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今日の文学と文学賞
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》

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(例)[#地付き]〔一九三九年八月〕
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 どこの国にでも、文化、文芸の業績に対する賞というものはあるらしい。その詮衡が世界的な規模で行われ、最もひろい意味で人類的な影響をもつ仕事に与えられるという点で、ノーベル賞が国際的な権威をみとめられていることは、誰でも知っている。近頃になってからのドイツでは、そのノーベル賞をドイツ人が受けることを禁じ、ドイツ民族文化、文芸の最高賞としてゲーテ賞を制定したことは、当時一般の人々に何となく理解しがたい印象を与えた事実であった。あたり前の考えで云えば、一民族の誇りというものは、世界的、人類的な規模で評価され得てこそ誇りというに価し、そのような業績を生む人物を一人でも多く生み出すことにこそ、民族としての歓びもあるものであろうと思われるからであった。
 ところで、文化、文芸に関する賞を、一番どっさりもっている国はどこだろうか、フランスも尠くないように思われる。が、私は寡聞で有名なゴンクール賞のほか評論に対する賞、優秀な新聞記者としての仕事に与えられる賞等、三つ四つ記憶しているきりである。アメリカのジャーナリズム及び文学に関する賞として一九一七年から始められているピュリッツァ賞、ソヴェト同盟のゴーリキイ賞、レーニン賞等のほかには、どんなものがあるのだろうか。
 文化、文芸賞の数の多いことでは、今日、日本が第一位にあるのではないかと思われる。今度出版される昭和十四年度の『雑誌年鑑』の見本の一隅に、文化、文芸賞要覧というのがあって、そこを見たら帝国学士院賞や文化勲章までを入れて凡そ二十二種の賞の名が並んでいた。数の上では文運隆盛の趣を示しているかのようである。
 一体、日本の現代文学の分野で、これだけあまたの賞というものはいつ頃、どのような社会の事情、文学の機運によって生れて来たものであろうか。文学に関する賞についてだけ考えて見ると、これらの賞が、明治から大正年代にかけてはまだ殆どなかったという事実に思い当る。明治三十七八年以後大正十年位までの間は、日本の近代文学が、その創造力の旺盛をきわめた時期であった。今日私たちの目の前にある近代古典と云うべき作品の多くはこれらの時期に書かれたものであるし、古典的な権威として今日或る意味で価値ある文学上の存在をつづけている作家たち、例えば島崎藤村、徳田秋声、谷崎潤一郎、永井荷風、志賀直哉、武者小路実篤等は、いずれもこの年代に、壮年期の活動を示した人々であった。過去の文学の上にも、戦争は甚大に影響している。日露戦争からヨーロッパ大戦までの間に、近代社会としての日本の社会機構が急速な膨脹をとげたように、その発展の雰囲気は、文学にも及ぼして、有産知識人の文学的活動は華々しく行われたのであった。その当時、果して文学賞などというものが存在したであろうか。私の見聞の範囲では、そういうものはなかった、しかし、賞を受けるにふさわしい作品、又はその作品の生れる過程における作者の態度というものは、勿論当時にも在った。例えば島崎藤村の「破戒」という作品。あの作品が書かれたのは年表によって見ると日露戦争の時分であった。その頃は今日に比べると戦争と文学との関係が、一般に非常に素朴に考えられていた為に、戦争に熱した人々の心に小説の永続的な価値は考えられず、「破戒」を出版しようという書店が一つもなかった。藤村は一家離散を敢てして、その作品を自費出版した。ここには、作家藤村の独特な生活力の粘りつよさが現れているばかりでなく、今日の私たちの胸をも引き緊める作家としての気魄が感じられる。だが、当時、何かの賞が、藤村のその精神と作品とに対して与えられたということは、どの文学史にも記されていないのである。
 欧州大戦と、この大戦では被害という程の経験をしなかった日本が、大戦に当って好景気時代にめぐり会い、社会経済に一段と膨脹を示したことは、直接にはジャーナリズムの規模の飛躍的な拡大となり、一方に円本時代を現出した。そして当時の既成作家の大部分が、円本の氾濫によって所謂《いわゆる》金もちになり、多少の資産をもつようになり、溌剌たる創作力を次第に生暖い日本生活の懐の中で鈍らせ始めた。折から、好況後の経済恐慌によって世間は鋭く現実に目を醒されたと同時に、文学の領域に力強い波頭をもって大衆というものが登場しはじめた。勤労するこの社会の大多数者の芸術化の要望が湧き上って、過去の文学の形式、内容は、全く新しい光りの下に見直されはじめた。文学についての新しい見かた、人間の良心というものの現実生活に即しての新局面の展開が、文学の上に行われるようになった。有島武郎、芥川龍之介という二人の作家の死は、日本文学の成長を語るとき、見落すことの出来ない凄じい底潮の反映として考えられると思う。
 それにひきつづく略《ほぼ》十年間、一九三三年頃まで文学の主潮はプロレタリア文学にあり、日本の歴史のふくむ複雑な数多《あまた》の原因によってこの潮流の方向が変えられると共に、文学は、その背景である社会一般の生活感情にあらわれた一種の混迷とともに画期的な沈滞と無気力に陥った。
