青空文庫アーカイブ

ワーニカとターニャ
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)共産党青年《コムソモール》

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(例)[#地付き]〔一九三一年四月〕
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 黄色いモスクワ大学の建物が、雪の中に美しく見える。凍った鉄柵に古本屋が本を並べてる。
 狭い歩道をいっぱい通行人だ。電車が通る。自動車が通る。
 モスクワ大学のいくつもある門を出たり入ったりする男女の学生の年は、まるでまちまちだ。
 九年制の統一労働学校(小学校)を出ていきなり入ったらしい子供っぽい青年たち、娘、カセ杖ついて、重そうな書類入鞄を下げ相当ふけた男女学生もいる。(革命の国内戦やヨーロッパ戦争で負傷した人々だ。)みんなは笑ったり、喋ったり、または誰も対手にしないで片手をポケットへつっこみ、ズンズン歩いてく皮帽子の女学生もいる。
 ワーニカの親父は、旋盤工で、「鎌と鎚」工場に勤続二十五年の労働者だ。親父は一九一八年に党員になった。
 ワーニカは、「鎌と鎚」工場の工場学校でずっと勉強し、共産党青年《コムソモール》だ。去年、工場委員会が彼を職業組合へ推薦して、モスクワ大学で経済と法律の勉強をするようにしてくれた。
 ワーニカは、だから元気だ。元気な息子を見て、ワーニカのおふくろはよろこんで、親父の古外套を仕立直して、ワーニカのにしてくれた。
 十分暖い。防寒靴《ガローシ》はだいぶ古で、歩くとパクつくが、何! これがソヴェト五ヵ年計画に障害を来すわけでもないさ。――
 ワーニカは、わいわい云いながら入口で防寒靴をぬいでる一かたまりの男女学生の中に、見なれた円い緑色の毛糸帽を見つけた。
 モスクワには、そんな緑色の帽子をかぶってる女がうんといるわけなんだが、ワーニカは、例えそれが五つかたまってたって、見そこなわないだろう。
 ――どうしたい? ターニャ!
 うしろから、その緑色帽の肩へ自分の肩をぶつけてワーニカが云った。
 ――昨夜《ゆうべ》、お前はよく話したな。
 党員や学生、労働者たちはみんな互に「お前」で話す。ターニャは党員じゃない。けれど、自動車工場に働いてる労働者の娘だ。モスクワ大学男女学生が、赤色学生連盟から『赤色学生』っていう雑誌を出してる。昨夜は、その発行所で、大学寄宿舎生活についての討論があった。自己批判だ。ターニャはその時、おかっぱを活溌にふりながら、自習時間がやかましいことや、自治に対してみんなが無責任だ。いたずらに外套をかくしたり本をかくしたりする者もある。(大学寄宿舎は男女学生一緒。室だけきっちり分れてる。)我々はそんな子供なのか? というようなことを話したのだ。ターニャも学生委員(衛生部)の一人なんだ。
 ――ワーニカは批判能力がないんだ。
 チリチリこまかにちぢれた髪のイリーナが、賢い皮肉な笑顔で云った。
 ――ターニャの話したことは、もう陳腐な古くさいことよ。誰だって知ってる!
 ――俺はイリーナを支持するよ。
 ――何ガーガー云うのさ。
 のどまで、灰色のスウェーターをきっちり着こんだマルーシャが一段高い声で云った。
 ――これは規律の問題より、むしろ空間の問題さ!
 マルーシャは、みんなより年上だ。寄宿舎で、彼女は一室貰い、結婚してガリツェルという、やっぱり経・法の学生と暮してる。
 ――そうだ! 断然空間の問題さ!
 誰か、うしろから大きな声で云った。
 ――我々が一室に二十人いるとき、或るものはたった二人でそこを占領してるという事実は、空間の問題を呈出するよ。
 彼等は笑いながら、ぞろぞろ二階の教室へのぼってった。教授はまだ出て来ない。喋ってると、
