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今日の文学の展望
宮本百合子

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(例)その頃|流行《はや》った

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(例)その頃|流行《はや》った

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(例)文壇的※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ァキウム
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        過去への瞥見

 今日の日本文学のありようは、極めて複雑である。そのいりくんだ縦横のいきさつを明瞭に理解するために、私たちは一応過去にさかのぼって、この三四年来日本の文学が経て来た道のあらましを顧みることが便利であろうと思う。
 既に知られているとおり、日本の一般的な社会情勢は昭和六年の秋、満州事変というものが起ってから万般非常に急速な変化を生じた。過去十年に亙って日本の民衆生活の歴史に深い意義をもって来た組織は根本的にこわれたし、プロレタリア文学運動も、昭和八年末には運動としてまとまった形態での活動力を喪ったのである。
 左翼の歴史が何故そのように急な興隆と急な退潮とを余儀なくされているかということについて、詳細にここで触れる必要のないことであろうと思うが、これ等の重大な歴史の相貌は悉く、日本がヨーロッパよりおくれて、而も独自な事情のもとに近代社会として発展して来たという特別な条件に原因をおいている。プロレタリア文学の理論、創作方法の問題などが、若干直訳的であったことや、例えば弁証法的創作方法という提案の中には、世界観と創作方法との二つの問題が混同し同時的に提出されていたために、創作の現実にあたって作家を或る困惑に導いたような事実は、当時にあっては日本のプロレタリア文学の段階としてやむを得ぬことであった。同時に、それが当時の世界的なレベルでの到達点でもあったのである。
 ところが、日々に進み拓けてゆく社会生活の全事情とそれにつれて、より周密に探求されてゆく文学理論の進歩につれて、日本以外の国では、これまで機械的な傾きで哲学と文学とが結びあわされていた創作方法の課題も飛躍的に発展した。創作方法における社会主義的リアリズムの提唱は、世界文学史の上に意味深い一時期を画したのであった。
 社会主義的リアリズムが提唱されはじめたのは一九三二年であって、ソヴェト同盟では第一次の五ヵ年計画が終った社会を土台としており、日本では小林多喜二がこの翌年の二月に生命を失い、実に進歩的文化の全面に破壊的な困難が押しかかって来ている時であった。この事情の相異が、文学上のリアリズムの理解を日本においては様々に紛糾せしめる結果になった。プロレタリア文学団体が、過去の創作方法の弱点を理論的に客観的に究明する時間的ゆとり、人的条件を刻々失いつつある一方、各プロレタリア作家の日常的自由は激しく脅かされはじめていたので、新たな社会主義的リアリズムの提案は、それが他の国々で摂取され展開されたような過去の健全な進展としてよりも、日本では寧ろプロレタリア文学における小市民的要素のあるがままの状態での認容、インテリゲンツィアの技術上の優越というものの抽象的な再評価の要求によって歪んで受けいれられた。プロレタリア文学の分野にあった人々の或る部分は、新たなリアリズムの便宜的註解に拠って、従来のプロレタリア文学運動と対立し、その頃|流行《はや》った政治的偏向という言葉で批判しはじめたのである。
 この時期に林房雄氏が出獄した。プロレタリア文学の仕事ではその誕生の時代から活動していた林氏は、出獄後、一つの大きい文壇的※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]ァキウムとなって、内外の事情の錯綜と微妙な日常感情、作家的志望の感情にからんでよりどころを見失ったような状態にあった旧プロレタリア作家を吸いあつめ、文芸復興の叫びをあげた。林氏は、第三者から見れば自身もその成生にはあずかっていたことを見忘れ得ないプロレタリア文学の存在を、否定しはじめた。プロレタリア文学がその本質としてもっている現実の認識、芸術評価の問題等を蹴ちらして、作家は何でも作品さえ書いておればいいのだ。書きたいように、書きたいものを、さあ書いた、書いた! という勢であった。このことは、多数の作家に気分的につよく影響した。過去の文学運動のプラスとマイナスとに対する慎重な反省から目を逸らさせ、真面目な再吟味の根気を失わせられたことは、それらの作家たちが過去において率直に傾け示した自身の努力、人間的善意の価値に自信を失わせる結果となり、従って、プロレタリア文学運動の高揚と退潮とに至る多岐な数年間の経験から、将来の作家的成長のために学びとるべき貴重な多くのものを、却って一種の自嘲、軽蔑をもってやりすごした憾《うら》みがあったのである。
 昭和七年(一九三二年)の春以来、執筆の自由を失っていた何人かの作家たちがこのころ追々過去の生活を題材として作品を発表しはじめた。村山知義氏の「白夜」その他代表的な作品があった。転向文学という独特な通称がおこったほど、当時は過去を描いた作品がプロレタリア作家によって発表されたのであったが、その一貫した特徴は、文化運動を通じての活動によって法律の制裁をも受けた当事者たちの箇人的な意味での自己曝露であり、良心の苦悩の告白であった。俺の本性はざっとこのようなものだ。実はこういう穢い、弱い、くだらないものももっているのだ。俺の良心は苦しんでいる。そういうような立場、色調でプロレタリア文化・文学運動への参加と敗北との経験が作品化された。そして、こういう作家の態度は、当時の気流によって、その作家たちの正直さ、人間らしさ、詐《いつわ》りなさの発露という風にうけとられ、評価されたのである。
 日本におけるプロレタリア文化・文学運動の全体関係においての敗北の時期にあたって、当時の多くのプロレタリア文学者たちが自分たちの経験を箇人的にのみみて、客観的に大衆の負うている歴史の特殊性と日本インテリゲンツィアの動向との関係として自身の敗北をも追求し、芸術化そうとするところまで腰が据っていなかったことは、今日の文学を語る上にも決して見逃すことの出来ない重大な点である。
 過去の若かった左翼の運動の日本的特徴の一つとしてあげられる素朴な英雄主義・公式主義と云われたものを発生させていた社会的原因そのものが、敗北に際しては裏がえしとなって現われた。一定のイデオロギーに対する人間的弱さ、箇性の再発見、インテリゲンツィア・小市民としての出生への再帰の欲望などが内的対立として分裂の形で作品にあらわれ、傷いた階級的良心の敏感さは、嘗てその良心の故に公式的であったものが今や自虐的な方向への拍車となりはじめた。
 この現象と一方に囂々《ごうごう》たる響を立てている文芸復興の声とは互に混りあい、絡まりあって、社会性を抹殺した文学熱、箇人化された才能の競争で一般的人間を描かんとする熱を高めたのであった。
 ここで注目をひくことは、プロレタリア文学運動の退潮を余儀なくした社会事情は、同時に所謂《いわゆる》純文学の作家たちの成長してゆく条件をも貧弱化せしめたことである。
 プロレタリア文学の否定することの出来ない意義の一つは、社会的現実の必然につれて、文学価値の内容として社会性を正面に押し出したことにある。プロレタリア文学運動の後退は、とりも直さず日本の全住民の思想的自由の限界の縮小である。過去数年間、新しき文学と作家の社会性拡大のために先頭に立っていたプロレタリア作家たちが、続々とあとへすさって来て、林氏のように自身の文学の本質を我から切々と抹殺し、或は西鶴を見直して、散文精神を唱え出した武田麟太郎氏のように一般人間性、性格、現実の文学的反映を云々するようになったことは、一見、これまでプロレタリア作家と純文学作家との間にあった摩擦を緩和し、文芸復興という懸声の下に参集せしめたようであって、実は、益々文芸復興なるものの空虚さを明らかにするに過ぎなかった。
 文芸復興の声は大きいが、文芸を復興せしめるに足るほどの作品は容易に生れて来ない。その困難を切りひらくための具体的な第一歩として、古典の再評価、作家の教養ということが続いて云われはじめた。トルストイ、ドストイェフスキー、特にこれまで日本に十分紹介されていなかったバルザック、スタンダール等の作品は流行となって翻訳、出版された。なかでもバルザックは特にもてはやされた。何故ならマルクスがバルザックの作品を評したなかで、バルザックが政治的には王党派であったにもかかわらず彼の文学におけるリアリズムの力は、どんな経済学の本よりも当時のフランスの社会相とプロレタリアートの未来を描破しているという意味の言葉を云っている。一部の作家たちには、その一事が、作家が見たままを描きさえすればそれはおのずから歴史を反映し、文学はそのものとして常に進歩的であるという彼等の新しいリアリズムの解釈法を便利に正当化しているように思われ、斯くは、バルザックに還れ、ということが云われたのであった。
 だが、バルザックの生きた時代と日本の一九三三年、四年という時代との間には、再びかえすことの出来ない八十年間の世界の歴史が横《よこた》わっている。古典を現代の滋養とするために何より大事なのは、より広くより深く歴史の動向に沿うて、社会生活の足あととしての古典を含味・批判・摂取することである。バルザックに還れと叫ぶ人々が、バルザックへ戻る前に既にそれをかみこなす自分らの歯を我から不要のものとして抜きすて去っているとしたら、そもそも何の規準によってこの一箇の巨大な古典を摂取し得るであろう。畢竟バルザックは当時一風潮としてきざしはじめた人生批判なき市井生活の風俗小説の傾向によって読まれたにすぎず、ドストイェフスキーは不幸な再登場によって文学そのものの発展を混乱させている心理主義の趣好者を満足させたに過ぎなかった。
 この期間、明治文学の代表的作家及びその諸作が研究の対象としてとりあげられたことは、一つのプラスであった。尾崎紅葉、森鴎外、二葉亭四迷、夏目漱石等の作家が見なおされたのであるが、ここでも亦逢着する事実は、明治日本のインテリゲンツィアの呼吸した空気は、昭和九年の社会と文壇とに漲ってインテリゲンツィアを押しつつんでいる気体とは全く異っていたという発見である。
 過去の文学はもはやそれなりで今日の救命袋とはなり得ない。しかも、今日を明日へ押しすすめるべき未熟な、酸苦くはあるがそれが核であることだけは確であった世界観のよりどころを、自分の手で文学から追放してしまった人々は、自嘲的になった自己の内部に十九世紀のリアリストたちの情熱すら抱き得ない有様である。
 不安の文学という霧がこの渾沌から湧き上った。時代の知性の特色は帰趨を失った知識人の不安であるとされ、不安を語らざる文学、混迷と否定と懐疑の色を漉して現実を見ない文学は、時代の精神に鈍感な馬鹿者か公式主義者の文学という風になった。そして、この不安の文学の主唱者たちは、不安をその解決の方向にむかって努力しようとする文学において唱えず、従来人々の耳目に遠かったシェストフなどを引き出して、不安の裡に不安を唱えて低徊することをポーズとしたのであった。
 河上徹太郎、小林秀雄諸氏によって、その伝記が余り詳らかでないシェストフは日本文壇に渡来させられた。シェストフはキエフ生れのロシア人で一九一七年にロシアからフランスへ亡命した評論家である。『ドストイェフスキーとニイチェ』そのほか六巻の著作をもった男だそうである。元来シェストフの不安と云われるものは理性への執拗な抗議、すべて自明とされるものに対する絶望的な否定に立って、現実に怒り、自由に真摯な探求を欲することを彼の虚無の思想の色どりとしているのであるから、不安を脱出しようという精神発展の要因は含まれていない。
 紹介者諸氏の驥尾《きび》に附して当時シェストフと不安の文学という流行語を口にしない文学愛好者はないようであったが、遂にこの流行は不安に関する修辞学に終った。そして、文学の実際は他の一方で皮肉な容貌を呈して動いた。
 明治文学の再評価の機運があることや、不安の呼び声の裡に方向を失っている若手のスランプが刺戟となったりして、自然主義以来の老作家たちが、それぞれ手練の作品をひっさげ、数年の沈黙を破って再び出場して来たことである。島崎藤村は明治文学の記念碑的な作品「夜明け前」後篇を中央公論に連載しつつあった。永井荷風は往年の花柳小説を女給生活の描写にうつした「ひかげの花」をもって、谷崎潤一郎は「春琴抄」を、徳田秋声、上司小剣等の作家も久しぶりにそれぞれその人らしい作品を示した。そして当時「ひかげの花」に対して与えられた批評の性質こそ、多くの作家が陥っていた人生的態度並びに文学作品評価についての拠りどころなさ、無気力、焦慮を如実に反映したものであった。
