青空文庫アーカイブ

文学の大陸的性格について
宮本百合子

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(例)脂《あぶら》

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(例)「|ほかの神々《アザ ゴッズ》」

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(例)[#地付き]〔一九四〇年十一月〕
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『現代アメリカ文学全集』の中にドライサアの「アメリカの悲劇」が出ている。
 この間よみかえしてみて、これまでとはちがった新しい感銘をうけた。もと読んだときには、ずいぶん古いことだったけれども、文章のきめの荒さや作者の身についている一つのぬーっとした脂《あぶら》こさが、鼻にぬけるアメリカ英語と共通な反撥を感じさせるようで馴染《なじ》めなかった。今度読みかえすと、やはりこの作品がアメリカを描いた文学として現代古典となる理由がわかった気がした。
 アメリカの社会の成り立ちの性質は、この小説の主人公クライドのような貧しい、正統な教育もさずけられていない、孤独な青年の胸のなかにも、出身や栄達の希望と空想とを抱かせる一応のデモクラシーがあるようで、デモクラシーの名とともに燦《きらめ》く富の力はそれらの青年たちのまるで身近くまでちかづいて、クライドのようにそのなかに入ったように見えるところまで来て、さていざとなると、富める者は自分たちの気まぐれな触手をさっと引っこめて、貧しい無援な青年の生涯は悲しく浪費されてゆくことが、「アメリカの悲劇」の本質として描かれている。
 デモクラシーというアメリカの祖語に対して、日常現実のそういう対立と隔絶の中からドライサアの見出した悲劇が、現代のアメリカの社会悲劇であるということは、誰しも肯かざるを得ないから、この作品が今から三十年前に発表されたとき、アメリカのあらゆる読書人が何かの意味で衝撃を感じたということは十分に推察される。
 ドライサアは大変バルザックがすきだそうで、そう云われれば文体などでもバルザック風に所謂文学的磨きなどに拘泥しないで、いきなり生活へ手をつっこんでそこからつかみ出して書いているようなところに、ある共通なものがある。
 主人公クライドが、愛人である女工のロバアタの始末にこまって、ふとした新聞記事の殺人事件から暗示をうけ、その錯乱した心理の圧迫がロバアタを恐怖させその瞬間の二人の動物的なまた心理的な葛藤から、ついにロバアタが命をおとして、クライドは死刑になるあたりの心理の追究は、ドストイェフスキーの影響をうけて、作品を通俗小説のプロットから救っているようだが、全体からみるとこしらえものであるという印象を与える。
 そういう部分ばかりでなく、ドライサアの現実のみかたには通俗なところがあって、クライドの心理、行動のモメントを肯定している作者としての肯定のしかたにもそういう点が強く感じられる。ドライサアはアメリカの作家として、あらゆるアメリカの悲劇を克服しようとしてたたかうようなたちの青年は描かないで、クライドのように富は富として常識に魅せられ、享楽は享楽として魅せられて行って、しかも、素手でそれを捕えてゆくほど厚顔でもあり得ないアメリカの普通人の悲劇を描く作家と思える。ドライサアが世界の歴史の転変に対して作家としてもっている限界について云われた理由もそこに在ったのだとわかる。今度読んで特別心に刻まれたのは、それらのドライサアの作家としての特質が、アメリカという大陸の社会生活の血液循環に何とはっきり養われているかという点についてのおどろきである。
 バルザックの作品の深さ大さにふれるとき、私たちは作家バルザックの個人としての生活力の逞しさ旺盛さに面を打たれ、同時に十九世紀のフランスという時代の力づよい飛沫を顔に浴びる。
 ドライサアの作品が感じさせる底なしのようなアメリカ生活の蠢《うごめ》きの圧力感は、一個ドライサアのものではなくて、単に世紀のものでもなくて、アメリカという広大な土地の上に複雑を極めて交錯する現代社会の矛盾の姿であって、同じ矛盾は各国にあるのだが、アメリカは大陸であるという独自な生理で、その血液の流れ工合で文学が肉づけられていることを痛切に感じるのである。
 日本で大陸文学ということが云われはじめて二年ほどになるが、文学のこととしてさまざまの問題が包含されていて、そのことが心に在って、ドライサアの作品は一層新しい暗示をもったのであったと思う。
 同じ全集にシャーウッド・アンダスンの「暗い青春」が出ていて、これは作品としてみればドライサアと全くちがった世界をもっている。アンダスンの詩人らしい気象、アメリカの効用主義的社会通念に対する反抗が主題となっていて、文章もリズムを含んで感覚的で、一見主観的な独語のなかに客観的な批判をこめて表現する作風など、ドライサアとは全く異っていて、近代の心理的手法である。
 アメリカの実利性、人間精神がより高く深く真理をとらえようとする懐疑を忘却して自足しているアメリカの精神麻痺へのプロテストとして、アンダスンは「暗い青春」の主人公の家出、破婚、流浪の本質を描いているのだけれども、フランス文学にごく近接しているようなその作風が、やはり文学の肉体として敏い感覚性や批判の心をくるんでいるのは独特なアメリカの肉の厚ぼったさ、大きさ、ひろさの響である。
 このところは、文学の特性として真に面白いと思う。
 つづけて、パール・バックの「山の英雄」という作品をよんだ。これは粗雑な訳で、文学的な香りは文学からすっかりぬかれていてつまりは話の筋を読むような情けないものではあったが、それでも作品として受けた感情は浅くなかった。「山の英雄」という訳名よりも、「|ほかの神々《アザ ゴッズ》」という原名の方が遙に内容に切実である。