 ――一寸、しずかにして下さい!
 席から立ち上って、ナデージュダが云った。
 ――私は壁新聞の責任者として云いますが、この頃、何故だかみんなの投書がへりました。どうか奮って投書して下さい。
 ――氷滑りで時間がないんだ。
 鉛筆をけずりながら、大人っぽい声でドゥーシャがやりかえした。
 ――氷滑りにだって階級性はありますよ。
 ワーニカとターニャは並んでかけてる。ワーニカはしかしターニャと別に喋くらない。ぺちゃぺちゃやってるのは、ターニャと同じ小学校からやって来たイワンだ。
 イワンは技師の息子で、みんなの間に有名な一つの病気をもっている。それは、学生委員会であろうが、昨夜のような集会であろうが自分が鼻をつっこめるだけの場所で、誰か一寸余分に拍手された話し手があると、きっと次の日は一日それにくっついて歩くのだ。
 イワンは、下らないことを喋りゃしない。今もターニャにアメリカ経済恐慌で、フォード自動車はどれだけ生産を縮小したかということを喋くっている。
 イワンは皆の知ってることしか知らないのだが、数字だけは特別出来な頭で時に教授より暗記しているおかしいやつ!
 学生たちは、互に幼稚園時代から共学でやって来てる。一緒に働き、遊び、男の子たちは、女の子がヒステリーを起して卒倒するのから、学生大会で、雄弁をふるうのまで見てる。男の子が、どんなに確《しっか》りしてると同時に妙な奴が時々あるか、女の学生だって知ってる。
 工場で一緒に働いていたものだって、ここにはいる。
 今日は、前週出した、インドにおける綿花生産の消長と英国資本主義との関係に関する学生の研究報告の批評があった。この仕事を学生たちは、三組に分れ、集団的にやったのだ。
 ワーニカはターニャとは別の組に入った。ターニャはちぢれっ毛のイリーナや、氷滑選手のワーシカなんかとやった。
 授業時間がすむと、ちぢれっ毛のイリーナとターニャはつれだって図書館へ行った。ワーニカは飯を食わなけりゃならない。
 構内の学生食堂で、キャベジ・スープをたべてると、赤い襟巻をしたマトリョーナがやって来た。
 ――ここあいてる?
 ――ああ。
 ――ワーニカ! マクシムを、こんど一般委員会で批判しなくちゃ駄目だ。あの男、こないだの遠足の明細書をまだまだ学級経済委員へ出さないのよ。
 ――ふーむ。お前注意してやれ。
 マトリョーナは黙ってたが、いきなり、ジャガ薯を頬ばりながら、
 ――全く我々の親たちは無自覚だ!
とうなった。今度はワーニカがだまってる。
 ――私、戸籍登記所《ザグス》で改名する!
 ワーニカは、マトリョーナの赤い頬っぺたと、そこへおちてる金髪を眺めた。
 ――マクシムに私注意した、もう。でもあいつがそれをきかない訳知ってる? マトリョーナだからさ! 私が。
 ワーニカは思わず笑い出し、だんだん大きな口あけて笑った。
 ――これから、どこ行く?
 マトリョーナが立ちあがりながらきいた。
 ――五時からピオニェールの区分隊だ。
 ワーニカはつれ立って食堂を出た。
 分隊の仕事は八時ですむだろう。それから映画見にターニャを誘おうか? ワーニカは、考えながら雪道をトウェルスカヤ通の方へ歩いてった。[#地付き]〔一九三一年四月〕



底本:「宮本百合子全集 第九巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本「宮本百合子全集 第六巻」河出書房
   1952(昭和27)年12月発行
初出:「新青年」
   1931(昭和6)年4月号
※「――」で始まる会話部分は、底本では、折り返し以降も1字下げになっています。
入力:柴田卓治
校正:米田進
2002年10月28日作成
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