青空文庫アーカイブ

パァル・バックの作風その他
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》人

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)とことん[#「とことん」に傍点]の現実にまで触れて
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 中国という国へ、イギリスやアメリカの婦人宣教師が行って、そこで生活するようになってから、何十年の年月が経ったであろう。それらの婦人たちは、それぞれの歴史的な時期で中国の男女の生活を見聞きして、生活の交渉をもって来たわけであるが、パァル・バックの作品を知るまで私は、そういう条件で中国にいて、中国を小説に描いたヨーロッパの婦人作家を知らなかった。
「大地」「母」などを、私は深い興味をもって示唆されるところ多く読んだ。正宗白鳥氏が嘗て「大地」の評を書いておられたが、その文章ではバックの淡々たる筆致が中国の庶民の生活をよく描き出しており、それは、バックがヨーロッパ人の優越感によって、中国の民衆の現実を客観しているところから生じる芸術的効果である。よい作品を書くに当って、この客観的な態度というものもまた価値がある云々という意味のことが書かれていたと覚えている。
「大地」や「母」などをよみ、私は、正宗さんの批評をそれだけ読んだ折にも心に感じた疑問を、一層作品の具体的な描写によって深められた。正宗さんの云われているヨーロッパの人としての優越感からの客観性が、果してこの作品の魅力となっている人間らしさを生んでいるのであろうか。或はまた、もっと複雑な何かがあるのではないかと。正宗さんの批評では、客観的態度というものを、作者が描こうとしている現実対象に心をとらわれていず、そこから自分の心をひきはなして、現実の悲喜の彼方に自分を置いた作者がその距離から悲喜をかく態度として云われていると思う。だが、バックの現実に対する態度は果してそうであろうか。
 バックは、主観にとらわれたり、いきり立ったりしない筆致で描いているけれども、例えば女奴隷である阿蘭が王龍の妻にもらわれて僅の荷物を腕にかけて行くところ。その路々王龍が青い桃を阿蘭にやり、歩きながら阿蘭がそれをかじってゆくところ、赤い辻堂の場面、更に子供のために布を買う阿蘭の姿など、作者の女としての同感、同情、思いやりというものが惻々と底にながれ、感傷をおさえた描写の中に脈うっている。バックの短い伝記で見ると、彼女は中国で生れているのであるから、中国の庶民生活はよく知っているであろう。ただ、よく知っている、その細部を描写しているというだけでない暖かさが阿蘭を描くバックの筆致にこもっている。そこには何か女であって初めて実感となって作者の感情の内容となっていると感じられるものが流動しているのである。外国人によって細かく観察された描写という以上の血縁的なものがある。
「お菊さん」を書いた、ピエール・ロチの筆致は実に細かで敏感で、長崎の蝉の声、夏の祭日の夜の賑い、夜店の通りを花と一緒に人力車に乗って来るお菊の姿の描写などは、日本人では或はああいう風な色彩的な雰囲気では書けないであろう日本的なものを活々と描出している。だが、ロチの観察には、冷やかさ、距離、知的な好奇心、そういうものが漲っている。そういう意味での客観的態度が貫いている。
 バックは、そこで生れた場所に対する自然な、充実した知識、観察で描いているばかりでなく、独特な愛情が感じられるのである。バックは、阿蘭達の生活からずっと離れたところにいるからそれが見えて書けているのではなく、ほんとに身のまわりに、自分がその中にいて生活を感じている、それを、彼女のヨーロッパ的な教養の力、理性の力で語っているその点で、バックが中国生れのアメリカ婦人であるという特別な事情が大きいプラスとなって作用しているのである。何故なら、阿蘭の生涯を阿蘭は自分で書くだけの文化的な力は与えられていないのであるから。バックはアメリカに生れて育ったアメリカの婦人と比べれば、随分違ったいろいろのものを女としてその心の内部にもっているに違いない。だが、字も知らず、奴隷に売られる中国の貧困な女の一人ではない。大衆の生活と文学との実に微妙な関係が、バックという一人の婦人作家とその人によって描かれている中国の女の生活とを考えた場合にも考えられるのである。作品をよんで私の受けた感じは、バックがヨーロッパ人としての優越感から客観的な態度を保っているという正宗氏の批評の反対のものであった。文化の問題から、バックの身内にあるヨーロッパ人の強みをとりあげるとしても、それはバックにとって優越感として自覚されたりしているとは思えない。もしかしたら、彼女は、自分を書かしめている力が、まだ中国の一般の女には与えられていない文化の歴史的、社会的な高さを意味しているという風に分析して考えていないかもしれないのである。
 バックは、これまでの作品でずっと王龍一家を中心に一地方の農民の生活史を描いて来ているのだが、中国におけるヨーロッパ人と中国の民衆との接触、その錯綜は、昨今私たちの注目をひかずにいない。バックは、この面を、その着実な人間らしい目で何と見ているであろうか。どう芸術化すであろうか。私はバックの現実を観る目の力と幅、深さが益々鍛錬されて、いつかそういう題材を、阿蘭のような女や男の側から描いた作品の出ることを待望する。
 日本が中国と地理的には全く近く、過去の文学的伝統の中に、あれ程深く中国文学の影響を受けながら、現代の中国の人民の生活をそれを描こうとして描いている作家は殆どないといってよい。婦人作家には全くないと云えるのではあるまいか。日本の社会的な事情は、バックのような中国におけるヨーロッパ第二世の婦人を生む条件も持たないこともあるが、一つには、明治以来日本が中国との関係においては、中国の一般人民としての日常生活の利害の上には立たず、常にその反対物としての権力関係にあったので、その微妙な反映が文学の面にもあらわれているのであろう。将来の日本の文学の豊富性のなかには、こういう未開発の分野での開花も眺めわたされる訳である。