 正宗白鳥が、「ひかげの花」を荷風の芸術境地としてそれなりに認め、「人生の落伍者の生活にもそれ相応の生存の楽しみが微にでもあることを自ら示している」ところの、人間の希望を描いた作品であると評したのは、白鳥の日頃からの人生観のしからしめるところと理解される。だが、盛にシェストフを云々し、不安を云々する人々、及び、文学の社会性を重大に視る立場にある人々の多数までが、この「ひかげの花」については、作者荷風の抱いている今日の人生への態度にまで触れて批評するのを野暮として、荷風の芸のうまさ[#「芸のうまさ」に傍点]、たたきこんだ芸が物をいうところを、無条件に買うべしという点に一致したことは、確に特徴的であった。
 知性の時代的な不安を云々する人々が、人間精神から鋭い不安をぬき去った荷風の芸術によって一層自分たちの不安を激しくされ、深められず、却ってうまさ[#「うまさ」に傍点]にすがって、職人的な作家の腕、文章道への関心の方向へと若い一部を流しやったことは注目に価する。荷風の人情本より歴史の上ではもっと古い句読点のない文章をもって「春琴抄」を書いた谷崎潤一郎は、大谷崎の名をもって呼ばれ、彼の文章読本が広くうり出された。しかし、その谷崎自身が、芸術家としての老いの自覚として、自分も年をとった故か昔のように客観描写の小説などを書くのが近頃面倒くさくなったと云っていることを、日本文学と作家生活とへの意味深い警告として心に聴き止めた人々は果して幾何あったであろうか。
 不安の文学の瀰漫した呼声、それに絡んで作家の教養とか文章道とかが末技的に云われている一面、その頃の合言葉として更に一つの響があった。人生と文学とにおける高邁な精神という標語である。「高邁なる精神」は横光利一氏とその作品「紋章」をとり囲む一帯から生じた。高邁にして自由な精神とは「自分の感情と思想とを独立させて冷然と眺めることの出来る闊達自在な精神」であるとして横光氏によって提出されたのである。青野季吉氏は「紋章」にすっかり「圧迫され」横光氏の「自由の精華」に讚辞を惜しまれなかったのであるが、横光氏のこの「高邁」の発明も、その傍観性、非動性、負かされづめで結局勝ったのだという主観的な独善性等に引き下げられて、本質には春山行夫氏が評した次の言葉がふさわしい種類の身ぶりであった。「横光の自我は現実を截断する力がないから未完成である」と。普通の言葉でこれを云うと、横光氏の生活、思想態度は頭の中でだけ描かれ組立てられていて、現実の矛盾にとり組む芸術的リアリティーをもっていないから未しであるという意味なのである。
 かかる有様で、プロレタリア文学運動の退潮後、文学論議は混迷しつづけて益々思弁の瑣末末技の穿鑿《せんさく》に走った。昭和九年の春創刊された『文学界』はこれらの夥しい合言葉の噴泉の如き観を呈し、河上、小林、保田与重郎の諸氏の歴史の方向からはなれた文学の「人間化」「良心」「真理」「真実」論が、蔓延した。
 この混乱と没規準とが頂点に達した一九三四年後半、上述のような混迷した芸術至上主義、人間的文学論に飽き足りない一団の批評家、作家によって、一つの文学的気運が醸し出された。舟橋聖一、豊田三郎、小松清等の諸氏によって提唱されはじめた「行動主義文学」の理論である。
 雑誌『行動』も発刊され、「行動主義」文学の提唱者は、「不安の文学」という合言葉の代りに、生活と文学とにおける「能動精神」の主張を以て現れたのである。
 煩瑣、無気力であった文学の袋小路は、やっと広く活々とした大路へ通じる一つの門を見出したかのようであったが、ここにも亦、複雑な日本の情勢は複雑な文学の諸問題を露出した。由来、舟橋氏等によって提唱されはじめた能動精神、行動主義文学という言葉は、当時フランス文壇の一部、主として新フランス評論(N・R・F誌)による人々ラモン・フェルナンデス、アンドレ・マルロオ等によって唱えられていた「行動のヒューマニズム」を小松清氏の訳語に従って適用したものである。
 ヨーロッパ大戦後の文学を支配していた心理分析、潜在意識の生活を追究する唯心的な文学は、一九二九年のヨーロッパの大恐慌とその社会事情の変化によって別な人間生活の総体において表現しようと欲する文学運動に道を拓いた。一九三〇年頃からアメリカに於て新しきヒューマニズムの問題に関する最初の烽火がアーヴィング、バビット、ポオル等によってあげられた。フェルナンデスはその運動の影響をも受け、「行動のヒューマニズム」という標語を「言葉のデリケエトなニュアンスの上に」うち立てたのであった。
 フェルナンデスの云う「行動は人間の社会性を意味し、ヒューマニズムは個人の完成を意味する。」小松清氏の「行動主義理論」は更にフランスの行動主義文学の特殊な地位について左のように説明した。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
(A)行動主義は行動的瞬間における原始性と純粋性に重要な価値を見る。従ってその瞬間における統一性は直覚的な速度に感受されなければならない。即ち表現の上に叙述的な冗長は斥けられ、単純化はその必然的な方法となる。文学的行動主義が、造型芸術における野獣派、ピュリズム、プリミチヴィズム、シムルタニズム、表現主義或いは超現実主義の表現方法に多くの近似を見出すのはその故である。
(B)行動主義は創造的制作の上に立つものであるが故に、恒に制作がなさるる時代、もっと切実に云えばその瞬間が唯一の機会となり、第一条件となり、足場となる。そうしてこの一点にこそ大きな意欲の集中がある。
 (失うこと、発見にあとを譲るために失うこと……アポリネエル)
 かかるが故に、行動主義は間断なき前への飛躍の意味に於いて、あらゆるモダアニズムとモラルを同じくする。
(C)ヒューマニズムのモラルの上に立つ行動主義は、必然、個人主義である。しかしこの個人主義はエゴ中心的な※[#始め二重括弧、1-2-54]満足した自我※[#終わり二重括弧、1-2-55]のブルジョワ個人主義ではない。この個人主義は※[#始め二重括弧、1-2-54]自我の発展※[#終わり二重括弧、1-2-55]の希願の上に立ち、※[#始め二重括弧、1-2-54]モニュメンタルな我※[#終わり二重括弧、1-2-55]※[#始め二重括弧、1-2-54]コスミックな我※[#終わり二重括弧、1-2-55]としての自我意識をもつものである。
 換言すれば行動的ヒューマニズムにおける個人主義は十七世紀ヒューマニズムの個人主義の近代的延長ではなく、少くとも革命と機械を知り、それに掣肘を受けた多分の社会的若くは全体的組織の意識をもった個人主義である。つまり孤立的な静的な自我の意識でなく、全体的綜合のうちに自らを意識し、全体的環境の発展とともに自我を新しく構成し創造して行くことを希う相関的、能動的自我の意識である。が故に文学的行動主義は必然、多分の社会性をもち、また革命主義的立場をとる。
(D)フェルナンデスが智能を空間的なものの訓練に規定するように、行動主義は人間性の原始性(例えばエロチズム)と近代文化の物質力に自らを訓練する。即ち行動主義は肉体と機械の発見によって、それらに作用されかつ反作用する個人の感性、智性、意欲の方向と状態を表現することによって近代的人性を啓示する。
[#ここで字下げ終わり]
 小松清氏は、この行動主義文学の理論が多分にニイチェ的なものを含んでいることを承認している。即ち、横光利一、小林秀雄、河上徹太郎、阿部氏その他日本の新興芸術派の人々が、この年月「高邁なる精神」と日本語に表現して身につけて来た生活と思想との核心的ポーズは、そのまま「行動主義」のニイチェ的なるものとしてあらわされている。更にフェルナンデスは、左右両翼のいずれへ作家が思想的立場を決定することも、歴史と思想の現状になんら照応しない観念、あるいは感じ方の最後的な表現としている。或る種の作家は孤独にあってなし得る時代に対する道徳上の確言があることを強調しているのである。
 世界文学の視野にヒューマニズムの問題が現れたのは一九三〇年からであった。然し一九三四年という年は二月のパリ騒擾事件(スタビスキー事件)におけるファシストの狂暴を契機として、フランス思想界に、左右の対立が歴然表面化した時であった。反ファシズム団体が政治的に結合したばかりでなく、文化を擁護するためにフランスの思想家、作家が反ファシスト行動委員会を組織した。この委員長はパリの自然博物館長であった。この委員会は学界の代表者を包括して八千名を超した。
 これまで社会問題をあまり扱わなかったN《エヌ》・R《アール》・F《エフ》さえ時事問題をあつかわざるを得ない情勢におされ、広汎な反ファシズム文化運動の一翼につらなったのであった。が、アンリ・バルビュス、ルイ・アラゴン、トリスタン・ツァラ、クウチュリエその他によって、一九三〇年組織された「国際作家同盟フランス支部」の活動やその雑誌『コンミュン』の性質とフェルナンデスの「行動のヒューマニズム」理論が本質的に異ったものであることは、フェルナンデスが作家の生活的思想的孤独についてバルビュスなどとは対蹠的な評価を抱いている点について観るだけで、既に十分理解出来る。フェルナンデスのヒューマニズムも、知識人とその知性というものを社会生活の現実階級との関係において見ず、抽象化している点でN・R・Fの最も望ましからぬ精神傾向の伝統的な嫡子の一人なのである。そして、近代芸術において「行為的主権を証左したもの」として、「セクジュアリテの胸に自らを委ねた」イギリスのD・H・ローレンスの諸作、「権力への意志に自己を燃焼した」作家としてマルロオの諸作品。「人性の創造的行動のうちに深く滲潤することによって生活のリズムを把握しようとする」作家としてフェルナンデスの作品が、日本における行動主義の人々によって続々翻訳出版されるに至ったのである。
 フランスにおける「行動のヒューマニズム」運動に関して真に学ぶべきところは、一九三四年の人民の人間的自主性を守らんとする要求によって結ばれた広くして強い文化の線が、ファシズムに反対の立場を保っているという共同的な一点によって、他面では多く異質なものを蔵しているフェルナンデス流の行動主義をもその一部に包括したという事実である。「行動のヒューマニズム」も、その一翼にしたがわざるを得なかった更に巨大な更に行動的な、現実の社会的・文化的行動が起されていたという歴史の進みゆく歩どりの複雑さをこそ学ぶべきなのであった。
 ところが、このフェルナンデス等の「行動のヒューマニズム」は日本へ「行動主義の文学」として輸入されて以来今日に到る迄に、果して如何なる日本的変貌をとげて来ているであろうか。ヒューマニズムの問題は、今日、そして明日、すべての人々の生活と文学との上に依然として重大な基調をなすものであるから、この機会にこの問題を眺め直すことも無駄であるまいと思う。
 先ず第一に注目されることは、フランスにおける文化擁護の全運動の内部の主流と「行動のヒューマニズム」というものとの相互的な関係と差別とが、現代ヒューマニズムの本質の理解上まことに重大であるにかかわらず、日本へはその客観的条件をぼんやりとさせて、一方的に、云い得べくんばN・R・Fの伝統の面に立ってだけ、紹介されたことである。当時のフランスの諸事情はもとより強力な背景として説明されているのであるが、統一的な文化上の目的のためには、それぞれの思想的傾向の中にふくまれている本質上の相異まで全く帳消しにして仕舞われたかのように紹介された。
 次で重要なことは、「行動のヒューマニズム」が、超階級の箇人主義的であること、左右両翼に対して本質では知性の独立を期していることである。そして反主知的・反合理主義的立場にあること等が、当時日本のプロレタリア文学の敗北につれて自身の動向をも失いつつ猶その世界観と文学とに反撥していた知識人を「行動主義」文学理論へひきつけた一つの、だが最もつよい可能性となっていたことである。
 日本の市民の経済力と文化の低さとは、現代でも諸方面に所謂種本の貴重性をのこしている。フランスの文化運動の全貌に関する一般文化人の常識は、謂わば種本の数の尠なさに比例した狭さであったから、「行動のヒューマニズム」に就ても、上述のような紹介の角度によって、さながら新たなヒューマニズムの内容は、非人間的暴力に反対するという一般傾向において平面的に無差別につらなっているので、その推進力としての指導方向を不用としているかのようにうけとられた。従来のプロレタリア文学の精神は、今日誤りにおいて証明され指導力を失墜したという当時の否定的な観念とこの考えは、その誤りにおいて便宜よく膠着しあった。従来のプロレタリア文学は「公式的な階級動向理論に煩わされて、知識階級が自己を無視し、自己を否定し、自己を労働階級に隷属させ、融合させようとしたり」「客観的な批判もなく、自己の正しい検討もなかった」が、新たに行動主義文学によって唱えられている能動精神は「知識階級は飽くまで知識階級として」「知識階級それ自身の特性を自覚し、飽くまでそれ自身の能力の自覚にもとづいて立ち上っているもの」(引用、青野季吉氏「能動精神の擡頭について」)と理論づけられたのである。
