青空文庫アーカイブ

古き小画
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)四辺《あたり》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)二三度|霰《あられ》がすぎてから

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1-93-6、345-9]《にょうはち》
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        一

 スーラーブは、身に迫るような四辺《あたり》の沈黙に堪えられなくなって来た。
 彼は、純白の纏布《ターバン》を巻いた額をあげ、苦しそうにぎらつく眼で、母を見た。
 彼女は、向い側で、大きな坐褥の上に坐っている。その深い感動に圧せられたようにうなだれている姿も、遠くから差し込む日光を斜に照り返している背後の灰色の壁もすべてが、異様な緊張の前に息をつめ、見えない眼をみはっているように感じられる。
 スーラーブの、過敏になった神経は、それらのものから、異常な刺戟を受けた。部屋じゅうには、何か窮屈な、身動きも出来ない霊どもが一杯になって、切に、彼からの一言、快適な一つの動作を、待ち、望んでいるように思われる。
 実際、スーラーブは、この場合、自然な自分の数語、一挙手が、どんなに内房《アンダルーン》の空気を和げ、くつろがせるか、よくわかっていた。けれども、平常、あれ程自由に使われると思った言葉が、彼の頭から消えてしまった。実につきない余韻を以て鳴り響くようなこの感動を声に出して表わそうとすれば、意味をなさない、一息の、長い唸りでも響かせるしかないのだ。
 強て、何とかしようとする焦心は、一層、スーラーブの感情を苦しくした。
 彼は、いたたまれない様子で、いきなり立ち上った。そして、真直に母の前を横切り、内房に属する柱廊に出た。
 そこには、日増しに暖くなって来た四月のツランの日光が、底に快よく肌を引しめる雪解の冷気を漂わせながら、麗らかに輝いている。スーラーブは、思わず貪るように新鮮な外気を吸い込んだ。そして不思議に混乱した力を、再び集めとり戻そうとするように、立ち止まって、拳を一二度握りしめ、開きし、のろい歩調で、柱廊の端迄出て行った。
 粗い、自然石を畳みあげた拱《アーチ》の中からは、一目に城内の光景が見晴らせた。
 つい傍に迫っている建物の翼のはずれでは、六七人の男が坐り、白い纏布をうつむけ、調子よく体を動かしては、武器の手入れや、新しい弦の張工合をすかして見ている。
 遠く家畜小屋の附近では、活溌な猟犬の吠え声が聞えた。強い羽ばたきの音を立てて、ぱっと何処かの軒から鳩が翔《と》び立つ。
 不規則な点滴の音や、溶け始めた泥濘に滲みながら鋭く日に燦《かがや》く残雪の色などは、皆、軟かな雲一つない青空の円天井に吸い込まれ、また軈《やが》て、滋味に富んだ陽春の光線となって、天からふりそそいで来るかと思われる。
 然し、スーラーブは、その晴やかな外景を、至極、恬淡《てんたん》な、放心した状態でながめた。
 黙って働いている人間の姿も、陽炎《かげろう》でちらつく広場の様子も、何かひどく自分とは無関係な、よそよそしいものに感じられる。
 一心籠めて考えなければならないことがある。――しかも、その考えなければならないのは何なのか、はっきり当がつかず、徒らに不安を感じるという、落付かない心持になるのだ。スーラーブは、やや暫く、歩廊の石畳の上を、往ったり来たりしたが、気を鎮めるに何のかいもないと知ると、歩をかえして、内房を出た。スーラーブは十九年の間隠されていた父の名を知ることが、これ程の動顛を齎すものとは知らなかった。

        二

 ツランでは、男の子が生れると満七歳になる迄、母の内房でばかり育てられることになっている。スーラーブも、七度目の祝の日が来る迄、自分の囲りに、女ばかりを見て育った。大きくなってからでも、彼は、よくその時代の追憶を、朦朧《もうろう》と、一種神秘的な色彩を添て思い出した。今見る内房とは、まるで違うように思われる、少し薄暗い、静かな、好い匂いの漂っていた奥の部屋。朝から晩まで、その中で、小さい自分の相手になって、玉を転したり、笑ったり、時には腹を擽ったりした、白い手の、大きい金の耳輪を下げた、母とは違う若い女房の、悠《ゆっ》くりした腰袴の裾につらまって、始めて、歩廊の淡雪を踏んだときの驚き。
 七年目の誕生日が来た朝、スーラーブは、初めて青々と剃った小さい頭に、赤い条入りの絹の纏布を巻きつけられた。そして、腰に宝石入の幅狭帯と、短剣とを吊った。
 仕度が調うと、内房じゅうの女が一人一人彼に祝福を与え、内房の外仕切りの垂帳の処まで送って出た。外には、男の家臣が、迎えに来ている。スーラーブは、大きな大人が、こごみかかって自分に捧げる歓迎の言葉に、赤くなり、嬉しさと当惑とを半々に感じた。それでも、小さい足に力を入れて、先に立ち、勢いよく、別棟の、男の、住居に入って行った。
 その日から、彼は祖父の保護の下に置かれることになった。今迄のように、内房の嬰児ではなく、サアンガンの統治者となるべき少年としての訓練が始まった。スーラーブは、祖父の居室の一隅に積み重ねてある坐褥の上に眠った。空が明るくなると同時に起き出して、白髭の祖父と並び、天と地とを照し、正義ある王を守る太陽に礼拝することと、その時称うべき祈祷の文句を教わる。
 少量の朝餐が済むと、日が山陰に沈む迄、彼は、戸外で暮した。祖父か、或は他の臣と共に馬に騎《の》り、狩に出かけ、何もない野原で食物を煮る火を作ることから、馬の傷の手当をすること、獲った動物の皮を剥ぐことまで――一人の勇ましいツランの戦士が知らなければならない総てのことを、男らしい、実際の場合に即したやり方で、教え込まれるのであった。活々した冒険心に富んだスーラーブの少年期は、極く愉快に三年経った。彼は十歳になった。その年、厳しい冬の間から祖父が内臓の苦痛を訴え始めた。そして、脾腹《ひばら》が痛むと云って飲食も不可能になると、間もなく、老人は瀕死の重体になった。
 煎薬のにおいや、悪魔払いの薫物の香が、長い病人の臥床につき纏《まと》う、陰気な、重苦しい空気と混って、まだ寒い広間の中に漂っている。スーラーブは、明りの差し込む窓の下で侍者と一緒に、ぼんやり湯の沸くのを待っていた。
 天井から吊った懸布の下の床では何か不具の重い虫でも飛ぶような息の音を静寂な四辺に響かせながら病人が家臣の一人と話している。スーラーブは、侘しい退屈な心持で、そのゼーゼーいう音をきき、雪の上をちょいちょい歩く二三羽の鶫《つぐみ》を看ていた。
 誰かが後向になった彼の肩に触った。見ると今迄祖父と話していた男が、
「祖父様がお呼びになります」
と、立っている。スーラーブは、その男の顔と、病人の方とを、一寸見較べた。
 彼は、進まない心持で歩き出した。病人になってから祖父は、幼い彼に何処となく見違えるこわさを持っている。

        三

 床の傍まで来ると、スーラーブは、恭しく右手を胸に当てて頭を下げた。そして、張り切った子供の注意で凝っと祖父の顔を見下した。老人は、急に沢山になった藪のような白髭と白眉毛の間に、弾力のない黄色い皮膚をのぞかせ一言を云おうとする前に、幾度も幾度も、あぶあぶと唇を動かす。唇に色がなく、口を開けると暗い坑のように見えるのが、スーラーブに無気味に感じられた。
 付添っていた家臣が、背に手を当てて、彼を病人の顔に近く、かがませた。スーラーブは、我知らず、自分の顔が、異様な祖父の顔にくっつくのを恐れ、頭を持ち上げた。
 祖父は、なお暫く息を吸ってから、やっと聴こえる声で、
「スーラーブ!」
と、彼の名を呼んだ。弱々しい切なげな声が恐ろしい容貌を忘れて馴れた祖父を思い出させ、スーラーブは、俄に喉がぐっとなるのを覚えた。彼は、熱心に次の言葉を待って息を抑えた。
「儂はもう駄目だ。卿と狩にも行けぬし……」
 祖父は言葉を選んでいるように躊躇し、つづけた。「いろいろ教えてやることも出来ん。シャラフシャーの云うことをきけ。シャラフシャーが、儂の役を引受けた。」スーラーブは自分の傍に立っている家臣を見た。何か不満足な、意に満たない感じが彼の胸に湧いた。けれども物々しいその場の有様が、彼に沈黙を守らせた。
「シャラフシャーは間違ったことは云わぬ。サアンガンの恥になることはせぬ。よく云うことをきけよ」
 祖父は、草臥《くたび》れるほど長いことかかって、これだけを云うと、枯れた小枝を継ぎ合せたような手を延して、枕の上を探るようにした。
 シャラフシャーがこごんで、何か訊き、頷くのを待って、積んだ枕の下から、羊皮の小さい袋を出した。そして、それを病人の手に渡した。
 厳粛な四辺の雰囲気の裡にもスーラーブは、激しい好奇心を、その小袋に対して感じた。祖父は大切そうにそれをあげ、額につけ、スーラーブに向って合図をした。スーラーブは、シャラフシャーに云われるままに、祖父の方に右手を出した。祖父は、ぶるぶる震える手でその小袋を彼の掌に置くとそのまま確かり自分の手で外から握らせ、
「儂の守りを遣る。儂は、父上が死なれる時その臨終の手から貰った。サアンガンの幸運が卿と卿の子孫とに恵まれることを」今迄薄すりと眼を瞑り、唇だけ動かしていた祖父は、この時急に、生きている勢いの全部をその刹那に込めるように、ぱっと双眼を開いた。
 そして、スーラーブの、切れの長い、真面目な眼を射抜くように見据えながら、はっきり、
「父のない子を見よ、と云われるな」
と云った。
 スーラーブの全身に、訳の分らない寒気が走った。堅く、冷たい、骨張った十の指に手を掴まれ、死にかかった人間の眼で、それ程きっと見据られ、耳に聞いた言葉を彼は、非常に恐ろしく感じた。容易ならぬこと、しかも、何か恥ずべきことを戒められたという直覚が鋭く心を貫いた。彼は、困惑した眼で祖父を見た。彼は、祖父が心の中でひどく何かを憤ってい、自分の手をそうやって小袋ぐるみ掴んだまま、何処か遠い変な処へ翔んででも行こうとするのではないかと恐れた。

        四

 祖父は、その出来事のあった翌日、この世を去った。生れて始めて人間の葬送の場合に会い、幼いスーラーブは、事々に忘れ難い印象を受けた。
 ふだんあれほどしとやかな内房の女達が、祖父の死を知ると、俄かに狂気したようになって頭に纏う布を引裂きながら、額を床に打ちつけ胸を叩いて号泣した有様、星ばかりの夜の空の下で祖父の屍を荼毘《だび》にした火の色。黒煙を吐きながら赤い焔の舌が、物凄い勢いで風のまにまに雪の面に吹きつけた光景や、今、広場の端迄延びたかと思うと、忽ちどっと崩れて足許に縮む影法師の中を入り乱れ、右往左往した多勢の男達の様子が、それがすんだ朝になると、スーラーブにはこわい、一つの夢のようにさえ思われた。
 けれども、夢でなかった証拠には三日三夜の退屈至極な儀式が彼を捕えた。昼間一杯と夜の三分の一ほど、スーラーブは、数多《あまた》の家臣の先頭に立って、シャラフシャーの云う通り、
「我等の神、ミスラ、汝の嫡子、サアンガンの王の王」と、大きな声で繰返したり、理由のわからない面倒な手順で、石の平べったい台の上に、穀物や、乾果や、獣肉を供えなければならない。
 それにも拘らず、スーラーブの心には、ちょいちょい、祖父が死に際に云った言葉が蘇って来た。そして、彼を不安にした。
 何かしている最中でも、ふと、「父のない息子を見よ、と云われるな」という文句をまざまざと耳元でささやかれるように感じる。瞬間、彼は何も彼も放ぽり出して、後を振向いて見たいような衝動を覚えた。彼にそれをさせないのは、シャラフシャーの意味ありげな、咳払いと流眄《ながしめ》があるばかりである。辛うじて、統治者らしく威厳を保ちはするものの、暫時彼は、臆病な、困った顔付きで、無意識にしかけた仕事をつづけるのであった。
 スーラーブに、祖父の云った言葉の全体の意味は解らなかった。ただ、何か大切な訳のあるらしいことだけは感じた。その特殊な重大さは、全く自分に関係していることに違いないのだが、そのことに就いて、何も知らず、告げられもしないということが、一層、祖父の言葉を恐ろしく思わせる。
 祖父の代りに、今度はシャラフシャーを指導者として、スーラーブの日常は、再び、従前通りに運ばれ始めた。元と違う点といえば与えられる訓練が益々秩序的になったことと、今迄無頓着に語られていた昔噺や英雄の物語が何処となく教訓的な意味を添えて話されるようになったという程度であった。
 然し、スーラーブの内心では、著しい変動が起った。祖父の言葉をどうしても忘られない彼は、次第に自分の境遇に特別の注意を向けるようになった。
 城全体の生活が女ばかりの内房と、男ばかりの表の翼とにきっぱり二分されているため、その間に、家族とか夫婦とかいう生活の形式を、まるで知らなかった彼は、シャラフシャーのする物語の中から種々な疑問を掴み出して来た。
 スーラーブは、傍に坐って、小刀を研ぎながら話をするシャラフシャーに、子供らしい遠慮を以て訊いた。
「ねえ、シャラフシャー、この間卿、祖父様はナディーというひとの子だと云ったろう?」
 シャラフシャーは、仕事から注意を奪われず真面目な声で答える。
「左様です」
「――スーラーブの父上は何という名?」
 シャラフシャーは、答えない。

        五

 四辺には、刃物が砥石の上を滑る音が眠たく響く。
 スーラーブは、シャラフシャーが沈黙しているのを知ると別な方面から、問いを進めた。
「シャラフシャー、父上のいないのは、悪いことなのかい?」
「悪いことではありません。祖父様のおっしゃったのは」シャラフシャーは、刃物の切味を拇指の腹で試し、正直な、心遣いの籠った眼で、小さく胡坐《あぐら》している自分の主人を見た。
「貴方が、一生懸命、戦士の道を修業して、サアンガンの王のまことの父である大神ミスラに見棄てられないようにしなければならぬ、ということであったのです」
 スーラーブは、暫く腑に落ちない顔をして黙った。何処かに、はっきりしない処のあるのは感じる。けれども子供の頭脳は、そこに条理を立てて、もう一歩迫ることが出来ない。黙って、考えている積りのうちに、彼の纏布を巻いた小さい頭の中には、ぼんやりと、昼間の狩の思い出や、明日の遠乗の空想が湧き上って来る。シャラフシャーは、彼の恍惚《うっとり》とした口つきと、次第次第に面を輝かせる生活の楽しさとを見逃さない。スーラーブは、巧にシャラフシャーが持ち出した新しい話題に全心を奪われ、数分前の拘《かかわ》りを、さらりと忘れてしまうのであった。
 然し、それで紛れきってしまうには、彼の受けた感銘が余り強すぎた。ふと、思い出し、急な不安を感じ、スーラーブは同じ問いを母にも持ち出した。
 彼は、本能に教えられ、シャラフシャーに対する時よりずっと甘えて、直截に、
「母上、スーラーブの父上はどうしたの? 祖父様はこわい顔をして『父のない息子を見よと云われるな』とおっしゃった。父上は始めっからいないの? 死んだの?」
と、迫る。
 始めて、この問いを受けた時、ターミナは、スーラーブが思わず、喉をゴクリといわせたほど、驚きの色を示した。彼女は、スーラーブの傍に躙《にじり》より、手を執り、誠を面に表しながら、彼は今も昔もサアンガンに唯一人の偉い王になるため、天から遣わされた者であるということ、その命令を成就させるために、母もシャラフシャーも心を砕き、神への祈りを欠かしたことはないのだ、と話して聞かせた。
 スーラーブは、凝っと母の顔を見つめ、判り易い言葉で云われることをきき、半信半疑な心持と、畏れ、感激する心持とに領せられた。納得するしないに拘らず、母の熱の籠った低声の言葉や、体、心全体の表情が、幼い彼を沈黙させずに置かない真剣さを持っていた。
 十五六歳になる迄、スーラーブは、折々その質問を繰返して、母やシャラフシャーを当惑させた。けれども、だんだん質問の仕方が実際的な要点に触れ、返事を一層困難にするようになると逆に、彼の訊ねる度数が減った。青年らしい敏感が、そんな問を、露骨に口に出させなくなった。彼は、自分にそのことを訊かれる母の心持も同情出来るようになったし、少年時代から一緒に暮しているとはいっても、一人の臣下にすぎないシャラフシャーに自分の父の名を聞く、一種の屈辱にも堪えなくなって来たのである。
 彼は、黙って、鋭く心を働かせ、自分という者の位置を周囲から確め始めた。種々な点から、彼は、シャラフシャーが、全く自分の出生に関しては与り知らないのも判った。家臣等の自分に対する感情は、いささかもその問題には煩わされていない純粋なものであるのも知り得た。

        六

 晴々として快活な時には、愉快な無頓着でスーラーブは、自分の運命を、稍々《やや》滑稽化しさえした。もうミスラの子というお伽噺《とぎばなし》に信仰を失っていはしても、まあよい時が来る迄神の息子という光栄を担っていよう。誰が父であるにしろ、自分が誰からも冒されないサアンガンの王であるには違いないのだ、と気安く淡白に思う。然し、折にふれて激しい憂鬱が心を圧し、彼から眠りを奪うことがあった。自分の誕生というものに最も忌わしい想像がつきまとった隠されている父の名は、或は、実に恥べき人間と場合とに結びついているのではないだろうか。自分が生れたのを母は、怨みで迎えたのではあるまいか。そう思うとスーラーブの、青年らしい生活の希望は打ちのめされた。
 彼は、見えない自分の血の中に、洗っても洗っても落ちない何者かの汚染が滲み込んでいそうに感じた。何時か自分が、我にもない醜悪さを暴露させるのではあるまいか。生きていることさえ恐れなしとはいえない。
 そのような疑惑に苦しめられる時、スーラーブは、時を構わず、馬に鞭をくれ、山野を駆け廻った。彼を、致命的な意気消沈から救うのは、僅に一つの反抗心があるばかりであった。
「よろしい。母に自分を生ませた男が、最も卑劣な侵略者なら構うものか、そうあらせろ、自分が、母と自分の血を浄めて見せるぞ。賤しい男の蒔いた種からどんな立派なサアンガンの糸杉が生えたか、見せて遣ろう」
 反対に、何ともいえない懐しさと憧れとが、天地の間に、自分という生命を与えた父に対して、感じられることもある。
 深い、生活の根柢に触れるこれらの感情に影響され、スーラーブは年に合わせては重々しい、時に、憂を帯びた威で、見る者を打つ青年になった。
 彼の日常は、戦士の理想に叛《そむ》かなかった。簡素で、活動的で、女色にも耽らなかった。サアンガンの統治者としての声望は、若い彼として余りあるものがあった。けれども、心の裡に深く入り、喰い込んでいる愁を彼と倶に感じるものは、恐らく誰一人いなかったろう。スーラーブは、自分の武勇や心の正しさなどというものが、一方からいえば、皆悲しい一つの反動であるのを知っていた。彼は、生長すればするほど、祖父の臨終の一言を畏れた。たとい運命が、自分の前に何を出して見せても、動じない自信を持ちたいばかりに、男を練る唯一路である戦士の道を励んだといってよい。
 彼が、若々しい衝動に全心を委せ切れず、いつも、控え目勝ちであることも、決して彼の本心の朗らかな悦びではなかった。
 若し前途の不安と、父の名を知る時に対する一種宗教的な畏怖がなければ、スーラーブは、躊《ためら》わず愛人の地位に自分を置いたであろう。
 父を知る日を境にして、自分の一生はどうなるのかと思うと、彼の情熱は鎮まった。あとに、尽きない寂しさに似たものが残る。
 自分の運命を真面目に考えるようになってから、スーラーブは、彼の最善を尽して、来るべき一日のために準備していたのであった。

        七

 その朝スーラーブは例によって、何心なく母の処へ挨拶に行った。ターミナは、優しく彼を迎えた。そして、侍女に命じ、わざわざ新しく繍《ぬ》ったという坐褥を出してすすめたりした。スーラーブはいつもの通り、次第に麗かになって来た天候のことや、この春はかなり仔羊が生れそうなこと、前日の羚羊《かもしか》狩の模様などを話した。彼は、近いうちにチンディーの宝石売が来るという噂を伝えた。
「母上にも何かよいのを見繕いましょう。この前はいつ来たぎりか、もう二年ほどになりますね。美しい紅色の瑪瑙《めのう》なんかは、いつ見てもよいな」
 ターミナは、遠慮深そうに、
「もう派手な宝石でもありますまいよ」
と云った。
「女達のに、さっぱりしたのを少しばかり見てやっておくれならさぞ悦ぶことだろうけれど」
「女達も女達だが……」
 スーラーブは、何心なく顔を近よせるようにして、母の胸元を見た。
「どんなものをしておられます? いつもの卵色のですか」
 彼にそう云って覗き込まれると、何故か、ターミナは、品のよい顔にうろたえた表情を浮べた。そして、さりげない風で、低く、
「別に見るほどのものでもありませんよ」
と云いながら、落付いた肉桂色の上衣の襞の間に、飾りを隠そうとした。が、頸飾りは、彼女の指先をもれ、スーラーブの目に、鮮かな碧色の土耳古《トルコ》玉がかがやいた。手の込んだ細工の銀台といい、立派な菱形に截《き》った石の大きさ、艶といい、調和のよい上衣の色を背景に、非常に美しく見える。彼は、母が寧ろ誇ってそれを見せないのを不審に思った。
「素晴しいものではありませんか」
 ターミナは黙って、自分の胸元に目を注いだ。
「余程以前からあったものですか? 一寸も見なかった」
「気がおつきでなかったのだろう」
 スーラーブは、何だかいつもとは調子の違う気のない母の応答ぶりに注意を牽かれた。何処となく堅くなり、強て興味を唆《そそ》るまいとし、一刻も早く話題の変るのを希っているようにさえとれる。彼は宝石の面に吸いよせられていた瞳を辷らせて、母の様子を見た。ターミナは、自分も一緒に珠の美しさに見とれたように、下目はしているが、顔には、張り切った注意と一寸した彼の言葉にも感じそうな鋭い神経があらわれている。――
 スーラーブは、膝の上に肱をつき、屈《かが》んでいた体を起した。急に湧き上った疑問に答えて、彼の頭は、種々の推測を逞くしだした。第一、この地方で土耳古玉は、珍奇な宝玉に属する。母の意味ありげな素振は、何か、この珠の由来に特殊な事情のあることを告げているのではないだろうか。母のこれ迄の生涯で、若し特別な出来事があったとすれば、それは、自分の何より知りたいこと、知りたい人に、連関したものでなければならない。
 スーラーブは、胸の底に熱いものの流れ出したのを感じながら、凝っと、俯向《うつむ》いている母を眺めた。
 愈々時が来たのか? 余り思いがけない。あんなに隠され、かくまわれていた秘密、或は神秘と呼ぶべきことが、これほど偶然の機会で明されるのかと思うと、スーラーブは、妙に、信じかね、あり得べからざることのように感じずにはいられない。

