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昭和の十四年間
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)一つの蹉《つまず》きとなった

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号)
(例)蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1-91-68]《あぶらむし》
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          一

 大正年代は、日本の文学界にもヨーロッパ大戦後の世界を洗いはじめたさまざまの文学的動きを、日本独特の土壤の上に成育させながら、極めて複雑な形で昭和に歩み進んだ。
 ヨーロッパ大戦後の、万人の福利を希うデモクラシーの思想につれて、民衆の芸術を求める機運が起って『種蒔く人』が日本文学の歴史の上に一つの黎明を告げながら発刊されたのは大正十一年であった。ロマンティックな傾向に立って文学的歩み出しをしていた藤森成吉、秋田雨雀、小川未明等の若い作家たちは、新たに起ったこの文学的潮流に身を投じ、従来の作家の生い立ちとは全くちがった生活の閲歴を持った前田河広一郎、中西伊之助、宮地嘉六等の作家たちと共に平林初之輔その他が新興文学の理論家として活動しはじめた。前田河広一郎の「三等船客」中西伊之助の「赭土に芽ぐむもの」藤森成吉の「狼へ!」「磔茂左衛門」宮嶋資夫の「金」細井和喜蔵の「女工哀史」「奴隷」等は新たな文学の波がもたらした収穫であった。
 この新興文学の社会的背景が、ヨーロッパ大戦後の日本の社会の現実的な生活感情と如何に血肉的に結ばれていたものであったかと云うことは、有島武郎の「宣言一つ」などを見ても、今日まざまざと理解することが出来る。この「宣言一つ」には、新たな歴史の担い手としての階級の意味、その文化建設についての当時の考え方と、知識階級の歴史的意味の問題等が、今日から顧みられれば、幾多の誤りをも含みつつ、筆者の人間及び知識人として当時に悩んだ良心の故に、率直に語り示されていることは、興味深いところである。
 このようにして、自然主義以来、個人というものを基点として創造され、主観的、印象的に評価されて来た近代文学は、新たな社会的・階級的内容に立って創られ、客観的な発展の方向に於て評価を受けるようになって来た。大正十四[#「十四」に「(ママ)」の注記、正しくは「十三」]年『文芸戦線』が創刊されて、プロレタリア文学の理論は、一層広汎に活溌に展開され始めたが、芸術作品に何よりも先ずその社会的意味をさぐろうとするその態度に反撥した一部の新進作家によって「新感覚派」の運動が起されたのが大正十三年であった。横光利一、片岡鉄兵、川端康成、中河与一、今東光、十一谷義三郎等を同人とするこの「新感覚派」の誕生は、微妙に当時の社会的・文学的動きを反映したものであった。従来の文学的領野に於ては、依然として志賀直哉が主観的なリアリズムの完成をもって一つの典型をなしており、新しい作家たちが若しその道へ進むとして、志賀直哉を凌駕する希望というものは抱きにくい状態であったし、かつてバーナアド・ショウやゴルスワージーの影響の下に「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」等を生んだ菊池寛は、その作家としての特色の必然な発展と大戦後の経済界の膨脹につれて近代化したジャーナリズムの吸引によって、久米正雄と共に既に大衆文学へ移っている。さりとて上記の作家達が『文芸戦線』の文学運動に身を挺するには、その文学理論が納得されなかったこともあろうし、その納得されにくい気分の根本には都会の小市民生活が必然した都会主義も強く作用した。この「新感覚派」が『文芸戦線』の文学的傾向とは全く対蹠的なキュービズムやダダイズム、構成派の影響を強く受けて、それを独自なよりどころとしようとしたことも充分うなずける。
 当時「新感覚派」はプロレタリア文学に不満を持つ広い範囲の知識人、文学愛好者の支持を受けたものであったが、文学の流派としては僅かの寿命で衰退したことも、日本の文化の伝統の性質と考え合せて意味深く思われる。大戦後のフランスで過去の文化の崩壊の形として現れたキュービズム、構成派、ダダイズム等は自然の歴史の流れに随って前進してある部分はより建設的な方向へ合流したのであったが、「新感覚派」がわがものとして身につけようとしたその日本らしい影響は、過去にそれらの流派を生み出した文化伝統を持たないと同時に、プロレタリア文学に対立したものとして自身を規定したことから、流派として短い命しかもち得なかったことも理解される。昭和という年は、文学史の最初の頁を芥川龍之介の自殺(昭和二年)によって開いた。
 大正の前半期に文学の同世代として衆目を引く出発をした芥川龍之介は、他の同輩菊池寛や久米正雄のようにそれぞれの才能の易きについて大衆文学へ移ることをしなかった。プロレタリア文学の擡頭に対しても「この頃やつと始まりしは、反つて遅すぎる位なり。」「蒼生と悲喜を同うするは軽蔑すべきことなりや否や。僕は如何に考ふるも、彫虫の末技に誇るよりは高等なるを信ずるものなり。」と感じつつも「プロレタリアは悉く善玉、ブルジョアは悉く悪玉とせば、天下はまことに簡単なり。簡単なるには相違なけれど、――否、日本の文壇も自然主義の洗礼は受けし筈なり。」とし、更に一転して「ひとり芸術至上主義者に限らず、僕はあらゆる至上主義者、――たとへばマッサアジ至上主義者にも好意と尊敬とを有するを常とす」と彼らしく皮肉な自己の知的優越をもほのめかさずにはいられなかった。当時流行作家であったと共に一部からは権威とも目されていた芥川龍之介が、昭和二年七月「或旧友へ送る手記」を残して三十歳の生涯を終るに至った内外の動機は何であったろう。「少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。」と云われている。しかしながらこの「ぼんやりした不安」こそ最も深刻な圧迫感をもって、多くの作家の魂に迫っていたものではなかったろうか。
 東京の下町の強い伝統を持った家族関係の中で経済的な不如意を都会人らしい体裁で取りつくろいながら生きている人々の間で育ち、大学時代から現実生活の問題を常に念頭に置いていなければならなかった青年時代の芥川龍之介。自身の上に濃く投げかけられている封建的なもの、それによって受けているものは損害の外にないことを知りながら、野暮にそれと正面衝突は気質的に出来ず、あらゆる反撥を知的な優越と芸術への献身に打込もうとしていた彼の文学的発足が、「鼻」「芋粥」「羅生門」のようなものであったことも考えさせるものを持っている。「侏儒の言葉」の中で「どうか勇ましい英雄にして下さいますな。」「わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし」と云う一面、ゲーテ、シェイクスピア、ニーチェ、あらゆる古今の天才に倣わんとするものであると云わせる彼の天才主義は、彼自身そこから超脱した生活は有り得ないことを明言している時代と歴史の歯車の間で、どのような自身の帰結を可能としていたろうか。
 有島武郎とまたちがった意味で時代の苦痛に身を曝した芥川龍之介の死は、その遺書の中に、「僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺した為に僕の家の売れないことを苦にした。従って別荘の一つももっているブルジョアたちに羨ましさを感じた。」と云う切実な告白と共に、作家の心を撃ったものであった。少くとも芥川龍之介の死は、当時耳に残って消えない文学上の弔鐘の一うちであった。
 時代の明暗は、この同じ昭和二年に蔵原惟人の「批評の客観的基準」という論文を送り出している。これより先、印象批評に対して、「外在批評」ということが云われており、そのことでも、主張されるところは、文学の評価に何らかの客観的なよりどころを求めるものであったが、蔵原は、ぼんやり客観的と云われていた基準に社会的な内容附けを行った。プレハーノフの有名な論文集『二十年間』の序文に基いて、芸術作品の批評にあたって第一にはその作品の中に如何なる方面の社会或は階級の意識が表現されているかを見るべきであるとして「文学的作品の観念を芸術の言葉から社会学の言葉に翻訳し、その文学的現象の社会的等価とも云うべきものを発見することにある。」と説いた。また、文学のもつ社会的な役割ということも云われた。芸術的完成、生き生きとした芸術的形象というものは、その作品が芸術的感銘を与えるために必須な条件と見られてはいるが、翌年この理論の発展として云われた新しいリアリズムの提議では、新しいリアリズムの本質を十九世紀以降の個人主義に立つリアリズムと異った社会的主観に立つべきものと規定した。そして、「現実に対する態度はあくまでも客観的現実的でなければならない。」「現実をわれわれの主観によって歪めたり、粉飾したりすることではなくて、われわれの主観――階級的主観に相応するものを現実の中に発見するのが」新しいリアリズムの態度であるとされた。
 当時のこの芸術価値のきめ方を今日顧れば、「文学的作品の観念を芸術の言葉から社会学の言葉に翻訳し、その文学的現象の社会的等価とも言うべきものを発見することにある」という規定そのものに明らかな誤りが含まれている。この規定によって文学が芸術品としてそれ自身持っている独特な機能が抹殺されており、芸術的感銘の必須な条件として求められている芸術性というものも、科学が科学性を持たなければ科学でないと同様に自明なことという範囲の解釈に止った。芸術性というものは、文学史のあらゆる時代を通して常に論争の中心となって来ている。新しい文学の理論は、過去の芸術性の永遠普遍という観念に対して、その一般論を否定して立ったのであったが、当時は、作品の内容としての世界観、形式としての芸術性という風な、過去の二元論に足を取られていて、芸術性というものの本来の在りようは、作品に於ける内容と形式との特殊な統一の仕方から生じるもの、芸術作品にとって芸術性は先行的にあり得るものではなくて、芸術作品が芸術作品となってゆく成立の条件に根ざしたものであり、芸術的価値の本質的な属性をなすものであるという、芸術そのものの創作過程の中での有機的な姿で見られるものであることを理解し得ていなかった。