 舟橋聖一氏の作品「ダイヴィング」芹沢光治良氏「塩壺」等、いずれも能動精神を作品において具体化しようと試みられて、当時問題作とされたものであり、三田文学に連載中であった石坂洋次郎氏の「若い人」もやはりその作品のもつ行動性という点で、(行動の方向は評価に際しぬきにされて)注目をひいたのであった。
 現実生活の内部の矛盾は、行動主義文学者によってブルジョアジーと知識階級人一般の良心との激化する対立としてとりあげられたのであるが、日本におけるヒューマニズムの文学が提唱後四年経た今日に至っても未だ一種模糊退嬰の姿におかれているのは、社会情勢によるとは云え、その出発に於て、プロレタリア文学の蓄積と方向とを否定しつよくそれと対立しつつ、悪化する情勢には受動的で、社会矛盾の現実は知識人間にも益々具体的な階級分化を生じつつあるという社会・文化発展要因を抹殺したところに起因している。
 上述のような行動主義文学の理論の擡頭につれて、その能動精神への翹望の必然と同時に、真にその精神を能動的たらしめるためには、今日急速に生じている中小市民層の社会的立場の分化、知識人の階級的分化の実情にふれて理解しなければならぬとする論者の現れたのは、極めて当然のことであった。
 過去の若い日本のプロレタリア文学の運動が文学の政策において、機械的なものをもっていたとしても、社会生活の歴史に於てインテリゲンツィアが抽象的な知識階級[#「知識階級」に傍点]として独立した単位でないことは、知識人こそその知識を何かの形でいずれかの階級のものとして表白し且つ役立てている実際を観て明かに肯ける事実である。一人一人のインテリゲンツィアがこの社会のどういう階級に属しているかということは、「その出身階級の如何を問わず、現在の彼の全実践によって決定されるものである。従って彼がなそうとする仕事の階級的意義の如何によって逆に彼の階級的所属も、またその属しかたの性質も変化してゆく。これは明かなことのようであってしかも忘られがちなことである。」現代社会には「ブルジョア・インテリゲンツィアもあり、また小ブルジョア的・地主的・プロレタリア的な夫々のインテリゲンツィアが存在しているのである。」そして、このような現実の差別は、既に述べられているように、社会情勢・階級間の力の関係等によって二六時中動き分化しつつあるものなのである。(引用、窪川鶴次郎「インテリゲンツィアの積極的精神」)
 この社会的事実は、一定の文学組織の有無にかかわりなき一箇のリアリティーである。
 私達の生活している現実が右のようであるとすれば、文化・文学を正当に発展せしめようとする忠実な努力は当然、可動的なインテリゲンツィアをして、その能動精神に最も意義ある方向を与えるよう尽されるべきであった。「知識階級は飽くまで知識階級として」その社会的良心を云々しようとすること並に、「人間性の全体的表現は行為的瞬間に直観的に認識される」と漠然規定して人間行為の社会関係を抽出してしまっていること等は、創作方法におけるリアリズムの理解にあたって、文学は文学そのものとして常に進歩的であるとするような非現実な見解と相合して、日本に流れ入った新しきヒューマニズムの文学的発展の根蔕をむしばむ内在的な要素であったのである。
 不幸にも、当時ヒューマニズム、行動主義の文学及創作方法における右の如き弱き諸点に対して、発展の翹望に添えて正当な警告を提出し得たものは、既に兵を語るべからざる敗軍の将のように見られていたプロレタリア作家・評論家の二三の者であった。彼等の言葉、特に「知識階級は飽くまで知識階級として」現実の難関を打開しようとする行動主義文学の不可能性をつく提言は、公式主義、機械主義として迎えられた。而して、行動主義文学、能動精神の声は、単に、『文学界』の芸術至上的、抽象的風潮への解毒剤として一般に迎えられたばかりでなく、プロレタリア文学の公式主義[#「公式主義」に傍点]との中間に立って知識階級の文学[#「知識階級の文学」に傍点]を確立しようと欲するインテリゲンツィアの心持をつよく魅した本来の矛盾の姿のまま、時代の波瀾にもまれ、やがて矢継早な変転の道を辿らざるを得なかったのである。
 プロレタリア文学団体は、この年の二月解消の余儀なきに至ったが、『文化集団』、ナウカ社から発行されていた『文学評論』等は、相当の活気をもって、大衆の生活から湧き上る文学的要求を満たす力を有していた。当時の微妙な情勢は、従来のプロレタリア文学の専門技術家の多数がその生活態度と文学との上に拠りどころを失って、批判の欠けた文学をつくり出し、所謂文壇の拍手の高低によって心持を左右されることの少くないようなのに対して、一般民衆の裡にあるプロレタリア文学の質的差異に関する判断は、素朴ながら或る意味での健康性を保っていた。然しながら、発展した内容と表現とで自分たちの生活、その希望と苦痛とを作品化してゆこうとする意志をもつ作家たちの間にも、例えば技術の問題などが、模索を伴い、評価のぐらつきを伴いながら考慮されるようになった。
『文学評論』に「癩」を発表した島木健作氏のそれにつづく獄中生活者を描いた作品は、従来のプロレタリア文学に欠けていた人間描写とインテリゲンツィアの良心を語る、目新しいものとして一般からよろこばれた。これらの作品の題材の特異性、特異性を活かすにふさわしい陰影の濃い粘りづよい執拗な筆致等は、主人公の良心の表現においても、当時の文壇的風潮をなしていた行為性、逆流の中に突立つ身構えへの憧憬、ニイチェ的な孤高、心理追求、ドストイェフスキー的なるもの等の趣向に一縷接したところを含み、その好評に於ても、プロレタリア文学の成長の道の多岐と多難さとを思わしめる時代的なものがあったのであった。

 昭和十年(一九三五年)は初頭から能動精神、行動主義文学の討論によって、活溌に日本文学の年次は開かれたのであるが、前年、これらの生活的・文学的動議が提出された当時から、知識階級についての理解、行為性の内容等のうちに含まれていた矛盾については、その社会性において何等深められ真に発展させられるところがなかった。この理論の根柢によこたわる深刻な矛盾にはふれず、又、それにふれないで何とか目前を打開して行こうとする気持こそが謂わば当時の積極性の一面の特質であったから、文学の能動精神への刺戟、要求は、インテリゲンツィアの生活的方向を押し出す現実の力をもたず、文学の方法、ジャンルの再検討、曖昧のままにのこされているリアリズムへの反省という、文学の専門的部分へ集注されて行った現象が見られる。
 新たなリアリズムの提唱が一九三二年後半になされて以来、方向を抹殺していることから理解の混乱低下、批判なき市井風俗的文学が現実を描くものとして輩出したことは、前項でふれた。
 一方プロレタリア文学の作家は、社会情勢の推移とともに、新しい生活環境とその日常の裡にある勤労者の生活を語らんと欲して、時代の空気の影響もあり、地味な一見ありふれた自然主義リアリズムに近づいた。市井風俗の饒舌に飽き又自然主義的なプロレタリア文学に退屈した一部の作家、評論家は、「浪曼的な色彩を今日の文学に付さねばならぬ」「たとえば佐藤春夫氏の『星』や『女誡扇綺談』等の作品に流れる世間への憤懣の調べ、川端康成氏の描く最もほのかに美しい世界、あるいは僕らの同じ心の友だちの……。こういう立派な芸術の美しさをまず僕はあらゆる日にとらねばならない。」とする保田与重郎、亀井勝一郎等の諸氏を中心に「日本浪曼派」にかたまった。林房雄氏は陳腐なリアリズム否定論者として浪曼主義に賛成し、新感覚派の時代から自然主義的、現実主義的文学方法に絶えざる反撥をつづけて来た横光利一、川端康成、佐藤春夫その他、市井談議一般に倦怠し、同時にリアリズムを更に高めゆく歴史的努力への根気をも失いつつ時世の荒さにもまれている多くの作家が、この「日本浪曼派」の旗にひきつけられた。
 浪曼派の主張は、その名にふさわしいロマンティックな張りと文章の綾と快き吐息までを添えて、途方にくれた心の多くの面を撫でたのであったが、青年のニヒリズムを超剋しようとして自我と主観の飛躍を期したこの声も、ロマンチシズムすべてに同情を示し、ロマンチシズムの方向の選択はなかった。そのことも当時の能動精神の性質と同じ地盤に立つにとどまったのである。
 日本浪曼派の提唱につづいて、純粋小説論が、人々の耳目にのぼった。これは、横光利一氏の発言として現れた。横光氏は、日本の近代小説の発達に昔の物語の伝統と日記、随筆の伝統とが別々に成長して来ていると見た。「物語を書くことこそ文学だとして来て迷わなかった創造的な精神が、通俗小説となって発展し、その反対の日記を書く随筆趣味が純文学となって」身辺を描き私を描きつづけ、「可能の世界の創造」を忘れ「物語を構成する小説本来の本格的なリアリズムの発展」を阻害した、と観察された。そして、従来、純文学と通俗小説との区別のために重要なモメントとされて来た文学的現実内における偶然と必然という問題を、次のように解決しようとした。
 人間を描くには、「人間の外部にあらわれた行為だけでは人間でなく、内部の思考のみも人間でないなら、その外部と内部との中間に[#「その外部と内部との中間に」に傍点]、最も重心を置かねばならぬのは、これは作家必然の態度であろう。けれども、その中間の重心に[#「その中間の重心に」に傍点]、自意識という介在物があって[#「自意識という介在物があって」に傍点]、人間の外部と内部とを引裂いている[#「人間の外部と内部とを引裂いている」に傍点]かの如き働きをなしつつ、恰も人間の活動をしてそれが全く偶然的に、突発的に起って来るかの如き観を呈せしめている近代人というものは、まことに通俗小説内における偶然の頻発と同様に、われわれにとって興味溢れたものなのである。しかも、ただ一人にしてその多くの偶然を持っている人間が二人以上現れて活動する世の中であってみれば、さらにそれらの集合は大偶然となって日常いたる所にひしめき合っているのである。これが近代人の日常性であり必然性である。」以上の推論の結着として、横光氏は、人間活動の真に迫れば迫るほどそれは実に瞠目的に大通俗であり、それを描きぬけば通俗でなくなる、「純文学にして通俗小説」たらんとする純粋小説(この言葉もフランス文学からの移植として)の主張が、成立てられたのであった。(傍点筆者)
 興味ある点は、横光氏が人間の全き姿を、内部の思考と外部の行為との相互的発露、統一、矛盾において描くべきものと見ず、飽くまで両者の「中間」にその重点をおくべきものとしている点である。しかも、その肝心のところに、この作家にとって主観的に理解され自意識されていて、その社会的・心理的本質の追究はまぬかれている自意識というものをおき、そこで、偶然と必然という、人類が社会と思想との発展の歴史に決定的な関係をもって来た問題が溶かされ、今日の現実、近代人の現実は大偶然であるとし、「純文学であって通俗小説」の可能を見、「私などは初めから浪曼主義の立場を守り、小説は可能の世界の創造でなければ純粋小説とはなり得ないと思う」と断言したのであった。
 ロマンチシズムの本質にある燃焼性と横光氏の自意識なるものとの関係も注意をひかれるところである。横光氏が近代人の資質としている自意識というものが常に人間をその内外に引さく作用をするとすれば、ロマンチシズムが世界の帝国主義時代の廃頽の中にあって益々その危険をつよめている。欲するがままに行為せんとする力はもたず、ロマンチストと我から称する横光氏は、「可能の世界を創造」する文筆の幻の範囲でのロマンチストであろう。そして、これまでの通俗小説が偶然にたよって成立っていたということにそれなりに縋って、近代人の必然は偶然であり、それは通俗であると、通俗なりの内容をうけついで立っているのは、何たる従順な市民の姿であろう。一九三七年一月に発表された同氏の「厨房日記」にあらわれたインテリゲンツィアとしての思想性の全くの喪失と、今日純粋小説が昔ながら通俗小説に終らざるを得ない諸事情の萌芽は、この純粋小説論にふくまれている多くの矛盾に根をおいているのである。
 純文学、私小説は、その語りてである知識人の社会生活の狭隘化と弱化につれて貧困になっているのであるから、その不満・反省の一形態として、横光氏の所論は反響をもった。共感は自意識の問題や、近代人の偶然性の説明に対する漠然とした疑いを含みつつ示されたが、この自意識を自我という観念にまとめて、その点から、横光氏の私小説論に対立した作家、評論家がある。
 尾崎士郎氏は、作家としてリアリストであるよりはロマンチストであるが、この作家は嘗て久米正雄氏が純文芸とは私小説にほかならないとした言葉をとり、日本の近代文学に現れた「私小説」というものが、横光氏の説く如く古来の日記・随筆の文学形式の発展としてあらわれたものではなく「私」というものの近代的発展の発現であると主張している。「しかし個人主義時代の『私』と今日の『私』とはちがう。」「今日においては『私』を決定する想念は個人主義的要素をいささかも含んでいないということが一つの特質として認められねばならぬ。」「作者の生活態度、人生観が作中の『私』に変貌しているかどうかということなぞということは結局どうでもいいことなのである。」「個人の経験が表現の上に客観的統制を保つ余裕のないほど切実にあたらしい(というのは主観的な認識ではない)社会的現実に斬りこんでいるか否かということだけが存在を決定する。」私小説の問題は「もっと純粋な主観的表現に達するためには、いかにして夾雑物を払いすてるかということだけである」とした。(引用文、一九三六『文芸年鑑』)
