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生活のなかにある美について
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)凜々《りり》しさ

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(例)へり[#「へり」に傍点]がスフで切れやすい
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 私たちの日常生活のなかにある美しさというものも、今はなかなかきつい風に吹かれているのではないだろうかと思う。
 日々の生活にあった日本の美しさの隅々が変化をうけつつある。たとえば家の障子というものの感覚は、私たちの感情に結びついたもので、障子をはりかえたときのさわやかな気持だの、障子の上の雪明りだの日本の抒情に深い絆がひそんでいる。けれども、今日では普通の家の障子は、随分とひどい紙で張られていて、紙の美しさはないばかりか、到ってさけやすい。
 日本の畳も、特別むずかしいことを知らない私たちにすれば、へり[#「へり」に傍点]がスフで切れやすいことは困却の一つである。
 木綿の生活的な美しさも、日常のなかへ再び嘗ての豊富さでかえって来ることはないだろう。
 いろいろそういうところがあって、それが生活の気分を、平易親密な美しさに憩わせることの少いものにして来ている。
 この頃、銀座の裏通りを歩いたりすると一寸した趣味とげてものをとりまぜたような店がふえて来ているのが目立つ。
 一応贅沢が人目に立ってはいけない折から、本当の高貴なものは反物にしろ器物にしろ街頭からひっこんだところで動いているわけなのだろう。従って、ぶらぶら歩きの視線にふれて来る程度のものは、ちよく[#「ちよく」に傍点]な、これも面白い、という程のものなのだろうし、又今日は一般の人の目がそういうものにひかれやすくなってもいるのが実際だろうと思う。
 使っていい金が世間にあっただろうし、そういう金が流れているだけに物は悪くて高くなっているのだから、茶碗一つを買うにしろどうせもとの考えかたでやすくて使えるものがなくなっているのならば、と人々の目は一寸目先の変った品物へひかれるのである。
 それともう一つは、各方面に日本的なものの見直しがあって、そこには日本の美を真に見直そうとする愛の目醒めと同時に、皮相の風潮としてのそういうものもある。そして、そのことでは、面白いことに丁度外国人が日本の美というと古典しかわからないように、日本の美というと古いものにしか目を向けられないでいる傾きもある。
 世の中の勢は益々画一へ向い、工場でも小さな工場は併呑されて消えて行っている一方で、人々の感情に郷土的な品物や極めて手工業的な製作品が新しい興味を呼びさまして来ている関係は、今日の日本の文化の心理として案外に微妙であり重大でもあるのではないだろうか。
 或る時期の文化の中で、こういう分裂の現象があらわれて来ることは見過されてならないことだろうと思う。
 生活の片隅から親愛な美しさが失われてゆく感じから我知らず郷土的な風趣のあるものだの、げてものの面白さだのを求めている人々の生活にしろ、つまりはそれらのものを外から運びこんで生活のあすこ、ここに置いているだけのことで、つきつめて云えば一種の消費が形を変えたものに過ぎない。生活の面に飾られ、置かれ眺められているだけのことで、生活の内部からつくられたものでないことは否めない。
 郷土的な物産にしろ、それならばそれぞれの地方で一般の人たちがそういう製作品の味いで日常生活を特色づけ豊かにしているかと云えば、今日ではその地方を潤す色彩としてよりも、寧ろ郷土物産として都会へ売り出される目的でつくられる方が多いだろう。嘗てはそれぞれの土地の人の毎日の裡におかれた生活に即した美しさは、今やもっと迫った経済の関係で外部へ吸い出されている。
 柳宗悦さんたちのやって居られる『月刊民芸』という雑誌の座談会で、誰かが、この頃やっといくらか人々が物の美しさに目をとめて来たようだ、と云っておられる今日の傾向は、そういう訳で、決して単純な動機であると云えない。単純に、美しさを生活の中にもちたい心持がまして来ている、とだけ云い切れまい。余りどこもかしこも荒っぽく殺気だっている明暮だから、せめて台所ののれん[#「のれん」に傍点]ぐらいはと、仮に「こうげい」でそんなものでも買う人々の暮しは、現実にはその台所の戸棚に相当な食糧の補充も蓄えられている人々のことである。そもそものれん[#「のれん」に傍点]の発祥した庶民の暮しは、同じ荒っぽさに一きわむき出されているのだが、そういう生活の中では、一山いくらと札の立っている瀬戸物のなかからより出して来る茶碗が実にひどいものになっているという今日の情のこわい肌ざわりしかないのである。生活の中にある美しさについて云うならば、それはごくあたり前の、必要から幾箇かの皿小鉢、何枚かの盆をつかって暮している人々の、その皿に、その盆に、どんな暖い心がこめられているかというところこそ見られて行かなければなるまいと思う。そういう何でもないものが、十五銭の皿は、はい、こんなもんですよという風に生活の中に突き出されているか、それとも、十五銭なりにちょいとした可愛い人間らしい工夫がほどこされているか。その時代の人が、そのどっちの気分で生きているか、というところに問題があるのだと思う。それが自然にあるところで、どんな味を湛えているかという事にこそ、美しさの生々とした本来の姿があろう。
 マリ・アントワネットが宮園に百姓小家をつくらせたことは、当時の貴族の文化の健やかさを示すものとは見られず、フランス史の中で一つの頽廃の表象としてあらゆる人々に知られている。