 新しいリアリズムの提唱で、過去の主観的なリアリズムから客観的な現実把握の求められたことは、日本文学の発展の為に抹殺されることの出来ない歴史の歩み出しであるが、「階級的主観に相当するものを現実の中に発見する」という表現も、創作方法の問題としては、あらゆる現実の生きた姿を現実にある儘の錯綜した相互関係で、動いている有様の儘そこに一定の洞察と意思を持って描くという方法と混同された不明瞭さがあった。
 未熟であり、よしやある誤りを含んでいたとしても、新しい社会生活の感情がそのような芸術理論をも生んだのであって、小林多喜二の「蟹工船」「不在地主」徳永直の「太陽のない街」村山知義の「暴力団記」「東洋車輌工場」その他多くの新しい文学作品が現れた。中野重治の「蝶番い」「根」「鉄の話」黒島伝治の「橇」その他、これらの作品はそれぞれ歴史的な意味を持った。当時のこの文学運動の特徴は、職業的な作家が外から大衆の生活を描こうとしたのではなくて、大衆の生活そのものの中から自身の生活のみのりとしての文学を導き出そうとしたところに、文学に於ける一つの流派以上の文化的本質での前進があった訳である。従って当時の大衆は、玄人の書いた作品を買って読む文学の消費者として存在していなかった。文学の生れる広い、深い歴史的な地盤としてあったから、大衆の中からの文学的萌芽というものは実に盛んに芽生えた。今日も、文学作品は非常な売行きを見せているが、そこでの大衆は購買力を持ったものという意味で客観的には現れているに過ぎない。自身の文学を作ってはいない。
 文学に於けるこの問題はいずれ後段に触れられることだと思うが、当時のこの機運は、例えば婦人作家の誕生にも影響した。それまでの婦人作家が概して有産的な環境の中から生れ出ているに対して、この時代の潮は勤労的な生活の中から婦人作家を誘い出して、窪川稲子の「キャラメル工場から」等はその代表的なものだと思う。
 そのような文学の動きは、新しい社会的な素地から作家と作品を成長させて来たばかりでなく、当時既に作家としてある程度の活動と業績を重ねた作家たちをも、各自の角度に従ってこの文学運動の中に引き入れた。先に触れた藤森成吉、秋田雨雀のほか片岡鉄兵はかつて属していた「新感覚派」から転じて「綾里村快挙録」を、細田民樹は大衆的作家の傾向を持ちつつ「真理の春」を、宮本(中條)百合子は人道主義的なリアリズムの道を、新しい段階に踏み出した。
 興味あることには、この時代の旺な脈動が、例えば上司小剣、島崎藤村、或は山本有三、広津和郎等に案外の反映を見出していることである。
 明治文学の記念塔である藤村の「夜明け前」が執筆され始めたのは昭和四年、新しい文学の波の最高潮に達した時期であった。明治のロマンティック時代から作家生活を辿って来たこの粘り強い小説家が、云って見れば彼をもその波の下に置こうとするような時代の激しさに向い立って、勇猛心を動かされ、歴史と云うものを改めて見直す欲望から維新を背景とするこの長篇を書いたことは面白いと思う。そしてまた、この長編が極めて緻密に史実を調べられ、思想的背景をさぐられ、人物の配置も客観的にされながら、窮極には作者藤村の内面的なムードで統一されていて、その意味からはやはり主観的な写実を脱していないということも面白い。
 人道的な感情で作品を貫いて来た山本有三が、当時を中心として彼の作品の中でも社会的意味の深い「波」「風」「女の一生」等を生み出していることも見のがすことは出来ない。上司小剣がこの時代から一大長編「東京」を思い立って四部作の第三部までを書いたということも、ゾラに「パリ」があるからというのが執筆の動機ではないであろうし、震災で古い東京が失われたからという回顧が興味の中心でもなかったことは推察される。社会生活の渦の真中としての東京がこの作家の眼をひいた時代的なものも感じられるのである。
 この時代に広津和郎の「女給」が現れた。一面から見ればこの作品はこの作家の連載物への動きであるが、「女給」というものが現代の日本の社会で経ている在りようを、享楽の対象としてではない面から描こうとされたところに、単なる通俗性への屈伏以外のものがある。「田園の憂鬱」の作者佐藤春夫の「心驕れる女」という連載物に登場する人物にさえ時代の空気が流れ入っていることは、一つの例に過ぎず、当時は通俗小説の中にさえも新しさの象徴として時代的な青年男女の動き、心持ち、理論などと云うものがさまざまに歪曲されながら装飾として或はあや[#「あや」に傍点]として取り入れられたのであった。
 この間にも新しい見地に立っての芸術価値評価やその創作方法に対しての反撥は決して消されなかった。「新感覚派」は既に文学上のグループとして解体していたが、昭和五年に出来た十三人倶楽部による「新興芸術派」の運動は、中村武羅夫の「花園を荒す者は誰だ」という論文を骨子として、反プロレタリア文学の鮮明な幟色の下に立った。同人としては中村武羅夫、岡田三郎、加藤武雄、浅原六朗、龍胆寺雄、楢崎勤、久野豊彦、舟橋聖一、嘉村礒多、井伏鱒二、阿部知二、尾崎士郎、池谷信三郎等の人々であった。中村武羅夫の論文がこの運動をまとめるきっかけとなったことは興味がある。自然主義の系統から出発して、雑誌『新潮』によりながら、作品活動としては大衆作家として存在しているこの人が、文学の芸術性、その至上性というものについての論議に触れると常にピューリタン的な擁護者として立ち現れることは、一つの芸術の分野ならでは見られない現象であろう。「新興芸術派」の主張するところは、文学についての新しい社会的な理解が持ち来している、作品の世界観の問題、社会的効用の問題、形式が内容に対して従属的なもののように見られている点等を非難して、それらの束縛、圧迫から解放された新興の芸術派をうち立てようとするところにあった。しかし、そのような新興の芸術として、どのような解釈の芸術性が見透されていたかと云えば、そこには同人達にとっても一口に説明し得るような一貫した新見解はなかった。往年の「新感覚派」はフランスやドイツの大戦後の芸術流派の影響の下に、表現の上にも横光利一の当時の作品のようにともかく奇抜であることだけは誰の眼にも明らかな試みをもったが、時を隔てて今現れた「新興芸術派」は大体の傾向として当然都会的なモダーニズムに立ったが、同人たちの作品の現実は、彼らによって否定された「新自然主義的なプロレタリア・リアリズム」を覆すだけの力を持たなかった。同人たちの作家としての活動は、プロレタリア文学に反対であるという一事では、その社会的な生活感情を等しくして結ばれていたが、その他の面では云わば各人各様で、或る作家は芸術至上を説き、或る作家は科学・機械文明との新しい結合で文学を見ようとし、或る人は新心理派へ眼を向け、作家の資質に従ってエロティシズム、グロテスクな追求も行われた。
 この「新興芸術派」がその文学的な対立物であったプロレタリア文学運動の消長と共に、その後の二三年間に解体したことは、その後今日に到る間にかつての同人たちが辿り来っている作家としての足どりと眺め合せて、感想をそそられるものがあると思う。
 今日知性の作家と称せられている阿部知二、行動主義とヒューマニズムを唱えた舟橋聖一、「人生劇場」によって自身の世界を作った尾崎士郎、「多甚古村」の作者である井伏鱒二等が、やがて一昔の十年前は、この「新興芸術派」に参加していたことも、さまざまの意味で顧みられることだと思う。

          二

 満州事変は昭和六年に起った。この事件を契機として日本では社会生活一般が一転廻した。昭和七年春、プロレタリア文学運動が自由を失って後、同八年運動としての形を全く失うに到った前後は、日本文学全般が一種異様の混乱に陥った。
 例えば前に述べた新感覚派、新興芸術派などの場合についても分るように、この社会の知識人としての作家たちの自分の存在に対する自覚、確信というようなものは、文学上対立するものがあってこそ自分に確かめられていたようなものだったとも云える。文学上のその対立物が目前で蒙った破壊の有様の目撃は、知識人としての心理に於て、それを誹謗した作家たちにも不安と動揺とをもたらさずにいなかったことは明らかである。
 当時叫ばれた文芸復興の声は、プロレタリア文学の陣営に属していた人々の間から上った。しかし、その復興さるべき文学は、文学一般を漠然とさしたのであって、過去十年の間に重ねられて来た新しい文学の見解を継承し発展させようとするものではなかった。現実の認識の方法とか芸術の基準とか、そんなものはどうでもいい。作家は書いてさえいればいいのだ。書きたいように、書きたいものをさあ書いた、書いた! という風な調子で押し出されたのであった。
 外部からの圧力と共に、文学上の問題としては、かの芸術性の究明が不十分のまま、創作の実際に当って内容と形式が分裂したような形で作家の前にあらわれていたために生じた一種の困難、及び積極的な生活の日常的な現実と作品の創作される過程としての創作方法の解釈の間に見られていた関係の機械的なところなどが相俟って、ある困惑に陥っていた当時のプロレタリア作家は、この埒を解いたような文芸復興の声に惹かれる心理があった。
 前後して日本に紹介され始めた社会主義的リアリズムというものも、この混乱に際してそれを整理するよりは却って一層の紛糾をもたらすものとなった。当時の日本の文学界の心理は、この文学の新しい課題をその歴史的な背景の全部に触れて理解しようとするよりも先きに、先ずこの新しい提案の中から当時の気分にふさわしいと思われる条件だけを好みに応じた説明法で取り入れた。その中心的な箇条の一つは、知識人の社会的評価に関するもので、従来社会的にも文学的にも知識人一般というものが抽象的にこの世の中に在るのではなくて、歴史と社会の層に属して現実を生きつつあるものだと云われ、従って歴史に対する知識人の進歩的な態度、保守の態度というものが、作品の問題にも常に触れて来た。ところが当時の新リアリズムの説明者たちは、知識人の以上のような現実を消して、新リアリズムは知識人はあるがままの知識人として、作家はあるがままの作家としてあるがままの現実を描き出してゆけば、作品そのものが歴史を語ると規定しているとした。
 当時の気分にとってこれは便宜な考え方であったかも知れないが、明治以来の日本文学の成長のためには画期的な一つの蹉《つまず》きとなったと思われる。自然主義以来発達して来た個人主義的なリアリズムがその十年の間にようよう社会的なリアリズムにまで成長しかけたその萌芽が、この新リアリズムの便宜的な解釈と共に萎え凋んだ。そればかりでなく、時代の複雑な相貌の必然から、リアリズムは再びもとの自然主義後のリアリズムの古巣へ立ち戻ることも不可能である。その古き巣は時代の広汎な現実を包みかねるのである。リアリズムは謂わばこの時期に於て路頭に迷い出した。今日に引き続く不幸なリアリズムの彷徨の一歩は、当時に於て踏み出されたのであった。リアリズムの彷徨の一歩と現代文学に於ける自我の喪失とは、胡弓とその弓とのような関係で極めて時代的な音調を立て始めたのである。
