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ソヴェト同盟の三月八日
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)三月八日[#「三月八日」はゴシック体]と大きく輝いている
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        朝

 モスクワ煙草工場に働いているニーナは、例によって枕元の眼醒ましの音でハッと目をさました。
 いそいで服を着て、水道の冷たい水で顔を洗い、冷水摩擦をやっているうちに、ニーナはだんだんうれしい心持になってきて、思わず小声で「インターナショナル」をうたいだした。
 今日は三月八日だ! 女の日だ。世界の働く婦人たちが手をつなぎ、プロレタリアート・農民の解放と、ソヴェト同盟の守りのために示威する国際婦人デーだ。
 モスクワの三月といえば、まだ冬だ。ニーナは、寝室の下から長い防寒靴を出してはき、頭を暖かい毛のショールできっちりくるむと、雪の凍っている往来へでた。寒さでニーナの頬っぺたが忽ち赭くなる。息は白く見える。同じように白い息をはきはき、大勢の男や女が勤めへ向って急ぎ足で歩いている。
 今朝は、いつもと違って郵電省の立派な入口に、幾条もの赤旗が飾られている。勢いよく走ってくる電車の屋根に、赤い小旗がヒラヒラしている。
 どの女も、今日はどこやらいきいきしているようではないか。
 ニーナの乗ろうとする電車は相変らず満員だ。一台やり過した次の車も満員なので、ニーナは待ちかねて、やっと車掌台へ片足かけ、顔をあおむけて、
「みなさん! もう少し詰めて下さいヨ! 私これに乗らなけりゃ工場へおくれるんですから!」と叫んだ。両手で金棒につり下ってやっと自分も車掌台に立っている労働者が、
「おい、一足ずつくり合わしてくれ! さもないと娘さんがふり落されるぞ!」と陽気にどなった。
「オーイ、今日は女の日だ! 詰めろ、詰めろ!」どっと群衆が笑い、ニーナも笑いだしたが、いつか本当にみんなが詰めてくれて、やっとニーナは安全に電車にのれた。

 工場へ曲る角に新聞雑誌の屋台店がある。ニーナは昼休みに仲間によんできかせてやるため、毎朝そこで『プラウダ』を買って行く習慣だ。店番をしている十五ばかりのナターシャがニーナを見て今朝は「お早う」のかわりに、
「今日は私達の日ね、おめでとう……」
とニコニコしながら嬉しそうに云った。
「今日の『プラウダ』はいいよ」
 ニーナが受けとった新聞の第一面に、なるほど大きくクララ・ツェトキンの写真がでている。「国際婦人デーについて」という長い論文ものっている。
『プラウダ』ばかりでなく、ソヴェト同盟でだしているすべての新聞が、今朝は婦人デー特輯なのだ。
 並木道を工場の方へ曲ると、工場の正門に赤旗がいきいきはためいている。托児所の煉瓦の建物の窓も、赤旗である。
 続々とやってくる婦人労働者たちは、みんな勇んでその門を入って行く。五ヵ年計画がはじまってから誰でも七時間労働だが、今日は特別である。婦人労働者だけは全体に一時間早く仕事をきりあげる日なのだ。

 職場では、もう仕事着に着かえたオーリャが、壁新聞の前に立って、みんなに大きな声を出して、今年の国際婦人デーがどんな意味をもっているかという小さい論文を読んでやっている。
 ニーナは、かたまりの後に立って、注意ぶかく耳をすました。
 今年の婦人デーは、ソヴェト同盟の労働婦人全体にとって、これまでとはまた違う大切な意味をもっている。それは、五ヵ年計画完成の最後の重大な年であるとともに、このソヴェト同盟のプロレタリアの勝利を憎んで、ブルジョア、地主の国はさかんに反ソヴェト戦争の仕度をやっている。
 どのブルジョア国でもゆきづまった資本家どもは死物狂いになって、極力、労働者・農民の反抗を根こそぎにぶっ潰そうとかかっている。このファッシズムと闘って、たとえばドイツではこの十ヵ月間に十一万人の労働者が投獄された。負傷者はおよそ二十三万、死刑八百十三人という狂気のようなファシストの弾圧のなかを恐れず婦人労働者は、真のプロレタリア解放とソヴェト同盟を守れ! と叫んで闘っている。
 ソヴェト同盟の婦人労働者はどんなことがあっても五ヵ年計画を四年でやりとげなければならない。そして帝国主義戦争に絶対反対、ファッシズム絶対反対を叫ぶ世界の姉妹と団結し、最後の戦いをともに戦うプロレタリアの新な誓いと決意の日なのである。オーリャが読み終ると、赤い布で白髪をつつみ、腕組をしたままじっと聞いていた六十八歳のアガーシャ小母さんがつよい声で云った。
「見ていろ! 世界のプロレタリアはどうしたって勝たずにはいないんだ。わたし達は元この工場でどんな具合に搾られていた?――それが今はどうだろう!」
 アガーシャ小母さんは、革命前からもう三十五年もこの煙草工場で働いている。臨月まで働いていて工場の仕事台の下にぶっ倒れ、そのままそこへ赤坊を生んだことさえある。もう年金を貰って楽に暮せる年だが、ソヴェトの世の中になって今こそやっと機械は働く者の仕合わせのためにまわるようになったのに、どうしてこの楽しい工場から隠居できようと、若い者にひけをとらぬ元気で突撃隊に加わり、五ヵ年計画完成のために働いているのである。
 ニーナは壁新聞がみんなの注意をひいたのに満足を感じながら自分の仕事台の前に立った。ソヴェト同盟ではどの工場や学校でも壁新聞をもっている。ニーナは、職場の壁新聞編輯部員だ。きのうは工場クラブにいのこって今朝みんなに「婦人デー」号をよますようにと、グラフを貼りつけたり、字を書いたり、一生懸命やったのである。