 バックの作風から拡る連想の一つとして、やや一般的な作家の態度についての話題であるが、この間、読売新聞の座談会で、数人の婦人作家があつまり、いろいろ話が弾んだ。終りに近く、作家の書く態度の一つとして、私は自分が現実に対して人情に堕せず、非人情に描いて行く力を欲しているという意味のことを云った。同座していられた宇野千代さんが、それに賛成され、本当にそうしたら亭主のことでも悪く書けていい、という意味のことを云われ、私はその時大変困った。辛うじて、自分をも見る目の意味であるというような短かい言葉を註した。場所がら、非人情という私の意味は人情を否定するのでなく、その人情の曲折を描くに、人情の埒内で暖まらず、そのとことん[#「とことん」に傍点]の現実にまで触れて行こうとするには、その人情なるものをも社会的な広さから作家として把握し得なければならないという気持であるというこまごましい説明は出来なかった。

 二月号の『婦人文芸』を開いたら平林たい子さんの「日記断章」という文章があり、その中で私の云った非人情という言葉がとりあげられている。平林さんは作家として、人情と芸術とが一致する境地というものを求めておられる。「文学が永久に人情と背馳すべきものだという運命を負っている筈はないと思って」と。
 平林さんは隠微な表現で書いておられるが、平林さんのような作家にでも、非人情という云い表わしは、人情と背馳するだけのものとして理解されるということに、私は反省も促されたし芸術上の興味も動かされた。
 人情というものの内容やその理解、文学との連関は複雑な問題であり、特に現代の日本の作家は、周密にこれをとりあげ、見直さなければならないと思う。
 小説を書き、或は詩を書き、評論を書くにさえ、何等かの意味でこの人生を愛す心持、書かんとする対象に対する愛、何か迸る熱いもの、それなしに書ける作家というものは凡そ存在しないであろう。作家の感受性は謂わば最も人情の機微にまで立ち入ったものであると思う。文学は、私の思うところでは、永久に人情に沿うたものである。しかも、その人情の波頭が一歩、或は数歩高まり、前進したところの形であり、また人情が一つの社会的桎梏の型に堕した時、それを身をもって破ろうとする人間の本来的感情であると思う。人情の内容は一種一様のものではない。人情の内容は、出来るだけ怠けて楽をしたいという人情から、死んでもそんな奴の恩恵にはあずかりたくないという気概の領域にまで及んでいる。私たちは、一人の女として、作家として、今日人情のどういう程あいのところを生きるか、また、社会の現実との交渉の間に、私たちの女としての生活、人間としての心は、実際にどのような種類の人情を目醒まされ、かき立てられているか。それを歴史の背景の前に描こうとする時、主観の中にとじこもり、或は一般的に暖いもの、妥協的なもの、話し合いで分るものという先入観で感じられている人情のほの明りの中に溺れては、その中での歌はうたえても、現実を力強く彫り上げることは不可能であろうと思われる。私たちは、毎日の胸に軽からざる日暮しの間で、人情を打ち破り、それを打ちひしぎ、強引に進んでゆく現実の姿をまざまざと観せられてはいないだろうか。私達の生活の間には、人情として実に忍びないが云々、と云って、人情を轢き過ぎてゆく現実の事実が頻々と起っているのではないだろか。極く身近な例として、私たちは人情として誰しも自分の生活の誤謬のないことを希い、そのために努力していると思うが、主観的なそういう人情や意企に拘らず、現実社会の厳然とした諸関係との連関で、その希望、努力、よい意図が自分として期待しない結果を生じたことを、一度も経験しなかった人がこの世にあるだろうか。作家は、その場合、どんな力で、我血の流れる負傷のあとを調べ、そのように人情以上の力がわが人情を破壊したいきさつを摂取し、その経験によってなお強く人生を愛しつつ社会の現実を描破し得るであろう。
 人間生活の内奥に於て、感情と情熱とは同じもののように一応考えられているが、この二つのものは系統は一つであって、質が違う。感情、感動の領域に所謂《いわゆる》人情の従来の型における発露が多く繋ぎとめられている。芸術は人生に対する情熱によって創られ、情熱の諸相としての諸感情が活かされる。
 心理学などの言葉で正確に表現出来ないが、私たちが女として人間として今日懸命に生きている情熱が、益々多様で益々複雑な感情をひっぱっている。長いものには巻かれろ、という諺は徳川時代の平民の境遇から発生した意味ふかい言葉である。一寸の虫にも五分の魂、という言葉も、等しくこれらの描写をもたぬ市民の心から産まれている。本来人情に沿うた文学は、このいずれの波によって、人情の領域と内容とを拡大し、豊富にして行くであろうか。[#地付き]〔一九三七年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「婦人文芸」
   1937(昭和12)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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