼんやりした笑顔を仰向けて、首を振り振り何でもないという合図をした。
 そこに、ゆき子は、やや暫く、頭に指を組合わせた両手を載せたまま突立っていた。それから、母の居間に行って鏡を見ながら、潰れた髪の工合をなおすと、また食堂に戻って行った。廊下へ出、客間へ行き……ゆき子は、幾度、家中をぐるぐる廻っただろう!
 十一時になると、到頭、彼女は我慢が出来なくなってしまった。二階には、もう先生が見えたらしい。
 彼女は、思い切って女中に俥を呼ぶことを頼んだ。そして大いそぎで、散かった物をまとめ、着物を換え、愕き笑っている女中に、母への伝言を託すと、飛び出すように×町の門を出た。
 俥は不思議なほど、のろく思われる。人通りの少ない屋敷町の垣根から差し出た白木蓮の梢や新芽を吹いた樫の下枝が、天気のよい碧空の下で、これはまた美しく燦めいて眺められる。――

        四

 ゆき子は、まるで嬉しさで輝き透き徹る歓びの玉のようになって、今にも現れる良人を待っていた。小さい家は、すっかり開け放され、到る所の隅々に踊る日光が迎え入れられた。彼女は、久し振りに自分の手で触られ、忽ち活々した弾力と愛らしさとを恢復したように見える部屋部屋に、それぞれ綺麗な花を飾りつけた。庭を掃き、水を撒き。小さい虹を抱いて転げ落ちる檜葉の露を見つめながら、ゆき子は、いつか、激しい緊張の合間合間に来る、奇妙な放心に捕えられていた。――
 ところへ、思いもかけず格子の開く音がした。ゆき子は、今まで自分が待っていたのを忘れたように、はっとした。身の竦まる思いがした。と、同時に素早く体を翻して、足音も立てずに玄関まで駆けつけた。彼女は、胸をどきどきさせ、笑い、口を開き、今にもそこが開いたら、跳びかかろうとする小猫のように、障子の際に蹲ったのである。
 たたきの上で、向を換える音がする。――狭い式台の上に、何かおいた気勢がする。――ゆき子は、心臓が飛び出しそうな気持がした。そして、一層体を引緊めた途端。前の障子は、いかにも曲のない、
「只今」
と云う声と一緒にさらりと引開けられた。息を窒め、覚えず膝をついて立上ったゆき子は、良人の眼を一目見ると、あらゆる歓びのくず折れる思いがした。
 真木は、彼女の方にちらりと物懶《ものう》い一瞥を投げたぎり、差し延した両手に注意する気振りもない。日にやけ、汗じみ、面倒くさそうに帽子をかなぐり脱ぐと、彼は、
「ああ、あ。――只今」
と、どっかり式台に背を向けてしまったのである。
「――」瞬間、激しく胸にこみ上げて来た悲しさを堪えると、やがてゆき子は、涙と一緒に大声で自分を嘲笑したいような気分になった。
「昨夜から、あんなにも待ち、あんなにも思い焦れていたのは、こんなものだったのか?」
 薔薇色の愛らしい世界は、しおらしく有頂天だった彼女を包んで、嘘より淡く消えてしまった。
 苦々しい失望と詰らなさとが、これほどの感動を認めるだけの情緒すら持ち合わせないらしい真木に対して、激しい勢で湧上って来たのである。――が、ゆき子は辛うじて自制した。
 長い旅行をし、汽車が混んで或いは昨夜一睡もしなかったかも知れない彼に、第一そんな気分を持てると思ったのが間違いであったのだ。――
 彼女は、やっと静かな声で、
「お帰り遊ばせ、どうだって?」
と云った。先刻までの気持に比べれば、何という光彩のない挨拶だろう。暗い、激しい視線が、とかくちらちらと後を向いた良人の頭や肩に注がれるのを、ゆき子は強いて紛らした。
「今朝は間にお合いになったんでしょう?」
「ああ有難う、間に合った。……併し、何しろくたびれた」
 靴を脱ぎ終ると、彼は外套をとりとり、大股に玄関の間を通り過た。
「久し振りに乗ると、全く電車はひどいね。参ってしまった。××から立ち通しさ」
「――まあ、そんな?」真木の無感興な原因が推察され、ゆき子は幾分心の和らぐのを感じた。