 さて、文芸復興の声は盛んであるが、果して文芸は当時復興したであろうか。声が響いているばかりで、現実には新たな文芸思潮というべきものも生れなかったし、新しい意味を持った作品の一つも出現しなかった。
 この実際の事情は、文芸復興を提唱した一群の作家たちにいい作品を生むためには先ず古典を摂取せよという第二の声を起させた。作家の間にバルザック、ドストイェフスキー、スタンダールなどの読み直しが流行したのであったが、この古典の読み直しに際しても所謂《いわゆる》新しいリアリズムの解釈法が附きまとって、例えば、バルザックについての目安は、このフランスの大作家が王党であったにも拘らず小説に描いた現実は当時のフランスの歴史を進歩の方向で反映している、即ち作家の社会的見解などにかかわらず、小説はそのものとして進歩的なものであると云う文芸復興提唱者たちの日頃の持論を裏づけるところに置かれた。歴史的な生活感情の相異に対する敏感さを欠いた古典のかような味い方が、当時の古典流行から何一つこれぞという文学上の収穫をもたらさなかったことは、むしろ当然というべきではないだろうか。このような古典研究から導き出されたものはロマン派のギリシャ文化への憧憬、日本の古代文化への超現実な渇仰等であった。
 古典から学べという声は、つづいて作家の教養を高めよという問題をもひき起した。日本文学の伝統の中には従来作家の作家気質ともいうようなものがあって、作家は教養で書くのではない、作家魂で書くのだという心持ちが流れて来ている。この気分は、例えば新感覚派や新興芸術派の無理論性となって現れたし、作家は何でも書きさえすればよいという当時のリアリズムの解釈法の底にも流れ入って、社会的な心理の傾向と綯《な》い合され文学の現実追随への一条件となっているのであるが、今日顧みて興味あることは、当時改めて強調された教養を高めよの問題では、これまで作家の主観の中では頼られていた作家魂の衰退が、暗黙に告白されている点である。作家魂という表現も、つまりは作家に自覚されている自我の誇りに拠っていたものであろう。当時云われた教養を高めよということは謂わばその作家魂の主体を失った人々が、教養でその空隙を埋めようと志した試みの一つであったが、既に教養が文学創造のための何かの足しになるためには必須な現実判断の力を我から否定している以上、この教養へのあがきも文学を肥え太らすものとしては甲斐がなかった。
 不安と焦燥の気分が文学界を満した。この雰囲気は、村山知義の「白夜」によって先頭をきられた一系列の作家の作品の出現によって愈々《いよいよ》暗鬱なものとなった。転向文学という一時的な概括で云われたこれらの作品の特徴は、知識人としての作者たちが時代の中に経た生活と思想経験の歴史的な価値と意味とを我から抹殺して、一つの理想に対して脆く敗れた自身の懺悔と哀傷とを懺悔風に描いたところにある。日本の文化の歴史と、その中にある知識人というものの経歴は、西欧の伝統とはおのずから異った社会的特色をもって刻々現れるのであるが、当時これらの作品の作者たちは、そのような歴史の社会的な特質にまでつき入って時代の貴重な文学的主題を展開はさせ得なかった。あくまで個人の性格や事情と公的なものと観念化されていた一つの想念とを対立させて、そこで敗れた人間性や良心の課題の範囲で扱われたことも、日本の知識人の歴史の性格を雄弁に語っていることであった。しかも、当時一般の心理は、このような歴史的文学の題材とテーマに対しては極めて複雑にふれて行っていて、一定の経歴をもった作者たちが自身の傷敗の歌を痛ましげに呻けば呻くほど、人間性の流露としてそれを高く評価したい感情の傾きにおかれていたことは興味ふかく回想される。或る種の眼には実にわがもの顔に文学の領域を踏みあらしていたと思われる左翼の文学が、今やそのような形で自身への哀歌《エレジー》を奏している姿は、一種云うに云えない交錯した感覚であったろう。
 転向文学と云われた作品はそれぞれの型の血液を流したが、それは健康恢復のための射血ではなくて、時代の壊血症状というべき実況であったから、いかにその懺悔に痛痒き感覚を刺戟されたとしても、これまた新しい生活への飛躍の足がかりとはなり難い本質である。
 精神の空虚の感じが瀰漫し、その空虚の中で何かを捉えようとする焦燥は激しく自覚された。そして、ここから不安の文学という名が立ち現れて来たのであった。
 不安の文学は、当時知識人にとって現実は不安であるから、飽くまでその不安を追究せよ、という立て前に立てられた。目をそらさず瀰漫した不安を追究せよ、と云われたその言葉は雄々しげであったが、果して、それらの人々は不安を凝視してそこから何か新しい途を見出す社会的・文学的なよりどころを客観的に包蔵していただろうか。
 不安の文学という声は、先ずそれを唱える人々が、その不安を追究する方法をもっていないことで忽ち深い混迷に陥った。社会と文学との感覚で不安は感じられているのだが、不安の彼方に何を求めて、どう不安を克服しようとしているのかと云われると、その答えは不確なものたらざるを得なかった。不安への批判の精神を否定した出発は、窮局に於て人間精神が不安に翻弄される結果となり、不安を自己目的として不安する状態を、精神の高邁とするようなポーズをも生じた。人間のモラルを現実とのとりくみの間にうち立ててゆくことが目指されずに、観念の中でモラルを模索しているその自己の意識の周囲を我と眺め味い歩きまわる作家の態度は、当時横光利一によって代表された。彼の云う「高邁なる精神」「自己探求」「自意識の文学」等の標語は悉く、以上のような当時の文学精神によったものであった。
「新興芸術派」時代「主知的文学論」をもって立った阿部知二の「知性」の本質も根本に於てはやはり横光利一の「高邁なる精神」と同様に、現実的な人間像への芸術的肉迫を回避して、自我の意識の中で主観的に或はロマンティックに感得されている知性である。文学の傾向としてこの二者が当時相呼応するものとして現れたのには当然の理由があった。
 この前後に小林秀雄が評論家として生い立って来たということもまたまことに時代的な特徴を完備している。「批評とは己れの夢を語ることだ」というのが、当時の小林秀雄の思想の背景であって「あらゆる人間的真実の保証を、それが人間的であるということ以外に、諸君はどこに求めようとするのか? 文芸批評とても同じことだ」「プロレタリア派だとか、芸術派だとか云ってやぶにらみしているのは洵に意気地がない話である。」あらゆる芸術は精密な観念学に外ならない。そしてその観念学は常にその人々の全存在とその人の宿命にかかっているとする小林秀雄は、あらゆる芸術家と作品の中に「人間情熱の記号」「誠実な歌」「人間的なるもの」を掘り出すことを職務として表明したのであった。しかしながら彼の云う人間の全存在、或は宿命とは、その実質に何を指しているものであったろうか。芸術は人間的血肉の所産でなければならないという普遍性は、彼を待つ迄もなく古き一般論の土台である。彼の「観念学」はその倚ってかかっている特定の全存在、宿命の具体的な相貌を解きほぐす点になると遺憾ながら全く無力で、「作家が己れの感情を自ら批評するということと、己れの感情を社会的に批評するということと、現実に於てどこが違うか」と、いかにも当時の文学雰囲気の嫡子らしく、自己というものの社会性には目をそらしているのである。彼の現実認識のよりどころは個性の感性に置かれているのであったが、その感性そのものも「オフェリア遺文」が計らずも告白している通り統一された具象性を持たないものであった。「言葉というものは、こんがらかそうと思えばいくらだってこんがらかすことが出来ます」「あゝ、此世は空し」「問題を解くことゝ解かないこととは大変よく似ている」このようにして評論家としての小林秀雄は、対象の本質の核心に迫ってそれを明らかにし得ないまま、対象の感性的な印象の周辺をかけめぐることとなった。その果のない駈けめぐりの姿を精緻ならしめ、豊かならしめようとして、表現の逆説的な手法を己れの特色とした。小林秀雄の文芸批評が、当時から一般読者に迎えられるようになったのは、それが時代と文学の在りようを解明する力を持っていたからではなくて、その力を失った所謂知性の時代的なスタイルそのものが共感をもたれたことが最大の原因である。
 この評論家と横光利一の「高邁な精神」とは、紛れもない時代の双児であった。この作家と評論家とは手をとり合って、自意識の摸索を続けた結果、遂に横光利一の純粋小説論に辿りついた。
 文学に於ける自我の探究が自我を自己目的とした時、現実関係の中に生きている人間像は作家の内的世界から失われる。そして、自意識は主我的にのみ発動することとなり、「自分を見る自分」と云う新しい存在が作品に登場し、横光利一はそれを第四人称と名づけた。ところで四人称の自我は、現実の認識と実践との統一の破れた象徴として現れているのだから、如何に見ている自分[#「見ている自分」に傍点]があろうとも、生活者としての自分、生活現象としての人間関係のすべては、そうやってただ見ることを目的として見ているだけで無力な自分には拘りなく刻々と移る日常の波に押されるままのものとして追随されざるを得ない。ここから、四人称という観念の発明が提出されているにも拘らず、作品の主調はあり合わす現実に屈服して全く通俗化の方向を辿るばかりとなった。
 観念的な用語の上では一見非常に手がこんでいるように見えて、内実は卑俗なものへの屈従であるような現実把握の芸術化の過程に於ける分裂は、その頃「癩」「獄」等によって作家としての活動を始めた島木健作の芸術にも独自な姿で反映している。
 石坂洋次郎の「若い人」の芸術性にもこれが貫いている。この二人の作家の時代的な本質については、後にやや詳しく触れることとして、当時のこのような心理は、他の角度に於て武田麟太郎の市井小説の提案を生む動機となった。『人民文庫』による、武田麟太郎は、西鶴が市井生活のリアルな描写をとおして十八世紀日本の所謂元禄時代の姿を今日にまざまざと伝えていることに倣って、現代の市井のあれこれの営みの姿を描き、市井の「現実にまびれ」て生きることでその中から観念の戯画でない人間くさい小説を生み出そうとした。しかしながらこの創作の態度も、現実を観てゆくよりどころを明確にし得ない時代の本質を骨格のうちに分けもっているために作品の実際に当って風俗小説以上に作品の世界を高めることは困難であった。この時期に現れた永井荷風の「ひかげの花」谷崎潤一郎の「春琴抄」等が与えられた称讚の性質も見遁せないものを持っている。先に文芸復興の声と共に流行した古典の研究、明治文学の見直し等が、正当な方法を否定していたために、新しい作家の新しい文学創造の養いとなり得なかったことを見て来たが、この過去への瞥見が谷崎、永井、正宗、徳田など、最近の数年間は活動の目立たなかった自然主義以来の作家たちの創作慾の甦りとして作用したことは興味深い事実であった。「ひかげの花」にしろ「春琴抄」にしろそれぞれの作家の年来の特色を年来の色調のままに発揮したものであり、特に「春琴抄」は物語の様式をつかわれて、同じ耽美的の被虐性を描くにしても往年のこの作者が試みた描写での執拗な追究、創造は廃されている。