        昼休み

 賑やかな手風琴の音が工場の広場にひびきわたっている。地面に雪は凍っているが、そんなことはものともせず、モスクワ煙草工場の労働婦人たちが仕事着の上へ外套をひっかけた姿で、笑いさざめきながらぐるりと広場に大きい輪をつくっている。
 手風琴をひいている断髪の女が輪のなかに、前で、二人の労働婦人がロシア踊りをおどっている。
 男と女が組で踊るところを、男役を買ってでている女が、これはまたなんと威勢のいいことだ! 着ぶくれたアガーシャ小母さんである。音楽にあわせ、
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ハア
ハア
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 急所の手ばたきと掛声ばかりは一人前だが、若い男が飛んで跳ねる活溌な足さばきが、その年の小母さんにできようはずはない。
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ハア
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 どっこいしょ!
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ハア
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 そら、あぶない! たかってそれを見ている労働婦人たちは腹をかかえて笑いこけている。
 アガーシャ小母さんは、実際三月八日今日の婦人デーが嬉しくてたまらないのだ。今年アガーシャ小母さんは、工場委員会と『労働婦人』という雑誌社から、モスクワ煙草工場の最年長突撃隊員の一人として、賞を貰った。赤いリボンで飾ったレーニンとクララ・ツェトキンの肖像画、『労働婦人』二年間の購読券。アガーシャ小母さんが踊る間、それは今ニーナが笑いながら大事に抱えて持ってやっている。
 労農通信員のマルーシャが、みんなにからかわれながら、額におちてくる金髪をふりあげふりあげ上気した顔をして小形写真機を覗いている。マルーシャは労働者新聞に自分達工場の婦人デーの模様を書き、何とかして、この罪のない、おどけたアガーシャ小母さんの雪の上の踊り姿の写真を插画にしようと熱中しているわけなのだ。
 一汗小母さんがかいて自分の賞品のわきへどくと、音楽は一寸止み、今度は火花の散るような急調な舞踏曲がはじまった。踊り達者で名うてのオリガが、重い防寒靴をはいているとは信じられない身軽さで、つと輪の真中にでた。機械工体育部水泳選手のドミトリーが、今度は対手だ。本ものだ! 本もののソヴェトのプロレタリアの祝の踊りである。
 ニーナは、ほれぼれするような二人の踊りっぷりを見ているうちに、我知らず自分もまだ春の遠い三月の雪の上で楽しい婦人デーの足拍子をとった。――

        夜

 小さい鏡が水道栓の横の柱にかかっている。
 ニーナは、素直な栗色の髪に水をつけて、ゆっくりかきつけた。それから首のまわりを石鹸で洗って、籠の中から洗いたての白いブラウズを出し、ゆっくりボタンをかけて着た。
 ああ、一時間早く仕事をきり上げてこられると、なんというのんびりしたいい心持だろう! ニーナはつくづく思った。
 日暮れが早いからニーナの室には電燈がついているが、時刻にすればまだ四時そこそこである。今日の退け時ほど工場の出入口が陽気だったことはない。
 工場委員会は、各職場へ、特別婦人デーのための芝居割引券をどっさり配った。ニーナはそれを貰わなかった、というのは、今夜食糧労働者組合クラブに、婦人デーの催しものがある。ナターシャをさそって、ニーナはそっちへ行くつもりなのだ。
 電車の停留場まで出てみると、朝のせわしさとはうってかわった景色である。同じ毛織のショールでもよそゆきのをかぶり、祭日らしい身なりをした女が二人三人とつれ立って、電車を待っている。
 枝々に白く雪の凍った並木道の間を電車が走ってくるが、チラチラとアーク燈のつよい光りをあびるごとに、風にはためく赤旗が、美しく目立つ。
「労働宮」のわきを電車がまわるとき、ニーナはなんとも云えないよろこびで、三月八日[#「三月八日」はゴシック体]と大きく輝いている赤色イルミネーションを眺めた。赤い光りはボーと屋根の雪までてりかえしている。
 電車の乗合も、どっかのクラブか芝居へ出かけるらしい労働婦人たちが多い。今夜は国際婦人デーだ。ソヴェト同盟じゅうの労働者クラブが、演説、音楽、ダンス、芝居と、それぞれ趣向をこらして、記念の一晩を有益に愉快にすごす仕度をととのえているのである。
 ニーナとナターシャとは、期待で眼を輝やかせながら、クラブの戸をあけて入って行った。今夜このクラブでは特別ポーランドからソヴェト同盟へにげて来た婦人闘士と、モンゴリアからの婦人代表が、話をすることになっている。
 演説のはじまるまで二人はぐるぐる大きいクラブの中をあっちこっちと散歩した。
 音楽サークル室からは、今夜の余興のマンドリン合奏の稽古をやっている音が洩れる。
 戸のところに誰か立ち番していて、外からあけようとすると、
「一寸だめだよ! 何用?」
と、一々きいているのは、演劇サークル員たちがぎっしりつまって、ヒソヒソと大熱心に、これもまた何かアッと云わせる趣向最中らしい室だ。
 体育室からは、フットボールの弾む音がする。
 あまりいきなり廊下の頭の上でジリリリッ! と開会を知らせるベルが鳴ったので、ニーナとナターシャはびっくりして互につかまり合い、やがて大笑いしながら、四五百人はいる大広間へ入って行った。[#地付き]〔一九三二年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「働く婦人」
   1932(昭和7)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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