        八

 考えているうちに、彼の心には次々に、新な疑問が起った。かりにも母が、その飾りを身につけていることが、却って、スーラーブを、思い惑わせたのである。万一、自分の想像が当り、見知らぬ父と関係あるものなら、彼女がそれを頸にかけるという一事だけで充分、その人の価値と、母のその人に対する愛を示されたということになる。ところが、案外の勘違いで、母のまごつきは、その宝石が、娘らしい物欲しさから、祖父の許しを得ず、そっと織物とでも換えたものだという、思い出から出たのかも知れない。
 いつ? 自分だけの考えに沈み、スーラーブは心付いて、四辺の沈黙の深さに愕《おどろ》いた。
 何とか口を開こうとした拍子に、彼は一つのよいことを思いついた。彼は、要心し、母を脅かすまいためわざと軽く、冗談めかして、
「ねえ母上、私には、その土耳古玉が、不思議にいろいろのことを考えさせますよ」
「――どうしてでしょうね」
 スーラーブは、真直に母の眼を見た。
「母上が誰か忘れられない人からでもお貰いなされたように思われてならないのです」
 彼は、この一言に、重い使命を与えた。若し母が、自然に「まあ! 何を云う!」という顔か、笑いでも洩せば、スーラーブは、自分の想像が的外れであることを認めるしかないと思ったのであった。がターミナは、かくし終せない、心を衝かれた色でスーラーブを見かえした。彼女は、明かに、直は言葉も続けかねたのである。彼は、今更、心が轟き、指先の冷たくなるような思いに打たれた。彼は心を落つけ、礼を失わないように、一歩を進めた。
「不しつけな云いようで、すみませんでしたが、どうぞ悪く思わないで下さい。不断から折があったらと思いつめているので、おやと思ったら押えかねたのです」
 スーラーブは、劬《いた》わるように改めて尋ねた。
「ほんとに、私の想像は当っているでしょうね? 母上、そのお返事なさって下さい」
 ターミナは、彼の印象に永く遺った重々しい感情をこめた動作で左手を額にあげ、静かに、そこを抑えた。
「そんなに心にかけておいでだったのか」
「――私ぐらいの年になって、父の名を知らず、その人を愛してよいのか、憎んでよいのかも判らないというのは、楽な心持ではありません。……云って下さるでしょう? 今日迄持ち堪えたら、母上の義務はすんでいるでしょう?」
 スーラーブは、なにか黎明の日の光に似た歓ばしい期待が、そろそろ心を溶かすのを感じた。胸の中では「吉報! 吉報!」と子供らしい叫びをあげて動悸が打つ。彼は、単純に云った。
「父上は、どうされたのです? とにかく愧《は》ずべき人間でないのだけは確かですね」
 しかし、母は、彼の亢奮をともにせず、一時に甦って来た過去の追想に包まれきったように打沈んで見える。彼は、同情を感じた。
 そして、自分も地味な心持になり方法を変えた。
「こうしようではありませんか、母上。今迄隠して置かれたのには何か深い訳があったのだろうから――私が、ききたいことだけを問《たず》ねましょう。簡単にそれに答えて下さい」

        九

 何から先に問《たず》ねるべきなのか、スーラーブが手がかりを求めているうちに、ターミナは、俯向《うつむ》いていた頭を擡《もた》げた。そして、低声に然し、はっきり云った。
「それには及びません。私が話しましょう。卿がこの飾りに目をつけた時に、ああ、到頭今日こそは、と思いました。今日これをつけていたのは……」
 ターミナは云いよどみ、何ともいえず趣の深い、仄かな含羞《はにかみ》の色を口辺に浮べた。
「――十九年昔の今日、卿の父上がこの城へ来られたのです」
 スーラーブは、厳粛な心持になって問ねた。
「今、その人は、どうしているのです? 生きているのですか、死んでしまったのですか?」
「生きておられるでしょう。生きておられることを祈ります。あれほどの方が、死なれて噂の伝わらない筈はない」
「そんなひとなのですか」
 彼は、見えない、偉《おお》きな何ものかが、心に迫って来るのを覚えた。
「――誰です?」
「…………」
「ツランの人ですか?」
「ツラン人ではありません」
「まさか、この領内の者ではあるまい。――」
「イランの人です。卿の父上は……」
 ターミナは、大切な守りの神名でも告げるように、恭しく、スーラーブの耳に囁いた。
「卿の父上は、イランのルスタム殿です」
 スーラーブは、始めて自分が、天の戦士といわれている英雄の子であることを知った。ルスタムの名を聞いて畏れない者は、人でない。いや、アザンデランの森の獅子は、ルスタムの駒の蹄の音を聞いて、六町先から逃げたとさえいわれている。
 十九年昔、ルスタムは、サアンガン附近で狩をし、野営しているうちに、放牧して置いた愛馬のラクーシュを、サアンガンの山地人に盗まれた。ルスタムは、この城迄その捜索を求めて来た。ターミナは、その時十八歳であった。表の広間は、勇将を迎えて、羯鼓《かっこ》と鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1-93-6、345-9]《にょうはち》の楽が絶えなかった。内房には、時ならぬ春が来、ターミナは、不思議な運命が与えた恩寵に、花の中での花のように愛らしく、美しく見えた。一箇月後、ルスタムは、再びラクーシュに騎って山を踰《こ》え、イランに還った。スーラーブが生れた時、ターミナと父とは、異常な宝を、嫉妬深い二十年イランと干戈《かんか》を交えているツランの覇者、サアンガンの絶対主権者であるアフラシャブの眼から隠すに必死になった。星のような一人の男児が、誰の血を嗣いでいるか知ったら、アフラシャブは片時も生しては置くまい。また一人の子もないと聞いたルスタムが、自分の懐から幼児を引離すまいものでもない。
 父と娘とは、心を合せ、策を尽して、スーラーブを匿《かく》まった。無邪気な唇が、どんな大事を洩すまいものでもないと、彼にさえ、父の「チ」の字も云わなかったことをスーラーブは始めて知ったのであった。

        十

 話し終ると、ターミナは、殆ど祈願するように云った。
「それで卿がルスタム殿の息であるのを知っているのは、この世の中で、私と、卿と、二人になりました。どうぞ今迄の心遣いと、尊い血とを無駄にはして下さるな。サアンガンの王の王を作ろうという希いは、サアンガンの女が持つことを許された最大の祈りです」
 彼女は、深い吐息をつき、後の坐褥にもたれかかった。
「ルスタム殿を父に持ったとわかったら、卿も母を恨んではくれまい。――あれほどの夫を持ちながら、永い一生にただ一度、会ったばかりで死ななければならない私が、卿をミスラの子だと云う心持は……嘘や偽りではありません」
 スーラーブは、期待した朗かな喜びの代りに、何とも知れぬ圧迫を心に感じるのに驚いた。彼は当途のない亢奮に苦しみ、馬に騎って、野外に出た。
 スーラーブは、暗くなる迄春の浅い山峡を駆けめぐり、細い月をいただいて、黒い城門をくぐった。
 翌朝、スーラーブはだんだん深い水底からでも浮上って来るような、憂鬱な気持で目を醒した。彼は、枕に頭をつけたまま瞳を動かして四辺を見た。馬毛織の懸布や、研いだ武器が、いつも見なれた場所に、見なれた姿でかかっているのが、妙に物足りなく寥しい心持を起させる。
 疲れていたので、幾時間かぐっすり眠ったのに、目が覚めて見ると何処にも熟睡で心を癒やされた爽やかさがなく、依然として、昨日と今日とは、きっちり、動きのとれないかたさで心持の上に結びついている。
 僅の間でも眠れたのが却て不思議な心持さえする。珍らしく、スーラーブは、目を醒してから後暫く床の上に横わったまま、まじまじと朝日の輝く室内の有様を眺め、やがて真面目すぎる眼つきで褥《しとね》を離れた。侍僕が、気勢をききつけ水と盤とを持って入って来た。
 手と顔とを浄め食事に向うと、シャラフシャーが入って来た。彼はスーラーブと向い合う敷物の上に坐り、種々な業務の打合せをする今朝、スーラーブは、まるで心が内に捕われた、無頓着な風で、シャラフシャーが述べる馬の毛刈りについて聞いた。彼は、もうそろそろ馬の毛刈りをせずばなるまいが、もう二三度|霰《あられ》がすぎてからがよかろうと云うのである。スーラーブは、結局、どちらでもよいのだという風に、
「よしよし、それで結構だ」
と云った。そして、ろくに手をつけない食膳を押しやって立ち上った。
「今日は、少し用事があるから、皆には卿の指図でよろしくやって貰おう」
 彼は、数間内房に行く方角に向って歩き出した。が急に気をかえたらしく、シャラフシャーを顧た。
「面倒でも、卿に今日は内房に行って貰おう。シャラフシャー、私は疲れているので御挨拶に出ませんと、伝えてくれ」
 シャラフシャーが立ち去ると、スーラーブは、居心地よい落付き場所をさがすように、ぶらぶら室じゅうを歩き廻った。
 けれども、いつ外から挙げられまいものでもない彼方此方の垂幕が気分を落付かせない。遂に、彼は、城の望楼を思いついた。あそこなら誰も、丁寧な無遠慮で自分を妨げる者はないだろう。

        十一

 稍々疲れを感じるほど、長い、薄暗い、螺旋形の石階を登り切るとスーラーブは、一時に眩ゆい日光の海と、流れる空気との中に出た。ここは、まるで別世界のようだ。音もせず、空に近く明るい清水のような空気に包まれて、狭い観台の上では、人間が、天に投げられた一つの羽虫のように、小さく、澄んで感じられる。スーラーブは、始めて吸うべき息のある処に来たように、心から、深い息を吸い込んだ。そして、胸墻《きょうしょう》の下に取つけた石の、浅い腰架に腰を卸した。下を瞰下《みおろ》すと、遙に小さく、城外の村落を貫き流れる小川や、散らばった粘土の家の平屋根、蟻のように動く人間や驢馬《ろば》の列が見える小川の辺りでは、女が洗いものでもしているのか、芽立った柳の下で、燦く水の光が、スーラーブの瞳に迄届いた。遠く前面を見渡すと、緩やかな起伏を持った丘陵は、水気ゆたかな春先の灌木に覆われ薄|臙脂《えんじ》色に見える。その先の古い森林は、威厳のある黝緑《ゆうりょく》色の大旗を拡げ立てたように。最後に、雪をいただいた国境の山々が、日光を反射し、気高い、透明な、天に向っての飾りもののように、澄んだ青空に聳え立っている。
 肱をつき濁りない自然に包まれているうちに、スーラーブの心は、白雲のように、音もなく、国境の山並の彼方に流れた。そして茫漠としたイランの空の上で、降り場所を求めるように円を描いて舞う。けれども、彼の心を、地上から呼びかけて招いてくれるものもなければ、落付き場所を教えてくれてもない。スーラーブは、父の名を知らなかった時、それさえ解ったら、どんなにさっぱり、心強いことだろうと思い込んでいた。ところが、事実は、正反対になった。まるで想像も、しなかった辛さが心に生れた。それは、偉大な戦士としての父に対する限りない尊敬、愛、帰服の心とともに、ここに切りはなされてぽっつり生きなければならない自身を、ひどく詰らなく、無意味に感じるという苦しさなのである。スーラーブは、昨日迄の生活を、無意義極まるものとして、考えずにはいられなかった。若し、何かの見どころがあれば、それは、ただ今後の生れ更った自分の生活に何かの足しになるものであったという理由にすぎない。彼の若々しい熱意や、憧憬に燃る心は、あのルスタムを父と知ってから、再び、元の眠ったような生活には思っただけでも堪えなかった。どうかして、ルスタムの子にふさわしい生き方がしたい。父と倶にあれば、たとい自分が末の末の数ならない一人の息子であったとしても、前途には、もっと希望と、男に生れた甲斐のある約束があった筈だ。
 現在のままの境遇では、父に会うという一事さえ、容易に果せない。小さいツラン属領の城番で、獣しかいない山野に囲まれ、生活を変えるとしても、何の根拠によることが出来よう。スーラーブは、死んだ祖父や母に対し、始めて、不満と、絶望的な皮肉とを感じた。祖父が、習慣に背いて、自分を父の手に渡してくれなかった理由、下心が、賤しく考えられた。スーラーブは、眉を顰《ひそ》めて、目の下に見える、堅固な城の外廓と、二重の城門とを瞰下した。それ等は皆、祖父の代に、改築されたものであった。祖父は、あの厚い城壁と、要心のよい二重の扉で自分をこの中にとり籠めて置く積りだったのだろうか、または、小さな威厳という玩具を与えて、自分を一生、サアンガンの嬰児にして置こうとしたのだろうか。

        十二

 母が遂に、父の名を明かしたのは勿論、それを聞いたら自分が落付き、現在の生活に一層満足するだろうと思ってのことであるのは、スーラーブによくわかった。父との短い、思い出の深いだろう恋を考えれば、その心持にも同情されるものがある。
 然し、気の毒なことに、彼はもう自分が、彼女一人の、スーラーブではなくなったことを感じた。寧ろ女らしい姑息さで、自分を動く、大きな運命の輪から引きはなしてくれたことで、却って、自分の本性というものからは遠い、無縁なものであることが明らかになったような形さえある。
 考えれば、祖父は勿論、母も、彼等自身の満足の方便として、自分を自由にした。ちっとも、自分の希いは思ってくれなかった。最も近いそれらのひとびとから、政治的に何ぞというと掣肘《せいちゅう》を加えずに置かない冷血な、蒼白いアフラシャブに至る迄、今のスーラーブには一人として、心の通じ合う、誠を以て尽し合う者はなく感じられた。
 ただ、ルスタム、父。その繞りだけは生命がある。真心と自分を牽く光明とがある。けれども、何か異常なことが起り、周囲の絆を断ち切って、真直自分がイランに飛んで行けない限り、その退屈な、石塊のような、生活を続けなければならないのだ。
 スーラーブは、太い、激しい息をつき、今、ここから、そのまま双手を翼に変えて、翔び立ってしまいたく思った。時が来る迄に、無意味な日々が、いつとはなく自分の筋骨を鈍らせ、衰えさせてしまいはしまいかと考えると、ぞっとする懼れが心を噛んだ。
 万一、機会が来る迄に、もう老年に達したに違いない、父が死ぬことがありはしまいかと思うと、スーラーブは、無言に、辷り、移ろう日かげを掴み、引止めて置きたいほど不安になった。
 スーラーブは、広い空の裡に、ただ自分と父だけの命を感じた。見えない、ずっと遠い彼方の端に父はいる。此方の端に自分がいる。父の熾な、雄々しい気勢を自分は夜明けに何より速く暁の光を感じる雲のように感じている。けれども、父の方は、自分がどんな感激に震え、待望に息をのんでいるか、まるで知らない。声もかけ得ず、面も合せ得ないうちに、老た太陽は、堂々と、天地を紅に染めて地の下にかくれてしまうかもしれない。雲には、明日という、大きな約束がある。けれども自分には何があるだろう? 月ならば、沈んだ日の照り返しで、あんなに耀くことも出来る。自分は、奇妙な因縁で、地に堕ちた月だ。未だ成り出でない星ともいえる。日の余光は強くあっても、自分には、大らかに空を運行して、その輝きを受くるだけの、あの宇宙を充す不思議な生き方の力の分け前を得ていないのだ。
 冷やかな石の欄に頭をつけていたスーラーブは、ふと、何処かに人の跫音をききつけた。
 彼は、思わずきっと頭をもたげ、耳を※[#「奇+攴」、第4水準2-13-65、351-7]《そばだ》てた。四辺のひっそりとした静けさを踏みしめるように、石階を登って来る。スーラーブの、藪かげに獣の気勢をききつけた敏い耳は、それがフェルトの長靴を穿いた足で、丹念に一段、一段と登る一方が軽く跛《びっこ》を引くのまできき分けた。
 歩き癖で、来たのは誰だかわかると、スーラーブは、腰架の上で居ずまいをなおし、左手の掌で徐に自分の顔を撫でた。

        十三

 スーラーブは、何気なく頬杖をついて、空を眺めていた。窮屈な階段を昇り切ったシャラフシャーの暗い眼にぱっと漲る日光とともに、彼の薄茶色の寛衣を纏った肩つきが、くっきり、遠景の大空を画《くぎ》って写った。
 シャラフシャーは、上体をのばすようにソリ反り、凝っとスーラーブの後姿を見、大股な、暖か味のある足どりで近づいた。
「我君!」
 スーラーブは、始めて気がついたように、シャラフシャーを振向いた。そして幾分、不機嫌に、
「何だ!」
と云った。が彼は、妙な子供らしい間の悪い感情から、真直にシャラフシャーの眼を見られず、さも大切なものが浮いてでもいるように、空の方を横目で見た。
「昨日申上た宝石売が、はや、参りました」
 スーラーブは、この親切な、父代りに自分を育てた老人がほんとに云いたいのは、宝石売のことなどではないのを知っていた。彼は「どうなされた、さあ、気を引立てて」と、囁かれるのを感じた。宝石売などは、自分を滅入らせる一方の独居から引出そうとする口実にすぎない。スーラーブはその心をなつかしく感じた。彼は、
「行って会おう」
と云わずにはいられなかった。
「先刻食物を与え、休息させてございます」
「…………」
 スーラーブは立上った。そして何処となく乾いた樫の葉と獣皮との匂が、混って漂っているようなシャラフシャーの身辺近く向き変る拍子に、彼は、自分の心にかかっている総てのことを、あらいざらい云ってしまいたいような、突然の慾望に駆られた。
 スーラーブは、我知らず、シャラフシャーの、厚い、稍前屈みになった肩に手をかけた。が、何とも云えない羞しさが、彼の口を緘《とざ》した。自分とひとの耳に聞える声に出して「ルスタム」と云うことすら、容易なことではなく感じられる。階段の降り口に来ると、スーラーブはそのまま黙ってシャラフシャーの肩から手を離し、先に立って段々を降りた。
 宝石売の男は、広間の隅に、脚を組んで坐っていた。向い側の垂帳が動き、スーラーブと他の三四人の姿が見えると、彼は、慌しく坐りなおし、額と両掌とを床にすりつけて跪拝した。スーラーブは、拡げられた敷物の上に坐った。坐が定まると、宝石売の男は、黒い釣り上った胡桃形の眼を素ばしこく動かし、スーラーブの顔色を窺《うかが》い窺い、仰々しく感謝の辞を述べた。そして、卑下したり、自分から褒めあげたりしながら、荷嚢から、幾個《いくつ》もの小袋を引出し、特別に調えた天鵞絨《ビロード》の布の上に、種々の宝石を並べた。それを引きながら、スーラーブの前に近く躪《にじ》りより、下から顔を覗き、身振をし、宝石の麗わしさ、珍らしさなどを説明する。
 スーラーブは、寧ろうるさく、速口の説明をきき流した。けれども、流石《さすが》に、宝石の美しさは、彼を歓ばせた。
 小柄な黒い眼の男が、器用にちょいと拇指と人さし指との先につまんで、日光に透し、キラキラと燦めかせる紅玉や緑玉石、大粒な黄玉などは、囲りの建物の粗い石の柱、重い迫持と対照し、一層華やかに生命をもち、愛らしく見える。母のためにと思って、スーラーブが蕃紅花《サフラン》色の水晶に目をつけると、商人は、いそいで別な袋の底をさぐり、特別丁寧に、羊の毛でくるんだ一粒の玉を出した。