 日本の或る地方の農民は、極めて手のこんだ背い子を編む。だけれども、それは現在その地方でも実用には使われていないという風なものを蒐集して、仮に客間の壁にかけて置くという趣味が、果して美しさに敏感な心と云えるだろうか。
 又、外国の宮殿を見ると、よく支那の間とか、トルコの間とかいう室がつくられている。すっかりその国の特色あるもので装飾されて一室をなしている。そういうところを眺めていると、過去の世紀の権力の表現方法やその様式というものが、絵巻のようにまざまざと甦って来て、あくどい思いがする。
 いろんな国の品物のいろいろな面白さのよろこびで一つ二つのものが、家のあちこちにひょい、ひょいとあるのは自然にうけられるけれど、家具調度一式琉球とか朝鮮とかいうところのもので埋める趣味があるとすれば、その一つ一つがもっている美しさとは、いつしか別物なはためには何々の間と相通じたものとなって映る一種特別な感覚もあり得る。
 生活の中にあるものの美しさは、それが巨大な機械類であると、小さい日用品の類であるとにかかわらず、そのものが生きて働く目的を十分示していて、その充実感が美に通じているべき筈のものだろうと思う。
 一つの御飯茶碗がここにあるならば、それは色と云い形といい、いかにもそこへ御飯をよそって食べて見たいと感じさせる。そういう直接で溌溂としたものでありたい。それを作ったひと一人だけの趣向だけが強調されているものは、道具類だと猶更重苦しいと思う。
 この意味で、美しいもの、という観念が私たちの生活のなかでもっともっと贅肉のとれたものとならなければならないだろう。ものの美しさは、生活の裡で時、場合、人にかかわりあって来るその流動において感じられ、とらえられるもので、なければなるまい。何が美しいかということに関する固定した知識が伝統からもたらされるとすれば、どんな時どういう風に美しくものを使ってゆくかという感覚こそ、今日の中から新しい美をつくり出してゆく潜在力となるものだと思う。
 日本の衣服についての再吟味が初まって幾何かの時が経っているが、婦人の衣服の改良案などが一つも訴えて来るものをもっていないのは、やはり改良して行こうとする心の動機に、弾力がないからだと思う。単一化そうとばかり方向がむけられていて、人間は働き、そして休みくつろぐものであるという、生存の根本のリズムがつかまれていない。平日と式日という風にだけ頭が向けられていてそれを何とか一つもので間に合わそうと考えられている。それでは美しさも、凜々《りり》しさも生かせまい。
 働き着は働きの律動を充実させたところに美が見出されるのだし休みのときの服装は、休みのときの感情に添うているからこそ人間の衣服と呼ぶにふさわしいのである。和服で面白い働き着というような工夫が紹介されるとき、妙に擬古趣味になって、歌舞伎の肩はぎ衣裳だの小紋の、ちゃんちゃんだのがすすめられているのは、何処か趣向だおれの感じではなかろうか。働き着の面白さは、働きそのものを遊戯化しポーズ化した連想からの思いつきによってもたらされるものではなくて、やはり真率に働きの目的と必要とに応えて材料の質も吟味された上、菅笠で云えばその赤い紐というような風情で、考案されて行くべきなのだろうと思う。
 私たちの生活の中では、生活の中にある平凡さが、どこまでその美の内容をたかめて行きつつあるかということが、大切に考えられていいのだと思われる。署名もない、そこいらにあるものに、どんな美しさがこもっているかということ。つまりは美を生み出してゆく可能力がどの程度まで豊饒に一般の生活感情の内にはらまれているかという点が、問題になって来るのである。今日の日本では一般の生活感情が動揺しているとともに、そこにふくまれている創意性も複雑な転変を経験しているのが実際であろう。
 ひとの話では、染色の技法は今日或る転機に面しているそうだ。これまでは、刺繍だの金銀泥が好きなだけつかえて、染料の不足もなかったから、玄人とすればいろいろ技法を補い誇張する手段があった。ところが、統制になって、そういう補助の手段が減って来たために、専門家は愈々純粋の染色技術で行かなければならなくなって、ここで本当に腕のある熱心なひとは、必ず一つの進歩をとげることが期待されているのだという話であった。しかし、そこに又むずかしいこともあって、商売である以上、採算がとれるとれないのことが念頭にある。素人にとって何のちがいも分らない骨折りを、仕事への良心のために、敢て重ねてゆく工人は果して何人あるだろう。しかも、そういう迂遠な道を厭わぬ人たちによって、染色という技術の水準は守られ高められてゆくのである。
 現在既にそうなって来ているのだが、これからは益々、日常生活の中にある美を守勢で擁護して行こうとしても消極に陥るばかりだと思う。生活の中に喪われてゆく従来の美しさへの郷愁で、手工業的なものの趣味に愛着する傾きも、今日の社会の一部にある美の衰弱を語っている徴候だと思う。
 私たちは、めいめいの生活に即し、そこに動き流れる表現として造形的な美しさをも捉え創り出してゆく心の抑揚をゆたかにしたいものだと思う。ものを美しく精髄的につかうわざを会得してゆきたい。美しいものもそれが一定の関係の下では醜いものと転化してゆく、その瞬間に対して敏感でありたいとも願うのである。[#地付き]〔一九四一年七月〕



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
初出:「アトリエ」
   1941(昭和16)年7月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
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