「私小説」というものが近代日本文学にあっては、現在志賀直哉氏の文学にその完成を示しているところの純粋小説であるとし、日本に於てはプロレタリア文学の理論が、「文学における思想の優位を主張」する時代になってはじめて「私」と社会との対立が問題となって西欧の「私小説の歩調に接近して来た」と見たのは小林秀雄氏である。氏はヨーロッパ文学において人文主義の時代から十九世紀の自然主義時代に至る自我の発展「社会化した私」と、自然主義が文芸思潮として移入した明治時代の日本の「要らない肥料が多すぎ」「近代市民社会は狭隘であった」中で自我を未だ自我の自覚として十分社会的に持ち得なかった日本の知識人が「自然主義を技法の上でだけ」摂取し、対象を我におかず「実生活」においてそこに膠着せざるを得なかった事情と対比した。
 尾崎、小林両氏の私小説論は、「純文学であって通俗小説でもある」純粋小説論の成立点を技術的には近代人の自意識において解決しようとしている横光利一氏が、却って、近代日本における複雑独自な自我の消長史を私小説の推移の裡に見ることが出来ないでいるという、興味ある矛盾の事実を照し出す結果になった。横光氏の自我、自意識というものの認識、実感の自己撞着が現れているのであるが、同時にこの不明確にしかつかまれていない自我の問題こそ、日本における能動精神、ヒューマニズムの生活的・文学的実践に、幾多の歴史的な特色を呈しつつあるのである。
 さて、「私小説」の問題をめぐって、小林氏は些か客観的に分析を試みようとしたが、氏が、自然主義時代における日本の思想がはるかにおくれた地盤にのこされていたことを観察しつつ、そのおくれている社会的理由を今日及び明日における日本文化発展のための足枷として見ていないところが注目を要する。
「ロシアの十九世紀半の若い作家は殆ど気狂い染みた身ぶりで」「新しい思想を育てる地盤はなくても新しい思想に酔」ったが「わが国の作家達はこれを行わなかった。行えなかったのではない、行う必要を認めなかったのだ。」「文学自体に外から生き物のように働きかける思想の力というようなものは当時の作家が夢にも考えなかったものである」と肯定されている。(引用、一九三六『文芸年鑑』)
 世界思想史について些の常識を有する者には小林氏の以上のようなロシア文学史についての見解はそれなり賛同しかねるであろうし、特に明治社会と文化との生成の間、全く未開のまま通過され異質のものに覆われてしまった中江兆民の時代の思想の意義を、抹殺していることは、小林氏がこの私小説論の後、変化しゆく情勢につれて、文学における批判精神の不用論をとなえ、主観的日本的なるものの主唱者の一人となり、科学精神否定に至った必然の要因を語っているのである。
 尾崎士郎氏の「私」の主観的純化、拡大の翹望は、実に世界の能動精神が一つの核となしている現代の要求でもあるのだが、ここでも日本の能動精神そのものがそこでぶつかっている問題即ち、どっちへ向って、どのように「私」を社会化するかという困難に行当っている。氏の「人生劇場」は最近でのベスト・セラーズの一つであったが、この作品について見ると、氏の「私」の社会化は先ず一般的な人間感情への同情を手がかりとしているように思われる。よかれ、あしかれ、所謂人間らしい心によって直接行為し生きてゆく愛すべき人々に氏の「私」は触れてゆき、理解し、没入して行こうとしていると思われるのであるが、氏は作家としてそれを全く感性的に行っている。謂わば好みにしたがってだけやっている。そして氏の好みは、過去からの時代性をニュアンスとして持ち、現代の時代性の一面の投影をうけ余り遠く古来の人情、情誼、拳で払う男の涙の領域から勇飛していない。氏のこの感情のありようと現代の或る小市民の感傷とは互に絡みあって最近の尾崎氏の作品に、一種芝居絵のような感情の線の誇張とうねりと好調子の訴えとをつよめている。氏の描く世界が、従来多くの作家に扱われて来ている種類のインテリゲンツィアでなく、さりとてプロレタリア文学が描こうとする社会層でもなくて、半インテリゲンツィアとでも云われるような半ば明るみに半ば思想の薄暮に生きる人々の群であることも、見落せない。
 かかる事情で、従来最高なものとされて来た純文学と通俗小説との関係は、様々に見直され、作品の実践で両者の混ぜ合わせが行われ、尾崎士郎、室生犀星、武田麟太郎諸氏の新聞小説への進出をも見た。が、引続いて起った長篇小説への要求、単行本発表への欲求の背景となった経済的な理由、発表場面狭隘の苦痛等と照らし合わせて観察すると、先ず横光氏によって叫ばれた純文学であって通俗小説であるという小説への転身宣言の暗黙のモメントとして、その市場を、これまで同氏の作品をうけ入れることをしなかった尨大な発行部数をもつ大衆通俗雑誌や新聞に拡大する必要が感じられていたことをも理解される。
 様々な方向と傾向から通俗小説と私小説との問題は論ぜられたのであったが、現実生活と文学とにおける偶然と必然との関係の解釈は指導的な方向を持たず、遂に中河与一氏の偶然文学論へまで逸脱した。現実を「不思議」なる諸相の逆転として見ようとするこの見解に対して、所謂大衆向きであっても而も社会の現実の必然を必然として客観的に描く「実録文学」という提案をしたのは『文学案内』による貴司山治氏であった。多難なリアリズムの問題、文学の真の意味での大衆性の課題の一部を、氏は題材そのものが歴史の中で持つ現実性の正当な闡明によって解決しようとしたのであった。大衆の生活に入りこんでいる最低の文化水準としての講談本、或は作者の好む色どりと夥しい架空的な偶然と客観的でない社会性とによって、忠実の一面を抹殺され勝な大衆髷物小説から、読者にただそれが歴史上の事実であるばかりでなく、社会的現実の錯綜の観かたまでを導き得る歴史小説を提供しようとしたのであった。
 その意図の限りで貴司氏の二三の作、藤森成吉氏の「渡辺崋山」等は注目されるべきであったが、プロレタリア作家の或るものは、必しも過去の現実へ追究をすすめてゆく要求は抱かず、文学上の諸問題のかかる紛糾が根にもっているところの更に大規模で複雑な社会矛盾の姿の裡へ一市民として生活的に浸透し、健全な発展の方向を有するヒューマニズムとその文学への道を見出そうと努力した。或は当時に至るまでの大衆生活の歴史の一部として自己の過去を見直そうとする意欲も文学の欲望となって、中野重治氏「第一章」「村の家」、窪川稲子氏「鉄屑の中」「一包の駄菓子」、窪川鶴次郎氏「一メンバー」、橋本英吉氏「炭坑」、中條百合子「乳房」、立野信之氏の長篇「流れ」等が現れた。
 当時の事情はこの一方諷刺文学、諷刺詩の欲求を生み、中野重治、壺井繁治、世田三郎、窪川鶴次郎その他諸氏によっていくつかの諷刺詩が発表された。『太鼓』は諷刺詩をのせて時代への太鼓として発刊された。
 獄中生活者を描いて出場した島木健作氏はこの時代、農民組合の経験をめぐっての諸作に移って来ており、徳永直氏は『文学評論』に自伝的な「黎明期」を連載しつつ、他方に「彷徨える女の手紙」「女の産地」等の小説を発表し、両者の間に見られる様々の矛盾によって、プロレタリア文学者へのいくつかの警告となったのであった。
 能動精神の提唱から派生した以上のような諸問題が、夥しい作家、評論家によって活溌に、然し堂々めぐりの形をもって論ぜられている一方、島崎藤村氏は七年に亙る労作「夜明け前」をこの年の秋に完成した。
「夜明け前」の持つ文学上の記念碑的価値は、日本のロマン主義時代の詩人として出発したこの作家が、自然主義の時代に小説の道にうつり、以来、幾星霜、社会生活と思想の波濤を凌いでここに到達した人生態度と文学的様式の、よかれあしかれこの作者としての統一完成の姿である。「夜明け前」は、維新という客観的な歴史を背景としつつ、決して客観的な歴史小説ではない。歴史を下から見たものの人生記録でもない。人生と人間の理想とその実現の努力に対する作者の感慨は主人公半蔵の悲喜と全く共にあり、氏一流の客観描写である如きであって実は克明な一人称である筆致で、郷土地方色をも十分に語った作品である。「夜明け前」の主人公は時代が推移して明治が来るとともに没落せざるを得なかった宿場本陣の主、精神的には本居宣長の思想の破産によって悲劇的終焉を遂げざるを得なかった男である。作者藤村氏が、抒情的な粘着力をもって縷々《るる》切々と、この主人公とそれをめぐる一団の人々の情感を語りつつ、時代の力、実利と人間理想とが歴史の波間でいかに猛烈にかみ合い、理想の敗北が箇人的生涯の悲惨として現れるかということを一般人生の姿として冷たく、傍観的に観察している態度等は、この作者がロマンチストとしての抒情性と社会に対する自然主義的立場とを作家的稟質、社会所属の本質、過去の全閲歴の蓄積として一身に具現している興味ある見ものなのである。
 文学に新しい要素を求めている当時の文壇の気運は、従来の日本文学の現れに見なかったほど夥しい「賞」を設定して、新人の登場を励ました。文芸春秋社主催の芥川賞、直木賞。文学界賞、三田文学賞、池谷信三郎賞等。やはりこれも時代の特徴の一つとして数えられることは、これらの「賞」を与えられた石川達三、高見順、石川淳、太宰治、衣巻省三その他多くの作家が、言葉どおりの意味での新進ではなく、過去数年の間沈滞して移動の少なかった純文学既成作家に場面を占められて作品発表の機会を十分持ち得ないでいた人々であり、長年の文学修業と鬱屈とを経、且つ又何かの形で主だった従来の既成作家の影響のもとにある人々であったことである。これらの作家達は、殆ど皆一通りならぬ文学・文壇への粘着力をもっていると共に、所謂文壇の垢にまびれていることも自然である。「賞」は、文壇の一つの側に門をあけたが、そこから出現した新進は、文学に新鮮活溌な風をふき起す代り、思惟と感情の異様な蜒《わだかま》り、粘っこさを文体にまで反映して、若き世代の文学が当面している社会的・文学的重圧の大きさを思わしめるものが多かったのである。
 日本文学と欧州文学との接触を、これまでのように欧州文学をこちらへ移入する面からのみでなく、日本文学を海外へ紹介する形に於て行おうとする動きも、この年の注目すべき一つの文学現象であった。最も肉体的表情であって翻訳を必要としないスポーツで日本は世界の最前列に伍していることや、所謂躍進日本の他の一面としての文化紹介を欲する政府当局の意嚮《いこう》などが、外務省文化事業部へ反響して、先ず国際文化振興会が半官的な組織で成立し、つづいて島崎藤村氏を会長とする日本ペン倶楽部が組織された。
 文学における能動精神、新たなヒューマニズムの気運は、フランスに於てこの年の六月「文化擁護国際作家大会」を開催させた。会議はパリで開かれ、参集国は日本を除く二十八ヵ国、代表者は二百三十名。まことに興味ある次の如き議題で世界的に討論された。
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一。文化遺産(伝統と発明。文化的価値の振興と保護。文化の将来。)
二。ヒューマニズム(ヒューマニズムと民族性。ヒューマニズムと個人。プロレタリア・ヒューマニズム。人間と機械。人間と閑暇。作家と勤労。)
三。民族と文化(民族文化間の関係。民族文化とヒューマニズム。民族文化と諸階級。諸階級と文化。民族主義対諸民族の現実。戦争と文化。少数民族の文学的表現。植民地諸民族の文学。読者大衆と玄人[#「玄人」に傍点]。孤独者と先駆者。翻訳。)
四。個人(作家と社会との関係、対立か一致か。自己の属する階級の表現としての個人。)
五。思想の尊厳(芸術家の自由の本質。表現の自由。検閲の直接的並びに間接的形態。作家と亡命。非合法文学。)
六。社会に於る作家の役割(公衆との関係。ソヴェト文学の経験。文学とプロレタリア。文学と青年。文学の批判的価値。文学の積極的価値。社会の鏡及び批判としての文学。)
七。文芸創作(社会の変化が芸術形式に及ぼす影響。連続価値と解体価値。文学的生産活動の諸形態。文学の社会的役割。タイプの模倣若くは創造。主要人物の形式。表現の新しい技巧。)
八。文化擁護のための作家の行動。その統制。
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[#地から3字上げ](以上『文化の擁護』より)
 文学は本質において民族的であると共に人類的であり、たとえどのような意図の上に行われても、ともかく日本文学が翻訳され海外紹介されなければその目的を達し得ないところに文学におけるソリダリティを語っている。日本ペン倶楽部の組織が支持された心の過程の内には自然その流れも加っているのであったが、「しかし同会が日本ペン倶楽部として生れ、国際ペン倶楽部日本支部と名乗るに至らなかったことは微妙な国際関係の現状を示唆するものである。」(『文芸年鑑』)