 谷崎潤一郎がこの作品に触れての感想で、自分も年を取ったせいか描写でゆく方法が億劫《おっくう》になって来たという意味の言葉を洩し、創作態度としての物語への移行が、作家としての真の発展を意味しないことを言外にこめている。当の作者がそのような自覚に立っているにも拘らず「ひかげの花」もこの作品も、さすがは叩き込んだ芸の巧さ[#「叩き込んだ芸の巧さ」に傍点]と云う点で甚だもてはやされた。芸の巧さということが、切り離されて人々の口の端に喧しく取上げられ始めた。作家に一定の技術が求められることは当然であるけれども、人間の現実をうつすものとしての内容の本質的な属性として扱われずに、技術という抽象的な游離で云われることは、かつてプロレタリア文学が世界観と形式とを切り離されたもののように示したことが誤りであったと同様に、芸術性の本質を離れた観方である。しかしながら、当時の人々が芸にとらわれてゆく心理は、小林秀雄の評論にも、横光利一の小説論にも、また川端康成が「水晶幻想」に赴いた足取りの中にも十分窺えることであった。「文章読本」の流行が始まった。
 芸への愛好を伴う現実批判の衰退は随筆の流行をも招来した。内田百間の「百鬼園随筆」を筆頭として諸家の随筆が売り出されたが、これは寧ろ当時の文学の衰弱的徴候として後代は着目する性質のものなのである。

          三

 以上のような諸現象が、一部の作家の間に文学の危期としての警戒を呼び醒したのは極めて当然のことであったと思われる。
 荷風の「ひかげの花」に対する余りの好評が、却ってその好評の本質への疑問を誘う機縁となったことは興味がある。「ひかげの花」に於ける永井荷風の人生への態度は、このようにして生きる一組の男女もある、と云うことの巧な描写に止っている。作品を貫いて流れているものは荷風年来の諦観である。その諦観にふさわしく統一された芸[#「芸」に傍点]の巧さがあるにしても、若い作家たちまでがその驥尾《きび》に附して各自の芸術の行手にそれを仰ぐとすれば、それは奇怪と云わなければなるまい。当時の文学の混乱もこの頃云わば底をついた形となって、漸々観念的な不安に停滞することも、荷風の境地に寄食することも許すべきでないとする一種の見解、気力が生じ始めた。作家の精神と肉体とは現実に向って先ず活々と積極性をもって動き出さなければ文学に新生命はもたらされまいと云う要求が起った。当時のフランスの文芸思潮の積極的な動きがN・F・R誌などを通じて日本へもその影響をもたらしたこともある。「行動主義の文学」「能動精神」が雑誌『行動』を中心として、舟橋聖一、豊田三郎、田辺茂一等によって提唱された。
 満州事変以来四年を経て、その年(昭和十年)は日本の文化が新たに遭遇しなければならないめぐり合わせについて、美濃部達吉博士の問題その他をめぐって、一層痛切に感じられた時でもあった。文化の擁護、知識の健全性の防衛と云う一般の要求が能動精神の提唱される一つの社会的雰囲気として槓杆《こうかん》の役目をした。文学以前の問題として一般に感じられたこの槓杆の行動的なまた能動的な押し上げは、行動の目的のある一貫性にまたなければ現実性を与えられないのであるが、当時、行動主義を唱えた作家達は、それぞれの属している社会層の小市民的な動揺性に於て数年来の不安混迷の空気を自身たちの身に滲みつかせており、そのことから、批判の精神を求めながらもそこに過去の文学への理性的な批判を持ち得なかった。このことは行動主義の文学と名づけられた動きに一定の文学理論を与えることを不可能にしたし、ひいてはその創作方法も明らかにされず、この提唱の下にどのような作品が生れねばならないかと云うことは、グループ内の作家たちにとっても判明しなかった。行動主義文学は、発生の根源に於て広義には純文学の血脈をひいたものであり、その意味で当面の文壇的利害に制せられる多くの要素を含んでいた。同時に他の一面では「ひかげの花」に文学的反撥を示したその前進的な方向がおのずから語っているようにプロレタリア文学の時期を経過した後の見解に立っているために、その方向に対してこのグループが示した一つの明瞭な限界に対して下される大森義太郎などの批判に対しても闘わなければならなかった。
 もし行動主義を唱えた人々が過去の文学と各自の社会人としての閲歴に理想的な批判を向けることさえ出来たならば、大森義太郎のように、嵐が通ってしまってから洞を出て来て、あの嵐のふきかたはどうこうというような批判は、正当に克服しつつ自身の文学的成育を遂げることが出来ただろう。しかしながら、当時このグループの人々は自身の成育の核をそこに見得なかったため、自然動きは文壇内のグループ的な対立に終始しなければならなかった。独自の文芸理論もないために、その能動性は作品の現実では、素朴な行動性《アクティヴィティ》の方向をとらざるを得ず、その行動も社会的な客観性を避けているためにつまりは在り来った両性関係のうちに表現された。而も、両性関係における行動性というものも、本質に於ては日本旧来の男の恋愛行動のままの延長であったことは我々を深く考えさせる点であると思う。
 能動精神という声はフランスにも日本にも聞えており、何か文化の希望を約束するかのようではあったが、現実のあらわれでフランスと日本とは全く異った結果をもたらした。
 日本文学に響いた能動精神は、社会的行動の面で一貫性をもち得ない必然をはらんでいたこと、従って文学として理論をも持ちかねたことから幾何もなく『行動』も廃刊となって、その標語は文学におけるヒューマニズムという広汎な野づらへ押し出されたのであった。
 考えてみれば、人類の文学の歴史の中にこのヒューマニズムという声は幾たびか意味深くくり返えされて来ている。ヒューマニズムという言葉をきいた時、誰の胸にも浮ぶのはヨーロッパ文化に於ける文芸復興時代のヒューマニズムの多彩な開花であろう。ルネッサンスは中世の思想と社会が人間に強制していた種々の軛《くびき》からの人間性の解放を叫んで、社会文化の各方面に驚くべき躍進を遂げた時代であった。
 降って十八世紀の西欧に於ける人文主義も封建の封鎖に対して人間性の明智と合理とを主張した広義のヒューマニズムの動きであった。引続く世紀に例えばトルストイによって表現されているヒューマニズムは、日本の『白樺』の精神にも流れ入って来た。言ってみれば芸術の本質はヒューマニズムをその不可欠な一つの足場としていて、それぞれの時代にヒューマニズムというものは歴史の発展の段階をまざまざと反映しつつ推し進んで来ているのである。非人間的な条件に対して人間性の尊貴を主張するこの人間の要求は、それ故、各時代に異った要素をその実質に加えつつある。一九三五、六年以後新しい情熱で世界の感情の中に燃え立ったヒューマニズムへの要求は、明らかにこの要求の反面に人間性を重圧する社会事情の存在を意味していた。そしてヒューマニズムが真のヒューマニズムであるかぎり当然そのものとのたたかいが予想されていたのである。
 能動精神の提唱に続いてヒューマニズムの問題をとりあげた当時の日本の作家たちは、この一つの声の中に数年来の社会的・文学的諸課題を投げ入れて社会感情の統一体として提出したのであった。
 今日実に意味深く顧られることは、このヒューマニズムの提唱に際しても多くの人々は能動精神、行動主義に対して示したと同様の理解の限界から脱し得なかった点である。先に能動精神がいわれた時、文学以前のものとして在るこの課題の実現のためには、社会行動に於ける一貫性が必須であることを理解し得なかった一部の人々、独自の文芸理論がないことから文学の収穫としての作品がみるべき成果を示さなかったと全く同様に、ヒューマニズムの課題の究明と展開とに際しても、「人間再生の要求の無制約的な承認」ということが強調された。従って、現代のヒューマニズムが日本の旧来の東洋的諦観を根底に横たえた自然主義的な現実への屈服や、誤った客観主義とたたかって、益々色濃く迫っている悪時代を人間的に生きぬこうとするためには、ヒューマニズムの文学は社会の客観的理解によっても特性づけられなければならないという現実的な面は、一部の人々によって論ぜられながら、ただ、それは論ぜられているという範囲に止まった。そして「現代のヒューマニズムは、特に理論への情熱として示されねばならぬ。」「抽象的なものに対する情熱こそ、今日ヒューマニズムが強調しようと欲するものである。」というような見解が広い影響を持った。
 ここに於て私たちは今日明瞭に次のことをみることが出来ると思う。即ち、当時のヒューマニズムの提唱さえも既に不安の文学といわれた時から現代日本文学の精神に浸潤しはじめた現実把握と理念との分裂の上に発生しているものであったという事実である。
 ヒューマニズムを求める社会感情は、当時極めて一般的な翹望であったに拘らず、そのような抽象性へはまり込んでつまるところは観念の域を破れなかった理由もまた複雑なものがあったと思う。能動精神の文学が、歴史の現実ではプロレタリア文学の時期の後に生まれている必然を避けて過去の文学を理性的に批評し得なかったために自身の成長の道を見出せなかったと同様に、ヒューマニズムの提唱に於ても無制約な人間再生の要求の強調された心理の根底には、やはり現代ヒューマニズムが歴史的な現実把握と理念との強力な統一を予想しているという核心をおのずから避けて、「人間中心の心情」一般を肯定する安易さに陥った。
 この文化上意味深い事実は、当時、文芸評論が急速にその論理性と科学性とを失いつつあったという現象によっても裏づけられた。何という奇怪なことであったろう。ヒューマニズムの文学というような豊かで範囲も広い筈の提唱が起っているのに、まさにその時、文芸評論はその理論性を失って独白《モノローグ》化し随筆化して来ていることが注目されたというのは当時の日本文学のどういう悲喜劇であったろうか。
 この時期ナンセンスな流行歌と漫才とエノケン、ロッパの大流行をみたのは、人心のどんな波動を語っていたのだろう。
