青空文庫アーカイブ

文学上の復古的提唱に対して
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)抑々《そもそも》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)中に|茶の湯《ティー・セレモニイ》という

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(例)いき[#「いき」に傍点]
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        一 古典摂取の態度

 この間、ある人に会ったら、こういう話が出た。どこかの宴会でその人が日蓮宗の坊さんに逢ったら、その坊さんが、この頃では私共も古事記なんかをよまないとものが云えないようになりました。五・一五頃の若い軍人は殆ど日蓮宗でしたが、近頃はああいう連中が誰も彼も古事記を読みますんで、ということであったそうだ。
 岩波文庫に古事記が出ていて、岩波さんに云わすと、あれは実は改版したいのだそうだ。余りよくないと出版社の良心から思っているのだそうだが、どういうわけか近頃はあれが出て、刷っても刷っても売り切れるので、と微妙な痛し痒しを経験しているらしい様子であるとも聞いた。
 今日文学の仕事にたずさわる者としてこれらの話をきくと、なかなか面白いものがある。
 文学の面ばかりにこういう復古的傾向が見られるのではなくて、音楽の方でも、例えばこの間ピアニストのケムプが来た時、最後の演奏会の日に即興曲を弾いて貰うこととなり、聴衆からテーマを求めた。そのとき出された日本音楽からのという条件つきのテーマは、雅楽からのハーモニイであった。
 今日の日本の文学の動きと密接なつながりをもって、古典研究が取上げられはじめたのは、特にこの二三年に目立って来た現象である。号令をかけて馬にのる人々も、文学的な感情をゆたかにして古事記や万葉集を読むとしたら、結構なことと云わざるを得ないのであるけれども、文化の全面を社会の現実の有様と照らしあわせて眺めると、理解はしかく皮相、単純なところに止まっておられないと思える。佐佐木信綱氏は、ああいう学派の歌人として万葉の専門家であり、研究著書、註解など権威ある労作がある。だが、それらの著作の完成した数年前は、今ほど万葉が一般に注目されていなかった。林房雄氏、小林秀雄氏等が万葉の精神などということは当時なかったのである。
 雑誌『コギト』による保田与重郎氏は近頃、以上の人々とは又違った陣立てを考案している。その陣の構えは何と云おうか。昨年二月の二十六日に東京駅前の大通りをずっとつき当りの広場の方へ通った通行人は、あちらを背にして、駅に向った方に前面を向けて整列している一団の兵を、余程後になってから、「今からでもおそくない」と云った方ではなくて云われた方の側であったことを知ったという噂をきいたことがある。
 文学の古典研究の陣立てに、こういう兵法のようなものを思い泛ばせるというのは、評論家である保田氏として誇るに足ることであるだろうか。
 二三年前、文学における古典の摂取が云われはじめた時分は、プロレタリア文学運動の退潮を余儀なくさせた社会事情が他面対立的な文学にも貧困の自覚を与えており、それに対して文芸復興が唱えられ、古典の摂取は、当時にあっては、現代の文学的発展のための一助として、教養として云われていたのであった。
 その頃に於ても、古典をどう今日の文学に摂取してゆくかという態度については当然二様の立場があった。その一つは古典が文学として発生した歴史性を立体的に咀嚼して、そこからの滋養分を摂取してゆこうとする発展的、批判的摂取の態度であり、他の一つは、それとは反対にどちらかと云うと外部的に、様式、文脈の応用を狙ったような古典のひもときかたをしてゆく態度であった。後者は、前方への進展の見とおしとその社会的なよりどころを見失った文学の懐古的態度として現れたのであったが、時代の急激なテムポは、微温的な懐古調を、昨今は、花見る人の長刀的こわもてのものにし、古典文学で今日の文学を黙せしめようとするが如き不自然な性格を付加して来ているのである。