 国内における文化統制の具体化は、国際文化振興会の成立以前、既に前年松本学氏が警保局長であった当時、故直木三十五氏や三上於菟吉、佐藤春夫、吉川英治諸氏と提携して「文芸院」設立を目論んだ時から端を発している。当時、既に正宗白鳥氏その他が現在保護と監視は同義語であるとして、「文学者がさもしい根性を出して俗界の強権者の保護を求めたりするのは藪蛇の結果になりそうに私には想像される」と云った。
 文芸院はその後形を変えて「文芸懇話会」となり、文芸院が概して大衆作家を主体としたのとちがって文芸懇話会はプロレタリア作家以外の純文学作家をも多数包括した。「文化の宝船に、文芸の珠玉を載せて、順風に金襴の帆を孕ませて行く。それが文芸懇話会の使命でありたい。楫《かい》をとるもの、艪を操るものには元より個々の力の働きがあるであろう。しかし進み行くべき針路は定っている」太陽をめぐる天体の運行が形容の例にとられ、そのような「拘束でない節制」を文化にもたらす組織として成立し、事業を物故文芸家慰霊祭、遺品展覧会、昨年度優秀文学作品表彰、機関誌『文芸懇話会』の発行とした。そして昭和九年度(一九三四)の文芸懇話会賞(一千円)は会員である横光利一氏の「紋章」と室生犀星氏の「兄いもうと」におくられたのであった。
 ところが、この金襴の帆を順風に孕ませた宝船、文芸懇話会というものの文学に対する性質の矛盾は、この一九三五年七月、文芸懇話会賞が与えられた直後、授賞者決定に当って審査員の投票では島木健作氏が選に入っていたにもかかわらず、公表されない特別の理由から室生犀星氏と取かえられたことが一般に知られ、佐藤春夫氏が脱退の意を示した事件によって、悉く明らかにされた。
 この事実は、文学の領域には前例のない事件として、当然諸方面から文化統制に対する反対が生じ、二年前プロレタリア文学の退潮、それに引つづく沈滞期に叫ばれたよりはその社会的色調を濃くした現実の姿で文学の危機が再認識された。
 文学の本質が、非人間的人間関係に対する抗議と批判との精神であることを改めて主張する必要に迫られ、これに応じて、横光氏の純粋小説論に連関して漠然両者の接近が予期されていた純文学と通俗小説との文学的本質の相異が改めて究明されるに至った。通俗文学と純文学との質の相異はただ生活と文学的現実の中で、必然と偶然とに対する解釈を異にしているばかりでなく、「両者の区別は文学の本質である『反逆精神』の有無にかかる以上」通俗文学と純文学との対立は決定的であり、純文学の通俗文学への非妥協は文化を統制せんとする背後の力へ妥協せざることであると論ぜられたのであった。(一九三六『文芸年鑑』)


 一九三六年二月二十六日の事件の衝撃は、外見的に作家生活の変化の動機とはならなかったが、その影響は深くヒューマニズムの問題の展開上にあらわれた。
 前年度の秋から、文芸懇話会賞の授賞者選出にからんで文化統制の問題が一般文化人の関心をあつめていたが、この年は、ヒューマニズムの問題が、単に文学における能動精神、行動主義一流派の主張という範囲を脱し、暴力からの人間再生の要求として拡げられ、文化人にとっては文学以前の共通な生活的関心となって来たことに、重大な意味があったのである。
 現代の日本における社会事情の裡で、正当な意味で人間性を護り、知性を擁護し、次第に強調されつつある日本の伝統を発展的に嗣《つ》ぎすすめてゆくために、文化人はいかなるモラルを持つべきであるか。新しいモラルを、おのずから青春の裡に蔵して成育して来ている筈の若い世代の今日の生活の実状はどういう風であろうか。この探求と再認識との要求は、一九三六年の夥しい、青年論・恋愛論となって溢れた。河合栄治郎氏は教育者としての見地から、今日における大学教育、教授の学的確信の失墜と学生間に瀰漫している、あしき客観主義、人間的意欲の喪失について論じ、ヒューマニズムの鍵として一種の唯心的な人格論を提唱した。三木清氏なども、ヒューマニズムへの情熱の必要を唱え、青年達が、大人の青年論に対して、冷淡であること、俗的日常主義に堕した気分の中で生活を引ずっている現象を、誤った客観主義と日本独特の東洋的諦観に害された自然主義的リアリズムとの結合と観察して、批判した。河合、三木その他の諸氏によって、誤れる客観主義、あしき客観主義と云われたのは、機械的、反映論風に唯物史観が俗流化されて一般に流布されているため、青年の多くのものは、人類史的規模の中で主体的に自己の人間性の積極性をつかまず、何しろこの世の中で、と、現代の情勢に万端の責任を転嫁して、卑俗な事大主義の生きかたをしている、それが誤りであると指摘されたのであった。
 ヒューマニズムの問題が、かくの如く文学以前の問題として、現代文化の本質的方向として一般に感受され、討論されて来た事実はまことに慶賀すべきことであった。日本における「ヒューマニズムの伝統の乏しさ」につれて、「最近民族主義・伝統主義の擡頭と共に東洋的自然主義とヒューマニズムとの対質を内容とするこの課題は次第に重要性を加え来ている」そして「民族的と云われるもののうち多くのものが単に封建的なものに過ぎないということが」見落されてはならず、日本におけるヒューマニズムの伝統の乏しさは、この点に関しても今日の日本のヒューマニストが、西欧のルネッサンス時代のヒューマニストが、中世紀宗教の重圧をはねかえして、人間精神と肉体との自由であった古代ギリシア文化の復興を叫んだのと同じ関係で、古代文化の復興を云々することの誤りを三木清氏も指摘したのであった。三年前の文芸復興の声につれて、日本におこったロマン派、現在保田与重郎氏等によって提唱されている日本ロマン派が、素朴に過去へ飛躍して、ギリシア文化や万葉の文化、王朝文化を云々することが現実の文化を逆に引戻す作用をしていることが意味されているのである。
 青年論その他の形で旺《さかん》に討論せられるヒューマニズム論は、自然、良心的市民全般の生活態度への示唆として注目をひきつけずにはいなかったのであったが、残念なことに、多くのヒューマニズム提唱者は、それぞれの持論の内に、第三者が直ちにそれをもって行為的指針となし得なかった様々の微妙な矛盾を示していた。三木氏のヒューマニズム論は、あやまれる客観主義の否定、日本における社会生活と思想の伝統の特徴にふれて、今日のヒューマニズムの性質を明かにしようという努力にもかかわらず、あしき客観主義に対置するヒューマニスティックなものとして「主観性の昂揚」を、俗流日常主義の解毒剤として「理論への情熱」を提唱したのであったが、氏によって云われた主観性というものも、低俗な他力主義に対する主観の能動性の強調の範囲にとどまり、主観の内容は十分諒解させ得なかった。「理論への情熱」も同様であった。かかる観念の上に道を求めたヒューマニズムが、日常不本意な勤務や労働や従順を強いられている一般市民の人間性に、その生き方として行動の指針となり得なかったのは当然であった。
 三木氏によって云われた「主観性の昂揚」と「理論への情熱」という標語は、それなり直ちに能動精神、行動主義文学、ロマン主義者の間へ共鳴を生じ、一九三六年の文学の分野は、前年にない評論的活動を見た。しかも、理論への情熱は主観的に高揚されて、謂わば各人各様の説を感想として主張し、そのことに於て日本のヒューマニズムの問題のおかれている多難性と、思想の多弁と浮動の激しさとを感じさせた。文化の代表者たちの上に見られたこの現象は、方向を求めつつそれにめぐり会えずにいる広汎な一般人に一層の精神的苦痛、拠りどころなさを与え、根気のつよくない多数の者が、その無価値を知りつつ、半インテリゲンツィア養成の政策的方向におし流されて他力本願的日常に落ちて行ったのであるが、ヒューマニズムの問題の旺盛化につれてつよまった非実力な抽象論化の根本的モメントは、果してどこに潜んでいたのであったろうか。
 日本に文学上の問題として先ずヒューマニズムのことが云われ始めた時、それが「知識階級は飽くまで知識階級として」人類につくすことを主要な点として押し出されたこと、而して、そのおし出しが、現実生活の中に在って既に一つの人間性の非力化へ導く広き門であることを一部の作家が論じたが、その補強的な論の建て直しは当時の気分によって望ましいようには受けいれられなかったことを記述した。その弱い点は、三年後の一九三六年において、社会情勢の推移と共に一層深刻に拡大されて来た。ヒューマニズムを日夜論じる当代日本の職業的知識代表者と、一般の勤労的知識人との間に、その形は極めて捕捉しがたい、だがはっきりと感じられる生活気分の疎隔がヒューマニズムの論をめぐっていつしか生じはじめたのであった。
「知識階級は飽くまで知識階級として」自己の性能を発揮するこそヒューマニズムであるとする論に、議論としては異議を認めなかった小市民知識人の大部分も、実際生活では自分たちのうけた知識人としての教養によって日々一定の時間に出勤し、或は労働し、同僚・上役との接触に揉まれ、技術上の問題、技術上の自己の創意性とそれを阻む諸事情を経験しつつある。かかる知識人の知識人である所以《ゆえん》は、単に技術だけを一定の時間売っている機械ではなくて、重役になる希望はない一サラリーマンとして、かかる現実に即しつつ、そこで何を生甲斐として見出し、自分もまがうかたなき人間の一人であるという尊厳をとり戻して行けるかという煩悶の故にこそ、彼の知識人的存在の面がヒューマニズムの問題へもとりついて行くのである。ところが、ヒューマニズムを紹介した人々は「知識階級」というものを最初に抽象してしまい、益々それは「主観の高揚」や「理論への情熱」という方向へ発展させられて行ってしまっているのであるから、そのように論じ、執筆することそのことが既に職場であり職業である者以外の大多数の人々にとっては、自分たちの間では謂わばヒューマニズム論を論ずるに止り、自分たちの境遇の実際で主観を高揚させ、理論への情熱を高めようとしても、具体的解決のありようなさが一層身にしみて来るという実情である。日常の経済生活の逼迫とそのような精神的よりどころなさとは、落付いて本を読む気持さえも削いで行くかに見えたのである。
 ヒューマニズムの提唱が、その意識的、或は論者の社会的所属によって生じている矛盾の無意識な反映として内包していた誤れる抽象性によって、或る意味で文化の分裂を早める力となったことは、実に再三、再四の反省を促す点であろうと思われる。
 文化一般における上述のような意味深長な亀裂は、翌一九三七年に独特な展開を示すものとなったが、このことは当時文学の面に複雑な角度をもって投影した。純文学の行き詰りが感じられ、私小説からの脱出が望まれているのは前年来のことであるが、その脱出の方法が一癖も二癖もあり、云って見れば、社会悪を背負って尻を捲って居直った姿で小説などに現れて来たのである。
 一方でヒューマニズムが抽象論になっているために、現実の社会悪に面をそむけず、その垢の中に身をころがし、そこから再び立って来てこそ新しい時代の人間性が輝くのである。これこそ時代のモラルであるとし、高見順、石川達三、丹羽文雄の新進諸氏の作品は題も「嗚呼いやなことだ」「豺狼」等と銘し、室生犀星氏が悪党の世界へ想念と趣向の遠足を試みている小説等とともに、痛い歯の根を押して見るような痛痒さの病的な味を、読者に迎えられたのであった。
 石坂洋次郎氏の「麦死なず」という小説が、左翼運動への無理解や自己解剖を巧に作中人物の一人(妻)への誇張された描写にすりかえている等の欠点をもつ作品であるにかかわらず、一応興味をもたれたのも、当時のこのような空気とこの作者の示した不健全性こそが結びつき得たからによったのである。
 これ等の人間的感性と文学の頽廃に安ぜず、同時に、還り得べからざる王朝文学の几帳のかげをも求めない作家たち、深田久彌、山本有三、芹沢光治良等の諸氏は、それぞれ、モラルと真実との再誕を求めて作品にとりくんだが、これらの真面目な人間的・文学的努力も、成果においては作者の健全ならんと欲する意欲だけが感じられ、文学的現実は結論のない、中心がガランとしたものとして現れた。例えば、山本有三氏の労作「真実一路」と数年前に書かれた「女の一生」などとを比べると、この作者の進歩性が陥っている今日のスランプの客観的・主観的な性質が手にとるように感じられる。「真実一路」において作者は、力一杯に今を生きることを人間の真実の姿として描こうとしているのであるが、それも、分に応じてその人の気質なりに生一本に生きるというだけでは、やはり人間行動の社会的な評価にまで迫った現実の文学的追求とはなり得ない。同じ作者が、数年前は当時の社会の潮に励まされて「女の一生」に、少くとも進歩的な人間としての生き方の一つの具体的な道を示し得ていたことを思い合わせ、感想なきを得ないのである。
 又、阿部知二氏は、「いかに生くべきか How to live」の探究において「冬の宿」を書いた。しかし、この作品も探求によって新らしく扉を開かれた人間性の発見には到達せず、探求彷徨の姿で描かれざるを得なかったのであった。