 この時分から、今日では簇生と云ってよい程に殖えている文学の賞がそろそろ現れだしたということは、真面目に文学を考える者の深い注意を牽く点であろうと思う。それ以前、小林多喜二を記念する賞があったが、それは広汎な影響を持つ間なくして消され、一九三三、三四年ごろから芥川賞、直木賞、文芸懇話会賞等が出来た。丁度、一部の作家が文芸復興ということを唱え出し、而もそれには現実の根拠が薄いので一向実際の文学は復興しないというような時期、一種の刺戟として、決められた形であった。当時の文学のありようから、真の新進、精鋭は見出し難く、受賞の範囲は、それぞれの作家の若々しい未来を鼓舞し祝福する方向に赴かず、寧ろ、多難な文学の道をこれまでの何年間か努力をつづけて今日に到っているという作家への、慰労賞めいたものとなった。文芸懇話会賞は、その会の性質が半政治的であったから、詮衡に当っても、文学作品としてのめやすに加わる様々の文学以外の条件があって、内部の紛糾は世人の目前にもあらわれた。
 事変以来、日本の文学の姿は実に複雑となって来ている。例えば日露戦争の時代、藤村の傑作の一つである「破戒」さえ出版出来なかったような有様に比べて、今日の小説の隆盛はどうであろう。農民文学懇話会、大陸文学懇話会、生産文学、都会文学懇話会というものまでも、故小橋市長によってもくろまれた。芥川、池谷、千葉賞のように、故人となった文学者の記念のための文学賞ばかりか、農民文学には有馬賞というのがあり、中河与一氏の尽力によって成立してその第一回受賞者は中河氏であった、大倉出資の透谷賞というのもあるようになった。
 今度の事変が、戦争として到達している複雑な性質は、日露戦争時代のような素朴さをふりすてて、文化、文学の面にも深刻に波及している。諸生産が統制のもとになされつつあることは、作品をその生産物としてもっている文学の領域にも無関係ではあり得ない。官民一致の体制は、文学の賞の本質にも十分に反映している。このことは、現実生活の中では、文部省の教科書取締りにあらわれた、文学の読みかたの、特殊な標準とも関連しているから、各種目の長篇小説の未曾有の氾濫状態の一面に、おのずと、文学とは何であろうかという、文学にとって最も核心にふれた反省が、一般の人の心のうちに擡頭しつつある。この頃のどの小説をよんでも、心は何か満たされることが出来ない。これはどうなのだろう、これはどんなものなのだろうかと、真に心にふれる作品をたずねて、あれこれと次々に買う読書人の、そういう不満の心持が逆に小説のうれる一つの動機になっているということは、注目すべき点と思う。
 一般人の生活について云えば、生活は物質的にも精神的にも苦難多き時代に面している。最もたくさん小説をよむ青年男女の心の内奥に立ち入ってみれば、今日の若い人々の心は決して四年前の若い人たちの心のままの色合いではない。人生は、複雑極るその切り口をいきなり若い人々の顔の面にさしつけている。旧来の戦争は文化の面を外見上からも萎縮させたが、今日ではそれが近代性において高度化して、戦争とともに一部に成金が生じる現象は、文化の分野にも見られるようになった。永年の窮迫と不遇から時局によって世間的に一躍し、温泉へ行って忙しい忙しいと小説を書きとばしているというような農民生活の在りようを、農村生活の現実とてらし合せて考えたとき、その作品が、かち得る賞というものについて、人の心は単純にあり得ないのも自然ではあるまいか。
 外見上の文学の繁昌が、その本質に対する疑問を喚びさましている一方、この一般的な活況の中には、やはり本ものの文学が生育されて行く或る可能というものも見えがくれしているのが実際である。文学とは何であろうかという、文学への新しい考え直しの慾求と一緒に、着実にその疑問の一筋を辿って、自分の道を進もうとしている作家の存在も、決して見のがすことは出来ず、そういう作家と、そのような作家を志して文学修業を怠らない人々とが、窮局において、世態の大波小波を根づよく凌いで、未曾有の質的低下を示していると云われている今日の文学の屑の中から、新たな骨格を具えて立ち出でて来ると、期待されるのである。
 現実は豊饒、強靭であって、作家がそれに皮肉さをもって対しても、一応の揶揄をもって対しても、大概は痛烈な現実への肉迫とならず、たかだか一作家のポーズと成り終る場合が非常に多い。作家は、現実に向って飽くまで探求的であり、生のままの感受性をもち、自身の人間的心情に立ってひたむきでなければならないと思う。その意味では、最も大乗的な素直さが求められる。私たちが今日を生き、そしてその中に、人間としての自己の生涯を与えつくすところの現実社会のありように対して、そこから生まれ生もうとする文学に対して、私たちはどこまでも、若々しくおどろきと疑いとをもち得る心をもって励んで行かなければならないと思う。
 文学の賞の今日のありようについても、単に皮肉な毒舌や内輪のごたつき話に対する嘲笑をもって終らず、謂わば文学における自分の努力の一つ一つを、今日の文学の質をよりましなものとしていつしか変えてゆくべきものとして、責任深く感じる心持が大切と思われるのである。[#地付き]〔一九三九年八月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「懸賞界」
   1939(昭和14)年8月下旬号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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