 ヒューマニズムの歴史性そのものが内包していた方向から目をそらして無制約に人間中心の唱えられたことは、文学に雑多な個別的な花を開かせたが、例えば尾崎士郎の「人生劇場」にしろ、川端康成の「雪国」にしろ、各人の芸術完成の一定段階を示しながら、作者自身にその完成の歴史的な意味を自覚させるために役立つ力は持たなかったのである。
 ヒューマニズムは単なる生命主義ではないといわれつつも当時北條民雄の「いのちの初夜」その他が生の緊張の美として一つのセンセーションを起し癩文学という通俗の呼び名が作者たちの忿懣を招いたこともあった。
 現代のヒューマニズムは頽廃の中にあるとする高見順は、「描写のうしろに寝ていられない」という自身の理解から「十九世紀的な客観小説の伝統なり約束なりに不満が生じた以上は、小説というものの核心である描写も平和を失った。」と説話体の手法をもって現れた。この作家が、頽廃の中にさえヒューマニズムをみようといいながら、描写への疑問の理由を、「客観的共感性への不信」に置いていることも私たちの注意を惹くところである。形式を文学の内容の特殊なモメントとして観察する場合、高見順によって始められたこの説話体は、その物語の形式に於て失われた自我の姿が反映していることも意味深いし、評論が当時独白化しつつあったと同じ理由で、人間像をそれなりの現実で再現する力を失って、現実の物語り方に独自な主観の色調を主張しようとしたところも、頽廃のうちにヒューマニズムを打ちたてるというよりは、むしろヒューマニズムの頽廃の一つの型ではなかろうか。なぜならヒューマニズムは古来、つねにより広い人間性の客観的な共感に拠り立っているものであるのだから。
 石坂洋次郎の「若い人」、「麦死なず」等の迎えられた時代的な性格も面白い。江波恵子という特異な少女がその少女期を脱しようとする奔放な生命の発動に絡んで、間崎という教師、橋本先生という女教師等が、地方の一ミッション・スクールと地方的な文化を背景として渦巻く姿を描いた「若い人」が、多くの読者を惹きつけた原因の第一は、作者のエロティシズムと地方的な色の濃い描写とで描き出された江波という若い娘の矛盾錯綜してゆくところを知らない行動と情感が、ある意味で、所謂人間性の無制約な肯定として現れている当時のヒューマニズムの傾向に相通じる一脈をもっていたからであったと思う。「麦死なず」にしろこの「若い人」にしろ、作品の世界は、その中の主人公たちが常識と一種の卑俗さによって敗北している通りに、作者の根強い常識によって人間性の把握はどたんばで通俗に落ちこんでいるのが特徴である。
 尾崎士郎の「人生劇場」がこの作者としてのある達成を示しつつ作品にもられている人間情感の性質に於ては古い日本の人情の世界に止まっていることも思いあわされる。高見順と共に新人として登場した丹羽文雄の作品などもその世界に生きる人間群の現実的な生活のモティーヴだの動向だのという面からの観察は研ぎ込まれていず、人物の自然発生な方向と調子に従って、ひたすらその路一筋を辿りつめる肉体と精神の動きが跡づけられている。傍目もふらぬそれぞれの人間と事象との在りようを、作者がまた傍目もふらず跟《つ》いて行く、その熱中の後姿に、文学に於ける人間再生の熱意、ヒューメンなものが認められるという工合でもあった。
 知性の作家と呼ばれた阿部知二がこの時期に発表した「冬の宿」も、この点でいかにも時代的な所産であった。作品の中で人間性の濃度を高めるためにこの作者は意企的に異常性格を持った嘉門とその妻松子、娘息子をとり来って、殆どグロテスクな転落の絵図をくりひろげたが、この作品の世界に対して作者は責任を感じていず、登場している私という中枢の人物は、本質的には作者と共にその転落の過程の報告者としての存在をもつに過ぎない。
 山本有三の「真実一路」もやはり真摯に生きてゆく意図は自覚されながらその具体的な見透しとしての方向や方法がはっきりしないで、目前の事象と必要との中に一生懸命な自分を打込むという姿で主題は途切らされている作品である。人生的な態度をもった作家として五、六年前には「女の一生」をおくり出すことが出来たこの人が、当時の「真実一路」に於ては、真実が主人公の素朴な主観の内にだけ感じられるものとしてしか描き出せなかったということは、やはり当時の社会的雰囲気と謂うところのヒューマニズムの無力とを語っていると思われる。
 ごくあらましな以上の観察によっても昭和十年、十一年頃に於ける文学が面していた矛盾困難と混乱の有様は十分理解することが出来る。
 広津和郎がこの時代的な文学の紛糾摸索に対して「散文精神」を唱えたことも興味がある。「新しい散文精神は現実当面の問題――アンティ文化の嵐に直面して(中略)よくも悪くも結論を急がずに、じっと忍耐しながら対象を分析してゆく精神(中略)結論を急がぬ探究精神こそ」現代作家にとって何より必要なことではないのかというのがこの散文精神の骨子である。武田麟太郎が市井の現実にまびれることを新しい人間性発見への小路としたのとは異って、広津和郎のこの思想は、いわば前者が現実にまびれゆくという自身の意図に我から壮とする身振りをもじっと眺めてゆこうとする態度である。けれども、この結論を急がぬ探究精神が、社会と文学の現実に於て何かであり得るためには、現実の諸矛盾に「耐えてゆく非常に強い気力」が必要とされるばかりではなく、突入してゆく当面の現実に対してある評価判断の拠りどころが明確に持たれていなければならないだろう。自然主義的な「散文的」現実反映とこの散文精神の相違は、後者があくまでも社会現実に向って主動的なダイナミックな本質でなければならないことが唱えられた。しかしなおこの散文精神の提唱もその真の動性を可能ならせる内的な力を明かにし得ていなかったことは見逃し得ない点であろうと考えられる。
 さてかようにしてヒューマニズムの声は、当時の日本の文学を一定の文芸思潮としてのその力でより高めより健やかにしてゆくというよりも、むしろ文芸思潮の失われた後の文学界の錯雑した諸傾向それぞれに、人間像再生の理由によって総花を撒いた形となった。人間が社会的な存在である事実はさすがに蔽うべくもなくて、この時期に「社会小説」という課題が一方にあった。従来の私小説に対して、より広く複雑な社会の姿をさながらに描き出さなければ所謂人間像も芸術のリアリティとして生かされないという理解に立って、社会小説は形式としての長篇小説を予想した。長篇流行の風が萌《きざ》した。日本の文学も私小説の時代を経て社会小説の黎明に入ったともいわれたのであったが、そこには極めて微妙な時代的好尚の影がさしこんだ。横光利一の純粋小説論が、文学の本質として現実追随の通俗性に堕さざるを得ない理由は先に簡単に触れた通りである。この社会小説への門としての長篇小説流行が、当時に於てもその長篇小説らしい構成を欠いていること、武田麟太郎の「下界の眺め」にしろ横光利一の「家族会議」にしろ或は「人生劇場」「冬の宿」その他が一様に通俗性に妥協している点で批判を蒙っていたことは、なかなか意味のあることであったと思う。長篇小説が長篇小説としての構成を持ち得るためには、現実の単なる観察では不足であり、そこに作者の人間的・芸術家的な強い何かの評価の一貫性が、その理解の多様性と共に作品を生命づけていなければならない。独自の社会小説というものもあり得ない。ヒューマニズムという豊穰な苗床さえ当時日本の文芸評論から理論性が消滅しつつあるという重大な危機を好転させ得なかった事実を思いあわせれば、長篇小説、社会小説が本質的な現実把握と文学的実践力を包蔵し得ないままに、ジャーナリズムの場面を賑わした必然も、おのずから会得されるのである。

          四

 牧野信一の自殺は、当時作家の生活感情に一つの深く暗い衝撃を与えた出来事であった。当時は純文学の作家が思想的にさまざまの苦痛混乱に曝されていたばかりでなく、経済的にも益々逼迫して来る不安におかれている時代であった。純文学作品は売れないというのが一般の常識で、しかもジャーナリズムが純文学に提供する場面には制限があり、生活的には殆ど大部分の作家たちが中年に達した家長として経済の負担を痛感し始めた時期であった。昭和十一年二月二十六日の事は、更に複雑な意味で、文学と作家の生活を考えさせた。従来の純文学作家といわれた人々がこの時期の前後に長篇小説への叫び声を一つの跳込み台として通俗小説に身を投じた心理にはこれらの事情も作用していないとはいえない。
 昭和十二年になってから純文学に対する論議は極めて特徴のある歴史的な相貌を示し始めた。文学の対象として自我をとり扱い、私小説を中核に抱いて来た純文学が、社会の推移につれてその自我を喪失して卑俗な現実に属するしかない純粋小説論を生むに到ったことはさきにふれたが、この時期に到って知識人の文化発展における能力への懐疑、純文学の作家をおくり出して来た所謂知識階級の持つ批判精神への反撥として純文学批判が現れ始めたことは、日本文学の歴史の過程にあっても特に関心を惹かれる一事でなければならない。
『文学界』に属する作家評論家たちは、現代文学者の中でも「不安の文学」以来観念の重積を特色として来た人々であると思われるが、このグループが新しい熱心で純文学批判をとりあげたことは興味がある。
 純文学が一般の読者にとって魅力がないものとなって来たのは、それを書く知識人と民衆とが、別々の生活感情に生きているからだというのが、新しい純文学と知識人批判の第一行目であった。社会の現実はどんどん推移しているのに作家ばかりは永遠の文学青年じみた自我の問題などに捉われて時代から置き去られている。文学は文学愛好者の間にだけ細々と命脈を保っているべきではなく、生きた興味で官吏、軍人、実業家などに読まれる「大人の文学」でなければならないという論も出た。
 民衆のための文学にならなければならないという提議は、この時期に於て従来のあらゆる文芸思潮の持たなかった一特徴を具えて立ち現れた。過去のさまざまの文芸思潮はそれぞれの表現をもちながらも常に文学が人間精神を高め目覚まさせる感銘を持つべきものという定義は、あらゆる論議以前の芸術の本質として認めていたと思う。ところが、この度登場した民衆の文学論は「民衆というものは客観的には存在しない」という前提に立って、文学の対象としての本質的な存在を抹殺しつつ、民衆にとって現実への批判精神などは何の興味も価値も感じられてはいない。漫才をみて笑う民衆の朗らかさ、その素朴な生活力こそ文学に新しい力として齎《もたら》されなければならないという論旨が展開された。