 日本古典文学とその精神への復帰は、最初シェストフ的な「不安の文学」が批判を与えられはじめた頃、能動精神の提唱と前後して、久松潜一氏などにより、朗らかに、おおらかな芸術美の対象として万葉時代の文学表現のことが顧みられた。当時にあっては、芸術美の一典型としての抽象において云われたのであった。が、一九三六年の当時に及んで、日本古典の問題は、芸術における伝統の享受、発展への要求の範囲を脱し、一種教化統制の風潮を著しくして来た。これを無条件に礼讚せざるものは、健全な日本文化人に非ずという強面《こわもて》をもって万葉文学、王朝文学、岡倉天心の業績などが押し出されたのであった。その旗頭としての日本ロマン派の人々の文章の特徴は、全く美文調、詠歎調であって、今日では保守な傾きの国文研究者でさえ一応はそれを行っている文学作品の背景としての歴史的の時代考察、文学の環境の分析等は除外されていることに注目をひかれる。
 明治以来の文学が西欧文学のみをとりいれて古典の伝統をかえり見なかったことへの反省、と云われるのであるけれども、ここには今日一部の人々に云われるように単純な西洋かぶれと観てしまうことの不可能な日本近代社会生活の飛躍の必然が存在していた。明治初頭十年十五年間の社会事情を真面目に観察すれば、日本の開化期文化・文学の複雑な胎生を見逃すことは出来ない。旧時代の文学的伝統は仮名垣魯文その他の戯作者の生きかたに伝え嗣がれており、維新と開化とに対して、江戸っ子であり旧時代の文化の代表である彼等は皮肉且つ反動として現れざるを得なかった。新興文化の先駆としての福沢諭吉の啓蒙的文筆活動、翻訳小説と、魯文の文学とは、近代社会建設に向う意欲とその思想とに於て、役割に於て、本質を異にしたものであった。坪内逍遙の「小説神髄」が日本の近代小説への道を示したことは周知である。文芸理論に於てはヨーロッパの評論、文学評価を学んで封建的善玉悪玉の観念を排し、社会と人間との現実を描くことを慫慂《しょうよう》した逍遙が、「当世書生気質」の描法にはおのずから自身が明治社会成生の過程に生きた青年時代の社会関係の角度を反映して、多分に弁口達者な戯作者風を漂わしているのは、芸術のリアリティーとして実に興味ある実例である。
 近代文学胎生期としての明治初年の文学に交流していた上述の二様の流れは、逍遙の英文学研究の業績、二葉亭四迷の当時にあっては驚くべき心理小説の後をうけて硯友社の活動の裡にも謂わば併流している。前代からの遺産としての戯作者文学の伝統は、今日一部の文学者が云う如く簡単に日本文学から消えてはおらぬ。綿々として、荷風の「※[#「さんずい+墨」、第3水準1-87-25]東綺譚」にまで、はっきりとした作者の文学的意嚮として連って来ているのである。一方、漢文学との融合に立つ日本の伝統的文人気質というものは、硯友社出身で江戸っ子である幸田露伴の今日をいかなる内容に彫り上げているであろうか。鴎外の晩年とその伝記文学とをいかに彩ったか。漱石が彼の最大のリアリズムで「明暗」を書きつづけつつ、その人生の脂っこさ、塵っぽさにやり切れないから、一日に一つは漢詩をつくって息をぬくのであると云って、白鶴に乗じて去るというような境地に逃げたことは、明治大正のヨーロッパ化した文学精神における文人気質の何を語っているであろうか。芥川龍之介を死なせたものは彼の偽りない明徹さと旧市民道徳との大摩擦であり又彼の文学の大きい要素としての文人気質、そのポーズの桎梏であった。
 日本近代文学の発展の中心を二葉亭以来の純文学において眺めわたすとき、そこには日本の社会が近代社会として国際的に一位を占めるために努力して来た量と等しい精神の量において、近代社会の市民としての人間性の自主、我の自覚への努力がされて来ている。経済・政治の専門家が条約改正のために尽瘁し、ちょん髷を剪《き》らせ、廃藩を行った、そのことが文化の面では、長いものには巻かれろ式な戯作文学の伝統と近代精神との入りくんだ摩擦に導いたのである。
 社会的現実の各面に、今日この摩擦がより発展した形に於て高まるとも低まっていないからこそヒューマニズムの声が起ったのである。この時期に、文化・文学の辿って来た歴史の伝統の刻み目の内容を着実に含味しようとせず、空に飛行機を舞わせつつ、文学精神の面においてだけは青丹よし寧楽《なら》の都数千年の過去にたちかえらんとしても、幻を喰って生きていられるだけの余裕に立ってそれを主唱している少数の人々以外には、深き困惑に陥るのである。
 この常識から見れば奇妙な偏りをもった古典文学謳歌の傾向が、ともかく自身のために語り得る場処をもち得ているという可能の条件に就て、自明な情勢はもとよりのこととして、更に文化の面から考察が進められなければなるまいと思う。アカデミックな国文学者の著になる和泉式部の研究を土台として、一躍情熱の女詩人与謝野晶子への讚美となることの腑に落ちなさは一般文化人の胸にありつつ、何故輿論としてそれが発言されないのであろうか。文学に即して見れば、従来の国文学研究が実社会から離れたありようをしていたからであることが、指されると思う。
 この年は佐佐木信綱博士の万葉集校訂の大事業が完成して注目をひいたが、従来、国文学者は不思議にも日本の国文学として今日の文学作品までがその研究の分野にとり入れられなければならないという、極めて当然な動きから、かたく身を退いて来た。彼等の専門的対象は徳川期で止った。特に、世界とその一環としての日本の文学が、質的に大きい変転を行い、波瀾を経つつある最近の「十年間あまり、国文学研究の中道が、殆どすべて本文校訂とか稿本作成とか、考証とか、索引作成とかいう資料整理的の仕事それ自体を目的とする範囲を出なかったことは著しい事実」であった。このことは、現代生活と文学とから研究の分野を切りはなしてしまったのみならず、専門家間に実証主義という名で呼ばれているそうであるところの一部の研究家を、その準備的研究の上に固着せしめ、枕草子の専門家或は大鏡の専門家という、瑣末な活動に封鎖する結果をひき起した。
 整理された研究材料から、国文学としての組織立った学説、日本文学の発展・変化の内外諸関係を支配し、そして、支配しつづけて今日に及んでいる何かの法則を発見するべき段になって、現在、国文学研究者自身が、その法則を把握するに先ず必要な学者としての立場[#「立場」に傍点]の選定について、大なる困難、撞着、対立に置かれている。この困難性が、一方では国文学熱を高めつつある作用の逆の面として現出していることは、現実というものの微妙厳粛な所以である。日本文学古典の伝統を強調すればするほど、その伝統を客観的に、史的に整理するに必要な条件に制約が加わるという事実は、学問として確立する以前に、早今日専門家達を分裂、対立させているばかりでなく、日本人一般が、実際には、日本文学古典についてまだ何もまとまって正当に見通された知識、概括を身につけ得ていないということを結果している。電気の本質について知っているより遙により尠く、祖先の生活と文学との発生の姿、推移の相を貫く諸原則を知らされているにすぎず、漠然と、寧ろ風土的に日本文学の味を知らされているのである。
「もののあはれ」ということは佐藤春夫氏の今日的文学の核をなしており、「まこと」「ますらをぶり」「さび」「なぐさみ」等の言葉は保田その他の諸氏の愛好する語彙である。だが、それらの用語は天から降る金の箭《や》のように扱われ、古代・中世・近世日本の文学におけるそれらの基準の概括の背景と内容は説き明されない。かかる日本文学古典上の評価の規準の推移に関するまとまったものとしては寡聞にして僅に久松潜一氏の『日本文学評論史』二巻があるばかりである。
 きのう、そして今日の日本の文化の一般的実質が健全に発育し豊富であるというには未だ未だ遠い現実であることは、克服すべき将来の問題の一つとして十分認識されなければなるまい。その文学精神が欧化したと云われる日本の純文学は一つのN・R・Fによってどれ程さわがされなければならなかったろう。文学における日本の精神というとき、その専門家である国文学者は俗流孫引きの牽強に対して、常識の抱く疑問を明かにする文化的実力は有しないのである。日本の市民生活における文化一般の未発達、貧寒さということはこのような現実のありように対して云われるのである。
 一九三六年という年は、かようにして「もののあはれ」、「ますらをぶり」等が晦渋に呈出されつつある一方で、万歳と漫談、とりとめなくエロティックな流行歌とが異常な流行を見た時であった。文学における「嗚呼いやなことだ」と一味通じて更にそれを、封建時代の日本ユーモア文学の特徴である我から我頭を叩いて人々の笑いものとするチャリの感情に絡んだ気分のあらわれであった。鬱屈や自嘲がこういう庶民的な笑いかたの中に、日本らしい表現をもったのであった。
 このことは、しかし、日本におけるヒューマニズムのたださえかがみかかって現れて来ている腰を、一層弱くし、泣き笑いの人生へ人間らしさ[#「人間らしさ」に傍点]を追い込む危険を導き出したと共に、更に『文学界』などの論として、民衆は現実に対して批判精神などはちっとも必要としていない。彼等はあのように朗かに笑っているではないかと、文学における批判精神の抹殺、ある意味では文学そのものの存在意識を否定した見解をひき出した。この論の真の眼目は、生活の現実に立って今日のヒューマニズムが無方向、一般人間論としてはあり得ないこと、リアリズムにしろロマンチシズムにしろ、人間的立場に立つ以上現実批判なしにあり得ないことを警告しつづけて来ている一部の進歩的作家に対する駁論、否定にある。そして、先頃までは、すべての文学論議が常に知識人中心に扱われて来ていたにかかわらず、この、民衆は批判精神などという小五月蠅《こうるさ》いものを用としていないと云われ始めた頃から、文化と文学の対象に、民衆という語が現れて来た。これは将に刮目《かつもく》されるべき一つの点である。
 批判精神を持たず又必要ともしないのが本来あるがままの多数者であるという規定は、その非現実な設定にかかわらず、インテリゲンツィアと民衆との相互関係の見かたに又一つより低き方への動きを与えた。ヒューマニズムの問題のはじまりに、宙に浮いた知識階級なるものを仮定してそこでばかり物を云っていた弱点は、この時期に到って、インテリゲンツィアと民衆との游離という風に誇張せられ、インテリゲンツィアはさながら自ら知識人であることを負担として知慧の悲しみを愧《は》じるが如き身ぶりが現れた。
 森山啓氏の「収獲以前」という作品は、小市民としてのインテリゲンツィアとその庶民風な親族との家庭生活のいきさつを描いたものであったが、民衆生活の内に齎《もた》らされた知性(知識人となっている主人公によって)を、それによってより光明的な方向に生活を押しすすめて行くべき原動力としての関係において描かず、周囲の自然発生的な、所謂庶民的なものを批判なく受けうつそうとする受動的な物わかりよさ、素直さ[#「素直さ」に傍点]として扱われているところに、時代的な特徴が語られていたのである。
 中野重治氏「一つの小さい記録」「小説の書けぬ小説家」窪川稲子氏「くれない」等はかかる情勢の裡にあって、日常生活の様相においてさえも新たな一つの歴史の段階に入らんとしつつある階級人のそれぞれの苦痛の姿を語った。藤森成吉氏の戯曲「火」は脱獄後の長英と親友鈴木春山とが描かれ、「三十年」は昨年の同じ作者による「シーボルト夜話」の続篇として書かれた。貴司山治氏の戯曲「洋学年代記」には、学者としての良心と達識とのために国法にふれた幕末蘭学者の一群と間宮林蔵の運命とが扱われた。村山知義氏は「或るコロニーの歴史」に朝鮮人の生活を描き又「獣神」にこの作者独特のエネルギーと不思議な内部の分裂矛盾を示した。
 この年六月十八日にマクシム・ゴーリキイがその多彩多産な六十八年の生涯をモスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]で終ったことは、世界に少なからぬ感動をつたえた。ゴーリキイをしてしかく人類的な光彩ある活動と、才能の満開とを可能ならしめた社会の文化的条件を想い、翻ってその招来のためにゴーリキイが作家的出発の当初から共に労して来た歴史の推進力との相互的関係に思い潜めて、それぞれの国における歴史と文化との季節について考えたのは、ただ深い泥濘の中を歩いている日本の作家のみではなかったであろう。
 十七年振りでアメリカから帰朝した佐藤俊子氏が、十七年留守をしていたということから生じた却って一種の清純さ、若々しさでアメリカにおける日本移民、第二世の生活を「小さき歩み」に進歩的な目で描いたのは興味あることであった。