        十四

 彼は、ありもしない塵を熱心に宝石の面からふき払うと、それをスーラーブの眼の前につきつけた。
「如何でございます。これこそ、若い、勲《いさおし》のお高い君様になくてはならない、という飾りでございましょう。御覧なさいませ。ただ一色に光るだけなら、間抜けな奴隷女の頸飾でもする芸です。ほら」
 商人はうまく光線を受けて、虫の卵ほどの宝石をきらりと、燐光のような焔色に閃かせた。そのまま一寸光の受け工合を更えると、玉は、六月の野のように、燃る肉色や濃淡の緑、溶けるような空色、深い碧をたたえて色種々に煌《かがや》く。
「この一粒が、百の、紅玉、緑石に当ります。イランの王は、この素晴らしい尊さの代りに、失礼ながら私共の嚢の中では屑同様な縞瑪瑙《しまめのう》に、胎み羊二十匹、お払いなされました」
 彼は、狡く瞼も引下げ、悪口でスーラーブに阿諛《あゆ》した。シャラフシャーに、珍らしい蛋白石を手渡していたスーラーブは、その言葉で、俄に心が眼醒めたようになった。彼は思わず男の顔を見なおし、唾をのんだ。そして調子を変えまいと思って、却って不自然な、低い物懶《ものう》そうな声で、
「卿は、イランから来たのか?」
と訊ねた。
「仰《おおせ》の通りでございます。宝石の珍しいものを集め、君様の御意を得ますには、どうしてもイランから東へ、参らねばなりませんので……」
 スーラーブは、わざと、見る気もない土耳古玉を一つ手にとりあげて弄った。
「イランに変ったことはなかったか?」
 商人は、ちらりと、スーラーブと、スーラーブを見るシャラフシャーとを偸見《ぬすみみ》た。そして、さも滑稽に堪えないという表情を誇張して笑った。
「いや、もう変ったというほどを越した話の種がございます。丁度、私がイランの王廷に止まっておりました時のこと。御承知の通りあのカイ・カーウスと申す方は、神の秤目が狂って御誕生ですから……」何処かの、彼より馬鹿な男が、宴の席で、鳥のように天を翔べたらさぞ愉快だろう。イランほどの大国の王は、誰より先に、蒼天を飛行する術を極めるべきだと云った煽てに乗った。そして、七日七夜、智慧をしぼった揚句、或る朝、臣に命じて、二十|尋《ひろ》もある槍を四本、最も美味な羊の肉四塊、四羽の鷲より翼の勁い鷹を用意させた。
「それで何をしたと思召します?」
 宝石売は、膝を叩いて、独りでハッハッハッと大笑した。
「城の広場で、えらい騒ぎが致しますから、私も珍らしいことなら見落すまいと駆けつけますと、王自身が、世にも奇妙な乗物に乗っておられます」
 カイ・カーウスは、玉座の四隅に矛先に肉塊を貫いたその途方もなく長い槍を突立て、もう少しで肉に届く、然し、永久に二尺だけ足りないという鎖で四羽の鷹を、一羽ずつその下に繋いだ。
「お小姓が、酒と果物の皿を捧げますと、カーウスは、手をあげて合図をされました。いや、あの時の光景は、観た者でなければ想いもつきますまい。何しろ四方は山のようなんだからでございます。内房の女達まで覗いている。鷹匠は声を嗄して、四羽の鷹を励ましております。王は、得意な裡にも恐ろしいと見え、しっかり、頸の長い酒の瓶を握りしめておられる。気勇立つ鷹を押えていた男が、呼吸を計って手を放すと、昇った、昇った。王は、七日七夜の思惑通り、ふわり、ふわりと、揺れながら、玉座ごと地面の上から舞い立たれました」

        十五

「若しそれぎり雲の中に消えてしまえたら、イランの王の腰骨も、あれほど痛い目には会わなんだでございましょうに……」
 男は、わざと、溜息をついて、言葉を切った。飛んだと思ったのもほんの瞬きをする間で、十尋も地面を離れないうちに、四隅で吊上げられた玉座は、ひどい有様に揺れ始めた。王は、上で滑ってこの槍につかまったかと思うと、彼方の槍の根元に転げかかり、七転八倒するうちに何時まで経っても届かない餌物に気を苛立てた鷹は、槍の矛先を狙うのをやめて、さんざんばらばらにあがき出した。下では群臣が、拳を振りあげ、声を限りにあれよあれよと叫んでいる。するうちに、一羽の鷹がどよめきの裡でも特に鋭い鷹匠の懸声をききつけたのか、さっと翼を張って下方に向った。拍子に、ぐらりと玉座が傾いたかと見る間に、王は籠からこぼれる棗《なつめ》のように、脆くも足を空ざまにして墜落した。
「その機勢《はずみ》に、王は何の積りか、無花果《いちじく》の実を一つ、確かり握って来られました。汁で穢れた掌を開いて潰れた実をとってあげようとしても、片手で挫けた腰を押え押え、いっかな握りしめた指を緩めようとされず、困ったことでございました。
『あの鷹匠奴! あのしぶとい奴等め!』と息も絶え絶えに罵られましたが、流石に愧じてでしょう。十日ばかりは、お気に入りの婦人でさえ、お傍へ許されませんでした。先刻申上た縞瑪瑙も、実は、煎薬の匂いで噎《む》せそうな臥床の中でおもとめなされたような訳で。――一事は万事と申します」
 商人は、意味ありげに、声を潜めた。
「イランは、ルスタムという柱で持っております」スーラーブは自分の内の考えに領せられ、笑いもしなければ、見えすいた追従を悦ぶ気振もなかった。彼は暫く黙ったまま、先刻から手に持ったぎりでいた土耳古玉を目的もなく指の間で廻すと、思い切った風で、
「卿はルスタムに会ったか?」
と問ねた。彼の顔には、目に止まらないほどの赧らみと、真面目な、厳しい表情とが浮んだ。
「今度は、残念ながら会いませんでした。ルスタムは、一昨年、マザンデランで白魔を退治してから、ずっと、シスタンの居城にいるとききました」
「もう余程の年配か?」
「六十度目の誕生は、間違いなく祝われましたでしょう」
「…………」
 商人は、流眄でスーラーブの黙っている顔を見た。熱心な集注した様子が、彼を愕かした。商人は、心|私《ひそ》かに、自分の煽てが利いたと想像し、ツランのアフラシャブへよい注進の種が出来たのにほほ笑んだ。そして、一層誠らしく、丁寧に、
「お若い、雄々しい君様の御将来には、大国の王座が約束されているようなものでございます」
 傍に、髭を撫で、注意深く話を聞いていたシャラフシャーが、じろりと、鋭く商人を視た。
「卿は、宝石だけを売っておればよろしい」
 そしてスーラーブに向い、ゆっくり、一言ずつ切って、
「我君、どの玉をお買いなされますか?」
 スーラーブは通一遍の興味で、隋円形の紫水晶と、六七|顆《つぶ》の円長石とを選んだ。
「何と云ったか、その種々に光る石は、美しいことも美しいが少し高価すぎる。考えて置くから、まあ悠くり滞留するがよかろう」
 スーラーブは、立ったまま、代として渡す羊について一言二言つけ加え、広間を去った。

        十六

 これ迄になく、スーラーブは、半月余も宝石売を城に止めて置いた。その間彼は、朝の遠乗をすますと買おうとする宝石の撰択をきっかけにしては、一日の幾時間かを、宝石売とシャラフシャーと三人で過した。そして、好い機会があると逃さず、イランのこと、ルスタムのこと、或はその他の国々の様子を訊く。
 彼が、宝石より何より、それ等の話を聴きたいばかりに、宝石売を止めて置くことは、明かであった。然し理由は、シャラフシャーにさえ説明しない。もとより、スーラーブは、悪賢い旅商人などの云うことを、何処まで信用してよいものか、弁《わきま》えるべきことは知っていた。けれども、意外の事実を知った時に来合せた。とにかく城内の誰より、イランに就ては詳しい話を聞かされると、彼は、どうしてもそれに無頓着ではいられなくなった。スーラーブは、父に対して当途のない感動に燃えていた思慕の心が手がかりを得、実際の纏った力となろうとして頻りにうごめき出したのを感じた。
 このままではいられない、何とかしよう。どうしたらよいか、という執着の強い、絶え間ない囁きが、彼をつけ廻し出した。彼の不安に拘わらず、夜は眠れないほどの苦しさにかかわらず、唯一の考えは、彼の全精力を集中させようとする。スーラーブの心も、体も、魔もののような「どうしたらよいか」という渦の囲りに、離れようとしても離れられない不可抗の力で吸よせられた。彼は、日常の出来事に、溌溂とした注意を分離し、滞りなくそれらを処理する愉快さなどは、まるで失った。事務は皆、シャラフシャーに任せきってしまった。そして、愈々《いよいよ》寡黙に、愈々人ぎらいになった。宛然《さながら》、傷ついた獣が洞にかくれて傷を舐め癒すように、彼は、自分の心とさし向いになり、何かの道を見出そうとする。
 僅か十六七日の間に、スーラーブの相貌はひどく変った。突つめた老けた、心を労す表情が口元から去らなくなった。憂鬱に近い挙止の間々に時とすると、燻《くす》ぶる焔のように激しい閃きがちらつくことがある。
 宝石売が去ったのは、丁度四月の下旬であった。ツランの天候の一番定まりない時である。朝のうち薔薇色に照って、石畳や柱の縁を清げに耀かす日光は、午すぎると、俄にさっとかげって来る。ざわざわ、ざわざわ、不安に西北風が灌木や樹々の梢を戦がせると見るうちに、空は、一面煤色雲で覆われる。広場で荷つけをしているものなどが、急な天候の変化に愕きあわてる暇もない。凄い稲妻が総毛だった天地に閃いたかと思うと、劇しい霙が、寒く横なぐりに降って来る。
 それも一時で、やや和いだ風に乗り、のこりの雫をふり撒きながら黒雲が彼方の山巓に、軽く小さく去ると、後には、洗いあげたようにすがすがしい夕陽が濡燦めき、小鳥の囀る自然を、ぱっと楽しく照りつける。ぞろぞろと雨やどりの軒下から出て来て、再び仕事を取り上げる男達の談笑の声、驢馬が鼻あらしを吹き、身ぶるいをする度に鳴る鈴や、カタカタいう馬具の音などが入り混り、如何にも生活のよろこびを以て聞える。夕暮は、柔かい銀鼠色に、天地が溶けるかと思われる。夜はまた、それにも増して美しい。スーラーブは、近頃、幾晩か、霊気のような夜に浸て更した。
 今晩も、歩廊の拱から丁度斜め上に、北極星、大熊星が、キラキラ不思議な天の眼のように瞬いている。月はない。夜の闇は、高く、広く、無限に拡がってうす青い星や黄がかったおびただしい星は、穏密な一種の律をもって互に明滅するようだ。

        十七

 灯かげのない拱に佇んでいるうちに、スーラーブは、心が星にでも届くように、澄み、確かになって来るのを覚えた。
 天から来る微かな光に照されていると、瞳がなれて、一様な闇の裡でも、木の葉の戦ぎまで見えて来るそのように、スーラーブは、混沌とした動揺の中から、次第に、自分の心持、結局の行方をはっきり覚り、考え出した。快い冷気の中に、今夜は特別な魔力が籠っているのか。彼は、今迄自分が苦しみ悩んでいたのは、ただ、とうに解っていたことを、自分の心持だけで判らないものとしていたことに原因しているのを知った。自分が、衷心で何をしたがり、何を望んでいるか、それは自分に解っている。それを遂げるに方法は一つしかないのも実は、ちゃんとわかっていたのだ。妙な臆病、未経験な若い不決断で、後のものが自分に定った運命だと思いきれなかったばかりに、苦しさは限りなく、止めどのない混乱が来たのだ。スーラーブは、幾日ぶりかで、自分の精神が、明らかな力で働き出したのを感じた。どうでも、自分は父に会わなければ、満足しない。どんな方法でも採ろうと思いながら、唯一の道であるイランに行くこと、その行方が侵入という形をとるという考えに怯じて、躊躇していたことが、今、彼に、ありありと解ったのであった。
 彼は、自分を憫笑するような心持と、切って落された幕の彼方から出て来たものを、猶確かり見定めようとする心持とで、愈々考えを集注した。
「兵力を以て、イランに侵入するということは、いずれ、何時かは、アフラシャブに強制されてでもしなければならないことではないか。怯懦の癖に、野心は捨てることを知らない彼は、これ迄の失敗にこりて、ルスタムのいる間こそ、手を控えていよう。一旦、イランの守りがなくなったら、自分の命が明日に迫っていても、そのままに済さないのはわかっている。その時自分は、否応なしに、戟《ほこ》をとらせられる――然し、父のない後のイランが自分にとって何だ。アフラシャブの道具になって、命をすて、イランを侵略する位なら今、父上のおられる時、自分から動きかけ、機先を制して、その父に会いたさで燃える心を、戦士として、最もよく役立てるのは、当然すぎるほど当然ではないか」
 スーラーブは、解《ほ》ぐれ、展開して来る考えに乗移られたように、我知らず、暗い歩廊を歩き始めた。
「ツランから侵入したといえば、王は、必ずルスタムを出動させるだろう。……よいことがある、自分は、ツランの主将として、イランの主将に一騎打を挑む。父上が出て来られる。この機会を、先人の知らなかった方法で利用しよう。自分は、その人をルスタムと確め、いつかの頸飾りを見せさえすればよい。恐ろしい戦場は、忽ち、歓呼の声に満ちた、親子の対面の場所となるのだ」
 スーラーブの目前の薄暗がりの中には、その場の光景が、明るく、活々と一つの小さい絵のように浮み上った。思いがけない頸飾りを手にとり、愕き、歓び、言葉を失って、自分を見るだろう父。その頭を被う兜の形から、瞳の色まで、ついそこに見えているようだ。自分は何として、その悦び、感謝を表すか。その時こそ、命は父のものだ。力を合わせ、アフラシャブを逆襲するか、或は王に価しないカーウスをイランから追うか、父の一言に従おう。彼としては、恥なき息子として、父ルスタムに受け入れられるだけでもう充分の歓びなのであった。

        十八

 感動? やや空想的すぎる火花が納まると、スーラーブは、一層頭を引きしめ、心を据えて、種々、重大な実際問題を考究し始めた。事実、幾千かの人間を動かし、小さくてもサアンガン一領土を賭してかかると思えば容易でない。然し、計画は、充分肥立って孵《かえ》った梟の子のように、夜の間にどんどん育った。
 黎明が重い薄明りを歩廊に漂わせ始める前に、スーラーブの心の中では、ちゃんと、アフラシャブに対する策から、凡そ出発の時日に関する予定まで出来た。スーラーブは賢い軍師のようにうまいことを思いついた。それは手におえないアフラシャブを、逆に利用すること――自分ではなるたけ痛い目を見まいとするアフラシャブは、サアンガンが立ったときけば、きっと、それを足場にして、利得を得ようとするだろう。イランを、仮にも攻撃すると信じさせるに、サアンガンの軍勢ばかりでは余り貧弱だ。アフラシャブは、サアンガンの兵に混ぜて自分の勢力をイランに送って置けば、何かの時ためになると思うに違いない。ツランの力を分裂させるためにも、万一父の必要によって、その勢いを転用するにも都合がよい。加勢を、無頓着に受けてやろう、という考えである。互に連絡を持ち、敷衍されて行くうちに、策略の全体は、益々確かりした、大丈夫なものに思われて来た。
 スーラーブは、自分の決意と、着想に深く満足した。すっかり夜が明け放れたらしようと思うことを順序よく心に配置し、彼は、誰にも見られず、自分の寝所に戻った。
 ほんの僅かの時間であったが、スーラーブは、近頃になく、四肢を踏みのばし、前後を忘れて熟睡した。
 彼は、目を醒した時、思わず寝過したのではあるまいかと愕いて飛び起きたほど、ぐっすり睡った。スーラーブが、元気で、心に何か燃えているもののあるのは、手洗水を運んで来た侍僕の目にさえ止まった。別に愛想よい言葉をかけたのでもないが、彼の体の周囲には、何処となく生新な威力に満ちたところがあり、傍で見てさえ、知らず知らず信頼を覚える特殊な雰囲気が醸されているのだ。
 スーラーブは自身も、まるで蘇えった心の拠りどころと、前途の希望とを感じた。心を引緊め智を働かせて仕遂ぐべき大事があると、却って心が落付き、静かな勇気が内に満ちる。
 彼は、昨日までの苛立たしげな様子は忘れ、悠くり手を浄め、軽い食事を摂った。そして、朝の挨拶に来たシャラフシャーに、機嫌よく言葉をかけて、一緒に、望楼にのぼった。そこで、彼は始めて自分の計画を打ちあけた。ルスタムを父と知ったことさえ、その朝初めて、明かしたのであった。
 最後まで彼の言葉を黙って聞いていたシャラフシャーは、極要点を捕えた二三の質問を出した。スーラーブは、自信を以てそれに答えた。
 半時も沈思した後、シャラフシャーは、徐に賛成の意味を表した。彼は「それはよい。やるべしです」という風にではなくやや沈み年長者らしい情をこめて、「そこ迄御決心なされたのなら、遣らずにはすみますまい。貴方の血が眼を覚ましたのだ。シャラフシャーがこの上希う唯一つのことは、どうぞはやらず、一人の命も無益にはお使いなされぬように、と云うばかりです」と云ったのであった。彼の言葉つきはどうであろうとも、彼が尽してくれる真心、賢い忠言に変りある筈はない。昼前中二人は、望楼にいた。スーラーブは、アフラシャブの所へ送るべき密使のこと、至急調るべき糧食、武器などのことに就て、相談した。

        十九

 急なことであるにも拘らず、準備は、何も彼も、都合よく運んだ。殊に、スーラーブが、私かに最も不安に感じていた糧食の問題が、案外好結果に解決されると、彼は自分の計画全部に対する吉兆のように喜んだ。
 アフラシャブの許に至急送られた密使も、二十日後、スーラーブの、満足する返答を得て来た。アフラシャブは、スーラーブのこの度の企てと、彼自身が主将として行きたいという希望は、快よく容れる。援軍としては、一万の兵と信用ある五人の副将とを送ろう。但し、若しイランで勝利を得たら、後は、アフラシャブの命を待って事を進めること。万一失敗すれば、サアンガン領は没収する。というのである。
 スーラーブは、内心微笑を浮べて、勝手なアフラシャブの条件を聴取した。彼方から寄来すというフーマン、バーマンなどという戦士は、ツランでは第一流の戦士である。彼等が数年前アフラシャブの軍に加わってイランに行き、親くルスタムの顔を見知っているということが、ひどくスーラーブをよろこばせた。(このことは、スーラーブの満足であっても、彼等にとって冷汗の出る記憶が伴っていた。十年昔、アフラシャブは三度目の決戦をする覚悟で、大軍を率いてイランを攻めた。アフラシャブは前回が失敗であったにも拘らず虚を衝くつもりで、一年も経ず、また出かけたのであった。が、矢張り勝算がなく、或る日の合戦で、アフラシャブ自身が、ルスタムの捕繩で首をからまれてしまった。白いラクーシュにのったルスタムは、確かり馬上に踏ん張り、大力を出して、引きよせようとする。アフラシャブはすっかり動顛し、叫び、藻掻《もが》いて抵抗しようとするが、力かなわず、腑甲斐なく、乗馬の尻を地にすって引よせられる。駆けつけたフーマンとバーマンが、剣を振り、やっと、太いルスタムの捕繩を断ち切った。その時、ルスタムが、銀のように輝く兜の下から、大きな目で、凝っと彼等を見据「ツランの痩狼! 主人を助けに出て来たな」と云ってカラカラと笑った。この話は、当時ツラン全土に伝えられた有名なもので、スーラーブの子供心にさえ鮮かな驚異を与えた。)
 必要な手順が内密に調うと、スーラーブは、一般の臣下、村落の男子に、イラン遠征のことを明した。何処となく従前とは異るスーラーブの様子や、特に最近、不時の穀物徴発、馬匹整理のあったことなどで、事ありげに感じていた者共はスーラーブの宣言を、平静に、勇気に満ちて受けとった。
 城の広場に召集された城の内外の主だった男達は、一人一人、進み出で、スーラーブの武運長久と、彼等の忠節の誓いを立て、神を召喚して、彼の剣の把手に額をつけた。
 スーラーブの日常は、過去数週間の沈滞から、俄に活動の極点に移った。彼は、サアンガンの総勢を十隊に分けた。そして、一日交代に半隊ずつを引率し、猛烈な規律ある野外訓練を始めた。内房に、この度の企てが告げられた時、流石にここでは、気負ったスーラーブも当惑した。驚きの叫びと、恐怖の涙が室に満ちた。ターミナは、激しく涙を流しながらスーラーブの手を執り、自分の頬に押し当て歎いた。
「ああ、ああ、卿を楽く活かそうと思って、却って殺すことになってしまった。スーラーブ、よく覚えていて下さい。卿の屍を焼く日は、私の葬られる日ですよ、母を思うならどうぞ無事な姿を見せて下さい。卿が無事に戻る迄、私は、城の扉も閉めさせまい」

        二十

 母の悲歎は、強くスーラーブの心を痛めた。彼にとってそれが苦しいのは、もう自分の決心は到底動かせないもので、たとい母がそのために泣き死んでも、止めることは出来ないと解っているからであった。彼の親切な慰めもこれが最後かという悲しさのために、却って、ターミナにとって堪え難いものらしく見えた。スーラーブは、愛を籠め必要な説明と希望とを与えた後、出立迄、出来るだけそのことには触れない方針をとった。内房の女達は、やがて黙って、折々不安の吐息を洩し、眼頭に涙をためながら守袋を縫ったり、鞍布の刺繍にとりかかり始めた。是等の沈み勝な湿っぽい情景に拘らず、時期が迫って来るにつれ、スーラーブの全身には、益々精力が充ち満ち、心は、満を持した弓のように張り切った。シャラフシャーやアフラシャブの宮廷から先発して来たフーマン等と進路のことにつき、または戦略に関し、長時間に亙って協議した後、スーラーブは、新鮮な息を吸おうとして、広間の歩廊に出る。が、爽かな空気を呼吸するどころか、彼は、丁度下の出立の仕度で大混雑の広場から舞上る、むせっぽい砂塵を浴びた。
 晩春の晴天つづきで、広場は乾ききり、地面は一面薄黄く、ボガボガになっていた。そこに真上から日光に照され、無数の男が、立ったり据たり、各自の仕事に熱中していた。或る者は、足の間でカチカチ鳴る金物を押え、頻りに弄り廻している。或る者は、出来上ったばかりの鞍をその手に持って立ち上り、パンパンパンパン好い音を響かせて塵を払い、直下にしゃがんでいる男から、
「ヘーイ! 目を開けろ! 泥をかけてくれるにゃあ未だ早いぞ!」と怒鳴られる。どっという陽気な笑い声。彼方の隅に五つ並べて築かれた急造の石の大竈からは、晴れた空に熾な陽炎を立てながら、淡い青い煙と麦の堅焼パンのやける香ばしい匂が漂って来た。それに混って、馬の、遠くから来る、かん高いいななき。何処かで重い物を動かしているらしく低い、調子の揃った、力の籠った懸声も響いて来る。心を合せ、彼一人に信頼し、これ等の活動をしている者等を見ると、スーラーブは、しんから謙遜に、自分の計画の成就を祈らずにいられなかった。彼は、自分も彼等も等しく大きな運命の扉を開くためにせっせと準備し、用意しているように感じた。彼が、初めてイランに侵入する決心をした晩、空想のうちに、幻と思えないまざまざと浮んだ父の姿は、一層はっきり彼の心にやきつき、守本尊となった。この広場の大ごたごたの上にも巨人のような父の姿が、透明な積雲のように、而も溢れる精神に漲って、凝っと自分の計画に注目しているように思うのであった。
 六月の下旬、スーラーブは、予定通りイランに向って出発した。彼の、厚い鉄の胸当の下には圧搾され、やっと縮んでいる限りない希望と、母から借りて来た、あの銀台に土耳古玉をつけた頸飾りが大切に蔵われていた。ターミナはこの菱形の碧い珠に、幾夜かの涙と祈りとをこめて別れを告げるスーラーブの頸にかけた。彼女は、今度の計画が成功すれば、必ずルスタムとスーラーブの名に於て、迎えを寄来す。使が、再びその頸飾を白檀のはこに入れて持って来れば、信じてその者に案内を任せるようにと云う、スーラーブの言葉を唯一の希望に老いたシャラフシャーと、人気のない城を守ることになったのである。
 スーラーブの軍は、十日目の日沈頃アフラシャブ領とサアンガン領との境を区切る険阻な巖山の麓で、バーマンに率いられ、一日前に先着していたツラン勢と落ち合った。

