青空文庫アーカイブ

日本文化のために
宮本百合子

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)肯《うべな》いかねて
-------------------------------------------------------

 出版にインフレーションという流行ことばが結びつけて云われたことは、おそらく明治以来例のないことだったのではなかろうか。ところがこの一二年来は、インフレ出版という言葉が出来た。そしてこの言葉は、本がびっくりするほど売れるという事実と、それだもんだから本当にひどい本まで出ているという事実を意味していて、文学に連関する現象として云えば、小説の単行本の出版される数の夥しきにつれて文学の質の問題が逆の方から問題になって来るという有様であった。日本の文化上の経験としては、未曾有の荒っぽさ、渾沌、無選択の反映であり、読者の経済能力と反比例する読書の基準の喪失が云われるのである。
 どんな本でも本でさえあれば売れる、と言う言葉ほど人間をばかにしたことはないと思う。食わせさえすれば何でも食う、そう云われたら人々は悲憤すると思う。本にしろこれは同じと思う。
 インフレーションという本来の性質にしたがって出版の場合でも、いい本よりは下らない悪い本が濫造されていたのだから、そのような本の出版状態が整理されて、着実な選択にしたがってそれぞれの分野の著作が出版されるようになったらいいということは、一面の真理であり実際でもある。
 たとえば、『少女の友』などに描いていた中原淳一氏の抒情画というものが、この頃は見えなくなった。芸術のこととして、また純正な絵画の美を少女たちの感性に高め導いてゆくためにああいう絵が何かの価値をもっているかと云えば、それは決して積極的な意義はもっていないと思える。渡辺与平、竹久夢二などがその時代の日本の空気のもっていた女の解放へ目をむけたロマンティシズムを或る点で表象していたような関係はないのである。
 少女時代から、立派な芸術的古典にじかにふれて、その感傷も向上の欲求もその芸術的感覚のなかで成長させてやりたいと願う人々は、そういう情緒を高める力をもたない現代の抒情画の本質は肯《うべな》いかねていたと思う。けれども、その絵の見えなくなった動機が画家そのひとの内部から自発したものでなかったり、ジャーナリズムの文化的成長の表現としての淘汰でなかったりして、全く外部の影響で、きょうは何でも云えるというようなもののちからで消されたとあれば、それにはやはり、別個の問題がある。あるものが芸術品としてつまらないということとはまた別に、絵画の問題に外からの作用がどう及ぼすか、それが絵画の真の発展にどう働くかというそのこと自体としての問題がおこって来る。

 出版の統制の基本的なところに、極めてこれに近い研究問題が存在するのではないだろうか。一般の印象にさぐり入ってみれば、今日までのところ、統制という響の与える感じは何かを切り下げること、切りすてることという方向でうけられていて、統制、ああじゃあこれまでより豊富になる、という方向への感じは、育くまれていないのが現実だろうと思う。
 出版の統制ということを、直感的に良書のゆたかな出版時代の到来としてうけている市民は、なかりそうに思う。統制でのこった本はどんなものかということに対する一抹の杞憂が、誰の胸のなかにも在るというのが正直なところではないだろうか。
 先頃、朝日新聞の学芸欄に林達夫氏が「日本出版文化協会」の準備部会のような場所で行われた投票の結果について書いておられた。『改造』『中央公論』などという綜合雑誌の発行所がその雑誌の属する第七部とかには出ていないで中央公論社は、『婦人公論』で第五部に、改造社は『短歌研究』、『俳句研究』で、研究社の『英語研究』と同じ類別のなかにくまれていたと書かれていたように記憶する。そして、岩波の『文学』、『教育』、『哲学』が、博文館の将棋の友とかいう娯楽の雑誌と同じ類別にくまれて投票されていたとおぼえる。
「研究」という内容は様々で、中学生の英語の研究と、斎藤茂吉氏の柿本人麿の研究とはおのずから異っているのが現実である。少くとも東亜の指導力たる日本は、その程度の文明の奥ゆきというか、厚みというかは蓄積されて来ている。
 文学はなるほど人の心を慰めるものであり将棋も名人となれば一つの精神の王国をもっているであろう。だが、名人にとって将棋は娯楽の範囲にとどまって考えられてはいないだろうし、文学は、国の光として英訳して海外に誇るべきものの一つとして考えられ扱われている。源氏物語がその一例だが、将棋の友とそれとの間に、常識は別種のものを感じ理解している。
 きょうの新聞は、内閣情報部で第二回準備委員会をひらき、具体案は民間六人、官庁三人の小委員会の協議にゆだねられることになったと報じている。
 先頃朝日に出された記事は、現代の読書するかぎりの日本人の脳裏に深く刻みつけられるものであった。ああいう奇妙な常識をはずれた区わけをしたのは、憤りより寧ろ憂いに近い感懐を抱かせたと思う。あれはどうなったのだろう。あれときょうとの間に、どんな健全な経過が辿られたのだろうか。誰しもが知りたいところであろうと思う。

 一つの国で、紙の色が段々すっきりしなくなって来て紙質も低下して来たような時期に、どんな内容の本を出して来ているかということが、殆ど例外なくその国の進展の十年二十年さきを予言しているように思われるのが、世界の歴史の実情である。紙のわるいときにも本当にいい本が出されつづけたか。それとも、紙のわるさにふさわしい屑が出たかということは、粗笨《そほん》な主観に立って気に入らない本は出ないようにする快味以上に、未来に向って深刻な意義をもっているのである。



底本:「宮本百合子全集 第十四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年7月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第九巻」河出書房
   1952(昭和27)年8月発行
初出:不詳
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年5月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