「余程前から帰っていたの?」
「いいえつい先刻《さっき》。――×町の方へいらっしゃるかと思ったんだけれど……。帰って来てよかったわ。――急にお帰りで皆さんがお驚になったでしょう?」
「ああ、何にしろ思いがけなかったからね、併し」
 真木は、窮屈そうに白襯衣《ホワイトシャツ》を脱いだ。
「行って見れば、それほど大したことでもなかったんだね」
「何が?」
「××の用事さ」
「まあ! じゃあ、お帰りにならずとよかったの?」
 ゆき子は、思わず良人を見た。
「そんなことはないさ。いつまでいたって同じ所だもの。却って思い切りよく立ててよかった。それに今度は、山岸の伯母さんが死んだんで、温泉どころではなかったしね」
 着物を着換え、髪にブラッシをかけ、先ずゆっくりと、胡坐《あぐら》をかいた彼と向い合うと、流石にゆき子は、心の安まるのを感じた。茶を入れ、×県名物の菓子を摘みながら、真木は、いろいろ、旅の亢奮の抜け切らない口調で、あちらの様子を話した。
「皆が、奥さんは何故来なさらんかって訊くんで、一々説明に困ってしまった。まさか、来たくないそうです、とも云えないしね」彼は笑った。そして、久し振りの座敷を懐しむように、あちこちと目を遣った。
「ところで――×町は、どうだったね。うまく行きましたか?」
 ゆき子は、良人の眼の下で、曖昧に、
「それほどでもなかったわ」
と云って苦笑した。
 これが若し、先刻までの心持だったら、彼女はきっと一言の下に頭を振って、
「駄目よ!」
と否定しつくしたであろう。そして、
「ほんとに、うち[#「うち」に傍点]はうち[#「うち」に傍点]だわね」
と、感歎したに違いないのである。が、今、彼女は、世辞にもそういう自由な表現は出来なかった。持っていた感情の強さや激しさは皆心の奥深く沈み込んで、良人が受け得る程度の上澄みが、僅に注ぎ出されるのである。
「それはいけなかったね」
 真木は、ゆき子を見、言葉を続けて、何か云いそうにした。が、それを控えて、
「手紙や何かは、皆持って来てくれたでしょうね。じゃあ、これは後のことにしてと、どれ」
 彼は立ち上った。
「荷物の始末でもしてしまおう。どうせいつまでも放っておくわけには行かないから」
 もう一休みは済んだと云う風に、真木は早速、鞄や箱を、縁側に持ち出した。
「はいこれも。――その襟巻はもういらないんだから、樟脳でも入れて仕舞ってしまう方がいいね。あっちでも使わなかったよ」
 後から後から出るものをそれぞれ平常の在場所に戻したり、洗濯物を分けたり、ゆき子は暫く遽しい時を過した。
 こういう時、持前の忠実《まめ》や細心を現して、先から先へと事を運んで行くのは、いつも真木の癖なのである。
 そうとは知りながら、ゆき子は如何にも詰らない気持がした。五日も会わずにいたのに、何の纏まった話もなく、一息つくと、せかせかとあっちこっちへ動き始める。――まるで、二人のためにどうするではなく、「家」のために、月並な良人と妻との役割を満そうとしているような物足りなさが感じられるのである。
 彼に手伝い、相当な受け答えはしながら、ゆき子は、心だけが傍へ出て、淋しく凝っと自分等を見守っているような心持がした。
 差し向いの夕飯後、彼等は散歩がてら、小さい土産物を持って、×町へ行った。そして、十一時頃、低く寝鎮った街なかを、睦しそうに肩を並べて帰って来た。

 併し。――
 翌日、遅めな朝飯が済むと、日向で新聞を見ている真木に、ゆき子は、
「今日はおいそがしいの?」
と訊ねた。
「僕? そんなにいそがしいことはない――何故?」
「じゃあ緩《ゆっ》くり話していらっしゃれて?」
「さあ……」真木は、がさがさと大きな新聞を畳みなおした。
「緩くり話すって――もうそんなに休もないからね、今日は一つ×県へ礼を出したり、あっちこっちの返事や何かを書かなくちゃあ……」