        二十一

 六七月は、ツラン、北方イラン地方で、最も気候のよい時である。毎日、空は瑠璃のように燿く晴天つづきで、野原や森林は、瑞々しい初夏の若葉で、戦ぎ立っている。夜は、星が降るように煌いた。春の雪解でたまった手の切れるような水が、山奥の細い谿流にまで漲り渡って、野生の種々な花の蜜とともにどんなに貪婪《どんらん》な喉を潤しても尚、余りあるほどだ。夥しい兵と、数百の乗馬、荷驢馬の長いうねうねした列は、彼方此方で夜営のかがりを燃き、平和に、寧ろ巡礼旅行者のように進行した、イランの国境に迫る迄、多くの者は、甲冑さえ正式にはつけなかった。
 この季節は、夜が非常に短いので、予定より早く二十五日目に、今迄ずっと登りであった山路が、次第にイラン内地に向って下り坂になって来た。戦いに向うにしては、余り言のなさすぎる長道中に稍倦怠を感じ出した者共は、いよいよ明日、イランに入ると聞いて、俄に勢い立った。そして、その夜は、早めに天幕を張り、大きな焚火の囲りで、武装を調えた。便利のため、巻いて荷馬の背につまれていた旗が、堂々と旗竿につけられた。
 スーラーブ始め、主だった将卒は各々位置に応じた盛装をした。フーマン、バーマンの経験によると、国境の山を登りきり、三ファルサングも降ると、イランでは最も西部の辺鄙を護る城がある筈であった。その前の時はアフラシャブの主張によって、わざとそれを迂回して中心を衝こうとした。ところがそれが失敗した上、要路に矢一つ受けない城が控えていたため、退却中でも、惨めな退却を余儀なくされた。彼等は、後の要心に、撃てと云う。スーラーブは、他の理由から、それに賛成した。彼は、出来るだけ早く、多くを殺さず自分も疲れないうちに……最も不幸な場合を予想すれば自分が死なない中――ルスタムを誘い出したかった。それには結局どうでもよいその城を攻め、一刻も早く、侵入の報告を中央にもたらさせるに如くはない。――翌朝未明に、ツランの全軍はその城塞が目の下に瞰下せる処まで降りていた。そして、十分の一の兵が真直に、丘陵に聳えている堡塁に迫り、残りは、遠巻にその周囲を取繞いた。
 三日の間、相当に烈しい戦闘が続いた。ツランの兵は手頃な戦いの玩具をあずけられたように、元気で、自信を以て働いた。
 矢の数を比較しただけでも、既に大体の形勢は定まっている。城主のフィズルは、悧巧にほどを見計らい、王から、卑怯の譏《そしり》を受けず、自分の生命も危くしない四日目にツスに逃れ去った。スーラーブの軍は、僅の死者、負傷者の手当をし、捨られた城の穀倉から、五十頭の驢馬に余る小麦、その他の糧食を奪い、更に前進して、もっと開いた曠野に出た。万一の場合退路を遮られないように、同時に、軍の全勢力を自由に働かせ得るように、地勢を調べて中央部となるべきスーラーブの野羊革の大天幕が張られた。そこは、背後に適当な距離を置いて、守るによい山裾の起伏の連った、延長十ファルサングばかりの緩やかな斜面を有った高地である。スーラーブは、陣地に立って、三方を展望した。父ルスタムの来るだろう西方の、ツスの辺は、内地イランの乾燥した、塩でもふいているかと思われる不毛の荒野の地平線の彼方に隠れていた。

        二十二

 カイ・カーウスは、国境の城塞を捨て逃れて来たフィズルの急報に全く愕かされた。彼は何よりも先ずシスタンに隠棲しているルスタムを動かす必要を感じた。けれども、最近ルスタムが戦場のかけ引に一向興味を失っているのは誰の目にも顕著であった。極近く南方イラン征討隊が派遣された時にも、ルスタムは固辞して受けなかった。その時親友のギーウに、自分の武人としての最後を飾るのは往年白魔をカスピアン沿岸で討った事蹟だと洩したことは、王の耳にも入っていた。然し、ツランの軍勢にルスタムの名は、或る魅力を持っている筈だ。カーウスは頭を悩ました後、一つの方法を思いついた。彼はギーウを呼んだ。そして、シスタンに赴いてルスタムの出動を促すことを命じた。ギーウは当時、ツス近傍の総軍帥であった。この切迫した場合、彼が重大な位置を暫く空けて迄出かけたというところに、親友である事実以上の或る意味が加わることをカーウスは考えたのであった。
 ギーウは、使命をやや苦痛に感じながら、一昼夜、馬を走らせた。広い夏の白光の下で乾き上った砂漠が、彼の周囲で、後へ後へと飛んだ。二日目の午後、シスタンの城が平坦な地平線に見え始めた。容赦ない一煽りで、汗にまびれ塵にまびれて城の広場に乗り込んだ時、ギーウは浮かぬ顔付で、下僕に馬の手綱を渡した。彼の、疲労でざくざく鳴る耳に、この城に珍しいなまめいた音楽が聞えた。彼は一言も口を利かず、侍僕に案内させて、城内に入った。
 城の広間でルスタムは、紅海の近くから来たという黒人娘の芸当を見ていた。妙にキーキー鋭い音の胡弓と、打込む重い鼓の響に合わせて、真碧い色に髪を染た娘達はぐっと、体をそりかえらせた。そして、手足にはめた黄金の環飾りをチリチリ鳴らし、何か叫んでぼんぼん、ぼんぼん幾つもの球を巧に投上げては操つって見せる。積み重ねた座褥にもたれ、白髭を胸に垂れ真面目な顔をしてそれを見物していたルスタムは、殆ど同じことが数番繰返されると、倦怠を感じ始めた。これが済む迄と思っていたところへ、思いもかけずギーウの到着が知らされたのであった。
 ルスタムは、赤ら顔に輝く二つの大きな眼に何ともいえない悦びの色を浮べた。彼はすぐ席を立ち上った。そして、朽葉色の絹の寛衣の裾をゆすって真直に芸人等の前を突きり歩廊に出た。二人は、歩廊の端で出会った。ルスタムは、何も云わず、むずとギーウの肩を掴んだ。ギーウも我知らず手を延してルスタムの左手を執った。
 糸杉の葉かげのうつる歩廊の甃《しきいし》を、再び広間の方に歩きながら、やがて、ルスタムが云った。
「思いもかけぬ時に会えたものだ。暫く逗留して行ってくれるじゃろう?」
「いや。……今日は見られる通りひどく性急な使者だ」
「ほほう」
 ルスタムは始めて心付いたように、ギーウの埃をあびた服装を眺めた。
「えらく煽ったと見えるの――」
 何か云いかけそうにしてやめ、ルスタムは広間に入り、自分のいた場所にギーウを坐らせた。侍僕等は、ギーウのために、手を濯《すす》ぐものと、新たな酒肴とを運んだ。

        二十三

 六十七歳のルスタムは、ギーウの不時の来訪を、言葉に現せない悦びで迎えた。彼は、ギーウの好む果物酒を命じて貯蔵所から持ち出させた。疲れた躯の居心地よいようにと、自分の汚点《しみ》のあらわれた手で座褥の彼方此方を叩いた。そして、愉しげに傍からギーウが見事に盃を乾す様子を眺めた。
 ルスタムは、この頃、何方かといえば寥しい日を送っていた。季節は狩猟の時季を過ぎてしまった。辺鄙な城まで訪ねて来る物好きもない。内房もさほど楽しいところでもなかった。青年時代からひどく近頃まで遠征から遠征にと転々していた彼は、家庭の生活というものに悠くり親しむ暇がなかった。それが、こうして城に落付き、老年の慰安や静かな輝きを平安な日常の些事の裡に見出そうとする境遇になって見ると、ルスタムは、今迄まるで頓着しなかった深い一つの物足りなさ、寂寥さを身辺に感じた。それは、城中に、対等で話せる男性が一人もいないということであった。いる者は、幾人在っても皆臣下で、彼の言葉は余り絶対に肯《う》けられすぎた。ああしたいこうしたいという暢やかな心にふと浮んだ思いつきも、一言唇の外に出ると、すぐ命令として受けとられ、立ちどころに、ゆとりのない完全さで遂行されてしまう。ルスタムには、それがつまらなかった。内房は、いうに及ばぬ。彼が、余り屡々《しばしば》、また余り長い間音信も出来ない征旅についていた故か、三人の妻妾等は互の間に姉妹より睦しい情誼を結んだ代り、ルスタムとは、君臣の関係が溶けきれずに遺った。その上、彼は、どの女性によっても子供を得なかった。そのために内房は、限りなくだんだんに日がかげって行く処のような感じを持たせた。ルスタムは、黙ってはいたが、自分に唯一人の男児さえないということが、家庭にある自分の総ての寂しさの原因だと知っていたのであった。
 黒人娘の芸を観ていたうちにも、ルスタムは心の底で、独言した。「狡い男め、貴様が何を待っているか、儂には判っているぞ。儂の情慾で一儲けしたいのだろうが、それにはちと年寄のところへ来すぎたらしいぞ」
 皮肉な諧謔の裏に、彼だけの知る余韻の長い哀しさがあった。それだから、ギーウの来たのはルスタムにとって、暖い、男らしい太陽の光が胸に流れとおったような快よさなのであった。彼は、ギーウに酒を注いでやりながら、家族の安否、首都の模様などを尋《き》いた。ギーウは、軽い冗談を交えてそれに答え、じろじろ黒人の芸人娘の方を視た。
「彼等はイラン語がわかるのか?」ルスタムがその方を見ると、芸をやめて一処にかたまり時々振り向いては眼の隅から新来の客の様子を窺っていた娘達が、一斉に黒い顔に真白な歯を現わしてにっと彼に笑かけた。ルスタムは見ない振で盃をとった。
「エチオピアの方から来たのだそうだから、解るまいとは思うが――どけるか?」
 ギーウは、一人混っている中年の創傷あとのある男の顔を特に疑わしそうに見た。
「あっちにやろう。何も今ここに置く必要はない」ルスタムは、広間の隅にいる侍僕を呼んだ。男は命令を受け、二言三言芸人娘等に何か云った。彼等は、礼もせず騒々しい様子で広間を出て行った。
「それで先ずよい」
 ギーウは、くつろぎながらも、居住居をなおした。そして、低い声で云った。
「実は、王から命を受けて来たのだが――ツランのアフラシャブが、また手出しをしおったのだ」

        二十四

 ルスタムは、微かにいやな顔をした。それを聴けば彼には何のためにギーウがよこされたのか充分推察がついた。要求されることは判っている。それに対する自分の返答も既に定まっている。彼は、ギーウに対する礼儀だけから、気のない調子で、
「ふむ」と云った。
「さすがに今度はアフラシャブも自身出かける気はなかったと見え、何処か属領の若ぞうを煽てて向けてよこした。フィズルが城を渡して注進に来た。急なことで彼も驚いただろう」
「いつのことだ?」
「注進がツスに着いたのは、儂の出発する半日前であった」
「それで何か、どんどん追撃でもして来るというのか?」
「懲りているから、軽はずみはしないらしい。じっと国境近くの陣を守っているそうだ。主将は変な、イラン風とツラン風俗の混った装をしているそうだが、アフラシャブの幕僚だったらしい男が二人以上ついているという話だ。――名誉はその男等のもの、不名誉と失敗の咎は、何処かの愚なその若者に背負わせようというのだろう。ところで――云わずともう解っただろうが、王は卿の出動を切望しておられるのだ」「ふーむ」ルスタムは、不承知の感情をありありと顔に表した。ギーウは、それを見てとり、気軽そうに云った。
「何一寸卿の有名な白馬ラクーシュと卿の旗を見せさえすれば好いのだ。そんな青二才なぞは、穢わしいジャッカルのように尾を巻いて退散するだろう」話の中に繰返される主将が若者であるという点が、何となくルスタムの心を牽いた。彼は漠然とした好奇心で尋いた。
「一体その若者というのは何者だ? 幾つ位か、フィズルが話したか?」
「話した。何でも二十になったかならない位に見えたそうだ。ツラン風に帯でしめつけた衣服をつけているのに、頭には磨いた、まるでイラン風の兜を戴いていたそうだ。それで見ると、イラン国境に近い属領のものと思えるな」「ふふうむ――」ルスタムは、何か遠い記憶を思い出して辿るような眼つきをした。彼は、それらの言葉が心の中に入って、じっと眠っていた何ものかを掻き立てるような感じに打たれたのであった。自分が、昔、昔、未だ壮《さか》りの年であった頃、盗まれたラクーシュを追ってツラン境のサアンガンに行ったことがあった。彼処の男等は、そういう半々な風をしていたのではなかろうか――まざまざと二昔前の情事の印象が蘇えって来た。
 若しや、万一、その若者というのは自分の息子ではあるまいか。ルスタムは、我知らず髭をかみ、つきつめた顔をした。若しやそれが自分のたった一人この世に持った息子だというのでないだろうな。ルスタムは、ギーウが怪しんだほどゆるがせにならぬ調子で追窮した。
「何処の者か聴かなかったろうな」
「――わからぬ。が、いずれ高の知れた者だ」
 ギーウは、要点に立戻るために語調を更えた。
「然しとにかく悪戯をさせておけぬから、一刻も速く定りをつけなければなるまいが――卿は何時出発して貰えよう。儂は至急戻って復命し、準備をする」
「――さて、――」
 ルスタムは、凝っと広間の一隅に目をこらし、深く思い入った風で呟いた。
 彼はギーウに向ってよりも寧ろ自分自身の心に対してこの一言を呟いたのであった。思いがけずきいた若者のこと。つれて心に湧いた疑問は、ルスタムにとっても意外なものであった。まるで今の今まで忘れきっていた古いことが急に活々と心の表面に浮び上って来るや否や、もう紛らされたり、除かせられたりしない根強さで、考えの中心勢力となってしまった。而も、それが理窟で判断すれば、不合理なものであるのをルスタムは知っていた。彼は、サアンガンにわざわざ使者をやり、子供の誕生の有無を確めさせた。サアンガンの王女は自ら、母とならなかったことをその使に托して告げて来た事実があった。それだのに、猶このようなはかない妄想を抱くというのは。
「さて――自分はそれほど寥しがっているのか」
という、言葉にならない歎息がルスタムの胸に起ったのであった。

        二十五

 彼は、純白の纏布を巻きつけた頭を軽く左右に振った。そして、気をとりなおし、ギーウに新な酒を勧めた。
「――卿の立てなくなるまで果物酒を振舞おう。その代り今度のことは」
「いやそれはならぬ」ギーウは差した盃をわざと引っこめて云った。
「それでは心を許して好物も味わえぬ。狡い老人だな、王の命令まで盛潰そうとする」
 二人は愉快そうに声を揃えて笑った。がルスタムは直ぐ、真顔にかえった。
「卿を使者に遣わされた王の思惑はほぼ推察がつくが――全く、今度のことは卿の働きにまかせよう。年寄が出るがものはない」
 ルスタムは、四辺が暗くなると広間に幾つも大|篝火《かがりび》を燃させた。揺れる赤い光で、広間じゅうが照った。
 再び、黒人の芸人娘が呼び出された。
 彼女等は昼間とは服装を更え、縮れた碧色の髪に、強い香を放つ乾花の環を戴いていた。衣服は薄く漣のようにひだが多く、鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1-93-6、375-11]《にょうはち》を打って踊る毎に、体の形がはっきりすき透った。踊娘等は、白眼がちのきれ上った大きな眼に野蛮な媚を湛えて、ギーウやルスタムに流眄を与えながら、時には乳房が男等の頬に触れそうになる迄かけより、すりより、またさっと飛びのいて踊る。広間の外の歩廊の闇の中で、多勢の気勢がした。踊子等が黄金の踝飾《かしょく》をきらめかせ、大胆に脚をはね上げて踊って行くと、俄かに抑えかねたどよめきが起った。城内の男等が見物に来ているのだろう。ルスタムは、ひらひら床の上に入り乱れる女等の影や、微風ではためく篝火の焔、忍足で外廊を過ぎる人影などをぼんやり見遣った。彼の心は、周囲の賑やかさ音楽の騒々しさに拘らず、妙にしんとしていた。ただ一つのことが、しんから彼の念慮を捕えていた。ツランから来た若者のことである。始めアフラシャブ侵入のことを聞いたとき、ルスタムは、単純な面倒くささから出るのを嫌ったのであった。けれども、今は、異様な畏怖、予覚のようなものが加わっていた。行って見たいような、また、行かない方がよさそうな。彼が嘗て経験しなかった自分の進退に対して不安な半信半疑な気持にされたのである。ルスタムは一方からいえばその心持に明かな自分の老いを自覚した。けれどもまた一方から考えると、豪気な質の自分が、急にこんな変な弱い憑《つ》かれたような心持になるというのは、何か全く予想外な虫の知らせなのではないかとも思われる。まるで行かず、一目その若者を見ないでしまうのも心残りのようであるが。ルスタムは、考え惑った風で、手に力を入れ白髭をしごいた。注意深くその様子を見ていたギーウが、積重ねた座褥に肱をつき、ルスタムに顔を近づけて囁いた。
「――迷っているな?」
 ルスタムは呻くように云った。
「うむ」
 ギーウは、少し血走った眼でつくづくルスタムの相貌を視た。
「出かけろ、ことは詰るまいが、卿の血を少しは活々させるだろう。羚羊狩のつもりでよい。老いこむばかりが能ではないではないか」ルスタムは音楽の響が一きわ高くなるのを待って云った。
「儂には、妙にそのツランから来た若者という奴が心にかかるのだ。真実敵か味方かわからぬ――」
「――?」
 ギーウの顔に顕れた意外の色は余り著しく、ルスタムに居心地わるい感じさえ起させた。

        二十六

 ルスタムは、顔を背向《そむ》けるようにして低く呟いた。
「そやつの年頃が、こじつけると、丁度卿も知っているあのサアンガンのことと符合する。風体も何だかあの辺の者らしいではないか」
「ふむ……」
 ギーウは、まといつきそうにする踊娘の一人をうるさそうに片手でどけた。
「――然し、変ではないか。あの時のことは何の実にもならなかったのだろう? 俺はそうきいたと覚えているが……」
「彼方に遣った使者は、そういう返事を持って来た。そのままにしていたのだが」
 ギーウは、暫く沈黙した。そして考えた後、情のこもった調子で云った。
「何にしろ、こういう処にいるのはよくない。よい折だ。出かけよう」
「――出かけるのを強ち拒むのではないが、先に控えていることがいやだ。――俺は、多くの戦もしたが、まだ、敵か味方か判明せぬ者を殺したことはない」
 ギーウは、一言一言の言葉で、がっしりしたルスタムの老いた肩を優しくたたくように云った。
「それもこれも、俺は、卿の退屈すぎる境遇のさせる業と思う。卿がありもせぬところにまで己の種を求める心根を察しると同情を禁じ得ぬが――余りよろこばしいことではないぞ。男が眼を開いて夢を見るのはよくない。出かけよう。出かけて真相を確めれば却ってさっぱりしてよかろう」
 けれどもルスタムは二日の間何方にも決定しかねた。彼はこの不決断を、ギーウに殆ど罵られた。彼は、黙ってそれを受けた。
 ルスタム自身も、自分の心が妙に活々した力を失い、ぼんやりした而も頑固な逡巡に捕えられているのを知っていたのだ。
 ギーウの言葉に外から腰を押されるようにして、ルスタムは遂に条件つきの出動を承知した。健康が勝れないという理由で、彼は、一切の責任を避けた。そしてほんの観戦の積りで出るということになった。ルスタムはギーウに「何しろ王はああいう性質だから、後々詰らぬ面倒を起こすことになっても始まらぬ。――奉公の、今度こそ仕納めに、出かけることにしよう」と云った。けれども、衷心では、ツランから来たという若者に対する不思議な好奇心を制することが出来ず、彼は、それだけに牽かれて、自分の体力が衰えたという危惧もすて、出かける決心をしたのであった。
 ギーウは、直にまた馬を飛ばしてツスに帰った。ルスタムは、種々な感情に満されながら、出発の用意を整えた。少数の親兵だけを従えて行くことになった。幾年ぶりかで城の広場に武具が輝き、馬の嘶《いななき》や、輜重《しちょう》をつみ込む騒ぎが、四辺に溌溂とした活気を撒いた。
 ルスタムは、その間を彼方此方に歩いて指図したが、彼は、ふと妙な心持に打たれることが屡々あった。どうかしたはずみに、この夥しい騾馬《らば》の群、血気熾な男達をつれて自分は何処へ行くのかと思うと、行手は、まるで見知らぬ国の霞の中にでも消えているように杳《はる》かな、当のない心持がするのであった。
 それに気がつくと、ルスタムは私に愕いた。老耄の徴だろうか? 彼は、あんな遠い奇怪なアザンデランに出かける時でさえ、数年前の自分は確信と勇気に満ちていたことを思い出した。

