青空文庫アーカイブ

指紋
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)むじつ[#「むじつ」に傍点]の村人のいくたりかが、
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 この間、『サン』を見ていたら、福島県のどこかの村の結婚式の写真が出ていた。昔ながらの角かくしをかぶって裾模様の式服を着た花嫁が、健康な農村の娘さんらしい膝のうずたかさでかしこまって坐っている。婿さんの方は、洋服姿で、これも国民服の形をした洋服姿の年よりの男数人と、一つの小机を囲んでいる。何をしているところかと思ってみれば、それは、結婚記念に指紋をとる、という世界にもめずらしい行事をおこなっているところなのだった。『サン』のカメラは、ぬけめなく国内国外の目新しい写真をあさっているわけだが、この福島県のある村の人たちが、結婚式に指紋をとる、という奇習を決定した情景を、いちはやくつたえたのだった。
 その写真は、すべての人々に、奇異な印象を与えた。古風な角かくしまでかぶって嫁入る花嫁や素朴そうな花婿の、指紋をとることにきめたとは、よほど泥棒でも、多勢出た村だったのだろうか。それとも、殺人とか何とかおそろしい事件で、むじつ[#「むじつ」に傍点]の村人のいくたりかが、ひどい目にあったということでもあって、それにこりたその村人は、自分たちは正直な働きてであり、実直な農民であることの証明に、指紋をとることを思いついたのだろうか。いずれにせよ、新しい人生のかどでに指紋とは、普通の生活をしているものの思いもつかないことだった。ぼんやりした気の毒さをもって、指紋をとられる花嫁花婿の写真を見た。
 とんで十一月十三日の晩、わたしは、風邪ひきで床についているひとのわきで、東京新聞をひろげた。そして、そこに「全都民の指紋を登録」と三段ヌキ、トップに報道されている記事を見出した。福島のその村での結婚式の指紋とりは、偶然のことでなかった。
 われわれ都民は、とられるもの[#「とられるもの」に傍点]には、もう誰しもたんのう[#「たんのう」に傍点]しきっている。とれるよりももっとどっさりの税をとられ、自殺する家族まで出るその金は公団その他にかすめとられ、もうとられるものはないと思っていたら、指紋があった。
 新聞の記事は、まるで警官がもって歩く戸口調査簿のように、全都民の指紋は一般台帳にのせるのがあたりまえのようにかいている。指紋をとることが、都民の権利の主張であるとして語られている。しかし、指紋をとる、ということは、あたりまえの生活にあるべきことではない。刑事訴訟法二一八条二項に――容疑者の身柄を拘束した場合にのみ、強制的に指紋を採ることができる、とある。したがって、指紋と犯罪の容疑とは密着したものである。泡盛によっぱらって、留置場のタタキの上で一晩中あばれていただけの者が、警察にとまったからと云って指紋はとられなかった。
 盗んだ、殺した、火をつけたという事件の容疑者が指紋をとられた、と同じに、思想上の問題で検束されたりした者が、指紋をとられた。思想の自由、言論の自由、そして良心の自由のない日本、警察国家の日本は、そういうところに権力の方法をあらわしていたのだった。
 一九五〇年になって、基本的人権ということばが日用語にはいっているとき、日本では東京全都民の指紋をとることにした、という現象は、世界にむかって、日本そのものが何人かにとって一つの容疑者の檻になりつつあるということを語るのだろうか。あるいは、奈良朝時代、使役する奴隷や農奴の脱走を防ぐために、いれずみをした、そのような何かが必要になって来たというのだろうか。
 たしかに、東京はおそろしいところになっている。上海がかつて国際犯罪都市であったように、ブダペストが国際スパイ都市であるように。けれど、そういう犯罪的ファクターは、都民一人あまさず指紋をとることで絶滅することができないものであることも明瞭である。悪に誘われ――それが悪とさえわきまえず悪におちいる少年少女の、垢のついた小さい十本の指を、拇指から小指へとくっきり指紋にとって、それを何万枚警視庁にためて分類したとしても、わたしたちの日本の苦しみと悲しみはへりはしない。
 警視庁の役人は、「人権がどうのということなしにむしろ自己の権利を守るという明るい観点から協力してもらいたい、」と語っている。万一あなたの身に不慮のことがあったとき、指紋さえあれば、すぐあなたの身元がわかりますから、と云われて、うれしい世の中と思うひとがあるだろうか。水夫は、水難し、漂着したときの目じるしに、いろいろ風の変った入れずみをする。だからと云って世界周遊船の旅客に、あなたも同じ海の上、同じ船の上での旅なのだから、万一のため、と入れずみをすすめて、それはあなたの権利を守ることです、というマネージャがあり得るだろうか。
 日本の権力が、科学によって強化されるプロセスが、催涙ガスの使用とか、指紋採取とかいう面でおし出されていることについて、世論は無批判でありえないのである。[#地付き]〔一九五一年一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「展望」
   1951(昭和26)年1月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
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