        二 国文学のもつ地の利

 日本文学の古典が、今日の文学の現実的な進みを助ける力としてよりも、寧ろそれを制しとどめるような力として持ち出されて来ていることについて、一部の社会情勢がしからしめていることは勿論云うまでもない。真実の新しい希望や生活の見とおしを失った人間が過去だけを貴重なものとして自他に向ってその記憶をくりかえす事実を、私たちはまざまざと日常の実際の中で見ている。だが、今日国文学が文学研究の態度から見れば全く不健全な人為的隆盛めいた状態におかれ得る事情に、日本の諸文学研究の伝統中、従来国文学が最も弱い環の一つであったこと、そして、そこに向って今日文学外の力がかかって来ていることは特別な注目に価することではないかと思う。
 国文学の研究者というものは、これまで日本の文化の国際的な発達との関係では、独特な立場におかれていた。国文学者にとって必要な古文書、典籍などは、主として皇室の図書館や貴族の秘蔵にかかっており、常人にはそれを目で見ることさえ容易でない有様である。佐佐木信綱博士が万葉集の仕事を完成した時、些かでも専門の知識をもっている人々が歎賞した第一のことは、その文献の蒐集が十分にされている点についてであった。そして、異口同音に云った。これは社会的・学者的声望に欠くるところない佐佐木博士にしてはじめて可能なことであると。
 先ず文献に関するこういう伝統的、社会的制約がある上に、これまでの国文学をやる人は、多く国文学の内にとじこもり、而も、非常に趣向的に閉じこもっておった。やっとこの数年、国文学の研究に当時の社会的背景が研究されなければならぬこと、ヨーロッパ文学の研究方法としてつかわれている科学的な方法が或る程度まで適用されて来た。ドイツの文芸学の方法は、ずっとおくれて昨今国文学研究の領野に入って来たことは周知のとおりである。
 過去の国文学者は、自身の生活態度にも進歩的な意味での社会性を余り持たなかったため、例えば、保田与重郎氏が、先頃和泉式部論をかいて、藤岡博士の和泉式部観に反対し、結局は筆者自身、このよさが分らないものにこのよさは分らない、というような主観的な美文的叙述をしていても、恐らく本当の国文学の研究者と云われている人は、それに対してペンを執ることなど思いもしていないであろう。国文学研究の正道に立って、古典が文学外の力に利用されることに疑義を挾むぐらい、真に気魄をもって国文学を研究する人は尠い。明治以来今日迄のヨーロッパ文学研究の盛んなのとその影響力に対して、或る種の国文学研究者は、自身の態度として、反動である可能さえ含まれているのである。
 今日の一般市民の生活感情と古典の感情とが、ぴったりそのまま同じであろう筈はないのであるから、全体として見れば、市民的常識の中に古典の知識は乏しいと云える。
 佐藤春夫氏のような作家が、「もののあわれ」について云々したりすると、そこに一応読者が生じるのは、古典文学の主潮としての「もののあわれ」そのものが知りたいというより、佐藤春夫氏という現代の作家に対する予備知識なり親しさなりで、そのとりあげた問題に一時たりとも目をとられるのである。批判をする準備は知識そのものとして弱いのであるから、受動的に読まざるを得ない。右の事実を綜合して見ると、今日、国文学の古典について云々することは、読者大衆の側からの鋭い視線にそなえる用意も比較的なくてすむし、本当の国文学研究者たちの、大衆的場面への批判的進出の懸念もさし当りはないという、一種異様な地の利を占めた安全地帯に身をよせる仕儀となるのである。林房雄氏等が、抽象的情熱としての万葉精神、王朝精神などと敢て云い得る根拠は全くこういう事情にあるのである。

        三 例えば「さび」について

 近頃は一方に万葉、王朝時代の精神ということが特殊な根拠の上に云われているけれども、現実に今日の日本人の生活感情の内部にものこっていて、美的感覚などの裡にマンネリズムとして余韻をひいているものは寧ろそれ以後の、「さび」とか「粋」とかの要素である。現代の文学者の或る人々の中には文人気質が様々に捩れ、弱小なものとなって未だのこっており、そういう人々の間では「さび」が猶芸術価値として存在している。詩人の堀口大学氏などを眺めると、フランス近代詩人の粋の感覚を、日本の粋とそのデカダンスの面でつきまぜて感じていることを、自身の地理的・歴史的特質と自覚しておられるようにさえ見える。
 九鬼周造氏に『いきの構造』という本がある。日本の芸術の伝統における粋の諸要素を、幾何学風な図解まで添えて説明しようと試みられているのであるが、その科学的分析の努力を氏自身が結論において謂わば自ら放棄しているところは興味がある。我から粋を味到した者としての自覚から氏は粋の研究に志したらしく見える。そして様々の方面から粋なるものをうち眺め、遂に、この粋というものこそ味到されるべきものであってヨーロッパ風の分析、綜合のみでは不可解なところに日本的な特質があると云っている。仔細に読むと、氏が粋の発生の社会的根拠として見ている要素の分析においても、若干の誤りがなくもない。九鬼氏は、粋の要素の一つである意気張りというものを、武士の伝統が町人階級の感情と溶け合った如く観ていられるが、それは事の実際ではなかろう。意気地こそは、封建社会の庶民が寧ろ武士の強権に反撥して胸底深く抱いた感情である。横光利一氏など、義理人情至上性を昨今強調されるようであるが、日本固有の人情というものの中には、そういう意気地という、些かは颯爽たる分子もなくはないのである。
「さび」というものが、日本芸術の一つの大きい価値とされて来ているということに対して、アメリカ生れの日本青年はなかなかその内容を会得し難い。或る席で、「さび」の話が出た時、第二世である青年は、単純に、「さび」などという趣好は、西洋文明に比して日本の文明が貧困の文明であることの証拠にしかすぎない。竹の柱、茅の屋根など、日本が貧しいために伝統づけられた美的認識であると云った。居合わせた人々は、不愉快な面持で、精神的な問題だよ、と云った。東洋精神独特の美の感覚なのだから、とつよい語調で云った。それだけでは、益々理解が混雑する様子であった。封建時代の日本人がその社会生活から慣習づけられていた感情抑制の必要、美の内攻性及び日本の建築、家具什器の材料に木、紙、竹、土類を主要品とした過去の日本の風土的特徴等が、「さび」を語った場合とりあげられなければならないであろう。
 仏教の思想、剣道の勘、いろいろなものが「さび」という感覚をつくりなしていたのであろうが、社会生活が変化している今日では、抑々《そもそも》その「さび」を主とする茶道が、関西にしても関東にしても大ブルジョアの間にだけ、嗜好されているという現実である。骨董で儲けるには茶器を扱って大金持の出入りとならなければ望みはない。今日日本の芸術の特徴とされている「さび」は常人の日暮しの中からは夙《つと》に蒸発してしまっていて、僅にその蒸溜のような性質のものが、茶会も或る意味でのコンツェルンであるブルジョアの間に、骨董屋を挾んで残存している。外国人に見せるものの中に|茶の湯《ティー・セレモニイ》という項は必ずある。果してそれを今日の日本の一般的な日常生活の姿として云い得るであろうか。鉄飢饉の記事は新聞に目立っているのであるが、その飢饉によって巨利を占める人々が、茶席に坐って、鉄を生まぬ日本の風土が発生させた「さび」を賞玩するのを、愛する日本の伝統は、今日の風雅と称するのである。