        二十七

 何方から云っても、ルスタムの出発は地味なものであった。彼はギーウが帰えってから五日目の払暁、静にシスタンの城を立った。二日の間、北へ北へと、砂漠のふちを進み三日目の夕暮、ツスから真直に間道を突切って来た王の全軍と合した。
 カイ・カーウスは、派手な銀飾りのついた甲冑をつけ、逞しいイラン種の馬に跨って、軍列の中央に騎っていた。彼は、絶間なく傍の者と喋った。道路が険阻な崖にでもさしかかると、甲高いせわしい声で乗馬を励まし、頻りに唾をはいた。そしてルスタムが、何故、ラクーシュに騎って来ないか、繰返し繰返し尋ねた。
 王との応対は、ルスタムにとって忍耐を要する一つの義務であった。けれども、長距離の騎行と、晴れた夏の星夜の下の露営は、彼によい結果をもたらした。
 彼は、シスタンの城にいる時よりは、ずっと沢山食った。若い者のように、ぐっすり眠った。そして道の工合が好かったりすると、彼は何ともいえない身軽な快活な衝動にかられて、馬を※[#「足+(炮−火)」、読みは「あがき」、第3水準1-92-34、379-7]でかけさせながら、軍列を前後に抜けた。ギーウはそれを見て微笑した、猛々しい猟犬が、老いても尚角笛を聴くと気負い立つように、ルスタムには何といっても戦場の雰囲気が亢奮剤になるのを認めたからであった。四昼夜の後、イラン軍はツラン軍の陣どった高地から一ファルサングの地点に到着した。ルスタムは、元気よくギーウを助けて隊列を二分し一部を率いて更に五百ザレほど前進した。そこからは、もう明かに敵陣が見えた。
 イラン勢はそこに止った。そして勢いよく羯鼓を打って示威運動を始めた。
 ツラン方も、待っていた敵を迎え喜びに堪えないように太鼓を鳴し鐃※[#「金+(祓−示)」、第3水準1-93-6、379-14]を擦り合せてそれに応えた。合間合間にどっと、血の沸くような鯨波《とき》があがる。その轟は夕陽の輝きですき透り、眩ゆい曠野じゅうの空気を震わして転がって行き、遠い夕焼雲の彼方が反響した。
 ルスタムは、我知らず乗馬の手綱を控えた。彼は、目を凝してツランの陣を視た。
 背後に喬木の疎な林を負った高地の略中央に、一つの大|天幕《テント》が見えた。それから相当な間隔を置いて五つ真中のよりは小ぶりな天幕小屋がある。正面から西日を受けそれ等の天幕は燃えるように照った。ずっと左よりにもう一団右手高地のはずれ近く他の一団。その間をちらちら樹林から兵の屯所らしいものが眺められた。ルスタムは、特別じっと、中央の大天幕に目を注いだ。位置といい、大きさといい、それがツラン方の本営となっていることは疑いない。見ているうちにも幾人となく兵卒が出入りした。すると間もなく、この大天幕の裡から一人純ツラン風の装いをし、纏布に真赤な羽毛飾をつけた将らしい男が現われた。
 出て来ると、その男はぐるりと高地の下に展開したイラン方の陣を瞰下した。そして、引かえすと、今度は別な四五人の将と連れ立って再び現われた。自分が中央に立って此方を指しながら、頻に何か説明している。やがて集団が少し解ぐれ、一人一人の椅子が見えるようになると、ルスタムは、思わず、二三歩馬を騎り出した。この群の中に、確にギーウの話した若者らしい兜を戴いた者がいた。兜を戴いた戦士は独りだけもとの場所を動かず、時々キラリ、キラリと鋭く兜のはちを西日に煌めかせながら熱心にイラン方を観察していた。

        二十八

 間もなく、その兜の戦士は、手を上げて、散りぢりになりかけた他の将等を呼んだ。彼の囲りには再び小さい集団が出来た。そして改めて何か、探しでもするように方向を更え、イラン勢を展望し始めた。
 ルスタムは、遙彼方に小さく見えるそれ等の敵の行動から、何か重大な、意義ありげな一種の感銘を受けた。兜の男の一挙一動は皆それぞれ意味のあるもので、彼自身が此方でこうやって視、感じ、考えていると同じ心が籠っていることを理解される。これはルスタムにとって珍しいことであった。彼は、老練な狩人のように、敵の本能、賢さを見るのは速かったが、相対の人間として同感を持ったことなどは、殆どなかったのであった。
 兜の男は、一定の距離の間を往復しながら、頻りに此方を観ていたが、やがて止って傍の者に何か命令した。命令を受けた男が何処へか去るとすぐ、一人の兵卒が、手綱で二匹の乗馬を牽いて現れた。兜の男と赤い羽毛飾をつけた男とが、ひらりとそれに跨った。
 彼等は暫くの間、並足で高地の端に沿って騎って行ったが、一寸、物かげに隠れると、今度は別な方から、小刻な※[#「足+(炮−火)」、第3水準1-92-34、381-6]で出て来た。ルスタムは、二三遍、馬の背で調子よく揺れる兜の煌く頂が、見えたり隠れたりするのを追った。けれどもふと、一つ向きが更わると、そのまま二人とも高地の奥へ見えなくなってしまった。
 ルスタムは、急に索然とした失望を感じた。それでも、今来るか、今来るかと思いながら、彼は永い間、其処から動かなかった。
 騎士等は、きっと何処か別な、彼に見えない処で降りてでもしまったのだろう。
 ルスタムは、余程経ってから、のろのろ、何かに気を奪われている風で馬の頭を立てなおした。陣地と定った場所では、兵等が罵り合い右往左往して、幕営の準備をしていた。ルスタムは、混雑した荷騾馬の群の横や、地面に積上げられた食糧の大袋の山をよけ、彼方の天幕に戻った。
 その晩イラン方では、戦捷の前祝に簡単な祝宴が催された。大きな燎火が、澄んだ曠原の夜の空を一部分ボーッと焦している下で、兵卒等はぐるりと幾つもの円い輪に坐り、てんでに果物酒と堅焼煎餅とを前に置いて、喋り、笑い、或る者は、歌を謡った。火かげにかがみ込んで、分配されたそれらの酒や煎餅を賭け、一心に、肱で邪魔な見物をつきのけながら、骰子《さいころ》を転がしている者もある。
 ルスタムは、日暮から王の天幕にいた。けれども、彼は何となく四辺の空気になじめず落ちつけない心持がした。上機嫌な王の酔った声をききながらも彼はちらり、ちらりと、夕やけにきらめいていた兜の光を思い出した。それを思い出すと、ルスタムは、妙に見のこして来たものがあるような気持がした。そして、天幕の裡の酒と香の匂いが鼻につき、居心地わるく感じるのであった。
 夜が更けるにつれ、段々空気は重く、濁って来た。王も疲れが出たと見え、十文字脚の腰架の上で時々こくり、こくりと居睡りを始めた。ルスタムは、ギーウと低声にぼつぼつ話していたが、それを見るとそっと腰架をずらせて立ち上った。彼は、目顔でギーウに、自分の去ることを示した。そして垂幕をかかげ、王が目醒るのをおそれるように、いそいで天幕を出た。

        二十九

 一歩外に出ると、ルスタムは、思わず胸一ぱいに息をすい、心からのびのびと伸をした。天幕の中と違い、夜の野天の限りない広さには、すがすがしい、涼しい空気が満ちていた。熾だった燎火も消え、処々に、低く篝火が燃えていた。周囲に、哨兵の起きている姿が黒く見えた。四辺一帯寝しずまって、闇の中から、入り混った幾つもの人間の深い寝息、微かに馬が脚をずらす響などが伝わって来る。息の音ほかしない地面から見上げると、空に燦く無数の星が実に活々、命あるもののように見えた。瞬く毎に、サッサッ、サッサッという活動の響がふって来そうに思われる。
 ルスタムは目を移して、ずっとツランの陣を眺めた。彼方にも、極僅しか篝火は見えなかった。後に樹林を負うている故か、まるで暗く、高地全体が山の懐に消え込んだように見えた。次第に目が闇になれると、ルスタムは、ツラン方に光る篝火の、すべての遠近を区別出来るようになった。一つのかなり大きい燃火は、どうも太陽のあるうち、見たあの大天幕の前あたりで燃えているらしい。ルスタムは、自分で心付かない、必要以上の緊張でよくよくその点を凝視した。彼は、目に見えない生きものが、心臓の中で微かにひくひくと身動きしたような気がした。確にその篝はあの天幕の近くで、瞳を凝すと、天幕の斜面の一部分がその明りに照り出されているのも見わけられるのだ。
 ルスタムは、ぶらぶら歩きながら、幾度となくその方を眺めた。一度眼が其方に向くと、容易に引はなされなかった。明りはルスタムの心に、だんだん光明を増し、誘惑の力を増した。全く、ルスタムはその篝火の色や、静かに反映している天幕の面を視ると、もっと近くもっとよく其処にいる者、あの兜の男を見極めたい慾望が、制し難く募って来るのを感じた。ひっそりした天地の間に輝くその光は、時々ぱっと揺れ、燃え立ちながら、溢れるような囁きで、「一寸今の間に、よい時ではないか。来て覗け!」と誘っているようにさえ思われる。ルスタムは、何か巨大な磁石で自分の体の其方に向っている半面が、ぐいぐい引きつけられるような危さを感じた。
 彼は、それに抵抗しようとするように、努めて、其方に背を向けた。そして、四五間元来た方に引返えしかけた。が、彼はぴたりと立停った。闇に浮き上って見える纏布の頭を重く垂れて、何か考えた。――再びルスタムは、ツランの陣に向って立った。彼は、せかない足どりで、最前線に燃火を囲んでいる哨兵の一団のところへ行った。彼は、其処で一本の軍用棍棒を借りた。それを持ってルスタムは、誰の眼にもふれない曠野の真中に出て行った。イラン軍の篝火もかなり遠く見える処まで来ると、ルスタムは、星明りに眠い陰気な陰翳を落している一つの叢を見つけた。彼はその傍に胡座を組んだ。そして、頭の纏布をはずし始めた。彼は、それを手早く解き、平の兵卒風に脳天を露出させて巻きなおし一方の端を頬に触るる位垂した。次に上衣を上から帯で締めた。フェルトの長靴をはいた足拵えをしなおした。すっかりすむと、ルスタムは、立上り、ツランの真似をした衣服や纏布の工合を試すため、幾度も腕を上下して見、頭を振って見た、何処もちゃんとしていた。
 ルスタムは、地面においた棍棒をとりあげた。そして、山地を歩きつけた人間の、根気よいむらのない歩調で、ツランの陣地へ向って歩き出した。篝火が彼を遂に誘い出したのであった。

        三十

 ルスタムは、目立たない、足の裏の柔かい獣のように、音もなく高地の一角から、ツランの陣に忍び込んだ。彼は幾度もの経験で、ちっとも行動をいそがず、注意深く自分の体を扱った。篝火の近くをさけ、出来るだけ眠っている兵のかげへかげへと廻り、這うように中央の大天幕に近づくと、彼は暫く四辺の様子を窺った。遠くから見えた燃火は、丁度天幕の入口に近く燃《た》かれていた。
 風のない夜で、焔が真直に立昇る囲りに、ざっと十人ばかり武装を調えた男が胡坐を組んで坐っていた。ルスタムの隠れ場所から、正面に焔を浴びた髭の濃い男の顔が見えた。彼等は、皆黙って、折々枝切れで火の工合をなおしたり、戎衣《じゅうい》の間から何か出して、隣のものにやり、自分でもぽつぽつ前歯で噛んだりしている。ルスタムは、一目でその方面は断念した。彼は、反対の大天幕の裏に目を遣った。その側には、旅嚢でも置いてあると見え、まるで警戒されていなかった。五六人の兵が、互の胴に頭をのせ合うようにして寝ている。規則正しい鼾の音が、夜の静寂の深さを計るように聞えた。ルスタムは、機敏に機会を捕え、木の葉のようにその眠っている兵等の間に辷り込んだ。顔を地に伏せ彼はきき耳を立てた。天幕の中では確に未だ起きていた。何か物をずらす音、咳の声、人が動いて話をしている気勢がする。落付くと、ルスタムは、三人の男の声のうち、一番若い、徹るのが、彼のいる場所からは右手、燎火に近い側から響くのをきき分けた。何かの上にこごみかかって手を動かしでもしながら口をきくと見え、声は、今はっきり響いたかと思うと、次には後尾が曖昧に圧えつけられてかすむ。
 ルスタムは、神経を集注させ、その声が一つ処に落付くのを待った。バタンと、重い蓋でも落したような音がし、ひっそりした。やがてまたぼそぼそと語り出した。ルスタムは、顔を伏せたまま、肱でずるずると、声の来る側とは正反対の左方に自分の体を動かした。そして、微かな光の洩れて来る天幕の縫いめのすきを見つけ、膝をついてその高さまでのび上り、片目をよせて内部を覗き込んだ。光に眩い彼の瞳には、案の如く一人の若者の姿が、殆ど正面に映った。今時分、自分を天幕の外から隙みしている者があろうなどとは夢にも知らず、若者はくつろいだ風で卓子《テーブル》に肱をついていた。此方に向いている引緊った、きめの細かい片頬から顎にかけて、斜めに灯が照している。やや憂鬱な黒い眼は、時々灯かげをちらつかせながら、じっと前方に注がれている。ゆるく開いた上着の襟元から、ルスタムは、色沢のよい健康そうな若者の頸を、胸の辺まで見ることが出来た。
 幅のある胸、確かりした肩つき、鍛えられ、しかも、未だ塵にしみない青年の、何ともいえない新鮮な感じが、空気のように四辺に漂っていた。眉宇の間、心持大きめに緊った口元あたりに、品のよい、気位さえ認められる。何処となし、若者の態度に、真面目な重々しいもののあるのが、ルスタムに快感を与えた。微塵も、卑しげな粗忽らしいところはないが、消すことの出来ない青春の焔がとろとろとしんに燃えてい、温かい、熾な見えない虹が立っているように思える。

        三十一

 ルスタムの老た胸には、油然として羨望と一種の哀傷が湧き上って来た。
 期待に期待した、最初の覗き穴からの一瞥が彼の予想にそわないものであったため、強者の感じは一層深められたのかも知れない。
 イランの陣から、しんとして曠野をツラン方の高地に向って歩いている間、ルスタムは、闇の裡に幾度か、古いサアンガンの王女の俤を偲ぼうとした。あれから血腥《ちなまぐさ》い出来事が多くあったせいか、記憶はひどくぼんやりしていた。例えば、彼女の髪に飾られていた金の輪の色のような些細なことは鮮明に思い出されるけれども、顔立ちの確な特徴などを考えようとすると、ぼんやり目先に浮んでいたほの白い卵なりの輪廓まで、段々遠く小さく後じさって行くようなのであった。ルスタムは、その間に横わる時を思い、淋しい心持になった。けれども、彼は一つはっきりした希望を持っていた。それは、若者の顔を見ることさえ出来たら、そして、そこに何か血縁の類似がありさえしたら、きっと逆に母親の顔も忽ち思い出せよう、それで両方一度に明かになるという考えであった。ルスタムは、天幕に顔をつけ、息を殺し、賤しい奴僕のような態度で内部を覗いた刹那、何か頼りない衝動を感じた。彼が、当にならないことと思いながら当にしたものは、若者の顔から射出していなかった。何も彼の直覚を一握りで捕えるようなものはない。ただ雄々しそうな、育ちのよさそうな、一人の若者の容姿が、静かに順々に、彼の切な瞳に映って来るばかりだ。
 ルスタムは、暫く瞠《みつ》めた後、またそっと上体を地面に倒した。頬杖をついて眠っている一人の兵が、寝がえりを打ってルスタムの脇腹に触れた。ルスタムは、じっと考えながら、少し体をずりよけた。あの若者の細面てなところが、何処か、あの女と似てはいないだろうか? いやいや、一体にツラン人は面長だ。この若者に限ったことはない。然し、牽きよせられるように、ルスタムはまた膝で起き上った。そして、眼をすりつけるようにして、内を覗いた。彼にはどうしても、一度視た限りで思いきれない心があった。こうやって若者の顔を目前に見れば、彼が、あかの他人であることは疑う余地なくわかるのに目先が離れると、未練な妄想が再び起って来る。ルスタムは、自分に対して腹立たしい気持にさえなって来た。こんな馬鹿らしい、不様な真似をしたことなどは、ギーウにも話せたものではない。心に呟きつつ、またまた彼は、殆ど無意識にのび上って、塵臭い、がばがばした革天幕に皺深い顔をすりよせる。
 三四度それを繰返し、ルスタムは、がっかり地面に突伏した。張合のない、詰らない気がしみじみとした、かさりとするのさえ懶いようだ。――天幕の裾から流れる光が、ルスタムの目の前の地面に漂い、疎らな草の細い葉や小枝の切れはしや、死んで乾いた小虫の殼などを浮出させている。
 一寸の間ぼんやりそれ等に目を停めていたルスタムは、やがて、意志の目醒に刺戟されたように、きっとして自分の周囲を見廻した。
 いつ迄こうしてはいられない。まだイランの陣まで安全に帰らなければならないという一仕事がある。最後の注意をルスタムは天幕の裡に向けた。もう眠ろうというのだろう。人が動く跫音が――、何か云い、圧しつけたように、「フフフフフフ」笑う声がした。ルスタムはいやな心持になった。

        三十二

 厭な心持になって、却ってルスタムのためにはよかった。当なく憤然としたような感情が、彼に、年寄のがっかりさを忘却させた。大天幕から外へ出た男が戻るのを待ち、ルスタムは、再びやや隔った次の隠れ場所に移った。陣地のはずれの大体安全な場所に辿りつくまで、ルスタムは、退屈に、来る時の亢奮を全然失った。必要からばかりで、注意深い位置の転換を行った。幸、誰にも見咎められず、高地の端まで出ると、彼は来た時のようにずっと南側を大廻りせず、そこから真直にイランの陣に向って降り始めた。四辺目の届く範囲に哨兵はいなかった。彼はもう、一歩も無駄足はしたくない心の状態にあったのだ。
 ルスタムは、体を反らせて平均を保ち高地の半分以上降りきった。時々蹴落された礫が砂まじりの泥と一緒に弾んでゆき、下の方で微かな音を立てた。もう夜は黎明に向ったと見え、高地の中腹から見晴らす広い空の紺黒い色も星の輝きもほのかな軟かみを湛えて来た。
 丁度彼がもう少しで高地を降り切ろうとする時であった。不意に一つの黒い影が、彼の横手から現われた。影は、ルスタムを認めると、ぎょっとしたように止った。ルスタムも思わず足を停めた。が、彼は、相当の距離が二人の間に在るのを知ると、またずんずん前進し始めた。影は、草をさわさわ、わけ進んで来た。白い纏布が互に見えるところへ来ると、先方から、一声、何かツラン語で云いかけた。まだほんの少年の音声である。ルスタムは如何ようにでも解釈される合図の積りで、右手をあげ、声の主に向って一両度ふった。足では矢張り歩きつづけながら。すると先方は、もう一遍先と同じ文句を繰返し、ルスタムの行手を遮るようにして前面に廻った。ルスタムは、それを逸して先に出ようとするのだが、執念《しつこ》く行手にちらついて妨げる。彼は不機嫌に、いかめしくイラン語で云った。
「どけ! 若いくせに命を大切にしろ!」
 然し対手にわかる筈はない。声の持ち主は、最初の暢《のん》びりした態度を失った。狂暴な勇気で一杯になり、命をすててかかり始めたのは、手脚の熱烈な動かしようでわかった。短剣の閃きが、ルスタムの暗い瞳に光った。――彼は、仕方なく、隠していた軍用棍棒を右手に持った。そして、さっと四五歩右横に走りかけた。ツラン人はそれにつれ、素早く体を動かしたが、ルスタムが、一足ぐっと踏止るや傍をすりぬけ、一気に高地を降り切ろうとするのを知ると、物をも云わず、武器を振って突かかって来た。短剣の切先がルスタムの外衣に触れるのと、彼の棍棒が真向からツラン人の頭に落ちるのと同時であった。ツラン人はぽろりと短剣を落しよろよろ前へのめりかかると、顔を下にしてぱったり倒れた。拡げた手や脚が痙攣した。ルスタムは、それを瞰下し陰気に肩をゆりあげた。彼は、棍棒を傍の草の中に投すてた。心持は益々滅入り込んだ。彼は、大股に、とっとっ、とっとっと高地を降り、冴えない、うんざりした気持で、イランの陣へ戻った。

        三十三

 夜が白々明け始ると、ツランの陣では、彼方此方から、鳥が塒《ねぐら》を立つような、小さい活気あるざわめきが起った。二人の兵卒が、前晩喋り込んで一緒に眠った仲間の処から自分達の部隊につくため、高地を北から南の方へ歩いて来た。軽い風が東雲《しののめ》の空から吹き、明け切らない草の露が、彼等の足を、ぬらした。上天気になるらしい。日が昇りきれば、今朝は始めてイラン軍との手合せがあるので、二人の兵は、申し合せたように、遠い眼界の中にぼんやり並んでいる敵陣の天幕を眺めた。高地のかげがずっとのびて、彼方にはまだ重い夜が這っているようであった。すると、一人が仲間の胴をつき、「おい、あれは何だ?」と訝かしそうに、高地の斜面の一点をば指した。何か黒い平たいものの形が見える。二人は暫く見ていてから、そろそろ其方に向って降りて行った。近くまで来てそれが何かとわかると彼等は愕いた眼を突き出して顔を見合せた。スーラーブの扈従《こしゅう》の一人に違いない少年が、何かにたたきのめされたように硬張って死んでいる。二人は、速足に高地を引かえした。そして、伍長を案内して来た。話をききつけた者は、皆ぞろぞろ後をついて来、死体を見ると、目を瞠って、彼等の命令者の顔を見つめた。皆は、僅か十六のガワが、どうして夜の間にこんな処でたおれたか、訳がわからなかった。何処にも傷が見えなかった。彼は病気だったのか。何かの悪鬼が陣地で一番若い彼を狙って生霊を喰ったのではないか。がやがやしているところへ、スーラーブの姿が見えた。兵等は円くかたまった輪の一部を開いて、スーラーブを中に入れた。伍長は、切口上で、二人の卒がこうなっているガワを発見したことを報告した。
 スーラーブの顔は著しく蒼かった。彼は、その噂をきくと、すぐ陣中に侵入者のあったことを直覚した。自分が何も知らずに眠っていたことや、その他まるで防備のなかったに等しい夜中のことを考えると、寒い恐怖が背筋を走るのを覚えた。それほど大胆な敵があったのに、自分の生命が完了されたのは寧ろ奇蹟のようにさえ思われる。彼は屍の傍に跪《ひざまず》き、細かに検べた。何のためにガワが此処迄出て来たのか、それは彼にもわからなかったが、何かで打たれたのは、耳の中に出血しているので確かであった。彼は眼敏くガワの帯革についている短剣が鞘ばかりになっているのを見出した。
 彼は、兵等に命じて剣を探させた。剣は、血の曇もつかず、ガワの頭の方に落ちていた。それと一緒に、図らず一本の棍棒を草の間から拾いあげた。それが、ツランの物でないのが一目でわかった。握りに滑らないための刻がついてい、堅いつるつるした木の根っこのようなもので出来ている。それを見ると、兵等は俄に陽気に噪ぎ出した。そして、スーラーブが検べ終ると、我勝ちに受取っては珍らしそうに吟味した。或る者は片手に下げて、仔細らしく重みをはかった。剽軽《ひょうきん》な髭面男は、嬉しそうに、仲間をそれで脅しながら「ツランの小人、覚悟しろ! とは云わなかったとさ!」とふざけた。皆はどっと笑った。彼等は黙って懼れた悪魔の仕業でないことが確かになった。ガワは可哀そうだ。が、何! イランなら思い知れ、讐《かたき》はすぐ打ってやるという気持が、一同に流れ出したのであった。