 民衆の文学という声が、文学の世界の現実として民衆の日常生活、心理、歴史への関り方を再現してゆくべきであるという自然な解釈からは脱れて、主として知識人の知性、批判力への否定のてだてとして出発して来たことは、あれほど到るところに谺《こだま》していたヒューマニズムの響きの来し方として、愕きに似た感想を喚び起される。人間性の無制約な承認という主張はあのように熱心にくりかえされていたが、社会事情の推移は、かくも急速に知識人の知性のために矛を向けるものと変化した。文学はまず民衆にわかるものでなければならない。民衆の日常感情を映したものでなければならないといわれたが、民衆の理解力といい、日常感情といいそれらはいずれも論者たちの主観的な解釈に立った内容でとりあげられ、その意味では民衆の文学といわれつつ必ずしも文学の現実として民衆を対象としているとは言いかねた。
 谷川徹三が時を同くして唱えた文化平衡論も知識人と民衆の間に横たわる文化のギャップを埋めて、日本の新しい文化はその平衡をとりもどさなければならないとしたが、この論に於ても平衡のモメントは文化そのものの全体的な向上の歴史の過程で生れるものとはみられていず、現実的に高いところから低いところへというような歩みよりの意味で語られた。民衆というものは自身の文化成育の欲望をもっていないものだろうか。知識人の再生というものは、今日あるがままの民衆の習俗常識の中へ己を埋没させてゆくことでだけ達成されるものだろうか。民衆は客観的には存在しないといわれたことは、現実として民衆が種々の可能と素質とに於て客観的に存在している事実を抹殺してのことであるから、知識人の批判精神が民衆にとって無用であるという論旨も不幸にして同様の架空性に立たざるを得なかった。
 文学の問題としてみれば、誰の目にもその矛盾や架空性が明かであったこの独特な民衆の文学論が、作家の心理に何等か影響する背後の力をもっていて、例えば森山啓の「収獲以前」という小説を生んだりしていることは注目を惹かれる。この小説は言ってみれば文化平衡論を小説にしたようなものであった。困窮な下層小市民の家庭から出て、大学教育まで受け、時代の波に洗われて親が描いたような出世の道は辿らなかった一青年が、遂に自分の教養、知性のまやかしものであることに思い到って、出生した社会層の伝習とその粗野な表現に新しい人間的値うちを見出す心理が描かれたものであった。
 このように民衆という言葉は彼方此方へ取り交されたが、文学の実質としての民衆がどのような扱いを受けているかということは亀井勝一郎の当時の表現が最も率直に示している。「文学の大衆化を、文字通り自分の眼前で実行するには、権力又は政治党派と結合するのが早道である。私は誇張した例を挙げよう。例えばネロは、権力によって自己の作品を大衆に強制した。このギリシヤかぶれの暴君は、自分の作品を非難する者を容赦なく殺した。こういう方法で大衆が納得するだろうかと悲鳴をあげても始らぬ。」このロマン派の青年論客が、曩日《のうじつ》文学の芸術性を擁護して芸術至上の論策を行っていたことと思いあわせれば、純文学に於ける自我の喪失が如何に急速なテムポでその精神を文学以外のより力強い何物かに託さなければならなかったかという経緯がまざまざと窺われるのである。
 以上のように文学の現実的課題である作家の創作方法の問題とは切りはなして、文学の外で意識された民衆の文学の声は、その成り行きとして、民衆生活の自然発生な反映を文学に求める傾きを来たした。素人の文学ということが言い始められた。職業的な作家が書けない生活の直接の記録の面白さという点でいわれたのであったが、このことにも当時の文学精神がその独自性を我から抛棄していた反映がみられる。
 豊田正子の「綴方教室」が異常な好評で迎えられたのもこの時期である。随筆への傾きはこの時期更に一歩を進めて、少女の作文にさえ何かの新味と現実の姿とをみようとする状態であった。川端康成が、女子供の文章の真実を、その素朴な偽なさの故に評価しようとしたことも、大局からみればやはり文学の夥しい自己喪失を意味するものであったと思う。
 このような文学に於ける社会的見地の抹殺と客観的な評価の消滅が充ちていたとき、最低限の形ででも民衆の日常の現実を文学の対象として描こうとした努力から中野重治「汽車の罐焚き」や徳永直の「八年制」などが書かれた。
 この年七月蘆溝橋に轟いた銃声は日本の社会の相貌を急変させたと同時に、その年の秋には報告文学の問題が中心に立ち現れて来た。海を渡って早速何人かの作家が現地視察に赴き、その報告の文章が各雑誌に競って載せられた。社会事情の変化と共に大陸を背景として行われている歴史的な行動における人間の記録は、人間の精神と肉体との白熱的な報告として行き詰った文学の世界に新生を与えるであろうという希望もかけられたのであった。
 ところが、この希望も単純に満たされることは出来なかった。何故ならば、既に自身の文学の対象として真に生ける現実と人間とを捉えることをやめていた作家たちが、あらゆる意味で最も近代的に錯綜した一社会現象として現れている事変の局部に傍観的な記録者として近づいたとしても、その全局面を歴史の上に把握出来ないのはもとより、感情としても決してそこに生き戦い死しつつある人間の感想、情緒を映すことは不可能であった。そのような客観的現実としての民衆は、かつて「民衆は客観的には存在していない」といわれた時から、文学の対象として生かされ得ないめぐり合わせに立たされたのである。
 それらの理由によって、当時の報告文学は、報告文学本来の客観的な事実の記録とは全く遠いものとして現れた。即ち、それぞれの筆者の主観と感情の傾向に支配されて、ある文章は無垢な天の童子の進軍の姿のように、ある文章は漢詩朗吟風な感傷に於て書かれた。そして、そのいずれもが等しく溢れさせているのは異常な環境のために一層まざまざとした筆者の個性の色調であった。
 当時文学が新しい素材の源泉とリアリズムの深化の契機を報告文学に求めようとしたことと、そこに見出された不満との関係は、その数年来文学が転々して来た動向から見て必然な結果のあらわれであったといえよう。報告文学がそのものとして独自の人間記録の価値をもって文学を豊かならしめ得るためには、一方に文学の各ジャンルの方法が芸術の自主性において確立されていなければならない。当時のように、文学全体が帰趨を失い自主的な対象と方法とを見失っていたような時期、そこにある現実の特殊さへの関心と、政論的な作家の行動性から報告文学へとりつかれたとしても、そこに文学として得るものが多くなかったのは、現実の必然の結果であったと云えると思われる。
 翌十三年八月になって『改造』に発表された火野葦平の「麦と兵隊」は、これまで現れた作家の報告文学とは全く異った戦場からの身をもっての経験の報告として一般に甚大な感銘を与えたものであった。この作家は、他の何人かの作家と共に応召して戦野に赴いた一人であり、応召までの文学的経験もあって、その「糞尿譚」は文芸春秋社の芥川賞に当選した。「糞尿譚」は糞尿汲取の利権をめぐる地方の小都市の政党的軋轢を題材として、文章の性格は説話体であり、石坂洋次郎などの文章の肉体と相通じた一種のねっとりとした線の太さ、グロテスクな味いを持ったものであった。題材は社会的な素材を捉えながら文学としての特質はその作者の持味めいたものに置かれているというのも、当時の作品らしかった。「麦と兵隊」は、この作家が戦場で報道部員として置かれた条件を最もよく生かした成果の一つであったと思われる。この記録はあくまで小説ではない記述としての立前で書かれており、一兵士としての見聞と人間火野としての自然の感情とがそれぞれに盛られている。従って、戦場の光景はそのものの即物的な現実性で読者の感銘に迫って来るし、一方作者によって絶えず意識され表明されている人間自然の情感というものはその描かれている世界への近接を感じさせる十分の効果をもっていた。この二つの要素が作者火野によって常に意識されていることは、この作につづいて書かれた「土と兵隊」、「花と兵隊」等にも一貫して認められる。しかしながらこの二つの要素への意識はどちらかといえば素朴な両立の形で存在していて、その意識は文章の独特な人間的文学的ポーズを感じさせる。更に私たちの注意を惹かれることは、火野の文章のあらゆる場合、戦場の異常性というものが抑えられて描かれている点である。人間が、どのような強烈な刺戟の中にも馴らされて生きるものであるのは一つの現実であるけれども、馴らされるまでに内外から蒙る衝撃と思考の再編成の姿は、人間の生活的ドキュメントであろうけれど、火野の記録にこの歴史から照り返される人間精神の一契機は、語られていないのである。
 日清・日露の時代とは比較にならず文化戦の意義は広汎に自覚されていて、作家の現地派遣も新しい時代の要求の方向を示すものである。桜井忠温は日露の時代が生んだ一種の戦場文筆家であるが、この人の文章にもやはり火野と同様の素朴な自然人の感情と兵士の立場とが二つのものとしてのまま現れている。そして同じく戦場の異常性というものはその表現の上に極めて抑えられている。文化を動員する方法は大きい変化を示しているにかかわらず、戦場文学ともいうべき火野の諸作が、本質的には桜井忠温の現実の反映のし方から決して三十有余年の人間知性の深化を語っていないというのは、如何なる理由によるのだろう。
 文学としてはこれらの問題を含みつつも、火野の文章が世上に伝えた波動の大きさは正に、銃後の心理を思わせるものがあった。
 同じ時に、上田広の「鮑慶郷」という小説が発表された。火野の文章と対比的に世評に上ったが、前者が生々しい戦場の記録として多くの感銘を与えたに反して、上田広のこの小説は、同じ感銘では受け取られなかった。「鮑慶郷」に於て作者は、戦争から一つのテーマを捉え来って、それを小説に纏めるという、作者の日々の条件からみれば実に驚くべき文学的努力を試みているのである。そして小説の様式も従来の小説というものの仕来りに準じている。読者は、作者の生きている境遇の烈しさをおのずから念頭においているから、題材だけ異ってあとは机の上でも書けそうな小説に面して、ある物足りなさと疑問とを感じたのは肯ける。戦争の間にそれを扱った小説が書けるか書けないかということを軽々に判断し得まいが、上田広の文学的意図と努力が何かの物足りなさを一般に与えたことは幾つかの理由をもっているだろう。最も重大なまた興味ある理由の一つは、戦争という巨大複雑な動きに対して、この作者の捉えたテーマは何といっても小さく浅いという印象を与えたことであった。作者一個の才能とか資質とかいう以外に、このことは現代文学が自身の歴史をどこまで文学の対象とし得る能力をもっているかという点で、文学の内と外とから考えられる課題であると思う。