 バックはこの作品で、アメリカが、社会的な気風の特長の一つとしていつも社会全体にとっての英雄を渇望していて、何か偶然のきっかけでそのような英雄にまつりあげられた平凡な一市民は、そのためにドライサアの「アメリカの悲劇」では主人公クライドにとってのりこえられなかった貧富の堰《せき》ものりこえる代りに、人間としての生活の自主を全く喪って、英雄業者として四六時ちゅう行動を掣肘され支配され、ハリウッドのスタアのような人為的雰囲気で生存しなければならない悲惨を、バート・ホームと妻キットの性格の相剋と絡めて描いているのである。
 この小説は「アメリカの悲劇」が書かれてから三十年経っている今日のアメリカ社会の性格をとらえていて、社会の歴史の動いて来ている姿がまざまざと理解される。アメリカの所謂名門旧家の人々が、いつしか社会の推移につれて教会の神のほかの神々である金力のほか有名人という気まぐれな神にも支配され奉仕するようになって来ていること、しかもそこにアメリカ的実務性にしたがって有名人製造というビジネスの存在する有様を、バックは描き出しているのである。
 永年支那に生活して「大地」をかき「戦える使徒」「母の肖像」をかいたパール・バックが、アメリカにかえって、新鮮な感受性と観察と批判とでそこにある社会生活に目をやったとき、この人間を不幸にする刻薄な神の働きを見出したのは深い意味がある。バックはそこで原始的なものの上をいきなり近代の歴史にさらされている支那の悲劇とは全然ちがう現代アメリカの高層建築的悲劇を見出しているのである。ホームの「自覚された鋭い正直さ」というものをもたない人柄に対する妻のキットの精神的苦悩も、その悲劇への抗議としてまた敗北として、バックは誠意をもって辿っている。
「アメリカの悲劇」が更に発展し高度になっている現代の局面をバックは内面からとらえた。そして非常に心をひかれる点は、この「山の英雄」のもっている作品として体質がいかにもバックのアメリカの婦人であることを思わせる量感に溢れていることである。「母の肖像」(今は「母の生活」という訳名で出ている)もそのことでは極めて独自な生命にみちた興味ふかい作品であった。しかし、私たちの心をうつ今日の感想はバックが「大地」をかき得たのは、大なる地の脈動を自身の体のなかにもっているというその内奥の近似が、彼女の人間生活の諸相への愛と理解との根底にあったからだと思う。
「イアリング」のようなアメリカ文学としてみれば珍しいリリシズムで貫かれている作品にしろ、フランスの文学にある自然への抒情性とは全くちがったむーっとして遠くひろく際限のない地平線にとりまかれて暮す人間の感覚で書かれている。決して決して日本の季感に通じるリリシズムではないものでかかれている。
 題材とか主題の扱いかたというものより一層肉体的生活的な文章の行と行との間に湧いて、読者をうって来るそういう大陸の圧力は、アメリカ文学ばかりでなく例えば、諷刺小説「黄金の仔牛」の肌あいにも十分感じられるし、魯迅の小説にも生々しく息づいている。
 日本の文学が大陸文学と云いはじめてから、その文学のために奔走する人々は、どの程度までこういう点についての感覚を目ざまされて来ているのだろう。
 大陸文学という呼び名が浅い目先の音響できこえるのは、年月が短いばかりでなく、文学的業績が乏しいばかりでなく、大陸というものがその生活で示している巨大で複雑な主題の深さをリアルにつかんでいないことや、その主題が文学として命をもった表現を与えられるためには、作家そのものの感性が大陸生活史の質量を具えなければならないことが、分っているようで分っていないところから来ていると思う。
 大石千代子さんは、ブラジルに十年の余も暮し、南洋にも暮し、書きたい題材はいっぱいあって苦しいくらいだという状態で、『山に生きる人々』という作品集を大陸開拓文芸懇話会の選書で出版していられる。
 大石氏の題材は多く日本からの移民の生活が扱われているのだけれど、そして大陸開拓の文学というとき満州あたりの移民の生活が考えられているのだけれど、大陸文学というとき、内地の感覚で移民の生活が先ず浮ぶというところに、日本の文学における大陸性の性格が特徴づけられもしているし将来に向っての深い課題をひそめてもいると思われる。
 大石さんの小説をみても、移民という立場で働き生きる人々、第二世と云われるその子供たちの生活は、内外とも二つの国に挾まれる苦悩にみたされたものであることがわかるが、日本の文学が世界史の変動につれて将来大陸性をもつようになるとすれば、大陸生活を描く作家たちは辛酸を耐えて、文学の内的世代として移民生活の描写時代を生きぬけなければならないだろう。そして、大陸に生活する日本人という響が今日つたえているテムペラメントそのものの二重性、その間の乖離、そこに生じる大小の悲劇を誠実に生きすぎて、日本の心に一つの雄大な地平線をもたらさなければならない次第だろう。日本の人が日本の在来の心に壮士風のロマンティシズムと感激とを盛って大陸にいって書いて来る文学の肉体・呼吸・体臭は大陸の文学の輪廓を出しにくいのが目下の現実であり、そこに文学としての畸形が生れている。
 大石さんなどでも、書きにくさについて語っているが、この素朴な表現に案外多くのものがこもっているのではないだろうか。作者としての大石さんが、作品の世界にとらえ難《にく》いと歎いているものはあながち海外でのみみられる日本人の人間としての成長の過程のあとづけばかりではなくて、そのように日本の心をつくりかえてゆくそこの土地の力の云うに云えない日夜の作用そのもののうつし難さも在るのではないだろうか。
 ある土地の風物は作者が直接耳目でふれたから間違いない、という範囲で文学が文学としてのいのちをもち切れないところが微妙であるのだと思う。[#地付き]〔一九四〇年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十二巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「月刊文章」
   1940(昭和15)年11月号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2003年2月13日作成
2003年6月29日修正
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