        三十四

 スーラーブは、はっきりその雰囲気を感じた。彼は、一同を鼓舞するために、勇ましい言葉で、ガワの命を来るべき今日の合戦に償うことを誓った。そして、埋葬に関して必要な二三の注意を与え、彼は天幕に戻った。天幕の中では、フーマン、バーマンなどが、簡単な朝食を摂りながら頻りに開戦準備の相談をしていた。スーラーブも卓についた。食物をかみながら、彼の心は、重要な二人の相談の方には向かず、やや陰鬱に考え沈んだ。スーラーブは、迷信深い兵卒等のように、ガワが仮にも悪魔に殺されたなどということは思いもしなかった。然し、殺された者がガワであったことが彼に何かの凶兆らしいいやな予感を持たせた。ガワは、もう数年、スーラーブの手廻りに仕えた侍童であった。それが、幸先よかるべき今朝、死んで見出されたとは何事だろう。これは、彼自身の身代りになったという風にとろうとすれば、とれないことはなかった。そう解釈した方がよいのだろう。けれども、スーラーブには、もう一つ昨夜から気になりきっていることがあった。それは、イラン軍に、父ルスタムが加わっているや否やということであった。
 イランの全軍が、広い曠野の面で展開し、彼方此方に、天幕小屋を組立てて行く間、スーラーブは、幾度と知れずアフラシャブの附け人達を高地の端まで連れ出した。一つ新しい天幕が張られるごとに、ルスタムではないか、或はルスタムの隊らしいものは見当らないかと尋ねた。彼等は、形式一遍の答えをした。スーラーブが相手の顔をじっと見ずにいられない冷淡さ、底意でもあるらしい無頓着さが顕されたのであった。結局昨日は解らずしまいであった。彼等の腹を考えれば、今再びきいたところで正直に云ってはくれまい。スーラーブは、或る憎悪を感じて、平然と協議を凝している二人のツラン将を視た。彼が、鋭い眼を向けると、腰架に向い合っている彼等は眼の隅でちらりとそれを認め、傍から口を利かせまいため、一層熱心らしく胸をかがめて話しに打ち込む風をする。激しい感情がこみあげて来、スーラーブは、ふいと天幕を出た。
 もう朝日も高く昇った。高地の裏から疎らな樹林をとおして射す澄んだ日光で、草の葉の露はかがやき、絶間なく動き廻る兵卒等の腰に短剣のつかがキラキラした。樹木の間につながれて夜を過した馬がつややかな背やたてがみに日を受け、楽しそうに鼻を鳴しながら、古い落葉の敷いた地を掻く。歩き廻っているうちに、スーラーブの頭に閃くように或ることが思い出された。彼は、急に活々した挙止で、丁度糧秣の袋を抱えて来かかった一人の兵卒を呼びとめた。「おい。――貴様、イランの捕虜の居処を知っているか?」男は、少し妙な眼でスーラーブの顔を見、ざらざらした声で得意げに答えた。
「知っていますどころか。ゆうべわしらの隊で、奴を揶揄《からか》って大笑いしました」
「すぐ此処へつれて来てくれ」スーラーブは、抱えている糧秣に目をとめた。
「いいからそれは置いて行って来い。私が分けてやる」
 男は、そこへ袋を下し、左脚を引ずるようにして陣の後方に去った。スーラーブは、左手で重い袋を引ぱり、樹木の根かたに置いてある箱に、なかの麦粒をしゃくい出した。

        三十五

 間もなく、乾ききった厚い木片がぶつかり合うような、カタカタという音が、スーラーブの背後でした。
「連れて参りました」捕虜の若いイラン人は、微塵《みじん》の愛嬌もない表情で、振返ったスーラーブを見た。纏布を半分ずらせて、頭の負傷を包んでいた。横から、短く髪の毛が延びかかった頭が覗いている様子、薄い、汚れ切った上衣が肩で破れて体にかかっている有様。立派な体格で、足枷さえそんなに惨めなものらしくは見えなかった。眇《すがめ》の男は、捕虜の穢らしい滑稽さを誇張するように、傍から相手の腕をつっつき、片言のイラン訛で云った。
「大将、わが大将、――礼」そして、自分のツランの礼の形をして見せた。
 スーラーブは、厳しく手を振って、眇の男を追のけた。彼は先に立って歩み出した。
「此方に来い」彼等は、足枷の許す緩い歩調で高地の出端まで来た。其処からは、朝の光の海の裡に一目でイラン方の陣が瞰下せた。幾つもの天幕が起伏した間に平地の上を行き来している兵卒の姿までくッきり見えた。スーラーブは、暫く黙って眺めた後、捕虜に云った。
「卿に尋きたいのは、どの天幕が誰のかということだ。あの大きな旗を立てたのは、イランの王の天幕か?」捕虜は、スーラーブの横に、一歩ほどしざって佇んだ。彼は、顔を正面に向けたまま、まるで感動を示さない調子で答えた。
「そうです」
「あの、黒い鞁天幕は? ずっと右手」
 捕虜は、頸を動かさず、瞳だけ其方にやった。
「――ギーウ」
 スーラーブは、思わず、「ふむ」と満足の鼻息を洩し、顔が赧らむのを感じた。彼は、こんなに素直に捕虜が云ってくれるだろうとは夢にも思っていなかった。彼の希いはもう一つで満されるところまで来た。
 スーラーブは、速くなった鼓動が自分だけにしか感じられないのを幸に思いながら、最後の質問を出した。
「左の端にもう一つ大天幕がある。あれは誰のだ?」
「――……」
 スーラーブは、答えがないので捕虜の顔を見た。男は、相変らず正面を向いて、スーラーブの声が聴えなかったと思われる様子だ。スーラーブは、捕虜の顔付に注意しながら、もう一遍、問を繰返した。
「あの左の端の天幕は誰のだ?」
 スーラーブの言葉が終るか終らないのに捕虜は、ずっぱり云った。
「知りません!」
 スーラーブは、覚えずむらむらとした。男の調子はひどく不誠実で、この問だけにはこう答えると、宛然前から定めていたように響いたのであった。スーラーブは、燃えるような眼付で捕虜を睨みつけた。
「よく視ろ!」
 やっと、失望と憤怒とを制し、彼は云った。
「左手、ずっと左の端だ。誰のだ? 知らぬ筈はない」
「――……」
「誰のだというのに!」
 スーラーブは、ここぞという処で裏切られた口惜しさに、相手を張り倒したいほどの衝動にかられた。

        三十六

 自分が知りたいのは、狙ってルスタムを殺そうためではない。正反対だ。知らしてさえくれたら、今日これからの手合せに、血も流さず、永年、遠くから牽き合った父と子が対面出来る。天と地とが凱歌をあげる歓びが実現するのだ。スーラーブは、我知らず宥《なだ》めるような調子になった。
「卿は二つ、正直に云った。一つだけ知らないというのは信ぜられぬ。云ってくれ。――決して悪いことはないのだ。――あの左の方、大きな天幕は誰のだ?」
 イランの捕虜は頑固に呟いた。
「知りません。――何もしるしがない」
 成程――。スーラーブは窮した。実際その天幕は無標であった。色も形も違ったところがなく、唯他のものより大きいのが特徴なのだ。スーラーブは、捕虜が尤も至極な口実を捕えたことをいまいましく悲しく感じた。捕虜に先手を打たれてしまった。もう、どんな自分の言葉も、切実な強さを持ち得ないのを彼は明かに知った。彼に遺されている一つの道は、優者らしい暴虐さで、云えない捕虜を攻め立てることばかりだ。そんなことは彼に出来ることでなかった。スーラーブは、腕組をし、脚を開いて立ち、石のように黙り込んだ。頭の上で、太陽は微かな音を立てながら、天の真中へ進んで来るようであった。陣地には、今にも、開戦準備の角笛が鳴り渡りそうであった。彼に遺されている時間は、ほんの一刻だ。その貴重な暫くが、自分の運命には些の恩沢も与えようとせず、冷然と、ついそこを通りすぎてしまうのか。スーラーブは、ふけた顔付きになり、逞しい若い胸の奥で身ぶるいをした。暗い眼で、しげしげと無標の天幕を瞰渡した。その間に、捕虜は、私かに彼を偸見た。男は、凡そ見当はついていたのに癪で真直云えなかったのである。なぐられないのが、男にとっては意外であった。そして、スーラーブの顔付を見たら、彼の感情は動いた。何かまるで淋しそうな色が、スーラーブの体全体に満ちていた。正面を向いたぎりで、男は、同情に似た静かな光を眼に泛べたが、スーラーブが、彼を見そうにすると、はっと彼の顔は変った。スーラーブは、顎をつき出すように、太い頸を牡牛のように構えている捕虜をじろりと視た。そして、手を振って、彼方に行けという合図をした。捕虜はその方を向き、スーラーブの側を通って陣の奥へと歩き出した。カタ、カタ、木の足枷が鳴った。スーラーブが、高地の端でこんな時を費していたうちに、陣の後方では、着々、戦端を開く準備が進められた。大天幕を、足早に多くの兵が出入し、伝令が、隊から隊の間を駛《はし》った。亢奮した空気が、ツランの陣中にざわめき始めた。スーラーブをさがして、一人の兵卒が馳けて来た。
「万端用意が整いました。御命令を待つと申せということです」
 スーラーブは、黙ってうなずいた。イラン方でも、先刻から統一ある運動が開始されていた。二人ばかり騎馬の戦士が、活気ある様子で彼方此方騎り廻す前後に武器を執った兵卒が、そろそろ隊列を整えかけていた。それ等の黒い姿や馬の蹄の下から時々ぱっぱっと、白い砂埃が蹴立てられるのまで、総て小さく手にとるように見える。

        三十七

 ツランの全軍の三分の一が、四列縦隊で高地を降り始めた。スーラーブは、栗毛の馬に騎って兵等の進行を見守った。遠くの方は、見わけのつかない揺れる頭の上下する流れに見えた。それが一種重い響を伴って迫って来彼の目の前を通り過ぎる瞬間、一人一人の顔つきが、奇妙に鋭い印象でスーラーブの眼に写った。或る者は髭ばかりのように、或る者は、じっと彼を瞶《みつ》めた二つの眼ばかりの者のように。すぐ、また後から別な、特殊な表情の顔が続いた。前の印象は消えた。これを見ようとする間に忽ち行きすぎた。次へ、次へ。そして、兵等は黒い、緩慢な瀧のように絶間なく降りて行く。平地に着いた先頭部隊は、すぐ横列に開展し始めた。スーラーブは、最後に高地を降る一隊と馬を進め、平地に出ると、数十歩駈けさせ、軍の最前列に出た。イラン軍とは、僅に百ザレほどの間隔しかなかった。彼のところからは、彼方の兵卒の一つ一つの顔まで見えた。彼等は、比較的平静な弓形の濃い眉が陰気につながった顔で、珍らしそうに、獣でも見るように、ツラン方を眺めている。小走りに駈けながら、隊の後方につこうとしている者共の、じろじろ此方を見る顔にも同じ表情があった。
 スーラーブは、馬をかえし、自分の軍列を一廻りした。左翼の端れにはフーマンが黒い馬の手綱を引きしめながら、何か、低い、激しい声で、傍の者に命じていた。右翼の端にバーマンが、凝っと正面を見て、あし毛の馬に騎っていた。彼はスーラーブを認めると、顔付もかえず、義務的な風でちょっと右手を挙げた。用意はよろしいというのだ。スーラーブは、元の場所に戻った。イラン方でも仕舞いのざわめきが鎮まった。何ともいえない静けさが張り切った。太陽は一息つき、一きわきららかに両軍の頭上に照り渡った。――
 すると、ツラン勢の後方から、心臓をつき上げるように、一打ち、強い羯鼓の音がした。続いて、二打ち、三打ち、四打ちめの羯鼓に合わせ、ツラン軍は足を踏み轟かせ、裂けるような鬨《とき》の声をあげた。空気の顫えが鎮まらないのに、イラン軍で、熱いような太鼓を打ち出した。急調に、じっとしていられないように、全軍が鯨波をあげた。蒼白い、神経質な表情を湛えていたスーラーブの顔に、燃えるような輝きが出た。彼は鋭く眼を配り、左右を見ると、手綱をかい出し、とっとっとっと、一騎で、両軍の中央に騎り出した。亢奮が感染し、乗馬は、敏感に鼻翼を震わせては、深い息をする。スーラーブは、轟きの余波の消えるのを待って、高く、馬を前脚で跳上らせた。彼は、鉾を右手に振かざし、大きな輪乗りで敵の前面を騎り廻した。ツラン軍から熱烈な喊声が湧いた。スーラーブは、その音波を劈《つんざ》く高声で敵に叫びかけた。
「イランの王、カイ・カーウス! 出会え、出会え、流されたツラン人の血は卿の血で償おう!」
 両軍に、明かな動揺が伝わった。誰か出て来るか。スーラーブは、尚も輪騎りをしながら、ツラン幾千の眼が、煌いて、自分の背後から前方に瞠られているのを感じた。彼は、カイ・カーウス自身の出ないのは知りきっていた。彼は、甲冑の奥に母から貰った頸飾りのあることを自分に確めた。微かに戦慄が起るほどの緊張で、而も頭は澄んで、スーラーブは、敵の前面を見渡した。

        三十八

 この時、ルスタムは、まるで、これ迄と異う地味な目立たない武装でイラン軍の後方にいた。彼は、特殊な感情を以て、一騎乗り出して来たツランの若者を見た。しゃんと武装を調えたところは、昨夜、見た同じ者とは思えなかった。多勢のツラン兵の前に立ってひとりでに比較されて見ると、彼の眼には、何処か若者の相貌に、イラン風なところがあるようにさえ感じられた。ルスタムは、灰色の馬を歩ませて、もっとよく見える前列の傍に出た。
 今度そこに来たら充分視ようと心構えした時、スーラーブは、ぴたりと馬を停め、高らかに大胆な挑戦をしかけたのであった。
「流されたツラン人の血は」という一言をきくと、ルスタムは、むかつく嫌な衝動を感じた。昨夜のことは誰一人知っている者はない。この文句の正しい意味のわかるのは自分ばかりだろう。せっかく抱いて行った優しい思いが失望に終った上、まるで偶然で避難かった、自分でも厭々した殺傷が、挑戦の口実に物々しく利用されたのをきくと、ルスタムは、威勢よい若者に、焦々した憎悪を感じた。当然自分が応えるべき位置にあるという責任感と、先天的な好戦慾に駆られ、ルスタムは、出陣の時自分の申出した約束にも拘らず、信念に満ちた風采で、両軍の中央にのり出した。
 彼は、イランの前面を通るとき、ギーウが、面覆いの間から、驚愕の色を顕わして自分を見たのを認めた。老人の意地の現われた眼つきで、ルスタムは、真直にスーラーブの前に騎りつけた。そして、好意のない脅しつけるような声で云った。
「王に戦いを挑まれたのは卿か! 王自身が出会われるには、卿の年が若すぎる。儂が相手をしよう」
 ルスタムの露骨な青二才奴、という毒々しさをまるで感じなかったように、ツランの若者は真面目に、偽の無さそうな眼で、ルスタムを瞶めた。そして、作法に従い、鉾を鞍の前輪に立てて、云った。
「年は腕の力できめよう」
 二騎は、更に広い場所へと騎ったが、その間、ツランの若者は、ルスタムに不快を与えるほど、彼の顔その他を注意して幾度も幾度も此方を視た。眼に何か絡みつくような、ねつい表情があり、ルスタムのやや粗暴になっている感情にうるさい思いをさせる。空地の中頃に来、空一杯降注いで来るような両軍の鬨の声の裡に、ルスタムはイラン勢を背に負い、ツランの側にツラン人は立った。ルスタムは、偉きな躯を鞍の上で一ゆすりし、鉾とりあげ「さあ! 勝負!」と、それを持ちなおした。ツランの若戦士も、自分の鉾を執りなおした。がルスタムの顔ばかり見、さし迫った声で、
「卿はルスタムではないか?」と囁くように問いかけた。ルスタムは、殆ど返事をせず打ちかかるところであった。小癪な若者奴! ルスタムならどうしようというのだ。老人の俺を狙って功名しようというのか。昨夜、誰が、どんな気持で貴様を一目見たいと出て行ったか。生意気な浮薄な貴様に解りもしまい! 彼は、恐ろしい目をしてスーラーブを睨み据た。「余計な穿鑿《せんさく》は勝ってからにしろ。ルスタムが貴様の相手をすると思うか」憤りと悲しみと混り合って突き上げて来たルスタムは、唸りを立てて鉾を打ち下した。ツランの若者は、すばやく馬を躱《かわ》して左手から、ルスタムに攻めかけて来た。

        三十九

 怒ったルスタムの鉾先は猛烈を極めた。暫く、スーラーブは、やっと身を躱した。彼は、その戦士が老人であるのを認めた時、既に心の平衡を失いかけた。あいにく、兜とその下の面覆いで顔全部は見えず、従って、母ターミナにきいて来た眉の上の大黒子などの有無は見ることさえ出来なかった。けれども、父の他にイランにこの年配の戦士が在ろうか。スーラーブは、心も心ならず、屡々顔を見、遂に、万一を恃《たの》んで訊いて見た。むごく撥ねつけられ、その精神の沈みがもとに整いもせぬうち、相手は、まるでその質問に煽られたように打ちかけて来る。
 一度二度、スーラーブは、寧ろ、馬の機敏な本能で、敵の打撃から免れ得た。やがて彼も力を凝し、剽悍になった。ルスタムでないなら、早く片付け目ざす人に出会おうと、燃える力が、若いスーラーブの筋骨に、筋金入りの威力を与えた。蕁麻《いらくさ》の生えた地面は、駈け寄り、引き分れる二頭の馬の蹄の下で、濛々と塵をあげた。ぎらつく日光を掠めて、イラン戦士の鉾が飛んだ。さっとくぐりぬけ、ツランの若者が、鉾をふりかぶった。蹄の入り乱れた音の間にぶつかる鉾が、尾の長い、凄じい響を立てた。十度に一度、何方かの鉾が、敵の体か、乗馬に触れた。人間は、歯を喰いしばって呻き、その打撃を堪えた。馬は、恐怖して嘶き、跳上り、暫く乗手を忘れて、暑い平地を彼方此方に走った。イランの戦士の顔からも、ツランの若者の顔からも、汗は雫になって流れ出した。荒い互の呼吸の音が、鳥の羽搏のように聞えた。一騎討ちは、いつ終るともしれなかった。両軍の将卒は、固唾をのんで成りゆきを視守った。特にツランのバーマンは、イラン戦士の普通とは逆な鉾の持ち方で、すぐルスタムと知った。彼は粘液質な顔に、激しい動乱の色を浮べ、フーマンのところに駆せつけた。フーマンもこの前の戦いの経験で心づくところがあったと見え、すぐ列を離れ、彼と会った。彼等は一言も云わず、眼を見合せただけで、意味を諒解した。そのまま並んで、一騎打を視た。戦士等の動作には、劇しい疲労が見え始めた。馬も、全身汗にまびれ、脇腹は破れそうに波打っている。すると、イラン勢から、一騎、逞い戦士が列を離れ、また新な勇気を盛返して鉾を振ろうとする二人の戦士等の方に進んだ。バーマンはそれを認めると、急いで馬をけり、其方にかけつけた。激烈な、この一騎討は引分かれ、また明日勝負を争うことになった。
 大部隊の接戦で、ツラン軍は九十余人の死者を出した。イラン勢も、ほぼ同数の者を失ったが、重傷者は、却ってツラン方より多いという噂が伝わった。日没前に、第一日の合戦は罷められた。スーラーブは、疲れきり、甲冑の下で処々皮膚をすりむかれて、天幕に戻った。侍者に、膏でこすらせ、寝台に横わりながら、彼の少し血走った眼は心に休みない或る考えで光り、じっと天幕の天井に止まった。スーラーブには、どうしても、今日の相手が腑に落ちなかった。あれだけ勢い激しく打ち合って、びくともしない、あの年の戦士が、ルスタム以外にイランにはいるのだろうか。始めての挑戦に直応じて来たことや、乗馬、甲冑がまるで華々しくない灰色ずくめであったことなどを考えると、或は全く父ではないのかも知れない。