 このようにして、一方に戦場或いは戦争の文学が現れたが、そのことは直ちに当時の文学的活動の全方向がそちらに向けられたという意味にはならなかった。事変の始め一部の作家は動揺して文学の仕事を捨てるべき時ではないかというような判断の混乱を示したが、その他の大部分の作家たちは、文学本来の意味と任務とを守って、兎も角仕事をし続けてゆくという心理にあった。その意味では、火野の諸作も幾多のルポルタージュも文学の基調を一変させるものではなかった。それらのものと、従来の文学とはそれぞれのものとしてありつづけたのである。
 ところが、この年の初頭に一部の指導的な学者・文筆家が自由を失い、また作家のある者が作品発表の場面を封じられた事実は、文学の本質というよりも一層直接な形で作家・評論家の社会的動向に影響した。顧れば昭和九年「不安の文学」がいわれた時代、日本文学は歴史的な自身の底を意識したのであったが、それは何といっても文学精神の課題に於てであった。更に二年後の衝撃的な事件は、文化の危機を一般の問題として自覚させた。この時に到って作家の身辺に迫った一つの空気は前の二つの経験よりはもっとむきだしの形で生存の問題にも拘るものとして現れた。一つの息を呑んだような暗い緊張が漲ったのである。
 石川達三の小説が軍事的な意味から忌諱《きき》に触れたのもこの年の始めであった。文学のこととしてみれば、その作品は、当時の文学精神を強く支配し始めていた所謂意欲的な創作意図の一典型としてみられる性質の作品であった。「蒼氓」をもって現れたこの作者は、その小説でまだ何人も試みなかった「生きている兵隊」を描き出そうとしたのであろうが、作品の現実は、それとは逆に如何にも文壇的野望とでもいうようなものの横溢したものとなっていた。作者はその一二年来文学及び一般の文化人の間で論議されながら時代的の混迷に陥って思想的成長の出口を見失っていた知性の問題、科学性の問題、人間性の問題などを作品の意図的主題としてはっきりした計画のもとに携帯して現地へ赴いた。そこでの現実の見聞をもって作品の細部を埋め、そのことであるリアリティーを創り出しつつ、こちらから携帯して行った諸問題を背負わせるにふさわしい人物を兵の中に捉え、全く観念の側から人間を動かして、結論的にはそれらの観念上の諸問題が人間の動物的な生存力の深みに吸い込まれてしまうという過程を語っているのであった。
 人間の問題を生活の現実の中から捉えず、観念の中にみて、それで人間を支配しようとする傾向は、昭和初頭以後の文学に共通な一性格であるが、この作品には実に色濃くその特徴が滲み出していて、作者が自身の内面的モティーヴなしに意図の上でだけ作品の世界を支配してゆく創作態度が目立っている。
 文学が自立性を失って、ほんとうの意味で作家の生活感情からの動機なしにつくられてゆくこの気風は、当時世相を蔽うた一種の息苦しい不安と結びついて、作家の動きに顕著な心理を現した。かつての純文学の作家・評論家が自己への信頼を失うとともに文学の外の強い力へ己を託した姿は先に触れた通りである。当時は、新しく登場した作家として「沃土」を書いた和田伝、「鶯」を発表した伊藤永之介等の作家があり、「あらがね」で鉱山の生活を描こうとした間宮茂輔等があった。農村を題材として和田、伊藤の作家が活動し始めたには、前年からの社会的題材への要望、作品の世界の多様化の欲求が一つの動機をなしていたのであろうが、それらの作品が好評を博したことは、当時の官民協力の気風と結びつき銃後の農村の重要性を文学も反映させなければならないという立前と結合して、官製の農民文学懇話会結成の気運を齎した。その懇話会賞も制定され、その名の叢書も刊行され、それらの小説集の表紙には時の農林大臣有馬頼寧の写真が帯封の装飾として使われるという前例のない有様を呈した。
 近代及び現代の日本文学の中で、農民文学の占めて来た位置とその消長の跡とは、日本の社会と文化の成立の歴史と照しあわせてさまざまの感想を惹きおこす問題だと思う。日本が農業国であって、その独特な条件の上に明治の新文化が開花させられたのであるが、文学に於いては、長塚節の「土」を一つの典型とするのみで、土の文学を唱道する作家たちの活動や大正年代に吉江喬松・中村星湖・犬田卯等によってつくられた農民文学会の活動などが、特にめざましい文学上の収穫を齎して来ていないことは、注目すべきことである。農民文学のかような歴史の断続とそのみのりの或る困難さは、農民生活と土とに心を惹かれた作者たちに、日本の農村・農民の社会的具体性が十分明瞭に把握されず、ある人々は自然への愛好の表現の一面として、ある人は近代文化の都会性へのアンティテーゼとして一種のモラルの見地から農民文学に近づいていたためでもあったと思われる。プロレタリア文学は、農民が土との関係の中で置かれている歴史の現実に触れて、農民自身による生活表現としての農民文学を導き出そうとしたし、その創作方法では農民を文学の外にある読者として見ず、作品の真実の対象として扱おうとした。
 今、一つのグループを持って現れた農民文学が、農民文学として注目されたよりもむしろそのグループの新しい動向の方が問題とされたということは、争われない時勢の一表現であったのだろうか。このグループの作家たちが役所に使われる者ででもあるかのように「某々氏、農民文学懇話会の依嘱により何々地方へ視察旅行に赴く。」というような表現で消息を書かれた雰囲気も類のないことの一つであった。
 文学の外の力との経緯からそのような動きを示した当時の農民文学がその作品の世界にどんな誠実をもって日本の農民の複雑な姿を描いたかといえば、この問いはあまり満足な答を得難い状勢であった。農民作家としての和田伝にしろ、伊藤永之介にしろ、真の農民の生活的現実をその文学に生かすには、謂わばあまりに当代の作家らしさを身につけすぎた人々であり、創作態度にはやはり或る観念化がつきまとった。これらの作家は人間が如何なる条件に存在するかというその諸条件を書かなければならないという文学思想に立って農民文学にも対したのであったが、それらの諸条件を描くという場合注目されることは、人間と存在条件との間の統一が求められていず、人間環境としての存在条件が実証の精神によって科学的に観察も分析もされていないという点である。とりもなおさず農民は農民自身の生活現実に於て扱われていず、作者たちが人間に対して抱いている観念を農民の存在条件の中に見出そうとする傾向に立ったのであった。それ故「沃土」のような成功した例外のほかの多くの和田の作品は、その農民心理が我執とか所有欲などを本能にまで還元された上で、その葛藤を特定の条件によって設定して、その筋の上に発展させられている。なお、考えさせられることは、作者の人間に対して抱いている観念そのものが、作者の地主としての農村に於ける生活のニュアンスから蒙っている影響や、人間の生きようというものに対して時局が要求している調子に或る反響を示している点である。さもなければ、どうして農民文学の暗さ明るさというようなことが、過去の農民文学の所謂暗さを否定する方向で当時あのように作品の側から一方的に――即ち農民生活の現実からの声としてではなく――いわれなければならなかっただろう。
 伊藤永之介の「鶯」や「鴎」は農民のルムペン的な存在条件の中に人間の種々相を捉えようとしたが、独特の説話体で書かれたそれらの物語は、農民の存在条件に突き入ってゆくよりは寧ろそれぞれの瞬間に笑いと涙とを表現していて、そこに漂っている仄明りの故に、救いのある農民文学として迎えられたのであった。
 二三の読むべき作品は生まれたけれども、当時の農民文学は文学としての自主性を持たなかったこと、農民の生活を描写するにあたって文学的正直さに徹し得ない内外の事情に制約されていたために、農村の具体性を再現し得ないという意味では、所謂時局的な「農業政策の行われる沿道の風景」をリアルに描き出す可能をも失っていた。
 かように文学として自主的な必然に立っていなかった農民文学のグループが、本来ならばますます描かれるべき農村状態の緊張の高まりと共に忽ち方向を転換して次の年には南洋進出の潮先に乗って海洋文学懇話会というものに変ったのは、まことに滑稽な悲惨事であった。
 間宮茂輔、中本たか子等の作品が生産文学という名称を持ったことも、究極に於てはこの農民文学がそうであった通り文学からの生ける人間の退場が根本の理由をなしている。かつて横光利一が第四人称の私を発明した時既に生産文学に於ける人間と物との置き換えの準備がされたのであったといえば、「紋章」の作者は意外に感じるであろうか。
 私小説的境地からの脱出として社会文学ということがいわれた時、文学は作者と作品の世界とを繋ぐ血肉的な関係に対する支配を失っていて、作家の創作的意図で作品が作家の生活の外でどしどし纏められてゆく危険に曝されていたのであるが、社会的な素材を文学に持込もうという意図が作者の内面ときりはなされて旺盛になったことは、時局と共に生産拡充の呼び声に惹きつけられて行った。
 社会の物質的な土台が生産にあることを否むものはない。生産面に働き、その働きに於て生活的・社会的な人間の評価をもつ人間が小説に描かれてゆくのならば、労働文学と何故呼ぶことが出来なかったのだろう。ここに極めて微妙なものがあると考えられる。物質的な生産の行為は一目瞭然のことである。だがその行為が人間生活の中にかかわりあい、様々の生きた意味をもってくる経路は、誰の目にもいつもはっきり見えているとは言えない。その経路を生産の場面に働く人間の存在の条件或はその状態から語る労働として見る立場からその文学が立ち現れず、物[#「物」に傍点]を生産する過程や場所[#「場所」に傍点]に重点を置く生産という言葉を戴いて出現したことは、やはり時代の対人間の傾向を示すものとして見逃せない。建設的な精神の本来は極めて複雑高度な現実把握と実践との統一を意味するものであろうが、当時らしい概括で流布した建設的精神の解釈は、当面向けられた要求に向って一切の疑問を抱かぬように単純化された生活と精神との所謂真面目さという低度に止まっていた。生産文学は、人間を物に従わせるということで、とりもなおさずそのようなものとしての建設的精神の文学的表現となったのであった。
 ところで、知識人をこめた一般の読者は上述のような幾種類かの何々文学の続出に対して果して満足していただろうか。知識人は生産文学が示したような人間生活と精神の単純化には、何と云っても耐え得ないものを持っている。何かの理想を求め、主張をたずねている。しかも、一つの理想主義があらわれるとそれに束縛されることを望まず、何かそればかりではない他のものを求めて動きつつ、知識人としての存在価値を自覚させるよすがを求めている。知識人がよしんばそれに対立するとしても、そのことで自己を保っていた支柱を数年前に失ってから、生活と文学とに何かを求めつつそれを追い払いつつ転々して来た跡は、文学の上に明瞭に見て来たところである。