「――家にはいらっしゃって?」
「いますとも! 用がなかったらこっちに来ていればいい」
 真木は、やがて、明るく日の差し込む机の前に坐を構えて、徐ろに紙や封筒を揃え始めた。それを見て、ゆき子も立ち上った。そして裏合わせになっている自分の部屋に入って、静かに境の襖を閉めた。そこは、北向の三畳間であった。表座敷のように陽気な庭や、晴々した遠くの眺望は欠けている。けれども、広い硝子窓越しに、低い常盤木の植込みを透して何時も変らぬ穏やかな光線が、空から直に流れ入っているのである。
 窓際に立ち、結婚の時友達から贈られた象牙柄の手鏡を取って、暫く自分の顔を眺めた後、ゆき子は、新刊の雑誌を読み始めた。
 その号には、彼女が、常々敬意を抱いている或る女流作家の創作が載せられていた。それを読もうとして、わざわざ、昨夜、書店から買って来たのであった。
 けれども、読みかけているうちに、彼女の注意はとかく散漫になった、書かれていることが詰らないのではない。周囲が喧しいのではない。併し、自分の中が、余りに騒々しいのだ。昨日《きのう》からの妙に拗《こ》じれた気分は、今朝になっても消えなかった。彼女は、一夜持ち越しただけ、あらゆる意味で、より悪性になった苦々しさ漠然とした憤懣を、やっと不自然な沈黙のうちに湛えていたのである。
 昨日は、激しい感情の反動に乗って、一途に良人が攻められた。けれども、今となると、そう一向には行かなかった。彼が、先ず第一に無愛想であったことも、成心があってなされたことでないのは解っている。若し、また後からせかせかしたことを非難するなら、詰り彼の、マター・オブ・ファクトな性格を持ち出さなければならないだろう。
 彼が、満足し、安定を感じているとしても、普通の意味からいえば、充分そうあるべき生活の条件が揃っている。――ただ、自分の満たされない心が苦しいのだ。それが、墨を吐く。若し、真木の偶然の素振りが、それほど自分の胸を痛めたのなら、もっと自分は寛大にならなければいけないのではないか? 若し、性格によるものなら――誰が彼を愛し、選んだのだ。ゆき子は、無益な衝突は避けたく思った。が、それには、こんなに黙りひっそりとした状態が長く続くことは危なかった。
 ほんとに心が愉しく愛に満ちている時は、どんなに自分が活々とし、快活であるかを知っているゆき子は、このような状態の底に何が潜んでいるか、はっきり知り、恐れたのである。けれども、それが捌《さば》ける適当な機会は与えられもせず、見付かりもしなかった。長い間懸りながら、彼女はほんの僅かしか読み進めず、当もない考のうちに戸惑っていたのである。
 順繰りに遅れた昼餐が終ったのは、殆ど三時近かった。
 真木は、彼女の何か様子が異っているのに心付いて、頻りに種々質問した。
「どうしたの一体。――こっちに来たらいいじゃあないか、何にもしていないのなら。チーアアップ、チーアアップ!」
 ゆき子は、それでもと、自分の部屋に引籠るほど依怙地《いこじ》になれなかった。
 彼女は、良人の机の傍に坐った。そして、まだ箒目の新しい庭を眺め、遠くには手摺りに日を吸って小布団などの乾された二階家を木間隠れに望みながら、また、雑誌の続きを読み始めた。
 それは、昨今の著しい社会的現象である住宅難を背景として、それに人間が、善い心はよいなりに、悪い心は邪悪ななりに、どんな交渉を持つかということ。一つの家が、精神と肉体との棲家として考えられた場合、または、悪辣な利慾の的とされた場合、決して単純に、木と石と泥とで組立てられた「家」だけの影響には終らないという意味等を、教養のある落付いた筆致で描かれたものなのである。