        四十

 考えに耽りながら躯をこすらせ、食物を食べ終ると、スーラーブは、侍者にフーマンを呼ばせた。フーマンは、昼間の合戦になかなか油断なく立ち廻った。彼は、寛衣にかえ、酒の色を顔に出して入って来た。卓子についているスーラーブを認めると、彼は、陽気な風で、手を延ばした。
「どうです! 見事な腕を見せて貰えましたな。お疲れでしょう。儂は今、兵卒共の慰労に一廻りして来たところだが――」どっかりとスーラーブの傍に腰を卸した。
「バーマンは?」
「さあ」
 スーラーブは、同じアフラシャブの腹心でも蒼白い無感動のバーマンより、フーマンロサーに人間らしい天性の率直さを感じていた。フーマン自身もそれを知り、何か状態が複雑になりかけると、自分の単純な激情に駆られる性質を恐れるように、冷静な、狡智に長《た》けたバーマンを傍に持とうとする。今、バーマンのいないこととて、スーラーブに希わしい機会なのだ。彼は、フーマンに盃をすすめ、自分も一啜りしながら云い始めた。
「まあ、とにかく今日は余り成績も悪くなかったようだが。――一体、あのイラン方の戦士は誰かね」
 フーマンは、赧い顔を手の平で一撫でし、酔いが発したように、卓子にがっくりよった。
「さてね。儂にも判りませんな」
「卿などは、幾度もイランの将等と、手合せしているのだから判らないとはいえない。――誰だろうな。――また、明日のこともあるから訊くのだ」
「ふうむ。――バーマンに訊いたら判るかもしれない」
 フーマンは柄になく張のない調子で呟くように云った。そして、さも酔漢らしく頭をふりあげスーラーブに云った。
「どっち道、敵の端くれだから、まあ腕を振って片づけて下さい。今日の勢で行けば、何! 雑作ない。卿には若さという味方がついているもの。儂ももう一度、こんな胸を持って見たいな」
 そして、フーマンは、スーラーブのむき出しの胸を好もしそうに眺め、女についての戯言を云った。スーラーブは、フーマンが、酔いに紛らせ内心では確かり云うべきことの選択をしていると感じた。酒が彼の唇を自由にしているだけ、楽に、要点をそらして下らない題目にすべり込める。
 明日の合戦に、どうしようという考えで、彼は黙ってしまった。単に一人の敵として見ても、イランの戦士は剛の者であった。力量その他が、スーラーブに或る懼れを抱かすほど匹敵していた。今回の経験で見ても、最後に勝負を決するものは腕の違いでなく、精力と運だけの問題とさえ思える。ルスタムでないなら、スーラーブは、この敵に命は遣りたくなかった。遣らないためには殆ど天運が自分の味方になってくれなければならない。スーラーブは、フーマンが何時の間にか、自分の傍を去ったのさえ知らなかった。彼は一人で苦笑いを洩した。そして、疲労を恢復させる必要から、すぐ寝台に横わった。が、眠りはなかなか来ず、漠然とした不安が、夜の幕営の裡で彼の心にのしかかった。戦場で、父とめぐり合うということは、彼が空想で描いたほど真直に工合よくは行かないらしいことが明かになって来た。スーラーブは、肌身はなさず持っている母の記念の頸飾を、片手で触った。不意に、サアンガンの城のことや、シャラフシャーのことや、遠い祖父の臨終のこわかった記憶が、きれぎれに通り過ぎた。彼はそのまま寝入った。

        四十一

 翌朝は、晴てはいたが雲の多い天候であった。薄い雲母でも張ったようにむらのない白雲が、空一面|蔓《はびこ》り、その奥から太陽が、平たく活気なく曠野の乾いた土地や蕁麻、灌木の叢を射た。スーラーブは、早朝、天幕の隙間隙間から白く差こむ光で目を醒した。すぐ、今日の一騎討のことを思い、彼は、平気なような不安なような妙な心持になった。食慾がないのを、殆ど無理に、疲れまいとする要心だけから多くの食物を摂った。そして武具をつけ始めたが、鉄の胸当を執りあげると、スーラーブは、暫らく躊躇した。いっそのこと、頸飾を胸当の外に出して懸て置いたらよくはあるまいかという考えが、頭に閃いたのであった。然し結局もとどおり、それは肌衣の下にしまったまま、胸当をつけた。母にとっても自分にとっても、その頸飾一つが父への形に現れた絆であった。余り冒険的な機会に曝してはという考えで制せられた。
 仕度を調えて出て見ると、陣中に、昨朝とはまた違う一種の生気が漲っていた。兵等は、彼を認めると、勢のよい、砕けた丁寧さで声をかけ挨拶した。彼等の眼付や素振には、スーラーブの胸に暖さと愁いとを同時に感じさせるものがあった。単純な心で、自分等の統帥者が強いと、頼むに足りることを知った者共は、彼を迎えると、自分等の間から選出した格闘士でも仰ぐように、あらわな贔屓《ひいき》、称賞を示す。スーラーブは、複雑な感情で、軍列を整理した。そして昨日とほぼ同時刻に、ツランの陣を離れて、空地の中央に騎り出した。
 イラン勢の中からも、灰色ずくめの戦士が立ち顕れた。どういう訳か、今日は徒歩立ちで、鉾の代りに太刀を佩《は》いている。
 スーラーブも馬から降りた。兵卒が駆けて来てその馬を引き戻った。ツラン方から、熱情の籠った声援が湧き起った。イラン勢からは、刺戟的な、太鼓の響が伝わって来た。
 イランの戦士は、スーラーブの眼に、昨日よりずっと穏やかに、礼儀深く見えた。彼は、あんな劇しい様子は示さず、対等に振舞った。
「さあ! きのうの勝負の片をつけよう」
 スーラーブは、黙礼した。イランの戦士は、スーラーブの顔を見ながら太刀を抜いた。その眼ざしが、彼には殆ど親みを湛えているほど害心のないものに感じられた。スーラーブは、喉元にせきあげる感情で、思わず訊いた。
「卿は、本当にルスタムではないのか」
 和らいでいた光が、素気なくふっとイラン戦士の眼の中で消えた。彼は俄に焦々し、太刀を構え挑みかけて叫んだ。
「さあ、さあ! 何をぐずぐず!」二人は、後じさった。長い、反の強い太刀が、敵を狙うた獣の牙のように、切先を交えて対峙した。
 スーラーブは、例によって始めのうちどうしても注意が集注されなかった。彼は、全く受け身に働いた。
 けれどもイランの戦士は、長引く一騎打ちを、この一勝負で決めたいと思うらしく、太刀風鋭く切りかけ切りかけ追って来る。およそ、八九十合も打ち合った頃であった。イランの戦士は満身の力を切先に集め、気合い諸共、巖も砕けろとスーラーブの肩先目がけて截り下した。

        四十二

 スーラーブは、はっとする間に身を躱し、相手に広い空を切らせた。イランの戦士は力余って、覚えずよろめきかかった。スーラーブは、そのすきに素早く手許に切り込み、見事に太刀を対手の手から薙落《なぎおと》した。
 怒濤のような両軍のどよめきの間に、イランの戦士は、「おう!」と呻くと、素手で組もうとかかって来た。スーラーブもからりと太刀をすてた。二人は牡牛のように、がっしり四つに引組んだ。彼は、寧ろこの偶然の機会を悦んだ。相手の体に密着したことで、疑問の面覆いを引剥ぐことも出来るかと思ったのであった。
 スーラーブは、どうかして片手だけを自由にし、その目的を達しようとするのだが、イランの戦士も豪の者だ。右に左に揉み合ううち、スーラーブは、だんだん自分の疲労を自覚して来た。太陽は直射せず、微かな西風さえ吹き流れているが、平地では、砂がちの地と草のいきれで、むっとする暑さが澱んでいた。対手の息づかいの荒さは引っ組んだスーラーブの肩に感じられた。然し、若年の彼の及びそうもない消極的な持堪えが相手にあった。
 喉の渇きが激しくなり、粘りこい膏汗が滲み出すにつれ、スーラーブは、少し焦り始めた。彼は、渾身の力を振搾り、相手を上手投にかけようとした。イランの戦士は、うんと足を踏張って堪え、逆に、スーラーブの脚を掬おうとする。それを脱して体を持なおそうとする拍子に、ほんのちょっとではあるが、スーラーブの右手が浮いた。危いと見る間に、イランの戦士は老巧な腰のひねりでぐっと右をさした。スーラーブの体は、対手ともろに今にも倒れんばかりに平均を失った。処で、彼の若さが、彼を助けた。撓み撓んでもうちょっとという刹那、彼は、どうしたか自分でも判らない身のこなしで宙に躯をたてなおすと虚を衝いて、いきなり厭というほど対手の左脚を前方に引張った。既に平衡を失していたイランの戦士の巨きな躯は、地響きを立て、仰向に倒れた。スーラーブは、飛びついてその胸に跨り、ぎっしり両膝でしめつけた。一度、二度、脚を蹶上《けあ》げて、イランの戦士は起きかえろうとした。が、それが無駄と知れると、彼は思いきりよく、※[#「足+宛」、第3水準1-92-36、406-16]《もが》くのをやめた。
 スーラーブは、はっ、はっと、喘ぎながら、対手の顔を瞰下した。面覆いは少しずれ、汗と塵にまびれた間から一握りの白髭が、惨めな様子でこぼれていた。黒みがかった唇を少し開き、激しく息を切る、口の中は暗い穴のように見えた。観念したらしく眼をつぶってゆさりともしない大きな顔には、深い幾条かの皺が走り、何ともいえず寂しい、あじけない感じを起させる。スーラーブは、腰の短剣に手をかけたが、覚えず柄をつかんだまま逡巡した。老戦士の顔には、何かまるで人間離れのした感動があった。それがスーラーブを陰鬱にした。こんなにしてその体の上に踏跨っているのなどはさっさとやめ、手の塵を払って立ち上ってしまいたい、いやな浅間しい気を起されたのであった。彼は、その好機を利用して対手の面覆いを剥ぐことさえ忘れた。彼は、短剣にかけた手をそのまま、深く対手の上にこごみかかった。そして、ひとりでに囁きで訊いた。
「――真実卿はルスタムではないのだろうな」

        四十三

 老戦士の面には云いようのない苦しげな色が漲った。彼は、歯の間から呻いた。
「殺せ。殺せ。卿は勝ったのではないか」
 云うなり一粒大きな涙が古木の表皮のように皺んだ彼の目尻から溢れ出した。そして、糸のように流れて傍の地面にしみ込んだ。スーラーブは、天日の運行も、自分の頭上で止まってしまったように感じた。殺すに忍びない何かが切な彼の胸にあるのだ。彼は緊張に堪えず、覚えず身じろぎをした。すると、目にも止まらないその動作を、片唾をのんで観ていた両軍の将卒が何と見てとったか、一時に悲痛極まる鬨の声をあげ、どっと中央目がけて殺到して来た。スーラーブは、弾かれたように足で立った。イランの戦士は砂を蹴立て、起きなおった。イラン軍からも、ツランの勢からも、今度は歓びで燃え震える喊声が湧き立った。彼等は際どい、危い勝負がまた互角の引分けで終ったのかという驚異と亢奮を制しかね、彼等は、幾度も、幾度も、鎮まろうとしては更にどよめいた。
 この一騎討ちに刺戟されたのかツラン兵は特にその日勇猛であった。彼等は、イランの陣近く進撃し、多くを殺傷して、数頭の乗馬を奪った。夕刻戦闘が終ると、スーラーブは、フーマン等と離れ、独りで、傍路から高地の陣へ戻った。彼は脱いだ甲冑を一まとめにして左手に提げていた。行手の、鳩羽色に暮れかかった樹林の上に、新しい宵の明星が瞬き出した。人馬の騒音は八方に満ちているが、それぞれの形がぼんやり薄闇にくるまれているため、遠い、自分とは無関係な物音のように感じられる。
 スーラーブは、草の匂う高地の斜面を登りながら、肉体の疲労よりは心の疲れを強く感じた。それも、天幕に行き、ゆっくり一盃酒でものめば癒る種類のものではなかった。自分の目的は、はっきり目の前にあるのに、曖昧な、ちぐはぐな何ものかで遮られ、一思いにそこに至れない歯痒さ、焦立たしさが彼の感情を重くしているのであった。今日の一騎討ちの結果についてもスーラーブは、余り後口のよい気持ではなかった。慧眼な傍観者は、確に、自分が対手を倒した時と、立ち上った時との間に、充分剣をぬき始末をつける余裕のあったのは認めているだろう。躊躇したのも見たろう。意識して対手を助けようとしたと云われても、スーラーブは、その点を明瞭に説明する言葉が自分にないのを自覚した。父の連想があるので、何んともいえず組敷かれた敵の年寄りをあわれに思ったということはある。けれどもあの瞬間、自分の心に、助けようという、はっきりした意志はなかった。殺しきれないうち、局面が変ったのだ。自分の目的に早く達するためには、あの時、あの老戦士との勝負をさっさと片づけた方が好都合であった。本当の愛からでもなく、ほんの心のはずみでああいうことになり、而も、その結果について、責任ある説明を要求される立場にある自分を考えると、スーラーブはくしゃくしゃした。
 前方には、陣地で燃く篝火のチラチラ光る焔が見え、パチパチ木のはぜる音が聞え始めた。
 スーラーブは、自分の心にある妙な優柔不断めいたものを、しんから苦々しく思った。対手が真実父親であったため、自分の気持にああいう現象が起ったのではなかろうかなどという疑問は毛頭起らなかった。彼は、父が、自分のような青二才に敗けようなどと夢想もしなかった。

        四十四

 けれどもこの時、スーラーブが後を振かえり、透視力のある瞳でイランの陣を瞰下すことが出来たとしたら、彼は思いがけない一つの光景を見出しただろう。
 混雑の頂上にあるイランの陣の間を、スーラーブの膝の下にされた今日の老戦士が、一人で、いそいで、自分の幕営に戻ろうとしていた。
 彼も、他の将と顔を合せるのを厭うらしく、物蔭を、厳しい様子で歩いた。武具をつけたまま、兜だけをとったギーウが大股に数間あとからその姿を追っていた。燃き始められた篝火の間に黒く、見え、隠れするルスタムの後姿には明かに或る感情が表れていた。苦しい、激しい、暗い感動を、やっと意志で制し、威厳の裡に封じ込めているように、肩つきや頸が硬ばって見えた。脚ばかりは、その制御を受けきれないように、荒く不規則に、夜の地面を踏んで行く。ギーウは、もう少しで天幕に入るというところでルスタムに追いついた。彼は、黙って近よりさま、ルスタムのやや前かがみな、厚い肩に手をかけた。ルスタムは、ぎょっとしたようにふりはらうと肩を捩《ねじ》りながら、顔を向けて後を見た。ギーウと知ると彼は、止り、太い太い吐息をついた。ギーウは、ルスタムに顔を近づけた。「入ってもよいか?」
 ルスタムはギーウを見たが、目を逸し、暫く考え、
「待ってくれ」彼は歩き出して云った。
「後で迎えをやる」ギーウは、ルスタムの肩を一二度軽く叩いたまま引きかえした。
 ルスタムは、のろのろ自分の天幕に入った。そして、殆ど機械的に甲冑をぬぎすてると、どっかり腰架に腰を卸した。侍僕が用意していた祝辞を、ルスタムの顔つきで阻まれ、訝かしげに眼の隅で偸見ながら、跫音も立てず酒盃や瓶や、乾果、その他を卓に並べた。
 燃える炎のような眼でじっとそれを見ていたルスタムは、準備が整うと、
「もうよろしい。用があったら呼ぶから彼方に行っていろ」
 侍僕が胸に手を当て、引きさがりかけると、ルスタムは、更に呼びかけた。
「今夜は誰にも会わぬから人は入れるな」
 ルスタムは、酒瓶に手をかけた。小さい燈の下で、酒はごくり、ごくり、豊かな音を立てて、脚高な盃につがれた。芳ばしい、神経を引立てる香が四辺に散った。ルスタムは、右手に盃を持ち、左手で白髪を胸に押しつけながら、盃に唇をつけようとした。が、彼は、何とも知れず喉元にこみあげて来る悲しみを感じ、ごくりと喉をならして、盃をおろした。
 人気ない卓の上で、酒はいよいよ愛らしい琥珀色に輝いた。それを看ているうちに、ルスタムの眼では、燈の色も、盃の形も次第にぼやけ歪んで来た。彼は、鼻の奥にむずむず涙腺から流れ下るものを感じた。
 ルスタムは自分を叱るように、盃を握ると、一いきに酒を煽った。空の盃を手から離さずにまた注いだ。また煽った。三盃そういう風に飲むと、彼は大きく息をつき、卓に肱をかけ、その手で頭を支えた。ルスタムは、自分の戦士としての最後が、こういう形で示されようとは思っていなかった。イランのルスタムが、あの若者に慈悲をかけられて、命を助かる!

        四十五

 ルスタムは、敵に組しかれた自分を全軍に見られたということは毫も愧としなかった。
 けれども、自分が起きなおり得たのは、ツランの若者の立った後であるのを見られたことを思うと堪えられない気持になった。彼は、数十年来保って来た戦士としての自信が、一時にざくざくに砕けたのを感じた。自分の予覚は当った。この戦いには矢張り出ない方がよかった。けれども、ルスタムは、今はもう自分がぬきさしならぬ立場にあることを知った。どうにでも、始めた勝負の片はつけなければならない――自分が死ぬか、あの若者に傷を負わすか。
 然し今日のことを考えると、ルスタムは、到底自分に身を全うする希望は繋げなかった。イランの全軍が自分に信頼して任せているような結果、自分が最初自分に恃んで乗り出したような方向に、決して実際は終りそうになく思えた。戦うために生れて来た者だ。戦いで死ぬのは、彼一箇人の感情から見ればさほど厭うべき、悲しむべきことではなかった。そうとなった暁にはただは死なぬぞ、という反動的な勇気を持ち得た。ルスタムの重荷に思うのは、自分に迷信的な威力をあずけている、無智な兵卒等の擾乱であった。彼等は万一ルスタムが殺されたと知ればギーウの豪気を以てしてもどうにも出来ない意気沮喪に陥ることは彼の目に見えた。
 王は、騒ぎ立ち統一を失った者共の心をぐっと収攬するだけの精神の力を欠いている。結果はイラン全土の無統帥とツランの侵略になりかねない。愚な者達は、事実は朽木のように弱くなっても、ルスタムがいる、ということさえ知っていれば安心し、人並の勇気を保っているのだ。彼は、総ての事情を苦痛に感じた。省みると、自分の今度の行動には嘗てなかった夥しい私情が挾まれていた。抑《そもそ》も出動を肯じた動機さえ甚だ無責任な好奇心に誘われたものであるといいたい。また、あの若者が戦いを挑んだ時、何も自分が出るには及ばなかったかも知れない。ギーウが視た眼の心を見ない振りしたのは、自分の失望や寂寥やで、むしゃくしゃしたまぎれの、鬱憤にかられてであった。自惚《うぬぼれ》も手伝っている。
 本当に冷静に公平に、イランのためを思えば敢てしないことに手を出したようなものだ。
 ルスタムは、その責任を果すために、自分が明日こそ、あらいざらいの力を搾って働くのは当然な義務だという、道徳的な結論に達した。自信はないが、最善を尽すしかないという覚悟に或る安心が伴った。それにしても、彼には解けきれない一つの疑問があった。何故、血気に逸《はや》る年頃のあの若者が、今一息という際で、自分の命を許したのだろう。

        四十六

「許す! 許す!」
 苦々しげに、白髭をしごき、ルスタムは頭の裡で呟いた。「実に、恥辱極まることだ」
 彼が人目をさけて天幕に戻り、ギーウを拒んだのも、自分が慈悲を受けたのを目撃した、その眼を見るに堪えなかったからなのだが、思えば思うほど、彼に若者の心持は不可解であった。何のために彼はあんなに皮肉な念を押したのか。
「ルスタムでは、ないのだろうな[#「ないのだろうな」に傍点]」
 それを思うと、ルスタムは、全身が焔をはくような気がした。あの無念さ。飛びついて煙を吐く火花とならずに、しめっぽい涙が出たのは寧ろ不思議な位だ。
 然し、何故、あの若者は、あの好機をはずしたろう。何が躊躇させたか。ルスタムは、知らないうちに腰架を立上り、天幕の円錐形の屋根の下を、彼方此方に歩き出した。
 そして、一つの考えを追った。ごく表面的にとれば、ちょっとしたはずみであったらしくも見えるそのことの裡には、ルスタムの心を牽いてはなさないものがあった。
 フェルトの長靴は、地に跫音を立てない。背後に両手を組合せ、歩き廻っているうちに、ルスタムの顔に、だんだん違った表情が現れて来た。彼は、時々、一二間先の地面に落している視線をあげては、何者かを求めるように、自分の囲りを見廻した。彼の心には、苦しい、悩ましい空想が蘇って来た。若しや、万一、あの若者は、自分の虫が知らせた通り、自分の未だ見ぬ自分の息子なのではないのか。血が血を牽く微妙な働きで、あの戦場のならわしにはないことが起ったのではあるまいかという思いが、こびりついて、彼の心で蠢き出したのであった。
 さんざん歩き廻った末、ルスタムは心の動揺に堪えない風で、天幕の一隅に跪いた。そこには一つの櫃《ひつ》があった。彼はその蓋をあけ、中から皮袋をとり出した。
 櫃を元のようにすると、ルスタムは袋を持って、ほぼ天幕の中央に胡坐をかいた。考えに沈みきった面持で、彼は袋の口を解いた。そして三寸ばかりの白檀の数片と、燧石《ひうちいし》とを出し、大きな指先で丁寧にその白檀の小片を、小さな尖塔形につみあげた。彼は燧石をすって、それに火を点じた。木片の端にちろちろした火は次第に熱と耀きとを増し、夜の空気の中に高い芳しい白檀の薫香を撒き始めた。
 ルスタムは、目を瞑り、胸一杯その香を吸うと、坐りなおして跪いた。彼は重い体を伏せて、恭しく小さい赤い焔を拝した。そして沈黙の永い祈祷に入った。ルスタムの胸には、数年来覚えなかった神への切な祈願があった。彼は、自分の心も体も、こういう有様になって来ると、自分の力ではどうにもしようのないのを感じた。縺れた思いを解くにも、弱った体力を鼓舞するのも、外からの救いがいる。彼の祈りはこうであった。
「大神アウラ。卿の老いたる僕ルスタムは、今ここに清き火を燃き穢無き心で卿に会えようとしています。何卒恵み深き啓示を下し給え。儂が、あのツランの若者に対し、このように深く頻りに憧れる心持は、全く老ぼれ爺の弱い妄念なのでありましょうか。または、夢より奇な事実でしょうか。――若し真の敵ならば、アウラよ。恵み深いアウラよ。今一度このルスタムに昔時の力を借し給え。ルスタムは、ルスタムらしく終りたい。万一、あの若者が我が血を嗣ぐ者ならば、今夜、まだ命が互にあるうちに、何かを以て暗示し給え。――儂は、荒くれた戦士に許されるだけの聡さで心の目と耳を開き、卿のささやかな声を聴こうとします」

