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ペンクラブのパリ大会
――議題の抜粋についての感想――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)横《よこたわ》る

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)モスク※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]
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 六月下旬にパリで四日間に亙って開催された国際ペンクラブの第十五回大会に、有島生馬氏や井上勇氏、久米正雄氏などが出席したことが新聞に出ている。その議事日程の中、委員付託による四つの問題の検討がされている。(A)世界文学に今日のスタイルというべきものが存するか。(B)翻訳以外に如何なる方法で文化の世界化を援助すべきや、特に如何にして各国間における批評の交換を計りまた国際批評の組織をはかるべきか。(C)今日及び明日の文学における集団の発言方法及びその可能性について。(D)現代世界における詩の将来(現実社会状勢中における詩の位置。)
 どの課題も十分研究されるべき性質をもつものであるけれども、特別(B)(C)(D)とについては、散漫ながら誰の心の裡にも直ぐ湧く様々の感想があろうと云うものである。
 現実の生活環境から超絶したものの観かた、感じかたは出来ないのであるから、国際ペンクラブの大会で討論されたという(B)の一項目をしげしげと眺め入って、そこに今日の日本文化人の渇望がいかにはげしく照りかえしているかという事実、同時に実際上の困難がこれ又いかに尠くないかということを痛感するのは、ただ数人の日本ペン倶楽部代表者たちだけではないであろう。
 大会では積極的に、翻訳以外にどういう方法で、文化の世界化を援助すべきか、というところから出発している。だが周囲の現実は遙にそれ以前と云おうか、先行的な条件で制約されてしまっている。先ず、各国[#「各国」に傍点]の文化、批評を活溌に交換するために必要な雑誌や書籍類の自由な国際的購読が今日では一般人にとって困難になって来ている。一般生活に必要がないと認められる種類の新聞や本などというものは手に入れ難く、しかもその必要でないという結論は、決して一般の読書人・文化活動者の具体的な多数決によるものではないのである。
 文学に関する国際批評の水準をたかめ、且つそれを豊富強力、進歩性に富んだものにする必要は、例えば昨今のスペイン、中国、ソヴェト、日本、ドイツ、イタリー等の文学の歴史を人類的な規模で正確に把握するために、欠くべからざる条件である。大会は、この一項だけに触れて見ても、最も文学精神の機微にふれたしかも強靭な活動の必要の自覚を各国のペンクラブに求めているわけである。
 H・G・ウエルズが一九三四年にモスク※[#濁点付き片仮名「ワ」、1-7-82]を訪ねた時、むこうの作家たちにベルリン、ウィーン、ローマの各ペンクラブが、どんなにファシストの文化政策に対して「文芸の自由と品位を保持するために」たたかったかということを語っている記事を、『セルパン』の八月号で読んだ。
 そもそもペンクラブというものが、文筆にたずさわる人々の親睦機関から今日のように文化的により深い意味と活動とを行うようになったのは、ドイツでユダヤ系の作家、左翼作家を迫害して、ベルリン・ペンクラブを強奪してナチの宣伝に利用しようと企てたことからであった。そのことを、明瞭にしている点では他の部分に問題をはらんでいるウエルズの話も誤っていない。彼は「わが貧弱なペンクラブ」がトルラーのために起ったことを誇っているのである。
 日本代表の有島氏は、ヴェノスアイレスの第十四回大会へ島崎藤村氏と共に出席したのだから、恐らくこの一年の間に世界の空気がどのように動き、対立する気流はどのように深化したかを、些かは身に添えて感じていられるであろう。日本における外国文学翻訳の現状、プラーゲ旋風の不当、日本翻訳家協会設立等について各国代表の理解が求められたそうである。文学作品ではないが「新しき土」に対する日本の有識者間の批評とドイツの批評との間に横《よこたわ》るグロテスクな現代的矛盾についてなど若し一事実として報告的にふれられることが出来たら、それも各国間の批評の交換と国際的な芸術批評の水準引あげに役立つのではなかろうか。
 定期刊行の雑誌のようなものがペンクラブによって国際的に発行されることも、文学に携るものにとって大きいよろこびであり、資料となるにちがいない。国際ペンクラブが世界各国から、それぞれの国及その植民地で発売又は輸入を禁ぜられている書籍目録を集めて、それを統計的に研究し、一般の常識に判断を求めることも必要であろうと思う。そういう逆な面から、かえって雄弁に一国の文学や批評のおかれている事情が推察され得るのである。
 今日及明日の文学における集団の発言方法及その可能性というCの問題も、いろいろと身につまされる。詩というものが今日の現実社会状勢中どのような位置にあるかというD問題と不可分に連関している。詩は歌謡との結びつきで、文学の形態としても一番集団の感情、意志表示に便宜であり、その性質から実に端的に率直に、詩の社会的性格や詩の背後にある集団の表情、身振りが現れて来ている。琵琶歌は昔の支那の詩形によっているものであるが、今日、それは勇壮活溌なる日本文化の華として、廟行鎮の武勇歌などに奨励され、中国では世界及東洋文学史の上に一つの足跡をのこす「われらは鉄の隊伍」の歌となって出て来ている。日本詩歌の形として自由律の意義とその将来について森山啓氏が八月の『日本評論』に「日本の詩はどうなるか」という論文を書いている。この章は詩の形式と韻律の専門的面にかぎられて考察されているのであるが、例えばその文中で萩原朔太郎氏が「日本人の民族的感情から」反省して「しらべ」「すがた」「もののあわれ」等の内面的旋律までを考えて日本古来の詩形を不朽な規範と考える態度に対して筆者の行っている理論的究明も、今日の現実の錯綜の中にあっては、結局萩原氏の詩論の心的・社会的因子にまでふれないと、読者にはぴったりと来ない。「新日本文化の会」のメムバーとしての詩人萩原朔太郎を観察しなければ詩論の特徴もつかめないのである。
 明治・大正にかけて日本の代表的詩人であった人々が、今日老大家としてどのような社会勢力の側に身を托しているかという事実と、今日の日本の詩のありようと、芸術的内容とは切りはなして語ることは出来ない。
 落首というものは、古来、愛すべき民衆の集団的発言の形式であったし、零細な、鋭い可能性把握の一例であった。先達っての選挙のとき、無効になった投票に多くの落首めいたものがあったという噂も、文学の問題としてやはり見落せない事実なのではなかろうか。
 森山氏は「日本の詩はどうなるか」という論文の結論で、将来自由律の口語詩が「思想的な文学の、より自由な開花が社会的に保証さるべき時代に於て著しく発展するだろう、という予測」を示している。
 詩の社会的位置という国際ペンクラブの一課題から入るだけでさえも、われわれの周囲の文学的現実はこのように複雑であり、よせる波、かえす波に揉まれている。日本ペンクラブの代表がどのようにその討論に参加されたのかしらないが、これらの日本文学の現状のいくばくを、世界代表たちに理解させることに成功されたであろうかと、文学に生きようとしている者は、或る意味で苦衷を察しつつ猶、熱心な待ち設けを、報告に対して感じているのである。[#地付き]〔一九三七年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「文芸」
   1937(昭和12)年9月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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