 前よりは増した感興で読み続けて行くうちに、ゆき子は種々な感に打れた。或る処では、物の観かたの非常な類似に、或る場所では、描写の美しさに。また、或る箇所では、今の自分の気分で見ると、余り順序よく、一種の型の「正しさ」に落付き納ったと感じずにはいられない点などで。不意不意と、彼女はその感想を洩したくなった。言葉にすれば、僅か十言か二十言がせいぜいであったろう。けれども、ゆき子が、ひょいと気に乗って、
「ね、貴方」
とか、
「まあ! 一寸」
とか云って首を擡げると、そこには何時も、彼方を向いて何かに熱中している良人の横顔ばかりがある。
 長い間持ち越した集注ばかりでなく、彼女が、何とか一言云い懸けると同時に、さっと、邪魔されたくないと無言で示す、より緊張した表情が漲るのである。――
 次第に、ゆき子の心持は、来なかったより悪いような有様になって来た。事は違っても、昨日と同じような種類の刺戟で、彼女の胸には、今までの蟠《わだかま》りが一時に甦って来たのである。この意識が起りかけた時、ゆき子は丁度、その小説の、最後の一齣にかかっていた。そして、主人公が妻に「お前は、あの男が薄馬鹿なのか猜いのかよく分らないと云っていたから教えてあげよう。彼奴は、しんから狡猾な男らしいよ」という短い文句を、家主に関して書き送った所を読むと、ゆき子の胸には、突然、何とも云えない羨しさが湧上って来た。上手とか下手とか、批評する余地などはない。その夫婦の間に、見えず、聞えず保たれている精神的な諧調、一つが何かを感じれば、また他の一つも、同じ興味、一つになった自然さでそれに相呼応して行く自由な朗らかさを、ゆき子はさながら餓えた犬のように羨しく眺めたのである。
「勿論、御飯を今にする、否、後にするという位のことなら云うことはない。また、理論的に、あれはこうあるべき[#「あるべき」に傍点]ことだ。あり得べからざる[#「得べからざる」に傍点]ことだ。という風に押しつめて行っても一致はするだろう。けれどもこのように、気持そのもので楽に何処までも交響して行くようなことが、果して我々にあるだろうか?」現在、自分はその点でつきない不満を感じているのではないだろうか。――
 やや暫の沈黙の後、ゆき子は、はっきりとした声で、
「貴方」
と真木を喚《よ》びかけた。彼女の調子のうちには、どうでもよい場合の、当然な暢やかさがなかった。真木は振返った。
「何?……」
「話しましょうよ」
 真直に彼を見ている彼女の眼を眺め、真木は、「何だ」と云うように、また紙に向った。
「話したらいいだろう。いくらでも、こうやっていて聞えるから」
「それじゃあ話した気なんかしないじゃあありませんの」
 ゆき子は、始めはとろとろと堤に滲み出した河水が、だんだんと不可抗の力で量と速力を増して来るような気持になった。
「――何の用なの?」
「用じゃあないけど……昨日から私達は碌にほんとの話をしないじゃあないの?」
「そう改ってしようたって出来るもんじゃあない。機勢《はずみ》が来なければ――。併し」
 真木は、真正面にゆき子を見、戯談でない声で云った。
「用がないなら静にしていてくれない? 僕は、休中に遣ってしまいたいものが沢山あるんだから、ね。平常は、忙しくて暇のないのは、貴女も知っているだろう……」
 全く、真木が、専門に関して書類を纏めているのは事実であった。勿論ゆき子は、それを知っていた。けれども、今の場合、彼女には、その「専門」の権威で圧せられるのは辛棒が出来なかった。彼女の衷心には、殆ど意識の陰で、自分の仕事を顧みさせられる不快がある。ゆき子は、ぐっと心が意地悪くなるのを感じた。
「用がなけりゃあ話もされなくてはおしまいね!」
 彼女は、毒針と知りつつそれを虫に刺し込むような残酷さでちらりと良人の方を見た。
「……どうしたのだ。そんな調子でものを云うものではない」
「だってそうじゃあないの。分り切った用事のことほか、話す気もないようじゃあ、おしまいじゃあないの?」
