青空文庫アーカイブ

作品の主人公と心理の翳
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)[#地付き]〔一九四一年六月〕
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 この頃、折々ふっと感じて、その感じが重るにつれ次第に一つの疑問のようになって来ていることがある。
 それは、この節何となし小説の主人公が年とった人物に選ばれている傾きがあるように思われることについてである。
 広津和郎氏の「歴史と歴史との間」の主人公にしろ、この間の丹羽文雄氏の作品「怒濤」にしろ、主人公はみんな年とっている。それもただの爺さんというのではなくて、一ひねりもふたひねりをもして人生に生き経た年よりで「怒濤」では、我から示す老いさらぼいを、表面はうっすりつめたい一つの顫える虚無のように周囲から際立たせている年寄が描かれている。作者はその作者なりの気魄をこめてそういう手のこんだ老境を描いているのである。
 そうやって描かれた作品の世界が、これまでの丹羽氏の作品がよきにつけ悪しきにつけ持っていた生の肌合いを失って、室生犀星氏の或る種の作品を髣髴とさせることにも、この作品としての問題はひそんでいるのだろう。けれども、なおそれより私たちの心にひっかかって来るのは、やはり、今日作家が自分たちの小説の主人公にこういう風な一ひねりした老人をもって来る、その心理だと思う。
 作家というものは一定の年齢になると、例えば「怒濤」の「わたし」のような人物をとおしてエロティシズムをも描きだしてみたくなるものなのだろう。以前には、北陸の魚と女性の青光るエロティシズムを正面から描いた室生犀星氏が、最近の「蝶」で、父親という一応熱気をさましたような立場から少女たちの身のそよぎを充分官能をもって再現しているように。
 室生氏の場合は、作者の好みが多分に働いている。そういう好みが、文学のこととして含んでいる問題は別として、この作者はそういうとりあわせが好きなのだ。だが、丹羽氏はどうなのだろう。

 今の時代は、小説が若々しい主人公たちを必要としていそうだのに、実際の作品では何となし老人が登場して来ているところには、考えさせられるものがある。火野氏が『中央公論』七月号に発表している「土鈴」は『改造』の「神話」よりずっとテーマとして高い複雑な人間交渉のモメントが捉えられているのだが、ここでも作者は息子の荘太郎は従において、代官神川平助を中心においている。神川平助の性格でもあるのだが、年齢が語る幾歳月の生活感情の習慣が、代官神川の農民救済の善意を独断なものにして、そこからの悲劇がかもされてゆく。その父の仕事を支持しながら、そのやりかたには、人間的に反撥する荘太郎を中心においたとしたら、この一篇の小説が、どう変化しただろう。先ずこの小説がもっとずっと書きにくくなり、まとまりにくくなることは必定である。主人公が父平助でなくて息子荘太郎であるということからは、作者が平助の側からその心理を叙しているよりもさらに描写に骨の折れる動的な葛藤、摩擦、若き精神の懊悩が小説の世界へ溢れでてくる。悲劇の最後で、失われる命が父平助のものであるにしろ、他のものたちのものであるにしろ、荘太郎がその小説で主人公であるとそうでないとでは全くちがうし、まして荘太郎の生命が直接そこにかかわるなら、悲劇の性格は一層の奥ゆきを持たざるを得ないであろう。
 作者はテーマのこのような二重の展開の可能のかくされている若き荘太郎を主人公とすることをさけた。或は避けたという気もなくておのずから主人公は自身の悲劇に対してより受け身な平助にきめられて行ったとすれば、それとして心理の動機はどういうものなのだろうか。
 丹羽氏の場合、私たちの記憶には「或る女の半生」その他のいわゆる系譜的作品の主人公を常に女性において来たこの作者の現実への角度が甦って来る。現実の推移をその受動性のために最もあからさまに映してゆく女性が、系譜的な作品にとって、てっとりばやい主人公とされていたことに、この系列の文学の弱さが語られた。系譜的作品が時代と人との意欲から生れる発展的な生活の物語とならず、いわば流転譚の域から脱し得なかった理由がここにある。
 風吹けばそよぎ、雨ふればそれなり濡れそぼたれた女主人公の姿が、今は、眼の隅で周囲を細大洩らさず見とおしながら、そのようにそよぎ、濡れそぼつことからさえ依估地に身をひく一人の老人に代ったとすれば、それはどういう現代の心理の徴候と見るべきだろう。
 火野氏の「土鈴」にある問題は今日の歴史小説の課題の或る面にも通じている。世代の善意にはいつも幅がある、それをどこから掴むかという点で。

 これらのことが心にひっかかって来るというのも先頃高見順氏が獅子と鼠との喩えばなしで非力なるものとしての文学の力ということを書いて、一般に反響をもった、そのことと自然連関しているのだと思う。
 今日私たちは何故、文学を別の何かと比較して、先ず文学を非力なものとして認めた上で文学について物をいわなければならないような心理になっているのだろう。それぞれにちがったもの、それぞれの本来の機能のあるもの、それをそれとしての価値で何故あるとおり見ていっていけないような工合になっているのだろう。
 文学の本来の言葉で語る場合にそういうひねこびた状態が伴った例は過去にもあった。過去の或る時代の文学が昔翁ありけり、という調子で語りはじめられていることを、私たちはただ外面の様式として見過していいのだろうか。
 現代の作家の生活は一市民としても複雑で、過去のその頃のように、翁ありけりの生活に身をおくことは絶対に不可能である。また、そういう希望をもつものもなくて、反対に否応なく接触面はひろげられつつある。形象的にひろがりながら、文学の精神の表情は、何ものかに対して辞を低うするのが常識であるかのようになっているとすればその間の心理は一ひねり二ひねりしたものともならざるを得ない。
 現代文学が、文芸思潮で動くことをやめ、心理で動いてゆくようになってから既に数年経った。その心理のうねりの間に文学の胚種は護られているのだけれど、文学の壮健な生い立ちのためには文学を導く心理そのものを時々はきびしく吟味してみるのがすべての作家の責任でもあると思う。
[#地付き]〔一九四一年六月〕



底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「帝国大学新聞」
   1941(昭和16)年6月30日号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
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