        四 今日の勘

 芸術諸般の極意に達する心理的、生理的な過程を、日本人は勘という表現であらわして来た。ある程度までは説明がつく、それから先は勘でのみ会得されるものだ、そこにその道の極意は秘せられている。そういう意味でつかわれ、作家の勘ということは、科学的・理論的批評を否定し得る力のように、或る場合では今日に於ても、相当絶対的な云い方でつかわれている。勘という言葉は、いき[#「いき」に傍点]やさび[#「さび」に傍点]より遙かに用途も広汎で、現代の日常性に富んでいるのである。
 ごく日本的な、この勘というものは、どんな歴史のいきさつの中から今日に伝わっているのだろう。由来、剣道、能楽などの秘伝は、最後は直感、綜合的なこの勘で、悟入し得る手がかりを様々の抽象的な云いまわしや象徴的な比喩で書きあらわしたものと思える。ところで、剣道の流派というものも、能楽も昔は一子相伝的で、特に刀鍛冶など、急所である湯加減を見ようと手など入れればその手を斬り落される程のものであったと云われている。歴史が今日の私達に教えているところに従えば、最も封建的な形でのギルドが、一つの職業における親方と弟子との関係の中に生んだものが、勘の土台をなしているのである。それは当然当時の製作工程の未熟、原始性をも語っている。
 文学創作の過程は複雑で、個性的であるけれども、主観的に所謂たたき込んだ勘にたよるばかりで、作家が常に必ずしも現実の核心にふれて描き得るかどうかということには大きい疑問があると思う。
 勘は天来のものではなくて、人間の努力、反復、鍛錬の結果が蓄積して、複合的な直覚が特定の範囲で発動し、肉体の動きまでを支配する、そういう意志的な要素を底流とした心理であるから、勘の内容は、反復され、努力されることの質に応じて具体的に相異があるし、変化もする。全く伝統的な勘という表現でさえ、抽象的にはあり得ないのである。例えば平山蘆江氏が自身の境地のなかで身につけている勘、それとは違うであろう菊池寛氏の勘。更に小林多喜二が持っていた勘は、前者が二様であっても大別一系列の中に包括し得る性質であるに反して、その本質を異にしていた。これは、誰にとっても極めて理解しやすい実例であると思う。
 今日ほど、文学の動揺が甚しかったことはなかった。文学に思想性を求める声は、どんなに今日の文学が思想を喪失し、剥奪された事情におかれているかを、あますところなく語っている。思想的な規準は失われたと一応思い込まれ、自身にそう云いきかせることによって、今日の人間の知性や良心に加えられている重圧に対する溌剌とした対抗力の眠りをさますのをおそれている形である。そして、多くの作家たちは、益々多くの人間的又は作家的な勘にたよってものを云うことが殖えている。自分の勘に対する自信の弱さ強さが、押しのつよさ弱さにかかって来て、ひいては、云う声の高さ低さにまで及んでいるようでさえある。
 然し、ここには沢山の危険がある。現代は、自分の持っている勘と自覚されるものを、客観的に、歴史性の上にとり出して調べて見ようとする、その必要に心付く勘というものが、より重大な人間的役割をもっているのではなかろうか。保田氏は明かに自身の勘にたよって、昨今の諸文章を執筆しておられるのであろう。が、今日の現実の日本には、その勘の働き工合に、ピンと来る別種の勘が、根強く存在しているのである。勘の新たなる素質が黙々と蓄積されつつあるのである。
[#地付き]〔一九三七年三月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「都新聞」
   1937(昭和12)年3月8〜11日号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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