青空文庫アーカイブ

父の手紙
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)火屋《ほや》

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(例)[#地付き]〔一九四一年四月〕
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 ユリチャン、コレガオトーサマノ、ノッテイルフネデス。
 片仮名でそういう文句をかいた欧州航路の船のエハガキが、五つの私へ父からおくられて来た。父はイギリスへ行くところで、まだ字の読めなかった娘へも最初のたよりを、そのようにして書いてよこしたのであった。
 灯がその火屋《ほや》の中にともるとキラキラと光るニッケル唐草の円いランプがあって、母は留守の父のテーブルの上にそのランプを明々とつけ、その上で雁皮紙を詠草のよう横に折った上へ、細筆でよく手紙を書いた。白い西洋封筒は軽い薄い雁皮の紙ながら、ふっくりと厚くて、その一封の便りが印度洋を越えてロンドンまで行くということが、母には判っているような心許ないような気がしたのだろう。いつも封じめには封蝋の代りに赤だの青だののレースのような円い封印紙が貼りつけられた。小さい私は、そのテーブルのわきに立って、やがてオトーサマと紙からあふれるような字を書くことを習った。あとにはいつもつづけて、ハヤクオカエリナサイ、と書いた覚えがある。いま思えば、それは五つの娘の心の願いというばかりではなかったであろう。
 足かけ五年の旅行の間、父はどっさりいろんなエハガキによく筆まめに娘へのたよりをくれた。白いふーわりとした服をつけた女の児が、頭に春の花の輪飾りをのせて、嬉しそうにリンゴでお手玉をとっている絵ハガキに、お手玉うたのようなものを書いてくれたのもあった。二羽の鵞鳥の絵物語の本に、一つ一つ口調のいい翻訳をつけて、オヤマアこれは鵞鳥さん、ミミズをくわえて引っぱりっこ、というような文章のついた絵本を送ってくれたりした。その絵本の一頁に、二羽の鵞鳥が久しぶりに会って大喜びのあまり、互に頸を巻きつけあっている絵があった。そのわきにも父が、ほんとにうれしいぐわっ、ぐわっ、ぐわっ、というような文句をかいてくれたのであったが、それを見た母はなぜだかいやな顔をして、墨をふくませた筆でその文句の上へ太い棒をひいて消してしまった。驚いた悲しい心持で小さい娘だった私は、その怪我したような絵本をくりかえしくりかえし眺めた。母のそんな気持も今になってみれば何か察しられるところがなくもない。頸をからめあうというような表現や、それに愉しそうな文句を添え書きしている若い父の、見えない外国暮しの日常に向って、その頃は三十にもなっていなかった母の、やや窮屈で昔風な、しかも本来は情熱的な感覚は敏感にとがれていたのであったろう。
 父の性質、そして母の性質のちがいや、そこから醸された全生涯の、睦しくてしかしなかなかむずかしかったいきさつの片鱗が、こんなことにも本質的なものを閃かせているのである。
 私が大きくなってからの父は、随分あちこちに出張の旅行をしたが、筆まめとはいえなくて、母あての手紙も大抵は箇条がきのように用件をかいたのが多くなった。それでもそのあとさきには、よく眠れますかとか、よく眠るようにとか、とかく健康の勝れなかった母への心くばりが添えられてあった。
 二十一ぐらいの時から、私は父たちの暮しと別になったのであったが、それから永別するまでの十数年間に貰った手紙の数は決して多くなかった。手紙をかくのは母の役のような工合で、それらの手紙は余り流達雄弁であるため、様々の思いをもって生きている娘の心は、却っていちいち手紙なんか書かないでいる父、手紙なんかを書かないで娘の生活の推移を包括している父の方を近く思うところもあった。
 昭和三年の八月一日に、二番目の弟が自分から二十一歳で生命を絶った。そのとき私はモスクワにいた。モスクワからレーニングラードへ行って、郊外の「子供の村」と呼ばれる昔の離宮のある公園町の下宿に暮していて、その報知の電報をうけとった。
 あとからその前後の模様を書いた手紙が来たが、それは父が書いた手紙であった。丁度そのころの日本の若い精神がその青春の嵐とともに直面していた歴史的な波瀾だの、そのことと弟の内生活の相剋だのの点には、余りふれられていなかったが、愛する息子を喪ったもう若くない父親が、八月の蒸し暑い雨の夜、その雨のしずくに汗と涙を交えて頬に流しつつ、湿ってとかく停ってしまう扇風機をもって土蔵の半地下室に向う低い窓から、必死に新しい空気を息子のために送ろうと努めた状況は、その手紙に生々しく描かれていて、遙な土地と新しい社会の空気の中にあって、それを読む娘を震撼させた。涙をふいては読み、読んでは涙をふいた。その手紙の終りには、父がその打撃に雄々しく耐えようとしているとおり、百合子も悲しみに耐えようとしているのは結構であるし、このことのために帰国しようとしないのももっともだと思うと、書かれていた。
 私は可愛い一人の弟がそういう風に生れ合せた時代と、自分の命とを扱ったのなら、その弟への愛と悲しみのためにも、または父の悲痛への尊敬のためにも、自分は積極的に生の方向を充実させようと願ったのであった。
 それから後、私のことについて、しばしば父が経験した心痛や悲喜について書かれた手紙というものは一通もない。
 父がそれほどとも思われなかった病いで、急に亡くなる前後、私はその側にいることの出来ない事情におかれていた。今から五年前のことで、東京が稀有な大雪に覆われた年の出来ごとである。父がその病床についてから会えない娘の私にあてて書いたのは、一つの英語の詩であった。そこには、娘が年を重ね生活の経験を深めるにつれて、いよいよ思いやりをふかめずにいられなくなるような、若々しくしかも老年の思慮にみちた父のある情感、感懐が花や森や猟人に象徴して語られているのである。
[#地付き]〔一九四一年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第十七巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年3月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十五巻」河出書房
   1953(昭和28)年1月発行
初出:「婦人朝日」
   1941(昭和16)年4月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月15日作成
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