 国際ペンクラブ第十四回大会は、この年九月五日から十日間、アルゼンチン首府、ブェノスアイレスに開催され、日本からはじめて島崎藤村、有島生馬の二氏が代表として出席した。大会は、国際事情の複雑な背景を負うた。同じ六月ロンドンで第二回会議を持った国際文化擁護国際作家会議は、各国文化を脅しつつある「反合理的・反科学的エモーショナリズム」への抗議と、人間的な共同精神を失って専門化・瑣末化しすぎた現代学究への健康性の要求として、フランス支部から提出された新国際百科辞典の編輯を決定し、三ヵ年無裁判で投獄されていたドイツのオシツキイをノオベル平和賞の候補者として決定した。七月にはスペインにフランコ将軍の叛乱が起り、アンドレ・マルロオは政府軍の義勇軍に投じた。第十四回国際ペンクラブの大会は、会合地の関係もあって、英米ともに文学の現役を送らず、文学的には貧弱であったが、それにしても猶、日本から遙々出席した「夜明け前」の作者藤村は、深き様々の印象を与えられたらしい。一九四〇年の第十八回大会日本招致は、日本代表の努力によってオリムピック大会東京開催と年を同じくして決定された。
 この決定に因《ちな》んで、日本ペン倶楽部は日本独自の立場を持つものであるが、同時に、「文学と文学者達との間に決議された事項は文学を主軸として解釈さるべきであって、それに不必要にして余計な拡張解釈を加えることは誤りに陥り易い」こと、民間性が重んじられるべきこと、文化の相互的理解を深める機会として大国の襟度の示さるべきこと、又、年を同じくして日本文化連盟主催の万国文化大会も開催される由であるが、これとペンクラブの大会とは「依立する主軸と意図に相違ある」こと等が、諸方面から明かにされたのは、極めて妥当なことであったと云える。(一九三七『文芸年鑑』)

        今日の文学の諸経験
          ――明日の文学への流れ――

 さて、遂に我々の前には、将に暮れようとしている一九三七年の頁が現れた。この一年間に生きられた文学の諸経験は、その質においてまことに深刻である。
 前年の終りに近づいてから民衆本来の心の姿は、或る種の作家の主張する如く現実の生活に対する批判の精神などを必要としていないものであるという論の出現したことについては前に触れた。本年に入ってこの論は、純文学と民衆生活との懸隔という方向へ展開された。純文学の作品を、きょうの民衆の何人が読んでいるか。彼等は依然として浪花節を好んで講談本を読んでいるではないかという風に問題がおこされたのであった。
 そして、これ等の論者の言に従えば、これまでの純文学は民衆の真にあるがままの生活に何等ふれるところがない。要するに文学青年どものもてあそびもので、作家は遂に文学青年目あてに技法の末技末節に拘泥した堕落におかれているのがきょうの現実である、純文芸の雑誌の経営困難も単行本の売ゆきの減少もすべてそこに原因をおいている、須《すべから》くそのような文壇を解消せよと云うのである。
 以上のような論が、嘗て三年前に、何でも書け、作家は書けばよいのだ、化物じみた新進作家万歳という形で文芸復興を叫んだ人々によっておこされ、更に、その文学的存在をこれまで最も文学青年的層によって繋がれて来ている一群の作家・評論家によって支持された事実は、何と見るべきであろうか。
 成程最近の種々な文学賞の氾濫は、一層文学を愛好する青年を見えざる文壇というものの周囲につめかけさせ、そのことは現実に或る種の作家が、人間的にも文学的にも薄弱な少なからぬ若者に囲繞《いにょう》せられる結果をひき起している。それぞれの賞に関係する選者があることは、その選者である有力な作家と選されようと欲する文学志望者との間に、それぞれの作家の稟質を反映して様々の微妙な交渉をも生じている。だが、純文学が民衆の現実からはなれてしまったとしてその根本原因は、文学青年の咎でないことは自明である。謂わばそれらの賞によって文学を産む素地の萎縮を救い得るかのように考えた既成作家の文学観が問わるべきであろう。社会の現実の内で所謂知識階級と民衆との生活の游離が純文学を孤立化せしめた動機であることに疑ないのである。
 ヒューマニズムの問題において、飽くまで知識階級として独自の解決を見出そうとし、その不可能の企ての内で混迷しつづけて来ている多くの作家は、この文学の大衆化という再燃した課題に向っても、同じように民衆という語と作家という語とを内容的に全く固定して相対したものとし扱いつづけた。民衆にとってわかり易い文章を書かなければならない。民衆の感情にふれるところまで民衆の日常性の中へ下りて行って書かなければならない。そう主張するこれらの提唱をやや体系だてたものとして、谷川徹三氏の文化平衡論が現れた。日本の文化の歴史は、その社会的な背景の影響によってインテリゲンツィア、特に作家の持つ精神内容の高さと、夥しい制約を負うている民衆の文化水準との間に、甚しい距離が生じた。この不幸なわが文化の特徴が、今日文学と民衆とを切りはなしてしまっているのであるから、作家は、そのギャップを埋め、文化の平衡性を保つために努力しなければならぬとするのが、文化平衡論のあらましである。
 引続いて、文学と民衆、文学の大衆化の問題は、一九三七年の前半期に沢山の討論を招致したテーマであったが、ここに注目されなければならないのは、民衆というものを如何に見るか、という基本的な規定の点では、見解が四分五裂の観を呈したことである。明確に、現実の生活のありようがそれを示しているままに、大衆と一口に云っても内容は様々であって、文学に対しても大別進歩的要求をもつもの、保守的要素をもつものとあって、日常生活と云われる関係の内側でも大衆自身利害の対立や相異を有するものであり、相互関係が社会の全体の動きで動きつつあるものとしての民衆。そのどの部分に歴史の進みゆく重点を見るかという観かたに於て民衆の具体性はとりあげられなかった。知識階級という、あり得ぬ抽象中間階級を設定してヒューマニズム論をめぐる人々は、民衆を口にして、やはり、民衆を一箇の抽象名詞としてしまった。更に注目をひかれることは、この文学の大衆化動議においてそれ等の論者は民衆を抽象化しつつ、而も一方では現在の文化低度に固着せしめた条件で民衆を明白に、文化上の被与者として扱っている事実である。
 大衆という言葉の歴史における意味で、文学との関係をとりあげたのはプロレタリア文学であった。プロレタリア文学は、勤労者の広汎な生活を文学にうつしつつ、同時に、大衆そのものが内蔵している文化と文学との新たな発展力、その開花を前途に期待した。作家と読者との関係は単に需要者・供給者の関係ではない肉親的交流において見られたのであった。
 再び文学の大衆化が文壇に論ぜられるに当って、大衆の文化的発展の諸要因が無視されると共に、作家との関係では、作品の給与者、被給与者としての面が強調されていることは、実に時代を語っている。
 かようにして文学は批判精神などに要なき民衆の日常性に入らなければならないと云われる他方では、殆ど時と人とを同じくして、「大人の文学」という提案がされた。従来の文学青年的な純文学、神経質、非実行的、詮索ずきな作家気質をすてて、非常時日本の前線に活躍する官吏、軍人、実業家たちの生活が描かれなければならず、それ等の人々に愛読されるに足る小説が生れなければならないとする論である。「大人」という言葉も、文学青年的なものに対比して出されたのであろうが、そのものにおいて多分の文学青年ぽさを印象づける。大人の文学と云う場合、一般の通念を、官吏、軍人、実業家とのみ限定することは困難である。人は、貧しき大人、苦しき大人、得意ならざる大人の現実の存在を念頭に泛べざるを得ない。古来文学は、まことに心かなしきものの友であったのであるから。――
 文学における日本的なるものの主観的な横溢の流行は、フランスから帰朝してその第一作「厨房日記」を発表した横光氏の作品が拍車となって作用した。常にN・R・Fのかげを負うて来ているこの作者が、「紋章」では日本の精神の緊張、高邁さの一典型として茶道を礼讚した。その気の張りさえも「厨房日記」では棄てている姿は、当時、翻訳紹介されたジイドのソヴェト旅行記にある反現実的な態度と微妙に日本の空気の裡で結びつき、反欧州文学思潮の流れを太くした。
 ジイドは、ミドルトン・マリの評によれば「ほとんど取るに足らない本質的な業績を基礎として、しかも彼のようにヨーロッパ的人物となった作家は蓋し異例と云うべきであろう」ところの作家である。ジイドの箇人主義は、それが日本へも移植されたフェルナンデスの主張する行動のヒューマニズムの文学が要求するニイチェ的な意味での全的なる箇としての箇人主義であることは周知のことである。ジイドの「芸術的な無道徳主義は」、「ニイチェの『危険な生き方』とドストイェフスキーの英雄的な道徳廃棄論との巧緻な結合であり、しかも以上の二人の天才の倫理的熱情を全く欠いているジイドは」単に「感覚の玄人」として、世界観の飛躍を試みたに過なかった。
 日本でジイドは、実に驚くべき過重評価をうけたのであるが、且て二十年近い昔、「狭き門」「背徳者」などが翻訳出版された時文学愛好者がアンドレ・ジイドなる名に払った注意は決して甚大なものではなかった。ジイドの日本における奇妙な繁栄は、丁度四五年前、プロレタリア文学の蒙った破壊前後、文学的混迷の時期に、一部の人によってジイドの混迷期の作品「パリウド」などが、深刻な面持で紹介されたに始る。続いてシェストフの不安の文学を通じてもたらされたニイチェ、ドストイェフスキー熱はミドルトン・マリがその混成物であるというジイドの芸術をも益々日本の読者層に輸入した。又ジイドがフェルナンデスの限界を破って、更に新しい社会の建設に対する賛同者になったことは、違った種類の読者をもひきつける一応の魅力となった。かかる事情のもとで日本へ紹介されたジイドは、小市民的なインテリゲンツィアの手にとられた知慧の輪のように、それぞれの動機からああこうと受けわたしされたのであった。
 ジイドは前年夏ゴーリキイの病篤しと知って、モスク※[#濁点付き片仮名ワ、1-7-82]へ飛行し、そこに約二三ヵ月止り、かえって旅行記を書いた。本質に於ては飽くまで旧い箇人主義から脱していないジイドが、「新しい社会の集団人《マス・マン》の代表者、具現者」としての部署におかれている人物の価値を理解することは全然出来なかったし、その社会全体が発展の過程に於て経なければならない内外の摩擦の諸相とその意味を正しく把握することも不可能であった。ジイドはその本の序文に「私自身よりも、ソヴェートよりもずっと重大なものがある。それはヒューマニティであり、その運命であり、その文化である」と云い又「あらゆる反ソヴェートの新聞紙が、いま自分の本を利用するのが残念である」と云いつつ、ロマン・ロランその他の前もっての忠言にかかわらず、その小冊子を三ヵ月に百五十版重ねさせた。「政治的に利用してあるパンフレットの如きは一部一法二五。十部十二法。百部百法。五百部四五〇法。千部七五〇法というような割引率で、数万を頒布している」(引用文、フランス現代文学の思想的対立)。
 ジイドの「感覚の玄人」の腕に魅せられた人々は、今猶上に引いた序文の言葉の魔術や、八方からの反撃にかかわらずジイドが飽くまで真理を追究しよう[#「飽くまで真理を追究しよう」に傍点]としている態度という架想に陥って、人類の文学の今日の多難な道の上にこの小冊子の著者が撒いている細菌の本質を観破せず、或は、観破せざるが如きうちにおのずから、自身の真理追究[#「真理追究」に傍点]の姿をも一致せしめているかのように見うけられる。
 文芸懇話会が、文学の隆盛のための組織としてはそれ自身矛盾を包んでいることは既に明らかにされたのであったが、一九三七年という年は、更に建国祭を期して文化勲章が制定せられ、帝国芸術院というものが設立され、文芸懇話会は創立四年目に発展的解消をとげて、新日本文化の会として現れた。
 文学の論議が、これ等の文化組織の設立に前後して、異様な一方性をもって政論化されて来たことは一つの画期的特色である。文学と大衆との無批判性、大人の文学、文学における日本的なものの強調等は、文学の全体としての健全な発展のために自省され、再評価されるべき範囲を脱し、文学を論じつつ、その論調を文学以外の規準で律するような危険を示して来た。批評文学は、昨年既に批評家自身によって随筆化されたと云われていたが、ここに到って一層その理論的骨格を挫かれて来た。一方的な飛躍は、遂に近代世界の文学が永い努力の蓄積によってかち得て来た文学評価における科学性の意義の抹殺に到達したのである。
 折から川端康成氏の「雪国」、尾崎一雄氏「暢気眼鏡」、永井荷風氏「※[#「さんずい+墨」、第3水準1-87-25]東綺譚」等が一般に文学の情愛とでも云うようなもので迎えられたことは、これらの作家それぞれ独特の文学の境地と美と云われるものの性質とをもっているからである。が、特にその芸術におけるリアリティーの境地や美感が、所謂科学的な要素を全く含んでいないで、現《うつつ》と幻の境をゆくが如き雰囲気であることが、文学に同じ日本的なるものを愛するとしてもその問題と作品との政論化に賛同しかねていた作家層と読者とを広くとらえたのであったと思われる。