 仕事に戻ろう戻ろうとして、隙を見てはペンを取り上げていた真木は、この言葉を聞くと、からりと机の上に万年筆を投げ出した。ゆき子は、思わず、はっとした。恐しさに堪えないような気持がした。と同時に、必死な、何とでも闘おうとする猛々しさがこみあげて来るのを感じた。彼女は、到頭、避けよう、避けようとしていた衝突に、我から胸を突当ててしまったのである。
 真木は、正面に、ゆき子と向い合った。そして、
「ゆき子」彼は強いて穏な言勢を執った。「何が不満なの? 議論することがあるなら、ちゃんと、順序を立ててしよう。矢鱈に亢奮したって分らないからね」
「――貴方は、私が何か云い出すと、直ぐ、先ず、亢奮するな、とおっしゃるのね。第一、そう定めてかかっては戴きたくないわ」ゆき子は哀れなほど激しい眼で良人を見た。
「私はね、貴方が、私の不満を御自分で感じて下さらないことが、不満なのよ」
「僕には、何にも不満はない」
「そう! あるべき筈ではない、と定めていらっしゃるのね」
「そうじゃあないか? お互に健康で、段々生活が確立して、仕事が纏まって来れば、これほど感謝すべきことはない」
「どういうのを、生活の確立したものだとお思いになるの?」
「それは」
 ゆき子は、焦立たしげに遮った。
「私はね、生活の確立したものを、世間並に、小金でも蓄めて、いい旦那さん奥さんになったのを云いはしませんのよ。また、そういう確立を得るために、話す間も専門をする間も無いような生活をしたくはありません。――勿論、そんなのがいいって云わないとおっしゃるには極っているわ。――だけれど……」
 真木は、幾度も、
「どうしたの? ゆき子」、「どうしたのだ」と云って、話を軌道に戻そうとした。けれども、ゆき子は、がむしゃらに頭からぐんぐん、ぐんぐん激情の誘うがままの所まで突進んでしまった。
「貴方は、ほんとに深く、完全に私を愛してやっていると自信していらっしゃるでしょう? だから……だから……私の感じる不満や、苦しみは、皆、私ひとりの我儘だの子供らしさだのに片づけておしまいになる。――どうしたらいいの? 段々、段々心が殺されて――どうなるの? 誰に云ったらいいの? 貴方にほか持って行きようがないのに……」
 ゆき子は、丸く握りしめた両手で口を抑えながら、声を挙げて泣き出した。――

 彼等の間に、こういう衝突、或は激浪の起ったのは、決して始めてではなかった。
 原因は、事としては極めて些細なことが多かった。けれども、終は、いつもゆき子の気も狂うような慟哭になる。彼女は、勿論自分が激越し、正当な言葉や思考力を混乱させるのは知っていた。けれども、真木が、何と云っても、どう云っても感じない或る一点、そして、彼女はそこを明にしたいばかりに云っている、或る一点に揉み合うと、彼女は泣くほか感情の遣り場がなくなった。これが、自分の唯一人愛している者なのか、という、歯痒《はが》ゆさ、焦立たしさにゆき子は全く自制を失ってしまうのである。
 彼等の結婚が、彼等自らの意志で行われたものだけに、斯様な場合の苦しさは、云い難い。ゆき子は、屡々全くの絶望に近づいた。今日も、×町で母と自分との間に交された会話の記憶が、一層彼女を狂暴にさせたのである。単純に絶望させられ、やがて絶交されるものなら、雑作なく解決はつくだろう。併し、ゆき子に真木を見棄てることは、恐らく、自分の眼を抉ることとともに不可能であった。どれほど望を失ったように見え、しんから自分の孤独を感じても、尚、深い切れない絆が彼と自分との間に結ばれていることは明かなのである。
 暫くの間泣きしきったゆき子は、やがて彼女の泣きようの余り激しさに愕き不安になり同時に真剣になった良人の言葉や愛撫に、段々心を鎮められた。泣き尽してぼんやりとした頭を良人の腕に凭せかけ、うっとりと熱心な言葉に耳を傾けているうちに、何時かまた甦った愛の誓が、彼女の胸を安める。