 何々文学には満足出来ず、さりとて理念と行動との一致は追究せず、だが、考えることはやめられない知識人の心情に触れたのが、島木健作の「生活の探求」であったと思われる。
「癩」、「獄」、「第一義の道」、「再建」などによってこの数年来思想的放浪に置かれた知識階級の良心の支柱となり得るかのような作品の居住居を示して来たこの作家は、「生活の探求」に到って一つの転回を示した。これは、都会の大学に苦学的な学生生活を営んでいた駿介という主人公の青年が、都会の文化と知識人の生活を批判して故郷の農村の家へ帰って素朴な勤労生活に入ることを描いた作品である。
 これまでの作品でこの作家は、執拗に、知識人の自己の歴史への任務の自覚と、良心の苦悩と、それに殉じようとする精神をとりあげて肯定して来た。ところがこの度の生活探求に於ては、よかれあしかれ知識階級の一特質をなす知性の世界を観念過剰の故に否定して、単純な勤労の行動により人間としての美と価値とを見出そうとしていることは、一方の極に生産文学を持った当時の人間生活精神の単純化への方向と合致していて、極めて注目を惹かれる。
「生活の探求」に描き出されている世界の現実は、駿介が学生生活をやめて田舎へかえるという作者によって設定された条件そのものからして、何もわれわれに理想や主張の具体的なものは与えない。もし知識人の苦悩といい、批判というのならば、帰る田舎や耕す田地は持たないで、終生知識人としての環境にあってその中でなにかの成長を遂げようとする努力の意図がとりあげられなければなるまい。駿介に還る田舎を設定しなければこの小説全篇が成り立たないことや、そのような形で簡単に思惟と行為とを対立させて、云わば仮定から一つの実験を展開させているところは、文学作品としての被いがたい弱さであると思わざるを得ない。理想を持とうとしているのだという押し出し、主張を見出そうとしているのだという身振りに打ちこめられている作者の執着と熱心が駿介を中心として全篇に漲っているが、それは一つの精神の形式に過ぎないものであるから、生活の細部の行動では日常の卑近なあれこれに主観的な誇張された感慨をうちかけて行かざるを得ない。観念形式の嵩だかさと日常の卑近さの間にあるこの分裂は、ある理想の日常性への具体化ということとは全く違う本質である。真摯だという点で一定の読者への影響をもっているこの作家の考えること[#「考えること」に傍点]それ自体に良心の意義を主張している創作態度は、客観的には知識階級が今日如何に生きるかを考えるという満足のために考えるポーズに拍車を加える結果ともなっているのである。
 この如何に生きるかという命題は、阿部知二の諸作のテーマでもある。この作家は島木健作とは異って、「冬の宿」、「幸福」等にみられる通り、思想と行為の分裂やその二つのものの機械的な綯い合せの域を一歩進めて、生活全面の無目的な自転を、その文学の中に追跡している。その意味では、島木の文学の所謂健全性がその髄に飼っていてそこから蟻と蜚※[#「虫へん+廉」、第3水準1-91-68]《あぶらむし》のような関係で液汁を吸いとっている時代の虫を、阿部の文学は彼流の知性のつかわしめ[#「つかわしめ」に傍点]のようなものとしていると思える。

          五

 このようにして移って来た現代の文学が、一方で小説の素材主義に対する批判を生んだのは当然のことであった。小説が文学的感銘を失い、その世界に水々しく生きている人間の姿を失って、題材の筋書を辿るばかりのものに堕したという不満が一般に聞かれるようになった。それにも拘らず、長篇書き下し小説の流行はかつてない勢で出版界を風靡した。慌しく忙しく流行作家は長篇を書き下しつづけたのであったが、この商業的な文学の隆昌が、昭和十四年度にははっきり文学のインフレ景気という名称を蒙って、出版界の賑かさに反比例する文学の質の低下が真面目に注目されるようになった。
 文学の精神は自主性を失って文学の外の力に己を託した日以来、下へ下へと坂を転り、その転る運動を文学の時代的反応の当然の動きであるかのように偽装しながら、この年に入っては、遂に文学性などというものに煩わされる心情を蹴り捨てた一種の作品が流行した。「結婚の生態」はかつて「蒼氓」を書き「生きている兵隊」を書いて来た石川達三が、文学非文学の埒を蹴って、文学を常識性の一ばん低く広い水準での用具とした一つの実例であった。
「生きている兵隊」で、この作者は極端な形で観念と現実との熔接術を試みた。そして観念は人間の生存本能の中に吸収されてしまうという理解に辿りついたのであったが、「結婚の生態」では、この社会の世俗の通念でいい生活と思われている小市民風な生活設計を守るために、本能も馴致されなければならないものとされ、そのために文学がつかわれることとなった。文学がその作家の文学的性格の強靭さの故によるというよりは寧ろ、世間を渡る肺活量の大きさで物をいうという現象は、文化と文学のこととして何と解釈され、何と反省されなければならないことであるのだろうか。
 文学に人間を再生させようという地味だが本質的な要求は、次第に明確に作家たちの間に湧きおこった。短篇小説の再評価の問題もその要求に連関するものとして、考えられると思う。短篇小説が私小説の系統に立って、作者の身辺些事の描写や、狭く小さく纏った雰囲気、心境をその世界として来ていたということに対して、嘗ての不満は表明された。現代の日々は、そういう独善の文学的境地というものの成り立ちを不可能にしている。文学はもっと社会的にその世界をひろげ豊かにしなければならないという要求から、長篇や社会小説が求められたのであった。その要求は一つの必然に立つものではあったが、さきに細々《こまごま》とふれて来たように、その出発の一歩で、文学としての自主性を失ったことから、結果としては小説から人間が退場させられるという光景を来した。作者は作品に対する自己のモティーヴなどに心を煩わされることなく、書けないという往年の作家たちの悩みなどは無縁な心情で、対象への愛や凝視に筆足を止められず、書くという状態になった。
 人間を文学に再び息づかせるには、作家が先ず人間への愛をその精神の内に恢復させなければなるまい。自身の創作のモティーヴを見きわめ、描こうとする対象と自身との渾一の状態を求め、話の筋よりは作家の生命が独特の色、体温、運動をもって小説の世界に呼吸しなければならない。そのように作家が己れにかえる道は、短篇小説の新しい見直しにあるのではないかと考えられたのであった。
 形式の上の小ささから、短篇が心境的な要素に立たなければならないという先入観は誤りで、例えばチェホフの短篇にしろ、短篇が普遍的なる世界をもち得ることは明かである。私小説に出戻るというのではなく、社会生活に対する興味と関心と、そのような社会生活を共同のものとして感じる心の肌理《きめ》のつんだ表現としての短篇小説が期待されるようになったのである。
 文学の文学らしさを求めるこの郷愁《ノスタルジア》は、素材主義的な長篇に対置した希望で短篇小説に眼を向けさせ、岡田三郎の伸六という帰還兵を主人公とする連作短篇なども現れた。また十四年度に著しい現象とされた婦人作家の作品への好意と興味とも、一面ではそこに繋ったものであった。
 今は純文学が文学の文学らしい形象性を意味するものとして云われるようになったのであるが、それが長篇に対する短篇という形式によってとりあげられたところに、やはりもう一度考慮を深められるべき要素が潜められていたと思う。何故ならば、より純な文学の心情に立つ方法として拠りたたれた短篇の多くは、やはり以前の伝統の糸の力に少なからずその作品の世界をひき戻される現実となった。やはり身辺的な作品、境地的な作品が多く、その意味で文学の本質が心情的に分っている作家が、この三四年間の波瀾をとおして、現実把握の方法を長足に社会的方向へ発展させたとも思われない状態であった。
 文学へ新人の爽やかな跫音を、と求める気分は濃厚となって、新人推薦、発見の方法は幾多の賞を手引きとして講じられた。抑々《そもそも》日本の現代文学の世界で、こんなに幾種類もの賞の流行が、文化統制の気運とともに組織された文芸懇話会賞から始ったというのは、歴史の興味ある容相ではなかろうか。文学の衰弱の声とともに益々賞が殖えて行ったこともただ見ては過ぎ難い。芥川賞第一回以来、幾人かの作家たちが現われたが、その第一回から新人たちが文学の世代として新人とは云い難い文学の閲歴を重ねて来ている人々であることが、特に関心をひいたことも記憶に新しいことがらである。
 文学批評の、批評らしい客観的な存在の薄れたことにも、文学の健やかな進展を要望する傾向からの注意が向けられた。評論の不振に活の入れられなければならない必要も痛感されつつ、今年が迎えられた。窪川鶴次郎の『現代文学論』は昨年の冬出版され、数年来の文学の動向を、個々の現象に即しながらそれを原理に近づいて論考した所産として、少なからぬ興味を有するものであった。
 多岐多難な現代の日本文学が、今日と明日とに向って自身の最大の課題としなければならないのは何であろうか。ひとくちに要約すれば、それは文学に於ける人間の再生の課題であろうと思う。人間は文学の世界において、物に従属させられる人間から、物の主人である人間の現実の生命をとり戻さなければならないであろう。生存の条件の下に自主の力のない運命をくりひろげるものとして描かれている人間の姿は、生活の条件に評価をもって働きかけようとする人間の力の実際で見直されるはずではないだろうか。作家は、社会的な人間としての自分を自身にとり戻して、そのことで観念の奴僕ではない人間精神の積極的な可能を自身に知らなければならないであろう。例えば長篇小説の非文学的な状況の打破も、芸術文学としての長篇の在りようにおいて見きわめられなければならず、そのために、くりかえしなおまた再びくりかえす現実の必然として、作家は創造的な批判の精神を溌溂と発揮し、文学の対象としての人間の歴史的な個性的なその動く姿を、作品のうちに正当な相互関係で甦らせなければなるまいと思われるのである。[#地付き]〔一九四〇年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「日本文学入門」日本評論社
   1940(昭和15)年8月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
2003年7月13日修正
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