        四十七

 低い、小さい燃き火が滅し、白檀の香がつめたく遠く消えてしまっても、ルスタムは、彼の頭を擡げなかった。彼は、暫く身も心も祈に捧げて、苦しい、当のない想像や矛盾した実際の間に何かの解答を得ようとしたのであった。神は、すぐ間近にあるように感じられた。心の声は真直、白檀の烟とともにその膝に達したと思える。然し、ルスタムは、どんな特殊な囁きも、羽搏きも自分の傍に聞かなかった。夜は、そして幕舎の裡は、もとどおりイラン曠原の寂しさと、見なれた光景に満ちている。それでも、彼の気分は祈りによって幾分鎮められた。卓に置き捨てられた酒瓶に映る燈の色や、ぽーっと大きなものの影が、少しは彼の眼に美しさの感を与え、愛を感じさせた。やや暫くそのまま坐ってい、ルスタムは立上った。そして、皮袋を元の櫃にしまい、燃火の灰をならし、一まわり天幕内を見まわすと、入口の垂幕をあげた。
 ギーウを迎えに、気を更えるため自分で行こうとしたのであった。天幕を出、ほんの僅か歩いたかと思うと、ルスタムは、誰かに寛衣の裾をひかれた。月光の遮られた陰翳から黒く立現れたのはギーウであった。彼はルスタムを案じ、余程前からそこに忍んで気勢を窺っていたのだ。ルスタムは、ギーウの友愛に、辛い感謝を感じた。二人は、連立ってルスタムの天幕に戻った。その夜深更まで、二人は協議を凝した。それは、全く、ギーウが云ったとおり、予想もし得なかった問題についてであった。――ルスタムが、若し明日の決戦で再び立てなくなった場合には、どうするという善後策である。ギーウは、燈の油が尽きかける頃迄いた。ルスタムは、ギーウが帰ってから臥床に横わり燈を消し、永いこと闇を見つめていた。
 ちょうど彼の眼の見当に一筋天幕のすきがあり、そこから、顫える銀糸のような繊い月光が流れ込んでいた。ルスタムは、さっき神に捧げた祈りの答えは、何故ともなくその月のやさしい清い光波に乗って来そうに思った。飽ることなくその点を見守っているうちに、精神は空に移る月の通り下へ、下へと降り、静謐な、堪忍強い力に落付いた。半《なかば》睡りかけたルスタムの心にふと「明日は大かた」というような文句が湧いて消えた。彼は、はっとして目を瞠り四辺を見た。月光は先刻よりやや低いところから、短い蕁麻の葉を浮き上らせ、地面にずっと流れている。ルスタムは溜息をつき、年よりらしい寝返りを打った。
 第三日目の暁は静かに来た。東雲頃迄空は平穏で、消えのこった淡白い星に涼しい風が渡った。ところが、太陽が登るにつれ、黒雲がツランの陣の後方から湧き上り、雷鳴を伴った珍しい朝の驟雨がかかって来た。
 ポツリ、ポツリ、ルスタムは天幕を打つ雨の音をきいた。間もなく幅広い、天地を押しつつむようなサッサッ、サッサッという雨脚が迫って来ると思うと四辺は濛々煙るイランの俄雨につつまれた。雷の音、激しく天幕から雨滴のしたたる音。天幕内の地面に、砂が押流され幾条も小溝が掘れた。やがて、雨が遠のいた。天幕を打つ音が軽く、軽く、だんだん小さくなって来た。同時にがやがや外に人声が!
「あ、虹! 虹!」
と呼ぶのが耳に入った。ルスタムは、天幕を出た。そして、多勢の兵等が眺めている方角に眼を遣ると、彼は思わず、
「ほほう!」と感歎の声を放った。

        四十八

 虹は、ちょうどイラン軍の真後の地平線に、壮麗な光輪のようにかかっていた。七色の縞が鮮かに見え、ルスタムの処から眺めると、数多いイランの幕営が、優しく小さく群てその晴やかな光の冠に抱き込まれているように思えた。彼方の地平線は、まるで別なところのように宏大に見える。遠い曠原の一点から、二羽、黒く大きな鳥が舞い立った。そして、迫らない羽搏きで矢のように、真直虹の中心めがけて翔び去った。
 ルスタムは、風景全面から、悦ばしい勇気づける印象を与えられた。彼は、昨夜の祈りに対する、暗黙の応えが自然のうちに現わされたのを感じた。まるでイランに冠したようなその虹の姿は、彼に吉徴としか思われなかった。神が自分の側にこのような歓びの前ぶれを与える以上今日の勝利は信じてよく、結局あのツランの若者は、一人の敵に過ぎなかったことではないか。
 暫く眺めると、ルスタムは勢いよく天幕に戻った。そして、侍僕に手伝わせ、念入りに武具をつけた。彼は珍しく自分で閲兵した。ギーウに会って昨夜の相談を快活に、――その実行の不要を直感させるような張りのある語調で繰返した。ルスタムは、ツランの若者と戦を交えてから三日目の今朝、始めて自分の裡に眠っていた戦士気質というようなものが遺憾なく目醒、活動し出したのを自覚した。遅疑がなくなった。勝利に向って飽くまで突き進もうという血気が生じた。彼は牽き出されて来た灰色の馬の鼻面を掌でたたき、脚つき蹄鉄等を注意して見てから、身軽くそれに跨った。雨水を吸い込んでしっとりとした砂まじりの地面は、兵が進行し始めると数多の重い足調の下で、サック、サックとなった。
 遠い地平線の虹は消えた。碧い空が透明な日光に耀いて、動く人間の濃い影が入り混った。
 前後して、ツラン軍も高地を降って戦線についた。スーラーブは、整列するまで昨日と同じ騎馬でいたが、羯鼓が鳴り出すと、馬を降りて徒歩立ちになった。彼は、今日こそ、心を引締めてこの勝負に片をつける決心でいた。それには、昨日の経験で、徒歩の方が自分に強味のあることを考えたのであった。
 キラキラ、兜のはちを輝かせ、スーラーブが歩き出すのを見ると、ルスタムは、一種の激しい衝動がこみあげるのを感じた。
「忘れていた昨日の恥辱を思い知れといいたげに、あの若者は、自分の方を見るではないか!」
 ルスタムは、手綱をばらりと落し、ひらりと馬を降りた。彼は、誰かの手で出された鉾を引掴んだ。そして、性急らしく戦列を離れた。太鼓がイラン側から、立て続けに鳴った。ツラン方は、主将の勝利を確信しているらしく、間々に鬨の声をあげては、悠揚力を籠めた羯鼓を打込んだ。
 ルスタムは、近づいてスーラーブの顔を見ると思わず鉾を握りしめた。若者の顔つきは、昨日、一昨日のそれとまるで異っていた。覚悟をきめて容赦しない男の猛々しい激しさが眉宇の間、唇のまわりに漲っている。スーラーブも、これが昨日、あの胸を揺するような涙をこぼしたイランの老戦士かと、愕きあやしんで対手の顔を視た。老戦士は、十も若返って見えた。黒い切れの長い大きな眼は烱々《けいけい》と光った。体じゅうが、すっかり我ものになりきったという強靭な意気込みが満ちている。互は互に、鋭い用心を感じながら、鉾を合せてじりじりとつめよった。

        四十九

 重い鉾が打ち合う毎に響は、空気の中に長い尾を引いて顫えた。スーラーブは、二度対手の肩に、強い打撃を加えた。イランの老戦士は、獣のように呻き、少しよろよろとし、直踏み堪えて、今度はスーラーブの脚に、殆ど薙倒しそうな横払いを与えた。スーラーブは、唸って対手に飛びかかった。火花の散りそうな、息のつまる、早い、強い打ち合いで、二人は鉾をからみ合せたまま傍に放りなげ、焦立ったように組合った。これは、ルスタムの思う壺であった。
 彼は、ツランの若者がわざわざ馬から降りて出て来た時、何を目論んでいるか、すぐ感じた。そして、不快を覚えた。彼は、老獪な戦士らしく、ここで対手の心算を逆用することを企てたのだ。組んでしまうと、こっちのものだという安堵がルスタムに湧いた。彼は、引組んだまま、積極的にはちっとも攻撃をとらなかった。年寄の根強い支持に、若者は癇癪を起した。スーラーブは、一二度肩で、対手を誘うように押しかけて見た。然し、ルスタムは、心の平静を失わず、ゆるめもせず、さりとて力を増すでもなく、万力のように彼をしめつける。
 スーラーブは、対手が何処に勝めをかけているか、忽ち感付いた。彼は強て自分も気を鎮め、どうなってもかまわない、疲れないだけの消極的態度を守ろうとした。けれども、凝っと引組んでいるうちに、スーラーブの胸は燃えるようになって来た。云い難い嫌厭が敵に対して感じられて来た。この執念い、詭計に富んだ古戦士は、何処まで自分と目的の間に立とうとするのか。きのうの惨めらしい様子、憫《あわれ》っぽい涙なども、案外わざともくろんだことかもしれない。あのことで自分は昨夜どんなにフーマンと激論したか。眠れもしなかったのを此奴は知るまい。
 スーラーブは、我知らず、ぐいぐい対手にのしかかった。彼は、もう、邪魔な大石でも道傍からどけようとするような単純な熱中に駆られた。
 けれども彼が押しても引っぱっても、イランの老戦士は根でも生えたように動じない。焦立つな、焦立つな、という警告は、スーラーブの心の一方で絶えず繰返されている。彼ははっきりその必要を知っているのだが、対手が余り平然としていると、憤怒が湧き、我にもなく四肢をいきませてしまうのだ。
 スーラーブは、この勝負が、まるで、腕の争いより、一種心の組み打ちになったのを感じた。そう気がつくと、不意と冷静な気分が還って来た。スーラーブは、さりげなく素直に手脚の力を緩めた。それにつれ、対手もほんの僅か隙を作った。とっさに、スーラーブはそこにつけ入って腰をひねった。足がらみが利き、対手はきれいに倒れた。が、イランの戦士は、執念深く、彼の腕を掴んで離さない。スーラーブは、片手を引っぱられ、駆けるようにのめって、どっさり対手の上にかぶさってしまった。スーラーブは、はっきり自分の危険を感じた。彼は渾身の力を搾って、下になった敵の抱擁から体を引離そうとした。彼は、めちゃめちゃに脚で地面を蹴り、対手を蹴り、組合ったまま、ごろりごろりと転がった。
 ルスタムももう必死であった。彼は機会が二度と自分に来ないのを直覚した。今、この若者を放せば、彼の命が危い。猶予してはいられない。ルスタムは、両脚でしっかり対手に絡みつき逃れないように片手で喉を掴みながら、空いた片手を自分の腰に廻した。

        五十

 スーラーブがちょっとでも対手の顔から注意を他に向けられれば、下にいる敵の手が何に触ったか、容易に感じられただろう。そこは、ルスタムの老練に及ばなかった。ルスタムはそれをさけるため、鋭い、集注した眼でぐっと対手の心を自分の顔にあつめさせ、喉を攻撃して、自分の手を留守にさせたのであった。これ等の思慮は、恐ろしいほど明晰にルスタムの心で配られた。彼は蛇のようにそろりと短剣の柄を握った。そして鞘をぬくや否や、物を云わせず、下から対手の脇腹深く突刺した。
 スーラーブは、何ともいえぬ悲しげな呻きを洩した。彼は、言葉にいえない苦痛と一緒に、どっさり体が高い処から落ちたのを感じた。落ちるのをふせごうとして手をばたばたやった。劇しい刳《えぐ》る痛みが起り、眼が重く、見るものが見えないようになって来た。
 スーラーブは、瞬間、自分はどうなったのか見当のつかない恐怖に掴まれた。彼は、さっと蒼白くなった顔の中で、二つの光の失せた眼を瞠り、訝るように、傍に立っている、天につかえそうな背高い戦士を見上げた。急に、頭の中に前後の関係がはっきり写った。スーラーブは、絶望して唸った。
「自分は刺された。死ぬ。ああ、ああ、血が流れる。父に会わずに殺されたか。何もかも駄目だ」
 世界じゅうが、鈍い色の不愉快な塊になってずんずん彼方へ後じさって行くように感じた。非常に孤りぽっちという寂しさがスーラーブを苦しめた。心も体も大きな波のうねりにのって漂っているようだ。時々何かにぶつかるように疼《いた》みが彼の意識をはっきりさせたスーラーブは、大切な云うべきことがあるのを感じ、当もなく起き上ろうとしながら、
「ルスタム……ルスタム!」
と嗄がれた声で呼んだ。
 傍に立ち、義務を果した安心の後、沈んだ気持で瀕死の若者を瞰下していたルスタムは、どきりとして一歩足を踏み出した。同時にもう二度と若者が立てないほど、自分が刺したのだという意識が、罪のように厳かな感じを伴って彼の頭に閃いた。ルスタムは注意深くこごみかかって云った。
「ルスタムがどうした?」
 きのうも一昨日も、いざという時になると、この若者が自分の名を口にした記憶が、新な戦慄をルスタムに与えた。
「ああ、ああ……」
 若者は、涙の乾いた悲しい声を号泣するように永く引張って、体を動かした。熱い砂上に吸われて行く血の匂いが、ルスタムの鼻を刺した。彼れは、一層顔を近づけて訊きかえした。
「ルスタムがどうしたというのだ」
 若者は、ぼんやり開けて天の青空を映していた瞳をぐるりと動かし、犬のような罪のない、遠くを見る眼差でルスタムを見た。
「ああ。――ルスタム」
 若者は喘いで、むせた。
「ルスタムが、儂の讐を討ってくれる。イランのルスタムは――白い馬に――ああ会ったら云え……ルスタムはわが父だ。ここに、ここに、……」
 ルスタムは、倍にもなったように眼を見開き息をつめて起き上った。地面と輝く天とがぐらぐら目先で揺れて一緒くたになった。
 彼は、急に何処かを打たれたように、若者の上におっかぶさり、熱心に、早口にきいた。
「卿の名を云え。母は? 父は? 確りしろ。名は何というのだ」

        五十一

 スーラーブは、微かに、然し明瞭に「母は? 父は?」と自分の傍で呼んでいる声をききわけた。捕えどころのない優しい感情ののこりと、説明の必要を知る実際的な意識とが、ひくひくする小虫のように、彼の心で動いた。彼の色の変った唇に、微笑の引つれが、見わけのつかない表情が浮んだ。彼は、ゆるゆる囁いた。
「スーラーブ……ターミナ、サアンガンのターミナは母だ」
 俄に、ぱっと生命の最後の滴りが輝くように、スーラーブは、熱烈に云いつづけた。
「ああ、今死ぬものか? 死んでなるものか。行って云え、早く云え! ルスタムの息子が、父をたずねて来たのだと」
 ルスタムの躯は木の葉のように顫え出した。彼の顔は、死んで行くスーラーブの顔より蒼くなった。彼は、呻き、両手を天に投あげると、涙を流してスーラーブの頭を抱きかかえた。何と云おうにも言葉が出なかった。彼は、自分の運が、想像出来る最も惨虐な一幕の上を、静かに自若と通りすぎるのを感じた。これはあり得ないことだ。信じ難い凶悪な偶然だ。而も事実で、自分の殺した息子の頭を抱えて泣く憐れな愚な父は、この父、ルスタム以外の何者でもない。然し、何のために自分の息子は、こんな危険極まる機会を作って自分に会おうとしたのか。あの突拍子もなく思った虫の知らせに、何故もう少し信じ得る証がなかったか。今朝の、大らかな晴々した五色の虹の光彩が最も厭うべき薄情な明るさで心の裡に半円を描いた。ルスタムは、震える手でスーラーブの頭を膝に抱きあげ、顔を視守ったまま、大きな声で、
「ギーウ! ギーウ!」
と叫んだ。ギーウはすぐそこにいた。ギーウばかりではない。ツランとイランの全軍がついそこにいた。スーラーブの刺されたのを認めた両軍は、一方は悲傷の黒い波のように、一方は勝利の旗のように、中央めがけて突進して来た。が、突然、思いがけないルスタムの挙動が彼等の歩調をのろくさせ、やがて全く停止させた。彼等、数名の眼が、二人の戦士を遠巻きにし、戦いを忘れ、畏怖に打たれてじっと一点に注がれているのだ。ギーウは、のぞき込んで二人を見較べた。
「何事だ?」
 ルスタムは、訴えるように、汗と涙でよごれきった顔をあげた。
「見てくれ。最後の手柄に息子を殺した。――信じられないことが事実になった。すぐ王の処へ行って、血止薬を貰って来てくれ。チンディーの名薬がある筈だ。簡単に、速く!」
 ギーウが戻る迄、ルスタムは、傍の者を恐れさせた程真剣な、つきつめた一心に夢中になった様子でスーラーブの傷に手当をした。彼は、叱りつけて水をとりにやった。思うようにならない老年の、ぎごちない指を縺らせながら自分の帯を解いて傷を縛った。そして、絶間なく、スーラーブの開いている口に頬をつけて息のあるなしを確めた。二人の卒が、スーラーブの体の上に、彼等の上衣をひろげて持ち日除けを作った。
 ギーウの姿が目に入ると、ルスタムは、遠くにいるのに、
「どれ、どれ!」
と手を出した。
 ギーウはすまない顔をして首をふり叫んだ。
「――ない!」

        五十二

「どうして? 王の処にない筈はない。きのう、儂は袋を確かに見た」
「袋はある。あるのだが――」
 ギーウは、ルスタムの耳に囁いた。
「王は渡さない。ツラン方に卿の息子がいたなどということはない、というのだ」
「!」
 ルスタムは、拳を握って立上った。
「よし。儂が行って来る」
が、痙攣が起り出したスーラーブの姿を見ると、ルスタムは、砕けるようにギーウの手をつかみ、たのんだ。
「どうか見てやってくれ。すぐ来るが。――それから、万一訊いても儂の名はきかせてくれるな」
 ルスタムは、王の天幕まで、つきない砂漠でも横切るように永くはかどらなく感じた。天幕に入って見ると、王は至極落付かない風で、手を後に組み、寛衣の裾をけって彼方此方歩いている。彼は、ルスタムの入って来るのをじろりと流眄で見、歩きかけた廻りをつづけた。
 ルスタムは、辛うじて、定規の礼を行い、頭を擡げると同時に口を切った。
「王、唐突な願いですが、何卒御所持の、あの血どめの秘薬を、御恵み下さい。只今ギーウに願わせましたが、御理解なかったと見え、御仁慈にあずかり得ませんでした。早急に願わしいのです。何卒」
 カーウスは、ルスタムの真正面に立ちはだかり、灰色の冷やかな眼に疑深い色を煌めかせて云った。
「卿の推察は珍しく誤った。ギーウに薬を渡さなかったのは、理解しなかったからではない。最もよく、未来まで洞察したからだ」
「王! 後々の責任と感謝とは、このルスタムが余生の全部を捧げて尽します。お耳に入れたでしょうが、思いがけないことで、儂はいると知らなかった自分の息子は――儂の手で刺してしまった。儂自身のためなら、決して斯様な願いは敢てしませぬ。わが命は王のものです。然し、彼奴は生きのびさせてやりたい。儂の苦しみを、せめて王の秘薬にすがって癒せるなら癒させたい。後程、事情は詳細に申上げます。どうぞ、今は一粒、あの薬をおさき下さい」
 ルスタムは王の傍を通って天幕の奥の調度の方に行こうとした。
「こら!」
 カーウスは、手を延して遮った。
「卿自身の用なら、儂は袋全体もやる。ここに持っているが」
 彼独特の薄い微笑を頬に刻んだ。
「卿の息子という奴にはやれぬ。ツラン人を母に持ったらツラン人だ。また卿の血を受けたのが事実なら、定めし骨節のある頼もしい戦士だろう。――儂は、イランの勇将はいくらでも欲しいが、ツランにそれは望まない。儂は偶然が実に巧妙に退治してくれた猛獣に薬を与えて生きかえらせ、揚句の果に自分が噛殺されるのは望まぬ」
「王!」
 哀訴と怒声がルスタムの口を衝いて出そうになった。それを、彼は歯を喰いしばって堪えた。永年のことで、ルスタムはカーウスのひねくれが何処迄根づよいか、考えなおしたのであった。自分が一言喋る間にも、あの血を吸った砂の上でスーラーブの命が失われているという意識が、一方の希望を失うとともに、ルスタムを寸刻もそこにじっとさせて置かなかった。彼は、軽く頭を下げた。天幕を出ると、走って、馬に跨ろうとした。が、彼は悪いものを見た。
 スーラーブの傍についている筈であったギーウが、少数の卒を従えて、此方に向って来かかっていた。ギーウの頭は、深い哀悼を示すように胸に垂れていた。手にはルスタム自身がぬがせてやったスーラーブの鉄の兜が仰向けに捧持たれている。ルスタムは、手綱にかけた手をとめ、釘づけになったように眼を凝した。静かな、短い行列は、輝く主のない兜を守って、実にひっそりと、無限の空虚を運んで来るように感じた。
 ルスタムの、老いた顔は、急に引釣った。膝頭がまるで力を失った。
 彼は蹌踉《よろよろ》と! 馬の脇に靠れかかった。
 彼は、頻りに片手で額の汗を押し拭うようにしながら呟いた。
「よし、よし。わかった。――が、この父のルスタムは、讐をどう討てばよいのか……」



底本:「宮本百合子全集 第二巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第二巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「小樽新聞」
   1924(大正13)年1月14日〜3月9日号
※底本では、二度目に現れる「内房」についていたルビ「アンダルーン」を、初出につける形にあらためた。
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年1月24日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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