 最初自分の云おうとしたこと、彼に要求して、どうにかして貰おうと思った点などは、元のまま、変更もされずに遺されてしまったことは分っていた。が、とにかく、蟠っていた熱情を激しい爆発で燃え上らせ、やがて優しく鎮められることは、殆ど神経的に快い救済であった。
 ゆき子は顔を洗い、痛々しく張れ上った瞼の上に薄すりと白粉をつけ、柱に靠《もた》れて外を眺めていた。
 もう夕暮に近かった。四辺はほんのりと靄に包まれ、未だ暮れ切らない遠くの木の間に、チラチラと光輝のない街燈が瞬き出したのが見える。時々電車がベルを鳴し、疾風のようにどよめきの中を突駛《つっぱし》った。戸外がざわめき、遽しいために、家中は特にひっそり夕闇深く感ぜられる一刻である。
 彼女の眠たげな心の前には、不図、つい一月ほど前の或る夕の光景が浮み上って来た。ゆき子は、ぼんやり、
「……暖くなったこと」
と思ったのだ。それにつれて、こうしていると手足の先がしんまで冷たくなった先月の或る日が思い出されて来たのである。
 何でも多分土曜日であった。
 午後から睦しく一緒に何か読んだり書いたりしていた彼等は、ゆき子が何心なく指摘した真木の誤字のことから、段々|逸《そ》れて、矢張り今日のような結末に陥った。その時は、疑もなく、真木が彼女の真意を曲解したという点があったので、ゆき子は和解後も、心の確執を消しかねていた。
 丁度、×町に行く約束があったので、連立っては出かけはしても、彼等は何処となくよそよそしい所があるように、各自、離れ離れな会話の中心に入っていた。
 ところが、もう帰ろうとする間際になって、母が風呂に入って暖まって行ったらどうかと云い出した。夕飯前父が入ったきり、誰も入りてがないから、綺麗だし熱いだろうというのである。
「私は面倒だから、またこの次にさせて戴くわ。――貴方はどうなさるの?」
 ゆき子は、真木に訊いた。
「――さあ、どっちでもいいが……」
「じゃあ入って来給え。ゆき子は三十分でも長くいられる方がいいんだろう」
 父が笑いながら勧めた。
「そうしましょう……じゃあ一寸失礼」
 ゆき子は、いつものように後に蹤《つ》いても行かなければ、「手拭がお分りになって?」と訊きもしなかった。立って行く真木の後姿をちらりと眺めたきり、また、母と、話の続きをしていた。妹の幼稚園を何処にしたら好いかというようなことに就てであったろう。喋っていると、十分も経たないうちに、不意と入口の扉が開いた。そして、真木が笑いながら、顔を出した。誰かと思って、ひょいとそちらを見ると、ゆき子は自分の顔色が変るのが分るような心持がした。何か真木に異常のあったことが直覚されたのだ。
「まあ、どうなすったの? 気分が悪くおなりになったの?」
 ゆき子は我知らず立上りながら彼の傍によった。傍で両親達は、怪訝《けげん》な顔で眺めている。
「どうなすったの?」
「大丈夫、大丈夫、どうもしやしない。――ただ、お湯が少し冷たすぎて」
「何? 湯がぬるかった? それは、いかん。風を引かないかな?」
「大丈夫ですとも。――中で散々暴れて来ましたから」
 熱いものを飲まなければいけないとか何とか一頻りごたごたして、彼等が×町を出たのは、もうかれこれ十二時過ていた。電車も止った深夜の大通りを、さっさと早足で歩きながら、ゆき子は、新たな驚を自分の心に感じた。
「部屋にはあれだけ人がいたのに、先ず真先に、真木に何か異ったことのあるのに気付いたのは、この自分であった」――そこには無限の意味がある。彼女は、あれほど不愉快な思をし、あれほどはっきり「構やしない」と思っておりながらも、いざという時には真先に注意が及ぼすほど、内心に深く広く行き亙った自分の愛に、感激したのであった。――
 ゆき子の狭めた眼の前には、ありありと、紺色のコートに纏り、真木と歩調を合わせて歩いて来る自分の姿が見えた。遠くまで真直、なだらかな蒲鉾なりに延びた深夜の大通り。青や赤や黄色にキラキラキラキラ瞬いている色々な街の燈火が、柔らかく黒い夜の幕に、まるで彩った大きい頸飾のように連なって見えた様子。彼女は、亢奮して見上げた空に深々と星が輝いていたことから、白い雲が一ながれ、西風に吹かれていたのまで思い起した。