 然しながら、現実は川端、尾崎両氏の芸術的現実に終っていないのであるから、一方に真の大衆の生活感情をその文学の中に再現しようという努力がつづけられており、中野重治氏「汽車の罐焚き」徳永直氏「飛行機小僧」「八年制」「はたらく一家」窪川稲子氏「新しき義務」宮本百合子「雑沓」にはじまる長篇への試み等が現れた。島木健作氏が、農民組合活動における今日の諸タイプを描いた「再建」は単行本として出版されて各方面に印象を与えて間もなく発禁となり、「生活の探求」は、書下し長篇小説として出版された。「八年制」も「汽車の罐焚き」も好評を得た作品であり、それぞれその作者らしさの溢れたものであったが、例えば「八年制」と同じ作者の「心中し損ねた女」「作家の真実」雑誌『新文化』に執筆された同じ作者の感想等をよみ合わせると、読者は、日常の生活感情と云われるものの内的要素やその質について、複雑な歴史の投影を感じざるを得ないのである。中野重治氏の「汽車の罐焚き」「原の欅」と幾多執筆された文学についての評論とは、その相互的関係において眺めて、やはり、今日この種の作家のおかれている条件の主観的客観的のむずかしさが痛感せしめられる。
 本年の後半に入って、これまで描写のうしろにねてはいられないと、独特の話術をもって作品を送っていた高見順氏が「外資会社」「流木」等、調べた材料によって客観的な小説を書きはじめたことは注目をひいた。石川達三氏「日蔭の村」も或る報告文学の試みとして注意をあつめた。
 本年七月蘆溝橋の事件に端を発した日支事変は、秋以後、前線に赴いてのルポルタージュとして、文学に直接反映をもって来た。林房雄、尾崎士郎、榊山潤の諸作家が前線近く赴いて、故国へ送ったルポルタージュ、小説の類は、文学の問題として、ルポルタージュの性質を再び考え直させると共に、文学を生む人間経験の諸相について、作家を真面目に考えさせるものがあった。文学の現実の豊饒は、決して政論的に抽出された数箇の合言葉ではもたらされないという教訓深い事実である。
 日独協定が行われて略《ほぼ》一ヵ年を経た本年下四期に日伊協定が結ばれ、南京陥落の大提灯行列は、大本営治下の各地をねり歩いた。十二月二十四日開催の第七十三議会に先立つこと九日の十五日に日本無産党・全評を中心として全国数百人の治維法違反容疑者の検挙が行われ、議会に席を有する加藤勘十、黒田寿男氏等は何日も経ず起訴された。被検挙者中には、大森義太郎、向坂逸郎、猪俣津南雄、山川均、荒畑寒村等の諸氏がある。末次内務大臣は、大学専門学校等の周囲三百米から喫茶店、ビリヤード、マージャン等の店を撤廃するように命じ、従来の自由主義的な学生の取締方法を変更するべきことをすすめた。十二月二十四日の都下の諸新聞は、防共三首都の日本景気に氾濫したニュースと共に、四年間に亙った帝人事件が無罪と決定したこと並に、明春建国祭を期して一大国民運動をおこして特に国体明徴、日本精神の昂揚、個人主義、自由主義、功利主義、唯物主義の打破等精神総動員の趣旨の徹底をはかり学生、生徒、児童等には愛国行進その他団体運動を行わせ、これらの集会、行進等に際しては今回選定された愛国行進曲を合唱させること等を報じている。聖戦祝勝の気運をもってひた押しに一九三七年は暮れようとしているのであるが、さて、ここで再び人類の文学にとって興味つきざるヒューマニズムの問題に立ち戻って見たいと思う。かかる今日の環境にあって、日本文学はヒューマニズムの歴史のいかなる過程を辿りつつあるのであろうか。
 能動精神とヒューマニズムを提唱した人々によって、例えばテクジュペリの小説「夜間飛行」の主人公が死と闘う意志の強烈さに於て讚えられたのであったが、観念的なものであるにしろ、そのような意志の自主的な発動に対する能動的要求は、今日の文学にどのように在り得ているであろうか。
 本年度の特徴は、一方に素朴な形で文学の政論化が行われ、他の一方で、その政治的な傾向を回避する作品、理論が発生したことにある点は先に触れた。人間の精神の能動的な発動を希望する作家が今日現実に当面している困難の大さは、一朝一夕の解決を不可能と感じさせるものがある。暗く厚い壁にぶつかって撥《は》ねかえった文学の姿において、深田久彌氏の「鎌倉夫人」があり、阿部知二氏の「幸福」があり、石坂洋次郎氏「若い人」、舟橋聖一、伊藤整等の諸氏の作品がある。いずれもこれ等の作品は素材の広汎さ、行動性、溌溂さを求めている作者の意企がうかがわれるにもかかわらず、共通にそれらの作品の現実をつきつめて見ると作者の心の中でつくられまとめ上げられているものであるという実際は、深い示唆を含んでいると思う。この心につくられまとめられた世界とかげにいる作者との相互関係が又極めて単純ではない。主観的に現実の一部を形づくったことは、往年プロレタリア文学の創作過程にもあって、それはきびしい現実からの批判を経た。この時代の作者の主観は、少くとも或る人間的なものの歴史的主張の欲望に立って、その欲望の正当性の抽象化した過大評価から作品のリアリティーを損ったのであった。今日において、作者は、多く主観をひっこめて、現実のあるままの姿を描こうとしているようでありながら、その現実をうつす鏡は作者が今日の生活の波濤に対して辛くも足がかりとして保とうとするその人々の形而上学であると思える。この事実は例えば「幸福」における公荘一のありようを見ても、「若い人」における作者石坂氏が自身の芸術活動のモティーヴとして固守している超歴史的な本然性・人間性の主張、系統ある行為の目的性などを否定するという彼の系統だった現実への態度として明瞭に見られるところである。
 阿部知二氏は「幸福」を今日の漱石文学とし「こゝろ」や「それから」に一縷通じるものとの念願に立って書かれたのだそうである。「こゝろ」の先生という人格や「それから」の代助と、公荘とを比べる人の心に、果してどのような感想が湧くであろう。漱石は彼の明治四十年初期の環境において、過去の形式的、馬琴的道徳と行為の動機における「自覚されざる偽善」とを烈しく対立させた。習俗が課すしきたりの行為とその評価とに対して自主的な意志と目的の発動において人間が行為するだけ勇敢であるべきことを主張した。「先生」も「代助」もそのような自己の主張に立って生活を統一しようとしているために日露戦争後の世間の風潮にそむいて外見の不活動、低徊に生きた人物として立ち現れているのである。もとより漱石が旧道徳に対して新しき人間的モラルを主張した現実の姿が、彼の芸術の特徴をなした知的、行動的低徊に繋がれたことは、当時のインテリゲンツィアの一部が持っていた経済的・知的貴族性に制せられた結果として、今日自明なことである。
「幸福」の公荘は、壮年に達したばかりの年齢で既に生一本な情熱に動かされる感情を喪失し、しかも周囲の感情生活の諸相は或る程度あるがまま悪意なく理解する物わかりよさを持ち、常識は常識と知って習俗にさからわぬ躾をもって現れている。「先生」と「代助」が時代の制約の中ではあるが一定の主張をもち自らの戒律を持って生き、死にしたに対して、公荘は今日傍観する能力としてだけの範囲で知性を発動させる一典型としてあらわれているのを眺めることには、おのずから湧く感想なきを得ない。
 知識階級というものを抽出してヒューマニズムの展開が期されたのであったが、その抽象的な存在の不可能なことは、元大学教授矢内原氏の知性が蒙った最近の経験に徴して明らかである。ヒューマニズムは我の社会的拡大を眼目としているのであるが、今日の現実は、我の強壮な拡大の代りに没我を便宜とする事情でさえある。日本文学の歴史は、社会全史の一部として新たな一時期に当面しているのである。

 明日の日本文学は、果してどこからどのような色と形とで咲き出すものであろうか。これは愉しい予想であると同時に、その予想を人間文化にとって愉しいものたらしめるためには、少なからぬ年月に亙る芸術家たちの文学的堅忍と自己鍛練と生活への意欲とが翹望されなければならぬ問題である。明年度の文学が一躍、輝しき知慧の光と人間の愛に充満しようとは夢想だにされまい。文学はこれからうちつづく何年かの間、本質的には苦難を経、守勢をとり、萎靡した形をとるであろう。文学におけるヒューマニズムの問題、能動精神の提唱をした一部の作家が、今日ヒューメンなる何を主張し得ているかということについて、その無力化された有様だけを云々することは、綿々として人間生活と共につきぬ文学の問題の消長への観察として未しであろう。今日の現実にあって、従来云われて来た種類のヒューマニズムが多くなすところあり得ないという実際を、いかに身にひき沿えて自覚し、その自覚からどう抜け出してゆくかということにこそ、最近日本の文学にヒューマニズムの唱えられて来た将来への意義がこもっているのである。
 今日の全体的経験はすべての芸術家にとって避け得ない全体的経験としてあらわれているのであるが、人間生活の具体的な現象にあって、全体としての抽象的経験というものは存在しない。あらゆる日常の諸経験は、各人それぞれの感性を通し、知性、どこで生きているかという居り場処を通し具象的な事実として接触をもって来る。新しい文学の生れる素地は、全体のうちに在る現実の箇々の諸条件、そこにある豊富さ、経験とその吸収とに際して働く意欲如何によって決定されるに違いない。現実の諸関係についての一層のリアリズム、一層の粘り、一層の謙遜にして不屈なる作家的気魄の確保が、今日から明日へつづく諸経験を貫いて、文学的結実をなすであろうと信じる。

 附記
 今日の文学を語る上からは、当然小説以外の諸ジャンルの現実にふれなければならない。筆者の勉強はそこにまで到っていない。その点については読者の寛恕を乞わなければならない次第であると思っている。ただ、最近「新万葉集」の選定が完結し、既に第一巻は出版されていることに一言ふれたい。「新万葉集」の選定されるに到った動機には、同質ならざる二様の意図が作用していたと思われる。一つは、明治・大正・昭和に亙る聖代に日本古来の文学的様式である和歌の歩んで来た成果を収めて、今日の記念とする意味であり、他方には純粋に歌壇の歴史的概括としての集成の事業である。
 この「新万葉集」のために歌稿をよせた作者の数は一万八千人であった。合計三十七万五千首という尨大な数の中から、十人の現歌壇人の選者によって、選がされた。選者の一人である窪田空穂氏の選後の感想には、今日の文学の問題として様々の意味から深い感興をよびおこすものがある。
 第一に選者をおどろかしたのは、和歌というものに反映している生活様相と心境との複雑さと、そのことに於て光彩を放っている作品の多さであった。
 歌材の上から見ても、第一に多いのは社会人としての意識の下に詠まれたのが多く、大体それぞれ職業を通じて、そのことにふれている。職業の第一位は農業である。これは日本の生産との関係から肯けることであり、その態度には「農業を風雅なものとか、辛苦の多いものとか甘い感傷の歌は殆どなく」「職業としての農業をつよく意識し」「自意識と批評精神から来る重く苦しいものが流れていて、これが正に農業を営んでいる人の心の端的だろうと思わせられる」
 次に目につくのは小学教員、工場内で職工として働いている人の歌であり、これらの人々の歌には歌材として第三者への間接性があるにかかわらず勤労が必要としている日常の緊張から「間接を直接ならしめて、歌としては清新な、力強いものを生み出している」というのは、意味深い文学上の一つの客観的事実である。
 官吏、軍人、画家、銀行・会社につとめている人々。更に料理人、理髪師、土工等あらゆる階級の人々にとっての文学表現の形式となり得ている、その様式の浸透を、窪田氏は超階級性と見ておられるのであるが、直ちに、作歌上からむずかしさのために過去の歌でさけられて来ている職業を取材したものの多いのは、現代の歌の特色を語るものであると認めていられることも面白く、歌は「その社会的な点に於て散文文芸に並び得るものだと云える感がする」と述べられてある。
 そして、恋愛の歌の如何にも尠いこと、親として子を思う歌に父親としての歌の増大していること、又子が親を憐んで詠んでいる歌の多いことも、現代の実相をつたえる傾向としてあげられている。
 次ぎに目に着くことは、幼い児を持っている若い妻の死を悲しむ歌が、いかに多いかということである。悲しみと困惑とに浸されている父親の歌は、意外に感ずるほどに多い。それに較べると、若くして夫を喪った妻の歌は少いものである。そういう事柄がなくはないであろうと思われるが、その種の歌は少い。
 いたましいことであって、意外に感ぜずにはいられないほど多いのは、呼吸器病患者の歌である。不治を覚悟しての床上で詠んだ、複雑な、又徹底した、その人のその境地を外にしては詠めないと思われる歌が実に多い。
 更にいたましいのは、全生病院の患者の歌である。中には、事と心と相伴って、沈痛な、深刻な、全く他には見られない歌がある。
 文学がその本質としていかに現実を雄弁に語らざるを得ないものであるかという動かしがたい実例を、ここにも私たちは見るのである。



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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