 周囲の情景は、如何にも印象深く甦って来る。――けれども、ゆき子は、思い起すと腑に落ちない気分がして来た。
「真木が間違っていると信じ、それを明にしようとして争った自分が、自分の愛の深さを知ったからといって……」
 何だか、彼の誤解なら誤解をその感激で許したというのではなく、一時の気分で紛れ忘れて、また、一切かまわず絡み付いて行ったような心持がした。
「それ故何かの機勢でまた不意とそれに気が付くと、同じ瞬間的な紛れ易い執念さで跳びかかって行くのではないだろうか?」
 亢奮の後には珍らしいことであった。ゆき子の心には、繰返し繰り返し感激したり怒ったりしている定見のない自分の愚かしさが、ぼんやりながら反省にのぼって来たのである。
 軽い夕食を取ると、真木は、
「少し歩いて来よう、寝られないといけないから」
とゆき子を誘った。
 彼等は家を出、賑やかな町並とは反対に、小石川台の奥へ入って行った。
 勿論、家つづきであった。けれども、人通りがなく、ほんのりと暗い土の路と空との間に、芽ぐむ樹々の芳ばしいしとやかな香を漂わせた小路の散策は、心を和らげた。
 ゆき子は、ほんとに心持がよかった。こうして良人に親切にされ、心遣われながら共に在ることは、殆ど官能的に、理窟ない満足で心を浸す。――
 歩きながら、先刻の自分の凄じさを思い起すと、彼女は恥た、苦々しい気分にならずにはいられなかった。母などに対して、ゆき子は決してあんな滅茶にはならなかった。云うべきことは云うべきこととして、ちゃんと区画がついている。
「それだのに、真木に対すと、何もかも、可愛さも、悲しさも、一緒くたになって結局埒もないことになってしまうのはどうしたということだろう」
 彼女は、そこに恐るべき心的のだらしなさを認めずにはいられなかった。
「それだから、仕事も出来ないのではないか?」ゆき子は闇を貫くように、或る考えに打たれた。
「自分が若し、真木を一番愛しているということで、彼を最もよく知っていることを主張するなら、同じ強硬さで、自分に対して、同様のことを主張し得る筈ではないか? また、彼女はああやって先達のように、激しい熱情でそれを示す。けれども、自分はその全部を正鵠を得た直覚または観察として、受けられただろうか?」
 ゆき子は、正直に「否」と云わずにはいられなかった。世の中に母の愛ほど、その母の中でも自分の愛ほど深大な且つ純粋なものはないという位の強い信念の下に立った寿賀子の或る場合は、却って激情そのものの息苦しさほか感じさせない。――「それがどうして、自分の感情にも起らないことだといえるだろう!」結婚後、俄に自分のうちに育ち始めた所謂「女らしさ」可愛いとか、優しいとか、または上品だとか、種々な形と言葉とで現わされる、手応えのない妙に焦点を外に結ぶ女性の肉感性。それ等に彼女は疑い深い眼を向けずにはいられなくなった。

 寝床に入ると、真木は優しく、
「気分はいいかね」
と傍のゆき子に声をかけた。
「え、有難う、大丈夫よ」
「――よくおやすみ」
 真木は自分の場所から手を延して、静にゆき子の頭をたたいた。けれども、彼女は、いつものように、それを倍にして戻す気分にはなれなかった。
「――おやすみ遊ばせ」
 ゆき子は、何か、心の中に、今日一日で嘗てない新しい一つの道がついたような心確かさで、良人の静かな輪郭《プロフィル》を眺めた。



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月8日公開
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